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■映画ファンが選ぶ、ベスト映画2020■1位■『天外者』■2位■『ミッドナイトスワン』■3位『TENET テネット』4位『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』5位『きみの瞳(め)が問いかけている』6位『ワンダーウーマン 1984』 6位■『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』■ 6位■『コンフィデンスマンJP プリンセス編』■9位『浅田家!』9位『パラサイト 半地下の家族』 9位■『ジョジョ・ラビット』■◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 昨年は、多くの古い映画を見た。■ロバと王女■■大脱走■■オズの魔法使い■ ■二十四の瞳■■千と千尋の神隠し■■女系家族■ ■もののけ姫■■風の谷のナウシカ■どれも、何十年という時代を経ても面白かった。大阪の十三(じゅうそう)に■第七芸術劇場■というミニシアターがある。通称はナナゲイ。リッチョット・カニュードが「映画は7番目の芸術である」と定義したのが名称の由来である。週一で行っていた映画に、コロナのために今月は、行けなかった。もちろん、映画館は、営業しているのだが、電車に乗っての移動などコロナに感染するリスクは大きいので行かないことにした。俳句の月例会も12月からない。沢山の芸術がコロナで休みになっているのだろうな・・・。■2021年1月の映画■コロナで見に行かなかった。■書き残したネタ■*朝ドラ「おちょやん」の浪花千栄子*民藝*大阪弁*読書ネタ*丁寧すぎる言葉*一人称について*プラスティックごみ。*白樺のかご*天蓋ベッド*葛井寺と藤井聡太*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.31
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■2020.11.29(日)■100年の時を超え大正ロマンあふれる門司港駅が復活!■駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定された門司港駅。老朽化への対応や耐震補強を行うため、2012年に保存修理工事が始まり、翌2013年から、駅舎を素屋根(囲い)で覆っての解体・修理・補強・組み立て工事が行われました。約6年の歳月を経たその工事も2019年に完了。大正時代の創建時の姿が甦りました。[注]現役の駅舎で国の重要文化財に指定されているのは、現在、門司港駅と東京駅の2つだけです。門司港駅の保存修理工事は、創建時(大正3年)の姿に復原することを基本方針としました。外壁は石貼り風にモルタルを塗り、屋根には天然の石盤をふきました。また、失われた屋根まわりの飾りを復原し、昭和4年に設置された正面車寄せのひさしは取り除いています。なお、正面の大時計は大正7年に取り付けられたものですが、その歴史的価値から残すこととなりました。▲旧一等二等待合室。▲旧一等二等の待合室説明と▼一等2等待合室の暖炉。▲旧三等待合室。入り口が美しい▼こちらも暖炉がついている。旧三等待合室は、スターバックスカフェになっている。2階には、貴賓室がある。天井は、最も格式の高い天井様式、格天井(ごうてんじょう)。2階にあるレストランで、お茶をした。高い!!( ;∀;)その後、5時発のフェリーに乗り、夕食のバイキング、風呂・・・。瀬戸内は波静かなり秋夕焼(ゆやけ) はるな翌朝まだ暗いうちに大阪港に着いた。●24km ●8136歩■「「Go To キャンペーン」を利用して旅行に行ってきた。■今回の山口行は、出発前から、(コロナ禍の第3派)の拡大が、ジワジワと報道され始めていて、不安な旅立ちでもあった。旅の経過とともに、輪をかけたコロナ感染者拡大の情報が、テレビに溢れかえり・・・ほとんど感染者の出たことのなかった山口県でも、岩国市でクラスターが発生するなど、緊張感も感じていたが・・・危惧したことは、起きなかったのは、幸運だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.29
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■2020.11.29(日)下関市の港の近くにレトロな建物がある。そのひとつ、旧秋田商会ビルに行った。■旧秋田商会ビル■1905(明治38)年に設立された秋田商会は、木材業や海運業を手がける会社として、下関の発展の牽引役となりました。同ビルは1915(大正4)年の竣工。その大きな特徴は、屋上に庭園を備えていることです。鉄筋コンクリート造の建物は社屋兼住居で、1階には建物の約3分の2を占める広い事務室と応接室、小室、階段室が設けられました。事務所が洋風の建築である一方、2・3階の住居には書院造が取り入れられていて、和洋折衷のユニークな造りが特徴です。なんといっても珍しいのは、屋上に茶室のような離れ座敷があること。建物の周囲には樹木を植え、今から100年以上も前に屋上庭園をつくっていたのです。また2・3階の書院造は重厚さがあり素晴らしく、3階は大広間が設けられています。さらに最新鋭の設備も随所に取り入れられました。和風のシャンデリアを自在に上げ下げできる装置、トイレや浴室の華やかなタイル、料理や荷物を運べる小型のエレベーター(ダムウエーター)などを見ると、秋田氏に“新しいもの好き”な一面があったことが伺えます。ダムウエーターは屋上まで届くように設置されているので、屋上から景色を見渡しながらたびたび宴会を開催していたようです。屋上へのらせん階段。使用禁止になっている。▲屋上の緑は植え込み。▼茶室も造っている。▲凝ったデザインの玄関。▲裏口は、パリのメトロでみかけるアールデコ風の飾りがついている。埋め立て前は、このあたりまで海があった。この建物の丸い屋根の部分は、灯台として使われていたそうだ。▲旧秋田商会ビルの隣の建物は、郵便局。同社の創業者・秋田寅之介夫は、港のすぐ前にビルを構えることで、当時中国などの連絡に重きを置いていた。そして、郵便局の近くにビルを置くことで郵便で全国の様子をいち早く知り商売に生かした。■下関南部(なべ)郵便局■旧秋田商会ビルの向かい側に建つ「下関南部(なべ)町郵便局」は、現役の郵便局舎としては日本最古の建物です。明治33(1900)年に建てられ、平成13(2001)年に国の登録有形文化財に登録されました。レンガ造りのしっかりしたたたずまいと、落ち着いた色調が素敵な建物です。現役の郵便局である一方、中庭にはカフェがある。。▲正面の丸ポストも現役。なんと、旧赤間関局の郵便用具職人が丸ポストの生みの親というからさらにびっくり。金子みすゞは、下関に住んでいたので、この郵便局から雑誌社に詩を送ったのではないだろうか。旧秋田商会ビルから道を隔てて旧英国領事館もある。地図で「唐戸」というのが沢山あるが、かつて唐の船が行き交っていた名残りだろうか。かつては、この近くに下関駅があって、九州への連絡船に乗り換える人で賑わっていた。もちろん、汽車に乗って商売人が来たので、秋田商会は、この地にビルを作ったわけだ。海底トンネルを通って、福岡県へ。■山口県のおすすめスポット■■下関は戦いのまちだった。■■平家を弔う赤間神社と松本清張の文学碑■■下関ふく物語■■絶景・角島大橋■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.28
