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2歳代のかえでは、少しずつ、本当にゆっくりだけど、進歩し始めていた。でもそれは、私にとって少しの進歩が嬉しかったというだけで、先のことは全く考えてもいず、その日一日を過ごすだけで精一杯だった私に、またショックなことが起きた。親子教室に通い始めて数ヶ月経った頃、かえでの成長を一緒に喜んでもらいたかったという理由で、保健婦さんの一人に、「幼稚園には行けますよね。間に合いますよね」と聞いてみた。すると「う~~ん、自閉症の子はねぇ・・・ たぶん、普通の幼稚園や小学校へは行けないと思う。 よくても養護学級、ほとんどの子が養護学校へ行くよ」地元の公立幼稚園に入園するまで、あと2年半。いくら頑張っても、無理だというの???そんなバカな!こんなに私が頑張っても、まともに幼稚園や学校に行けないなんて・・・このまま少しずつ普通の子になっていくものだと思っていた私は、すごくショックだった。自閉症は、治る病気ではなかったのだ。怪我や病気の時のように、手術をしたり薬を飲んだりして治る病気ではなかったのだ。何となく理解はしていたはずだけど、こうして面と向かって言われるとかなりショックが大きかった。私の住んでいる所は、地方だし田舎だし、普通に小学校へ通うことが当たり前という感じがある。まぁ、地元の幼稚園はいいにしても、小学校はどうしたらいいの?周りの人はなんて言うだろう。親戚や友達から、なんて言われるだろう・・・世間体ばかり気にしていた私は、とにかく辛かった。せっかく少し成長が見えてきて、療育にも専念するぞ~と張り切っていた矢先だけに、お先真っ暗になってしまった。ノストラダムスの大予言によれば、1999年7月には人類滅亡の日が来るらしい。その年、かえでは小学校2年生になっている。たぶん、地元の小学校ではない違うところに通っているだろう。世間ではきっと「知恵遅れ」とか言われながら・・・もっと早く、かえでが小学校へ入学する前に、人類滅亡して欲しい!そうすれば、かえでのことは誰にも解らず、みんな一緒に死んでしまうから大丈夫なのに・・・今思うと、マジでこんな幼稚なことを考えていた。でもそれくらい、ショックだった。0歳児教育の七田式は、レッスン教室にも通い始めて、幾何的なパズルや積木など、そういうものをキチキチと並べたりすることは、ものすごく得意な分野になっていった。フラッシュカードやドッツカードという、1秒1枚の速さで見せるカードも大好きになった。それで右脳が開いて普通の知能になると思っていたけど、そう簡単にはいかない。お金は掛かるけど、いつか花咲く日が来るかもしれないと思うと、止める訳にはいかなかった。そうしながらも無情にも日は過ぎていき、かえでは3歳になった。上の娘が地元の公立幼稚園に入園し、送迎の時にかえでを連れて行って、幼稚園で遊ばせてもらうことを許してもらった。園長先生も、かえでのことを理解してくださり、園児が帰ったあとでも、遊具で遊んでくれていいですよ、と温かい言葉を掛けていただいた。毎日の育児で疲れていた私には、とても嬉しい言葉だった。かえでのことを人に話す機会を、自ら無くしていたので(話したくなかった、隠したかったので)理解してもらえる人も少なかったけど、こうして解ってもらえる人がいるのはありがたかった。初めて病院で、脳波検査やMRIなどもやってもらった。いくらレントゲンを撮っても、異常は見当たらない。脳波にも、てんかん波は出ていない。問診からは、自閉症かどうかわからないと言われた。近くの総合病院では専門の医者がいないので、少し離れた大きな病院を紹介してもらった。受診するのは「精神科」・・・聞いただけで、イヤになった。当時の私は、先日書いた弟のこともあってか、とにかく世間体や外見ばかり気にしていた。きっと、私の両親も辛いだろうなぁと思うと、帰宅してからも話をするのがイヤだった。肝心の父親である夫は、仕事帰りに毎日パチンコに寄っていて、何時に帰宅するかわからない。帰宅して私の憂鬱そうな顔を見るのが嫌だったのだろうと思う。私も、毎日の生活にさえ追い詰められていた頃だった・・・
2006年04月30日
