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東武鉄道 10000系:日光線(栗橋~新古河)※本記事は、2020-06-14に投稿したもので、当時の表現になっています。令和2年6月6日に実施された東武鉄道ではダイヤ改正。利用者ではないので大変地味に思えてしまう部分(失礼!)ですが、地下鉄直通車から転用改造を受けた20400系の本格的な運用開始により、日光線や伊勢崎線系統の勢力図が大きく変わって待ったようです。どのような状態になっているのかピンと来なかったので、試しに日光線新栃木駅発の上り時刻用を確認すると、特急列車を除き、すべてが栃木又は南栗橋行きとなっていました。栃木行は宇都宮線の列車と思われ、従来新栃木方面からの浅草行き区間急行がすべて消滅、南栗橋で完全に分断されてしまったようです。銀色の電車はあまり着目して撮影することはないのですが、日光線栗橋~新古河間で撮影した写真の中に3枚ほど10000系の写真が出てきました。※撮影は、平成24年5月5日、栗橋~新古河間にて。10000系 11602編成 区間急行10000系 11608編成 区間急行10030系 11660編成 区間急行順光の上り列車ばかり撮影したようで、すべて区間急行の浅草行きでした。同じ10000系列でありながら、顔が随分と違っているのも特徴です。初期車は昭和生まれですから、既に30年を経過。しかし、未だに8000系も残っているところから、まだまだ第一線で活躍しそうです。閑散区間からの撤退も、益々都心での活躍が多くなり、その分酷使されそうな感じです。
2025.10.31
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485系:勝田区 K60編成成※本記事は、2013-01-27に投稿したもので、当時の表現になっています。先日、勝田車両センターのK40編成が廃車回送されたことで記事をアップいたしましたが、平成25年1月22日、K60も帰らぬ旅に出てしまったようです。K60編成は、両端ともに北海道用に製造されたクハ485-1500番台を連結しており、新潟車両センターT18編成と並んで大変貴重な編成でした。塗装は勝田区専用のイルカ塗装になっており、引退するのであれば是非原色に戻してリバイバル列車等に活躍してもらいたかったですが、その願いもかなわず、このまま解体されてしまうようです。常磐線を基点として団体列車に活躍するとともに、臨時設定では全国でも珍しい急行列車として運転されるなど、年間を通じて活躍していました。それほどのシチュエーションは記録できていませんが、過去ログともにご紹介したいと思います。平成20年1月5日 成田線 小林~木下間にて 団体列車快速「常磐エアポート」を撮影しに行ったときのもの。成田線への初詣臨にも活躍していました。平成20年4月12日 新松戸駅にて新松戸駅に停車し、西船橋方面に立ち去ったK60編成。団体列車のようです。207系を撮るために待機していたときのことでした。平成21年10月18日 西川口~蕨間にて 団体列車K60編成は485系ですので東北本線にも入線しますが、そのほとんどは武蔵野線経由であるため、地元を通ることは滅多にありませんでした。平成22年7月19日 北本~桶川間にて 回9838Mこちらも珍しい、高崎線での撮影です。183系「草津52号」を撮影するために訪れたものですが、偶然にもその姿を捉えることができました。K60編成の特徴として、一般団体列車のほかに、各方面への臨時急行列車や快速列車にも使用されることが多かったことでした。これは6両編成というちょうど良さがあったものと思われ、4両編成のK40編成とは対照的でした。過去ログ参考485系K60編成:急行「横浜ベイエリア」485系:勝田区 K40編成485系K60編成:急行「ぶらり鎌倉」485系K60編成:快速「那須野満喫」485系K60:臨時急行「わくわく舞浜・東京」
2025.10.30
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DD51原色:寝台特急「カシオペア」(展示車)令和7年、とうとう引退となってしまった「カシオペア」。定期「カシオペア」時代。函館~札幌間の牽引機は、平成11年の運転開始以来、一貫してDD51型が重連で牽引にあたりました。「北斗星」は運転開始初期にDD51型原色が牽引しましたが、直ぐに北斗星色に塗り替えられてしまったため、後発の「カシオペア」の牽引は北斗星色のみとなっています。したがって、原色のDD51に「カシオペア」のヘッドマークが付くのはイベントに限られました。平成22年11月20日 DD51888平成24年11月10日 DD51842いずれも「尾久ふれあい鉄道フェスティバル」における展示です。DD51は高崎のものですから、当然にして「カシオペア」を牽く機会はありません。考えてみれば、私が最後に北海道へ行ったのが平成5年ですから、まだ「カシオペア」という列車自体が存在していません。よって、DD51牽引の「カシオペア」は実物さえ見たことが無い訳です。鉄道誌などで見慣れてしまったため、新鮮さの感じられないDD51牽引「カシオペア」ですが、終わってみればこの架空の姿しか記録に残っていないというのも非常に残念です。
2025.10.29
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JR貨物 DE101581DE10シリーズで、今回はDE101581号機をご紹介したいと思います。平成22年5月22日 大宮車両所にて1581号機は、川崎重工製で、昭和48年5月4日早岐機関区の配置の九州育ち。昭和59年に香椎機関区へ異動後、門司機関区への引継ぎを受け、JR貨物へと継承されました。平成8年3月に愛知機関区へと異動、永く活躍しましたが、令和2年に廃車になってしまったようです。写真は、大宮車両所に入場し、全般検査を受けているところを公開されていたもので、分解状態となっています。同機は愛知へ異動後にA更新青塗装となっていたようで、この時の検査で更新色になった模様。工程がもう少し遅れていれば青更新が見られたのかと思うと、大変残念な気持ちです。当時、分解中の車両なんぞ何の資料にもならないと思っていましたが、国鉄機が完全消滅しそうな今となっては、こんな姿であっても撮っておいて良かったと思います。
2025.10.28
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JR貨物 ED751023・1034既に全廃となって久しいJR貨物のED75。単体では殆ど撮影したことのなかったED75ですが、ちょこっとだけありましたのでご紹介いたします。平成19年5月26日 ED751034 大宮車両所にて公開で展示されていた1034号機。1000番台は高速運転対応の区分で、大量余剰が発生した59・2ダイヤ改正を乗り越え、JR貨物にも多数が継承されました。この頃のふれあいフェスタでは毎回ほぼ1両の入場車があり、細々ながらも検査出場がありましたが、今から考えればこの頃がギリギリ最後の検査入場だったように思います。平成20年8月9日 ED751023 & ED751034 水戸駅にて水戸駅構内にある機関車の電留線。常磐線の撮影に行った際、水戸駅での乗り継ぎで偶然撮影できたもの。当時としてもED75の運用は殆どなくなって、有効時間帯に撮影するのは至難の業だったように記憶しており、その後、東日本大震災で決定的な打撃を受けることになります。1023号機のように、ラッピングによりしょーもない姿になってしまい、ED75の写真を撮りに行く気にはならなくなった結果、末期のED75の記録はほとんど残っていません。ここにある2枚の写真も偶然写っていた、程度のものでした。1034号機は、JR貨物のED75としては最後まで残り、平成24年3月改正以降に廃車となりました。一方、1023号機に関しては情報が見つかりませんでした。最後までは残っていなかったようなので、この写真を撮って間もなく廃車になってしまったようです。
2025.10.27
