全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()
このところ日本の少女小説のことをあれこれ調べているので、その流れで「ラノベ」とやらのことも少しだけ勉強しておこうかと、波戸岡景太著『ラノベのなかの現代日本』という本をチラッと読もうとしたのだけれども。 ・・・読めなかった。つまらな過ぎて。いや、一応、さらっと全部読んだのだけど、何も頭に入ってこなかった。 そもそもラノベのラの字すら知らない旧人類の私が読むにはハードルが高かったのかな。もっと初歩的な、「そもそもラノベってのはいつ頃から生れたもので、代表作にはどういうものがあって、それらにはどういう共通点があって・・・」ってなことを手取り足取り教えてくれるような本を最初に読むべきだったのかも。 だけど、それにしてもつまらなかったなあ、この本。これ読んでもラノベの何がいいのかさっぱり分からないので、そもそもラノベを試しに読んでみようという気さえ起らなかったぜ。新書版の本って、そういうもんだっけ? せめて読者に「なるほど、ラノベってのはそういうものか。そいつぁ面白そうだ。一つ、読んでみよう」ってな気を起させるのが、新書版の役割なんじゃないのかい? この本だと、逆に「なんだかラノベってのは、とてつもなくつまらなそうだなあ。今時の若者は、こんなつまらなそうなものをありがたがっておるのか? いずれにせよ、わしとはまったく縁がなさそうだ」ということしか印象づけられなかったわ。 ま、この本は日本文化にある世代間断絶についての本だからね。まさにその断絶を感じることが出来たという意味では成功したのかも。【中古】 ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア 講談社現代新書/波戸岡景太【著】 【中古】afb ひょっとして、この本より、こっちの本を先に読んだ方が良かったのか?ライトノベルから見た少女/少年小説史 現代日本の物語文化を見直すために [ 大橋崇行 ] とりあえず今度はこっちを読んでみて、それでだめなら、もうラノベのことは頭から追い出そう。縁がないのだから。
April 30, 2019
コメント(0)
![]()
今日は史上初の10連休GW3日目か・・・。 このGW、どうせどこに行っても混み混みだろうし、とりあえずどこかに行く気もないんですけど、昨日ね、家の近くのスーパーに買い物に行ったら、売り場の脇の催事場で「陶器まつり」みたいのをやっていて、美濃焼の陶器を売っていたんです。 で、陶器には目のない家内と私が「どれどれ」とばかりに見ていると、これがね、なかなかいいのよ。 で、あれこれと物色した揚句、深い紺色のモダンなデザインのどんぶり2つと、トーストを乗せるのにちょうど良さそうな、やはりモダンなからし色の皿を2枚ゲット。どんぶりが1枚350円、皿の方が1枚180円。馬鹿みたいな値段で、なかなかいい品を買っちゃった。 こういうのが、GWのちょっとした楽しみってもんじゃないのかな。 さて、それ以外では本を一冊読み終えました。久美沙織さんの書いた『コバルト風雲録』という本で、前に花井愛子さんが講談社ティーンズハート時代のことを綴った『ときめきイチゴ時代』を読んで面白かったので、今度はコバルト文庫の主力作家だった久美さんの本を読んでみようと思って読んだのですが・・・ ちょっと私が期待した本ではなかったかな・・・。 要するに『コバルト風雲録』という本は、コバルト文庫の歴史とかはあまり書いてなくて、久美さんがどうやって作家になったかということ、つまり久美さんのいわば自伝みたいなものなのね。無論、そういうものとして読めば面白いのでしょうが、私としては創刊当時のコバルト文庫がどんなだったか、ということが知りたかったもので、それがあまり書いてないとなると、この本を読む意味がなくなるというね。 しかし、これを読むとコバルト文庫に代表されるような、文庫書き下ろし系の少女小説の作家たちと一般の作家との違いが分かります。 一般の作家はまず雑誌に書いて原稿料をもらい、それが単行本になって印税をもらい、さらに文庫化されて印税をもらうのであって、一つの作品で3回いい思いをする。さらにそれが映画化でもされようものなら、それ以上の恩恵があるわけ。 ところが文庫書き下ろしのコバルト文庫となると、一作品について一回しかお金をもらうチャンスがない。だから、自転車操業で書き続けないといかんわけですな。確かにコバルト文庫の人気作家には熱烈なファン層がついて、すごい量のファン・レターなどをもらったりするけれども、そういうファンもなかなか扱いが難しくて、例えば作品の中でヒロインの方からヒーローにキスをする、なんてシチュエーションを描いてしまったりすると、途端に「ガッカリしました!」なんて罵詈雑言をわざわざ手紙で伝えてきたりする。 そういうことが重なって、久美沙織さんも、「もうコバルト文庫に私の居場所はないな」と思い、他のジャンルの小説を書き始めたりするのだけど、必ずしもコバルト時代と同じような成功を収められず、過去の人扱いされたりする。 花井愛子さんの場合もそうですが、なかなか難しいみたいね、この少女小説というジャンルは。 でも花井さんもそうだったけど、この本を書く久美沙織さんのテンションも高いよ! やっぱ、これだけのハイテンションじゃないと、何作も何作も書けないんだろうね。【中古】 コバルト風雲録 /久美沙織(著者) 【中古】afb さて、昨日はこのほかに、ヴィゴ・モーテンセンが主役を演じる『ザ・ロード』(2009)という映画を観てしまいました。 ま、先日観た『グリーン・ブック』が割と面白くて、ヴィゴ・モーテンセンのファンになったものですから、これも観てみようと思って観たのですが・・・ 点数から言うと、100点満点のマイナス20点だね。観る価値なし。観るのに費やした2時間返して、って感じ。 ネタバレ覚悟で言うけど、天変地異なのか何なのか、とにかく理由を明らかにされないまま、ゾンビのいない『ウォーキング・デッド』みたいなディストピアと化したアメリカで、父と子が(意味もなく)南の海を目指して旅するというロードものでね。母親も居たんだけど、絶望して自殺しちゃったの。で、とにかく父と子が旅をするんだけど、道の途中には廃墟と化した町しかなく、人もいないし、食い物もないし、泊るところもない。で、たまに人がいると、そいつらは他の人を捕まえて食べる人食い人種になっていて、危なくて仕方がない。 だからもう、まったく救いがないのね。で、結局、父の方は死んじゃって、一人残された息子は、どこからともなく現われたある家族と一緒に旅を続けることになりました、っていう。まさに山なし、オチなし、意味なしの映画。暗い、暗い。ただひたすら暗い。 原作はコーマック・マッカーシーで、ベストセラーになった小説だそうですが、もし映画が小説に忠実ならば、とても読む気にならんわ~。ストーリーがないじゃん。シチュエーションしかない。最悪。 ただ、この映画のことやヴィゴ・モーテンセンのことをあれこれググっていて分かったんですが、ヴィゴ・モーテンセンの祖先ってすごいのね。 ヴィゴの母方の祖先には、ジョニー・アップルシードとバッファロー・ビルが居るんだって。もう、アメリカ西部開拓時代の伝説じゃないの。すごい家系。ビックリだわ。 だけど、面白かったのは、それだけ。 というわけで、やっぱり昨日のハイライトは、「陶器まつり」だったかな。
April 29, 2019
コメント(0)
![]()
菅聡子さんが編集した『〈少女小説〉ワンダーランド』という本を読了したので、心覚えをつけておきましょう。 これ、先日読んだ嵯峨景子氏の『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』と一部内容がかぶるので、嵯峨さんの本を読んで学んだことを、もう一度この本で整理出来たという意味で、私にとってはとてもタメになる本でありました。 で、そういう頭の整理のために簡単に要約しますと、「少女小説」なるものが生まれるには、「少女」という存在が前提となるわけで、じゃあ少女はいつから存在し始めたかというと、明治期以降、学校教育制度が整うようになってからであると。それ以前、江戸時代には「少女」という言葉はなくて、「娘」と呼ばれていた。さらに遡って万葉の時代に「少女」なる言葉はあったようだけれども、それは「おとめ」と読んで、今とは違う、宗教的な意味を担うものだった。 で、その明治時代の学校教育制度ってのは、要するに女性を良妻賢母に仕立てるためのものであったと。だから、その頃の女性は学校を出ればお嫁に行くしかない。「少女」というのは、だから、お嫁に行く前の女の人に与えられたわずかなモラトリアム期間だったわけね。 で、1888年に『少年園』という雑誌が出て、少年雑誌なるものが生まれます。しかし、この場合の「少年」とは、「男の子」の意味ではなく、「若い人」の意味だった。つまり性別を指す言葉ではなく、年齢層を指す言葉だったと。だから『少年園』という雑誌には「少女欄」というコーナーがあって、そこに少女向けの情報やらお話しが載るようになった。ま、これがいわば少女を想定読者にした雑誌の萌芽だったと。 そして明治20年代の少年雑誌の時代についで、明治30年代は少女雑誌創刊の時代になる。『少女世界』『少女の友』なんかが次々と創刊されるんですな。この時代、例えば若松賤子による翻訳小説(『小公子』など)が評判となる。ちなみに若松はミス・キダーの学校、すなわち後のフェリスの出身。この時代、ミッション・スクールが日本の女子教育に果たした役割の大きさが窺われます。 で、こうした少女雑誌には投稿欄があって、日本中の少女読者がこの投稿欄を使って連帯を深めたり、あるいは自身が作家になっていく踏み台になっていく。読者から作者への流れってのは、もうこの頃からあったわけ。そして、その代表が吉屋信子だったと。 時代は明治から大正に移り、1916年(大正5年)7月、吉屋信子の「花物語」の連載が始まります。これが画期的だった。 それまで少女小説といえば、教訓的な「少女不幸物語」が主流。親が死んだりして親とはぐれた少女が苦労に苦労を重ねるという話ばかりで、これは「家を失った女は大変なことになるぞ!」というメッセージを伝え、女性を家に閉じ込めておくための策略だったわけ。 ところが吉屋信子の「花物語」はそういう系統の教訓譚ではなかった。これはミッション・スクールの寄宿舎を舞台にした、上級生と下級生の疑似恋愛もの、いわゆる「エス」という奴で、ちょっとレズっぽい側面のある物語。で、ヒロインの二人の関係は、上級生の方が学校を卒業すること(=もちろん卒業後は結婚が待っている)で終るパターンが多いわけですが、そこで残された下級生は「よよ」と泣く。つまり、女学校時代が天国で、それが終って結婚すればそこに悲劇が待っているという設定なんですな。それ以前の「家が大事」という話とは180度方向性が違う。 さて、そんな大正期末期になると、女学校の数が中学校の数に追いつきます。もっとも男子が通う中学校のその先には、高校・大学とさらなる高等教育の機会があるわけで、女学校までで実質的に教育機会が終ってしまう女性の立場は、男性のそれとは異なるわけですが、少なくとも中等教育のレベルでは、女子も男子も変らないところまではきたんですな。 で、そんな女学生の数の増加(昭和初年代で30万人、10年代で70数万人)を背景に、昭和初年には少女雑誌が更に増加します。とりわけ人気を二分したのが『少女の友』と『少女倶楽部』。前者は「実業之日本社」、後者は「大日本雄弁会講談社」(後の講談社)の発行。前者は川端康成(といいながら、実は弟子の中里恒子)の『乙女の港』に代表されるエスものが売り、対する後者は菊地寛の『心の王冠』に代表される立身出世モノが売り。