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報道にも専門知識が必要な時代だ。 半可通では「恥を書く」ことになる。 その意味で出色だったのが 朝日新聞の原発専門編集委員、竹内敬二の記事だ。 彼は福島原発1号機の爆発を受けた紙面で、 実はあの原発の建設時には 「格納容器にガス放出弁はなかった」と書いている。 なぜなら「日本では炉心溶融が起こらない」という 慢心があったためで、でも 「海外の動きに押されて放出弁を導入した。 その弁が今は最悪の事態を回避する命綱になった」。 弁なしでいこうとは 「当初の事故想定がいかに甘かったか」と その杜撰さを指弾した。 これを根拠に テレビの半可通コメンテーターどもが 東電.悪者論の大合唱を始めている。 しかし福島原発は米国GE社製だ。 導入時は米国側が中を窺かせもさせなかった。 すべてブラックボックスの中だった。 日本が実力をつけ、改めて調べたら放出弁もない。 それで東電と国内メーカーが独自判断で取りつけた。「当初の事故想定」が甘いというなら それはGEの責任だろう。 いい加減な嘘を並べて世間を騒がせ、 東電叩きを煽る。 いい趣味ではない。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2017年10月31日
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天台本覚論は天台密教の帰結として、 良源によって完成された思想です。 日本天台宗の開祖、最澄さんと、 日本真言宗を始めた空海さんの 二つの仏教を統合されたものです。 本覚とは本来、悟りの知恵をもっていること。 生きとし生けるものはすべて本来仏の現れであり、 成仏できるという本性である 仏性(ぶっしょう)があるという思想。 日本で生まれた「草木国土悉皆成仏」という思想。 神仏習合の元であり、日本人の宝物です。「日本の伝統とは何か」 梅原猛 ミネルバ書房
2017年10月30日
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高度の先見性はどうして得られるのか。 それは文明史的洞察しかない。 文明史のセンスを磨(みが)いて、 現代国際社会の本質にずばりと切り込むことである。 センスの悪い人はどうしようもない。 素朴現実論者は、何よりもセンスのない人たちに多い。 文明史のセンスを磨くにはどうすればよいか。 答えは一見簡単である。 それは、 ①歴史を学ぶこと、 ②それを長期的巨視的に割り切ること、 ③ただし、過去の教訓を未来に当てはめるときの 限界を心得ることである。 そして、このようなセンスで 現代国際社会の本質に切り込むわけであるが、 その際に必要な武器が 強靭(きようじん)な「論理」である。 センスがあっても「論理」的思考力がなければ、 明快な結論が出ない。 センスがなくて「論理」のみ独走すれば、 庇理屈(へりくつ)になる恐れがある。 戦争論もそうである。 文明史のセンスがなければ、戦争の本質をまちがえる。 強靭な論理的思考を怠れば、 現状のままで何とかなるさ、という結論しか出てこない。 日本の世論の混迷ぶりは、まさにここにある。「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年10月27日
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バーカーは、ポール・ケネディと違って より伝統的な史観の上に立っている。 つまり、富んで栄えた国が武事を閑却し、 質実剛健、尚武の未開人に滅ぼされるという ローマ帝国の衰亡、平家の滅亡の史観であり、 この方が本来は人類の常識であって、 その意味ではポール・ケネディの理論は 独創的であるといえるが、 まだどこか未熟であやふやなところがあり、 多くの専門家にその弱点を突かれているのも そのためである。 現にポール・ケネディが危機感を持った レーガンの大軍拡はソ連に、 軍備競争ではとうていアメリカにかなわないと あきらめさせ、 ペレストロイカにふみ切らせて 冷戦におけるアメリカの勝利をもたらした。 当時、ケネディの理論の批判者が 「そんなことを言うのならソ連の方が先に滅ぶはずだ」 と言った通りになったわけである。 もしアメリカが中途半端なところで ソ連との競争をやめていたならば ペレストロイカもなく、 冷戦の勝利もなかっただろう。 バーカーはオランダの衰退の最大の理由として、 武事を閑却したことのほかに、 国内の党争が中央権力の 弱体化を招いたことを挙げている。 バーカーの抄訳が日本で出版された昭和七年といえば、 犬養首相が暗殺されて 日本の政党政治が事実上、終った年であり、 日本にとっても時代的な意義があったのであろう。「繁栄と衰退と」 岡崎久彦 文藝春秋
2017年10月26日