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少し過ぎてしまったけど、4月25日は次女の誕生日だった。この日は、養護学校の参観・懇談会・PTA総会があって、忙しくてお祝いをしてあげられず、今日、やっとケーキを作ることが出来た17日のかえでの誕生日と8日違い。13年前は、本当に大変だったなぁと、しみじみしている母でございます。親戚からイチゴをたくさん頂いたので、半分はジャムに、残りはイチゴのババロアに変身。ジャムの方は、今、お砂糖の布団を被って、冷蔵庫で水分を出してもらっているところ。 こんな感じで・・・ 続いては、ビスキュイを焼いてババロアの外回りに。 イチゴのババロアを作って型の中に流して、デコレーション。 娘は、喜んでくれるかな?今月から中学生になった次女は、毎日学校が楽しいと言って元気に登校して、帰宅すると「お腹すいた~!!」と、ガーガー言ってキッチンに入ってくる。頼もしい次女で、お兄ちゃんのかえでの面倒もすごくよく看てくれる。かえでが普通に普通の学校へ行けない分、娘達には頑張ってほしいと願う反面、健康で元気に学校へ通ってくれれば、それで十分と思ったりもする。いい形で、兄弟関係を保ちながら、これからも素直に育っていってね
2006年04月28日
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本日2度目の更新です。今日の日記が暗いものになってしまったので^_^;、楽しい?話題で締めたいと思います私の髪はコシがなくてストレートなので、少しボリュームを出すためにゆる~くパーマを掛けています。最近発売された、資生堂の『ツバキ』 気になって仕方なかったので、美容院で薦められて使っていたシャンプーもちょうど無くなってきたことだし、買ってみました。SMAPの『Dear woman』♪もなかなかいいし~(*^^)v自分の髪質に合うかどうか・・・合わないとヘアスタイルが決まらず、一日中気分悪い思いをするので、シャンプーを変えるのは、ちょっと勇気がいることなのです。今朝、さっそく使ってみました。いい感じの泡立ちで、匂いも今までになかったような不思議な香り。シャンプーのあとドライヤーで乾かしてみると、少しパサついた感じがしたのだけど、時間が経ったら、しっとりツヤツヤになっていました。時々、髪を触って自分でウットリ。これで一日中気分良く過ごせるなんて、私も安上がりだな~ 『日本の女性は、美しい』ふむふむ・・・やっぱり私も日本人。昔ながらの椿オイルが髪に合うのかな?(大袈裟な)しばらくは、これでいきましょう~
2006年04月27日
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昨日の日記で、『私は一人っ子』 と書いたので、今日はその辺のことを書いてみようと思う^_^;私には、2歳年下の弟がいた。父親にそっくりな、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちだった。過去形にしているということは、亡くなったということ。弟は、赤ちゃんの頃から何となく身体が軟弱で、母親が言うには、お腹の中にいた頃から動きも鈍く(胎動が弱く)、産まれてからも布団を蹴飛ばすこともせず、静かだったとのこと。歩くのも遅かったようで、私が物心ついてから記憶しているだけでも、風邪を引いて寝込んでいたり、歩きっぷりが悪かったり、走ることが出来ずにいたり、歩いていてもすぐつまづいて転んだり、そんなことがしょっちゅうあった。弟が幼稚園の頃だったと思う。両親と弟の3人が、遠くの病院へ行った。私が学校から帰ると、少しして3人が帰ってきた。両親は、無理に作ったような笑い顔をしていた。幼いながらも、両親にとって「良いこと」ではないことがあったのだと、微妙に感じた。それから弟は、欲しがる玩具をいろいろ買ってもらっていた。うらやましがる私に、母は「ごめんね、まーちゃん(弟)は、足が弱くてみんなと一緒遊べないから」と、言った。この病院で、弟は『進行性筋ジストロフィー症』と診断された。この病気は、筋肉がだんだん弱くなっていき、20歳までは生きられない病気だとのこと。