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現代語訳論語(著者:宮崎市定|出版社:岩波書店) 書名通り、宮崎市定による、『論語』の現代語訳。 原典の本文を検討し直し、「こう言っているはずだ」という先入観を排し、無理なく解釈している。 これまでの、漢文学者や中国文学者による伝統的な解釈とは異なるものも多い。そして、なぜ、こう解釈するのか、という説明には説得力がある。 その代表が「君子」の訳だ。 例えば、「君子求諸己小人求諸人」を「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」と訓読はするが、訳は、「諸君は凡てこの成否を自分自身の責任だと覚悟して欲しい云々」と訳す。これまでの訳なら、「君子はこれこれこうすものだ」と訳すのが普通のはず。「君子」は「諸君子」のことである、と考えてこのように訳している。 今日伝わる『論語』の本文に誤りがある、という指摘もある。 『論語』全体を通して考えれば、ここはこうでなくてはならない、というのである。それもまた、時節を有利にするための牽強付会ではなく、「自分の頭でものを考えるというのはこう言うことか」と、蒙を啓かれる思いがする。 名著である。 これは、「宮崎市定全集」第4巻の一部であるという。該当の巻を前編読み通したい、という気になる。
2000.06.30
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中国に学ぶ(著者:宮崎市定|出版社:中公文庫) いわゆる「雑文集」だが、読み応えがある。 宮崎市定のものは、どれも、文章がわかりやすく、また、緻密で説得力があり、非常に勉強になる。 何といっても、決して感情的にならず、冷静で論理的なのがいい。 例えば、中国は何でも日本よりスケールが大きい、と、中国を持ち上げるようなことを書いていても、スケールが大きいことがいいとは限らないと述べ、「いま日本の政界にはやっている汚職は、中国の歴史上にも絶えず存在したが、そのスケールはすこぶる雄大なのである。」(p113)と書いている。文章のうまさもさることながら、対象を冷静に客観視しているのがよくわかり、感心する。 この本が最初に出版されたのは一九七一年で、文化大革命の真っ最中。 当時の報道を見ると、中国は、文革一色に染まっていたかのようにみえるのだが、著者は、「全部の学生が紅衛兵になってしまったのではない。」「あるいは小さい声ながら反対を叫んでいる勇士もないとは限らない。しかしそんな声は多勢の声にかきけされて外部へは洩れてこない。」(p121)という。 共産主義や、中共軍に対しても否定的で、日本での学生運動にも否定的だが、それが冷静で論理的で、説得力がある。ただ感情的に、共産党はダメだ、マルクスなど通用しない、とわめいているのとは違う。 東洋史、という点では、持論である、宋代以降が近世、という論調が見られるのは当たり前。 内藤湖南についての文章で、後から生まれた学派ほど、その祖を古い時代に求める、という説を紹介しているところが、他人の説の解説であるせいもあって、わかりやすく、説得力があり、まさに蒙を啓(ひら)かれた思いだ。(p290に詳しい説明がある) 私は、宮崎市定の本が読めることを幸せに思う。
2000.06.14
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中国の知嚢(下巻)(著者:村山吉広|出版社:中央公論新社) 『中国の知嚢』の続刊。 「孫子」「韓非子」「孟子」を取り上げ、あとは雑話。 あとがきによると、もとは読売新聞社から書き下ろしで出版したものだった。 文章は平易でわかりやすいのだが、二冊目となると気になる点がいろいろ出てくる。 たとえば、「日本の農民が「大金持ち」であることは、農村へ行って彼らの住んでいる家屋敷を見れば、すぐにわかることだ。終戦前後は闇米で都会人をさんざん泣かせた上、戦後は政府の手厚い補助金制作で幾重にも恩典を受けて生きて来ている。」(p117) などと書いている。そんなに農家がいいものなら、誰もが農家になることを目指しそうなものだが、現実には、後継者不足に悩んでいるようにしか見えないのはなぜだ。 そうかと思うと、「しかし「教育評論家」はこういう場合でも、「学校側の日頃の対応に果たして問題はなかったか?」などと、意味のわからぬことを言い、生徒の肩をもとうとしている」(p77)と言っておきながら、「孟子」を取り上げたところでは、「他人を責めるのではなく、自分の徳が足らなかったか、自分の借り方が上手でなかったか、自分の態度に落ち度はなかったかと自己反省する。」(p123)と、教育評論家と同じようなことを言っている。 著者は革新政党が嫌いなようで、「偏向した思想や現実に対する甘えは禁物である。また同時に県尉に弱いという事大主義も禁物である。ヘーゲルが言った、マルクスが言ったと言って恐れ入っていてはいけない。彼らはもはや過去の人である。」(p43)とまで言っているが、そんなことを言ったら孔子や孟子はどうなるのだ。マルクスどころではないはるかはるか過去の人だ。古典を学ぶ意義など無くなってしまうではないか。 全編を通じて、古人の言葉が現代でも通用すると言っているのに。 ただ、著者のあげる現代社会における事例というのが具体的でなく、現実感がないので説得力に欠けるところもある。 やはり、二千年も時を隔てているものを、現代にあてはめるのは、難しいのだろう。 むしろ、孔子や孟子の論理は、これこのように現代人とは異なっているのだぞ、ということを説く本を読んでみたいものだ。 著者は一九二九年生まれ。この本が最初に出版されたのは一九七五年で、五十六歳なのだが、「耳ざわりのよい猫ナデ声の政治ではなくて」(p84)と書いている。「耳ざわり」は「耳障り」で聞いた感触がよくないことなのだが、こういう人でも勘違いしているんだなあ。 また、巌流島の佐々木小次郎が若者だと思っているあたり(p37)、吉川英治の『宮本武蔵』がそのまま事実だと思っているらしい。
2000.06.07
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中国の知嚢(上巻)(著者:村山吉広|出版社:中央公論新社) 中国の古典にある名言や故事を紹介し、それが現代社会でも通用するものであると解説している。 論語、老荘、史記など出典はさまざま。 文章は平易でわかりやすい。 たいていのものは、ほかの本で読んだことがあるもののはずなのに、初めて知ったような気になる事柄が多い。情けない。 一つのシリーズとして書かれたものではないようで、章によって長さが違う。初出が書いてあれば、どういう意図で書かれたのかを知る手がかりになるのだが、それがない。 引用は、原文そのままではなく、書き下し文風の文で、仮名はカタカナ。「君子(くんし)ハ器(き)ナラズ」といったぐあい。 あとがきに、「ところどころに「書き下し文」が登場するが、これは原文のリズムをなつかしみ、あるいはいつくしむ人々のためである。」とあってちょっと驚いた。 書き下し文のリズムは、それなりに、耳に心地よいものではあるのだが、原文とは違うものだろう。 著者は中国哲学、中国文学の専門家だそうだが、訓読したものが原文と同じに感じられるらしい。おそらく、漢字だけが並んでいる原文を見ても、それが書き下し文として頭の中に入ってくるのだろう。
2000.06.03
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