『福島の歴史物語」

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2007.09.10
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「しばしの我慢を」
と言う北畠顕家の励ましに、義良親王は供の者の背にしがみつきながら
「うん」
と応えるだけであった。
 ——おいたわしい。
 口には出さなかったが、輝定はこの吹雪の中の城替えに暗たんたる将来が見えるような気がしてならなかった。
 この北畠顕家が出て空き城となった多賀城には北朝軍が入城し、ここを拠点に南朝軍の討伐を始めた。北朝軍の攻勢は鋭く、南朝軍の砦であった磐城庄の滝尻城及び湯本城が陥とされ、更に相馬庄の熊野堂城が攻撃された。この熊野堂城は霊山城のからめ手にあたる重要な地点だけに、南朝方は多数の防衛の兵を繰り出すと、激しい戦いが演じられた。北朝方は着々とその地歩を固めつつあった。
 このような戦いの日々の中にも、北畠顕家は後醍醐天皇の[上洛要請]の綸旨に接している。しかしこのような状況の中では、北畠顕家は動こうにも動けなかった。
 後醍醐天皇はその上洛要請の中で吉野に移った事情を述べ、「急ぎ奥羽の兵を率いて、京都を回復せよ」と命じていた。北畠顕家は、[?霊山城が北朝勢に包囲されて身動きがならない]?という状況を述べ、[いずれ上洛をするので、その時を待たれるように]との返書を送った。しかしこの後醍醐天皇に対する気休めの返事も、直ぐに崩れた。この答書を書いた翌日、霊山城の東の守りの相馬・熊野堂城が陥落してしまったのである。
 このような苦戦の中、またも吉野の後醍醐天皇から北畠顕家に上洛要請の勅があり、越前の恒良親王からも上洛要請の勅があった。その上に吉野からも再々度の上洛要請の勅があり、伊勢の田丸城の北畠親房からも上洛催促の手紙が届けられていた。しかしいかに吉野や伊勢から勅ばかり送りつけられても、奥羽の地もまた戦乱の中にあったのである。
 五百川に北朝方が挙兵した。田村輝定は北畠顕家より、「結城親朝に従い『五百河の凶徒を対治(討伐)』せよ!」との命令を受けた。五百川は安達庄と安積庄の境界を流れており、阿武隈川の合流点では田村庄とも接していた。
 輝定の命を受けた久盛は、田村庄の穴沢城と鬼生田城から出撃し、阿武隈川を渡河して安積庄の梅沢城を陥とすと近くの高倉城の麓を囲んでこれと対峙した。しかし阿武隈川の合流点にあり山を利したこの城の守りは堅く、兵力の少ない久盛はこれを攻めあぐんだ。それには結城親朝が命令を出したのみで、自からは援軍も出さないこともあった。しかし間もなく伊達氏が五百川の北側の青田城と三本松館を攻撃して勢力を分断すると、久盛も高倉城を陥とし更に前田沢城などを急追して五百川を渡河し、伊達氏と共に安達庄の岩色城を陥としてこれを鎮圧した。
 さらに南奥南朝軍は矛を返すと、相馬庄の小高城を攻めた。一度は陥とした小高城であったが再び北朝方になっていたのである。各地に戦いが起きていた。常陸の南朝方も国府原に出て北朝軍と戦うなど、南奥・関東のあちこちで多くの戦闘が行われていた。しかしこれらの合戦によっても、ついに霊山城に対する北朝方の包囲を解くことが出来なかった。
 それらの事情を知ってか知らずか、父の北畠親房から北畠顕家に、「上洛が叶わぬならせめて軍を関東に進め逆徒討つべし」との密書があった。霊山城をとりまく戦雲はいっかな晴れる様子はなかったが、京都の情勢の急転回は北畠顕家に再度の上洛を迫っていた。せめて関東に軍を進めよとの父の書簡は、京都での南朝方の苦衷を如実に示していた。
 ——このままここでいたずらに合戦を続けていれば、局地戦で終わってしまう。思い切って京へ向かい情勢の展開をはかろう。
 そう思うと顕家は、征西の旅へ霊山城を発した。従う者六千騎。
 霊山城を出た南奥南朝軍は、途中で南朝方を糾合しながら南下した。しかし安積庄で従軍する手筈であった三春田村氏は、ついに参陣してこなかった。阿武隈川を左に見ながら北畠顕家は、「御春之輩」とののしった。彼に対する無言の反抗と見えたからである。このため顕家は、三春の田村氏に安堵していた安達庄東南部を没収した。
 間もなくその南で、田村輝定が従軍してきた。輝定にしてみれば後醍醐天皇に忠義を尽くして得た所領は多い。今度もまた三春の田村氏から没収した安達庄東南部が、輝定に安堵された。輝定にはそれら領地の確保のためにもまた拡大のためにも、
 ——後醍醐天皇の天下を取り戻さねばならぬ。
という強い思いがあった。それとは別に、田村輝定の従軍は北畠顕家の心を和ませた。これで心の支えとする伊達・田村そして白河の三軍が揃ったからである。






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最終更新日  2007.11.15 16:48:01
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