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冬(22) 窓辺のカーテン越しに日向ぼっこをしているココである。観葉植物にはカーテン越しの陽射しが良いのでレースのカーテンを曳く事があるが、ココはカーテンなぞ邪魔で、無い方が日当たりが良いと思って居るのだろう。その証拠に、外へ出る時や、外から室内に入って来る時にレースのカーテンが曳いてあると、それを潜るのが面倒で一瞬立ち止まってボクの顔を観る。つまり邪魔なカーテンを退けて欲しいという意思表示をする訳である。居間の出入口の二か所のガラス戸も自分で曳けば開けられるのにジッと開けてもらうのを待って居る。自分で開けるのが面倒なのである。面倒などと生意気な事を思って居る態度が気に入らないからボクも妻も勧んでは開けてやらない。しかし、開けて貰えるまでジッと我慢して待っているからついに根負けしてどちらかが開けてやる事に成る。待って居る間にも我々の顔を振り返って観るのでやり切れなくなってしまうのだ。そういう点では我々人間よりも我慢強い性格をしている。だからこそ庭で獲物を捕えるタイミングをジッと息を凝らして微動だにせず待っていられるのだ。退屈という言葉を多分知らないのだろう。そのくせ、カーテン越しに日向ぼっこをしてひっくり返って爆睡している様に観えてもボクがデスクから離れると直ぐに起きあがって付いて来るのである。寝ていてもボクの動向を監視していて餌を貰えるタイミングを図っているのだ。年末の忙しい時であろうがココにとっては毎日が勝負なのだ。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/31
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冬(21) 飾棚の横にある電話台でココが毛づくろいしている場面である。書斎の入口から玄関を観た光景で、下駄箱が観える。下駄箱の横には傘立てがあり、その横にはボクの建築事務所の表札の控(事務所は大阪に在る)が少し観えていてアトリエの文字が読める。手前には銅の瓶があってオブジェが飾ってり、その上にはパナマ帽のゴルフ・ハットが掛けてある。ボクには何でも無いと言うか、あり触れた光景なのだが、他所の人には家の表情が垣間(かいま)観える事だろう。電話台には電話は無く、別の電話台に置いてあり、ボクは殆ど携帯で話をするから家の電話は受信専用の様なものである。写真立てにはボクと妻のスナップが入っていて、奥の方に若い頃のものが、手前には数年前の結婚記念日に出掛けたホテルでレストランの職員が撮ってくれたものが入っている。気恥ずかしい写真だが、訪問客が一瞥して夫婦円満に見えると想って置いている。そう思ってくれれば気分がほぐれるのではないだろうか。しかし、これまで誰もそんな事を言った人は居ない。ボクが勝手に想って居るだけの事だ。外国ではデスクに家族の写真を飾って居る場合が多いが、日本では余り見掛けない。国民性の問題なのかも知れない。公私混同してはいけないという日本式の暗黙の了解があるのだろう。ココはそういう事には全く無関心だから自分の身だしなみに余念が無い。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/30
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冬(20) ココはラグドール(縫いぐるみという意味)種の猫で体毛が長いのが特徴である。冬場とも成れば更に長くなる。正面から観れば毛皮(ファー)の襟巻をしている様に見えて温かそうである。事実、ベッドに入って来ると10分もすると炬燵の様に熱くなって来て、自分も熱くなって布団の縁に頭を出してフ―と溜息をついて冷気を吸いながら寝る。後から寝室に入って来て布団の上に乗られると重くて仕方が無いので中に入れてやるのだが、布団の中では身体を伏せ足を投げ出しベターと寝そべって、それこそ敷物のようになって寝ている。ボクに触れるか振れ無いかの距離を保っていて、ボクが寝返りなんかして足や手などが触れると尻尾をバタンバタンと振る。ボクがココに何か合図したかの様に想うのだろう。想い違いなのに一緒に遊んでくれていると想っているのかも知れない。日中は抱かれるのを嫌がるくせにベッドでは大人しく横になっているのである。しかし、朝には既にベッドから出て朝ごはんを貰う準備で椅子の上かカーペットの上でボクの方を観ながら正座して待って居る。時計を見れば5時で未だ暗い。だから寝直すとイライラしてボクを起こしに掛かる。仕方がないからトイレついでに階下に降りて餌をやってから再びベッドに戻って寝るのだが、ココは食べ終えると、家人に外へ出して貰って遊んでいるのだ。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/29
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冬(19) 書斎のソファに乗って寝る前に、自分の居場所を確認する様に前脚で何度も踏みならしてからココは横になる。その仕草が変わっているので妻が興味を持って観ている。「ココちゃん、何を確かめているの?座布団が柔らかすぎるの?」と訊いてもココは知らんぷりで自分の足元に集中している。ム―トンの座布団が柔らかいので何となく気持ち悪いのだろうか。座布団では無く敷き皮のム―トンに乗る時も最初に踏みならしの儀式をする。意味が分からないまま暫く観ていると、その内に納得して横になる。ソファの表面が冷たいから敷き皮や座布団の上に乗るのだろうが、乗ってみれば冷たくは無いもののフワフワなので厚さを確かめているのかも知れない。兎に角、訳の分からない儀式をするものである。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/28
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冬(18) 寒い日は、ココは餌を食べても直ぐには外には出ず、書斎の窓辺に居て庭を眺める事が多い。冬場は猫にとっては退屈な季節である。「雪やコンコ、・・・犬は喜び 庭駈(か)けまはり、猫は火燵(こたつ)で丸くなる」という童謡の通り、隣家のミニ・ダックスフントとパピヨンはキャンキャンと五月蝿く啼く。それを「亦、隣の馬鹿犬が啼いているワ」とココは想っているかの様に無視している。温かい日は、ココが通ると垣根越しに犬連中が吠える。ココはそれが鬱陶しいらしく小走りで通り過ぎ、その鈴の音で犬連中は更に居切り立って「ねえ、ココちゃん一緒に遊ぼうよ!」とでも言っているのだろうか。「あんた達ガキなんかには興味も無いワ」とココは眼もくれず垣根を通り過ぎ、パティオから前栽の方へ行く。そして、定位置になっているガレージの塀の上に座って通りを眺めるのである。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からないが、乗りかかった舟である以上、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むだけの事で一夫多妻の社会なら悩む必要も無い簡単な事なのだと考えれば気が楽になるだろう。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出せないだろう。苦あれば楽ありと信じているのだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうかと反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれないのも事実だ。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれものの小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しでは決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底流には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリー観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた事があった。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのまま、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだと想って居る。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/27
