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お知らせです。6月17日(土)のコラボ展開催記念コンサートはおかげさまで満席になりました。ご予約いただいたお客様、ありがとうございます。よい展示になるよう、がんばります!
2017.05.31

いよいよ展示がもうすぐです。わくわく準備も着々と進んでいますよ。コラボカレンダーとポストとカードも出来上がりました切り絵と詩がとてもとてもきれいです。さすがグラフィックデザイナーのまいこさんだ(≧▽≦)来年の365日をみなさんとともに過ごせますように。。。。切り絵と詩のコラボ展「みえない手」にて3日より会場長町遊楽庵にて販売します。お楽しみに
2017.05.31

次々にアヤメが咲いている。だいじょぶ、だいじょぶ、というように。少しずつ回復している。弟はいつもがんばりやだ。がんばりすぎて、なお、回復するための休息さえも頑張っている。自分でそうしたくてできないので、本当にたいへんなのだ。全部がんばらなくてはならない。そのことをどれくらいの人が気づいてあげられているのだろう。そのことがいつも心配だ。私のように見た目にわかりやすく、見るからに支援が必要な障害とは一味も二味も違う困難だ。そこに生活している弟の世界は何ごとも繊細だ。感覚過敏の世界は、私の嘔吐発作と似ているのだろう。私達の脳が自動に調節する認知のあれこれを、努力でカバーしているのだ。疲れてくると音が鋭くなったり、見るものが目に刺さってきたり、光がまぶしかったり、考えが混乱してきたり、聞こえないものが聞こえてきたりするのだ。でも、いつもではない。落ち着いて体調のよい時は、いたってやさしく、愛すべき弟である。もちろん、体調が悪いときでも、愛すべき弟なのだ。それでも、一緒に長い時間生活をともにするものは一緒に疲れて、影響を受け、自分自身の気持ちさえコントロールできなくなる。どちらにも休息と助けが必要だ。弟は少しずつ気持ちをことばにする練習をしている。「疲れて音が気になって、おこっちゃった」「みんなに迷惑をかけた」少し前なら考えられない。成長進化しているね~!(^^)!家族や支援スタッフも、対応の技を少しずつ増やしている。こっちでだめなら、そっちでやってみたり、こんなときどうするの?と経験者に聞いてくれたりしていた。おお~っなんとうれしい。技のひとつもわかると、不安な気持ちも一つ分おちつくし、弟にとっては助けの引き出しが一人一つ分増えたということになるからね。着々と支援の引き出しは増設されている。結果、ダメージも最小だった。ありがたいことである本当は、弟が関わる全ての人々に障害の特性が理解され共有されればなんのことはなく平和に生活できるだろう。そこには障害すら存在しないだろう。でも、そんなことはありえないのだから、やぱり地道に発信しながら、ひとつひとつ解決していくしかないのだ。一つひとつの積み重ねでできた弟の引き出しはだんだん増えている。壁一面にある引き出しを、いつでも誰でも利用できるようになればいいのだ。ちょっと個性的で、ユニークな私達である。個性的で、ユニークなことが、社会にとって有益なこともある。弟の良い面をたくさん知ってもらうことと一緒に弟のつらさを少しでも減らす支援の引き出しを増やしていきたいと思っている。それはもちろん、幸せになるのが弟の仕事だからだ。
2017.05.28
連休明けから頑張っていた弟。3週間ぶっ通してがんばり、我慢の限界、パニックを起こしてしまった。見ている方も、対応する方もつらいが、一番本人がつらい。数日前から、何かとミスが増えては反省し、ここ2,3日は、自分から謝罪文を書いて来た。だんだん記憶が混ざって、すごく昔の失敗まで思い出しての謝罪文。もう、解決したから大丈夫と納得していたが、だんだん、想像した失敗まで謝まるようになっていた。疲れているのだ。大人も、疲れがたまるとミスの連発。そろそろまずいぞ、と自分で気をつけて休むようにすればいいけれど、そうできないのが弟である。