全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()
ココ百景(18) 春に成れば花壇に花が咲き始める。植木鉢にも緑が茂りだす。草花は妻の領域だからボクは只鑑賞するだけである。ボクは庭木の剪定をする。尤も、高木は専門業者に頼むからボクのやる範囲は低木や手の届く高木の枝である。ガーデニングの力仕事もボクの役割で、煉瓦で花壇を作ったり、ラチスで垣根を目隠ししたり、薔薇ゲートを設けて薔薇の蔓(つる)を伸びやすくしたりする。そういう一連の作業をココはジッと観察している。自分も参画している気分になるらしい。行く先々に付いて来る。人間は変な事をするものだと想って居るのか、それとも自分も人間だと想っているのかも知れない。兎に角、家族と一緒に居ると落ち着く様である。
2012/03/31
コメント(0)
![]()
ココ百景(17) ココがパソコンの上に乗る様になったのはこの五年程度だ。以前のパソコンの頃は何故か乗らなかった。どちらもデスク・トップ式ながら今回のは少し面積に余裕があるらしく、それでも僅か10cm幅の細い処に乗って寝そべってみたり方向転換をしたりとボクの動向を観て居る。よく落ちないものだと感心するが、冬場は温かい場所なので居心地が良く、ボクの動きが直ぐに分かるので安心していられるのだろう。何故ボクの動向を観るのかと言えば第一に餌である。腹が減れば直ぐに合図が出来、食べる事が出来る。第二に、外へ出たく成れば矢張り合図をすればガラス戸を開けてもらえる。それに親分の動向を気にしなければ機嫌を損ねれば死活問題に成ると考えているのだろう。ペットはご主人様次第で生死が決まるのである。
2012/03/30
コメント(0)
![]()
ココ百景(16) ココが書斎に居る時間を観察してみると、ボクが一日殆ど居る時間の約三割(三時間)で、居間に居る時間は更に短く、その半分(一時間半)程度である。居間は家族の食事(朝・昼・夜)とお茶休憩の時ぐらいなもので、その他は二階のボクのベッドで眠っているか、庭か他所へ遊びに出ている。だから合計すれば書斎と居間で四時間半から五時間程度になる。冬と夏とでは外に居る時間が相当変わるから、夏場は家の中で眠るのは夜だけに成る。ボクのベッドは冬場だけになっているが、夏場はベッドでは無く椅子の上か隣室の自分の部屋で眠る。自分で温度調整をしているのだ。
2012/03/29
コメント(0)
![]()
ココ百景(15) これから陽気が良くなるにつれ、ココは庭で終日過ごす様に成る。大体、和猫は家に付くと言われる通り家の中に居る事が多いのだが、ココ(ラグドール種)やモモ(アメリカン・ショートヘア種)の様な洋猫は外に居る事の方が多い。一体、外で何をしているのだろうと想うが、それが少しも苦にはならないらしく、適当に狩りをしたり見張り番をしたりして時間に成れば餌を食べに戻って来る。冬の内は家の中に居る事が多いのだが、隣家のモモなぞは冬でも外ばかりで飼われている様で何時も庭の濡れ縁にジッとしているのが垣根越しに観える。もう老齢なので動きが少なく成ってしまって犬が走り回って居るのを眺めているばかりである。
2012/03/28
コメント(0)
![]()
ココ百景(14) ココの指定席が在るのに、わざわざ書斎のボクの椅子にまで来て寝そべる事がある。ボクの臭いがするので安心できるのか、それともボクが戻って来るのを待っているのか知らないが、ボクが近付くと仰向けになってボクを観る。猫や犬が仰向けに成って寝そべるのは一緒に遊んで欲しい時のポーズである。そういう時は腹をさすってマッサージしてやると喜ぶ。喜びが過ぎるとボクの手を甘噛みする。痛くは無いが、度が過ぎると興奮して強く噛む事があるから怪我をしない前に止める。
2012/03/27
コメント(0)
![]()
ココ百景(13) ココの指定席の一つ、赤い椅子である。居間に在って、我々が食事する時に必ずやって来て座る。ココの餌の皿は玄関の階段下に置いてある。其処だと二階からも他の部屋からも必ず通る場所だからココにとって便利だし、臭いが吹き抜けの方に流れて玄関が臭わないのだ。夏場だとツナ缶の残りが臭う。最近では夏場はツナ缶は日持ちがしないのと臭い対策で餌としては与えない事にしている。ココも古くなったツナ缶は食べない。夏場はカリカリ(乾燥食材)を与える。この赤い椅子はココの白とコントラストで合っている。
2012/03/26
コメント(2)
![]()
ココ百景(12) 書斎の次によく居るココの場所は居間の自分の指定席である。赤いイタリー製のモダーンな革の椅子で、白いココと対比色になってサマになって居る。その椅子の手前にはボクの脚乗せ椅子(スツール)があって食事の頃に成ると其処に来てジッとボクを見上げる。それが「餌を頂戴」という合図であって、決してニャア―ニャア―と五月蝿くは啼かない。それがラグドール種の性格らしく、比較的飼い易い猫という事になっている。尤も、避妊手術を受けた猫は概して大人しく成ると言う。
2012/03/25
コメント(0)
![]()
ココ百景(11) 小動物は最初に懐いた相手を親代わりに想うもので、ボクが我が家で一番の存在になった。ココは二番目に位置し、妻や息子は自分の下で三番目若しくは四番目に想うのだ。だからボクの傍が一番安心出来るらしく書斎に居る時間が一番長い。食事を済ませると必ずボクの行く処に付いて来る。だから書斎が馴染みの部屋になって行った。外に出るのも書斎から出るのが癖になって、次第に玄関や勝手口や息子の部屋(二階)のベランダから出るのを覚えて行く様になる。
2012/03/24
コメント(0)
![]()
ココ百景(10) 猫の成長は早い。1年経つともう見掛けは一人前の大人に成った。次第に環境に慣れ、隣家のモモとも対立する様に成って行った。最初は糞トレ―をモモが使うのを拒絶する様に成った。自分の物は他所の猫には使用させない自我が目覚めたのだった。我が家の庭先にモモがやって来る分には未だ対立はなかったが、勝手にトレ―以外で糞をしようとすると威かくして追い返す様になった。モモは仕方無く我が家では庭に糞をしなくなった。その代わり、他所の家の花壇や庭先でするので嫌われて行った。
2012/03/23
コメント(0)
![]()
ココ百景(9) 我が家に来たココは二か月た経ってやっと生後半年に成った。最初直ぐに予防接種を受けに動物医へ連れて行った時に「半年目に成ったら避妊手術に来て下さい」と言われ待っていたのだった。一晩病院に預けて手術を受けさせ、翌日ココを迎えに行った。ぐったりとしたココを駕籠に入れて連れて帰った。少し可哀想な気がした。しかし、暫くすると元気に回復し、ミルクを飲んだ。手術の傷口を舐めない様にエリザベス・カラ―を取りつけても平気で飲んだ。そして走り廻る様に成った。
2012/03/22
コメント(0)
![]()
ココ百景(8) 喜んで元気いっぱい走り廻るココを何とか最初に教え込む躾としては、毎日の糞の処理方法だった。モモの様に何処でも気にせず遣りっ放しでは近所から苦情が出る。特に花壇で糞をしては花が枯れてしまう。糞トレ―を二つ用意して、ココの部屋(二階)と階下の仏間の濡れ縁に夫々置いて毎日教え込んだ。賢い猫で、数日で覚え込んで遣る様に成った。モモも興味をもってココの糞トレ―を使う様に成った。ココは未だそれを怒るまでには成長していなかったのだ。そして次に教えたのは木登りだった。
2012/03/21
コメント(0)
![]()
ココ百景(7) ココにとって幸いだった事は、僅かではあるが我が家に庭があった事だろう。ココをくれた人は大阪のマンション住まいだったから狭い部屋で猫(チンチラ種)と犬(ミニ・ダックスフント)の二匹の仲間とイライラしながら数カ月を過ごしていたのだった。それが百坪程度の敷地ではあるが家の周りは一応庭で囲まれ、表から裏までココは走り回れる環境に替わったのだった。新しい環境で誰にも邪魔されずに自由に行動出来、モモに影響されながら育って行った訳だ。
2012/03/20
コメント(0)
![]()
ココ百景(6) ココが我が家に来た時は、ミーミーと啼いてばかりいる仔猫だった。未だ生後4カ月だった事もあって非常に軽く細長かった。まるでイタチの様に想えた。尻尾が意外に太く、普通に観慣れた猫と違って、これが本当にラグドール種(日本語にすれば「縫いぐるみ」という意味)なのか不審に想ったぐらいだった。階段を上るのは平気だったが降りるのが苦手の様で一段ずつ用心しながら降りていたのが懐かしい。懐かしい写真である。
2012/03/19
コメント(0)
![]()
ココ百景(5)本日から当面の間、ココ百景を開始 ココ(ラグドール種)が我が家に来て、ひと月ほどしてガレージの周りを散歩する様に成った頃(6年前の生後5カ月の頃)。側溝の蓋のグレーチングが途切れて居て隣家の方へは未だ怖くて行けない。ココは精々、家の周りを徘徊するのが精一杯だった。隣家にはモモというアメショウ(アメリカン・ショートヘア種)が居て、この辺りのボス猫だった。何れココがその地位を受け継ぐ事に成るのだが、それでも1年半から2年は掛かった。今のココの親分振りからは想像できない。
2012/03/18
コメント(0)