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E351系:特急「スーパーあずさ」※本記事は、2018-03-20に投稿した記事を一部修正したもので、当時の表現になっています。曲線がスピードのネックになっていた中央東線。特急「あずさ」の需要に応えスピードアップを目的として誕生したのがE351系特急車両です。平成5年12月から営業運転を開始し、8+4両の12両編成を5編成60両が製造されました。翌平成6年にはグッドデザイン賞も受賞しています。ちなみに、JR東日本が導入する車両の形式に「E」を冠した最初の形式でもあります。制御つき自然振り子装置を搭載し、曲線の通過速度をアップすることになりましたが、山岳区間における走行性能から一般特急型車両と所要時間に差が生じるため、「スーパーあずさ」として区別したのも同線では最初の例となりました。平成9年にS3編成が暴走事故に巻き込まれ、早くも5両が廃車となってしまう不幸に見舞われましたが、使用可能な部品を使用して車体を新製し原番号で復活させたために製造量数は60両のままとなっています。当時、この事故は大きな話題となりました。個人的にはそれほど好きな形式でもなかったため、写真を撮ったことは全くありませんでしたが、ちょうどデジカメを導入した頃から201系の引退が始まったため、その際に撮影していたことから幾度となく機会もあり、そこそこコマが残っていました。平成18年6月7日 西国分寺駅にて初めて撮影した「スーパーあずさ」ですが、デジカメの理屈がまだ分かっておらず、小さい容量で撮影してしまい、不安定な画質に。それと、この変換可能はLEDのヘッドマークが曲者で、「スーパーあずさ」を表示するかどうか、シャッターを切る瞬間まで分からないのが厄介でした。平成19年3月14日 西国分寺駅にて201系の置き換えが半々くらいまでなったときに撮影に行ったものです。目的である201系にカブられてしまったこの写真を良しとするか、ダメとするか・・・平成20年4月5日 東中野~中野間にてこれも201系の終焉を記録しに行った頃で、サクラとの組み合わせを狙ったものでした。当時の記録を見ますと、この日は御茶ノ水駅構内のポイント故障により大幅なダイヤ乱れがあり、いつ何が来るのか分からないような状況であったようです。サクラは満開を過ぎ、結構散ってしまったようでした。平成20年7月9日 新宿駅にて M50編成「試運転」と並ぶ「スーパーあずさ19号」(再掲)たまたま午後からの仕事の時に、新宿駅で発見し撮った写真です。平成20年10月11日 相模湖駅にて 「スーパーあずさ23号」まだ性能の低いデジカメ時代で、暗くてブレてしまいました。構内のカーブはきついですが、その分、E351系の車体の倒れ方が良く判る写真です。この角度に合わせ車体上部が絞り込まれています。平成21年3月28日 勝沼ぶどう郷駅にて 「スーパーあずさ18号」平成21年3月28日 勝沼ぶどう郷駅にて 「スーパーあずさ19号」こちらもサクラとのコラボですが、都心のサクラよりもかなり開花が遅かったため、まだ1分咲きくらいでしょうか。せっかく遠征したものの、残念な結果に。平成21年3月28日 相模湖駅付近にて 「スーパーあずさ23号」またも帰り道に相模湖駅で下車。山陰は陽がどっぷりと暮れ、写りはやはり厳しいものでした。平成22年4月4日 新宿駅にて 「スーパーあずさ19号」調べてもなんの記録が残っていなかったので???だったのですが、丸ノ内線のサクラを撮りに行った帰り道、何故か新宿駅に立ち寄って撮影したようです。保存データにも整理していないようでしたが、どうもケータイで撮影しており、バックアップも忘れていたみたいです。平成24年9月6日 八王子駅にて 「スーパーあずさ4号」外回りのあるセクションへと異動となり、特に午前中が中央線沿線になると、ちょうど上りの「スーパーあずさ4号」通過に重なることが多くありました。既に大糸線への乗り入れが無くなっており、中間の運転台を営業運転で見ることができなくなっていました。そんな状態ですと、逆に見たくなってしまう気持ちが大きくなり、こんな写真も撮るようになっていました。平成24年9月10日 日野駅にて 「スーパーあずさ4号」日にち場所が変わって、今度は日野駅です。以前、ここで撮れると思っていた構図を選んだのですが、中央快速と並んでしまったので撮ることができなかったのです。この回は「スーパーあずさ4号」が2分くらい遅れたようで、単独で構図に収めることができました。多摩川の鉄橋まで一直線のストレート。現場回りをするようになって知ったお気に入りの構図なんです。平成30年2月17日 新宿駅にて E351系 「スーパーあずさ5号」現場のないセクションに異動となりますが、機会あるごとにE351系を撮れないか模索するものの、何故かタイミングが合わず捉えることができませんでした。この時も「ホリデー快速富士山」からの撮影で新宿駅に降りた際、1本早い埼京線に乗れたために偶然間に合ったものでした。結局、引退が既に決まっていたためか、側面のサボも最後まで改修されずに幕式のまま最後を迎えました。E351系は一部が既に解体され、E353系の運用により離脱した編成もあったようです。最後は3編成が運用され、平成30年3月16日をもって定期運用から外れました。まださよなら運転が残っていますが、既にすべてが長野に戻されたそうです。その特殊性から転用の道もなく、すべてが解体されてしまうようです。JR東日本とすれば産業遺産とも言える車両ですから、先頭車とパンタ車くらいは保存してほしいものです。お疲れさまでした・・・E351系。
2025.10.26
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東急電鉄池上線:7700系平成30年11月24日、東急多摩川線・池上線で運用されていた7700系がラストラン「7700系さよなら列車イベント」を実施、終焉を迎えました。元々は縁のない地域の路線でしたが、特に池上線にはいくつかの現場を抱えていたため、訪問の都度撮影をしていました。ラストランの撮影は勿論行きませんでしたが、まとめとして編成順に過去写真を並べておきたいと思います。平成23年6月6日 7901F 車内平成23年6月6日 7901F 洗足池駅にて平成23年10月6日 7903F 池上駅にて平成25年5月5日 7903F 池上~千鳥町間にて平成23年7月1日 7906F 池上駅にて平成23年10月6日 7907F 池上駅にて平成23年6月6日 7910F 洗足池駅にて平成23年6月6日 7910F 洗足池駅にて平成23年7月13日 7910F 洗足池駅にて平成25年5月5日 7912F 旗の台駅にて平成23年7月13日 7914F 洗足池駅にて平成23年7月1日もっとたくさん撮影していたような気もするのですが、他に1000系や新7000系なども走っていたため、この程度しか残らなかったようです。レア種の7915Fは平成22年9月に廃車となってしまったようで、デジカメ化後に訪問した時には既に居なくなっていました。東急電鉄内としては完全撤退となりますが、何編成かは養老鉄道への譲渡により引き続き活躍する姿を見ることが出来るようですので、製造から50年選手として電車最古参になる確率も高いかもしれません。
2025.10.25
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京成バス:富士重工・ボルボ製 連節バス今回はバスネタです。現在では、主要都市で何か所かで導入されている連節バスですが、その昔はかなり限定された場所にしか存在しませんでした。古くは京王バスや国鉄などでトレーラーバスがあったようで、本格的な連節バスが導入されたのは昭和60年に茨城県で開催された国際科学技術博覧会(つくば万博)のようです。その頃はバスに興味があったわけではないため、実車を何台も見ていたものの、写真1枚すら撮っていませんでした。万博で使用された100台の連節バスは、閉幕後に80台がオーストラリアへ輸出され、一部が東京空港交通でリムジンバスに使用されていました。その事情も記憶にあるのですが、当時は今のように情報が発達していたわけでもなく、行動を起こす前に消え去っていました。一般路線用として初めて連節バスを導入したのが京成バス。急増する利用者の輸送に充てるため、幕張新都心に10台が導入されたそうです。そのこと自体も全然興味を持たなかったのですが、バスコレクションの登場以来、バスに興味を持つようになり、さらにこの初代連節バスが引退するという情報が入ったため、他の用事と合わせて撮影することができました。※撮影は、平成20年7月12日 海浜幕張駅前ロータリーにて。そもそも、どの路線にどのくらいの頻度で走っているのかさえ知りません。そんな中、目の前にいたバスを長い信号待ちの間に行かれてしまい、撮り逃してしまいました。あきらめて交差点の日陰で一服していたら再び現れ、やっと捉えることができたのがこの1枚です。停車中の写真を撮ってから折り返し間合いに道路~歩道橋を走り込み、安全な高い場所から撮影することができました。もう1本くらい撮りたかったのですが、とにかく猛暑で日陰が無く、どのタイミングで来るのかも分からず、娘の安全も考慮してこの日は諦めました。もう1回くらいは撮影に行こうと思っていたところ、この写真を撮って間もなく運用から外れてしまったようで、結局この2カットのみに終わってしまいました。引退の理由が都心の排ガス規制にあったようで、導入から10年で引退となりました。しかし、バスならまだ使えますので、譲渡が検討されていたようです。当時は確か鹿児島へ行くと言っていたようなのですが、どうも計画は頓挫してしまったようです。最近になって、JRバス関東に譲渡され白河の研修センター送迎に当たっていることを知りました。JRバス塗装の同車はとても中古とは思えないキレイさで、これはちょっと行ってみたくなりました。しかし、その後に新型の連接車が増備され、既に一部が廃車されてしまったそうです。
