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明治時代の平均寿命は、およそ「男性44歳、女性45歳」。昭和22年の資料でも「男性50歳、女性54歳」。「70」が生身魂(いきみたま)と崇めるに足りる年齢だった時代は思いのほか長かった。後期高齢者なんて発想はみじんもない時代のことである。 「子規365日」より。6月、コロナワクチン注射。■YouTube:ワクチンを打つ順番の議論が少なかった。■9月、白内障の手術。10月、インフルエンザの予防注射。12月、人間ドック。70代の私は、あそこが悪い、ここが悪いと言いながらも、暮らしている。そして今年が無事終ろうとしている。来年は、マスクがはずせますように・・・。孫が大学受験に合格し、入学したら、コロナのことを考えず、学生生活が謳歌できますように・・・。来年もどうぞよろしくお願いいたします。m(_ _"m)●2020年12月~2月 コロナで句会休み。●3月~4月 南九州旅行 3月24日出発し、4月9日に帰ってきた。●11月 富士を見に行った。 11月2日~11月16日。■2021年12月■*女手の喪中葉書や年暮るる*コロナとは難儀な病ぞ年暮るる*純白のマスク陽に干す師走かな*鳥鳴くや令和三年暮れにけり*闇(くらがり)に牛いるような冬の夜■2021年12月見た映画■*めぐみへの誓い*きのう何食べた?*モスラ*ディア・エヴァン・ハンセン*ミラベルと魔法だらけの家*世界で一番美しい少年■2021年:ベスト映画10本+1■■YouTube:大阪ダックツアー お舟編■上沼恵美子もびっくり!■YouTube:爆笑大阪 ダックツアー 出発編 吉本芸人顔負け■上沼恵美子もびっくり! コロナ禍にあかべこってピッタリのグッズだ!!■うし年ですから■■ねずみ年ですから■■亥年ですから■■とり年ですから■■書き残したネタ■*M1ネタ*キミ(トウキビ)*国語の教科書検定問題*謎は解けた!「ベジトラグ」というプランター*親ガチャ*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*SDGs(エスディージーズ)のバッジ*食器の柄*丁寧語*高師浜*背という言葉*大阪弁*読書ネタ*丁寧すぎる言葉*プラスティックごみ。*白樺のかご*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.31
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■銀二貫■舞台は商人の町・大坂天満。仇討ちで父を目の前で亡くし、あわや自分も討たれるかというところを、偶然居合わせた寒天問屋・井川屋の主人・和助によって銀二貫と引き換えに救われた松吉。生きるために武士の身分を捨てて井川屋の丁稚となった松吉だが、商人の道を歩むことに心が揺れていた。大火で焼けた天満宮再建のためにかき集めた銀二貫で松吉を救った和助や、信心深いが故に松吉に辛くあたる番頭の善次郎から、商人としての厳しい修行と躾を受ける。そして、井川屋の暖簾をめぐる数々の事件を乗り越え、松吉は商人として成長していく。得意先の料理屋の娘・真帆との淡い恋あり、涙あり笑いありのなにわ商人の人情劇。 商人の街大坂・天満を舞台に■「みをつくし料理帖シリーズ」■の高田郁が描く人情時代劇。 本も読んだことがあるし、テレビドラマでも見た。今回再読したのは、先日、伊豆に行った時に、黄金崎で■ところてんを買った。■その時、「銀二貫」の中に、寒天の元、天草を求めて伊豆に行ったという話が載っていたのを思い出して、確認したかったからだ。 以下、寒天に関する箇所。◎は私の注釈。●「伊豆の天草で作った寒天、いうのがあるそうだすな。何でも、伊豆の海で採れる天草は味も濃うて、腰の強いええ寒天がでける、とか。」●彼は伊豆をつぶさに回り、中でも南伊豆の天草が際立って上質なのを知ると、それを買い入れる手はずを整えた。下田から紀伊半島を巡って大坂に入る廻船の手配、港から大川に乗り入れる上荷船など煩雑な手続きを終えて戻ったのだった。輸送の重量を減らすべく、現地で天草の選別をし乾燥させるのだ、という半兵衛の話に、和助も善次郎も舌を巻いた。◎丹後の天草を使って、寒天発祥の地、京都・伏見で作っていたが、丹後の天草が手に入らなくなくなったために、伊豆に行く。●淀屋、住友、鴻池、それに三井。この大坂で財をなした大店には、すべて武家の地が流れている。◎★淀屋■徳川の天下統一後、■家康は常安を召し出し、冬の陣、夏の陣への功によって苗字帯刀と岡本三郎右衛門と名乗ることを許した。そのうえ山城八幡の山林300石を与え、八幡の侍格に取り立てた。★鴻池遠祖は尼子氏家臣の山中鹿之助と言われる。鹿之助の死後、子息の新六直文が武士を捨て摂津国鴻池村(現伊丹市鴻池)において酒造を始め、鴻池流という清酒を開発した。●「あれが天満の青物市場や。見てみ、大根を仰山積んだ船が行くやろ?天満の大根、天王寺の蕪(かぶら)、難波の干瓢(かんぴょう)、吹田の慈姑(くわい)・・・大坂中の美味い食材が集まる場所なんやで。」◎■東横堀川に農人橋(のうにんばし)■という橋があるくらいだから、大坂の町も野菜が沢山作られていたのだろう。●(略)天満橋を渡りきったところには東町奉行所が控える。そこから東側に広がるのは大阪城。自然、天満橋には武士の往来も多い。淀屋の闕所(けっしょ)以後、侍と関わるとろくなことはない、例えば井川屋の番頭の善次郎なども、そうした理由で天満橋を避けるひとりだった。◎井川屋は、京都からの船便を使った時は、天満橋を使った方が便利なのだが、わざわざ遠回りして、天神橋を使う。●黒羽二重の一張羅を着こんだ和助と、同じく一張羅の黒縮緬を羽織った善次郎とが、いそいそと高麗橋を通りゆく。和助の黒羽二重は松葉屋の大旦那の形見分けの品、善次郎の黒縮緬に至っては、山城屋の旦那に借りた古着である。何度も何度も涙で文字が見えなくなるほど感動した。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.30
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■2021年は、映画を56本見た。■見たい映画は、もっとあったけどコロナで映画館が閉まっていたり、旅行で家にいなかったりの一年。来年は、旅行はともかく、コロナで閉館ということがないように・・・。(-人-)そんな中でおススメの10本を選ぼうとしたが、11本になってしまった。選んだ基準は、「私が好きかどうか」なので、皆さんの参考にならないかもしれないけれど、メモとして残しておこう◆◆◆◆◆◆◆◆■★モンテッソーリ子どもの家■教室は縦横無尽のワンダーランド子どもは頼まれてもいないのになぜ、繰り返し同じことをするのか?例えば積み木。積んでは、壊してまた積み上げる・・・。これは「自分を鍛えている」のだそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆■★痛くない死に方■人間を好きになれ。脱水が自然の麻薬の役割し、安らかに死ねるという。◆◆◆◆◆◆◆◆■★ファーザー■曖昧な記憶の中、現実と幻想の境界をさまよう。認知症の人の視点からどういう風に世界が見えているのかが追体験できる作品。◆◆◆◆◆◆◆◆■★グリード■ようこそ、あなたの知らない巨大ビジネスのヤバい世界へ。「グリード」とは強欲や貪欲の意味。セレブリティの見栄っ張りな金満生活を笑いながらも、経済第一主義の社会の弊害や洋服をつくる労働者の過酷な環境に、鋭い視線を投げかけている。◆◆◆◆◆◆◆◆■★サマーフィルムにのって■私たちの青春は、傑作だ。この映画さ、大林宣彦も工藤栄一も勝新も三船敏郎も、ひょっとしたら黒澤明も観たら褒めてくれ・・・はしないかもだけど、きっと微笑んでくれるんじゃないかな?そして主演の伊藤万理華!久々に現れた全身芝居女優!!最高!!!もっともっとたくさんぶった斬ってくれ!!!!大根仁 映像ディレクター◆◆◆◆◆◆◆◆■ティファニーで朝食を■♪ムーン・リバーハイソな生活を夢見る彼女の日課は、高級宝石店ティファニーのショーウィンドーを眺めながら朝食のクロワッサンを食べることだった。◆◆◆◆◆◆◆◆■先生、私の隣に座っていただけませんか?」■その不倫、ぜんぶ描く。お互いの不倫に気づいた漫画家夫婦が、漫画で本心を探り合う様を描く不倫エンターテインメント。◆◆◆◆◆◆◆◆■★太陽■タイトルの「太陽」とは?天皇そのもの、沈みゆく太陽、その一方で終戦後の新たな日本の夜明け?終戦直前・直後の数日間における昭和天皇の苦悩を、一人の人間としての昭和天皇のプライベートがコミカルさ、シリアスさ、そしてペーソスを交えて描写された本作は、ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』に続く、アレクサンドル・ソクーロフ監督の20世紀の指導者を描く4部作の3作目にあたる。この映画は、皇室への配慮から公開が危ぶまれたいた作品。ちょび髭と帽子姿の昭和天皇に対してアメリカ兵が「チャップリンに似ている」とか「ヘイ!チャーリー」と呼ばれたり、戦時中は戦火を逃れて疎開していた皇后と久しぶりに会い、抱き合って喜んだり・・・。ロシア人監督だから、忖度なしの描き方だ。◆◆◆◆◆◆◆◆■★チャサンオボ■最果ての海には、幸せがあった・・・。朝鮮王朝時代の韓国で記された海洋生物学書「茲山魚譜(チャサンオボ)」に記されている史実を基に、師弟となった二人の男の絆を描いたドラマ。◆◆◆◆◆◆◆◆■★ほんとうのピノッキオ■あなたはまだ知らない。特殊メイク(ピノッキオの木目調の肌は4時間の賜物)の質感がこれでもかと襲いかかってきて最初はダークな世界観と次々に現れる。★衣装デザイン賞 ★メイクアップ&ヘアスタイリング賞ノミネート◆◆◆◆◆◆◆◆■★世界で一番美しい少年■美しいことは罪ですか『ベニスに死す』で少年タジオ役を務めたビョルン・アンドレセンの栄光と破滅を描いたドキュメンタリー映画。ルキノ・ヴィスコンティ監督と出会い、『ベニスに死す』出演から、日本でも芸能活動を行うなど、名声から運命づけられた彼の人生の裏側が明かされる。◆◆◆◆◆◆◆◆来年も午前十時の映画祭があるようだし、楽しみ・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.29
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昔は、12月28日に正月用の餅を搗いたら重箱に入れて、前と後ろの家におすそ分け。持って行くと、おばちゃんが「はるなちゃん、ありがとう。はい、おつり。」と言って、空になった重箱にマッチ棒を一つまみ、入れてくれた。■おつりはマッチ■ しかし、なぜ、マッチを入れる時、「おつり」と言うのだろうと考えていた。その答えは、偶然読んだ本にあった。以下、書き抜き。 御移り(おうつり)をご存じでしょうか。以前はお祝いのお赤飯や五目寿司やお彼岸のおはぎなど、家で作りましたから、余分に作って近所や親せきに配りました。もらった家では、入れてきた重箱やお皿を返すときに、ちょっとしたお返しを入れました。これが御移りです。「おため」、「おとめ」、「とび」、「とみ」、「とめ」、「としのめ」などと呼ぶ地方もあるそうです。お返しの品には、おくられた赤飯や五目寿司の一部とか、豆、梅干しなどのほか、半紙や付け木、マッチなどが使われました。届けてくるのが子供だったりすると、子供が喜ぶお菓子や鉛筆、ノートや、ノートや、ちょっとしたお駄賃を渡しました。以上、「昭和なくらし方」より。「御移り」→「おうつり」→「おつり」となったのだ!!そういえば、結婚祝いをもらった時。もらった金額の半分を返す「半返し」と共に、半紙を「おため」として渡した。50年近くたって、「おため」の半紙の意味が分かった!!!*妾の本宅伺いのお為は、桐箱入りの絹一匹と定まっていた。 (■お為とは■お盆を使わずに出すお為は、下目のものに遣わす駄賃替わりの意味。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.28