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冬(17) 数年前の夏の頃である。未だ大人に成り切っていない頃で、怖さも知らず毎日狩りばかりしていたから眼も獲物を追う鋭さの様に見える。室外機の上に横たわってパティオで妻がバラの手入れをしているのを眺めている処である。春から秋に掛けてのスリー・シーズンは狩りで退屈しない季節で、特に夏場は獲物に興奮して餌を食べに帰って来るのを忘れる程である。小鳥を獲ったり野ネズミを獲って得意満面で獲物を銜えて自慢しに戻って来る。コウモリも獲物の一つで、ココの敏捷さには感心する。鳩は大きいからなかなか捉えないが中型の小鳥を銜えて来た時なぞは観ているこちらが驚いて、小鳥が可哀想にも想え何とか逃がしてやりたくなってココに「逃がしてやれ!」と言うと、褒められたと勘違いしたのか「ニャア」と啼いたのだった。その一瞬、小鳥はバタバタと慌てて逃げて行った。ココは逃げて行った小鳥を追いかけたが既に後の祭りだった。それでホッとしてボクは家の中に戻ったが、ココは暫く悔し紛れに啼きながら家の周りをウロウロしていた。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/26
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冬(16) このところブログにする程の話題も無いので、ココの日常の写真を探してみた。これまでにココ百景でアップした写真と重複するかも知れないが、写真から判断してコメントを書くから内容は同じでは無い筈である。今日のココは、ベランダで所在なく庭を眺めている処である。黙ってジッとしていると賢そうに観える。腹が減ってボクや家人の廻りをウロウロとまとわりつくココは賢そうには観えない。その代わり可愛いく想えるからペットとしては甘えている方が似合っている。何回も少量ずつ食べるので一日に7回ほど餌を与えている。面倒くさく成って皿に盛り沢山入れておけば与える方は楽だろうが、何時も在り余るほど在ればココも有難味を感じず勝手に食べては外をうろつくだけで飼い主との対話も少なく成るだろう。それに食べ過ぎて肥っては豚猫になるので回数を増やして少しずつ与える事にしている。それが面倒に想えるとペットとの交流も減り可愛さも少なくなるかもしれない。だから毎日の生活のリズムとして3時間おきに餌を与えるのが我が家の飼い方になった。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/25
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冬(15) 山茶花を数日アップしたが未だ満開の時期でも無いので亦後日にアップする事にして、次なる目新しいスナップを撮ろうと考えている。この処、外出をしないので一日があっと言う間に過ぎてしまう。若い頃は家にジッとしているなぞ考えられなかった。ジッとしているのは風邪で寝込んだ時ぐらいだった。そんなに外ばかり出て何が面白いのかと想うぐらい家で燻っているのが嫌だった。学生時代もサラリーマン時代も、独立して建築家に成ってからもそれは続いた。が、数年前から大不況で建築の仕事がガッタリと落ちて毎日が暇になった。年齢的にもそろそろリタイアの頃でもあるのでボクは「これも御時勢」と割り切っているが、働き盛りの人々にとってはそうも行かない。馬鹿な政治家連中に任せていると世の中がおかしく成ってしまう。馬鹿と言える立場に居るのは幸せな方だ。批判も出来ず、兎に角何か仕事を見つけて生活せざるを得ない人々は心の中では想っていても行動出来ない。せめて選挙の時に批判票を入れるしか無いのだろうが、国民の半数近く居る日頃何も考えない人々はマスコミを信用して付和雷同的に投票する。だから変な選挙結果になってしまう。しかし、それも民意なのだ。そういう国に生まれ育ったのだ。諦めでは無いがメクラ千人、メアキ千人の世の中、現実は無視できない。一度痛い目に逢わないと分からない国民は、この先難問にぶち当たってやっと悟る事になるのだろう。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/24
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冬(14) 今年から年末に年賀状を出すのを止めようかと想っている。年賀状は本来、元旦に書くべきものだから理屈では目出度くも無い年末にそれを書くのは嘘を書いている事になるからだ。そんな分かり切った事を誰もが日付を割り引いて元旦に届く様に手配しているだけの事だが、ボクが子供時分は親父が礼装姿で町内の家々を一軒一軒挨拶に廻っていたものだった。相手方は一々玄関口に出るのが面倒で、それ用の名刺受けを玄関に置いておくのが習わしだった。勿論、我が家にも名刺受けの塗りの盆が玄関に置かれてあった。だから年賀状は遠くの人に書く為に在る様なもので、元旦に書いていた様に想う。子供なりにボクも学校で彫った木版やゴム版で年賀状を作ったが、せめて元旦に着く様に大晦日かその前日に投函したのを覚えている。だからその頃から嘘を書いていた事になる。出さなければ来ない人も居たから来た人にだけ返事を兼ねて元旦に書くのも一つの方法だ。もう人生も後半になったから虚礼廃止も含め考え方を改め、来た人やお世話になった人だけに元旦に書こうかとお年玉付き年賀ハガキだけは用意しておく積もりだ。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からないが、乗りかかった舟である以上、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むだけの事で一夫多妻の社会なら悩む必要も無い簡単な事なのだと考えれば気が楽になるだろう。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出せないだろう。苦あれば楽ありと信じているのだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうかと反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれないのも事実だ。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれものの小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しでは決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底流には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリー観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた事があった。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのまま、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだと想って居る。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/23