2025.10.24
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国鉄 直流型電気機関車:ED62(その1)国産初の新性能直流型電気機関車と言えばED60となりますが、ED60が平坦地用なのに対し、勾配抑速ブレーキを付加して勾配線用として誕生したのがED61です。中央本線で貨物用として活躍していたED61は、大型強力勾配機EF64の登場により活躍の場を失ったわけですが、これを飯田線の旧型貨物機の置換え用として転用したのがED62です。飯田線への入線に際しては、線路に掛かる軸重の関係により中間台車1軸を追加改造し、形式もED62と改められました。18両全機が改造を受け、飯田線に集中配置されました。(晩年は大糸線でも使用されたようです。)昭和56年11月22日 野田城~東上間にて豊橋口の貨物列車です。シャッタースピードは稼げているはずなのですが、何故か先頭がブレてしまっていて番号が解読できません。何となく、現在保存されている17号機のように見えます。昭和56年11月23日 伊那松島駅構内にて ED622単機伊那松島区に寄ったとき、偶然居合わせた2号機。パンタを上げていたので出区待機中でしょうか。停車中の写真でも、パンタを上げているだけで表情が活きてきますね。この写真では、足回りの様子も判りやすく撮ることができました。昭和57年8月10日 伊那松島駅にて ED629牽引 上り貨物列車伊那松島駅に侵入する上り貨物列車。駅の辰野寄りで、右側に見えるのが伊那松島機関区です。何故かこの9号機のナンバーは、他車と違って非常に窮屈な配置になっています。昭和57年8月10日 (撮影区間不明) ED625牽引下り貨物列車飯田線では、このような可愛い編成の貨物列車がやたらあったような気がします。中には緩急車(車掌車)1両のみなんていうのもありましたね。昭和58年1月10日 東上~野田城間にて ED6215鉄塔が鬱陶しいですね。貨物列車はダイヤが分らないので、大体は移動中に来ちゃったりするんですよね。アングルを選ぶ間もなく撮っていることが多いです。マミヤM645でモノクロ撮影ですが、晴天だとすごくコントラストが出て良く撮れるんですよね。昭和58年1月11日 駒ヶ根駅にて1日の撮影が終わり、この日は駒ヶ根駅近くに宿泊したかな?夕陽が落ちそうになるくらいの時間、駅付近をまったりと散歩してたら、クモニ13の荷電とED62の交換シーンを見ることが出来ました。この頃なら撮らないで見過ごしてしまうシーンですが、望遠レンズで覗いてみたら、トップナンバーだったんですね。初めてのご対面でした。これはせっかくのシーンだと思い、この絵を押さえると共に、走行写真も撮りたくなって、駅から離れて場所を確保することにしました。直ぐに踏切がなってしまって、あまり遠くまで移動することが出来なかったのですが、ゆっくりと加速する絵を押さえることができました。昭和58年2月10日 駒ヶ根~伊那福岡間にて駅間は歩いた区間を表示しています。どこの駅間だか良く分らないんですよね。1度に5駅くらい歩くのは普通なんで。バックのアルプス連峰には雪が積もっています。滅茶苦茶寒い日だったことは覚えています。(その2)に続きます。
2025.10.23
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富士急行線2000形:2001編成「フジサン特急」※本記事は、2016-01-12に投稿したもので、当時の表現になっています。富士急行線では、平成26年2月に引退した2000形2002編成に続き、平成28年2月をもって残る2001編成が引退することとなりました。同形式は元国鉄165系「パノラマエクスプレスアルプス」であり、導入経緯等は過去ログ『富士急行線2000形:パノラマエクスプレスアルプス復刻塗装(乗車編)』で触れていますので、ここでは割愛いたしますが、元JR東海371系からの改造導入される「フジサンビュー特急」の入線により引退となります。過去ログでも触れていますが、せっかく優れたデザインの車両に描かれたフジサンの絵がどうしようもなく嫌いなので、わざわざ写真を撮りに行く気にはなれなかったのですが、たまたま機会があって少しだけ記録していました。平成18年10月22日 河口湖駅にてバスコレ等の限定品を購入するために現地へ訪れた際に撮った写真。というか、やっと撮れたのがこの1枚。本来なら購入後に撮影に徹する予定でしたが、余りの手際の悪さに暴動寸前までヒートアップしたバスコレ販売史上に名を残すことになった現場です。9時頃に到着して写真を撮り始めたのが13:30ですから、如何に酷かったかご理解いただけると思います。そんなつらい思い出の1枚です。平成21年3月28日 大月駅にてこれも富士急の撮影に行った訳ではなく、中央線撮影会の集合を大月駅としたため、待ち合わせの合間にたまたま撮影できたものです。その後、2002編成の引退時に撮影した際は2001編成が検査中であったため撮影することができず、撮影できたのはこの2枚だけでした。戦後鉄道史で活躍した急行型電車も北陸地域にほんの一部が残るのみであり、直流急行型の残党もここに消滅することになりそうです。『富士急行線2000形:パノラマエクスプレスアルプス復刻塗装(乗車編)』『富士急行線2000形:パノラマエクスプレスアルプス復刻塗装(駅撮り編)』
2025.10.22
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旧型国電 40系:クモハ40074(保存車)近場にありながら今回初めて鉄道博物館を訪問する機会があったため、保存車のうちの1両であるクモハ40についてご紹介したいと思います。旧型国電の40系と言われる系列に属する電車は、昭和7年から11年に掛けて製造された電動車で初めて20m化を果たした車両です。40系の電動車には、両運転台のクモハ40、片運転台のクモハ41があり、制御車にはクハ55のほかクハニ67を擁します。さらに中間車のサハ57及び2・3等合造車のサロハ56といった面々で構成されていました。製造後期には出力を増強したクモハ60に形式を変えた40系も誕生しています。製造は戦前となりますが、戦中・戦後にさらに複雑な内容となりますが、ここではご紹介しきれないので詳しくはWikipediaをご覧ください。開館当初から収蔵されたクモハ40074。40系には大きく分けると前期型と後期型があり、前期型の平妻に対し後期型はいわゆる半流型になっています。40074は、昭和10年に誕生し、主に東京地区で活躍。第二次世界大戦の戦火を潜り抜け、戦後も第一線で復興・高度成長期を支えました。新性能化の波に押され、晩年は国府津電車区の職員輸送や入換などで使用されましたが、民営化直前の昭和62年3月30日に廃車となります。しかし、既に殆どの旧型国電が引退して貴重な存在となった同車は、民営化後の昭和63年3月に車籍を復活、なんと平成12年まで生き延びました。その後はさすがに本線を走ることはなくなりましたが、平妻型のクモハ40054(こちらは青梅鉄道公園で保存)と共に保存され続け、鉄道博物館の開設時に収館対象となって現在に至ります。40074は車内に入ることができます。最後に旧国王国となっていた大糸線・飯田線・身延線で多く触れてきた旧型国電の車内。こんな乗り心地の悪い電車に好んで乗って楽しんでいたことを思い出します。強いて言えば、やはり音と匂いが欲しいですね。視覚は満足しても、やはり旧型国電としては釣り掛けモーター音、きしむ車体音、そして床と床下から湧き上がる油の匂い。これらが立体的に「経験」として記憶されているんですね。この辺りを若い人たちに伝えられないのがもどかしいんですよね。開館前年の大宮総合車両センターの公開で展示された40074。もう屋外で展示されることは無いんでしょうね。入換など事業車として重宝されたクモハ40ですが、現役時代に記録できたのは大糸線と出力増強改造された飯田線のクモハ60だけで、日常を走っていた同車を捉えることができなかったのは残念です。
2025.10.21