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■11月16日(火)富士紀行最後の日は、有名な柿田川に行く。柿田川は富士山周辺で降った雨や雪溶け水が、溶岩のなかを通り、その溶岩の南端である清水町で地上に湧き出た地下水が柿田川のもとになっています。地名大好きな私は、柿田川の住所に注目した。■静岡県駿東郡清水町伏見■清水町って、やはり富士の清らかな水っていう意味からではないのか?!また、伏見とは、伏水、つまり、その土地に水が潜んでいるという意味ではないか!!京都の伏見で日本酒が有名なのは、やはり名水があったから!!■柿田川の名称の由来■柿田川は古くは「泉川」と称されていました。「駿河国新風土記」(1800)によると「泉川は伏見八幡の南窪より湧出し即大川となる・・」また、「駿河志科」(1861)によると前記に加筆して、夏には益々湧出溢れるがこれは富士山の雪解けの水であって、地中をくぐって出てくると里人は言っているがそのとおりであり、柿田と言う地名がつけられたのは里の老人の話として、この地は用水に不足し乾き田であったことから『カキダ』といっていたが、後に柿田の文字に変えたと記しています。柿田川は、一目見ればその透明感に圧倒される美しい川です。富士山周辺に降った雨や雪が、数千年前の富士山噴火で流失した溶岩のなかを通り、その溶岩の南端である清水町にて地上に湧き出た地下水が柿田川のもととなっています。国土交通省が行った分析によると、富士山周辺に降った雨や雪が、柿田川の湧き水になって地上に現れるまで、26~28年の年月がかかるそうです。このように長い時間をかけて作り出された美しい自然を満喫できる公園ですが、市街地に位置しており、駐車場も広いため、手軽に訪問できるのもポイントです。年間をとおして川の水温が15度に保たれていることもあり、夏でもひんやりしています。時間は、ゆっくり見てまわって約1.5時間あれば、十分楽しむことができます。◆地底から水が湧き出ている「湧き間」駐車場から順路にそって歩いて行く道は、木の板で整備されています。周囲にはたくさんの緑があり、深呼吸がしたくなるような雰囲気です。しばらく行くと、「湧き間」と呼ばれる湧水ポイントが現れます。かつて製紙会社が使用していたとされる井戸の跡から、こんこんと水が湧いています。◆縁結びのご利益も「貴船神社」公園内には貴船神社もあります。これは、京都貴船神社本宮の分社です。とても小さな神社ですが、敷地内の木には、真っ白なサワガニが生息していたりと、その雰囲気は特別です。◆コバルトブルーとはこのこと「湧水第2展望台」ここにはデッキが用意されており、下を覗くと、コバルトブルーの湧き水を見ることができます。どのくらいの深さがあるのか、水が透明すぎて、距離感が分からなくなりそうです。ここは人気のポイントですので、誰も人がいないときに見たいという方は、早朝のお散歩がおすすめです。第二展望台から見える湧き間は特に美しく、公園一のパワースポットともいわれています。◆湧き水が作り出す別世界「湧水第1展望台」こちらからは第2展望台より、スケールが大きな景色を見ることができます。左を見ても、右を見ても湧き水と森、といった風景です。大地から湧き出る水に押されて、砂は水中でさらさらと絶えず動いており、まるで生き物が生息しているかのような動きです。柿田川を見た後、三嶋大社に行った。■三嶋大社■社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。(▲舞殿)当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。著名な老木として、神門内にキンモクセイ(金木犀)がある。この樹木はウスギモクセイ(薄黄木犀)の雄木で、樹齢約1,200年、樹高10メートル以上を測る老木・巨木である。「2度咲き」の性質を持つが、特に2度目の9月下旬から10月上旬にかけては淡黄色の花で満開になる。このキンモクセイは国の天然記念物に指定されている。▲展示されている瓦の大きさに圧倒された。11月2日~16日まで15日間の旅行も、これにて終わり。●エネオスで、レンタカーに給油。●トヨタレンタカー 三島新幹線口店で、レンタカーを返却。●11/2~16の全走行距離は、758㎞だった。●駅のドトールで、お茶しながら、時間待ち。●JR新幹線ひかり517号・岡山行の三島発が、15:46。新大阪着17:57。往きは、(熱海まで)「こだま」で3時間。復路は(三島から)「ひかり」で2時間だった。●11871歩毎度のことながら旅行中に親切にしていただいた、ガイドさんに感謝いたします。(-人-)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.27
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■11月15日(月)後半 ■前半■江川家を見た後、源頼朝(みなもとよりとも)配流(はいる)の地、蛭ヶ小島に移動。■1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛敗れた源頼朝。■翌年(永暦元年)2月9日、平宗清(平頼盛の家人)に捕えられて清盛のいる六波羅へ連行されたが、清盛の継母池禅尼の命乞いもあって、3月11日、伊豆国流罪となった。『平家物語』によると流された地は蛭ヶ小島(ひるがこじま)。洪水等で変遷した狩野川の中洲の説や、湿田のなかに島状にある微高地であると考えられる。また、中洲の中でも小さい島であったことより、蛭ヶ小島と呼ばれるようになったとも考えられている。のちに挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごしたとされている。その間には北条政子と結婚している。ただ、実際がどうだったのかは不明で、近年では流されたのは伊東という説もある。(☚■伊東にて■)頼朝は祐親の監視下に置かれて伊東に住んでいたのだという。伊豆国流罪となった頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に、(☚■伊東にて■祐親の三女・八重姫と結ばれ、やがて男児が誕生して千鶴丸と名付けられた。しかし、大番役から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害。この話は、■コメントでも教えてもらった。■蛭ヶ小島のガイドさんも、頼朝がモテていた話をしてくれた(o^―^o)史跡は旧韮山町が「蛭ヶ島公園」として整備し、公園内には「蛭島碑記」の石碑のほか、富士山に向かって立つ頼朝と政子の像がある。■水に落ちた犬は討て■というけれど、まさか、助けた頼朝に討たれるとは・・・あの時、助けなければよかった・・・と平家は思っただろう。 来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が楽しみだ!!願成就院(がんじょうじゅいん)に移動。■願成就院(がんじょうじゅいん)■は、静岡県伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。 仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。■松本清張の「小説日本芸譚」■によると、●運慶の父康慶までは、いや、彼自身が中年過ぎまでは、彼らは奈良仏師という名で京都三条仏所派からは地方作家として一段低く見られていた。それが鎌倉幕府の援助の下に運慶が一門を率いて活動し、遂には主流となって三条派を衰微させ、この京の七条に仏所を構えてからは、完全に相手を蹴落としたのであった。三条派を衰退させたきっかけが、この寺だったのだろうか?『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。 ただし、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇った。(▲朝、ホテルの窓から見た富士。) ♪富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとけるとけて流れてノーエ とけて流れてノーエとけてサイサイ 流れて三島に届く源兵衛川は、市街地を通り中郷温水池(ため池)まで流れている全長約1.5kmの農業用水路。三島駅前の市立公園「楽寿園」に湧き出す富士山の伏流水が源流です。川のなかには飛び石状の散策路が配されていて、水のせせらぎに寄り添って散策することが出来るのです。喧騒を離れたこの水辺で、透明な水の美しさ、さやさやと流れるせせらぎの音を間近に感じながらの散策は、しばし、日常を忘れさせ、いつしか「源兵衛川ワールド」へと引き込まれていくのです。<川の上を流れるレストラン>を謳う「dilettante cafe(ディレッタント カフェ)」。源兵衛川を望みながら食事が出来る唯一と言っていいレストランです。源兵衛川は、1960年代から、都市化・工業化の進展や生活環境の変化に伴う湧水の減少が進み、渇水期には家庭雑排水の垂れ流しやゴミの放置により水辺環境が悪化し、汚れた川のシンボルになってしまいました。そこで、ふるさとの原風景・原体験を取り戻そうと多くの市民が立ち上がり、協力し合いながら源兵衛川の水辺環境の再生に努力しました。その結果、ゲンジボタル、カワセミ等が自生するようになり、都市中心部を流れる河川としては、他に類をみないほどの豊かな生態系をもつ水辺自然空間が再生・復活しました。まさに、富士の白雪が水の都・三島を作ったと言える。 富士日和●9580歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.25
