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アジサイマネージャー アジサイに朝陽があたる ゆっくり広がる 今日も一日が始まる 顔寄せて 今日の舞台の 打ち合わせ 朝露落として ねぼすけカエルを起こしたら 葉っぱをゆらして カタツムリを動かそう さあ今日も たくさんお客さんが見に来るよ 輝く笑顔の私たちを 気持ちをこめて おもてなししよう 朝陽がさっきより広がった 今日も一日が始まるよ さあみんな 襟を正してしゃんとしよう梅雨の晴れ間。月曜の朝から輝く朝陽。それだけで嬉しくなる。今日は施設の外出日。アジサイ寺で有名なお寺に出かける。週に3回施設通所を楽しみにしているが、中でもお出かけプランはとっても嬉しい。今頃アジサイ寺ではリーダーの花がこんな風にハッパをかけていることだろう。いつだって、仕事の先には人がいる。人も、自然も、同じいのちのチャンネルを立てれば、今の輝きを共有できる。アジサイのマネージャーは庭の手入れをする人と一緒になって、一年の短い時間を最高に輝く時間を私たちに提供してくれる。見る方も、心して向き合おう。
2016.06.27

言葉が伝えられるようになって一番初めに言いたかったことば。ありがとう。それまで心で何度も唱えたけれど、直接大切な人に伝えた時の喜びは格別でした。この詩が合唱曲になって新しく誕生しました。今回はクラス合唱曲集~混声編2~に掲載されました。新作CDが届きました。佐井孝彰さんによる作曲はもう4曲目になった。いつもながら言葉にぴったりの旋律と包み込むハーモニーが繊細で美しいのでうっとりしました。佐井ワールドの和音と音の流れが始まると、日常の時間がそこだけ切り取られて幸せな気持ちになる。歌ってくれた市川市立第五中学校合唱部のみなさんがこれまた上手で感動した。中学生、すごいな~。大規模災害や悲しいことつらいことがあっても、歌を心の拠り所にして、また前を向いて歩ける力がわく曲集です。私自身がそうだったな。歌に本当に助けられた。クラスのみんなと一緒に是非歌ってほしいです教育芸術社 New Songライブラリー 混声編2クラス合唱曲集 地球誕生http://www.kyogei.co.jp/publication/new/index.html ありがとうの行き先 ありがとう ありがとう 一日何度も ありがとうという ありがとうの行き先は あなた ありがとう ありがとう 一月に何度も ありがとうという ありがとうの行き先は あなたたち ありがとう ありがとう 一年に何度も ありがとうという ありがとうの行き先は みなさん みなさんに 会ったことがなくても みなさんと 話したことがなくても ありがとうと ありがとうが つながる心の一瞬がある ありがとう ありがとう 一生に何度も ありがとうと言おう ありがとうの行き先は ありがとうが旅をして 必ずここにもどるとき みんなと一緒の 幸せがある ありがとうに ありがとう (ことばを通じてうれしかったのは、ありがとうを自分で伝えられたとき。)
2016.06.22