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JR貨物 DE101546DE10シリーズで、今回はDE101546号機をご紹介したいと思います。平成20年5月24日 大宮車両所にて1546号機は、川崎重工業製で、昭和46年10月22日に稲沢第一機関区の配置。それ以来稲沢~愛知を離れることなく、国鉄→JRと活躍を続けました。写真は、おおみや公開にて検査に来ていた同機が展示されたもので、まだ整備前の様子ですが、車体は比較的キレイなようです。同機は、平成28年2~3月ころに廃車になってしまったようです。
2025.10.20
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都営新宿線 10-300R形:10-320編成平成28年10月3日、東京都交通局都営新宿線の10-320編成が廃車のため若葉台へ回送されたそうです。10-300形は、老朽化が進んだ10-000形の置き換えを目的として平成17年から製造された車両で、新製車300形と、先頭車のみ既存の000形に組み込んだ300R形があります。製造からまだ10年強ですので、当然にして世代交代となる車両ではありませんが、300R型については、旧車の000形共々廃車と言う憂き目に遭うことになってしまいました。製造からまだ10年程度しか経っておらず、非常に勿体無いと思うのは私だけでは無い筈です。平成22年6月3日 都営新宿線 船堀駅にて 10-320F新宿線の車両を撮る機会と言うのは殆どなかったのですが、外回りの仕事をしていた頃、地上区間への訪問機会があり、待ち合わせや帰り道に撮影できることが若干ありました。この写真も短時間のうちに撮ることができた数少ない写真で、R編成としては唯一の捕捉となってしまいました。先頭車のうちのどちらかがM車であれば、地方鉄道への譲渡なども考えられたのでしょうが、25年も製造年次差がある車両と運命を共にするなど想像できることも無く、心から勿体無いと感じてしまいました。
2025.10.19
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クモハ211:長野色の湘南顔今回はちょっと変わったタイトルです。平成26年(2014年)5月24日に開催された「鉄道のまち大宮鉄道ふれあいフェア2014」での1コマから、なかなかお目に掛かることができない整備途中の車両をご紹介いたします。クモハ211-1009211系が上野口から撤退し、転用改造待ちの車両が東日本各地で疎開していました。これらは次の転用地に合った改造を受けるため、徐々に大宮工場に運ばれており、この写真もその工程のほんの一部分ということだと思います。外観に変化を見せるとすれば、本来は別体であったスカートとスノープラウが一体型となったため、正面の印象がやや異なるくらいでしたが、それほど注目すべき点ではありません。しかし、写真のように、側面の車体色が新長野色になっていながら、正面の帯が湘南色のままであるために、見た目の違和感がハンパではありません。出場するときは勿論きちんと整備された状態になりますので、ほんの一時しか見ることのできない、貴重なタイミングであったと思います。この整備棟は展示対象物としておりませんので、毎回とも自然な行程のままを見学させているわけですが、もしかしたら、意図的にこのようなものを組んだかもしれません。だとすれば神対応だったと言って良い内容でしたね。
2025.10.18
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583系仙台車:団体列車 リバイバル「はつかり」JR東日本に最後まで残った583系。晩年は秋田車となりましたが、仙台に居た時代に団体列車による「はつかり」としての企画列車が何度か設定されました。今回は「はつかり」として仕立てられた3本をまとめてご紹介いたします。平成21年3月20日 583系仙台車「〈はつかり〉〈おおとり〉で行く北海道への旅」という企画で設定された団体列車です。前後ともイラストマークでした。平成22年10月16日 583系仙台車前回から1年半後、またも「青森行き 特急『はつかり』の旅」という企画で団体列車が設定されました。この回は、前頭が文字マーク、後部がイラストマークとなり、変化が見られました。個人的にはやはり文字マークの方が好きですね。バックに写る石川正利商店も既になくなっている。平成23年12月3日 9011M 583系仙台車またさらに1年後、団体列車「583系特急はつかり青森行きの旅」が企画されました。この日はあいにくの雨。さらに結構ダイヤが乱れたようでした。この回は、前後ともイラストマークでの運転となりました。元々青森運転所に居た車両でしたが、仙台で極力原型に近い状態に整備した際、ヘッドマークなどは交換されてしまったようで、残念ながらオリジナルの「はつかり」マークは常備されなかったようです。やはりステッカーですと、どうしても違和感が出てしまいますね。まあ、そんな文句を言っても車両があってこそですが・・・。583系:特急「はつかり」その1583系:特急「はつかり」その2485系:特急「はつかり」583系:特急「ふるさと」
2025.10.17
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E257系:特急「かいじ」平成31年3月ダイヤ改正により、中央本線(中央東線)の特急列車がE353系に統一されることになり、E257系による定期特急列車が消滅しました。今回は、E257系で永らく運転されてきた特急「かいじ」についてまとめておきたいと思います。平成20年4月5日 東中野~中野間にて平成20年9月6日 西国分寺駅にて平成20年10月11日 鳥沢~猿橋間にて「かいじ183号」平成20年10月11日 初狩駅構内にて 「かいじ103号」平成20年10月11日 大月~初狩間にて 「かいじ107号」 平成20年10月11日 初狩~大月間にて 「かいじ188号」平成29年11月29日 日野駅にて 「かいじ110号」平成29年11月29日 日野~豊田間にて 「かいじ109号」そこそこの枚数は撮っていましたが、一連の遠征での写真が殆どで、これを除くとあまり遭遇率は高くなかったようです。ヘッドマークは先頭車の形状により大小ありますが、いずれも正面がちに撮らないと写りづらく、「かいじ」を主張する写真は殆どありませんでした。平成31年1月4日 東京駅にてこちらの写真、厳密には「中央ライナー」の送り込み回送のものとなりますが、東京駅到着時に「かいじ」のままやって来たため、貫通型の「かいじ」のヘッドマークをキレイに取り込むことが出来ました。この改正で定期列車からE257系は撤退となっていますが、しばらくは臨時列車としてこの姿が見られました。183系・189系:特急「あずさ」189系 M11編成(松本車):特急「あずさ」189系:臨時特急「あずさ銀嶺」183・189系 H81編成:団体列車「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」
2025.10.16
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国鉄旧型電機 EF15(東京機関区)EF15シリーズで、今回は東京機関区所属の後期型を中心に色々と。殆どが地元での写真ですが、どの所属のEF15よりも東京機関区所属車が多く残っていました。それだけ山手貨物線系の運用が多く設定されていたものと思われます。昭和57年6月 品川駅にて EF15153品川駅で偶然撮った153号機ですが、このカマは全ての窓がHゴム化されておらず、非常に美しいスタイルのまま残っていました。東京区生え抜きのカマだと思っていたのですが、意外と流転の人生を送っており、最後までこの姿を保っていたのは奇跡と言えるでしょう。153号機昭和32年 8月14日 川崎製 新製配置 新鶴見機関区昭和37年10月 1日 沼津機関区昭和39年 1月11日 広島機関区昭和54年 1月17日 東京機関区(借入れにより53.11.9より在籍)昭和58年11月11日 廃車昭和54年頃 蕨~南浦和間にて EF15157正面窓はもちろんですが、側窓も一切Hゴム化されておりません。もうちょっとサイドの判る写真だと良かったんですが、この角度だと返って側面に凸凹がないのが良く判別できます。157号機昭和32年10月29日 日立製 新製配置 新鶴見機関区昭和34年 1月 7日 長岡第二機関区昭和37年 9月30日 沼津機関区昭和39年 5月13日 広島機関区昭和54年 5月22日 東京機関区昭和58年 8月 5日 廃車昭和55年頃 蕨~西川口間にて EF15180いずれも昭和55年頃に撮った15180号機2点です。180号機は偶然にも2枚撮っていました。180号機(他区貸し出しは多いので省略)昭和33年 9月30日 東芝製 吹田第二機関区昭和40年 9月 3日 広島機関区昭和53年10月 1日 東京機関区昭和58年 1月24日 廃車昭和57年7月頃 蕨駅にて EF15194蕨駅でまだ貨物の取り扱いが行われていた頃。