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いよいよ、12月31日ですね。今年は皆さんにとってどんな年でしたか。私は「忙しい年」でした。さて、来年はどうなるでしょうか。一年間ありがとうございました。そして来年も宜しくお願いします。良いお年をお迎え下さい。**********色々なお母さんから聞くのですが、最近の子は3人以上で遊ぶのが苦手なようです。AちゃんがBちゃんと遊んでいるところに、AちゃんともBちゃんとも仲がいいCちゃんから「Aちゃん、あそぼう」と誘いが来ても、「今、Bちゃんと遊んでいるから遊べない」と断ってしまうそうなのです。それでお母さんは「みんなで一緒に遊べばいいのに」と思うのですが、なぜかそれが出来ない子が多いようなのです。このような話を数人のお母さんから聞きました。二人だけで遊んでいるときには、「どちらかが相手に合わせる」という形で遊ぶことが出来ます。これは、お母さんが子どもと遊んでいるときも同じです。親子の場合でも、友だち同士の場合でも、二人だけで遊ぶ場合は力関係だけで遊びの形が決まってしまうので話し合いをする必要がありません。「強く主張しない方」が、「強く主張する方」に合わせていれば、遊びが成り立ってしまうのです。これが昨日書いた「支配者と家来」の関係です。でも、「三人」になると話が複雑になります。それはジャンケンと同じです。ジャンケンに「グー」と「パー」しかなければ、勝負は簡単に付くのです。でもそこに、「チョキ」が入ると急に問題が複雑になってしまうのです。「強い」「弱い」が一元的ではなくなってしまうからです。子ども達の遊びを見ていても、二人だけで遊んでいるうちは同じようなことの繰り返しになりますが、三人以上になると急に新しい展開になるのです。でも現代人は、子どもも大人も、「三人以上で一緒に遊ぶ(活動する)」ということが非常に苦手です。現代人の生活の中には、そういう学びをする場がないからです。幼稚園や学校でも、「大人の話を聞いて、大人の指示に従う訓練」ばかりをやっています。昔の子ども達は「群れ遊びの場」でそういう体験や学びをしていたのですが、現代の子ども達にはそのようなことを学ぶ場はありません。だからといって、子ども達を「昔のように遊ばせたい」と思って大勢集めてもすぐにバラバラになってしまってみんなで一緒に遊ぶことが出来ません。「大人によって集められた子ども達の群れ」と「自分の意志で自主的に遊びに参加している子ども達による群れ」は同じではないからです。最近のお母さん達もまた三人以上では遊べないので、「子どもに合わせる子育て」をしている人でも、子どもが複数いる場合は「どの子に合わせて遊ぶか」ということで悩みます。上の子に合わせれば、下の子がすねます。下の子に合わせれば上の子がすねます。そして、兄弟の仲が悪くなっていくので、兄弟トラブルも増え、それでも悩むことになります。みんなで一緒に遊べばそんな状態にはならないのですが、それが出来ない人が多いのです。「支配する子育て」をしているような人は、子どもが自分にまとわりついてこないようにあれこれ工夫します。簡単に物やゲーム機を与えたりもします。そして、アメとムチという方法を使って子どもを思い通りに動かそうとします。また、兄弟に格差を付けます。そして、兄弟同士で競わせたりします。これは親子の場合だけでなく、会社や国や様々なグループでも同じです。でもその結果、この場合でも兄弟の仲は悪くなります。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、この問題はそう簡単に解決しません。でも、何が必要なのかは分かります。それは、お母さんの精神的自立です。母さんが精神的に自立していないから子どもを支配したり、子どもに支配されたりしてしまうのです。でも、幼い頃から支配されて育って来た人にはそれが一番難しいのです。
2023.12.31
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昨日、「いのぐみ」さんから以下のようなコメントを頂きました。(改行は私が入れました)私は子育てしながら、公立の小学校で特別支援学級の支援員をしています。特別支援の教室だけでなく、学年の教室に行くこともあります。ダメと言わない育て方をされて、身につけなくてはいけないことを身につけていないんじゃないか、と思う子に出会うことが多いです。また、大人の勝手でダメと言われて、本当にダメなことが自分で判断できないのではないかと思うこともあります。言われなくてはいけないことを言われてないんじゃないかと思う子は多いです。子育ての場面で、親はもっと自由になっていいと言われることも多いですが、本当に自由ってなんだろうとか、子どもと一緒に自由になる方法はないかなとか、子どもを引き受けてるのは自分だという覚悟とか、必要なんじゃないかなと、思います。もちろん自分も含めて。本文の趣旨とずれているかもしれませんが、ブログをいつも読ませていただいてはげまされていて、日頃仕事で感じでいることを聞いていただきたく、コメントさせていただきました。「いのぐみ」さんのおっしゃる通り、今、「ダメを言わないお母さん」や、逆に、自分の都合で「ダメばかり言っているお母さん」がすごく多いです。その結果、子どもが困った状態になってしまって相談してくるのですが、でも、そのようなお母さんは「子どもの困った状態」の原因が自分のせいだとは気付いていません。そして、子どもの状態を変えるだけの「ハウツー的なしつけの方法」ばかりを聞いてきます。「ダメを言わないお母さん」は、子どもの召使いのような状態になってしまっています。その逆に、「ダメばかり言っているお母さん」は子どもを自分の家来のように扱っています。そして、子どもが自分の言うとおりに行動しないと口汚く罵ります。暴力的な方法で子どもを従わせようとする人もいます。この両者は一見正反対ですが、でも実はよく似ているのです。このような子育てをしているお母さん達は、両者とも自分一人では何も出来ません。そして、不安と依存心が強いです。また両者とも、子どもとの関係が「一方通行」です。お母さんが子どもの召使いのようになっている場合は、「子どもからお母さんへの一方通行」です。お母さんが子どもを家来のように扱っている場合は、「お母さんから子どもへの一方通行」です。いずれの場合も、「対話」がないのです。これは相手が大人の場合でも同じです。この「対話が出来ない」というのが、「一方通行の子育て」をしているお母さん達共通の特徴でもあります。情報をやりとりするだけの「会話」は出来ても、考えを聞いたり伝えたりする「対話」が出来ないのです。話し合って活動するグループワークのようなものをしても話し合いが出来ません。そのため、その中に一人でも自分の意見を強く主張する人がいると簡単にみんなが引きずられてしまいます。その時、「おかしい」と感じても、何も言えません。根本的な原因は同じなんですが、気質の違いが「支配するか」、「支配されるか」という違いを生み出しているのです。簡単に召使い状態になってしまうような人は、粘液質や憂鬱質が強いような気がします。逆に、支配者のようになりやすい人は胆汁質や多血質が強いような気がします。ただし、混合状態の人もいます。このような子育てをしているお母さん達は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し、行動するということも苦手です。自分の価値観や生き方も曖昧です。趣味や生きがいを持っていない人も多いです。まただから対話も出来ないのです。「自分の考え」というものをしっかりと持っていない人は「対話」が出来ないのです。そのような大人が増えてきた背景には、子どもの「遊び環境」の変化と、日本の「学校教育のあり方」が大きく関係しているような気がします。日本の学校では、先生と生徒の関係、学校と親との関係は一方通行です。生徒はイスに座って、ただ先生の言うことを聞いて覚え、指示通りに行動するだけです。親もまた、先生や学校の言うことに素直に従う事だけを求められています。「質問」は許されていても「自分の意見」を言うことは許されていません。また、「遊び環境の変化」として大きいのは、遊びの場から「仲間」が消えてしまったことです。そのため、子ども達が「仲間との関わり合いを通して学んでいたこと」が学べなくなってしまったのです。最近の子は三人以上で遊ぶのが苦手です。三人以上で遊ぼうとすると「対話」が必要になってしまうからです。<続きます>
2023.12.30
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私は「療育」の専門家ではありません。ただ、「遊び」や、「造形」や、「表現」という場で子ども達と関わる仕事をしているだけです。また、「気質」や「子育て」などの勉強会で、子育てに関するお母さん達の話を聞くこともよくあります。「しつけ」に関する質問もよく受けます。私が書いていることは、そういう体験を通して感じたこと、考えていることなので療育の専門家の意見とは異なったことを言っているかも知れませんが、その点は「参考程度」にお読み下さい。「療育」と「しつけ」は似ているような気がします。本来は両方とも「子どものためのもの」なのではないかと思うのですが、実際には「大人のためのもの」になってしまっているのではないでしょうか。それはつまり、それらが「子どもの行動や成長などで大人にとって困ること」を矯正するための手段になってしまっているのではないかということです。でも、その多くは成果を上げていないような気がします。お母さんがいくら叱っても、指示や命令を与えても、どんなに丁寧に説明しても、それが子どもにちゃんと伝わり、お母さんの期待通りに子どもが変わる、などということは滅多に起きません。それはすでに皆さんが実感しているはずです。ある程度は「アメとムチ」という方法で見かけだけは多少整える事が出来ますが、でも、「アメとムチ」という方法は、子どもの成長を支えるどころか逆に、成長を阻害してしまうので、子どもが思春期を迎えることになると「ちゃぶ台返し」が起きます。思春期が来て、お母さんが与える「アメ」を欲しがらなくなり、お母さんからの「ムチ」を怖がらなくなった時点で、元の木阿弥に戻ってしまうからです。ここで一番大切なことは、「お母さんや周囲が困っているかどうか」「お母さんや周囲が何を望んでいるのか」ではなく、「子ども自身がそれを望んでいるのかどうか?」「子ども自身がそのことで困っているのかどうか?」ということなんです。そのことをちゃんと確認して、そこからアプローチしなければ何も始まらないし、子どもは成長しないと思います。そしてだから、子どもを「つながり」から切り離してはいけないのです。なぜなら、子どもは「「つながり」の中でしか「自分自身の成長につながるような何か」を望まないからです。また、「自分の成長を阻害している何か」に気付くのも「つながり」の中でです。子どもが言葉を学び話し始めるのは、「言葉を教えてくれる人」がいるからではありません。大好きで、大切な人が「言葉」で話しかけてくれるからです。コマを回せるようになりたい、竹馬に乗れるようになりたいと望むのは、大好きなお兄ちゃんやお姉ちゃんがかっこよくコマを回し、竹馬に乗っているのを見ていたからです。しつけや教育が子どもの成長を支えるのではなく、あこがれが子どもの成長を支えてくれるのです。でもその「あこがれ」はつながりの中でしか生まれないのです。子どもが「勉強したい」思うようになるのは、学ぶことを楽しんでいる先生や親の姿にあこがれを感じたときです。最近の子はテレビやネットの中で「あこがれ」を見つけます。でも多くの場合、その「あこがれ」は虚像です。
2023.12.29
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西洋医学では、一つ一つの症状に対して一つ一つの方法を考えます。胃の具合が悪ければ、胃の状態を検査してその状態を改善するような治療を行います。目の具合が悪ければ、目の状態を検査してその状態が改善するような治療を行います。そしてこれは、その対象が腸でも心臓でも耳でも頭でも同じです。だから病院は様々な専門の科に分かれているのです。でも、それらの科は別々に情報を管理しているため、「検査を受けに来た人の全体」は分かりません。だから、○○科でもらった薬と△△科でもらった薬が同じだったり、一緒には飲まない方がいい薬をもらったりすることがあるのです。どうしてそういう事になっているのかというと、昔から西洋には「全体は部分に還元できて、全体は部分の集合体として説明できる。」という考え方があるからです。だから、「人間を解剖することで、人間のことについて知ることが出来る」と考えて、西洋医学が生まれたのです。また、私たちが生きている世界に対しても同じような手法で分解、分析し、科学が生まれました。でもそのような方法では「命」について知ることは出来ません。人間のからだをどんなに細かく解剖しても「仲間や、自然や、宇宙とつながって働いている命の仕組み」は分からないのです。実験室で分かるのは、そういうものから切り離された肉体や細胞の中に現れる生命現象だけです。そのため、そのような考え方を基本とした方法では「人間の成長」を支えることは出来ません。「壊れたところを治す治療」は出来ても、「命の働きの表れとしての成長」を支えることは出来ないのです。私が療育というものに対して懐疑的なのも、子どもを仲間や、自然や、宇宙から切り離した状態で治療しようとしているからです。確かにそういう方法でも、ある程度は「問題点の改善」は出来ると思います。でも、出来るのは「問題点の改善」だけのような気がするのです。「その子の人生のおける可能性の育ち」を支えることは出来ないような気がするのです。「子どもを群れから切り離す」という時点で私はそのような方法には懐疑的なんです。そうではなく、クラスや学校自体が「色々な子がいてもみんなでつながり合い、支え合い、楽しく学び生活できる場」になれば、「子どもを集団から切り離して行う療育」などというものは必要がなくなるのではないかと思っているのです。みんなが人間として成長するような場で、療育を必要とするような子も人間として成長していくことが出来るのです。すると、自然と問題行動は減っていくのです。「つながり」が状態を改善し、成長を支える働きをしてくれるのです。今は、その子がいると授業が進まない、他の子が乱される、みんなと一緒が出来ない、みんなと同じ事が出来ないなどという理由で療育を勧められています。私は、こういう発想自体に疑問を感じるのです。今、黒柳徹子をモデルにした「窓際のトットちゃん」という映画をやっていますが、今の時代だったら、トットちゃんは確実に療育行きです。そして、黒柳徹子は生まれなかったでしょう。
2023.12.28
