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歩世亜さんComments
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図書館で『 クルドの夢 ペルーの家 』という本を手にしたのです。
日本の入管と言えば剛腕で知られ、また難民認定に関しては、そのシブさが特筆されるわけで・・・そのあたりが興味深いのでチョイスしたのです。
<table border="1"><tbody><tr><td width="550" height="50">
【 クルドの夢 ペルーの家 】
webp 画像につき開示できず
< 「 BOOK 」データベース >より
日本で見かける外国人とは?コンビニや工場、夜の街、肉体労働の現場で働く人々。そして、働きたくても動くことが許されない人々。日本に来た理由は、本国が不況で働く場所がなかったり、戦火に追われ逃げ延びてきたりと様々だ。本書では、国を追われながらも難民として認定されず、「仮放免」というあいまいな身分で滞在するクルド人家族と、団地に暮らし日本での居場所を探す日系ペルー人家族への取材を通して、日本で暮らす外国人と日本人とがどう共存していけばよいのかを探る。
<読む前の大使寸評>
追って記入
rakuten<a href=" https://books.rakuten.co.jp/rb/16672925/ " クルドの夢 ペルーの家 ></a></td></tr></tbody></table>
「第 1 章 “クルド難民”バリバイ一家」の「1 収容所で出会ったひとりの青年」にクルド難民一家の窮状が興味深いので見てみましょう。
</a><TABLE border="1"><TR><TD width="550" height="50">p22 ~ 27
<font color="brown"> 「埼玉に集住する在日クルド人」 </font>
歴史を振り返ると日本とは縁遠いように思えるクルド人だが、今の日本でも彼らは暮らしている。その数は、およそ 3000 人といわれる ( 日本クルド文化協会による ) 。公的な調査がおこなわれていないので、実際には何人いるのかわからない。国やじちたいによる外国人の調査では、国籍による分類がなされており、クルド人はトルコ人やシリア人にカウントされる。よって、国を持たない彼らの存在は見えにくい。
宗教も文化も違う日本にトルコからクルド人が多く集まったのは、日本とトルコが友好関係にあるからだ。日本は、戦後になってからトルコと経済的に協力関係にあり、文化交流もおこなわれ、ビザ免除措置をとっている。私たち日本人は、事前にビザを取得しなくてもトルコに入国でき、トルコから来日する人も事前にビザを取得する必要がない。
日本に暮らす 3000 人のうち、 1000 人以上が関東近郊に暮らしているという。なかでも多いのが埼玉県川口市だ。川口市は、東京都新宿区、東京都江戸川区に次いで全国で三番目に在留外国人の多い自治体である。市内に住む外国人は 3 万 9270 人で、市内人口のおよそ 6 % (2020 年 6 月時点 ) を閉める。
外国人の多い理由は、ものづくりとして栄えた市の歴史にある。川口市は、江戸時代から鋳物産業が栄え、終戦直後には鋳物生産額が全国の三分の一を閉めた。溶解炉が林立する象徴的な風景は、吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』で有名になった。鋳物の中小企業では、全国に先駆けて 1980 年代から外国人労働者の受け入れを始めている。当初は韓国籍や中国籍の人々、そして技能実習精度が導入されるとベトナム国籍などの人々来日し、川口市は多国籍タウンとなっていった。
現在、川口市の在留外国人で中国・フィリピン・韓国・朝鮮・ベトナムに次いで多いのが、トルコ国籍の人々だ (2020 年 1 月時点 ) 。このトルコ国籍の人々のなかに、トルコ出身のクルド人が多く含まれているとみられる。実際、 JR 蕨駅近くを歩くと、コンビニやスーパーで中東系の顔立ちをした人々とすれ違い、ケバブのレストランや中東料理の食品店を見つけることができる。
2「難民」になれない
<font color="brown"> 村は「地球のにおいがした」 </font>
私が収容所で面会したバリバイ・ウェラットさんも、 トルコ出身のクルド人だ。川口市内のアパートに、家族と暮らしていた。 2018 年㋄、私はウェラットさんから聞いた住所を頼りに、家族を訪ねた。
私がインターホーンを鳴らすと、花柄のスカーフを頭に巻いた母のヌリエさんがドアを開けてくれた。奥の部屋には大きな布が敷かれていて、そこに長男のワッカスさん、次男のエルジャンさん、三男のマズラムさん、次女のスザンさんが車座になっていた。
ウェラットさんは四男にあたり、五男にあたる 9 歳の弟がいることもわかった。ウェラットさんは独身だが、 20 ~ 30 代の兄や姉たちは結婚して子どもを育てており、日本での生活がずいぶんと根付いているように感じられた。
家族がまとまっていた雰囲気を、今も忘れることはできない。全員が 2 年近くも帰ってこなウェラットさんを思い、悲しみと怒りと失望と疲労の混じった目をしていた。
ヌリエさんに声をかけると、日本語のわからない彼女に代わって、息子たちが通訳をしてくれた。「自分の息子、家に帰ってきてほしいの。私の息子、何もしていない」
息子のひとりがこう付けくわえる。「ママももう年だから、いっぱいがまんができないんですよ」 53 歳だというヌリエさんは、愛する息子が収容されたことで強いストレスにさらされて体調も優れないようだった。
キッチンに立っていた次女のスザンさんが、真っ赤な色のお茶を淹れてくれる。砂糖を溶かして飲むのだと教えてくれた。トルコに住むクルド人の家庭の味だ。熱々でほんのり甘いお茶を飲みながら、スザンさんが日本語でこう言った。「日本に来ても、トルコと同じ、戦争になっているみたい。私、心、同じだよ」
来日したのは 12 年も前だという。何から聞いていいのか迷っていると、家族が来日した経緯を話してくれた。
家族が暮らしていたのは、トルコ南東部ガジアンテップ県にある小さなクルド人集落だった。父ムスタファさんは左官などの建設業をしながら羊を飼い、畑でキュウリやトマトを育てて自然と共に暮らしていた。子どもたちも協力してヨーグルトやチーズを作り、街に売りに行ったことを覚えているという。
「きれいなところでした。地球のにおいがしました。村に入るとその土地のにおいがしました」
母のヌリエさんはそう言いながら、懐かしそうに故郷で撮った家族写真を見せてくれた。樹の下で、穏やかな表情を浮かべる両親のかたわら、幼い子どもたちがじゃれ合っている。
ムスタファさんは、クルド人としての民族意識を強く持っていた。 街で親クルド政党のチラシを配ったり、息子たちにクルド民族の歴史を語ったりしていたという。そして 1980 年代以降、政府とクルド人勢力が対立するようになると、ムスタファさんたちの周辺にも争いの影が忍び寄ってくる。
1999 年の 10 月下旬、村は憲兵に襲われた。政府と対立していた PKK をムスタファさんが支援したとの理由で、家を荒らされ、ムスタファさんを含む村人 4 人が逮捕された。ムスタファさんは拘束された際、電気ショックを受けるなどの拷問を受けたという。翌年以降もたびたび憲兵から家宅捜索を受け、ときにヌリエさんも殴られて連行され、娘のスザンさんを拘留中に出産する羽目になった。
</TD></TR></TABLE>
『クルドの夢 ペルーの家』2 2026.04.26
『ウクライナ侵攻までの3000日』2 2026.04.22
『ウクライナ侵攻10の焦点』2 2026.04.16