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冬 (13) 夜なかに尿意を催し、階下のトイレへ行って戻って来て亦、温かいベッドに入ると殊更その温度差で階下が大層冷え込んでいるのを感じる。廊下は暖房していないから仕方が無いのだが、中国や朝鮮のように家全体を床暖房(オンドルと言って床下で練炭を焚いて熱気を全体に循環させる方式)している国では家全体暖房だから、そういう事は無いのだろう。昔、父が軍隊時代の経験談として「満州では二重窓になっているからオンドルで室内では下着一枚でも温かい」と言っていたのを想い出す。日本でも最近ではペアガラスの二重構造になっている建物が増え、外気の冷気を遮断するから静かで温かい。当然、夏場はその逆で、酷暑の外気を遮断し冷房が効率良く働く。さて、ベッドに戻って眠りに就こうとしてもなかなか眠れず、つい考え事をしてしまうのだが、歳のせいか亡くなった友人知人の事を想い浮かべてしまう。年長者は高齢で仕方が無いとしても同年配の場合は残された家族が精神的に大変だろうと気の毒に想えて来る。未だ20年は大丈夫だと自分では想って居ても寿命というものは分からない。未だやり残した事が多くあったのでは無いかと想ったり、ボクだったら未だ何も成し遂げていないだけに今死ぬ訳には行かないと感じながら寝息になるまで浸り続ける。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からないが、乗りかかった舟である以上、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むだけの事で一夫多妻の社会なら悩む必要も無い簡単な事なのだと考えれば気が楽になるだろう。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出せないだろう。苦あれば楽ありと信じているのだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうかと反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれないのも事実だ。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれものの小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しでは決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底流には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリー観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた事があった。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのまま、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだと想って居る。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/22
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冬(12) 沢山咲くから観飽きたと贅沢を言いながらも毎朝庭や前栽に出て咲き始めた山茶花を観ていると、夫々の花にも表情があるのが分かる。ふと、それなら綺麗に想えた瞬間を数枚撮っておこうとカメラを取りに戻った。ココは自分にもカメラを向けられると得意になって様々なポーズを取る。まさかモデルでは無いのだ。だから今日は一枚もココの写真は撮らなかった。猫というものは、いざ写そうとすると逃げたり好むポーズを取ってくれない。シャッター・チャンスは難しい。ボクが他所を向いている振りをして油断させている時に一瞬の隙を見つけて撮らねばスナップの良さは出無いのだ。カメラを意識した写真はどうしても記念撮影になってしまう。それは人間もペットも同じである。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/21
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冬(11) 裏の庭の玉作りの山茶花を近寄って観ると蕾が無数に在るのが分かる。それらが毎日順番に咲いて行き、赤い大きな丸い花の塊と成る。植木屋の跡継ぎの孫が商売替えをしてしまってからシルバーさんに頼む様に成った。それ以来、仕上げが悪いのが気に入らず、こういう小さな低木は自分で刈る事にしている。何故なら、彼らは電気バリカンで刈ってしまうから葉の切れ目がギザギザで刈り残しが枯れて見苦しいのだ。自分で剪定鋏で刈れば、葉はスパッと切れて刈り残しが無く切り口も枯れず仕上がりが綺麗なのだ。葉の切り口を気にしないシルバーさんは目が悪いのだろう。それに早く仕事を済ませられる。自分の仕事を大事にして楽しむ為に老後もシルバー組合に加入する老人だと想っていたのが実はそうでは無く、老人の小遣い稼ぎにいそしんで居るだけなのだ。この頃の植木屋は知らないが、骨のある植木職人なら剪定鋏で仕事をするだろう。特に刈った後で目立つ葉の樹の場合は刈り跡が気になる筈である。プライドというものが無いのだろうか。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/20
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冬 (10) ボチボチ山茶花が咲き始めて来た。もう暫くすれば全体が満開となって派手な立ち木になる。花が多過ぎて有難味を感じないものの派手好みの人には好都合の樹だろう。東洋のバラとも言われる通り花弁はバラそっくりである。前栽には他にも数本これぐらいの大きさの樹が植わって居て賑やかに成る。が、裏の庭には小さな玉作りの山茶花しか無い。しかし、それなりに満開とも成れば賑やかに成るから派手さには負けていない。椿も山茶花も冬の花で手間も掛からず冬枯れの風景を盛り上げてくれる。童謡で垣根の山茶花が咲いている様を歌ったのがあるが、幼稚園の頃よく歌ったものだ。歳のせいかその頃をよく想い出す。昔を懐かしんでばかり居て今を疎かにする愚はしたくないが、過ぎれば何事も美しい想い出に成るだけに、昨今の政治不信に観る悲喜劇が大層ナンセンスに観えて来るのである。小説「猫と女と」(26) 愚息に何も期待しなくなった原因はそれだけでは無かった。その性格や能力からして建築家には全く向いていないのだった。それは高校時代の成績や大学受験でも分かった。理工系が駄目なら美術系でも建築家への道はあった。しかし、経済を選んだのだ。祖父が税理士であった事が大きく影響していた事と美的センスが全く欠如していて能力的にも無理と分かったのだ。分かった以上、向いていない分野に無理やり向かわせる愚は取らなかった。自分の好きな方面に進めば良いのだ。しかし当人は何が好きで何が自分に向いているかも分からないまま安易に祖父の真似をする事で楽に人生を渡って行けると勘違いした様だった。いざ受験してみて自分が如何に馬鹿な選択をしたか分かったのだ。それに気がついたのに今更引き返せないと思ったのか父親の顔を見てかズルズルと税理士を目指している。学歴だけで資格を取れると考えている様で、馬鹿に付ける薬は無いのだ。 もし息子では無く娘であったならどうだったろう。