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製品として出来上がった自動車が、乗っているうちに具合が悪くなったら修理が必要です。そしてその修理にはマニュアルがあります。正解が分かっているからです。でも、製作途中の自動車を無理矢理走らせてみてもちゃんと動きません。でもそれは故障ではありません。またその時必要なのは修理ではありません。それは故障ではないからです。それに、その車の車種が分からなければ修理の仕方も分かりません。正解が分からないからです。そして、子どもの成長においても似たようなことが言えるのです。成長過程にある子どもが不完全なのは当たり前です。色々な問題行動を起こすのも当たり前です。そこで必要になるのは「子どもの成長を支えること」であって、「機械を修理するような感覚で子どもの状態を変えようとする」ことではありません。そんなことをしたら一時的、見かけ的には〝ちゃんと〟することもあるかも知れませんが、「本来あるべき状態での成長」が歪んでしまうので、その子が潜在的に持っている可能性までそこで消えてしまうのです。でも、多くの大人達が、子どもが「困ったこと」をしたり、「大人の期待通り」に育っていないと、修理する感覚で叱ったり、指導したりします。その時よく使われるのが「ダメ」などの言葉に代表される「禁止用語」と、〝あれやれ〟、〝これやれ〟などの「指示や命令を出す言葉」です。そんなことやっちゃダメ。そんなこと言っちゃダメ。打っちゃダメ。投げちゃダメ。もっと静かにしなさい。ちゃんと片付けなさい。ちゃんと勉強しなさい。などの言葉です。でも、禁止や指示や命令をいくら繰り返しても、子どもの成長を支えることは出来ません。むしろ子どもの成長を阻害してしまいます。それでも、大人の権力が強いうちは、強く叱ったり、強く指導することで、子どもが一時的にならちゃんとすることがあります。だから大人は、「子どもがちゃんと成長するためには大人による禁止や命令が必要だ」と勘違いしてしまうのです。でも、「自主性や能動性を否定されて無理矢理作られたよい子」は、思春期の訪れと共に崩壊します。そして、虚無と、悲しさと、苦しさと、不安にさいなまれ、自分の人生を生き生きと自分らしく生きていくのが困難になります。問題行動が多くて発達障害が疑われるような子は「療育」を勧められます。「療育」とは「治療」と「教育」を組み合わせた言葉のようです。療育の場では子どもの状態に合わせた様々な支援が行われています。それはそれで有効なこともあるでしょう。でも私は、本来子どもの問題行動に対しては療育という方法は必要がないのではないかと思っています。療育を与えなくても、その子が安心できて生き生きとするような環境や状態を整えてあげれば、子どもは自分らしく成長して行くものです。その結果、破壊的、攻撃的な問題行動は減っていきます。仲間と一緒に自然の中で子どもを育てている人たちはそういう例をいっぱい知っていると思います。そして大人になってしまえば、周囲の人はそれをその人の個性として受け入れてくれるようになるでしょう。子どもの破壊的、攻撃的な行動を落ち着かせるために必要なのは大人による「療育」ではなく、「自然」や、「安心」や、「その子らしさを受け入れてくれる仲間」なんです。昔はそんな「自分も周囲の人もそれを障害としては認識していない潜在的な発達障害の人」がいっぱいいたのではないかと思います。というか、昔の人には「障害」という認識自体がなかったのではないかと思います。近代に入って、子どもの育ちに「正解」を決めたから「障害」も生まれたのです。葛飾北斎や、牧野富太郎や、南方熊楠なんて人たちが今の時代に生まれていたら、みんな「発達障害」として療育を押しつけられていたでしょう。そして、その才能が開花することなくただの「困った人として」人生を送ることになるでしょう。子ども達は「自然の働き」や「命の働き」に即して感じ、考え、行動し、成長しています。そのため、子ども達が、「社会の価値観だけに従って感じ、考え、行動している大人」の価値観と異なったことを言ったり、やったりするのは当たり前なんです。障害のある子はさらに個性的な行動をしますが、それも「問題行動」ではありません。障害の有無にかかわらず、周囲の大人達が、そんな「子どもらしさ」や「その子らしさ」を受け入れ、子どもが安心して自分らしく感じ、考え、行動する場を与えてあげれば、障害の有無に拘わらず、子どもは自分らしく成長し、落ち着いた状態に育っていくのです。その場合でも、発達障害は個性としては残るでしょうが、それが長所になるような生き方を選ぶことが出来れば問題はないのです。
2023.12.27
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最近の子ども達を見ていると、どうも冒険にはあまり興味がないようです。そのため、新しいことにチャレンジもしません。自由に造形などを作らせても、いつも同じものしか作ろうとしません。造形関係の面白い本がいっぱい置いてあっても見向きもしません。そして、知っていることや、すでに出来る事ばかりを繰り返そうとします。キャラクター関係の絵を描いたり、ぬいぐるみを作ったりはしますが、自分のアイデアで描いたり作ったりはしないのです。考えることも面倒くさいようです。知恵の輪を渡しても、あれこれやってみることなく、最初から「外し方」を聞いてきます。また、人と違うことをやる気もありません。「退屈だー、退屈だー」と言っている子に、「退屈だったらこの本を見てごらん」とか、「こういうものやこういうものも作れるよ」と言っても興味を示しません。最初は興味を持って初めても、予想外に複雑だったり、大変だったりすると、簡単に挫折します。そして、「何か他に、簡単にできるものはない?」などと聞いてきます。作ることを楽しめないので、「簡単に出来るもの」にしか手を出さないのです。「外国で行きたい国ある?」と聞いても、多くの子が「怖いから行きたくない」と言います。「ゲームの世界の中での冒険」は好きなようですが、「実際に自分の頭や、感覚や、からだを使ってやる冒険」には興味がないのです。そんな時、面白いのはちょっと発達障害(と呼ばれている状態)の傾向がある子ども達です。そういう子ども達は人の目を気にしません。やりたいことをやります。冒険やチャレンジにも積極的です。そしてそれは、自己表現や遊びの場では長所になります。でも、お母さんの言うことを聞かなければいけない場や、先生の言うことを聞かなければいけない場などではそれが短所になります。そして、叱られ、指導され、その状態を治すために療育を勧められます。そして、長所は短所として扱われ、短所として定着していきます。また、発達障害ではなくても、ちゃんと自分の頭で考えて作ったり行動できる子もいます。そういう子は学校でもちゃんとルールを守って行動する事が出来ます。(私が知っている範囲では)そういう子は家であまりテレビを見たり、ゲームをしていません。テレビやゲーム機自体がないという家庭もあります。それは親との関わりが多いということと、お母さんやお父さんにそれなりの教育信念があるということを意味しています。私の周りにはそういう子も多いですが、世間一般的には全くの少数派だと思います。また、ここに書いた「困った状態の子ども達」と似たような状態のお母さん達もすごく多いです。そういうお母さんは自分の頭で考えようとしません。(多分、お父さん達も似たような状態なんでしょうが、お父さんと関わり合うことが少ないのでよく分かりません。)私には、今の時代の流れがおかしな方向に進んでいるように思えるのです。私は、みんながもっと「発達障害と呼ばれている子の面白さや素晴らしさ」、「ゲームの害」、「人と人が関わり合うことの大切さ」などに意識を向けた方がいいのではないかと思っています。ちなみに、ゲームの害は「子どもの興味や関心を全て吸い取ってしまう」という点にあります。
2023.12.26
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クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは「すでに与えられているものに気付き、喜び、感謝する日」です。プレゼントはその「感謝」を形にしたものです。人は、「すでに与えられているもの」に気付くだけで幸せを感じる事が出来るのです。子育ても楽になります。*************************昨日、「M1」を見ていたら「禁止用語」について扱っているコンビがいました。相方の一方は「ハゲ」で、その「ハゲ」をイジルことで笑いを取ろうとしているのですが、その「ハゲ」が「看護婦さんが」と言えば、「今は看護婦ではなく看護師と言うんだよ。看護婦と言ってはいけないんだよ、男性もいるんだから。このハゲ」と突っ込みます。「スチュワーデス」と言えば「スチュワーデスは言ってはいけない言葉なんだよ。このハゲ」と突っ込みます。で、その「ハゲ」は「看護婦もスチュワーデスもいけないのになんでハゲはいいんだ」と言い返すのですが、相方は「ハゲはいいんだ」と言い返してきます。これは、もっともな反論なのではないかと思うのですが、どうも世の中的にはそういうことになっているようです。世の中には様々な禁止用語があります。そして、どんどん増えてきています。その結果、一昔前だったら普通の会話が、今では禁止用語だらけになってしまって使えなくなってしまっています。ずっと昔から日本人が日常生活の中で使ってきた普通の言葉が、ある日突然、日本語から消されてしまうのです。でも、日本語は日本の歴史や、日本人の生活や、感覚や精神性と密接につながっています。単なる記号ではありません。だから、人々の意識や感覚が変わって自然と変わるのはいいのですが、「苦情を言う人たちがいるから」という理由だけで偉い人たちが勝手に、それまで使われてきた言葉を日本語から消してしまうのはやりすぎなんです。また、言語統制は思想統制でもあります。だから、戦争中は思想統制とセットにして言語統制も行われました。でも、言葉を消したからと言って実態が変わるわけではありません。問題はその実態の方であって、「言葉」ではないからです。「メ○○」という言葉を消しても、「目が見えない人」をバカにする人が減るわけではありません。また、相手をバカにするためでなく、相手の状態をわかりやすく伝えるためにそういう言葉を使うこともあります。また、「夢中になる」というような意味で使うこともあります。「ビ○○」という言葉を消しても、「足が悪い人」をバカにする人が減るわけではありません。それは、そういう言葉を聞くと嫌な気持ちがする人への配慮に過ぎません。戦争中は「退却」という言葉が否定され「転進」という言葉が使われました。「負けて逃げたんじゃない、向かう方向を変えただけだ」というごまかしです。「退却」という言葉を嫌う偉い人たちがいたのでしょう。そのようにして現実と向き合うことを避けてきたのです。その結果、あのような悲惨な結果になってしまいました。いくら言葉を消しても、言葉遊びだけして、ちゃんと現実と向き合わない限り、実態はますます悪化していくのです。その言葉で誰かをバカにする人がいるからと言って、言葉だけを禁止しても意味がないのです。冷静に考えれば、そんなこと誰だって分かることです。言葉を消すことでその問題を「なかったこと」にしようとしているだけなんです。でも言葉を消すことで実態が分かりにくくなってしまうため、見えないところでさらに状態は悪化して行くのです。「言葉」をなくすことを目的にするのではなく、「その言葉を悪意を持って使う人」がいないような社会を作っていけばいいのです。同じように、ナイフなどの武器の所持を禁止しても、人を殺す人は消えないのです。その気になれば、傘や花瓶といった身の回りにあるものでも人は殺せるのですから。魔法の力で武器をお花に変えても、武器が欲しい人はまた武器を作ります。でも、自分の意志でその武器を溶かして、楽器やお鍋を作るような人は人を殺そうなどとはしないでしょう。大切なのは「禁止すること」ではなく「新しい価値に目覚めること」なんです。「新しい価値」に目覚めることで禁止しなくても自然と消えて行くようになればいいのです。子どもの問題行動でも同じです。いくら「ダメ」を繰り返しても子どもの行動は変わりません。でも、より夢中になれることを見つけた子どもは、自然と問題行動が消えて行くのです。イジメの実態調査をしても、その実態を隠そうとする学校がいっぱいあるようです。ちゃんと調査もしません。調査しなければ、「知らなかったこと」や「なかったこと」に出来るからなのでしょう。政治家も「誤解を受けたなら謝ります」というだけで、本当の反省も反省に基づいた行動もしません。それが事実であっても、都合の悪いことはみんな「誤解」にしてしまうのです。お金の流れでも「本当のこと」は話しません。そして後からボロボロ出てきます。それでも、知りませんでした、覚えていません、秘書が・・・などと言い逃れをします。そして、次の選挙ではきれい事ばかり言い立てて立候補します。ただし、この「きれい事」が大好きなのは韓国も、中国も同じです。多分儒教の影響なのでしょう。
2023.12.25
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(これは10年くらい前にアップしたのと同じものです)今日はクリスマス・イブです。「クリスマスとは何の日か」といえば、宗教的には「イエス・キリストの誕生を祝う日」のことです。ただし、実際にはイエスがいつ生まれたのかは分かっていないので、「誕生日を祝う」のではなく、「誕生を祝う日」ということになります。じゃあどうしてこの時期が選ばれたのかというと、「冬至」に近いからからです。(なぜ22日ではないのかは私には分かりません)冬至は一年で最も「闇」が長い日です。その日を境に、「光」が増していきます。そのため、古来より冬至は「死と再生」を象徴する特別な日だったのです。キリスト教が生まれるずーっと以前から「死と再生を祝う特別な日」だったのです。日本でも冬至の日は「死に一番近い日」と言われており、その厄〔やく〕を払うために体を温め、無病息災を祈っていました。この慣わしは現在も続いています。その「死と再生」を象徴する日が、象徴的に「キリストの誕生日」として選ばれたのです。この「死」と「再生」という働きは生命の働きを支えている根本原理です。「死」があるから「生」があり、「生」があれば必ず「死」もあります。「死」と「生」は表裏一体のものなのです。全ての生物の細胞は毎日死んで、毎日生まれ変わっています。そうやって生物の生命を支えているのです。死と再生を繰り返すことで新陳代謝が生まれ、生命が維持されているのです。つまり、毎日死ぬ細胞があるから、生命は毎日新しく生まれ変わることが出来るのです。それと同時に、毎日のように大人が死ぬことで子どもが産まれてきます。大人が死ななくなったら、世界中に大人ばかりが溢れてしまい、子どもが生まれてくる余地がなくなってしまいます。よく、不老長寿を願う人がいますが、実際に人が死ななくなったら、世界は老人ばかりになり、子どもが産まれなくなり、人類は活力を失い、やがてミイラのような状態で生きることになるでしょう。それが幸せな社会であるとは思えません。もっともそれ以前に、人口が増えすぎて食料が枯渇してしまうと思いますけど。「死」は苦しくて、遠ざけたいことですが、時が来たら受け入れなければならないことでもあるのです。でも、現代人は「死」を恐れ、遠ざけようとするばかりで、「死を受け入れるための哲学」を持っていません。医学においては「死」は「敗北」を意味します。だから、生きているか死んでいるか分からないような状態でも管をいっぱい付けて、死なないようにします。その努力が無意味だとは思いませんが、でも、どこかで「神様に生命を返す限界」を肯定的に受け入れる必要もあるのではないでしょうか。「死」があるからこそ「生きていること」が大切なことになるのですから。生物界においては、生命というものは子どものためにあるものです。ですから多くの生き物が子どもを生んだ後、また子どもを生むことが出来なくなったら死を迎えます。自然界には「老人」は存在していないのです。ただ人類だけが、子どもを生むことが出来なくなった後も長く生きることが出来るようになりました。だから文化や文明が生まれた、という説もあります。「老人」という存在が子育てや、文化や、文明の発生と継続に大きな役割を果たしたのです。若い大人達は毎日の生活が忙しいので、子どもの相手をする時間も、子どもを見守る時間も、子どもに色々なことを教える時間もありません。そういうことは、一線を退いた老人達の仕事だったのです。