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■2020.11.28(土)この日は、下関市の長府という歴史のある地区に行って、ガイドさんと1時間ほど町を廻った。(☚横枕小路)■下関市にある城下町・長府は、■大化の改新後に長門国に国府が置かれ、「長府」と呼ばれるようになったと『日本書紀』にも記されている歴史ある町です。●このように「府」がつく地名は、歴史的に中心地であった。それなにに「府」を嫌って「都」にしたいといっていた大阪維新の会って歴史を学べと言いたい。平成25年度には「都市景観大賞」で大賞(国土交通大臣賞)も受賞した美しい町並み。■長府観光■城下町として知られる長府のなかで、その面影をもっとも残す通り。散策していると、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような雰囲気に浸ることができます。合戦に備えた配慮がされており、武家屋敷の土塀は防壁として築かれているほか、路地はT字になった部分が多く迷路のように作られています。●横枕小路●武家屋敷が建つ古江小路と並んで、歴史を感じさせる通りが横枕小路です。学問の神様としても有名な「乃木神社」の横を東西に抜ける細道で、道幅が狭いため車は通行できません。長府を代表する練塀(ねりべい)と呼ばれる塀が続く道は樹葉に覆われており、まるで江戸時代へと繋がるタイムトンネルのよう。▲長府中学校門から毛利邸へ抜ける高低のある通りを「切り通し」と呼び古江小路とともに練塀の多くある地域です。▼▲あっちも▼こっちも絵になる風景・・・。長府はもっと取り上げられるべき町だと思う。功山寺近くにも絵になる風景が・・・。●功山寺●維新回天の旗揚げが行われた寺。鎌倉期創建の禅寺で長府毛利家の菩提寺。幕末に高杉晋作が維新回天の旗揚げをした場所として知られる。純唐様建築の美しさを保つ無彩色の仏殿は国宝に指定されている。●長府毛利邸●1903年に、長府毛利家の第14代当主・毛利元敏公によって建てられた邸宅。明治天皇もご宿泊され、一部の部屋は当時のまま残されています。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園が魅力で、新緑や紅葉の季節になると一段と見ごたえを増します。四季折々の山野草が生けられた母屋では、セルフサービスの緑茶で一息つくことができます。城下町・長府のほぼ中心に位置しているため、散策途中の休憩に最適です。●乃木神社●明治天皇の崩御の際に殉死した軍人・乃木希典(のぎまれすけ)を、文武両道の神として祀る神社。1920年1月30日に創建され、学問の神様としても知られています。(▲「乃木の誉」というお酒)1859年に長府に転居した彼は、西郷隆盛による西南の役で官軍として参戦するなど、多くの武功をあげました。▲乃木家の井戸と碑▼境内には、彼が幼少時代に育った家が復元されているほか、夫婦の銅像も建てられています。▲ 乃木さんが休めをして小鳥来る ガイドさんの知人の句古い町の中を「壇具川」という川が流れている。江戸時代には川岸に多くの米倉が建てられて藩の年貢米を運ぶ船が行き来したと言う「壇ノ浦」裏は近いが、壇ノ浦と壇具川になにかゆかりがあるのだろうか?左に関門大橋を見ながらこの日の宿へ向かう。▲宿からの眺め。●69Km ●7919歩■山口県のおすすめスポット■■下関は戦いのまちだった。■■平家を弔う赤間神社と松本清張の文学碑■■下関ふく物語■■絶景・角島大橋■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.27
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今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした。その頃は、ご飯を炊くのも風呂をたくのもすべて、たきぎだったので、一年中のたきぎを冬の手に入れるために荷車を引いて山に行くのだった。そのため、朝から夕方まで山で過ごすから昼の食事は山でとることになる。山に着くと、父は、炉をつくることから始める。「木の枝を集めてきて」と父と母に言われて、私は枯れ枝を探しに行く。その間に母は、飯盒(はんごう)に米を入れれ流れる水のある場所まで行き、米をとぐ。 お茶を作るために薬缶に水を入れる。この頃は、家でも水道はなく、井戸水を飲んでいたので、山の水を使うのに、誰もまったく抵抗などなかった。父が近くにあった石を使って造った炉に枯れ枝と新聞紙で火をつけ、しっかり燃えると太めの枝をくべ、飯盒を火にかけた。薬缶は、炉の石の上に乗せた。次は、おかずを作る。 ある時は、「つけあみ」と呼ばれていたアミの塩辛を空き缶に入れ、炉のそばに置いた。空き缶に入れた「つけあみ」は、しゅーという音でたちまち熱くなり、塩で白くなった。またある時は、「ネギ味噌」というおかずをつくった。これは、きざんだネギを家から持って来て、これまた家から持ってきた味噌を空き缶に入れ、薬缶の湯を注ぎ、炉の脇に置いておく。 飯盒のご飯が炊けたら、みんなで火を囲みながら弁当箱に熱々のご飯を入れ、その上に熱々の「つけあみ」か「ネギ味噌」を乗せて食べる。細い木の枝で父の作った箸。今、空前のキャンプブームでキャンプ用品も色々出ている。鉄の火吹き棒まで売っていると知ってびっくりした。私たちは、山に持って行かなかったし、火吹き棒の代わりの火吹き竹は、家で作った。キャンプは楽しいに違いない。60年以上前の山で食べた、キャンプみたいなお昼は、今も楽しかったと思い出すのだから・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.26
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■2020.11.27山口市から美祢市に行って秋芳洞と秋吉台を見る。■秋芳洞■は、山口県の中央部・美祢市にあります。周囲は「秋吉台」と呼ばれるカルスト台地で、数々の洞窟や鍾乳洞があり、その中で一番大きい観光洞窟が「秋芳洞」。その規模は東洋でも屈指と言われ、観光洞では日本一の規模を誇っています。昭和天皇がまだ東宮だったころにご訪問され、それをきっかけに宮内庁が「秋芳洞」と命名され、今に至っているそうです。10kmほどもある洞内のうち、1kmほどのコースを様々な鍾乳石や石筍(せきじゅん)が彩っているようすを見学することができます。秋芳洞から秋吉台まで車で移動。広大な秋吉台をガイドさんの案内で1時間コースのカルスト台地を歩いた。■秋吉台■秋吉台(あきよしだい)は、美祢市の中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。1955年に国定公園(秋吉台国定公園)に、1964年に特別天然記念物に指定されています。▲草木が生えていないのは、毎年野焼きをするから。野焼きをしないと左の中のように木が生えて森になるという。雨水が石灰岩の割れ目に沿って集中的に地下に浸透する過程で周囲の石灰岩を溶かすため、地表にはドリーネ(doline: 擂鉢穴・落込穴; 語源はスロベニア語の谷、米語ではほかにsinkhole)と呼ぶすり鉢型の窪地が多数形成される。ドリーネでは、野菜などが作られるがこれを「ドリーネ耕作」という。(▲ドリーネ耕作の跡。)明治・大正時代になると、秋吉台上にたくさんあるドリーネの底は、農業に利用されるようになり、ドリーネを耕すことからドリーネ耕作と呼ばれた。昭和20年代の後半までは、ドリーネの積極的な利用がありましたが、合理的な現代農業の発展で、生産性の低い秋吉台のドリーネ耕作は衰退の一途をたどり、現在ではほとんど見ることができなくなっています。■ドリーネ耕作■ ドリーネ耕作は水はけが良くゴボウやサトイモの栽培に適した場所。だからこのあたりは、ゴボウ料理が名物だそうだ。