前者は都会的なセンス、後者は地方的な逞しさが顕著で、それぞれの雑誌の傾向が出ていたと。 しかし、こうした少女雑誌がやたらに出回るようになると、そういうものを少女たちがむさぼり読むことに、男性サイドからの批判も出てくる。いつの時代も繰り返されるパターンですな。その一方、女性サイドからも「こんな小説くだらない」という批判はあり、そうした批判意識を持って、もっと優れた小説を書く女流作家も登場してくる。その代表が野村胡堂の娘の松田瓊子の『七つの蕾』であったと。あと、壺井栄もある時期、少女雑誌に作品を提供していたこともあったとか。 で、第二次大戦があって、戦後。登場してくるのが『ひまわり』ですな。創刊号の巻頭の辞は吉屋信子大先生の「うら若き女性よ、・・・この国の岸辺には、女性解放の新しい潮が明るい太陽のもとに打ち寄せている」という言葉。で、『ひまわり』を主戦場に登場してきたのが、かの村岡花子先生、『赤毛のアン』ですな。 『アン』で重要なのは、アンの友人のダイアナで、二人は(村岡花子先生の名訳文によれば)「腹心の友」。つまり、女性同士の連帯という、大正時代以降の日本少女小説のテーマが継承されており、かつ、外国の文物への憧れも満たすものだった。戦後という時代に、『アン』はピッタリ合っていたというのですな。 さて、その後1950年代後半から70年代にかけて、『女学生の友』や『小説ジュニア』が創刊され、これを舞台に少女たちの愛と性を扱う「ジュニア小説」の波が押し寄せて参ります。しかし、先の『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』にもあったように、ジュニア小説の書き手は大正末期か昭和初期生まれの大人(男性を含む)であって、彼らの書く少女像というのが、次第に現実と合わなくなってくる。 その間隙をついたのが、少女マンガの世界であり、小説界で言えば氷室冴子であったと。 ・・・とまあ、本書冒頭の「少女小説の歴史をふりかえる」という章の内容をざっとご紹介してきたのですが、この章は簡潔ですごく分かり易い。またこれに続く菅聡子氏と本田和子氏の対談もすごくいいです。 で、その後、『若草物語』や『あしながおじさん』といった翻訳小説が果たした役割の考察があって、それぞれ面白かったし、さらにこうした少女小説の伝統が現代の女性作家たちによる小説群にも生きていることを指摘した斎藤美奈子氏の考察も面白かった。特に斎藤さんの考察、すなわち少女小説の基本設定である「ヒロインが孤児であること」「ヒロインは少年っぽいこと」「脇役として女性らしい少女が登場すること」「老人を味方につけること」「恋愛ではなく友情で結ばれた少年ヒーローが登場すること」の5つは、現代の女性作家の小説にもほぼそのまま当てはまると指摘した考察は、なかなかの説得力。特に現代女性小説で「単身女性」がヒロインとなることが多いのは、伝統的な少女小説の「孤児設定」と同じという指摘は納得。 あと、「海外〈少女小説〉事情」という項目で、フランスやイタリアでは、「少女小説」というジャンルがないし、そもそもイタリア語では、日本語の「少女」に当る言葉すらない、という指摘が面白かったです。 ま、私が本書を読んで、個人的に勉強になったのは、そんなところかなあ・・・。 一方、こういうオムニバス的な編集本だと、どうしても玉石混淆になりがちなのは当然で、ハリー・ポッターを扱った章と、宝塚を扱った章は、ちょっと本書の内容にそぐわなかったかな・・・。 ま、とにかく、これ読むと「少女小説」とは何か、ということは大凡分かる仕組みにはなっていて、私としては大いに勉強になりました。薄い本ですけど、おすすめです。〈少女小説〉ワンダーランド 明治から平成まで [ 菅聡子 ]
April 28, 2019
コメント(2)
![]()
神山典士という人の書いた『ゴーストライター論』という本を読了しました。 まあ、なんでこんな本を読んだかと申しますと、ゴーストライターというものに個人的に興味があるから。要するに、一度、ゴーストライターをやってみたいというアレがあるのよね~。 自分一人の経験なんて、そうそう沢山あるわけではないし、それだったら、面白い体験をした人の話を聞いて、それをその人になり代わって文章に綴るなんて、面白そうじゃん? いわば、俳優みたいなもんですよ。俳優ってのは、他人を演じるわけですけれども、ゴーストライターはそれを文章でやる。そう考えたら、ある意味、私にぴったりな職業じゃないですか。 で、そんな思いを抱きつつこの本を読んでみたのですが、うーん、別に悪い本じゃないけれども、私が期待したような方向性の本ではなかったかな。 まあ、でも、一応のことは書いてありますよ。人はどうしてゴーストライターを目指すのか、とかね。 ゴーストライターって、要するに縁の下に隠れちゃう存在(もちろん、名前が明記される場合もありますが)で、そんなのつまらないじゃんと思うかもしれないけれど、先に私が述べたように、一流の人、あるいは非常に変わった体験の持ち主にマンツーマンで接して話を聞けることだけでも相当な面白さがあると。 またゴーストライターの仕事ってのは、単に当該の人物から聞いた話をそのまま文章にするのではなく(それだと「テープ起し」と同じ)、想像力を駆使して当該の人物の立場に身を置き、自分の言葉で当該の人物の思いを文章化する仕事であって、むしろゴーストライターの文章によって、当該の人物が自分では気づかなかったことに気づくようになることすらある。そういう醍醐味があるというのですな。 一方、デメリットも多々あって、例えばせっかく書き上げた本が、当該の人に気に入られず、お蔵入りになってしまうというケース。あるいは、あまりに良い物を書きすぎたがために、当該の人の態度がでかくなり、「これは俺が書いた本じゃ!」とか言い出して、増刷以降の印税がもらえなくなるとか。だから、本当にゴーストライターを務めることになったら、最初にちゃんとした契約を結ばないといかんらしいです。 そういう意味では、綱渡り的な職業ではあるのだけれども、それにも拘らずうまく行けば非常に面白い仕事になりうるもんだよと。 あ、あとね、ゴーストライターで成功するためには、自分が書きたい本を狙いに行くのではなく、世間が読みたい本は何か?と考えて、そういうことに詳しい人のところにいって、「あなたの代わりに書いてあげるから、お話し聞かせて」というのがベストなのだとか。なるほど。 ま、そんなことが縷々書いてあります。 だけど、結局、この本読んでも、どうすればゴーストライターになれるのか、ってことは書いてない。結局、どこか新聞社とか雑誌社とかに勤めて、ジャーナリストやって、人脈作って、そのうちにフリーになって・・・ってな手順を踏むしかないような感じなんでしょうけどね。ま、そりゃそうか。 ま、例えば「一度、プロ野球の監督をやってみたい」とか思ったところで、それになれる確率って、宝くじで億単位の当りを取るより難しい。ゴーストライターになるのだって、なろうと思ってなれるもんでもないのでしょうな。 じゃあ、この本読んで何のメリットが私にあったか、というと・・・ゼロだね。 という本ですよ。 そういう意味で、悪い本じゃないかも知れないけど、私にとってはあまり意味がなかったし、誰におすすめすればいいかもよく分からない本でありました、とさ。【中古】 ゴーストライター論 平凡社新書772/神山典士(著者) 【中古】afb だけど、いいの。近いうち私も新書本出すので、文体とかも含め、今時の新書本っぽい感じってどんなだっけ?っていうのをリサーチするという意味合いもあったからね。とりあえずそれは大体掴んだから。
April 27, 2019
コメント(0)
![]()
このところずっと『ウルトラセブン』を見直していて、それは単にノスタルジーからなんですけど、そうなってくると色々興味が湧いてきて、ついにウルトラ警備隊の紅一点、ひし美ゆり子さんが書いたエッセイ『セブンセブンセブン』を読んでしまったというね。 陸上部所属のスポーツ少女だったひし美さんが、友人の勝手な応募により「ミス東京セニョリータ」なるミスコンに出場することになり、あれよあれよという間に準優勝。それがきっかけで東宝に入社することになり、その後、別な女優さんの代役で『ウルトラセブン』に友里アンヌ隊員として出演することが急遽決まるという、そんな話から始まって、ウルトラ警備隊のメンバーそれぞれの裏話とか、『ウルトラセブン』全49話(ただし例の第12話のエピソードは割愛)個々の思い出などが綴られるという趣向。その間、この番組を担当した監督や脚本家の思い出なども語られていて、ファンとしては非常に興味深い内容。 さらに『ウルトラセブン』以後の映画の仕事のこと(結構、ポルノ映画っぽいのにも出演されていたようで・・・)や、結婚のエピソードなどもあれこれ。 で、そういう話を読んでいると、ひし美さんというのは、いい意味でアマチュアっぽい人なんだなあというのがよく分かる。 端的に言えば、女優としてのプライドがまったくない。作品に対する思い入れもないし、演技に上達しようという気もあまりない。ただ仕事が来れば引き受けて、ビジネスとして演じる、ただそれだけって感じ。本人も自分が「BG(ビジネス)女優」であることを自任していたようですけど、だから女優として大成しようとか、そういうのはまったくない人なんですな。 でも、だからこそ「がっつき感」がなく、どこまでも素人っぽいところがあって、そこが他の出演者やスタッフからすれば、可愛いところだったのでしょうし、見ている方からすれば、それこそ「手の届く」ような感じが妙に生々しい魅力とも映ったのではないかと。脚本家の市川森一さんとか、すごいひし美ファンだったそうですしね。 本書にはまた、『ウルトラセブン』のアンヌ隊員時代の写真はもちろんのこと、その他の様々な写真が含まれていますので、そういうのを眺めるのも一興。 ということで、今、『ウルトラセブン』を改めて見直している私にとってはとても面白く読める本でした。ま、もちろん、素人の書いた本ってところはありますけどね。 しかし、こうなってくると、『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員こと桜井浩子さんの方のエッセイも読みたくなってきたなあ・・・。セブンセブンセブン アンヌ再び… (小学館文庫) [ ひし美ゆり子 ]ウルトラマン青春記 フジ隊員の929日 [ 桜井浩子 ]
April 26, 2019
コメント(0)
昨夜、大宮の本部道場から実家に戻り、4日ぶりに娑婆の空気を吸った私。 たった4日と言う勿れ、やっぱりね、この忙しい現代社会、4日も留守にするとそれなりに「娑婆を離れていた」っていう実感があるよ。新聞も、全然読んでなかったしね。 で、今日は昼前から母を連れて多磨墓地にある父の墓参り。墓前に師範位取得の報告をして参りました。そして大学時代の恩師のお墓がすぐそばなので、恩師にもその報告をしてきました。 で、多磨墓地からの帰り道、府中に寄りまして駅前のデパートにある某和食レストランで食事。そしてそのお隣にある伊勢丹のレストラン街にもちょいと立ち寄りまして。 何をしていたかと言いますと、来る6月の父の三回忌の時に法要の食事をする、その場所の選定でございます。昨年は仕出しを頼んでお寺の中で済ませたのですが、三回忌はもう身内だけで簡単にやるつもりなので、個室のあるレストランを探そうかなと。 で、和食・中華のレストランを候補として選出。これから少し姉とも相談してどちらで行うか検討する予定。 さて、そんな用事も済ませて帰って来たのですが、今日は夕食後、名古屋に戻るので、これから母のためにイチゴを煮てジャムを作ってやろうかなと。それで、そのジャムも含め、夕食はパン系の食事で済ませ、その後、名古屋に戻る予定。 というわけで、明日からはまた名古屋からのお気楽日記。お楽しみに〜!
