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ココその後(捻挫六日目) 今回の捻挫でココは一寸大人になったようだ。これまでのような元気に任せた無茶な走り方やわざと見せつける過激な動きはしなくなった。未だ前足の捻挫の痛さを覚えているのか、それとも簡単に治ったのがボクが無理やり口に指を突っ込んで与えた錠剤(ビタミンB12や総合ビタミン剤)のお蔭と思っているのかボクに一目置いているようだ。たまたま昨日届いた薔薇ゲートを組み立てていると何が出来上がるのだろうかと終始ジッと観察しているのだった。出来上がったゲートに近寄ってクンクンと匂いを嗅いでみたりしている。取り敢えずパティオの入口辺りに一台置いてみて紐で控えを取って固定させた。想っていたものよりも大きいので一台で充分だ。マイペースに戻って、テラスの椅子の下で寛ぐココ もう一台を組み立てようとしたら、チャンと事前に見物できるようにテラスに座ってココは待っていた。テーブルにゲートの梱包箱を置いてあるから次も同じような作業が観られるのを知っているのだ。簡単な構造のゲートだが、接点毎にいちいちビスで留めていかねばならないのが面倒くさく、暫く置いておこうとそのままにしておいた。次のゲートを置く場所は先程の場所から8mほど離れた建物の角に決めてある。急ぐこともないのだが、日差しがきつくなって来たので部屋から麦わら帽を取って来ると気が変わって直ぐに組み立てを始めた。一度経験しているので段取りが分かっているせいで、あっという間に出来上がった。 それを予定の処に設置し、庭用の麻紐で建物側とフェンス側から引っ張り固定した。アイビーや南天の葉で紐は隠れて目立たなかった。ゲートは前からそこに在ったように通路に似合って8mの通路が一つのまとまった空間になった。これで薔薇のツルが絡まって行けばパティオの手前の薔薇空間が出来上がる訳だ。一寸した小道具とアイデアでガーデニングの世界が亦広がった。残るは、花畑のフェンス側と物置の壁にラティスを張れば、そこが亦ひとつの独立した空間としてツル類の植物で楽しめる。裏の空き家の殺風景な景色も隠せ、用心も良くなるだろう。今日か明日にでもホームセンターへ畳大のラティスを5枚ほど注文して運んでもらっておこう。
2009/05/31
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捻挫その後(五日目のココ) ココは捻挫が殆ど治ったらしく食欲も出て、外へ出て遊びまわっている。ひどければ動物病院へ連れていく積もりだったのに拍子抜けする程元気になった。養生とビタミン剤が効いたのだろうか。ビタミン剤はインターネットで調べて得た情報だった。人間が一日三回飲む錠剤だからココには一日一錠で充分だと判断したのだ。ついでにボクが難聴の薬として貰っていたメチコバールというビタミンB12も飲ませた。これは高い薬だから猫には勿体無いのだが余っていたからやったのだ。ビタミン剤だから多すぎても尿と一緒に排泄されるだけだから心配はしていない。血行を良くし痛みや痺れに効くという。捻挫の痛みも取れ、マイペースに戻って来たココ 即効性のある薬ではないのに効き目があると与えた方が驚いてしまう。たまたまビタミン剤があったから与えたまでのことだが動物は元々自然治癒力で治すように出来ているのだろうからプラスアルファで相乗効果があったのだろうと思っている。最初に痛がっていた月曜の夜、以前に避妊手術を受けた動物病院に問い合わせたのだったが、ボクの帰宅した時間が遅く診察時間を越えていたので結局連れて行けなかったのだが、その時に「では、連れて行くまでの間どのようにすれば良いのでしょう」と訊くと「診ていないので何とも言えません」との女医の冷たい返事で、この獣医は動物を可愛いく思わないのだと直感して、商売でしか観ない獣医は信用ならないと判断したのだった。 結果的に行かずに済んだ訳だが、ペット(殆どが犬ばかりだが)大流行りの時代、犬なら兎も角、猫や小鳥に対しては余り神経が行き届かないのかぞんざいな扱いでは次回から行くのをためらってしまう。人間の都合でココに避妊手術を施した手前、可哀想なことをししてしまったという負い目から捻挫程度でも獣医に診てもらおうと想ったのだが、他にも沢山の獣医が居るのだから以前の犬猫病院にこだわることはないのだ。それに大きくなったココはバスケットに入れても窮屈で運ぶのも大変だ。次回、何かあった場合はその時になって考えることにしよう。起きてもいないことで思い煩うのもナンセンスだ。ココも嫌いな獣医では緊張することだろう。
2009/05/30
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工事現場の検査 小学校の増築工事現場で先日、役所の鉄筋検査があった。部位は基礎と地中梁である。役所の検査前の段取りとして、先ず二日前に鉄筋業者の自主検査があり、それを受けて元請け業者のゼネコンが検査をし、OKとなった時点で監理者(ボク)に報告し、ボクが検査をし、合格となれば役所の検査を受ける手はずになっている。連絡を受けてボクはチェックリストを片手に検査し気が付いた是正箇所を数点指示し是正がなされたのを確認して役所の検査を受けたのだった。しかし、役所の検査官が二人来て、通常、現場検査の前にある書類検査の段階で変なことを訊くのだ。鉄筋検査風景 変なこととは、適正に鉄筋が組み立てられ監理の検査を合格した証明ともいえるチェックリストと判定書があるのだが、それを見せると「この部分の鉄筋の配列の指示はどのようにしましたか?」と言うのだ。どのようにとはどういう意味なのか図り兼ね「設計図書があり建築基準法で定められている基準通りに配列し組み立てられているかどうかの確認をしましたが、どういうことでしょう?」と返事すると「いや、設計図書や法律で定められた基準ではなく、言葉で指示した具体的な内容です」「ですから、基準通りに配列して組み立てられているのを目視して確認し、合格の場合はOKを出し、不適切な箇所があれば是正するように指示するだけのことで、ご指摘の箇所は特に不具合はありませんでしたから指示はしていません」 そう答えると未だ何か言いたそうな顔をするではないか。「我々検査官は、書面と今の現場の状況しか分からない訳です。ですから指示する内容を言葉で言っただけでは記録に残らないし我々には分からないから訊いているのです」「何度も言いますが基準通り出来ていない箇所があれば当然ながら是正する為の指示は出しますが、是正箇所が無いところには指示はしませんヨ」ボクは検査官が何を言いたいのか分からず次第に腹が立ってきた。検査官の仕事は書面と現場が適正に出来ているかどうかを調べるだけのことなのに組み立て作業の工程であれやこれやと指示するものだと勘違いしているようなのだ。 まさか検査官と喧嘩する訳にも行かず、何が目的で横槍のようなことを言うのだろうと考えてみたのだが、文句のつけようが無いのが不満で何か問題を作って反応を見ているのだろうかとも考えたのだった。しかしそんなことをして何の意味があるのだろう。検査の基準から外れてしまっている。時間の無駄だ。それとも役所の工事課の女性担当者が同席しているので彼女にパフォーマンスとして自分の存在をアピールする為に演技しているのかなとも思った。木端役人が威張りたい為に意味もないことで文句を言うのであれば、お門違いも甚だしい。 書類と現場が適正になされているのが気に喰わないというのなら検査官の職を辞めるしかないのだ。それとも公共建築物の監理を民間の設計事務所に委託しているのが腹立たしいのなら役所内部で調整すべき問題だ。どうも検査官の言いたいことが分からないまま消化不良のような気分になってしまった。そういうやりとりをしながら1時間ほどで書類と現場の検査が終わって、取りあえず検査官の言う通り、設計図書の基準通りになっている旨の記録書をわざわざ作成して保管することにしたのだったが、午後からの工事課の検査で来た係長にそのことを伝えた。 「検査官からこういう指摘があって、書面に残せということで適正である旨の文面をチェックシートの他に作成しましたが、一体どういう意味なのでしょう?」と言うと彼は文面を見て、頭を抱えて「どういう積りでこんなことを言ったのか、分かりません」と考え込んでしまった。午後の工事課の検査も午前中に行われた検査官の検査と二重になるので屋上屋を重ねる無駄なものだが、その係長でさえ理解できないことを言う検査官には頭を抱えてしまうのだ。ボクは後でゼネコンの監督と一緒に笑ってしまった。「役人根性というか、役所には変な人間が沢山居ますからねえ」と呆れかえっていた。コンクリート工事風景 そして一夜明けるとコンクリート工事が早朝から始まった。約200立米の生コン(生コン車47台分)を打つのに夕方遅くまで掛ってしまった。生コンの抜き取り検査も6回行った。抜き取り検査はコンクリートの単位水量、塩分濃度、空気含有率、スランプ(崩れ方による柔らかさ度)、温度などがある。テスト・ピースも4本ずつ6回取った。基礎が出来上がれば以後の仕事はし易くなる。土も触らなくなるから仕事も綺麗になって行く。次第に標準の工期に乗りつつあって遅れていた分も夏には取り戻せそうだ。しかし、残りの階毎に亦あの検査官が来ると思うと憂鬱になる。訳の分からないことを真顔で言うのだから戸惑ってしまうのだ。ひょっとして狂っているのではないかと危惧したりする始末だ。
2009/05/29
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庭藤の花 とうに時期が過ぎた今頃、庭藤の花が咲いた。この藤はまだ小さいのでツルが伸びきらずフェンスの下の方で花を咲かせたのだ。南面の日本庭園と東面のパティオとの間の通路際だから余り目立たない場所だ。ツルが伸びてフェンスを越すぐらいになれば綺麗に目立つだろうと期待している。我が家の庭にはこれから成長期に入る若い草木が35年前に移植した成木に混じって意外と多くある。成長の過程を観るのも楽しみの一つだと思って植えたのだが、前期高齢者に入った我々夫婦で成長を楽しめるのも精々20年ぐらいなものだろう。フェンスの下に咲いた庭藤 草花は毎年楽しめるものだが樹木はそれぐらいのスパンで観れば良いとボクは割り切っている。妻は草花専門で、最近では薔薇と鉄線(クレマチス)に凝って今後はそればかりにすると言っている。その為の薔薇のゲートも注文中である。日本庭園の横に薔薇のトンネルを作りたいのだそうだ。薔薇は虫が付き易く病気にもかかり易いので絶えず管理が必要で放っておくと汚くなって茨だらけで観ていられなくなる。都心部で余り管理もせず放ってある薔薇に虫も付かず綺麗に咲いているのを見かけることがあるが案外観ていない内に消毒しているのかもしれない。が、都心部には虫も居ず病気を運ぶこともないから綺麗に咲くのではないだろうかとも思う。 リルケ(注)が、薔薇の棘に刺さって死んだというのを優雅と観るか馬鹿と観るかで薔薇のガーデニングへの気持ちも変わってくるだろう。ボクなんか草花を育てる楽しみは分かるのだが、それよりも樹木の花の方がより以上に気が向く。少々手を抜いても毎年同じように咲いてくれるからかも知れない。適当な時期に剪定し消毒し肥料をやれば必ず咲いてくれるからだ。勿論、日当たりの問題もあるが草花ほど神経質にならなくて済む。貰った蘭の鉢をデスクの上に置いて毎日観ているが、これも大変な神経を使わないと花が咲かなかったり枯らしてしまいそうでハラハラしている。貰った以上大事にするのは当然にしても咲かないと申し訳ない気がするのだ。(注)リルケは1926年10月、バラの棘に刺された傷がもとで急性白血病の徴候が生じサナトリウムに入院、同年12月29日に白血病により51歳で死去した。遺言によって墓碑銘(ラロンの墓地にあるリルケの墓)に指定された以下の詩は、「やってこい、わたしの認める・・・」ではじまる未完の遺稿とともに晩年の詩境を表すものとして名高い。Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,Niemandes Schlaf zu sein unter sovielLidern.(薔薇よ、おお純粋なる矛盾、それだけ多くのまぶたの下に、誰の眠りも宿さぬことの喜びよ)