秋吉台の中の道を通って、「別府弁天池」。■「別府弁天池」は、■全国的にも有名な景勝地である秋吉台や秋芳洞の麓、別府厳島神社の境内にひっそりと佇む湧水。環境庁が指定する“日本名水百選”にも選ばれています。南国の海のようなコバルトブルーとか、宝石のようなエメラルドグリーンとも呼ばれる美しさ!その神秘的な色合いに、思わず誰もが見入ってしまうに違いありません。その美しさをカメラに収めようと、多くの人がスマホを持って撮影しています。何故青いの?この青さの秘密は、石灰岩で構成されたこの地特有のカルスト地形にあります。「別府弁天池」では、カルシウム分を含んだ透明度の高い水が湧き出ています。その湧水が太陽光に照らされ、青色の光のみが反射することにより、このような神秘的なブルーに見えます。池が最も美しく見える天候は、光が反射しやすい晴れです。しかし時間帯によっては池に木の影が不要に映り込みすぎるので、薄曇りの天候も良いです。風は強過ぎず無風状態の方が、池の表面が波立たず、より美しく見えます。湧水を飲むことも出来、専用の給水所も設置されています。「1杯飲めば1年、2杯飲めば2年長生き」と長寿が保たれ、財宝が授かるとも言い伝えられるパワースポットでもあります。▲宿の窓から見た、山口市の景色。この日も山口市に泊まる(連泊)。●89Km ●12602歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.25
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■2020.11.26(木)■下松市・笠戸島■から山口市にやってきた。五重塔などがある香山公園の前のインフォメーションセンターでガイドさんと待ち合わせして公園の中を案内してもらった。山口市は山口県のほぼ中央に位置し、豊かな自然や歴史が共存する文化都市です。室町時代に大内弘世がここ山口市を大内氏の本拠としたことで発展し、その後の大内義興・義隆の頃には西国一の大名として栄華を極めました。また幕末には萩市から山口市に藩庁が移され、明治維新の中心的役割を果たします。維新の志士や文化人も入浴した「湯田温泉」。穏やかな瀬戸内海、癒しの森。山口市には歴史遺産や自然が数多く残り、観光都市としての発展も期待されています。■国宝 瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔■全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。ちなみに、日本三名塔の他2基は、奈良県の法隆寺と京都府の醍醐寺にある五重塔です。▲「雪吊り」は積雪で木の枝が折れるのを守るための対策。▼■枕流亭(ちんりゅうてい)■香山公園内にあります。幕末薩長連合を推進するために、慶応3年(1867)9月薩摩藩の重臣小松帯刀、西郷隆盛らが続々と山口にやってきました。当時道場門前にあった安部半助方の枕流亭の2階で会見し、盟約がなって、幕府を倒す連合討幕軍の結成を誓いました。枕流亭は、その後2、3度移築され、近年修理されてこの地に移されました。 「沈流」とは、「漱石沈流」のうちの半分の言葉。■夏目漱石■漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。▲グレイヘアが素敵な人(左)発見!!!●香山墓地(毛利家墓所)幕末の藩主、毛利本家の歴代諸霊のお墓があります。(15代毛利元昭・夫人美佐子/13代毛利敬親・夫人妙子/14代毛利元徳・夫人安子)●鴬張りの石畳通路に立ち石段に向かって手を叩くとあら不思議、美しい音が反響します。●雪舟像水墨画家、雪舟の銅像があります。雪舟は明において禅学・画技を収めて帰国後、応仁の乱で荒廃した京都を避け、大内氏の庇護のもと、山口天花にある「雲谷庵」を拠点に過ごしました。この香山公園から車で少し行ったところに、■雪舟と重森三玲の庭■を見ることができる寺がある。■常栄寺 雪舟庭■庭園は、今から約500年前、妙喜寺の時代に、大内政弘が別荘として、画僧雪舟に築庭させたものと伝えられ、現在国の史跡及び名勝に指定されています。庭園は本堂の北面にあり、内庭は約30アールの広さで、東、西、北の三方が山林となっています。近年この山林も指定地域に含まれました。本堂南側には重森三玲(しげもりみれい)による枯山水庭園が作られている。本堂南側には、昭和43年に重森三玲(72歳)によって作庭された「南溟庭(なんめいてい)」がある。雪舟より良い庭園を造られては困るというころで、「上手に下手な庭を造ってもらいたい」と依頼された。庭園は雪舟が中国へ往復した海をイメージしたとされ、石はX字状に配置し有機的に線で結ばれる。(▲雪舟筆塚など)室町時代の作庭家・雪舟と、昭和の作庭家・重森三玲の両庭園を一度に観賞できる夢のような日本庭園。●88Km ●7476歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.23
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■2020.11.26(木)夕べ泊まったところは、山口県下松市笠戸島。今日は、これから山口市に行く。が、その前に、笠戸島をちょっと見ていこう。★笠戸島は下松市の南海上に位置し、大島半島とともに笠戸湾を形づくっている。入り江が多く、古くから良港として知られていたことから平清盛が厳島神社を宮島に置くかこの笠戸島に置くか悩んだという話も残されている。★江戸時代には徳山湾や笠戸湾は毛利藩の三白政策(米・塩・紙)により積荷を運ぶ船で賑わいを見せ、笠戸島の入り江にも風待ち・潮待ちの船が並んだ。笠戸島から見る瀬戸内海の島々の間に沈む夕日の美しさは、西日本有数の名所として知られています。瀬戸内海国立公園にある笠戸島は、「七浦七岬」と呼ばれる変化にとんだ海岸線と豊かな自然に恵まれた島。■笠戸島の浦地名■●本浦(ほんうら)●東風浦(こちうら)●垰ノ浦(たおのうら)●大浦●深浦●小深浦●江の浦●沖浦■笠戸島の岬地名■(鼻、埼を含む。)●瀬戸岬●鎌石岬●はなぐり岬●小城(こじょう)岬●大城(おおじょう)岬●火振岬(ひびりみさき)●赤鼻●カツネ埼■写真:はなぐりの地名■「はなぐり海岸」というところに着た時、夫が「はなぐりって何?」と私に聞いた。「はなぐりというのは、牛の鼻にあけた穴のこと」と私。「でもなんで、ここを『はなぐり海岸』言うんやろう?」と夫。「きっと、この辺りの岩に穴があいていて、それをはなぐりに見立てたんと違う?」と私。帰って調べたら、私の推理が当たっていた!!▲本当にはなぐりのような奇岩があったのだ。 その他、島の下に「火振岬(ひぶりみさき)」という名前の岬がある。この岬から火を振って通信の狼煙をあげていたのではないだろうか。 また、「垰ノ浦(たおのうら)」という地名も珍しい。「垰(たお)」とは、峠のこと。■峠は、中国地方で垰あるいは乢とも書き、■「たお」「とう」「たわ」「たわげ」などと呼ぶ地方があり、地名などにも見られる(岡山県久米南町安ケ乢など)。子どもの頃住んでいた岡山県にも「垰」とかいて「たわ」と読む地名があった。ここ笠戸島も中国地方なので「たお」なのか。ここは、この島の峠なのかも・・・と考えるのが楽しい。■笠戸島のある下松市(くだまつ)の地名は、■七星降臨伝説。はるか昔、この地の松に大星が降ったことから「星が降(くだ)った松」が「下松(くだまつ)」になったという伝説が残っている。■笠戸島■地名の由来「広島県宮島町(厳島)の明神が笠を置いた」という伝説があることから。海の上を歩く海上遊歩道を歩いていくと・・・。魚!!ヒラメの供養塔だそうだ。ここ笠戸島では、ヒラメの養殖が盛んで、昨日の宿の夕食はヒラメのお刺身が出た。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.21