April 25, 2019
コメント(0)
はーい、大宮にある本部道場から実家に戻って参りました〜! そう、4日間の師範教伝を終え、無事、五段となり、師範の資格を取ることが出来たのでありまーす、ガーン! 今まで三段だったから、次は四段と思っていたのですが、四段の技は一応「準師範技」となっていて、今回、師範教伝で習うのは五段の技なので、結果、五段になっちゃったのね。 4日間の教伝中、御宗家から直接指導を受け、その技も初めて実体験できましたし、三代目の若先生、館長先生、それから十段のT先生など、本部のそうそうたる先生方から懇切丁寧に指導していただき、色々な発見がありました。一気に詰め込んだので、まだ頭の中で完全に消化しておりませんが、それはこれからの稽古の中でおいおいと。 無論、師範の資格を取っただけで、師範相応の実力がついたわけではありませんが、それでも一つの節目は迎えられたかなと。 というわけで、今日は「師範」の銘の入った真新しい紫の帯を抱いて寝ることにしましょうかね。グーグー。
April 24, 2019
コメント(2)
大宮っていう駅に、初めて降りたわ〜。 まあ、母方の祖父母が高崎の方に住んでいたもので、帰省する時に何度となく通過してはいましたが、降りるのは初めて。さすが埼玉県を代表する都市だけに、駅前はなかなか人通りが多いですなあ。デパートも高島屋とそごうがあって、ルミネも2つあって。 そう、私が習っている八光流の本部は、ここ、大宮にあるのでございます。 で、私は大宮駅前のビジネスホテルに前泊しておりまして、明日から始まる師範教伝に備えていると、まあ、そういうわけ。 しかし、地方都市のビジネスホテルって、独特の趣があるよね〜。超狭くて、基本清潔で侘しいんですけど、この無機的な侘しさに耐えるってのが、いいわけよ。(何がいいんだっ!) まあ、用途としては寝られればいいわけで。 ま、無機的とは言ってもね、同時期に教伝を受ける同門の友人も同じホテルに泊っているので、さきほど一緒に夕飯を食いに外に出たりして、そこそこ陽気に楽しんでおります。 さてさて、問題は明日からだよ。師範教伝って、どんな感じなんだろう? ちょっとドキドキ。 というわけで、しばらくは大宮からのお気楽日記、お楽しみに〜。
April 20, 2019
コメント(0)
今日は午前中から名古屋で某出版社の編集者と面会。ま、お仕事の話だったんですが・・・うーん、どうかな。一応、こういう方向性で、というのは決めたけど、それ、実際にやるかどうか分からないかも。やるとなったら時間取られるしなぁ・・・。 ただ、上手く行ったら大もうけの話かも知れません。 で、家に戻ったら、昨年の夏に頑張って書いてた原稿が載った『書物學』という雑誌が届いておりまして。やっぱり、自分の文章が活字になるってのは嬉しいものであります。 で、本当ならそこでもう少し喜びに浸っていたかったんですが、そういうわけにも行かず。というのは、今日中に実家に戻らなければならなかったから。 実は日曜日から4日間に亘って、私が習っている柔術の本部で師範教伝を受けることになっておるのでございます。 そう、この師範教伝が済むと、私は4段となるのだ〜! ま、段位のことはともかく、流派の宗家に直接指導してもらえるというのがね、すごく楽しみ。聞くところによると、やはり宗家の技というのはすごいらしいですからね。 というわけで、今日は実家に泊り、明日は大宮に前泊して当日に備える予定。今日はもう疲れちゃったので、もう寝ます。グーグー。
April 19, 2019
コメント(0)
![]()
武田砂鉄著『紋切型社会』という本が面白そうだというので、図書館で借りてチラ読みしてみたのですが・・・ うーん、どうなんだコレ? 「全米が泣いた」とか「誤解を恐れずに言えば」とか「なるほど。わかりやすいです」といったような紋切型の言い回しを20個ほど取り上げ、こういう言い方によって、何が隠蔽され、何がうやむやにされ、何が押しつけられていくのか、といったようなことを考察している本で、まあ、発想というか目の付け所はそこそこ面白いと思う。 だけど・・・ こういうことをこういう風に取り上げたんだから、こういう方向に論が進むんだろうなと思っていると、微妙に違う道に進んじゃって、アレレ?と思っている内に終っちゃう、みたいなところもあるんだよな~。 だから読んでいて面白くないんだよね。書きようによっては面白くなりそうな素材なのに、何故か面白い手前で墜落しちゃう感じっていうか。結果、この本読んでいてアハハと笑うことが一度もなかった。 ユーモアがないのかなあ? 批判しているのにユーモアがないので、読んでいて心地よくないのよ。ユーモアのある批判なら、受け容れられるんだけど。 それによくよく考えてみると、紋切型な言い回しって、これまでだって随分、云々されてきたもんね。そう考えると、発想そのものも陳腐、という言い方すらできる。 ということで、砂鉄、ライターとしてまだ完成されてないと見た。残念! 【中古】 紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす /武田砂鉄(著者) 【中古】afb
April 19, 2019
コメント(0)
![]()
光田秀著『眠れる預言者 エドガー・ケイシー』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ところで、エドガー・ケイシーという人、ご存じ? この人、1877年生まれで1945年没の人なんですが、一種の超能力者なのね。 この人、割とパッとしない少年時代を過ごし、パッとしない保険外交員か何かを職業として選んだんですけど、ある時、失語症にかかるんですな。保険外交員で声が出ないんじゃ、仕事にならない。で、困っていたら、催眠療法で直してやるよっていう人が現れまして。 で、催眠術かけてもらったら、これがまた実によくかかる。 で、かかるばかりじゃなくて、催眠にかかったケイシーは、自分の病状を的確に把握していて、その治療法も診断したというのですな。で、じゃあ、自分で自分を治療してみなさいと、催眠状態のケイシーに暗示をかけたら、その通りにして、なんとあっさり失語症が治ったと。 まあ、一種の奇跡ですわな。 で、こりゃすごいってんで、この分だと、ひょっとして他人の病気も治せるかな?ということになり、またまたケイシーを催眠術をかけて、別な病人連れてきたら、その眠れるケイシーはその病人のどこが悪いのか、治療法はどうすればいいかといったことをまたまた的確に教示したと。 つまり、ケイシーってのは「眠りの小五郎」みたいなもんで、眠ったまま事件解決! な人なわけですよ。 じゃ、ケイシーはどういう風にして自分や他人の病気を治しちゃうかといいますと、彼はですね、「アカシック・レコード」という、人類のあらゆる事々を記録したものにアクセスするらしいんですな。で、そこに病人の前世からの記録が全部残っているから、それを読み取れば、なんでその人がその病気になったかもわかるし、これからどうすればいいかもわかると。 で、アカシック・レコードを読み取る、というところから、ケイシーの秘跡は「リーディング」と呼ばれます。 ちなみにそのアカシック・レコードによれば、ケイシー本人も前世でギリシャ時代の化学者だったことがあるので、病気の治療なんてものはお手のものだったんですな。 で、まあ初めのうちはケイシーの活動は病人の治療をもっぱらにしていたらしいのですが、そのうち、アカシック・レコードにアクセスできるのなら、別に病気のことじゃなくて、人生における指針とか、そういうのもできるんじゃね? ということになって、病気の治療(=フィジカル・リーディング)だけでなく、人生のお悩み相談(=ライフ・リーディング)とか、夢解釈とか、霊的アドバイスとか、ビジネス上のアドバイスとか、そういうのも引き受けるようになっちゃったと。 それから、ケイシーは予言もできちゃいます。例えば第1次世界大戦の時、ケイシーの息子も兵役に取られて、出征前に同じく兵役にとられた友達と出征前パーティーをやったそうなんですが、そこに参加したケイシーが、段々暗い顔になってきて、やがて退室してしまった。 で、息子がケイシーに、「どうしたの?」って尋ねたら、「だって、パーティに参加した連中の中で3人、戦死するのが見えたんだもん」と。実際、この時ケイシーが指摘した3人は、戦死したそうです。ケイシーにはそういうのも見えちゃうのね。 はーい、ここまでの段階で、多くの人が「うっそ~!」って思うよね。 でも、ケイシーのリーディングの正確さというのは半端じゃないそうで、例えばある人のアカシック・レコードにアクセスしてその人のことを占った後、また10年くらいしてから、同じ人がケイシーのリーディングを頼んだら、前とほぼ同じリーディング結果が出た。見ず知らずの何千人という人のリーディングをしていても、同一人物のリーディングに一貫性があったということは、やっぱりケイシーは同じアカシック・レコードの記録を読んでいたとしか思えないと。 で、そんなケイシーによれば、前世ってのはあるらしいんですな。今、地球上に存在している人間の大半はそれこそもう何十回も生まれ変わりを経験している。 で、今、自分が悩んでいることがあったとして、それはほぼ確実に前世の影響、すなわち「カルマ」が引き起こしている現象であると。 たとえば今、人から見下され、劣等コンプレックスに悩んでいる人がいるとするじゃん? それはですね、多分、前世では逆に優等意識が高くて、他人を見下したり、出来の悪い人をあざ笑ったりしたことがあるのよ。そのカルマが巡ってきて、今度は自分が見下される立場になったと。そうやって前世でやらかしちまったことのツケを、今、払う立場になっているわけ。 さて、もしケイシーの言うように、この宇宙がそういう仕組みで出来ているとしたら、皆さんはそのことについてどう思われます? これは本書の著者の光田氏も言っていることなんですが、この「カルマ」という考え方は、それこそ人類にとって福音であると。 それは確かにそうなので、もしそういうことであるならば、今の苦しみの原因は自分にある、ということがはっきりしますからね。だから、我慢できるじゃん? 自分のせいなんだから、人を恨んでも仕方がないですからね。 これ、もしカルマを信じなかったら、苦しいですよ。いつまでも「なんでこうなんだ!!」って悩み続けなくてはならないわけだし。そして、その挙句に人を恨んだりしてね。でも、もし人を恨んだり、あるいはその結果、人に危害を加えたりしたら、またそこでカルマが生まれて、次に生まれ変わった時にまたそのツケを自分が払わなければならなくなる。 だから、カルマを信じ、自分の代でそのカルマを終わらせるように行動すれば、少なくとも次に生まれ変わった時に得をするんだと信じれば、この世の悩みなんて終わってしまう。 そういう可能性があるんだ、ということを、ケイシーの存在が教えてくれるわけですね。考えてみれば、すごいことでありまして。 あ、あとね、例えばピアノの才能の無い人が、人生の晩年になってピアノの練習をする、なんてことがあるとするじゃん? それ、普通は時間の無駄、と思いますよね。しかし、カルマを信じれば、今、ここでピアノの練習をすることで、次に生まれ変わった時に、すごいピアノの才能の持ち主として生まれ変わることが出来る可能性が高いんですな。 そう考えると、老人がたどたどしいピアノの練習をすることにもちゃんと意味が出てくる。そしてこれは一つの例であって、このような考え方をするならば、人生に無駄なことなんか一つもない、ということになるわけですよ。 素晴らしくない? カルマを信じるって。 ちなみに本書の著者の光田氏も、若い頃、自殺を考えるほど人生に悩んでいたこともあったそうですが、ケイシーのことを知ってから、生きる意味を見い出したそうです。それで、ケイシーのことを日本に伝える使命に燃えて、日本エドガー・ケイシー協会の会長さんみたいなことをやっておられるそうですが。 確かに、ケイシーの存在が前世の存在の証となり、前世の存在の証が、人間の生きる意味を保証するのであれば、これは人類にとっての福音ですな。 ま、本書を読むと、そういうことを考えさせられます。 あ、それから、ケイシーが解説したこの世の始まりというのもすごく面白いです。 それによると、まだ時間も空間もなかった頃、神(Universal Force)だけがあったと。 で、その神が自分自身を認識し始め、また仲間を欲するようになった。そしてみなぎる力をバーンと放出し、宇宙が出来たと。その時に神の体の一部として霊も飛び出していったんですな。 で、その霊も最初の内はあまり意識を持ってなかったのですが、そのうち、霊も目覚めるようになり、それが次第に出来上がりつつあった物質世界の中に降ったと。で、地球にも1億3千万くらいの霊が降ったんだそうで。 で、そのうちにその霊たちは神から独立した自意識を芽生えさせ、好奇心を覚えて自由意志を持ったと。で、地上の動物たちが生殖活動をするのを見ながら、「俺たちもああいうのやってみたい」と思ったと。それで、自分勝手に自分の想念で動物を作っちゃった。それが世界各地の神話に残るドラゴンとか、ケンタウロスとか、そういう魔物ですな。 で、最初はそうやって想念から動物を作っていたんですけど、そのうちに霊が、自分の作った動物(=肉体)の中に入り込んでしまい(ケイシーの用語ですと entanglement が生じ)、出て来られなくなると共に、霊としての意識も失ってしまうようになった。これは、あきらかに想定外の出来事であったんですな。 で、それを見ていた霊が、動物と化した仲間の霊を救うべく、地上に降り立ち、その動物たちに進化を促した。そうやって動物は進化し、やがて人となるわけ。進化論でも、サルが急に進化する時代ってあったでしょ? あれは霊の介入があったからだったんですな。ちなみに、この最初の霊の救済に駆け付けた霊こそが、イエス・キリストであったと。 だから、救済の最終段階は、ケイシーの言葉を借りれば、「Be yourself and yet one with ALL」、すなわち、「人間がそれぞれ個々の人間でありながら、かつ大いなる宇宙全体(=神)と一体になること」だと。 ・・・とまあ、ここでケイシーの言説は、巷の自己啓発言説、とりわけ「引き寄せ系」の自己啓発言説と重なってくるわけよ。人間は宇宙の一部であって、世界の万物とつながっている、的な。 でも、ケイシーの創世説って、なかなかよくできていますよね。ビッグバン理論も、進化論(とりわけ、なぜ急にサルが人に進化できたのか、という辺り)も、みんな吸収しちゃうんだから。それを、本人はさしたる学力もなく、ただ眠っているうちにアカシック・レコードを読むことによって伝えちゃうっていうね。 まあ、色々ビックリよ。 私はこれまでエドガー・ケイシーのことをまったく知らなかったんですが、知ってみると、まあ、沢山関連書があること。特にニューソートの歴史を語る上で欠かせない人だ、ということはとりあえず分かったので、もうちょいあれこれ読んで、ケイシーの立ち位置をはっきりさせる必要はありそうです。興味のある方は是非!【中古】 眠れる予言者エドガー・ケイシー あなたの魂をみがくスピリチュアル・メッセージ /光田秀【著】 【中古】afb