2009/05/28
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ココの捻挫 朝、ココの部屋のドアを開けると、何時もなら飛び出して来るココが椅子の上でジッとうずくまっている。「おや!どうした?(病気かしら)」と頭をなでてやると目を細めてなされるままだ。アゴをなでると少し頭を差し出すので多少は気持ちの良さを感じている様子。抱きかかえるとニヤーとか細い声で嫌がる振りをするが、体力が落ちているので力が弱い。医者に連れて行かねばならないのだろうか?と思案しながら椅子に戻して更に身体をなでてやると嫌がる理由が分かった。右の前足が痛むのだ。そうかそうか足が痛いのかとその辺りをまさぐるとボクの手に噛み付く。何時もの自分の席(サツキに囲まれた高野槙の下)で養生するココ 弱い噛み付き方だから痛くは無いが嫌がるのでそっとして暫く様子を見ることにした。どうも捻挫をしたようなのだ。昨夜、部屋に入れる時は何とも無く元気そうだった。そういえば夜中にココの部屋でゴトッという音がしたのを思い出した。隣室がボクの寝室で、境目は押入れになっていて両方の部屋から半分ずつ利用できるようになっているのだが、両方とも建具を外して油絵用キャンバスや書棚や使わなくなったオーディオ・セットを入れているだけだから物音がベニヤの薄い仕切り壁を通して聞こえるのだ。今思えばココが滑り落ちた音だったらしい。サルも木から落ちる例えで油断して高い処から滑り落ちて前足をしたたかに打ちつけたらしい。 骨折はしていないようだし捻挫なら死ぬことはない。餌も一日ぐらい食べなくても大丈夫だ。そんなココの様子を妻に伝え、そのまま仕事場へ出かけ、夕方帰宅するとココは大人しく自分の部屋の椅子に寝ていた。「昼間は庭に出たいというので出してやると、前足をいたわりながら歩いていたワ」ということだった。腹が減っているだろうと煮干雑魚を5、6匹やるとむしゃむしゃと食べた。食欲が出てくれば大丈夫だ。喉も渇くだろうとミルクをやると少し飲んだ。ついでに総合ビタミン剤を一錠無理やり飲ませた。おてんば娘も形無しだ。自分でも無様な姿をさらして恥ずかしいのかジッとしている。 ところが、暫くすると雑魚かミルクか、それともビタミン剤が利いたのか自分で部屋を出て階段の前でボクを振り返り、庭に出たそうな顔をするのだ。ボクが立ち上がると自分の足で階段を降り、書斎を通り抜け、吐き出し窓の前まで行った。網戸をあけてやると何時もの指定席である高野槙を取り囲んだサツキの中に入って行った。そこを携帯デジカメで撮ったのだが、PCに取り込んでトリミングしてみると矢張り痛そうに前足をかばっているのが分かる。10日ぐらいはビッコを引きながらの生活になるだろう。毎日のようにトカゲや獲物を捕り廻っていたのも中休みすれば亦獲物が増えて、次回は思い切り走り回れるから辛抱することだ。
2009/05/27
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ドラセナの花 観葉植物の一種のドラセナが紫の花を咲かせている。ドラセナにも色々な種類があって4mほどの高さになるものもある。その花は白くて甘酸っぱい香りが漂いアブやハチが寄ってくる。が、このドラセナは玄関の横で日当たりが悪く鉢植えということもあって大きくはならない代わり、毎年ひっそりと清楚な花を咲かせてくれる。隣のカポックも同じぐらい長く我が家に在る鉢植えだが、同じ場所に年がら年中在るせいで何となく雰囲気に溶け込んで、それなりに繁っている。繁り過ぎると適当に剪定して、玄関先を何時もスッキリした状態にしている。玄関横に咲いたドラセナの花 下の瓶は鉢のカバーとして使ったり水瓶として置いたりしている。庭木にホースで水を撒く場合、小さな木にはきつ過ぎる時に、ひしゃくで水遣りをしたりするのに水瓶は便利だし、夏場はホテイアオイの花が綺麗なので浮かべておいたりする。水があると緑が綺麗に見える効果があり、出来れば流れる水や水琴窟があれば良いのが、水琴窟を作るとすればデザイン的にどうしたものかと迷ってしまう。玄関の床タイルをめくるのも面倒だし、前栽に作るとしても場所の選定に迷ってしまうのだ。それに水を曳くパイプの工事もせねばならない。水を貯めておいて電動ポンプでチョロチョロと巡廻させるのも良いかもしれないが、兎に角、今は思案中である。 和風の雰囲気といっても洋風が多少入っているから、玄関や前栽には東洋のエスニックな、せめてエジプトまでのアジアの雰囲気が出せれば良いと思っている。だから壁には砂岩か陶板のレリーフでも掛けようかと妻と話し合っている。先日、心斎橋のデパートの園芸コーナーに良いのがあったと外出先から帰ってきてそんなことを言っていた。ボクは最近、心斎橋の方には行かないので機会があればブラリと出かけて見に行っても良いのだが、わざわざ出掛けるのであれば折角のことだし一寸飲みに行きたくなりそうだ。が、先日は羽目を外したばかりだし暫くは自重しておこう。変なのに引っかかってもつまらない。
2009/05/26
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鉄筋工事(2) 市から仕事を貰っているくせに市の悪口を書いていると言う人も居るかも知れない。しかし、仕事を貰っているという発想自体おかしなことで、法に定められた検査を役人であれ民間企業であれ有資格者が行うことは正規の手続きであり民主主義の社会では当たり前のことだから仕事を貰うという言い方は間違っている。そういうことなら裁判で弁護士が行う業務は役所から仕事を貰っているということになってしまう。勿論、国選弁護士という立場もあるがそれは僅かな手当てで弁護士としての一種のボランティアのような業務で決して役所(法務省)から仕事を貰っている訳ではない。基礎と地中梁の鉄筋組み立て作業 第一、役所の人間では手が一杯で出来ない分野(設計や監理)の業務を民間企業に委託するのは今の時代当たり前のことで、これを逆行して昔のように役所の人間だけでやるとすれば社会は機能しなくなってしまう。役所でこなせる仕事を1とすれば外部の民間企業に委託する業務は10はあるだろう。土木設計の場合はコンサルタント会社に全面委託だし建築も土木も工事に関しては全面委託しないことには仕事が回らない。工事は昔からそうだから別にしても設計や監理も今や外注しないことには役所の業務は機能しなくなっている。その代り自分達の仕事を委託するのだから審査をする。 その方法としてヒアリングやプロポーザルという形をとり判断するのである。その結果、大丈夫という設計事務所に委託する。別の方法では入札方式があるが、設計の入札にも談合というのがよくあったことから今では電子入札という方法で決めるから談合がしにくくなった。その代り逆にダンピング入札をする設計事務所が現れて困った現象も出ている。そういう不健全な経営をしている設計事務所は早晩倒産してしまうから後始末が大変なのだ。入札にしろプロポーザルにしろ一旦業務委託したからにはプロとしての業務を遂行するのは当たり前なのだが倒産してしまえばどうしようもないのだ。 だから入札よりも最初から選定しておいた数社にプロポーザルさせた方が安心なのだ。そのお蔭で暇が出来、人員過剰になった役所の工事課がわざわざ契約検査課とは別に検査にやってくる。そに無駄を感じるのである。悪くすれば、その為に日程調整をしたり待機期間が出来てしまえば無駄を重ねることになってしまう。現場中心ではなく役所の都合中心となれば誰の為の役所なのかということになってしまう。サービス機関が逆にサービスを求める機関になってしまうのだ。サービスを求める代わりに不遜な態度となって業者に尊大に接する。それは市民に卑屈になっていることへの反動なのかも知れない。 市民にだけサービスをするというのは業者は市民ではないというようなものだ。だから業者は内心、役所の上げ足をとったり詐欺まがいのことを平気でやるのだろう。ひとえに役所の姿勢がそういう結果を生んでいるということである。先日もそういう事件があった。悪質な業者が前渡金が支払われた段階で会社を倒産させた事件だった。前渡金は施工業者が市の工事を落札して工事請負契約を交わすと支払われるものだ。契約額の40%が出るのである。仮に3億円の工事だと1億2千万円もの金が支払われる。業者の下請け業者や取引業者への保証金の役割をする金である。役所が業者にしてやられた事件だった。 しかし、当然ながら保証金が流用されない為の歯止めが利かなかった点では役所の怠慢が指摘されるのは当然だ。業者の経営体質もだが日頃から暇な担当者や無駄な検査をする人間が業者の評価をしなかったことや体質を見抜けなかった点では役所の人間が何をしていたのかと問われ、市民の血税を安易に使ったことへの批判が出るのも当たり前だろう。それだけに業者とは付かず離れずで接して決して癒着にならない関係を保つべきだ。その点、設計事務所は設計料も知れているから事故や事件になることは少ない。ダンピング入札が行われれば調査し保証を取るだけの労を惜しまないことだ。威張っている間があればそういう努力をすべきなのである。
2009/05/25