今でこそ、進行を遅らせることはできるようになったらしいが、この時は、ただ死を待つだけの難病だった。遺伝が関係しているらしい。聞けば、母の従兄弟で、兄弟でたぶん同じ病気の人がいたようだった。母の兄弟の子供には同じ病気の子はいない。どうして我が家だけ?とすごく不公平に思ったものだった。母は、この病気を遺伝させる遺伝子を持った『保因者』。その保因者から生まれる男の子の半分に遺伝する。女には大きな症状が出ないそうで、実際保因者である母も、多少の足腰の弱さはあったけど、普通に生活できる。小学校へ入学した弟は、私と一緒に登校した。昔は、身体の不自由な人や障害のある人には、偏見的な世の中だったような気がする。これはいまでも根強くて、日本人独特な考え方なのかもしれない。弟はよくいじめられた。私は泣いて弟をかばった。階段も、手を突いて這うようにしないと上れない。私の同級生の男子は、弟の真似をして這って階段を上って冷やかした。登校のときも、歩くのが遅く、私達はいつも遅刻した。時には、弟をおんぶして走っていったこともあった。ランドセルはどうしてたのかなぁ?今思うと疑問だけど・・・そのうち、見かねた母が、自転車の後ろに弟を乗せて行ってくれた。弟が3年生の夏休み。高熱を出し、しばらく寝込んだ。そのあと、筋肉が徐々に衰えていき、夏休み中には歩行が出来なくなっていた。当時は、身体の不自由な子を見てくれる施設や養護学校がほとんどなくて、そういう子は在宅で、定年退職したような先生が来て、勉強を教えてくれていた。この先生がなかなか厳しくて、身体をバシバシ叩く。けっして体罰ではないのだけど、「がんばれ」の意味があったらしい・・・(ーー;)弟はだんだんこの先生を嫌がるようになった。母は、先生に「この子はこういう病気で、長く生きられない。どうか楽しく勉強を教えてやって欲しい」とお願いしていた。私は、この話を隣の部屋で聞いてしまい、弟の病気の本当のことを知ることになった。その後、だんだんと身体の筋肉が衰えていき、背中が湾曲し、手が上がらなくなり、曲げた足はまっすぐ伸ばせなくなっていった。トイレにも行けない。オシッコは尿瓶でする。大便はポータブルトイレを使いやすく改良してもらったものを使用。両親は、福祉事務所や社会福祉協議会でいろんな話を聞き、少しでも、弟に居心地の良い環境を提供したいと頑張っていた。「手をつなぐ親の会」とか「ひまわり会」とか、いろんな会の催しに私も一緒にいったことがある。いろんな子を見ていて、贔屓目ではなくどうみても弟は、障害があるような顔には見えない。ソース顔で、ハンサムで可愛かった。父親は、「こんないい顔してるのに、なんで身体は弱いのかなぁ」とぼやいていた。弟は、中学3年生(15歳)の年の夏、呼吸困難になり、天国へ旅立った。変わらない可愛い顔で、眠っているようだった。私が高2の時だった。お葬式には、私のクラスの仲良しの子5人が授業を抜け出してきてくれた。「先生にはバレてるけど、大丈夫だからね」と泣いて笑った5人の顔が忘れられない。苦労した両親、関わってきた福祉の関係。辛いながらも、いろんなことから開放されていった。私は、結婚して生まれた自分の子供が、弟と同じ病気だったらどうしよう、とそればかりを気にしていた。一人目は女の子だったから良かったけど、男の子だったら遺伝する可能性があるかもしれない。そう思って、出産した病院で、県内の大きな病院の遺伝染色体科に紹介状を書いてもらって、受診したことがあった。結果は、100%ではないが大丈夫だとのこと。ホッとした。これで安心して男の子だって産めちゃう♪そう思っていたのに、全く違う障害と出くわした・・・私の人生、ツイてないかも・・・?母も、3年半前に亡くなった。最後のお別れの時は、母に「ご苦労様」と心の中で声を掛けた。かえでは、一番世話になったおばあちゃんの死も、理解できているのかどうかわからないけど。私も、私の父も、時々、弟とかえでがダブる時がある。かえでに向かって「まーちゃん!」と呼んでしまう時がある。本当はもう『福祉』だの『手をつなぐ親の会』だの、そういうこととは関わりたくなかった。『死』に繋がるイメージしかなかったから。だから、かえでに障害があって、親子教室に通うときはすごく抵抗があった。でもこういうことも、宿命だと思って乗り越えていくしかない・・・