父の日。イベント好きの弟が代表してプレゼントを作成した。ザ・ヒーローズ。どの家族も同じだと思うけれど、特に病気や障害があるこどもがいる家庭は、父と母が元気でいてくれることがなにより大きな支えになる。私たちが在宅で生活できるのも父のおかげ。母が在宅で介護できるのも父のおかげ。今では医療費がかかるとぼやくこともあるが、それでも経済的に生活が回っているのは父のおかげだ。父が働く様子を見たことがないが、近頃では何かと仕事の話題も耳にするようになり、大変な様子を応援している。外でも、家でも、コンスタントに仕事をこなす父である。改めてありがたい。弟の作品はいろんな色のヒーローがそろっている。体調がいい時もそうでないときも、いつも父はヒーローなんだな、と思う。改めて感謝。感謝状授与の後、一年の一日は父の日。364日は母の日だなあ、と父がつぶやくのが聞こえた。(=゚ω゚)ノ
2016.06.20
私の身体性について。ブラインド・ドローイングを体験してからというもの、自分の身体となにか?とずっと考えている。体は身体なんだけど、感じる身体というのは、気持ちのありようで実は自由自在で、とらえどころがないような気もしていた。。麻痺に翻弄されている時は、きもちの身体は封印されたように閉じ込められて、本当に手も足も出なかった。言って見れば、そこにある石で。意志はあるけど固い殻は自分にはどうにもできない牢の扉みたいなものだ。文字を教わり、不随意運動の中にひょいと現れる、随意の動きを読み取ってもらう体験は、ぎぎーっと暑い扉を開く大きな感動だった。しかしそれまでも、私の身体は、ふとしたときに、自分の思いと一緒にふわりと風をつかもうとしたり、気持ちをゆっくりした腕の動きであらわしたりはしていたのだ。しかし、長いこと、自分の自由にならない体は、どこか誰かのものだった。時には肉体を形造る人間の形をした皮膚を通り抜けて、周囲の自然と一体化したし、そこに想像を参加させると身体を超えた周囲のことも自分のことのように感じた。これは今でも、そのように感じようと全身の神経を集中させるといろいろなことを感じ取ることができる。ペンをもって文字を書くとき、ペン先まで自分の手になっているのだが、ペン先を出口にして言葉は私の内面を代弁する。その時身体は静かに、精神の器として私の気持ちがあちこちの毛穴からこぼれ落ちたりしないように、しんとして控えている。通訳の人の気持ちと呼応しながらペン先に集中する筆談は、お互いの手を一点にして体の全てがペン先に集中している。その後、勝手気ままなブラインド・ドローイングをしたきは、自分という存在もあまりそこにいなくて、頭の中に浮かんでいる宇宙がそものままするすると紙に映し出される、という感じだった。その時の身体は、身体という塊でありながらもう、毛穴から染み出るエネルギーのようなものが周囲のものとの境界を目立たなくしていた。手は手でなく、ペンはペンでなく、私は私でなく、ただエネルギーだけがそこにぼわっとあるような。今では映像の作品もたくさん作られているのだし、技術も進化している。おかげで、宇宙の果てから細胞の中まで見ることができる。しかし、その、どれとも違って、肉体なんて狭くてジャマ、みたいな、すっかり忘れてしまっているような気持ちになった。同じようなことを、コンサートホールに響き渡る音楽の中で感じたことがある。体重も麻痺も忘れてすっと軽くなった私は肉体の制約をすっかり忘れて、自由にあちこちを飛び回ったのだった。もちろん、これは、集中した時の想像だろうけれど、はっと我に返った時に、いきなり身体が重くなってどっとくたびれたことも、絵の時と同じ体験だった。すると、単に皮膚で形づくられている私という肉体は、色々な状況で膨らんだり縮んだり、はたまた霧のように空中に溶けたり、水になってどこまでもしみ込んだりすることができるのだ。その感覚を、自分の身体の中だけでまとめてしまうのではなくて、何とか、共感や興味をもってくれる人と出会い、広げで行くことができるのではないかと思うようになった。私たちのように障害がとても重い者でも、広々とした自由な精神世界とうまく折り合う方法を見つけることができるのではないか。この、厳しく制限された身体の縛りの中にも、まだまだ可能性があることを、私たち自身がもっと気づいてもいいのではないかと思うのだ。誰かのもののように思っていた体は、やっぱり私のものだった。それを乗りこなすのも、やっぱり私なのだ。
2016.06.15

暑い。急に、暑い。苦手だ。カラリとするこの季節。爽やかな日はうれしい。そろそろ梅雨がやってくる。私には冬に続く脅威の季節。気圧と体のリズムがうまく合わないと苦労する。ぜいぜいがそのまま気管支喘息になりませんように。どきどきしていると、また脅威がふくらむ。 春の季節変化が鬼門なのは弟も同じだ。毎年、身体をはって頑張っている。疲れないように。睡眠を確保するように。休息をこまめに。。。。いろいろ気を配るうちに、それだけで疲れる。ここ数年、気持ちを発散するうちに安定してくる方法がアートだと発見して、以来つらい時は一つの救いになっている。先日は眠れない自分のために、大きな布に大好きな絵をかいた。身体をたくさん動かして楽しかったらしい。もちろん、即、ベッドの横に飾って熟睡した。好きなものに囲まれるのはうれしいことだ。同じように私も今年はアートに取り組んでみたい。方法は模索中だが、重度障害の私でもできる方法をみつけたい。試しに、ブラインド ドローイングにチャレンジした。名の通り、見ないで好きなように描く方法だ。会話や作業の時、動きをサポートしてもらうが、まったく一人では腕も重くてペンも持てない。それで、あらかじめ好みの色や、画面の描きはじめを伝えてから自分の動きたい方に動いてみることにした。見ないのだから楽なものだ。字と異なり、三次元の空間を好きなように動く線を追いかける。字は三次元の線を平面に拾い合わせて文字に整える作業だ。絵の線はまったく自由だった。平面に拾うのだけれど、それはたまたま平面になっているだけで私の頭の中は線がからみあって色とりどりであった。普段持つペンも、まるでペン先までが自分の手になった感じでしょうか。通訳の読み取りの手とは違って、羽の見えないハエの動きになって、行く先が予測できない。自分自身もこんなものを描こうと思うことをやめて、手の動きに付いていく線の旅。なかなか面白い。手から先に広がる自由な空間を飛び回った。でも、まあ、やっぱり疲れる。ふと、肉体を、腕を思いだすと、どっと重たい。というわけで、作品の出来上がりには時間を要しそうだ。一休み中。 この新境地。とっても楽しい。作詞と異なる自由な世界に踏み入った一歩。
2016.06.12