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鉄筋工事 ようやく工事現場も一般の建築工事現場らしくなってきた。建築の工事現場らしいというのは、目に見える姿がそこにあるということである。これまで地下の中に隠れているものばかりだった。今日の工事風景は、基礎と地中梁の鉄筋組み立てである。四階建ての建物だから鉄筋工事は残りの一階から四階までを入れると5回ある。その都度、監理者として配筋検査をすることになっている。建築基準法で定められた役所の立ち入り検査は基礎と中間階(三階)と竣工検査の三回と決められているのだが、公的な建物なので契約検査課の検査以外に工事課も各階の検査には来るそうである。基礎と地中梁の鉄筋工事が始まった 外部の設計事務所に監理業務委託をしているのにもかかわらず、わざわざ工事課がその都度検査にやって来るというのは屋上屋を重ねるようなものである。契約検査課の検査と二重になることをどのように考えているのだろうと思い現場監督と笑ってしまった。契約検査課の検査合格の後に来て何か指摘でもすれば、契約検査課の面目は潰れてしまうことになる。要するにそれだけ暇で人も余っているのだろう。が、良い意味でとらえれば、良い品質のものが出来上がるように慎重に対処したいということなのだろう。工事課担当の女性技術者が連絡係として週に一二度来て業務連絡をするのだが、二重検査のことを言うと流石に気まずそうにしていた。 これまでボクは公共工事については民間の工事の10%ぐらい経験して来たのだが、国と府(京都、大阪)の工事は大掛かりなものが多かった割には検査は建築基準法に定められたものだけだった。しかし地方都市については京都市と大阪市と堺市がそれらに準ずる規模ながら細かい検査が多かった。特に大阪市の場合は検査が多過ぎる。理由は先に述べたようなものだが市民の顔色を気にし過ぎるきらいがあるようだ。検査以外の工事中のクレームには神経質なぐらい気を使った振りをする。本当に気を使うなら徹底的にすれば良いのにその場限りの対応で済ませる。だから業者や根性の悪い市民からなめられるのだ。 なめられるというのはどういうことかと言えば、工事中に古い建物を解体していると「騒音が五月蝿い」とか「振動がする」「工事中のダンプが五月蝿い」というような内容で「事前と事後の家屋調査をしろ」とか「解体で飛散するかも知れないアスベストの空気測定をしろ」というものである。アスベストについてはかつて使用していた成型板に1%ほど混入していても「検査をしろ」という。飛散型のアスベストは使っていないにも関わらず言うのである。成型板は天井の仕上げ材に使っていてビスで止めてあるからビスを外すだけで除去できアスベストは飛散しないにも関わらず「空気測定をしろ」というのである。勿論、法的には調査は不要のものである。 それなのに「法的に不要だからしません」とはビビってよう言わないのである。相手の顔色を窺って「調査させます」と役所の担当者は揉み手をしながら言う。まるで腫れものに触るような態度なのだ。騒音については平謝りで「出来るだけ注意して運転させますので・・・・」と言い、振動については「では、工事を中止させるしかありませんネ」と半分被害者意識の言い方で相手に媚を売る。相手も工事中止までは言わないから渋々「家屋調査をして何かあれば保障しろ」と工事に同意するのだ。これまでのところ家屋調査をして工事の影響で被害が出たという事例は無い。無くてもゴネる相手には言うままにして時間を掛けて相手の納得いくのを待つのである。 それで困るのは工事関係者である。契約工期があるので着工が遅れれば完成の期日が迫って間に合わなくなるから工期延長の変更契約がなされる。延長になった分の仮設工事費用は出ないからその分赤字になる。生徒にしても校舎の完成が遅れれば使用できないし先生も予定が狂ってしまう。PTAは工事には協力的だが、クレームを出す市民は小学校へ行く子供が居ない。そういうお互いの立場立場でしか物事を見ないから弱い者へ被害やしわ寄せが行くのである。設計事務所にしても監理の工期が延長になったからと言って延長料の契約を貰ったことがない。サービスをすることになってしまうのである。(つづく)
2009/05/24
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ウオッチング 見張りというほどでも無いが、観察をしていると様々なものが見えて来るものである。これまで何気無く観ていた風景にも様々な表情があり、季節ごとの変化もだし毎日の変化も分かって来る。建築の仕事柄、建物には直ぐに目が行くのだが、最近では人間を観察するのが面白い。それはファッションに限らない。女性の表情や男性の表情、何を考えているのかという雰囲気などもだ。そう言えば最近の女性は綺麗になった。先進国の顔だ。素地がである。綺麗と美人とは同一語のようだが実際は違う。綺麗なと言うのは衛生的に綺麗とか色どりが綺麗という風に言うが、それは多分に主観が入る。庭を見張るココ(闖入者や獲物を見つけると直ぐに「網戸を開けろ」というポーズをする) 美人にしても主観が殆どだが一応の基準がある。本当の美人は冷たい表情をしているのだ。暖かな表情の美人も勿論居るが、概して美人は簡単には笑わないものだ。笑うのは自分の心の油断や心を許した雰囲気に呑まれた時に出やすい。緊張していれば冷たい表情になる。となると美人は何時も緊張しているのかということになるが、確かに適度な緊張が無いと姿勢も崩れやすいし表情にも張りが無くなる。一旦外に出れば自分はショウウインドウに写る姿ぐらいしか見えないから家を出る直前には「これで良し!」と姿見を睨むしかない。出ればもう外の人間は敵ばかりだと思わないとひどい目に逢うのが今のご時勢だ。 人間ばかりではない。新型ウイルスに狙われるかもしれないのだ。マスクをしているぐらいでは安心できない。「絶対に風邪なぞ引いてやるものか」という心構えも必要なのだ。例えば忙しくて風邪なぞ引いてられない時は風邪を引かないものだ。ボクが7年ほど東京へ単身赴任していた頃は風邪なぞ引いていられないという緊張感があったせいか一度も風邪で寝込んだことはなかった。ところが、単身赴任を終えて関西に戻ってしまうと暫くは風邪ばかり引いていた。緊張が解けて心が緩んだせいだろう。最近では寝込むような風邪は引かないが、先日のように二日酔いになるのがたまにある。 そういうのは10年に一度ぐらいだが、酔っ払って記憶が無い時間帯なんかがあると怖くなる。眠っている時ではなく酔っ払って覚醒して(ラリッた状態で)いる時の記憶が無いのだ。昔は毎日のように酔っ払って遅い帰宅だったから、翌日先ず財布を見るのが癖になっていた。中身の減りようで行動が分かったのだ。それと下手なことはしていないだろうな(喧嘩とかトラブル)という不安である。気が付いたら自分のベッドで寝ていたというのは一応安心は安心だが記憶の無い断片は意外と気になるものである。30年ほど昔は飲酒運転もやったことがあった。 そんな場合、朝起きると直ぐにガレージへ行ってボディーやタイヤに変化が無いかと見に行ったものだ。もし、事故っていれば大変なことだからだ。お陰で一度もそういうことは無かったから良いものの、今考えれば恐ろしいことを平気でしていたものだと想う。最近では飲酒は勿論、酒気帯びも駄目な時代だ。二日酔いでも駄目なのだ。だから大酒は禁止、乗る7時間前までに飲酒は止めるという癖をつけておくべきだろう。プロなら尚更のことだ。欧米の映画ではお茶代わりに軽く呑んで運転しているのがあるが、向こうでも飲酒・酒気帯び運転は駄目になりつつあるようだ。 欧米人が幾ら身体の中の酵素が日本人よりも一つ多いから酒に強いのだと言っても運動中枢に与えるアルコールの作用は変わらないからだ。メグレ警視は自分では運転しないから昼間からワインやビールをよく飲む。定年退官してからは夫婦で田舎の隠居生活をし、村の居酒屋でトランプをするのが習慣になったが酒量は矢張り変わらない。勿論大酒はやらない。彼は小説の世界の人物だが、作家ジョルジュ・シムノンの理想とする男だったから歳をとってもダンディーにさせておきたかったのだろう。年齢的には今のボクと同じぐらいだからボクもメグレのようにダンディーでありたいと自分をウオッチングするようにしている。
2009/05/23
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羽目を外す 室内の腰壁に板を縦に貼ったのを羽目板とか羽目という。剣道や柔道の道場なんかによく見られる。土壁だと人がぶつかれば直ぐに傷がいったり壊れてしまうので板を貼って丈夫にしてあるものである。ところが遊びが過ぎたり、ふざけて暴れてぶつかった拍子にそれを外してしまうことがある。そういう状態を「羽目を外す」というのだと思っていたら「はめ」は「はみ(馬銜)」の転で、「はみ(馬のくつわ)」を外して馬を自由にする意から転じたと大辞林にはある。今は趣味で乗馬をするか騎手でないと馬銜という言葉は死語に近いから一般には分からない用語だ。それだけに羽目の方が分かり易い。二日酔いで養生(ココにとっては迷惑な話) 一昨日は、10年ぶりとも言える大酒で羽目を外してしまった。つい調子に乗ってグイグイと行ったのだ。最初はよく冷えた生ビールだった。そてを4~5杯飲んでから冷えた銀醸酒(日本酒)を各自一本ずつあけた。三人で飲んだから三本の中瓶が転んだ。その後、二次会に行ったのは覚えているのだが三次会のことは覚えていない。覚えていないが領収書があったので行ったのだろう。その次に気が付いたのはタクシーの中だった。ふと目覚めると見慣れない風景だった。暫く見ていると法隆寺辺りだと分かって運転手に「何処まで行くつもりだ?」と訊いた。目的地の名前は乗る前に言ってある。 それなのに高速道路のインターチェンジ一個分余分に走っていることになるのは運転手の怠慢になる。急遽国道を折り返して戻させたが「料金は払わないぞ!」と脅すと「この先は結構です」と言ってメーターを止めた。それから20分ほどして家に着いた。時計を見ると2時だった。タクシー料金は12,000円ほどだったが、メーターをそのままにしていたら20,000円以上は要っただろう。12,000円なら少々高いが何時もの金額に近い。タクシー運転手は分かっていてわざと間違えたのだろう。酔っ払って羽目を外すとロクなことはない。翌日は終日、頭が朦朧としていた。自分で勝手に反省の材料を作ってしまった。羽目を戻そう。
2009/05/22
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本日、休みます。 珍しく二日酔いになってしまい、本日はブログを休みます。ご免。
2009/05/21
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小学校の建設工事(5) ボランティアで英会話教室を開くというのは、高校生が団地内を通って通学することへの迷惑料のような学校側の配慮から生まれたものだった。参加者は精々20名程度で老人が多かった。外人と直に接する機会の少ない人々が殆どだったから人気があった。中には英会話教室を開いているご婦人も居て、うちの息子も小学生の頃習ったそうだが彼女も外人と接するチャンスが少なかったのだろう。更に受講生の中に塾の経営者が居て世話役を買っていたのだが教材費の件で会員とトラブルを起こし不信感を買って最近では浮き上がっているという情報も入っていた。彼は自分の塾の経営と英会話教室とを公私混同していたらしい。 寺子屋の図(遊ぶ子も居れば真剣に学んでいる子も居る) しかしそれでも、英会話教室が出来て10年以上になるので、それなりに実績を挙げていて会員のサロン的な教室は教養の場として団地内では人気があったようだ。そんな矢先の閉鎖話だったから「お話は良く分かりました。これまでの誠意に感謝しています。学校側の苦しい事情もおありでしょうが、先ず会員に事情を説明して同意を得て下さい。ここに同席している自治会の福祉担当役員も今了承したことですし会員の皆さんも常識人ばかりですから理解してくれると思いますヨ」と言うと校長はホッとした顔つきになった。ボランティアとはいえ寺子屋的な教育の場は教える方も教えられる方も相互の理解があって運営されるものだ。 ちなみに武家社会において町民が接することが出来た唯一の教育の場である私学の発祥は寺子屋が最初であったのだろう。そこでは読み書きソロバンを教えていただけだった。いわば社会で生活する為の最低限の教養を身に付けさせる目的だった。