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■11月15日(月)♪富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとける 「ノーエ節」この日も、富士が美しい!!「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された韮山反射炉を見に行った。それが、「ノーエ節」と何の関係があるねん!と思われた方、それがあるんですよ♪ 韮山代官、江川英龍は、幕末という激動の時代を生きた中で、沢山のことをやってのけた偉人。まず韮山反射炉のお話。■韮山(にらやま)反射炉■★韮山反射炉を息子と完成させる。幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させました。反射炉とは、金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。★「気を付け!」「回れ、右」の号令を決める。英龍は屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされる。今でも日本中で使われる「気をつけ」や「右向け右」や「回れ右」等の掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものである。(▲自宅)静岡県伊豆の国市韮山に建つ静岡県立韮山高等学校の学祖とされる(参考:静岡県立韮山高等学校)。★パン祖。国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン(堅パンに近いもの)を焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれている。★農兵の日本最古の軍歌「農兵節」一般的に、日本で最初の軍歌と言えば「宮さん宮さん」ですが、幕末に韮山代官の江川英龍が農兵(※長州の奇兵隊よりも先に始めた徴兵。後の屯田兵に相当する。)の練兵時に当時の神奈川民謡を行軍歌として歌わせたと伝えられるので、譜の現存するものとしては最古の軍歌では?と、考察致しました。(▲江川邸・桝形 ここで農兵の訓練もしたそうだ。)三島の伝統郷土民謡 農兵節江戸時代の末期、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)が現在の三島市役所で農兵の訓練を行った故事にあやかり、富士の白雪ノーエと三島の情景を歌にし、舞を振り付け現在に至っています。エンドレスに歌が続き、行軍歌に最適なわけですね■動画:農兵節(ノーエ節)・野毛節(野毛山節)【日本最古の軍歌?】■野毛の山からノーエ野毛の山からノーエ野毛のサイサイ山から異人館を見ればお鉄砲担いでノーエお鉄砲担いでノーエお鉄砲サイサイ担いで小隊進め天満橋からノーエ天満橋からノーエ天満サイサイ橋から城の馬場を見ればお鉄砲担いでノーエお鉄砲担いでノーエお鉄砲サイサイ担いで小隊進めオッピコヒャラリコノーエオッピコヒャラリコノーエチーチがタイタイトトチチオッピコヒャラリコノーエ■農兵節(のうへいぶし)■は静岡県三島市などで歌われ、全国的にもよく知られる民謡。これらの中で、幕末に始まる横浜市の「野毛節」が元祖とも言われている。しかし、三島の農兵節はこれ以前に江川英龍による農兵訓練用行進曲として始まったとも言われ、定かではない。●元来は歌いつがれた盆歌であるが韮山代官江川太郎左衛門担庵がジョン万次郎らの勧めで、メロディがスペイン風の行進曲に似ていることもあって農兵訓練の軍歌に定めたという。「農兵節考」。●農兵の資格は17歳から45歳までの男で頑強で力のある人間。●農兵にダルマと呼ばれる服を着せて、銃を持たせ、6か月間様式軍隊訓練をさせる。江戸市中に六つの屯所を設けてそこに寄宿させる。 私が「農兵節」を知ったのは、手塚治虫の■「陽だまりの樹六」■を読んで。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.24
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■11月14日(日)■箱根 駒ヶ岳ロープウェーは■駒ヶ岳山頂へ行く唯一の交通手段。箱根芦ノ湖畔の箱根園から箱根駒ヶ岳山頂まで全長1,800mを片道7分で結びます。(島のように見えるのが、恩賜公園)芦ノ湖を中心に箱庭のような箱根の全景が広がり、北に雄大な富士山が、また遠く駿河湾から伊豆半島、伊豆七島、湘南海岸、房総半島まで大パノラマが展開されています。同索道は箱根火山の中央火口丘である標高1,327mの駒ヶ岳の頂上部と芦ノ湖畔の箱根園と結び、山頂部は箱根周辺の市街地や富士山などを見渡せるなど展望に優れ多くの観光客が訪れる。(当日は、風が強く、この坂道は、こたえた。)また、箱根神社元宮などもある。駒ヶ岳を降りると、船に乗った。芦ノ湖の眺めを楽しみながら箱根の関所跡の港に着いた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされた。箱根関所を設置した地点は、東北に屏風山があり、西南に芦ノ湖があり、中央に東海道が通った。道の両側には縦64メートル、横13メートルの空き地があった。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受けていた。そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。(▲遠見番所に続く急な坂・階段)(▲遠見番所からは、芦ノ湖がよく見える。▼)箱根関所の番士貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。日曜日だったので、反対の車線は大混雑だった。●8852歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.23
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■世界で一番美しい少年■美しいことは罪ですか巨匠ルキノ・ヴィスコンティに見いだされ『ベニスに死す』に出演したことをきっかけに“世界で一番美しい少年”と称賛されたビョルン・アンドレセン。来日の際は詰めかけたファンに熱狂で迎えられ、漫画「ベルサイユのばら」の主人公のモデルにもなるなど日本の文化にも影響を及ぼした。それから50年、アンドレセンは、熱狂の最中に訪れた東京、パリ、ベニスを再び訪ね、残酷な人生の軌跡を振り返る。『ベニスに死す』で少年タジオ役を務めたビョルン・アンドレセンの栄光と破滅を描いたドキュメンタリー映画。ルキノ・ヴィスコンティ監督と出会い、『ベニスに死す』出演から、日本でも芸能活動を行うなど、名声から運命づけられた彼の人生の裏側が明かされる。監督をクリスティーナ・リンドストロムとクリスティアン・ペトリが務めるほか、漫画「ベルサイユのばら」の作者、池田理代子も出演している。 「ベルサイユのばら」の池田理代子が映画に出ていて、「オスカルのモデルは、アンドレセンです」と語っていた。 それなら、「ポーの一族」の■萩尾望都■や「風と木の詩」の■竹宮恵子■も影響を受けたのではないだろうか? 彼の顔は最高峰のギリシャ彫刻のように色白で、優しくもよそよそしさを漂わせており、房になった蜂蜜色の巻き毛、眉からすっと一筋になった高い鼻筋、勝ち誇るような口元、そして純粋で神のような落ち着きをたたえた表情をしていた。姿形がこれだけ完全でありながら、自然であるのか芸術であるのか、だれも見たことがないほど喜ばしく完璧であるというのは、独特な個人の魅力があるがゆえだった。——トーマス・マン「ベニスに死す」 若い登場人物タジオについての描写 (海外プレスより翻訳) アンドレセンの憂いをおびた顔は、男女問わず、心を揺さぶる。その憂いは、映画の時に監督に言われて作ったものではなく、母親のいない子ども時代を過ごしたから。父親の名前を知らず、子どもの頃に、母親が失踪。1年後、母親の死を知らされる。それ以後、妹(父親が違う)とは、母親のことを話したことがなかった。彼と妹は、祖母に育てられた。祖母は、アンドレセンを有名にしたかったから「ベニスに死す」の少年役に応募させた。そして有名になったら、もっとお金を稼いで来いと日本に仕事に行かせたという。また、お祖母さんは「ベニスに死す」にもちょい役で出てご機嫌だったそうだ。 書きたいことがいっぱいあるが、「ベニスに死す」のタジオ役、アンドレセンの美しさに胸を打たれて、書けない。「時よ止まれ!君は美しい」というCMを見たことがあるが、時は止まらない。50年ぶりの60半ばになった、アンドレセンの姿がそれを物語っている。■ベニスに死す:愛は滅びない■▲2010年1月、下の娘、レイが旅行中に撮ったベニスの風景。▼・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.22
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■ミラベルと魔法だらけの家■「どうして私だけ魔法が使えないの?」南米コロンビアの奥地にある“魔法だらけの家”に住むマドリガル家の子どもたちには、それぞれ“魔法のギフト”が家からプレゼントされていた。ピアノを持ち上げるほどの怪力を持つ少女、トラなどの動物とコミュニケーションをとる少年などがいるなか、たった一人、ミラベルはギフトをもらえていなかった。ある日、ミラベルはマドリガル家が危険にさらされていることを知り、家族のために立ち上がる。 「ミラベルと魔法だらけの家」を見て、感じたのは、この映画の主人公の家族や町の人達は「白人」ではないということ。ディズニー映画といえば、お姫様、王子様に代表される白人と思っていたが、この映画は、コロンビアが舞台。いわゆるラテンアメリカが舞台。音楽もラテンで楽しい。 ミラベルの祖母たちは、逃げてきて、魔法の力で家を作ったという設定。何から誰から逃げてきたのかが、分からないから調べてみた。 ■コロンビア内戦■コロンビアは「西半球で最も古い民主主義国家」と評される反面、植民地時代から続く貧富の格差は大きく、二大政党以外の政治勢力の政治参加が阻害された結果、政治社会的暴力を生み出す土壌が育まれた。二大政党の対立を背景に19世紀から内戦が繰り返され、1899年にはコーヒー豆の価格が暴落し自由党系農民の反乱から千日戦争と呼ばれる内戦が勃発。死者は全土で75,000人から15万人にも達したとされる。 コロンビアの家族というラテンアメリカを舞台にするだけではなく、コロンビアの侵略や長きにわたるコロンビア内戦などに言及するなど、その土地の負の歴史にも着目した『ミラベルと魔法だらけの家』は、さまざまな問題と進歩的なメッセージを日本人にも投げかけてくれた。さまざまな議論の元になればこそ、この映画が制作された意義が最も強く現れるのではないだろうか。眼鏡をかけて眉毛が太く、ちょっとひょうきんで庶民的な印象を与えられるミラベルは、『白雪姫』(1937年)以来、高貴な美の理想型を追い続けてきた、これまでのディズニー大作におけるヒロインとしては思い切った冒険だといえよう。日本の娯楽的なアニメ作品の多くでは、よく作り手によって理想化された美少女が登場する場合が多い。しかし、近年のアメリカのアニメーションでは、必然性に欠ける“美男美女”のようなキャラクターを作ることを避ける傾向が見られる場合もある。 普通、老舗は伝統を守り抜くが、ディズニーは、少しずつ変えている。「ギフト」という言葉は、「天才」などに使われるが、その才能の無いミラベル。ギフトをもらうことが出来なかった子を肯定的にえがいているのも、変化のひとつかもしれない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.21
