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2012.11.11
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カテゴリ: 安積親王と葛城王
          橘 為 仲

 この安積親王や橘諸兄の時代から約300年後、橘諸兄の十一代の裔である橘為仲(長和三・1014年頃〜応徳二・1085年)が郡山の伝説となって再登場する。1984年、『郡山の歴史(郡山市 不二印刷)』が出版されているが、その30頁に次の記述がある。

   かつて、郡山の地名は、橘為仲のよんだという『陸奥の芳賀
  の芝原春くれば吹く風いとどかほる山里』の歌の『かおる山』
  から 出たと言われ、芳山の字を当てていた。しかし現存する『橘
  為仲朝臣集』の歌のなかには、この歌はない。仮に『橘為仲朝臣
  集』にその歌があったにしても、『かおる山』が訛ってから郡山に
  なったというのは当たらない。郡山の名は郡衙の所在地というと
  ころから出たと考えるべきであろう。

 しかし2004年に発行された『郡山の歴史(ル・プロジェ)』の『「郡山」の地名のおこり』には、古代の郡衙のあったところには、『こおりやま』という地名が多いという説明のみで、橘為仲の歌についての記述が除かれている。その理由の記述はないが、恐らくこの歌が『橘為仲朝臣集』などにないことによるものであろう。私も『橘為仲朝臣集』をはじめ関連する文献に当たってみたが、見つけることができなかった。それにしても、1984年発行の本にあの橘為仲の歌を載せたということは、どこかにあったからではなかったのかと思った。この歌はどう考えても、現代人が作ったものとは思えなかったからである。

 そこで私も、郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみたが、やはりそこにその歌はなかった。次いで私は郡山歴史資料館に足を運んでみた。そして見つけたのは、明治四十四(1911)年ころに和紙にペン書きされた『郷土史第二編 第十六章口碑伝説』であった。そこには次のように記されていた。

     阿加岐山及郡山ノ起原
   比止祢命方八丁ニ社稷ノ神ヲ祀ルベキ地ヲ求メ阿岐に加ヲ
  加ヘテ阿加岐山ト称シ國神人祖霊ヲ鎮祭シ山河ヲ望●シテ國
  界ヲ定メ荒壌ヲ墾キ田圃ヲ作リ人民ヲ撫育シ始メ芳賀ノ里ト
  号シ日中古訛リテ加保里ト云フ阿加岐山ノ山ヲ取リ加保里山
  ト云フ後世改メテ郡山と号セシトゾ。又昔橘為仲陸奥ニ下リタル
  時此地ニ至リタルニ山桜盛リニシテ花ノ香旅ノ衣ヲ打ツ其時
  ニ為仲歌ヘツラク

   陸奥の芳賀のしの原春くればふく風いと丶かほる山里

   コノ歌ノかほる山里ヲ転ジテ里トナシかほり山ト号シ後ニ
  郡山ノ文字ヲ用ヘシゾ
                                注 ●は判読不明

 しかし残念ながら、ここにはこの歌の原典についての記述はなかった。ただ承平五(935)年頃に成立したとされる『和名類聚抄』によれば安積郡には、入野・佐戸・芳賀・小野・丸子・小川・葦屋・安積の八郷があったことが分かる。すると『陸奥』の『芳賀』という固有名詞は郡山に他ならないことになるが、この歌の存在が確認されない以上、それとて推測となる。それでもこれで、明治四十四年まではさかのぼることができたが、こう記述されている以上、これを書いた人は当然ながらこの歌の原本を知っているはずである。しかしながら、今の時点で見つけることができなかった。

 橘為仲は、長和三(1014)年ころ生まれたと推定され、二十歳になった長元八(1035)年『賀陽院水閣歌合』にて方人(かたひと・歌合わせなどで二組に分けられた一方の人)を勤めた。長久二(1041)年、『源大納言師房家歌合』が編纂されているが、ここに和歌六人党の顔ぶれが出ている。メンバーについては流動的であるが、為仲はいわゆる「追加メンバー」的な存在であったようである。のちに為仲は、家集『為仲朝臣集』や日記『橘為仲記』(散逸)を残すことになる。

