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NHK「探偵ロマンス」第1話を見ました!◇舞台は、1919年(大正8年)の帝都=東京です。画商の廻戸庄兵衛(原田龍二)がピストルで殺害されます。当初は怪盗ピスケンの犯行と疑われました。ちなみに、現実の「ピス健」とは、1925年に連続ピストル強盗事件を起こした大西性次郎のこと。台湾、満州、上海、朝鮮などを渡り歩き、偽名と変装と軽業を使い、警察に挑戦状を送りつけながら逃げ続けた。ドラマでは「守神健次」の偽名を使っています。かたや、関西の興行ヤクザだった嘉納健治も、やはり「ピス健」と呼ばれていましたが、こちらは大河「いだてん」に登場した嘉納治五郎の甥にあたる人物です。しかし、どうやら真犯人はピスケンではなく、名探偵の白井三郎(草刈正雄)が10年前にかかわった事件の犯人、すなわち怪盗「イルベガン」のようなのです。1909年(明治42年)のイルベガン事件について知っているのは、会員制倶楽部《赤の部屋》を経営している蓬蘭美摩子(松本若菜)です…。彼女のほんとうの名は「久代」のようです。白井三郎は、このイルベガン事件をきっかけに探偵を辞めたらしい。おそらくBAR《K》のマスター(岸部一徳)も、そのあたりの事情を知ってる。◇実際の歴史に照らしてみると、1909年には、当時18才だった伊達順之助による学生射殺事件がありました。探偵の岩井三郎がその正当防衛を立証して、順之助は釈放されている。その後、伊達順之助は、大陸に渡って馬賊となり、1916年の張作霖爆殺事件や満蒙独立運動に関わっていきます。イルベガンの正体は、この伊達順之助なのでは?伊達家の人です!このへんの話は、安彦良和「乾と巽-ザバイカル戦記-」とか、ルパン三世 PART6「帝都は泥棒の夢を見る」とか、渡辺典子の「いつか誰かが殺される」とか、…そのあたりにも通じる内容。もともと「イルベガン」とは、シベリアのテュルク系神話に登場する竜のような怪物のことらしい。なお、蓬蘭美摩子の《赤の部屋》には、ロシア情勢に詳しい外務次官の後工田寿太郎(近藤芳正)や、上海帰りの貿易商である住良木平吉(尾上菊之助)も出入りしています。彼らも大陸の情勢について何か知っているのでしょう。◇これも現実の話ですが、ドラマの舞台である1919年には、当時25才だった平井太郎(のちの江戸川乱歩)が探偵を志し、岩井三郎の事務所の面接を受けて不合格になっています。どうやら平井太郎は、松崎天民の書いた「探偵ロマンス」(1915)という実録本を読んで、日本初の探偵である岩井三郎に興味をもったらしい。ドラマの白井三郎は、この岩井三郎をモデルにしているわけです。横溝正史が昭和7年に書いた「呪いの塔」には、江戸川乱歩をモデルにしたとされる探偵・白井三郎が登場します。さらに同じく1919年、平井太郎は、小学校教師の村山隆子と結婚しています。平井太郎は、その2年前に、三重県の鳥羽造船所に入って庶務課に勤めたのですが、このときに地元の村山隆子と知り合ったようです。≫ 江戸川乱歩とシンフォニアテクノロジードラマで彼女を演じているのは石橋静河です。◇平井太郎は、当時、東京市本郷区の団子坂で、2人の弟とともに「三人書房」なる古本屋を営んでいました。ドラマでは、時子(本上まなみ)の夫婦が、D坂にある古本屋《二人書房》を営んでいる設定です。平井太郎(濱田岳)は、郷田くん(泉澤祐希)とそこに下宿している。この郷田初之助が、鳥羽の造船所時代の友人という設定になっている。なお、江戸川乱歩は、「赤い部屋」「D坂の殺人事件」などの短編を書いており、「屋根裏の散歩者」には郷田三郎なる下宿人も登場します。◇1923年、すなわち大正12年には、関東大震災が起こって浅草のオペラ館が崩壊。その年に、江戸川乱歩が作家としてデビューします。今年は、乱歩の作家デビューから100周年になります。≫ 土曜ドラマ「探偵ロマンス」制作と出演者
2023.01.28

貴司が「千億の星」を短歌に詠んだことで、いよいよIWAKURAの宇宙事業が暗示された感じです。君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた舞は宇宙へ行くのでしょうか?◇先日も書きましたが、第1話の「月まで15日」という機内アナウンスや、第3週の「望月家の少女とウサギ」のエピソードから考えるに、桑原亮子は、2023年の干支にちなんで、「月とウサギ」の物語を書こうとしている可能性があり、舞の父が人工衛星に関心を示していたことからも、IWAKURAがいずれ宇宙産業に乗り出す可能性は高い。そうなると、はたして悠人の「金の宇宙人」がロケットに乗るのか、はたまた舞自身が「宇宙船のパイロット」として飛ぶのか、そこらへんが気になってきます。◇おりしも、18日に放送された「クローズアップ現代」では、アルテミス計画など月面事業の展望が取り上げられました。https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4740/2040年ごろには、1万人もの人々が月面都市へ旅行するとのこと。現在のドラマ内の設定は2013年(舞は27才)なので、2040年といえば、そこから27年後(舞は54才)です。後述するように、番組のVTRでは、ご丁寧に「ネジ」の話題まで出てきました。◇すでにドラマにも、三菱重工らしき大企業が登場しています。鶴見辰吾が演じる荒金は《菱崎重工》の重役という設定。かつては、舞の父もそこで働いていたらしい。思えば、「下町ロケット」の吉川晃司は、《帝国重工》の宇宙航空部長だったわけですが、そのモデルも三菱重工だったようです。ちなみに、三菱のグループ企業は不祥事が多く、国との癒着も強くて不信感がもたれているし、とくに三菱重工は軍事産業にも絡んでいるので、あまり朝ドラでそこらへんを美化してほしくありません。わたしは、吉川晃司の演じる鬼教官が「元自衛官」とされた点にも、すこし警戒感を覚えたけれど、朝ドラの内容を、軍事や国防がらみの事業に絡めて美化することには違和感もある。◇他方、先の「クローズアップ現代」によると、月面の《水探査》とか、月面着陸船による《物資輸送》とか、月面都市《ムーンバレー》などの事業は、日本のベンチャー企業が主導しているそうです。そこで取り上げられたのが、ネジの問題!ロケット離陸時の激しい振動に耐えるネジを作るのは難題だそうです。もしや、これを解決するのがIWAKURAなのでは?舞の父が参加した企業セミナーや見学した工場も、そうしたベンチャー企業がらみだったかもしれません。◇先述のとおり、月面都市《ムーンバレー》の計画によれば、2040年ごろには、1000人ほどの研究者が月面に滞在し、10000人ほどが旅行や仕事で月へ出掛けるそうです。そうなると、朝陽くんぐらいの年代の研究者が月面都市に滞在し、舞のようなパイロットが月まで旅客を輸送する未来がありえます。貴司がたびたび口にする《トビウオ》の比喩は、「海の中と外」じゃなく「大気圏の中と外」の話かも!久留美も「望月」家の娘だから、20年前の「まんてん」の宮地真緒みたいに、いつ看護師を辞めて「月へ行く!」と言わないとはかぎらない。それこそ、ラグビーボールみたいな宇宙船で月まで飛翔し、月面でウサギの世話をする時代が来るかもしれません!◇わたしは、先週まで、貴司と朝陽くんはサンテグジュペリなのだと思っていました。彼らは、飛行機と宇宙をつなぐ「詩人」と「星の少年」だからです。しかし、貴司は、その名前から考えると、平安貴族の役人(高貴な司)なのかもしれません。梅津貴司というキャラが短歌を詠むのは、きっと日本の歌人たちが、古代から「梅」だの「月」だのを詠んできたからでしょう。貴司は無意識のうちに、その伝統を負っている。≫ 月を詠んだ短歌もしかしたら、貴司は、在原業平や紀貫之のような歌詠みの生まれ変わりでは?とくに紀貫之は「竹取物語」の作者とも言われてる。舞がかぐや姫になって、望月久留美が月のウサギちゃんになって、貴司がそれを見上げて短歌に詠む、…みたいな流れかも。
2023.01.25
昨日の読売新聞に、「ツイッターデモ」についての記事が載っていました。https://news.yahoo.co.jp/pickup/6451564Twitterによるデモは、少数のアカウントによる投稿が、不当に増幅されることで成立している面がある。たとえば、〔安倍晋三国葬反対〕のような左派の主張であれ、〔外国人生活保護反対〕のような右派の主張であれ、同様の仕組みで数が増幅されている。いわゆる「炎上」にもそういう面があるはずです。世論調査などとの比較が必要ですが、ラウドマイノリティの主張が不当に増幅されれば、実数的な世論とは異なる「世論」が社会的な力をもちかねない。◇Twitter は、「ツイート数」「いいね数」「リツイート数」「フォロワー数」など、事実上、数の多さが影響力を発揮しやすいメディアですが、じつは複数アカウントや自動投稿が容易なので、まったくその信頼性が担保されていません。実際、Twitter を見ていると、大量のスパムアカウントによる同一文面の頻繁な投稿に出くわします。したがって、Twitter のようなメディアを、直接民主制の手段として容認することはできません。◇このような《数の偽装》の問題は、インターネットの普及当初から存在しており、「2ちゃんねる」などにも見られましたが、それは改善するどころか、むしろ悪化しています。四六時中ネットに張りついている暇な人や、技術的なアドバンテージをもつ人が、数を偽装して権力を発揮しようとするのですね。あるいは、システムをコントロールする立場の人間が、アルゴリズム変更などの操作をしたりもする。やがて一般のユーザーまでが、数の論理に巻き込まれて党派的な動きしかしなくなり、全体が無内容なコミュニケーションに陥っていきます。◇このような《数の偽装》を取り締まるには、複数アカウントを規制するなどの方法もありえますが、より本質的に求められるのは、そもそも「数の論理」が意味をなさないようなメディアの設計です。そうすることで、数を偽装する動機じたいが失われる。◇もともと民主制において「多数決」は最終手段でしかありません。数の論理に頼るべきなのは、あくまで判断の最終局面においてであり、むしろ重要なのは、そこへ至るまでの「熟慮」や「熟議」の過程です。