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■11月13日(土)富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も雪に代わりがあるじゃなし解けて流れりゃ みな同じいやいや、違いますから!!先斗町の雪は、解ければ、ただの水。しかし、富士の高嶺に降る雪は、解けて、長い年月をかけて、伏流水となり、泉となって湧き出す。その水は、聖なる水となっている。■忍野八海(おしのはっかい)■かつては忍野村域にあった忍野湖が干上がって盆地になり、富士山や近くの火山山麓の伏流水を水源とする湧水の出口が池として残ったのが忍野八海である。平地となったこの一帯は米の産地となり、湧泉の水は飲料水や農業用水として活用された。「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの湧泉を巡礼する八海めぐりからきており(多数ある湧泉のうち8つに限ったのは、8を尊ぶ仏教的思想に基づく、富士講では忍野八海のことを、元(小)八海、内八海、根元八海、富士外八海などと呼んでいる。古くから富士修験の霊場とされ、行者たちは富士登拝の前に池でみそぎを行なったとされるが、1843年に各池に守護神の「八大竜王」が祀られ、出口池を一番霊場、菖蒲池を八番霊場とする巡礼路が整備された。忍野八海はその特異な自然現象から、訪れる観光客も多く、富士山周辺でも人気の観光地として知られる。周囲は観光用の商店や施設などが建ち並び観光地化が進んでいる。忍野八海の観光化は、茅葺屋根と富士山を背景とした田園風景を売りに1960年から始まった。1965年ごろから観光地として注目されるようになり、1985年の名水百選選定で観光地化が進んだ。 忍野八海地区からは見える富士を忍野富士と呼ぶ。冬季には池より朝霧が立ち込めることもある。最も深い「湧池」を中心にして7つの池を巡る観光客が多く、一つだけ離れた位置にある「出口池」までを巡る者は少ない。また、あまり目立たない「鏡池」「菖蒲池」などを省く観光客もおり、そちらも比較的に人出が少ない。▲澄み切った水▼忍野八海に心を残し、富士山を眺めながら次の目的地に移動。移動しながら、時々車をとめて、富士を飽かず眺める。ナビは、時々、「山梨県」、「静岡県」、「神奈川県」に入りることを告げる。「三国峠」という名前がピッタリの地だ。神奈川県立・恩賜(おんし)箱根公園に着いた。■神奈川県立・恩賜(おんし)箱根公園■ ここは「塔ヶ島」と呼ばれ、芦ノ湖に突出した半島のかたちをなしています。 宮内庁はここに皇族の避暑と外国からの賓客のために離宮の造営を計画しました。明治17年、当時笹の密集していた塔ヶ島を中心に163000平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりました。明治19年7月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館と日本館を中心に官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を芦ノ湖に映していましたが、大正12年の関東大震災・昭和5年の北伊豆地震と続いた災害によって倒壊してしまいました。その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって再建計画は打ち切られてしまいました。そして、終戦後の昭和21年3月18日、離宮跡地は神奈川県に御下賜され、神奈川県はここを整備しその年の5月5日「恩賜箱根公園」として一般に開放いたしました。 ●6913歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.20
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■11月12日(金)昨日の夕方は、雲一つない富士山を一日堪能したが、朝、富士山は帽子をかぶったように雲が山頂を大きく覆っていた。富士五湖のひとつ河口湖に向かう。車のナビが、「山梨県に入ります」と告げてきた。河口湖に着いて、ロープウェイに乗って、山頂に登った。■河口湖は■富士五湖のうち、もっとも早く観光開発された。平成になってから温泉が掘削され、富士河口湖温泉郷として東岸に温泉街が形成されている。湖畔にはオルゴールの森、天上山へのアクセスとなる〜河口湖〜 富士山パノラマロープウェイ、河口湖遊覧船、河口湖猿まわし劇場、キャンプ場、そして多くのホテル・旅館、飲食店、物産店などがある。その後、かつて、富士登山の町として、全国の人が集まった、富士吉田市に行った。御師の家は、個人の住宅でありながら、夏の登拝シーズンは富士講の信仰者を迎え入れ、宿坊として、また祈祷などの信仰の案内までも請けおっていた。御師とは、そもそも祈祷師のことで、家々の主が今でいう神官の役割を果たしながら、富士山をお守りする聖域の町を担っていたのだ。旧戸川住宅の表通りから奥まった屋敷までは、「タツミチ」と呼ぶ細長い引きこみ道が通じていた。これは、御師町が成立した当初の古い“本御師”の家の特徴だという。これに対し、表通りに面した“町御師”もある。さらに中門をくぐると、「ヤーナ川(間の川)」という禊ぎのための小川が今も音をたて流れている。ここには、かつて小さな滝が造られ、宿泊する富士講が、到着や出発の際に水垢離(みずごり)を行う禊場(みそぎば)になっていた。最盛期には、御師町の両側八十六軒連なったという御師住宅のなかで、この「旧外川家住宅」は、二百四十年という歴史を今まで長えられてきた。『富士講の信者はみな白い“行衣”を着てます。これが富士山への旅支度ですね。旅支度というのは、天国へ行ってくるということです。いろいろ苦難の道があるだろうけど、それを乗り越えて神様のいる極楽浄土へ行って仏になってくる、と。富士山に登るってことは、それだけの覚悟のことだったわけです』▲戸川家でもらった、富士山の折り紙。富士講信徒は、富士山に複数回登るのが普通。そして目標は、33回富士山に登って満願成就をお祝いする事だった。33回登ったという石碑などがあちこちにあった。▲町で見た建物に、「不二」の印▼■北口本宮富士浅間神社■北口本宮冨士浅間神社の参道に一歩足を踏み入れると、からだ中に清々しい気が満ちわたる。参道の両側には、樹齢百年以上の杉が、まさに天を突くがごとく伸び、 さらにその足元に風雪に削られ苔むした石灯籠が並ぶ。気高き社へ人々をいざなう巨大な生きた回廊のようだ。広い境内を隅々まで見て歩けば、それこそ八百万の神々さまが集結している。おそらくこの配置にも意味があるのだろう。本殿に祀られるのは、もちろん浅間神社の神さまの三神。まず、富士山の神様の「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」。そして、夫神様の「彦火瓊々杵命(ヒコホニニギノミコト)」、父神様で全て山々の神である「大山祗命(オオヤマヅミノミコト)」。本殿の裏に回れば日本神話の始まりである大黒さんと恵比寿さんが祀られている。西宮には、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」。また東宮には、河口湖産屋ヶ崎で祀られていた「彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)」。富士山の巡礼で構成資産を巡ると日本古来のたくさんの神さまに出会える。さて、そんな神々さまが座す一番奥の場所、本殿に向かって右手奥に小さいながら趣きのある鳥居がある。ここが吉田口登山道の起点となる「登山門」だ。▲巨大な鳥居。▲樹齢千年の御神木「富士太郎杉」▲イチョウの巨木▼ここから、車を置いてある所まで、ガイドさんの車で送ってもらった。感謝(-人-)「ホテルルートイン河口湖」の夕食で、ほうとうを食した。ほうとう(餺飥)は、山梨県を中心とした地域で作られる郷土料理。2007年には農林水産省により各地に伝わるふるさとの味の中から決める「農山漁村の郷土料理百選」の中の1つに選ばれている。かつて山梨では「ほうとうをうてないと嫁に出せない」と言う文化もあった。 また山梨県東部の郡内地方では、山間部であるため寒冷な気候で平坦地に乏しく、富士北麓では富士山の伏流水の季節変動が激しく、水利に乏しい溶岩台地が広がっているため、全般的に米の栽培が困難であった。一方、麦は富士北麓では流水を用いた「水掛麦」(水を畑の畝間に流すことで冬季の凍結を防ぐ栽培方法)による栽培が行われており、ほうとうなどの粉食料理が根付いた。富士北麓の郡内地方にはほうとうと同一の粉食文化の起源を持つ郷土料理である「吉田のうどん」が存在する。日常食としての「ほうとう」は麺よりも野菜の量が多く、対して小麦粉を消費する「ウドン」は特別な日(モノビ)や来客時に振舞われる贅沢な料理であると意識されており、両者の区別は明確であった。●9249歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.18
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■11月11日(木)後半■間の宿(あいのしゅく)■を後に、田子の浦にやってきた。田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける 山部赤人(約:田子の浦を通って(視界の開けたところまで)出て見ると、真っ白に、富士山の高いところに雪が降り積もっていることだよ。)山部赤人の富士山を詠んだ歌の碑があった。山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は反歌田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 山部赤人のこの歌を習ったのは、高校の時で、この時はじめて、長歌と反歌というのがあると習った。この時の先生は、50代くらいの女性で、当時の私は、大変な年寄りと思っていたが、今の私よりも随分若い。先生は、「田子の浦ゆ」の「ゆ」は、「から」という意味です」と言ったが、50年以上前のことなのに、昨日のことのように思い出す。最近のことは、すぐ忘れるが・・・。山部赤人は柿本人麻呂と共に、「山柿の門」と称えられている。「山」は、「山上憶良」という説もあるが・・・。■『山部赤人がこの歌を読んだ背景』■国守として東国に赴任することになった山部赤人は、一族郎党を引き連れて奈良の都から旅を続けていた。これまでは陸路であったが駿河の国、田子の浦からは海路をとり、さらに東を目指す。一行のほとんどの人間にとって初めての船旅ではあるが幸いにも海は穏やかで、時折り快い風が皆の間を吹き抜けて行く。陸に目を向ければ、さほど遠からぬ所に富士の山がくっきりとその美しいなだらかな稜線を見せているのも他では見られぬ珍しい光景である。山部赤人の碑の近くに船の形をした、ディアナ号の学習施設があった。■ロシアの最新鋭船・ディアナ号津波の悲劇■嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。言葉も分からない、寸法を測る単位も違う、日本の船大工が、ロシア人と協力して作り上げた船は戸田(へだ)で造られたので「ヘダ号」と名付けられた。この日は、「国民休暇村・富士」に宿泊。コロナ禍とは思えないほど、混雑していた。また、近くにあるキャンプサイトも沢山のテントが・・・。部屋からも田貫湖と富士山が良く見え、暮れ行く富士、夕焼けの富士が見えた。朝から富士三昧の一日だった。ここまでクリアに見える日は、年間そう多くないとガイドさんが言っていた。富士三昧の一日。ホテルの部屋から。●8692歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.17