2006年04月27日
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「0歳児教育」の『七田式』を知ってから、それまで療育だなんてめんどくさいと思っていた私は、俄然張り切るようになった。親子教室もかえでを連れて行くのが楽しみになった。そして、東に有名な先生がいると聞けば、夫と私とかえでと3人で出掛けて診察を受け、西で、こういう講演があると聞けば行って聴いたり、それはもう熱心な母親になった。ある先生は「玩具でも家電でも、壊れたら製造元に持っていって修理する。 子供も一緒です。 壊れていたら、お母さんのお腹の中で治すんです。」と言った。お腹の中? 今更どうやって??もちろんお腹の中へ戻すことは出来ないが、お腹の中にいた胎児の時は、周りグルッと180°スキンシップしていたわけで、それと同じくらいに肌と肌のふれあいを大事にしてほしいということだった。普段の抱っこや、お風呂の中、眠る時、とにかくなるべく肌が直接触れるようにする。動物の赤ちゃんは、産まれてすぐに母親が身体を舐める。血液が付いた身体をきれいにするためかと思ったら、それはスキンシップだそうで、産まれてすぐに引き離されて、舐めてもらえなかった赤ちゃんはすぐに死んでしまうそうだ。人間も同じで、産まれてすぐに母親から離された子(乳児院へ入った子など)は、死亡する確率が高いらしい。某乳児院では、夜中に見回りして何度も抱っこしてあげて、無用な死を減らしたとのことだった。荒れてしまった思春期の子や、中味が子供のままの大人。本当はお母さんのオッパイを触るところから、やり直さないとダメだといった言葉が印象的だった。小さい頃の母親とのスキンシップがどれほど大切か、ということ。当時4歳の長女、0歳の次女も大変だったが、それよりまずかえで!七田式教育のスケジュールをこなしながら、毎日スキンシップを欠かさなかった。母親である私の身体は一つしかないから、気持ちはあっても3人に平等に接することは物理的に無理だった。その頃から、近くに住む私の両親と同居することになった。私は一人っ子なので、いずれは夫が婿養子として私の方の姓を継ぐことになっていたけど、かえでのことで大変になってしまったので、この機会に同居&養子縁組をすることになった。夫は、それまでもあまり育児には協力的ではなかったけど、母が毎日居るようになって、ますます育児から遠ざかった。私の不満も募っていったが、かえでのことで精一杯で煩わしいイザコザはあえて避けるようになった。今思えば、夫も義理の両親との同居で、なかなか気持ちが前向きにならなかったのかもしれない。スイミングスクールにも行き始めた。まだ2歳なので、私も水着になって一緒にプールに入る。若い頃は、抵抗なく水着になれたなぁ・・・(遠い目)いろんな刺激を与えてやりたくて、家族でディズニーランドへも行った。私はすごく意欲的だった。そのお陰か、私が「ぴょんぴょん」と言うと、その場でピョコピョコと小さくジャンプするようになったこんな当たり前のような些細なことが出来るようになったことが、すごく嬉しかった。普通の子が当たり前に出来ることが、かえでには全く出来なかった。かえでの成長って、何も基準がない。人と比べることさえ出来ない、独特の世界だった。でも、少しずつ成長していけるかもしれないという予感がした。真っ暗な未来しか見えなかったのが、ほんの少し、明るい光が見えたような気がした。
2006年04月26日
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親子教室では、同じ障害(自閉症)の子ばかりではなく、肢体不自由の子や、てんかん、ちょっとだけ発達の遅れがある子等、いろんな子が来ていた。でも、お母さん達がすごく明るい。私は、自分の子に障害があるというだけで、ものすごく落ち込んでいて、長女や次女の育児と、かえでとの毎日で、暗くどんよりとした生活だっただけに、どうして、そんなふうに明るく笑っていられるんだろうという疑問が湧くだけだった。「お宅の子はどういう障害があるの?」「つらくないの?」「どうしてそんなに笑っていられるの?」きっとみんな無理してるんだろうな~と思った。