April 17, 2019
コメント(0)
「アニキ」ことK教授が、クルマを買い替えまして。昨日から自慢げに新車でご通勤でございます。 で、そのアニキが買ったのが白のプリウス。 これで3台続けてプリウスですよ。私が「つまらないからお止しなさい」と止めたのに。いかに新車とはいえ、プリウスからプリウスへの買い替えじゃ、新鮮味がないでしょうが・・・。 でもアニキ的にはすっかり大満足のようで、昨日は嬉しそうでした。 ところが! 今日アニキに会ったら「もう、嫌になっちゃってさ」というので何かと思ったら、大学の同僚の誰かがまったく同じ白のプリウスを買ったらしく、職員用の駐車場でだだかぶりだと。 そんなの! 最初から分かってたことじゃん?! 白のプリウスなんか買ったら、あーた、一つの駐車場に5台くらいかぶるに決まっている。それを承知で買ったんじゃなかったの?? ったく。だから言わんこっちゃない。 それにしても、アレだね。普通人って「変わったクルマ、人と違うクルマに乗りたい」と思わないのかね。プリウスなんて、私の選択肢には絶対入ってこないクルマだけどね。 ま、他人のことはどうでもいいか・・・。
April 16, 2019
コメント(0)
なんか寒いよね・・・。4月の半ばって、こんなに寒いんだっけ? ま、それはともかく、今日はね、ちょっと肌寒いなと思いつつ、新調した春モノのスーツを着て出勤しちゃった。 今度のスーツは、私には珍しく茶系統。茶色と言っても、明るい茶ではなく、かと言ってこげ茶でもない、ちょっと濃いオリーブ色のようにも見えるもの。グレーとか紺とか黒など、寒色系の服が多い私にしては、ちょっと思い切ったというか。 でも、ま、たまにはね。新しいことが始まる春に、普段着ない色のスーツを思い切って着るなんてのも悪くないでしょ。 で、それを身に着けてちょっと思ったんだけど、今時のスーツって、ちょっと肩のところが張り出しているというか、昔の肩パッドほどではないけど、ちょっとアクセント的にわざとカクっとしてる感じがしますね。 それから生地の素材も、ちょっとテロっとした、これもまたバブル期によくあったような感じ。 あれ、バブル復活? みたいな感じが若干あって、流行ってのは確かに繰り返すのかなと。 いいじゃないですか。最近の私はあちこちから仕事の声がかかって、どことなくバブルっぽいし。 ということで、新調スーツでほんのちょっとだけフレッシュな春を迎えている私なのであります。
April 15, 2019
コメント(0)
春休みに姉と会った時、今年のイチゴの出来について話が及びまして。 で、姉曰く、今年はイチゴの出来がどうもあまり良くないようだと。春の味覚として楽しみにしていた姉は、今シーズン、何度かイチゴを買い求め、中には結構値段の張るものもあったようですが、どうも今一つ、甘味が遠いというか。それで残念な思いをした、というようなことを言っていたんですな。 で、そんなもんかなと思いつつ、我が家でも何度か買って食べてみたのですが、うーん、確かにそう言われて見れば姉の言うことも正しいのかなと。つまり、見た目はいかにも赤くておいしそうなんですけど、実際に食べてみるとそれほど甘くなくて、やっぱり練乳つけて食べようかな、みたいな感じになってしまう。 ま、そこまでイチゴに執着のないワタクシとしては、そういうこともあるよね、くらいに思っておったのですが。 そしたらつい先日、深夜番組の『きのう何食べた?』というドラマをたまたま見たら、そこで主人公(?)の西島秀俊さんがイチゴジャムを煮ていたんです。まあこのドラマを初めて見たので内容がよく分からないのですが、とにかく番組内で何か料理を作るのが一つの見せ場のようでありまして。だから、ドラマの一端とはいえ、ちゃんと作り方まで解説してくれておりまして。 で、私は思ったわけですよ。「そうだ、イチゴジャムを作ってみよう」と。 で、早速、ネットで調べると、あるわあるわ、イチゴジャムの作り方なんていくらでも出てくる。で、それを見ていると、これがまた実に簡単なんだ。 というわけで、今日、私は50代半ばにして生まれて初めて、自分でイチゴジャムを作ってみたと。 まずスーパーでイチゴを1パック買ってきます。ま、煮ちゃうわけですから、高いのじゃなくてもいいだろうと思い、398円の奴を買いました。特売とかだったら、298円くらいの時もありますよね? 多分、そんなんでもいいんだと思います。 で、大体イチゴって、1パックで300グラムくらいなんですよ。で、これを洗ってヘタを取り、鍋に入れる。 で、加える砂糖(グラニュー糖)の量はイチゴの重量の5分の1ね。だからこの場合、60グラム。それを鍋に入れたイチゴにふりかけ、30分ぐらい置く。そうすると、浸透圧の関係で少しだけイチゴの水分が表面に出てくるのね。 で、そんな状態になったところで、いきなり鍋を火にかける。中火か、それよりちょっと弱めくらい。 するとね、それこそたちまちのうちに「えーーー!」って驚くぐらいイチゴの水分が出てきて、イチゴがひたひたに浸かるくらいになります。そうしたら、小さなマッシャーで軽くイチゴを押し潰しながら(完全に押しつぶさなくてもいい。粒の形がある程度残るくらい)さらに煮ていく。時間としては10~15分くらいですかね。 で、そのくらい煮たら、そこにレモン汁を少々振り掛けます。私は生のレモンじゃなくて、市販の瓶に入ったレモン果汁を使っちゃったけどね。 で、最後強火にして少しガーッと煮詰めるようにして火を止め、完成。あとは冷ますだけ。 因みに、煮ている時に多少、灰汁が出ます。レシピによっては「灰汁は別にとらなくてもいい」としているものもありましたが、私は取れる分だけは取りました。それほど完璧を期さずに、ひょいひょいと掬える分だけ取った、という感じですかね。 まあ、とにかくそんな感じで、煮始めたらもうあっという間よ。イチゴジャム作るのって、実は超簡単だったのね! で、本来であれば、保存用のガラス瓶と蓋を煮沸して・・・となるわけですが、量も少ないし、こんなの、家内と私ですぐに食べちゃうだろうと思ったので、今回はそこまではやりませんでした。 で、その完成したイチゴジャムを、夕食後、バニラアイスクリームに添えて食べてみたわけよ。すると・・・ うまーーーーーーい! 旨い、旨い。これ旨いわ。なにせ基本、イチゴと砂糖と数滴のレモンしか入ってないんだし、その意味で混じりっ気なしの美味しさといういか。いやあ、やってみるもんですなあ。 結局、3分の1くらい食べちゃったので、あとはそうですね、明日の夜、またアイスクリームにかけてデザートにしてもいいし、あるいは朝食の時にヨーグルトに入れて食べてもいいかな。 というわけで、我が人生初のイチゴジャム作りは大成功のうちに終ったのでありました、とさ。私でもこんなに簡単に作れたんだから、誰でもできますよ。姉にも教えてあげよう。皆さんも是非!
April 14, 2019
コメント(2)
![]()
コリン・ウィルソンが書いた『二十世紀の神秘家 ウスペンスキー』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 コリン・ウィルソンと言えば、昼は大英博物館(=図書館)で執筆、夜は野宿という在野魂アリアリのライターで、名著『アウトサイダー』を書いた人。そのウィルソンが書いたものだから、ちょっとは面白いかなと思って読んでみた次第。 で、その(ピョートル・)ウスペンスキーというのは、1878年生まれ、1947年歿のロシア生まれの神秘思想家。『チェブラーシカ』を書いた(エデュアルド・)ウスペンスキーとはまったく別人ね。 で、ウィルソンに拠りますと、ウスペンスキーは子供の頃から既視感や予言の能力を持っていたようで、そういう高次の認識能力を高めれば、世界はもっと違う風に見えるはず、という風に思っていたらしいんですな。ウスペンスキーが影響を受けたというR・M・バックの言葉を借りれば「宇宙意識」という奴ね。それに到達できれば、すごいことになるぞと。 ただ、通常の人間には「漏れ」があるので、その宇宙意識に到達するところまでエネルギーを高めることができない。ま、たまに出来ることがあっても、継続しない。だから、どうやれば継続的に宇宙意識を抱くことが出来るか、というのがウスペンスキーにとっての課題であったんですな。 ちなみに、こういう考え方はニーチェと共通していて、ニーチェも「漏れ」を食い止めるためには「健康」でなければならないと考えていて、独自の健康論に行くわけですけれども、まあ、それは置いておいて。 で、この課題への解決法として、例えば歯科治療用の「笑気ガス」を吸って意識を拡大するとか、その後のLSD実験みたいなことを先取りしながら色々やっていたんですが、ウスペンスキーとしては、こういう薬物を使った意識拡大の方法は、ちょっと胡散臭いなと思っていたようで、もっと根本的な方法を探っていた。 で、まあ、とにかくそういう人間の通常の認識を越えるような認識があり、それによって見えてくる世界がある、みたいなことを綴ったウスペンスキーの初期の著作、すなわち『第四次元』であり、『第三の思考規範』であり、『宇宙の新しいモデル』であって、これらは第一次世界大戦後のアメリカで紹介され、ウスペンスキーの名声は一気に高まったと。で、こんな若いうちからこんな本が書けるんだから、二十世紀を代表する思想家になることは間違いなく、こりゃ末恐ろしいなと思われていたんだって。 で、ここまで読んで「ふーん」って思うんですが、19世紀半ばから20世紀初頭にかけての時代って、こういう考え方が蔓延してたんでしょうな。 アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが、「人間は、持てる能力の10分の1くらいしか使っていない」ってなことを言ってますが、じゃあ、もし10分の10の能力出したら、人間はどれくらいすごいことができるようになるんだよ?!っていう純粋な興味が、この時代の大きなトピックだったんでしょうな。だから、「人間の隠れた能力」を掘り下げることがやたらに流行り、その中から「無意識」とか、「超能力」(テレパシーとか千里眼とか、そういう奴)とか、そういうものへの好奇心も生まれたのでありましょう。 で、同じ時代、ヨガも流行るわけですけれども、それは人間の高次の能力を身に着けるための東洋的方法論として流行るわけでありまして、今みたいな健康法じゃないわけね。 で、ウスペンスキーもこの方法論を探してインドまで行ってヨガも学ぶのですが、ウスペンスキーは生まれつき数学好きで、そういう西洋的な理知的なものが好きなのよ。だから、ヨガみたいな東洋的な叡智にはどうも夢中になれなかったみたいで、結局、ロシアに戻ってしまいます。 で、そんな時に運命的な出会いをしてしまったのが、同時代のもう一人の天才神秘家、ゲオルギイ・グルジェフなのね。 グルジェフってのは、ギリシャ人の父、アルメニア人の母を持つ人で、アルメニアに生まれていますから、ロシア人といってもやや中東的というか、風貌からして魔神っぽい感じの人。インチキ臭いところもあるんだけど、カリスマ的な魅力も持っていた人のようなんですな。 で、ウスペンスキーはこのグルジェフに出会ったことで、色々予定が狂っちゃうわけ。 まあ、グルジェフっていう人は、人の弱みをすぐに感受して、そこを突いて自分の言いなりにさせちゃうような感じの人なのよ。で、真面目で堅物のウスペンスキーを獲物にするのなんて、すっごく簡単だったんだろうと思います。 で、ウスペンスキーの方は、もうグルジェフこそが自分の探し求めていた答えだ、と思っちゃうんですな。で、彼の弟子にさせられちゃう。 グルジェフの思想ってのは、やっぱり高次の認識力を養う方向性ではあって、一応、体系的な方法論まで用意していたのですが、その方法論ってのが「いじめ療法」でね。 例えばグルジェフは、自分の弟子たちに、自分が命令したら、すぐにその場でそれまでの行動をストップする、なんてトレーニングを課したりする。熱い湯を入れたコップを運ぼうとしていた時に「ストーーーップ!」って言われて、指がやけどするのにそのままの体勢で止まらなければならないとか。 あと、穴を掘らせて、掘れたら今度はその穴を埋め戻す、なんてことを繰り返させるとか。 