つまり、「老人の発生」は同時に「教育者の発生」だったのです。年寄り達は食料をとることも、敵と戦うことも、何かを生産することも苦手です。だから、現代では年寄り達は「弱者」として保護されています。でも、年寄りが子どもや大人に様々なことを教える教育者として機能していた時代には、年寄り達は感謝され、尊敬されていたのです。そして実際、「人間を育てる」という面では老人達は若い大人に勝っていたのです。なぜなら老人達は、全体を俯瞰する目を持ち、子どもの成長に合わせて待つことが出来たからです。そして、自分たちの残り少ない生命を子どもたちに与えることが出来ました。それがまた老人にとっての希望でもあったのです。ですから、「サンタクロースという老人が、子どもたちにプレゼントを与える」という出来事には非常に象徴的な意味が含まれているのです。でも、今の老人達は社会にお世話をかけながら、自分のためだけに時間を過ごしています。それでも何らかの「生き甲斐」を持っている人はいいのですが、そうでない人はただ「余命」という貯金を切り崩して生きているばかりです。その先には希望がありません。だから待てないし、暴走するのです。また、クリスマスを象徴するものに「プレゼント」があります。子どもたちに「クリスマスって何の日」と聞くと「プレゼントをもらう日」と答えます。でも、これは間違いです。クリスマスは「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」なんです。「プレゼント」とはそういう意味です。クリスマスが「プレゼントをもらう日」なら、子どもは「もらうだけ」、大人は「あげるだけ」になってしまい、その関係性が一方的になってしまいます。それでは大人は損をするばかりです。だから、「サンタさん」からではなく、「お父さんからのプレゼント」にして子どもから「感謝という見返り」をもらおうとしてしまうのです。でも、サンタさんは一切の見返りを求めません。よく「いい子にだけプレゼントが来るんだよ」というようなことを言う人がいますが、サンタクロースはそんなことは言わないはずです。なぜなら、サンタクロースは、子どもたちを「よい子にするため」にではなく、「全ての子どもたちの幸せを願って」プレゼントを配っているからです。「よい子」にしたいのは親です。サンタクロースはただ幸せを願っているだけです。なぜならそれがイエス・キリストの願いでもあったからです。実際、「子どもをよい子にするためのプレゼント」なら、サンタクロースなどという匿名の人物ではなく親の名前で渡した方がずーっと効果的なはずです。「いい子にしていないとプレゼントをあげないよ」と脅すことも出来るでしょう。でも、何の見返りも求めないのが「サンタクロースのプレゼント」なんです。そして、実はこの「見返りを求めないプレゼント」の精神こそが、みんなが幸せに生きることが出来る社会を作るためには絶対に必要なのです。これは必ずしもキリスト教とは関係がありません。昔の人が地獄と天国の違いをうまく「お話」にしています。長い箸を持ってごちそうを自分が食べようとしているのが地獄で、同じ長い箸で前の人に食べさせてあげるのが天国だというのです。見返りを求めず、他の人にプレゼントするから、周り回って自分にもプレゼントが還ってくるのです。それが天国のシステムです。でも、みんながもらうことばかりを考えていては、結局誰もプレゼントをもらうことが出来なくなってしまうのです。それが地獄のシステムです。ですから、子どもたちがみんな、プレゼントをもらうことばかりを期待するようになり、プレゼントあげることをしなくなったらこのこの世界は不幸になるのです。どうか、皆さんもクリスマスを「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」にして下さい。子どもたちもまた、お友達にプレゼントをあげるよう、お母さんと一緒にプレゼント作りを楽しんでみて下さい。では、良いクリスマスイブをお過ごし下さい。メリー・クリスマス
2023.12.24
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世の中には「迷子になりやすい人」と「迷子になりにくい人」がいます。「全体の中での自分の位置」を確認するための地図や方位磁石を持たず、目先の興味や、その時の気分で行動している人は迷子になりやすいです。でも、地図や方位磁石を持っていて、常に「全体の中での自分の位置」を確認しながら行動している人は迷子になりにくいです。地図や方位磁石といったものではなくても、遠くの山や、太陽や、星の位置などといった「普遍的なもの」に意識を向けることが出来る人は迷子になりにくいです。実際、昔の船乗りや旅人はそのようなものを頼りに迷子にならないようにしていたのですから。そういうものに意識を向けていない人は迷子になりやすいのですが、でも、そのような人は迷子になっていてもは自分が迷子になっていることに気付きません。気付くためのきっかけを持っていないからです。そのことに気づくのは、どうしようも出来なくなってからです。興味に任せて色々歩いて夕方になり、「さて、そろそろ帰ろうか」と思ったときに、「あれ、ここはどこ?」「どうやって帰ったらいいの?」ということに気付きパニックになるのです。子どもはそうやって迷子になります。これは大人でも同じです。そんな迷子になりやすい人の特徴は、「動かないもの」や「普遍的なもの」ではなく、「自分が興味を感じたもの」だけを基準にして歩いているということです。赤い自動車が停まっている所を曲がって、美味しそうなパン屋さんの前を通って、面白そうな商店街を通って、ということは覚えているのですが、同じ道でも前に進んでいるときと、帰るときとでは違って見えるものです。そういう体験ありますでしょ。行きと帰りとでは光の加減が違います。行くときには見えていたものでも、帰りには見えなくなっているものもいっぱいあります。見ている方角が違えば違う景色が見えてしまうからです。また、夕方になると閉まってしまうお店も出てきます。人の流れも変わります。町の雰囲気も変わります。だから、自分が来た道を想い出せなくなってしまうのです。そして、現代人はもうすでに立派な「迷子」になってしまっています。でもまだそのことに気づいていません。どうしてそういうことが言えるのかというと、「子ども」や「自然」といった太古の昔から変化せず、人々が普通に共存して暮らしてきたものに対してすら違和感や嫌悪感を感じる人が増えてきたからです。「道」を伝えてくれていた様々な伝承や、人と人のつながりも消えました。現代人は「変化するもの」ばかりに興味を持っています。「変化しないもの」には興味がありません。そしてさらに変化を求めて色々な活動をしています。ゲームは変化することで子どもの興味を引きつけています。「変化することは進歩すること」だと思い込んでいます。そうして、「どっちに進んだらいいのか」ということは考えずに、ただ前に進むことだけに夢中になっています。そうやって、社会もどんどん変わってきました。価値観も、生き方も、感覚も、考え方もどんどん変わってきました。でもその結果、人々は「普遍的なものを感じる感性」を失い、迷子になりました。自分に自信がない、どう生きたらいいのか分からない、どう子どもを育てたらいいのか分からない、子どもとどう関わったらいいのか分からない、という状態の人がドンドン増えているのは、現代人が迷子になってしまっている証です。
2023.12.23
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現代人は「人間が創り出した人工的なもの」に取り囲まれて生活しているうちに、「命の働きや子どもの育ちにとって本当に大切なこと」が分からなくなってしまったようです。人間がまだ自然と共に生きていた時代は、人間は「思い通りにならないもの」と共存して生きていました。思い通りにならないからといってただ諦めるのではなく、そのものと丁度良い関係を築きながら生きてきたのです。時にはその「思い通りにならないもの」をうまく使って生活を豊かにするような工夫もしていました。それは寒さや暑さに対しても、雨や風に対しても、熊などの野生動物に対しても同じです。寒い土地で生活していた人は、様々な形でその寒さを利用しながら生きていました。「雪が多いから」とただ諦めるのではなく、もっと積極的に生活の中で雪を利用しようともしていました。これは、遊具に依存しない子どもの遊びでも同じです。広場があれば走り回って遊びます。広場がなくて崖しかない場合でも、「広場がないから走り回れない」と遊ぶことをやめるのではなく、今度は崖を使って遊び始めます。広場も崖もなくて海や川しかなければ、海や川を使って遊びます。商店街や住宅地に住んでいて広場も、崖も、海も川もない子は、自分が住んでいる町を使って遊んでいました。そして、そのような適応能力の高さが人間の、そして命の働きの特徴でもあるのです。でも、遊具がある公園で遊ぶことに慣れてしまった子は、そのような適応能力を失っていきます。ゲームでばかり遊んでいる子も適応能力を失っていきます。そして次第に、遊具がないと遊べない、ゲームがないと遊べない状態になっていきます。実際、今、そういう状態の子がいっぱいいます。そういう状態の子は感じることも、考えたり、理解したり、判断し自分の意志で行動する事も苦手です。自然の中に連れ出しても、何をしたらいいのか分からず「退屈だー、帰りたい、ゲームで遊びたい」などと言い続けます。ただし、子どもにそのような影響を与えるのは、遊具やゲームだけではありません。科学が作り出した便利な機械や、便利な生活も、子どもを同じような状態に変えてしまいます。そして、これは子どもだけの問題ではありません。大人にも同じような影響があるからです。科学という強大な力を手に入れた人間は、その相手や環境と共存するのではなく、自分の好みや都合に合わせて相手の方を変えようとし始めました。でも、どんな強力な科学力を使っても、変えることが出来るのは目の前の「部分」だけです。「全体」をコントロールすることは出来ません。そもそも、人間にはその「全体」が見えません。人間もまた自然の一部分に過ぎないからです。今現在起きている環境問題は、人間が「自然と共存する生き方」をやめ、「自然を支配する生き方」しか考えなくなってしまった結果です。茅ヶ崎の北部に、土地の山や自然を利用した里山公園があるのですが、その里山公園を作るときも最初の計画では、今ある山や自然を一度壊して、役所が作った設計図通りに山や自然に作り替えて「里山公園」を作る予定だったそうです。その計画を知った地元有志の人が、「それはおかしい」と声を上げ反対運動した結果、昔からあった自然をそのまま生かすような形で里山公園が作られたそうです。ということをその反対運動に関わった人から直接聞きました。問題は、同じようなことが子育てや教育の現場でも起きてしまっていることなんです。現代人は、自然のままの状態で産まれて、自然のプログラムに従って成長している子ども達と共存する方法を選ばずに、しつけや教育を通して、幼い子ども達を大人にとって都合の良い状態に作り替えようとしています。そして、それが可能だと思っています。でも、そのような試みはことごとく失敗しているのではないでしょうか。確かに、部分的、一時的には成功したかのように見えることもあるのですが、子どもが自分自身の主人公であることが出来なくなり、精神的に自立して生きることが困難になってしまうからです。そのような状態の人は常に不安を感じています。そして、何かや誰かに依存しようとします。
2023.12.22
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自然界は「美しいもの」に満ちています。観光地まで行かなくても、山や森に行かなくても、家の周りにも「美しいもの」がいっぱいあふれています。太陽の光に照らされて光る雲、道ばたの草花、街路樹の木漏れ日、風に揺れる木々や葉っぱ、夕焼け、朝早く日が昇る少し前の空、子どもの笑顔、この時期なら紅葉、地面に落ちた色とりどりの落ち葉などなど書き出したらきりがありません。そして私はいつも、そういうものを見て「美しいな」と感じるたびに「人はなぜ美を感じることが出来るのだろう?」「人間にとって美とは何なのだろう?」と考えてしまうのです。この「美」を感じる感性がなければ、文化も文明も生まれなかったでしょう。宗教や科学も生まれなかったでしょう。人々が平和を求めることも、真・善・美を求めることもなかったでしょう。「頭がいい」ことを人間の特徴として上げる人もいますが、人間以外の生き物だってみんな考える能力は持っています。じゃないと生きられないからです。カラスは小学校低学年程度の知能を持つといわれています。知能の形にも色々とありますから単純な比較は出来ませんが、論理的に考える能力においてはそのくらいの能力を持っているようです。「自分という意識」を持っているかどうかを「人間」と「他の生き物」を分ける基準として考える人もいますが、イヌや象やイルカなどは「自分という意識」を持っている可能性が高いと言われています。「言葉」は人間以外の生き物でも持っています。植物でさえ独自の「言葉」でコミュニケーションを取っているという説もあります。二足歩行することが出来る生き物はいっぱいいます。道具を使う生き物だっていっぱいいます。ですから、これらのいずれの能力も、「人間」と「人間以外の生き物」を分ける決定的な違いにはならないのです。でも私は、「美を感じ、美を求める感性」だけは人間固有のものなのではないかと思っています。「〝美〟を感じ、それを求めようとする欲求」こそが、人間を人間たらしめているのではないかということです。クモは美しい蜘蛛の巣を作りますが、クモ自身は美を求めてあのような巣を作っているわけではありません。効率よく餌をつかまえるためにあのようなデザインになってしまっているだけです。自然は美しいですが、意図的に美しくなるように作られているわけではありません。自然は「あるがまま」にあるだけです。「あるがまま」という自然原理が全ての存在をつなげ、調和させ、結果として一番無駄のない形を創り出しているのです。そして、人間はそこに「美」を感じます。それはいわゆる「機能美」と呼ばれるものです。蜘蛛の巣の美しいのも、イルカの流線型が美しいのも、蝶の羽が美しいのも機能美です。そして、西洋の人たちは、この「機能美」に強く反応しました。でも人は、「自然の働きそのもの」にも「美」を感じます。そこに「命の働き」を感じるからなのでしょうか。そして、「美を感じる感性」を生み出しているのも「命の働き」です。人は、自分の命の働きと響き合い、それを活性化させてくれるようなものにも「美」を感じるのです。「頑張っている人」を見て「美しい」と感じるのも、自分の中の「命の働き」が活性化されるからなのでしょう。人は、美しく咲いている花に美を感じるだけでなく、ありのまま生きている葉っぱだけの姿にも美を感じます。ただし、この「命の働きが生み出す美」を感じる能力には大きな個人差があるような気がします。生き生きと遊んでいる子ども達に「美」を感じる人もいますが、単に、「騒がしい」と感じるだけの人もいますから。日本人は世界的に見ても、「自然が創り出す美」を感じる感性が高いですがそれもまた、日本人が「命の働きが生み出す美」を感じる能力に優れているからなのでしょう。(現代人は大分低くなってしまっていますけど。)昔の日本人は「人工的な美」よりも「自然の働きを感じる美」の方を好んだようです。いずれにしても、そんな「自然」を美しいと感じるのは人間だけです。人間の中の「何か」が〝美〟と共鳴するのです。そして人が「美」だけでなく、「真」や「善」を求めるのも、そこに「美」を感じるからです。実は、「真・善・美」の三つは根底的なところでつながっているのです。