ユキノシタ 花言葉 軽口 軽口 ちらっと投げた言葉 返る一言に心弾む ひらひら交わす言葉 ぽんぽん投げて心躍る しゃらしゃら揺れる言葉たち 包まれていく心 同時に笑う私たち なんて楽しい たわいのない会話 会話は参加してこそ面白い。軽妙なやり取りは、聞いているだけでわくわくするが、瞬時に起きた気持ちの動きを何かしら表現すると空気の一体感が変化する。誰かと誰かが楽しそうに会話している様子を見る(聞く)だけで、何だなんだ?と興味がわく。一方でモノのようにそこにいるだけ、興味の表現も伝わらない自分も浮き彫りになる。そんな時は、かえって疎外感で苦しむときさえある。そんな時、たった一人、私に言葉を投げかけてくれる人がいるだけで会話の輪に参加することができる。その一人の架け橋のおかげで会話できない人もその場の一員になることができる。そんな体験を長いことして、今では家族のしょうもないダジャレや、ケア中に繰り広げられる昭和トークにも「えに点々」の表情"(-""-)"で突っ込み一緒に笑うことができるのだ。ユキノシタが風にゆれる姿を見た人は言葉を花びらにした人だ。
2016.06.08

せんしょう庵 新作ダンゴパフェをつつきながら・・・ 指文字でコミュニケーションをとる人が少しずつ増えている。私の住む仙台でも、少ないけれど、何人かが会話を始めている。特定の通訳の存在があっての会話である。どちらも簡単ではない。自分の気持ちを表現できた喜びを、みんな同じように味わっている。以前から本人同士が直接会話できる機会を持ちたかった。重度障害の本人が自分の言葉でやり取りするのだ。そんな機会は実はほとんど見当たらない。ずっと一人だった私も、東京の当事者の会にスカイプ参加させていただいたりするうちに、自分のことは自分でいいたいのだけれど、ほかの人はどんな考えをもっているのかずっと聞いてみたかった。太白区障害者福祉センターの喫茶、せんしょう庵にてとうとう実現した。同級生だったHくんとの茶話会だ。お互いに通訳の人を仲立ちに、色々な話をした。障害の理解や、コミュニケーション障害と向き合う生活の様々な思いがあった。心が通じるようになった喜びは共通していても、お互いにもちろん考え方も感じ方も異なっていまいした。当然といえば当然だが、こんな風に、お互いの考えを直接話しあうこと自体が初の試みで、かなり面白かった。家庭生活では通訳しながらも自分の言葉を話す母にも、今回は通訳に徹してもらった。そこらへんはだいぶお互いになれたので、通訳の存在を忘れるくらい自分の会話に集中できた。支援の人は相談員さんやヘルパーさん、専門学校の先生やその学生さんなど、立場はいろいろだけれど、皆障害が重い私たちの存在を本質的に支えようとしてくれている人ばかりで安心かつ心強いことでした。今後、コミュニケーション支援のためのへルパーさんが養成されたらどんなに生活が楽しくなるだろうと想像しながら、まずはこのように自分の言葉を出せる機会をもっと作っていくことからやってみようと思う。指談、筆談は手段である。あればとても便利だけど、その前に、私たちに思いが沢山あることを想像し、共有して、興味をもって話をしてみたいな、と思う人をたくさん見つけていきたい。同じ年齢の二人でも、男女の違い、生活の歴史の違い、環境の違い、一人ひとり違うことが面白かった。支援者の課題も伺ってためになった。一緒に考えていくことが大切だと、また思った。年に何度か、こんな会を計画していきたい。
2016.06.05
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