全8件 (8件中 1-8件目)
1
大江戸凶状旅(著者:長谷圭剛|出版社:飛天出版) おっ、天保水滸伝か、と思って読み始めたら、天保水滸伝なのは第一章だけで、あとは、ひとまず笹川を離れてほとぼりをさますことになった繁蔵の旅物語。 題は「大江戸」だが、江戸は出てこない。繁蔵は、とりあえず江戸へ行こうとはするのだが、佐倉や成田あたりをうろうろしていて、裏切られたり助けられたり。 お約束の連続でわかりやすく、文章も平易だ。 時代劇全盛期の股旅ものを小説にしたらこんな感じなのだろか。 「七世市川団十郎改め海老蔵(えびぞう)」(p211)という文章があるのだが、団十郎から海老蔵になった人などいるのだろうか。
2000.09.27
コメント(0)
昭和国民文学全集(7)(著者:長谷川伸|出版社:筑摩書房) 「荒木又右衛門」と「まむしのお政」の2編。 大衆演劇のようなものかと思ったら、大違い。 「荒木又右衛門」は、緻密な考証を元にした実録小説とでもいうようなものだった。 考証の部分は、二字下げで著し、「~という説もあるが、ここではとらない」などと述べている。 あらましは知っていたが、大久保彦左衛門が生きていた時代であり、徳川忠長の死があった時代が背景になっていることを初めて知った。 ただ、小説としては不満が残る。 もっと「小説」に徹して貰いたかった。 特に、和吉とお沢の話は決着がつかないままに終わっている。 現実ならそういうものだろうが、この二人に関する部分は虚構なのだから、何かしら決着を付けることもできたはず。 また、又右衛門の師が柳生十兵衛ということになっているが、これは無理があるのではないか。十兵衛にも教えを受けたかもしれないが、宗矩の教えを受けたと考えた方が自然ではないだろうか。 九歳年下の十兵衛の教えを受けてこれほどの達人になったとすると、十兵衛は、ほとんど人間を超えた存在となってしまう。 「まむしのお政」は、孝女として表彰されかけたがかえって仇となって、悪女への道を進まざるを得なかった女の一代記。 お政は純真で苦況にあるものを助けてやろうとする心の持ち主であるのに、詐欺と盗みを重ねる女となってしまう。 小説としては、「荒木又右衛門」よりこちらのほうがずっと面白い。 何とかして「瞼の母」や「一本刀土俵入り」を読んでみたい。
2000.09.26
コメント(0)
新・利根川図志(下巻)(著者:山本鉱太郎|出版社:崙書房出版) 源流から利根川を下って、野田から下流。 地誌でもあるのだが、人物志でもある。 手賀沼ゆかりの白樺派の人々のエピソードや、著名人の目撃者からの聞き書きなど、内容は多岐に渡っている。 昔の街道を自分で歩いてみたり、昔のことを知っている人を捜したりすることが多いのだが、ただ古いものを懐かしがるだけでなく、新しい施設ができることも否定的に見ず、発展しつつある、という書き方をしている。 短期間に書いた本ではなく、あとがきによると二年かけたという。 そのせいか、一カ所、内容に矛盾があった。 「佐倉」の地名の由来を、p243では、「「佐」は清潔を意味し、その昔、印旛沼の水運が盛んな頃、たくさんの清潔な倉があったという。」と説明しているが、p244では、「地名の由来は狭い土地を意味する。」と述べている。
2000.09.12
コメント(0)

町屋と町人の暮らし(著者:平井聖|出版社:学習研究社) 書名通り、江戸時代の町人の暮らしぶりを主に図で描いたもの。 江戸時代の絵を使った部分も多いが、現代の研究者が描いた図も多い。 裏長屋は畳など無く、板の間にむしろを敷いて暮らしている。 値段が分かっているものについては、食べ物の値段なども書いてある。 図で、不明な部分は不明としているところには好感が持てる。
2000.09.06
コメント(0)

放送禁止歌(著者:森達也/デーブ・スペクター|出版社:解放出版社) 帯には、「岡林信康、赤い鳥、泉谷しげる」と大きな赤い字で書いてあり、それぞれの名の下に、『手紙』『チューリップのアップリケ』『竹田の子守歌』『戦争小唄』『黒いかばん』とある。「70年代フォークの魂がここにある…。」とまである。 それにつられて買ったのだが、フォーク・ソングに関する本ではなかった。メディアが、自分の頭でものを考えようとしない現実をえぐり出した本なのだ。 岡林信康の「手紙」という歌は、部落生まれの女性からの手紙という設定の歌で、「部落に生まれた」という歌詞がある。この歌ばかりではない、「竹田の子守歌」まで放送禁止扱いだったとは、この本を読むまで知らなかった。 この本を読むまで、私は「竹田」というのは九州の地名だと思っていた。歌っていた赤い鳥のメンバー自身もそう思っていたのだが、そうではなかった。京都の被差別部落だった。歌詞の中の「在所」という語が問題視され、放送されなくなったらしい。 これも、この本を読んで初めて知ったことで、一番重要なことなのだが、そもそも「放送禁止」になっている歌など存在しないのだ。誰も禁止していない。にもかかわらず、勝手に「放送禁止」だと決め込んで放送しないのがメディアの現実なのだ。 「チューリップのアップリケ」も「手紙」も、私は20年以上前にNHKラジオで聞いた。当時は、放送禁止と言われていることなど知らなかった。 NHKには、少しは自分の頭でものを考えられる人がいたのだろう。 あるテレビ番組で、この本を取り上げ、なぎら健壱にインタビューしていたが、彼の「悲惨な戦い」を最初に放送したのもNHKなら、最後に放送したのもNHKだったそうだ。 