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言語は文化的人工物ではなく、したがって、 時計の見方や連邦政府の仕組みを習うようには 習得できない。 言語は人間の脳のなかに確固とした位置を占めている。 言語を使うという特殊で複雑な技能は、 正式に教えられなくても子どものなかで 自然発生的に発達する。 私たちは言語の根底にある論理を意識することなく 言語を操る。 誰の言語も質的には同等であり、言語能力は、 情報を処理したり知的に行動するといった 一般的能力と一線を画している。 これらの理由から、一部の認知科学者は 言語を「心理的能力」、「精神器官」、 「神経システム」、「演算モジュール」などと呼ぶ。 しかし、私は、時代がかった言葉ではあるが 「本能」と呼びたい。 本能と呼べば、 クモが巣の作り方を知っているのと同じような意味で、 人間も言語の使い方を知っている、 という見方が伝わりやすい。 クモの知られざる天才が 巣の作り方を発明したわけではないし、 正式な教育を受けたり、設計の才能があったり、 建設業に向いているから巣が上手に作れる というものでもない。 クモが巣を作るのは、クモの脳が巣を作れとうながし、 巣作りの能力を授けるからである。 巣と言葉では違いもあるが、とりあえず、 言語とはそんなものだと思ってみてほしい。 これから探索していく さまざまな現象を理解する役に立つからだ。 言語を本能だと考えると、世の中の常識、 とくに、人文科学と社会科学の 教科書が伝えてきた常識がくつがえる。 言語能力は人間が直立歩行するのと同じく本能で、 文化的発明ではない。 記号を操作する能力が顕在化したものでもない。 あとで紹介するように、 人間の三歳児は文法的に正しくしゃべれるが、 絵画や宗教上のイコン、交通標識などの記号体系は まったく理解できない「言語を生みだす本能(上)」 スティーブン・ピンカー 日本放送出版協会
2017年10月25日
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フランス革命は、 人類史上最も残忍な権力を誕生させた。 狂える〝残酷な暴政″をうんだ。 暴動、放火、略奪、虐殺、 暗殺、処刑、密告、没収、陰謀、 ……などのあらん限りの狂気の暴政が、 同一国家かつ同一民族内で生じたのである。 国家権力の纂奪に成功した革命家の 煽動と恐怖(テロル、殺人)下においてなされた 暴政であった。 結論を先に言えば、フランス革命とは、 「啓蒙哲学」そのものを宗教的に狂信する ならず者による、 みずからの国家に対する「侵略」、 もしくはみずからの国家に対する「纂奪」 であった、と言えよう。 フランス革命が 「侵略」と同じ性格を有するものだとすれば、 フランス全土に無法と悖徳(はいとく)とをもたらし、 また殺戮と略奪の恐怖政治(テロル)となったのは 当然であった。 また、フランス革命は、 このならず者の革命家たちによる、 伝統あるフランス王国を ルソー的な妄想上の全体主義体制の 擬似宗教国家に改造するためであった。 スローガン「自由、平等、博愛」は われわれ一般通念上のそれでもないし、 健全な政治哲学・法哲学上のそれでもない。 「自由」も「平等」もこの擬似宗教国家の 新しい「神」々であった。 信仰すべき「女神」たちであった。 だから、フランス革命によって フランス国民の“自由”は、 革命前の王制時代よりも悪化し、 むしろことごとに破壊され息たえだえとなったのである。 “平等”も同じ運命をたどり、 「法の前の平等」など革命の経過とともに まったくどこかに消えてしまい 抹殺されたごとくになった。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2017年10月24日
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漢字の発祥は確かに中国だが、 取り入れた各国で千年のオーダーで独自に発展を遂げ、 それにより国によって 形が違っている漢字はずいぶんある。 その「違い」の中に 歴史と文化が内包されているといってもいい。 その差を細かい違いといってしまえばそうだが、 その細かさが文化というものだ。 ようやく五十年の歴史しかないコンピュータで その差を区別できなくしてしまえば、 ITは文化の多様性を受け入れられないことになり、 そのITを進めていくことは 文化を失わせる結果をもたらす。 ユニコードのように 「文字を整理して統合する」という 間違った基本発想に基づいた規準で コンピュータに文字制限を行なえば、 ITは多文字文化圏の社会基盤になり得ない。 もし、それをインフラにするようなら、 後世に悔いを残すだけだ。 だが、ユニコードとはまったく別の考え方で、 すでに一九九九年九月に 一五〇万字が扱えるOSが日本に登場している。 それは、 TRONプロジェクトのBTRON仕様に基づくOS、 「超漢字BTRON」である。「情報文明の日本モデル」 坂村健 PHP新書
2017年10月23日