障害がある弟だが、よくなりたいと努力し、パニックの後も失敗の多きさに落ち込むのだ。難しいことはわかりにくくても、気持ちや人との関係はよくわかっている。むしろ、そちらがとても敏感によくわかるから、こんな風に頑張りすぎてくたびれるのだろう。一人一人の容量は違うのだが、体調によっても変化する入れ物は、不安定だとちょっと傾けてもこぼれてしまう。大きな入れ物がどっしりしている人を、私もうらやましいと思う一方で、どっしりしすぎてものすごく頑丈なタンクに同じ水が入っていても、底の方でちゃぷちゃぷするだけで、かえって感度を鈍くすることだってあるだろう。自分で感じることに限界があるのなら、精密なセンサーをつけて、危険ブザーを鳴らせばいいけれど、人間の内面はすぐに数字で見ることができない。行動に現れるころには、心のタンクはもう一杯なのだ。では、周りのセンサーはどうなっている?の点検も必要だ。周囲の環境が自分にとって快適ならば、過ごしやすく悩みも減る。そうはいっても、いつも快適な場所しか知らなければ世界が狭くなる。楽しいことやわくわくすることで満ち、しかし危険も同じようにそこここにある社会と安全かつ充実して折り合いをつけていくのはそうたやすいことではない。それでも、異なる考え方をする人とも、可能な限り共通見出しながら、理解と協力をお願いしていくしかないのが弱者でもある。弱者であるというだけで、説得されたり、我慢ばかりしたり、数が多いというだけで多数派の意見が正解になる空間では呼吸さえ苦しくなる。様々な入れ物で容量も異なる私達。その入れ物の底の方に、小さく光るいのちの光を一つずつ持っていることを想像しながら今日の調子を見つめていくことにしよう。弟、がんばれ。じゃなくて、むりしないことをがんばれ。
2017.05.26
物事の感じ方は人それぞれだ。一つの出来事、一つの言葉、どれをとっても100人いれば100通りの感じ方がある。精神の自由を保障されていてもいなくても、何を考えるか、頭の中は自由なのだ。だから私は生き延びてくることもできた。それでも、近頃では、考えるのもだめ、というのだからとても怖いことである。日本とロシアには考えるだけで死刑になった歴史があるのだそうだ。困ったことを相談する行動が進化の一歩と考えていたけれど、タイミングよくこんな話を聞いた。小学校一年生が隣家の庭の芝桜を抜いてしまったのだそうだ。住人が警察に通報したので女の子のところにおまわりさんがきた。おとうさん、おかあさんといっしょにあやまりに行ってみると大切に育てたお花がぬかれてかわいそうで悲しかったのと、何があるかわからなくてとても怖かったので通報した、のだそうだ。謝ってくれたので被害届けは取り下げられた。お父さんがあとから「今回のことは悪いことだった。もうしないように。これからも、お前が悪い時は叱るし、一緒に相手にも謝る。どんなときもお前を守るから何でも正直に言ってほしい。教えてもらわないと守れないから」すると女の子は「怖かったけど、お父さんたちが一緒に謝ってくれてうれしかった」と言いました。こんな風に親が本気で一緒に自分のことを考えて行動してくれる人だったらとても嬉しいと思う。親によっては、そっちがわるい、と怒鳴り込んだり、ムシしたり、一緒になって噂を広めたりする人もいる。私は、自分から積極的に意地悪な行動をすることはできないが、みんなの様子を観察しては、自分の親がどんなタイプかはものすごくよく観察していた。入院中にいろいろな親といろいろな家庭があることを知れば知るほど、比較したり悩んだりしたものだ。このタイミングでこの話題は、やめておこう、とか、どんな反応でどう行動するかは、長年の体験の中でよく見ているのが子供だ。親にも人生と歴史があり、そのまた親がどんな人かによって親という人間ができている。体験をばねにする人もいれば、体験を理由に親のせいにして何も学んでいない人もいる。こどもは大人をよくよく見ている。大人も失敗するし、なさけなくってもいいのだけれど、こどもは一番に親の生き方から大きな影響を受けるし、赤ちゃんの時に感じた愛されている感じはずっと生きていくベースになる。