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■「寒中丑紅」■みなさま、紅屋の風習「寒中丑紅」をご存知ですか? 江戸時代の紅屋では、「寒中丑紅」という大売出しの日を設け、寒中(小寒~節分の約一ヶ月)の丑の日に紅を購入したお客様に、景品として牛の置物を差し上げていました。 寒の時期の紅は、不純物が少ない水で作られるため、唇や口中の荒れを防ぐ薬効がある良質な紅とされ、評判でした。そこに目をつけた紅屋が、丑の日に大売出しを始めたのです。(略)江戸の人は、貰った牛の置物を、「撫で牛」のごとく撫でて健康を祈願したり、また、赤い座布団に載せて神棚に飾ることで、「その一年、着物に不自由しない」とも言われていました。 ●丑紅(うしべに)極寒の丑の日に買う紅は、「寒中の丑紅」、あるいは「寒紅」と呼ばれて、唇のあれに何よりもよく効く、とされる。●幟(のぼり)の「丑紅」の文字を認めて、ああ、と幸は頬を緩めた。老女が路上で商っているのは、寒紅だった。極寒の丑の日に買う紅は、唇の荒れを取り、美しく染まる、と言われていた。もう少し待てば、小間物屋の店先で、牛の人形を添えて売られるが、そちらは値が張る。■あきない世伝金と銀■ ●特に、寒中の丑うしの日に買い、あるいはつけたものは丑紅ともいわれ、子供の疱瘡ほうそうなどによくきくといわれた。■みをつくし料理帖(9)■●ベニバナは全国的に栽培されていたが,収量が少なく〈紅1匁,金一匁〉といわれたほど高価だった。特に良質の紅は,冬のいちばん寒い寒(かん)のうちの深夜,それも丑の刻につくったものが色も変わらず品質も優れていたので,寒紅(かんべに)とか丑紅(うしべに)とよばれて珍重されていた。紅は皿や猪口(ちよこ)や小筥(こばこ),板などに塗りかさねて市販された。 コロナでマスクな毎日。口紅をつけることが出来る日はいつくるのだろう・・・。本日、20日は大寒。■撫で牛■■1月5日は、牛日(ぎゅうじつ)■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.20
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■2020.11.25(水)岩国市の宇野千代の生家を後に、柳井市に向かった。柳井市でも観光ガイドさんに市内を案内してもらった。■柳井市は■山口県の南東部、岩国市と徳山市の中間にある、南北32km、東西20kmの小都市です。古くは室町時代から、柳井川の河口に開けた港を中心に港町として栄え、江戸時代には、西日本一帯を交易圏とする山陽道屈指の商都にまでなった歴史があります。当時の栄華を今に伝える、土蔵造りの建物が多数現存しており、「白壁の町並み」として、市民や観光客から親しまれているほか、今も四国松山とはフェリー航路で結ばれているなど、「港町・柳井」は健在です。江戸時代に「岩国藩のお納戸」と言われていた、当時の商家や町家が残る約200mにわたる白壁の町並みをゆったり散策。当時の豪商の屋敷「商家博物館むろやの園」や重要文化財の「国森家住宅」、「国木田独歩旧宅」など見どころがいっぱい。柳井白壁の町並みは約200mくらいが歴史的建造物群保存地区ですが、路地に入って柳井川の方へ行っても、とても良い雰囲気です。白壁の町並みの軒先には金魚ちょうちんが飾られて独特の風情です。(▲ガイドさんの制服にも金魚。)柳井はあまり観光地化していないので、観光客向けの店などは比較的少ないと思いますが、現在もこの街に暮らす住民の努力で、町並みを守り続けていることは素晴らしいと思います。中には通りの白壁だけを残して、内部に自宅を構えるなど、町並み保存の為の苦労が伺えます。白壁ふれあい広場 → しらかべ学遊館 → やない西蔵 → 甘露醤油資料館(佐川醤油蔵)→ 重要文化財 国森家住宅(有料)月曜休館 → 町並み資料館 →商家博物館 むろやの園(有料)水曜日休館 → 柳と井戸(湘江庵)→ 帰路(同じ道を戻ります)→ 白壁ふれあい広場(観光バス駐車場)■柳井ガイド2時間コース■▲軒先の金魚のちょうちん。▲柳井の地名の元になった場所。▼(▲屋根の渦巻きのマークは水を表し、火災を防ぎたいという思いがあらわされている。)■元禄の大火■元禄期(1700年頃)から70年の間に、柳井の町は100軒以上の家屋を焼失する大火に4回みまわれています。(▲💗マークは、「猪の目」という意味で魔除け。■猪の目■)特に明和5年(1768)の大火では、古市、金屋町などの180軒が焼失しており、これを契機として町のあちこちに火伏地蔵や愛宕権現が建立されます。宝来橋のたもとにある愛宕権現もこの頃のものと思われます。(▲防水用・消火用水の蓋)▲「消」という字は、消火用の井戸が二掘あるという意味。▲この町には珍しい洋館が残っていた。■柳井・瀬戸内の海運が造った白壁の町並み■笠戸大橋を渡って、笠戸島へ。笠戸島にある国民宿舎から見える夕日がきれいだった。▲ヒラメの刺身。●71Km ●6021歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.18
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■2020.11.25(水)「宇野千代生家」 は明治期の建物で、1974年 (昭和49年) には宇野千代本人により、ほぼ昔のままに修復されました。約300坪の敷地内の広い庭には千代の好んだモミジが多数植えられ、新緑や紅葉は格別の美しさです。また小説「薄墨の桜」のモデルになった、岐阜県根尾村(現、本巣市)の樹齢1500年の老樹「薄墨桜」に由来する「薄墨桜」3本が春を彩ります。2007年 (平成19年) には国の登録有形文化財に指定され、現在、NPO法人「宇野千代生家」により一般公開されています。生家の前の道路は旧街道 (山陽道) で、狭くカーブが多い道です。宇野千代がなんで有名かというと、何度も結婚離婚を繰り返したこと、しかも有名人と、ではないだろうか?■尾崎士郎■1926年(大正15年) - 尾崎士郎と正式に結婚。千代と尾崎士郎は、大森新井宿の下宿屋など大森近郊を転々としたあと、東京府荏原郡馬込町1578番地に居を構えた。大正12年5月のことである。馬込での最初の家は、百姓家の不要になった納屋。二、三年経って、隣地の丘に10坪ほどの赤い洋館を建てた。尾崎を慕って集まる客は多く、文学談義にふけりつつ酒が入ると唄になる。千代はそれを聞きながら嫌な顔ひとつ見せずに酒食のもてなしに励んだのである。吉屋信子が洋館を見て、金ピカのベッドを千代に贈ったという。■梶井基次郎■1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。宇野千代は「報知新聞」に、昭和4年12月21日から翌5年5月22日まで150回にわたって、足立源一郎の挿画で新聞小説『罌粟はなぜ紅い』を連載した。千代は尾崎士郎との別居生活の中、昭和4年10月から12月にかけて、妹の勝子とともに神戸にいたのだが、大阪住まいの梶井基次郎とはその折に何度か会っている。小説の題名は、千代から相談を受けた梶井がつけたのだという。小説中にガス中毒の場面がある。■東郷青児■1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲、尾崎と正式に離婚。千代はその写実をより深めようと、当時情死未遂事件で騒がれた東郷青児の許を訪れるのだが、そのまま同棲することになった。昭和5年のことであり、二人はその翌年、東京世田谷の借地に「コルビジェ風」の洋館を建てて新しい生活を始めたのである。昭和6年5月、千代の短編を集め、青児が装幀し挿絵を描いた豪華限定本『大人の絵本』が白水社から刊行された。■東郷青児ゆかりの「喫茶ソワレ」■■北原武夫■宇野千代と北原武夫は昭和14年4月1日、画家の藤田嗣治と作家の吉屋信子の媒酌で結婚し、帝国ホテルで盛大な披露宴を催した。このとき千代42歳、北原32歳であった。招待状を受け取った人の中には「エイプリル・フールじゃないのか」「どうせ直ぐ別れるよ」などと言うものもおり、騒がしかった。▲原稿を書いたといわれる机。■NHK美の壺にも出たという。■▲「ソロバン橋ひいふうみい」とあるのが、ソロバン橋とは錦帯橋のこと。錦帯橋を作り替えた時、橋に使用していた材を市民に販売した。▼の腰掛もその時の材を利用したもの。紅葉の美しい広い庭は、京都を旅行した際に感銘を受けた庭を参考に作ったという。庭の中には、仏の像もある。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.16