まさか進むべき仕事の道を示唆したり導いたりなぞしなかっただろう。どうせ結婚すれば辞めてしまう仕事なぞ頑張った処で高が知れている。女は結婚すれば男で人生が大きく変わるのだ。親の財産なぞ使ってしまえば無いのと同じだ。自分で生み出す力があれば別だが、そうでないなら夫に頼るしか無いのだ。夫を盛り上げ稼げる男に仕立て上げる事こそ妻の役割だ。その才能を磨くしか無いと考えるべきだ。それがー家を平和にする基本でもある。当然ながら愛だけでは喰って行けない。共稼ぎ夫婦で頑張るのも良いだろう。しかし金だけに振り廻される人生も味気ないものだ。それを舞子も女も感じているのだ。金があっても一家の中心として頼りになる心許せる男が居なければ彼女等は幸せに成れないと信じて居る。それが私でなくとも良い筈だが、運命的な出逢いと女と舞子は感じたのだろう。 瓢箪から駒ではないが、私にとって軽い気持ちで関係を持った女性達が運命的な出逢いに成って私の人生を変えようとして居る。それは吉か凶か分からない。が、乗りかかった舟である。それなら、決して沈まない舟にしなければならない。心がけひとつで吉にも凶にでも成るのだ。一夫一婦制の社会だから悩むのだ。一夫多妻の社会なら悩む必要も無く、簡単な事だと考えれば気が楽になる筈だ。女も舞子も同じ考えだけに、それが少しは救いになる。そして愚妻と愚息の居る家庭に嫌気を感じている私の心の隙間に心地良い春風がそよぐ。その風は花を咲かせ蝶が舞い、夢見心地にしてくれる。しかし私は決して逃げ出さないだろう。苦あれば楽ありと信じているからだ。その落差が大きい程、私の二重の生活にメリハリが効くからだ。片や厳しい現実が在り、片や楽園があると想えばこの上なく楽しい。せめて十年は波風立てずにこのままそっと行って欲しい。 ああ、しかし私は単なる刹那主義者でしか無かったのだろうか。そういう反省めいた考えが浮かんで来るのを抑えきれない。青雲の志を抱いた建築家の卵だった頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう。世界的な建築家に成ってみせると夢見た決意はどうしたのだろう。人生も後半に入り先が見え始めたと言うのに、あと十年は無難に過ごせれば良いなぞと小市民的な事を平気で言う様になってしまった。想い起せば私の人生の夢はもっと気宇壮大なものだった。それを若気の至りとせせら笑うのも良い。曳かれ者の小唄と悔しがっても良い。しかし、誤魔化しで決してそれらを綺麗さっぱり忘れられる訳では無い。自分に嘘はつけないのだ。脳裏にはしっかりと刻まれた青春の誓いが残っている。妻も女も舞子も、かつて別れた女達にも言った事の無い誓いであったとしても私の心の底には女達を相手にしている瞬間にも忘れなかった夢があったのだ。 今からでも夢の実現に向かって何か行動を起こすべきと考え直せばどうだろう?。少しは心のわだかまりを払拭させる事が出来るかも知れない。自問自答して着々と目の前からー歩づつ歩んで行くしか無い。その第ー歩は今の仕事を心から満足行くものにする事だろう。例えば静岡の大学の例をとってみれば、学園のイメージは既に出来上がって建っている。建て替えの建物から急に変えるという訳にも行かないが、当初の意匠の理念は社会に受け入れられている。だからこそ二十年以上経って老朽化した建て替え工事の依頼が再び私に来て、体育館と校舎の一部を設計し直したのだ。最新の耐震構造にしたのは言うまでも無いが、設計理念は変えず意匠だけ少し変えた。つまり時代の要望を反映させ、体育館は出来るだけ明るく屋根からの採光も考慮し、ギャラリーの観戦もし易くした。技術的な事は時代と共に変わるものの設計理念は当初のままという訳だ。 そう言えば学園長の言葉が想い出される。高齢の為、息子に学園長を引き継がせる頃、校舎の増築とメンテナンスの事で相談を受けた時、学園長はこう言ったのだ。「お久しぶりです。お元気に活躍されているご様子、慶賀の至りです。振り返れば貴方のデザインが気に入って設計をお願いしたのは確か三十年前の事でした。それが今では学園のイメージとして定着し、お蔭で社会的にも受け入れられ、ー貫教育の場として中学、高校、大学、更には幼児教育も順調に発展して来ました。新学園長に替わっても設計理念はそのままで、今後共、末永く学園の発展を見護ってやって下さい」教育者として敗戦後の日本を憂え、教育一筋にやって来た彼は、校舎の設計者に対しても温かい眼と期待をかけて居たのだった。その気持ちが以心伝心で感じられ、私は建築家冥利に尽き、頑張って来れたのだ。今もその気持ちに変わりは無い。お蔭で理事会も私を認めてくれている。(1月へつづく)
2012/12/19
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冬(09) クロガネモチの実は天気が良い日は赤色がひと際引き立って観える。ココは赤い実なぞ食べられないから何の面白味も興味も持って居ず、実が落ちようが一向にお構いなしである。尤も、木登りの少々の揺れでは実は落ちないからヒヨドリの来るまで鈴生りに生ったままだろう。しかし、昨年はどうした事かヒヨドリは来なかった。だから一冬まるまる赤い実が残った。一冬どころか夏まで黒ずんだまま残ったので新しい実が重なって出来、植木職人が葉刈りの際、新旧の実を区別して刈っていた。面倒くさい作業だったろう。お蔭で綺麗な赤い実が楽しめている。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/18
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冬 (08) 初冬の庭の風景を数枚用意した。先ず目に付いたのは、赤い実がたわわに生ったクロガネモチの樹である。冬の間、ヒヨドリが食べに来るまで目を楽しませてくれる樹である。曇天の日でも赤い実が在るだけで庭を彩ってくれる。ゴルフのピッチング練習をしていて飽きて来ると赤い実に目をやって気分を変える。その内、ココがやって来てボールの行方を観ていて自分も一緒に遊ぼうとボールを追いかける。ボールは逆スピンが掛かって居るから落下して転げても直ぐに止まる。だからココは見込み違いな追いかけ方をして行き過ぎる。それで少々バツが悪い気になるらしくクロガネモチの樹に登ったりして体裁をつくろう。樹に登ると得意げな顔でボクを見降ろし「此処までおいで」という風な格好をする。元気なワンパク坊主の様な猫である。こちらはそれよりも赤い実が落ちないかと気掛かりになる。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/17
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冬(07) 幼少時代、冬の寝床から窓ガラス越しに庭の手水鉢の横に在る白い椿が毎日一輪咲くのが観え、それが直ぐに落ちるのが哀しかったのを覚えている。親子川の字になって寝ていた。考えてみれば三つ下の妹も居た筈なのだが別の揺り籠で寝ていたのか、座敷だから揺り籠では無く別の布団に居たのかも知れない。が、その記憶は無く白い椿が寒い庭にひっそりと咲いている記憶だけがある。雪の日には花は目立たなかった。便所へ行くのにその前まで行かねばならず、中庭に面しているだけに外にあるのと変わらず寒かった。手水鉢の水が凍っていたりした。それでも子供は元気なものだ。裸に近い状態で寝巻きを着て寝ていたのだった。サラリーマンだった頃、会社の同僚で東北の出身の青年が居て「朝起きると、枕元に雪が吹き込んで積もっていた事がある」と聴かされ「一体どんな生活をしていたのだろう。東北という処はそんんなに貧しい処なのだろうか」と想ったが、直ぐに「そいう生活が当たり前だった」と述懐する様な話し方に彼の生い立ちを一瞬観た気がして問う気が失せてしまった。昔は日本全体が貧しかったのだ。原発がメルトダウンして右往左往して「脱原発だ、節電だ」と騒いでいる今の日本は、命の尊さを忘れ、貧しさから脱却するには経済効果として原発が必要と言う連中ばかりが大手を振っている。何かおかしい。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/16