で、そんな無意味に思えるトレーニングを死ぬほど課すじゃない? すると、疲労困憊するわけだけど、その疲労困憊の朦朧とした意識の中で、突如、高次の認識が生まれたりする。 まあ、要するにアレですな。今でいう「ゾーン」に入らせるわけですな。 もちろん、そういうハイな状態は長続きはしないのですが、しかしそれを一度でも経験しちゃうと、「すごい! グルジェフ先生すごい!」ってことにもなる。グルジェフはそういう方法論をたーくさん知っていて、弟子が考えを巡らす間もなく次から次へと無理難題を課すことで、自分への忠誠を高めさせていたと。 だけど、そんなグルジェフの人間の能力に対する考え方ってのは、意外に悲観的なのね。つまり、人間というのは出来の悪い機械に過ぎないので、ひたすらな努力と訓練によって一瞬の覚醒はあるかも知れないけど、その程度よ、っていう。 で、このグルジェフの否定的な考えは、ウスペンスキーのもともとの考えとまったく方向性が逆です。ウスペンスキーは、人間の隠された能力を引き出せば、とんでもないことが出来るはずだと思って、それを常時引き出すための方策を考えていたわけだから。 だから、ウスペンスキーは、一番くっついちゃいけない人にくっついちゃった(くっつかれちゃった)わけ。 で、その後、先生(グルジェフ)と弟子(ウスペンスキー)の関係は、良くなったり悪くなったりを繰り返します。一時期は一番弟子であったこともありますが、そのうちグルジェフの方法論は正しいが、グルジェフは下衆だ、と思っていた時期もあり、さらにグルジェフの思想それ自体を否定したり。離れてみたり、それでもグルジェフの世話を見てみたり。愛憎半ばする的な。 だけど、結局、ウスペンスキーはグルジェフの陰に隠れてしまうことになる。 それは何故かというと、両者の思想がどうのこうのというより、人間性の問題なんですな。 つまり、グルジェフの方が、良きにつけ悪しきにつけ、人間臭いわけよ。自分の調子がいい時は弟子の面倒見もいいし。弟子に甘えるのも上手。何となく彼に接した人は、この人魅力ある!って思っちゃうわけ。それに対してウスペンスキーの方は、書いたものは素晴らしくても、会ってみると案外、愛想が悪くて魅力がない。それで、期待一杯にウスペンスキーを訪れた人も、段々、嫌気がさして離れていってしまうと。 で、ウスペンスキーは晩年、失意の人となって酒を煽るようになり、それで死んじゃうのね。一方、グルジェフの方は人が来るとやたらに酒とご馳走攻めにして、自分も食べるもんだから、その不摂生が祟ってこちらも死んじゃう。でも、ウスペンスキーの場合と比べたらよっぽどご陽気に死んだようです。 とまあ、ウスペンスキーって人は、幸先よくスタート切ったけれども、途中、グルジェフに出会ったことでなんか調子狂わされて、パッとしない感じで終った、そんな生涯だったみたい。 で、この本はウスペンスキーの伝記という建前ですけど、読み終わって、ウスペンスキーって魅力的な人だな、とは思えないところがどうなのかなと。 しかし、私としては別にウスペンスキーに興味があるわけではなく、ただ人間の超能力的なものに人々がものすごい関心を持っていた時期があって、ウスペンスキーもその思想的潮流の一端を担っていたということだけ判れば良かったので、まあ、勉強にはなりました。面白いよね、だって今からわずか百年ほど前にですよ、人間の能力をフルに活かせば、宇宙にあるすべてのものがすべて互いにつながっていることが分かるはずだ、なんてことを、人々が信じようとしていた、そんな時代があったというのですから。【中古】二十世紀の神秘家ウスペンスキー / コリン・ウィルソン
April 13, 2019
コメント(0)
![]()
ハーレクインを代表する作家の一人と言ってもいいアン・メイザーの『楽園の秘め事』(原題:Innocent Virgin, Wild Surrennder, 2010)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 このところ2000年代、いや2010年代のハーレクインを立て続けに読んでいて、なるほどと思ったんですけど、最近のハーレクインのパターンというのが見えてきましたね。 最近のハーレクインのヒロイン像ってのは、ハッキリ言って割と高齢です。高齢って言っちゃアレだけど、昔みたいに「19歳」とか、そういうのじゃないのね。大体28歳から30過ぎ。で、体格的には大柄。で、バストもボリューミー。で、人目を惹くべっぴんさん。昔のヒロインはもっと地味だったような気がするけどね。 だけど、いまだに変わらないのは、たとえ30歳でも処女っていう。そこは変らない。今回読んだ『楽園の秘め事』のヒロイン、レイチェルもまさに30歳で処女。仕事は地元紙のしがない記者。そういう職業の設定も、昔ながらかな。 それから、単なる印象かもしれないけど、ヒロインの名前は、妙に「R」音で始まることが多いような気がする。 で、そんなイギリス人のレイチェルが、なぜカリブ海の島に一人旅だつことになったかと言いますと、父親に頼まれて、出奔した母親を連れ戻すため。定年を迎えた夫に飽きた母親が、昔の恋人とよりを戻そうと、南の島に行っちゃったのね。 この時点で酷い話ですよね・・・。っていうか、どうしてレイチェルの父親は自分で行かなかったんだろう?って話でもあるんですが。 とにかくレイチェルが島に行ってみると、この島の唯一のホテルの経営者であり、実質的に島全体のオーナーでもあるマット・ブロディという男がいて、どうやら母親はこの男の恋人だったらしい。その場合、随分年下の恋人ということになってしまうのだけど、本当にレイチェルの母親は、こんな若いツバメに入れあげたのか?? とにかく、なにしろ島にはホテルは一つしかないわけで、レイチェルはマットのホテルに泊まることになるのですが、なにせレイチェルの名字がクレイボーンで、母親サラと同じ(母親が夫の名字を名乗っているのだとしたら)なわけですから、マットはすぐにレイチェルの正体を見抜きます。で、どんな女か探ろうとレイチェルと接触するわけですが、そこはそれ、ハーレクインの定石で、二人は会ったとたん、皮肉の言い合いですぐに喧嘩沙汰になってしまう。 だけど、そうでありながら、もうレイチェルはマットの肉体的圧力というか魅力に屈し、彼が近くにいるだけでもうメロメロ(そんなことって、あるの?)。 で、この先はマットとレイチェルの言い合いと喧嘩と、それにも拘らずマットがいきなりレイチェルを抱き寄せ、「欲望の高まり」をこわばらせたりする一方、レイチェルも方でもすぐに「胸の頂」を固くしたりして、何なの一体?っていう展開が続きます。 で、まあ、そんな具合ですから、いずれマットはレイチェルの初めての男になります。むろん、マットとしてはレイチェルの30歳だし、当然、数々の遍歴があるのかと思っていたので、初めての証を見た時にはものすごく後悔したりするんですが。 で、この後、ストーリー的にはすごい人間関係が明らかになってきます。 それによると、まずレイチェルの母親のサラは、16歳の時にマットの父親、ジェイコブと恋に落ち、赤ん坊を産みます。それがマットね。だから、実はマットとサラは恋人同士ではなく、息子と母親の関係だったと。 だけど、さすがに若すぎて育てられないので、マットのことはほっぽらかしてイギリスに戻り、やがて19歳だったラルフと結婚する。一方、ジェイコブはジェイコブでダイアナという女性と結婚する。 だけど、サラ的には自分が一度は捨てた息子マットのことが忘れがたく、何度か彼に会いに行った揚句、今回、夫ラルフを捨てて島に渡っちゃったと。酷い話! で、サラが出奔したので、ラルフは大ショックかと思いきや、サラの妹のローラがすぐに後釜に入ったので、実は全然不自由してないのね。酷い話だよね! でもまあ、とにかくサラはもう夫のラルフのことなんかどうでもいいので、この島で息子マットを独り占めして暮らしたいと思っている。そこへ、娘のレイチェルが迎えに来たものだから、もう娘が邪魔で邪魔で、レイチェルに対して「さっさと帰れ!」みたいなことを言う。 で、そんな状況の中、レイチェルはマットと結ばれちゃうじゃない? ということは・・・ そう、マットとレイチェルは、兄と妹の関係なのに、肉体関係を持っちゃった! で、それを知ったレイチェルは、マットを忘れるために逃げるようにイギリスに戻ってきてしまう。 ところが。 実は、レイチェルは知らなかったんだけど、彼女はラルフとサラの娘じゃなかったのね。ラルフの方に原因があって、夫婦は子供が作れなかったので、幼い時にレイチェルを養女にしたのでした。 だから、レイチェルとマットは、実は近親○○じゃなかったのね。ホッ・・・。 そのことを知っていたサラは、しかし、それをレイチェルに告げなかったのは、もちろん、レイチェルをイギリスに追い返すための手段だったわけで。 で、サラの策略でレイチェルが傷ついてイギリスに逃げ帰ったことを知ったマットは、イギリスまでレイチェルを探しにやってきます。 で、出会った途端、またがっつり結ばれて。それで求婚。 で、二人の結婚式には、ジェイコブとダイアナ夫妻はもちろん、なぜかヨリを戻した(よく戻せたな・・・)ラルフとサラ夫妻も参加して、なごやかに(よくなごやかにできたな・・・)執り行われましたとさ。 ・・・ってな話。 サイテーな話じゃないかい? まあ、こういうのが、今は女性に受けるんですかねえ・・・。よく分からんな・・・。楽園の秘め事 【電子書籍】[ アン・メイザー ]
April 12, 2019
コメント(0)
![]()
自己啓発本研究の一端として深見東州大先生の『強運』を読んで、運を強める呪文を唱えていたら、次から次へといい話が舞い込み始めたもんで、これ、マジでヤバいんじゃないかと思い始め・・・。 で、ついに深見先生の次なる本、『大金運』を買っちまったよ。運を強めて仕事がどんどん舞い込み始めたので、今度はお金も入るようにしようかなと。 もちろん、定価じゃ買わないよ~。古本、古本。200円。だけど、パリッパリのキレイな本でした。この本、袋とじの部分があるんだけど、それも開封してなかったからね。新本と一緒。 で、とりあえずむさぼり読んだんですけど、まあ、例によって悪いことは一つも書いてない。 要するにね、お金がどんどん入ってくるようにしたかったら、正しい金運を身につけなきゃダメと。 正しい金運っていうのは、つまり、自分の欲を満たすためだけの金儲けじゃダメってことね。自分も豊かになるけれども、自分の周り、つまりは世の中を良くする一助になるように、という心がけで念じるというのが重要なんですと。 ワタクシ、そのつもり満々ですから。回りモノとして、世の中に還元しまっせ! さてさて、これでもし、仕事だけでなくお金までどんどん入ってくるようになったら、それこそほんまもん。自分の身をもって実験してみましょう。呪文、呪文と。【中古】あなたを成功させる 大金運 (たちばなベスト・セレクション) [単行本] 深見 東州
April 11, 2019
コメント(1)
![]()
ゲーリー・ズーカフの書いた『魂との対話』(原題:The Seat of the Soul, 1989)なる本を読んだので、心覚えをつけておきましょう。 ゲーリー・ズーカフというのは・・・なんとご紹介すればいいのか・・・一言で言って、オプラ・ウィンフリーのお気に入りですな。オプラってのは、妙にこう、神秘的なことを言い出す人が好きというか、自己啓発思想の中でも特に「宇宙の意志が・・・」とか「魂は不滅で・・・」とか、そういう「あっち行っちゃっている系(=スピリチュアル系)」の自己啓発が好きなのよ。で、ズーカフもそっち系ね。 まあ、ハーバード大出ているんだから、完全な馬鹿じゃないんだろうけれども、バイクで世界を旅したり、公民権運動に入れあげたり、カリフォルニアに引っ越したり、そこでなぜか量子物理学(スピリチュアル系自己啓発思想のバックボーンは量子力学だからね)と出会い、物理学にはまったくの素人のくせに『踊る物理学者』なんて本を書いて運よく全米図書賞なんか取ったりなんかして、その後は自己啓発本書いて有名になり、それでオプラに気に入られるという、絵に描いたような自己啓発ライターの出世街道まっしぐら。 で、じゃあ、そんなズーカフの世界観はどんな感じかといいますと、彼はね、「非物理的な領域」というのがあると、何故だか知らないけど確信しております。まあ、要するにあの世、つまり天国みたいなところですな。そこにね、我々の故郷があると。 で、物理的な世界(=この世)で唯一「魂」を持っている人間という存在は、もともとあの世にいるんだけど、それが何度も何度も生まれ変わりながらこの世に姿を現し、そこで修業をしているわけ。そしてこの世で宿題を果していく。 じゃ、その宿題って何かっていうと、カルマね。前世で人を傷つけちゃったりすると、それがカルマとなって、次に生まれ変わった時に、今度は自分が傷つけられる側に回るとか。 だから、この世に不公平ってないわけ。不公平だなあ、と思っても、それ、前世で自分がやらかした何かの償いを今しているだけだから。だから、この世で自分を傷つける人がいたとしても、その人を恨んでも仕方ないわけね。元はと言えば、自業自得なんだし。それにその人を恨んだり、復讐したりしたら、またまた新しいカルマが発生して、来世で苦しむだけ。 だけど、我々の本来の所属場所である非物理的領域にはガイドがいて、その人がちゃーんとこの世にいる我々の面倒を見ようとしてくれています。で、そういうガイドさんの声ってのは、この世では「直観」として届いてきます。 だから、我々がすべきことは、この直観に耳を傾けて、自分の意志でもってしかるべき選択をする。意図的に。 そうすると、我々は「進化」します。