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今年、お正月の食器として、新しく加わったのが、塗りの雑煮椀。夫の実家から引き継いだもので、夫の母親が結婚した時には、すでにあったというからどんなに少なく見積もっても70年以上。この器は、夫の父親の家で使っていたもので、元は20客あったそうだ。それを、夫の実家と夫の叔母がそれぞれ10客づつ分けた。もちろん、箱入り。私は、骨とう品が大好きで、貰い物の中に沢山の古い食器がある。しかし、雑煮椀はなかったので、本当に嬉しい♪お椀って「赤」と思っていたけど、本当は、朱塗りなんだと鮮やかな朱色を見て思った。この模様はなんというのだろうか・・・。今年からは、塗りのお椀がお正月の主役。塗りのお椀でお雑煮が食べられるということは、私がこの家で元気に暮らせるということ。これからは、一年一年を大事にしていきたい。とはいえ、娘が欲しいといえば、譲るつもり。未だに、食器や家具など、いいものがあると物欲がふつふつと湧くが、体はいつまでもつか分からないから・・・。正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし〜 一休禅師 〜一休の歌がしみじみ分かる歳になった。●お正月の買い物メモ●*お雑煮用のミズナが柔らかくなくて困った。*おせち料理は、毎年多すぎる。来年こそは、足りないくらいにしよう。*松、南天、ハランなどが家ので間に合うし、柳も見つけたから来年買うのはは、正月の花も、センリョウとウラジロだけでいい。*ケーキか和菓子が欲しかった。*イチゴの粒の大きいのを少し買って、一日一粒、3日間で食べた。 イチゴを買ったのはセイカイだったと思う。■正月の器を仕舞う。2018■■正月の器を仕舞う2020■◆手前左の食器、蓋つきの椀は、お雑煮用で、もう30年くらい前に骨董品店で買ったもので松竹梅の模様。塗りのものは、扱いが大変なので陶器のものを買った。◆手前、右の器は■鶴の皿。■バザーで一枚70円で買った。◆上の段右の蕎麦チョコは、湯のみに使っていて、100円ショップで。◆真ん中の小さな湯飲みは、酢の物などを入れるものとして使っている。もらったもの、これも松竹梅。◆左の奥の皿は、もらいもので松と千鳥の模様。◆これらを乗せている木製の黒いお盆は、100円ショップで500円。普段からお盆として、ランチョンマット代わりとして使っている。◆右の置いてある赤い紙ナプキンは、お正月っぽいかなと思って北欧の100円ショップ「タイガー」で購入。クリスマス・シーズンだったので赤があったが、お正月に使えると思い購入。こうして写真を撮っておけば、来年の参考になる。■▲鶴の形をした皿。■岡山の実家にあったものを2枚貰ってきた。大好きな■futabaさんの動画の3分のとこに■出てくる黒いお盆がうちのとそっくり!!うちのは、100均で500円だったけど・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.14
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■2020.11.24(火)■島根県・津和野■から山口県・岩国に。岩国といえば、錦帯橋。錦帯橋の近くの待ち合わせの河原の駐車場に行きガイドさんの案内で市内を廻った。■錦帯橋は■国指定の名勝であり、日本を代表する木造橋です。延宝元(1673)年、岩国3代領主の吉川広嘉(きっかわひろよし)が現在の橋の原型となる木造橋を架けましたが、錦川の洪水によりすぐに流失しました。しかし、改良を加えて翌延宝2(1674)年に再建された橋は、昭和25(1950)年9月の台風29号(キジア台風)による洪水で流失するまでの276年間威容を保ちました。流失後、市民の強い要望により、昭和28(1953)年に再度、木の橋として再建されました。平成14(2002)年からは、劣化した木造部分を架け替える「平成の架け替え事業」も行い、平成16(2004)年3月、さらに檜の装いを新たに完成しました。木造部分の掛け替えは、旧錦帯橋でも江戸時代からほぼ橋大工の代替わりで行われていた定期的な伝統事業です。橋の長さは、橋面に沿って210メートル、直線で 193.3メートル、幅は5メートル、橋台の高さは6.6メートル。巻きガネとカスガイを使った「木組みの技法」で造られています。反り橋の構造は精巧かつ独創的で、現代の橋梁工学からみても非の打ちどころがないと言われています。春は桜、夏は鵜飼いや花火の夜景、秋は城山の自然林の紅葉、冬は雪化粧と、「錦」の名の通り、四季折々の色彩豊かな景観が楽しめます。■錦帯橋■【名前の由来】創建当時は「錦帯橋」という名は付いていなかった 「大橋」と呼ばれることが多く、吉川広嘉が幕府から名前の記載を求められた際にも「岩国大橋」と書いたと言われています。他にも「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」など、複数の呼び名がありました。「錦帯橋」という呼び名が広まったのは、安永年間(1772~1780)頃で、公式名称に認定されたのは、明治維新後のことです。橋げたを置くために、しっかりした石を置いている。石が動かないように、とめているがこれは、■「ちきり」とか「ちきりしめ」という。■と富山県を旅行した時に聞いた。▲錦帯橋と岩国城。ゴンドラに乗って、城山に行く。吉香公園前の山麓駅から、標高約200メートルの城山の尾根の山頂駅までを約3分で結びます。吉香公園、錦川と錦帯橋、旧城下町から、遠くは岩国錦帯橋空港、瀬戸内海の島々までの眺望が楽しめます。移動中は定員30名のゴンドラ内で、音声ガイドで簡単に岩国の歴史を紹介しています■岩国城は、■初代岩国領主吉川広家(きっかわひろいえ)によって慶長13(1608)年に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山に位置していました。三層四階の桃山風南蛮造りでしたが、築城後7年で一国一城制により取り壊されました。現在の天守は、昭和37(1962)年に再建されたものです。桃山南蛮造りの天守閣内に、錦帯橋の精密模型、写真、武具や甲冑などを展示しています。天守閣は展望台になっていて、岩国市街の眺望を楽しむことができます。天守閣からは吉香公園、城下町、錦帯橋から岩国市内一面、岩国航空基地、岩国錦帯橋空港、瀬戸内海の島々や四国、宮島までが一望できます。■大釣井(おおつるい)■歩いて行くと、途中にこのような大きな井戸が出てきた。大釣井(おおつるい)という井戸で築城と同時に築かれ、非常時における武器弾薬の保管の他に脱出口の役目もあったと伝えられている。「城と井戸と抜け穴」という取り合わせはどこでも共通のものだ。▲古い邸宅もあって▼▲錦帯橋だけでなく、水と緑の広い公園が町中にあるのも岩国の魅力だ。▼●120Km ●7979歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.13
