全25件 (25件中 1-25件目)
1
子供心に、一番待ちどうしかったのが日曜日の夜7時のHBCだった。「月光仮面」は最後の方しか見れなかったし、リアルタイムの記憶はあまりない、再放送の記憶はあるが。その後番組は「ジャガーの眼」だったと思う。これはインパクトがあった。笹竜胆はあんまりだったけれど、ジャガーがかっこよかった。あれこそが、タイガーマスクの原型ではなかったか。ストーリーはともかく、案外骨太の冒険小説が原作だったようで、子供には少し難しかったようだ。その後に始まったのが、私の一番大好きな「隠密剣士」、主役はこれまでと同じ大瀬康一だったが、その頃は忍者に夢中で、映画化されたのも観にいった。この時間帯は、その後「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「怪奇大作戦」、「キャプテンウルトラ」と続いたが、本当に楽しい時間だった。
2008.11.30
コメント(0)
当時、民放が2局しかなかったこともあり、たぶんHBCだったと思うが、午後5時から他のネット局の子供番組を放送していた。「風小僧」「紅孔雀」「少年ジェット」「まぼろし探偵」「海底人8823」「鉄腕アトム(実写版)」「鉄人28号(実写版)」などが日替わりで放送されていた。一番好きだったのは「まぼろし探偵」で、夜店でお面を買ってもらい、黄色の布を首に巻き強がっていた写真がある。「紅孔雀」の主題歌は物悲しく好きだった。アトムと鉄人の実写版には、子供でもがっかりしてしまたのを覚えている。 いづれにしろ、この時間帯は、本当のに楽しみであり、至福のひと時だった。
2008.11.29
コメント(0)
NHKのあの頃の番組では、「次郎物語」が思い出深い。ペギー葉山の歌う主題歌はほとんど覚えている。でも、暗かったなぁ、あのドラマ。あとは、「ホームラン教室」、「ポンポン大将」、「不思議な少年」、人形劇の「銀河少年隊」、全部、夢中で見ていた。あと、ケペル先生ってのもあったな。
2008.11.28
コメント(0)
私は、生まれ付いてのテレビっ子である。初代テレビっ子と言ってもいい。父が当時景気の良かった炭鉱で働いていたため、昭和30年生まれの私は、物心付いた時からテレビがあった。当時の北海道は民放が2局、TBS系列のHBCと日テレ系列のSTVだった。 これから書くのは私の頭に中に残っている記憶に基づくものなので、思い違いや間違いもあると思うが、あえて調べて確認はしない。 まず、最初に浮かんでくるのは、朝の子供番組「ぴっきいちゃん」という猿のぬいぐるみがお姉さんと掛け合っていた。テーマソングは「ぴっきい、ちゃっきい、ぴっきいちゃん、生まれは絵本の幼稚園」とかいうのだったはずだ。こういうのは、自分でも笑えるぐらいに覚えている。たぶん、このあ後番組で、愛川欣也のろばくんでおなじみの、「おはようこどもショー」が始まったのではないかと思う。 NHK教育テレビで懐かしいのは「良太の村」、テーマソングは「すすめ、すすめ、良太」とかいうのだった。NHKのお子様番組の「ブーフーウー3匹の子豚」もテーマ曲はソラで歌える。あのオオカミくんの声優さんは生まれ故郷の北朝鮮に帰ったとか聞いたが今はどうなっているのだろう。ネットで調べてみよう。
2008.11.27
コメント(3)
人口が絶頂期の10分の1以下になった夕張は、当然ながらその街の有様も大きく変った。一番の問題は、病院、市役所、ホテルなどがあった本町地区に住民が少ないことだ。現在の夕張市の中心は清水沢地区である。ここは、有名な夕張メロンの産地にも近く、千歳からの自動専用道路の入り口でもある。かっての中心地区だった本町には集合住宅が少しあるだけで住民はほんのわずかだ。、繁栄を極めた福住、高松、社光には住む人も、住宅すらない。炭鉱から観光への掛け声で作られた遊園地も、観覧車が取り壊され、朽ち果てるばかりである。 私の思い出深い旭台も福住も、今や住宅跡地を訪れることさえ出来ない草木に埋もれている。連休などに夕張を訪れると、何も無い住宅跡地を歩き回っている同年配の方々を目にする。私や彼らが欲しいのは、観光施設ではなく、昔住んでいた炭鉱住宅などの痕跡なのだ。そこを読み違えたことが、夕張の観光地化策の最大の失敗だったと私は思う。 次からは、福住と第二小学校につて、小学校時代の懐かしい思い出について書いていきたいと思うが、思い出しながら不定期に続けるつもりだ。