にもかかわらず、現在のネットメディアの中には、個人的な「熟慮」や社会的な「熟議」を促す場がありません。その意味では、直接民主制を実現する環境がぜんぜん育っていない。◇たんに多数決を取るだけなら、従来どおりの選挙や世論調査などでも十分です。あえて、それをネット上でやるのなら、一般的なネットメディアで使うアカウントではなく、たとえばマイナンバーのように、数の偽装が不可能なシステムを用いなければなりません。むしろ、SNSなどのネットメディアに期待すべきなのは、「多数決」ではなく「熟議」の場としての機能です。それこそが直接民主制への可能性を開くのだから。◇個人的な「熟慮」にしろ、社会的な「熟議」にしろ、それをおこなうには、つねに二項対立的な思考が必要です。つまり、「一方的な趨勢」や「同調的な空気」に流されず、対立する立場があることを前提のうえで、たがいを比較しながら検討を深めなければならない。しかし、現在のSNSなどの論調は、「趨勢」や「空気」のような数の力に流されがちで、ろくに内容の吟味や検討がないまま、全体の主張が一方の極へと容易に振れてしまうのです。◇かりに、ネット掲示板などで政治的な「熟議」を促すとすれば、ひとつのトピックに対して、すくなくとも「Yes」「No」などの2つのスレッドが必要です。そうすることで、数の多さや趨勢に流されることなく、つねに自分の立場を維持しながら意見を述べることができるし、同時に、対立しあう立場の意見を比較しながら、その妥当性を吟味して、判断の是非を検討することができる。◇このような「熟議」の場において、それぞれの意見の重要度は、たんに「賛同数」などで測られるべきではありません。たとえば科学論文などと同じように、「引用数」や「参照数」などで計量することもできるはずだし、あるいは、意見のオリジナリティの度合いを、使用語彙などから、AIで判定することも可能かもしれません。◇インターネット上に、こうした「熟議」の場を形成することができれば、それは直接民主制の可能性を開くことになります。すなわち、議会や司法や行政判断などの場に、市民が直接参加する機会を作り出すことになる。のみならず、科学研究など専門性の高い議論にも、一般市民への門戸を開くことになるはずだし、それによって学会の閉鎖性などを解くことにもなるはずです。◇このような「熟議」の場は、民間の事業として設計・運営されるよりも、公共的な機関によって設計・運営されるほうが妥当です。それが直接民主制を可能にするのなら、公的な意義もあります。たとえば、NHKプラスのアカウントなどは、世帯ごとに1つと限定されていて数の偽装がしにくく、もともと世論をはかるメディアとしての前提も備わっている。公的な判断にかかわるトピックだけでなく、一般的な関心の高い三面記事のような時事ネタについても、市民の「熟慮」や「熟議」を促す場が存在することで、無用な炎上や、デマの拡散や、偽装的なデモ行為などを抑制することが期待できます。
2023.01.25
ブラタモリを見ました。テーマは「神話の里・高千穂はどうできた?」です。しかし、見終わっても、なぜ高千穂が「神話の里」になったのか、ますますわからなくなるばかり…(笑)。◇高千穂峡には、阿蘇の溶岩が生んだ神秘の渓谷があるし、現在では美しい棚田に稲穂が実っているけれど、明治以降に用水路が引かれるまでは、じつは稲穂が実るような豊かな土地ではなく、けっして神さまが降り立つような場所ではなかった。ここが「神話の里」だと世間に認知されたのは、昭和以降の地域プロモーション活動のおかげだった。…って話。ぶっちゃけ、高千穂は、「後世の人達の努力で無理やり神話の里になった」と言わんばかりの内容でした。◇あまりに不可解だったので、ためしにネットで調べてみたら、どうやら考古学の世界では、天孫降臨=高千穂説に対して異論があるようです。…簡単にいうと、じつは宮崎県には、「高千穂峰」と「高千穂峡」の2つがあって、天孫降臨の地がどちらか分からない、ってことなのですね。(今回のブラタモリで訪れたのは「高千穂峡」のほうです)古事記の記述はどちらとも解釈できるけれど、日本書紀の記述によれば「高千穂峰」のほうが有力で、日向国風土記によれば「高千穂峡」のほうが有力ってことらしい。▶詳細は以下を参照。・高千穂峡と高千穂峰 100キロ離れた宮崎の景勝地に残る神話・なぜか2つある神話の舞台「高千穂」の謎なるほどね~。ようやく察しがつきました(笑)。
2023.01.24

バクダンと叫ぶ屋台の年男 湯気越しに父の面影冬の蝶 日向ぼこ面取り眺めるシロの鼻 おでん取り浮かぶ顔見て肩揺らす ガード下シメのおでんはクミンの香 おでん屋の一皿は先ず神棚へ 練り物の蓋持ち上げておでん鍋プレバト俳句。お題は「おでん」。◇津田寛治。バクダンと叫ぶ屋台の年男わたしは、玉子巻のことを「バクダン」と呼ぶとは知らず、てっきり祭り屋台のポン菓子売りなのかと思いました。そう解釈する人もけっこういるのでは?また、最近は、茨城発の屋台で「ばくだん焼」ってのもあるらしい。たこ焼きみたいなお好み焼きのことだそうです。なお、先生の解説にもありましたが、季語の「年男」には二通りの由来があるのですね。1.新年の飾付けをし若水をくむ役の男。(家長を原則として、長男や奉公人があたるが、西日本には女性が主役となる地域もある)2.節分の豆まきをする役の男。(その年の干支の生まれの名士などから選ぶ)…だそうです。一般的な「年男・年女」の用法は、後者の意味から派生したのかもしれません。◇安藤美姫。湯気越しに父の面影 冬の蝶面影の父よ 冬蝶くる家よ(添削後)この先生の添削はすばらしいけど、作者が意図した「おでん」の要素は取り除かれてしまった。原句の上五「湯気越し」は、やはり風呂や温泉などと誤読されるので、季語の「おでん」をはっきり詠み込むとすれば、本人の語った「黒揚羽」を使う選択もあったかも。ためしに、おでん煮て父を偲べば黒揚羽としてみました。追記:スミマセン。そもそも「揚羽」が夏の季語なので季重なりですね。やっぱり「おでん」を諦めるしかないのかな。リベンジで、卓の湯気 父を偲べば冬揚羽としてみます。◇大久保佳代子。日向ぼこ 面取り眺めるシロの鼻大根の面取り シロの来て眺む(添削後)季語は「日向ぼこ」です。何の「面取り」なのか分からない。半分の読者は「大工」と解釈するのでは?かたや、添削のほうは「来て眺む」が気に入らない。原句に沿って、大根の面取り見上ぐシロの鼻としてみました。◇コットン西村。おでん取り浮かぶ顔見て肩揺らす皿に取るおでん誰かの顔に似て(添削後)原句は、動詞を4つも並べたあげく、ほとんど何も描写できていません。ためしに、練りものを皿にならべて福笑いとしてみました。追記:「食事の準備の後に福笑いで遊んでる」と解釈されてしまうかも。こちらもリベンジで、練りものをならべ皿なる福笑いとしてみます。◇キスマイ横尾。ガード下 シメのおでんはクミンの香最近は、若い女性でもガード下を呑み歩くし、シメのおでんだって食べるでしょうね。しかも、そのおでんは、洋風だったり、エスニック風だったり、ずいぶんバラエティに富んでいる。そういう今時の世相を詠み込んだ句ですね。◇千原ジュニア。おでん屋の一皿は先ず神棚へわたしも助詞の問題だと思ったし、実際、おでん屋台 まず一皿を神棚にのようにも出来ます。先生の言ったとおり、「を」なら本人としか読めませんが、「は」なら本人とも第三者とも読めます。◇梅沢富美男。練り物の蓋持ち上げておでん鍋蓋持ち上げおでんの練り物は膨る(添削後)助詞の問題ともいえるし、語順の問題ともいえるし、上五「練り物」の擬人化や他動詞の問題ともいえる。ジュニアが、「蓋がちくわで出来てるの?」と言ったように、「練り物の蓋」は読みを迷わせるので、練りものが蓋もちあげるおでん鍋と書くほうが明快ですね。もしくは、季語の「おでん」をあえて使わずに、練りものが膨れて蓋をもちあげるとも出来るかもしれない。かりに、擬人化をやめて自動詞を使うなら、練りものに蓋もちあがるおでん鍋となります。(わたしは、これがいちばん良いと思う)フルポン村上のように、半径50㎝の光景を写生した内容だけど、うまく詩情を出さないと、淡々としすぎてつまらなくなるし、かといって安易に比喩や擬人化を使うべきでもない。そこが難しいですね。
2023.01.23

日テレの深夜ドラマ。「しょうもない僕らの恋愛論」。原秀則のコミックのドラマ化です。◇眞島秀和×矢田亜希子。…かと思ったら、なにやら高校生の少女が登場しました。いわゆる「おじさんと少女」の物語なのね。中田青渚という女優ははじめて見ましたが、女子高校生と、若き日の彼女の母親を、一人二役で演じてて、それがぜんぜん違う人物に見えるのがなかなかすごい。◇近ごろは、フランス映画みたいに「年増女と年下男子」の設定が多く、深田恭子×横浜流星、有村架純×岡田健史、波瑠×中川大志、栗山千明×小関裕太、吉田羊×磯村勇斗、二階堂ふみ×眞栄田郷敦 etc...今季も、吉高由里子×北村匠海のドラマが放送中。かたや、「おじさんと少女」の設定で思いつくのは、最近だと濱田岳×山下美月の組み合わせでしょうか?◇しかし、これは、はるか昔から繰り返されてきたモチーフで、1980年代にも、薬師丸ひろ子×松田優作 or 世良公則とか、原田知世×渡瀬恒彦 or 林隆三とかがありました。斉藤由貴の相手役も、やっぱり世良公則や林隆三だった。ちなみに、《かつて母が好きだった男性を好きになる》という設定も、原田知世の「早春物語」と同じ。◇ただし、非常に気をつけなければならないのは、こういう設定って、多分に世間のおじさんたちの願望を投影してる面があると思うけど、あまりにおじさんがギラギラしすぎてると、たんなる「淫行」になってしまうから、おじさんはあくまで受け身でなければならない。つまり、少女のほうが主体になって、おじさんを翻弄する話でなければなりません。その点、眞島秀和のキャスティングは妥当なのでしょう。不器用で真面目そうなキャラ。ちょっとトホホな役回りも似合うし、なんならゲイの役が似合う人でもあるから、少女から見てもわりと安心感があって、すこし弄んでみたくなる感じ?◇眞島秀和は、それこそ「おっさんずラブ」にも出演してましたが、わたしが好きだったのは、こちらのオールドパーのCM。https://adv.yomiuri.co.jp/news/newsletter202201_02.html同じザズウ所属の山中聡とのコンビ。「大奥」では稲葉正勝と松平信綱(眞島秀和は由貴ちゃんの息子の役)。大人のゲイをも思わせる作りで、なかなか素敵な雰囲気だなあと思ったし、こういうCMは、日本ではそれまで見たことがなかった。◇さて、ドラマのほうは、最後におじさんと少女が結ばれる…!なんて結末はほぼありえないので、やはり最後は、矢田亜希子が絡んできて、物語の落としどころが探られるのでしょう。いまのところ、眞島秀和と矢田亜希子は、(あれほどのイケオジと美女でありながら)あんまり異性としては意識し合っていないらしき設定。矢田亜希子の役柄も「強めの美女!」って感じなので、眞島秀和は、どちらにも振り回されそうです(笑)。 この部屋どこかで見たことある気がする…