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冬(06) 冬になると楽しみの一つに庭の乙女椿(白椿)が咲く事だ。この椿はピンクの斑入りである。多分、前の家から移植して剪定した際にトランスポゾンして斑入りになったのだろう。前の家では白い花ばかりだった。それに引き換え垣根に植えた藪椿は赤一色で面白味が無く、山茶花よりも少しは凜としている点が山茶花との違いだが、山茶花は花が多過ぎて有難味を感じないのは贅沢と言うものだろうか。その点、この乙女椿は一本だけしか無く、花もひと冬で精々30個程度しか咲かないから貴重な存在である。もう一株珍しい椿があって、これは花弁が桜の様な五弁の形で天女の薄衣の様に非常に優雅で良い香りがする。冬の終わり頃から春に掛けて咲く。これも花数が非常に少なく10個も無い。薄いピンクで夏椿の様な感じでもある。咲くと直ぐに落ちて花弁が散るのも風情として楽しめる。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/15
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冬(05) 兎に角、お騒がせなココは臆病なくせに自分の要求だけは億面も無く出す。代表は三度三度の餌の要求である。三度なら良いのだが、合計7回ほど要求する。トータルで観れば同じか少し多い量かも知れないが、与えれば与えただけ食べるから一回分スプーン一杯にしている。そうでないと与え過ぎになるからだ。昔飼って居た猫は和猫の三毛だったが、一日一回だけだった。ボクは殆ど外出して夜遅くにしか帰宅しなかったから与える時間が限られていたのだ。それでも元気そうにしていたから猫には充分なのだ。ココの場合は常に誰かが家に居るから甘えているのだろう。特に、最近では仕事が暇で殆ど自宅にボクが居るから何時でも好きな時に貰えると想って居るのだ。ニャアニャアと五月蝿く催促されるのが嫌で、顔を観れば与えるから癖にもなっているらしい。飼い主の責任もある。豚の様に肥ってノソノソと歩く。それでも雀を獲って来たりするからすばしっこい。健康に障害が出る前にセーブしなければならない。冬場は特に肥えるのだ。が、冬は始まったばかりだ。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ないの空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/14
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冬(04) 一昨日の初雪以来、急に寒くなって晩秋ともおさらばし、タイトルも「冬」に変えたが、ココは雪が事の他嫌いで、昨年なぞは雪の幻影で驚いてからは一寸雪の塊を観ただけで恐れを成して逃げてしまう。雪の幻影とは、雪が止んだ翌日、何時もの様に散歩に出掛けたココが何時まで経っても帰って来ない事があって、心配した家人が探しに家の周りを巡ると、裏の空き家の庭からココの啼き声が聴こえ「早く出て来い」と勧めたもののジッと怯えて動かず啼いてばかりいるので、懐中電灯で明りを射してようやく出て来た事があったと外出先から戻ったボクに「それはもう大変だった」と妻が興奮覚めやらぬ話し方で言ったのだった。空き家だから勝手に入る訳にも行かず、息子が懐中電灯で垣根越しに誘導してやっとの思いで出て来させたという。隣家の犬達も心配そうに吠えながら見守っていたそうだ。何に怯えていたのか考えてみると雪のせいだとしか想えない。つまり積もった屋根の雪がドサッと落ちて来て多分ココは飛び上がって驚いたのだろう。観えない敵(幻影)に警戒して物影に潜んでいたものの、暗く成って来て帰るに帰れない状態で啼いていたらしい。それを犬が吠えて家人に教え、ようやく見つけ出したという訳だ。それ以来、雪の幻影というかドサッと大きな音を立てて落ちる雪が恐ろしくなって、その記憶が残っている様だ。だから書斎から外の雪を観ながらパソコンの上に乗ったり、ソファのムートンに寝そべってばかり居る。何とも臆病者の猫だ。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/13
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冬(03) 玄関の前栽の方へ廻ると大名竹を束ねて輪にした簡易門(くぐり輪)は雪でも倒れて居なかった。棕櫚縄で括りつけ支えてあるから大丈夫な様だ。足下のインターロッキングの雪は既に殆ど溶けてしまっている。今年の秋は長く綺麗だった。これからは厳しい冬に向かって3ヶ月程耐え忍ばなくてはならない。しかし、関西は温暖地方だから寒さも知れている。東北の冬の厳しさはドイツや北欧の様なもので、生半可なものでは無いだろう。トーマスマンやヘッセを思い浮かべれば冬の寒さが伝わって来る。ボクは京都生まれの京都育ちだったから雪は余り知らないものの寒さは底冷えと言われる程厳しいのを体験して居て、夏場はうだる程の蒸し暑さで、その両極端を知っているだけに全国何処へ行っても暮らせると言われたものだが、それでも本物の冬は厳しく身体に堪える。最近は体力も落ち冬の寒さが辛い。ゴルフ場へも行けず、精々庭でゴルフのピッチング練習をする程度である。矢張り、春や秋が最高に良く懐かしい。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/12
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冬 (02) 出来る事なら新雪のまっさらの足跡の無い庭を撮りたかったのだが、その雪を嬉しそうに踏みしめた跡があるのが少々残念ではあった。ココは寒いのでボクのベッドで未だ眠ったままで居る。その内、腹が減れば階下に降りて来て朝の餌をねだるだろう。そして食べ終えると庭に出たがるだろうが、雪を観て驚いて書斎の窓からジッと庭の雪景色を眺めているだけに成るのだろう。しかし、その時は雪も半分は溶けてしまっているだろう。それよりも寒さで外へは出ない筈だ。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/11
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冬(01) 目を覚ましてトイレに行くと窓が明るいので夜の内に初雪が降ったのを知った。最初、5時頃に、トイレに行った時は外は暗くて気が付かなかった。唯、やけに寒いなと想っただけで再度、ベッドに戻って眠り込んだ。8時頃に目を覚まし、再びトイレに行った時、窓が異常に明るいので雪に気付いたのだ。犬では無いが小さな子供なら喜びいさんで雪の庭を歩き廻る処だ。そう想って観ると既に足跡が付いていた。何時もアルバイトが無い時は遅くまで寝ている息子が、たまたま雪に気が付いて感激して歩いたらしい。30代後半の独身の息子は日頃、生意気な事を言って居る割には未だ精神年齢が子供なのだ。大人の感覚で観ると大人に成り切れない甲斐性無しにしか観えないが、今時の若者は概して無気力で夢が無いから希有な存在なのかも知れない。まあそんな事を想いながらも、早速ボクもカメラを取り出して外に出て数枚撮ってみたが、既に融け始めているのだった。小説「猫と女と」(25) 兎に角、女達がしおらしく成り、私に従う様になった事は進展だった。私のペースで物事が運び易くなったのは喜ぶべき事に違いない。誰が何と言おうと私と女達とが同じ気持ちで行動出来る事は三人の絆がより強くなる事になり、仮にこの先何か中傷や妨害が入ったとしてもこじれる事なぞ起き難い筈だ。