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2021年の箱根駅伝、終わりの方をちょっと見た。■2021年の箱根駅伝は■駒澤大が最終10区で3分以上のタイム差を大逆転して総合優勝した。元箱根ランナーでスポーツライターの酒井政人さんは「大八木弘明監督(62)は、箱根を含む学生3大駅伝で同大を最多23回の優勝に導いたカリスマ的名将と言われている。(私は詳しくないが・・・。)「15km地点の給水をもらったとき、いつもならきつくなるのに身体が動いていたんです。これなら逆転の可能性があるかなと思っていました。20kmくらいですかね。監督の『男だろ!』という声が届いて、自分のなかでスイッチが入ったんです」箱根路に幾度も響いた大八木監督の「男だろ!」の檄が石川の身体を突き動かした。 私は、この「男だろ!!」の激をテレビで見ていて、不愉快になった。男だから頑張らなければならないのか、男だから頑張れるのか・・・。女は頑張れないのか、女は頑張らなくてもいいのか・・・。21世紀に、男だから頑張れなんて、おかしいわ。頑張れというのなら、体力があるから頑張れだろう。男、女は関係ないだろう・・・。そう思っていた。 そんな時、動画■ロザンの楽屋:「男だろ!」の賛否■がアップされていたので見た。ロザン・宇治原氏は、控えめに「おかしい」と言っていた。見ていたテレビの中で、コメンテーターの女性がこの「男だろ!」という檄に違和感を示したが、報道の中では、その意見は、スルーされてたという。(宇治原氏)宇治原氏いわく、「檄を飛ばす監督に悪気がなくても、それを放送するテレビ局は、その言葉をほめたたえるべきではない。普段、ジェンダーに関する報道もするテレビの番組なのだから」という風なことを言っていた。私もその意見に大賛成。ところが、ここで私はもう一度驚くことになる。それは、ロザン・菅(すが)氏が「そうかな・・・?僕はそんなの感じないわ。」と宇治原氏の意見に同意を示さなかったのである。母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」という高齢の男性の言葉に端を発したポテサラ論争。「ポテトサラダぐらいというけど、ポテサラは奥が深い」というテレビや一般の人のTwitterの発言に対して「論争すべきは、(ポテサラぐらいではなく)「母親なら」という言葉だろう」という菅氏。言下に料理をするのがいつも女性と思うなという言葉がある。この時の菅氏は、テレビの中でも、その意見をいったのだそうだ。■ポテサラ論争に対するロザンの見解」■なのに、菅氏の今回の「男だろう!」は、なんという反応なんだろう。がっかりした。しかし、宇治原氏がこの問題を提起してくれらから、私もここに書けるということだ。「多くの人が、『日本は男女格差が大きい』と実感せずに暮らしていることが、日本が変わっていかない一番大きな原因」と指摘する。監督も選手もテレビを見ている人も「男だろう!」という言葉を、応援の言葉ととって何の違和感も持たずに、駅伝を見たのだろう。多くの人に、「男だろう!」という檄に違和感を感じて欲しいと思う。■YouTube「ロザンの楽屋」が面白い■■大八木監督の名言1「男だろ!!」■■NEW*大八木監督の名言2「男だ!!」■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.12
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■2020.11.23(月祝)2時に津和野駅で観光ガイドさんと待ち合わせ。案内してもらって約2時間、津和野の町を歩いた。津和野町(つわのちょう)は、島根県の南西に位置する町。山間の小さな盆地に広がる町並みは小京都の代表格として知られている。また毎年7月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。(▲あちこちつわぶきをみた。堀の中にもつわぶきが植えられていた。)島根県の南西部、山口県との県境に位置する津和野町は、「つわぶきの生い茂る野」がその地名のいわれと伝えられています。鎌倉時代末期に津和野盆地を一望する霊亀山(れいきさん)に城が築かれると、山陰と山陽を結ぶ街道の要衝となり、江戸時代には和紙を中心とする産業で栄えました。まずは駅から徒歩10分ほどの旧武家屋敷や旧藩校が並ぶ「殿町通り」へ。(▲マンホールのふたも鯉とつわぶき。)この通り沿いにある堀割(用水路)を泳ぐ鯉は、津和野の代名詞的な光景です。江戸時代の初め、津和野藩初代藩主・坂崎直盛によって建設された堀割で、水路に発生する蚊の幼虫を駆除するために、疫病対策として鯉が泳がされたのだそうです。■殿町通り■なまこ壁や白い土塀など、江戸時代の風情を感じさせる建物が残っている殿町通り。川から引き込んだ水が流れる掘割には、たくさんの錦鯉が泳いでいます。5~6月には掘割に花菖蒲が咲き、夜間のライトアップも行われて幻想的な雰囲気に変わります。(▲今に残る古い屋敷▼屋根は石州瓦で葺かれている。)■石州瓦(せきしゅうがわら)は、■島根県の石見地方で生産されている粘土瓦のこと。三州瓦、淡路瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ。独特の赤褐色で知られ、赤い屋根の町並みや集落を山陰地方では至るところで見ることができる。この色は、同じ島根県の出雲地方で産出される含鉄土石「来待石」を釉薬に使用することに起因する。(▲「鯉の米屋」。家の中に水路があって鯉が泳いでいた。▼)(▲昔、この水路の水を利用して、水車を廻し、米を搗いていたそうだ。)(町のシンボルは、鯉で、タクシーも、「KOIKOIタクシー」で「鯉鯉」。)(▲川べりの広場にある鷺舞の像。)本来は、カササギであったが京都ではカササギは飛来してこないため、その存在を知らず、鷺(さぎ)の一種であろうと笠を被った白鷺をカササギに見立てたものとされている。(▲鷺舞の近くの柳のある風景。川辺の柳は絵になる。)「この景色、いいですね~。」と私。 「『男はつらいよ。』の山田洋次監督も、ここが気に入られていましたよ。」とガイド氏。 ●93Km ●9819歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.11
