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かえでが小学校高学年の頃って、本当にいろんな出来事があった。以前にも書いたように、4年生になる頃にやっとトイレでウンチができるようになって、自閉症協会のキャンプにも参加して、新しい経験をしたり、かえでが4,5,6年生の3年間、私も仕事に行ったりした。こうやって書いていると、順調に楽しくやってきているように思うんだけど、実はこの頃から、かえで自身に変化が見えてきていた。女の子は、高学年になる頃から、友達の中でグループを作りたがり、第2の自我が芽生え始める頃。身体も、第2次性徴で生理が始まったり、急に身体が大きくなってきたりする。男の子は、多少女の子より遅ればせながらも、第2次性徴期に入る。小さい頃、宇宙人かえでは暴走しまくって本当に大変だったけど、この暴走は、かえでが地球環境にうまく順応できなくて、周りが無理矢理この環境に収めようとしたから、暴走しているように見えただけかもしれない。でも、第2次性徴、いわゆる思春期の入り口に差し掛かると、今度は周りの環境ではなくて、自分自身の中から湧き上がる、何か言葉では言い表せない何かが、気持ちを荒れさせ、暴走に至るような気がする。かえでは4年生くらいの頃から、私に対して敏感になり、私の顔色をすごく見るようになり、口調も気にするようになった。私が不機嫌そうな顔をしていたり、ちょっと言い方がきつかったりすると、すごく不安そうな顔で見ていた。別に私がいつも不機嫌で怒っていた訳ではないのだけど・・・誰だって、ちょっとした時にそういう顔になる時ってあるでしょ?始めは不安そうな顔で見ていたけど、だんだんとそれが反抗的になって、私に向かってくるようになった。いきなり私のところに来て、殴ったり髪を掴んだりする。反抗的な行動はエスカレートしていき、ちょっと誰かを呼ぶために大きな声を出すと、かえでには怒って叫んでいるように聞こえるのか、すぐにすっ飛んできて私を殴る。だから、かえでの前では一切不機嫌そうな表情や、大きな声は出せなかった。いつもニコニコ笑顔の優しいお母さんでいなくてはならなかった。そうしないと、私がかえでにやられる・・・初めて向かってきた時は、「なに?いったい・・・」とびっくりした。2~3回続いた時、無抵抗でいるとかなり痛い思いをするので、自己防衛のために、思わず「やめて!」と手をかざす。「やっちゃダメよ」「かえで、いけないよ」「どうしてわかんないの?」そんな言葉が続いた。この温厚な私?もだんだんと声を荒げていった。かえでの前では、言わないようにしていたけど、仕方が無かった。いくら障害のある自分の子でも、いきなり殴られたら「なんだよ、こいつ!」って思いたくなる。ワケがわかっていないから、仕方が無いと思うんだけど、やっぱり殴られたら腹が立つ。一度頭に来て、ガツンと一発返したことがあった。これが良くなかった。かえでには、この場面が相当な印象で残ってしまったらしく、私を殴る。すると殴り返される。というこだわりになってしまった。時には、この場面がフラッシュバックすることもあるようだった。このこだわりを崩さなくては、と思い、殴られた時、ニコッと笑って「やめようね」と言って、そっとかえでの腕を掴み、止めさせる。でもかえでは、私の腕に噛み付き、手を振りほどいて、また私に殴りかかる。とにかく、自分が殴り返されるまで、しつこくやってきた。いい加減放っておくと、私の手を掴み、クレーンで自分の頭を殴れとばかりに、手を運ばせる。そして、いつも私が「やめて」と言うので、かえでも殴られるマネをしながら「ヤメテ」と言う。そこまでこだわる行動になってしまった。「殴る」といっても、ゲンコツでパンチするとか、そんなすごいものではなく、軽い平手打ちって感じ。「叩く」の方がうまい表現かな?そんなことが続いて、だんだんとかえでが怖くなってきた。家庭内暴力とまではいかないけど(充分いってるか;)、そばにいるのが怖くなった。まさに我が家の 積木くずし だった一番怖いのは、車を運転している時。ワケもなく急に後ろから手を伸ばし、私の顔の前面を叩いてくる。それも目の所を。一瞬、前が見えなくなって、火花が散ったようになって危うく事故になりそうなこともあった。後ろから手を出せないように、タクシー運転手の防犯カバーのようなものを取り付けようか?と思ったこともあった。そういうことが続き、そばにいる事も車に乗る事も、本当にしんどい時期があった。家にいる時に、四六時中そうなっていたわけではないけど、私はかえでに対して、腫れ物を触るようなところがあったかもしれない。ストレスも溜まったけど、かえでが学校に行っている間は、私も仕事に行って、家でのイヤなことは、しばし忘れることもできた。唯一、自分の仕事のことだけを考えていればいいだけの、気分的には楽な時間だった。学校では、家での暴走の裏返しのように落ち着いていて、他の子に危害を加えるということもなく、安心して先生に任せられた。そして、なんとかやってこれたのは、同居のおばあちゃん(私の実母)がいてくれたからだと思う。かえでは、おばあちゃんっ子で、よくなついていたし、母もかえでの面倒を看ることが上手だった。困ったときは、いつも母がいてくれたお陰で、私も仕事にも出れたし、姉妹の事もやってこれたと思う。私自身が母に甘えていたのかもしれない。夫が非協力的だった分、母に頼るしかなかった。逆に考えれば、もっと夫に頼っていれば、夫も協力的だったのかもしれない。でも、育児にマメな性格ってあると思う。夫はどう見ても子煩悩のタイプではなかった。意思の疎通が出来ないかえでの面倒なんて、喜んで看るはずもなかった。かえでが5年生の時の11月。その母が亡くなった。あまりにも急な出来事だった。
2006年06月30日
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先週から何かと忙しく、更新も思うように出来ませんでした(+_+)いつもヒマそうにしてるから、一体何が忙しいんだ?と言われそうですが^_^;え~っと、何で忙しかったんだっけ?そうそう、先週から、私の父親がやっている家のお仕事を手伝ったり、かえでの通院、参観懇談会、娘の部活の父母会・・・そして、今年の1月から、介護施設の誕生会用のお菓子を頼まれて作っているので、毎月下旬になると、2回ほど注文をいただき、毎回30個くらいのお菓子を作っています。それが先週の土曜日と、今日の2回あって、今日の午後、お届けしてきて、この頃の忙しさも、やっと一段落したって感じです。たまたま、父の手伝いと重なってしまって、今日はとにかく疲れたどんなお菓子を作ったかというと、そんなにすごいものではないけど、お年寄りが食べるものなので、柔らかくて食べやすく、誕生会と言うことで、ちょこっと豪華な感じのお菓子。チーズケーキは、嫌いな人が多いからダメ。プリンは、普段のおやつに出ることが多いからダメ。水分が少ないものは、飲み込むのが大変だし、喉に詰まりそうな、かたい果物やナッツ類は危険。いろいろと規制がある中で、喜んでもらえそうなものを、いろいろと考えて、これまで、計12回ほど作ってきました。