でも、そこの保健婦さんに私の疑問をぶつけた時、保健婦さんが言った。「最初はみんな、ここへ来た時はすごく暗かったよ。 でも、少しずつ明るくなっていくの。 仲間がいるってすごく心強いんだよね、きっと」私も、明るくなれるんだろうか?私には、永遠にお腹の底から笑える日なんて来ないと思う。こんな障害児の世界になんていたくない。かえで!早く普通の子みたいになってよ!療育に専念しようなんて気は、その時はあまりなかった。どうにかしなくては!とは思っていたけど、手っ取り早く普通の子と同じくらいになるには、どうしたらいいんだろう?そんなことばかり考えていたような気がする。かえでは、相変わらず脱走する毎日。家から出ても、広い道路に行ってしまわないように、庭の周りに柵をつけてもらった。出て行くことが出来なくなったかえでは、柵を揺さぶって怒っていた。その頃から、かえでは音に敏感になり始めた。救急車の音、お祭のお囃子の音、掃除機の音、ドライヤーの音、次女の泣き声・・・私達が何気なく聞いているわずかな音にも、反応した。呼んでも振り向かないくせに、気になるCMの音楽や、お菓子の袋をガサガサさせた時の音には、すばやく反応していた最初は、聞こえが悪いのかもしれないと思って、よく耳掃除をしたものだった。次女が泣いていると、同じ部屋には入ってこなくなり、そのうちに泣いていなくても、そばにいることを嫌がるようになった。掃除機の音を嫌がるようになってしまったので、かえでがいる時に掃除が出来ない。昼寝の最中に別の部屋を掃除していても、すぐに目を覚まして泣いて怒る。夫は帰宅すると、「部屋が汚い、ホコリが溜まっている」と機嫌が悪かった。だって、出来ないんだもん。仕方ないじゃん!夫の実家は、男尊女卑のような時代錯誤の古臭い家風?で、そういう環境に育った夫を教育しなおすには、私は疲れきってパワーがない状態だった。私は、かなりノイローゼ気味だった。大変さを解ってくれているのは、実家の両親だけだった。そんな時に「これは!」と思える教育法に出会った。右脳を訓練する『0歳児教育』で有名な『七田式』だった。まさに手っ取り早く、かえでを普通に出来る裏ワザのような教育だと思った。講演会で、私の頭の中は七田式に染まってしまった。そこから約7年間、近くに出来た『七田チャイルドアカデミー』に通うことになる。今思えば、決して悪い教育ではなかったけど、お金がすごく掛かった。でも当時は夢中だった。私がこの子を治してみせよう! そんな熱い思いで走り始めた私だった。
2006年04月24日
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次女が産まれて10日目、私は無事退院した。さすがに3人帝王切開で出産すると、かなりきつい。回復も少し遅かったような気がする。自宅に戻り、しばらくは実家の母にいてもらった。2歳になったかえでは、初夏の陽気の中、一人で玄関から出て、散歩で通る道をトコトコと、走って行ってしまうようになった。誰とも会話もしない自己チュウなかえでは、何か目的があるわけでもなく、とにかく放っておけば、知らん間にいなくなっていた。靴も一人で履けないので、出るときはもちろん裸足のまま。次女に母乳を飲ませながら、私の傍から鉄砲玉のように飛び出していくかえでを、足で捕まえながら、髪を振り乱しての必死の育児だった。ふといない事に気が付いた時は、オッパイから次女を引き剥がして、そのヘンに放り出して、急いでかえでを探しに行き、連れ戻す。1日に何度脱走しただろうか。家に戻されたかえでは、泥だらけの素足のまま、産まれたばかりの次女が寝ている布団の上を、ドカドカと歩いた毎日、洗濯物が山のようにあった(今でもそうだけど^_^;)。偏食はひどかった。離乳食はまあまあ頑張って食べさせていたけど、だんだん食べられる物が減ってきた。その頃から、白いご飯とふりかけ、味付け海苔、フライドポテト、お茶、ラーメン、それくらいしか食べる物がなかった。何処かへ出掛けたくても、食事に困るので、こちらも億劫になってしまって、なかなか出掛けられなかった。それに、ちょっと変わっていることを、誰かに指摘されるのが怖くて、あまり外には連れ出さなかったように記憶している。次女が生後2ヶ月になった頃、保健所から連絡があり、親子教室へ参加することになった。