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現在の状況では、 我々が避けたいと願っている 戦争を新たに挑発することなく、 我々の不利を建て直す方法はない。 来年(一九三六年)の末には、 ワシントン海軍軍縮条約の 期限切れとなりそうである。 そうなると米国が、ハワイ諸島以西に 海軍基地を建設できるようになるが、 我々が、アリューシャン列島やグアム島に 施設を建設するのは、 日本への直接的な挑戦行為とみられるであろう。 米国はフィリピンの独立を認めたのだから、 その海域に海軍基地をつくるのは、 なおさら挑発的な行為と見えることを 覚悟しなければなるまい。 我が方の海軍の態勢が改善されないとしたら、 我々は最悪の条件で対日戦を戦わなければならない。 その戦争は、きっとほとんど勝負がつかないだろうが、 たとえ米国が戦争に勝っても、 巨大な出費と犠牲を要し、 何の利益にもならないであろう。 日本の打倒は、極東問題からの日本の排除を意味しない。 日本が敗北すれば、日本国内における 現在の封建的・軍事的組織は崩壊し、 恐らく動乱と政治的、社会的混乱の時代がつづくだろう。 もしかしたら共産主義化するかもしれない。 しかし、ソ連邦やドイツの例に見られる通り、 力強い国民は、(日本もそうであるが)、 敗戦や国家の屈辱で柔順になってしまったりはしない。 むしろそういう国民は、 衝動的な自尊心の念で、破壊的な影響力 ――〝有害なもの″(“nuisance value”)―― を周囲に及ぼすだろう。 それは、彼らが帝国全盛時代に行使した力に それほど見劣りはするものではないだろう。 しかし、日本の徹底的敗北は、 極東にも世界にも何の恩恵にはならないだろう。 それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、 ロシア帝国の後継者たるソ連が、 日本に代わって極東支配のための敵対者として 現れることを促すにすぎないだろう。 ゾ連は少なくとも日本と同じように 破廉恥で、無節操で危険な相手である。 こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、 その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。「平和はいかに失われたか」 ジョン・マクマリー 原書房
2017年10月20日
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国家とか経済とか家とか学校とか、 われわれの社会は、 多くの制度を生みだした。 制度とは、 何かの目的を達成するための枠組みである。 戦争も同じ制度なのだ。 その目的は、国際紛争の解決、 ということにある。 この前の大戦を、日本は、世界中を相手に戦った。 この大戦の原因を一言で言えば、 北東アジア大陸の支配権をめぐる 抗争ということになろう。 日米両帝国主義の存続にかかわる大紛争だった。 紛争は解決されなければならない。 そのままでは、国際社会は「中毒症状」におちいり、 機能しなくなる。 癌(がん)の重症患者のように、 たとえ危険度は高くても、 手術=戦争を行なうよりほかはない。 手術は実際に行なわれ、国際社会は健康になった。「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年10月19日
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歴史家。 日本の伝承を滅ぼした人。 「古事記」「日本書紀」の神話を始め、 応神(おうじん)天皇以前の記事は みんな作り事だといった人。 聖徳太子の「三教義疏」ももちろん偽書だといい、 そして「憲法十七条」すら 太子のつくったものではないというのです。 「三教義疏」は聖徳太子が 「菩薩太子」の理想に叶おうとして作られた 注釈書で間違いが多いが、 大胆な卓説がある。「日本の伝統とは何か」 梅原猛 ミネルバ書房
2017年10月18日
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英語は騒々しく非論理的な言語で、 パークウェイをドライブするくせに ドライブウエイで車をパークし、 リサイタルで演奏(プレイ)するくせに、 演劇(プレイ)のなかで暗唱(リサイト)する。 そのうえ、英語の綴りは理屈に合わない。 バーナード・ショーも、 タフのフはgh、ウィメンのィはo、 ネイションのショはtiと綴るのだから、 フィッシュもfishではなくghotiと書けばいい、 と皮肉ったではないか。 発音するとおりに綴る 論理的な方式に変えられないのは、 ひとえに政府や教育機関が怠惰だからである、等々。「言語を生みだす本能(上)」 スティーブン・ピンカー 日本放送出版協会
2017年10月17日