2023.12.21
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人は色々なことに対して、「先入観」で考えたり、行動したりしています。そして、その先入観に合っているならすぐに信じてしまいますが、先入観に合っていない時には、どんなに証拠を見せられてもなかなか信じないものです。面白いことに、大人であっても自分の先入観に合っているなら、どんなにおかしな事でも平気で信じてしまうのです。だから、簡単にデマに流されたり、詐欺に引っかかるのです。人はそれが「事実かどうか」を、自分の「先入観」に照らし合わせて判断しているのです。でも、その先入観が「事実であるかどうか」ということはなかなか疑わないものです。人間というものは本来的に非科学的な生き物なんです。大人達は「科学が言っている事は絶対に正しい」という先入観を持っています。だから簡単に科学的な言葉を使った、非科学的な嘘に引っかかってしまうのです。でも、実際には科学が言っている事も時代によってコロコロ変わっています。そしてその先入観は、その人が受けた教育や、それまでの人生体験によって作られています。ですから、人それぞれです。国や文化が違っても先入観は異なります。それはつまり、この世界にはそれだけいっぱい「事実」があるということです。人を騙す人ばかりの中で育った人は、人を見たらみんな「嘘つき」に見えるでしょう。でも、人を信じる人ばかりの中で育った人は、人の言うことは素直に信じるでしょう。この世界にはその先入観の数だけの「事実」が存在しているのです。人は先入観が作った世界を生きているのです。だから、イスラム教徒とキリスト教との対話が難しいのです。「子どもは嘘つきだ」「子どもは怠け者だ」という先入観を持っている人は、子どもの言葉や行為を信じません。そのような人に、「子どもは嘘つきなんかじゃないよ」「怠け者なんかじゃないよ」と納得させるのは困難です。どのように説得しても、その説得の言葉すら、先入観で解釈されてしまうからです。このように人は先入観の世界を生きているのですが、これは大人だけでなく、子どもも同じです。ただし、大人の場合はその人がこれまで受けてきた教育や人生体験によってその先入観が作られているので人それぞれですが、7才前の子どもの先入観を創り出しているのは「子どもの成長を支えている命の働き」なので、基本的に世界共通です。それは「大人の言うことは正しい」「お母さんやお父さんは自分を守ってくれる」というような先入観です。また、自分が生まれてきたこと、生きること、成長することを肯定するような先入観も持っています。そこには文化的な違いはありません。子どもたちは世界共通の世界に生きているのです。その先入観の世界には「嘘」というものは存在していません。裏も表も存在していません。子どもには「疑う能力」がないのですから。だから子どもはお母さんやお父さんの言うことをそのまま信じます。そして、だから簡単に「大人の嘘」に引っかかるのです。子どもに「あやしい人の言うことを信じないように」と言っても無駄なんです。確かに、子どもはしょっちゅう「現実とは異なること」を言いますが、でも子どもはそれを「嘘」だとは思っていません。逆に言うと、「うさぎさんとお話しした」というのは「心象的な事実」です。また、片づけをしていないのに、お母さんに「片づけたの?」と聞かれた時、「片づけたよ」と答えるのも「嘘」だとは思っていません。大人にとっては「悪い嘘」であっても、子どもには「嘘をついている」という認識はないのです。子どもはただ、そう言うとその場をうまくやり過ごせるということを体験的に知っているだけです。それはお母さんが、「後でお菓子を買って上げるから泣くんじゃない」とその場しのぎのことを言うのと同じです。だから、お母さんがその場しのぎ的なことばかり言っていると、子どももまた、同じような方法を使うようになります。でも、子どもはそれを「嘘」だと認識しているわけではありません。お母さんもいつも使っている方法だからです。だから、「嘘を言うんじゃありません」と言われても、キョトンとしてしまうのです。また、お母さんが冗談で「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」とか、「いい子にしていないと嫌いになっちゃうよ」などと言うと、子どもはそれもそのまま信じます。「勉強しないと、学校に行かないと将来・・・」と脅かせばそのまま信じてしまいます。「歯を磨かないとそのうち・・・」という脅かしもそのまま信じてしまいます。疑うという能力を持っていない子どもには、それを「冗談」だと認識することができないのです。だから子どもにそういうことを言ってはいけないのです。また、虐待を受けている子は、お母さんではなく、自分の方が悪いと思い込んでいます。なぜなら、「どんなことがあってもお母さんは自分を守ってくれるはずだ」という先入観があるからです。だからこそ「大人が子どもに何を語るのか」ということが非常に重要になるのです。その時、「科学的な事実」だけを語ろうとする人がいますがそれは無意味です。科学的に見たり、考えたりすることが出来ない時期の子どもに、科学的なことを言っても子どもはその言葉を理解することが出来ません。ただ、大人の言葉をそのまま信じるだけです。ですから、それは「なぜ?」を考える科学の教育にはならないのです。サンタクロースを信じている子より、「そんなの嘘だ」と言う子の方が科学的であるなんて事は全くないのです。両方ともただ大人の言葉を信じているだけなのですから。それよりも、子どもたちには「この世界は素晴らしい」、「君の未来は明るい」、「人間は素晴らしい」、「全ての生命は仲間だ」ということを語って上げて欲しいのです。幼い頃にそのような言葉を聞かされて育った子どもは、そのような先入観を持って生きるようになります。そのような子どもと、「嘘を言うんじゃありません」と「人間は嘘をつく」という先入観を植え付けられた子どもとではどちらの子の方が幸せな人生を送ることが出来るでしょうか。「知らない人に近づいてはいけない」とか、「おかしな人が寄ってきたら逃げなさい」というようなことを聞いて育った子は、「人間は信じることが出来ない」という先入観を持つようになるでしょう。そして、7才までに体験を通して身につけた先入観は、一生その人の先入観として働き続けるのです。問題はもうすでにそのような否定的な先入観を持った大人ががいっぱいいると言うことです。そのような人は、子どもたちに肯定的な先入観を与えることが出来ません。
2023.12.20
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幼い子どもたちは大人を信じています。「大好きよ」と言われれば素直に信じます。「嫌いよ」とか「あんたはバカだ」などと言われても素直に信じます。幼い子どもに冗談は通じないのです。昔の親は冗談で「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」などと言いましたが、そんなありえない話でも、大好きなお母さんの言葉なら信じてしまうのです。なぜなら、幼い子どもには「疑う」という能力がないからです。どうして「疑う」という能力がないのかというと、頭の中や心の中がまっさらだからです。全く日本語を知らない外国の人に、「日本では朝、ドドンパと挨拶するんだよ」と教えたら、そのまま信じてしまうでしょう。疑うための根拠を持っていないからです。皆さんも、なにも知らない外国に旅行に行ったら、まずガイドの言うことをそのまま信じますよね。そして実は、幼い子どもが大人の言うことを何でも信じてしまうのはそれと同じなんです。そして、ガイドを信じることで「安心」が生まれ、もっと色々と見てみたい、行ってみたい、やってみたいと思うのです。でも、ガイドがお客の気持ちを考えずに自分の都合だけでお客を振り回したら、お客はガイドのことが信じられなくなってしまうでしょう。そして、信じられないガイドに従って歩く旅は不安に満ちたものになってしまうでしょう。ちなみに、お母さんや子どもの周囲の大人は、子どもにとってその「ガイド」に相当します。また、そのような体験をした人は、「本当のこと」を言う人の言葉も信じなくなってしまうでしょう。人間は「過去の体験や過去に学んだこと」が、「新しいことが真実かどうかを判断する基準」になっているため、その過去に体験したり学んだりしたことを信じることが出来ない人は、新しいことが真実なのかどうかを判断することが出来なくなってしまうのです。一度だまされ傷ついた人は疑り深くなってしまうのです。善悪の区別も付かなくなります。人生という旅の最初に、困ったガイドに導かれて育った子は不安が強くなり、いつまで経っても一人で歩けるようにはならないでしょう。また、新しいガイドが来ても、最初は疑ってかかるでしょう。そのため、新しいガイドとの関係もうまく作れなくなってしまう可能性も高いです。そんな旅のガイドの一番大切な役割は「安心」を与えることです。様々な情報を与えるのも、「行ってみたい」、「やってみたい」などの好奇心を引き起こし、自分が導き手になってお客が安心してその旅に出かけられるようにするためです。ただ、知識を得るだけなら、ガイドブックを読めば分かるのですから。ガイドが安心を与えずに、「汚いよ」「サギや泥棒に気をつけて」などと不安に感じるようなことばかり言っていたら、旅行者は部屋やホテルから外に出なくなってしまうでしょう。実際には、色々と危険なこともあるでしょうが、そういうことは、対応の仕方も含めてその都度その都度、その場で教えてあげればいいのです。そしてこれは子育てでも同じなんです。お母さんは子どもにとって、人生という旅を始めるに際して最初に出会う人生ガイドなんです。そんな、人生最初のガイドの役割は、子どもに安心と希望を与えることです。知識を教えることではありません。知識は後からでも学ぶことが出来ますが、人生の最初に安心と希望を得ることが出来なかった子は、その先の旅に進むことが困難になってしまうからです。子どもは、その成長のステージが進むに従って新しいガイドが必要になります。その時、人生最初のガイドと良い関係を築けた子は、新しいガイドとも良い関係を築くことが出来ます。そして次のステップに進むことが出来ます。でも、・・・・・。
2023.12.19
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私たちはもっと「芸術」の持つ意味と、働きと、大切さについて気付くべきだと思います。現代人は「脳の能力」にばかり関心を持っていて、「脳の能力」が高ければ人間としても優秀だと思い込んでいます。そのため、子育てでも教育でも「脳の能力」を育てるようなことばかりをやっていて、「人間として」とか「人間らしさ」という視点が全く失われてしまっています。そして、高い「脳の能力」を持っていながら、その能力の使い方が分からず、ただ欲望を満たすためだけにその能力が使われてしまっています。だから、文明が暴走し、こんなにも自然が破壊されてしまっているのです。先日もテレビで、「老人にテレビゲームをやらせたら脳の機能がアップした」というニュースをやっていました。キャスターは「子どもの時にこのことを親に言いたかった」というようなことを言っていましたが、ここには大きな落とし穴があります。確かに、ゲームには脳の機能訓練的な機能があります。それは、今更ニュースで流さなくても、とっくの昔から様々な実験を通して分かっていることです。でも、すでに完成している大人の脳に対する影響と、今成長しつつある子どもの脳に対する影響は同じではありません。それは、エンジンのチューニングをするのと、エンジンそのものを作るのとは全く違う行為であるのと同じ事です。出来上がったエンジンをチューニングしたら性能がアップしたからと言って、まだ出来上がってもいないエンジンをチューニングしても性能はアップしないのです。アップしたとしても、それは「パーツの性能」であって、エンジンそのものの性能ではありません。ましてや、パートの性能にばかりこだわり、全体を育てることを忘れてしまったら意味がないのです。そしてゲームは、パーツの育ちには有効ですが、全体の育ちに対しては逆に否定的に働いてしまうのです。そのエンジンの育ち(全体の育ち)を支えているのが「能動的意志」の働きです。人間の成長においては、この「能動的意思」が様々な機能よりも先に目覚め、子どもの成長を促すようになっているのです。それは転んでも転んでも立ち上がって、またニコニコと歩き出す赤ちゃんを見ていれば分かります。人間の成長においては、「歩く」という能力よりも先に、「歩きたい」という気持ちが目覚める必要があるのです。この順序を大切にしないと、子どもは自分で自分の成長を支えることが出来なくなるのです。その能動的意思の目覚めを無視し、大人の都合によって調教や訓練のような働きかけによって機能訓練をしても、その効果は一時的です。長い目で見たら子どもの自立を妨げてしまうのです。「やる気」がなければ、大人が色々とあの手この手を使って子どもの脳の機能を高めても、思春期が近づくにつれ次第にその機能は失われて行きます。本人の意思とつながらない機能は萎えていくのです。逆に、「やる気」があれば、今は大した能力を持っていなくても、繰り返し努力することでその能力を高めることが出来るのです。テレビゲームなどで「脳の機能」を育てるような場合、「テレビやゲームの面白さ」といったものが本人の「やる気」を引き出しますが、でも、その「やる気」は本人の内側から出たものではなく、テレビやゲームに依存したものなので、能動性ではなくむしろ受動性や依存性を育てる結果になります。それは、ゲーム漬けの子にゲーム以外のことをやらせてみればすぐに証明できることです。ただ、その事実はあまり大きくマスコミが扱わないので、みんな知らないだけです。そして、ゲームをやるときにしか使えない能力なら、それがどんなに高度な能力でも「自立した一人の人間」として自分の人生を生きていくときには無意味なんです。じゃあどうやったらその「能動的な意思」を育てる事が出来るのかということですが、そこで「芸術」というものが意味を持ってくるのです。ただし、この「芸術」には自由意思に基づく様々な表現活動や造形活動も含みます。ですから「機械に依存しない遊び」も「芸術」です。逆に、自由意思に基づかないものは、それが絵画であろうと、歌であろうと、劇であろうと、それは私が「芸術」として扱っているものではありません。古来より、「芸術」には、「心の世界」と、「生命の世界」をつなぐ働きがありました。この「つなぐ」というのが「芸術」と呼ばれるものの一番大きな特徴であり、働きなのです。ですから、それは単なる表現活動とは違います。絵を描いても、歌を歌っても、その行為によって「心の世界」と「生命の世界」がつながらないのなら、それは芸術行為ではないのです。AIがどんなに素晴らしい絵を描いても、それは「作業」であって「芸術的な行為」ではないのです。どんなに歌が上手でもカラオケで歌う歌は芸術ではないのです。でも、それほど上手ではなくても、人の心に響く歌は芸術です。絵を描かなくても、歌を歌わなくても、雲の姿や、風の音や、鳥のさえずりや、野に咲く花々に心を動かすことが出来るなら、それは芸術行為なんです。子どもはお母さんとつながりたくて、言葉を話したり、歩いたりし始めます。それが子どもの成長を支える「能動的な意思」です。「芸術」を失った社会は「つながり」を失った世界です。
2023.12.18
