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6月にコロナのワクチン注射を受けたので、7月からスポーツジム通いを再開している。以前は、週2回のフラダンス教室とお風呂がメイン。今回からは、ももの筋肉を増やすという、目的をもってジムの時間を過ごしている。ももの筋肉で歩けることが可能なのだそうだ。筋肉を鍛えることによって、筋肉が増える、歩行が安定、運動、ダイエット効果、睡眠効果・・・を期待している。筋肉は裏切らないといいけど・・・。 しかし、これでなにもかもOKかというとそうでなくて、最近、視力が大きく減退。2年半ぶりに新しい眼鏡を買った。眼科に行ったら、白内障といわれた。_| ̄|○■白内障■現在の日本における白内障の頻度は、50代で約50%、70代で約70%、80代で約80%となっており、80代の大半の方が白内障に罹患しているといえます。白内障は病気ではありますが、目の老化現象のひとつでもあります。歳をとるとシミやシワが生じるのと同じように、不可避的なものだと捉えていただけるとわかりやすいでしょう。■2021年7月■自由(コロナで会が開かれていなかったので)*カレーには辣韭(ラッキョウ)がよし夏来る*梅雨寒むやワクチンの跡しかと見る*ワクチンが体内に入り夏来る*抗体を得て七月の風吹きぬ*七月やワクチン注射跡重し★YouTube選★■見る前に跳べ■2歳前の男の子・ゆうくんと70代半ばのじいじの掛け合いがいつも笑ってしまう。ゆうくんは、1歳なのに英語の単語を沢山知っている。■さまざまな英単語を覚え始めた1歳11月ヶ月■幼児の英会話教室に行っているらしい。あまりの口の達者ぶりローカルテレビの取材や「ゆうくんとじいじ」のイラストがついたTシャツもつられているほどの人気チャンネル。このこ、どんな大人になるんだろう?学者?芸能人?■2021年7月見た映画■*アジアの天使*5月の花嫁学校*ミナリ*ピーターラビット2 バーナバスの誘惑*ペトルーニャに祝福を*いとみち*王の願い ハングルの始まり*シャイニー・シュリンプス 愉快で愛しい仲間たち■書き残したネタ■*オリンピックネタ*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*K小室氏のこと。*SDGs(エスディージーズ)のバッジ*食器の柄*丁寧語*高師浜*背という言葉*大阪弁*読書ネタ*丁寧すぎる言葉*プラスティックごみ。*白樺のかご*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.31
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■陽だまりの樹(二)■■内容紹介■蜷屋(になや)の大旦那・膳右ヱ門(ぜんえもん)が、痘瘡にかかっていることが発覚する。緒方洪庵(おがた・こうあん)の命により手塚良庵(てづか・りょうあん)は、膳右ヱ門の養女・お品(しな)をはじめ、店の者全員に種痘を受けさせ、感染を防ぐべく努力していた。安政三年七月、通商使節としてアメリカから下田に、ハリスと彼の通訳のヒュースケンがやってきた。日本との交渉が難航し、過労で倒れたハリスは、ヒュースケンの愛人のお吉(きち)を専属の看護師として雇うことに……!! <手塚治虫漫画全集収録巻数>手塚治虫漫画全集MT328~329『陽だまりの樹』第3~4巻収録 <初出掲載>1981年4月25日号~1986年12月25日号 ビッグコミック連載 主人公は、医師の手塚良庵(手塚治虫の曽祖父)と下級武士・伊武谷万二郎。●読書メモ◎は私の覚書。◆はタイトル◆老中・阿部◆抜擢◆徐痘館●徐痘館はもと大坂瓦町にあったが緒方洪庵は天保14年(1843年)12月15日に北浜三丁目過所町の天王寺屋忠治郎から新築したばかりの家を買ってそこに移転している。◎東横堀川の下から二つ目の橋の名前が「瓦屋橋」。瓦町というのは、このあたりだったのではとにらんでいる。■瓦屋橋:東横堀川■ここだと薬の町■道修町■にも近い。●洪庵は買った家を改造し二十年間ここに住んだ。一階は大きな土間と仕切ったいくつかの教室、それと奥の方に洪庵の家族室や書斎がつくられた。そして二階はヅーフ部屋、女中部屋のほかに塾生の起居する大広間があった。塾生はタタミ一畳一人という窮屈な大部屋に寝泊まりしながら自由気儘な、そして勤勉な学生生活を送っていたらしい。◎成績の良い者から順に良い場所を選べた。◎「ヅーフ部屋」という蘭和辞書『ヅーフハルマ』が置いてある部屋。辞書は一冊しかありません。辞書は一冊しかなく、そのため、塾生たちで取り合いになった。蘭学を修めようとする塾生たちの間で、常にこの部屋には灯がともっていたと言われている。適塾、是非、行ってみようと思う。■適塾■◆男子の本懐●千八百四十九年十一月、緒方洪庵は、わざわざ京都から越前まで運ばれて行く牛痘苗を分けてもらいに行く大坂の古手町で、その苗を子供に移す、いわゆる分苗を行った。この場所が除痘館である。子供は菓子で釣り、大人には、米をやってようやく種痘させた。この費用は、洪庵のオーナー太和屋喜兵衛の援助がなければ、できなかったサービスである。●あの日、門屋の升席で猪河玄宅様とお会いいたしました。◎「門屋」とあるが「角座」の間違いでは?■角座■は戎橋の近くに今もある。◆下田の夏●「犬山です」「猿田です」「雉井です」◎伊武谷万二郎の部下につけられた三人の名前。「桃太郎かッ!!!」( ´∀` )◆薄芒野(すすきの)の決闘◆唐人お吉◆韮山紀行■陽だまりの樹(一)■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.29
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7月28日は、語呂合わせで、「なにわの日(ひぃ)」。YouTubeで■関西人になるための9の方法■というのがあったので、紹介。■関西人になるための9の方法■<1>たいていのことは「知らんけど」で責任回避する。<2>ちゃうねんなにも違わないのに話し始めは「ちゃうねん」で否定する。<3>のりつっこみA「おじゃまします」B「邪魔するんやったら帰って」A「わかりました・・・って帰らすな!!」*働いていた頃、職場でこのやり取りを何度聞いたことか。<4>「ほんまそれ」と「せやな」を使い分ける。ほんまそれ=激しく同意せやな=ほぼ聞いていない<5>擬音語で道案内道案内は、ほぼ擬音語。*グーグルマップの出現でこれは死語になる可能性がある。( ;∀;)<6>「サンミー」を食べて育つ。上級者は「ヨンミー」を食べる??*私は、「知らんけど!」<7>標準語>関西弁無意識に「関西弁」が出てくる。*日本中はおろか、海外の飛行場でも関西弁が聞こえてくると「ここどこやねん!」「道頓堀か!」と心の中で突っ込んでいる私。<8>「略称」の使い分けUSJではなく、「ユニバ」マクドナルドは、「マック」ではなく「マクド」<9>「行けたら行くわ」「行けたら行く」は「99%けーへん」*同じような使い方で「(購入を)考えとく」は「買わない」の同義語!!■なんでやねん!『ある日突然関西人になってしまった男の物語』関西電気保安協会WEB動画総集編■☝も爆笑((´∀`))ケラケラ■なにわの日(ひぃ):ネタ■■なにわの日(ひぃ):大阪的■■なにわの日(ひぃ):ツッコミ■■なにわの日(ひぃ):2017■■なにわの日(ひぃ):「草食系より大阪府警」■■なにわの日(ひぃ):どうなる「さすべえ」■■なにわの日(ひぃ):閉め切りですねん■■なにわの日(ひぃ):「人生の甘美なしたたり」■■なにわの日(ひぃ):ほかす■■なにわの日(ひぃ):なにわ野菜■■なにわの日(ひぃ):笑いの天才、紳助とさんま■■なにわの日(ひぃ):オカラさんと書いた人を推理する■■なにわの日(ひぃ)■■なにわの日(ひぃ):■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.28