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ファクラーは今回の大震災でも 日本誹誘をやめなかった。 津波の被害をもろに受けた伝統捕鯨の地、 鮎川浜の壊滅的惨状をルポし 「欧米の環境保護団体ができなかった 捕鯨阻止を津波がとうとう成し遂げた」と書く。 ファクラーは知らないだろうが、 鮎川浜沖はメルヴイルの『自鯨』が棲んでいた海だ。 米捕鯨船団は太平洋を越え、 日本の海まで鯨を漁りにきた。 捕まえた鯨は生きたまま舷側に吊るして、 オレンジの皮のように皮下脂肪の層を剥き取って 丸裸にして海に捨てた。 その伝統は今もセントローレンス湾の アザラシ狩りに生き続ける。 インディアンを虐殺し黒人奴隷を使いながら 「自らを道徳的高みに置いて他者を偉そうに批判する」 と英国人歴史家C・ソーンも書いた 偽善者米国人の典型がこのファクラーだ。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2017年10月16日
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漱石の小説の中に 波瀾万丈のストーリーがあるかといえば、 そんなものは何もない。 貧乏な人人がいるかというと、 それもあまり出てきません。 大体明治末期から大正初期にかけての 日本の知的中産階級の男女が登場して、 心理的なシチュエーションのなかで いろいろな行動をするというだけなのですが、 何のへんてつもないそういう世界を描きながら、 そこに展開される人間のドラマがまことに面白い。 なるほど人間というのはこういうものかもしれないなあ、 と思わせるところがある。 私は、なぜこういう作家が生れたのだろうと、 首をかしげたのです。 われわれは、 漱石の描いているような世界の中で現に生きているのに、 そういう世界を小説に表現できたのは、漱石しかいない。 なぜ漱石だけがそういうことができて、 それ以前にもそれ以後にもあまり こういう達成がないのだろう。 日本の小説は、 むしろ漱石の衣鉢を継ぐようなところにこそ その進路を求めなければならないのではないだろうか。 なぜそれができないだろうか というようなことを考えはじめますと、 漱石という人がどういうふうに生き、 どういう思想に触れ、なにを感じ、 どうしてそれを表現するに至ったかを、 文字どおり事こまかに調べなければ 気が済まなくなってきたのであります。 これは文学に限りませんが、 およそ学問の根抵にはつとめて正確に認識し、 つとめて正確に記述するという 作業があるはずであります。 そのころ私は学問に対して それほど自覚的な方法意識を 持っていたわけではありませんけれども、 おそらく、 慶応の先生方のいい影響を受けておりましたために、 直観的にそれが大切であることを 知っていたに違いありません。「利と義と」 江藤淳 TBSブリタニカ
2017年10月13日
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ルソーは「平等」を志向するあまり結果として 人間の尊厳や道徳(美徳)がなくなる社会を 理想としたのではない。 その逆であって、人間の尊厳とか道徳そのものを憎み、 これらの存在しない社会を追求したのである。 「平等」な政治社会とは 人間が動物化された結果としての社会のことである。 だから、人間が尊厳とか知性とか徳とかの 人間であるための証であるもの一切を 遺棄もしくは喪失して「動物」と化したとき、 これをもってルソーは 「美徳ある人間」になったと 心底から感じるのである。 これがルソーの『学問・芸術論』の主旨である。 一七五〇年出版の『学問・芸術論』とは、 四年後に書きあげた 『人間不平等起源論』の前編をなすもので、 ルソーの政治哲学に関する処女作である。 ここにおいてルソーは、「学問、文学、芸術は、 人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、 ……彼らにその奴隷状態を好ませ」るものだ、 と人類の文明と不可分の関係にある学問や芸術を、 あろうことか逆転させて激越に断罪し、 人間の知性や美をことごとくゼロの水準にする 未開化とその極限をもって 人間の理想だと主張したのである。 また、仁慈や礼譲あるいは節度などの 人間の道徳(美徳)をもってこれこそが (疑心、冷酷、嫉妬、裏切り、……などの) 「悪徳」であり人間の「内的腐敗」であると、 倒錯して糾弾したのである。 つまり、ルソーは、 「戦争は平和である」など転倒語法の もう一人の名人であるレーニンと同じく、 (一般の通念上の)道徳の完全ゼロをもって 「美徳」と定義している。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2017年10月12日