東京機関区にいたのはわずか2年ちょっとだったんですね。194号機昭和33年11月10日 川崎製 新製配置 稲沢第二機関区昭和38年 9月24日 米原機関区昭和39年 8月27日 浜松機関区昭和40年 9月26日 新鶴見機関区昭和55年10月22日 東京機関区昭和58年 2月26日 甲府機関区昭和59年 6月 6日 廃車昭和55年7月頃 蕨~西川口間にて EF15195昭和56年5月頃 蕨~西川口間にて EF15195下記データをご覧いただくとお判りのように、非常に細々転々としております。この写真を撮った後、廃車を免れて身延線用として甲府に転属し、直ぐに八王子に来ています。おそらく、ED16の置換用だとは思いますが、また直ぐに貨物合理化による機関車の大量余剰の憂き目に遭い、あまり活躍する期間も無く廃車になってしまったことが伺えます。195号機昭和33年11月21日 川崎製 新製配置 稲沢第二機関区昭和38年 9月 1日 米原機関区昭和39年 9月 5日 浜松機関区昭和42年 5月20日 新鶴見機関区昭和48年 4月 1日 東京機関区昭和58年 3月15日 甲府機関区昭和58年--月--日 八王子機関区昭和59年 8月24日 廃車昭和5〇年? 蕨~西川口間にて EF15201撮影年が判りませんでした。自分で現像しているネガなので、高校生であった昭和54年後半から昭和57年くらいの間のものと思われます。EF15形機関車自体が202号機を最後に生産を終了しており、この201号機も最終型となります。201号機昭和33年 9月24日 日車・富士製 稲沢第二機関区昭和38年 9月 1日 米原機関区昭和39年 3月23日 広島機関区昭和54年 4月11日 東京機関区昭和59年 6月19日 廃車以下はナンバー不明のEF15ですが、添乗ステップが白く塗られていることから、東京機関区の所属と判明しているものです。昭和54年頃? 蕨~西川口間にて撮影時期が全く分からないコマ。多分、昭和54年頃とは思います。ブレてしまってサイドのナンバーも不鮮明ですが、形態やHゴムの白さから201号機のような気がします。昭和52年頃 蕨~西川口間にてこちらは、サイドがせっかくキレイに写っているのに、ピンボケで番号が不明になってしまったタイプ。プレート型の2ケタ番号車です。昭和52年頃 蕨~西川口間にて2ケタ番号車のようですが、朝日の逆光でサイドが潰れ、デッキが正面のナンバーに掛かって見えません。50番台っぽいです。EF15178(東京機関区)牽引:ワム80000 貨物列車
2025.10.15
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DD51牽引 貨物列車:八高線(その1)かつては八高線に多数のセメント列車が設定されており、重連仕業も多かったことから、高崎第一機関区には多数のDD51が配置されていました。比較的に近場なので、国鉄時代に数度撮影に行ったことがありました。昭和61年2月4日 重連単機昭和61年2月4日 重連セメント列車昭和61年2月4日 DD51811牽引 セメント列車昭和61年10月9日 DD51810牽引 セメント列車昭和61年10月9日 DD51811ほか重連牽引 セメント列車昭和61年10月9日 DD51815ほか重連牽引 セメント列車列車の重量換算によって重連牽引か単機牽引を分けていたようで、必ずしも重連ではありませんでした。昭和60年に列車掛の乗務が廃止になったと記憶していますが、この昭和61年時点においてはまだ車掌車(ヨ8000)が連結されているのを確認することができます。ここで撮影されたSGなしの800番台のDD51ですが、808~814号機が昭和45年6~7月に掛けて新製配置となっております。同年の2~3月に掛けてSG月の500番台である686~690号機も新製配置されていることから、この時期に一斉に無煙化が図られたものと思われます。このうち500番台のカマと814号機については、民営化を待たずに昭和62年2月に廃車となってしまい、わずか17年弱で命を落としています。また、ここで撮影された800番台は、814号機を除き民営化後もJR東日本に継承されましたが、平成10年から平成13年に掛けて役目を終えています。
2025.10.14
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クハ180:特急「とき」181系クハ180は、横軽通過用に連結器の開放装置を装備した車両で、クハ489-0番台車と同様に開放テコを常設していました。これは、補機となるEF63の双頭連結器にある自動連結器のナックルが固定式(一体)であるため、機関車側での開放作業が出来ないことによるものです。開放作業を特急列車側に求めたために出来上がったスタイルと言えるでしょう。運用は「あさま」用と言って良いと思いますが、同じ長野車の運用である「あずさ」にも使用されていました。しかし、協調運転が出来ないことから編成が8両までとされたため、輸送上のネックになっていました。その後、189系の誕生によって12連化が可能となり、これに合わせて昭和51年、早々に専業である「あさま」から撤退することになります。そして、任を解かれたクハ180は、181系唯一となる「とき」に使用されるようになりました。昭和52年頃 上野駅にて文字マーク時代の「とき」。やはりこの組み合わせが良いですね。昭和54年頃 蕨~西川口間にて53・10改正から約1年後、ボンネット型にもイラストマークが導入されました。古い181系には色合いと言い、似合いませんね。昭和54年頃 上野駅にて昭和56年頃 蕨駅にて昭和56年8月 南浦和~蕨間にて昭和56年8月 蕨~南浦和間にて撮影時期不明 蕨~西川口間にて写真を本格的に撮り始めた頃は、どうもこの車両があまり好きではなかったらしく、クハ180の写真が殆ど無い状態でした。したがって、文字マークのクハ180は上野駅で撮った1枚だけのようです。ロングスカート車への注目が強かった頃でしょう。その後、全国に先駆けてボンネット車へイラストマークが入るようになり、181系のイメージを損ねることとなってしまいました。この頃から特急列車の写真への写欲が薄らいでしまいましたが、それでも貴重となったクハ180は良く撮っていたようです。クハ180は全て100番台に該当する形式で単一ですが、何故か-5のタイフォンだけは開閉式のカバーが付いていました。
2025.10.13
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JR東日本 DE101705&DE101752令和7年10月9~10日にかけて、ぐんま車両センター(高崎車両センター)に所属していたDE101705とDE101752が、共にEF81140に牽かれて秋田へ向けて廃車回送されたそうです。今回は、DE10シリーズとしてDE101705号機とDE101752号機を2両まとめてご紹介したいと思います。平成20年8月22日 高崎駅にて DE101705「SLみなかみ」号に乗りに行った際、帰路にて撮影したもの。高崎駅に到着後、D51は直ぐに切り離され、DE10が牽引してセンターへと回送されます。茶色に塗り替えてからかなりの期間を在籍していましたが、同機に出会ったのはこのときのみでした。1705号機昭和49年 7月31日 川崎重工製 篠ノ井機関区新製配置昭和50年 1月 1日 東新潟機関区昭和50年 2月27日 北見機関区昭和60年 9月15日 東新潟機関区昭和61年10月 9日 高崎第一機関区~高崎運転所 塗装変更昭和62年 4月 1日 JR東日本へ継承 昭和62年10月以降、組織変更等により宇都宮運転所~高崎車両センター~ぐんま車両センター※北海道時代の旋回窓は、高崎第一機関区転入時に改造されたそうです。平成22年11月20日 尾久車両センターにて DE101752こちらは尾久公開で捉えた1752号機。このカマも上京が少なかったのか、捉えたのはこの時だけだったようです。1752号機昭和52年 9月20日 日本車輛製 盛岡機関区新製配置昭和53年10月29日 熊本機関区昭和58年~59年 宇都宮運転所昭和61年 3月12日 田端機関区昭和62年 4月 1日 JR東日本へ継承以降、組織変更等により宇都宮運転所~高崎車両センター~ぐんま車両センター※九州仕様の赤ナンバーは、平成16年1月に白ナンバーに変更されたそうです。
2025.10.12