お花の女の子は、おまわりさんに会って驚いたと思うけれど、両親の大きな愛を形で体験することができたのは幸いだ。同じように、花がなくなって、すぐに通報する不安に駆られてしまった近所の大人も、普段から地域のいろんなことを知っていればびっくりしてすぐに通報などしないでお花きれいでしょ、ちょっとおすそ分けね、ということもできたのではないだろうか。100人の考え方を全部まとめることはできない。それでも、なんとなくたくさんの人が言っていることが本当のことのようになる。少ない意見は取り上げられにくい。大きい声の人の意見が正しいような気持になる。声が大きいと違うなと思っても怖くて反対できない。みんなと同じでないと意見を言うのは勇気がいる。大人でいることを武器にして違う意見を聞かない大人は怖い。こどもにもだいぶ言い分があるのだ。大人とこどもの話し合い方も練習がいる。自分の意見を言っても、相手を否定することではないのに白か黒かにしないと間のグレーを許してもらえないのは苦しい。絶え間なく変化するグレーの中に美しさを見つける余裕もなくなってしまう。グレーの中にあるいろいろな気持ちや変化をひとつひとつ言葉にしていくのには練習が必要だ。子供たちには考える自由を上手に言葉にして、表現していく練習をしてほしい。それには、大人がお手本を見せないと。こどもは大人をよ~く見ているのだ。
2017.05.24

サカタのタネさんからおうち野菜セットが届いた。おお~っ!初めての野菜もいっぱい。なすの 夏豊作 くろぷりトマトの とてもアイコ つよまる 桃ほのか スイートドロップキュウリは 夏バテ知らずズッキーニの 夏みのるスナックとうがらしと、なんとまあ、ネーミングが楽しくて、すっかりやる気が出てきた。野菜造りはもちろん初心者の私なので、昨年メロンのころたんとトマトの大成功に気をよくして、次のチャレンジへもやる気まんまんである。わからないことばっかりでも、検索したり、すぐに教えてくれるサカタコンシェルさんもいるのでとっても心強い。045-949-8145近頃はきめ細かく、手厚くお世話してくれるサービスが多くて助かります。どんどん利用してどんどん楽しいことを増やしていこう。と、ここまではいいのだけれど。同じように、困ったときでも苦しい時にすぐ相談する人は同じようには多くないようだ。自分で何とかしようと頑張る人も多いだろうし、何をどこに、どんなふうに聞いたらいいかの方法で悩む人もいるだろうから。実は相談や窓口がいっぱいあっても、そこに辿りつけない人や、行動の一歩を踏み出せない人はたくさんいると思う。詩人といいながら、まだ半人前だと思っている私が何を言うかとも思うけれど、常々、色々な問題が起きたときに私はいつも、「あなたプロでしょ」って思う。仕事でお金をもらう人も、そうでない人も、その仕事に誇りをもって取り組んでいる人はプロだと思う。社会的には給料が多い仕事にが価値があり、安い仕事は価値が低いと判断されているが、それは一つの物差しにすぎない。効率を追い求めると、安くてきつい仕事は苦しくつらいという物差しになってしまうが、そのきつくてつらい仕事の中にも、別の物差しで見れば全く違う価値も含まれているのだ。私の生活でも、色々な職種の人と出会う。その仕事ぶりには熱意と真摯な仕事への誇りを感じるし、心のこもった仕事というのは量や時間ではなく、ほんの短い一瞬のかかわりの中にもきらりと光る感動がある。それぞれの仕事の中に、いいこともそうでないこともあるだろうけれど、一瞬いっしゅんを大切にする人の仕事はいつも素晴らしいと思う。第一、働く人の表情が生き生きとしている。仕事を通して表現しようとしているその人の生き様、姿勢が現れている。社会的に効率的ではなく、非生産的な存在の私などは、ただ生きることが仕事だと、精神論に訴えているのが、社会一般の通念の枠を出ることのない考え方の人々からは、障害者は社会のお荷物となってしまう。障害が重い私達も仕事を通して社会の一員として貢献する価値にはあこがれている。