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■11月11日(木)朝、起きたら、これまでで最高の天気。よって、今日の富士のくっきりと美しいこと。昔の旅人は、この富士に、どれだけ励まされただろう。見つつ行け 旅に病むとも 秋の不二 夏目漱石旅人を 迎える富士の 峰白し 天地はるなこの日は、東海道の岩淵(富士市)という地区をガイドさんの案内で歩く。富士山に向かってあるくので、どこから見ても、くっきりと富士山が見えた。富士三昧!ところで、「間の宿(あいのしゅく)」というのをご存じだろうか?(▲東海道・一里塚)■間の宿(あいのしゅく。)は、■日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。宿泊は禁止されていた。宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間の宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。■岩淵宿(東海道・間宿)概要: ■岩淵宿は東海道の蒲原宿と吉原宿にある宿で、正式な宿場町ではなく、ある種利用者の利便の為設けられた間宿とされます。(▲ここに渡しがあった。)この地は富士川の川越を控えている事もあり、洪水など水量が増すと川止めとなり必然的に岩淵宿が利用される事になります。又、甲斐国(現在の山梨県)と東海道を結ぶ身延道が交差する交通の要衝であった為、江戸時代中期以降、大幅に広がった久遠寺(山梨県身延町)参りの参拝者達も利用したと思われます。岩淵村の名主であった常盤家は、岩淵間宿の小休本陣や富士川の渡船役を勤めた家柄で、現在でも当時の屋敷が残され当時の宿場町の名残が見られます。現在の常盤家住宅主屋は江戸時代末期の安政元年(1854)に発生した安政大地震で大破後に再建されたもので木造平屋建、切妻、桟瓦葺き、桁行8間、張間5間半、建築面積249㎡、東海道に残る数少ない本陣建築の遺構として貴重で、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成10年(1998)に国登録有形文化財に登録されています。岩淵宿はずれにある一里塚は江戸から37里目のもので、東海道に残された数少ない一里塚として貴重な事から昭和61年(1986)に静岡県指定史跡に指定されています。■榎(えのき)■漢字の「榎(エノキ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字である。夏は、木の下で涼をとり、実が甘くて美味しいので、お腹のすいた旅人が食べたかもしれない。榎の名前の由来には諸説あり断定不可能だが、①信長、家康、秀忠、家光のうちの誰かが、(マツ以外の)「余の木(ヨノキ)」または「良い木(ヨイキ)」を一里塚に植えるよう命じ、これに応じる形で植えられたのがこの木であったため(ヨノキ)・(ヨイキ)が転じてエノキとなった。②縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった。③秋にできる朱色の実は小鳥や森の生き物に人気が高く、「餌の木」からエノキとなった。などの説がある。 「夏の炎天には私も学校の帰途(かえりみち)井戸の水で車力や馬方と共に手拭てぬぐいを絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。」■日和下駄 永井荷風■私も、子どもの頃、エノキの実を食べた。 尚、間の宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。間の宿のなかには立場が発展したものもある。(▲富士川岸に建つ、角倉了以を讃える碑)富士川(ふじかわ)は急流で難所も多かったが、内陸の甲斐南部と駿河との交通路として、駿州往還とともに古くから水運が利用された。 江戸時代の1602年に駿河国と甲斐国(現在の富士川町)との間に富士川渡船が開始されたという。江戸期には甲斐が幕府直轄の天領であったため、慶長12年(1607年)の角倉了以らによる開削事業により運行の安全が確保されて、江戸への廻米輸送を中心に水運が発達した。廻送された廻米は駿河国岩渕(現在の静岡県富士市)の河岸で陸揚げされ、カントクと呼ばれる馬力により蒲原へ運ばれそこからさらに清水港へ集められた後大型船で江戸へ廻送された。また、上荷には塩や海産物など内陸の甲斐で産しない商品を中心に輸送が行われ、身延詣の旅人にも利用された。富士川沿いの沼久保地区に残る江戸時代から明治にかけての帳簿が記されている『松井文書』によると、河岸から積み出されるものは半紙やその材料となる三椏の他、煙草など多岐に渡り、到着したものは甲州より運ばれたものであった。●(川の増水で渡れない時は、)宿役人から書付一札を貰ったと日記に記しています。きっと天候や道中の困難による延泊を照明してもらって、あとで届けるのです。「下級武士の食日記」より後半に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.16
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■ディア・エヴァン・ハンセン■思いやりでついた嘘。そして、たどりついた本当。学校には友人がおらず、家族にも心を開けずにいるエヴァン・ハンセン。ある日、彼は自分宛に書いた手紙を同級生のコナーに持ち去られてしまうが、後日、エヴァンはコナーが自ら命を絶ったことを知らされる。悲しみに暮れるコナーの両親は、手紙を見つけたことで息子のコナーとエヴァンが親友だったと思い込む。そこでエヴァンは、彼らをこれ以上苦しめないように、ありもしないコナーとの思い出を語り始める。 第71回トニー賞で作品賞を含む6部門を受賞したほか、数々の賞に輝いたブロードウェイ・ミュージカルを映画化。自身のベストセラー小説を映画化した■『ウォールフラワー』■や、『ワンダー 君は太陽』で知られるスティーヴン・チョボスキーが監督を務める。ブロードウェイ版で初代エヴァン役を務めたベン・プラットが主演し、『シェルター』のジュリアン・ムーアや『メッセージ』のエイミー・アダムスらベテラン陣が脇を固める。 映画が始まって、主人公のエヴァンの歌に驚いた。エヴァンを演じたベン・プラネットはブロードウェイ版の初代エヴァン役なだけあって、歌唱力のレベルがすごかった。この映画の監督は、自身のベストセラー小説を映画化した■『ウォールフラワー』■で知られるスティーヴン・チョボスキー。それにしても、今時の高校生は、心が柔なんだなと思う。私の時代もあったのかなと思うけど、あまり心当たりがない。 友達がいないというのは、つらいものだと思う。ロザンの宇治原氏は、中高一貫の学校に高校から入学。高校から入るのは、たった20人と少なく、ほとんどの人は、みんな中学からの友達だったそうだ。ぽつんとして、学校も楽しくなかったそうだが、バスケットボール部で菅氏と知り合い、以後今に続くほどの仲良くになったそうだ。その話を聞くたびに、「よかったね・・・。」と思う。私には、今、高校3年生の孫がいる。孫が中学校の時に仲良くしていた男の子が、学校を変わったというのを聞いて、いつも心にかかっていた。 主人公、エヴァンは、なぜ不安症のようなことになったのか・・・。それが分かるような幼い頃の出来事を母親が話した。そのことを知って涙がとまらなかった。 また、最後の方に、骨折した左腕の真実も出てくる。 この映画、自殺した三浦春馬さんが演じてみたいと切望していたと聞く。春馬さんの心を揺さぶったのが分かる気がする。今、悩んでいる人は、ぜひ、見て欲しい。いや、悩んでいない人も見て欲しい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.15
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■モスラ■台風により日本の貨物船第二玄洋丸が座礁沈没。ロリシカ国の水爆実験場であるインファント島に漂着した乗組員が救助されたが、不思議なことに放射能障害が見られなかった。スクープ取材のため、乗組員たちが収容された病院に潜入した日東新聞記者の福田善一郎は、カメラマンである花村ミチと共に、原田博士に注意されながらも、原水爆実験場であるはずのインファント島に原住民がいることを知る。当初、ロリシカ国は原住民の存在自体を否定したが、急遽日ロ合同調査隊の派遣を決定。福田は調査団員の言語学者中條信一と知り合う。インファント島調査隊の見送りが盛大に行われる中、福田は調査団の船に無断侵入。辛うじて臨時の警備員として記者活動を行わないことを条件に参加を認められるが、ロリシカ国側事務局長クラーク・ネルソンは、参加する科学者たちの収集資料のすべての提出を求めたりと科学調査隊としては極めて不審な行動をとる人物だった。 インファント島に上陸した調査隊の前に現れたのは、放射能汚染された島の中心部に広がる緑の森だった。奇妙な植物群の中に謎の石碑を発見し、記録をとった中條は巨大な吸血植物に絡め捕られるが、その窮地を小美人という双子の妖精に助けられる。ネルソンは小美人たちを「資料」として捕らえたが、彼らを守りインファント島で平和に暮らす原住民の存在を知った調査隊は小美人たちを解放。誰が言うとなく緘口令を敷き、帰国した調査隊は誰一人島の秘密を語ることなく解散する。 安保闘争の翌年の作品で、当初は世界同時公開が予定されていたこともあり、ロリシカとして描かれた米国との関係や、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復したはずであるにもかかわらず、外国人の犯罪捜査や出入国管理が相変わらず在日米軍主導で行なわれていること、モスラがわざわざ横田基地を通ることなど、当時の日本の政治状況を反映した描写が目立つ。また、当時の宣材パンフレットには、フェミニズムや先住民問題がテーマとして掲げられていた。 1961年製作の「モスラ」は私が小学生の時のもの。もちろん、映画館の無かった村で育ったので映画は見たことがなかった。当時、見てもう一度見たいと思ったのか、私と同じくらい年の男性客が多かった。 当時の*風俗*が良くわかった。*注・風俗*ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活のしきたりや習わし、風習のこと。広く、世相や生活文化の特色をいう場合もある。例えば、モスラの来襲に逃げる人々の中には、家財道具をリヤカーに乗せている人がいた。 そして、そのリヤカーには、「いずめ」に入った赤ん坊が乗っていた。「いずめ」とは、乳児を入れる藁性のかごのこと。私は、幼い頃、見たことがあったが、1960年代でもまだ使っていたのかと、びっくりした。●また、「センブリが嫌い」というのも出てきて、この時代、センブリって使われていたのかと思った。和名センブリの名前の由来は、全草が非常に苦く、植物体を煎じて「千回振出してもまだ苦い」ということから、「千度振り出し」が略されて名付けられたとされている。その由来の通り非常に苦味が強く、最も苦い生薬(ハーブ)といわれる。ザピーナツが歌う「モスラや~」という曲は、古関裕而の作品!!■動画 モスラ 歌■♪訳詞♪モスラよ モスラ貴方の命の魔力で身分卑しき あなたの下僕は呪文を唱えて祈りますどうか立ち上がって 貴方の魔力を見せてください原題:Mothra製作年:1961年製作国上映時間:101分・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.14