私は、お菓子作りは好きだけど、いつも自分が作りたい時に、好きなものを好きなだけ作ってきた。でも、頼まれて作るとなると、好き勝手なことは言ってられない。ネットでレシピを検索したり、図書館へ行って調べたり、無い知恵を絞りまくって、本番前に試作して、家族や友達に食べさせてこれならイケルと確信したら、本番ですそんなわけで、毎月誕生会を楽しみにしていてくださる介護施設のお年寄りのために、今月も、こんなお菓子を作りました。 粒あんババロア 使い捨てセルクルで、下にスポンジケーキを薄くスライスしたものを敷いて、その上に、牛乳と粒あん入りの生クリームのババロアを流して、トッピングは、3種類の柔らかめの甘納豆。全部で25個です。前日に練習したので、うまく出来ました粒あんの和風っぽい甘さが、なかなか良かった そして、オレンジムースケーキ 粒あんババロアと似てるけど、こちらの方がゼラチンを多めにして、少しかたくしたので、大きく作って切り分けました。オレンジのムースの上に、オレンジゼリーを流して固めました。冷たくて甘酸っぱくて、今日みたいに暑い日には、美味しく食べられます。こちらは、32個の注文で、3ホール作って、さすがに疲れた・・・生菓子は、冷蔵庫に入れて冷やしておかなくてはならないでしょ。毎回30個近く作ると、冷蔵庫がいっぱいになってしまって、マジで大変ですそういうときに限って、ダンナがビールを冷やそうと、狭いところに詰め込む(-_-;)まぁ、何はともあれ、今月も無事に出来たので、やれやれです父親の手伝いも、今日はやっと片付いたので、今夜は、『自分にお疲れさま』 ということで~、残ったオレンジムースをこっそりいただきました うひょひょ明日は、高等部の見学その2です。(その1はこちら)今年度から開設された、高等部の分校に行ってきます。普通の公立高校の空き教室を使って、普通の高校生に混じって生活する場面を見てこようと思います。別棟を使っているらしいので、一般生徒との交流は少ないとのこと、静かに過ごせるのかもしれない。かえでには、本校の大所帯の高等部より、分校のほうが向いているかな?今夜は、肩の荷も降りて、ぐっすり眠れそう。いい夢、見たいなぁおやすみなさい~
2006年06月27日
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もう10年くらい前に、日テレ系の番組で 『特報王国』っていうのを放送していた。今はもう放送されてないけど、覚えている人いるかな~^^視聴者が、身の回りで起こった珍しい事件や、すごいことなどを番組に送ってきて、レポーターが取材に出かけ、そこで、その事件を目の当たりにすると・・・「うわぁ~~~~っ!」とか「ガーーーーーーン!」とかレポーターの映像がネガに逆転し、すごく驚いた感じになって、その後、投稿した人がその事件などを紹介する、っていう番組。(言ってる意味わかる?)その番組で紹介されたレポートに賞がついて、特賞にはなんと30万円がもらえた。 くだらない番組だと思ったけど、なんかワケもなく笑えるところがあって、なぜか毎週見ていた。「こんなので30万ももらえるなら、うちでもなんか送ろうか」と夫が言い出した。「なんかネタってないか~?」とすっかりその気。私は「平凡に生きている我が家に、ネタなんかあるわけないじゃん」と言ったあと、待てよ?我が家はちっとも平凡じゃないよ。なんたって、宇宙人がいるんだもん「あ~~っ!ネタあるあるっ!」「何?どんなヤツ?くだらんヤツじゃダメだぜ」「宇宙の言葉を話す少年ってのどう? 絶対イケルと思う!30万円ゲーット!」「ぎゃはは! おぅ!それいいわ!すげぇわお前!」「でしょ~?・・・・・」こんなことで褒められて、喜ぶ低レベルな私・・・ その頃、こども発達センターに通っていたかえで。まともな言葉はなく、意味不明な声をゴニョゴニョ発しているだけだった。両手を上げ、ワケのわからない踊りのようなものをしたり、必ず同じところで同じ行動をしたり、毎日見ているから、当たり前に思っていたけど、知らない人が見たら、どう見てもやっぱりヘンだった。私たちは、そんなかえでを見て、「宇宙と交信してる」と言った。親子バス遠足の時、バスの中でお母さん達とワイワイ話していて、「Yくんは中国語っぽい言葉だよね」「M子ちゃんと似てるけど、 Yくんは広東語で、M子ちゃんは北京語だわ」「Dちゃんはロシア語っぽいなぁ」(みんな自閉症・・・)「かえでくんは~、なんだろ・・・何語だろ?」そんな話の中で「かえでは宇宙語」と言ったら、大爆笑になった。「特報王国に、宇宙の言葉を話す少年って投稿すれば、 賞金30万!すごいでしょ」「うわぁ~! 子供を売ったな~~^^」「わはは!この際、かえでで儲けてやるぞ~~」 かえでは、宇宙と交信しながら、だんだん地球の言葉を獲得していった。でもなかなか発音はうまく出来なかった。車(くるま)=クムマアイス=アイヒュアチチ(熱いこと)=アティティコタツ=コタトゥおさかな=おひゃかな 今でも、こんな感じでポツポツと言葉を発している。意味不明な言葉でも、かえでからの唯一のコミュニケーション手段。少しでも聞き逃さないように、私達の耳も、宇宙人仕様になっていった。だいぶ言葉が増えたけど、たどたどしく言葉を発するかえでを見ていると、純粋さがいっぱい溢れていて、思わず15歳思春期真っ只中の少年を、ギュ~っと抱きしめてしまう「ぎぇ~~っ!」と声をあげていやがるかえで。そして「おわりっ!」と、ピシっと言われてしまった・・・ごめん 特報王国には投稿しなかったけど(出せるわけないじゃん)、かえでは、宇宙との交信を、今でも欠かさずやっているのだ
2006年06月26日
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かえでは、小学校3年生くらいの頃から、特に食欲が増したわけでもないのに、ポチャポチャと肉付きがよくなってきた身長は大して伸びていないのに、体重だけはぐんぐん増えていた。毎月の体重測定では、1kgずつ増えていく折れ線グラフを見るのが怖かった・・・ローレル指数とかカウプ指数は「太っている」という欄に○印がつけられている偏食がひどかったので、給食では残す事も多く、その分、家でのおやつや夕食は、自分の好きなものがあれば、人のお皿にまで手を出して食べてしまうほどだった。将来のことを考えると、これではいけないと思い、人のお皿にまで手を出す時は、「だめだめ!」と言って、自分のお皿のものだけを食べるように、何度も繰り返して教えた。自閉症の子というのは、解っていないようだけど、一度覚えると、案外、今度はそれが新しいパターン(良い意味でのこだわり)になっていくことが多い。でも、自分のお皿のものを食べ終わったあとは、やっぱり隣に座っているおばあちゃんのおかずも食べたくなる。手を出すと「だめだめ」と言われるので、手を出しながら「ダメダメ」と自分で言って、おばあちゃんの顔色を見ている。これも、かえでは発音がヘンなので「ダメダメ」が「ナメナメ」になってしまう。