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人は「芸術的行為」の中で、自分がどれだけ自由であるのか、それとも自由ではないのか、ということを確認することが出来ます。子ども達の前に20kgの粘土の固まりをドンと置いて「自由に遊んでいいよ」と言ったとき、「やったー」といって、喜んで何かを始める子と、「何を作ったらいいのか分からない」と言って、何も出来ない子がいます。画用紙を渡して、「自由に描いてもいいよ」と言ったときも、それを喜ぶ子と、どうしていいのか分からない子がいます。大人でも、一週間の休暇を与えられて喜ぶ人もいれば、退屈してしまう人もいます。人は、いつも「自由になりたい」と願っているのに、実際に自由を与えられたらどうしていいのか分からず、不安になってしまうのです。そのため、無意識的に自分から束縛を求め、指示命令を与えてくれる人や場を求めています。指示や命令に従うことで自分の頭で考え、自分の感覚で感じる必要もなくなり、居場所を得ることもできるので、安心するからなのでしょう。不思議なことに、それなのに「自由になりたい」と言うのです。もしかしたらそれは「ストレスからの自由」という意味なのかも知れません。現代人が求めている「自由」とは、本当の意味で「自分自身が自由になること」ではなく、単に「ストレスがなくなること」だけなのかも知れません。でもそれを「自由」と言えるのかどうか・・・・。子育て真っ最中のお母さん達も同じです。「忙しい忙しい」、「自由になりたい」とは言いますが、「じゃあ自由になって何をしたいの」と聞いても、答えが返ってきません。多分、本質的には指示や命令を与えてくれる生活がしたいのでしょう。ただ、もっと簡単な指示が欲しいだけなんでしょう。「子育て」では誰も指示や命令を与えてくれません。教科書もマニュアルもありません。何時に起きて、何時に食事をして、何を食べ、どこに行くのかということは自分で決めることが出来ます。お母さん達は「やらなくてはならないことがいっぱいあるから忙しい」と言いますが、実際には「どれをやって、どれをやらない」ということも自分で決めることが出来ます。「片付けが忙しい」と言う人もいれば、「片付けは適当にやっています」と言う人もいます。「あれもしなければ これもしなければ」と言いますが、実際には「どうしてもしなければならないこと」はそれほど多くはないはずです。でも、会社に勤めているときには「やらなければならないこと」は上から与えられるので、自分の判断で「やーめた」ということは出来ません。食事の時間も決まっています。そう考えると、本当は「子育て」は非常に自由な活動のはずなんです。お母さん達は「自由になりたい」と言いますが、本当は、もうすでに自由なんです。でも、その「自由」とどう向き合ったらいいのか分からないから、不自由になってしまっているのです。本当の意味の「自由」とは、「何もしなくてもいい」という状態のことではなく、「やるべきこと」を、自分の心と頭で考えて、自分の心と感覚で感じ、自分の意志と責任で行うことが出来ることなんです。それが出来る人は、「やるべきこと」がいっぱいあっても自由なんです。「自由」とは「与えられるもの」ではなく「自分で創り出すもの」なんです。禅宗ではその状態を「随所作主」と言います。「自分が自分の主人になる」というような意味です。子どもとの遊びでも同じです。「自由」を使いこなせれば、子どもと一緒の時間は非常に楽しいものになるのに、「自由」の使い方が分からないので、ただ耐えるしかなくなってしまうのです。それは苦しいです。実際、「子育てが苦しい」「子どもと一緒の時間が苦しい」と言っている人もいっぱいいますが、同じような状況なのに、「子育てが楽しい」、「子どもと一緒の時間が楽しい」と言っている人もいっぱいいます。それは真っ白い画用紙を与えたとき、「嬉しい」と言う子と、「何を描いたらいいのか分からないから苦痛だ」と言う子の違いと同じです。この違いを生み出しているのが、「その人の心や、感覚や、意識や、からだが、どれだけ自由なのか」ということなのです。そして、子ども達のその「自由」を育てるために必要なのが「芸術的な活動」なんです。ただし、この「芸術的な活動」というのは、絵を描いたり、踊ったりというような「芸術的な行為」をすることだけではありません。歩くことでも、お料理することでも、遊ぶことでも、勉強でも、仕事でも、創造的、芸術的に行うということです。どんなことでも、「正解」を決めなければ、創造的、芸術的に取り組むことができるのです。小さな子ども達は常に創造的、芸術的に遊んでいます。子どもの遊びには「正解」がないからです。だから、大人の目には意味不明なことばかりをやっていますが、楽しいのです。「子育て」にも正解はありません。だから、芸術的に取り組むことが出来る人には「楽しい活動」になりますが、それが出来ない人には「苦しい作業」になってしまうのです。そのようなとき、「どうやったら子育てが楽しくなるか」とか、「どうやったら子どもと一緒の時間が楽しくなるか」ということを考え、工夫し、実践するのが「芸術的な子育て」につながっていくのです。そして、そのような意識を持つことで、自分自身が自由になっていくのです。
2023.12.17
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五感の働きとしての「感覚」は、基本的に「生まれつき」です。でも、「味わう」という感覚の働きは、育ちの過程で育つものです。なぜなら、この「味わう」という感覚の働きは「心の働き」と密接につながっているからです。ですから「心」を持たないAIは、「味の分析」は出来ても「味わう」ということが出来ません。最近のAIは絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作ったりすることが出来ます。歌わそうと思えば歌うことも出来るでしょう。100%音符通りに。でも、創作は出来てもそれを味わうことは出来ないのです。音楽を聴いたり、絵を見たりして涙を流すなんてことは100%ありません。そして芸術は、「それを深く味わうことが出来る人」がいたから、生まれ、発展してきたのです。「創作する人」がいたから発展したのではないのです。お料理も、作る人がいたから発展したのではなく、それを味わうことが出来る人がいたから発展してきたのです。日本人の舌が日本料理を作り出したのです。料理人はその舌に応えただけです。AIが人間のように絵を描いたり、何かを作ったりするとみんなは驚き感心しますが、でも、AIにはこの「味わう」という能力がありません。そのため、「文化の模倣」は出来ても、新しい文化を創造することは出来ないのです。文明においても同じです。文明も、文明が創り出したものを喜び、面白がり、その便利さを感じることが出来る人がいたから発展してきたのです。これは子どもの遊びでも同じです。ただ石を投げて遊んでいるような場合でも、しばらくすると同じ行為の繰り返しだけでは飽きてきます。そして、何か的(まと)になるものを探して投げたり、より遠くに投げようとしたり、水切りをしたりなどと、新しい投げ方を工夫し始めます。仲間がいると、これが遊びになっていきます。飽きる能力があるからこそ、遊びが発展していくのです。そして、この「飽きる」というのも人間だけが持っている「味わう能力」の表れなんです。味わっているからこそ、同じ刺激が続くと飽きるのです。まただから、新しい工夫をし始めるのです。そうやって文化や文明が発展してきたのです。これはAIにはない能力です。でもだからAIは道具として便利なんです。単純な作業の繰り返しを延々とやらせても、飽きないのですから。人間でもある種の障害を持った子は飽きる事が出来ません。そのため、常に単純な作業を延々と繰り返す事が出来ます。そのような子は「味わう」という能力において問題を抱えているのでしょう。味わう事が出来ないからいつまでも同じ事を繰り返すことが出来るのです。でも、いくら同じ事を繰り返しても発見も発展もありません。ただただ同じ事を繰り返すのです。そのため、そのような障害を持っている子は成長も遅れてしまうのです。基本的に幼い子どもはみんな飽きっぽいです。だから、常に新しいものを求めています。大人は「もっと落ち着いて一つの事に取り組め」と言いますが、この「飽きる」という能力があるからこそ、子どもは新しいものを求めて自分の可能性を広げ成長していくのです。これもまた「味わう能力」の表れなんです。人間の「人間としての能力」の素晴らしさは、「創る能力」の方ではなく、「味わう能力」の方にあるのです。そしてその「味わう能力」は、それを味わうことが出来る人との共感によって育つのです。お母さんと子どもが一緒に食事をしている時に、「美味しいね」と子どもと顔を見合わせることで、子どもの「味わう能力」が育って行くのです。そんなさりげないことが、子どもの成長欲求の育ちにまで影響してしまうのです。子どもが食べているときにお母さんが別の仕事をしていたり、無言で食べていたりすると、子どもは「味わう能力」を育てることができなくなってしまうのです。そしてそれは学習意欲にまで影響してきます。でも多くのお母さんがそのことに気づきません。
2023.12.16
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多くの人が「そっくりに描かれた絵」を「上手な絵」だと評します。そして、そっくりに描くことが出来ないと「下手だ」と言います。これは子どもでも大人でも同じです。「そっくり」に描く場合には実物という「正解」があります。その「正解」に近ければ「上手」で、正解から遠ければ「下手」なんです。どうも、現代社会では多くの人が、誰かに与えられた「正解」を基準にしないと、物事の価値を判断できなくなってしまっているようです。そういう人は自分自身の価値観や判断基準を持っていないのでしょう。そういう判断をする人たちにとっては、お母さんの言う「正解」を守れば「よい子」で、先生の言う「正解」を守れば「良い生徒」で、政治家の言う「正解」を守れば「良い国民」ということになるのでしょう。その正解に囚われずに、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する子は「困った子」「困った生徒」「困った国民」になってしまうのです。だから、大人が与える正解を無視して、子どもらしく感じ、子どもらしく考え、子どもらしく行動する子は「困った子」として扱われてしまうのです。また、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断した結果「学校には行かない」という判断をすると、その判断の中身の是非を問うことなく、学校は「学校が与える正解」と異なった判断をする子どもや親を「困った生徒」や「困った親」として扱います。「正解」にこだわる親もまた、「学校に行かない我が子」を責めたりします。そのような親は、子どもから「どうして学校に行かなければいけないの」と聞かれても、自分の言葉で答えることができません。ただ「学校は行かなければならないところだから」と「正解」を繰り返すだけです。こういうことと、絵を描くことや様々な芸術活動とは一見関係がないように思えますが、実は密接に関係しているのです。なぜなら、芸術的な活動において大切になるのは、「正解」に囚われずに自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する事だからです。これが出来ないと芸術的な活動は出来ないのです。そしてそこに「芸術」の持つ大切な意味があるのです。まただから、子ども達に様々な芸術的な体験を与えるべきなんです。戦争中、権力者によって真っ先に弾圧されたのは自分の感覚でものを言い、自分の感覚で行動する芸術家達です。これは、西洋でも東洋でも同じです。戦争をしようとしている人たちは影響力が強い芸術家達に自由に発言されたら困るので、「言うことを聞かないと命が危険になるぞ」と脅かし、政府の言う「正解」を肯定するような絵を描かせ、歌を作らせたのです。それは今やっている「ブギウギ」という朝ドラの中でも描かれています。でも、正解に合わせて絵を描いても、正解に合わせて歌を作っても、正解に合わせて劇を演じても、楽しくなんかありません。さらに、「自分の想い」を入れ込もうとすると正解とのずれを指摘され、叱られ、矯正させられ、政府のプロパガンダを広めるために利用されます。これは戦争中だけの話ではありません。今でも子ども達は、同じ扱いを家庭の中や、学校で受けています。その繰り返しで子ども達は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する能力を育てることが出来ないばかりでなく、元々持っていた能力まで失ってしまっています。その結果、幼いときには楽しかった絵を描くことも嫌いになっていきます。絵の描き方が分からなくなります。「自分らしさ」を否定し「上手」に拘るようになります。そして、正解を与えてくれる人に依存するようになります。芸術的な活動の豊かさは、その芸術を支える社会の人たちがどれだけ幸せに生きているのかということのバロメーターでもあるのです。芸術を失ってしまった社会は活力も失ってしまうのです。
2023.12.15
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これもまた「心の育ち」と関係しているのですが、最近、「絵」が描けない子どもたちが増えています。増えてきたというより、描けない子の方が圧倒的に多いです。学校の授業では嫌々でも描きますが、嫌々ですから、当然のことながら家では描きません。確かに「イタズラ描き」や「イラストのような絵」や「マンガ」を描く子はそれなりにいます。でも、そういうものは私が言っているところの「絵」ではありません。普通の幼稚園などの絵の発表を見ると、みんな同じような絵ばかりが並んでいますが、あれもまた「絵」ではありません。お母さん達も、ワークなどで「次回は絵を描きます」と言うと、多くの人が「えー、嫌だ・・・」的な反応をします。そんなワークで写実的に描ける人がいるとみんな「上手だ 上手だ」と言って褒めます。友人が園長を務めていた保育園で、友人が定年になり園長を退いた後、新しく来た園長がそれまでの「絵の先生」を辞めさせてしまったそうです。理由を聞いたところ「褒めるばかりで描き方を指導しないから」という事だったそうです。どうも日本人は「絵」というものが分からない民族になってしまったようです。それはつまり日本人が、「心の世界を楽しむことが出来ない民族」になってしまったからなのかも知れません。それと共に、絵や歌などでも(技術的な)上手下手ばかりを気にするようになりました。プレバトというテレビの番組では、「絵」の上手下手を競わせています。でも本来、「絵」には上手も下手もないのです。あの番組では「絵」そのものではなく「対象を写し取る技術」を競っているだけです。だから、「優劣」を決めることが出来るのです。でも、「絵」の価値が「どれだけ対象を上手に写し取っているのか」ということだけで決まってしまうのなら、ピカソやルソーの絵には価値がないことになってしまうのです。棟方志功や、セザンヌや、モネの絵にも価値がないことになってしまいます。実際、あの番組にはピカソやセザンヌのような絵を描く人は登場しません。確かに「上手な絵」は売れるかも知れません。「子どもの絵」は売れないかも知れません。ですから、社会的な価値においてはそこに上下があります。でも「絵の値段」は「絵そのものとしての価値」とは別のものです。また、上手を競うだけの絵をいくらいっぱい描かせても「子どもの心」は育ちませんが、自分が感じたことや考えたことを素直に表現する絵を描く行為には「子どもの心」を育てる力があるのです。なぜなら、絵を描くことを通して自分の感覚や心と対話するからです。「絵」は本来「自分の心の表現」なんです。心の中にあるものを「視覚的な形」に表現するのが絵なのです。心から出たものだからこそ、人の心に感銘を与えるのです。そしてそれは、「絵」だけでなく、「歌」も、「踊りも」、「物語」も、およそ芸術と呼ばれるようなものはみんな同じです。芸術と呼ばれるものは全て「心の表現」なんです。ですから、ただそっくりに描けた絵より、その子らしく描けた絵の方が「絵」としては上質なのです。その「絵」がどんなにグチャグチャになっていても、その子らしい世界が表現されているのなら、それは立派な「絵」なんです。でも大人達は、その「子どもの絵」の価値を認めません。自分らしさの表現としても歌や踊りも認めません、そして、技術を教え、上手下手を競わせようとします。幼稚園でも学校でも、上手に描いて、上手に歌って、上手に踊るような指導はしても、自分らしく描き、自分らしく歌い、自分らしく踊るような指導はしません。そういうことの価値も教えません。むしろ、自分らしく描き、自分らしく歌い、自分らしく踊ると、「正解はそうじゃない」と指導されてしまいます。感想文でも、本当に自分が感じたことを感じたままに書いてしまうと指導されてしまいます。それは、常に人目を気にしていて「ありのままの自分の心」を表現しようとしない日本人の感性の表れなのかも知れません。日本の教育現場では常に「正解」が提示されるのです。そのため「自分の心を表現するような活動」はさせないのです。そして、そういう教育を受けて育ったお母さん達も、子どもの活動を上手下手だけで評価します。でも、そんなことをしていたら子どもの心は育たないのです。そして心が育たないまま大人になったら、他の人が困るようなことを平気でするような大人になります。そういう人に注意しても、「自分の心と対話する能力」自体が育っていないので、自分の問題点に気付くことはありません。