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■陽だまりの樹■伊武谷万二郎は、無骨で真面目な万二郎は退屈なお勤めに疑問も抱かず、登城のマラソンもいつも一番という、平時の武士として見本のような男であった。一方、もう一人の主人公である蘭方医の良庵は医師の家に生まれて大坂適塾で医師の門をくぐったエリートだが、江戸に戻っても放蕩ぶりが父の良仙に厳しく戒められるほどの遊び人。江戸っ子らしく間口は広いが封建的で権力闘争に終始する医学界には批判的であり、また人間らしく生きたいとする夢想家のノンポリとして時代を眺めている。対照的な万二郎と良庵だがなぜかウマが合う。 タイトルの「陽だまりの樹」は、水戸学の弁証家である藤田東湖が劇中で主人公の伊武谷万二郎へ語る藤田東湖の家の庭にあった桜の樹でありそれは当時の日本の姿を比喩する名称である。19世紀後半、欧米が市場を求めてアジアへ進出した世界状況で、日本の安全保障を確保するには天皇の権威を背景に江戸幕府を中心とする体制再編により国体強化が必要であるとした東湖だが、幕府の内部は慣習に囚われた門閥で占められている事から、シロアリ等々の虫によって中身が腐っている事から倒れかけているとして、これを「陽だまりの樹」と呼ぶ。 主人公は二人存在し、一人は真っ直ぐな正義心の持ち主、悪く言えば世渡り下手で頑固者の武士の万二郎。もう一人は融通が効き人付き合いが良い性格、悪く言えば女好きで遊び好きでお調子者の蘭方医・良庵、のちの良仙である。★架空の人物:伊武谷万二郎★実在の人物:手塚良庵→手塚良仙(三代目)江戸三百坂の医師。適塾で緒方洪庵に蘭学を学ぶ。父の良仙とともに種痘所(後の西洋医学所、東京大学医学部の前身)の創設に関与。父の死後は良仙の名を継ぐ。万二郎とは恋敵、ケンカ相手ながら友人として理解し合う。女にだらしなく、色街にばかり出入りしているがここぞという時には本気を出す人物として描かれている。 ●読書メモ●と『』目次 ◎は、メモ『三百坂』『おせき殿』『鬼鉄』『曾根崎新地』●大坂は、江戸の不安やあせりをよそに、常に「出船千艘、入船千艘」の賑わいを見せていた。この都では商人の力はとっくに武士を見くだしていた。◎日本全国といっていいほどの鰹節は大坂に集まった。千葉あたりの直接江戸に売った方が近いのにわざわざ大坂に集荷したそれを江戸に送った。米も全国から集まった。その他、北前船も来たので、「出船千艘、入船千艘」と賑わったのだった。●大坂へ着く。廻船はたいてい安治川をのぼり安治川大橋のたもとで客や荷を下ろした。そして中之島がなんといっても取引の中心地であった。◎■朝鮮通信使の辿った道と大坂■外洋船では淀川を航行できないため大坂湾の河口にて豪華な川船に乗り換えたのが「川御座船(かわござぶね)です。この川御座船は、尻無川から大坂の川を遡上し、土佐堀川を航行。難波橋近くの北浜まで数百のお付きの大小の船団に取り囲まれてパレードをしました。上陸後は、陸路と隊列を組んで堺筋を南下、備後町で右折して宿泊所である北御堂に向かい文化交流を展開しました。●曽根崎新地◎新地(しんち)とは、居住地や商業地として新しく拓かれた土地のことを指す。 歴史的には、新地開拓後の繁栄策として遊廓などができたことも多かったことから、転じて遊廓や遊里の多い場所を指すこともある。大坂に来た手塚良庵は曽根崎新地に通う。『腑分け』●・・・蘭方医の腑分けには、死罪になった罪人の体を使うことが決められておるやないかッ。『適塾の人々』●中津藩・福沢諭吉◎もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。九州は■濁らない。■彼は、大坂の堂島で生まれている。しかしいったん、九州・中津藩に帰っている。福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ[9])。当時としては身長が平均の20センチ近く大きい。『星鶴 豆鶴』 『夜の客人』『嵐の前』●これから関西へ下るのだ・・・◎この言い方は、どうだろう?当時、関西という言い方はあったのだろうか?上方の方がぴんと来る。その上、下るではなく、のぼるの方がふさわしいのでは?皇女・和宮の東下りという言い方もあるから。『天地鳴動』●徳川の世はこの陽だまりの桜の樹のようなものじゃ・・・◎水戸学の弁証家である藤田東湖が劇中で主人公の伊武谷万二郎へ語るタイトルになった大事なシーン。藤田東湖って大河ドラマ「晴天を衝け!」でも重要な役だった。『老中・阿部』 『抜擢』『解説』●良仙は幕末から明治という動乱の時代に、権力者たちに近づく機会はあったが、反権力の姿勢を守り(略)・・・生きた。手塚も、敗戦から高度成長へという変動期に、(略)漫画家への偏見に抗いながら生きてきた。ひとたび名声をえたのちは、権力が彼に好意を示すことがあってが、かれはそれに迎合せず、反権力の姿勢をくずさなかった。手塚は、そんな自らの生き方を曽祖父のイメージに投影したのであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.27
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私が岡山県の田舎で子ども時代を過ごしたのは、今から65年以上前のことだ。その頃の夏は、クーラーはもちろんのこと、扇風機もなく、団扇と打ち水が頼りの暑い夏を過ごした。子どもは水浴びに川で過ごしていたが、それが出来ない乳幼児は、あせもが出来ていた。 そんな時、うちの前の家に桃の木のある家があった。その家の奥さんは、■ふうちゃん■という名前のおばさんだった。ふうちゃんは、あせもの赤ちゃんを見かけると、「うちの桃の葉を持って帰って風呂に入る時、いれてみ。よーなるから」といって、桃の葉を勧めていた。 「ひなた水」といって、朝のうちにたらいに水を張って温かい湯にするが、その中に、桃の葉を入れているのを見たことがある。 岡山は桃で有名だが、どのうちにもあるというわけではない。だから、そういわれた人は、ありがたく、嬉しかったに違いない。改めて桃の葉のことを調べたらいろんな効能があることが分かった。そういえば、冬、大人たちは、あかぎれが痛む時、「桃の花」というクリームをつけていたなと思い出した。 そんなことを思い出しながら、今が旬の桃を食べている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.26
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後:空襲・7.9■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<4>:戦後の暮らし■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<5>:終戦後の暮らし・焼け跡で野菜を作る■奈良県・富尾のお米屋さんまで行って、糠を買い、ナンバ粉(トウモロコシの粉)を混ぜて、パンを作ったり、ハコベを取って、雑炊に混ぜたり、ナンキンのつるの皮を剥いて食べたりサツマイモの*皮*を剥いたりして食べました。(*注*サツマイモの皮を剥いて食べるとあるが、ツルのことか?)外米の配給の時、断る人がありましたので、待っていて分けてもらいました。 長男(中一12歳)は、*イモ畑の取り終わった畑に行き、ひげ根を拾い、*コンロで焼きながら食べていました。(注*落穂ひろいのイモ版)二男(9歳)は堺東から大浜まで歩いて行き、海岸でアオサを取ってきてくれ、乾かして食べました。カタツムリを焼いて食べたり、樫の実やヒシの実を取ってきて食べました。「白い乳の出る草は食べられる。」と教えてもらい、野草を取ってきて食べました。 三男(昭和20年生まれ)は乳不足のため、栄養失調になったり、腸炎になったり高熱を出したりしました。 昭和21(1946)年の春になって、焼け跡で、畑を作りました。暗いうちに起き、堺市戎町の焼け跡へ畑仕事に行きました。通学(長女・15歳、長男・15歳、二男・9歳)、通園(二女・5歳)の前に一時帰宅し、再び、畑に行きました。レンガや瓦の片づけをし、レンガ色の畑を作りました。 鍬の持ち方も知らない私が、畑を作りました。空き箱に車輪を付けた車に、下肥(大小便)と三男を乗せて行きました。バケツに縄をつけ、井戸水を汲み、水やりをしました。焼け跡のお近くの家の下肥(大小便)もくませてもらい、畑に使いました。 三男が少し大きくなり、何になりたいかと聞いたら、「お母ちゃんの作ったナスビを売りに行く」と言ったことがありました。 子どもの教育に気を配れるようになったのは、終戦二年後くらいからです。よく頑張ったなーと今も思います。*注*は、天地 はるなの書いたもの。*ゴマ塩が欲しいと便り終戦忌*夏の日の学徒動員握り飯*敗戦やモンペで作ったいもの味*終戦忌知らず育って古希過ぎぬ 以上 はるな 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.24