2008.11.26
コメント(0)
もう少し、炭鉱の、とはいっても当時の北炭の城下町について書く。およそ夕張にあった住宅は、ほとんどが炭鉱住宅であり、前述のように職員住宅と鉱員住宅に分かれていた。それぞれ地区ごとにまとまっており、例えば福住1区、住初、旭台には職員、社光、高松には鉱員、というように。幾分、職員住宅の方が広く、鉱員住宅には、長屋で便所は外で共用というものさえあった。今ではちょっと、考えられない居住環境だ。 基本的にどちらの炭住にも家風呂は無く、地区ごとに無料の銭湯が建てられていた。当然、職員用と鉱員用の銭湯も分けられていた。 小学校4年の頃だったろうか、高松地区の鉱員住宅に、かわいい同級生の女の子がいて、気になってしょうがなかった私は、用事もないのに、その娘の住むあたりをうろちょろし、そこの地区の銭湯にまで入りにいったのだった。無論、両親や、鉱員のお父さんたちには、こっぴどく怒られたが、どうして怒られるのかが、よくわからなかった。
2008.11.25
コメント(0)
夕張には、北炭と三菱大夕張の大手2社の他にいくつかの小さな炭鉱があった。しかし、最初に進出した北炭が夕張市の大部分を占めていた。各家庭の燃料は無論石炭であり、住宅は炭鉱住宅、病院も北炭が経営する炭鉱病院という炭鉱城下町では、生活費が格安だった。炭鉱を辞め、他の仕事に就いた元炭鉱マンは、生活費のかかることに驚き、また、炭鉱に戻るしかなかったのを何度も見た。炭鉱関係者が市民の90パーセント近くを占めた夕張市では、それが無くなることは市が無くなることに直結したのだ。 北炭では、従業員を「職員」と「鉱員」に分けて採用していた。この下に「組夫」という契約の下請けもあった。この「職員」と「鉱員」では組合から住宅、銭湯、給料日まで違っており、厳しく差別化されていた。小学生の頃はわからなかったが、中学になると、それにやっと気づいた。私の父は職員だったので、上から目線の発見だったのだが、これほどの差別が存在した生活が他にあったのだろうかと、今思う。 旭台は職員住宅地域であり、北炭以外では警察や教員も少し住んでいたが、引越しすることになる福住では、下の方の福住1区は主に職員、2区から6区には鉱員と住み分けされていた。
2008.11.24
コメント(0)
前述したとおり、旭台は山の上に位置していた。小学校入学前から、父の勧めでウサギを飼っていた。餌の草は、私が鎌で刈っていたのだが、ある日あやまって左のひとさし指を切ってしまった。母は私をおぶって、30分もかかる炭鉱病院まで走った。3針縫う怪我だったが、いかにも旭台は遠かった。そんな旭台で楽しみだったのは、本町にあった赤坂書店が届けてくれる小学館の学習雑誌だった。発売日には、こちらから迎えにいったほどだった。 昭和38年には夕張の人口もピークを超え、山の高い方にあった住宅から、下の方に引越しするようになってきていた。我が家も、福住という小学校に近い地区に引っ越すことになった。旭台はその後、私が高校生の頃にはほとんど住む人も無く廃れてしまった。今では、人が住んでいたとは思えない状態でエゾシカやヒグマの天下になっている。今年も、なんとか行ってみようと試みたが、近づくことさえできなかった。
2008.11.23
コメント(0)