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 食事以外のことでも、やってはいけないと覚えたことを、どうしてもやりたい時・・・例えば、冷蔵庫を勝手に開けることとか、ビデオテープに貼ってあるインデックスシールを剥がすこととか、そ~っと手を出しながら、私の顔を見て「ナメナメ」と言うのです。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆食べられる食材が、どうしてもカロリーの高いものだったりして決まっているから、栄養の偏りもあって太っていくんだろうなぁと思った。何とかして、少しでも食べられる物を増やしていかなくては・・・と焦っていた。とある講演会での、自閉症の権威という大学教授のお話によると、どんな偏食の強い自閉症の子供でも、小学校の高学年になってそのままひどく偏食する子は、全体の1%くらいしかないだろう、とのことだった。私は、それを聞いて安心するどころか、「かえでがその1%に入っているのよーっ!」と落ち込んで帰ってきたのだった。 当時の担任のO先生は、かえでの偏食の強さにホトホト参っていたようで、年賀状にも「給食頑張りましょうね」と書いてあった・・・でも、あの講演会で聴いた「高学年」と「1%」の言葉は、どうしても忘れられず、いつかかえでも偏食のなくなる日がくる!と心の片隅で、淡い期待を抱いていた。そして5年生になり、本当に信じられないことだけど、少しずつ食べられる物が広がってきた。トンカツに添えられている千切りキャベツは、ソースをたっぷり掛けちゃうけど、なんとか食べてくれたり、味噌汁の具も残さなくなってきた。「えっ?これも食べれるの?ほんとに?」という感じで驚くことが増えてきた。ある日の連絡帳。今日は、○○寿司組合のほうから、寿司職人さんが見えて、 給食の時にお寿司が出ました。 かえでくんの嫌いなはずのお寿司ですが、 去年はネタは食べずに酢飯だけ口にしていました。 でも今日は、マグロもイクラも、 お醤油たっぷり付けて食べることが出来ました。 イクラは一粒ずつ醤油に絡めていました^^かえでの通う分校は、同じ敷地内に更生施設があるので、その施設の給食時に「寿司奉仕の日」というのがあって、分校の給食の時にも、寿司職人が目の前で握ってくれる。そのほかにも、選択メニューという日があって、「トロまぐろ丼」or「カツ丼」を選んだり・・・とにかく給食はけっこう豪華なのだ!給食にお寿司とは・・・なんとも羨ましい限りなのだけど、偏食の強いかえでにとっては、まったくの無意味なものだった。あ~、勿体無い。同じ給食費を払っているんだから、私が代わりに食べてあげるわよ、といつも思っていた。でも、それが初めて食べることが出来たと聞いた時は、とても嬉しかった。講演会でのあの大学教授の話はウソじゃなかった!とそこで初めて尊敬した。家でお寿司にする時、どうせかえでは食べないから・・・と言って、いつもかえでの分は白いご飯にフリカケだったけど、もしかして、これから高価なお寿司も、あの勢いで「ナメナメ」と言いながら食べちゃうの~?なんて嬉しい誤算嬉しいような、困るような、複雑な心境だった懐かしい思い出。 その後、徐々に偏食はなくなっていき、今ではかなりいろんな物が食べられるようになった。O先生に「給食が完食できるようになりました」と年賀状に書いて出すと、「あのかえでくんが、給食完食とは・・・!」と驚いたお返事が来たっけ。かえでの一番好きな物は、納豆!帰宅すると小袋のスナック菓子を一つ食べて、それから「ナット」と言って、器に納豆を出し、タレとすりゴマを掛けて、まぜまぜして食べる。健康的でよろしい!実は、私が納豆嫌いなもので、これだけは見習わなくては、と思っているのだけど・・・(^^ゞ偏食がかなり改善されてきた中学部入学の頃から、増加していた体重がぴたっと止まり、今度は身長が伸び始めた。あの小さくてポチャポチャだったかえでも、1年間で身長が10数cmも伸びていき、全く別人のようにスリムなボディへと変身した。これまた、羨ましいっローレル指数は、今では「やせている」の欄に○印ちょうどそういうふうに成長する時期だったのかもしれないけど、食事って大切なんだな~と実感する毎日。その食生活全般を任されている私は、責任重大なのであります
2006年06月22日
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連日、いつどの番組を見てもサッカー一色の毎日私はあんまり詳しくないので、非国民にならない程度に日本の試合は見るようにしている日本が負けると、ボロクソに言われちゃうけど、ワールドカップに出場できると決まった時には、あんなに大喜びして讃えて、出れるだけでも凄いって言ったのに・・・出れば出たでボロクソに言われて、なんだか可哀想だなぁ・・・仕方ないのかもしれないけど 下の娘なんて、中○俊△を見て「死んだ魚の目みたい」とか言うし、上の娘は、何か自分の都合が悪くなると「ジーコの指示通りに動きました」って言うし・・・ 私個人的には、我サッカー王国S県の誇る川口能活と小野伸二がいてくれたら、言うことなし!って言っても、小野くん出てないじゃん!なんで?これもジーコの指示なのね・・・クスン難しいことは抜きにして・・・私はワールドカップに出ている選手のイケメン特集みたいなのを見て、楽しませてもらってる。何しろ私、面食いなもので、いい男が出てるとそれだけでワクワクしちゃうのだ。で、ブラジルのロナウジーニョ時々、CMにも出てる人。CMの出演料だけで何十億もらってるとか・・・すごっ「彼は全然イケメンじゃないね」と言ったら、ダンナに怒られた「ロナウジーニョは今、世界で最高のプレイヤーだぜ! 失礼なこと言うな! 顔はイケてないけどさぁ・・・」 へぇ~!そうなんだ~やっぱり男は顔じゃないよね。テクニック、いやハートだよ。ハートの熱い男がかっこいいんだよね~ロナウジーニョは、いつも笑顔でいる。インタビューで、「いつも笑ってますね」と言われたロナウジーニョ。 歯が出てるから、笑っているように見えるんじゃない? ですって~~なんか、可愛かった今度のブラジル戦、ロナウジーニョの笑顔と最高のプレイを堪能したいと思いますそして、またも川口くん大活躍になるんだろうな~小野くんも出てくれよ~~決勝への道はかなり危ない(っていうか無理?)らしいけど、頑張ってもらいたいものです
2006年06月20日