キー・ボード 今朝、何時もの様にパソコンを立ち上げようとしたら、キー・ボードがウンともスンとも言わないのだ。これまでキー・ボードが故障をした事は無かった。が、調子の悪い時がタマにあって動かない時はその都度再起動すればちゃんと動いてくれた。だから今回もそれを何度もやってみたが駄目だった。そこで、画面のキー・ボードをマウス操作で表示させて暗証番号を入力させ何とか起動せせる事ができたのだったが、画面のキー・ボードにマウスでクリックしながらの文字入力作業では遅いのと目が疲れるので諦める事にしたのだった。その後、メーカーに問い合わせてテストをした結果「キーボードの故障である」という結論が出たので新しく買う事にしたのだったが、文字入力は何かの調べ物以外はブログを書くぐらいなもので、監理業務の報告書を書く時は年の半分程度しか無いのだ。それでもキーボードが無いと不便なので我慢し切れずに買いに行った。 値段が分からないので修理で問い合せたメーカーの担当者に訊いたところ「1万円ぐらいなものですが、安い物もある様です」と気休めの様に言ってくれたので安心して隣町の家電製品店まで出掛けた処、何と数千円で在ったのだった。ワイヤレスだから直ぐに壊れたのだろうと想って、今度はUSBコード付きの物にしようかと考えたが「どちらも変わりませんヨ」とあっさり言われ「それなら」とこれまでと同じ様にワイヤレスのものを買う事にしたのだ。一時はブログは止めようかと想ったぐらい画面のキー・ボード入力が面倒に想えたのがおかしい。「案ずるよりも産むがやすし」だった。パソコンも実に安くなったものだ。周辺機器も同様で、たまたま目にしたチラシに載っていた安売り製品も買おうとしたが売り切れて無かった。午前中に躊躇せずに買いに来ていたなら買えたのにと惜しい事をした。最近は出無精で隣町の家電製品店に行くのさえ面倒なのだ。 まして、用件でも無ければ大阪や近場の街に出る事も無い状態だ。不景気風もさる事ながら気分が乗らないのだ。ガソリンがリッター150円もする時代、フラフラと街に出ても面白くも無く、それならインターネット映画でも観て居る方が気が落ち付く。テレビは相変わらず詰らない番組や国会中継ばかりで観る気もせず、ブログに愚痴ばかり並べてみた処でどうにも成らず、日本はこの先どうなるのやらと独り憂えてみたところで矢張りどうにも成らないのだ。良い老人が愚痴を言う風景なぞ様にも成らず、好々爺は黙ってニコニコしていれば良いのかも知れない。若者の時代に年寄りは蔭でこっそりとバック・アップでもしているべきなのかも知れない。それが美徳というものなのだろう。年寄りが社会にしゃしゃり出て行かねばならない時代ほど不幸な事は無い。もっと若者が自由に行動し易いように仕向け、失敗をしたところで優しく見守ってやるべきなのだ。 それこそが本来の老婆心と言うものなのだ。年寄りは若者の数十倍の経験と知恵がある。それを鼻に掛けるのでは無く、優しく諭すように教えてやるべきなのだ。若者は不安なのだ。空威張りこそするが、本音は無性に寂しいのである。自信も無く実績も無く、どうすれば社会で頭角を出して認められるだろうかと頭を悩ませているのだ。それをせせら笑うなぞ若者を潰しに掛かっている様なものだ。今の政治家が平気でそういう事をしている。官僚も輪を掛けて悪どく金儲けに奔走している有様である。だから彼等の家庭は大抵上手く行って居ない。不良息子や不良娘が事件を起こしたり親不孝を平気でやっているのだ。そういう世間を馬鹿にした親の躾でロクでもない家庭環境が出来上がり、子供の躾もロクに出来ず、外では威張り散らしているから益々ギャップが出来てしまうのだ。子供は自分の親の背中を観ている。家庭で言う事と世間で言う事の矛盾を観て居るのだ。 世間の大部分はインテリでは無い。無学とまでは行かなくとも高度な知識なぞ持ち合せて居ないのだ。唯、やみくもに毎日の生活に追われるだけで無く、何とか安定した家庭を築きたいと願っているだけなのだ。欲を言えばキリが無いが、せめて子供にはまともな教育と幸せな家庭を維持出来るだけの仕事に就かせたいだけなのだ。アスリートやタレントになってくれれば有難いものの、その様な万に一つの目標なぞ飲むべくもないのだ。平凡でも良い。人に後ろ指を指されない真っ当な生き方をして欲しいだけなのである。それが一般大衆の子に対する親の願いである。官僚の様に自分と一族だけが良い目をすれば良いという独善的な差別意識は無い。世間の人々は皆同じなのだと考えて助け合って生きて行きたいと願う善良な市民なのである。それこそが平凡ながら心休まる市井の人々の生き方なのである。そういう人々の連帯の輪が広がって平和な地域が生まれるのだ。 パソコンのキー・ボードが壊れて、この際ブログを書くのを中座しようかと想ったが、書かずには居れないだろうなという気も働いた。だから直ぐに新しく買い求め、早速ブログを再開してみたのだった。しかし、書く事も少なく成って、そろそろ老人は去るべきではないかと考えた。書きたい時にだけ書いて、日頃は人の書いたものを読んで居るだけでも良いのではないかと想った。若者も達者な文章を書くのだ。そして嘘は書かないだろうと想うのだ。ボクはそう信じる。そう想う事で若者は育つのだ。老練な文章を書いたからと言って、その若者が老人であるとは言えない。それと同じく稚拙な文章だからと言って若者だとも言えず、良い歳をした大人や老人が世の中の中心であらねばならないという理由は無いのだ。歳では無い。人間の生きざまを総ての世代が演ずる事で社会は存在し、年齢に関係なく社会が在る事を知れば若者はもっと溌剌と生きるのだ。だから暫く沈黙をしてみようかとも想う。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/17
コメント(353)
![]()
ココ百景(4) 早朝の5時頃にトイレに行くのがボクの目覚めのパターンで、その時にココも一緒に階下に降りる。そしてトイレで用を足している間もココは横に来てボクの仕草をジッと観て居る。毎日同じ事をしているので観慣れた風景ながら、下から観上げられていると妙な気分に成る。動物だからボクが何をしているのか分かっている筈なのに一向に気にせず早く終わらないかなと想っている様だ。ココはメス猫ながら避妊手術を施しているので中性の様で、男のボクの用足しには興味が無い感じである。終われば手を洗い、タオルで拭う前にパッパと手を振ってココに水滴を掛けるのが癖になっている。ココは滴が掛かるとビクッと身体を震わせる。次に台所でココの餌を用意する。ツナ缶の時もあればカリカリ(チップ食材)の時もある。冬場はツナ缶が多く、夏場はカリカリが主に成る。ココ専用の皿に盛り付けると階段下の定位置に置く。ココは早速食べ出す。COCO-021(朝の餌を食べ終え、飾棚に乗ったココ) ココが食べて居る間にボクは隣の書斎に行き、空調機と室内灯を点け、雨戸を開ける。そしてデスクの椅子に座ってパソコンを立ち上げる。数分してから廊下のドアを開けるとココが食べ終えて書斎に入って来る。そして、おもむろにヒョイと飛び上がって飾棚の上に昇る。其処は空調機の対面になり一番温かな場所なのだ。空調機も温風を出し始めた頃で、経験的に自分で探し出した指定場所の様な処だ。室内で一番高い位置で総てが見渡せるので、対角線のデスクのボクも見降ろせるからボクの行動も把握出来る。しかし、デスクの手前のベンジャミンの室内緑化鉢がブラインドになって、その向こうにボクが観えるだけだから、デスクトップのパソコンに隠れたボクの大部分は観えず、頭だけしか観えないのだ。そのせいか、身体が温まると飾棚からトンと降りて来てデスクの上のプリンターに乗ってボクの顔をしげしげと観る。「何か用か?」とボクは分かり切った事を訊く。COCO-022(飾棚で温まったので、そろそろ降りてデスクに移ろうとするココ) 「分かっているくせに惚けちゃって・・・」という顔でココは今度はパソコンの上に乗る。そして暫く其処に居る。ボクは昨夜の内に書き上げたブログを新しい日付の欄に登録し直す。それで取りあえずパソコン業務のの第一段階は終える。そこでやっと後のガラス戸を開けてやる。ココは急いでパソコンから駆け降りポーチに出る。その為にパソコンの上で待って居たのだから「今日は遅かったな」とか「今日は早かったな」と判断しているのかも知れない。兎に角、外に出られたので嬉しそうにしてポーチで庭の方に向かって何か変わった事でも無かったかとキョロキョロしている。夜は外に出して貰えないので一晩で庭の様子が変わっていないか点検をしている様な仕草である。自分のテリトリーである自宅の敷地内の事は総て把握しておかないと気が済まないらしい。たまに野良ネコが侵入して来たりすると「ギャーギャー」と喚き散らす。COCO-023(パソコンの横に来て、外へ出たいポーズで催促するココ) それは威嚇する為のものなのか、それとも救援を求める為のものなのか分からない。兎に角、家人が驚くほどの大きな二匹の猫の啼き声である。ボクか家人が気にかかってガラス戸を開けると野良ネコはパッと逃げる。ココには強気で挑んでも人間には弱気なのだ。ココは逆で、勢いを得て追いかける。ボク又は家人の応援が来た以上、勇気百倍になって追いかけるのである。そういう意味では気の弱いココである。野良ネコは庭を糞で汚すので追いかける事にしているからココの走って行った方向へ行くと、門の処でジッと相手の行方を観て居る。道路に出て追いかける程の行為にまでは成らないものの一応は追い返したという威信に満ちた顔をしている。野良ネコの行方を観れば20m程先をノソノソと歩いて行くのが観える。ココが来ない以上、喧嘩にならないのだ。野良ネコはちょっかいを出した程度の事でしか無いのだろう。詰らなそうな後ろ姿なのだ。COCO-024(ポーチに出して貰って、辺りを覗っているココ) 内弁慶のココはそのまま相手を睨んだままなので、それ以上は構わないで家に戻ると、外の冷気と室内の温度差がフワ―と顔に掛かって来る。こんな寒空でも外に出ていると気持ちが良いのだろうかと不思議な気がする。尤もココは長いファーを着込んで居るから寒くは無い様に外で遊んで居る。先ほど迄、飾棚の上で身体を温めていたくせに一旦温まってしまえば関係が無いのだろうか。動物の感覚は分からない。兎に角、外の好きな猫である。それは多分、隣家のモモ(アメリカン・ショートヘア種)の影響の様である。アメリカン・ショートヘア種はアメリカで古くから居る猫で、清教徒革命でヨーロッパから新大陸へ移住して行った人々が作物を収穫する様になってネズミを追いやる為にヨーロッパから運び込んだとされる猫である。だから家の中では無く外で飼育されネズミをよく獲るそうである。外で暮らすのが当たり前に育ったからかモモも外に居る方が多い。COCO-025(これから庭に出て、ココの一日が始まる) ココは子供時分からモモに影響を受けたらしい。しかし、モモがネズミを獲った光景は一度も観た事は無く、寧ろココの方が狩りは上手で、雀やトカゲをよく咥えて帰って来る。わざわざ獲物を見せに帰って来るのである。ボクも家人も獲物が動いているのを観て可哀想なのと家の中に持ち込まれては大変と入れてやらないのだが、それでもニャアニャアと啼いて「入れろ」と主張するのだ。冬場は狩りの場面は観られないが夏に成れば幾らでも狩りのチャンスがあるから多い時では毎日の様に獲物を咥えて帰って来る。ココ(ラグドール種)の種類の猫の方がモモの種類よりも新しく、精々40年ほど前にアメリカで偶然の交配で生まれた種だそうで、バ―ミャン種(人に懐く大人しいタイ産の種)とチンチラ種(体毛が長く脚の短い愛玩種)とのハ―フで比較的飼い易く人懐っこい種である。それだけに気性が大人しい筈なのに、ココは庭木に昇ったり狩りに長けている処が突然変異なのか元気な猫である。(次週につづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/16
コメント(0)

一年目の福島原発事故(9) サラリーマンを辞めてつくづく想った事は、命令一下で嫌な仕事でもやらねばならない事から解放され、気が休まった事だった。それは人生や生き様にも大きく影響するものだ。だから今回の福島原発事故で東電が正確な情報を隠蔽した事や政府首脳が事実を捻じ曲げて情報を流した経緯が上司の命令で動かされた宮仕えの立場の人間の為せる技だったと考えると卑怯で卑屈ではあるが彼等の立場も少しは分からぬでもないと想われる。しかし、生命に拘わる大変な事を隠して嘘の情報で人々を死の方向に追いやった責任と罪は断罪されねばならないのだ。勿論、源流となった幹部連中が一等罪が重いのは言うまでも無い。が、途中からでも内部告発や批判が出ても良いと想うのに弁明ばかりし、あろうことか政府首脳も一年経って「あの時は、ああいう風にしか言えなかった」と弁明するなぞもっての外である。それで責任が回避できると想う頭がどうかしている。 テレビで枝野や細野がペラペラと話しているのを観ていると腹が立って仕方が無い。それは国民の多くも感じている筈である。前言を翻して世間に迎合しようとする浅ましい態度に恥も外聞も無く居直る姿は人間の皮を被った悪魔にしか観えない。その証拠に彼等の話す態度から、いらつきと目が泳いでいるのが分かる事で自分の身の危険がひしひしと迫っている想いを抱いているのが観えるのだ。何とも哀れな人間である。菅や仙石や野田などロクでもない連中が政府を振り廻して来た恥を国民は何と考えているのだろうと情けなくなってしまう。嫌な国になってしまったものだ。時代は益々悪い方向に向かって居る。幕末の日本の行方を心配し苦労しながら奔走したた若者達の想いを想像するに、今の時代を憂え立ちあがろうとする若者に何とか応援をしてみたくなるのはボクだけでは無いだろう。老人だって国を憂え何とかしたいと想って居るのだ。 サラリーマンをしていた青年、中年時代は体力にも自信があり活力もあった。中高年になってサラリーマン生活を切り上げ建築家として独立した事で収入や体力こそ減ったが、心の平安が増して自分の時間が多く持てる様になった。世間を観る目も立場が替わるとこうも変わるものかと想えるほど余裕を持って観る事が出来、善悪が明瞭に観える様に成ったと想える。特に、ボランティア活動をする様になって社会での役割や一市民として出来る事の限界を知りつつも連携で数が増える事も知った。同じ様な想いをする老若男女が実に多く居るのだ。今回の様な原発による死の灰が降り注いだ東北・関東地方の人々は、被害者でありながら如何にそれから逃れ出るか、如何にその処理を東電や行政に行わさせるかで頭を悩ませている筈だ。全国や世界からボランティアや物心の支援の申し出も多くあるニュースを観る。義捐金も莫大な額に昇っている。 しかし、義捐金なぞ行政や赤十字などの団体の機能がしっかりしていないせいで末端にまで行かず途中で眠ってしまっているという。末端にまで行かないのにはそれなりの理由があるだろう。津波で流された人々の避難地や仮設住宅には届くだろうが、それ以外の人々には難民としての処遇が為されて居ないから正確な情報が無い状態なのだ。自分から求めて言っても役所や赤十字は門前払いをしてしまうのだ。身分証明をするものが無ければ詐欺と同様の扱いをしてしまう体制にも問題がある。何もかも波に飲まれてしまって手ぶらで命からがら逃れた人々は地区の避難所に逃げ込んだろうから未だ仲間が居て身分証明が出来た。しかし誰にも知られずに居る人々は哀れだ。病気になった人も多いだろう。アメリカのテネシー州の洪水被害で家を流された人々の問題でも未だに行政が何も出来ずに放置しているというニュースが伝わる。何処の国も行政は機能していないのだ。 東電にしてもそうだが、政府も巨大な組織に成り過ぎて居る。恐竜が身体の末端にまで目が及ばないのと同じく無神経な行動が多過ぎ内部でバラバラな状態なのだ。もっと小規模で打てば響く体制に改善しなければ何時まで経ってもこのままだろう。その為には矢張り役割分担した以上は権限を持たせて自由に行動出来る様にしなければ、先の宮仕え心理と同じで上司の顔色ばかり観て行動する事に成る。幹部連中が馬鹿だから下が動けないという理由もあるだろう。何処の組織にも観られる現象だ。勝手気ままな行動も混乱を招くだけで組織は機能しないものだが、自衛隊を観ればちゃんと機能しているのは軍隊組織だからだ。命令一下、組織が機能的に動ける訓練を日頃からして来た結果が出て居るのだ。消防もそうだ。警察も軍隊組織になっている。要するに良い意味での序列が機能していれば末端にまで命令が正確に伝わるのである。 福島原発事故から一年経って、根本的な事故対処が為されて居ない現実に苛立っているのに、東北大震災一周年追悼式典なぞでガス抜きをし、これで一段落したとする関係者は選手交代という気持ちでしか無い様だ。無責任極まりない。核燃料の取り出しと原子炉を覆う石棺を設ける事が先決なのに序の口の水掛けで一年間を引っ張って来ただけだった。昔の火消しでも水掛けと同時に延焼する建物を解体して火元を孤立させる作業を優先したものだった。それなのに今の東電や政府のやる事は三基の原子炉に水をチョロチョロと掛ける事とビニールシートで一号炉だけを覆っただけだ。水素爆発した一号炉に引き続いて一号機の数倍もの勢いで爆発した三号炉には覆いも無い。つまり三号炉は原子炉そのものが爆発して核燃料が飛散してしまった状態なのだろうと推測される。何とも恐ろしい状態である。だから東電や政府はこれ以上の被害は無いと想って居るのだろう。馬鹿も休み休みに言えと言いたい。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/15
コメント(0)