それ以外の教養・芸事(お茶、お花、日本舞踊、日本画、和歌、俳句、川柳、狂歌など)の他に教育としての儒教や漢学や仏典の研究もあったのだろうが町民でそこまで身に付けられるのは余程の大店の若旦那やお嬢様ぐらいなもので武家でもそこまでオールマイティーな人物教育はなされなかっただろう。仮に権力や財力があったとしても本人がその気にならないと身に付かないものばかりだ。 それだけに昔の教養人は非常な努力をして勉強したのだろう。勿論辞書もなく参考書もない時代のことだ。口伝という言わば口うつし的な教育方法もあっただろう。芸事がそうだ。師匠と対面してそっくりそのまま真似るのである。学ぶという語源が真似ぶというところから来ていると言われるぐらいだ。ボクも若い頃、謡を学んでいてそれを経験している。周りに先輩達が居る中で師匠の謡った次に自分だけで謡うのである。最初は顔から火が出るぐらい恥ずかしかった。初心者だから下手くそで当たり前なのに恥じ入る気持ちだった。それが次第に慣れてくると声も出、節回しも覚え、謡えるようになって行くのである。 江戸時代の日本の国民の教育レベルが高かったのはひとえに寺子屋の役割が大きかったようだ。それ故、明治維新を乗り越えることが出来、海外との和平交渉や通商交渉で平和裏に国が開くことができたと言っても良い。「日本の乞食が新聞を読んでいる!」と欧米の記者が本国に驚きの電報を打ったと言われるぐらい文盲率が低いのは有名な話である。今では趣味で乞食(ホームレス)をする人も居たり、漢字を読めない首相も居るが、それは別にして教養の一つである識字率は小学校の教育と義務教育のお蔭でもある。小学校の建築工事をしていて、そんなことを考えグランドを観てみたが、新型インフルエンザによる一斉休校で誰も居ない校舎は森閑としていた。
2009/05/20
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小学校の建設工事(4) これまで40年余り建築の設計と監理をやって来て民間工事の一割ぐらいしかボクは公共工事に関わっていないのだが、何時も想うことは、公共工事は民間工事よりも工期が相当長いということである。設計にしても倍の日数がある。あるが肝心の決定事項の役所の決裁が遅いので結局は設計者や監理者としての立場で観れば内容的には余り時間を掛けたものになっていない。それだけにイライラするのである。ボクの性格のイラチ(のんびりとしていない様)のせいもあるのだろうが概して役所の決裁は遅い。責任ある内容ほど遅い。どうでも良いことは余計なぐらい口やかましいのに肝心のこととなると決断が鈍るのである。国会(21年度補正予算15兆円案が衆議院で可決されたところ) それは役人の癖なのだろうが、地方自治体だけでなく国も同じことが言える。建築関係では国交省(建設省)や文科省(文部省)、防衛省(防衛施設庁)が関係官庁として多かったが、役人というものは何処も同じタイプの人間が多く、頭が良い割には行動力が伴わないというか慎重になりすぎて決断が鈍るのが多い。それは学者にも言えるが、彼らは法律に縛られて重箱の隅をつつくやり方や細かいことには詳しい割には法の精神や概念には弱く、当たり前の理念や考え方に欠落しているのではないかと思える人が多いのだ。一方的な思い込みで民間を馬鹿にした風潮があり、役所第一主義の国柄もあるのだろう。 その証拠に、大学は国公立が優先的に見られ、民間(私立)大学は二の次という江戸・明治期の名残りとも言うべきものが未だ役人の頭にはあるらしく、先輩後輩の関係もあってその意識は容易には変わりにくいようである。昔は、学士様と言えば今で言うところの大学院のドクター・コースの研究者程度の評価をされたもので、今の大学生は昔の中学生程度に成り下がってしまった。漢字を読めない首相が出る時代だから時代の風潮と言ってしまえばそれまでだが、彼が何処の学校を卒業したのか知らないがよくもまあ卒業できたものだ。秋葉原大学(?)の漫画学部なら辛うじて・・・と思ってしまう。 そんな時代に国公立の大学にこだわる人の頭も相当古いものだが、学費が安いというのも今では通じなくなって、奨学金を貰う学生ならともかく官民の格差は学費だけでは比較にならなくなった。それよりも研究費の格差は歴然とまだあって、大学の補助金の配分は、東大が半分、残り50%の半分が京大、更にその残り25%を各大学に配分されているというから私学補助金なぞは微々たるものでしかない。頭脳の育成に金を惜しむ風潮は国力を低下させるだけでなく海外に頭脳流出する危惧をいだく人々は多い。その点、企業は当たれば巨大な利益を生むだけに研究開発費に、これぞと言う人物には金を出して優遇する。 それが当たり前なのに日本では話題になるぐらいお粗末な現状である。今回の補正予算では文部科学省関係で1兆3,174億円あるが、内訳配分は公立学校と私学では30対1ぐらいなものだ。夫々の学校数での比較でそうなっているのかと思いきやとんでもない、調べてみれば高校では四分の一が、大学では四分の三が私学なのだ。如何に私学補助が少な過ぎるかが分かる。それで思い出すのは昨年末のことだったが、ボクの住む住宅団地に隣接する私学高校の校長と教頭、担当教諭が我が家を訪れ「来年度の私学助成金が10%カットになり真に申し訳ないのですが、これまで続けてきたボランティアの自治会への外人講師による英会話教室を止めざるを得なくなりました」というものだった。(つづく)
2009/05/19
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小学校の建設工事(3) 疑いを持ち出せば限がないほど不信感がつのってくる。自分の国を信用できないという不幸は、如何に悪い奴らが公金を奪取して国民を欺いているかという現実に小さな個人が臍を噛んで何とかしなければと考え込んでいる姿に現われている。それはボクだけではないだろう。国民の大半が薄々気がついて腐った官僚や政治家を何とかせねばならないと想っている筈だ。気がついていてもそんな大きなことには無関心で居た方が身の安全だからと黙っている国民も多い。ちなみに野党の政治家でそれを追求して右翼の男に殺された事件があった。まだ記憶に新しく真相が究明されないままである。捨てコンを打つ前の杭の配列 今も野党の党首が政治献金の件で濡れ衣を着せられて政府寄りのマスコミの扇動もあって国民の人気を落とし党首が入れ替わった。以前にも書いたが、検察を動かす官僚と一部の政治家の陰謀で国民を騙し恐怖政治を臭わせる方法が取られ、体制側の現状維持を図ろうとしている。理不尽という言葉がそのまま通る世の中は、大戦前夜の風潮に似ている。正義は押しやられ悪がのうのうとはびこる。社会面を賑わす事件は世の中が悪くなっているバロメーターだけに毎日起きる事件で国民の意識は暗くなり厭世感が蔓延する。そこが悪い奴らの狙い目で自分達の巨悪を闇に隠すことができる。 先年、アメリカが「大量破壊兵器を作っている疑いがあるから」という作為的な疑念と言いがかりでイラクを攻撃し、後日「あれは間違いだった。しかし、テロリスト集団は今も居る」として自らを否定しながらも話を捻じ曲げ正当化して世界を混乱させている。その手法をそっくりそのまま真似をして日本の官僚や政治家が公権力を使って現状維持を図ろうとするのは、見方を変えれば如何に自分達の政権や体制が風前の灯であるかを物語っている。そこまでしなければ維持できない瀬戸際まで追いやられているということである。政権交代になれば自分達が野に追いやられ官僚たちは甘い汁が吸えなくなる。 冷静な国民はジッと観ているものである。馬鹿な国民も沢山いるが、そんな連中は付和雷同する子羊集団だから何かのきっかけがあれば直ぐにでも変節する、いわば軽い連中である。「盲千人、眼明き千人」と言われる通りである。いや、今の世の中「盲殆ど、眼明き少々」の割合だろう。まともな人間が少数派でも、池に石を投げ入れ水紋の輪が広がって行くように確実に情報は行きわたる。受け止める側は被害者が多いだけに直ぐに反応するだろう。アメリカの後楯を失いつつある政府与党や官僚連中は政権交代が避けられないとなった時点で慌てて新政権に媚を売りすり寄ってくるだろう。(つづく)
2009/05/18
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小学校の建設工事(2) 景気が悪いから税収が伸びず役所の事業が上手く行かないという言い訳は、何故か真しやかに言われ、評論家も同調して政治家を喜ばせて来た。が、今よりも景気の悪い時代は過去幾らでもあったし、それでも今よりも好調な事業を誇っていた時代もあったのだ。国も県も市も同じだ。それではどうして今の時代は赤字だ赤字だと大騒ぎするのだろう。それは役人の人件費や飲食代が膨大に掛り過ぎていることもあるが国の補助金制度にも原因がある。県は国からの補助金を当て込んで事業をし、市は県からの補助金で動こうとするところに問題があるとボクは考えている。杭の状況と周りの捨てコンクリート(このコンクリート面に建物の芯の墨出しをする) 勿論、補助金を当てにしないと市の税収だけでは公共事業は思い通りには行かないだろう。しかし、その補助金の源泉は何処から来るのだろう。当然、国民からの様々な税金である。国は印刷機でお札を刷るだけで金が出来るのではない。国民からの税金という裏付けがあってのお札なのだ。国民が誰も税を払わなければ国は空手形を発行することになる。この理屈は子供でも分かるはずだ。それなのに国民はどうして馬鹿になってしまったのだろうか。それは簡単に役人の言うことを信じ思い込まされているからだ。自分の支払った税金なぞ高がしれていると思う国民は年収200万円程度の人々の考えることだ。 実際は1億2千万人の人口の内、半数以上の人が女性であり、残りの半数も子供や学生や老人である事実から、単純に3,000万人の働き蜂と企業が税の源泉であると単純に見れば、彼等の納税が国家予算の基礎となるはずである。働く女性が大勢居るのを承知で言うのだ。何故なら、結婚して職を離れる人が殆どだろうし、パート程度の年収は200万円程度だからだ。結婚しても男性と同じ程度の年収で働く女性も居るが、彼女らは働き盛りの男性と見なしても良いだろう。つまり3,000万人の働き蜂の内という訳である。学生や子供は扶養されているから勘定には入れない。 つまり何が言いたいのかと言えば、3,000万人から税金を取り立てて国家が運営されているということを言いたいのであって、一人あた年50万円納税(直接・間接で)したとすれば15兆円にもなるのだ。その他に企業からの税金が倍はあるだろうから足して45兆円にはなる。これは税収の45兆円と符合する。ところが国家予算は一般会計が83兆円、特別会計が予算内移動や重複分を除けば122兆円となり合計205兆円となり160兆円が不足することになる。実際は一般会計の半額の41兆円で国は運営できるという試算もあるから126兆円は丸々、官僚の使い放題資金となる。いったい不足分は何処から調達して来るのだろう。 官僚や政府はマジックを使っているのだろうか?その打ち出の小づちは簡単に説明がつく。種を明かせば、毎年30兆円もの国債を発行して(累積国際が700兆円)借金漬けとなっていることと、郵貯が255兆円、年金資金が140兆円、簡保が110兆円、その他(外債や国有財産など)が50兆円の合計1,255兆円もの資金から流用しているのだ。政治家や官僚は海外に200兆円もの貸付をしているからそれが返って来るから安心だと高をくくっているが、実際のところ元本保証されて戻って来るかどうか今の国際情勢を見れば疑わしいし、特別会計で公共投資と称して運用している資金160兆円の内容も大いに疑わしい。(つづく)