『たけのこ教室』というネーミング。いかにも“福祉”という感じで、嫌いだった。きっと障害のある子のお母さんって、ダサいんだろうなぁ。野暮ったい感じの人が多そうだなぁ。なんか、気が重いなぁ。こういうことに関わりたくないなぁ。そんなことを考えながら、かえでを連れて保健所の2階へ上がっていった。自分は、野暮ったいお母さんじゃないも~ん!と、服装も化粧もいつもより気合を入れて・・・でもそこにいた障害児のお母さん達は、若くて底抜けに明るく、私以上の服装・化粧バリバリのお母さんばかりだった^_^;私の障害に対するイメージが、良い意味で崩れ去り、なんだかホッとした。そして、毎週水曜日の午前中は、この『たけのこ教室』でいろんな親子とふれあうことになる。山あり谷ありの育児は、まだ始まったばかりだった。
2006年04月21日
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3人目の出産を控えて、かえで2歳児健診。大きなお腹で、動き回るかえでを追いかけながらの健診だった。健診のカルテに書いてあったと思われる「自閉症の疑い」という話を、保健婦さんと話した。かえではまだ、自閉症だと診断されたわけではなく、私の中ではもちろん否定したい気持ちが大きかった。「こういった自閉症のお子さんはね、早くから療育しなくちゃだめなんですよ」と、その保健婦さんは、なんとなく傲慢な態度でそう言ったえっ?うちの子、自閉症なの?こないだの発育相談では、可能性はあるけどはっきりしないからって言われたのに、どうして医者でもない保健婦さんが、そうやってはっきり告知するわけっ!??すごくショックだった。その保健婦さんの年齢や顔立ち、話し方、態度、声の雰囲気・・・その全てが私の嫌いなタイプだった。こんなことで偏見を持ってはいけないけど、この人にどんな良いことを言われても、素直に聞けなかったような気がする。その健診の帰り道、かえでを車に乗せて、このまま一緒に死んでしまおう、と思った。たぶん、マタニティブルーにもなっていたんだろうと思う。どうしていいか判らなかった。とにかく辛かった。「かえで、このままお母さんと一緒に死のうか?」と泣きながらかえでに話しかけた。何も知らないかえでは、チャイルドシートの上でクークーと眠っていた。その5日後、3人目を無事帝王切開で出産した。女の子だった。長女とかえでは、実家の母が見てくれていて、安心して入院することが出来たけれど、退院してからのことを考えると、嵐を予感せずにはいられなかった
2006年04月19日
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今日、4月17日は、かえでの誕生日めでたく15歳になりました。思春期真っ只中ですささやかに家族でお祝いしようと、バースデーケーキを作りました。 私は、お菓子を作るのが好きです。将来、パンやお菓子を作って販売できるような作業所を、同じ障害を持つ子供達のお母さんと、やれたらいいな~と思っています。ここまでにたどり着く足跡を、このブログに残していこうと思い、少しずつ更新していく予定です。宇宙人のかえでも、15歳になり、さすがに人間界での生活が板について、かなり人間らしくなってきました。先月の学年末に、養護学校の授業で、自分で刺繍をしたという手提げ袋を持って帰ってきました。こんなこともできるようになったかえでを、これからも親として応援していきたい。お母さんはずっとかえでの味方だよ
2006年04月17日
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1歳6ヶ月健診のあと、保健所の発育相談に行った。すごく若い女性の心理判定士の方が、面談をしてくれた。かえでは、保健婦さんが相手をしてくれていて、おままごとの道具や、自動車や機関車のおもちゃをたくさん用意してくれてあった。しかし、かえではおもちゃには全く興味を示さず、私たちの周りをただグルグルと走り回って、疲れると私の膝にちょこんと座りに来て、ほんの10秒くらいいたかと思うと、またグルグルと走り回るのだった。妊娠中や出産してからのことを細かく聞かれた。