一年目の福島原発事故(8) ボクは平和主義者であると自認している。しかも「降りかかる火の粉は自分で払いのける」だけの器量は持っている積りだ。つまり火の粉で火傷をしない為には「打てば響くだけの反射神経を持たねばならない」という事だ。幾ら危険を察知したり、火の粉をかわす気持ちがあっても行動を伴わない神経では無いのと同じである。瞬時に判断して的確な行動を取ってこそ平和は維持出来る。何もせず唯ボーっとしているだけで平和はやって来ないのだ。それが古今東西の歴史である事は誰もが義務教育で学んだ筈である。唯、最近の義務教育は教える側が出来そこないが多いから生徒も大変である。更には親も家庭で教育できる様な能力を持たない者が多いから子供は反面教師として学んでくれれば良いが、そうではない場合は不幸である。給食代も払わない親が小賢しい事を子供に吹き込む時代だから期待する方がおかしいのかも知れない。今の政府の能力も似た様なものだ。 そういう政府は早急に退いてもらねばならない。まさか大臣達を皆殺しにするクーデターが起きる日本では無い事を鼻にかけてノウノウと期限まで居座っている積りなのだ。その期限を与えたのは先の総選挙で投票した国民だった。投票して騙された国民は常識的に考えれば次回の総選挙では絶対に同じ人物を投票しないだろう。だから閣僚級の議員が真っ先に落選するだろうと言われる由縁である。対する野党もだらしないから苦戦すると言われる。しかし議員定数がある以上、誰かが当選する理屈だから余程しっかりした人物を選ばないと同じ過ちを繰り返す事にも成り兼ねない。一般の国民は騙され続けて政治不信に陥ってしまい投票所に行かずに諦めてしまうケースが多い。其処が出来そこない議員の思う壷で、投票率が悪い程生き延びられる確率が増す。国民は踏んだり蹴ったりである。そう成らない為にも、まともな人物を選びたいものである。 立候補者を観て適当な人物が居ない場合もあるだろう。そう言う場合は候補者の中で一番真実を言っていると想える人を選ぶしかない。それなりの実績も大事である。好きとか嫌いで選ぶのは駄目だ。義理で選ぶのも駄目だ。国家や地域社会にとって役立つ人は個性が強いから好き嫌いがハッキリするだろう。万人に受けが良いという人は大した人物で無い場合が多いものだ。そういう意味では選挙は難しい。選んだ後で失敗だったという人物が多過ぎる事実もある。余り期待しなかったが、案外やるなという人物は拾い物と想って育てて行く事だ。人間は成長するものだからである。良くも悪くも成るが、本人もそうだが支持者の器量にも依る処が大である。贔屓が役者を育てるのと同じ理屈で、贔屓の引き倒しでは駄目なのである。厳しい目で評価し、時には温かい目で応援する事こそ信頼関係が増していくのである。そうすれば打てば響く代議士に育って行くだろう。 かつてサラリーマンをしていた頃、ある政治家の選挙運動員として社命で行かされた事があった。勿論、表向きは有給休暇を取ってボランティアで行った形を取った。自分の住む地域では無い他県だったので気楽に応援が出来たが、選挙運動員の殆どは立候補者の関係する会社や商店の社員か家族で地元民でもあった。それらをプロの選挙屋と称するコンサルタントが的確な指示を出していた。ボクも彼の指示の通り動いた。選挙カーに乗って一日中走り回るのも大変疲れるものだ。若かったから出来たのだろう。結果はトップ当選だった。その経験から、矢張り選挙は金が掛かると想った。亦、資金力の豊富な方が勝つのも分かった。プロの選挙屋は党の本部から来て全国を廻っている様で、最初から事前調査で得た情報で裏で動いていたらしく結果を知っている風に悠然としていた。勿論、時代の流れもあるが、必勝方法というものがある様に想えたものだった。 選挙の裏と表を観た様な経験で、投票する側の論理と立候補する側の論理の比較をすれば、矢張り政治家に成る人は悪く言えばペテン師の様な雄弁さとカリスマ性のある風貌と所属する政党でほぼ当落が決まると言える。家柄や血筋というのもあるが、バックアップする支援者の強烈な熱意を得なければ当選し難いものである。東京へ単身赴任していた頃にもよく政治家に会ったが、与党や野党でも内部での序列がものを言い、上位に居る連中の事務所や家族と交流があると様々な情報を得る事に成る。サラリーマンだったボクは個人的な欲なぞ無かったから平気で渡りあったが、政治家の秘書はボクの所属する企業のトップを頭に描きながら話をしていて、その評価で情報内容が濃いものや薄いものに成ってもボクには会社の仕事の一環としてしか感じなかっただけに淡々とした感概しか持てなかったし人間の情なぞ一度も感じた事は無かった。 彼等との付き合いは当然ながらボクに取ってはビジネス・ライクでしか無かった。政治家は金を期待していたであろうし会社は情報の多寡で政治家を評価していただけだった。その狭間で仕事が上手く舞えば吉とし、上手く行かなかったら次回に期待するだけだった。その繋ぎの役目をフィクサーと称する政治屋が走り回り、知りたくも無い世間の裏の情報を教えてくれたりするのだった。彼等と付き合って居ると世の中の仕組みが、本当はどれが真実なのか分からなくなって来る事があって、矢張り真面目にコツコツと毎日を過ごしている方が冒険も無く安全で安心していられると想った。だから基本的には政治家は余り好きではないのだ。かといって彼等と無関係には大きな仕事は出来ない事も事実だから、サラリーマン時代は流れに乗るしか無かった。そういう臨機応変さが取れない仲間はボクの様な立場が理解出来なかっただろうと想う。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/14
コメント(0)

一年目の福島原発事故(7) 中国は沖縄を属国にしたくてウズウズしている。火事場ドロボーの様な日本の周辺諸国が東北大震災や福島原発事故のどさくさに紛れて領土や領海を侵略しようとしている。ロシアは日本の北方領土四島を手放さず、共同開発しようと揺さぶりを掛けて居る。韓国は竹島を占拠して自分の国の領土にしようと国民運動までして焦っている。日本政府は一体何を怯えているのか負け犬の遠吠えの様な態度で具体策や主張すべき事もせず国内では弱い者いじめをして国民の不満のガス抜きばかりをしている。内弁慶の馬鹿丸出しである。どうしてこんな精神薄弱的な政府が出来上がってしまったのだろうか。幕末の日本の危機を感じた若者達が立ちあがったあの気慨は何処へ行ってしまったのだろうか。冷静に考えれば、その時代にも立ちあがった若者達を狂信的に反対し弾圧する人々も居たのだった。あの新撰組もそうだった。今も体制側に立つ人々が自分の保身の為に反対している。 つまりは理屈では原発推進派も自分達の主張が間違っている事を知りながらドップリとそれで良い目をしている状況を放したくないだけの事なのだという事に気が付く。自分さえよければ犠牲者が出ようが一向に構わないし気にもしないのである。エゴの塊と化した連中は権力で反対派を抑えつけようと焦る。その焦りがコストダウンへと走り、絶対しておくべき不可欠な対策を取らず手抜き工事という形となり事故を起こしてしまう。事故を起こせば覆い隠そうととする。多少の犠牲者は出ても仕方が無いとする身勝手な考え方で底辺に居る原発労働者を放射能漬けにしておきながら自分達は素知らぬ涼しい顔でワインを飲んで居る訳である。以前のブログで、そんなに原発が絶対安全と主張するなら何故皇居のお堀傍に原発を設けないのかと問うたことがあった。それなら大都会に送る為のロスの大きい送電施設なぞ設ける必要も無いのだ。 ところが事故が起きる可能性を否定出来ない連中は「陛下の居らっしゃる処に原発なぞ失礼な」と言い、事故が起きて死んでも仕方が無いと目する人々が住む海浜の僻地に設けるのである。原発施設が出来る事でそれまで貧しかった生活が潤う事になった僻地の人々は金で魂を売った人々として地元でも対立し、建設反対派は村八分にされるか出て行かざるを得なくなってしまう。それでも残って反対運動をする人々も居る。そして数十年の年月が経ち反対する人々もやがては原発に慣れ親しんで行くのである。哀れというか、そういう人々の事を天皇陛下は意識下において喪服を来て追悼記念式典に出る。出さされていると言っても良い。権力者側に操られ、政治的意見も述べる事も出来ずに黙々と祈る事しか出来ないのだ。近代国家とか民主主義の概念が出来上がった筈の現代社会で未だその様な古い体質のまま国家が存続する事に奇異な気持ちを抱かない人は居ないだろう。 そういう矛盾を抱えた国家は崩壊の運命に向かっている様なものである。崩壊に至らなくとも矛盾を抱え恩恵に浴している人々は精神的負担を心の片隅に持たざるを得ず、歪んだ精神状態で生活をするから表情は厳しくなり、やがては心身を病む事に成る。皇室や政治家、悪徳官僚や政商の家庭はそういう病巣を持った状態だから哀れな人々とも取れる。其処で何も知らず平和に過ごして来た子供は、ある日ふと何気なくその疑念に気が付いた途端、心の中の人生が変わって行く。人間ならばそう感じるのが自然である。昔なら出家し精神の安寧を願う生活に入ったであろう。ところが現代社会はそれすらもさせてくれないのである。陛下とか閣下と呼ばれて有頂天に成る人も居るだろうから人生は分からないものである。生まれついた星の下、自分ではままならぬ人生を歩まねばならない人は哀れである。哀れと感じない人は幸せである。 東北大震災(福島原発事故)一周年記念追悼式典の前後からマタイ受難曲を聴きながら亡くなった人々の鎮魂を祈っている。ボクは事故責任者の逃げ回る姿や怠慢に怒りを込めて意志表明のブログを書いたり、その存在の整合性が無い原発を批判する事ぐらいしか出来ないが、それでも少しでも世間の人々に知って貰えれば役だっているであろうと心安らぐのである。時代は決して後退しないのである。遅々として進まない様に観える民主化も人々の眼ざめと意識改革で僅かではあっても変化して行くものである。決して諦めてはならない。火事場ドロボーの様な国々の人にも家庭があり家族も居るのだ。そういう愛しい人々を養うのに他国の人々の権利や自由を奪ってでも自国の為と想う矛盾に平気で居られるのは何故だろう。身勝手と言ったところで川向うの火事のようにしか映らないのなら知らしめるべきである。国際紛争とは概してそういう類のものが多い。 目には目を、歯には歯も時には必要である。憲法9条改正が悪の様に言う人が居るが、そういう人はキリストの様に右の頬を打たれれば左の頬を差し出すのだろうか。死刑廃止論者は自分の可愛い子供が理不尽に殺されても矢張り死刑廃止論を唱えるのであろうか。理想論では物事は解決し難い。矢張り現実社会に生きる以上は現実的な方法を用いる方が具体的である。ドロボーに「そういう事をするものではありませんヨ」と優しく諭すよりも、現場でとっ捕まえて裁判に掛けて処断するのが一番分かり易く相手も理解せざるを得ないだろう。処断されるのが嫌ならドロボー行為は起き無くなるだろう。それでも尚ドロボー行為を続けるなら更なるきつい処断をすれば良い。最終的には戦争に近い威嚇行為が必要になるかも知れない。北朝鮮のスパイ漁船を日本の領海内で海上保安庁が銃撃し沈め、引き揚げて晒しものにした途端にスパイ漁船は現れなくなった事例もあるのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/13
コメント(0)