2023.01.22

テレ東の深夜ドラマ。蓮佛美沙子&トリンドル玲奈。原作は谷口菜津子の同名コミック「今夜すきやきだよ」。◇去年のNHK「恋せぬふたり」は、アロマ・アセクな男女の共同生活だったけど、こちらは、女子どうしの共同生活です。片方は恋愛体質で、片方はアロマンティック。失恋したばかりのアイコ。アロマを自覚しはじめたトモコ。一部では、女性版「きのう何食べた?」とも言われていますが、けしてレズビアンの物語ではありません。双方ともに、まったく同性愛の傾向はないようです。◇アイコは仕事はできるけど、家事ができません。トモコは家事はできるけど、仕事ができません。なので、ふたりの共同生活は、お互いの欠点を補い合えるし、生活上の役割分担ができるし、そのうえ、一緒にいれば寂しくなくて楽しい。それが共同生活を続ける理由です。◇ところで…料理が苦手なせいで、男性との恋愛につまづきがちなアイコは、こんなふうに言います。≫ なんなの?!≫ 楽しい会話と幸せなセックスがあればOKじゃないの?≫ 恋愛とか結婚に、家事能力ってマストなの?つまり、恋愛や結婚はセクシャリティの相性こそが大事であって、ジェンダーの押しつけは必要ないでしょ!…ってことですよね。◇たしかに、恋愛は、楽しい会話と幸せなセックスがあれば成立するかもしれないけど、結婚は、それだけじゃうまくいかないはずです。一般に、恋愛結婚が破綻しがちな理由はそこにある。実際、アイコとトモコの共同生活がうまくいってるのは、楽しい会話と幸せなセックスがあるからじゃなく、生活上の役割分担がうまくできているからですよね。もちろん、ふたりはレズビアンじゃないから、結婚はしないだろうけれど。◇◇現代の日本では、同性婚がほぼ認められつつありますが、同性婚には2通りの意味がありえます。ひとつは、セクシャリティの相性がよければ同性でも構わないってこと。もうひとつは、セクシャリティの相性とは無関係に、生活上の分担ができれば異性か同性かを問わないってこと。これは、法的な定義というより、当事者の認識の問題ですが、じつは、結婚って、後者の考え方でするほうが、ずっと合理的ですよね。いくらセクシャリティの相性がよくても、生活上の役割分担がうまくいくとは限らないし、性的な相性でさえ、ずっと持続するとは限らない。おそらく昔の結婚は、セクシャリティの相性(すなわち恋愛)よりも、ジェンダーの分担のほうを重視したのです。そのほうが合理的だから。◇たしかに恋愛は、セクシャリティの相性を優先すべきものだけど、結婚はむしろ、生活上の役割分担を優先させるほうが合理的です。なぜなら、結婚したら、仕事と、家事と、セックスと、出産と、子育てを、ふたりで分担/協働でこなさなければならないから。いくらセクシャリティがの相性がよくても、男に仕事ができるとはかぎらない。女に家事ができるとはかぎらない。その分担ができなければ生活は破綻するし、そのうえ出産と子育てもやるなんて困難の極みです。現行の結婚制度は、事実上、《恋愛結婚》を前提に設計されているけれど、セクシャリティの相性だけを基準に結婚するのは、じつは、きわめて非合理なのよね。◇先日、バカリズムの「ノンレムの窓」を見ていたら、松島瑠璃子が書いた《親友契約》という話がありました。婚姻率の低下した社会で、あらかじめ老人の孤独を回避するために、独身の人たちが互いに《親友契約》を結び、生涯をともに生きていく…という話。これって、けっこう現実味のある話だと思いましたが、その場合も、重要なのはセクシャリティの相性ではなく、やはり生活上の役割分担だと思います。そして、その分担は、かならずしも2人でおこなう必要さえなく、たとえば3人や4人でも構わない…って気がする。◇ひとつの思考実験ですが、今回のドラマにおける同性どうしの生活も、ある意味では合理的な「結婚の形」のように見える。もし恋愛をするのなら、その生活の外側で自由にやればよいのだし。
2023.01.20

わたしが今季いちばん期待してるドラマ。これは、「半分、青い」と「ウチカレ」の連続性のなかで、北川悦吏子のファンタジーに没入するためのドラマであり、あくまでもファンタジーだから、どこにもリアリティはない。◇ウチカレとの連続性。つまり、空と光が、空と音になって戻ってきた…ってこと。豆も入ってますが(笑)。そして、漱石が爽介になって、ニューヨークから戻ってきた…ってこと。ついでに、シュガーベイブで踊るってことでもある。ジャニス・イアンで踊ったように。東京のビルに遮られてるので、空は半分くらい青い。◇あくまでファンタジーなので、どこにもリアリティはありません。まず福岡の横断歩道で偶然出会って、約2年後に東京の噴水で偶然再会して、すぐにホテルのレストランでも再会して、橋の上でも再会して、最後は、下宿でまたもや再会する。第一話だけで5回以上の偶然の再会(笑)。これが北川悦吏子のファンタジー。どこにもリアリティはありません。ひたすらそのファンタジーのなかに没入するだけです。◇このドラマで永瀬廉の魅力が輝くのは間違いありません。これはたぶん「silent」の目黒蓮の比ではない。そういう意味での北川悦吏子の手腕は、神懸ってて尋常ではない。永瀬廉の美しさが、かつてないほど引き出されるはずなので、たとえ脚本の内容が叩かれても、たとえ広瀬すずのキャラが激しい反感を買っても、ジャニヲタがこのドラマから脱落する選択肢はほとんどない。◇北川悦吏子と広瀬すずは、たしかにビッグネームの組み合わせだけれど、近年の北川悦吏子のドラマは、かならずしも一般的な支持を得てきたわけではなく、むしろ多くの批判を浴びながら、通好みの作品ばかり作ってきたというほうが正しいし、広瀬すずも、たしかに国民的なタレントではあるけれど、けして民放のドラマで成功してきた人ではないし、ましてラブコメで成功してきたわけでもないし、どちらかといえば社会的な作品で評価されてきた硬派な女優。そう考えると、俗受けの王道ラブコメを連発してきたTBSにとって、これはかえって冒険的なチャレンジだというほうが正しい。たぶん、このドラマも、万人の共感を得られるとは到底思えないし、やっぱり通好みの内容に終わる可能性のほうが高い。◇とはいえ、わたしがこのドラマを見ない選択肢はほとんどない。ピュアで美しすぎるファンタジーと、北川悦吏子だけのユーモアを味わうことが目的です。どこにも現実味がなく、どこにも共感する要素がなく、何の話でどんな話か分からないままに終わっても、なんら問題ない。そしたら、また次のドラマを作ればいいだけのこと。そういう連続性のなかで、この脚本家の世界がずっと続いていく、ということです。◇あとは、北川悦吏子が、TBSに対して妥協しないことを祈るだけですね。そんなことをしても一銭の得にもならないのだから。もしかしたらプロデューサーは、局の上層部をうまく騙したのかもしれないけど、とにかくTBSはやると決めたのだし、たとえ視聴率が1%以下になったとしても、最後までやり通してもらうしかありません。いまの北川悦吏子はこういう作品しか書かないだろうし、広瀬すずもこういう作品にしか出ないのだろうから、そういうもんだと思って覚悟を決めてもらうしかない。
2023.01.18
先日、ブラタモリの《静岡編》を見たのですが、タモリは、その町の成り立ちを詳しく知るまで、ずっと静岡市を「面白みがない」と感じていたようです。◇タモリはもともと「名古屋嫌い」で有名でしたが、以下の記事を読むと、じつは嫌いなのは名古屋だけではなかったらしい。そこで「なぜ、名古屋を槍玉にあげるのか?」と問われたタモリは、じつは大阪も東京もどちらかといえば好きではないと明かしたうえで、次のように語った。《なんとなく一歩離れて、内地として日本を見るようなことありますね。父も祖父も満州の生活が長くて、しかも道楽者。ひょっとしたら、その影響もあるかなあ。名古屋は日本で一番日本的なものが集約されてるような面もあります》https://gendai.media/articles/-/51960?page=2◇あくまでわたしの想像だけど、家康や秀吉の作った城下町って、本質的につまらないのだと思う。とくに江戸・名古屋・静岡がつまらないのは、家康の実利主義や合理主義がきわめて近代的だからであり、あまりにも近代都市と相性が良すぎるからじゃないかしら?たとえば、京都や鎌倉を近代の首都にするのは困難だったろうけれど、家康や秀吉のつくった城下町の礎のうえになら、いくらでも近代的な都市が作れただろうと思うのです。しかし、かえってそのことが、歴史好きからすると「つまらない」と思えてしまう。つまり、近代的に改造するのが容易なぶんだけ、歴史の情趣みたいなものが残りにくいのでしょう。◇今回の大河『どうする家康』第1話のエンディングで、≫ 静岡がプラモデルの町になったのは、≫ 家康が全国から呼び寄せた金型職人のおかげとのエピソードが紹介されました。きっと、トヨタやヤマハみたいな近代産業が発展したのも、家康の町づくりの遺産と無関係ではないのだろうと思います。≫ 愛知と静岡の音楽文化について。
2023.01.17