 永承二(1047)年十二月一日、橘為仲は六位蔵人・式部少丞となった。蔵人とは令外官の一つで天皇の秘書的役割、また式部少丞とは、大学寮 ・散位寮 の二寮を管掌していた役職である。その後も橘為仲は順調に昇進、駿河権守、淡路守、皇后宮大進、五位蔵人・左衛門権佐、従四位下、越後守を歴任し、承保二(1075)年秋、陸奥守として陸奥に赴任したが、六十歳位での赴任は相当の衝撃を与えたようである。この年の十一月七日、橘為仲は白河関を越え、その後竹駒神社の北にある武隈の松(宮城県岩沼市)で歌を詠んでいる。

   たけくまのあとを尋ねて引うふる松や千とせの初めなるらむ

 すると『陸奥の芳賀の・・』の歌は春を詠んだものであるから、往路に詠んだものとは思えない。そしてその年末には多賀城に着いたものと思われる。六年後の永保元(1081)年秋、橘為仲は帰京しているが、その間に詠んだと思われる次の三首が、『橘為仲朝臣集』に残されている。

   はなかつみ かつみしたにもあるものを あさかのぬまの
                  あさきしのよや(46)

   山の井の そこに心はあるものを あさかのぬまに
                  かけやみゆらん(60)

   おもひくる かけしうつらは山の井の水はむつはし
                  にこりもそする(61)

 これらの初めの二つの歌には『あさかのぬま』が、後ろの二歌には『山の井』が詠われている。これらの歌が実際に郡山を訪れて詠んだものか単に想像によるものかは不明であるが、『陸奥の芳賀の・・』という歌の実在を想像させられるものがある。そう考えてくると『陸奥の芳賀の・・』という歌がもし橘為仲の歌ではないとしても、少なくとも為仲は、安積について歌っていたことは確認できる。そうすると、『陸奥の芳賀の・・』の歌は、誰かが明治四十四年の文書から見つけ出して『郡山の歴史(不二印刷)』に載せたものなのであろうか。では明治四十四年の文書の歌の出典は何であったのか。どうしても疑問が残る。

 橘為仲は、応徳二(1085)年十月二十一日に没した。

 ところで月刊誌『国語と国文学』や『和歌文学研究』に記載されている『橘為仲集考』、『橘為仲とその集』、『「橘為仲朝臣集」における問題』に、これにつながると思われる記述がある。『陸奥の芳賀の・・』の歌の再発見の可能性があると思える記述を『 』で箇条書きにし、抽出してみた。



  なった二つの歌集があって、現在一般に流布している群書類
  従本系では、その二つの為仲集が合体した形をとっている』

  『要するに為仲集には、西行筆の本文と定家筆の外題をもっ
  たもの(甲本)があったこと、それはすでに三、四枚の落丁
  を持っていたらしいこと、もう一つ全く別な為仲集があって、
  それを合体した』

  『伝本は宮内庁書陵部に甲乙二本が現存。
甲本(501・3
   05) 188首
乙本(501・185) 56首
 巻頭
  より28首はほぼ一致するが、それ以降は乙本で大部分が欠
  落』

  『伝西行筆で佚名家集切とか未詳家集切、あるいはただ単に
  歌集切と呼ばれている古筆断簡がある』

  『佚名家集切は、実は為仲集切であった』

  『各断簡はばらばらで少しもつながりがない』

  『しかも実際にはまだほかにも落丁の部分がある』

  『落着き場所不明の佚名家集切二葉(中略)から考えて、あ
  る部分では相当量の落丁 も考えられよう。伝西行筆本その
  ものの出現もさることながら、同種の断簡の発見が望まれる
  わけである』

  『まだまだ発見が期待できるものとして、ここにその点を報
  告しておく』

 これらの古筆断簡などを念頭に置きながらも、散逸したという日記、『橘為仲記』も気になる。つまり『陸奥の芳賀の・・』の歌を現在見つけることが出来ないとは言っても、佚名家集切や断簡の中に含まれているのではないかと思えるからである。学者による今後の発見に、大きく期待したい。

 ただ私がこの歌にここまで執着するのは、この歌が郡山市内の小学校の校名になったとも言われていることにある。曰く、芳賀小学校、薫小学校、芳山小学校、橘小学校などである。

 安積親王と橘諸兄そして橘為仲の存在は、どこかで古代の安積や現代の郡山と密接につながっているように感じられてならない。
                                 (終)




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最終更新日  2012.11.11 10:24:05
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