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今日は親戚の七回忌に出席するため、朝のうちにマドレーヌを焼いておこうと思って、昨夜、かえでと一緒に生地を作って休ませておいた。発酵バターが少し残っていたので、使い切ってしまいたかったので^^かえではお菓子作りが大好き作って食べるという、見通しがつけやすく、一連の流れの中で、準備や片付けも覚えることが出来るし、とても都合の良い余暇活動になっている。こども発達センターにいた頃、よくホットケーキを作っておやつに食べていたので、生地を混ぜて作ることは、けっこうお得意先生が 「まぜまぜま~ぜ、まぜまぜま~ぜ♪」と歌いながら、子供たちに生地をグルグルと混ぜさせてくれた。我が家では、なにか混ぜ合わせる時、『まぜまぜ』と言う。お菓子を作っている時は、必ずそばにきて、まぜまぜしてくれる。かえでは発音がヘンなので『まじぇまじぇ』になっちゃうけど、それはそれで可愛いのだでも困ったことに、ハンドミキサーの音が嫌いなので、ちょこっとでも使うと、「おわりっ!」と言って、コンセントを抜いてしまうかえでがいる時は、ハンドミキサーを使わないお菓子に限定されるけど、せっかく作るなら、楽しく作りたいものね というわけで、休ませておいた生地をシェル型に流して、 200℃のオーブンで13分、焼きます(うちのオーブンでの焼き加減がこれくらい) 真ん中がプックリ膨らんで、発酵バターのいい香りがしてきました 焼き上がったと同時に、かえでの手が伸びてくる。ちょっと待っててよ~ 写真撮るから はい、お待たせ~ どうぞ召し上がれ 朝からマドレーヌをたらふく食べて、ご機嫌なかえででした。ご機嫌よければ、夫にかえでを任せて、法事にものんびり行ってこれるし~ 父の日でも何でも、かえでには関係ないのだ わはは
2006年06月18日
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波乱の幕開けで始まったキャンプ・・・かえでのウンチ騒動のあと、無事に可愛いMさん(いちいち可愛いって言わなくてもいいか^_^;)と合流。着いてからの事の顛末を話し、くれぐれもよろしくお願いしますと言って、かえでを引き渡した。この宿泊研修は、2泊3日で、帰るときまで親子は離れ離れになる。もちろん、寝る時も今まで、かえでと3日間も離れたことなんてないから、いくら可愛いMさん(しつこい!)が信頼できる人だからと言ってもやっぱり不安だった。大丈夫かなぁ・・・一緒に行ったTくんのお母さんは、やっと離れられるし、この際羽を伸ばしてのびのびしてやる~なんて言ってたけど、いきなりTくんがパニクっていたので、心配で心配で・・・とヤキモキしていた。やはり参加者の中には、いつも自閉症児の面倒で気が休まることがないから、家族総出で参加して、親の研修はそっちのけでひたすら寝ます、と言う人もいた。みんな大変な思いをして自閉症児を育ててるんだなぁと思うと、私だけじゃないんだと心強かった。保護者は、3日間研修のスケジュールが組まれていて、午前と午後は、主に大学教授や専門機関の先生の講話を聴き、夜のひとときには、グループでわいわいと話し合う。と言ってもアルコールが入るので、難しい話は抜きで、けっこう楽しくいろんな人と話せた。知らない人と和気あいあいっていうのは、正直言って苦手なんだけど、子供が自閉症という共通のことがあるせいか、意外とすんなり話が盛り上がってしまった。 以前から思っていたのだけど、自閉症児の親って、頭がいい人が多いような・・・養護学校の親もそうだけど、この研修に参加した親も、両親揃って有名大学出身だったり、学校の先生だったり、医者だったり、弁護士だったり・・・もちろんそうでない人も多いけど・・・かえでが通っていたこども発達センターの先生は、世界中どこを見ても統計的にそういう頭が良い親が多いのだと言ったことがある。昔は、自閉症の子は、お金持ちの家に生まれると言われたこともあったらしい。要するに頭が良いとお金持ちになれるから、と言うことだと思う。両親揃って頭が良いと、天才の血が濃くなりすぎて異常になっちゃうのかな?でも私達夫婦は揃って頭が悪いから、血が薄くなっちゃったんだよね、と夫と話したことがある 食事の時間は、親と子と少し時間をずらして食べるようになっていたので、こっそり柱の陰から様子を見たりした。偏食の激しいかえでは、家から持参したふりかけをMさんに掛けてもらって、何とか食事を摂っていた。『待つ』ことが非常に苦手なかえでが一番苦労していたことが、スケジュールの間の空いた時間を過ごすこと。次々にやることを指示してもらわないと、たちまちグズグズ言い出すので、Mさんも大変だったようだ。空き時間には、外のコンクリートの斜面ですべり台のように滑っていたので、すぐに半ズボンのお尻が破れて、何枚もダメにしてしまった。予備の洋服は多めに入れておいたけど、最後はそれ一枚しかないというところまできてしまった 3日目の午前中、最後の研修が始まった。遠く山口県から、上田豊治(うえだとよはる)さんという自閉症のかたと、そのお母さんが来てくださり、お母さんの幸子さんがお話してくださった。上田豊治さんは3歳の時に自閉症と診断され、その後歩んできた道のりのお話だった。豊治さんはすごく絵が好きだったそうで、小さい頃に描いていた絵を、お母さんがきれいにスケッチブックに貼って保存してあった。その後、切り絵をするようになるが、ものすごい細かな切り絵を丁寧に仕上げる。そして、切り絵作家として活躍するようになった。作品もいくつか展示してくださり、目を見張るものばかりだった。良かったら、こちらを見てくださいね とにかく凄い!自閉症ならではの技かもしれない。かえでも何かこういうことができればいいのになぁと溜息も出てしまったけど、私自身が絵を描くことが好きなので、ただその切り絵にうっとりとしてしまった。3日間の研修で、この上田豊治さんのことが一番強く心に残った。偉い先生のお話はそれなりに勉強になるけど、同じ親としての上田さん親子のお話は本当に印象的だった。研修が終わって、「あ~眠かったぁ」と言った隣の席の人の退屈そうな顔には、ちょっとムカついたけどね 最後に全員で写真を撮ります~と係りの人の声がした。早く帰りたくてギャーギャー泣いていたかえでは、無理やり姉妹と一緒に写真に納まり、不機嫌そうな顔で写っている姉妹は、やはり兄弟グループで友達になった子と住所を交換したり、来年も会おうねと約束していた。こうして、キャンプは幕を閉じた。同室の仲良くなったお母さん達とお別れして、一番お世話になったMさんに丁寧にお礼をし、研修施設をあとにした。疲れたけど、収穫の多い研修だった。かえでにとっては、ちょっと、いやかなり苦痛だったかもしれないけどごめんね~ かえで・・・
2006年06月17日