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■11月10日(水)後半 ■前半■■人質時代の家康が学問した、清見寺(せいけんじ)■に行き、ガイドさんの案内で寺の中を見て回った。清見寺(せいけんじ))は、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。富士山、三保の松原、清見寺を3点セットで描くことを雪舟が始めたという。寺伝では奈良時代の創建と伝える。平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。なお、寺の境内を東海道本線の線路が横切っている。■清見寺■欄間が特徴的だった。▲▲折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)=高貴な人をもてなす天井。▲玉座の間。寺の名前の由来は、この近くの海、清見潟。 この後、明治、大正、昭和と活動した政治家、西園寺公望(さいおんじきんもち)の冬の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)に行った。ここにも、ガイドさんが常駐していて、達者な語り口でガイドしてくれた。■清見寺古写真に見る昭和初期の清見潟とその周辺■清見潟あたりは、明治末期からは海岸保養地として別荘も建てられ、西園寺公望(さいおんじきんもち)の坐漁荘(ざぎょそう)は有名であった。清水港の拡張と整備、沿岸の埋立てにより往時のおもかげは失われ、興津埠頭(ふとう)はコンテナ基地となり人工海岸となった。■坐漁荘(ざぎょそう)は、■元老であった公爵・西園寺公望が1920年(大正9年)に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡県静岡市清水区)に建てた別邸。建設費用は西園寺の実弟住友友純の住友家が全額負担し、同年12月に西園寺に提供された。別荘は後に「坐漁荘」と名付けられたが、これは太公望呂尚が「茅に坐して漁した」という故事にちなむものである。西園寺は一年の四分の三をここで暮らし、夏には御殿場の別荘に避暑に訪れ、東京府東京市神田区駿河台の本邸に入るのは東京に政治的用事があるときだけだった。(▲浴室に続く床は、滑らないように工夫して、しかも美しく作ってある。)門は瀟洒な編み竹扉で、小料理屋と間違えられたこともあったという。一階には八畳間が二つ並んでおり、西園寺はそこで生活していた。二階は客間として用いられた。一見質素な作りであったが、木材は上質であり、外壁はヒノキの皮で葺かれていた。(▲西園寺公は、竹が大好きだったそうで、あちこちに竹の素材の物があった。)西園寺が最後の元老である重要人物だったため、大正から昭和にかけて激動する日本の政治の数々の局面でクローズアップされた舞台となった。当時の日本政界の中枢人物による興津の坐漁荘詣でが頻繁に行われた。建屋の老朽化が著しくなった1968年(昭和43年)に、博物館明治村への移築話が纏まり、1970年(昭和45年)に明治村での移設公開が始まった。その後、2003年(平成15年)には登録有形文化財に登録され、2012年5月23日より建物保存のため大規模工事が行われた。2017年(平成29年)2月には、数寄屋造住宅の貴重な現存例として、重要文化財に指定された。現在、静岡市清水区興津清見寺町115番地に存在するものは2004年(平成16年)に復元されたものであり、興津坐漁荘の名称で一般に公開されている。【格言など】これで日本も滅びるのや,今から覚悟を固めておくことどすな(軍部の台頭に怒って) 富士、よく見えた。●10960歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.13
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■11月10日(水)日本平から、富士山を眺めた。日本平は駿河湾の沿岸近くにある有度山(うどやま)の山頂とその一帯で、富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈(南アルプス)も望め、眼下には清水区の街並みと清水港が広がる。ここから、久能山東照宮に行く。日本平山頂西側にある日本平駅から日本平ロープウェイで約5分(日本平山頂には、公設・静岡鉄道私有のものを含め、一般車・観光バス向けの無料駐車場が多数用意され、ロープウェイ運行時間内は自由に利用できる)。葵の紋つき、駕籠のようなロープウェイ。久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。ロープウェイで行くから、しんどくないだろうというのは、間違いだった。ロープウェイの駅から、階段が続く、続く・・・。この神社に勤める人は、ロープウェイを使わず、ここまで石段で登り降りる!死んでまうやろーー!!_| ̄|○■久能山東照宮■江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。 2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、▲薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存は無い)、楼門が増築された。(▲五重の塔の跡)造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.11
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■11月9日(火)土肥港から雨の中、フェリーに乗って静岡市の清水港に向かう。70分の船旅。さらば、伊豆半島・・・。すっきりと晴れていれば、富士山が見えたはずだけれど、今回は、この絵をみて納得する。 将軍職を退きいた徳川慶喜は、慶応4年(1868年)7月19日に水戸を発ち、海路で那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)まで行き、そこから陸路で鉾田へ行き、再び海路で銚子に到着。21日に銚子の波崎から海路で駿府へ向かい、23日に清水港に上陸した。同日夕方には宝台院に入った。ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる。◎水戸から清水港まで陸路と海路で5日間かかっている。■弥次喜多銅像■十返舎一九の「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念して建てられた銅像。東御門の手前、巽櫓をバックに弥次さん(左)喜多さん(右)がベンチ とセットになって佇んでいる絶好の写真スポット。十返舎一九は静岡市出身。駿府城に行ってガイドさんの話を聞いた。▲門の材木の太さよ!!▼本丸跡にある鷹狩り姿の徳川家康公之像。この後、三保の松原へ。ここでもガイドさんの説明を受けた。♪羽 衣♪♪あれ天人は 羽衣の舞を舞い舞い 帰り行く風に袂が ヒラヒラと羽根に朝日が キラキラと松原こえて 大空の霞に消えて 昇り行くあれかくれ行く 松原は三保の浜辺か なつかしや浜の漁師は 安らかに栄え栄えよ いつまでも日本一の 富士山も霞の下に 消えてゆく■三保の松原■三保松原は約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂り、松林の緑、打ち寄せる白波、海の青さと富士山が織りなす風景は歌川広重の浮世絵や数々の絵画・和歌に表現されてきました。三保松原の一角には、天女伝説で知られる羽衣の松があり、毎年10月には松前で三保羽衣薪能が開催されます。また、世界遺産構成資産の一部であり、パワースポットとしても人気の御穂神社や常世神の通り道である「神の道」も付近にあり、ここを歩けば清々しい気持ちになります。■清水はサッカーのまち■今から半世紀前の1956年(昭和31年)、清水市(当時)の江尻小学校に一人の新人教師が着任しました。 「ボールをけってはいけません。」そんな校則がある時代でしたが、放課後、校庭で子供たちにボールをけらせました。そして、この年、全国に先駆けて少年サッカーチームを結成しました。1967年(昭和42年)には、清水市内の各少年団が半年かけて戦う日本初の小学生リーグもスタートしました。(▲道の歩道の境もサッカーボールが!!)新しいものを抵抗なく受け入れる港町の気質に加えて、「サッカーで人間を育てる」という清水の熱い思いが少年サッカーを育てました。 資料提供:NPO法人清水サッカー協会■次郎長富士■旅行けば駿河の国に茶の香り名代なるかや東海道名所古跡の多いところ中でしられる羽衣の松と並んでその名を残す街道一の親分は清水港の次郎長次郎長のゆかりの地をガイドさんに案内してもらった。■清水 次郎長■文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、 広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた 咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した 幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した。●山岡鉄舟は、幕末の三舟と言われた。幕末の三舟(さんしゅう)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。●咸臨丸のことは、今回、はじめて知った。( ;∀;) 朝から雨で富士山は見えなかった。12346歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.10