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■シャイニー・シュリンプス!愉快で愛しい仲間たち■♪音が出ます!!人生楽しんだもん勝ち!元オリンピック銀メダリストの水泳選手マチアス(ニコラス・ゴブ)は、同性愛者への心ない発言の罰として、ゲイのアマチュア水球チームのコーチをすることに。弱小チームのシャイニー・シュリンプスを、3ヶ月後にクロアチアで開催される世界最大のLGBTQ+五輪“ゲイゲームズ”に出場させなければならない。しかしメンバーは、勝ち負けにこだわらないパーティー好きなお調子者ばかり。水泳選手として伸び悩み、オリンピック候補からも外され、娘ともうまくいかないマチアスにとって、まともに練習をしないシャイニー・シュリンプスへの指導は時間の無駄でしかない。果たして彼は、チームをまとめることができるのか……?実話からインスパイアされたヒューマンドラマ。モデルとなった水球チームの一員でもあるセドリック・ル・ギャロが、マキシム・ゴヴァールと共に共同監督・脚本を担当。 タイトルの「シャイニー・シュリンプス!」の「シャイニー」は、輝くとか光るという意味。「シュリンプス」は、エビ。水球チームの揃いの水色のジャンパーには、赤いエビの絵が!! 「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」5. ジェンダー平等を実現しようというのがあるが、今の時代のゲイたちのあっけらかんとしていること!!もちろん、圧倒的に辛い事の方が多いのだろうが、つい数十年前には、ゲイがばれたら、警察にしょっ引かれるということになる。きっと警察に行ったら、「そのゲイ根性と叩き直してやる」とか言って、暴力を振るわれていたのだろう。 しかし、今は、彼らは堂々とLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの略)のオリンピックがあるくらいだから。「シャイニー・シュリンプス」は、その「オリンピック」に出場。開催地までは、二階がオープンになったバスで出かける。バスには、大きなゲイの旗をなびかせて・・・。開会式に大はしゃぎで入場。大勢の客の前でのプレイ。試合の間は、他の選手とダンスで楽しむ。2020・東京オリンピックも、こうありたいという思いが選手はあったのだろう。もちろん、観客になる市民も・・・。今のコロナ禍で行われることすら歓迎されない今回のオリンピックのことをおもいながら見ていた。●「シャイニー・シュリンプス」のもう仲間の一人がもう若くないと嘆く男性に返された言葉がよかった。「最高のジャムは、古い鍋からできる。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.23
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■王の願い ハングルの始まり■♪音が出ます!!国のために、民衆のために・・・朝鮮第4代国王・世宗の時代。朝鮮には自国語を書き表す文字が存在せず、上流階級層だけが特権として中国の漢字を学び使用していた。その状況をもどかしく思う世宗(ソン・ガンホ)は、庶民でも容易に学べて書くことができる朝鮮独自の文字を作ることを決意。低い身分ながら何カ国もの言語に詳しい和尚シンミ(パク・ヘイル)とその弟子たちを呼び寄せ、協力を仰ぐ。だが王を取り巻く臣下たちは、国の最高位である王が最下層の僧侶と手を取り合い、庶民に文字を与えようとしている前代未聞の事態に激しく反発。そんな逆境のなか、葛藤を抱えながらも世宗大王とシンミは民へ贈る新たな文字作りに挑んでゆく……。「パラサイト 半地下の家族」のソン・ガンホが、朝鮮第4代国王・世宗に扮した歴史劇。 主人公の王は、映画■世宗(せじょん)大王 星を追う者たち■で水時計や天体観測機を発明をするように命じた王だ。ハングル文字は、いつの時代につくられたのだろうと調べた。■ハングル■1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗大王が、訓民正音(朝: 훈민정음、略称: 正音)の名で公布したとされている。意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」であるが、「ハン」を「大韓帝国」の「韓(ハン)」とする説もある。当時はハングルという呼び名はなく「諺文(オンモン)」(卑しい文字の意味)と呼ばれていた。ハングルと呼ぶようになったのは20世紀に入ってからである。 では、日本の平仮名や片仮名は、いつから使われ江いたのか?■平仮名■平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた万葉仮名(まんようがな)である。平安京に都が遷されて以降、借字として使用されていた漢字の草体化が進み、ついにもととなる漢字の草書体から独立したものが平仮名となり、文章を記す書記体系として確立した。■片仮名■●漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは7世紀中頃から見られるが、片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。日本では、平仮名、片仮名が古くからあったので、簡単に字を覚えることが出来た。反対に、「王の願い」の時代の韓国の人々は、漢字しかなかったので読めない人が多かった。●「王の願い」の中には、仏教徒儒教との対立が描かれていた。王妃は、親の弔いを仏教でするが、それが儒教者には、気に入らない。●日本人の僧侶たちが韓国にやってくる。韓国の僧侶と日本の僧侶は、「サンスクリット語」で会話していた!!今でも僧は、サンスクリット語が必須なのだろうか?■サンスクリット■●王が「長い事、王として生きてきたが、成果はたったひとつ、ハングル文字を作ったことだ」という。低い身分ながら何カ国もの言語に詳しい和尚シンミは、その言葉を聞いて言う。「桃の種は一つだということは、皆が知っている。しかし、その桃の種からいくつの桃の実が出来るのかを知る人はいない。」沖縄・武富島で見た■カイダ文字(與邦国の古代文字)の手拭■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.22