とにかく、かえでの怪しい行動が少しでも解明できるのなら、という必死な思いで、どんな質問も答えた記憶がある。結論は、1歳半では判定することは難しい、とのこと。普通は3歳児健診で、言葉の遅れや視線が合わないなどの心配から発覚することが多いらしい。だからはっきりとは言えないけど、その可能性もあるかもしれない。ただ単に発達が遅れているだけかもしれない。3歳くらいになって、成長が追いつく場合もあるから。とのことだった。「お母さんは、大学で心理学の勉強でもされていたのでしょうか? こんなに早く気付かれる方は、滅多にいないですから」いえいえ、私は高卒ですから^_^;これはただ、母親の勘なんですよ。心理判定士さんは若くて、障害児の現場も知らない、もちろん未婚だろうから子育ての経験もない。学校で勉強するだけでは、知識は活かされないんですよ。結局、私が妊娠中ということもあって、出産して落ち着いたら、保健所でやっている『親子教室』に参加してみませんか?ということで終わった。私の中のモヤモヤは、晴れることなく、3人目の出産以降まで持ち越されることになった。相変わらず、あちこちと何処かへ行ってしまうかえでを、私は大きなお腹で追いかける。出産したら、どうなるんだろう・・・新しい生命の誕生を喜べないまま、毎日、かえでを追いかける日々だった。まさに、かえでは宇宙人と化していた。
2006年04月16日
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楽チン赤ちゃんのかえでは、生後8ヶ月を過ぎて気管支炎を起こし、年末の慌しい中、5日間入院をした。せっかく離乳食も進んできたところだったのに、咳き込んで食べられなくなり、離乳食は一時ストップ。その後少しずつ回復したけど、相変わらず母乳大好きで、離乳食は決まったものしか食べなくなってしまった。9ヶ月。「バイバイは?」と言うと、手をブラブラと振ってみせる。「バンサ~イは?」と言うと、両手を挙げる。「シャンシャンは?」と言うと、両手をパチパチ叩く。こういう模倣ができるようになった。出産した病院の助産師さんが「9ヶ月でマネが3つ以上出来ていればOK」と言っていたので、かえでは問題ないと思っていた。でも、10ヶ月を過ぎてもそれ以上の進歩がなかった。進歩がないどころか、唯一やっていた3つの模倣も、だんだんとやらなくなっていった。長女と比べると、なんとなくヘンな感じがする。「男の子は遅い」と友達が言ったけど、『遅い』というだけではないような気がしていた。物を指差すこともしないし、呼んでも振り向かないし、何だか人間らしくないような・・・家族で動物園に出掛けた時は、ベビーカーから乗り出して、グルグル回っている車輪ばかりを見つめていて、肝心な動物は全く見てくれない。まぁ、動物園の動物に興味を持てる年齢ではなかったけど、とにかく動物園だけでなく、普段の生活でも、周りに興味を示すことがないような感じだった。漠然とした不安が、私の中でだんだんと広がっていった。夫や両親に言うのが怖かった。たぶん言っても、「気のせいだ」と言われるだろうと思った。だから、一人でなんとなく心配することにした。1歳になって、一人で歩くようになった。運動面に関しては、全く問題はなかった。どちらかと言うと、運動面の発達は平均以上だった。一人でどんどん好きなところへ行ってしまう。運動面が遅れていた長女とは、全く逆のタイプ。さすが男の子!とたくましく思う反面、やっぱり不安は拭えない。1歳6ヶ月健診のときは、とにかくじっとしていなくて、身体測定もさせてくれず、会場内を走り回るかえでを追い掛け回していた。小児科の先生の診察があり、不安に思っていることを話してみた。「すぐ何処かに行っちゃうし、呼んでも振り向かないし、 あまりおもちゃとかにも興味がないみたいで、なんとなくヘンなんですけど・・・」先生は「自閉症を心配してるんですか?」と言い、「そうです」と私は答えた。1歳4ヶ月頃から、私の中でこの子は精神的な病気があるのではないか?と疑い始め、自分でいろいろ調べてみていた。今のようにインターネットはまだ普及していなかったし、専門的な人が周りにいるわけでもなかったので、子育て用の月刊誌などの電話相談や、付録についていた「子供の病気」の本が頼りだった。かえでの症状は、まさに『自閉症』だった。でも先生は、「自閉症と言うのは、お母さんとコンタクトも取れない宇宙人のような感じですよ この子は、もっと目が合うし、1歳半でそう診断すれることはまずありえないですね」と言った。保健婦さんが「心配なら、発育相談を受けてみましょうか?」と進めてくださり、一ヵ月後に、保健所で行われるという、心理判定士による発育相談の予約を入れてもらった。その時、私は3人目を妊娠したばかりだった。どうなるんだろう・・・という不安を抱えながらも、3人目の出産に向けての準備もしていく私だった。