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ED75牽引貨物列車:東北本線(国鉄~JR)平成30年1月2日、東北本線黒磯駅における交直流切替が地上方式から車上方式に切り替わりました。母親の田舎が南東北である私からすれば、毎年2~3度は通う東北本線で、黒磯駅と言えば関所のような存在でした。これは、普通列車の乗り換えばかりではなく、必ず停車する急行列車でも、通過となる特急列車にしても駅又は駅構内で受ける儀式であり、このことは幼少の頃から身体に叩き込まれてきたものでした。そんな黒磯駅でしたが、全国で一般的な駅間による車上切替方式へと移行され、車内灯が消え静寂を味わい、パンタの上げ下ろしと同時に電気が点灯してコンプレッサがフル回転して唸るような体験を味わうことができなくなってしまいました。今回は、ED75が牽引する貨物列車に及び黒磯駅に係るものとし、走行区間については東北本線全線としました。昭和58年10月5日 黒磯駅にて ED7583他重連牽引 上り貨物まずは国鉄時代。黒磯駅5番線脇の上り側線に停車中のED75重連牽引の貨物列車。当時だと、EF15かEF60、或いはEF65へのバトンタッチとなるシーンです。本来なら出発待機は直流機が連結されていますが、到着してすぐに撮影したものかもしれません。83号機は、民営化直前の昭和62年2月6日付で廃車となっています。昭和58年10月5日 黒磯駅にて ED7578これも同日に黒磯駅で撮影した78号機。おそらく、上の写真の側線のさらに隣の留置線で留置中の78号機と思われます。本来、交流機の留置場所は仙台寄りにあり、ここに交流機を留置しているところはあまり見たことが無いような気がします。所属札が「長」になっており、当時の長町機関区所属を表しているのも懐かしい。78号機も、民営化直前の昭和62年2月6日付で廃車となっています。昭和59年10月14日 矢吹~泉崎間にて ED7516他重連牽引 高速貨物列車59・2の貨物大合理化後に撮影したものですが、先頭は若番の16号機であり、運良く即廃車を免れたカマでしょうか?後に連なるはコキ50000を中心とした高速貨物列車で、車掌車連結廃止前ということもあり、コキフ50000が連結されています。16号機も、民営化直前の昭和62年2月7日付で廃車となっています。昭和59年10月14日 矢吹~泉崎間にて ED75704牽引 ワム貨物列車こちらも同日に撮影したもの。本来なら奥羽本線や羽越本線でしか見ることのできなかった700番台が牽引しています。59・2大合理化で初期車を大量に整理したため、車齢の若い700番台も広域で異動したようです。後まで写っていないので詳細は分かりませんが、ワム80000ばかり組成されていますので、紙輸送の列車かもしれません。704号機は、JR貨物に継承され、平成8年3月29日付で廃車となっています。昭和62年8月 撮影場所不詳(多分渋民辺り) ED75143他重連牽引 コンテナ列車こちらはJR化間もない頃に撮影した写真で、かなり北部になります。列車は短編成ながら重連牽引となっており、先頭の143号機にはJRマークが貼ってあります。殆どのカマはJR移行時にステッカーが貼られたと思っていたのですが、次位の機関車(カマ番不明)には貼られていないようです。編成の中間にはコキフ50000が連結されていますが、既に一部の長距離列車?を除いて列車掛の乗務は廃止されており、しばらくの間はコキ代用として使用されていたようです。平成2年7月1日 高久~黒磯間にて ED75143牽引 コンテナ貨物列車さらに南下して高久駅に近いところ。今の輸送と同じようなスタイルですが、この列車にはまだコキフが連結されているようです。長距離の直行コンテナ列車では、少しの間だけ車掌業務が残っていたような話を聞いたことがあります。143号機は、JR貨物に継承され、平成20年4月1日付で廃車となっています。平成2年7月1日 矢吹~泉崎間にて ED75120牽引 車扱い貨物列車再び南部地域での撮影。ワムとタンク車が連結された短編成の車扱い貨物列車のようです。JR化直後はまだ車扱いの特殊なタンク車を使用した列車が多数設定されていましたが、徐々にトラック輸送への切替が進み、今では石油類やごく一部を除いて殆どが廃止又はコンテナ輸送へと切り替えられてしまいました。120号機は、JR貨物に継承され、平成12年8月2日付で廃車となっています。平成23年7月8日 須賀川~安積永盛間にて ED751029牽引 コンテナ貨物列車こちらは今と全く同じようなスタイルのコンテナ列車です。1000番台を使用していますが既にP型の役割は終わっていますので、一般型と700番台は共通であったと思います。それでもまだEH500は製造数が少なく、ED75が主力の時代でした。1029号機は、JR貨物に継承され、平成18年3月30日付で廃車となっています。EH500が台頭するまでは殆どの列車が黒磯駅で機関車交換を行い、EH500へ完全に移行された後もEH500の走行距離を抑えるため交換作業を残していました。しかし、津軽海峡線における運用をEH800に移行したことによりその調整も解除され、EH500のスルー運転化が可能に。今回の切替方式の移行もこのことによって実現できたものと思われます。
2025.10.11
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銚子電鉄 デハ1000形:デハ1001銚子電鉄デハ1000形は、元営団地下鉄銀座線で使用されていた車両です。1994年(平成6年)に入線し、平成27年1月にデハ1002が運用を終えて除籍されましたが、残っていたもう1両のデハ1001が平成28年2月28日の運転をもって運用を終えました。同車が銚子電鉄に導入されてから1度しか訪問しておらず、当時の旧型ばかり着目し、1000形はあまり撮っていませんでした。天気も悪くて写欲が湧きませんでしたが、復路に1区間のみ乗る機会がありました。撮影は、平成20年5月3日、外川駅にて。外川駅に停車中のデハ1001。当時は桃太郎電鉄の塗装となっていました。経営状況の厳しい同鉄道が、ハドソンの援助を受けて実現した。楽しいラッピングですが、オリジナルの良さが全く無くなり、鉄道ファンとしてはあまり魅力を感じません。車内もとにかく桃太郎電鉄一色と言ったところ。このような車両に乗っても落ち着かないですが、もし支援がなかったかなり荒廃したまま運用されていた可能性もあります。この時は2連運用となっており、デハ702と手を組んでいました。同じ鉄道の電車ながら連結器が統一されておらず、中間連結器によって連結され、さらには総括制御が出来ないため、2名の運転手による協調運転となっていました。平成24年8月からは銀座線使用時と同じカラーとなって活躍していましたが、車内は桃太郎電鉄のままであったようです。日立電鉄の廃止以降、銀座線用車両の活躍する最後の路線でしたが、伊予鉄道からの譲渡車に後進を譲り、引退となりました。デハ1001は、昭和の杜博物館で保存されているそうです。
2025.10.10
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国鉄 直流型電気機関車:EF6635EF66シリーズで、35号機です。平成22年5月18日 西国分寺駅にて現場仕事のお昼の移動途中、空いた時間を利用して西国分寺駅に寄った時のものです。列車ダイヤを全く知らなかったのですが、着いてすぐに接近放送が入り「ラッキー」。と思ったのも束の間、無情にも手前番線に接近放送が・・・完全にカブられてしまいました。でも、反対から現れたEF66が見えます・・・隠れません。なんと、手前の列車は長大編成ながらも、コンテナが1個も載っていなかったのです。だから、フツーにEF66の牽引するタンカー列車が撮れてしまいました。この列車が来ることも、このスジがEF66であることも、タンカー列車であることも、カブられることも、手前の列車がカラだったことも、すべての偶然が重なった不思議な絵になりました。35号機は、2013年度に除籍になったそうです。
2025.10.09