2023.12.14
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心というものは、見ることも、触れることも出来ません。そのため、「心の育ち」が大切なことだとは分かっていても、その育て方が分かりません。子どもの心がどうなっているのか分からないので、ちゃんと育っているのかどうかの確認も出来ません。そして、目に見える行動や、耳で聞くことが出来る言葉だけを通して子どもの心の状態を確認し、目に見える行動や、耳で聞くことが出来る言葉をコントロールすることで、子どもの心を育てようとしています。「優しくしなさい」と怒鳴れば、優しくなると思い込んでいます。「人に優しくしなさい」と教えれば、人に優しく出来る子に育つと思い込んでいます。だから、道徳教育なるものが存在しているのでしょう。確かに、目に見える行動や、耳で聞くことが出来る言葉は「子どもの心」から出たものではありますが、でも、「出て来たもの」にあれこれ言っても、その本体の心は変わらないし、育てることも出来ないのです。それは、水道の蛇口から出て来た水にあれこれ言っても、肝心の水源の状態が変わらなければ、水質が変わらないのと同じです。浄水器をつければ、最初のうちはなんとかなりますが、やがてフィルターが詰まります。汚れを発生している原因がそのままだからです。この場合の「浄水器」とは、「しつけ」のような直接的な方法のことです。でも、浄水器ならフィルターが詰まったら交換することもできますが、子どもは成長と共に親の言うことを聞かなくなります。それが自然な成長でもあるのですが、その時点で「結果を調整するだけのしつけ」は効果を失ってしまうのです。そして、思春期の訪れと共に、ために貯めた「困ったもの」が一気に吐き出されてしまいます。だから大元の水源をキレイにするしかないのですが、水源は目に見えないところに存在しているし手も届きません。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、そんなに難しく考える必要はないのです。ただ毎日の生活を共にしながら、言葉や、感覚や、考え方や、生活のあれこれを伝えていれば、子どもの心は、必要なことを必要なときに吸収しながら勝手に育って行くのです。そういう生活を大切にしてれば水源は澱まないのです。「優しさ」も、毎日の生活を通して色々な言葉を伝えたり、色々なお話を聞かせたり、「丁寧」を伝えれば勝手に育って行くのです。「優しくしろ」と怒鳴っているだけでは、優しくない子が育ってしまうのです。実は「生活を伝えること」は「心を伝えること」でもあるのです。でも今、その生活が消えてしまっている家庭がいっぱいあるのです。
2023.12.13
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人間の「人間らしさ」のほぼ全てが、人間だけが持っている「心の自由」によって生まれて来ました。歌や踊りや言葉やその他様々な文化も、都市や機械などを作り出す文明も「心の自由」が創り出したものです。ですから、人間が「心の自由」を失えば即座に文化は消え、文明は「人々を幸せにするためのもの」ではなく「個人の欲望を満たすためのもの」になってしまうでしょう。そしてそれは個人レベルでも、国家レベルでも「戦い」を引き起こします。その結果、人間は、自分たちが作り出した文明の力によって滅んでいくでしょう。でも今、社会全体でその「心の自由」が失われ始めています。それと同時に「人間らしさ」を大切にする人も減ってきました。子育ての相談でも、「どうやって子どもに言うことを聞かせたらいいのでしょうか」というようなことを聞いてくる人は多いですが、「子どもの人間らしさをどう育てたらいいのでしょうか」と聞いてくる人はあまりいません。現代社会では、多くの大人達が、子ども達を「自分にとって都合の良い状態」に育てることばかりに熱心なようです。子育ての勉強会で、お母さん達に「お子さんの短所と長所を教えて下さい」と聞くと、「短所」は山のように出てきます。でもその大部分が、子どもの「子どもらしさ」に起因するものばかりです。ご飯をちゃんと食べない、言うことを聞かない、ちゃんと片付けない、ゲームの時間を守らない、勉強しないなどなど、でも、こういうようなことは子どもの成長にとっては普通の事なんです。これが子どもにとっては自然な状態なんです。それはつまり、多くのお母さん達が「子ども達の子どもらしい状態を肯定することができない」ということでもあります。どうしてそういうことになってしまっているのかというと、私たちが暮らしている社会自体が、大人の価値観によって大人のためだけに作られているからです。子どもの子どもらしさや心の自由を肯定するような子育てをしていたら、周囲から白い目で見られてしまうのです。時々、子どもの立場に立って、子どもの視点を大切にして、子どもの「子どもらしさ」を守ろうとしているお母さんもいますが、同じ価値観の仲間とつながって身を守らないことには、現代社会でそのような子育てを実践することは非常に困難です。実際、お母さん達が子どもの長所としてあげるのは「お手伝いをする」「下の子の面倒をよく見る」「ちゃんとお片付けをする」などなど、お母さんにとって都合の良いことばかりです。子どもが「子どもらしさ」を発揮するとそれは短所になり、「子どもらしさ」を押さえて、お母さんの言うことをよく聞いていると長所になるのです。学校の先生も同じ感覚です。また、多くのお母さん達が子ども達を自分の理想に合わせて育てるために、幼いうちから文字や勉強を教えたり、英会話を学ばせたり、様々な習い事に通わせています。こういう状態では「心の自由」は価値をもちません。子どもの「心の自由」を育てようなどとも思いません。そんなことしたら、大人が大切にしている価値観や生活が壊れてしまうからです。でも、「心の自由を育てる機会を失った子ども達」は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と判断で行動する能力を身につけることが出来なくなります。それは、子どもの「親から離れて自立して、幸せに生きる能力が育たない」と言うことを意味しています。ではなんで、人々が「心の自由」に価値を感じなくなり、「競争に勝つこと」と「物質的な豊かさ」ばかりを求めるようになってしまったのかということです。私はその原因を、現代人が「見ることが出来ないもの」に意識を向け、「聞くことが出来ない音」に耳を澄ますことをしなくなってしまったからなのではないかと思っています。なぜなら、そういうものは科学では扱えないからです。現代人にとっては、科学的なエビデンスがないものには価値がないのでしょう。逆に、科学的なエビデンスがあることなら正しいのです。でも、科学では人の心も、幸せも扱うことが出来ません。
2023.12.12
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昨日は、「からだで学ぶ」ことの大切さを書きましたが、からだを動かすためには「意志の働き」が必要になります。ですから、疲れたり、病気をしたり、眠かったり、失恋したりして、「意志の働き」が萎えてしまうと、からだを動かすことが億劫になります。からだだけでなく、能動的に感じ、考えることも困難になります。そして、そういう状態が長引けば、不安が強くなり自分を守ることばかり考えるようになります。そして、心とからだの状態が不安定になり、色々なことに保守的になり、自分に変化をもたらすようなものを排除しはじめます。知覚が過敏になったり、逆に鈍感になったりします。人間が能動的に、生き生きと生活し、前向きに生きていくためには「意志の働き」が絶対的に必要なんです。意志の働きが萎えてしまっている子に「からだを使った活動」をさせようとしても嫌がります。でも問題は、最近、その意志の働きが育たない状態で肉体だけが成長している子が多いのです。そういう子は「からだを使った活動」を避けようとします。(ただ発散するだけの活動ならしますけど)そのような状態の子は、自分の意思で感じることも、考えることも、行動することも困難です。そして、「反射」だけで感じ、考え、行動しようとします。じゃあ、どうしたら子どもの「意志の働き」を育てることが出来るのか、ということですが、これもまた、昨日書いた「からだを使った生活」や「からだを使った遊び」を通してなんです。ただし、「からだを使った活動」というと、現代人は「スポーツ」を思い浮かべるかもしれませんが、スポーツでは「意志の働き」を育てることは出来ません。なぜなら、「スポーツ」には「自由」がないからです。あったとしても「ルールの中での自由」「指導者によって与えられた自由」だけです。それは「塗り絵」のような自由です。子どもは下絵の線が描いてある絵に自由に色を塗ることが出来ます。だから楽しいのでしょうけども、「塗り絵」に慣れてしまった子は、ゼロから「自分の絵」を描くことが出来なくなります。そして、こういう「与えられた自由」では「意志の育ち」を支えることは出来ないのです。子どもの「意志の育ち」を促すために必要なのは、ただの「からだを使った活動」ではなく、「自分の意思で自由に感じ、考え、判断した結果としてのからだの活動」なんです。そしてそれこそが「遊び」なんです。子どもたちの感覚や、心や、頭や、からだ全体を使った自由な遊びが、子どもの「意志の働き」を育てているのです。でも、大人たちは大人にしか価値がないものを身につけさせるために、子どもたちから、そのような「子どもの育ちを支える自由な遊び」を取り上げてしまいました。
2023.12.11
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子どもを愛せない、子どもを信じることが出来ないと告白してくださる方はいっぱいいます。昔にもそのような人はいたのでしょうが、今の日本ではそのようなお母さん、お父さんがどんどん増えているような気がします。それがまた幼児虐待の急増ともつながっているのでしょう。でも、それが社会全体での傾向ならその原因は個人的なところにではなく、社会的なところにあると考えるのが正しい理解なのではないかと思います。その理解がないと個人を攻撃するだけで終わってしまいます。そして、状態はますます悪くなっていくでしょう。では、その社会的な原因とはどのようなものなのかということです。実はそれは非常に簡単なことなのです。それは現代人の生活の中から「からだで学ぶ」という生活スタイルが消えてしまったからなのです。現代人はからだで学ばないで知識で学びます。学ぶということはそういうことだと思いこんでいます。でも、人類の歴史を振り返ってみれば分かるように「学ぶ」ということは本来「からだで学ぶ」ということなのです。知識で学んでいたのは生活とは無関係な仕事をしていた一部の学者に過ぎません。つまり、現代人はみな役にも立たない学者の勉強をやらされているのです。どのようにして「からだで学ぶ」ことが子どもを愛すること、子育てとつながってくるのかということですが、皆さんの周りにいる人を思い起こしてみてください。その中には子育てを楽しんでいる人も何人かはいるはずです。そういう人達に共通することはありませんか。私が観察している範囲では・からだを使うこと、動かすことを億劫に感じない・人と関わることを楽しんでいる・面白そうなことがあるとすぐにやってみる・好奇心が旺盛・作ったり、行動することが好き・他人の評価を気にしない・理屈で判断しない・“何を知っているか”ではなく、“何が出来るのか”ということを大切にしている・すぐに結論を出さないで試行錯誤を楽しむことが出来る。まだまだあると思いますが、みなさんの周りの人はいかがでしょうか。実はこれらの全ての要素は、からだで学ぶ過程で身につけるものばかりなのです。そして、知識だけで学ぶ勉強では全てこの逆になります。ですから、子どもの時にからだで学ぶ体験をいっぱいしてきた人は親になっても子育てを楽しむことが出来ます。ただし、そのような体験は学校の外でないと体験することが出来ません。学校の価値観に縛られていたのではからだで学ぶことを楽しめないのです。ちなみに、子どもの成長を支えることが出来るような素敵な子育てをしている人は、ただ素直に、子どもとの生活を楽しんでいるだけなんです。育児書や子育て書に書いてある正解に合わせて「上手な子育て」を目指しているわけではないのです。子どもとの生活を楽しんでいると子どもは勝手に育ってしまうので上手な子育てをしているように見えてしまうだけなんです。でも、子育てを楽しめない人は頭で考えた「上手な子育て」を目指してしまうのです。子どもとの関わりを楽しむことなく、結果を真似ようとしてしまうのです。また、子どもにも“よい子”を真似させようとします。だから、子どもが育たなくなって困った問題が出てきてしまうのです。そして、子育てを楽しむためには「からだを使った生活」が必要になるのです。乗り物を使わないでも行けるところは歩いて行く。そうすれば、一緒に歩くことを楽しむ事が出来ます。お料理も、レトルトなどに依存せず、子どもと一緒に作るようにすれば「子どもと一緒」を楽しむことも出来ます。またその過程で、子どもは多くのことを学ぶことが出来ます。テレビやゲームに子育てを任せず、一緒に家事をして、一緒にお話をして、一緒に歌って、一緒に感じて、一緒に考えて、一緒に歩いて、その「一緒」を楽しむようにしていれば、子育ては楽しくなるし、子どもも安心に満たされてスクスクと育っていくのです。子育てと生活や家事を分けようとするから、子育てが忙しく、苦しくなってしまうのです。また、子どもの育ちが遅れてしまうのです。子どもがすくすくと育つのは、からだでの活動を通して「一緒」を楽しんだ結果に過ぎないのです。子ども達の群れ遊びも、「一緒」だから楽しいのです。「一緒」を大切にせず、「賢い子」や「よい子」を育てることを子育ての目標にしてしまうと、残念なことに、その逆の状態になってしまうことが多いのです。でも、幼い頃に「一緒」の体験がないまま育っている現代人は、その「一緒」が苦手なようです。子ども達も、生活の場で「一緒」の体験が少ない子は、群れて遊ぶことが苦手です。「一緒」を楽しめないからです。