私に二つの家庭が出来る事には成るが、彼女等は私の立場を考えれば私の家庭を壊してまで独占したいとは思わないだろう。それよりも実質的な方を選ぶ筈だ。つまり、それは女二人だけの生活に欠ける一家の中心的役割であり心の拠り所と成る男性が欲しいという事だけだ。結婚なぞ考えてはいないという舞子の心情も本当だろう。女も結婚に失敗して女やもめの長い生活が続いた事もあって今更結婚なぞ望みもしていないのだ。もっと具体的には私と舞子との間に子が出来るという現実だ。子はカスガイと言うではないか。これ程強い絆は無い。 自分達の血を分けあった子ほど確実な愛の証は無いという。舞子も女もそれを強く感じて居る。逆に、それが私への手かせ足かせには成るだろうが、それも運命と考えれば真摯に受け入れるしか無い。万年青年とうそぶいて来た私への神様からのお灸だったのかも知れず、何と神様は時に粋な計らいをするものか。そう考えれば早く子供の顔を見たく成って来る。あれ程衝撃的な出来事と想えた事が、私の新しい人生の幕開けだったと想える様に成って来た。逃げるのでは無く突き進むべき事なのだ。子供には何の罪も責任も無い。無垢の穢れの無い子を我々に与えてくれた神様は我々に何をさせようと考えて居るのだろう。否しかし、その様な事は我々で決めるべき事では無い。我々は唯大事に子供を立派な大人に育て上げるだけで良いのだ。高齢者になっても父親としての責務を果たせば良いだけの事なのだ。それを舞子は母親としてサポートして行くのだ。 だが、其処まで考えて、ー体私は良い歳をして他所の女に子供を産ませる事で如何にも子煩悩な好々爺に成り下がってしまうのだろうかと自問してしまうのだった。こんな筈ではなかった。子供なら既に家に息子がー人居るのだ。舞子よりも少し下の二十代後半にもなって、それも生意気な世間知らずのマザコンなのだ。内弁慶で父親に反発ばかりして朝の挨拶も出来ない情けない男だ。浪人をしてやっと国立大学に入ったものの税理士試験を受けるのに有利だからと大学院まで行きたいと言うので行かせた。卒業後は何を思ったのか折角の就職先もー年で辞めてしまった。毎日ブラブラと暮らし、たまにアルバイトの金で飲みに行って憂さ晴らしをしている。何の為の勉強をしたのか全く分かって居ないのだ。その表れとして国家試験に何回も失敗ばかりし屁理屈をこねては弁解する。そのくせ私がー級建築士である事に対して「あれは簡単な国家試験だそうだ」と言って自分の不合格を弁解した積もりで居るらしい。馬鹿かと想う。 要するに学歴自慢しか出来ない空っぽの頭なのだ。男の腐った様な軟弱な奴だ。「生意気に親の資格試験の事を言う余裕があるなら先ず自分の目指す試験に通ってみろ。ろくに稼ぎも出来ず、偉そうな事を言うなら家を出て自活してみろ!」と前に言った事があった。しかし、その後も一向に態度を改めないままだ。「一体どう成っているのだ?」と妻に訊けば「もう試験は諦めてしまった様ヨ。そっと放っておいてやってヨ」と他人事の様に言う。息子も息子なら妻も妻だ。毅然とした母親としての態度が取れない馬鹿女だ。そんな馬鹿な家族を見ていると不信感しか湧いて来ないのだ。そもそも男の子が生まれ出たのが間違いだった。祖父母に甘やかされ過ぎた様だ。其処が不幸の始まりだった。そのせいか父親を父親とも想わず不遜な態度を取る様になって私は見限ってしまった。今では顔を避け声も掛けなく成って、まるで下宿人か居候が住んで居る様なものだ。 かつて仕事仲間に愚息の愚痴を言った処「親がしっかりしている内は、息子は親に頼ってしまって働かなくなる」と言われた。成る程そういうものかと想った。それを妻に言うと「上を見ればキリがないワ。もっと程度の悪い息子だって世間には幾らでも居るのヨ。そう想ってそっと見護ってやってヨ」と言う。だから仕方無く、食べる位なら家に居ても構わないと考え直し、それからは黙っている。が、多分、そういう私の内面的な不満が外へのはけ口として酒や女に発散して来たのかも知れない。つまり私には心休まる家族というものが無いのと同じ事になる。生来の女好きもあって、デザイン事務所の女に惹かれる様になったのも舞子に溺れてしまったのも、ちゃんとした背景があったのだ。だからと言って自分を正当化しようとは思わない。一家の主が逃げてどうなるものでも無い。私は私、妻は妻だ。愚息なぞ放っておくしか無いのだ。 しかし、そうだからと言って好々爺に成り下がる気も無い。好々爺の何処が悪いのかと言われれば反論のしようも無いが、私は未だまだそういう気には成れないだけの事だ。女がどう思おうと舞子がどういう行動に出ようと私のペースで事を運ぶだけの事だ。もう女に振り廻される気は無い。これまでそういう生き方をして来たのだ。今更誰彼に頼って生きて行く積もりも無ければ妻も子供も要らない。たった一人ででも生きて行けるのだ。尤も、それは寂しい人生だと言う人も居るだろう。しかし、私は一向に構わない。女と舞子とが私に付いて来る限り私も出来る限りの事はしよう。妻も私に付いて来るならそれも良いだろう。但し、馬鹿息子とは縁を切ってしまいたい。父親から見限られれば考えるだろう。それで逆に一生恨もうが自分が蒔いた種なのだ。自分で刈り獲るしか解決方法は無い。男ー匹、自分の身の振り方も出来ない様では見込みも無いという事だ。(12月下旬へつづく)
2012/12/10
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秋(85) 海にポツンと建つこのホテルは、まるでモン・サン・ミッシェルの様で、ビューも良い。ヨーロッパの城にはこういった建物が多く、日本の場合も城には天守閣があってビューは良い。何故なら城下町を一望でき、敵の襲来もいち早く見つけられ守れる様に出来ているからだ。モン・サン・ミッシェルは教会だが、当時の教会は城と同じ役割も果たしていたから言わば大阪城が石山本願寺(一向宗)の拠点であった事と同じ理屈だ。皇居が徳川幕府の拠点(江戸城)をそのまま利用しているのは日本の象徴として利用しているからだろう。出来る事なら、京都御所の様に平城の様で砦ではない宮殿にこそ皇居がある方が国民の信を得やすいと想うのだが、どんなものだろう。福島原発がメルトダウンした直後、急きょ宮内庁の黒塗りの車が大挙して京都御所へ集結して会議を開いたそうだから、ひょっとして京都遷都では無いが移転を考えているのかも知れない。尤も、移転を可能にするには法(皇室典範)改正をせねばならないのだが、法律なんて何とでも成る。揺れ動く日本の政治は原発問題で更に大揺れに揺れ、今月の総選挙てどのように行くだろう。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月中旬へつづく)
2012/12/09
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秋(84) 窓からの風景に気を取られていて、ふと目を床に転ずるとモザイクタイルが綺麗なので暫く眺めていた。このホテルは世界中のホテルを観て廻った建築家が、バブルの頃に金持ちのクライアントから好きな様にデザインしてくれと頼まれ、中東から材料と職人を取り寄せ贅沢に造った有名なホテルである。たまたま大学の恩師から電話が掛かって来て件のホテルの事を言うと「ボクも其処へ一度行ってみたいと思っているんだ。ボクの後輩が設計したそうなんだ」とか。ボクも同じ建築家ながら一生に一度で良いから思う存分好きな風に設計してみたいと想う。つい金の事を考えてしまうから予算に縛られずにずに伸び伸びと設計出来れば建築家冥利に尽きるだろう。しかし、一般にはゼネコンとクライアントを交えた予算会議というものが付いて廻るから難しい問題である。香港の上海銀行(イギリス所有)の様にクライアントから「後世になってもデザインが陳腐化しないものを」との条件が付いていたから最初の予算を大幅に上回り結局三倍にもなってもOKが出たという建物は珍しい。ちなみにこのホテルも自由に金を使えた様だ。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(つづく)