小さなことでも誰か役に立って喜ばれ、誰かを幸せにしたい。人を幸せにするのが仕事。だぶんそれが、きっと、始まりのはじまりの目的だったはずだ。あまりにも日常的に忙殺されて、仕事に支配されるかのような状況では、本当の仕事の意味なんて忘れるのかもしれない。それでも、私にはできないあらゆる仕事をしている人たち、あらゆる仕事に携われる人たちを見ていると、どんな状況でも「あなた、プロでしょ」って思うのだ。その仕事ができていること自体、素晴らしいことである。その仕事に苦しみもつきものである。その仕事を通して人を幸せにしたいと思っているひとなら、苦しみを打開する方法を見つけることをあきらめないでほしい。何も感じなくて、想像力も働かせず、ただ不満に包まれている人にも何か必ずもっとよくなる希望がある。ひとりひとりに仕事コンシェルがいるはずだ。誰がその人なのかは、きっと隠れている。わからないことを相談する、聞いてみる、行動力が誰かの幸せにつながっている。一生勉強できる人。それがプロ、一生進化できる人なのかもしれません。
2017.05.23
人生は山あり谷ありである。山ばっかりではあっという間に山頂。谷ばっかりでは光量不足。色々な景色があるから楽しいに違いない。ところが理屈でわかっていても、苦しみのさなかにいると、本当にそれしか世界がないようで、自分で自分を縛り付けてしまう。自分で打開できる苦しみなら何とかなるかもしれないが、自分にどうしようもないのが困る。私も病のど真ん中の時は、肉体から逃げることもできず、感じないようにすることもできず、本当に苦しかった。健康な人々の物差しや見ている世界とあまりにも離れているのだから、うらやむことさえ、余裕があるからできるのだとわかった。重症の障害がある私達は見えている世界が限定されている。毎日寝たきりで、ほんの少し動かせる身体と感覚が全てだ。それでも、視力がある人は頭を動かせれば遠くが見えてうらやましい。ついでに頭が動かせなくても鏡があれば自分の後ろ側だって見える。できることとできないことを突きつけられて、圧倒的にできないことだらけの自分にガッカリした。でも、よく思い出すと、それは自分の他にも他人がいて、友達ができて、面白そうなことがあることが知ったから生まれたガッカリだったなのだ。それも生まれる以前の私は、たった一人で、勝手に動く自分の身体を相手に、自分の意志では自由に動けない自分自身と格闘していた。他人は限定された数人がそれらの自動的な刺激の合間を縫って侵略してくるものだった。もちろん、最も長く時間を過ごすことになる母や家族は細切れの時間の積み重ねで、だんだんその全容を表わしてくれたけれど。それも、だいぶ、だいぶ、時間がかかった。世界の転機は、車いすで弟の保育所の運動会に連れていってもらったときだった。大勢のこどもや大人の人垣をかきわけて、母は私の車いすを最前列に出してくれた。どっちにしろ弱視の私は遠くを見ることはできないけれど、ぱっと開けた視界に沢山のこどもが元気に動いていた。それまでも障害のある子供たちの病院や、街中など、外出の経験はあったのだ。けれども、決定的に異なったのは、私の車いすに素直に近寄って珍しがった幼児たちが、「足ほそ~い。なんで歩けないの」と尋ねたことだった。母は、よせばいいのにズボンをぱっとめくって病気で歩けないから細いんだよ。でも、つれていってあげればどこへだって行けるんだよ。と答えた。わざわざ自分の足を見せるのはとても恥ずかしくて、まったく!!と思っていたが、「どこへでもいけるんだよ」の一言が、ずっとずっとず~っと高速で頭の中を駆け巡った。そうなんだ!その夜眠りにつくころには、私の住んでいる世界はいっぺんに果てしなく広く、わくわくした、とてつもなく面白い世界になっていた。私もみんなと一緒なんだと思うとうれしくて、うれしくて、たまらなかった。