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■2020.11.23(月・祝日)■乙女峠 マリア聖堂■島根県津和野町は、山陰の小京都と呼ばれる風光明媚な美しい町です。森鴎外の故郷であり、安野光雅美術館、津和野城跡、SLやまぐち号、銘菓「源氏巻」など沢山の名所や名物があります。そんな歴史・文化の宝庫津和野に、幕末から明治にかけキリシタンの迫害の歴史があったことをご存知ですか?津和野駅の裏手の乙女峠に、キリシタン殉教史跡であるマリア聖堂がひっそりと木々に囲まれ佇んでいます。津和野町のキリシタン殉教史跡「乙女峠」は、峠ではありません。駐車場に車を停めてから、確かに軽くせせらぎが脇を流れる坂道を登ります。ちょっと軽めのトレッキングかハイキングといった感じでしょうか・・。峠でもないのに、なぜ「乙女峠」なんでしょうか? 実は、島根県出身で、長崎に投下された原爆が原因で亡くなった医学博士永井隆氏の絶筆『乙女峠』が由来と言われています。『乙女峠』は、慶応3(1867)年「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧事件で、津和野に配流されたキリシタン守山甚三郎等の物語です。この乙女峠は、春の桜が美しいと言われています。毎年5月3日には、「乙女峠まつり」が開催されます。津和野の城下町にある津和野カトリック教会から約2km離れた乙女峠まで、聖母マリア像を中心に信者の方々の行列が続くそうです。現在は跡形もありませんが、弾圧があった当時、そこには廃寺となった光琳寺がありました。この光琳寺がキリシタンの収容施設となりました。浦上四番崩れで弾圧され、流罪になったキリシタンはおよそ3400人と言われています。信徒の中心人物を最初は114名、津和野、萩、福山に移送されることが決まりました。配流はその後も続き、鹿児島や名古屋など20カ所が流刑地に選ばれました。最終的に津和野へは153名が流刑されたのです。キリシタンたちは、流刑地で厳しい拷問を受けました。津和野に流刑されたキリシタンのうち37名が命を落としました。(▲ステンドグラスには、拷問が描かれている。)▲萩でも多くの信者が命を落とした。この時代、森鴎外は、津和野にいたのだが、この事件には、まったく触れていないそうだ。■萩でもキリスト教徒の悲しい歴史が・・・。■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.09
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■2020.11.23■太鼓谷稲成神社■太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、明治の版籍奉還に至るまで、藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止されておりましたが、廃藩後は広く一般庶民も参拝できるようになりました。■太鼓谷稲成神社HP■「太皷谷稲成神社」の“太皷谷”は、津和野城の城山の一角で江戸時代には時刻を知らせる太鼓(太皷)が鳴り響いた谷間であることから名付けられました。(▲■本宮(もとみや)■)また津和野城の東北、陰陽道の鬼門に位置し、古くから神聖な場所とされていました。朱色の“千本鳥居”を通り抜けて、石段を上がりきると、正面に“神門”右手に“手水舎”。左手側には、山陰の小京都と呼ばれる津和野の眺望が広がります。津和野川や山口線の線路、津和野の町並みの一つの特徴である赤味を帯びたオレンジ色の屋根が、その景観をグッと引き締めています。島根県内の神社では“出雲大社”に続いて参拝者数が多い津和野の「太皷谷稲成神社」。歴史と伝統のある情緒豊かな津和野の景観も一望出来ます。また反対に“千本鳥居”や各社殿を、津和野の町から眺めるのもオススメです。赤や白の幟が立てられていた。その中の1本は、農産物品評会。▲普通の3倍くらいあるブロッコリー。▼色がきれいなジャガイモなどが展示してあった。この後、津和野城跡に登った。■リフトで登る城跡■太皷谷稲成神社へ車で上る途中に、津和野城跡へいくことができる津和野城跡観光リフトがあります。津和野城址へは徒歩でも登れますが、やはりそこは城塞だっただけあって、簡単に攻め入ることができなかった当時を咸じずにはいられないような急勾配で、大人で40分くらいかかります。そんな時に便利なこのリフト。スキー場のリフトのように高速ではないので、まわりの景色をゆっくりと楽しむことができます。手すりにつかまって後ろを振り返れば、津和野の赤い瓦の町並みとが広がり、目の前には「青野山」。最近の乗り物では味わえない開放感とちょっぴりのスリルを楽しんでくださいね。■津和野城跡■標高362mの霊亀山上に築かれた中世の山城跡で、津和野の町を展望するのに最適の場所です。城跡の石垣が朝霧に浮かぶ姿は、まるで「天空の城」です。紅葉の時期もおすすめです。太皷谷稲成神社の参道からリフトを降りて徒歩20分で頂上に到達します。現在は建造物は何もありませんが、石垣はほぼ完全な形で保存されており、石組の堅固さ雄大さは比類のないものです。吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間の後は、明治維新まで亀井氏が11代225年にわたり城主として 在城しました。貞享3年(1686)に落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体されました。▲途中までこんな道があるので歩きやすかった。なだらかな青野山の山すそに広がる家並みと、その中をゆるやかに流れる津和野川を一望でき、さだまさしの「案山子」の風景だ。この城跡からのイメージで作詞したという。「案山子」 さだまさし♪元気でいるか 街には慣れたか友達出来たか 寂しかないか お金はあるか今度いつ帰る城跡から見下せば 蒼く細い河橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突この町を綿菓子に染め抜いた雪が消えればお前がここを出てから初めての春(略)山の麓煙吐いて列車が走る凩が雑木林を転げ落ちて来る銀色の毛布つけた田圃にぽつり置き去られて雪をかぶった 案山子がひとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.08
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■2020.11.22(日)明治の文豪・森鴎外の生誕地、島根県津和野町に建つ資料館のそばの生家。資料館には、『舞姫』や『高瀬舟』を始め、多くの作品を著した森鴎外ゆかりの品々や、直筆原稿など貴重な資料が一般公開されている。軍医と文学者というふたつの人生を生きた鴎外の、10歳の上京から60歳で生涯を閉じるまでを豊富な資料で紹介するほか、多感な時期を過ごした津和野時代を振り返る構成になっている。■鴎外は■藩医家の嫡男として、幼いころから論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。鉄道のなかった時代、江戸時代と同じに、津和野から瀬戸内海の地方まで歩いていき、そこから船で大阪まで。そこから歩くというコース。または、◎山口県瀬戸内海の町から船で神戸に。神戸、横浜間は、郵便汽船に便乗して横浜へ。横浜から東京は、汽車。というてがあったようだ。■西郷札より。■◎島根県の南西に位置する町、津和野から参勤交代で江戸へ行く場合。一行は周防(今の山口)に出て船に乗る。瀬戸内海を家紋をつけた帆をはらませ、海上百七十里を走って大坂の川口に着く。伏見までは川船、ここから京都、大津・・・と東海道を下った。三月半ばに出立して、江戸に着いたのは四月初めだった。江戸時代の交通。■白梅の香:松本清張■■父の帽子■ 次に行ったのは、津和野が生んだ画家、安野光雅美術館。■安野光雅美術館■ 国際アンデルセン賞を受賞した津和野町出身の画家・安野光雅の作品を収納する美術館です。 2つある展示室では、絵本だけでなく風景画や本の装丁、ポスター、エッセイなど幅広い分野で活躍する安野光雅の作品を約120点展示しています。美術館では、安野さんの自宅アトリエ(再現)やプラネタリウムのほか、昭和初期の小学校教室を再現した「昔の教室」や図書室があります。 なおプラネタリウムでは安野さんがふるさと津和野に対する思いを語っており、上映プログラムでは、津和野の四季折々の星座や安野さんの絵本「天動説の絵本」を鑑賞する事が出来ます。安野光雅美術館は、SLのある津和野駅の前。この日も、津和野駅はSLの到着に賑わっていた。津和野駅の開業は、1922年(大正11年)と遅い。駅の辺りは田んぼで、駅を作るために地上げをした。そのため、駅のあたりがちょっと高くなっているそうだ。●89Km ●7006歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.07