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かえでが4年生になった時、県の自閉症協会というのに入会した。自閉症についてのいろんな情報が知りたいということが目的だったけど、一番興味があったのが、毎年夏休みに行われている「キャンプ」だった。キャンプと言っても、アウトドアのテントを張って寝泊りするキャンプではなくて、公共の施設を使って、2泊3日の宿泊研修をするもの。一応、入会していないと、キャンプには参加できないので、同じ養護学校へ行っている同級生のTクンのお母さんと相談して、一緒に入会した。このキャンプもけっこうな人気があるそうで、毎年定員オーバーしていて、なかなか参加できないという人もいる。せっかくキャンプのために入会したのに、参加できなかったら意味がない。募集と同時に、Tクンと一緒に申し込んだ。なぜ、こんなにこのキャンプに参加したかったのかと言うと・・・別に大した理由はないけど、かえでの排便ができるようになったことと、比較的落ち着いていたことで、今までに経験したことのないものに挑戦したかったという感じ。2泊3日の間、親子は離れ離れになり、子供は学生ボランティアさんに預けて、親は研修会に参加する。学生ボラさんは、県内の大学・短大・専門学校生がほとんどで、マンツーマンで付いてくれる。事前打ち合わせのために、かえでの担当になったボラさん(すごく可愛いおねえさん)が、キャンプの2週間くらい前に、かえでに会いに来てくれた。大学の教育学部(障害児教育)で、勉強しているというMさん。卒業したら、養護学校の先生になりたい、と言っていた。嬉しいですね!こういう人がたくさんいてくれるってほんとに可愛くて、しっかりしていて、でもちょっと控えめで、静かにじっくり見守ることが上手そうな人だった。食事の様子を見てもらうために、一緒にレストランに行って食事をしたり、夏休みの学童保育に一緒に行って、過ごし方を見てもらったり、公園で一緒に遊んでもらったり、1日掛けて、宇宙人かえでを少しでも理解してもらうようにした。いきなり宇宙人と2泊3日も付き合わせるのでは、可哀想ですものね。このMさんなら安心して任せられそう。 そして、キャンプ当日。車で1時間ほどの湖畔の会場に着くと、体育館に集合した。兄弟姉妹の参加もOKなので、兄弟グループには、別の楽しく過ごすプログラムが用意されていた。我が家も、なかなか泊まりで旅行にも行けないので、このキャンプに姉妹も一緒に連れて行った。何組くらいの親子が集まったんだろう?さすが自閉症児の集まりですわあちこちから泣き叫ぶ声や、すでに脱走した子を追いかけるボラさん・・・先行き不安になった。かえでは、家を出る時にちょっとお腹を痛がっていたけど、時間がなかったので、そのまま出発着くとすぐに、トイレに行きたがったどこにトイレがあるのかもわからない。大きな荷物を抱えて、あちこち聞きながら、やっとトイレを探し当てた しかし・・・私の頭の後ろで、パイプオルガンが鳴り響いたチャララ~ チャララララ~ラ~・・・・・ どこも和式だかえでは、洋式でないとウンチが出来ないのよーーーっ\(◎o◎)/!待てよ?和式でも出来るかもしれないじゃん。こんなピンチの時こそ、チャレンジャーになるのよ!いやがっていたけど、和式のトイレにしゃがませてみた。わはは・・・やっぱりダメでしたボランティアの可愛いMさんとも、まだ会えてなくて、泣きたい気分になってしまう。でも、泣いている場合ではなかった。早く洋式トイレを探さなくては!しかし かえでは、もう便意を我慢できずに、久々にパンツの中にもっこりしてしまったのであったこの出来事の前後、かえではずっと不機嫌極まりなかった。びーびー泣いたり、ギャーギャー怒ったり・・・そりゃそうだよね。ただでさえ、どこに連れて行かれるのか見通しも立たないのに、知らないところでウンチしたくなって、トイレも思うような所がなくて、来て早々にお漏らしもして・・・ごめんね、かえで~ほんとに、かえでには可愛そうなことをしてしまった。私も、ものすごくショックだった。せっかくトイレで出来るようになったのに、もしかしてまた逆戻りしないだろうか。せっかく意気込んでキャンプに来たのに、いきなりこんなことになってしまって、かえでは、落ち着いて2泊3日過ごせるんだろうか。可愛いMさんには、会えないし・・・どうなっちゃうんだろうトイレといえば、「洋式」のことしか頭になかった自分に腹が立った。この事件以来、出かけるときにはトイレがどうなっているか、必ず事前にチェックするようになった。今では、和式洋式問わずにできるようになったけどね^_^;姉妹は、兄弟グループと合流し、初対面の子ばかりでもすぐに仲良くなって、みんなで楽しそうに遊んでいる。ちょっと頭の中の作りが違うだけで、どうしてこうも違うのだろう。多動とファンタジーの世界に浸っている、超過敏な自閉症児Tクンも、かえでよりもっとすごいパニックを起こし、お母さんはかなり大変そうだったいつもなら私が助け舟を出すところなんだけど、その日ばかりは、そうも言ってはいられなかった。情けないやら、悲しいやら、惨めな気持ちやら、焦りやら、不安やら、とにかくいろんな思いで、キャンプは始まったのだった。続く・・・
2006年06月15日
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先週の水曜日も、親戚のお葬式だったけど、一週間違いで、また今日もお葬式・・・今日は、ご近所の90歳になるおばあさんが亡くなって、お手伝いに出たので、朝から夕方まで一日中動き回って、けっこう疲れて帰宅疲れた時って甘いものが欲しくなるっていうけど、ホントに今日はそんな気分だった。精進落としで、たくさん頂いて満腹で帰ってきたのに、ほんのちょっとだけ甘いものが欲しいなぁ~ そんな気分。 実は、昨夜チーズケーキを焼いておいたのであります 表面がムラになってしまったけど、いつもよりお砂糖もレモン汁も多めにして、甘味も酸味もしっかりつけて、何と言うか、メリハリのある味になってます コイツをちょこっと食べて、ホッとして、また家事を頑張るのだ
2006年06月14日
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かえでの養護学校への送迎は、朝8時半に家を出て、8時45分頃、先生に引き渡す。学校の日課は14時30分に終わり、その後、学童保育に行き、迎えは16時30分。かえでが学校と学童保育にいる間は、私はフリーになる。と言っても、その間にいろいろと用事もあるし、かえでが帰宅する前にやっておかなくてはならないことも多いし、毎日、何となく流されて過ごすことが多かった。周りの友達が、子供に手が掛からなくなったからと言って、お勤めに出ていくのを横目で見て、私も、仕事を見つけて働きに出てみようか、と思い始めた。私の両親は、「かえでが学校に行っている間なら困らないし、 何かあっても私達がいるから大丈夫だ」と言って、夫の手前もあるし、私に勤めに出ることを勧めた。幸い、母の狭心症の発作もそんなに深刻ではないし、何よりかえでの『排便の自立』という、嬉しい出来事も後押しして、仕事に行きたいという気持ちが膨らんでいった。そんな時、娘が行っているピアノ教室で発表会の練習が始まり、娘は同じ歳の女の子と連弾をすることになった。レッスン以外の日にも、お互いの家を行き来して練習することになった。その子のお母さんは、土木建築関係の会社にフルタイムで勤めていて、更に上を目指して勉強しているとのこと。すごいな~と感心していたら、もうすぐその会社を辞めて、違うところに移るらしい。それで、今行っている土建会社の現場事務所で、彼女が辞めると、人手が足りなくなり困っているので、誰か来てくれる人はいないか探していると言った。私に「そこで働いてみない?いい職場だよ」と言う。専業主婦をしていることが信じられないという感じだった。私でも勤まるだろうか?行ってみたい。働いてみたい。すごくそんな気持ちになり、夫や両親に相談した。