昭和36年年当時の夕張市立夕張第二小学校は、各学年が6クラスづつあるマンモス小学校だった。校舎は山の斜面に継ぎ足しで建てられ、一番下からてっぺんまでは大人でも10分はかかるほどで、仏壇階段と呼ばれる大きな階段があった。私は、その校舎のてっぺんより、はるかに高いところにある炭鉱住宅から、30分かけて、山の中の近道を通ったのだった。担任の先生は藤田先生で、まだ若い男性だった。今、考えると相当なえこひいきではあるが、この藤田先生が、私ともう二人の男女にマリンバを教えてくれた。1年にも満たない期間だったが、楽器など弾いたこともない私にとってはうれしい経験だった。先月(平成20年10月)に夕張を訪れた際に、ここに寄って見たが、悲惨なことになっていた。廃校になって以来、学校ホテルとしてしばらくは残されていたのだが、今やガラスは割れ、悲しいことに荒らしに来る人も無く、朽ち果てても誰にも気づかれないという有様だった。
2008.11.22
コメント(0)
秋田県能代市にある有名ラーメン店は、水、土、日、祝祭日休みの忙しい我侭な店だ。休みをとって久しぶりに出かけた時のことだった。満員の店内では、相席は当たり前、4人掛けのテーブルの向かいには、私と同年輩のオヤジが後から座った。満杯の客席で目立っていたのは、20歳前後と思われる3人の派手な格好のギャル。その3人が食べ終わって、店を出た時、「キャーッツ」、「イヤーッツ」という悲鳴があがった。窓越しに見ると、彼女らの足元に10センチはある巨大な芋虫が歩いていた。なーんだ、この、バカギャルたちが、とか思っていたら、向かいのオヤジに、注文のラーメンが届いた。が、どうみてもそれは先に私が注文した「みそ大」だったので、「それ、私のですよね」と言って相手の了解を得た上で堪能した。すぐに向かいのオヤジにも届き、彼は先に食べ終えて店を出た。私も、食べ終わり勘定を済ませ店を出たその時だった。あのオヤジが、自転車で、私の前を通り過ぎた瞬間、私のほっぺたに、冷たい感触が。一瞬、何が起きたのかわからなかったが、顔をぬぐいつつ下を見たところ、そこには先ほどの芋虫が自転車につぶされて無残な姿を晒していたのだった。 人に話しても信じてもらえぬような、妙な偶然の話なんだけど、芋虫の汁をかぶったことよりも、何かの偶然の重なりが気になってしょうがなく、書き留めてみたのでした。
2008.11.20
コメント(0)
秋田県だけなのかもしれないが、国道に歩道を新たに造る工事が行われている。これが、平日の渋滞を起こす原因になっている。それは我慢するとしても、この歩道がどうしても必要とは思われないのだ。利用者がほとんどいないのに歩道を造っているのだ。これがどうにもわからない。何か法律でもあるのだろうか。誰か教えていただけないだろうか。
2008.11.19
コメント(0)
小学校入学まで、夕張の自然の中で、いっしょについて来たがる妹を撒いて、遊びまくった。近くの崖をちょっと掘るとアンモナイトのような化石がみつかった。昆虫採集というより虫取りも楽しく、とくにアリジゴクの観察がお気に入りだった。冬は、なにしろ山の上なので、竹スキーや、当時カンダハンと呼んでいたスキーやら、カマクラづくりと、寒さを忘れ遊んでいた。 そして、春が来て、夕張市立第二小学校入学ににゅうがくすることになった。
2008.11.17
コメント(0)
当時の旭台には、100戸ぐらいの世帯があったと思う。商店が1件、生協が1件。また、炭鉱住宅には風呂が無く、会社で用意された無料の銭湯が1件あった。この風呂が無し炭鉱住宅は今でもわずかに残っているが、当然銭湯が必要となるわけで、再建の大きなネックになっているとも聞く。 炭鉱の勤務形態は、24時間を8時間ずつ、交代で稼動しており、1番方、2番方、3番方と呼ばれていた。景気の良かった炭鉱でも、さすがに自家用車を持っている者はなく、誰もが1時間ほどを歩いて通勤、通学していた。道路も、クルマ1台がやっ通れるくらいの狭さだった。しかし、家庭には当時の3種の神器があり、私ももの心付いた時からテレビを見ていた。当時のテレビや雑誌やマンガについては稿を改めて書きたい。 さて、そんな旭台で4歳の私は、幼稚園にも行かず(他の子供は、大抵が大谷幼稚園か鹿ノ谷幼稚園に通っていた)、自然と遊びまくっていたのだった。