一年目の福島原発事故(6) 東北大震災一周年追悼記念式典を観て白けてしまった。観る前から感じて居た事だが、二万人近い津波犠牲者と福島原発事故の犠牲者の鎮魂式典という美名の下に挙行された巨大なガス抜きの為の様な式典であった。亡くなった人々やその家族には気の毒な気がするものの、この式典で総てが終わったという感じがしてならない。表面上は神妙そうな顔をしながら平然としている政府や東電の関係者達は、明日から原発事故の責任と罪の追及が始まる事を覚悟すべきである。東北人は遅まきながら国と東電に対して集団訴訟を開始するだろう。多分、数十年は掛かる裁判になる筈だ。責任者は代が替わって後任の責任者が他人事の様な気持で業務を受け継ぐだけだろう。福島原発の事故さえ無ければ東北大震災はもっと違った解決の方向に向かった筈である。返す返す残念でならない。悔やんでも悔やみきれない想いがして、この怒りを何処へぶつければ良いか複雑な気持ちである。 水俣の水銀中毒事件やその他の公害の犠牲者が長期の裁判で手にした勝利は、空しいものではあったが、うやむやにせず国や企業に責任を取らせたという事実を忘れてはならない。原発事故に依る損害賠償や精神的苦痛は測り知れないものがあり、既に始まっている病気への不安も付いて廻るだけに戦争責任と同じだけの重さがある。政府や東電(国内の電力会社全社)は逃げて済む問題では無い事は知っているのだ。だからこそ固唾を飲んで国民や批判者の動向を覗っているのである。世論の反撃が一番怖い。ガス抜きをする事で対面を採りつくろうとしているのである。それらを静める為の作用として皇室を利用し、哀悼の意思表示をする事で政府は「言うだけ番長」の役割を平然と続ける。ブログで何度も同じ事を書いて来て虚しいが、それでも言わねばならないのだ。黙ってしまうと彼等の思う壷になってしまう。国民運動で彼等の責任追及と補償をさせねばならない。 昔から東北は哀しみの土地であった。宮沢賢治のイ―ハト―ブ(ロシア語で岩手{いはて}の事を読み露わす表現)の国は「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の世界であった。貧しい人々が苦しみを乗り越えて農業に従事し、近代日本を夢見て来た処であった。宮沢賢治が生まれた頃(1896明治29年)に「三陸地震津波」や「陸羽地震」が発生し、東北地方に多くの災害をもたらした。そういう影響下にあったかの地で育った宮沢賢治の眼には貧しい人々の生活が焼き付いていた事だろう。昔から貧しい土地であった東北地方が今日も同じ様に貧しいまま放置され、安い労働力と恵まれた自然の水や空気が近代国家日本の発展の犠牲になって来た事は日本人なら誰もが知っている。一年前の東北大震災を知って子供の頃、母親が買い与えてくれた宮沢賢治の童話集を読み漁った風景が浮かび上がったのだった。又しても東北地方に不幸が襲ったのだ。 そして更なる不幸・原発事故という悪魔が東北地方を襲い、踏んだり蹴ったりの状態に、よくぞ人々は我慢しているものだと驚き呆れたのだった。関西人のボクなぞには想像も出来ない忍耐力である。とてもじゃ無いが、そういう土地にボクは暮らす事なぞ出来ない。千年もの王城の地であった京都に生まれ育って過酷な自然災害から程遠い生活しか知らない人間に「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の生活なぞ分かろう筈も無い。それでもメルヘンの世界として心優しい少年が苦労する母親を想う詩は響きの良い歌であった。早くに亡くなった役人をしていた義弟なぞは「宮沢賢治全集」を書棚に取り揃えていた。亦、従姉妹の夫で矢張り役人をしていた男も宮沢賢治が好きだったのか定年退官して亡くなる前年に夫婦して宮沢賢治の世界に旅行した。彼等に共通する趣味というか文学には哀しみが漂っていた。人の苦しみが分かる人間に宮沢賢治が共感を呼だのだろうか。 たまたま世界の自動車産業を支える部品工場が東北地方にあった為に世界の自動車産業が被害を受け、生産がストップした時期があった。それを何とかバックアップしようと世界から技術者が東北地方に集結して、6カ月は掛かるだろうと言われた復旧工事が僅か3ヶ月で出来上がったという。今や東北の地にある工場も日本だけのものでは無いという事だった。世界が東北に注目し全体の復旧を願っているのに、肝心の政府は「言うだけ番長」で原発事故の解決策も震災跡地の復旧策も何も持たないのだ。震災一周年追悼記念式典を挙行したからガス抜きが出来たと想い上がるなと言いたい。今では瓦礫の整理整頓や家屋の解体作業等で復興需要という好景気に沸く東北のある繁華街は、新宿歌舞伎町以上に繁盛し活況を呈しているという。我々関西の一般人には遠くて無縁の事だが、ゴールド・ラッシュに沸いた西部劇の様に想え、当面は荒くれ男達が暗躍するのだろう。 ところで最近、入ってきたニュースで、スコットランドがどうもイギリス連邦から離脱して独立するそうだ。未だ決定はしていないが、これでイギリス連邦はウェ―ルズとイングランドだけに成り極端に弱体化し、アメリカの凋落を受けて更に世界の弱小国に転落すると言われる。いよいよ米英帝国の崩壊とBRICの台頭が具体的になって来た訳だ。日本は、北海道と本州と九州、四国の四つの島から成る国だが、多分、夫々が独立をするという事は考え難いものの、道州制が具体的に成って来れば夫々の首長が強く主張し始め、いい加減な現在の政府なぞ吹き飛ばされてしまうかも知れない。現に「大阪維新の会」に観る様に、将来の日本の姿を模索する新しい勢力が台頭して来ていて、旧勢力が必死に成って潰そうと躍起になっている。今の国会議員は程度が低すぎる。地方政府(自治体)の長の方が優秀な人材が多く、沖縄も県には成ったが、かつては独立国であったのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/12
コメント(0)

一年目の福島原発事故(5) 何でもそうだが、物事の解決というものは現実論で処理しなくては決して前へ進まない。余りにも非人間過ぎて人情の欠片もない解決方法は余程の合理性と説得性が無ければ常人では理解も同意も出来兼ねる場合が多いものだ。だから何でも金で解決出来るものでもないが、煎じつめればそれなりに見合った金額で妥協するしか解決策は見い出せない事も事実である。地獄の沙汰も金次第と言うが、矢張り金が解決の為の道具として昔から用いられて来たのにはそれなりの説得性があるからだ。保険金も補償金も見舞い金もすべて様々な想いが込められた最終的な形である。但し、其処へ至るには人間としてのけじめが無ければ成らない。つまり謝罪とか非を認めた反省が無ければ折角の金も価値が半減してしまうだろう。例え儀礼的ではあっても人の道理を踏まえた行為が為されて初めて金額の交渉が開始されるのが一般的である。そうでないと解決は更に遠のく。 今回の東電の態度を観ると最初から間違っている。先ず、事故処理の方法だ。事実を隠そうとする事ばかりに終始し、幹部連中が慌てふためいて逃げていた。先ず社長が出て来て冷静に事実の概要報告と謝罪をすべきであったのに雲隠れしてしまった。上がそういう態度だから下は全部真似をした。そしてカムフラージュ作戦が繰り返されて行った。東大や東工大の御用学者によるテレビ誤魔化しキャンペーンだった。日頃から莫大な研究費と言う名目の献金を東大と東工大の原子物理学科に渡しておいたのだから当然のように東電の側に立った釈明をせよという訳だったのだろう。今、事故当時の彼等の説明を想い起せばとんでもない出鱈目を言っていたかが分かる。素人目にも分かる嘘ばかり並べ立て、都合の悪い質問がテレビ・キャスターや記者から出されると「お前らの様な素人に何が分かるものか!」と恫喝さえしていたのだ。 事故から一年が経って人々はようやく冷静に事故の現実と原因と責任、そして将来の展望を観る事が出来て来た様に想える。簡単な事なのに様々な想いが錯綜して現実を否定し続けて来た一年だった。福島原発のメルトダウンで原子炉が水素爆発して数百kmもの先まで飛散した死の灰で、東北の太平洋側はおろか関東の東京まで被爆地になってしまったのに未だにそれを認めない政府関係者や学者が居る。馬鹿に付ける薬は無いと言うが、矢張り馬鹿は死ななきゃ治らないのだろうか。東北の海岸に面した平地は極端な言い方をすれば住宅地は設けられない事が嫌という程分かった。建てるなら漁港やその関係者施設(加工品工場、倉庫、事務所、仮宿舎、ガレージ、市場、販売店)だけだろう。しかしながら、それには相当の金が要る。復興財源として法案が通っても満足出来る様な金額が関係者に提示されていないのが現状である。 極論を言えば全く発想を替えて、軍港や軍事飛行場なら直ぐにでも造れるだろう。原子力潜水艦の寄港地を造れば東北地方に再び活況が戻って来るだろう。非情な言い方かも知れないが、昨今の世界情勢からすれば火事場ドロボーの様な周辺国ばかりなのだから同情を当てにする様では益々国益が侵害される事ばかりが起きるだろう。現に中国は形振り構わず日本の領海を原子力潜水艦を始めとする軍艦やスパイ漁船が堂々と侵略し始めている。韓国のテレビドラマや映画では日本も韓国も原子力潜水艦を持った後の物語りが出ているぐらいである。最早、そういう時代に入っている事を示唆しているのだ。横須賀や佐世保、更には沖縄に原子力潜水艦が寄港して核弾頭を搭載している。それは公然の秘密になっている。アメリカにすれば日本に原子力潜水艦を持たせたくないと考えるだろうが、アメリカの斜陽化はもう目前である。既に日本は自立防衛が必要な時なのだ。 机上論での平和主義者は絶対戦争反対と唱えながら具体的な平和維持方法を持たない。自分で自分を守れない者が他人を当てにするナンセンスに気が付かないのである。著名な政治家や評論家、学者が未だにそういう持論を展開していながら、いざそういう質問を受けて何も応えられないで居るのが平和ボケした国の文化水準である。現実主義的な方法以外にも平和を模索する方法は幾らでもあった方が良いに決まっているが、具体的な自衛手段を持った上で語るなら人々も耳を傾けるだろう。震災復興を疎外している原発事故の放射能処理で除染ばかりしている今の政府はひょっとして東北を切り捨てて(東北人放棄の皆殺し作戦をする事で)軍事施設が出来る下地作りに暗躍しているのかも知れない。東北人は忍耐強いと煽てられ追いやられるのだ。非人間的な連中の事だからまともな人間の頭で考えるような事なぞする訳が無いと考えた方が正解かも知れない。 東北大震災一周年記念日と言うよりも福島原発事故一周年記念日と名付けた方が具体的で現実味がある。津波で2万人近い人々が亡くなった事件は重大だが、津波の余波で福島原発が人災に依る事故を起こし、200万人以上もの人々が苦しむ姿はもっと重大事故とも言えよう。命が助かったのだから亡くなった人よりも良かったとは決して言えない。むしろ一瞬にして波に飲み込まれて亡くなった人の方が幸せであったのかも知れないと想えるぐらいである。残された人々は哀しみのどん底に突き落とされ、その後の東電や政府の非人間的な扱いに地獄に落とされた様なものである。このブログを関係者が読んで反論があるなら幾らでもボクは受けて立つ用意がある。正義は姑息な意見や方法論では潰されないものである事は歴史が語っている。人々はそれがあるからこそ生きて居られるのである。一日も早く原発事故の後処理が軌道に乗る事を願って止まない。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/11
コメント(4)

一年目の福島原発事故(4) 大体、事故が起きた場合、どのようなものでも原因者が補償するのが人の道理である。補償も出来ない能力しか無い体制で事業を行うのは間違っている。今回の福島原発事故で補償した金額は万分の一にも満たない。東電の全資産を合算しても10%程度でしか成らないからだ。海外の保険会社も東電に対して今年から手を引いたそうだ。そのニュースを一カ月ほど前に聴いて当然だと想った。みすみす損をするのが分かっている事業に誰も金は出さない。では誰が補償するのか。当然、国家がするしかない。しかし、国家には金が無い。だから復興税という予算が設けられた。更に乗じて消費税を上げると言いだした。火事場ドロボーのような連中である。自分達が別途に使う特別会計の無駄を棚に上げておいて国民から新税法案で金を集めようとする魂胆だ。解散を臭わされた野党は、勝てるかどうか分からないものの今よりは少しはマシに想え解散風に乗ろうとしている。 その為の与党の提出する新税法案への賛成で与野党の党首二人が公然の秘密の形で密会したりする。そういう田舎芝居を国民は覚めた目でしか観ない。与党も野党も無能で無策なのは原発事故そのものの対処の仕方が分からず烏合の衆で騒いでいるだけだからである。国民の為とか国家の為と口では言うが、本当の処、国民の噂が静まるのを待っているだけである。日本人は時間が経つと簡単に忘れたり美化してしまう性分だから時間稼ぎをしているのである。例えば、先の大戦が敗戦(無条件降伏)だったのを終戦と称して国民を騙して来た。そしてそれが事実、国民も終戦と言う事で心の痛手や屈辱感を和らげる事が出来たと想ったのか誰も反省せず忘れようと努めた。福島原発事故も歳月が経てば除染という訳の分からない行為で騙せると踏んでいるのだろう。ボクは絶対に騙されないが、大方の人々は除染で放射線は無く成ると信じて居る。否、信じたいのだろう。 非科学的な心情論で放射能による病気なぞ成らないとするなら、こんな有難い話は無いが、そう信じるなら、もう宗教論でしか無い。日本教という誤魔化し教団が信者を騙し、次世代では昔話で済まそうとするのだろうか。馬鹿馬鹿しいがそれが我が日本の姿なのかも知れない。天皇家という国民の頂点を操る事で国民を靡かせ政府の思惑通りに運ぶ手法は明治以来、延々と続けられて来た何時か来た道である。天皇陛下が言った言葉は有難く承りそのまま信じる。信じるのは勝手だが、信じない人々を村八分にするような風潮をマスコミが煽ったとするならヒトラー率いるナチスと何等変わらない。アメリカのCIAに依る情報操作でアメリカ国民が洗脳され、アルカイダや中東の人々をテロリストと見做してしまう空気が怖い。大日本帝国陸軍参謀本部が喧伝した情報や指令で多くの善良な市民が逮捕され拷問され投獄された暗い歴史が蘇って来る不安を感じる。 皇室が時の権力者に又もや利用され日本が暗くて危険な道を辿る危険性が感じられて恐ろしくなって来る。皇室を敬う国民が洗脳されたように行動する様は北朝鮮のマスゲームを観る想いがする。それで国民は幸せなのだろうか。同じ行動を取らなければ浮き上がってしまう風評が怖い。似非皇室ファンが追っかけをすれば釣らされて一緒に追っかけをする連中が得意そうにテレビで語る。「◎◎さまは、今日はお健やかな表情をなさっていて幸せです」と言えば人々は微笑み「◎◎さまの、ご苦労をなさっている暗い顔を観ると哀しくなってしまいます」とでも言おうものなら涙ぐんで頷くのだ。芸能人じゃあるまいにファンは贔屓の引き倒しをしている事に気が付かないのだろうか。昔から皇室とNHKの批判はタブーとして来たマスコミは黙して語らず、高句麗出身の皇室を褒め称えるのは韓国人だけかも知れない。日本のファンは日本古来の純粋民族であったとする。 元々、日本民族は、モンゴロイドの末裔である。人類の源流はアフリカの黒色人種に起源を見出し、それが白色人種と黄色人種とに分化し世界へ散って行ったとされる。モンゴロイドは黄色人種の中の一種で、全世界に分布し南は南米のチリにまで存在するのだ。日本で言えば、縄文時代や弥生時代という一万年余りの歴史があり、それもモンゴロイドの末裔である。日本民族独自の純粋民族というものは突然生まれた訳では無い。後年になって朝鮮半島から渡って来た人々も文化の違いこそあれ同族種であった訳だ。北や南や西からの様々な経路を経て極東の絶海の孤島に来た人々は数千年、否、数万年掛けて融合し合って出来上がって行ったと観るのが自然な人類学の定説である。だから我々は同根のモンゴロイド種の末裔である以上、民族間の対立なぞ枝葉末節の事に過ぎないのに現実社会は対立と区別と差別の混在した複雑な社会になってしまっている。 残念ながらそれが人類の歴史であり、ヨーロッパでもアジアでも同じ事が延々と繰り返されて来た。未来的にはSF的に宇宙人との対立が描かれているが、それは飽くまでもSFでしか無く人類と同種である生き物なのか全く違う種なのかさえ分かっていない未知なる存在である。UFOでさえその存在を疑う報道が未だ存在する。自分の眼で観て居ない人には信じられないだろうが、実際に体験すれば簡単に信じられる科学的事実である。膨大な数の目撃証言や写真があるものの、未だ科学的には証明されていないから未知なる存在なのだが、時期が来れば明らかになるだろう。その時期が何時なのか言うだけの資料を持ち合わせて居ないが、かつて青年時代に京都で巨大なUFOを目撃したボクには近い将来であろうと信じられる。ひょっとすると今回の福島原発事故の処理方法が今の原始的な遣り方では無く、もっと科学的な方法が彼等から得られるかも知れないという希望すら持っている。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/10
コメント(0)