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■猫と漱石と悪妻■見合い相手としてあらわれた夏目金之助(漱石)に一目惚れした鏡子。「苦労するが大成する」相手だという占い師の言葉を支えに結婚を決めるが、慣れぬ土地での新婚生活に戸惑う。しかし、それは今後ふりかかる苦難の序章にすぎなかった……! 漱石没後100年に読みたい、山あり谷ありの文豪一家グラフィティ。文庫書き下ろし作品。 ●読書メモ●鏡子の視点から書かれた漱石の一生で、素顔の漱石が良くわかった。悪妻という評判の鏡子だが、まったく悪妻にあらず。なぜ悪妻になったかというと、●お見合いの席で(歯並びの悪い)歯を出して笑ったこと!!!当時は、大きな口を開けて((´∀`))ケラケラ ことは、はしたないとされていた!!漱石は、裏表のない鏡子に好感を抱く。●早起きできなくて、夫に朝食を出さずに勤めに出したこと。「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多目に睡眠をとって、良い心持で家事をするほうが、何倍も経済的なのではありませんか?」と言い返して、漱石を閉口させることもしばしばだったという。●漱石が暴力をふるうとくってかかったこと。子供を守るために必死になって立ち向かったのは、むしろ誉められること。●金使いが荒かったことくらいか。金使いが荒いといっても、昔からお嬢様で育っているので、季節が変われば、新しい着物を買うのは、鏡子にとっては常識。二人とも、借金を頼まれると、ノーと言えないようなところがあったらしい。 1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任。鏡子は、父と熊本まで行くのだが、当時は、東京から熊本まで4泊5日の旅だったという。明治 29 年 9 月 1 日 新橋・神戸間に初めて急行列車を運転。しかし結婚のため出発したのは、6月4日。汽車を使って乗り換え、乗り換えて行ったのか・・・。明治のはじめは、新橋、横浜を汽車、横浜ー神戸を郵便船、神戸から九州まで船便という行程だった。■漱石の子ども時代は、里子に出された。八番目の子で古道具屋に里子に。漱石の姉が、たまたま通りかかったら、藁籠に入れられ、店先にほったらかしにされていたので可哀そうになり、抱いて連れて帰った。次に四谷の塩原家に養子に出した。可愛がられたが、漱石9歳の時、義父の浮気が原因で養父母が離婚。実家に帰る。実の両親を祖父母だと思っていた。漱石15歳の時実の母親と死別。漱石は、親の縁が薄い少年時代を過ごした。■「筆子日記」漱石がロンドンに留学中、鏡子は手紙を書く。幼い娘、筆子の視点から書いて送ったのを漱石が喜んだ。「吾輩は猫である」は猫の視点から日常を描いているが、これは、「筆子日記」に影響を受けたのか???●当時、外国航路に乗船する日本人の名前は新聞に掲載された。●小説『坊っちゃん』の主人公を暖かく見守る下女・清(きよ)について、鏡子の本名がキヨであることに注目して、この作品が漱石から鏡子に宛てたラブレターだったのではないか、と指摘している。●妻・鏡子が暴力的な夫・漱石と別れないのは、別れる時は妻は子を置いて身ひとつで家を出るというのが常識。たいがいは親権は父親に、子は家に属すというのが基本的な考え方だった。鏡子の親も経済的に苦しくなっているので、結婚を続けるほかなかった。●日本で最初に印税を受け取ったのは、森鴎外。本の価格の二割五分が取り分。漱石は、三割とるという話だ。●漱石の死後、多額の印税が入って、鏡子は散財した。それで、鏡子の悪妻という評価は決定した。●産婆が間に合わなかったので、漱石は、四女・愛子を取り上げた。漱石が可愛がり、抱き寄せようとすると「あばたは、あっちへ行け」と父親を蹴とばした。漱石は子どもの頃の病から、鼻にあばたがあった。愛子に「あばた」と言われても漱石は怒らなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.21
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後:空襲・7.9■■終戦後の暮らし■親類の人がやっと、中三国が丘二丁(三国高校の横)の二階を貸して下さる人を見つけてくれました。二階に初めて、親子五人そろい寝たときは、お殿様の気がして有難かったです。疎開地の解散で二男が帰り、その後、主人も帰って、親子七人二階で暮らしました。家族七人揃い、有難く嬉しい日々でした。 預かってもらっていた荷物の中のおしめで、三男のおしめには不自由せずに助かりました。壕の中の道具類、床下の瀬戸物等、焼け残った物はとても役に立ちました。知り合いの人からもらった食べ物などは、とても役にたちました。 食料も足りませんでしたが、焼ける前に埋めてあったお米を焼け跡から掘り出してきました。缶詰の配給をお金に替えたりしました。大根葉をきざみ、雑炊に混ぜて食べさせました。焼け出された者と、焼け残った者との差のために子どもたちがひがまないように心をくだきました。階下の人(子ども二人いる女の人)から「戦災に会いながらタンスがある。荷物が多い。」「すぐ家を出ていけ」と何度も言われ、家探しもしましたが見つかりませんでした。近所の方から、空の木箱をもらい、食器入れにしたり、蓋をしてお膳にしたりしました。 家の床下に埋めた食器は、空襲の熱で変形したり、すぐ割れたりしましたが、とても役立ちました。焼け残った人々の家の中には、「空き缶や空き瓶などは自由にお使い下さい。」という貼り紙のしてある家があり助けられました。 主人の同僚の方々より食料を度々いただき助かりました。三男はいつもおんぶされていたので、気がついたら、這わずにすぐ歩き出しました。階下の人が再婚し、一軒全部自分たちの家族で使用できた時は嬉しかったです。配給で、缶詰、砂糖、パン粉、いも粉、サツマイモ、ジャガイモ、野菜もありました。育ち盛りの子ども五人の食料は、足りませんでした。朝一番の電車で買出しに和歌山県・橋本まで行き、一里(4キロ)の道のりを往復し、堺東まで帰り、また橋本へと一日二往復したこともありました。大阪府・河内長野市の三日市まで、堺東から、おからを買いに行ったこともありました。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.19
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■内容紹介(「BOOK」データベースより)■江戸中期、日本橋瀬戸物町の鰹節商、伊勢屋にんべんの次男に生まれた伊之助。父亡き後、兄を支えて家業に精進するが、度重なる不運が伊勢屋を襲う。心身を病んでしまった兄の跡を継ぎ、三代目となった伊之助は「商人は何のために商売をするのか」という父の問いを胸に、大店の意地を捨てて苦難を乗り越え、商いの真髄を極めていく。江戸商人の心意気を描く傑作。第3回舟橋聖一文学賞受賞作。株式会社にんべんは東京都中央区日本橋室町に本社を置く主に削り節やふりかけ、調味料を製造する水産加工品メーカーである。元禄12年(1699年)の創業と非常に長い歴史を誇り、業界では最古参にあたる企業の一つでもある。首都圏や東日本では高いブランド力を持つ。その「にんべん」の初代の息子の目から見た江戸期のかつお節商人の話。★初代(1705年 - 1724年)宝永2年(1705年):屋号を伊勢屋と定め、伊兵衛を名乗る。享保9年(1724年)5月9日:初代伊兵衛が前田綱紀葬儀のため前田家中屋敷(現・文京区本駒込)に向かう途中中風に倒れる。以降経営が傾き始める。丁稚からのたたき上げ。★二代(1724年 - 1749年)享保9年(1724年)5月:初代伊兵衛の急病を受け、長男長太郎が二代伊兵衛を襲名する。妻が子供を産んですぐ亡くなった。以来、深酒に溺れる。寛延2年(1749年)8月7日:二代伊兵衛死去。★三代(1749年 - 1777年)寛延2年(1749年)8月:二代伊兵衛の弟茂兵衛が三代伊兵衛を襲名する。三代目の目線で物語が進む。 この本を読んで何気なく食べていたかつお節についてと「にんべん」の歴史についていろいろ知ることができた。■読書メモ■◎は、私のメモ。●万代屋が酒の入っただみ声で言った。(「にんべん」の)曲尺(かねじゃく)は、きっちり誤魔化しなしの意味だし、音が金に通じて商売繁盛の響きもある。イは伊勢屋伊兵衛の伊だが、イロハの最初で字の読めないお客も読めるしね」「イは人だ」伊兵衛が言った。●(略)琉球の先から黒潮に乗ってやってきます。