両親は、とにかく協力するから、出来れば外に働きに出たほうがいいと言ってくれた。夫の実家や近所の手前、夫以外、みんな家にいて遊んでいるように思われるのが辛かったようだ。夫は、『家事・育児を優先すること』を前提として、OKしてくれた。 こうして、かえでが4年生になる少し前から、私の兼業主婦生活が始まった。土建会社の公共事業で、区画整理をやっている現場の事務をやることになった。独身時代に勤めていた時以来のパソコン。久々に触るキーボード。仕事の内容はよくわからないことばかりだったけど、丁寧に教えてもらって、楽しく仕事が出来た。土木の現場なので、男ばかりで、汗臭くてむさくるしい職場だった。でも、いろんな業者さんや、下請けの人たちが出入りして、いつも賑やかだった。養護学校に行っている子供がいるということも、しっかり話しておいた。かえでを送って、そのまま現場事務所に9時に入り、16時まで仕事をして、買い物をして、かえでを迎えに行って帰る。そんな毎日だった。家にいる時間が少なくなった分、家事は当然今までのようにできない。でも、少ない時間を有効に使って、テキパキと動くことが出来て、充実していたように思う。時間は誰にも平等にあるのだから、有効に使わなくては損だな~と思った。 仕事を始めると、学校の用事には思うように参加できなくなってしまうけど、なるべく子供優先で頑張った。なんの自慢にもならないけど、参観会や講演会などは、必ず出席した。子供たちの学校時代なんて、長い人生の中で見たらほんの一瞬で終わってしまう。だから、毎回この目でちゃんと見ておきたかった。(忘れちゃうけど・・・^_^;) 一年たって、かえでが5年生になる4月。現場の工期が終了し、私はお払い箱になるかと思っていたら、本社でお呼びが掛かり、4月からは本社に勤務することになった。主には、品質管理の書類を作るような仕事だったけど、どこにでもいるようなお局様にいじめられる、かわいそうな新人って感じだった。それでも、我が家の事情をわかってくれて、なんとか家庭優先で仕事を続けることが出来た。私が仕事に出たのは、結局全部で3年間だったけど、とても有意義な時間だったと思う。仕事は一生懸命やった。今までにない環境に身を置くことは、とても意義のあることだと感じた。養護学校に来ている子のお母さんは、働いている人はあまりいない。核家族ならなおさら無理だと思う。私のように、親と同居していれば、良い条件が揃って働けるのかもしれない。だから、働きに出られたことは、夫や両親に感謝している。結婚しても働く女性、それは今の時代は当たり前なのかもしれないけど、ハンディのある子がいたら、それはとても大変なこと。うちの夫のように、女は家にいればいいと思っている、ちょっと時代錯誤の男もいる。一度、家事が手抜きになって、ひどく怒られたことがある。「大した仕事もしてないくせに、 『働いてる』なんて偉そうな顔をするな! それですぐに『疲れた』と言うなら、 仕事なんか辞めろ!』いきなりそう言われた。悔しかったもちろん、私には言い返せない。最初の条件を破ったから。家事を手抜きしたから。ホントに辞めようか迷っている時に、前回の日記に出てきたFさんがフォローしてくれたこともあった。それで、また元気を取り戻して、家事に育児に仕事に精を出した。 何が正しいのか、間違っているのか、答えなんてないけど、人って、いろんなところで絡み合って、みんな必死に生きているんだな~と感じる。働くことは、大変意義のあることだと痛感した貴重な3年間だった。
2006年06月13日
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かえでは、オシッコがトイレで出来るようになったのは、5歳の頃だった。少しすれば、ウンチもできるだろうと思っていた。ところがどっこいまったくトイレでする気配がなく、こっそりと隠れてパンツの中にすることが多かった。 食事のあと、オシリのあたりがムズムズしてくると、その辺で四つ這いになっていきんでいた。現行犯で見つけたときは、すぐにトイレに連れて行ったけど、トイレに座ると、もう出なくなってしまう。そのうち、かえでは、見つかってトイレに連れて行かれるのを避けるために、人気のない部屋に隠れて、こっそりパンツの中にするようになった。それが床の間の前だったりするので、バチが当たるぞ~と思ったりもした。ウンチが出ると、オシリにホカホカのかたまりをもっこりさせて、私のところに来るそして私の手を取って(クレーン)、自分のオシリに持っていく。「なぁに?」と聞くと、かえでは片言の地球語(日本語)で「ウンチ」と言う。「チ」という発音がうまく出来なくて「ティ」になってしまうので、「ウンティ」と訛っている。「かえで?ウンチはトイレでしようね」と言い聞かせる。だんだん、「かえで?ウンチは・・・」と言い掛けると、「トイレ」と続いて言うようになった。言葉が続いて出るのは嬉しいことだったけど、全く進歩のない様子に、かなり参っていた ウンチはオシッコに比べて回数が少ないので、一回見逃すと、次のトイレトレーニングは翌日になってしまう事も多い。それに、学校では絶対にウンチをしたことがなかったので、学校で指導してもらうわけにもいかない。 偏食もひどい。いろんな強いこだわりもある。ウンチは出来ない。先の見通しもつけにくく、日課や予定が変わるとパニックになって泣いて怒る。ひどい多動はなく行方不明になる心配はなかったけど、問題行動は多かった。身辺自立はなるべく早く出来るようにしたい。でも、このウンチのトレーニングだけは、本当にどうしたらいいのかわからなかった。かえで自身は、隠れてするくらいだから、パンツにしてしまうことがいけないことだとわかっている。とにかく根気強く、気配があったらトイレに座らせるようにした。 そんなことをしている間に、かえでは小学校3年生の終わりになっていた。ある日、かえではお腹をこわして、食後すぐに、顔色を変えて慌てて床の間の前にすっ飛んでいったことがあったパンツの中に、下痢は勘弁してくれ~~っ私も慌ててあとを追い、嫌がるかえでを無理にトイレに連れ込み、座らせた。すると、とってもタイミングよく、初めてトイレでウンチが出来たウソのようだったけど、かえでもお尻が汚れないこの方法が気に入ったのか、ことが済んだあとは、ホェ~~~ッと気が抜けたような顔をしていたきれいにオシリを拭いてあげて、「パンツが汚れなくて気持ちいいねぇ」と言うと、なんだか嬉しそうな感じだった。私ももちろん嬉しかったけど、何年も苦労してきたことが、意外とあっさり出来ちゃって、なんだか拍子抜けしてしまった。でも、これ一回きりだったら、何にも意味がない。続けて出来てこそ、『トイレでウンチ』が完璧と言えるのだその次の機会が、その日のうちにやってきた。オシリのムズムズを感じたかえでは、やっぱり床の間を目指してダッシュやっぱりダメか またも慌てて追いかける私。トイレに連れ込み、座らせる。そしたら、またも意外とアッサリ出来てしまったこれはもしかして、「ダッシュ」「追いかける」「捕まる」「トイレに連れて行かれる」「座らされて出来る」という図式で、新しいこだわりになっちゃうかも?しばらくは、様子見ながらやっていくしかない。でも、一度身体で覚えたことは、きっと身についていくはず。その後、トイレでウンチをすることが、良い形で「こだわり」となったようで、したくなってくると、「ウンティ」と言って私と一緒にトイレに行き、仕上げに私が拭いてあげるということが、板についてきた。このまま、一生私がかえでのシモの世話をしていこうと覚悟したこともあったけど、その子によって、出来るようになる時期ってあるんだなぁと思った。かえでは、出来ることと出来ないことのバランスが、すっごく悪いけど、根気強くやっていくことが、自閉症の子にとっては重要なのかもしれない。身につくまでに、親のほうがバテそうだけど、もう少し頑張らなくてはいけないな。 とりあえず、身辺自立の一つが出来るようになったことにホッとした出来事だったお食事中の皆様、申し訳ございませんでした~~