一年目の福島原発事故(3) 最近に成ってようやく政界やマスコミや科学者達から反省めいた言論が聴かれる様になって来た。一言で言えば、国民に真実が漏れ出し、隅々にまで行きわたって批判勢力が増してきたので今の内に弁解をして罪を減じてもらおうという卑屈な助平根性からであろう。一年も経って何もして来なかった連中がいけしゃあしゃあとよく言えるものかと想う。それこそ恥知らずで重罪ものだ。原発の事故原因が人災であった事を未だ隠そうとしている以上、国民はもう決して騙され無いぞという意気込みである。女川原発が地震や津波にも耐えたから矢張り原発は大丈夫だと言う評論家も出て来た。女川がセーフで福島がアウトという事は矢張り福島原発事故は人災であったと言っている様なものだ。何故なら、女川原発は福島原発よりも高台に設けたからと言う。それでは福島はコスト・ダウンの為にバックアップ・システムの発動機を海側の低い位置に持って行ったという事に成る。 コスト・アップしてでも絶対安全神話は護られるべきであった。長年の津波被害が無かった事を幸いに手抜きやコスト・ダウンした結果が福島原発の事故だった。此処まで明らかなのに何処まで隠し通せると想っているのだろうか。政治家は舌が三枚から四枚あるからご都合主義的に何でも言うが、学者やジャーナリストは一度嘘を言えば後が無い。信用を無くした政治家同様、次から何も聴いてもらえなくなるからだ。一度発せられた言葉は国民は覚えて居る。記録にも残る。それでも尚言い替えをしてでも責任逃れをしたいという浅ましさが哀れである。他にも優秀な政治家や学者やジャーナリストが居ると信じたいから彼等が現れるのを持ちたい。日本はそんな底の浅い国では無い筈である。東北大震災が教訓になって今や関東大震災の再来を心配する声が日増しに高くなっているのは科学者がデータを見なおしたからだろう。 無責任でいい加減な情報を発して安心させるよりもきつい目に言っておく方がましだろう。人々は多少なりとも覚悟が出来、対策も考える様に成るからだ。変なお為ごかしなぞ言うととんでもない結果を生む事にも成り兼ねない。「狼が来るぞ―ッ!」と言って脅かす狼少年も困るが、マンネリに成らず絶えず危機感を持っている方がイザという時に役立つ。備えあれば憂え無しというが、中々そうは行かないのが人生でもある。用意周到な人も居るが、そういう人に限って実践で間に合わなかったり役立たなかったりする事例が多いのは皮肉なものであるが、せめて防災グッズだけでも容易はしておきたい。非常用の飲料水なぞは半年に一度の割合で新しいものに交換して、古い物は米のとぎ汁にでも使ってしまう習慣を付けておけば期限切れや健康面での心配も無い。更には、一か所に収納しておくのでは無く、窓に近い処の収納場所に分散しておけば震災の際、取り出し易い。 阪神大震災の直後、現地へ行った時に倒れた家々を観てつくづくそう想った。道を行く人々の手の届く位置に窓があって中は目茶苦茶に壊れて居て入り難かった。それでも窓から物を取り出している人々が黙々と家の周りの整理をしていた。それを写真撮影するのが気が引けてし難かった。人の難儀している姿を記録するのも勇気が要るものである。自分は無事に居てボランティアをしようとしているものの、高見の見物人の様な気がして後ろめたい想いをさせられた。しかし、被災者の気持ちに成れば、哀しいとか苦しい気持ち以上に救援をして欲しい気持ちの方が強い筈だし、彼等のプライドを傷つけない遣り方で優しく接すべきなのだろう。人助けも気づかいが必要で難しいものである。正しい事をしているのだから平然と当たり前の様な顔をしているという態度は被災者にとっては嫌なものだろう。変な同情よりも明るい顔で元気づける方が気持ちはスッキリするものだ。 東北大震災の復興が遅れている理由の大半は、規模が広範囲過ぎる事なのだろうが、それよりももっと深刻なのは福島原発のメルトダウンが起きてしまった事である。それも福島第一原発には原子炉が四つあって、その内の一基だけが点検休止中だったので三基共がメルトダウンしてしまった。福島第二原発も点検休止中だったのが幸いしたが、もし運転中だったらと想うとゾッとする。それでも三基もの原子炉が同時にメルトダウンした例はこれまで世界には無い。それだけに深刻なのだ。一基だけでもメルトダウンして大変だったスリーマイル島やチェルノブイリの比ではないのだ。それを日本政府は過小評価しようと必死にデータを改ざんしてしか発表しないから真実が隠されて余計に不安と不審と猜疑心が蔓延してしまった。今や誰も政府を信用しなくなってしまった。それが復興を遅らせる一因にもなっているのである。危なっかしくて近寄れないのだ。 原発事故当事者が及び腰なのだから政府は逃げの態度で役人は責任逃れと自己保身に走り、東電は開き直りの態度と来ては、被災者は勿論、国民は何を頼りに行動すれば良いのだろう。数少ない情報から身を守る事しかできない。風向きで広範囲に撒き散らされた放射性物質の除去は多分不可能であろう。精々、人々の棲むエリアの除染というお為ごかしの作業で人心を安心させようと目論んで居るのだろうが無理はもう其処まで来ている。何故なら除染で生じた膨大な量の土が堆積させられ誰も引き取り手が無いのである。引きとり手が無いからと全国の自治体に強制的に分担させようとしても住民の誰もが当然拒否するのだ。放射性が比較的弱い(毎時0.001ミリ・シーベルト)瓦礫でも引き取り拒否の憂き目にあっているのだ。他所の住民からすれば当然の事だ。だからこそ原発事故で50年以上入れない周辺ゾーンに堆積させてコンクリートで覆うしか無いのである。そのゾーンは国有地にして厳重な国家管理をしていくしか無いのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/09
コメント(0)

一年目の福島原発事故(2) 日本は核の犠牲としてはヒロシマ・ナガサキでの原爆で世界初に成った国である。そして今度はビキニ環礁での日本漁船が核実験の死の灰を浴びて第二の犠牲者になった。原発事故ではアメリカのスリーマイル島やソ連(現ロシア)のチェルノブイリに続いて三番目である。しかし、原発事故(メルト・ダウン)後一年間も放置したまま唯単に原子炉に水を掛けて冷やしているだけの国は日本だけである。アメリカもロシアも決死の覚悟で高レベルの放射線が出ている中、後処理をした英雄がいたのだ。日本でも東電の下請けの東芝や日立の社員や孫請けの業者が決死の覚悟で今も現場で働いているのは時折ニュースで伝わって来るが、肝心の国や東電の技術者が原子炉の中に入って作業をしたというニュースは一度も無い。やっている事と言えば玩具のようなロボットで偵察しているだけだ。誰も死ぬ覚悟でやっていないのが現実である。 東大や東工大の御用学者達は自分の命は惜しいから原子炉に近寄ろうともせず嘘ばかり言ってせせら笑っていたのだ。そんなに安全と言うのなら現場に行って陣頭指揮でもすれば「流石、言う事と遣る事とが一致している」と評価の一つも受ける処だが、自分で嘘を突いているのが正直に顔に出ているものだから隠しようも無く、記者から疑問点の質問を受けただけで顔を真っ赤にして自己説を強弁していたに過ぎなかった。その為、世界から日本の学者や政治家のレベルの低さを軽蔑するコメントが多く寄せられ非難もしていた。「何とか頑張っている」と評価したのは原発汚染水の処理を請け負ったフランスのアレバ社の経営陣だけだった。日本は上得意先だけに決して悪口は言えない立場の連中の言葉なぞ誰が信用するものかと想ったものだ。地震や津波の無いフランスだからこそ原発大国になっただけの事で、決して絶対安全で安心だとは言えない代物なのだ。 フランスにも日本と同じ様な津波が来るとするなら、モン・サン・ミッシェルのような遠浅の海から来る巨大な波は原発を一飲みにしてしまうだろう。シェルブールの核燃料リサイクル工場だって危ない。華の都パリも核エネルギーにどっぷりと浸かっていて見掛けとは裏腹な危ない大都会なのだ。ところが彼等は言うだろう「フランスと日本とでは地理も違えば文化も違う。日本のような田舎者の言う事なぞ信じられるか」と。確かに文化の度合いは比較の仕様が無い。日本から憧れてパリへ行った芸術家や文学者達は西欧文化の香りに酔いしれて東洋の孤島の様な田舎から来た事を恥じ、フランス人に成った人々も居たぐらいだった。それでも我が日本が恋しいと帰国した人々はパリの香りを漂わせながらハイカラな生活をしつつ日本を徐々に西欧化して行った。だからこそシャンソンが流行り、化粧品が売れ、ファッションの発祥地から下流へと流行は流れて行った訳だ。 今もフランス崇拝者は五万と居て「おフランス」と崇める女性が何と多い事か。油絵と言えばパリ画壇が鎮座まして日本の芸術家は盲目的にフランスを目指す。ロンドンやニューヨークなぞ目じゃないのだ。そういう処で安全神話が出来上がった原発に何の疑いも持たず日本政府はアメリカ産の原発を後生大事にパテント入手し、買わされた東芝・日立は元を採り返そうと東南アジアやアフリカに再販したくてウズウズしているのが現在の日本の原子力産業である。ウランが駄目ならトリウムでと新たな原発産業はほとぼりの冷めるのを待っている。東北人はモルモットにされ人体実験の経過を観察しているのが日本政府である。その証拠に心の中では彼等を人間として観て居ず、口では復興とか故郷へ戻ろう運動を呼び掛けているのだ。セシウムが放射線を出している内は危なっかしくて近寄れないのに除染と称して地面を削っている。馬鹿のやる事は何処までも愚かしい。 住宅地や農地の土を削って、除染が出来たとして其処に生活基盤を据えろと言う。馬鹿も休み休みに言えと言いたい。広大な山野に降り注いだ放射性物質が雨に流されて下の農地や住宅地に流れ込んで来たり地下水になって来るのを平気で飲めと言っているのと同じなのだ。体内被曝をしたところで目に見えないから大丈夫だとでも言うのだろうか。矢張り東北人を人間とは想って居ないのだ。大好きな故郷に戻って商売をしたいとか農業をやりたいと言う無知な人々の感情論に訴えかけるマスコミも同罪である。放射性物質が放射線を出さなくなるまでの50年から60年間は人は住めないという簡単な理屈を口が酸っぱく成る程説明しても「おらが村さ戻りてえ」という無知な人々を説得するのが政府の仕事なのに逆の事を言って人体実験をしようとしている。寧ろ、こんな事を言うボクなんかは悪魔か鬼とでも想っているのではないだろうか。哀れというか情けない。 福島原発が爆発してメルト・ダウンして一年が経つのに何の手当ても出来ない状態が続いているのに未だ低次元の事をまともな顔をして論じている人々(政府も役人も地元民も)が居るのが呆れて物が言えない。何処までも無知な人々は成るようにしか成らないのだろう。「此処まで言って駄目なら仕方が無い、どうぞ好きな様にして下さい。その代わり後で恨み事は言わないで」とでも言うしか無い様だ。ところで、心臓バイパス手術をして何とか体力を回復された天皇陛下は3・11の記念式典に出席されるそうだ。二万人近い人々が津波で亡くなった哀しみもさることながら原発被害で苦しんでいる東北人にも労りの言葉を掛けられるのだろうが、心情的には理解できるものの決して感情論だけでは何も解決にはならない。単純な物理学の現象(放射性物質による被曝)は心情論では解決せず、物理的な避難と原発の遮蔽工事(石棺)が何よりも先決事項である事を強調しておきたい。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/08
コメント(0)