2012/12/08
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秋(83) パソコンを始めて大分経つが、何時の頃からかアルバムではなくパソコンに旅行やゴルフや呑み会の写真を収めるようになった。デジカメがそれを加速させた。それまでは陰画紙の写真をスキャナで収録していたが、今では余程古い写真で無い限りスキャナを使う事も無くなった。その方が場所を取らないし好きな時に直ぐに観られるからだ。パソコンのディスクが一杯になれば余り観ない写真はCDRに収めるから空いたスペースに新しい写真が入る。日頃何か探し物をしている時に天袋に収めたアルバム集を見掛ける事があっても取り出して観る事は無い。わざわざ重いアルバムを取り出す作業が面倒で、今では埃を被っている。パソコンの写真を分類整理していると、ふと数年前に妻と温泉旅行をした時の写真が目に着いた。人物や風景のスナップ写真なぞアップする気は無いが、窓の風景なら絵に成るからアップしても目障りにはならないだろう。そう想って数枚用意した。最初はロビーから観た庭と海の風景である。矢張りリゾート地はリラックス出て良いものである。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月上旬へつづく)
2012/12/07
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秋(82) 旧友達との呑み会は日頃の付き合い仲間との呑み会とは違って利害関係が無い事が多いから気楽なものの様に想えるが、逆に童心に帰って学生時代の言いたい放題や我儘が出て、当時の相手の癖を想いだしたり、忘れていた嫌な面を観る事にもなる。それが懐かしいとか今では分別臭くなった分、感情を表さなかったりして大人の人格で自分を制してしまうから、ボクなんかは逆に疲れてしまったりする。其処がボクの幼児性が残っている面かも知れないが、大人になっても相容れない感情というものは誰にでもある筈である。だから懐かしいだけで楽しめた相手は幸せだが、ボクなんかはその呑み会で疲れ、もう二度とこんな呑み会は嫌だと想ったものだった。その証拠に、その後は一度も会う事もなく過ぎ、急に訃報ハガキが舞い込む事にもなる。そしてお互い、そんな年齢に成って居るのかと驚かされたりするのだろう。兎に角、相手が逝ってしまうと何だか肩すかしを喰った気分になり、人生の儚さを知り、月を観て無常を感じる西行の様な気持になってしまう。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月中旬へつづく)
2012/12/06
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秋(81) 自分では未だ若いと想って居ても、友人の親族から訃報ハガキが来るとドキッとして「えっ!俺は、もうそんな年齢になっているのか」と現実を知らされ驚く。しかし、常識的には60代は未だ死ぬには早い。ボクの父が72歳で亡くなって「もう一寸、長生き出来たのに惜しい」と想ったのが25年前の事だった。が、その頃は72歳でも決して早すぎるとは想わなかった。最近では80、90歳代が当たり前の様になって、喪中ハガキの享年を観れば殆どがその世代の親の年齢である。ボクの父が生きて居れば97歳になる訳だ。ところが、隣家のお婆さんなんかは100歳で未だピンピンと元気に散歩をしているから恐れ入る。「何時までもお元気で、何よりですネ」と声を掛けると「いえいえ、もうあきませんワ」と、それでも嬉しそうな顔でしっかりと返事をする。ボクよりも耳が達者で、数年前に突発性難聴になって補聴器を付けているボクなんかとは雲泥の差だ。同窓生の訃報ハガキを貰って、数年前に彼を交えた呑み会の写真を眺め、想い立って弔意のハガキを彼の奥さんに出しておいた。せめてあと20年は生きていて欲しかった。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月上旬へつづく)
2012/12/05
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秋(80) 5年程前、高校の同窓生6人で飲み会をした事があった。夫々が定年退職したり自分の会社を息子に任せて趣味の世界に入り掛けていた頃で、お互い相手の顔を観て「何と老けたものよ」と驚いたものだった。未だ現役で仕事をしているボクだけが気分的には一番若かった。建築家という仕事は年齢制限が無いだけに惚け無い限り何時までも続けられる。たまたま街角で偶然出逢った同窓生が「定年後は毎日がゴルフ三昧だ」と自慢そうに言ってから「久しぶりに呑み会でもやろう」と提案した。「呑み会?歳も歳だから、小ましな料亭でなら」とボクが適当に条件を付けると後日、呑み会のメール案内が来た。二台の車での観光を兼ねた温泉小旅行だった。東京からはドキュメントの映画監督をしている男が来た。20年前にボクが東京に単身赴任していた頃に新宿のゴールデン街へ呑みに連れてくれたり自宅に招いてくれたりした男で、すっかり禿げ頭の老人になっていた。そんな彼が数ヶ月前に68歳で亡くなったという喪中ハガキが奥さんから来た。余りにも早い突然の死に驚き、信じがたい気持のまま旧友を忍んで呑み会の小旅行写真を取り出して観ている。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(つづく)
2012/12/04
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秋(79) 大人になってからも遊び癖は直らず、毎日の様に高校時代から行き始めた市内の喫茶店に出入りする様になった。其処は言わば井戸端会議の様な処で、小学、中学、高校の先輩連中がたむろしているのだった。京都は余程の暇人が多かったのだろう。勿論、仕事はしているのだが、お茶を飲む時間は必ずどんな事があっても取る処はイギリス人のティー・タイムと似ている。しかし、時間的には夫々バラバラだから誰に出逢うか分からない。ボクなんか後輩だったから先輩の話を聴くばかりだったが、結婚を機に京都を離れ、わざわざ大阪から一杯のコーヒーの為に電車賃を使って出掛けたりもした。しかし東京での単身赴任生活や大阪での忙しい毎日が続くと、やがてお上りさん的存在になってしまい、京都へはめったにしか行かなくなってしまった。当時の常連は皆死んで居なくなってしまったか、老人になってひっそりと家で日向ぼっこでもしているのだろう。この喫茶店は戦時中に出来て、商売上手だった店主が市内に手広く支店を出し、この写真の店も後に出来た。グーグル・アースのストリート・ビューで見つけたので観てみると近所の常連が自転車でやって来て店前に駐輪してあるのが分かる。ひょっとすると昔の常連が白髪頭でコーヒーを飲んでいるかも知れない。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月中旬へつづく)
2012/12/03