進化によって完璧へと近づくわけ。 ま、宇宙の壮大な計画によって、我々人間は遅かれ早かれ進化するんだけど、意図的に進化するか、無意識的に進化するか、ではスピードが違う。だったら、意図的に自分の意志で、宇宙からの愛のメッセージである直観に耳を傾けて、さっさと進化する方がいいでしょ、と。 で、この宇宙の仕組みに気付かない人は、自分の意志で選択することが出来ないので、いつまでも物理的領域でぐずぐずすることになります。 ちなみに、五感で感じられることしか信じない、というアホな人もまた、一応進化はするんですが、こういう人の進化を促進するものは、「愛」ではなく「恐れ」です。 人に痛めつけられないようにパワーを持とう、財力を持とう、やられる前にやっつけよう・・・こういう愚かしい人間の行動は、すべて「恐れ」から発生する。確かに、より強く、より金持ちに、よりずる賢く、という考え方は、文明を進化させはするけれども、同時に悪いカルマも発生させるために、なかなか前へは進めない。そういうぐずぐずした進化じゃ、いつまで経っても完璧なゴールには届きませんよと。 量子物理学が明らかにしたように、すべてのものは光の振動だと、ズーカフはいいます。そして「愛」をはじめとするポジティヴなものはより高い振動数をもち、逆に「恐れ」などのネガティヴな振動数を持っているんですな。だから、自分が「愛」を持てば、同じ髙い振動数を持つ良いものをどんどん引きつける。逆に自分が「恐れ」を抱いているならば、同じ低い振動数を持つ悪いものをどんどん引きつける。だったら、「愛」を持つしかないじゃん。 ちなみに、この世で個々人が自分の魂のケアが出来るのは人間だけで、その他の存在、例えば犬とかイルカは、犬というグループ、イルカというグループでしかない。だから、彼らは個々の存在として選択はできないんですと。で、ちなみにイルカさんは、グループとして陸の王国と海の王国の架け橋になろうとして存在してきたんですけど、人間が彼らにネガティヴな対応しかしないもんだから、彼らは悲しくなって、地球から旅立とうとしているらしいです。 じゃ、もっと具体的に、個々の我々はどういう心がけで生活していけばいいのか。 これに対してズーカフ曰く、自分は光の存在であり、世界のすべてとつながっているのであり、そのことを自覚した上で、魂に思いを馳せる。そして本来、自分の魂があるべき場所にありますようにと祈る。それしかないよと。 まあ、本書の中でズーカフが言わんとしているのは、大体そんな感じ。 はっきり言って、決して読み易い本じゃないです。何言っているの、この人?って感じになることがしょっちゅう。だけど、全体として見ると、まあ、自己啓発思想的には「あるある」なことばかり言っているのかなと。 例えば、宇宙は人間に対して善意ある何かである、という前提もそうだしね。魂は不滅だ、という考え方もそう。「恐れ」を手放して「愛」をもとう、というのもそう。すべては自分の考え方であり、自らの意図的な選択によって世界は変るんだ、という考え方もそう。 愛をもってポジティヴに生きればいいことあるよ、という自己啓発の常套句に、「それこそが『進化』だ!」というレッテルを貼ったところが、唯一、ズーカフのお手柄かな。 あと、イルカに対する妙な執着も、ズーカフならでは。イルカとの間に何があった?!【中古】 魂との対話 宇宙のしくみ・人生のしくみ /ゲーリーズーカフ(著者),坂本貢一(訳者) 【中古】afb でもまあ、アホ臭い本ではあるんだけれども、悪いことは言ってないんだよな。 例えば、過去の怨みに執着したって、カルマを増やすだけ。そんなものは忘れちまって、前だけ見て、自分の魂の本来ある場所に行きつかせてくださーいって祈ることが重要と書いてあるんだけど、確かにそうだよなと思って、私もしばし本を伏せ、目を閉じて祈りましたよ。 そうして瞑想していたら、ブーンとケータイが鳴りまして。 何かと思ったら、とある出版社の編集者の人から、今度名古屋に行く用事があるので会いませんかというお誘いでした。 あーら。私の魂はそこにあったのね! というわけで、またしてもビジネスチャンス到来。もう、一体全体、どうなっているんだ! 連日のように、出版社から接触があるじゃないかっ!! これはズーカフのおかげなのか、それとも深見東州先生から教わった呪文のおかげなのか? ま、とにかく、今、私はとんでもない強運に見舞われていることは確かなようです。
April 10, 2019
コメント(0)
今日は私の・・・何回目だったか忘れたけど、誕生日でした~。誰かおめでとうって言って! 4月9日生まれの有名人を探して、へーっと思ったんだけど、ヒュー・ヘフナーがそうなんだってね。ヘフナーって、『プレイボーイ』創刊者の。 あと、ジャン・ポール・ベルモント。若い人は知らないか。詩人のボードレール。『悪の華』の。あと、日本で言うと山P。それからー、おい、厚切りジェイソンも4月9日生まれかっ!! というわけで、今日は夕食を外食してきました。家の近くに、すごくいいイタリアンの名店があるもので。最近、全然お酒飲んでないんだけど、今日はさすがにワイン飲んじゃった。 生前、父がよく言ってましたが、釈迦楽家のいいところは、歳を取るに従って運勢が良くなるところだそうですので、私も大分歳を取ってきたからこそ、これからますます運気アップするつもりで頑張ります。 じゃ、今日もいい日だ! ということで。
April 9, 2019
コメント(0)
![]()
ローソンのスイーツ、とりわけ「バスチー」なるものが評判と聞き、情報通の私としては是非食べておかねばと思いまして。 で、税込215円なりのその「バスチー」を食べてみたのですが、旨いね! 旨い、旨い。「レアでもない、ベイクでもない」という宣伝文句のチーズケーキですが、ねっとりと濃厚で、かなりいい感じです。まだ食べたことがない方は是非! 教授のおすすめ、です。 さて、ちょいと必要に迫られて、このところ連日、ハーレクイン・ロマンスをむさぼり読んでおりますが、今日読んだのはルーシー・モンローの書いた『強いられた結婚』(原題:Blackmailed into Marrirage, 2015)という奴。 強いられた結婚、というのは「ハーレクインあるある」の最たるものでありまして、この作品では、ヒロインのリア(ロザリア・チャベス=トーレス、現在はロザリア・ケネディ)が、祖父ベネディクトの策略によってヒーローのデミアン・マルケスと結婚させられる、という状況を指します。 リアはスペインの貴族、ベネティクト・チャベス・トーレスの娘であるマリア・アメリアの娘でありまして、だから血筋から言ったらスペイン貴族なわけよ。だけど母親がアメリカ人の父親と結婚したので、アメリカで育ちます。ところが15歳の時に父親が死亡したため、祖父ベネディクトの命令で母と共にスペインに戻ったと。 しかしリアはスペインになじめず、18歳の時にトビー・ケネディという恋人と結婚するためにアメリカに逃避行。二人の間にはケイリーという娘が生まれます。が、トビーは交通事故で死亡、娘のケイリーは心臓病になってしまう。そしてケイリーの手術代が払えないので、それを祖父のベネディクトに払ってもらうため、スペインに帰国した次第。リアと祖父は犬猿の仲ですが、ケイリーのために頭を下げるつもりで。 一方、ベネディクトの方もひ孫のためにひと肌脱ぎたいのは山々ですが、実は彼もビジネスに失敗し、今はあまりお金がない状態。 そこでベネディクトは一計を案じるんですな。彼は、彼の若きビジネス・パートナーであるデミアン・マルケスと話をつけ、リアをデミアンと再婚させる代わりに、ケイリーの手術代をデミアンに立て替えてもらうと、まあ、そういう風にしたわけ。 じゃあ、デミアンはどういう男かと申しますと、まだ30代に入ったばかりくらいですが、ビジネスで成功した大金持ち。本当は彼もスペイン貴族の血筋なのですが、庶子のため、貴族の称号を持てず、いわばそのコンプレックスをバネに頑張って成り上がってきたというところがある。だから彼としては、貴族の孫娘リアと結婚することで、自分は貴族になれなくとも、自分の子孫を貴族にすることが出来るメリットがある。そこで彼はベネディクトの話に乗ったと(とはいえ、彼は若き日のヒロインに会ったことはあり、軽い一目惚れはしたことがある)。 だから、まあ、リアからすれば、祖父とデミアンの間の契約によって、デミアンと強いられた結婚、政略結婚をさせられることになった、とは言えるわけね。それを知ったリアは、しかし、ケイリーのために仕方ないと、この結婚を了承します。ただ、どうせデミアンとはすぐに離婚することになるだろうと予期しつつ。 なぜならば、リアにはある事情から、結婚に向いてない体質だったから。 実は若くしてトビーと結婚した時、トビーもガキだったので、その、無理やり夫婦生活を強いたため、リアの方に拒絶反応が出て、男性を受け容れられない身体になってしまったと。私にもよく分かりませんが、つまり、その、リアの身体のどこかに、その、なんと言いますか、痙攣? が起こるのだそうで。 だからこの小説、ここから先は、いかにデミアンが根気よく、愛情深く、テクニックを弄して、その、リアの、その部分に過度の緊張? が起らないように、その、ゆっくり、その、時間をかけてですね、その、気持よく、その、するりと? ことが運ぶようになるまでの、まあ、その、治療日誌? みたいな? 感じになっていくと。 で、結果として? デミアンはうまいことリアと、その、めでたいことになりまして、またデミアンの仲介で、リアと祖父も、完全な仲直りとはいかないまでも、ある程度、関係改善されまして、この2度目の結婚は大成功でありましたと。まあ、そういう具合になるのであります。 はあ。説明が恥ずかしいわ。 ハーレクインって、昔はそういう実際の性交渉の描写を避けたものですけど、最近はそうでもないんですな。 あと、この小説の場合、ヒロインがれっきとした貴族で、そのヒロインと結婚することで、ヒーローの社会的身分が上るという設定になっていますが、これも昔はなかった設定ですな。昔のハーレクインは、その真逆、ヒーローが貴族で、ヒロインが庶民というのばっかりだったし。 まあ、時代によって少しずつハーレクインも変ってきたのでしょうかね。 ちなみに作者のルーシー・モンロー、13歳の時からのロマンス小説ファンで、大学生の時に結婚したとのこと。ロマンス・ファンって、早婚なんですかね・・・。【中古】強いられた結婚 / ルーシー・モンロー
April 8, 2019
コメント(0)
![]()
ハーレクインの一冊、キャロル・モーティマーの『罪深き純潔』(原題:Taming the Last ST Claire, 2011)を読みましたので、心覚えを。 これ、ルーカン、ジョーダン、ギデオンというセントクレア三兄弟の一人、ギデオンを主人公にした物語で、他にルーカンとジョーダンの物語もあるらしく、つまりは「セントクレア三部作」の一つなんですな。ちなみに長兄ルーカンは「第十五代スタワーブリッジ公爵」だそうで。ハーレクインも好きだね、貴族ものが。 で、三部作の三番目なので、既にルーカンとジョーダンは結婚しちゃっているのね。で、ギデオンはルーカンを会長とする「セントクレア・コーポレーション」の顧問弁護士なんだけど、会長のルーカンが新婚のステファニーと1カ月間、新婚旅行に出かけている間、会長代理を務めることになったと。 で、そこにステファニーの双子の妹、ジョーイ・マッキンリーなる28歳の女弁護士が、ルーカンがそもそも務めていた顧問弁護士を代理で務めることになって、セントクレア・コーポレーションにやってきた。物語はそこから始まります。 ちなみに、ジョーイは赤毛です。ちょっと珍しいね。普通、ヒロインは金髪か黒髪なんだけどね。あと、美人でありかつ抜群のプロポーションだそうですけど、最近のハーレクインは、ヒロインをそういう風に設定するんだね。昔は、もっと地味目な設定だったものですが。 とはいえ、そこはそれやっぱりハーレクインですから、物語が始まった段階ではヒロインとヒーローの最初の相性は最悪。ギデオンとジョーイも喧嘩ばっかり。 だけど、ここがちょっとハーレクインの定番の書き方と異なるところなんだけど、作者のキャロル・モーティマーは、ヒロインの内面だけでなく、ヒーローの内面も書いちゃいます。普通は、ヒーローの内面を描かず、彼は謎めいた男のままで、ヒロインだけがヒーローが何を考えているのか、自分のことをどう思っているのかをあれこれと思い悩むものなんですが。 だから、物語の視点はヒロインとヒーローの両者にあって、それを交互に描くって感じになりまーす。ま、結局神の視点を持っているのは読者なので、読んでいる読者はヒロイン、ヒーロー双方の内面を覗き見ながら、「そうじゃないの、相手はあなたのことが本当は好きなのよ! あなたももっと素直になって!」ってヤキモキすることになると。 ちなみに、ヒロインのジョーイには、ジェイソン・ピッカードという男性の友だちがいますが、大丈夫、彼はゲイだから。ジョーイは28才にしてまだ清い体でございます。 それはともかく、喧嘩ばかりする二人ですが、二人には共通の敵がいる。リチャード・ニューマンという嫌な奴で、彼は理学療法士のジョーイの姉、ステファニーと浮気をしているようなふりをして、自分の奥さんと離婚しようとしていた悪い男。で、その事件の真相を暴いたジョーイとギデオンの両者を逆恨みしていて、脅しをかけてきたんですな。 だからギデオンとしては、兄ルーカンの嫁さんの妹であるジョーイを守る必要があり、それで二人は喧嘩ばかりしながらも、一緒にいなければならないことになるわけね。 で、喧嘩しながらも、いつでも一緒に行動しているうちに、二人とも互いのことを好きになってしまい・・・あとはいつもながらのハーレクインね。 ただ、通常のハーレクインと異なることに、この作品では大団円の前に、数回、濡れ場がありまーす。その描写がまたとっても型どおりで、「ジョーイの胸の頂」とか、「ギデオンの欲望の高まり」とか、そんな表現で、あれや、あれのことを描写しております。笑える。 しかし、アレだね。先日読んだ『教授と私』は、ヒロインとヒーローが誤解ばかりし合うパターンで、今回の『罪深き純潔』は喧嘩ばかりし合うパターンだけど、どちらかと言ったら前者の方がいいなあ。いい大人が、会えば喧嘩って、ありえんでしょ。そのありえんものを延々と読まされるのは辛いわ・・・。 ま、とにかく、久しぶりに読むハーレクインは、相変らずのところもあり、ちょっと変わったなと思わされるところもあり。その辺、ちょっと面白いです。 ちなみに、本作の作者、キャロル・モーティマーは14才の時からロマンスにはまり、特にアン・メイザーのファンで、それで自分もロマンス作家としてデビュー(1978年)になったのだとか。読者から作者へという、これはロマンス系でよくあるパターンですな。三省堂書店オンデマンド ハーレクイン 罪深き純潔(通常版)