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戦争は高度な文明の所産である ――それゆえ”野蛮な戦争はもうごめんだ”という主張は、 自己矛盾をはらんでいる。 戦争は野蛮な行為ではないからである。 第一次大戦と第二次大戦の戦間期に、 パシフィズムといわれる運動が、 ヨーロッパを席巻したことがあった。 パシフィズムとは「平和主義」という意味だ。 学生も労働者も野蛮な戦争はもういやだ、 絶対に銃はとらないと叫んだ。 どの国の政治家も、この運動に賛意を表した。 そうしないと、次の選挙での当選が望めなかったからだ。 失言して本心を言ってしまい、 大臣の座を追われる政治家の多い日本の現在と、 似ている。 それでは平和がもたらされたか。 歴史は皮肉なことになった。 パシフィズムは、世界史上、もっとも悲惨な、 もっとも大きな戦争をもたらした。 彼らの平和運動は、 ヒットラーの播藍(ようらん:ゆりかご)となったのだ。 なぜ、そんな馬鹿なことになったのか。 それは、一(いつ)にかかって、 全員が、戦争を野蛮な行為と誤解した点にある。 本質を誤った運動は、たいへんな副作用をもたらす。 平和をとなえ、願えば、平和がくるという、 心情的な「念力主義」は、 役にたたないだけでなく、危険だ。 戦争を、人類が生みだした最高の文明として、 とらえ直し、論理をそこから再出発させる必要がある。 「新戦争論」 小室直樹 KAPPA BUSINESS
2017年10月11日
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当時(十九世紀末=引用者注)おいても、 現在においても、 別の言語で読んだり話したりすることを学ぶために 注がれるエネルギーの量には驚くべきものがあります。 情報を伝え、効用を伝え、考えを伝え、感情を伝える。 一つの言語から別の言語へ。 それはとても感動的なことです。 たとえば、フィリピンのナショナリストたちが 十九世紀の終わりに出した通信文を 繙(ひもと)いてみましょう。 それは、スペイン語で書かれていることもありますが、 日本人に対しては英語で、 フランスの同志に対してはフランス語で、 かれらの支援者であったドイツの学者にはドイツ語で、 書かれてもいたのです。 かれらは、 懸命に世界に訴えかけようとしていたのです、 (中略)かれらは、 ビジネスのための支配的な言語の習得に 興味を持っていたわけではありません。 かれらは、他の言語集団に属する人々と 感情的なつながりを得るためにこそ、言語を習得し、 その精神世界に入り込むことを望んだのです。 これはいまでもとても重要なことです。 学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだ と考えているような人は間違っています。 そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。 本当の意味での国際理解は、 この種の異言語間のコミュニケーションによって もたらされます。 英語ではだめなのです。 保証しますよ。「日本語が亡びるとき」 水村 美苗 筑摩書房
2017年10月10日
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アメリカの政治家の考え方は、 道徳的乃至法律的原則の名において述べられ 或は主張されたことは如何なることであれ、 その原則が現状に適用し得るかどうか疑問であり 又これを遵守した實際的影響が 廣汎且徹底的なものであろうとも、 かかる原則の主唱者には何ら特別の 責任を負わせるものでないというのである。 われわれとして強要しようが、哀訴しようが、 邪魔をしようが、當惑させようが、 それは全く勝手だというのである。 もし他の國がわれわれのいうことを聞かなければ、 われわれは、世界の輿論の面前で、 彼等のぶざまな様子をあばくだけである。 他方、われわれの主張を容れたにしても、 それは彼等自身の責任においてしたことであり、 われわれとして、 その結果生ずる開越について 彼等を助けてやる義務はない。 ――それは彼等自身處理すべき間題なのだ。 このような気持をもってわれわれは十年一日のごとく、 アジア大陸における他の列強就中日本の立場に向って いやがらせをやったのであるが、 それは、われわれの原則が立派なものであるならば、 これを實行した結果が幸福であり 歓迎すべきものでない筈はないという 不動の信念に基づいていたのである。「アメリカ外交50年」 G・ケナン 岩波現代叢書
2017年10月06日
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ニュートンの時間・空間の概念では 電磁気現象を説明できないことがわかり、 ついに、一九〇五年に、 アインシュタインにより 新しい時間・空間の考え方が提唱された。 これが有名な相対性理論である。 また、今世紀にはいり、 研究対象が原子の世界にまで深められた。 そして、この極微の世界では、 ニュートン力学が適用できないことがわかった。 この世界で成立する力学として、量子力学が発見された。 ところが、量子力学は、 先験的であるとさえ信じられていた因果律が 極微の世界で成立しないことを示した。 このようにして、十九世紀物理学的自然像は 完全に崩壊し去ったのである。 この進化・発展を顧みて、とくに重要と思われることは、 先験的形式と考えられていた 時間・空間の概念や因果律は、 実は、たんに直感に根ざしたものであった、 ということである。「現代思想事典」 講談社現代新書 清水幾太郎編