それからというもの、おばさんパワーでぐいぐい人前に出されたり、なんだかよく考えないで、やっちゃえやっちゃえ、というスタンスは、私という人間がちっぽけでも大切にされ、可能性を追及する自由を与えられ、障害はあるけれど、世話もかけるけれど、めんどくさいことも多いけれど、それでも堂々と生きていていいんだ、と思わせる「保障」のようになっていった。障害がない普通の元気なみんなの中で、どこへでもいけるんだ、と自分自身がやっと気がついた。健康な人のようにたくさんの選択肢がある世界からは初めから遠い。けれど、別世界ではなかったのだ。みんなが水平にたくさんの体験をするように、私は少ない体験の幅でも、上下に深く高く幅をもって生きていると思えるのだ。水平にも広く、垂直にも深く高ければどんなに豊かな人生だろう。しかし、一人の人間が全てを極めることなどできない。誰かと比較しても仕方がない。私は深く深く海の底に行ってみたり、高く高く宇宙の果てまで飛び上がったりすることができる。肉体の制限と精神の自由はいつでも、どちらにも意味があった。私は身体が不自由だったから、よけいに精神の自由に気が付いたのかもしれないし、肉体が自由でも、精神の不自由に苦しむ人もいることにも気がついた。どちらが幸せでも、不幸でもない。どちらの立場でも、幸せになれるし、苦悩もある。垂直に人生を眺めていると、縦軸のいろいろな場所に移動しながら、多層的に今の時間を感じることができる。そこにある幸せは、限定されたものではなく、自分の心持ちで、自由自在に変化することもわかった。それなら、人間が何をどのように解釈理解し、その事柄の何を見て、何を大切にしていくかは、横軸縦軸のどこにいてもその人次第でどうにでもなるのだ。山あり谷ありの人生に希望や幸せはなくならない。私の仕事は生きることなのだ。生きているだけで、すごいんだぞうううう!(^^)!泣いたり笑ったり、怒ったり、笑ったりしてなんとも忙しい毎日。どれもみんな、面白いんだぞうううう。!(^^)!
2017.05.21

すっかり園芸が好きになったわたし。施設の活動でも毎年何をそだてようかとわくわくします。今年はかぼちゃ!ひまわりの希望のたねでおなじみのサカタのタネさんから、かわいいお花の苗が届きましたサンパチェンス、、、、って初めて出会う花ですよ~。http://www.sakataseed.co.jp/special/SunPatiens/どんな花?調べてみると、な~んとさくさくどっさりたくさん花を咲かせる元気いっぱいの花らしい。かわいい夏の暑さにも強くて、大きな株になるんだって。太陽のようにかがやく笑顔 だって。いいですね~楽しみ楽しみ。育て方に書いてあったように、一つ大きな鉢に移してもらって、根っこが元気になるのを待つ。仙台も案外夏は暑いから、きっとキレイな花を咲かせるように園芸部長としては見回りを頑張ります。希望の庭が楽しいことになりそうだ(^_-)-☆
2017.05.19

爽やかな空気で、肺の中もスッキリ。やや乾燥でカスカスいいながら、痰の固さとは格闘中。あっちがよければこっちがいまいち、といつだって体調管理は本当にデリケートである。この微細を自分で伝えられるように少しなって、助かる。それでもまだ20パーセントくらいだ。ほとんどを介護者にゆだねているのが事実。今日は訪問リハビリ。毎回会話が面白い。のだけれど、気持ちが動くとつい、緊張が強くなるので、今日は血圧測定できず、、、ですみません。そんなときは、話題を移して世間話にしてもらう。すると、ふむふむ~、と集中できるので、体は自由になってくる。まだまだ、勝手に反応する脳の運動野なんだなあ、と思う。考えて命令を出すのとは違うので、何ともいうことを聞かない暴れ馬を飼っているようなものだ。自分なのに自分でない部分を持ち続けるのは案外苦労が多い。病とはそういうものだとしても、いつ暴れだすかビクビクしながら過ごす時間は休まらないものである。それでも、小さなことでも対処法をもっていると、すごく気が楽になる。というわけで、今日は重度障害がある私達大人が、どこに入院できるのか、という話題で盛り上がった。どんな病棟でも初めての患者を受け入れるのはとても難しいだろうから、何か方法を見つけて仲良くなって、相手にも安心感をもってもらうのがいいだろう。