五島に滞在してる朝陽くんが、「星と飛行機」を結びつけようとしてるので、わたしは、ひたすら、サンテグジュペリのことを気にしてるわけですが、◇じつは、このドラマは、始まった当初から、宇宙のモチーフを随所にちらつかせています。たとえば、第一話の冒頭、幼いヒロインが乗った飛行機のなかで、女性の機長が次のようにアナウンスします。…当機はただいま、追い風に乗って時速1100kmで飛行中です。これは、38万km離れた月へ、たった15日でたどりつけるほどのスピードです。なぜそこで月の話をするの??…と、まずは思ったのです。◇そして、ヒロインの実家が「ネジ工場」だと分かったとき、わたしは『半沢直樹』の鶴瓶の役を思い出したわけですが、同時に、「ネジを飛行機に乗せること」が父の夢だと知ったとき、やはり池井戸潤の原作によるTBSの日曜劇場、すなわち『下町ロケット』のことを思い出したわけですね。吉川晃司が演じる鬼教官の大河内も、やはり『下町ロケット』の財前を彷彿とさせるキャラでした。まさかとは思うけど、飛行機を月まで飛ばそうとしてるのか??…と。ネジ屋さんが月まで飛行機飛ばす話なのはだいたい分かった。#舞いあがれ #下町ロケット pic.twitter.com/zHobW2kkVm— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 3, 2022 もちろん、このときはシャレのつもりでツイートしたわけです。しかし、その後もヒロインの父は、人工衛星にかんするセミナーや工場見学に参加したりしていた。◇さらに、ヒロインの親友は久留美ちゃんですが、彼女の苗字って「望月」なのですよね。そして、彼女が舞と出会ったきっかけは、小学校での「うさぎ」の世話でした。ここには、あきらかに「月とうさぎ」のモチーフが現れています。じつは桑原亮子が前に書いた『カノブツ』にも、(よるドラ『彼女が成仏できない理由』)謎の「ウミウサギ」というモチーフが出ていたのですが、今回はまさしく「月の兎」なのです。つまり、桑原亮子は2023年が「卯年」であることを見越して、「月とうさぎ」の物語を書こうとしている可能性がある。もしかしたら、福原愛と山下美月を "ウサギちゃん" コンビに見立ててるのかも。◇それに対して、貴司と朝陽くんは、おそらくサンテグジュペリなのです。なぜなら「詩人」と「星の少年」の組み合わせだから。サンテグジュペリは、サハラ砂漠に不時着したときの経験をもとに『星の王子さま』を書きました。つまり、彼は飛行機で宇宙へ行ったのですよね。◇きわめつけの謎は、兄の悠人が実家に送ってきた、ビリケンさん的な「金の宇宙人」です。あれって、いったい何の伏線なのか。幸運を呼ぶとか、プレミアがついて高く売れるとか、そんなことも想像は出来るけど、もしかしたら、あれが岩倉家を宇宙へ飛ばすのかもしれない。あるいは、岩倉家の人々に代わって、あれ自体が宇宙へ飛んでいくかもしれないのです。
2023.01.16
この物語は、「ヒロインがパイロットになるまでのサクセスストーリー」だと誰もが信じてるはずです。もちろん、わたしもそう思ってます!今のところは…。だって、NHKのキャッチコピーにも、「空を見上げて飛ぶことをあきらめないヒロインの物語」と書いてあるし、ウィキペディアにも、「空とパイロットにあこがれ、 空を駆ける夢へ向かい奮闘するヒロインの挫折と再生を描く」って書いてあるし。なにげに「パイロットになる」とは断言されてないけど…。いや、だって、ヒロインがパイロットになった将来の姿も映像化されたし、さすがにそれを裏切るなんてことないでしょう!!◇しかし、「それ自体が壮大なミスリードだった」…なんてことを桑原亮子がやらかさないとも限らない(笑)。実際、過去の朝ドラでも、「純情きらり」の桜子とか、「半分、青い」の鈴愛とか、これといってヒロインが何も成し遂げずに終わる話はあった。そう考えると、舞がパイロットになれずに終わる可能性もないとは言えない。そもそも、すでに舞は資格も取って、あとは就職さえ決まればパイロットになれるわけで、もう、そのこと自体には、さしたるドラマ的な感動もないって気はする。◇いまや物語の焦点は、パイロットになることじゃなく、父の事業を引き継ぎ、兄とも協力しながら家業を立て直し、やがてIWAKURAのネジを飛行機に乗せる、…という夢のほうに移ってきてる感じ。そして、IWAKURAのネジを乗せることができるなら、ヒロインの操縦する飛行機は、旅客機である必要などどこにもなく、たとえば国産の小さな自家用機でも構わない、…ってところに来てる感じも。五島に滞在している星好きな朝陽くんとの関わりも気になる。「星と飛行機」という組み合わせから考えると、脚本家がサンテグジュペリ的な何かを意識してる可能性もあり、貴司の詩人の感性が、舞と朝陽くんの夢をファンタジックに繋いでいくのかもしれない。いずれにせよ、今後の桑原亮子が何をやらかすかは、まだまだ見通せません。◇◇それはそうと、舞と柏木が別れましたね。「ほんとに付き合ってたの??」ってのが多くの視聴者の印象だと思いますが…そこには、やはり、脚本家の交代の問題が大きく響いている。いまさらだけど、やはり吉川晃司は「鬼教官」じゃなきゃいけなかったのよね。吉川晃司が「鬼教官」であればこそ、舞と柏木はもっと連帯を強められたはずだし、その連帯が自然な恋愛感情にも発展したはずだし、さらには、最後の鬼教官との和解のエピソードも、より感動的なものになったはずなのです。しかし、その脚本のプランが捻じ曲げられてしまった。そのせいで、二人の心の繋がりを十分に描けないまま、なんだか唐突に恋人になってしまい、別れのシーンも淡白なままに終わってしまった。まさしく目黒蓮の無駄遣い。彼の存在意義はほとんどないに等しかった。◇噂によれば(というか本人談によれば)、どうやら吉川晃司の提案で、本来の「鬼教官」のキャラが変更されたらしく、一部の視聴者は、そのことを称賛してもいます。たしかに、「倫子もツンデレ。柏木もツンデレ。鬼教官もツンデレ。」…というんじゃ、あまりに話が安っぽかったのは事実。人間関係の物語をツンデレでしか描けないのは、脚本家の力量不足というほかない。けれど、だからといって、全体的なプランを考慮せずに、脚本の意図を捻じ曲げたりしてはいけなかった。これは、吉川晃司の責任でもあるけれど、その提案を受け入れた演出家の責任でもあるし、それを見過ごしたプロデューサーの責任でもある。◇脚本家の交代に起因する問題は、嶋田うれ葉や佃良太の責任ともいえますが、統括やすり合わせを怠ったプロデューサーの責任ともいえるし、脚本の意図を理解しなかった演出家の責任ともいえます。逆から言えば、自分の意図をきちんと周りに伝えなかった桑原亮子の責任ともいえる。実際のところはよく分かりませんが、やっぱりこれは大いに反省しておくべき点ですね。
2023.01.16

初富士は青しケサランパサラン来 雪虫の第一発見者は次男 冬ぬくし粘板岩に貝の跡 マフラーにきら失くしたはずのピアス 四時限目休講小春のキネマ 焼鳥や嗚呼隣席に郷ひろみ 一月の銀座でおそろいの遅刻 初旅は海へ黄色の京急来 夕の膳二つ「ん」のつく冬至かな 雪晴やチャームへ託す運選ぶ 吉兆の輝き一村をめざす 3ミリのジンクス冬晴れの球児 夢のあとはぐれ牛すじおでん鍋 ダイヤモンドダストファンが持つライト 闇動く幸せが動く梟プレバト俳句。お題は「ラッキー」。1位が森迫永依。2位が本上まなみ。二人とも出演回数は少ないけど、実力はすでに十分だったので、わりと順当な結果だと思いました。はじめから「どちらかが優勝するかも」って気がしてた。◇森迫永依。初富士は青し ケサランパサラン来くあれ?前にも誰か「ケサランパサラン」で詠まなかったっけ??…と、最初に思ったのだけど、よく考えてみたら「プレバト」じゃなくて「せかくら」の話だったwたしかアンジャッシュの児嶋が持ってきてたような。どっちの番組にもジュニアが出てるから混同した。その実物を「せかくら」で見たときは、なにやら不気味な物体のように感じたのだけど、今回の森迫永依の俳句を読んだら、むしろ爽やかな幸運の綿毛のように思えました。それどころか、「ケサランパサラン」という響きまで、なんだか清々しいものに思えてくるから不思議。この人の俳句は、「モロッコの朝」にしても、「冬晴れの小樽」にしても、清々しさを表現するのが作風になってますね。初富士についても、「雪の白さ」ではなく「青さ」を描くところに、その感性がちゃんと出てると思います。助詞の「は」は、その新鮮さに驚いたがゆえですね。句またがりとか、動詞「来」の選択とか、結構いろんなことを分かった上で作っている。◇本上まなみ。雪虫の第一発見者は次男この助詞「は」の使い方も的確。中七下五の句またがりもサラリと出来ている。前回は「従弟」の句。今回は「次男」の句。ほのぼのした身内のエピソードですよね。森迫永依も、本上まなみも、まだ数回しか出演してないと思いますが、内容的にも、形式的にも、ちゃんと一定の作風があるように見える。◇キスマイ千賀。冬ぬくし 粘板岩に貝の跡型どおりのそつのない句です。ただし、個人的には、季語を兼題に寄せて「暖かい冬」にしたのはいいとしても、助詞を「に」にしてラッキー感を強める必要があるかしら?…ってのはある。そもそも化石を見つけるために粘板岩を探してるのだし、竜の跡とかならともかく、貝の跡ぐらいで「ラッキー!」ってほどでもないのでは?本来なら「に」ではなく「の」で十分かなと思います。◇森口瑤子。マフラーにきら 失くしたはずのピアスマフラーのフリンジ あらここにピアス(添削後)擬態語の「きら」がどうかなあ?…とは思いました。せめて「きらり」と書くべきでは?たとえば、マフラーにきらり 失くしていたピアスでも17音にはできます。◇フジモン。四時限目休講 小春のキネマ四時限目休講 小春日のキネマ(添削後)16音の字足らずを解消するには、たとえば「四時限目の」としてもいいし、添削のように「小春日の」としてもいいわけですが、原句の字足らずのままでも悪いとは思いません。むしろ字足らずのほうが、小春の休講の"束の間"な感じとか、"人知れずささやかな娯楽"に浸る感じとか、そういう印象が出るのだと思います。名人がこの手のミスをするはずもないし、これは意図的な字足らずだったように感じます。◇千原ジュニア。焼鳥や 嗚呼隣席に郷ひろみ悲嘆の「嗚呼」なのかと思いきや、最後の「郷ひろみ」で落とすというウケ狙いの句。切れ字「や」の詠嘆のうえに「嗚呼」を重ねるのが、ちょっとクドイとも言えるし、あるいは感動の焦点が散漫だとも言えますが、それもウケ狙いのうちだといわれれば仕方ない。◇犬山紙子。一月の銀座でおそろいの遅刻一月の銀座 お互いの遅刻(添削後a)一月の銀座 お互い様の遅刻(添削後b)この場合の「おそろい」は誤読を招く、…というより、ほとんど誤用というべきでしょう。なので、直しが必要ですが、字足らずの(添削後a)よりも、字余りの(添削後b)のほうが、内容的にもリズム的にも良い気がします。◇キスマイ横尾。