2023.12.10
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私たちの日常を支配しているのは「意識の働き」ではなく「無意識の働き」です。意識は「目的」を与えてくれますが、実際にそれを実行するのは「無意識の働き」です。例えば、「手を上げよう」と意識すれば、手を上げることが出来ます。「歩こう」と意識すれば歩くことが出来ます。でも、「手の上げ方」や「歩き方」を管理しているのは「無意識の働き」です。そのため、特別に意識しない限り人はいつも同じように手を上げ、同じように歩きます。「この問題を解きなさい」と言われれば、考えようとするでしょう。そこまでは「意識の働き」です。でも、「どう考えるのか」ということを管理しているのは無意識の働きです。そのため、考え方自体に問題がある人はいつも同じ所をグルグル回るような思考しか出来なくなります。ですから、無意識の状態を変えようとしない限り、何をやっても、どんなに頑張っても、何も変わらないのです。「自分を変えたい」と色々とやっている人もいますが、そのやり方を管理している無意識の状態が変わらないのなら、どんなに色々なことをやっても「同じ事の繰り返し」にしかならないのです。逆に、そんなに色々なことをしなくても、無意識の状態の方を変えるようにしていくと、結果として「自分の状態」も変わっていくのです。その際、重要になるのが「からだ」という視点なんです。なぜなら、「からだの状態」が「無意識の状態」に大きく影響しているからです。適度にからだが緩み、姿勢が整っていれば、それだけで、そうでない時よりも、客観的に物事を見たり、考えることが出来るようになるものなんです。無意識からの束縛が緩むからです。でも、猫背状態でからだをガチガチに固めていると、無意識の働きの方が優位になってしまい、同じ事の繰り返ししか出来なくなってしまうのです。そういう状態では、どんなに悩んでも、どんなに色々なことをやっても、自分を変えることも、前に進むことも出来ません。何をやっても「同じ事の繰り返し」になってしまうからです。組織などでも、トップが色々と新しい案を出しても、実際にそれを実行する現場が変わっていなければ、結果は何も変わりませんよね。それと同じです。ちなみに、ゲームに夢中になっているときの子ども達は、無意識の働きに支配されてしまっています。「じっくり感じ、考え、判断する時間」を与えられていないからです。そのため、ゲームでばかり遊んでいると「意識の働き」が育たなくなってしまうのです。そしてそれは、自分の人生を自分の意志で生きる能力が育たなくなってしまうということを意味しています。からだの調子が悪いときには、心の状態も不安定になりますよね。逆に、からだの状態がいいときには、心も軽くなりますよね。感じたり、考えたりする能力も高まりますよね。普段自覚したことはないかも知れませんが、人は姿勢を変えるだけで感覚の状態や思考方法が変わってしまうのです。下ばかり向いているときと、遠くや上の方を見ている時とでは、感覚も、思考方法も異なっているのです。悩みに囚われて苦しいときには、一見、無関係に見えるかも知れませんが、姿勢を変えてみる、歩き方を変えてみる、生活リズムを変えてみる、食事を変えてみる、いつもはやらない運動をしてみるなどすると「からだの状態」が変わるので、問題解決の糸口が見つかるかも知れませんよ。
2023.12.09
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あと、その人の「心の状態」は、昨日書いた「意識の状態」ともう一つ「からだの状態」でほぼ決まってしまいます。「意識」は、ある程度なら自分の意志でコントロールすることが出来ます。「音に意識を向けて」と言われれば、その人の能力に応じて音に意識を向けることもできます。「姿勢をまっすぐにして」と言えば、自分の意識の働きを使ってまっすぐにすることもできます。でも、その意識の働きは、意識しているときしか働きません。「姿勢をまっすぐにしよう」と意識しているときは、まっすぐな状態を保てるのですが、他のことに意識を向けた途端に、その働きは消えてしまうのです。なぜなら、日常生活の場面では、人の働きの大部分は「意識」ではなく「無意識」が行っているからです。その人が、どう感じ、どう考え、どうからだを使うか、どういう姿勢で生活しているのか、ということの全てを管理しているのは「意識の働き」ではなく「無意識の働き」なんです。「意識の働き」が有効になるのは「いつもとは違ったこと」をやろうとする時だけです。ですから、「無意識」の働きによって支えられている「からだ」の方が、「まっすぐ」を受け入れていないのなら、意識の働きでからだをまっすぐにしても、別のことを意識し始めた途端に無意識の働きによって元に戻ってしまうのです。子ども達に「静かにしなさい」と言っても、静かにしているのは叱られた直後だけです。直後は「静かにしよう」と意識しているから、静かに出来るのですが、別のことを考えたり、別のことし始めたりすると途端に、無意識の働きが戻って元の状態になってしまうのです。ただ叱るだけでは、子どもの心が傷つくだけで何の意味もないのです。そんな時は、例えばですが、折り紙のようなものを渡せば(折り紙が好きな子なら)、静かにしなさい」などと言わなくても静かにすることができます。静かにさせるだけなら、ゲームやyoutubeを見せるのも有効です。でも、「折り紙」で静かにしている子は、自分の意識の働きによって、静かになっているのに対して、ゲームやyoutubeを与えてもらって静かにしている子は、ゲームやyoutubeの働きによって静かにしているだけなので、そういうものがないと静かにすることが出来なくなります。意識の働きを制御する能力も育たなくなってしまいます。それは、子どもを「集中力の欠如」という状態にしてしまいます。「集中力」が育たないと「セルフコントロール能力」も育たないので、「我慢」も出来なくなります。よくお母さん達はゲームに夢中になっている我が子を見て「すごい集中力が、あの集中力で勉強してくれたら」などと言いますが、それは大きな勘違いなんです。あれは自分の意志で集中しているのではなく、からだが何らかの危険を感じて、意識や目を離せなくなってしまっているだけなんです。「動いているもの」や「変化しているもの」に意識を奪われるのは、動物としての本能なんです。だから、赤ちゃんでも「動いているもの」や「変化しているもの」に対してはすぐに反応するのです。山の中を歩いていて熊に出会ったら、目や意識は目の前の熊に釘付けになってしまいますよね。他のことに意識を向けるなんてことできませんよね。実は、ゲームやyoutubeなどをやっている時も、「からだ」(無意識)はそれと同じような反応をしているのです。ゲームやyoutubeではケガをしませんが、何万年という体験の積み重ねによって出来あがっているからだ(無意識)の方は、そう反応してしまうのです。あれは集中しているのではなく「意識を束縛され、自分の意志で他のことに意識を向けることが出来なくなってしまっている状態」なんです。確かにそれもまた「集中力」ではあるのですが、自分の意志ではコントロールすることが出来ない「集中力」なので、ゲームのような「強い刺激があるもの」に対しては集中できても、授業や勉強などのように、退屈で刺激がないものに対しては集中できないのです。まただから「1時間だけよ」などと言ってもムダなんです。ゲームから意識を離すことが出来ない子が時間に意識を向けることが出来るわけないからです。そして、日常的に強い刺激にさらされている子ほど、本当の「集中力」は低下していきます。そういう状態の子に「もっと集中しろ」と言っても、「刺激がないものに集中する能力」が育っていないので無理なんです。
2023.12.08
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昨日は「昔の自分に戻ってみる」とか「自分の子どもの気持ちになってみる」などと言うことを書きましたが、多重的な視点で自分や世界を見ることで、自分や世界の見え方が変わってくるのです。ネイティブ・アメリカンの人は(全部の部族で、ということはないかも知れませんけど)、「鳥や獣の精霊になって人間に言葉を伝える」ということもやっていたみたいです。昔読んだ事なので記憶は曖昧ですが、車座になって、杖みたいなものを回します。そして、「空を飛ぶものの代表として来た」とか、「地を走るものの代表として来た」というように、「人間以外のもの達の声を代弁する者」として仲間達に言葉を伝えるのです。それは、ネイティブ・アメリカンの人たちが、自分たちを支えている自然の働きと対立した生き方をしないようにする知恵だったのでしょう。現代社会がこんなにも自然と対立し、自然を破壊してしまっているのは、「森の声」「鳥の声」「虫の声」「獣の声」「命の声」「からだの声」「子どもの声」に耳を傾けてこなかったからです。人間は、「自然の声」を無視し、自然を「資源」として搾取することで一時は繁栄を謳歌することが出来たのですが、その繁栄を支えている自然が崩れ始めたので、その繁栄にも陰りが出始めています。「自分だけ良ければいい」、「今だけよければいい」という考え方は、「悩みや苦しみの先送り」をしているようなものなんです。でも、先送りをしているだけですから、しばらくすると雪だるま式に増えた状態で戻って来てしまうのです。その時は、「おまけ」がついて、自分がため込んだ以上の量で戻ってきます。悩みや苦しみが発生した時点で、ちゃんとそのことに向き合い、ちゃんと対処していれば、その時だけの苦労で済んだのに、後回しにすることで雪だるま的に増えてしまい、いつまでも苦しむことになるのです。そして、一度ため込まれてしまった悩みや苦しみは、そう簡単には消えないのです。今、苦しいのは「今」であっても、その悩みや苦しみの原因は、「今」ではなく「過去」にあるのです。だから、「今」に囚われた意識のままでは解決できないのです。また、「今」だけに囚われたその場限りの対処法では、さらに未来に大きな問題を残してしまうのです。100年後、200年後の未来人の気持ちになって、現代人に言いたいことを考える。1万年前、10万年前の古代人の気持ちになって、現代人に言いたいことを考える。子どもの気持ちになって、大人に言いたいことを考える。こういう遊びをしていると、視野や意識が広がり、「今」「ここ」に囚われなくなるのです。そして、どうしたらいいのかが見えてくるのです。遊びの感覚で構わないのですから、鳥や、魚や、山や川や海になって人間に言いたいことを考えてみませんか。お子さんと一緒に「もしも、もしもだよ」という形で遊ぶことも出来ます。楽しいですよ。ちなみに、「言葉で聞くお話し」でも、そういう体験が出来ます。それが「言葉の力」です。でも、テレビなどの「映像で見るお話し」ではそういう体験は出来ません。
2023.12.07
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昨日は、悩みを抱えた人でも、自分の視点や見方を変えれば、それまで「悩みの種」だったものが、大したことないように思えてしまったりするのです。という所で終わりましたが、実は、これは簡単に確認することが出来るのです。ワークでもよくやるのですが、「自分以外の人」や「人間以外のもの」になったつもりで考えてみるのです。例えば、子どものことで悩んでいる人が、その子どもの気持ちになって「お母さん」(自分)宛てに手紙を書いてみたりすると、擬似的にですけど「子どもの視点の体験」が出来ます。すると、意識が拡張するため、悩みのとらえ方や子どもとの関わり方が変わったりするのです。また、「子どもだった頃の自分」に戻って、「今の自分」に手紙を書くことも出来ます。年老いて、「もうすぐ死ぬかも知れない状態の自分」という視点から「今の自分」に手紙を書くことも出来ます。皆さんを苦しめている悩みの大部分は、10年後には消えています。もしくは、悩みの質が変わっています。何かに失敗して苦しんでいても、たいていの場合、1年後、いや、一週間後には忘れてしまっているのです。実際、皆さんは一年前にどういうことで悩んでいたか想い出せますか。「ズーッと悩んできた」と思い込んでいるようなことでも、その悩みの質は変化しているはずです。「今」という時間に囚われているから、悩みや苦しみが永遠に続いているような錯覚に陥ってしまうのです。自分が子どもだった頃の写真や、お子さんが生まれたときからの写真を見返してみるだけで、子どもに対する意識が変わるのです。今、自分を苦しめている悩みとの向き合い方も変わるのです。「コップに半分入っている水」を見て、「もう半分しかない」と考える人はそのことで悩むでしょう。でも、「まだ半分ある」と考える人は希望を持つことが出来るでしょう。このような考え方は色々なところで聞きますよね。でも実際には、これだけでは不十分なんです。「増えてきて半分になったのか」「減ってきて半分になったのか」で、同じ「半分」でも意味が全く異なってきてしまうからです。「悩み」や「苦しみ」を「時間の流れ」の中で問い返して見ることで心が自由になり、その「悩み」や「苦しみ」の意味や、「悩み」や「苦しみ」との関わり方が見えてくるのです。人の悩みや苦しみの多くは、その人の意識が「今」「ここ」に束縛されてしまうことで生まれているのです。だから前に進めなくなってしまうのです。だから、皆さんの心が「今」「ここ」に囚われなくなれば、悩みや苦しみにも囚われなくなります。そして、「どうしたらいいのか」ということを客観的に考えることが出来るようになるのです。
2023.12.06
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子育て中の多くのお母さんが、子どものことで色々と悩んでいます。夫婦のことで悩んでいる人も多いです。その多くの人が、悩みの原因は子どもや、夫や、誰か他の人のせいだと思っています。でも、自分の悩みを作りだしているのは、「自分の心」です。自分の心の外に自分に害を与える「悩み」というものが存在しているわけではありません。きっかけは「子ども」であっても、悩みを作り出しているのは「自分の心」なんです。そのため、ある人には悩みの種であっても、別の心を持った人には、「別になんてことない」なんてことがよくあります。そういう人から見たら、皆さんがいくら悩んでいても、なんで悩んでいるのか理解できないでしょう。いくら丁寧に説明しても理解してもらえないでしょう。「こうだからこうなんです」と説明しても、そもそも、その思考の論理自体が、その人の心が作りだしたその人固有のものだからです。そんなすれ違いから、夫婦げんかに発展することもあるでしょう。一般的な傾向としてですが、女性の論理と男性の論理はかなり異なっているのです。そのため、女性にとっては大問題であっても、男性にとっては「何でそれが問題になるのかさっぱり分からない」などということがよくあるのです。夫婦げんかなどでは、それで男性が人格を疑われたりするのですが、多くの場合、これは思考方法の違いであって、人格の問題とは関係がないのです。このようなことが起きる背景には「気質」の違いが存在しています。気質が異なる人は異なる思考方法を持っているからです。だから、同じ状況を目の前にしているのに、反応の仕方が異なるのです。気質が違うと、どのようなことに対して、どのように悩むのかということが違うのです。男性と女性とでは悩むところが違いますが、それは一般的な傾向として、男性と女性とでは気質が違うからです。女性同士であっても、気質が異なれば悩みのポイントも、悩み方も異なってきます。憂鬱質の人にとっては大問題でも、胆汁質の人にとっては「なんてことない」なんてことはよくあります。と言うことは、悩みを抱えた人でも、自分の視点や見方を変えれば、それまで「悩みの種」だったものが、大したことないように思えてしまったりするのです。<続きます>