April 7, 2019
コメント(0)
新年号の「令和」、最初聞いた時はなんだかなーって思ったけれども、他の候補(「万保」「万和」「広至」「久化」「英弘」)と比べたら一番マシなのかなと。 だけど、令和って『万葉集』から取ったとか言っているけど、万葉集に「令和」という言葉があるわけでなく、万葉集の一節に「令」という字と「和」という字が使われている、というだけじゃん? それ言ったら、どんな漢字の組合せだって「『万葉集』から取りました」って言えるじゃん。 「令和」にしたって、例えば「『六法全書』からとりました」とだって言えそうだ。『六法全書』の中だったら、絶対「令」の字も「和」の字もありそうだし。 「『万葉集』から取った」というのであれば、むしろ「万葉」っていう元号の方がよくね? 万葉元年。 ほら、いい感じ。古風な。 あ、ダメだ。明治のアルファベット略号とかぶるわ。没! 閑話休題。 話はガラッと変わりますが、深見東州の『強運』を読んで強運の呪文を実践して以来、なんか運回りがいいんですけど、どうしたもんでしょうか。 先日、某出版社から新書執筆の依頼があったと言いましたが、今度は別な有名出版社から単行本出版の申し出ですよ。ここ数年、私が発表してきた論文をバッチリ読み、評価した上で、うちからまとめて出さないかと。 もう、どうなってんの? ここのところのこの売れっ子具合は?! やっぱり、東州先生の呪文が効いているのか?! まあ、それは冗談として、とにかくありがたい話でございます。 ただ・・・。 次の本はねえ、別な出版社から出す予定になっているので、今回のお申し出はお断りせざるを得ないのよ。 もったいないっ! そうじゃなければ、飛び付きたいような話なんですけどね。 まあ、今後もそういうお話が来るよう、頑張って本書いて、令和時代に輝こうかな。
April 6, 2019
コメント(0)
![]()
ハーレクイン・ロマンスの一冊、ベティ・ニールズの『教授と私』(Betty Neels, Two Weeks to Remember, 1986)という作品を読了したので、心覚えをつけておきましょう。 これ、ハーレクインお得意の病院ロマンスなんですけど、ヒロインのチャリティは病院にタイピストとして勤務する26歳のOLさん。髪は黒髪、相当な美人でプロポーションもバッチリ。結婚を意識している恋人シドニーはいるけれど、「自分も歳も歳だし、ある程度条件が合えばいいか程度」に妥協している相手なので、シドニーに対してときめかないことはなはだしい。 そんなある日、チャリティは彼女の勤務する病院に非常勤で来ているワイリーライアン教授と一言二言、言葉を交わす機会を持つんですな。 ワイリーライアン教授。35歳にして自分でも医院を経営している超優秀な医者でお金持ち(らしい)。独身と噂されるも、あまりにも謎めいていて、病院勤務の女性たちの羨望の的でありながら、浮いた噂一つあるわけでもなし。 しかし、教授から直接資料をタイプする仕事を頼まれるようになって以来、教授は妙にチャリティに親切なんですな。で、当然、チャリティもときめくのですが、何しろ相手は自分より10歳近く年上な上、社会的身分も学歴も桁違い。その芽はないなと、チャリティ自身、諦めているところがある。その上、どうやら教授にはブロンドの絶世の美女がフィアンセとして居るらしいことも分かって来て、その点でも勝ち目はない。 チャリティは母親を早くに亡くし、今は父と、それから家の世話をする父の妹でオールドミスの叔母と三人暮らし。父親は教養はあるものの経済力はなく、乏しい生活費を趣味の古書蒐集に使ってしまうため、チャリティの給料が結構、家計において重要な位置を占めるといった感じ。まあ、あんまり先行きが明るいという感じではないわけ。 でも、やっぱり教授はチャリティが気に入ったようで、ついに今勤めている病院を辞めて、自分の医院で働かないか、という誘いをかけてくる。給料も遥かにいいし、ステキな教授の傍に居られるならということで、チャリティはこの提案を飲みます。 しかし、教授と一緒に仕事をするようになり、ますます教授に恋してしまったチャリティとしては、教授のフィアンセ、ブレンダ・コーンウォリスのことを意識せざるを得ない。でまた、このコーンウォリスという女、絶世の美女ではあるものの、性格は最悪で、教授のことを高飛車に振り回すばかり。なんで教授はこんな女と・・・という思いは当然、チャリティの側にはある。 一方、教授の方は教授の方で、自分のところに勉強に来ているガイ・ケンブルという若い医者とチャリティが良い仲なのかと勘違いしていて、何だか二人に嫉妬しているよう。本当はガイには郷里にフィアンセがいて、そのフィアンセ自慢をチャリティに話しているだけだったのですが。 というわけで、教授もチャリティも、それぞれ「相手には決まった人がいる」という誤解によってなかなか本心を明かせないまま、近づいたり喧嘩したりを繰り返し・・・。 しかし結局、教授はブレンダ・コーンウォリスと別れることになり、またチャリティとガイの関係も恋人同士ではないということが判明して、晴れて教授はチャリティにプロポーズ! 二人は収まるべきところに収まったのでした、メデタシ、メデタシ。 ・・・というお話。 ま、医者と看護婦(あえて看護婦と言っちゃうけれども。そして正確にはチャリティは看護婦ではないけれども)のロマンスというのはハーレクイン・ロマンスの代表的なジャンルであり、これもそんな典型例の一つでしたね。黒髪のヒロインとブロンドのライバル、という布陣もよくあるパターンでありまして(逆の場合も多いけど)。 ちなみにベティー・ニールズはイギリス人。かつて看護婦として働いた経験があり、メディカル・ロマンスはお手の物。1969年のデビューで2001年歿。穏健なロマンスの書き手であります。 教授と私【電子書籍】[ ベティ・ニールズ ]
April 5, 2019
コメント(0)
![]()
先日、嵯峨景子氏の『コバルト文庫で辿る少女小説』を読んで得るところがあったので、今度はコバルト文庫のライバルたる「講談社X文庫ティーンズハート」の方の事情を知りたいなと思い、初期ティーンズハートの花形作家だった花井愛子氏の『ときめきイチゴ時代』という本を読んでみました。ので、ちょいと心覚えをつけておきましょう。 この本、序文が面白くて、花井さん、この本を書く前に『いちご畑に吹いた風』なる同趣旨の本を思いつきで書き上げ、その300枚の原稿を知り合いの編集者に託していたというのですな。が、いざ講談社がそれを本にしてくれるとなった時、その編集者から原稿を取り戻そうとしたら、既に処分されていた。だから、この本は一度失われた『いちご畑に吹いた風』を苦労して再現させた二度目の本であると。 いやあ、キツイね、それ。300枚の原稿を勝手に処分されるって・・・。 ま、そんな来歴を持つこの本ですが、これ、『コバルト文庫で辿る少女小説』を読んだ後で読むと、より一層、面白く読める本です。 『コバルト文庫で辿る・・・』では、コバルト文庫成功の背景として、まず『小説ジュニア(後のコバルト)』という雑誌が母体としてあり、この雑誌で新人賞を創設して新人作家を次々と発掘、その新人にコバルト文庫を書かせることで、文庫の新陳代謝の仕組みを作っていたこと、さらに作家同士の交流の場や、作家と読者の交流の場を出版社が率先して作ったことによって、コバルト文庫を愛する人々の団結を強めたことなどが指摘され、さらに講談社のティーンズハートはそういうことをしなかったから没落したのではないか、ということがほのめかされておりましたが、確かに『ときめきイチゴ時代』を読むと、その指摘は正しかったのかなと。 で、その意味で講談社の作家の扱いやファン対応のまずさを一番強く感じていたのが、ティーンズハートの花形作家、花井愛子だったのかなと。 そもそも作家というよりはコピーライターとして成功し、その縁でたまたま講談社X文庫ティーンズハートの企画に途中から参画することになった花井氏、もともとコピーライターとしてイベントの企画などは得意だったわけですが、そういう観点から見ると講談社のティーンズハート企画の甘さは相当なものだったようで。 大体、ティーンズハートの企画・編集を担当すべき部署が文芸サイドとコミックサイドの二部門に分かれていて、相互に協力しようという気概がない。集英社のコバルト文庫が売れているようだから、うちでもそういうのをやっといた方がいいんじゃね、的な安易なところからスタートしているので、企画・編集への熱さもない。言っては悪いが、ダメダメ編集者の寄せ集めみたいな部署だったんですな。 でも、あまりにもダメダメな編集部だったから、そこに花井さんが口を出す隙間があった。コピーライターとして培った企画のノウハウをガンガン言えば、編集部の方がタジタジとなって採用してくれる。 そういう、作家ではあるんだけど、企画にもある程度参画する、という不思議な立場で花井さんはティーンズハートを育てていくわけですな。例えば表紙絵に人気漫画家を採用し、普段コミックを読んでいるような女子中高生を表紙のイラストで引きつける作戦など、花井さんが発案して押し通したものだったのだとか。また、一人の作家には一人の漫画家、というように、作家と漫画家をセットで売り出すというやり方も花井さん考案の戦略だったそうで。 一方、作家としての花井愛子は、講談社の校閲部と喧嘩しながら、当時のイマドキの中高生の口調を再現するような言い回し、句読点の打ち方を採用し、「ページの下半分真っ白」と揶揄されることもあったあの単文を並べる特異な(あるいは宇能鴻一郎的な)文体を確立。さらに別のペンネーム2種も駆使して月に3作書くというようなすごいペースで作品を発表し続けたと。何しろ10年間で200作、2000万部を売ったというのだからその売れ方は半端ない。 しかし、そうやってティーンズハートの中枢に居て花井さんが忸怩たる思いを抱くのは、集英社の作家対応・ファン対応とは異なる講談社の在り方。例えば、原稿料における差を知られないために、作家同士をなるべく引き離しておくような戦略とか。売れ筋のコミック部門を守るため、多忙な売れっ子漫画家にティーンズハートの表紙絵を描く仕事をやめさせようとするとか。ティーンズハートの作家を低く見て、彼女たちを社主催のパーティーに呼ばないとか。 ま、結局、講談社にとってティーンズハートは鬼子扱いというか、どーでもいい部門だったんでしょうな。しかし花井さんたちティーンズハートの作家たちからすれば、自分たちの仕事によって講談社は相当潤ったはずだという自負がある。それなのに、なんでこんなに冷遇するんだ、と。 コバルト文庫が存続し、ティーンズハートが終刊せざるを得なかった要因というのは、突き詰めていけばそういうところまで遡れるのかも。 しかし、それだけではもちろんない。あれほど短期間に大量の小説を書いた花井愛子自身のブランド力の低下も、もちろん要素の一つとしてあった。 ま、花井愛子氏自身、自分はコピーライターであって作家としての腕がそれほどある訳ではないという自覚はあるのですが、それがなりゆきで200作も書いてしまうと、やはり飽きられるのも早かった。 で、いつしか「花井愛子」の名前が付いているだけで、その小説が売れないという状況がやってくる。そのため、花井さんも新しいペンネームの下、花井愛子であることを隠して書いてみたりもしたようですが、売り上げの低下は無惨なほどで。 ま、冒頭で書いた「原稿300枚勝手に処分される」事件も、業界内に既に「花井愛子の本は売れない」というアレができ上がっていたからこそ、なんでしょうな。 『ときめきイチゴ時代』を出すに当たって、花井さん自身は当初「単行本で」と思っていたようですが、講談社の方からリスクが高すぎるとして、文庫で出すことを逆提案される始末。でも、花井さんは、「自分、まだまだ頑張っているよ!」ということをかつてのファンに訴えたいがために敢えて文庫でもいい、と譲ったわけ。そんな裏事情を聞くと、なんか花井さんが可哀想で・・・。 でも、可哀想ったって、200冊の著書、2000万部の売り上げですからね。これはもう、堂々たる実績ですよ。大したもんだ。 とまあ、そんな感じで、講談社X文庫ティーンズハートの裏事情や花井さんの奮闘ぶりが窺えて、私としてはなかなか面白い本でした。 だけど、あれこれググってみると、案外この本、評判がよろしくない。アマゾン・レビューなんか見ても、割と否定的な意見が多いようで。 そうかな~。私は結構、面白かったけどなあ。ちょっと世間、花井さんに冷たすぎるんじゃないの? ま、花井さんもこの辺で一発、起死回生の何かを書いて、冷たい世間を見返してやってくださいな。【中古】 ときめきイチゴ時代 ティーンズハートの1987‐1997 講談社文庫/花井愛子(著者) 【中古】afb