一年目の福島原発事故(1) 一昨日、福島原発の事を書いた。事故から一年が経っても原発事故の処理が殆ど進んで居ない事に苛立ちを覚えて書いたのだ。中央政府や政治家が殆ど口ばかりで実際には逃げてばかり居る様にしか観えないのが何故なのか考えてみた。何か原因があるに違いない。当然ながら事故の重大性は認識している筈なのだ。地元出身の政治家が無能である事は国民の一致した見解だろう。敢えて名前は挙げない。調べれば誰でも直ぐに分かるからだ。政府の中枢に居る政治家もそうだ。次に役人(官僚)は自分から表には出ず他人事のような顔をしている。当事者である東電なぞは開き直って「どうでも好きな様にしてくれ」という顔をしている。地元自治体は非力で中央政府の指示を待って居るだけで何とか動いてはいるが被災者の仮設住宅を作る事と瓦礫整理だけで精一杯だ。他県へ避難移設した臨時の役場は手続き関係のルーチン・ワークで矢張り精一杯だ。 政治家が何故、原発事故から逃げているのかという疑念を考えると余りにも単純過ぎて回答にならないと自分を疑ってみたくなる。というのは、常識ではあっては成らない事故だから自分で回答が出せないからだ。もう少し掘り下げれば、問題が余りにも大き過ぎて自分では如何ともし難いからだとも言えよう。最初そう考えて「まさか、そうでは無いだろう」と想った。しかし、様々なケースを考えたが答が出無かった。余りにも明らか過ぎるのと専門外過ぎるせいもあるのだろう。原子力の平和利用というのは分かっても、ウランからプルトニウムを抽出させるプロセスで核分裂が生じて数千度もの高熱を発熱し、それを軽水(普通の水)を巡回させて冷やすという理屈は多分知っているのだろうが、それは飽くまで与えられた情報の知識として知っているだけの事で、体験的には何も知らないのだ。どうやってウランが燃料として使えるのか全く無知なのである。 そういう意味ではボクだって専門外の人間だ。たまたま独身時代に美浜原子炉三号機の増設工事で関連建物の設計に携わった事で原発の理屈を知っただけのことでしか無く、一般人よりも少々詳しいだけだったに過ぎない。それがメルト・ダウンするなぞ映画で観た「チャイナ・シンドローム」での事故物語りでしか知らなかったのだ。核燃料棒が事故で冷やされ無くなってメルト・ダウンし始め、ドンドンと溶け出すと重力で下へ下へと落ちて行き、原子炉のステンレス壁やその下のコンクリートまで溶かして行き、地面に到達しても尚溶けて地球の中心部へ向かい、アメリカの裏側の中国へ到達するという話なのだが、実際は地球の中心部には行かず、途中のマグマに溶け込んで混じって終わりというだけの事なのだが、其処まで行く途中でウランに含まれた放射性物質の半減期が来て将来的には消滅してしまうであろうとされるだけの事である。 話は簡単だが、半減期が来るまでの長い期間、放射能に晒されて原子炉の周り数十km圏内は危険で立ち入れない事になる。半減期が来ても放射性物質が無く成る訳ではないから更に長期間危険な状態である事には変わり無く原発周辺は死のゾーンのままである。放射線を浴びると(被爆者に成ると)様々な病気に成る。放射線量によって直ぐに死ぬ場合から白血病や癌を発病してジワジワと死に向かって行く場合まで難儀な病気になるのである。直接に被爆者に成らなくても、原発から出た放射線に汚染された埃を被った作物や水を飲食しただけでも体内被曝を起こし発病するから海外に居ても飲食すれば間接被曝をする。だから日本の食料品が現在輸入禁止になっていて貿易できなくなっている。風評も手伝って日本製の物は放射能検査が義務付けられ検査と称して港にストックされたり返品扱いになり事実上受け入れ拒否の様な状態で売れなくなっている。 昨年から日本の貿易額が輸入超過になってドンドン赤字が増えている。このままでは日本製品は海外で製造された物しか売れなくなってしまうかも知れない。貿易で成り立つ日本経済は、このままでは数年で破綻してしまうかも知れない。そういう疑念すら政治家は抱いていないのでは無いかと想われる。素人でも分かる理屈を彼等は考えようともしないで逃げ回っているのだ。それでも国税から給料を貰えると考えている連中なのだから国債を膨大に発行しても平気で居られるのだ。国民の預貯金が国債発行額よりも多いという数字のマジックに酔いしれて惚けているのである。早晩、大混乱が来るだろう。銀行の取り付け騒ぎからデフォルトに陥りIMFの管理下に置かれ、かつての韓国のように成るかも知れない。決して絵空事では無く笑い事では済まなく成るのである。それを政治家は直感的に身体で感じて惚け老人の様に成ってしまったのだと言えよう。 今直ぐ政治家がやらねばならない事は、瓦礫の整理や消費税値上げ法案に奔走する事では無い。放射線を浴びた地域からの退去命令をし国民を避難させ、福島原発から放射能が漏れ出さない処置を取る事である。火事が起きているのに川向うから眺めて居るだけでは駄目なのだ。火を消す為に石棺で覆わなければ放射能は幾らでも飛散するのである。二階から目薬をさす様に水をチョロチョロ掛けているだけでは何の解決にもならない。お為ごかしで国民を誤魔化すのは詐欺師の手口である。今では勉強した一般国民の方が原発や放射能に関して詳しいのだ。謙虚に己の無知を恥じ、一所懸命に努力して役人をけし掛け原発事故の直接手当てと遮蔽をし、被爆地の立ち入り禁止処置をし、被爆者の手当ても補償もするのが当面の仕事である。それ以外の政務はそれこそルーチン・ワークで並の国会議員が法案を論じ緊急性のあるものから通せば済むのである。地に落ちた政治家の失地回復はそういう行動をとってこそ為されるものである。国民は観て居る。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/07
コメント(0)
![]()
ココ百景(3) 殺人を犯した凶悪犯に対して、仮にその被害者が自分の身内であった場合は許せないという気持が多少でもあるなら軽々に凶悪犯の死刑廃止なぞ言うべきでは無い。他人の命なら奪われても仕方が無いと割り切って自分の身内なら許せないと言うのでは身勝手すぎる。それでは真の主張にはならない。分かった風な事を言った処で、実際に自分の身に被害が及べば言う事も変わる。それが人間の性でもあるのだ。人は他人の心は理解し難いものである。だから事件の関係者になった刑事はその事件の担当から外されるというのは人間は感情の動物である事を示唆しているのだ。冷静な評論家とて人間だから感情的に成ることもあるだろう。幾ら死刑廃止論者でも例外は無い。テレビで意見の違う二人の評論家が死刑廃止論について口角泡を飛ばしながら論戦をしていた事があった。どちらも譲らず、結論は出なかったが、死刑廃止論者の方は後日、自説を強調しなくなった。COCO-011(ガレージの車の屋根に乗ったココ) それは、彼が言う理想論では殺人事件が無くならない事を薄々気付いて来た証拠でもあった。ところで何故「ココ百景」で死刑廃止論が出たのか前回の2月25日の「ココ百景(2)」を読み返してみた。大分前の話なので忘れてしまっていたのだ。其処では命を大切にしない輩が居る事を指摘していたのだった。命の尊さを知らない輩は貧しい育ち方をして来た連中に多かった。経済的にも精神的にも貧しい連中という意味だ。つまり親が子供の躾を怠った結果である。暴力的な親が子供の性格を歪めたものが多い。ブログを描いた頃、光市の母子殺人事件の犯人(事件当時未成年だった)に死刑の判決が報道された。未成年者に死刑の判決が出るケースは珍しい。それは犯人に反省の色が無く、変な弁護団が変な入れ知恵をした結果、犯人を頑なな言動に追いやったと世間では観られた。無知な犯人は生き伸びようと下手な強がりや訳の分からない言動に出た様だ。COCO-012(ガレージの塀の上に乗ったココ) 若い母親を暴行し赤ン坊まで一緒に殺して押し入れに隠した理由を訊かれて犯人は「ドラえもんが生き返らせてくれると想った」と述べたと言われる。尋常な精神状態では無いというポーズを弁護士から勧められ取らされたのではないかと言われた。仮にそうだとしても犯人の小賢しい想いが滲み出ていて命の尊厳さを踏みにじる言葉だと人々は怒りを露わにしたものだった。それらの言動に対して当時の大阪府知事が記者団にコメントを求められ、想う処を正直に話した為に、弁護団が過剰反応して名誉棄損で告訴し、知事は陳謝した。が、ボクは弁護団こそ陳謝すべきだと想った。弁護団は犯人を弁護するどころか死刑の方向に導入した様なものだった。そして人々の批判に応えられず弁護団は隠れてしまった。実に情けない連中だ。こういう弁護士の様な人間が現政府の幹部にも居て、尖閣列島で領海侵犯して海上保安官に暴行すらした中国人を簡単に釈放させたのだ。COCO-013(塀の上に飽きたココは、次なる目標に向かう) それが日本国内を騒然とさせ国際問題になるや逃げてしまってコメントすら出来ないのだ。当時の外務大臣は、八ッ場ダム中止の件やこの件で味噌を突いて「言うだけ番長」と新聞に揶揄される始末で、同じ京都出身で新国劇の役者の様な顔をした政治家だけに少なからず好感を持って居たボクだったが大いに失望してしまった。思わず「何だ、こりゃ。やっぱり、言うだけ番長と言われる由縁だ」と口走ってしまったものだ。政治家は言った事に責任を持たねばならないのは言うまでも無い。大言壮語しておいて途中で逃げ出す人間なぞ信用出来ない。それが今度は人気取りに走り「大阪維新の会」の党首に摺り寄っているという。何とも政治家と言う連中は油断も隙も無い。大阪市長も騙されない様にくれぐれも注意する様に願いたいものである。尤も、政治家は勝ってこそ評価されるものだから「虎穴に入らずんば虎児を得ず」式にチャンスを生かす事も大切ではある。COCO-014(書斎で、外に出たいポーズをするココ) かつて、サラリーマン時代に政治家(殆ど代議士だった)によく会いに行った事があったが、殆ど用件は第一秘書が処理してくれた様に、彼等の世界は秘書でもっている様なものだ。それだけに、政治家が誰それと会うとか一寸した情報のやり取りは秘書が手配するから政治家本人はマスコミに嗅ぎつけられない様に用心している。それが昨今の様に直ぐにリークされてしまう時代は政治家も余程用心して掛からないと命取りに成らないとも限らない。尤も、変な動きをしていない限り余計な心配をする事は無い筈である。それがニュース画像で表情を流されるから心の内を読み取られない様にポーカー・フェイスで居なければならないのは言うまでも無い。つまり一旦外に出れば七人の敵が居ると覚悟しているべきで、ボクの様な素人でも母親によくそういう事を言われたものだった。まして彼等は特別な世界に居る訳だから当然そういう覚悟で居る筈である。COCO-015(指定席になっている高野槇の下で丸くなるココ) それでもニュース画像で出た表情を国民は観て夫々勝手な想像をするものだ。人間不信に陥って当たり前なのかも知れない。そういう商売(?)をしている以上、覚悟は必要だ。何も同情はしないが、上手く立ち回れない政治家を観ていると馬鹿かと想ってしまう。人を騙すのが商売だけに騙される政治家なぞ価値が無いと判断されても仕方が無いのだ。政治家というものは雑多な事を絶えず心に抱いているだけに、平安な心で居られる筈の家庭ですら落ち着かないのは単に寝るだけの場所に成ってしまっているからだ。食事も自宅で取る事が殆ど無い生活をしている。可哀想な人間だとは想うが、自分で選んだ仕事だけに覚悟は出来ている筈である。国民に叩かれて幾らの仕事をしていても支持者が居る限りは生命もあるから生きて居られるのだろう。そんな事を想いながら、かつて付き合いのあった先生達を想い出し、たまにテレビに映ると「ほうー、未だ活躍しているのか」と懐かしく観てしまう。(次週につづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/06
コメント(0)