で、最初に通るのが薩摩沖だ。薩摩で揚がる鰹はまだ若くてほっそりしている。そいつが土佐、伊勢と上るうちに餌をたらふく食ってどんどん肥えていく。伊豆に着く頃には、まるまる太って、その分のあぶらも強くなるんです。◎あぶらが乗った鰹は上物ではないとされる。鰹の産地が、鹿児島県・枕崎や高知県なのは、まだ若い鰹がとれるからだ。●「難波の港から江戸まで、船なら4日だ。歩いたらその三倍かかる」◎参考までに元禄14年3月19日(1701年3月26日)午前4時頃、江戸城松之廊下で14日に起きた赤穂城主浅野内匠頭の殿中刃傷事件を知らせる急使を乗せて、2挺の早かごが播州赤穂の国境にある高取峠(たかとりとうげ)にさしかかる。1挺に4人の担ぎ手と2人の引き手と押し手が1組となり、宿場ごとに乗り継ぎながら昼夜走り続けてきた。その距離は、155里(およそ600キロメートル)。江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さでたどりついたのだ。■播州赤穂に刃傷事件を知らせる早かご■●江戸の鰹節問屋は、荷のほとんどを大坂から仕入れていた。大坂の長堀川河岸には鰹座という大きな問屋の集まりがあって、鰹節のほとんどがここに集積するからである。◎『西区史 3巻』*2には、「鰹座橋の北詰辺は鰹節問屋の多かりし所にて、土佐・薩摩・阿波・紀伊・伊予・駿河・伊豆・相模・安房・上総・奥州等より産出したが、殊に土佐と薩摩は国産として多数に廻送し来り…」とあります。■鰹座橋(かつおざばし)交差点の名前の由来について■■土佐稲荷神社・土佐公園付近■●「一つ、御前節、四十樽、 大坂山キ印」◎荷物と仕入れ先の確認をしているのだが、「山キ」とは、鰹節のヤマキだろうか。●大坂以南の節であれば流通経路として当然だが大坂より東の伊豆節、房総節までが、わざわざ海路で大坂に運ばれ、鰹座を経由して江戸に舞い戻ってくる仕組みである。■解説■●この小説はまた、さまざまなエピソードを織り込むことで江戸商家のさまざまな問題を取り上げている。大店の商家の家族の有り様。長男と三男の結婚の違い。結婚相手の選択、出産と相続、商家の姑と嫁の関係。大名武家への納入や取引、商売仲間の儀礼や仁義・・・。 三代目伊兵衛は、庶民が鰹節を買いやすいようにと、削り節にして商い店を大きくした。それは、高田郁の■「あきない世伝金と銀■の「買うての幸い、売っての幸せ」。近江商人の「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったものに通じる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.17
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■いとみち■♪音が出ます!けっぱれ! わぁ、三味線弾ぐ。青森県弘前の高校に通う相馬いと(駒井蓮)。三味線を弾くときに指にできる糸道が名前の由来である彼女は、祖母や今は亡き母から引き継いだ津軽三味線を特技としているが、強い津軽弁訛りと人見知りのせいで、本当の自分は誰にも見せられず、友人もいない。そこで思い切って始めたアルバイトはメイドカフェだった。そこで、少し怪しげな店長、シングルマザーの幸子、漫画家を目指す智美ら先輩メイド、そして、風変わりな常連客たちと出会う。父・耕一(豊川悦司)は、メイドカフェで働くいとを心配しつつ見守ってくれる。いとは本当の自分を解放し、自分らしく、色鮮やかな人生を織りなすことができるのか……。 方言大好物で■ファジーな大阪弁■を時々アップしたり、旅行先でも方言を採取して悦にいっている天地はるなである。■ぼっけもん■全編、青森弁、正確には津軽弁といった方が良いの映画だというので行った。 まず、主人公いとの魅力的なのにびっくり!津軽弁も、はあ上手(うめ)こと!と津軽弁で思って調べたら、青森県生まれだった!それに三味線が上手い、だから選ばれたんだろうと思っていたら、この映画のために猛特訓したのだそうだ!!●タイトルの『いとみち』とは、三味線を弾く際に指にできる糸道のことを指す。●けっぱれ! わぁ、三味線弾ぐ。とは、がんばれ! 私は、三味線を弾く。 東北弁の小説■おらおらでひとりいぐも■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.16
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■■7月9日(空襲の夜)「紀伊水道より紀淡海峡数十機、大阪方面へ来襲」とラジオ放送。子どもを起こしました。 すぐ電灯は消えましたが、焼夷弾の音と共に、周りが赤くなり、良く見えました。子どもたちに避難の用意をさせ、「子ども連れでは、お位牌は守れません。落ち着き次第買わせていただきます。」と言いながら、仏壇の戸を閉めました。用意の物をおなかに巻き、ミシンを予定通り埋め、その上に水をと思いましたが、糸のようにしか水がでませんでした。 納屋が燃えてきましたので、5歳と生後50日の赤ちゃんを乳母車に乗せ、ご飯とラジオを乳母車に乗せました。「子どもたちに気をつけて。」と言って下さるご近所の方々の親切な声を後に、主人の疎開先へ行こうと思いました。大寺さんの(開口神社)の所まで、来た時、大寺さんの大木の榎が燃えて通れずに引き返しました。途中で乳母車が壊れたので、仕方なく三男(生後50日)を毛布に包み、横抱きにして、二女(5歳)に洋傘の先を持たせ私は、柄を腕にひっかけて歩きました。 時々、子ども達がはぐれないように体育用の笛を吹いていました。殿馬場国民学校へ引き返す途中に、消音用の銀紙がちらちら舞い落ちてきました。そして、焼夷弾の赤い火も見えました。気がつくと長女がいません。 仕方なく笛を強く吹きました。「お母ちゃん」と言う長女の声に生き返った思いをしました。殿馬場国民学校の雨天体操場について、「やれやれ」と思う間もなく「危険だから出るように。」との事で、天神さんへ、歩いて行きました。境内の玉垣に腰を掛け、「親子五人離れない様に、お父ちゃんが、探しやすいように。」と子ども達に言い聞かせ、親子五人固まって、西側の家の棟の焼け落ちるのを見ていました。(▲■散歩で見つけた昭和レトロな防火用水■)抱いている毛布が熱くなり、何度も防火用水に浸しました。三男は鳴き声一つ立てないので、死んだのではないかと何度も顔を見ました。夜も明け、火も一段落したので、家を見に行きました。家は全勝、ガス管のみ、柱のように立ち、中には熱気で入れませんでした。行き先を書きたかったけど、板切れ一つ燃えつけてありませんでした。仕方なく、人目につきやすい花田口筋に五人で立っていました。焼け野原に立っていると、主人が自転車で深井から来てくれました。そして、五人の無事を喜んでくれました。すぐ二条通りの友達の家に行き、一服させていただきました。その後、安井町の遠縁へ行きました。 疎開した学童のほとんどは、罹災者だったので、学校より一時家族に会わすとの指示で、主人が二男を連れて帰って来ました。「泊めてくれ」と言う二男の声も聞かず、「一人でも生き残って欲しい」と思う気持ちで、金岡国民学校まで送り届けました。学校が見えると振り返りもせず、門の中に走って行った二男の姿を今も思い出します。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.14
