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かつて、ハンガリー東部のユダヤ人村に暮らしていた六人の裕福な家族は、少年ひとりを残し全員が煙突の煙と消えていった。一九四五年、解放されたとき十五歳になっていた少年は、自分だけが消えた家族の証であり、自分だけが家族の過酷な運命を記憶すべく、この世に残された存在だったことを知る。 その次の 第2章 の題は 「死神さん」 で、この本の主人公(?)の一人である、 「統合失調症」 を生きている 鈴木真衣さん という方の話に移っていきます。
立ち上る煙の記憶のもとで、少年はひとりつぶやくのだった。
「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください」
煙になった家族に、そして生き残った自分に、少年は語りかけている。
「ぼくは幸福になったりしませんから。けっしてしあわせになることはありませんから」
ホロコーストを生きのびた少年は、自分だけが幸福になる、とはいわなかった。しあわせにならないといったのである。そうすることで、失われたものの記憶を自らの生につなぎとめたのだった。
しあわせにならない。
あなた方を忘れないために。あなた方の死を生きるために。そしてあなた方に対して開かれているために。
この思いが、やがて時を超え、二つの大陸を超えてゆく。
そして、もう一人の若者のこころにこだまする。
アウシュビッツもホロコーストも知らないもう一人の若者は、「幸せにならない」生き方を自らの生き方とし、過疎の町に根を下ろすのであった。そこで時代を超え、状況を超えてあらわれる人間の苦悩をみつめながら、苦悩の先にもう一つの世界を見いだそうとしたのである。
覚えていますか。ぼくが浦河に行きはじめてまもなく、 1998年 にインタビューしたときに 向谷地さん から聞いたことですが、こういう話をしてくれましたね。ユダヤ人の作家のエリ・ヴィーゼルの本を読んだことがあると。その本のなかに出てくる場面です。アウシュビッツの生き残りの少年がいて、家族はみんな収容所で死んでしまったけれど、ひとり生きのびて収容所を訪れ、こういったという話です。 エリ・ ヴィーゼル という作家の 「夜」三部作 をくまなく探した 斎藤さん が、 向谷地さんは、 おそらくこのシーンを読んで立ち止まったに違いないと発見した記述の部分が本書に引用されています。
「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください。ぼくはけっしてしあわせになることはありませんから。」
この話、覚えていますか。
もちろん。
と 向谷地さん はうなずいた。横に座っていた 宣明さん も、ああその話、聞いたことがあるという。
あの話ですが、ヴィーゼルのなんという本に載っていましたか?
「夜」だったかなあ。
それが、ないんですよ。
(註: 宣明さんは向谷地さんのご子息)
この夜のことを。私の人生をば、七重に閂をかけた長い一夜えてしまった、収容所でのこの最初の夜のことを、決して私は忘れないであろう。 ご覧の通り ヴィーゼル の文章の中では、少年はつぶやかないのです。
この煙のことを、決して私は忘れないであろう。
子どもたちの身体が、押し黙った蒼穹のもとで。渦巻きに転形して立ち上ってゆくのを私は見たのであったが、その子供たちの幾つもの小さな顔のことを、けっして私は忘れないであろう。
私の〈信仰〉を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、けっして私は忘れないであろう。
生きていこうという欲求を永久に私から奪ってしまった、この夜の静けさのことを、けっして私は忘れないであろう。 (「夜」エリ・ヴィーゼル著・村上光彦訳・みすず書房・1967)
「しあわせにならない」 向谷地さんの思いこみ だったかは、さほど問題ではない。それより、ヴィーゼルの著作に触発され、 「しあわせにならない」 ということばを思い、 その言葉に強く同化してゆく向谷地さんの姿 こそが、私にとっては重要だったのである。それはいかにも ベてるの家にふさわしい、苦労の哲学の背景をなす相貌だからだ。 斎藤道雄 の二冊の著書を読みながら、ずっと考えていたことがあります。それは 一言で言えば、
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