2017年10月05日
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プロジェクトを立ち上げて、 これから普及というときに、 日米通商摩擦に絡んで USTR(アメリカ通商代表部)が発表した 「不公正貿易リスト」に TRONが挙げられたことがあった。 我々は「TRONはオープンなプロジェクトであり、 不公正貿易とは事実無根である」と抗議し、 USTR側も 「リストは米国メーカーから要求があったものを すべて掲載したものだ。 USTRはアメリカの企業を 外国貿易による不利益から 守るための組織である。 しかし、調査の結果、TRONは濡れ衣だった」 と認めた。 しかし、内外の企業の協力を得て、 文部省の教育用コンピュータのOSに 採用される目処もつくなど、 順調に動き出したプロジェクトは、 この一件で日本のメーカーがTRONから撤退して、 大きな痛手を受けた。 不公正貿易のリストにTRONを入れさせたのが アメリカのどの会社かはわからない。 後に米国の国家安全保障上からの要請だった という詰も聞いたが、本当かどうかもわからない。 八〇年代末から九〇年代初頭は 鉄鋼や自動車などの製造業で日本に敗れたアメリカが、 経済戦略として巻き返しを図ろうとした時代だ。 したがって、 日本にライバルとなる勢力が生まれる前に その芽を摘み取ろうと、 アメリカ企業が考えてもおかしくはない。「情報文明の日本モデル」 坂村健 PHP新書
2017年10月04日
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政権が自分の部下の不行跡を糺し、 貪官汚吏(たんかんおり)を罰するのは当然だ。 それを一般に監督責任と言う。 ところが民主党政権はその不行跡追及を公開にした。 中国の皇帝と同じに 「臣民を畏怖させる」ための公開に似ている。 その連想をさらに強めたのが 公開処刑役に中国人の血を引く蓮防が当たったことだ。 実際、彼女の発想も中国風で、 まず取り上げたのが世界一を目指すスパコン。 社保庁の無駄遣いの十分の一以下の予算なのに 「別に世界で一番でなくていい」と切り捨てた。 民主党政権という皇帝のためになるならいい。 そのほかの、 例えば日本のためになるモノなど 一切いらないということだ。 小惑星イトカワをけなげに往復した 「はやぶさ」の後継機の予算も この中国系議員は同じ理由でカットを主張した。 自衛隊も中国に脅威と思われたくないから 「増員はまかりならぬ」 「装備も近代化する必要はない」でこれも切った。 事業仕分けは国家を私物化し、 民のかまどなど考えもしない 中国の皇帝の考え方とそっくりだった。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2017年10月03日
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狂った「異端の哲学思想」は、 これまで述べてきたように、 次の三つの迷信(神話)を狂信しているもの、 もしくはこの三つの迷信を 宗教的な教義(ドグマ)化したものであるから、 健全で正しい思想つまり「正続の哲学」とは この三つを排除したものである。 判別は容易である。 つまり、次の三点をチェックすることで、 ある特定の知識人が健全か不健全(危険)か、 その思想が有益か有害か、 を判断し評価し選別することは可能となる。 a.人間の理性への過剰な信頼 (「理性主義」信仰、「合理主義」信仰)。 b.人間の完全なものへの進歩と、 未来における完全な人間社会出現に対する確信 (「未来主義」信仰、「進歩主義」信仰、 過去に対する侮蔑・憎悪教)。 c.人間の平等と大衆(人民)への過剰な価値附与 (「平等主義」信仰、人民崇拝教)。 なお、重ねて強調するが、 理性的(合理的)であることを目指すことと、 人間の理性を信仰の対象とする「理性主義」とは 似てまったく非なるものである。 「理性主義」とか「未来主義」とかは、 その本質はあくまでも〝宗教″であって、 学問でもないし哲学ではない。 それらは学問や哲学の衣をまとった、 人間の思考を麻痺させ酔乱状態に陥らせる 魔性の働きをする〝宗教″である。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2017年10月02日
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