2009/05/17
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小学校の建設工事 何だかんだと言いながらもボクが監理している小学校の造築工事は着々と進んで行く。先ず今年の1月から始まった校舎の解体工事、その次の既存杭(20mの松杭)の引き抜き工事、そして新規の杭打ち工事(21mのコンクリート杭)が夫々終わった処である。途中でトラブルがあって工期が2週間ほど遅れてはいるが、この秋には躯体も出来上がるだろうし、幾ら遅れても年末まで掛かることはないだろうから、出来るだけ毎日のロスを無くして縮めて行けば何とか11月末には完成の目処がつくだろう。それが今のところ読める工期で、当初の予定に近くなる。基礎工事に入った工事現場 建物の規模からすれば、目の前の公園の向こうに見えるマンション(アパート)の半分の高さの4階建ての校舎なのだから心配するほどのものでもないのだ。一昨年までは中高層マンションの建設(何と11棟ものマンション建設)で忙しかったのだ。その事を思えば、今回は公共工事の建設だけに無理な工期は組まれていない。マンション建設では銀行借入金の金利を考えて工期はかなり厳しく、ワンフロアの躯体が上がるのに2週間の工期が見込まれているのに対して、今の小学校の場合はフロア毎の役所の立会い検査があるとしても、その倍は見込んであるのだ。 民間工事では完成までに中間検査が義務付けされているだけだから完成検査までは自由度がある。つまり検査待ちで時間を遊ばせることが無いから技術的基準だけで工期が設定できる訳である。監理者のボクとしては同じ検査をするだけだから公共建物は役所の工事課や検査課の検査がついて廻るだけのことで言わばそれほど人間が余っているということでもある。小さな政府を目指すという割には人的に減らない限り、決して小さな政府(この場合は地方政府:いわゆる地方自治体)は実現しないだろう。金が無い無いというのは嘘で、役人の給料分や飲食費(接待費)が無いということだけのことなのだ。(つづく)
2009/05/16
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ガーデニング裏話(ミニ花壇) パティオのレンガの花壇とは別に、裏庭の日本庭園に角石でミニ花壇を設けたのは、パティオを造る少し前だった。1990年に大阪で「花と緑の博覧会」が開かれ、それに参加したボクの勤める会社のソーラー・ハウス・パビリオンの建設を監督した時に、余った角石(30cm角:姫路の花崗岩を加工したもの)を貰ったのがあって何かに使えそうだからと庭の片隅に野積しておいた。その後数年して、近所に住む義父が急に亡くなったことや、サラリーマン生活に嫌気がさしていたこともあって憂鬱な状態で居る時に、ふとその角石で何か彫刻してみる気になって彫りだした。花崗岩の縁石で出来たミニ花壇の小さなヒマワリと浜木綿(ハマユウ) 初めての経験だったが花崗岩が相当硬いものであることを知った。チスとハンマーで根気良くコツコツ彫って行くだけのことだが、むしろ力を入れ過ぎて割らないようにするのが苦心のしどころだった。それでも1日2時間ぐらいで1週間ばかりすると出来上がった。それを義母が観て「素晴らしい!プロみたい」と褒めてくれた。お地蔵さんの頭部の積もりだったのが義父に似ていたこともあったのかも知れない。今では玄関先の前栽に置いてあるが、一種の庭のオブジェになっている。更に余った角石を、庭園の端にある橙の木の縁石として積み上げたり、ベランダ横にもミニ花壇の縁石として並べ、モルタルで目地を仕上げた。 出来上がってみると、縁石の上に乗ったり腰掛けたり、鉢を置いたりできるので案外重宝している。真新しかった角石もコケやカビが生えて黒ずんでしまったが庭の風景にはしっくりと馴染み溶け込んでいる。そういえばこのミニ花壇にある浜木綿(ハマユウ)は縁石が出来てからグングン育って、今では一株だったのが四株にまでなった。20年ほど前に伊勢・志摩への家族旅行で土産に買って庭の片隅に植えてあったのを此処へ移植したのが良かったようだ。南国の植物だけに角石に蓄積された陽の余熱がハマユウには良い環境になっているらしいのだ。 鉢植えで済ませる植物と地植えのものとでは育ち方が違うし、冬越しのことを考えたり場所の問題もあるが、環境さえ合えば地植えの方がしっかりとした植物に育つ。球根も増えるので場所さえあれば地植えにした方が良いようだ。時期が終えれば球根を掘り出して乾かし保存しておくのも良いだろう。公共の街路の中央分離帯なぞに植わっている草花は、市の公園課に雇われた専門業者が手入れや植え替えをしているので家庭の花壇とは少し状態が違う。綺麗だからそれと全く同じ状態にしようと思えば手間も金も掛かり過ぎるし愛着の度合いも違う。家庭は家庭の楽しみ方があって良いのではないだろうか。
2009/05/15
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ガーデニング裏話(花工場) 日本庭園は日本の風景の再現だと言ったが、そこでは花は主では無く従である。冬場の椿や春の桜、初夏の山吹にしろ全部、緑の中にあっての添え物である。中にはカエデのように秋の紅葉も花のような雰囲気はあるが、矢張り緑の変形でしかない。要するに四季の移ろいを眺めながら雪や月を楽しむのである。月で名高い桂離宮では、横の桂川から曳いた水で池は満たされ緑の足元を引き締め、夏や秋の月に歌を詠みながら貴族は楽しんだのである。だから花は部分的には綺麗で華やか、あるいは質素な美を感じさせてくれるが飽くまでも添え物なのだ。パティオに入ってきたココ 要するに日本人は日本庭園に宇宙を観ていると言えるだろう。そういう意味では生け花も茶室も宇宙を観る為の小道具である。庭園を持てない江戸の庶民の間では盆栽が流行り、矢張りそこに宇宙を観たのである。日本人はどうも宇宙を観るのが好きな人種らしい。つまり、そこには仏教の理念が働いていて、万物生きとし生けるもの総てに生命や神を感じ取ったのだ。人間はその中に生きる極く小さな生き物であり、周りの環境に生かされていることを暗黙の内に理解し人生観を育んでいったのだと思われる。自然を愛する一つの姿をボクはそこに見出すのである。我が家のパティオは言わば花工場でもある 尤も、そういう深遠なことなぞ考えずに人々は暮らしていたのだろうが、毎日の生活に潤いを感じるのは目先の朝顔の花であったり菊や桜の花であった筈だ。盆栽の梅にも春を感じたであろう彼等は哲学的な難しい理屈ではなく観た目に美しく華やかな花にこそ心の安らぎを得、楽しんでいたものと思われるだけに、妻が枯山水よりも普通の庭園を望み、更には花の沢山ある場所として花畑から発展してパティオを望んだのも自然な発想だったのかも知れない。そこで彼女は花作りに精をだすのである。観て楽しみ、育てて楽しむ花の場は言わば彼女のアトリエであり花工場であるのかも知れない。
2009/05/14
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ガーデニング裏話(日本庭園) 日本庭園というのは日本の自然風景の再現である。しかし、そこには山あり川あり海があるものの広大な敷地ならともかく同じような風景は当然ながら入り切らないから敷地の外の風景は借景と称して庭園の一部に取り込んでしまうのである。そこがヨーロッパの庭園との根本的な違いである。パティオなんかは限られた塀や回廊の中の空間に設ける憩いの場だから借景という概念は端からない。つまり外部への広がりは持たず限定空間の庭である。我が家の日本庭園もご多聞にもれず猫の額のような狭い敷地だから精々30坪程度の南の空間を利用して様々な樹木を入れている。 最近の我が家の日本庭園(部分) だから高木は限られ、貝塚イブキを境界線の生垣とし、ヒマラヤスギ、ヤマモモ、ウバメガシ、キンモクセイ、クロガネモチ、椿、サザンカ、サルスベリ、槙などが周辺にある程度だ。その周りと手前に低木として、平戸ツツジ、サツキ、珊瑚樹、サザンカ、アオキ、ヒイラギ南天、山藤、榊、枝垂れ梅、シャリンバイなどを植え、更には空いた処に四季の草花を植えている。草花は放っておいても自然に増えて咲いてくれるものだ。今はマーガレットやシラン、藪ランが咲いていて、芝生の周りが賑やかである。本当はスッキリした枯山水をボクは考えていたのだった。冬季の日本庭園 が、精神性よりも生活を楽しみたいという妻の希望を取り入れた形にした。仕事柄、設計した建物には緑地帯やアプローチの緑を必ず設けるから造園はお手の物だけに、自分の庭にはあれやこれやと考えたのだったが、結局、殆ど家に居なかったボクの意見よりも毎日居る妻の意見の方が通ったのだ。家に居る時間が持てるようになったのはこの10年ぐらいなもので、かつては休みの日にはゴルフで居なかったり平日でも飲み回って帰宅は午前様が当たり前だったから庭のことには発言権が弱かった。計画はするが手入れをするのは殆ど妻だから葉刈りは専門家に任せるにしてもボクは極たまに庭の椅子でボーっとしているだけだった。 大体、日本庭園は自然の樹木を手入れした形(余分な枝葉を除去した形)で、さも自然にあるようにして楽しむものだから意外と見た目よりも手間が掛かる。放っておけば山(自然)の状態に戻ってしまうので見苦しくなる。鬱蒼として見た目に陰気くさく木も荒れる。精々住宅の日本庭園なら自分で管理できるのは100坪が限度だろうし、それ以上になれば業者任せにせねばならない。従兄弟が300坪の大坂の家を売って引っ越し先の東京世田谷で家を建てたら、たった80坪にしかならず嘆いていた。地価の高い東京で広い庭を持つのは大変なのだ。更には子供のことを考えると、一旦東京へ引っ越してしまうと定年後、地方へ戻るのも大変だ。 だから大都会では住宅はアパート(マンション)が主流になってしまう。フランスで言うところのアパルトマンだ。一戸建て住宅だと山手線の外側でしか新規に建てられないだろうし建てても中高層にしないと採算が合わない。そんな処に日本庭園を設けるなぞ正気の沙汰ではなく精々屋上に造るのが関の山だろう。先年亡くなった建築家の黒川氏なぞは屋上に茶室と日本庭園を設けていたのもむべなるかなと想ったものだ。ボクの知っている永田さんという人のご先祖が国会議事堂の建っている辺りの大地主だったそうで、その頃の東京の地価は驚くほど安かった。 大体、今の時代のように土地を売り買いするという概念が一般には無かったから、今でこそ巨額な価格だが、元来、土地というものは投機の対象ではなかっただけに大地主もご先祖様から受け継いだだけでそういう意識も無かった。世の中が世知辛くなって、土一升金一升と言われるようになると商売人はこぞって繁華街に集中したのだ。だから全国主要な都心部は今でも地価は値下がりせず高騰したままである。一戸建ての庭付き住宅を希望する人は郊外で求めるしかないのである。充分にガーデニングが出来ないアパート(マンション)生活が嫌な人は都心部では住めないことになる。