April 4, 2019
コメント(0)
ひゃー。昨夜遅く、名古屋に戻って参りました~。 昨日は某出版社の編集者の方と神保町でお会いし、新書プロジェクトの打合わせ。スケジュール的には結構厳しいのですが、原稿用紙200枚なら、まあ、なんとかなるかなと。 それはまあ、こちらの話ですが、ちょっと驚いたのは、そもそもその編集者の人が私に声を掛けようと思ったきっかけというのが、せんだって私がある新聞に書いた書評だったそうで。 その書評ってのは、たかだか600字くらいのもんですよ。だけど、それが次の仕事につながったわけだから。小さな仕事でも手を抜いたらいけないってことですな。まあ、前々からそのつもりでやって来たワタクシではありますが、あらためて今後もそうしようと思った次第。 さて、昨日の夜中に名古屋に戻ったので、今日はもう疲れちゃって、一日ゴロゴロしていました。 で、あんまりゴロゴロしているのもアレだなあと思って、先ほど、録画しておいた『マンチェスター・バイ・ザ・シー』という2016年の映画を観終わったところ。アカデミー賞を色々獲った作品でございます。 で、近頃よくある映画と違って、「実話を元にした」というのではなく、オリジナル脚本の作品。まずは、そこのところを評価しておきましょう。 で、ネタバレ注意で内容をかいつまんで説明しますと、ボストン「なんでも屋」として家の修理などを仕事にしていたリーの兄、ジョーが難病で亡くなるんですな。で、ジョーは妻と離婚していて、息子のパトリックと二人暮らしだった。で、リーは、16歳のパトリックの後見人になる羽目になる。 リーはパトリックがまだ子供の頃、よく遊んでやった仲なのですが、さすがに思春期真っ只中のパトリックの面倒を見るのはしんどい。 しかし、しんどいのはそれだけではなく、リー自身の問題のせいでもあった。 リーは、かつて兄ジョーと同じマンチェスター・バイ・ザ・シーという町に妻と幼い娘2人と息子と5人で暮していたのですが、酒癖が悪く、ある時、自宅で火を出してしまって子供3人を焼死させてしまったんですな。で、それが原因で奥さんとも離婚し、この町にいたたまれなくなって、ボストンで一人暮らしをしていた。だからパトリックの後見人としてこの町に戻ってきても、ここには辛い思い出しかないわけ。それでまた酒を呑んで喧嘩をして、ということになってしまう。甥っ子の面倒を見るどころか、自分の面倒を見ることも難しいんですな。 しかも、リーの奥さんは別の男と再婚して、別な赤ん坊を産んでいたり。ジョーの元奥さんは、もともと飲んだくれだったのですが、回心して厳格なカトリックの男と再婚し、パトリックに会おうとしたりするし。色々なことがある。 そういう中、果たして叔父さんのリーと甥っ子のパトリックは、どういう風に今後の生活を立て直していくか。それをこの映画は淡々と描いていくわけ。 まあ、玄人好みしそうなストーリーでしょ? で、私のこの映画への評価はといいますと・・・ うーん、微妙? つまりね、私自身の性格がリーと全然違うのね。だから、彼のやることにぜんぜん共感できない。私だったらやりそうもない失敗をし、私だったらやりそうのない善後策を講じる。そこがね。観ていてじれったいばかり。 思うんだけど、名画っていうのはさ、そういうじれったさを観客に持たせてはいけないんじゃないかと。 たとえば『ゴッド・ファーザー』で、ドン・コルレオーネのすることって理解できるし、彼に自己投影することができる。それでいて彼の息子(三男)のマイケルの行動も理解できるし、自己投影できる。さらにマイケルの恋人(奥さん)の行動も理解できるし、自己投影できる。それどころか、マイケルのすぐ上の兄貴の行動も理解できるし、共感できる。ようするに登場人物すべての行動に共感できるわけよ。 そうでなきゃ、っていうね。思いがあるわけよ。そういう事情だったら、自分だってそういう風に思ったり、そういう行動を取ったりするだろうな、と観客に思わせないと。 そういう意味で『マンチェスター』、私にはイマイチ共感できない映画だったのであります。点数で言ったら、まあ・・・59点かな。映像とか音楽は綺麗だったけどね。
April 4, 2019
コメント(0)
![]()
「令和」か。センスないな。 さて、一昨日のこと、町田のディスクユニオンで何枚か中古CDを買ったと書きましたが、それ、聴いてみたわけですよ、全部。 そしたらオリヴァー・ネルソンの『ブルースの真実』っていうアルバムがダントツで良かった。原題は『The Blues and the Abstruct Truth』っていうんですが。 でまたこのアルバムのメンツがスゴイ。オリヴァー・ネルソンはアルト・サックスとテナー・サックスを吹いているんですが、それに加えてエリック・ドルフィーがアルトとフルート、フレディー・ハバードがトランペット。ホーンセクションが三人もいるから音が重厚よ。でもってリズム・セクションはベースがポール・チェンバース、ドラムがロイ・ヘインズ、そしてピアノはなんとビル・エヴァンスじゃないの。超がつく豪華ラインアップ。 でまた、作品すべてがオリヴァー・ネルソンの作曲で、アレンジもネルソン本人。それがまた素晴らしい出来で。 まあ、いいアルバムですよ。こんなにいいアルバム、今までノーチェックだったなんて、我ながら馬鹿みたい。 これはとにかく、必聴アルバムでございます。間違いなく教授のおすすめ! ジャズに興味ある方も無い方も是非!ブルースの真実 [ オリヴァー・ネルソン ]
April 2, 2019
コメント(0)
![]()
スチュアート・ブランドが書いた『地球の論点』(原題:Whole Earth Discipline: An Ecopragmatist Manifesto, 2009)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 本書の著者であるスチュアート・ブランドという人は、かの有名な『ホールアース・カタログ』の発行人。1968年にこのカタログが出た際、その表紙に宇宙から見た地球の写真がどーんと掲載されたんですけど、これによって(NASAなど特殊機関に勤務している人以外の)一般人は人類史上初めて地球の姿を見ることが出来た。『ホールアース・カタログ』はヒッピー向けの自活手段カタログですけど、このカタログが出たことによって、人類は「地球」という星に乗り組んでいる運命共同体なんだ、ということが実感されるようになったわけですな。そういう意味で、このカタログは、いわゆる「ガイア思想」のベースになったとすら言える。 で、そんな本を作った人ですから、スチュアート・ブランドってのは、「地球の自然を守れ!」的な人、グリーンピース的な人なのかと思うじゃん? ところが、さにあらず。その期待は、本書『地球の論点』を読むと見事に裏切られます。 ・・・「裏切る」っていう言い方は良くないね。別にスチュアート・ブランドが「自分は地球の自然を守れ!派でーす」なんて言ったことはないわけだから。 しかし、一般的にはそういう捉え方をされる人ですから、大概の人が、ブランドのこの本を読んでぶっ飛んだことも事実。 まず驚くのは、スチュアート・ブランドが筋金入りの「原発推進派」だってことですね。 ブランドの主張によれば、今、地球規模で考えなければならないのは、二酸化炭素の増加とそれに伴う地球温暖化であると。これに歯止めをかけないと、マジ、やばいことになるよと。 で、この観点から言えば、化石燃料燃やして発電するなんてもってのほかだと。 じゃあ、風力はどうだ、太陽光はどうだ、バイオ燃料はどうだ、という話になるのですが、もし実際問題として化石燃料による発電をこれらのクリーンなエネルギーで代替しようとすると、実現不可能なペースで巨大な風車だとか、太陽発電パネルなどを作り続けなければならず、それらを地上に設置するとなったら、自然の美しさなんて全部台無しだよと。 だから、現状、実現可能な代替案って原子力発電しかないと、ブランドは言います。 でも原発沢山作ったら、その廃棄物の処理とか大変じゃね? と思うかもしれないけど、それは今の科学のレベルでは、って話でしょと。科学なんてどんどん進化しているんだから、10年後、20年後、30年後には簡単に処理できるようになっているに違いないと。必要は発明の母だから。 だから、発電の大半を原子力に頼っているフランスのやり方を世界中で真似すりゃーいいんだと。むしろ、環境保護を訴えてる人々ってのは、単なるロマンチストで、科学のこと何にも知らないで原発はんたーい!って言っているだけなので、そんな連中の言うこと聞いていたら大変なことになるよ、っていうのがブランドの主張でございます。 あと、遺伝子組み替えについても、ブランドは当たり前のように推進派です。 っていうか、自然界ではもともと普通に遺伝子組み換えやってんだと。バクテリアなんて、日常茶飯事的にどんどん遺伝子組み換えやっている。人間の体の中にあるミトコンドリアだって、もともとは人間に寄生していたバクテリアなので、我々はそれを体の基本構造として取り入れちゃってんじゃん、的な。 それにアフリカの砂漠や、やたらに洪水の被害にあう東南アジアとかで植物を栽培するには、遺伝子組み換えでそういう土地でも育つ食用植物作らないとやってけないでしょと。 そういうのは嫌だ〜とか言って、毎年毎年新しい種を蒔くため、耕作地を掘り返したりしたら、地中の炭素がどんどん大気に放出されて大変なことになるよと。だから、毎年種を蒔かなくても、多年草みたいに毎年生えてくるような食用植物を遺伝子組み換えで作っちまえと。それから、雑草対策は除草剤でやっちまえと。 それに、そもそも遺伝子組み換え食品で被害が出た、なんてことはこれまでまったく報告されてないんだし。 その他、外来生物なんて全然怖くない! アメリカでもエルクが増え過ぎて大変だから、アフリカからチーター輸入して放しちまえとか、マンモス蘇らせて放牧すれば、アメリカの森の健康も蘇るだろうとか、なかなか攻めた発言をしております。 あ、あと、温暖化対策として、大気圏上空に硫黄の粉末撒けとか、大型ハリケーンを防ぐために海中に鉄粉撒けとか、そういうことも検討すべきだと。 なるほどね〜! スチュアート・ブランドってそういう感じかあ! まあ、私も科学者じゃないのでね、ブランドの言っていることが正しいのか、狂っているのか、その辺の判断はつきません。だけど、ブランド曰く、科学的には、地球が今どういう状況にあって、何が問題になっているのかははっきりしていると。ただ、その問題にどう対処すべきかについては、様々な方策は考えられるものの、どの方策が正しいのかは必ずしも明確ではない。 だから、とりあえず色々な方策をある程度の規模でもって実験してみて、どの方策が一番いいのかを決め、それを地球規模でやるべきであると。 しかし、それらは喫緊の課題であるにも関わらず、科学的でないロマンチストたちが、何でも反対しちゃうので、地球の危機に対応できてない。それが一番の問題だと、ブランドは認識しているらしい。 で、ブランドは人間をヤマアラシ型とキツネ型に分類していて、一旦決めたことをあくまで押し通すタイプをヤマアラシ型と呼び、その一方、新たな事実が判明すれば、それに応じて対応を変えるタイプをキツネ型と呼ぶんですな。 だから、頑迷な環境保護団体なんかは当然、ヤマアラシ型であり、ブランド自身はキツネ型なわけ。 で、どこまでも信念を貫くヤマアラシ型の方がマスコミ受けはいいけど、こいつらに地球任せておいたら破滅するよとブランドは言います。 だから、「誰が何と言おうと、原発反対! 遺伝子組み換え反対!」的な態度を取らないで、その都度その都度、最新の科学的見地から、何を先決問題とすべきかを考え、それを実行に移す現実的な手法を考えていかないとダメなんじゃないの? というのが本書でブランドが主張しようとしていることなんですな。 どう? まあ、私にはそこそこ説得力がありましたけどねえ・・・。 たとえば、本書でもブランドが指摘していることの一つなんですが、かつてレイチェル・カーソンが『沈黙の春』でDDTの害のことを書き立て、それが元になってDDTが世界各地で使用禁止になってしまったんですな。 その結果、どうなったか。東南アジアとかで蚊の発生が続き、蚊が媒介するマラリアによって2000万人の子供たちが死んだと。 もちろんDDTはあまり好ましくない薬品であるとはいえ、とりあえず一時的に集中して使用し、蚊を撲滅してから使用取りやめにするという手もあったんじゃないかと。 何を先決問題とすべきかっていうのは、そういうことですよね。 本書の原題の副題は「An Ecopragmatist Manifesto」ですけれども、ブランドもまたエコロジストなんだけど、同時にプラグマティストでもあるわけですな。だから「エコプラグマティスト」と名乗るわけですが、ブランドの主張のすべてを良しとするかどうかは別として、地球という閉鎖された星に住む運命共同体である我々としては、単にロマンチックなエコロジスト、ヤマアラシ型のエコロジストであってはいけないというのは、確かだよね、と、私は思いました。 ま、そういう意味で、一読の価値はあるんじゃないかと思うのですが、読者諸賢のご意見や如何に?地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト [ スチュアート・ブランド ]
April 1, 2019
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1