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国鉄 153系:東海道本線 普通列車過去ログで153系を使用した急行列車をいくつもご紹介しておりますが、今回は東海道本線で急行「伊豆」の間合いで使用されていた普通列車運用の写真をいくつかご紹介したいと思います。昭和52年初頭 平塚駅にて一眼レフを買って初めて撮ったフィルムからの写真です。雪と153系の唯一の組み合わせとなってしまいました。こちらは10連の普通列車ですね。昭和56年9月 品川駅にて 下り普通列車この年から、自らの存在を脅かすことになる185系特急形電車が登場しました。153系は185系の登場と共に徐々に置換えが始まったため、普段はあまり撮ることのなかった153系も撮ることが多くなったような気がします。しかし、東海道の153系は普通列車との共通運用が多かったため、写真を撮っても急行か普通かすら判らない存在でもあったため、このような角度でサボが写っていないと判断が付きませんでした。昭和56年9月28日 保土ヶ谷~戸塚間にてまだ東戸塚駅の開業前でしたかね。急行だと思っていましたが、拡大して見たら、どうも普通列車のサボのようです。東京口の153系は、113系普通列車との編成を合わせるため、10+5の編成、4・5号車へのグリーン車連結と、完全に同一の編成となっていました。もちろん、10両編成も15両編成もありましたが、2ドアゆえに混雑時の対応では遅れの原因ともなり、185系の導入と共に徐々に普通列車の運用から外れていきました。一方、東海道線西部では、宮原電車区に配置されていた新快速用を含む153系の老朽化に伴い117系に置き換えとなり、急行「鷲羽」の廃止と合わせて153系が無配置となります。ここから状態の比較的に良かった車両を大垣電車区等に異動させることにより、中京地区で使用されていた155系・159系を淘汰の上、冷房化の促進を図りました。この異動には新快速色の153系も含まれていたため、特に名古屋~米原間を中心とする運用には、同色を混結した普通列車が日常的に運用されていたようです。昭和55年8月 大垣駅にて 普通列車に転用された153系「新快速」色ヘッドマークがつかないのは残念ですし、混色でない整った編成は無かったようです。また、このときの旅程で大阪に立ち寄ったとき、急行「比叡」の中間にクハ153低窓の「新快速」色を連結していたのを見ました。先頭だったら良かったのですが。昭和55年8月 木曽川~岐阜間にて新快速色を最後部に連結した大垣区の153系普通列車です。もしかしたら、上の写真と同じ編成かもしれません。8両編成ですが、3両は非冷房のままの車両となっていますので、残り期間を考えると、冷房化されないまま廃車になったものと思われます。昭和58年4月16日 西小坂井駅 側線にて クハ153501高窓車のトップナンバーである501号です。既に廃車前提の休車として留置されており、非冷房のモハユニットや、155系も手を携えて最期の時を待っていました。昭和57年11月改正でかなりの範囲で急行列車が整理されたため、165系や169系に大量の余剰が生じました。このうち、神領電車区や大垣電車区に165系を移動させることにより、残存していた非冷房の急行形を一掃したようです。この時点で冷房改造車であった153系も殆どが運用をなくし、生涯を終えました。それは、飯田線における80系全廃と時を同じくしており、新性能車としては比較的短い命だったことを窺わせました。153系:新快速153系:急行「比叡」153系:修学旅行列車 急行「こまどり」165系:東海道本線 普通列車113系:東海道本線 普通列車JR東日本 211系:東海道本線(東京口)E217系:東海道本線 普通列車
2025.10.08
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「北斗星」用客車:スシ24500(JR東日本)今回は、寝台特急「北斗星」の食堂車として使用されたスシ24500番台です。形式写真と言えるほどキチンと撮ったものはありません。こんな車両があったという気持ちのみの資料です。「北斗星」誕生当時、まだ東海道スジ等で食堂車を連結した寝台特急は何本も残っていましたが、分割民営化後にJR東日本に継承されたオシ24は限られており、「北斗星」の運転開始に伴って必要となる食堂車は、新たに製作することなく余剰車として保留となっていたサシ481及びサシ489からの改造車で賄うことになりました。平成22年11月20日 スシ24505 尾久セ平成24年2月5日 スシ24505平成24年6月3日 スシ2450?平成25年3月24日 スシ2450? 回9501レ珍しく試運転編成に組み込まれ、さらに最後部という変わったポジションに連結されました。平成25年11月24日 スシ24507平成25年12月8日 スシ24507平成26年3月9日 スシ24504 尾久セ平成26年11月3日 スシ24507平成26年11月15日 スシ24×2 尾久セ尾久車両センター公開時、珍しく2両連結された状態で留置されていました。平成27年1月12日 スシ24504平成27年2月7日 スシ25506平成21年11月26日 唯一撮っていた上野駅での積み込み風景。こうした光景をもっと撮っておけば良かった。平成27年8月23日 上り「北斗星」最終列車 スシ24506最後は506号でした。電車特急の食堂車として活躍した期間は20年を下回り、改造により「北斗星」として活躍した期間は27年を超えます。ブルトレとして誕生したどの食堂車たちよりも長生きすることとなり、何より一番驚いていたのは、天寿を全うした彼らたちだったと思います。
2025.10.07
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上田交通:5000系長野県上田駅と別所温泉を結び、丸窓電車が話題となった上田交通。直流750V電化で旧型の小型車両による運転となっていましたが、昭和61年10月1日に1500Vへの昇圧。これに伴い、東急電鉄で余剰となっていた5000系を譲り受け、上田交通5000系として2両×4編成が運用されるようになりました。平成元年11月1日 上田交通別所線 下之郷~中塩田間にて当時の愛車、トヨタスプリンター1500SRと一緒に記念写真。5000系はローカル私鉄の近代化に貢献しましたが、非冷房車であったことから7年弱しか活躍することができず、後進で同じく東急電鉄から譲り受けた7200系によって全車が置換えられました。
2025.10.06
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JR東日本 DE101649DE10シリーズで、今回はDE101649号機をご紹介したいと思います。昔はどこにでも居たDEには写欲が湧かず、特に国鉄時代にはあまり撮ることはありませんでした。1649号機は東北地区に根を下ろしていたカマであり、撮る機会もなかったはずでしたが、1度だけSL撮影の際に撮ったものがありました。平成13年7月8日 安積永盛~須賀川間にて 送り込み回送2001年夏臨でD51498牽引の12系客車による「SLうつくしま未来博号」が設定されました。それまでのSL列車は郡山~会津若松間であり、須賀川始発となるSL列車が珍しい。平成13年に「美しま福島未来博」が開催され、このイベントに合わせて設定されたらしいです。詳細な記録を取っていなかったので調べたところ、前年同時期にも設定されたようで、2年連続の運転となったようです。須賀川は母親の実家に行くときの拠点駅であったため、地方駅では断トツに利用回数の多かった駅でした。そんな思い入れもあったため、磐越西線内の撮影に行く前に東北線内で迎えました。郡山~須賀川間はDEによるPP送り込み回送が行われ、これを務めていたのが1649号機でした。1649号機は、川崎重工製で昭和48年12月16日落成。新庄機関区(→新庄運転区)に配置され、そのまま民営化に際してJR東日本に継承され永く活躍しました。平成12年12月2日に磐越東線営業所(郡山総合車両センター)に異動となり、客車列車が大削減される中も生き残りました。誕生から50余年、令和7年10月1日、とうとうその役目を終え、秋田送りとなってしまったようです。国鉄に入社した時は「新しいカマ」であり撮影の対象にすらしていなかったDE10も、東日本では残りわずかとなってしまいました。
2025.10.05