2009/05/13
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ガーデニング裏話(パティオ) パティオを造ろうと思ったのは5年以上も前のことだ。書斎の前の裏庭が日本庭園で、門・玄関の前栽も和風なので、せめてパティオはその名の通りスペイン風にしようと思ったのだ。外部からガレージを通り抜けてパティオに入れるが小さな扉で仕切っているから庭のスタイルが違っても違和感が無い。それと、丁度、折からの大掛かりなリフレッシュ工事で外壁や塀を黄色に塗り替えたから和洋両方にも映えると考え、スペイン風の床としてタイルを敷き詰め、周りにはラティスで目隠しをした。そこに様々なツル類の植物を這わせれば別世界になる筈だと考えたのだ。5年経ってみると想った通りの景色となった。PATIO(パティオ:中庭)の入口 更に、レンガで花壇をコーナーの2か所に設けた。片方には曲線を、もう一方には直角の角を設けた。花壇の高さは花が咲いた時に目に入り易い40cmほどにし、花壇の背は一、二段高く、土が手前に少しばかり斜面になるようにした。奥の花が見え易い為の工夫だ。レンガは新しいのと古めかしいのとを混ぜて積んだ。古めかしいレンガは角が取れて丸みがあるのだ。わざわざそういうのを売っているのだ。もっと凝ればイギリス産やイタリー産まで売っているのだが、今回は国産で間に合わせた。小さいから余り凝り過ぎても目立たないからだ。レンガでパティオの中に花壇を二つ設けた 当然ながら花壇はタイルを敷き詰めてから造ったから花壇の底はタイルをめくって水が地面に抜けるようにした。以前に、前栽の狛犬を置いている小さな花壇の底がコンクリートで塞がっているのが分かって除去するのにひと汗かいた苦い経験があったのだ。底を抜いておくのが常識なのに工務店が仕事の手順から面倒なので土間コンクリートを一緒に打ってから花壇を設けたのだった。何故それが分かったのかと言えば、砥草(とくさ)や他の植物を植えても枯れるのが続いたからだった。水はけが悪く根腐れをおこしていたのだ。見えないところで手を抜く下衆職人の仕業だった。植物に少しでも興味があればそういうことはしないもだ。もうひとつの花壇は四角くした 何でも自分で経験しないと、そういことは分からないものだ。当たり前過ぎて誰も教えてくれないのだ。当たり前と言えば、庭の土や花壇の土の作り方も面倒なものだが、水はけが良いように砂利や鹿沼土やパーライト、赤玉、ピートモスなどを下地にしておくと後は普通の土(袋入りで売っている腐葉土のようなもの)で充分育つ。肥料もやり過ぎはいけない。緩速のじわじわと溶ける肥料が良い。栄養過多は植物が負けてしまうし、ビックリしてしまうのだ。人間でもそうだ。美味しいものばかり食べているとバランスを崩して不健康になってしまう。過保護は駄目なのである。
2009/05/12
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ガーデニング裏話(チャ毒蛾の被害) 身体中が痒くて仕方がない。原因は分かっている。いや、改めて気が付いたのだ。よくよく調べた結果、庭先の椿や山茶花の虫、チャ毒蛾の幼虫(毛虫)の針の残骸が身体に付着して炎症を起こしていることが分かったのだ。1cmぐらいの小さな毛虫の背中に細かい針があって顕微鏡で見ないと分からないぐらい小さな針だ。それが空中を浮揚して近所を通っただけでもやられることがあるらしい。1匹あたり50万本もあるというのだから葉の裏側に無数に居た毛虫の数だけあったことになり、ゾッとする。思い切った剪定で風通しが良くなった藪椿(隣家の白い壁が葉で隠れていたのが見えるようになった) 毛虫の分泌物なのか白い粉状になったのが葉っぱに見えていたので消毒はしておいたが、うっかりしていた。それはうどんこ病と見紛うものだから消毒して安心していたのだった。消毒後の処置に手抜かりがあった訳である。思いきって白い粉の付いたもの総てを剪定した枝葉をビニール袋に入れて殺虫剤を吹き込んで封をすれば死滅し広がらないとネットで調べたら載っていた。それをやっていなかったから針の残骸があったのだ。だから今朝はココに餌をやった6時半から椿の剪定をし、山積みになった枝葉をバーベキューの窯で焼いた。手前のアイビーが新たなる空間を狙って延びて行くだろう(通路のタイルの際まで藪椿の枝葉がビッシリと密植して生えていた) 選定の終わった椿は涼しそうな空間ができ庭が広くなった感じさえした。椿の生木は最初なかなか燃えなかった。それでも下から新聞紙を何度も燃やしている内に燃えだして、勢いがつくと次から次へと枝葉を放り込んでも消えることが無かった。汗だくになって総てが燃え尽きるまで見届け、水を掛け作業が終わった途端、ドッと疲れが出てきた。総ての作業が終えたのが10時だったから3時間半かかったことになる。それこそ朝飯前の作業でやっと朝食にありつける。これでやれやれである。頃あいを見て家人に出してもらったココがやって来て、周りをキョロキョロ見まわしている。
2009/05/11
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連休明けの工事現場(2) 赤字を恐れる体質は健全のように見える。しかし、敢えて赤字を覚悟で経営する場合もある。但しそれは、別に儲かる部門を持っている場合の話だ。研究部門は利益を直ぐには生まないから赤字が続く。しかし、それが無くては企業の将来性は無い。儲かり過ぎる部門の利益をそちらへ廻すことで全体的には健全な場合もある。大体、利益とは何かを考えれば、文化的な生活が出来る為の潤滑油だろう。文化の解釈は人それぞれだが、最低限の生活を保障した上でのプラス・アルファが文化の根源かも知れない。かつてアメリカ経済をけん引して来たGMも今では・・・ だから企業経営が上手く行かないと文化面(冠コンサートやスポーツのスポンサーなど)が先ず切り捨てられ、次にリストラが来る。リストラとは首切りではない。リ・ストラクチャリング(再構築)という用語だから逆に首切りは脳の無い経営者の安易な方法でしかない。組織再編成としては確かに高い人件費の削減も大きな要素だが、ワーク・シェアリングという流行り言葉で言えば、決まった量の仕事を現在居る社員で分け合って一時しのぎをするのも一つの知恵だ。景気が上向いたから再び社員を雇い入れようとしても首切りをした会社にはベテランは来ない。 要するに経営者に愛があるかどうかの問題に尽きる。知恵を出すことで経営が成り立って高給を得ているのだから知恵も出せず自分だけの生き残りを考える経営者は最早経営者の器ではないということだ。今まで数多くの企業経営者と接してきたが愛のある経営者は少なかった。一流企業のトップでさえそうなのだから中小企業や零細企業は推して知るべしと思われがちだが逆だ。中小企業の優れた経営者こそ大会社の経営素質が備わっているものなのだ。中小企業の寄せ集めこそ大企業の本質なのだから。要は人間性の問題なのである。 しかし理論通りには行かない。たまたま当たったから世界的企業になる場合もある。人間性が良くても優秀な経営者には成れないのは当然だ。むしろずる賢い人間の方が成功する率は高い。そうなれば矛盾することになりはしないかとの反論が出るだろう。つまり清濁併せのむ器量が無ければ企業の経営は出来ないということになる。経営者は非情だというのも当たっている。情に流されていては正常な判断が出来ない場合もあるからだ。そういう当たり前のことを曲解してか、わざとなのか、悪質な経営者はそこばかり利用する。政治家もそうだ。 情にほだされる政治家は馬鹿だと言われるのが嫌で敢えて悪い冷徹な施策を実施する。それが偉い政治家だと勘違いしているのだ。困ったものである。古い話が大久保と西郷である。敢えて悪の道を選び大政治家となったのと情の世界へと突き進んで非業の死を選んだ政治家である。それを知っている民衆は今でも西郷を偲ぶ。しかし、政治家は西郷では無く大久保の方が偉いとして偲ぶのである。そいう実態を知った上で政治家なり企業経営者を見れば案外本質が見えて来るものである。見えて来るが赤字と黒字の損益分岐点は最終的には人為的なことで決まるから本質は分からないものである。
2009/05/10
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連休明けの工事現場 遅れていた杭打ち工事がやっと終わった。連休明けに久しぶりに工事現場へ顔を出すと、祇園祭で言うところの後の祭りの雰囲気で何処となく寂しそうな感じがするのだった。職人達は次の工事現場へ移動する為に片づけものをしている。頭の中ではもう既に頭の切り替えが出来ているのだ。新しい現場ではどういう問題が出てくるだろうかとか、長年やって来てどのような問題でも対処するだけの心意気を持ってどーんと構えているのかも知れない。彼等はプロなのだ。無駄のない動きで次々とプラントや機械の分解をし台車に乗せて運び出している。杭打ち工事が完了して引き揚げる風景 あの20m以上の高さのあった杭打ち機が解体されただけでも気が楽である。先々月だったか東京で大型クレーンがひっくり返った事故があったのを覚えているから余計に安堵する。何処の工事現場でも安全第一と表示されている。安全が何よりも優先するということだ。ところが事故が起きる。起きれば「今後、二度と起きないように万全を期するようにする」と責任者が言う。当たり前のことが当たり前に行かないところに問題の要因があるのだ。あるいは人命軽視という古い体質が残っているのかも知れない。労働基準監督署が五月蝿いから規則を守っているというのでは事故は無くならない。 発想が逆なのである。何の為の工事かと問えば、勿論、人間の文化的な生活向上の為と答えるだろう。が、文化的な生活とは何か。ゼネコンが工事をすることで利益を上げるのが文化的と勘違いしているのだ。確かに儲かれば会社は潤う。会社が潤えば社員も潤い文化的な生活に近づくことが出来よう。しかし、一ゼネコンの文化的な利益の為に工事があるのではない。それを利用する人々が幸せになり文化的な生活が営めることこそ文化なのだ。矮小な考えに陥り易いのは何処の会社も同じである。人は目先のことしか見えないのだ。トータルな目で物事を見、判断しなければ本質は見えない。 だから勘違いした連中が談合を行うこととなる。それで正常な利益を得て体質が良くなればまだましだが、多分そういう考えだから裏金に化ける。逆にダンピング入札(75%以下の価格での受注)では利益は出ない。出ないが仕事は舞う。仕事が出来れば良いとう考えでは早晩、会社は舞わなくなってしまう。利益が出ない会社がやって行ける訳がないのだ。赤字覚悟で仕事をやれば会社は潰れる。それでも潰れない会社は何処かで手抜き工事をしていると思われても仕方がない。手抜きをせず下請けを泣かせて自分だけが生き残ろうとするかもしれない。そういう体質は大会社ほど強い。手抜き工事をすればどのような影響が出るか知っているから厳しい検査をして自分だけは綺麗で居たいのだ。(つづく)
2009/05/09