平和な人々(9) 早いもので、あと一週間もすれば東北大震災から一年が経つ。つまり、福島原発のメルトダウンから一年が経つ訳である。その間、ノウノウとして来た民主党を始めとする国会議員達や当時「メルトダウン?そんな事はあり得ない!軽々な事は言うものではない!」と連日テレビで偉そうに見下した様な発言をしていた東大や東工大の原子物理学の教授達は一体何をして来たのだろう。まるで詐欺師では無かったのか。今も国会議員や大学教授を続けているとするなら最早まともな人間では無い。恥知らずの国賊ばかりである。そしてマスコミも無責任でナンセンスな職業人でしか無かったと言う事だ。責任の一端でも感じているなら今からでも遅くは無いから当時の真実を報道すべきである。そして何が原因で事故が拡大してしまったのか検証すべきである。自己批判も反省も無く、何となく世間の顔色を伺いながら仕事を続けているなぞ卑怯で卑劣な人間でしか無い。 実際そう想われても仕方が無い。報道人としての自覚があるなら真実を伝えるのが責任でありプロの仕事人だからである。まさか素人集団ではあるまいに素人のボランティアに負ける行動力では情けない。先日も京都の大学で建築を専攻する学生がボランティアで、長距離バスを乗り継いで東北の被災地の仮設住宅に向かって出掛けて行き、防寒対策として断熱資材を持って住宅の窓や入り口の防寒工事に従事する画像を観た。同じ建築に携わる人間として何が出来るか考えた末の彼等の行動に涙が出る程感激させられた。若いと言う事は素晴らしい。学生が知恵と勇気を出して、政府(国も地方自治体も)が出来ない対策をやってくれているのだ。それで被災者はどれだけ有難く想って喜んでいる事か。遠く離れていても実感として伝わって来る。それに反して何百万人もの人間が居る東京やその周辺の関東人は東北被災地の人々の為に何をしているのかと想う。 言葉で同情したりエールを送るだけで無く具体的に実際に何をするかがボランティアの精神なのだ。確かに雪かきや瓦礫の整理に出掛けている関東の人々の姿も画像で観る事もあるが、ものの数では無い。ほんの1%の人でも動けば驚くほどの効果が出るのに出掛ける人は少ない。薄情な人々が多いのだろう。しかし、我々にそれを強要する権利は無い。政府が率先してやらない限り人々は動かないだろう。動きたくても動けない人々も多いのだろう。そんな政府なぞサッサと解散して出直せば潔いのだ。今、解散すれば落選が確実視されているから我が身が可愛い国会議員は黙して語らず、嵐の過ぎるのを待って居るのだろう。実に情けない国会議員が多い事か。民主党の最高顧問と称する老人なぞは「解散すれば皆落選するだろうから、小沢派も同じで民主党から出る事もままならぬだろう」なぞと寝ぼけた事を言っているという。落ちるなら落ちれば良いのだ。 それだけの評価しか受けていない国会議員なぞゴミだ。真に国民の事を想って国会議員をやっているなら滅私奉公なぞ朝飯前の筈である。「大阪維新の会」を見よ。着々と目標に向かって進んでいるではないか。大阪維新の会のリーダーである橋下大阪市長なぞは自分の給与を40%カットしてでも頑張っているのだ。税金の無駄遣いを身をもって実践しているのである。少しでも見習って国政に励めと言いたい。最初は誰もが青雲の志を持って議員になった筈なのだ。それが成って数年経つと醜い垢に染まってしまう連中が多過ぎる。哀しい事だが、それが事実なのだ。つまり余りにも貧しい連中が多過ぎるという事だ。恥を知れと言いたい。金にまみれて権力を手にしようともがけばもがく程泥沼に沈む。悪循環の構図が其処には出来上がっているらしい。哀れである。せめて心だけでもリッチになって余裕のある見通しを立てて行けないものかと悔やまれる。 一般的に言われる事は、国会議員に成れば誰もが首相を目指すという。まさかと想うが、自分の能力を過大評価し過ぎる連中が多過ぎるのである。青雲の志を持つ事は素晴らしいが、己を知らずして大望を描き過ぎる連中がウヨウヨ居る。その証拠に戦後の宰相に観られる様なお粗末な連中が過半を占め、中々の人物であると評価された宰相なぞ数える程も居なかった。それが日本の政治のレベルなのだと言ってしまえば其れまでだが、数人でもまともな人物が居た事実がある限り、可能性はゼロでは無いのだ。それを我々市民が育て上げる空気を作らねばならない。腐りきった政党や政治家を排除しなければ明日の日本は無い。どこまでも無責任体質で恥を知らない政治家や官僚に任せていれば本当に日本は沈没してしまうだろう。今こそ、国民が怒りを持って冷静に政治家を選ぶ時である。出鱈目な原発対策しか持たない政治家は先ず落とされる。 国家予算を野放図に膨張させる事しか知らない連中も落とされるだろう。官僚が天下り先を無数に作り、其処へ大金を流し込む特別会計の構図を知りながら手をこまねいている議員も危ない。要するに今の時代は情報が国民に漏れ出す時代だから隠し通せないのだ。何時までも甘い汁を吸えると想っている連中は旧世代の古き良き時代を未だ夢観ている平和な人々に過ぎない。そろそろ国民も目が覚めて来ているという事実を知るべきである。金の亡者に理性は働かない。ボランティアで頑張る青年のキラキラ光る眼を観て恥ずかしくないのだ。恥も外聞も忘れた輩は死ぬしか無い。ボクの怒りは大方の国民の怒りと同じである。小さな国の中で仲間を喰い物にする連中は、腹が減ったタコが自分の足を喰うという構図と同じである。893と何等変わらない。893は映画の中で生きる一種のメルヘンであったというのが心貧しい連中の記憶にあるだけである。時代は変わったのである。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/05
コメント(2)

平和な人々(8) つまり「現成公案」の序の意味する処は「人間というものは現実の物事に執着し縛られるものだが、そんな状態から逃れ、在りのままの真実を知る事が解脱であり、一度この境地に入れば、あらゆる差別観から逃れられ解脱する事からも捉われなくなるものである。それは理屈ではなく実践によって得られる」と言うのである。つまり生きるという事を難しく考えずに在りのまま受け入れる事こそ大事だとする。我々は小難しい事を考えたり屁理屈を捏ねまわすが、素朴な心は純粋であり白紙の状態で自然と向き合うものである。要らぬ恐怖や傲慢さほど人間を苦しめるものは無い。そう想って圧迫され苦しくなった胸をなで下ろす様にしているのだが、矢張り凡夫は凡夫なりの生き方しか出来ないのか毎日同じ様な事をベッドの中で想っては心を静めようともがいている。せめて煩わしい事や哀しい想い出は忘れる様にしているのだが駄目である。 よしそれなら哀しみは哀しみとして西行の月を観て涙する想いと同じく人生を深く振り返れば良いのだろうと考え直す。あの時こうすれば良かったとか、いやいや自分には出来なかったのだと後悔したり諦めたりして今後の為に反省をすれば良いだけの事だ。高々人生の期間なぞ知れている。それよりも今の一瞬こそが大事なのだと想い直して明日に希望を持つのだ。過去のしがらみに縛られていては何も出来ない。かといって反省もせず単なる恥知らずでは嫌だ。人間として恥じない行動だけは取りたい。その為にも人との対立は出来るだけ避けたい。要らぬ誤解を招く事は言わぬが華かも知れないのだ。黙して人の行動を見護っている方が賢いのだろう。これからは西行ではないが「物言えば虚しく成るや秋の空」で行こう。それが老人の知恵と言うものだろう。知ったかぶりで物言う愚かさは誰も褒めてなぞくれないのだ。好々爺は好々爺としての生き方があるのだ。 良い歳をして分かった風な事を言っているくせに、進歩の無いままぐうたらな生き方をしている自分が恥ずかしい。求められたからといって住宅の自治会にノコノコと出て行って爺さん婆さんが集まっている中で訳知りな事を言っても誰も顔では分かった様な振りをするが何も分かってはいないのだ。そんな相手に腹を立てても仕方が無い。先ず、相手にしない方が賢明なのだ。長老として意見を求められれば役員を自宅に来させて想う処を言ってやれば良いのだ。一所懸命に出掛けて迄言う事ではない。小学校や高校の同窓生との飲み会も精々お付き合い程度の会話で良い。既に出来上がっている人々に説教じみた事を言えば必ず反発があって当たり前なのだ。彼等とて一家の主として家では威張っているのだ。幾ら気易い相手だからと気を許して何でも話をすると、何十年も会わなかった間に彼等が形成された人間性に振り廻される事に成る。 既に昔の彼等とは違うという事を知るべしである。人は変わるのである。それが人生なのだ。憧憬はそのまま懐かしい記憶として心の内に残しておけば美しい記憶として生き続けるのだ。最近、改めて読み直しているニーチェも読んで行く内に、若かった頃の様な好奇心や知識欲よりも「昔の考えも今も同じ」という覚めた見方が先に立って新しい感動なぞ生まれない。考え方が新しかろうが古かろうが関係無く、彼は彼で自分は自分なのだ。そこから得たものは既に若い頃に消化してしまっているのである。だから今更新鮮味が無くて当たり前なのだ。今流のドライで軽薄な考え方でも充分世の中を渡って行ける事実が時代を後退させている事も人々は気付いている筈なのだ。主義主張よりも経済が優先する時代、人を騙してでも金儲けをする者が大手を振って歩いている。そして他人の財布に手を突っ込んで「お前は、こんな僅かな金しか持って居ない」と言う。 893まがいに億面も無く他人の事を好き勝手に言い続けた挙句「浪費が過ぎる!」と自分の事は棚に上げて、喚き散らし、更に「浪費する金があるなら、もっと俺に投資しろ!」と迫り「金が無いなら、いっその事、デフォルトしてIMFの世話になれ!」と脅す。要するに支配したい欲望が尽きる事無く、現代版の植民地政策を採る事で、何時までも自分が世界で一番で居たいという本音が詐欺まがいの経済理論外交と称して相手を煙に巻く訳だ。ところが残念な事に新興勢力が伸して来て彼等に揺さぶりを掛ける。どちらも頼りは金だけだから、持てる側と持たざる側との権利の主張の仕合いで拮抗しつつ、やがては凋落の目に遭うであろう事をひしひしと感じ始める旧勢力は何とか相手の弱点を突こうとする。それが軍事演習であったりテロリスト対策であったり人権外交であったりしたところで時代は止まる事を知らず、お互いの勢力図は徐々に変化して行く。 主義主張を強く打ち出せる内は空威張りであっても相手は躊躇する。その怯んだ隙に乗じて新たな詐欺理論を打ち出す。ノーベル賞を貰った経済学者の理論とは概してそういうものである。何か新しい考え方が「打ち出の小づち」に見え経済的に危うい立場に居る者は直ぐに飛びつく。それに操られて動く人々は一時の平和を享受する。そして活況を呈した風にマスコミは喧伝する。世界は暫く影響を受け、例えば地球温暖化とかいうまやかしの理論に振り廻される事になる。原発が地球温暖化を喰い止める優しいエネルギーだとも言う。スリーマイル島、チェルノブイリ、福島でのメルトダウンはほんの人為的ミスとして片付けようとする。まして福島は自然災害であったとして人為的ミス迄をも覆い隠そうとする。何処までも無責任体質は続き、似非平和を温存させようとするのである。そして結局は国民にツケをまわして税制改革と称する新税を設けようとするのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/04
コメント(0)

平和な人々(7) ボクは明け方、未だ暗い内に目覚めてトイレに立ってからベッドに戻って再び眠りに就くのが普通なのだが、たまに眠れなくなる事があって、その都度原因を考えてみると、これまで長年生きて来て振り返って楽しかった事よりも哀しかった事の方が多かった気がして、自分は悲しみの為に生れて来たのでは無いかと物想いに沈み胸が締め付けられる様に苦しくなってしまうのだ。しかし、よく考えてみれば誰しも楽しかった事よりも哀しかった事の方が多いのでは無いかと想い直して締め付けられる胸を何とか静める様にしている。そして、眠れないのなら一層の事、起きてしまった方が気が楽になるだろうと書斎に降りて行き、ブログを描き始める事にしている。そもそも人間は生まれ出た瞬間から泣くではないか。何が哀しくて泣くのか知らないが兎に角泣きながら生まれ出、母親に抱かれ、やがて安らかな眠りに入る。その後の人生はは、当然ながら人に依って様々である。 人生で楽しい事ばかりの人も居れば哀しい事ばかりの人も居るだろうし、程々のバランスで喜怒哀楽は巡って来るものである。何も貴族に生まれた人だけが楽しい人生であるという訳では無く、極貧の生まれであっても楽しい事もあるだろうし、優しい親であったり厳しい親であったりと人様々だが、それが生まれ出たその人の人生なのである。それだけにボクが何故哀しい想い出ばかりなのか原因が分からないまま、かつて様々な楽しかった事があった筈なのにそれを想い出さない様にしている理由が何なのかと深く考えてしまう。尤も、ボクの場合、幼少期の想い出は楽しかった事ばかりだった。人も羨む恵まれた生活環境であった事も幸いしたのだろうが、それは自分で選んでそうなった訳では無く、たまたまそういう環境の下に生まれただけの事に過ぎない。そして高校入試直前に父親の事業の失敗で心身共に家族はバラバラになり不幸が始まったと想ったのだった。 が、人の幸不幸は人に依って感じ方が違い、別の人から観ればその様なボクの環境であっても恵まれていると観る人も居るだろう。だから、ボクだけが勝手に不幸と考えたに過ぎなかったとも言える。何故なら、そのまま気楽に大学まで行かせて貰ったし、その後も何とか自分の選んだ人生で今日まで建築家として想う様に来れたからだ。それを哀しい事ばかりだったと想うのは一種の不遜かも知れない。誰だって親の死に目にも遭うだろうし哀しい出来事は必ずある筈である。それが人生と言うものだ。楽しい事ばかりの人生なぞ在る訳がない。楽しみは哀しみがあってこそより深く感じるものだろうし、人の心の哀しみを感じる事が出来る人ほど人生を深く理解していると言えよう。慈悲の心は様々な不幸を味わった人でしか深く持てないものである。そういった意味で楽しみとは、哀しみと哀しみの狭間に存在する一瞬の出来事でしか無いものだとも言えるだろう。 ニワトリが先か卵が先かという理屈でも無いが、苦あれば楽ありとか哀しみの後に幸せが来るという循環の理屈は誰もが感じる人生の波である。その波の谷の大きさで感じ方も違えば苦労の仕方も違って来る。しかし、それは絶対的なものでは無い。古今東西、相対的なものでしか無い。乞食王子や岩窟王などの物語りは面白おかしく作られているが、一種の基準のようなもので必ずしもそう在らねばならないというものでも無い。寧ろ逆の場合が多いだろう。人生は絵に描いた様には行かないものなのだ。そうでないと現実社会が理想社会の様に行くべき処、悪い奴等で一杯なのが説明できないからだ。強者が弱者を笑い、悪人が善人を疎んじる社会が現実なのだ。それを知ってこそ大人だと言われ、そしてそれを如何に克服し心を正しく持つかで人生は変わって来る。清濁併せ飲む事が出来るようになれば上手に世の中を渡って行けるだろう。 それを露骨に表しているのが今の政治家や官僚連中だから何と頭の悪い連中よと笑えてしまう。もっと大人になって列強と伍して行けるぐらいの頭があれば今頃の日本は、イギリスとまでは行かなくとも、せめてドイツの次ぐらいで国際政治を操っていただろう。平安時代の月の欠けるを知らなかった藤原一族のように好きな様に政治舞台で舞っていただろう。その成功例がかのロスチャイルド一族だった訳だ。彼等は世界に君臨して蔭で世界を動かし、それこそ清濁併せ飲みながら国際社会で利益を好きなだけ得て来た訳だ。混沌とする今の国際情勢でも決して表には出ず、凋落するアメリカや頭角を現し始めたBRICをも視野に入れながら決して損の無い体制で生き延びて行くだろう。近代史の200年を生き抜いた彼等の爪の垢の欠片でも手にすれば日本はアジアで中国なぞに飲みこまれる事も無くやって行けるだろう。 そういう巨悪の事なぞ一市民がどうのこうのと言った処で微動だにしないから、話を戻せば、眠れぬ床で人生を振り返り哀しい想い出が楽しい想い出を駆逐していく様を静めるには、矢張り道元の正法眼蔵で言う処の「現成公案」のさわりを唱える。「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟在り、修業あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり(総ての物事を仏道の立場から観ると、迷いと悟り、修業の有無、生と死、解脱した人とそうではない人の違いが明らかに成る)」と唱え「万法ともにわれにあらざる時節、まどいなくさとりなく、諸仏無なく衆生なく、生なし滅なし(総ての物事を無我の境地から観る時、迷いもなく悟りもなく、解脱した人もなく解脱しない人もなく、生も死もない)」と続くのだが「仏道もとより豊倹より跳出せる故に、消滅あり、迷悟あり、生仏あり、しかもかくのごとくなりといえども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」とたどり着くのだ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/03
コメント(0)