2006年06月09日
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親戚の伯父が亡くなって、昨日、うちの父と私と夫の三人で、お葬式に行ってきた。小さい頃から、私のことを可愛がってくれた伯父で、従兄弟たちとも仲良くしていた。その従兄弟の一人に、私と同じ歳の肢体不自由のTクンがいる。仮死で生まれて、脳障害が残ったそうで、知的には問題ないけど、言葉は喋れない。手足も不自由なので、ずっと車椅子の生活をしている。そういう息子Tクンを残して、病気で逝った伯父を見送った。 告別式の時、ヘルパーさんに世話をしてもらいながら参列しているTクンのそばで、私達もTクンの心配をしながら、並んで座った。一時、ヘルパーさんの姿が見えなくて、Tクンがなかなかお焼香に行けずにキョロキョロしていた。すると、うちの夫がすぐさまTクンのそばに行き、車椅子のロックを外して動かしてあげていた。夫は、今まで自分の子が障害児でも、そういうことに関しては無関心が多かったので、それを見て、正直なところびっくりしてしまった。と同時にとても嬉しかった。また、歳の大きいおじいちゃんの手をとって、階段の上り下りを助けてあげたりもしていた。ちょっとした気遣いって、すぐにさっと出来る人と苦手な人があると思う。夫は、どう見ても出来ないタイプの人だったのだけど、「あんたもやれば出来るじゃん!」と思ってしまった 家に帰ってきて、その話を娘にした。私 「今日お父さんね、福祉活動がすごかった。」下の娘 「うそ~?お父さんが?マジ?絶対あの人やらんと思うけど」私 「そう思うでしょ?それがさぁ、車椅子押したり、 お年寄りの手を引いたりしてたんだよ。」下の娘 「ほぉ~~」上の娘 「あっ、今の『ほぉ~~』っていうの、 ジーコが代表メンバー発表した時の 『マキ』『ほぉ~~』っていうとこに似てた。 それくらい意外ってことだよねぇ」私 「・・・・・・」 娘達も驚く、夫の変わりようだった。一体どうしたっていうんだろう。残された伯母とTクンのことを思うと、またいろんな複雑な思いはあるのだけど、夫の善行に、その複雑な思いも少し鎮められた気がした。
2006年06月08日
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かえでのこだわりの一つは ビデオストーリーは関係なく、決まった映像がいつも流れていることに、安心するのだと思う障害があるなしに関わらず、小さい頃って決まったビデオが好きで同じものを何度も見たりすることってある。上の娘が1歳になった頃は、NHKの『おかあさんといっしょ』が大好きで、その中でやっていた『にこにこぷん』っていうのがお気に入りだったその『にこにこぷん』のアニメビデオを一本買ったんだけど、1歳過ぎて夜泣きをするようになり、夜中にず~っとそのビデオを繰り返し見続けていたことがあった。 その後、かえでが産まれてからは、『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』などのビデオを繰り返し見るようになり、かえでも気に入ってしまって、今も週末の午後はジブリタイムになっている 当然、家族全員が、繰り返されるビデオを、毎日見続けなくてはならないいい加減、セリフもほとんど覚えてしまう。 車で出掛けている時に、危ない場面に遭遇すると、「ばっかやろう!危ねぇ・・・」と思わず言ってしまう。すると上の娘がすかさず、「妹を探しているんです!見ませんでしたか 七国山病院へ行ったらしいの。4歳の女の子です・・・」私 「妹さん?」「ヨウコちゃん、気がついた?」 「私達ねぇ、七国山から来たの。でもそういう子は見なかったわ」 「お前どっから来た?」 娘 「まつごうです」私 「まつごうっ」「何かの間違いじゃない?」 お菓子を焼いた時は、「どうでしょう?」と言うと、「よく焼けてるわっ!さ、早く」と言われる。私 「いぃけません、こんなに!」娘 「いいのよ。受け取ってちょうだい」 「ステキなパーティを!」 そして、雨の降る夕方、学校から帰ってきた娘が、「お届け物です」と言って、郵便受けから封筒を持ってきた。私が「まあ、ずぶぬれじゃない」と言うと、娘 「急に降ってきたものですから。でもお料理は大丈夫です」私 「だからいらないって言ったのよ」娘 「なぁに?」私 「またおばあちゃんからニシンのパイが届いたの。 私このパイきらいなのよね」 なんだかよくわかんないような、ヘンな会話が平気でしばらく続く我が家・・・完全に頭の中が、お馴染みのビデオで染まっている娘も、「うちってさぁ、何かあると、すぐこういうセリフが出ちゃうよね。 うっかり学校で言っちゃいそうで、恥ずかしいよ全く・・・」と言って苦笑い 我が家だけかいな? こういうのって・・・
2006年06月06日
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かえでの同級生に、Hクンという子がいた。Hクンは、今どき珍しく6人兄弟で、3番目の子だった。家庭の複雑な事情?で、全員が知的障害があり、当時は上の2人と一緒に、かえでの通う養護学校に隣接された更生施設に入所していた。入所している子供たちは、週末になると自宅に帰ることになっていたけど、Hクンの家は、虐待やいろんな事情があって、ほとんど帰宅することはなかった。小学校3年生になって間もない、5月のとある日曜日の朝のこと。その週末も自宅に帰れず、施設で兄弟と過ごしていたHクンは、なぜか外に出たがっていたらしい。朝の早い時間に、一度ひとりで出て行ってしまい、職員が探して連れ戻したけど、また少しして、ほんのちょっと目を離した隙にフラッと脱走した。直線にして500mほどのところに、列車の線路がある。線路沿いの道には、酒屋さん、神社、小さな池、田んぼなどがあり、のどかな場所なので、施設や学校の散歩でもよく通る道だった。Hクンはそこがお気に入りだったのか、その朝もそこを目指してトコトコと一人で歩いていった。そして、池のそばで何故か洋服を脱いで、全裸のまま池の浅いところで遊び、そのまま線路に侵入していった。酒屋のおばさんがHクンを見つけて、驚いて声を掛けて、慌てて駆け寄った。