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(▲■2018年イギリス・ダートムーアにて■)俳人の■夏井いつきさんの動画:季語■を見ていたら、1月5日が「牛日(ぎゅうじつ)」といっていた。●鶏日(けいじつ)●1日は、鶏をと殺しない日。●狗日(くじつ)●2日は、犬をと殺しない日。●猪日(ちょじつ)●3日は、豚をと殺しない日。●羊日(ようじつ)●4日は、羊をと殺しない日。そして、5日は●牛日(ぎゅうじつ)』●牛をと殺しない日。(▲■2018年イギリス・ダートムーアにて■)●馬日(ばじつ)●6日は、馬をと殺しない日。そして、そして七日は『人日(じんじつ)』!つまり、人を殺さない日、死刑を行わない日ですって!!!こういう季語があるなんて、知らなかった!!■うし年ですから:なで牛■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.05
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■2020.11.22■山口県萩から■島根県・津和野へ。この日は、山口県から、島根県・津和野市にある堀家に行った。津和野というとよく山口県と間違われるのだそうだが、島根県の南西に位置する町。れっきとした、島根県だ。昔から萩、津和野は行き来していたのか、津和野、萩行間のバスも出ている。堀家は代々、鉱山経営を家業としてきた家である。江戸時代には大森銀山代官の下で、笹ヶ谷を中心とした天領を支配し、地元の笹ヶ谷鉱山をはじめ近隣の鉱山の多くを経営した。長い白壁の続く壮大な屋敷は天明8年(1788)、本邸の門は享保18年(1733)の建築である。庭園は鉱山王と呼ばれた十五代堀藤十郎が、明治30年(1897)庭師を大阪から招いて作庭したものである。裏山である緑山を借景として取り入れ、池を中心に石灯籠、庭石が見事な配置の妙をみせている。また、池泉の護岸石組や岩島などは、明治期のものとしては技術的にすぐれたものである。イロハカエデを主体とする植栽も見事なもので、紅葉のころは麓から山頂まで3段階に分かれて色が変わる三段染めが見られる。全体の構成は明治の自然主義的意匠となっており、旧家の山荘の庭園にふさわしい落ちついた雰囲気がよく出ている。■しまね観光ナビ■▲堀家にて。▼堀家の後、行ったのが、畑迫病院。▲■【畑迫病院とは・・・】■▼畑迫病院は明治25年(1892)、畑迫村の実業家堀礼造によって創設された私立病院で昭和59年(1984)に閉院しました。畑迫病院跡は堀氏関連の重要な福祉医療施設の遺跡であり、その敷地は近代病院造園の遺構として貴重であることから、 平成17年(2005)に国指定名勝旧堀氏庭園の一部として文化財指定され、平成28年(2016)11月旧畑迫病院として開館しました。 畑迫病院を利用し"医食同源”をテーマとしたレストラン「糧(かて)」がある。■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.04
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■2020.11.21(土)山口県の萩市街地は、橋本川と阿武川によって形成されたデルタ地帯。すぐそばには日本海もあることから水に囲まれた「水の都」と呼ばれている。■萩百景遊覧船■萩城跡そばにある水路を「萩八景遊覧船」に乗って水上散歩。城下町のシンボルとも言える白壁も、いつもと違う角度で見たら新鮮です。萩八景遊覧船は、そんな水の都・萩を水の上から堪能できる遊覧船です。スタート地点は、萩城跡のそばにある指月橋。萩城跡の水路を通過すると、橋本川に差し掛かります。松並木をくぐるようにしながら先へ進みます。思った以上に大きな橋本川。船と出会う。かつては、このあたりは、渡し舟が出ていたという、案内があった。お城の石垣を見ながら船は進む。堤防があり、ここを出ると日本海だ。(萩にて)今回の旅行で、是非、確認したいと思うことがあった。それは、2018年の九州旅行でみた■長崎カトリック浦上教会■で知ったことだった。(▲萩にて・「殉教ス」の文字が)浦上教会の境内の一角には、浦上四番崩れの際に山口県萩市に配流された信徒らが正座させられて棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。(■長崎にある拷問石■花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。拷問石の上には太めの茎で編んだ葦簀(よしず)が敷かれ、その上に信徒が座らせられて拷問、説諭を受けた。(▲萩にて)拷問石は牢番長だった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その子孫が保管していたが、1990年にカトリック萩教会に譲渡された。という話を知ったからだ。(萩にて)そんな悲しいことがあったなんてと思いながらも長崎のキリスト教徒たちが、拷問を受けたのは、萩のどのあたりだったのだろうかと思っていた。これを知ることが、「聞いた話」から、「本当にあった話」になると思ったのだ。(萩にて)キリシタンの迫害は、江戸時代と思いきや、明治になっても大掛かりに行われていたのがよく分かった。(萩にて)(萩にて)▲藩校 明倫館▼■山口県のおすすめスポット■■萩:夏ミカンと浜崎地区の御船蔵■■吉田松陰と萩の町並み■3連休で萩の宿はなかなか取れなかった。やっととれたところは、大浴場なし、素泊まり、エレベーターなし・・・。コロナ禍とはいえ、「Go To キャンペーン」もあって観光地は混雑している。●14Km ●6782歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.02
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あけましておめでとうございます!!正月には多くの参拝客で賑わう神社。例えば、大阪の天神さんは学問の神様・菅原道真を祀っているということから、受験生やその家族もお参りに行って、頭が良くなるようにと牛の頭をなでる、「なで牛」の光景を見たものだが、今年はちょっと違う。牛の周りに囲いをして、触らないようにしているところもあった。テレビで、「今年は、心の中で牛を撫でて下さい」という神社も。とまあ、うし年の今年は、牛のネタから。本年もよろしくお願いいたします。m(_ _"m)■撫牛とは、■自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという俗信であり、風習。この信仰は、まじないの手法のひとつである「撫物(なでもの)」に由来する。すなわち、みずからのツミやケガレ、邪気を人形に移して祓い、心身を清めるというものである。撫牛は、病気平癒のみならず、諸願成就にも効力があるとされ、開運を信じて常に牛の身体をなでていれば、出世はもとより、万事願いがかない、みずから思いもよらない幸運に恵まれることさえあるといわれる。撫牛信仰の起こりがいつの頃かはよく知られていない。しかし、病気平癒を主とする、上記のようなかたちでの信仰がさかんになったのは江戸時代からである。■謹賀新年!:イノシシの語源2019■■謹賀新年!猪のバトン受け取る鼠かな■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.01.01
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