2008.11.16
コメント(0)
昭和34年、私が移り住んだ時、夕張は絶頂期だった。人口は12万人弱(一説にはそれ以上とも)、映画館、飲食店、商店街もそのピークにあり、街は活気と人であふれていた。誰も今の夕張を想像さえすることができなかった。石炭の出るヤマを中心に、炭鉱住宅が所狭しと建てられた。なにしろ、文字通りの山なので、その斜面は段々畑のように住宅が建てられ、学校もまた、斜面に何校も建てられた。あとで書くが、この住宅や学校も急ごしらえで、継ぎ足しが繰り返され、そまつなものが多かった。その為だけではないが、これらは今は朽ち果て、危険なため取り壊され、草が生い茂りエゾ鹿がうようよしている。私の移り住んだ旭台という場所も相当に高い場所にある集落だった。
2008.11.15
コメント(0)
私は、ものごころ付いたころから18歳まで夕張で育った。実際には4歳の時に生まれた赤平市から、父の転勤により移り住んだのだが、赤平の記憶はほとんど無く、やはり夕張が故郷なのだ。 秋田県は比内町出身の父は、満州の奉天というところの冶金の大学を出て、敗戦のドサクサの中、ほうほうの体で日本に帰り、当時もっとも稼げた炭鉱、北炭(北海道炭鉱汽船株式会社)に勤めた。そして、昭和29年に見合いもせず、秋田から母を嫁にもらった。そして、翌30年に私が生まれたのだ。 赤平では文教保育園というところで、お遊戯をしていた記憶ぐらいしかないが、ここも夕張と同じく、財政難に苦しんでいるという。
2008.11.14
コメント(0)
私は、今年で勤続30年になった。今日、最初の係長だった方が亡くなったとの知らせが入った。Kさんは、福島出身で朴訥でやさしい上司だった。秋田県に初めて住む私に、いろいろ教えてくださった。葬儀はあさって、ここは参列させていただく。合掌。最近、訃報ばかり聞くような気がする。そういう年齢になったということか。では。
2008.11.13
コメント(0)
私は、昭和30年に北海道赤平市に生を受けた。53歳になる今は母と二人で両親の故郷である秋田県に住んでいる。でも、私の故郷は4歳から18歳までを過ごした夕張である。 ご存知のように夕張市は財政再建団体となってしまい、住んでいた頃とは比べようも無い。昨年、今年と夕張を訪れたが、街の寂しさは感じたものの、夕張の空気がうれしかった。夕張について書きながら、これまでの自分を振り返ってみようと思う。
2008.11.12
コメント(0)
ここまで1週間、書き込んでみたが、ほとんど誰も読んでくれていないことに気づいた。なにしろ反応があったのはエロサイト数件のみ。旬の話題とか、エロっぽい話題とか有名タレントに便乗するとかしたらいいのかとも思うが、それもまた、いいのかも。 新しい日記帳に書き込むつもりで続けていきたい。で、明日からは、私の出身地で故郷でもある夕張について、自分の歴史を振り返りながら書いてみようと思う。では。
2008.11.11
コメント(0)
とにかく今どきの銭湯は我侭な客ばかりだ。ドアを開けっ放しで平気な輩、子供を連れてきたのはいいが、走らせ、泳がせ「おじさんに怒られるよ」とか言って平気な親。自分の体を洗うことに夢中で、シャワーを撒き散らして平気な輩。 銭湯の方でも苦情がくるのか、「体を洗ってから入浴してください」だの「危険ですのでお子様は走らせないでください」だの「浴槽内にタオルは入れないでください」とか張り紙だらけだ。最近増えたのは、浴槽の中で歯磨きをしている客。私はかなり不快なのだが、本人たちは平気の平左。 思うに、金を払っているのだから自宅の風呂でやっていることをやって何が悪いのかということなのだろう。大げさではなく、日本人のモラルが崩壊してきている兆しではないか。ああ、なさけない。では。
2008.11.10
コメント(0)