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間違って注文した本 うっかり原書の小説(Maigret et son mort)を注文してしまった。値段が知れているのと再度フランス語を勉強してみようかという好奇心から手元に置くことにしたのだが、好きな作家だから辞書を片手に読んで行けば少しは理解できるのではないかと思っている。どうして間違ったのか覚えていないのだが、インターネットのアマゾンで注文リストを見ていて数冊の中に紛れ込んでしまったらしい。急ぐこともないし時間が余れば読んでみるのもご愛敬というものだ。大学では第2外国語にドイツ語を選んで「優」を取ったからでもないが、若いころにフランス人の友人から少しだけ会話を学んだこともあるので親しみは持っている。ジョルジュ・シムノンの「メグレと彼の死」(原書)と仏和辞書 これまで原書で小説を読むことは少なかった。たまに好きな作家のものを読んだのがへミングウエイだった。川で釣りをする抒情詩のような小説で今でもディテールを覚えている。日本語に訳したものが沢山出ているので外国の作家は割合多く紹介されているから苦労してわざわざ原書で読む必要もないのだが、翻訳者が美しい日本語を駆使している場合は作品も気品と言うか真意が漂い伝わってくるものだ。逆に、日本語を外国語に翻訳するのは難しいと思う。川端康成や芥川龍之介は勿論のこと阿部公房や村上春樹も沢山訳されている。翻訳し易い作家もあるだろう。谷崎潤一郎なんかは難しいと思うが日本の心が何処まで伝わることだろう。 学生時代、トーマス・マンの「魔の山」が教科書だった。その頃は勉強だから全く面白くもなかったが、後年その翻訳ものを読んでやっと意味が分かったことがあった。ドイツ語が幾ら「優」でも作品の理解となると亦意味が違ってくるものだ。ヘルマン・へッセやゲーテともなると翻訳ものでしか接していないが、それでも偉大な作家の精神は伝わって来る。鴎外はドイツ娘と結婚して親から反対されたが、外国留学をした作家すべてが外国人と結婚した訳ではないものの言葉というものは女性との交わりがあれば数段上手くなるものだ。つまり人間と人間との繋がりが言葉の障壁を乗り越えさせるのだ。 新渡戸稲造がアメリカ人の女性と結婚したのはお互いを尊敬し合っていたから理解が速かったのだろう。相手の女性は上流社会のお嬢さんだったから相当な反対があり、日本でも親族から相当な反対もあったそうだが、それにも関わらず二人は固く結ばれた。たまたま義父が若いころ彼に共鳴して講演旅行で日本国中を一緒に廻ったそうで何度も話を聞かされたから彼のことが脳裏に残っていて身近に感じるのだ。そう言えば、ボクにフランス語を教えてくれた青年はアラン君と言って、苗字はドランだった。映画俳優のアラン・ドロンと一字違いだと彼をよく冷やかしたものだった。
2009/05/08
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連休のガーデニング(5) 連休の後半は小雨まじりの曇り空で終わった。だからか、ボツボツ仕事の雰囲気を再び味わいたい気分になって来る。が、それなら今のうちに明るい内からビールでも飲んで残りの休みを満喫してしまおうとスペアリブを当てに飲み始めることにした。先日、スペアリブの美味しい食べ方をテレビでやっていたので、一昨日、同じようにやってみると実に美味かったのだ。その方法は先ず鹿児島産のスペアリブをタレに浸しておき、次に電子レンジでチンし、その次にオーブンでこんがり焼きあげる。すると中はジューシーで外はカリカリした香ばしい焼肉となるのである。庭の中央にある百日紅の前に植えたシャリンバイ(車輪梅) これまでは最初からオーブンでこんがり焼いていたのだ。が、中まで充分に火を通す余り外部が焼け過ぎていたのだった。良い方法を覚えたものだと今日も同様にやってみた。セロリやレタスや春キャベツにクレソンとトマトなどを混ぜたサラダを一緒に食すと、まるでメキシカン・サラダを食べている気がする。焼きたてのスペアリブをナイフォークで刻みながら口へ運び、ビールで飲み流すと、よくぞ男に生まれけりという気に成る。至福のひと時である。ふと、小雨降る庭に眼をやれば、植えたばかりのシャリンバイが雨の滴に凛としている。花芽がまだ沢山付いているから暫くは花を楽しめるだろう。シャリンバイの横のマーガレット 横のマーガレットは満開だから、もう直ぐ終わるだろう。その頃には周りのサツキが一斉に咲き誇る。密埴している平戸ツツジと一緒に初夏の風物詩を醸し出してくれるのだ。そのようにガーデニングは継続して花が咲き、緑が茂って行く様を楽しむものだけに途切れない設定をしておく。そうしないと切れ目が寂しくなる。切れ目は冬だけで充分だ。いや、冬でも、冬景色の楽しみ方がある。先日まで冬咲きシクラメンの紅がサツキの密埴した中央にあって紅一点でかなり目立ったものだった。 年齢的なこともあって時間が若いころよりも出来、ガーデニングなんかに費えするようになると人生の楽しみ方も随分と変わってくる。元々興味があって好きなものだからのめり込めるのだろうが、他にももっとやりたいこともある。それだけに、ガーデニングにばかり時間を取られるのも考えものだという気もする。しかし、趣味に没頭するのはその種類を問う必要はない。仮に昔やったクラシック・ギターを再びやっても良いが、とてもじゃないがトレモロは出来ないだろうし新しい譜面を見るのもしんどい。バッハのリュート曲なんかも良いが練習していると周りが五月蝿がるだろう。だから静かなガーデニングが向いているのだ。 かくして今年のゴールデン・ウイークは終わった。ガーデニングに始まりガーデニングで終えた。つぼみだったパティオの黄色の薔薇も沢山咲き始めた。紅一点だった赤い薔薇も益々広がって枯れる寸前だ。下を観れば花壇と鉢の様々な草花が賑やかだ。花一杯の生活も女性的ではあるがなかなか良いものだ。妻がターシャ婆さんを尋ねた友人と1時間以上も長話をしてガーデニング情報を交換し合っている。近々、彼女は我が家に尋ねて来るそうだ。ボクの居ない間の女たちのお茶の時間だ、あの重いチーズケーキに見るようなドイツ・ケーキでも食べながら。
2009/05/07
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連休のガーデニング(4) 「雨が降り出さない内に生苗店へ行かない?」と、何時も買いに行くドイツ・ケーキの店を出た時に妻が言った。一寸遠いけれど久しぶりのことだしドライブでもしてみようかと山麓線を南へ走った。高野山へ行く際に通る道だ。当麻(たいま)寺辺りに出来た新しいバイパスから入って20分ぐらい行けば御所(ごせ)という葛城山の登山ケーブルが見える処に出る。もうひと月もすればツツジが満開になる名所だ。更に10分程走ると店に着いた。道端に立てられた大売り出しの旗竿が風になびいていた。連休だから客がかなり居た。ガーデニングに凝っている人や地元の主婦が買いに来るのだろう。ボク達は遠くから来る貴重な客だ。庭の中央にある百日紅の前に植えたシャリンバイ(車輪梅) 彼女が草花を物色している間、ボクは植木がある畑を廻ってみた。気に入った木でもあれば注文する積りだが大きな木はもう必要がなくなっている。それよりも花の咲く小ぶりの庭樹でもあればと観ると車輪梅(シャリンバイ)があった。高さ1m少々で花が沢山付いていた。名前の由来は、小枝が自転車の車輪のスポークのように四方へ広がっている様から来ている。梅の一種だからバラ科で、先日挿し木した菊梅の横にでも植えようと思った。車にも何とか乗りそうだ。後ろの座席は何時もモノを置くスペースになっていて人を乗せることはめったにない。その下の床に置くと天井ギリギリで枝が少したわんだ。 翌朝、未だ雨が降っていないので、ココに餌をやってから庭に出て、シャリンバイを中央に植えた。百日紅(さるすべり)の足元が空いて寂しかったのが上手い具合に丁度それが似合った。小さな花だけれど霞草のように分散して咲いているので華やかさがある。隣にはマーガレットが満開で和風庭園は花盛りだ。パティオも花盛りで、花の季節だけあってゴールデン・ウイークはガーデニングの季節でもある。暫くすると小雨が降り出した。これで菊梅の挿し木もシャリンバイも上手くついてくれるだろう。例年この時期は晴れれば夏日で、雨になれば肌寒い。ココも空模様と相談しながら出たり入ったりしている。休みで家族全員が揃っているのが珍しいのだろう。(つづく)
2009/05/06
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連休のガーデニング(3) 連休の中日は薄曇りで、明日からは雨が降るらしい。高速道路は予想通り大渋滞でドライブに出ずに良かったと想う反面、若い頃は渋滞なんか何のそのと気にせず何処へでも行ったことを想い出すにつれ、歳相応のガーデニングが今の自分には向いているのだろうと納得する塩梅だ。しかし、考えてみれば、たった千円で休日は何処までも行けるというアイデアは野党のパクリではあっても「過ちを正すに憚ることなかれ」式で国民から歓迎されればそれで良しとせねばならないのだろう。仮に10万台の車が走ったら1億円の売り上げで、往復で2億円となるから、全国的に観ればその5倍はあるだろうから僅か1日で10億円もの売上を得る高速道路公団は笑いが止まらないだろう。ラティスに絡んだ鉄線の花と羽衣ジャスミン 要するに現在の日本の不況は、勿論アメリカのサブプライム・ローンが焦げ付いたのが原因にしても、それは建前上のことで国内的には150兆円もの国民の消費経済が気分的に委縮しているだけのことだから、そのGDPの半分を占める経済活動が正常に舞い出せば景気はうんと良くなるのだ。そのきっかけが高速道路の休日乗り放題千円であっても定額給付金であっても良い訳だ。魚釣りで言えば、兎に角、魚の喰いを良くする潮の流れが起きれば活性化するということなのだから政府は無い知恵を絞ってでも国民受けの良い案を次から次へと出せば体制も何とかなるかも知れないと与党を批判するボクとしては最後のエールをおくってやろうと想うまでだ。(つづく)
2009/05/05
