まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2022.11.10
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カテゴリ: メディアトピック
例の 「ゴッホの名画にトマトスープ事件」 について、
経済思想家の斎藤幸平が、なかなかに挑戦的な主張をしています!

▼わたしもこういう主張は嫌いじゃない。
東洋経済:抗議活動を理解しない日本の欠点

しかし、案の定、
ヤフーニュースのコメント欄は、反対意見に溢れかえって炎上しています。



斎藤幸平は、
あくまでデモ行為の《非暴力性》を前提に話しているのですが、

「じゃあデモのためなら暴力を振るってもいいんですか?」
みたいな頭の悪そうな意味不明なコメントもかなり多い。

やはり、ここには、
日本のマジョリティの「民度の低さ」が現れていると思います。



今回のトマトスープかけが、
はたして暴力なのか否かといえば、
ゴッホの絵画そのものが無傷であるという意味で、
わたしは《非暴力》の範疇にとらえられると思います。

もちろん、
美術館の備品を汚した点では軽微な暴力ですが、

無断の落書きなのだから。

しかし、
いまや日本の馬鹿なマジョリティは、
バンクシーに対しては何の文句も言いません。
なぜなら「芸術的権威」になってしまったから。


弱者を叩くことはあっても権威を叩くことはしません。
結局のところ、ただ勝ち馬に乗りたいだけなのです。

もし、かりに、
バンクシーの絵画と同じように、
トマトスープのかかった額縁にも高値がつくようになれば、
こういう連中も文句を言わなくなるのでしょう(笑)。



正義ぶった馬鹿なマジョリティのみなさんは、
「ゴッホの芸術になんてことをするんだっっ!」
などと怒ったふりをしていますが、

じつはゴッホの価値などまったく理解もしてないだろうし、
それどころか、
ふだんは美術になど何の関心もない人間ほど、
ここぞとばかりに叩くことにだけは加わるのですよねえ。

それはちょうど、
沖縄の基地問題に何の関心もない連中が、
「辺野古のデモを嘲笑しようぜ」という目的のためになら、
わらわらと集まってくるのによく似ている。

環境問題になど何の興味もない人間が、
「環境問題を訴えたいのなら、もっと別に方法があるでしょう」
などと正論ぶってほざいているに過ぎない。



そんな卑怯な連中にむかって、
「学びなさい」とか「想像しなさい」と言っても無理なのですね。
そもそも彼らの本音は、
「学びたくもないし、想像したくもない」ということなのだから。

「弱者を叩こうぜ」といえば、わらわら集まってくるけれど、
「弱者を救いましょう」と呼びかけても、潮が引くように去っていくだけです。

弱者のことなど考えたくもない、
あわよくば「勝ち組」の側に回れる機会を伺っているにすぎません。

いまだ日本の馬鹿なマジョリティの中には
「勝ち組/負け組」という発想が根深く残っています。
負け組なんぞに加勢するよりも、
長いものに巻かれて勝ち組に加わるほうが得策だと思っている。

弱者を叩くことで勝ち組気分を味わうためにこそ、
「環境問題よりも美術館の備品を守ることのほうが大事!」
「美術館という権威的なサロンを尊重するほうが大事!」
と徒党を組んでわめいているのです。



デモというのは、
衆目に触れるところでやらなきゃ意味がないわけだけど、

こういう連中は、
「デモは俺たちの目に入らないところで勝手にやってくれ」
というのが本音で、
デモが視界に入ると「目障りだ!」と言って叩き始めます。

デモの方法論の是非を問う議論や、
なんらかの助言などが出てくるならまだしも、
こういう連中は、
たんにデモ行為を叩いて勝ち誇ることにしか興味がない。



近・現代の芸術では、
社会的なメッセージ性をもった、
センセーショナルなパフォーマンスそのものが、
それ自体として《芸術的価値》をもつ、ということがあります。

バンクシーの場合も、そうです。

ゴッホにすら何の興味もなく、
たんに尻馬に乗って炎上に加担しているだけの馬鹿なマジョリティに、
そんなことは分かりようもないでしょうが、

今回の「トマトスープかけ」でさえ、
一種の《芸術行為》と見なすことができなくはない。

あくまでも《非暴力》が前提ではあるけれど、
そうでなければバンクシーの行為を芸術として評価することはできない。



9.11のテロが起こったとき、
音楽家のシュトックハウゼンが、
それを「ルシファーの芸術だ」と言って世間の物議を醸しました。

実際、
ウサマ・ビンラーディンの真の目的が、
ツインタワーの破壊や殺人それ自体よりもむしろ、
その攻撃と崩壊の映像をメディアによって世界中に発信し、
見る者に衝撃を与えることの「効果」のほうにあったのだとすれば、

それはセンセーショナルなパフォーマンスだったに違いないし、
そこに、ある種の《芸術》としての側面があったことは事実です。

しかし、その暴力性を容認することはできない。

したがって、
デモ行為や芸術パフォーマンスを容認できるか否かは、
あくまでも《非暴力性》という枠内に線引きされるのです。
そうでなければ「堕天使=悪魔の芸術」になってしまう。



斎藤幸平は、
ダ・ヴィンチの「モナリザ」にスプレーをかけるという、
1974年の日本の障害者によるデモ行為に対して、
当時の神奈川県立美術館長が出したコメントを紹介しています。


礼節のない人たちですねえ。
主張があるなら訴える方法はいくらでもあるのに、すぐ直接行動に出る。
精神の「浅さ」を感じさせます。



精神が浅いのか深いのかはともかく、
これはかなり田舎くさいコメントであって、
さすがに、今回の英国ナショナルギャラリーは、
このような野暮くさい声明は出していません。

というのも、
今回のような社会的なメッセージ性をもった、
センセーショナルなパフォーマンスそのものが、
見方を変えれば、ひとつの《芸術表現》であり得るという、
近現代美術における批評的な考え方が、
美術館の側にも最低限には共有されているからです。

美術館というのは、
たんに「お宝を飾る場」ではなく、
むしろ批評的な表現のぶつかりあうような、
社会的でスリリングな場でなくてはならない。

そういう認識を、ヨーロッパの美術関係者はもっている。

その認識ももたずに芸術を語るなら、
かえって「田舎者だ」と嘲笑されてしまうことを、
ヨーロッパの美術関係者は分かっています。



しかしながら、
日本の馬鹿なマジョリティはもちろん、
日本で美術愛好家なんぞを自称している人間の多くも、
いまだ美術館のことを、
たんに「お宝を陳列する建物」ぐらいにしか思っていません。

だからこそ「お宝を汚してけしからんっっ!!」というような、
野暮で田舎くさい議論しか出てこないのです。


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最終更新日  2024.06.18 01:03:23


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