初旅は海へ 黄色の京急来く京急は黄色だ 初旅は海へ(添削後a)イエローハッピートレイン 初旅は海へ(添削後b)原句は二句一章なのですが、切れのない一句一章だと誤読されかねないし、そうすると「~へ~来る」の組み合わせがおかしくなる。一句一章ならば「~へ~行く」でなければならない。そこがすこし難点なので、直したほうがいい。なお、(添削後a)のほうは、あえて「黄色の京急や」でなく「京急は黄色だ」としてますが、結果的に助詞の「は」を2度使うことになるので、字余りであっても(添削後b)のほうが良いと思います。◇梅沢富美男。夕の膳 二つ「ん」のつく冬至かな「ん」のつくもの二つ 冬至の夕の膳(添削後)セオリーにしたがうなら、最後を「かな」で締める場合に「切れ」は入れないほうがいい。この句は、内容的には二句一章ではないけれど、リズムのうえでは上五に「切れ」が入ってるので、たとえば上五を「夕膳の or 夕膳に」とすれば、その点を解消できると思います。これが9位だったのは順位が低すぎる感じ。わたしなら、これを4位か5位ぐらいにします。(逆に、森口やジュニアは順位が高すぎると思う)なお、先生の添削は「ん」で始まってるので、これって、もしかしたら俳句史上初かも!!と思いましたが…すでに夏井チャンネルでもやってましたね(笑)。◇フルポン村上。雪晴や チャームへ託す運選ぶ雪晴や 金運のチャームきらきら(添削後)動詞2つで「託す運選ぶ」の是非。すなわち、「運」という名詞が、修飾語の動詞と述語の動詞に挟まれた形。誤読の危険性はないけれど、やはりゴチャッとした印象になります。それから「運選び」ってのは、客観写生ではなく心情表現というべきなので、その是非も問われることにはなる。それでも、原句の意図を尊重して、動詞をひとつ減らすとするならば、雪晴や チャームに何の運託す?雪晴や チャームに託すは何の運?みたいな方法もあるとは思いますが。◇中田喜子。吉兆の輝き 一村をめざす吉兆の輝き 産地の村めざす(添削後)もしかしたら作者のこだわりは、「キッチョウ」と「イッソン」の促音で、韻を踏むことだったのかもしれません。しかし、福笹を掲げて目的の村へ向かう映像は、そういう地方の行事か何かとしか読めません。◇高橋克実。3ミリのジンクス 冬晴れの球児3ミリに刈った坊主頭のことらしいけど、わたしも、先生と同じように、「ボールにあと3ミリ届かなくて負けた」とか、そういう話なのかと思いました。ちなみに、床屋では「3ミリ=1分刈り」だそうですが、17音の定型に収めるのなら、「丸刈りのジンクス」「五分刈りのジンクス」みたいな感じになるでしょうか。◇伊集院光。夢のあと はぐれ牛すじおでん鍋牛すじの外れておでん鍋の底(添削後)原句は、二句一章の内容なのだろうけど、リズムのせいで三段切れに見えてしまう。もし原句の意図を尊重して直すなら、目覚めればおでんは牛すじのみとなりみたいな感じ?◇キスマイ二階堂。ダイヤモンドダスト ファンが持つライトもしかして「ト」と「ト」の脚韻だった??先日の宣言どおり、句またがりの対句形式にはしてきたものの、内容的には「取り合わせ」ではなく、たんに「BはAのようだ」という比喩ですね。季語を比喩に使ったのも減点要素になりうる。今後、また句またがりの対句に挑むのなら、まずは横尾から、「二物衝撃」「2カットの取り合わせ」の意味を教えてもらったほうがいいと思う。◇立川志らく。闇動く幸せが動く 梟ふくろうフクロウが動くことは、すなわち闇が動くことであり、すなわち幸せが動くことである…みたいな意味なのだろうけれど、その観念的な内容に17音の言葉では届いていない。とくに中七の「幸せが動く」というフレーズは、ネガティブな変化を意味するように誤読されかねない。ためしに、闇動く 幸せの梟動くあるいは、闇を鳴き幸せを呼べり 梟としてみました。
2023.01.15
米林宏昌の「思い出のマーニー」を見ました。とても綺麗な作品でした。◇原作を読んでないので、どこが同じでどこが違うのか知らないけど、たぶん「七夕祭」が出てくるのは宮沢賢治の引用ですよね。つまり、ジョバンニとカンパネルラの関係を女子に置き換えて、カンパネルラの存在をイマジナリーフレンドに見立て、まるで同性の恋人との出会いの物語のようにしている。◇マーニーのボートに乗ることは、「銀河鉄道の夜」みたいな死を意味しているようでもあり、《月夜にボートを漕いで入江の奥へ行く》という場面もあるので、松田聖子の「秘密の花園」みたいなセックスの隠喩っぽくもある。主人公は、自分の悲しみと憎しみと恐怖を、マーニーの悲しみと憎しみと恐怖に置き換えながら、さらには男女の性の役割さえも入れ替えながら、ともに乗り越えて成長していくのですね。◇青い目の主人公は、じつはクォーターだったというオチですが、基本的には、東洋人のヒロインと、西洋人のイマジナリーフレンドの交流のお話なので、この映画を、東洋人の観客が見るのと、西洋人の観客が見るのとでは、すこし見え方が違うかもしれませんが、そのことにさえ何らかの意義がある気はする。◇大林宣彦の「さびしんぼう」の場合は、《イマジナリーフレンドが少女時代の母だった》というお話ですが、本作ではおばあちゃんだったのですね。ジブリ的にいうと、「おもひでぽろぽろ」みたいに田舎へ行って、「千と千尋」みたいに此岸と彼岸の境界を越えて、クララみたいなお金持ちの美少女や、無口なおじいさんに出会うって「ハイジ」っぽさもある。それぞれの要素は、過去に反復されてきたモチーフの組み合わせではあるけれど、ひとつの物語として綺麗にまとまっています。最後は種明かしをしすぎてる感もありますが、あえて欠点というほどでもありません。作画も美しかったし、村松崇継の音楽も美しかったです。まだ本格的にブレイクする前の、有村架純や杉咲花やTEAM NACSが参加してるのもすごい。
2023.01.14

おそまきながら、ドラマ「silent」最終回の感想。…と、その前に「ボクらの時代」も見た。脚本家&演出家&プロデューサーの鼎談。三人とも第5話がベストの回だと言ってました。わたしは第6話の終盤まで脱落寸前でしたが!(笑)そして、プロデューサーは「最終回が不安」とも口にした。実際、近年にしてはめずらしく11話まであったわけですが、正直いって、終盤の第10~11話は、蛇足の感が拭えませんでした。◇最終回では、なぜか物語の結論を「言葉」に収斂させたのですね。付箋に書いた「言葉」をテーブルの上に並べたり、わざわざ高校まで行って、教室の黒板に「言葉」を書きつけて会話したり、体育館で「言葉」についての昔の作文を読んだり、最後は、かすみ草に「花言葉」を託して次々と受け渡してました。「カスミソウ」が「サクラソウ」の洒落なのかどうか知らないけど、「感謝」という音のない花言葉を、手話と同じように「おすそわけ」していたらしい。たしかに、奈々は、手話が「目に見える言葉」であることを讃えていたし、スピッツも「魔法のコトバ」を歌っていたし、ヒゲダンのテーマ曲も「言葉」について歌っていた。言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたとして時間が経ってしまえば 大抵記憶から溢れ落ちて溶けていって消えてしまうでも絶えず僕らのストーリーに添えられた字幕のように思い返した時 不意に目をやる時に君の胸を震わすもの探し続けたいきっと、音がなくても「言葉」があればいい、ってことなのだろうし、手話が伝える「言葉」の価値を肯定的に描きたかったのだろうし、そして新進の脚本家としても、最後の最後に「言葉の力」を訴えて終わりたかったのでしょう。しかし、それまでの物語の流れから考えると、この物語の結論は、やや唐突な印象を拭えなかった。そんなことがテーマでしたっけ?とってつけたような感じ。いまいちピンとこなかった。◇なぜなら、かならずしも言葉は人と人とを正確につなぐわけではないし、むしろ言葉のすれ違いが人と人を切り離すこともあるのだし、実際、この物語のなかでは、いくら言葉を尽くしても分かり合えないことのほうが多かった。それに、もし2人が言葉でしか繋がり合えないのなら、想と紬はずっと手を繋ぐこともできず、可愛いバッグを持ち歩くこともできず、ひたすら手話をし続けなきゃいけなくなる。むしろ、「言葉を超えた繋がりこそ重要」という結論のほうが、視聴者としては、よほど納得感があったはずです。…というより、わたしに言わせれば、≫ 他人の気持ちを思いやるよりも≫ 自分の気持ちに正直になることのほうが大事という第8話の内容こそが結論にふさわしかったのです。◇じつをいえば、第9話も素晴らしかったのですよね。ドラマの最終盤になって、想が聴力を失った過去へ遡る、という内容。この構成の仕方はすごいと思いました。序盤でそれを見せるのと、奈々の物語の後でそれを見せるのとでは、視聴者の受け止め方が大きく違ってくるからです。時系列で物語を語っていくのでもなく、かといって順繰りに遡っていくのでもなく、表層から深層へ分け入ってくような、あるいは細部へ分け入っていくような、通常の脚本ではありえない叙述を確信犯的にやっていた。◇しかし、残念なことに、第10話ではまた振り出しに戻った感じで…(笑)。つまり、「紬の声を聞けないのが悲しいから別れる」みたいな話に戻ってしまった。高校卒業後に紬と別れた理由を、最終盤にきて、あらためてぶり返した形です。それって、基本的には、湊斗が紬と別れたときの、「紬のすべての気持ちを手に入れられないのが悲しいから別れる」ってのと似たような理由。要するに、どちらの男子も、完全に100%じゃなきゃ気が済まないのです。20%の欠落が悲しいから、残りの80%も捨ててしまおう、みたいな話。まあねえ、若いから、気持ちは分からないでもない。◇でも、100%を共有し合える恋愛なんてありえないのです。たとえ健常者どうしであってさえ、同じものを見て、同じものを聞いてるとは限らないのだし。むしろ、2割ぐらいが共有できれば御の字(笑)。想であれ、湊斗であれ、そのことに折り合いをつけられるかどうかが問題だった。すくなくとも、想にかんしていえば、たとえ紬の声を聞くことができないとしても、「声以外の部分を愛せばいい」という結論になるのは自明だった。しかも、それを「言葉」だけに収斂させる必要はなかったのです。声以外のすべてを愛せばいいのだから。サブスクではなくCDを手に取ることの意味もそこにあったはず。音以外のすべてを感じ取ればいい、ってこと。◇余談ですが、最後まで「お姉ちゃん大好き」だった弟くんは、結局ずっとフィクサー的な役回りのままでしたね。弟くんと妹ちゃんが、なぜ繋がってるのかも分からなかったし、なぜその関係を姉や兄に隠してるのかも分からなかった。それから、これも余計なことだけど、篠原涼子は、これまでずっと主役を張ってき女優なだけに、脇役の演技があまり上手くはありませんでした。脇役になっても、まだ主役の演技をしてる感じ。よくもわるくも「スターの輝き」が抜けないのです。年末の紅白でも、堂々たるパフォーマンスを見せていましたが、やはり主役向きの人だなと思いました。