平和な人々(6) 平和な時代は何処かで誰かが犠牲に成っている筈である。その犠牲の上に立って平和で居られるというのが昔からのシステムであり習慣になっている。全部が平和であるのが理想だが、理想は理想に過ぎず必ず無理がある。何故なら平和はは金が掛かるからだ。平和を維持する為の金が目に見えない処で使われているからこそ金を捻出する人々は苦労させられる訳である。簡単に言えば、冬の寒い時期に温かな部屋でのんびり美味しい物を食べて楽しむ為には室内の温度調整をする為の燃料が居るし美味しい料理の材料も調達しなければ成らず調理をする人も居るのだ。そういうシチュエーションンを維持管理する人の存在も必要だし人事管理もしなくてはならない。当然ながらそれらの費用を賄う主人の才覚も必要となり、何処かでそれを調達しなければならない。天から降って来たり勝手に湧いては来ないのだ。口を開けて待って居ていても駄目なのだ。 会社を経営して得た金なら会社では労働者が汗水垂らして働いているだろうし、銀行の金が仕入れ先や下請け企業を巡回して製品を作り上げ顧客に買って貰うだろうし、顧客の手前では商社が販売の努力をし問屋や販売店が販売の為に一所懸命に売る。商品を手にした客が、それで満足を得れば次から亦、上得意になってくれるかも知れないが、気に入らないか何か不都合でもあればソッポを向くだろうし、悪宣伝もするだろう。社会的に不人気になれば商品は売れずに在庫になって会社は赤字となり経営が苦しくなって社長は温かい部屋でのんびりと食事なぞして居られ無く成る。下手をすれば資材メーカーや商社、更には下請けに支払う資金が枯渇し社員の給料も滞るかも知れない。手形が落ちなければ会社は倒産するだろうし、社長は首を括るか夜逃げをしなくては成らなくなる。一家離散なぞ日常茶飯事の事なのである。商売人は何時もビクビクしているのだ。 それを国家で言えば、赤字国債を出しまくって税収の40年分以上もの金額に成って首の回らない時代が日本の今の姿である。幸い、未だ国内に国民の資産である預貯金があるので政治家や官僚は安心しているが、国民が取りつけ騒ぎを起こせば明日にでも日銀や政府はパンクしてしまう。そういう緊急の対策が必要な時に愚鈍な政府は為すすべも無く消費税を上げることしか念頭に無く、自分の命を掛けてでも国の為に働こうという意欲が感じられないのだ。口では「不退転の決意で」と言うが、実行力が伴わず、小さな政府どころが何処までも肥大化して行く国家の浪費体質を改善しようともしないのだ。自分達が無給ででも奉仕すれば少しは国民も理解するかも知れないが、官僚はより多くの税の配分を求め特別会計の削減なぞオフリミット扱いである。あと一年半ばかりの余命があるから解散なぞせずダラダラと期限まで内閣を続ければ何とかなるだろうという読みである。 そんな絶望的な内閣なのに「悔しければ成ってみな」と予算委員会では野党の顔を馬鹿にして俯き加減で眺めている始末である。確かに野党もだらし無く、歯切れの悪い攻め方でしか予算委員会を運営できないで居る。その委員会中継をテレビで観る国民もあんぐり口を開けて呆れ返っている状態だ。街角での一般市民は立場上愚痴しか言えず、唯「不景気を何とかして欲しいワ」と言うだけで、会社帰りのお父さんは同僚と安酒をあおっているのだ。安酒でも飲める内は未だ恵まれているのかも知れず、ドトール・コーヒーを飲んで鬱憤を晴らす若者は、明後日の方向を見ながら求職活動をする有様である。「大学は出てみたけれど・・・」という懐かしい台詞が今の時代に流行るとは想わなかった。情けない事にと言うか、進取の気概の無い公務員に憧れる若者が多く、競争率は大学入試よりも厳しいという。「何とか正業に就ける様、頑張ってネ」と優しい母が言う時代だ。 そう言って毎日の様に我が子を見送る母親の姿は、かつて「お国の為に頑張ってきてネ」と送り出した戦時中の母親と同じ気持ちで言って居るのだろうが、心の内では「決して死なないでネ」と想い、盲目的に正業に就ける事だけが幸せへの道としか考えられないのだ。何時の時代も親は、息子や娘の行く末を心配するものだが、考える事は既成概念でしか無いところが哀れである。今時、大企業は僅かな人員しか採用せず、中小企業は即戦力になる社員だけを求め、学校出立ての若者なぞ使い走りしか出来ず何の役にも立たないのが当たり前なのに企業は人材を育て上げる余裕すら無いのだ。だから若者は腐るばかりで、金も無く、せめて愚れないだけでも儲けものと親は想わねばやってられない時代なのだ。しかし、そういう時代だからこそ坂本竜馬の様な若者が出て来るのだろうが、出て来るかどうかは今しばらく社会情勢を見護って行かないと分からない時でも在る。 ボンクラ政治家が国民の方を観ない今日、日本はドンドン悪い方向へ向かって居る事だけは言える。それだけにボクが密かに期待する「大阪維新の会」が着実に足元を固めつつあるのがせめてもの救いだ。ギリシャのデフォルト寸前に観る様に、ユーロ圏は今大変な時だが、その原因を作った米英の経済システムは自分達だけでも生き残ろうと未だに裏の経済(騙しの構造とも言えるFXやレバレッジなどの博打経済)の金を銀行に融資して表面的に活性化を装っているだけでしかない。その間にBRICに依る実質経済(物品の製造販売に依る貿易経済)が着実に利益を蓄積して行き、アジアや南米で活性化している。21世紀はアジアやアフリカの時代と言われる通り欧米社会は行き尽きる処まで行ったと言っても良いだろう。勿論、日本もその一員だ。そういう社会概念を未だに抱き続ける母親が我が子の行く末を案じている訳だから当面、心配の種は尽きないのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/02
コメント(0)

平和な人々(5) 平和な人々というものは常に危機感を持って居ないか、それともそれが必要無いと想っている人々なのだろう。差し迫って危険が来ない限りそういう人々や現代人は平和を享受する気に成り易いものである。戦時中や震災直後なら緊迫感があって鋭い目をしているものだが、現代人は何処か間の抜けた平和ボケの顔で「何を慌てているのか?」という顔をする。「そんな対立なぞせずに皆で仲良く行けば良いのに・・・」と今起きている様々な危機を意識する事も無く無頓着で居る。危機を叫ぶ連中なぞ見下す様にして、ぬるま湯に浸かったカエルのような表情で不思議そうな顔をする。そのくせ自分の名誉や権利が少しでも侵されそうになると必死に成って自説を主張し護ろうとする。他人の事よりも先ず自分が大事なのだ。そういう人々は人の不幸は我が喜びと感じ、本音を顔に出せば下品ではしたないと想って極力顔には出さず、ポーズだけでも同情の表情をする。 中には労りの言葉を掛けたりする人々も居て、自分は人道主義者であるという顔をするのである。そういう偽善者は世の中に腐るほど居る。しかし、偽悪者よりも偽善者の方が人の受けは良い。見掛けが優しいからだ。偽悪者はシャイで社交下手が多いから敢えて憎まれ口を叩く。その方が自分の心を偽る必要が無いから楽なのだ。地のまま行けるから無理をする必要も無い。欲も無いだけに人からどう想われようとも関係が無いのだ。偽善者はポーズを採ってでも良く想われたいと演技する訳である。役者が演技をしている姿を世の中の人は役者の個性のように想うが、実際の姿は分からないだけにスキャンダルや事件があって初めてその人となりを知って驚くのと同じである。悪役ばかりしている役者が必ずしも悪人とは限らないのと同じで、逆に人の良さそうな役者が実際は家庭や身近な人に被害を与えるケースは多い。人は見掛けに依らないと言うが、その通りである。 本当の姿を知る程の付き合いをしていない人には分かろう筈も無い。亦、誤解もあるだろう。勝手な思い込みもそうである。片想いというのも概してそういう場合が多い。自分が想うほど値打ちのある相手では無いのに高い評価を与えてしまうのである。その点、相思相愛という以心伝心で付き合う関係はそういう意味では幸せで平和な人々と言えるだろう。全く羨ましい関係である。出来れば人生はそう在りたいものである。心の優しい人は人を怨まないから往々にして幸せである。人の不幸に同情し、人の喜びを我が事の様に喜べる人は幸せである。まるでキリストやお釈迦様のような人が世の中に居ても良いだろう。そういう人と接していると自然にこちらまでが心豊かで幸せな気持ちになれる。怒りの心が癒され平安な気持ちになって行くのである。それは赤ん坊のニコニコする顔を観て感じるあの平和な気持ちである。誰もが心の片隅に持っている慈悲の心である。 ボクは神を信じ宗教を信じているが、仏像を観て有難いとか畏敬の念を抱いたという様な事は全く無い。美術品として鑑賞したり美しいと感じる事はあっても単なる物体でしか無いからだ。だから自分で彫った石の地蔵さんも庭のオブジェとして飾っているだけである。中国産の石の狛犬と同じ気持ちで前栽に飾っているのである。しかし、だからと言って寺院で見掛ける仏像に不敬な態度はとらない。寧ろ手を合わせ拝むぐらいである。手を合わせる以上信仰しているのではないかと言われそうだが、仏像に拝んでいるのではなく、その向こうにある人々の想いや宗教の世界に手を合わせているのである。天地宇宙に手を合わせている訳である。森羅万象悉く仏性だからである。幾ら人間が賢くても生命体の一つも作れない以上、神には勝てないのである。人間は大自然から生かされていると想えば自ずから畏敬の念で大自然を愛おしく想うものである。 だからこそ自然の猛威に畏敬の念を抱き恐れおののくのである。冬山を軽んじて遭難する人々を軽蔑するのもそう言った背景からである。夏山でも舐めて掛かれば大変なのに増して冬山はプロでも侮れないのである。サラリーマン時代に、かつて南極越冬隊長をしていた西堀栄三郎さんと一緒にQC運動の世話役をしていて、南極での様々な体験談を話して貰った事があったが、昭和基地で隊員の役割とは別に序列を決めるのに彼は年齢順に決めたのだそうだ。最長老の西堀さんが最高位で、以下年齢順に下りて行くのだが、年齢は能力の問題では無く誰も文句は言えないから全員一致で受け入れられた。だから何事もトラブルは起きず、年長者の言う事は平和裏に指示伝達が出来たと言う。儒教の国では年長者を尊重するというが、最近では韓国も中国もそうでは無くなって来たという話をよく聴く。権利や主張が強くなった現代では、特に経済が優先するから金持ちが威張る。 日本もそういう風潮が強く、政治家も金があるか無いかで発言力が違って来る。パトロン的立場だと直ぐに党首になったり派閥の長になって威張りたがる。それでも失政や失言で失敗すると直ぐに叩かれ引きずり降ろされるから金だけでも無い面もある。しかし、金が無いよりもある方が良いに決まっているから降ろされても親分的立場でいられるから何かと発言が取り沙汰されニュースで話題にもなる。それは与党の場合であって野党に成れば自民党が良い例で、かつての肩で風を切った威勢の良さは無くみすぼらしいばかりである。だからこそ余計に世の人々は金を求め、右往左往する。金こそ総てのような不況の時代になるとバブルの頃が懐かしく想え、夢よもう一度と言う人々が事件を起こす。そんな哀れな姿を曝け出している画像をニュースで観て、何と浅ましいと想う反面、捕まえる側も報道する側も評論する側も自分達は正義だと言う顔をしているのが何とも平和な人々よと想ってしまうのはボクだけではあるまい。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2012/03/01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1