2006年04月13日
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長男が生まれてからの15年間を、とりあえず日記で書いていこうと思っています。トップページに『宇宙人』という言葉を出していますが、長男はまさに宇宙人。長男は、障害を持って生まれてきた。最初は気がつかなかったのだけど、でも『自閉症』と『知的障害』を合併した障害児だった。 平成3年4月17日に帝王切開で生まれた長男は、『かえで』(仮名)と命名した。母乳をよく飲み、1ヶ月検診では6,000gもあった、超健康優良児。長女が赤ちゃんの時は、泣いてばかりいて、だっこしないと寝てくれない。ベッドに寝かせば、すぐ目が覚めて泣き出す。ミルクも母乳もあまり飲まず、飲んでもすぐに吐く。育児って大変だ!赤ちゃんを殺してしまうお母さんの気持ちがよくわかる!そんな育児をしてきた私の、2度目の乳児挑戦。かえでは、長女と違ってすごく大人しかった。母乳をたっぷり飲んで、3時間はぐっすり眠る。目が覚めてもあまり泣かず、また母乳を飲んで3時間寝る。とにかく楽チンな赤ちゃんだった。手の掛かる長女に振り回されて、かえではほったらかしだったけど、生後1ヶ月の頃から、私の顔を見てニコニコ笑い、喃語もたくさん出る。おっぱいもよく飲んでくれる。体重もメキメキ増える。長女の時と全てが違う。私にとって、まさに理想の赤ちゃんだった。『手が掛かる子ほど可愛い』と言われるけど、このときは『手が掛からない子ほど可愛い』と思ったりした。それは、後になってみないとわからないことなのだけど・・・
2006年04月11日
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15年前の4月17日。私は2人目の出産を迎えていた。2年前に、長女を帝王切開で出産。2人目は普通分娩を望んでいたが、子宮口の硬さとお腹の異常な張りで、再び帝王切開となってしまった。午後4時4分。体重3,510gの元気な男の子が、オギャ~と元気に産まれてくれた。下半身麻酔で、血圧が下がり意識が遠のく中で、医療器具のカチャカチャと鳴る金属音を聞きながら、看護師さんに 「ちゃんと指はありますか?五体満足ですか?」 と聞いた記憶がある。「大丈夫ですよ。 泣き声も大きくて体重もしっかりあるし、元気ですよ!」良かった・・・・・・ホッとした。朦朧とした意識の中で、赤ちゃんにオッパイを吸わせたいと言ったら、先生がOKしてくださり、生まれたばかりの長男に、乳首をふくませてみる。すごい勢いで吸い付く。長女の時は、オギャ~オギャ~と泣いてばかりで、吸い付きもしなかった。この子は、何だかすごいかも?さすが2人目!さすが長男!頼もしいぞ!先行き楽しみだな!そんなことを考えながら、安心した私はそのまま眠りについたのだった。 気がつくと、病室のベッドに寝ていた。腕には点滴のチューブがつながれ、夫が傍で心配そうな顔で覗き込んでいた。「気分はどう?痛む?」まだ麻酔が効いていて、痛みはない。それよりも、男の子を産んだことを褒めてほしかった。夫は、ずっと男の子を欲しがっていたから。だんだん麻酔が切れて、寒気がしてくる。ガタガタと体が震える。その後、痛みが襲ってきて、しばらくは痛みとの戦い。でも2人目、2回目のことなので、かなり余裕があった。自分では、最高に良い仕事をしたような気分だった。まさか、この先に待っている大変な試練があるとも知らずに・・・
2006年04月10日
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