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連休のガーデニング(2) ココとモモが水飲み場にしている庭の片隅の小池に金魚草が咲いている。丁度、水の横だから似合うと思って花ことばを調べてみたところ何と「おしゃべり、でしゃばり、おせっかい、大胆不敵、不作法、図々しい、推理、清純な心」と沢山の意味があって可愛らしいというものが無いのだ。精々「清純な心」というのが当てはまるかなと想う程度でイメージが違うのだった。地中海沿岸が原産地で食用の花としても売られているそうだ。日本で言えば、菊菜や菜の花のような食用花だろう。が、日本で園芸にしている鑑賞用のものではない。大体、野菜そのものが殆ど自然に生えていたものを品種改良したものだから植物はどれでも食べられないことはないのだろう。小池の金魚草 ちなみに山に入れば様々な食べ物が自生している。ボクの経験だけでも、野イチゴ、サクランボ、アケビ、栗、柿、筍、マツタケ、スイバ、グミ、山ブドウ、数々の山菜など色々ある。ボクは所謂、菜食主義者ではないが、野菜の豊富な山の恵みだけでも生活できるような気がする。勿論それらは山歩きの時だけの楽しみだが、家庭菜園をする人は充分に自宅で楽しんでいるのだろう。田舎生活をしている人は野菜なぞ只同然で手に入るようなものだからタンパク質の食材を買うだけで充分事足りる。最近、サラリーマンを辞めて農業を目指す若者が増えているというが何処まで続くことやらと余計な心配をしてしまう。 しかし、あんな大変な仕事を冗談でもやろうと言うだけ真面目な方かも知れない。ボクなんか出来もしないことは端から始めないのだが、自宅で家庭菜園なるものをやりかけて精々出来たのはシイタケやパセリやネギ程度のものだった。自分で作ったので得意になって食べたものの味は淡白で、売っているプロの品物とは雲泥の差があるので止めてしまった。趣味でやる程度だから諦めもつくが、商売となると厳しいものがある。なめてかかると酷い目に遭うこと必定である。素人は素人の出来る範囲で楽しめば良いのだろう。プロの真似をしたところで採算どころか無駄な労力ばかり喰うことになる。 近所の老人が家庭菜園の収穫物をくれたが、味が今一だったから内心困ったことがあった。一応礼を言ってはみたものの旬の美味しさはなく、筍は硬く、ネギは淡白で香りも弱かった。精々、水菜が新鮮でシャキシャキしていたぐらいなもので無農薬だという諦めに似た安心感を持つことが出来たのが幸いだった。そういう実例を知っているだけに自分では家庭菜園はしないことにしたのだ。プロの作ったものを買って食べた方が気が楽だし美味い。伊達にプロをやっていないことを身にしみて実感したものだった。簡単に農業でもやってみようかという若者は早晩挫折するだろう。 が、それを乗り越える人も中には居るだろうから暖かく見守ってやるのも大人の親切さというものだろう。端から失敗が目に見えているから「駄目駄目」と老婆心から言うのは誰にでも言えることだ。「頑張って、やってみなさい」とエールを贈ってやることで言葉に乗せられて頑張る若者も居るだろう。おだてるという事も大事なのだ。失敗した処で若者の人生は長いのだ。臆病な大人には出来ない野心を実行に移す努力を大人は潰してやるだけではなく若者にけしかけるのも一つの社会奉仕のようなものだ。ガーデニングも若者にもっと広がって行くと幅広い本当のガーデニング文化が花開くかも知れない。(つづく)
2009/05/04
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連休のガーデニング 好天気の連休だから何処かへ出かけても良いのだが、高速道路は一杯だろうし、イベント会場も芋の子を洗うほど人出が多いだろうと思うと何処へも行きたくなくなってしまうのだ。それでも何時ものように朝は早くから目が覚め、ココの餌を用意してやった後は、庭に出てガーデニングの一つ、バラやその周りの植物に消毒をすることにして物置から薬剤を取り出し、二千分の一に薄めた液を噴霧器に入れ散布しようとしたら、横にココがちょこんと座って観ているのだ。サプロールといううどんこ病とか黒星病に効く薬でペットに掛らないようにとの注意書きを想い出し、急いでココを家の中に誘い込んだ。パティオの薔薇一輪 網戸をし外へ出られないようにしてから、再びパティオに戻って薬剤を散布し始め、ついでにパティオの外の藪椿にも散布した。ついでと言うよりも、先日、藪椿の横の南天が広がり過ぎて通路にはみ出ていて雨の日なぞ服が濡れるので、紐でフェンスの方へ引っ張って縛った折に、藪椿のうどんこ病らしき白い粉に触ったらしく、以来、手や顔などがかぶれて痒くて仕方なかったから先ずこちらが主体のはずだったのだ。以前に来ていた造園屋が廃業して来なくなってから病気が発生し、止む無くシルバーさんに頼んで消毒と葉刈りを頼んだのだったが病気が亦ぶり返したらしい。 最初、何処か内蔵でもおかしいのかと疑った。が、顔や手だけなので冷静に考えてみたところ、ふと、南天を縛った際に藪椿に顔を突っ込んだのを思い出して、以前にも同じことを経験していたのを忘れていたのだと思うと自分に無性に腹が立って今朝の一番の仕事にしようと考えていたのだった。だから昨日なんか庭樹に散水した際に、庭とパティオの中間にある藪椿にジェット水流で全体を水洗いしておいたのだ。それなのにパティオの薔薇を先に消毒したのは赤い一輪の花に眼が行ったからだった。眼先の変わったものや目立つものに気が取られる内は自分もまだまだ修行が足りないと想ってしまった。 しかし、もう開き過ぎたきらいのある薔薇でも華やかな花だから眼が行くのは仕方がない。盛りを過ぎて咲いても居ない藪椿よりも薔薇の方が男でなくても気が惹かれるものだ。これからは隣の黄色の薔薇や中央に置いてある鉢のミニ薔薇が咲き始めるからパティオも賑やかになる。今は、マーガレットや鉄線なんかが咲き、羽衣ジャスミンのムーッとむせ返るような甘い香りが漂っているだけだ。最近は専らデジカメではなく携帯のカメラで撮っているので、ぶれたり遮光の加減が難しいが、その内に慣れて来るだろう。ふと観れば、ココがパティオに入ってきた。家族にせがんで出してもらったのだろう。(つづく)
2009/05/03
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連休前の追い込み工事 桜が済んでゴールデン・ウイークが始まる頃となった。小学校の工事現場は難航した杭打ち工事もやっと最終段階に入り、休み明けには基礎工事が始まる。約2週間遅れとなった現場も基礎工事が始まれば予定通りに進むので何れ工事短縮を図らねばならなくなる。それがどの部分になるかは未だ分からないが、多分、躯体工事(鉄筋コンクリート工事)の段階でしか出来ないから夏休み中のことになりそうである。まだまだ先の夏休みのことを言っても仕方が無いのだが、具体的に見えなくとも、これまでの経験からその頃が調整できる期間である。生徒が居ない頃の方が工事がし易いのもある。但し、暑さ対策が必要になって来る。最終段階に入った杭打ち工事(手前の機械類は杭周辺に入れるコンクリートのプラント) 暑さ対策は人間の為ではなくコンクリートの為である。つまり、早く乾燥し過ぎるとコンクリートの強度が落ちるのだ。その為に薬剤を混ぜてコンクリートの硬化速度を遅らせる。冬場だとその逆のことをする。温度対策の監理はなかなか厄介なのである。人間だと冷たい水を飲むとか日陰で休憩するとか出来るが、物質は人間が管理してやらないと自分でコントロール出来ないのだ。そういう管理のことを温度補正という。一定以上の強度が出ないコンクリートは検査で不合格となる。そうならないようにするのが監理の役目で、どの部材にも言えることだから鉄骨部材でも同じことが言える。 但し、鉄骨の場合は溶接部分に検査の目が行く。しっかりと付着しているか、ひび割れは無いか等を専用の機械で検査会社にさせるのである。製鉄所で造られた鋼材はミルシートという品質表があるから大丈夫ということになる。溶接にしても現場では殆どせず工場でするから工場と現場の両方で検査をする。そういう風に検査がこれからは多くなる。これからは検査ばかりの工程が待っている。連休が明ければ本格的な建築工事の検査の連続になるから気ぜわしい日がやって来ることになる。その為の準備期間のようなものが杭打ち工事だったのである。お蔭で工事こそ遅れたが、のんびりとした春を過ごすことが出来た。
2009/05/02
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書斎(4) 今朝、毎日飲んでいる薬が切れたのでN先生の診療所へ行った。一番乗りで簡単な問診を受け血圧を測ってもらったところ「上が190、非常に高いですネ。お薬は飲みました?」と訊かれた。「先ほど、食事の後で飲みました」「じゃ、未だ1時間経ってないですネ、その内効いてくるでしょう」「此処へ来ると先生の白衣を見て血圧が上がるようです」「それじゃ、自宅ではもう少し低いのですネ?」「その様です」ということで診察は終わった。薬が出来上がるまで間があったので先日の本の礼を言ってから「全部読み切りました。中々面白かったですヨ、知らなかった先生の一面が分かって」と言うと「え、もう読みましたか、速いですネ」と先生は感心していた。寝室の書斎コーナー(眠れぬ夜の為に) 「そこで・・・実はボクのブログで先生の随筆集のことを書いたのをプリントして来ましたので、時間があれば読んでください」と先日から書いてきた「書斎」のブログをバッグから取り出して渡しておいた。趣味で作ったとは言え豪華本だから金も掛っていることだろうから何か礼でも、と思ったのだが、取りあえずボクのブログでの読後感を渡しておけば確かに読んだことが分かるだろうと軽く想ったのだ。「Mさん(ボクのこと)は、いつも読むのが速いのですか?」「そうなんです。昔からです。一気に読んでしまうのですヨ」続けて、本屋で立ち読みで1冊ぐらい直ぐに読み切ってしまいますと言いかけたが止した。 そんなことを言えば雑に読んだと思われそうだったからだ。本を読むのに「唯読んだ」というのと「じっくり味わいながら読んだ」というのでは受ける印象も違う。時間を掛ければ良いというものでもないが、余り速過ぎると充分に味わったのかしらと思われるだろう。外国語で書かれた文章は日本語よりも時間が掛る。が、言い回しが簡単な手法だから実際は簡単に読める。つまり欧米語には漢字がないということだ。漢字がないものでは隣国のハングル文字などもそうだ。言わば平仮名ばかりと言える。最近になってその薄っぺらさというか不便さから漢字復活を望む声が高まっているという。 逆に中国なぞは漢字を現代略字にしてしまったので本来のルーツが分からなくなって不便になったという。簡略化も行き過ぎると文化を破壊してしまうことになるということだ。その点、エスペラント語は万国共通語として生まれたのだからもっと普及しても良さそうなものだが、わざわざ勉強しなければならない煩わしさが発展・普及を妨げているのだろう。ボクもやってみようかと思った時期があったが結局やらずじまいだった。その点、N先生は偉い。エスペラント学会で海外の大会にまで出席しているのだ。傲慢になった人間が天まで届くバベルの塔を築いて神の怒りをかい人間の言葉がバラバラになったという逸話は面白い。 が、元来は共通語のように人間の言葉は簡単で融通性があったのだろう。多少の方言はあったろうが同じ人間同士の会話だから何とか通じ合うものがあったと想うのだ。動物の間で外国語というのがあるのかどうか知らないが、洋猫と和猫とが通訳なしで語り合っているのを人間は違和感を持たずに見ている。そのように念波が発せられて通じ合うのだから人間も元来は出来た筈である。音楽や絵画・彫刻がわざわざ翻訳しなくても国際的に通ずるのを見れば分かるだろう。建築もそうなのだが、国によって生活習慣や文化が違うから部分的に違和感のあるのは仕方がない。書斎にしても使い勝手が違うのは当然だ。 モンゴルのゲルというテントなぞは家族が一堂に住むのだから書斎という概念そのものが無いだろうし必要もないのだろう。そうなればプライバシーはどうなのだろうと思ったりするが、そもそも家族の中にプライバシーという概念が無いのだろう。但し、心の中ではチャンと鍵が掛けられるから基本的なルールさえ守れば、後は見ても見ぬ振りをするとか見えない垣根を設けたりするのだろう。日本の場合がそうだった。襖一枚で仮に会話が聴こえてきても聴かなかったことにするのが美徳でありマナーでもあったのだ。そういう暗黙の了解が最近では無くなった気がする。
2009/05/01
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