病院内を散策して、ふらっと院長室に忍び寄るとか、スタッフの知り合いから病院情報を探るとか、知らんふりして風邪ひいた~と奇襲攻撃をかけるとか。なんとも、アテにならない冗談みたいな方法ばかりだけれど、案外うまくいったりすることもあるかもしれないし、正面突破だけでは鉄の扉がばーーーーん、ということもある。あの手、この手を考える間は、楽しいし、またそこから別のアイディアが生まれることもあるかもしれない。今こうなっているから、もうダメ、と決めてしまうのが一番よくないような気がしている。まずは悩みを言いふらし、みんなにも考える道すじを一緒に考えてもらうのが第一段階なのだな。問題のありかを知らないできるのが一番よくない。知り合いの問題だと、考えてくれやすいこともあるようです。知っている人の顔が見えるからなのだろう。今日はがんのターミナルのお話を聞きながら、肺炎で急性期をどう乗り切るかの共通点がけっこう見つかった。今はがんではない私だけれど、あちこちにアンテナを張っていると、あるとき電波をキャッチする可能性もあるのだ。だから、いろんな話を聞くのは面白い。おかげで、ヘンな緊張を出さないで気持ちよいリハビリの時間となった。ちょっと、考えながらひと休みすることにしよう。
2017.05.18

元気をもらおうどこもかしこも緑きらきら花が一斉に色とりどり新芽がぐんぐんどこからかやってきた種が花を咲かせた私のところにきてくれてありがとう
2017.05.17

クレマチス 花ことば 精神の美 旅人の喜び 母の日宣言 母はただものではない 私はいつも娘でいられるのに 何役も同時にこなす その百面相は恐るべしだ こんな母いらないと思った日 人のおかあさんが菩薩のようにやさしく見えた 苦労の度になぜだか逃げ出そうともせず 根気強くかつしつこく 怒りながら立ち向かう母を見て なんとめんどくさい人だと思い いいことを言った次の瞬間 些細なことで急に気弱になったかと思うと 信じられないような立ち直り方をする 家族の困難にはどっしり構えているように見えて たぶん本当は揺れ動いているに違いない いつも娘でいた私は 少しずつ女どうしになった ずっと娘でいるけれど ずっと母と女どうしで 母の日のたびに 親子でいることを喜ぶことを誓う この世にいられることに ただものでない母と ただものでない私で精神の美をたどる旅の喜びはまだ続くのだ 母の日の朝に庭のクレマチスが一つ開いた。一人に一人ずつのお母さんは、一緒にいる人もそうでない人も、心の中にはいつもいてくれる。よい思い出だけでない人にもお母さんはいたのだ。その人が知る思い出以外のところに、あなたの知らないお母さんの思いはあったのかもしれない。家族の中でも、母親と子供というのは特別な関係だ。生まれてきてくれてありがとうというのが王道にしても、長い人生の時間ではたくさんの変化が生まれる。その時にわからなくても、時間がたってわかることもあれば、相手が変化しなくても、自分自身の心が変化していくこともある。精神世界はそのように自由なのだ。母という子にとっては絶対的な存在を前にして、近すぎてよく見えない真実が精神の旅の中ではいつか本当の真実を見せることもあるにちがいないと思う。深く、かけがえのない、人生で最も基本的な母と子という事実と、あなたとわたし以外には二つとないこの親と子の存在をまた見つめてみようと思う母の日になった。さて、弟は毎年母の日にカレーライスを作ってあげるのを楽しみな行事にしている。そろそろ、そわそわしてきた。もうすぐ居間もいい香りでいっぱいになるだろう。
2017.05.14

6月3日始まりの展示準備を進めています。タイトル みえない手 を書にしてみました。少し太い筆でたら~りと墨が垂れそうになるところを、一気に進めるのが案外いい緊張です。手の最後をなが~くするのがやりたかったところ。手と手がつぎつぎと伸びていく感じで。思ったような線がどんぴしゃ出るのは本当に一瞬のこと。あっちがよいとこっちがいまいち。となんまいも書きたいところだけれど、5枚でくたびれた。結局初めの方がよかったりする。一発勝負の集中なのかも。まいこさんの切り絵も完成して、いよいよ額装とレイアウトの準備です。新緑の緑に包まれたびすた~りの白壁と黒い柱のお店の中で、切り絵と詩がどんな人と出会うのでしょう。楽しみの前にもうひとふんばり。頑張るぞ~。