「ボク、何してるのっ 危ない!早く出なさいっ」知的障害のあるHクンには、声は届かなかった。その直後、ものすごいブレーキの音をさせながら、列車が止まった。でも、間に合わなかった。全裸のHクンは、粉々になっていたと聞いた・・・その頃、施設の職員は総出でHクンを探していた。以前にも入所の子供さんが列車事故があったそうで、非番の職員はHクン行方不明の連絡を受けて、真っ先に線路に向かって車を走らせたそうだ。駅でもないところに列車が止まっているのを見た職員は、茫然としたという。病院で粉々になってしまった身体をつなぎ合わせてもらって、痛々しい姿で、自宅ではなく施設に帰ってきたHクン。翌月曜日の朝、かえでを学校に送り、そういった詳しい話を聞いた私達は、みんな頭がクラクラして倒れそうになった。ひとりのお母さんは、貧血を起こして本当に倒れてしまった。その晩、何組かの親子でお通夜に行った。やはり自宅ではなく、葬儀場の一室にHクンは棺に納められて眠っていた。最期でも、自宅に帰ることが出来なかったHクンが、可哀想だった。事故は怖い。危険を察知する力がないかえでは、おとなしく歩いていたかと思えば、急に道路に飛び出すこともあるまた、Hクンが行った散歩の道は、これからは通ってほしくないなぁと思い、他のお母さん達と「その散歩コースをやめてほしい」と先生にお願いした。お葬式にも参列。かえでや他の養護学校の友達も一緒に参列したけど・・・人の『死』って、どうやったらこの子達に伝えることが出来るのだろう。まったくワケのわかっていない自閉症や知的障害のある子供たちは、お寺の広間で、大声で叫んだり、脱走したり、寝そべったり、本当に大変だった☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆その頃、同居の実母は、狭心症の発作が頻繁に起こるようになっていた。検査も兼ねて入院する事になり、検査の都合で私が付き添いをした。かえでは、ショートステイ(一時預かり制度)を利用して、施設に宿泊することになった。自宅や旅行以外で、外に泊まるのは初めてだった。母の発作がある度に、万が一のことを考えておかなくては・・・と思っていた。母が亡くなるのは、もちろんとても辛いことだし、あまり考えたくはないけど、Hクンのこともあって、お葬式が我が家であったら、かえではどうすればいいんだろう。その頃から、そんなことを考えるようになった。その初めての宿泊を機会に、かえでは3ヶ月に1度くらいの割合で、お泊り体験をさせた。何事も、備えあれば憂いなし。もし母が何かあった時は、施設で安心して過ごせるようにしておきたい。自閉症の子にとって、いきなり出くわすことほど、大変なことはない。少しずつ慣れておかなくては、とっさの場合に困ってしまう。人が死ぬ悲しみより、どうやって障害のある子の環境を確保するか、そっちを先に考えなくてはならないなんて、ちょっとヘンだけど、これも障害児を持ったら仕方のないことだと思った。普通の健常児だったらなぁ~と、またちょっと溜息をついてしまった私でした
2006年06月04日
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最近、いろいろと思うことがあって、もっと精神的に強くなりたい、もっと何かに集中して煩悩から解脱したい(大袈裟な・・・)そんな思いから『えんぴつで奥の細道』を始めることにした。今、本屋さんの店頭でもバシバシ売り出されているので、ご存知の方も多いかな?^^朝の家事が済んで、コーヒーを飲んで、ちょこっとおやつも食べて^_^;さっそくやってみることにした。鉛筆を握って、しっかりと楷書で書くのは久しぶり字や絵を描くことは決して嫌いではなく、むしろ好きな分野なので、ちょっとなめていたかもしれない。自分の書く字が、いかに下手なのかよく判った簡単じゃん!と思っていたけど、意外と時間が掛かって、力が入ってしまって手が疲れるほどだった。1日目の分が書き終わって、自分なりにすごく集中してできたこと丁寧なお手本を見て、気持ちがすごく洗われた感じがしたこと『奥の細道』を最初から少しずつしっかり読めることそういうことを感じて、とても良い気分になった1,400円の本とえんぴつ一本で、幸せな気分が味わえる私って、やっぱり安上がりな女かも~?
2006年06月02日
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いつも、かえでの小さかった頃のことを書いているけど、現在のかえでは、中学3年生。将来を考える時期が近づいてきた現在通っているA養護学校の分校は、中学部までしかなくて、来年度は高等部に進むか、それとも更生施設や作業所に通うか、進路を決定しなくてはならない。一昨日(30日)は、A養護学校の本校の高等部の見学に行った。見学には、夫と私とかえでの三人で行った。高等部の主事が個別に対応してくださり、1時間くらい校内の見学と説明を受けた。「身辺自立は中学校の間にきちんとできるように」「高等部へ入ったら、働ける人を目指して、作業を中心とした日課を過ごす」木工、陶芸、工芸、農耕、織物、印刷紙工などの作業班に分かれて、たくさんの高等部の生徒さんが、先生の指導を受けて作業をしていた。今、普通に高校に通っている生徒が、どれだけ将来を考えて『働ける人』を目指しているだろう。養護学校へ通う生徒が、黙々と作業をこなしているのを見て、なんて純粋なんだろうと思った。それなのに、雇用はまだまだ少なく、障害者の就職はとても困難だと聞いた。かえでの通っている分校の中学部でも、日課の中に作業の時間があって、牛乳パックをリサイクルして、再生はがきを作ったり、染物をして袋を縫ったり、木工作業で、椅子や壁掛けなどを作ったりしている。私に似ず、けっこう器用に細かな作業をこなせるかえでは、中学部の中でも『真面目な職人』で通っている。進路については、いろいろ悩むけど、貴重な青春時代、かえでは、鍛えれば光る何かを持っている。普通に高校へは行けないけれど、高等部でもっと腕に磨きを掛けて『働ける人』を目指してほしい。そんなことを感じた見学&説明会だった。そして今日は、下の娘の通う中学校の体育祭友達ママと一緒に見に行った。本当なら、かえでもこの中学の3年生に混じって、走っているはずなんだよね・・・そういうことは、あまり考えないようにしているけど、知っている同級生の子を見掛けると、どうしても考えてしまう。きっとかえでの走りっぷりだったら、リレーの選手になって、かっこよく走っているんだろうなそんなことを考えて、ちょっと鼻の奥のほうがツーンとなってしまったそんな思いを吹き飛ばすように、下の娘がリレーのバトンをもらって、私の前を勢いよく走っていく(これは全員参加のリレーね^_^;)。娘が、「お兄ちゃんの分も頑張るよ」と言ってくれたような気がした娘の走る姿を見て、またまたツーンと来てしまった私だった。最近、ちょっと泣き虫(^^ゞ わはは
2006年06月01日
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