2023.12.05
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最初にちょっとお知らせです。以前告知した12月10日の「自分を知るワークショップ」は、申し込み人数が少なかったため中止にさせて頂きます。年末の忙しい時期だからかも知れません。春になったら再度企画します。******************私が最近特に強く感じているのは「話し合う」ということの大切さです。私は色々なところに「親子遊び」の指導などに行っていますが、私が私の知識や技術を一方的に伝えるよりも、みんなで話し合う場を作って、みんなで考えた方が、確実に楽しくなると、参加した子どもやお母さんの学びが深くなるのです。確かに、参加して下さる皆さんよりも、私の方が「遊び」に関する知識や技術は持っています。でも、一方的にそれを伝えようとしても伝わらないし、そもそも楽しくならないのです。それよりも、みんなで話し合って、「今みんながやりたいこと」や「考えていること」を共有して、みんなで遊びを考えた方が絶対に楽しくなるのです。なぜなら、話し合うことでみんなが「主人公」になることが出来るし、お互いの気持ちを理解したり、目的を共有しやすくなるからです。私の役割は「教え、指導すること」ではなく、話し合いを通して、これからやることのイメージを共有し、みんなが自分の意志で積極的に参加できるようにリードすることだけです。そして、遊びが始まってしまったら子ども達やお母さん達に任せてしまいます。先日、宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」を基にして、大勢の親子と一緒に劇遊びをしたのですが、その時も、山猫の気持ちになって、「どうして、レストランまで作って兵隊をだまして食べようとしたのか」、「どうやったら、疑り深い兵隊をうまく食べる事が出来るのか」と言うことを子ども達に話し合わせてから大道具や小道具的なものを作って、劇遊びを始めました。普通の、幼稚園や学校などでやる演劇活動では、お話(脚本)の通りに話し、演じることが求められるのでしょうが、私がやっている「劇遊び」は、見せるためのものではなく、みんなで楽しむためのですから、上手に演じることよりも、みんなの気持ちが一つになることの方が大切なんです。みんなの気持ちが一つになって楽しめれば、原作とは異なった展開になっても「遊び」としては成功なんです。そしてこれは、普段の親子遊びの場でも、家族のつながりでも、世界平和でも同じだろうと思います。子どもに指導権を与えてしまって、子どもに振り回されているお母さんがいっぱいいます。でも、子どもはそういう状態を望んでいないので、「そうじゃないんだよ!」と、様々な無理難題を押しつけてきます。そして、ますます、子育てが辛く苦しくなっていきます。逆に、お母さんが指導権を握って、子どもを管理コントロールしようとしているお母さんもいます。でも、それが可能なのは、子どもが幼いうちだけです。子どもが成長し、自我が目覚め始めたらお母さんに反抗し始めるでしょう。そして、この場合も子育てが辛く苦しくなります。いずれの場合もお母さんと子どもの間に「話し合い」がないのです。だから、気持ちを共有出来ないし、つながることも出来ないのです。こういう状態にならないためには、子どもとよく話し合うようにすることです。その際、子どもに伝えたいことがあるのなら、まずお母さんが子どもの言葉に耳を傾けるようにする必要があります。これは子どもだけでなく大人も同じなんですが、人は自分の言葉に耳を傾けてくれる人の言葉に耳を傾けるようになるからです。皆さんは、自分の言葉を押しつけてくるだけで、こちらの言葉には耳を傾けてくれないような人の言葉を聞きたいと思いますか。そして、人は自分の考えや、気持ちや、意見を話すことで、能動的に取り組むことが出来るようになるのです。子どもは、話を聞いてあげるだけで能動的に動き出すのです。でも、多くの大人達が、子どもの言うことには耳を傾けず、一方的に子どもを従わせようとしています。だから、子ども達は能動的に動けなくなってしまっているのです。家庭でも学校でも。
2023.12.04
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「家族でつながって下さい」などと言われても、現代人はつながり方を知りません。便利な機械の登場によって、人と人がつながらなくても生きていくことが出来る社会になってしまったからです。便利な機械やオモチャがなかった昔の子ども達は一人では遊べませんでした。だから仲間を求め、「遊び」を共有することで仲間とつながろうとしました。でも、現代の子ども達は一人で遊ぶことが出来ます。また大人達は、一人で遊ばせようとしています。その方が安心だし、また手間がかからないからです。便利な機械や道具がなかった昔は、お母さん達もまた一人で家事をこなすことが出来なかったので、家族に「お手伝い」を求めたり、隣近所で助け合ったりしていました。そうやって「共有するもの」を持つことで、家族や、ご近所がつながり合っていたのです。でも、便利な道具や機械が登場することでお母さんは一人で家事をすることが出来るようになりました。でもその結果、家族同士のつながり、地域の人たちとのつながりも消えました。何かを得れば、その引き替えに何かを失うのです。問題は「そのことを自覚しているのか」ということと、「何を失ってしまったのか」ということです。でも人々は「新しく得たもの」にばかり気を取られて、「失ってしまったもの」のことは簡単に忘れてしまいます。いつも私は「人間性は、親や他の人との人間的な関わり合いを通してしか育ちません」と言っています。ではその「人間的な関わり合い」とはどのようなものなのか、ということです。そこで大切になるのが「共有する」ということなんです。言葉を共有する。喜びを共有する。食事を共有する。生活を共有する。物語を共有する。遊びを共有する。感覚を共有する。技術を共有する。文化を共有する。イメージを共有する。目的を共有する。などなどです。簡単に言うと、おいしいものを食べた時、顔を見合わせて「おいしいね」とニコッとする。一緒にお風呂に入ったとき「気持ちいいね」とニコッとする。そういう関わり合いを通して「人間性」というものが育っていく(伝わっていく)のです。この「共有する」というのは、機械相手には出来ないことです。また、指示や命令だけでつながっているような人間関係しかない場合も出来ません。「人間的な関わり合い」というものは、「伝えるもの」であって「教えるもの」ではないからです。そして、その「伝える」ということが「共有する」ということでもあるのです。親が子に「何か」を伝える時、そのことによって親と子が「何か」を共有することになるのです。お母さんが子どもに「お料理の作り方」を伝えれば、お母さんと子どもは「お料理の作り方」を共有することになります。それが「お母さんの味」でもあります。子どもは優しくされることでお母さんとの間に「優しさ」を共有することができます。だから「優しさ」を身に着けることができるのです。一日中「優しくしなさい」と怒鳴っても、決して「優しさ」は育たないのです。むしろ、「イライラ」を共有することで逆の結果になるでしょう。「言葉」は「言葉を伝え、共有してくれる人」がいるから子どもに伝わっていくのです。立派な教科書を使っていくら丁寧に教えても、「共有してくれる人」がいなければ、言葉は伝わらないのです。子どもは、一緒に食べているときに「おいしいね」と笑顔で微笑んでくれる人を通して、「おいしい」という感覚を共有し、「おいしい」という言葉の意味を理解するのです。そして、その過程で「人間らしさ」も伝わっていくのです。だから、子どもの「人間らしさ」を育てたいと思うのなら、お母さんが我が子に色々なことを伝えてあげて下さい。「教える」のではなく「伝える」のです。それは、一緒にやってみる、ちゃんと相手の顔を見て、相手の言葉に耳を傾け、相手の気持ちに寄り添わないことには出来ないことです。「何べん言ったら分かるの」というのは、「教えようとする行為」であって、「伝えようとする行為」ではありません。これは夫婦の間でも同じです。「お母さんは家事をするだけ、お父さんはお金を稼いでくるだけ」では、家族はつながり合えないないのです。結果、子どもの人間性を育てることが困難になってしまうのです。夫婦の間で、「子育て」を共有することが出来ていますか?
2023.12.03
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家族とつながれない子は友だちともつながれません。人と人がつながるためには「つながりを支えるもの」が必要になります。これは子どもでも大人でも同じです。そして、その「つながりを支えてくれるもの」を与えてくれるのが「家族」だからです。それは、言葉、遊び、感覚や感情、他者との関わり方などです。自分を表現したり、相手の表現を理解したり、相手の言葉に耳を傾ける能力も、家族との関わり合いの中で育ちます。そして、公園や保育園(幼稚園)などで、他の子と関わるようになった子は、それらの「家族との関わり合いで学んだこと」を使って、他の子とつながろうとします。家族との関わり合いを通して「日本語」を学んだ子は、初めて会う相手とも「日本語」で関わろうとしますよね。それと同じです。そして、そういうものを学ぶことが出来た子同士は、そういう「家族との関わり合いを通して学んだこと」を「つながりを支えてくれるもの」として使い、他の子とつながることが出来るのです。でも、その「つながりを支えてくれるもの」を育てることができなかった子は、他の子と良好な関係を築くことが出来ません。でも、「他の子とつながりたい」というのは子どもの本能なので、なんとかして他の子と関わろうとします。でも、その方法は自分勝手で一方的になってしまいます。それ以外の方法を知らないからです。そのため、ケンカなどが起きやすくなります。他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりする可能性も高くなります。他の子が嫌がるようなことを言ったりやったりして、排除されたりすることもあります。でも、本人にはその理由が分かりません。だから「ぼくは何にもしていないのに・・・」などとお母さんや先生に訴えます。すると、子どもをそういう状態にしてしまっているお母さんも同じ感覚なので、一方的に相手の非を咎めます。教室でもそういう状態の子を時々見かけます。自分の方から先に、他の子が嫌がることを言ったりやったりしているのに、その子が怒って何らかの反撃をしてくると「ぼくは何にもしていないのに」と訴えてくるのです。脇で見ている私は、「いや、十分やっているだろ」と思うのですが、本人にはそれが分からないのです。でもこれとは逆の、家族とつながり、「つながりを支えてくれるもの」が育っている子の方が、異分子としていじめられることもあります。「つながりを支えてくれるもの」が育っていない子同士が、「いじめ」を共有することでつながろうとすることがあるからです。その場合、イジメの対象になるのは「イジメの仲間」に加われない子です。いじめられている子の親が、そういう状態に文句を言うと、いじめている子の親同士も結託して、文句を言っている親に圧力をかけようとします。こういう場合、大人達は「どちらの方が正しい」とジャッジしようとしますが、子どもが本当に望んでいるのはジャッジではないのです。ジャッジに拘るのは大人だけです。いじめている子も、いじめられている子も、本当に望んでいることは同じなんです。それはただ、「みんなと仲良く遊びたい」ということだけなんです。それが出来ないから「イジメ」という形で遊ぼうとしてしまうのです。仲良く遊ぶ能力が育っていないから、「いじめる子」と「いじめられる子」に分かれてしまうだけなんです。大人達は「イジメは良くない、やめなさい」と言います。でも、「みんなとつながる能力」が育っていない子は、それ以外の関わり方を知らないのです。そして、子ども達はその能力を家族との関わり合いの中で育てているのです。
2023.12.02
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教室で20キロの粘土の塊をドンと置いて「自由にしていいよ」と言うと、自由保育の保育園や幼稚園に通っている子どもたちは「やったー」と言って飛びつき、殴ったり、丸めたりなどしてグチャグチャ遊びを始めます。でも、しつけやお勉強に熱心な保育園や幼稚園に通っている子は戸惑い「何を作ったらいいの」と聞いてきます。それで「好きなものを作っていいんだよ」と言うと、お茶碗などちゃんとした形があって、それが何んだか一目で分かり、「意味があるもの」を作ろうとします。正解がないと行動出来なくなってしまっているのでしょう。全員が同じように反応するわけではありませんが、そういう傾向が強いように感じます。と、これだけ読むと自由保育の保育園や幼稚園に通っている子の方が自由にのびのびと育っているように思えますが、話はそう簡単ではありません。確かに自由にのびのびと育ってはいるのですが、自由保育出身の子は、いつまでもグチャグチャ状態から抜け出すことが出来ない子が多いからです。グチャグチャ状態から抜け出すためには、束縛を引き受ける必要があるのですが、それが出来ないのです。例えば、「イス」を作るとします。その際、「自由でいいところ」と「自由ではいけないところ」があります。イスが「イス」として成り立つためには、構造的に守らなければならないところがあります。「安全性」や「座り心地」は、座る人に合わせなければなりません。これは絶対です。これが「自由ではいけないところ」です。そして、その「自由ではいけないところ」は、大人から学ぶ必要があります。好き勝手に作っているだけでは、この部分の学びが抜けてしまうのです。でもそれだけでは「面白みがない規格品のようなイス」しか作ることが出来ません。小さい時から、大人の指示で動くような教育を受けて育った人は、規格品のような生き方をする大人になる可能性が高いような気がします。それに対して、大人から学ぶことなく、子どもたちだけ群れて遊んで育ったような子は、自由なデザインで面白いイスを作るかも知れません。でも、そのイスは、見ているだけなら面白いですが、座ると危険です。<b>子どもを自由にさせるだけの保育も、子どもを指示命令だけで管理する保育も、「子どもの育ちにとって必要なもの」が何か足らないのです。</b>子どもの育ちには「(仲間との)横のつながり」だけでなく、「(大人との)縦のつながり」も必要なんです。その二つのつながりがあるから、子どもは本当の意味で自由に自分の人生を生きることができるようになるのです。それは「織り物」と同じです。まずしっかりと大人との間に「縦糸」を張ります。そこに、仲間という横糸を絡めていきます。すると、「自分の模様」を織り出すことが出来るようになるのです。その最初の「縦糸」を張るのが「家族」というつながりなんです。「家族(Family)の崩壊」はこういう所にまで影響しているのです。
2023.12.01
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