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平成30年 品川駅線路切換工事関連:京浜東北線※本記事は、2019-11-16に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年6月17日、品川駅の線路切換工事に伴う区間運休が実施され、上野東京ライン及び京浜東北線で行先変更が発生しました。このうち、地元を通る上野東京ラインでは、上野行き以外の東海道本線直通列車は東京行きに変更され、また、京浜東北線では上野~品川間が運休とされたため、南行電車が東十条行き又は上野行きになるという、非日常的な行先に変更されての運転となりました。E233系 東十条行 8603B京浜東北線は10:40までの行先が変更となるため、どの南行電車を撮ってもOK。最初の1枚は構図を失敗しましたが、行先表示の写りが良かったのでトリミングして完成品としてみました。E233系 上野行 8661A最初に目の前を通過した電車が上野行きで、東十条行き→上野行きと続いてきたので、どうも交互に行先を変えているようです。E231系 上野東京ライン 東京行上野東京ラインの東京行きも目的の1つで、いきなり来た233系を撮ったのですが、残念ながら上野行き。その次は残念ながらE231系でした。その次もE231系・・・E233系 東十条行 8605A東十条行きをもう1枚狙ってみましたが、残念ながら表示が切り替わらず・・・蕨駅 改札案内表示停車中の上野東京ラインを撮影するため、赤羽駅まで移動することにしました。次の電車は上野行き。E233系 上野行 8605Bこれに乗って移動開始。こんな事態に結構なお客さんが乗っています。上野行き 車内表示行先が小さく、次の停車駅が表示されますが、発車した直後だけ行先が大きく表示されます。赤羽駅 ホーム案内表示上野東京ライン狙いで赤羽駅に下車したものの、来た列車はなんと「熱海行」。上野東京ラインは7:40までが行先変更となっており、この撮影時点で既に変更終了時間に到達してしまったようです。東十条行 車内表示次に来た南行電車はお隣の東十条行き。ネタ取りのため乗ってみます。表示を撮影したのですが、終点になると行先表示が出なくなってしまうんですね。知りませんでした。昔は南行最終電車が東十条行きだったのですが、多分、赤羽駅の高架化辺りの改正で赤羽行きに変わってしまったようで、現在は存在しません。東十条では当然に中線に到着。もう40年以上も京浜東北線を利用していますが、大宮方から中線に入ったのは人生初です。赤羽駅でも工事による行先変更を放送していましたが、今の人たちってほんっとに人の話を聞いていないんですね。試合系の若者団体を含め大量の乗客が乗り込み、東十条駅で降ろされて疑問を呟いたり文句言ったり。呆れます。そんなこんなで、東十条駅南行ホームは朝のラッシュ帯でも見たことの無いような大混雑となりました。西日暮里駅 ホーム案内表示この後の想像がついたので西日暮里駅で下車し、ここで最後の撮影。ここでは乗換客も少なく、休日の朝らしいひっそり状態でした。東十条行きがなくなってしまうため、上野行きが10分に1本となります。E233系 上野行 8711A進入は「京浜東北線」にやられました。しかも1/320秒で文字切れ。E233系 上野行 8703A今度は成功したと思ったものの、拡大したらブレてました・・・朝早くから起きていたので、この辺で撮影を終わって地元に戻ります。E233系 上野行 8807AE233系 東十条行 8861A帰路の車内でチェックしていましたら、東十条行きの写真が少なかったようなので、蕨駅にて延長して撮影しておきました。E233系 東十条行 8813A郵便局のATMに寄って、さらにダメ押しで。この後もまた実施されるんですかね?まあ、良い記録になりました。上野行きの処理について、私の予想では田町まで山手線の線路を走らせ、折り返して戻ってくると踏んでいたのですが、それだったらもうちょっと先まで客扱いができる筈。しかし、実際に上野行きに乗ってみたところ、そのまま外側線を走行しました。情報によると、上野駅の鶯谷寄り引上線を使用して折り返しを実施したらしいです。中線への引上げ、出線はいずれも山手線を横切ることになるので、滅多に使用されることはありません。とても珍しい作業になった訳で、これを確認に行かなかったことをちょっと後悔しました。
2025.10.04
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E231系:みどりの山手線(伊右衛門)前回の50thヘッドマーク付の後、広告ラッピングが施されました。その第1弾が「伊右衛門」です。運転期間は、平成25年2月18日から3月17日の4週間で、ADトレインと合わせて設定されています。平成25年3月10日 日暮里駅付近にてダイヤ改正前、日暮里駅で写真を撮っているときに偶然通り掛かったもの。狙っていたわけではないのでしょーもないアングルなのはご愛嬌です。お茶なので緑色を利用してイメージそのまま行けるという発想でしょうが、当時のコメントとしても「個人的には、何だかそういう発想そのものが下品に見えてしまうんですけど。」といった内容が残されています。「せっかくの50周年はどこへ?」とも。
2025.10.03
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国鉄旧型電機 EF1545(八王子機関区)EF15シリーズ、今回は八王子機関区所属の45号機です。昭和54年頃? 撮影場所不明当時は駅撮りのスナップの記録を取っていないので、全くもって不明な写真です。別編集した際、東京機関区の所属で上野駅で撮影したものとばかり思っていたのですが、同機は東京機関区に所属した経緯は認められず、上野駅に居る可能性はないと判断しました。では何処で撮影したのか?私が良く駅撮りをした記憶だとすると品川駅か東京駅となりますが、ここでも同機が貨物列車をホームまで引いてくる可能性はありません。だとすれば、新宿駅か八王子駅くらいしか該当駅は無いのですが、新宿や八王子と言うのは撮影で訪れたのがほんの数回で、まったく記憶に甦ってきません。何でこんなドアップで撮っているのかと言えば、この頃はFD300mmを手持ちで振り回していて、何でもかんでも望遠で撮っていたんです。かなり無理がありますし、ブレちゃってます。周りの状況が判ら無い分、分析するのが難しい記録となってしまいました。45号機昭和26年12月26日 川崎車両製 沼津機関区昭和55年 3月35日 廃車 八王子機関区
2025.10.02
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485系:特急「いなほ」(非貫通型)「いなほ」は、上野~秋田を上越・羽越本線経由で結んでいた特急列車です。誕生当初は羽越本線に非電化区間が残っていたため、「つばさ」のキハ181系化により押し出しとなったキハ81系が使用されていました。昭和47年に羽越本線が全線電化となり、これに合わせて青森運転所の485系が使用されるようになります。また、上野~青森間を結ぶ1往復が増発され、2往復体制となりました。今回は、485系300番台、1000番台、1500番台非貫通型の写真を並べます。昭和51年 大宮駅にてオートハーフでの写真なのでブレてしまっています。まだ駅撮り写真も駆け出しの頃、良い写真があまり残っていません。昭和52年頃 上野駅にて一眼レフを手に入れた頃で、やや構図に安定感が出てきました。17番線と18番線の間には大きな荷役ホームがありました。私的には、一番昭和の上野駅らしいシーンだとおもいます。昭和54年頃 蕨~南浦和間にて53・10改正からイラストマーク化されました。このころから自分で現像するようになったため、モノクロ写真が多くなります。昭和55年頃 川口駅にて趣味誌に掲載する写真の撮影を依頼され、苦し紛れで沢山撮りました。しかし、結果はみんなボツ。確かにこんな映りじゃ・・・。昭和56年頃 蕨~西川口間にて編成がキレイに整っていることから、秋田区の1000番台ではないかと思われます。当時は1日2往復の「いなほ」が設定され、秋田行きは秋田車、青森行きは青森所の編成が運用され、秋田区は食堂車を除き全て1000番台に統一されていました。昭和56年5月 蕨~南浦和間にてまたまたこちらは南浦和間ですが、カラーで撮っています。併走する京浜東北線のスカイブルーも今となっては懐かしいですね。昭和56年5月 西川口~蕨間にて昭和57年1月 西川口~蕨間にてまた全く同じような構図ですが、撮影した日がかなり違うようです。上の写真はイマイチ判別が利きませんが、下の写真は後部の方にAU12(キノコ型クーラー)を積んだユニットが連結されていますので、青森所の300番台のようです。昭和57年6月 赤羽駅にて高架化前の赤羽駅大宮方の跨線橋から撮った写真。当時は京浜東北線だけが土盛り高架で、ホームの切れた直ぐのところに大踏切がありました。このホームは傾斜が付いて踏み切りにすり合わせしてあり、3・4番線ホームの名物であったミルクスタンドに運ぶ牛乳をリヤカーいっぱいに積載して上り下りしていたものです。昭和57年11月6日 上越線 湯檜曽~水上間にて1週間後に上越新幹線の開業、さらには「いなほ」の上越区間の廃止を目前にした日に撮影に行きました。あまり良く憶えていないのですが、非常に天気が悪かったようで、大変写りの悪い写真になってしまいました。昭和61年9月9日 奥羽本線 鷹ノ巣に近いところ(多分)新幹線アクセス特急転身後の姿です。前後にクハ481-1500番台を連結した編成。この頃の運用は良く分かりませんが、新潟・秋田・青森の車両が入り乱れて運用されていたのではないかと思います。JRになってからは、「つばさ」にも1500番台が運用されていましたので、どの時点で何処に1500番台が居たのか良く分かりません。485系:特急「いなほ」(貫通型)485系:特急「鳥海」
2025.10.01
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