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■ペトルーニャに祝福を■私だけの十字架を探して北マケドニアの小さな町。32歳のペトルーニャは、とりたてて美人ではなく、恋人はおらず、大学に通ったものの仕事はウェイトレスのアルバイトをしている。就職面接を受けたところセクハラに遭った上に不採用になってしまったペトルーニャは、その帰り道、司祭が川に投げ入れた十字架を男たちが追いかけ、手に入れた者には幸せが訪れると伝えられる女人禁制の伝統儀式・十字架投げに出くわす。思わず川に飛び込み幸せの十字架を手にしたペトルーニャだったが、女が取るのは禁止だと男たちは猛反発。教会や警察を巻き込んだ大騒動に発展してしまう。 第69回ベルリン国際映画祭エキュメニカル審査員賞・ギルド映画賞に輝いた人間ドラマ。北マケドニアの小さな町。面接で不採用となったペトルーニャは、その帰りに女人禁制の伝統儀式・十字架投げに遭遇。彼女が思わず十字架を手にしたことから、騒動が起きる。北マケドニアの首都スコピエ出身、「ティトフ・ヴェレスに生まれて」(第9回東京フィルメックス特別招待作品)などを手がけてきたテオナ・ストゥルガー・ミテフスカ監督が、実話を基に、ペトルーニャの闘いをアイロニーとユーモアを交えながら描く。 年に一回、十字架を掴むと幸運が手に入るという話は遠い北マケドニアの話と思っただろうか。この手の話は、今も日本に残っている。★例えば、「福男」選び。1月10日午前4時から十日えびす大祭が執り行われ、午前6時に終わると同時に表大門が開かれ、参拝者が本殿までの230mを「走り参り」する。先着の3人が福男と認定される。★全国的に有名な西大寺会陽(はだか祭り)。厳冬の深夜、西大寺観音院の本堂 御福窓(ごふくまど)から投下される2本の宝木(しんぎ)をめぐって、約10,000人のまわしを締めた裸の男たちが激しい争奪戦を繰り広げます。その様子は、圧巻で勇壮そのもの。この宝木を取った者は、福男と呼ばれ、福が得られると言われています。どちらも参加できるのは男性。 また、ペトルーニャが就職の面接に行った時の男の上司の態度が女性蔑視そのもの。「若くない、そそらない」など言ったり、あげくに体に触ったりする。流石に日本ではここまではっきりと言わないかもしれないけど、若い女性、きれいな女性が選ばれる。そして「女らしい」女性が選ばれるような気がする。そのせいか、アナウンサーなど若くて美人、その上、髪の毛を長くしている。知性ではなく、女を売りにしていると思うと悲しい時がある。 この話は、実話。実際に十字架をつかんだ少女は今ロンドンで暮らしていると聞きました。率直に言って、シュティプに留まっていたら、彼女の人生は困難に満ちたものになっていたでしょう。彼女があの町から出る機会を得ることができて嬉しく思います。今年、ある女性がセルビアのゼムンで十字架を手にし、祝福されました。世界は急速に変化しています。そう願います!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.13
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■ピーターラビット2 バーナバスの誘惑■湖水地方なんか、ウンザリだ!心優しいビアとマグレガーが結婚することになり、父親面をするマグレガーに叱られ続ける毎日に嫌気がさしたピーター。ついに故郷の湖水地方を飛びだして都会に行き着いたピーターは、亡き父親の親友だと名乗るバーナバスと出会い、地下組織を率いる彼から都会を生き抜く盗みのテクニックを教わる。しだいにバーナバスに父親の面影を重ねるピーターは、彼に認められたいばかりに悪さをエスカレートさせていく。 ビアトリクス・ポターによる名作絵本を実写映画化した『ピーターラビット』の続編。生まれ育った湖水地方から都会へとやってきたウサギのピーターが、そこで出会った地下組織を率いるバーナバスとともに思いがけず悪事を働く。主人公ピーターの声を務めるジェームズ・コーデンをはじめ、ピーターが母親のように慕うビアをローズ・バーンが、ピーターの因縁の相手であるマグレガーをドーナル・グリーソンが前作から続投する。■ピーターラビット(前作)■ 映画の中で、「(ピーターラビットの)本が売れたら、このあたりの土地が買えるよ」というくだりがあった。「ナショナル・トラストかっ!!」と私は心の中でつっこんだ。ナショナル・トラスト (National Trust) とは、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体。正式名称は歴史的名所や自然的景勝地のためのナショナル・トラスト (National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty)。ポターは、湖水地方を初めて訪れた幼年時代からポターは自然美の保護へ関心があり、ポターは生涯を通じてナショナル・トラストを支持した。ポターはナショナル・トラストの原則に従ってヒル・トップの土地を管理し、伝統的な建造物や農業方法を維持した。1943年にポターが亡くなると、15の農場と4000エーカー以上の土地がナショナル・トラストに遺贈された。(▲湖水地方の町)■ナショナル・トラスト著名な施設として■■湖水地方(ピーター・ラビットの舞台)■▲■ヒル・トップ■ (ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターが絵本の印税で購入し、晩年を過ごした2階建ての家)▲■レッド・ハウス(アーツ・アンド・クラフツ運動発祥の地)■▼■人気のナショナル・トラスト■■2位 ストウヘッド庭園 ■8位ナイマンズ庭園 ウェスト・サセックス■ ■ナショナル・トラストに入る。■▲ヒル・トップの畑。▼どこから見ても美しい奇跡のような湖水地方の景色は、ナショナル・トラストのおかげだ。ピーター・ラビットの功績が大きいといえる。写真は■2016年に行った時の湖水地方■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.12
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■1945(昭和20)年5月25日。主人が大阪府堺市の市役所へ連絡のため深井から帰って来た夜、私は三男を出産しました。「やれやれ良かった」と思いました。 空襲のおりは、子供を無事に避難させたいと思い、乳母車に少しある、食料を用意しておりました。枕元には、リュックサック、防空頭巾と、*さら*(新品)の靴を用意し、いつでも逃げられるようにしておりました。 家の中には、階段の下に箪笥で空間を作り、一時避難できる用意をしておりました。庭には防空壕を掘り、ミシン等、貴重と思われるものを出来るだけ多く入れました。 火気から少しでも防ぐために、豪の中の火鉢に水をいっぱい入れました。戦後掘りだしたときには、火鉢の水は、全部蒸発していました。子どもたちだけなので、豪の蓋をし、火が中に入るのを防ぐために蓋と、石炭箱二杯の砂を用意しておきました。瀬戸物は床下に穴を掘って、埋めておきました。戦後に掘り出してみると、熱で形が、歪んでいるものが沢山ありました。過去帳、両親の写真、預金通帳を一つのカバンに入れ、いつも身近においていました。 雑炊のある日は、大きい子ども二人は、ご近所の人に20分も歩くところまで、食べに連れて行ってもらったこともありました。近所でうどんの配給時には、妊婦である私は、お鍋を持って買いに並びました。妊婦用の卵のチケットがあっても買えない日がほとんどでした。 子ども用のパンの配給は大体買えました。マッチの配給もありましたが、配給だけでは足りませんでした。買いだめの好きな私は、たくさんためておりましたので色々な物資にはあまり不自由はしませんでした。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子(仮名)。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.10