2023.01.13

おそまきながら、ドラマ「クロサギ」の感想です。とても面白かったし、よく出来たドラマだった。原作を基礎にしてるとはいえ、セリフもよく練られてあったし、かなり構築性のある脚本だったと思います。◇わたしはいままで、篠﨑絵里子という脚本家をあまり意識してなかったけど、「クロサギ」「あしたのジョー」「竜の道」など、かなり硬派でハードボイルドな作品を手掛けているのですね。いずれも、下町を舞台に、悲しい境遇に生まれた男の物語で、どの作品にも、共通の世界観があります。フジ「竜の道」の遠藤憲一も、TBS「クロサギ」の三浦友和や船越英一郎も、どこかしら丹下段平みたいなキャラクターだし。◇今回のドラマの最大の魅力は、三浦友和を桂木役に起用したこと。原作ではスナック経営者だし、2006年のドラマ版のときも、山崎努が悪人顔のクラブ経営者を演じていましたが、今回は、三浦友和が、品のよい善人顔の和菓子職人を演じてて、どう見ても堅気の人間にしか見えなかった。そこが、とてもスリリングで、いちばんワクワクしたところだし、なおかつ詐欺のリアリティを強めてもいたと思います。…一方、ヒロインの父親は船越英一郎でした。詐欺の被害者なのに、三浦友和よりもよっぽど悪人顔に見えましたが(笑)、それもまた意外性があって面白かった。そして、加害者である三浦友和と、被害者である船越英一郎が、主人公に対して、ともに"親心"を持っている…。その対照的な図式も面白かったです。◇ほかの登場人物も、全体的にシンメトリックな相関性をなしていました。たとえば、詐欺師になった被害者の息子(平野紫耀)と、検事を目指した被害者の娘(黒島結菜)。一方は、法を疑う詐欺師。他方は、法を信じる検事。ふたりは逆の立場でありながら、たがいに共感しあっていた。それから、刑事になった詐欺師の甥(井之脇海)と、法学助教になった詐欺師の甥(時任勇気)。一方は、叔父を憎んでいましたが、他方は、叔父を強く慕っていました。ふたりは同じ立場に生まれながら、まるで正反対の人物だった。…こうした構造が、物語に強い葛藤とダイナミズムをもたらしていました。きっと中村ゆりとか山本耕史のキャラにも、(2人とも武闘派?殺しまでやってました?)何かしら背景があるんだろうけど、最後まで謎のままでしたね。◇2006年版のドラマは、ミキモトとの対決までで終わっていましたが、今作では、それはあくまで通過点でしかなく、ミキモトの先に、ラスボスがあと2人いました。不可視のラスボス、宝条。身近にいるラスボス、桂木。見えない敵と、見えすぎる敵。そのこともまた詐欺師のリアリティを強めていた。◇…ただ、ミキモトと対決した上海編や、宝条と対決した最終回は、やや盛り上がりに欠けた気もする。ドラマの基本的なテイストが、東京の下町に置かれていたせいもあって、上海に舞台を移しても、永田町や霞が関に舞台を移しても、こじんまりした印象のまま、ちょっとスケール感が乏しかったのです。とくに上海編は、(実際に上海ロケをしたのかどうか知らないけど)街並みにも、登場人物にも、さほどの "上海らしさ" を感じられませんでした。そこが惜しい!◇◇なお、今回のドラマには、「鎌倉殿」のキャストが6人出ていたらしい。※坂東彌十郎、山本耕史、新納慎也、八木莉可子、栗原英雄、たかお鷹それから、黒島結菜と井之脇海は、「ちむどんつながり」「萌歌氷魚つながり」だけでなく、日芸の先輩と後輩なのですね!思えば、クドカンと井之脇海と黒島結菜って日芸つながりなんだなー。◇ちなみに、ネットの反応を見てたら、「桂木さんはいい人!」みたいな反応であふれてたけど、基本、桂木は悪人ですから!野放しにしちゃいけない人間です!!そこを勘違いしてはいけません。これは現実社会でもそうだけど、ヤクザとか悪徳政治家って、実際に会うと、いい人だったりします。しかし、それで騙されてはいけない。◇桂木も、宝条も、法に触れないところで悪事に手を貸していました。宝条の手口もひどかったですね。業績を上げるためだけに、客に多額のローンを組ませて、返せなくなったら担保の家を売らせて、自殺したら、生命保険で支払わせる。そういう詐欺まがいの銀行屋です。実際に、そういう奴らがいるのかも…。
2023.01.12
おそまきながら、NHKの正月時代劇「いちげき」を見ました。原作も良いのでしょうが、やはり脚本がお見事というしかない。非常に完成された脚本。最近のクドカンの脚本は、もう職人芸みたいな次元に達してて、どこにも非の打ちどころがないです。あまりに出来過ぎていて、これといってコメントすることもないのよね…(笑)コメディの体裁ではあるものの、大きな歴史には何の影響も与えず、捨て石として消えざるをえない市井の人々の姿を、ペーソスを込めて描くというあたりが、現在のクドカンの真骨頂になっている感じ。◇キャスティングもよかった!松田龍平は安定の役どころですが、とくに、「勝海舟」に尾美としのり「相楽総三」にシソンヌじろう「伊牟田尚平」に杉本哲太…を当ててくるあたりに、いかにもクドカンらしい皮肉が効いてて面白かった。そして染谷将太には、ちょっと鬼滅の "炭治郎" っぽい雰囲気を感じました。さしずめ、岡山天音が "善逸" で、ティモンディが "伊之助" で、西野七瀬が "禰豆子" で、伊藤沙莉は "神崎アオイ" みたいな感じ(笑)。
2023.01.11
舞いあがれ!第14週。…たしかに、わたしは、先月のはじめごろ、桑原亮子が脚本に復帰したあとに、かなり苛酷な展開が待っている可能性は高い。と予想しましたが、新年早々、想像のはるか上をいく厳しさです…(笑)。◇そして、兄が投資業で失敗しそうに見えるのは、あくまでもミスリード的な「フラグ」であって、実際に転落するのは父だけってパターンもありえます。わたし自身、そのほうが面白いと思ってる。という当てずっぽうな予測が、意外にも当たってしまった。ただし、そうなれば、祖母に逆らって故郷を捨ててきた母の選択は、結果的に間違っていた…ということにもなります。とまで書いたものの、事業失敗以上の悲劇は想像できなかった。◇じつをいうと、脚本家が交代する前の段階で、わたしは「貴司の死」をすこし危惧していました。しかし「父の死」はまったく想定外だった。やはり桑原亮子の脚本は容易じゃありません。しかも、たんに喪失の感情を描くだけでなく、リアルな経済問題をえぐりだしているところが、容赦ないほどに厳しい。…そういえば、わたしは、桑原亮子が脚本に復帰してシビアな展開になったときに、かえってSNS全体に「共感できない!」の嵐が吹き荒れ、はげしいバッシングや炎上が起こるかもしれないとも書きました。まあ、一部にはSNSの拒絶反応も見て取れますが、いまのところ、それほど大きなバッシングや炎上は起こっていません。◇わたしは以前、桑原亮子の過去のドラマの印象について、脚本家自身が格闘しすぎてやしないかと思うほど、良くも悪くも真面目すぎる脚本だった印象があって、視聴者に伝わる以前のところで無駄に格闘してる感じ。と書きましたけれど、やはりそれは、この脚本家の不安要素ではある。つまり、ドラマのなかでは解決しえないほどの厳しい状況を、あえて物語のなかに取り込んで、手に負えないような問題に立ち向かってしまう真面目さ。もちろん、それは欠点ではなく、それこそがリアリティを生んでいるともいえる。◇とにかく、この桑原亮子って人は、けっしてイージーな脚本家じゃないのです。そう安々と「幸せな結末」をもたらしてくれる作家じゃない。そのことは、あらかじめ覚悟しておかなければならない。五島の祖母は、投資家の長男に、「逆風のなかの馬鹿力」を示唆しましたが、そんなミラクルな展開で逆転が可能なのか。それともまだまだシビアでリアルな展開が続くのか。今後も、綱渡りの物語が続くんだろうと思います。
2023.01.09

実写版の「岸辺露伴は動かない」。去年の年末放送の終わり際に、京香さまがルーブル編をほのめかしたとき、「来年の予告にしちゃ早いんじゃない?」と思ったけど、5月に映画が公開されるのだそうです。◇NHKが制作する映画というと、「スパイの妻」とか、「アーヤと魔女」とかがあったけど、シリーズものの映画化は初めてなのでは?わたしが知らないだけ?民放では、ドラマシリーズの映画化をよくやる。海外ロケのすえに大コケするパターンもままある。岸辺露伴のドラマ版は、すでにAmazon prime videoで世界配信してるそうですが、映画も国際市場を意識してのことかしら?◇ドラマの世界観をそのまま海外に移すと、なんだか取ってつけたように、ちぐはぐした印象になりがち。先日、フジテレビで、映画「コンフィデンスマンJP」のフランス編を見ましたが、もっぱら日本のタレントだけで漫画っぽい世界観を作っていた。まあ、あれはあれでひとつの手法かなと思います。へたに海外キャストを混ぜると、日本のキャストだけが漫画っぽく浮いて見えるし、それよりは、あえてリアリズムを排除して、徹底的に漫画的な世界を作ってしまったほうがいい。◇日本アニメの舞台化や実写化が続いていますね。しかし、まだ世界の市場を席巻するほどのヒットは出ていない。フジで「エルピス」を撮った大根仁が、さかんに「映像ルック」ということを言ってましたが、とくに実写の場合は、この映像ルックの開発が至上命題になってきています。日テレの「定塚翡翠」も、(内容はつまらなかったけど)もっぱら映像ルックだけで成功していたと言っていい。…黒沢清は、東洋人の俳優を使った映像表現において、エドワード・ヤンをほぼ唯一の模範にしたそうです。今回の「岸辺露伴」を撮る渡辺一貴は、ベルトルッチの「暗殺の森」を意識しているらしい。まだ不安のほうが大きいけど、なんにせよチャレンジすることは重要ですね。『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』(アスミック・エース/NHKエンタープライズ/P.I.C.S.)