話を戻すと、部落解放同盟から圧力がかかる、というのがメディアの大義名分になっているようだが、実は、解放同盟の人たちは、「手紙」も「チューリップのアップリケ」も「竹田の子守歌」もいい歌だ、もっと知られていい歌だ、と思っている。当然、放送されたところで抗議などしないし、むしろ勝手に萎縮しているメディアに対して逆に危惧を抱いているのが現実なのだ。 差別を無くそうとするのではなく、差別に関係しそうなものはないことにしてしまおう、というのがメディアの姿勢なのである。 解放同盟の役員は言う。「要するにマニュアルや他人の判断を鵜呑みにしないで、自分自身で考えるという当たり前のことがなされていない。特にマスメディアの方々に対して、私はその思いを強く持っています」 メディアへの糾弾というのが全くなかったわけではない。しかし、糾弾に加わった者はこう言う。「メディアは誰一人として糾弾には反駁せえへんのよ。みんなあっさりと謝ってしまうんですよ。僕も糾弾の現場に居合わせたことは何度もあるけど、情けのうなってくるよ。誰一人として応戦して来えへんのやから。表現を職業に選んだ人たちが、どうしてこの肝心なときに沈黙してしまうんやって……。」 ひたすら平身低頭してみせ、嵐が過ぎさったらペロリと舌を出すメディアの本質がここに語られている。 差別ということについて、考えさせずにはおかない本である。 ただ、この本にも、瑕疵がある。 監修者ということになっているデーブ・スペクターとの対話は、アメリカでの規制の実態が語られていて興味深いのだが、彼の日本語に対する認識にかなりの誤りがある。(p121-122) 「嫁」という漢字を取り上げて、「女は家にいろと主張している」と語っているが、「家」は音符であり、「嫁」の字義は「よめ」ではなく、「娘がとついでいく」という意味だ。 また、「鯨」を取り上げ、「魚扁でしょ。この漢字を使いつづけるかぎり、鯨が本当は賢い哺乳動物という意識が日本人には定着しないんだよね」と言う。 日本人が鯨を食べるのは「鯨」という漢字を使っているからなのか? 中国語では「くじら」は「鯨魚」だ。魚扁だけでなくご丁寧に「魚」をつけている。しかし、中国が捕鯨に熱心だという話は聞いたことがない。 これでは、表層的な言葉狩りになってしまう。 また、「イルカ」を「海豚」と表記しなくなったのを、「海の豚という漢字表現はイルカに失礼だから使わなくなったわけでしょ?」などといっている。「狐」「狸」も常用漢字に入っていないというだけの理由で「キツネ」「タヌキ」と表記するのが新聞だ。「豚」は常用漢字に入っているが、常用漢字の付表「一字一字の音訓として挙げにくい語」の一覧の中に「海豚」がないから使っていないだけだ。 せっかくの好著なのに、惜しいことだ。
2000.09.05
コメント(0)
江戸情話集(著者:岡本綺堂|出版社:光文社文庫) 情話五編収録。 岡本経一の解説によれば、いずれも、歌舞伎用に書いたものを小説として書き改めたもの。 このうち、「鳥辺山心中」は歌舞伎で見たことがあるが、歌舞伎は最後の場面だけだったので、全体の話はこれを読んで初めて知った。 「籠釣瓶」「心中浪華の春雨」「箕輪心中」はいかにも芝居用に書いたものを小説にしたという感じがする。「両国の秋」は情話と言うよりは怪談に近い。 いずれも、風俗や、着物の柄など、描写が細かく、岡本綺堂の知識の確かさと、江戸の人間の情緒に基づく物語づくりに感心するばかりだ。
2000.09.04
コメント(0)
昭和国民文学全集(11)(著者:川口松太郎|出版社:筑摩書房) 「しぐれ茶屋おりく」「古都憂愁」「鶴八鶴次郎」の三編。 先の二編は、元女郎屋のおかみであったり、祇園の芸妓であったりした女性を中心に、その女性に関わりがあった人物の人生を物語る、という趣向は共通しているが、前者は向島、後者は京都ということもあり、全く類似点がない。書き方がうまいのである。 しいて類似点を探すとすれば、それまでの美が失われていくことをさびしく思うところだ。 後者は、「わたし」というのは、作者のことであり、実際にあったことを書いた随筆なのだろう、それにしては、なまめかしいな、と思っていると、「わたし」は「結城」とよばれている。自分をモデルにした男の出てくるフィクションなのである。それにしても、溝口健二や吉井勇など、実在の人物が出てくるので、ある程度は実際にあったことを元にしているのだろう。 関係者が亡くなってから、小説めかして思い出を記したもののように思われる。 「鶴八鶴次郎」は全くの小説とわかる話だが、もしかすると実話かも、と思わせるほどのリアリティがある。 作者が芸事に造詣が深いので、それにくらまされてしまうのだ。
2000.09.03
コメント(0)
新・利根川図志(上巻)(著者:山本鉱太郎|出版社:崙書房出版) 江戸末期の「利根川図志」に感動し、みずから現代の利根川図志を編もうという意気込みで、その源流から河口まで実際に足を運んだ紀行文。 著者の個人的な思い出話も散りばめられ、自分の目で見た状況が書いてある点に好感が持てる。 残念なのは、資料の出典が明記されないのが多いこと。 例えば、「ところで、江戸時代、関宿の城下町でもあった境河岸は交通の要衝であった。この周辺農家から集められた米、雑穀、茶、真岡や結城の木綿、白河や三春の煙草、会津の蝋や漆器、山形の紅花、南部の紫(植物色素)などみちのくの産物はみなここに集められ、高瀬船に乗せられて江戸へと送られた。」p318という所など、非常に興味深いのだが、どんな資料に基づくのかわからない。 巻末に索引があるのは非常に親切。
2000.09.01
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1