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■ミナリ■♪音が出ます!!そして明日が始まる・・・。1980年代、農業で成功することを夢見る韓国系移民のジェイコブは、アメリカのアーカンソー州に家族とともに移住する。荒れた土地とボロボロのトレーラーハウスに不安げな妻モニカに対して、しっかり者の娘アンと好奇心旺盛な息子デビッドは新天地に希望を見いだす。まもなく毒舌で破天荒な祖母も加わり一家の生活はにぎやかさを増すが、水が干上がり作物は売れず、思いもしない事態が彼らに襲いかかる。 1980年代のアメリカ南部を舞台に、韓国出身の移民一家が理不尽な運命に翻弄されながらもたくましく生きる姿を描いた家族映画。2020年・第36回サンダンス映画祭でグランプリと観客賞をダブル受賞した。しかし、農業が思うように上手くいかず追い詰められた一家に、思わぬ事態が降りかかり……。第93回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞など計6部門にノミネート。祖母スンジャを演じたユン・ヨジョンが助演女優賞に輝いた。あっという間の2時間、面白い映画だった。アメリカのアーカンソーが舞台だが、監督がコロラド州に生まれ、アーカンソー州リンカーンのオザークにある小さな農場で育つという韓国系アメリカ人だ。他のスタッフもアメリカで活動する人ばかり。会話のほとんどが韓国語なのに、アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞など計6部門にノミネートされるわけだ。(うち助演女優賞は、とったどー!!)映画のタイトルの「ミナリ」とはなにか?「ミナリ」は、韓国語で香味野菜のセリ(芹)。たくましく地に根を張り、2度目の旬が最もおいしいことから、子供世代の幸せのために、親の世代が懸命に生きるという意味が込められている。セリは大好きだけれど、このことを知ってもっと好きになった。■主なアカデミー賞受賞作品■★主演男優賞 アンソニー・ホプキンス■ファーザー■★主演女優賞 フランシス・マクドーマン■ノマドランド■★作品賞 「ノマドランド」★助演女優賞 ユン・ヨジョン「ミナリ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.08
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北海道内は、8月7日から盆の期間に子供たちによるローソクもらいの行事がある。ローソクもらいは、学齢前から低学年の子供たちが三々五々集まると、5人から8人くらいのグループを作って、缶トウロウや提灯を手にはやし歌を歌いながら練り歩く。 函館市では、現在もローソクもらいが行われ、子供たちは「竹に短冊七夕まつり、オーイヤ、イヤヨ、ローソク一本ちょうだいな」と歌い歩く。はやし歌は地域によって若干異なり、 松前町などでは「今年豊年七夕まつり、ローソク出せ、出せよ、出さないとカッチャク(引っかく)ぞ、おまけにくっつくぞ」と歌った。 また、内陸部の多くの地域では、「ローソク出せ、出せよ、出さないとかっちゃくぞ、おまけにひっつくぞ」と枕詞になる部分が省略されている。家々ではこの日のために小さいローソクを用意して、回ってきた子供たち一人ひとりに与えた。 道外では、秋田県に「七夕さまのおくねりだ、ローソク一本ちょうだいな」というはやし歌があり、 新潟県では「ローソク出せ、出せよ、出さなねばかっちゃくぞ」と歌うが、全国的にはこのローソクもらいの習わしを行う地域は少ない。北海道開拓の村■北海道歳時記:秋の彼岸■■北海道歳時記:秋じまい・庭じまい■■北海道歳時記:餅つき■■北海道歳時記:節分、豆占い■■北海道歳時記:ひなまつり■■北海道歳時記:半夏生(はんげしょう)■■北海道歳時記:北海道の七夕■■北海道歳時記:竹細工■■北海道歳時記:盆踊り■■北海道歳時記:節分ヤイカガシ■■北海道歳時記:雛祭■■北海道歳時記:雛おくり■■北海道歳時記:八十八夜■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.07
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■5月の花嫁学校■良き妻の条件。それは、わきまえる自由であること!1967年、フランス。美しい街並みと葡萄畑で有名なアルザス地方にあるヴァン・デル・ベック家政学校では、“完璧な主婦”を育成するため、今年も18人の少女たちが入学する。ある日、経営者である夫の突然の死をきっかけに、校長のポーレット(ジュリエット・ビノシュ)は学校が破産寸前であることを知る。なんとか窮地から抜け出そうと奔走していると、パリで5月革命が勃発する。抗議運動がフランス全土に広がっていくのを目の当たりにし、これまでの自分たちの考えに疑問を抱き始めたポーレットや生徒たちは、ある行動に出ることを決意する。はたして、新生ヴァン・デル・ベック家政学校の運命は……。 花嫁学校の生徒と同じ時代を生きた私には、この映画は、どストライクだった。少女たちは、家庭の実務を学ぶ。私たちの時代は、そんな時代だったのだ。私の勤めていた会社の同僚の女性たちもみな、会社が終わると、料理学校や裁縫教室に行っていた。お茶もお花も当然行っていたのだろう。私は、お茶とお花を一緒に教えてくれる人が家の近くにいたので、週に一回通っていた。 また、少女たちがはいているのはすべて、スカート。私も、どんな寒い時も、いつもスカートをはいていた。1972年にイギリスに行くにあたって、ズボンを買った。ジーンズではなく木綿のズボンだった。まわりの人ももんぺ以外のズボンをはいている人は、見たことがなかった。 映画からの帰りの駅で乗客の女性を観察してみた。スカートとズボンが半々くらいかな?冬だったら、ズボンの方が多かったかも知れない。スカートもミニだったりロングだったりとほんと色々。改めて1960年代との違いを感じた。そりゃあ、半世紀たったんだから・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.06
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■アジアの天使■傷だらけの人生。 でも、自由だ。妻を病気で亡くした剛は、ひとり息子を連れて兄の透が住む韓国に渡ったが、早々に事業に失敗する。どん底に落ちた三人は、活路を求めてソウルから江原道(カンウォンド)へと向かう列車に飛び乗る。偶然そこで巡り合ったのは、同じように人生に行き詰った韓国の三兄妹だった。言葉が通じ合わないにもかかわらず、彼らは不思議な旅を共にすることに・・・。 心に大きな喪失を抱えるシングルファーザーの青木剛を演じたのは、『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』『町田くんの世界』『ぼくたちの家族』をはじめ、石井作品には欠かせない顔である池松壮亮。■池松壮亮(いけまつそうすけ)■30代で好きなのは、この池松壮亮と■窮鼠はチーズの夢を見る■の成田亮。 その大好きな二人が出ているのが■カツベン!■■ライオン・キング@東京■池松壮亮は、10歳のときに地元・福岡で子役をしていた姉と一緒に劇団四季のミュージカル『ライオン・キング』の子役オーディションを受け、ヤングシンバ役に選ばれデビュー。 2003年、ハリウッド映画『ラスト サムライ』で映画初出演。トム・クルーズ演じる主人公と心を通わす少年・飛源を演じて、第30回サターン賞では若手俳優賞にノミネートされた。って、どんだけ、ラッキーなこやねん!!もちろん運でけで、「ライオンキング」のヤングシンバ役に選ばれるはずもない。きっと、可愛らしくて、運動神経が発達していて、賢い子どもだったんだろうなと思う。今回、池松壮亮の子ども役の子ども・佐藤凌(2011年生まれ)が可愛らしかった。どんな俳優になるのだろう。 この映画は、日本と韓国の家族を描いた作品。その表現方法としてか、みんなで食事をするシーンが多かった。●日本語を知らない韓国人、韓国語を知らない、日本人の会話。なぜ英語を使わない!!と思った。●最後の方の天使はいらない!!これも不自然だ!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.05