2023.01.09

NHKスペシャル「超進化論」を見ました!去年の再放送みたいです。第1集は「植物からのメッセージ」。どれも知らない話ばかり!!…おどろきモモノキの連続でした。◇余談ですけど…Stevie Wonderの79年の「シークレットライフ」という作品は、なぜかサントラだけが作られて、映画がお蔵入りになっていた。その原作は「The Secret Life of Plants」で、植物の神秘を題材にした科学ドキュメンタリー映画。つまり「植物にも知性がある」みたいな話です。何故お蔵入りになったのか知らないけど、ちょっと "トンデモ科学" 的な話だったから、きっと信憑性に疑問符がついたのだろうと思ってました。◇ところが、今回のNHKの番組を見たら、まさに「植物にも知性がある」みたいな話じゃないですか!!びっくりしたー。植物は、ホルモンみたいな情報伝達物質を生成し、その組み合わせによる "言語的なメッセージ" を、ほかの器官や、仲間の植物に対して送ってる。さらに、それを空気中に放出して、虫たちや鳥たちにもメッセージを送ってる。たとえば、葉を食べる害虫を攻撃するため、周囲に情報を発信して、植物自身で有毒物質を生成したり、天敵の虫や鳥をボディガードとして呼ぶのだそうです。ほとんどおとぎ話の世界。もしかしたら、人間も無意識に植物のメッセージを感知してて、いわゆる "第六感" を働かせてるのかもしれません。◇それだけじゃあない。植物は、動物の神経細胞と同じく、電気信号を使った情報伝達もしてるらしい。動物の神経も、シナプスでグルタミン酸を受容して、ナトリウムイオンなどで電気を伝えてるはずだけど、植物も、やはり葉の細胞などでグルタミン酸を受容し、維管束などでカルシウムイオンを発生させるようです。ほとんど神経系と同じ仕組み…?◇植物は、音、温度、重力、化学物質などの情報を、20以上の受容体で感知できるそうです。…虫が葉を食べると、その咀嚼音や唾液成分を感知して、虫の種類を判別したうえで有毒物質を"調合"する。…雨が降ると、雨粒の圧力を感知して抗菌物質を生成する。…人間などに触られると、その危険を感知してわざと成長を遅らせる。…土のなかの種子に号令を発して、最適なタイミングでいっせいに発芽させたりする。ちょっとサンゴの産卵みたいですね。…ネナシカズラなどは、寄生相手のヨモギを匂いで判別しているそうです。つまりは、嗅覚も聴覚も触覚もあるってこと!ここまでくると、もはや《森の妖精が実在する》というのと同じじゃないの?ヤバいくらい神秘的な世界だと思いました。いとうせいこうは、一貫してこのテーマを追いかけてるっぽい。お蔵入りになった映画がネット上に流出したときも、いち早く取り上げていました。植物の神秘生活~緑の賢者たちの新しい博物誌/ピーター・トムプキンズ植物は〈知性〉をもっている~20の感覚で思考する生命システム/ステファノ・マンクーゾ植物は〈未来〉を知っている~9つの能力から芽生えるテクノロジー革命/ステファノ・マンクーゾつづけて、第2集は「愛しき昆虫たち」でした。テーマのひとつは、どうやって昆虫は空を飛ぶようになったのか?詳細はまだ分かっていないらしいけど、わたしは女王蟻にヒントがあるような気がする。女王蟻だけが羽をもっているのは、遠くに移動しなければならないからです。かりに高度な羽を持っていなくても、胸の節の部分がパラシュートのように広がっていれば、落下したときにも空気抵抗があって安全だろうし、うまく風に飛ばされれば、遠くへ行ける可能性も高まる。それが徐々に動く羽へと進化したんじゃないかしら?◇それにしても、蟻の世界は、あまりにも社会的にすぎて怖い。同じ女王の子かどうかを厳しく判別して、あくまで家族間だけで食物を分け合うのだそうです。そして、やがて若い女王がひとり旅立って、別の場所で新たな家族を作る、みたいな物語がある。その物語性が、かえって不気味です。なお、蟻の家族に居候するコオロギがいるそうです。キリギリスだったらよかったのに!!◇もうひとつのテーマ。チョウチョのような昆虫は、なぜ幼虫から成虫に変態するのか?答えは、多様な生態を実現するためだそうです。でも、CTでサナギの内部を撮影する実験を見ていたら、あれはきっと系統発生を高速で反復してるんじゃないか、と思えました。◇今夜は第3集「すべては微生物から始まった」です。大河のあと、絶対見ます。La Voz de Tres「Secret Life of Plants」
2023.01.08

NHK-FM「蓄音機ミュージアム~セロニアス・モンク」を聴きました。◇セロニアス・モンクといえば、濁った音色、奇妙なメロディ、よたったリズム、…みたいなイメージ。要するにヘタウマ。◇あくまで音だけを聴いたイメージでいうと、前歯の欠けたグラサンのおじさんが、節々の曲がった太い指で、ラリって弾いたような音楽。あるいは酔っ払って足のもつれたダンス。…みたいな映像が目に浮かびます。◇しかし、今回の番組のなかで、挾間美帆はこう話していました。ただたんにピアニストとしてとらえることは出来ない。作曲家が自分の個性を存分に引き出すためにピアノを弾いている。頭の中に色々な音色とか音程がうごめいていて、それを演奏するとああなる。…ピアノを超えた演奏なんじゃないか。つまり、モンクの特殊な音楽は、演奏の癖とかスタイルによるものじゃなく、あくまでも「作曲されたもの」だということ。本人の頭のなかでは、ピアノ以上の作・編曲がなされていたかもしれない。それを譜面に起こすことが出来るのか分からないけど、すくなくとも本人の頭のなかには何らかの楽曲像があって、それを鍵盤のうえに再現してたってことですね。番組では、作曲過程を録音した音源も流していましたが、"ヘタウマ風"の楽曲を意識して作っているのが分かりました。◇挾間美帆は、モンクの楽曲をビッグバンドのために編曲してますが、じつは自由度が少ないとも話しています。自由度の高い曲のはずなのに、すごく首を絞められるんですよ。有余があるようで全然ない。4小節しかメロディがなくてすごく単調なはずなのに、和音1つ変えちゃうとその曲じゃなくなってしまうような感じがあるんです。どの曲もテーマは和音1つ変えられずリズム1つ変えられず、そのまま提示するだけ…そうしないと彼の曲らしさがなくなっちゃう。≫ 挾間美帆が語るセロニアス・モンク◇コードや旋律だけでなく、音色の濁りとか、リズムの揺らぎまでが、あらかじめ「作曲されたもの」なのだとしたら、一般的なジャズの楽曲のように、シンプルな構造だけを提示するものとは違って、演奏や編曲の自由度がとても少ないってことですね。◇もし、それが、「演奏様式」でなく「作曲様式」だったとするなら、かつてホンキートンクピアノとも呼ばれた黒人独特の感覚が、モンクの頭のなかでは抽象化され形式化されていたってこと。つまり「ニュアンスの言語化」みたいなことが、彼の頭のなかでは実現していたってことだと思います。ちなみにモンクのような音楽性は、たしかに西洋音楽の対極に位置するものだと思うけど、それをただちに「アフリカ的」と呼べるのかどうかは分からない。フランス的な諧謔モダニズムのようにも聞こえるし、ユダヤ的な変態エキゾチズムのようにも聞こえます。
2023.01.06
NHK「玉木宏の音楽サスペンス紀行」。《引き裂かれたベートーヴェンその真実》を見ました。もともとはBSの番組ですが、12/30に総合でも放送されていた。ベートーヴェンの《神話解体》がテーマ。本人が自覚してるかは知らないけど、玉木宏も「ベト7人気」の立役者の一人だから、こういうところのNHKの人選は抜かりない。…去年は、映画「CODA」やドラマ「silent」で、ろう者や中途失聴者のことが取り上げられましたが、ベートーベンも、まさに中途失聴者です。番組では、彼がコミュニケーションに用いた「会話帳」に焦点が当てられました。そして、この「会話帳」が神話形成の土台になっている。◇わたしが思うに、ベートーベンの神話形成には3つの側面があります。1.ドイツナショナリズム番組ではこの点にはほとんど触れなかったけど、実際には、この要因がいちばん大きいはずです。ドイツは長いあいだ、ヨーロッパの後進国として劣等感にさいなまれた。シューマンからワーグナー、やがてフルトヴェングラーやヒトラーに至るまで、その文化的な後進性を乗り越えるうえで、ベートーヴェンはずっと象徴的な存在だったと思う。2.個人的な崇拝これはアントン・シンドラーのことです。すなわち、会話帳の改竄と、それにもとづいて捏造された伝記の出版。いつの時代にも神話を作りたがる人はいる。「はっぴいえんど史観」も然り(笑)。過度に心酔するあまり、事実を捏造してでも神話を広めようとする。とくにシンドラーの場合は、シューマンなどのロマン派による再評価に触発されて、その機運に乗っかった面も多分にあったはず。逆にいえば、当時のドイツの文化的ナショナリズムのほうが、捏造された神話を積極的に欲してしまったのです。シンドラーは、「ベートーヴェンが『ファウスト』を題材に作品を構想してる」みたいな嘘も吐いたらしいけど、そういう発想こそがドイツロマン派の理念に呼応しています。さらにシンドラーは、「運命」だの「テンペスト」だの、もっともらしい表題まで考案したらしいのだけど、実際のところ、これらの表題がなければ、楽曲がいまほど有名になることはなかったでしょう。