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■11月8日(月)後半 ■前半は、馬ロックと堂ヶ島・ここ■松崎町は、伊豆半島の南西部に位置する小さな海辺の町。あの大ヒット小説『世界の中心で、愛を叫ぶ』のドラマロケ地としても知られています。そんな松崎町を象徴するのが、蔵の壁などでよく見られる黒と白の幾何学模様「なまこ壁」の建造物。現在190棟余り残っており、昔ながらの風情ある景観を保ち続けています。■「伊豆の長八美術館」(いずのちょうはちびじゅつかん)。■ 松崎町出身の漆喰の名人、入江長八(いりえちょうはち)の※鏝絵(こてえ)作品が展示されています。漆喰とコテを使って仕立てられた独特な絵は、他の美術館にはあまり見られないものです。 ※鏝絵(こてえ)……漆喰を用いて作られたレリーフ。▲あちこちに、鏝絵があった。▼町を歩くと民具を活かして花を飾っていた。なまこ壁の通りを歩いていると、突然、フジバカマの畑に出た。ここは、旅する蝶、アサギマダラのために作った花畑だと偶然居合わせた男性が教えてくれた。数多くの蝶が乱舞していて、思わずシャッターを押したが、花に紛れてアサギマダラは、見えにくい。花びらになつてしまひし秋の蝶 山本静子■岩科(いわしな)学校■国の重要文化財に指定されている岩科学校は、伊豆エリア最古の学校と言われています。外観は「なまこ壁」を利用した社寺風建築ですが、バルコニーを取り入れるなど洋風の要素も入れており 、明治らしい和洋折衷のデザインが特徴的です。正面玄関に掲げられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)の書で、その上の龍は入江長八が棟梁の「のみ」を借りて彫ったと伝えられています。見所はなんといっても2階・西側にある「鶴の間」。白と黒のシンプルな外観からは想像できない、真っ青な空に羽ばたく138羽の鶴を見ることができます。▲窓からビートルズが覗いている家!▲アビーロードもある?!●バス●東海バス - 松崎営業所がバスターミナルとなっている。伊豆急行線 - 伊豆急下田駅へバスで50分伊豆箱根鉄道駿豆線 - 修善寺駅へバスで1時間40分●船舶●松崎港 - 現在は定期旅客航路は開設されていない。沼津港から定期旅客船が出ていたが、2003年に廃止になっている。美しい町なのに観光客が少ないのは、不便な交通のためだ。この日の宿は、土肥(とい)。明日の朝、土肥港からフェリーで清水に渡るからだ。 富士山が見えた!●8563歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.09
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■11月8日(月)11月2日(火)からこちらに来ているが、やっと富士山が見えた!見えた所は、堂ヶ島から近い、黄金崎という見晴らしのいいところ。■黄金崎は■駿河湾と富士山の眺望のすばらしさ、夕陽を浴びて黄金色に輝く美しい岩肌で知られる景勝地です。岬全体が公園になっており、遊歩道、芝生広場、展望台、富士山ビュースポット「富士見の丘」、三島由紀夫の文学碑などがあります。黄金色に輝くこの岩肌は、高温の温泉水や地熱による変質作用で染め上げられたもので、昭和63年には静岡県の天然記念物に指定されました。馬の頭そっくりな奇岩が最近では「馬ロック」の愛称で慕われています。「競馬の必勝祈願で立ち寄った方が大きく当てた」との噂も?馬ロックを描いた絵馬を「こがねすと」で販売しております。「こがねすと」で夕食用にかんてんを買った。このあたりは、ところてんの原料のテングサが採れるところ。江戸時代の伊豆地方では肥料としても用いられてきたが、1822年、伊豆の代官が肥料への使用を禁止したため、食用のみに用いられるようになったと伝えられる。現代では寒天や心太(ところてん)の原料とするほか、寒天質は菌類や細胞などを培養するために使われる培地(寒天培地)のもっとも基本的な素材である。 「銀二貫」という小説は、江戸時代の大坂・天満のカンテン問屋の話。仕入れに伊豆まで行った話を読んだような・・・。もう一度確認のために読んでみよう。 ここの夕日は美しいと聞くが、次の場所、堂ヶ島に急いだ。(▲右が象に似ているから象島)伊豆半島の中でも、景勝地として知られる堂ヶ島。ここに立つと、自然という芸術家がいかに偉大でユニークかがよく分かります。奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には天窓洞や三四郎島、トンボロなど目を見張るスポットがいっぱい。海に目を向けると不思議な形をした島や岩が出迎えてくれ、その間を遊覧する船で冒険心にあふれた小さな船旅を楽しむことができます。また、駿河湾に沈む夕陽は言葉を失うほどの美しさです。与謝野晶子・鉄幹夫妻が昭和10年2月23日から3月3日にかけて伊豆周遊の旅をした時に堂ヶ島を訪れて詠んだ歌だということだ。 夫妻は船原峠を越えて西海岸に入り、松崎町から婆裟羅峠を越えて東海岸に向かい各地で多くの歌を詠んだとのこと。▲洞窟に入る船。▼堂ヶ島 天窓洞の 天窓を ひかりてくだる 春の雨かな 与謝野 晶子 富士山見えた! 午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.08
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■きのう何食べた?■この美味しい日常をいつまでも。小さな法律事務所で働く雇われ弁護士・筧史朗、通称・シロさん(西島秀俊)とその恋人で美容師の矢吹賢二、通称・ケンジ(内野聖陽)。同居するふたりにとって、夕食の時間は、日々の出来事や想いを語り合う大切なひとときであった。ある日、史朗の提案で、賢二の誕生日プレゼントとして京都旅行に行くことに。賢二は夢のような出来事に大はしゃぎし旅行を満喫していたが、その旅行中に史朗からショックな話を切り出される。そしてこの京都旅行をきっかけに、ふたりはお互いに心の内を明かすことができなくなってしまうのだった。そんななか 、史朗が残業を終え商店街を歩いていると、偶然、賢二を目撃する。その横には見知らぬ若いイケメンの青年(松村北斗)が……。胸がざわつく史朗だったが、最近、秘密を抱えている様子の賢二に、その青年が誰なのか聞く事すらできない。 よしながふみによる人気漫画を西島秀俊・内野聖陽のW主演でドラマ化した『きのう何食べた?』の劇場版。山本耕史、磯村勇斗、マキタスポーツ、高泉淳子といったレギュラー陣がTV版に続き出演するほか、新キャストとして松村北斗(SixTONES)が参加。 人生、愛、命、親子、友情、仕事など、あらゆるテーマを内包したハートウォーミングドラマ「きのう何食べた?」は、多くの人の心に響く名言の宝庫。★「なに言ってんだ。死ぬなんて、そんな…そんなこと言うもんじゃない」(筧史朗)★「誰かのうれしいことってのは、やっぱうれしいじゃない」(矢吹賢二)映画でも言っていた(^▽^)/ ゲイだということから知り合った小日向(山本耕史)とその恋人、ジルベールこと航(磯村勇斗)との交友が映画でも描かれていた。(ジルベールというには、30歳と歳をとりすぎているが・・・。) ドラマを見た若い人は、「ジルベール」という名前を聞いて、ネットで調べ、「風と木の詩」という1970年代の作品にたどり着いたそうだ。■少年の名はジルベール■シロさんは、いつも安い物を狙って買う。冷蔵庫の中の食品の賞味期限を確かめて、残さないように作る。「これ、けんじの好物だから・・・」と言って作る。ふたりで、美味しいと言いながら食べる。桜の花を見ながら、「きれいだと言える人のいる幸せ」をふたりで確認する。ふたりの寄り添って暮らす姿勢にいつも涙が出る。私は、テレビドラマを見ながら、美味しそうと我慢できなくなり何回か、シロさんと同じものを作ったほど夢中になってみていた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.07
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■めぐみへの誓い■♪音が出ます!親子が会えることが奇跡になってはいけない。1977年11月15日夕刻、新潟。学校のバドミントン部の練習の帰り道で一人の少女が忽然と姿を消した。横田めぐみ(以下敬称略)13歳である。拉致工作員の手によって船底に閉じ込められためぐみは助けを求めて泣き叫び、壁をかきむしり爪をはがしてしまう。北朝鮮に着いてからは「朝鮮語を覚えたら日本に帰してやる」と言う工作員の言葉を信じ、ひたすら勉強に励んだ。然し彼女が18歳になった時、その約束が嘘であったことが分かる。日本に帰してもらえないことを知った彼女は遂に精神に破綻を来たしてしまう。1970年代の同じ頃、日本各地で行方不明事件が多発していた。工作員のリーダー、シンガンシュンは暴力的に、時には甘言を弄し、日本の若者を騙し北朝鮮に拉致していた。「スパイを防止する法律のない日本は、俺たちにとって楽な仕事場さ」と笑う工作員たち。日本ではめぐみの両親とその支援者たちの必死の署名活動が続く。■1970年代から80年代にかけて(70年代が中心)■多くの日本人が不自然な形でいなくなりました。日本の警察による捜査や、亡命した元北朝鮮工作員の証言により、これらの事件の多くは北朝鮮による拉致(本人が望まないのに連れ去ること)の疑いが濃厚であることが判明しました。そこで日本政府は、1991年(平成3年)以降、機会があるごとに北朝鮮に対して拉致問題を提起し続けたものの、北朝鮮は頑なに否定してきました。その間には、これまで孤独に戦い続けてきた拉致被害者の御家族が団結し、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」が結成され(写真)、国内でも拉致被害者の御家族への支援や被害者救出を求める運動が活発に展開されるなどの気運の高まりがありました。そしてようやく2002年(平成14年)9月に、北朝鮮の指導者・金正日(キム・ジョンイル)国防委員長(当時)が、小泉純一郎総理大臣(当時)との会談において、初めて日本人拉致を認め謝罪しました。その理由について金正日国防委員長は、(1)北朝鮮のスパイに日本語を教えるため(2)北朝鮮のスパイが日本人に成りすますためと説明しています。 2002年(平成14年)10月に、拉致被害者5名の20数年ぶりとなる祖国・日本への帰国が実現しました。 横田めぐみさんと両親は、拉致被害者のシンボルとして、度々テレビなどに登場するが、これ以外にも多くの被害者がいる。日本政府認定だけで、17名。その他、日本人だけでも数百名が拉致被害者だという。 小さな船の中の倉庫に閉じ込められためぐみさんは、手の指の爪がとれそうになるほど、もがいた姿が、彼女の恐怖ををえがいていた。 この映画は、市のホールで行われ、多くの人が見た。しかし、車に乗らない人にとって、ここは不便なところ。駅の近くや、他の市の建物を利用するなどして、複数回上映したらいいと思う。 この映画は、クラウドファンディングで作られている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.06