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親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子(仮名)。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、表現に少し手を加えているが内容は、まったく変えていない。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名) 学童疎開に付き添いに行くまでの主人は、隣組長をしていました。警報の度に学校から電話があり、走って学校から駆けつけていました*1945(昭和20)年*三月に大阪の親戚が全焼したため、主人は急に、堺市・百舌鳥(もず)、小山田(河内長野)の親戚の知り合いに荷車に荷物を乗せて長男と二人で預けに行きました。それで、組長を隣組の人に変わっていただきました。身重な私は不安な日々を子ども三人と共に過ごしておりました。 二女は、ただ一足の新しい靴を避難する時にはくように枕元に置いてあったのですが、実際に履くときに片方しか見つからず下駄ばきで逃げました。(長女、長男は新しい靴を履いて逃げました。)「その下駄をなくしたら、履くものがなくなる。」と兄や姉から言われ、自分でもそうだと思い、寝る時は毎晩汚い下駄を枕元に置いて寝るのを見て、哀れでした。私も下駄の鼻緒が切れたらと思うと不安でした。 女学生の長女は、学徒動員で、千代田工学に、レンズ磨きに行っていました。給食として、おにぎりが出された事があったそうです。 二男は学童疎開をしていました。二男の疎開に際しては、「一家全滅しても」と思い家族全員の写真と荷物を預かっていただいている人の住所氏名を二男の荷物の中に入れて持たせました。出産まじかで会いに行くことのできない二男に沢山ハガキを持たせました。 二男の便りは決まって、「ゴマ塩を持って来てくれ。」と書いてありました。二男の本心は、いろんなものを付け届けしてもらう友達がうらやましくて書いていたらしいです。時々、面会に行くのは主人でした。疎開から解放された後で、ゴマ塩の入って瓶ばかり出てきたので、胸が打たれました。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.03
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■殿様は「明治」をどう生きたのか■<内容>版籍奉還、廃藩置県によって土地を奪われ、支配者の地位から転落した元殿様たち。戊辰戦争で勝者となり新政府の要職も務めた土佐藩主・山内容堂は新政府への鬱憤から酒浸りに。徳川宗家十六代は天皇に信頼される大政治家に。朝敵となった会津藩主・松平容保は日光東照宮の宮司となりひっそりと生きた。多様な元殿様の「その後」のなかから、特に波瀾万丈な人生を送った十四人の元殿様の知られざる生き様を、人気歴史研究家の河合敦先生が紹介する。 ●第1章 1.維新の波に抗った若き藩主たち(松平容保(会津藩)―朝敵にされた悲劇の大名2.松平定敬(桑名藩)―容保と行動をともにした実の弟3.林忠崇(請西藩)―藩主みずからが率先して薩長と戦う4.徳川茂承(紀州藩)―敗走した旧幕府軍平をかくまう) ●第2章 5.最後の将軍・徳川慶喜に翻弄された殿様(徳川昭武(水戸藩)―兄慶喜の身を案じた仲の良い弟6.松平春嶽(福井藩)―徳川慶喜に裏切られ通しの坂本龍馬の理解者7.山内容堂(土佐藩)―晴らせぬ鬱憤を酒で紛らわせる8.徳川家達(静岡藩)―幼くして徳川宗家を継いだ十六代目当主)●第3章 9.育ちの良さを生かして明治に活躍(蜂須賀茂韶(徳島藩)―祖先の不名誉な噂を払拭するために外交官や官僚として活躍10.浅野長勲(広島藩)―三人の天皇と心を通わせた最後の大名11.岡部長職(岸和田藩)―長年の欧米生活で身についたマイホーム・パパ12.上杉茂憲(米沢藩)―沖縄の近代化に尽くそうとした名門藩主13.亀井茲監(津和野藩)―国づくりは教育にありを実践)14.巻末付録 江戸三百藩「最後の藩主総覧」★一番おもしろかったのは、最後の将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武(水戸藩)が、パリの万博に行った理由。最後の将軍・徳川慶喜は、自分たちの旗色が悪いと思い、フランスに亡命しようと思っていたそうだ。 だから、年の離れた(16歳の差)弟をパリ万博に送った。万博が終わった後、他の人は帰国しても、昭武には、フランスにいて勉学に励むように行った。 昭武に同行していたのが、渋沢栄一。■1867年第2回パリ万博■★上杉茂憲(もちのり・米沢藩)―沖縄の近代化に尽くそうとした名門藩主。茂憲(もちのり)が県令として沖縄に就任した時には、通訳が同行したそうだ。今よりももっと、沖縄の言葉は、独自性を持っていたのだろう。茂憲(もちのり)は、沖縄の庶民のあまりの貧しさに言葉を失ってしまう。丸太の掘立小屋に萱を葺いた粗末な小屋に家畜とともに住み、芭蕉布一枚を身にまとって、毎日甘藷やソテツばかり食し食器すら持っていない。しかも、文字も読めない者ばかりである。茂憲(もちのり)は、このありさまをなんとか改めようとしたが、2年で沖縄県玲の任を解かれた。明治維新のドラマは、薩長や徳川など有名どころばかりが描かれるが、上杉茂憲(もちのり・米沢藩)の行いは、全く知らなかった。■そこでちょっと茂憲(もちのり)について調べてみた。■明治29年(1896年)に米沢に移住し、養蚕製糸織物の改良に尽力した。米沢や沖縄での投資や奨学金に私財を惜しまず充てたため、家計は潤沢とはいえなかった。宮中での参賀や観桜会には夫人を伴う儀礼ではあっても、婦人用大礼服は大変に高額な上に会費・交際費も負担が重く招待を断り続けていた。多年の欠礼を省みてついに明治35年(1902年)の新年参内に併せ、夫人に礼装をしつらえさせると、日本橋白木屋洋服店の領収書に1028円81銭とあり、同家服飾費の2年半分を費やした。兼夫人は終生これ1着で済ましている。(▲■津和野■)★.亀井茲監(津和野藩)は、廃藩置県の命の出る前に、一足早く、自ら廃藩した。この本を読んだら、大河ドラマ「晴天を衝け」が何倍も面白い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.02
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(▲■ニュージーランド・オークランドの牛の像、本物そっくり!!■うし年ですから・・・と牛についてあれこれ書いている。大坂に住む私は、古い言葉に「こって牛」というのがあるのを思い出した。(▲ギリシャで見た牛の像)■こって牛■大阪の河内では、黒い大きな角の有る牛で、強情そうな牛を、「こって牛」と呼びます。それが転じて、親や目上、親友の、忠告等を自分の我をはって言う事を聞かない、強情者の事を、可愛さも含めてけなす言葉です。 最近、「こって牛」という言葉を聞かないが、昭和40年代のテレビドラマ「どてらい奴」のサブタイトルサブタイトルに、■走れ!コッテ牛■というのがあった。 大阪の方言だと思っていたが、調べてみたら各地にある。鹿児島。■こって牛■●意味●牡牛。雄牛。●由来/語源●「ことい牛(特牛)」の転訛です。ことい牛は、力の強い雄牛のことです。●用例●産まれたた、こってじゃしたや?おなめじゃしたや?(産まれたのは、雄牛でしたか?雌牛でしたか?)■うし年ですから:なで牛■■1月5日は「牛日(ぎゅうじつ)」■■丑紅(うしべに)■■牛飼(うしかい)が歌よむ時に・・・■■牛車(ぎっしゃ)■■「牛鍋からすき焼へ」■■仔牛の俳句■■牛草(ぎしぎし)■■商いは牛の涎■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.01
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