2017.05.11

連休が終わりいよいよ活動開始だ。休み中に唯一墓参りに出かけた。山の新緑がとても美しく、弱視の私でも緑の中で植物のエネルギーをたくさん吸い込んだ。一足早く母の日に花のプレゼントをした。弟はアレンジメント。私は苗を選んだ。休み中庭に植えてもらった。身近な緑もこれからぐんぐん育っていくだろう。春の芽吹きは勢いがある分、体調が今ひとつだとそのパワーに追いつけないときもある。少しずつ目覚めていく私の体調だ。春先に3度も軽い風邪をひいて、ひどくしなかったけれど、油断もできないと思っている。のんびりしたくても、そうさせてくれない世の中のスピード。ニュースにいちいち煽られる。自分で決めていいよ、と言われていても、案外考えを表明するのには勇気がいるものだ。それでも、自分が全て引き受けなくても時間は流れていく。自然の勢いはそれぞれが自分の分で全体のパワーになっている。人間も同じように太陽を浴びて自分に一番合ったペースをつかみたい。身体が教えてくれる声と、心が望む意志をバランスよくまとめていくのが私という入れ物の主人である私の仕事でもある。どっちも勝手なことを言いだすときもあるけれど、足元の花がこっそり咲いていることに気がつくくらいの余裕を大切にしたい。母の日が5月にあるのは、母親が家族の太陽で、みんなの元気の中心だから、ことしもよろしくという意味からなのかもしれません。おかあさんが元気だと一家はまわる。ちかごろため息が多い我が家の母だが、新緑パワーを受け取りながら、そこそこのスピードで走り始めた我が家。家族のバランスも大切にしたい。元気がない人に元気を注入できるくらい、自分が安定していることが案外大切なのだとも思う。今朝は風もおさまって、新緑が光っている。
2017.05.09

連休に入りました。大型の人もそうでない人も、ひといきついているでしょうか。私はカレンダー通り。なので、今日は施設に出かけます。庭の入口にマユミという木がある。かわいいピンクの実をつける、とてもかわいい木です。もともと好きなのだけど、マユミさんという看護師さんに出会ってからというもの、マユミさんの木になった。マユミさんを思い出すから、ますます大好きな木になった。弱視の私は、新芽のころ、ぼやっと緑が増えていく景色の中のマユミで、実が出てくるとケータイで写真にとってもらって、その形を見ていた。昨日、初めて枝を一本、生けてみると、その葉の形や、実の始まりの小さな子供がとてもかわいらしいことに気がついた。全体の中に、小さな一枚、一つが、今から大きくなろうと上を向いていた。新しい柔らかい緑がとても若わかしい。同時に、マユミさんの毎日の一つひとつの笑顔や声が思い出されて、実がなる前から嬉しくなった。今日も会えるな、と思うと、それだけでなんだか安心になる。全体の緑は一つ一つが集まってできている。全体の安心は一つ一つの行動が集まってできている。全体のうれしさは、一つ一つの喜びでできている。見えないつながりと安心はぼんやりした緑となって、その中にあるほんのちょっとしたコミュニケーションを支える。緑の中にマユミがあること(いることを)をもう知っている私は、多少のことがあっても大丈夫、と思える。同じように、今日出会うたくさんの一人一人にエピソードとつながりがあり、それらの網の目がどんどん詰まって、トランポリンのように柔らかく、でも、しなやかに支えられる重力を想像する。きっと今日も一日いい日になるだろう。日々のくらしには宝物が詰まっているのだ。では、行ってきます!
2017.05.01
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