シンドラーが、ベト7の2楽章のアレグレットを、アダージョに改竄した気持ちもなんとなく分かる。わたし自身、あれは荘重な葬送行進曲だと思ってたし、現在でも遅いテンポで演奏する指揮者はいるはず。3.東西のイデオロギー対立戦後のドイツが東西に分断されたことで、ベートーヴェンの虚像と神話も、それぞれのイデオロギー的な解釈によって、まったくちがう様相を見せていった。番組では、その点を大きく取り上げていました。スパイが暗躍して、会話帳の奪い合いまで起こっていたのですね。◇しかし、いまや、ベートーヴェンの神話は解体されつつあります。もともとシンドラーによる伝記は、アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーなどによって、当初から内容が疑問視されていたけれど、冷戦期に西側の《情報化》が進展すると、東側も神話を助長するだけでは対抗できなくなり、むしろ積極的な《神話解体》で研究をリードしようとした。そして、ついに1977年、東側の研究者が、シンドラーによる会話帳の改竄を完全に暴き、楽譜の校訂においても、東側の研究がリードしていった、とのこと。ただし、冷戦終結によって頓挫してしまいます。◇ベートーヴェンの神話は需要が減じています。かつては後進国だったドイツですが、いまやすっかりヨーロッパの盟主になったわけで、神話によってナショナリズムを喚起する必要がなくなった…って事情もあると思います。これは、日本についても言える。同じ後進国として、ドイツのナショナリズムに同調する必要がなくなった。そもそも、戦後のドイツも日本も、ナショナリズムの称揚を国際的に許されていなかったかもしれませんが。かくして日本では、「のだめ」の影響でベト7が人気を獲得し、ドイツ本国でも、「笑うベートーヴェン像」が作られるなど、従来的ないかつい虚像のイメージがだいぶ変わってきた。◇ところで、今回の《神話解体》の極めつきは、じつは第9の「歓喜の歌」って「酒宴の歌」だったかも…という仮説です(笑)。そういえば、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」も、もともとは酒を酌み交わして歌う合唱曲だったのよね。…あらためて「歓喜の歌」の内容は、こうです。歓喜よ、美しい神々の火花よ 楽園からの乙女よ、我々は感激して、あなたの天上の楽園に足を踏み入れる。あなたの魔力は 世界が厳しく分け隔てるものを 再び結びつけ、すべての人々は あなたの優しい翼のもとで兄弟になる!(N響「第9」演奏会2022の字幕より)これがもし「酒宴の歌」だとするのなら、≫ 楽園酒場に足を踏み入れたら、≫ アルコールの魔力でいちゃりばちょーでー!みたいに意訳できるかも。◇さらに、番組でも紹介されていましたが、ベートーヴェンには「ポンス(パンチ酒)の歌」ってのがあって、その歌詞も、ちょっと「歓喜の歌」に似ているのです。いったい誰だ?パンチ酒が熱き手から手へと仲間を回っているというのに、喜びと楽しさを感じない奴は誰だ?そんな奴はさっさと這って消え去れ!(「ポンス(パンチ酒)の歌」Punschlied, WoO. 111)「歓喜の歌」にも似たような部分がありますよね。一人の友を真の友とするという幸運に恵まれた者、優しい妻を持つことができた者は、ともに喜びの声を上げよ。ただ一人でもこの世で友と呼べる人のいる者も。しかし、それができなかった者は、涙とともにこの集いから去るのだ!つまり、≫ 恋愛も結婚もできず、≫ 友達もいないようなヤツはすっこんでろ!みたいな内容です。◇世間では、この「歓喜」こそが第9の結論のように誤解されてますが、実際は、そうじゃありません。いったん「歓喜」が高らかに歌われたあと、急にガラッと雰囲気が変わって、荘重かつ不穏な感じで「抱擁」が歌われます。そして最後に「歓喜」と「抱擁」が融合して結論に至る。その弁証法的な構造の意味合いが、あまり理解されていないんじゃないか、って気がする。わたしが思うに、じつは「歓喜」には排他的なところがあって、それを弁証法的に乗り越える必要があったんじゃないかしら?ちなみに、「歓喜」の部分は同胞の視点で歌われますが、「抱擁」の部分は神の視点で歌われます。百万の人々よ、わが抱擁を受けよ全世界に、この口づけを兄弟たちよ、星空の彼方に愛する父は必ずや住みたもう百万の人々よ、ひざまずいているか世界よ、創造主の存在を感ずるのか彼を天上に求めよ、星空の彼方に創造主は必ずや住みたもう実際、友達のいない人を排除したまま、社交的な人間だけで歓喜の結論に至るってどうなの?たしかに「隣人愛」も大事だけれど、孤独であるがゆえの「神の愛」だって必要でしょ。だからこそ、「歓喜」と「抱擁」を止揚したところに、最終的な結論が置かれているのだと思います。
2023.01.05

上白石姉妹と美術にかんする話。わたしは、以前、「萌歌の美術の好みはよく分からない」と書いたけど、今回のAERAの記事によると、≫印象派が好み。≫画家であればフォーヴィスムの創始者でもあるアンリ・マティスが大好き。とのこと。まあ「マティスが好き」というのは前にも言ってました。でも、萌歌の嗜好からは、さほど印象派の要素を感じなかったのですよね。姉の萌音が、≫印象派が好き。とくにモネが好き。というのは、とても分かりやすいけど、マティスは印象派に比べてかなり現代的だし、やはり萌歌の好みは、ピカソ&マティスが軸になってると考えるほうが、わたしにとっては分かりやすい。◇もともと、美術史におけるマティスの位置づけは分かりにくい。あまりにも現代的だから、近代の《象徴派》にも《印象派》にも、そして《野獣派》にさえも収まりきらない面がある。そのポップなモダニズムは、現代のグラフィックデザインや、むしろイラストレーションに近いもので、いわゆる「西洋美術史」の中には位置づけにくい。アカデミックな伝統との断絶とか、従来的な美術史カテゴリーからの逸脱という点では、コクトーにもルソーにもゴーギャンにも同じことは言えますが、強いて分類するなら「ポスト印象派」ってことでしょうか。◇これは、ちょうどエリック・サティの音楽が、ドビュッシーやラベルなどの印象派とはだいぶ違って、いわゆる「西洋音楽史」の中に位置づけにくいのと似ている。さしずめフランス近代が生んだ鬼子なのですね。実際、エリック・サティ(1866年生)と、アンリ・マティス(1869年生)は3才しか違わないし、出身も同じフランス北部だったりする。そして、なにより、サティの「家具のような音楽」と、マティスの「肘掛け椅子のような絵」は、ほとんどコンセプトが同じなのですよね。今でいうなら「アンビエント」ってこと。◇大久保恭子は、コクトー&ピカソ&サティの『パラード』(1917)と、マティスの『ジャズ』(1947)とを関連づけています。前者は、見世物小屋のパレードを描いたディアギレフのバレエリュス作品。後者も、モチーフが似ていて、サーカスや演劇を切り絵と言葉のコラージュで描いたアートブック。両作品には、2つの大戦をまたいで30年の間隔があるけれど、どちらにも「ジャズエイジのモダニズム」というべき通俗性がある。ちなみに、アポリネールが「シュルレアリスム」の語を初めて用いたのは、コクトー&ピカソ&サティの『パラード』に対してです。こちらは山村浩二のアニメ。サティとマティスの近似性については、もっと多くのことが考えられねばならないし、そうでなければ、彼らはいつまでたっても、「近代の鬼子」みたいな位置づけに据え置かれる。とくにフランスの近代文化は、ジャンル横断的にとらえなければ見えてこないものが多い。戦後の日本人は、そういうことをすっかり忘れてしまったのだけど、戦前(とくに大正期)の日本人は、比較的そのことがよく分かっていた気がします。◇ちなみに、わたしも、昔から「マティス的」なものが好きでした!それは、より正確に言えば「ミック板谷的」なものですがw「マティス」と書くより「マチス」と書くほうがしっくりくる。わたしが「ミック板谷的」なものを意識するようになったのは、同世代の例に違わず、ゴンチチのアルバムジャケットの刷り込みがあるから。わたしが愛聴してたのは『マダムQの遺産』です。そもそもゴンチチのCDを雑誌で紹介してたのは、たぶん由貴ちゃんだったと思う。ちなみに『マダムQの遺産』に太田裕美が参加してるのは、もともとプロデューサーが福岡智彦だからです。まさにゴンチチの音楽なども、サティやマティスを基礎にしていたところがある。(とくに初期のころは)◇ミック板谷みたいな画風は、もとはといえばマチスやコクトーに始まるわけですが、その後のさまざまな画家にも見られます。個人的には、パウル・クレーやサミー・ブリスにもそれを感じるし、ポーラ・マッカードルとか、ロジーナ・ワハトマイスターとかにも感じてしまう。岡本太郎にもそういう面がなくはないwそういう作品を見るとき、わたしの頭の中には、どこかでゴンチチの『マダムQの遺産』の音楽が鳴ります(笑)。とりわけ「バスで見た女ひと」という曲。
2023.01.04
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