私はほぼ、一人暮らし状態にあることもあり、毎日仕事帰りに温泉に寄ってから帰る。温泉といっても、まあ、銭湯に毛の生えた程度のものなのだが。 そこで思うのだが、日本の誇る(?)銭湯の文化も最近では地に落ちている。各々の家に風呂が有り、銭湯など知らない世代がほとんどなので、致し方ないことかもしれない。それにしても残念なことだ。 まず、脱衣所から直接、体も洗わずに浴槽に入る輩。子供や若い連中だけでなく、いい年をしたオヤジも結構いる。どうせ浸かるんだから、そんなの関係ないとかいう方もいるだろうが、気持ちの問題である。 また、中高生に多く見られるのが、絶対に腰からタオルをはずさない輩。様相の中でもタオルを巻いたまま。オマエのあそこは先が二つに割れているのかと言いたい。誰も見てないから安心しろ。バスタオルを胸から巻いたまま浴槽に入っている中学生をみたときにはめまいがしそうだった。いや、本当にいるのです。では。
2008.11.09
コメント(0)
もう一人は、ムツゴロウこと、作家畑正憲だ。私は獣医師の資格があるので、仕事柄、彼の動物王国には喝采を送っていた。フジテレビのシリーズも録画して保存していたほどのファンだった。それが、こんなに笑いの種にされてしまうとは、猪木の時よりショックだった。 最近では、移転した動物王国の破綻以来、あまり露出がないようだが、お元気なのだろうか。 では。
2008.11.08
コメント(0)
昔、アントニオ猪木は本当にかっこよかった。中学から高校にかけて大ファンだった。力道山を知る古いプロレスファンの私にとっては、馬場ではなく猪木だった。星野勘太郎と組んだタッグリーグで優勝した時がピークだったと思う。その後、年齢と共にカリスマ性に陰りがみえ、ファンは激減した。数々の金銭トラブルと仲間割れの繰り返しがそれに拍車をかけた。さすがの私も猪木のでたらめさに愛想が尽きた。 そして、現在、猪木は笑われている。春一番やアントニオ小猪木などの物まねタレントをとおして笑われ、アントキノ猪木の登場で今は大受けである。長州小力の例もあるが、本物の猪木を知らないで笑っている若い方がほとんどではないだろうか。どうにも釈然としない。この気持ち、誰かわかってくれるだろうか。では。
2008.11.07
コメント(1)
サザエさん一家のJAのCMに違和感がある。 マス夫さんの自動車共済や、波平、フネのJA共済CMなど、どうにもぴったとこない。そんなことを考えているのは私だけだけだろうか。 だいたい、マス夫さんは早稲田卒で総合商社勤務、波平さんは中規模会社の部長クラスという設定ではなかったのか。JAとの関連がどーにもわからない。 サザエさんといえば東芝のCMキャラクターだったはずだが、いかんせん原作が古すぎて、しかも永遠に年齢が進まず、現在のデジタル電化に対応できずにいることがJAに身売りした最大の原因なのだろうか。私にとっては「リーブ21」の和田アキ子起用CM以上にマッチしないCMなのだが、いかがだろう。 では。
2008.11.06
コメント(0)
秋田はすっかり冬の始まりで、今日もみぞれや雹が降りました。職場が山の中にある私は、タイヤを冬用に換えました。 衣替えをしていて思うのですが、最近、ランニングシャツという下着が絶滅寸前です。私は若い頃から夏の下着はランニングでしたが、昨年ぐらいから、ジャスコでもあまり売っていません。 行きつけの温泉でもランニングをみかけませんし、今や私と裸の大将の山下清ぐらいしかいないのでは。ちなみに、お笑いの藤崎マーケットが着ているのは、女性用のタンクトップとかいうのだそうで、仲間には入れられません。ランニングシャツ愛好会の発足を真剣に考える初冬です。 では。
2008.11.05
コメント(0)
今日から、ひとりごとを書き始めることにした。書きたいことは山ほどある。読まれなくてもいいつもりだが、根が目立ちたがりなので、騒いでしまうことになりそうだ。 とりあえず、11月4日がブログ開始記念日ということで。
2008.11.04
コメント(0)
全25件 (25件中 1-25件目)
1

![]()
![]()