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秋(78) 今日は小学校では無く高校の写真(グーグル・アースのストリート・ビューに依る)である。矢張り京都市内の中心辺りにあり昨日の小学校より大分西の方に在る。近くには二条城が在り、その昔、此処に織田信長が暗殺された本能寺が在った。今の本能寺は大分東の方へ移っているが、市の中心が時代と共に東に移動して行った経緯がある。何故移動したのか分からないが多分、鴨川や祇園がある繁華街の方へ引っ張られる様に人々が移動して行ったのだろう。鴨川の河原は出雲の阿国が歌舞伎を始めた場所とされ、今も南座が在り、その向かいには北座という小屋もあったそうな。鴨川では子供時分よく泳いだものだった。街中で育ったボクは東の鴨川や祇園、南は東本願寺、西は二条城、北は京都御所がテリトリーの限界だった。そこが言わば結界で、その外は別世界だった。中心部の小学校やその前の仏光寺と大丸(デパート)は毎日の遊び場で、市役所前ではよくローラー・スケートで遊んだ。流石、高校生とも成れば一端の大人になった気分で、当時の60年安保闘争では街中をデモで練り歩いた。市電を止め、赤旗を持って先頭を歩いていると街の悪餓鬼連中が目ざとくボクを見つけて冷やかしたのだった。大人連中は多分、保守的な街中で育ったくせに何故あんな反動分子が生まれたのかと眉をひそめた事だろう。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月上旬へつづく)
2012/12/02
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秋(77) 1956年にボクが卒業した京都市内の小学校である。正確には、都心部の少子化で生徒が少なく成って20年程前に7校を統合して新しく建て替わった小学校である。だから他の6校が廃校になった訳で、ボクの通った小学校は同じ敷地に名前を変えて残った事になる。何故、この地が選ばれたのか詳しい経緯は知らないが、各校の中心に在った事と歴史的な理由(秀吉の茶会の井戸が残っていた)があったからだろう。地図で観れば市の中央(洛央)に在り、モデル校となった。そのお蔭で建設費用は普通の倍ほど掛けられ、近代的なRC造(鉄筋コンクリート造)の建物には屋上に自動開閉のドーム屋根を持つ温水プールが在る立派なものだ。そう言えばボクが入学した頃も木造の立派な建物だった。その唐風玄関で入学記念写真を撮った時の光景を今も鮮明に覚えている。自分の立っている場所からの風景は勿論、校長先生の後ろ姿まで覚えている。特別に可愛がってくれたからだろうが、彼はボクの伯父と同じ師範学校の同級生で後に府会議員にもなった政治家だ。政治家と言えば市会議員を始め、府会議員、国会議員が我が家によく出入りしていた。父の兄弟が実業家だった事と父の田舎と違って都心という地の利があって連絡事務所代わりになっていたのだろう。小説「猫と女と」(24) 件案のディテールをゼネコンの現場事務所に送り終えるとひと仕事を終えた気になってコーヒーを口にした。同じマンデリンなのに朝のコーヒーとは少し味が薄く感じられた。同じ豆なのに薄く感じるのは体調が良い証拠に想えた。ふと女に電話を掛けてみたくなった。未だホテルに居る筈だった。「あら、珍しいわネ、こんなに早く電話をくれるなんて」「昨夜の今朝だ、気に成らないと言えば嘘に成る。舞子はどうしている?」「元気ヨ。これからチェックアウトするところなのヨ」「そうか、それなら良い」私はひとまず安心して電話を切った。すると追いかける様に携帯が鳴った。女からだった。「電話くれたくせに何だったの?用件も言わずに切るなんて」「別に、用件は無いヨ。よく眠れたかい?」「遅くまで舞子と話し合ったから寝たのは三時頃ヨ。ついさっき起きたばかりなの」「そうか。じゃあ、今日はゆっくりする事だな」「そうネ。・・・でも、折角だから貴方、今から来てヨ。一緒に昼食しましょうヨ」 私は迷った。行けば亦、昨夜の延長の様に成り兼ねない。が、行かなければ余計な気を使う事にもなる。迷っていると女が命令調に言った。「二十分ぐらいで来れるでしょ?ロビーで待って居るから!」女に言われて私は已む無く外へ出た。ホテル下まで地下鉄が繋がっているが、タクシーに乗った。地下鉄の駅まで歩くのが面倒だった。ホテルの前でタクシーを降りると事務所へ電話を掛け、ゼネコンからディテールの件で連絡があったか訊き、今日はもう戻らないと言った。ゼネコンからは了解した旨の連絡があって現場はその線で動き出したとの事だった。仕事は上手く舞っている。それよりもプライベートな事が上手く行くかどうか気掛かりでホテルに来てしまった。何とも情けない男だと自分を恥じ入った。が、今はそんな事は言っていられないのだった。女二人の行動を把握しておかないと仕事が手に付かないのだ。こうなると男とは弱いものだと想った。 女に少しばかり揺さぶりを掛けられただけでオタオタしてしまう。今は辛抱の時だと自分に言い聞かせた。「まあ、機械みたいに正確な人ネ。貴方の良い処は時間厳守、私そういう貴方が好きなのヨ」ロビーで待って居た女が私を見つけて言った。「からかうんじゃ無い。ボクも忙しいんだ。唯、舞子の事が気に掛かって・・・」「そりゃあそうよネ、自分の子供が生まれるのだもの。でも未だ来年の事ヨ、おちついて」女は私の横に立って腕を取った。舞子は反対側の腕に手を回した。二人の女に挟まれて両手に花と単純に喜ぶ気にはなれなかった。「荷物は?」念の為に訊くと「無いワ。ハンドバッグだけヨ」女は含み笑いで言った。「チェックアウトは?」「未だ、これからヨ」「じゃあ、ボクが支払っておく」キーを受取って二人から離れフロントへ向かった。せめてそうする事で主導権を握っておきたかった。主導権を握るなら今日の行動は私が率先しておくべきと考え、これから京都へ行こうと思いついた。 京都へは新幹線で行った。ものの十六、七分もすると京都駅に着き、新しい駅舎とは反対側の八条口からタクシ―に乗った。「紅葉の季節は済んでしまったけど、京都は今が一番凌ぎ易い季節なんだ」「晩秋の京都って良いわねえ。これから何処へ行くの?」「鳥居本の料亭だ。美味い鮎を喰わせてくれる」三十分も走ると嵯峨野辺りに来てなだらかな山並が迫って来た。心落ち着く風景だ。観光バスがすれ違って行く。「何時来ても、良いわねえ京都は!」女も舞子も風景に見入りながら感嘆の声を挙げ満足そうな顔をしている。「秋は松茸だな」私は今日のコースを頭に描きながら彼女等が喜びそうな料理と風景を選んだ。かつて妻と何度もドライブで来て慣れ親しんだ観光コースだが、鳥居本の料亭には何年も行っていない。女将は私の顔を覚えて居ないだろう。 「この辺りは化野(あだしの)という京都の西北の外れで保津川の上流の湾曲している場所だから鮎が下って来て一晩泊まると言われ、別名鮎の宿とも呼ばれている。それを獲って食べると他の鮎よりも美味いそうだ」女達は是まで純和風の料亭に来た事がなかったのか神妙な姿勢で座敷に座り私の説明を聴いていた。「ようこそ、おいでやす。旦那はん、えろう詳しおすなあ。以前にもお見えどしたか?」仲居が感心して言った。「ああ、何回かネ。久しぶりに来たから懐かしいヨ」「それはそれは御贔屓に、有難うございます」「私なんか洋風の処しか行った事がないの、こういう処は珍しくて嬉しいワ」女が言うと舞子も同感だと頷いた。思いつきの計画が女達を満足させる事が出来、来た甲斐があったと想った。考えてみれば女や舞子とは大阪でしか会っていなかったのだ。日本の心の原点であるふる里的な京都に彼女等は感激したのだった。 それ以来、不思議な事に女も舞子も大人しくなった。是までの様に突っ張る事も無理を言う事も無くなり、電話を掛けて来ても受け身の話し方で私の意見を訊いてから同意する様に成った。何がそうさせたのか考えてみたが京都観光だけがそれ程効果があったとは想えなかった。それでも京都の一件が大きく影響しているのは確かだった。それなら今後は京都に連れて行けば良いと単純に想えるが実の処そういう事では無いのだろう。日本人の心のふる里である京都に間近に触れて自分達が知らなかった世界が在った事を知ったのだろう。そう言えば、在日韓国人が日本に溶け込んで本当に信用を得るには日本国籍を取るのは当然としても自治会長に推薦され、仕事をよくやっていると認められて本当の日本人に成れるのだと聞いた事がある。女も舞子も私に嵯峨野を案内され、古い料亭を体験出来て初めて日本という文化に触れ、そういう感情を抱いたのかも知れない。(12月中旬へつづく)
2012/12/01
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