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■11月7日(日)後半■静岡県伊豆市の修善寺地区は夏目漱石、井伏鱒二などの文豪が滞在した温泉街。■踊り子たちは、この土地から天城トンネルを越え、下田へと向かった。修善寺川は桂川の通称で知られ、川沿いには温泉や旅館が並んでいます。和風の町並みは伊豆の小京都と呼ぶに相応しい趣ですが、歴史に関しても京都級。1194年には源頼朝の弟・範頼が自刃に追い込まれ、1204年には頼朝の子・頼家が暗殺されています。また、修善寺に点在する桂谷八十八ヶ所巡礼の札所(石碑)には四国霊場の土が埋まっており、巡ることで功徳を得られます。地域の顔である修禅寺にも必ず立ち寄りましょう。■修禅寺■地名の由来にもなっている古刹「福地山修禅萬安禅寺」▲境内▼修善寺〇(しゅぜんじ)✖しゅうぜんじお寺は、修禅寺(しゅぜんじ)町の名前は修善寺(しゅぜんじ)■「独鈷の湯(とっこのゆ)」■伊豆最古・修善寺温泉の発祥とされているのが「独鈷の湯(とっこのゆ)」です。807年、弘法大師が桂川で病身の父の身体を清める少年の姿に感じ入り、独鈷杵で岩を突いて温泉を噴出させたと伝わっています。のちに病気の父は温泉の力で元気を取り戻し、地域に湯治の文化が根付いたそうです。現在の「独鈷の湯」は桂川中州の岩盤上に設置された東屋の内側で慎ましく湧いています。残念ながら入浴禁止ですが、近づいての見学は可能です。■指月殿(しげつでん)■は、修禅寺の川向かいにある経堂です。非業の死を遂げた源頼家の鎮魂のために北条政子が建立し、修禅寺に寄進したとされ、境内には頼家の墓に加えて、頼家の忠臣たちが眠る十三士の墓が設置されています。堂内には丈六釈迦如来坐像が鎮座しています。これは高さ203cmの木像で、通常は徒手とされる釈迦如来でありながら、右手に蓮の蕾を握っているのが特徴。鎌倉時代の作品で、静岡県の文化財に指定されています。また、政子が寄進した「刺繍釈迦三尊仏」や「宋版一切経」の一部が修禅寺の「瑞宝蔵」に収められています。■桂橋■桂橋は虎渓橋と同じく桂川に掛けられた朱塗りの橋です。桂川を挟んで北側には河原湯という無料の足湯が存在し、寛ぎながら修善寺温泉の象徴・独鈷の湯を望むことができます。南側には竹林の小径があります。これは楓橋の辺りまで続く遊歩道で、両側にある孟宗竹(もうそうちく)の林は京都嵐山さながらの美しさです。■日枝神社は■修禅寺の隣に佇む神社です。弘法大師が創建した山王社で、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。修禅寺の鬼門を守っていましたが、明治期の神仏分離により独立しました。☝古い医院。■漱石 修善寺の大患■夏目漱石は、明治43年(1910)6月、胃潰瘍で長与胃腸病院に入院し7月末に退院、転地療養のため8月6日、伊豆・修善寺の菊屋旅館にやってきた。着いた翌日から体調すぐれず、翌々日からは胃痙攣にしばしば襲われ、「膏汗が顔から背中に出る」(日記・八月十二日)ほど。やがて吐血も加わり、24日には800グラムの大量吐血、人事不省の危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。天城湯ヶ島泊。 今日も富士見えず。●12070歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.04
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■11月7日(日)■伊豆の踊子■天城七里は 白い雨 あなたとあえたは 峠の茶店 わたしゃ踊子 太鼓をさげて湯の町ながす 旅芸人 花もつぼみの 紅椿 この日、宿舎を出る時は、雨が降っていて、「天城七里は白い雨」だったが、いつの間にか止んだ。この日、下田から天城越えをする。「伊豆の踊子」は、天城越えをして、下田に着くので、反対のコースだ。■河津七滝(かわづななだる)■天城トンネルを越える前に、河津七滝(かわずななだる)を通る。 河津には数々の滝が存在します。その中でも特に有名どころになっている七つの滝を「河津七滝」(かわづななだる)と呼んでいます。河津七滝は片道約1時間かけて巡ることが出来る全長850mの遊歩道があり、46mの吊り橋や(▲初景滝の前の踊子像)伊豆の踊り子像が2ヶ所あります。落差22mの釜滝(かまだる)には滝のしぶきが当たるほど近い展望デッキがあります。▲大滝(おおだる)河津七滝中、最大の高さを誇る滝です。 滝の全長30m、幅7m 。▲大滝の近くでみたワサビの販売店。■柱状節理■冷えていく溶岩やマグマ全体が縮むときに5角形や6角形の柱状の割れ目ができます。これを柱状節理(ちゅうじょうせつり)といいます。何度も見かけたが、伊豆で多いのだそうだ。滝へ続く道にあったナチシダ。(▲車一台がやっと通れる天城越えの古道)■天城越え(あまぎごえ)は、■静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にある天城峠を越える旅路のこと。伊豆半島を南北に縦断する天城峠越えの道は、天城路(あまぎじ)や、天城街道(あまぎかいどう)ともよばれる。伊豆半島の南に位置する下田と、北に位置する三島を結ぶ街道は下田街道といい、天城越えの天城路は同街道の一部にあたる。伊豆半島の内陸と半島南部の間には天城山の峰々があり、これを越えるのは下田街道の最大の難所であった。(▲下田側のトンネル入り口)1905年(明治38年)に天城山隧道(旧天城トンネル)が開通し、多くの人と物資がこの天城峠を越えて行き来するようになった。天城越えは川端康成の『伊豆の踊子』や、松本清張の『天城越え』などのテーマにもなり、天城山隧道には観光客が訪れる。1970年(昭和45年)に新天城トンネルが開通したため、旧街道の天城山隧道を含む天城路の現在は、「踊子歩道」とよばれる全長約16キロメートル(km)の遊歩道として整備されており、浄蓮の滝や自然休養林の「昭和の森」といった自然を楽しみながら歩くことのできるハイキングコースとなっている。▲私たちは反対側から来たが、観光バスはここに止まる。以前、バスツアーで来た時も、この景色は覚えている。 「伊豆の踊子」は、川端康成の代表作品。 松本清張の「天城越え」は「伊豆の踊子」のパロディだと言われている。■松本清張「天城越え」は■本人が解説するようにあの川端康成の「伊豆の踊子」のパロディである。「伊豆の踊子」の主人公の一高生は、修善寺温泉に泊まり、湯ヶ島温泉に泊まり、それから天城を登る。これに対して「天城越え」の十六歳の少年は、(反対方向に)下田から家出をして天城峠を歩いて、湯ヶ島、修善寺に出る。「伊豆の踊子」のヒロインは、純情可憐な少女に対して、「天城越え」では、あばずれ女だった。■表層だけの美しいストーリーを清張はどうしても許さないのである。■「伊豆の踊子」で表現されているような、純粋で清らかな心など、信用に値しないと言わんばかりである。たしかに、今日の倫理感覚で「伊豆の踊子」を読み直してみると、そこには清張が感じたはずの多くの違和感が残る。覗き、付きまとい(ストーカー行為)、少女趣味、差別意識などなど、今日の法律や倫理意識に触れるようなさまざまな背徳が隠蔽されているのである。清張はこの隠蔽された美意識や倫理観に純文学の虚飾性を感じたのかもしれない。それで「伊豆の踊子」に抵抗し、その実情を暴いてみせたのかも知れない。純文学を代表する川端康成の「伊豆の踊子」をパロディー化することで、それに強く反発したとも思われる。覗き、付きまとい(ストーカー行為)、少女趣味、って・・・。((´∀`))ケラケラ■石川さゆり 天城越え ■石川さゆりの歌は、松本清張の「天城越え」がもとになっているのだろう。■動画 天城越え■☝の動画の中に鼓を打つところがあるが、「すゑひろがりず」を思い出して笑ってしまう。((´∀`))ケラケラこの日、この後、修善寺に行く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.03
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■11月6日(土)後半■11/6・岬巡り・石廊崎■の後、ガイドさんの案内で、下田の町を歩いた。下田湾を背景に、ペリー一行の来航を記念して彼の胸像が建てられています。黒船でやってきたペリー艦隊が、日米下田条約締結の為に了仙寺まで行進したことから名付けられたペリーロード。どこか異国情緒あふれるレトロな雰囲気を醸し出す石畳の小道沿いにはなまこ壁や伊豆石造りの風情ある家並みが続き、小民家風の店やカフェに立ち寄りながらゆったりと散歩を楽しめます。■ マイマイ通り ■伊豆急下田駅より市街地商店街方面に行くメインストリート、その名を”マイマイ通り”といいます。マイマイとはカタツムリのこと。ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したものと考えられています。それにちなんで、道路にカタツムリのような形が!10代の頃のお吉の写真を見たが、この絵とまったく同じで美人だった。今なら、〇〇坂48のセンター間違いない!!山内容堂と勝海舟が会って、そこで脱藩浪人として「指名手配中」だった坂本龍馬が脱藩を許されたというお寺、■宝福寺■明治から続く老舗の酒屋さんが、壁や住宅の一部を利用して見ごたえのある資料館を作っていた。無料だったが、お金をとってもいいと思えた。▲壁のホーローの看板!!瓶が割れないように竹の籠に入れて移動したそうだ。▲道に描かれていた、幕末の撮影風景。写真に左右が逆に映るから、侍の刀は右にさしている。着物の衿も左前に着ている。▲下田で見た椿。葉の先が割れている。1853年、黒船を率いて日本を開国させ、1854年5月25日、下田「了仙寺」にて「下田条約」を締結させたアメリカ海軍の東インド艦隊司令長官、マシュー・カルブレース・ペリー。静かな寺の中に、猿が迷い込んで大騒ぎ!!(左上)この日も富士は見えません。●11658歩。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.02
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女賢しくして牛売りそこなう 売り手の女がなまじ利口だと、かえって牛を売りそこなう。女は賢くても、 広い視野や大局的な判断に欠けることが多いから、とかく失敗しやすい、という意味。■売り手の女が賢いと、■売り物の牛について不必要なことをいったりして、売り時を失い結局損をするという意味。女は利口そうに見えても目先のことにとらわれ、広い視野からものごとを判断できないため、大局を見失って失敗することが多いということ。牛を売る時に、少しでも高く売ろうとして「この牛は丈夫で少しの欠点もない、足にも傷ひとつない。」などと言ったために、買い手がその言葉をきっかけに調べまわり、足に傷を発見して買うのをやめたという話から。利口ぶる女性をなじったことば。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆うし年ですからと牛にまつわることを書いているが、残念ながら「女賢しくして牛売りそこなう 」という諺もまた牛にまつわるものだ。ジェンダーギャップ世界121位の日本社会。オリンピックの会長をしていた森氏が女性蔑視発言をしたと言って、会長をおりたのは記憶に新しい。83歳という高齢により「これまで女性がいなくてもうまくいっていた」という過去のあまりにも長い成功体験が、女性蔑視ともされる発言につながっていたのではないかと考えられる。 コロナ禍にあかべこってピッタリのグッズだ!!■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■「商いは牛の涎とブログ■■こって牛■■藤原定家の牛の歌■■赤べこ■■生薬「牛黄(ごおう)」■■牛耳る■■牛神様■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.01
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