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超豪華クルーズ船でのタキシード、イブニングドレスを 纏った「夜の正装パリ社交界」を離れて、 真夏の(ような)明るい陽光を軽装で楽しみます。 時には、海水パンツで洋上プールに入り、また、 クルーズ船客だけが利用できるプライベート・ビーチや 二人だけのコテージで休息します。 ここは、天国に一番近いかも知れない、 そうゴーギャンが感じたところです。 間違いなく「エデンの園」では ありませんか? * *************** ** *************** *(2)観光地案内の収集・・・寄せ集めです・・ [X1,X2]・・タヒチ島 タヒチ島は仏領ポリネシア最大の島で、タヒチ・ヌイ(大タヒチ)と タヒチ・イティ(小タヒチ)のひょうたん形の2つの島で構成される。 ファアア国際空港と、首都パペーテ(港)があり、タヒチ旅行の 玄関口である。 空港に一歩降り立つと、タヒチ音楽とティアレの花香の歓迎に、 ゴーギャンでなくとも、南海の楽園を実感する。 首都パペーテは近代的街並み、エキゾチックな港町で、椰子の 木が貿易風にそよぎ、白く輝く家々が丘陵地帯に立ち並ぶ。 仏文化の影響を最も強く受け、仏製品、世界の一流品が手に 入る。 他方で、島の奥地には深く険しい山々や熱帯植物に覆われた 谷があり、糸を引きながら落ちる滝、水量豊かな清流、色鮮や かに咲き乱れる熱帯の花々など、タヒチならではの自然が存分 に残されている。 街散策の他にはゴルフ、ダイビング、サーフィンなどのスポーツ も楽しむ事ができる。 [X2]・・ライアテア島 火山島で、同諸島中,タヒチに次いで大きく,面積240平方km, 人口約6,500人。 自然の景観にすぐれ,近年,欧米諸国などから訪れる観光客 が多い。 かつてこの島は、聖なる島「ババイキ」と呼ばれ、ポリネシア人が 最初に定住した島。 中部ポリネシアの宗教的中心地として,独自の神学を発展さ せた。 オポア村のタプタプ・アテアのマラエ(祭祀場)には,遠方の島々 から多数の巡礼者が訪問し,テ・メハニ火山(1,032m)の火口 は神々の住む冥界への入口で,宇宙の中心と考えられた。 此島でしか見られない珍しい花「ティアレ・アペタヒ」が咲き、 ポリネシアのオリンポスにあたる「芳香の楽園」テメハニ山が、 いまだ現代社会の喧騒とは無縁のこの島を静かに見守る。 ライアテア島とタハア島を隔てるラグーンはサファイヤ色 とエメラルド色に輝き、神秘的で美しいラグーンに囲まれた タハア島には人里離れた小島にラグジュアリーなリゾートが あることでも有名。 [X3]・・タハア島 タハア島を望む商業港ウツロアはクルーズ客船の寄港地 として重要な町。 タピオイ山の展望台からウツロアの町を一望できる。 東側のアベラ地区は19世紀末、タヒチ人と仏人の最後の 戦の場所で、女王ポマレ4世の避難場所。 ファアロア湾の奥には小さなたヨット・ベースがあり、 ボートやカヌーが航行できる唯一の川「ファアロア川」 へと続く。 オポア村は由緒ある古代ポリネシア宗教地で、整形された 珊瑚岩が整烈し、荘厳な「タプタプアテアのマラエ」では、太平洋 諸島からの大型カヌーが珊瑚礁切れ目、神聖な「アバモア・ パス」を通り上陸、神秘的な雰囲気のもとで任官儀式と 異国間交流が行われた。 西岸では、一方はモツ(タヒチ語で「島・小島」 の意。珊瑚礁 による岩礁)の浮かぶラグーン、他方は滝の激しく流れ落ちる 山並みと、美しい風景が続く。 道はさらに畑や牧草地、果物の木の林に沿って続き、美しい 白砂のビーチの広がるテバイトアの村に至る。 ここはまたテメハニ山に登るハイキングの出発点で、この島の 象徴である白い花、「ティアレ・アペタヒ」が咲く。 [X4]・・ボラボラ島 ソシエテ諸島にある島で、首都パペーテがあるタヒチ島から 北西約260kmに位置しており、仏領ポリネシア中でも最も 美しいとされる。 1周約30kmの本島と、その周囲を約40kmのリーフ(岩礁) が囲み、面積約36平方km、2000年現在人口は約4,500人。 中心街は本島西側に位置するヴァイタペ。島の中央にオテマヌ 山(727m)がそびえ、周辺のモツからその姿を一望できる。 主にハネムーンでの利用が多いが、海の美しさや透明度の 良さからスキューバダイビングの利用客も多く、日本人を 含む多くの旅行客が訪れる。 毎年、7月頃「Heiva i BoraBora」(ヘイヴァ・イ・ボラボラ)祭 が開催され、多くの現地住民が参加する。この時期に訪れる 観光客もいる。「Heiva i BoraBora」は、7月14日の仏革命 の記念日(祝日)を起源とする仏領ポリネシアのお祭りで、伝統 的なダンスや楽器演奏に加え、様々なイベントが催される。 ほぼ同時期に、ボラボラ島以外の島々でも開催されている。 タヒチ島ファアア国際空港からボラボラ空港へエアタヒチが 空路定期便を毎日運行、直行便で50分、他島経由便では 最大120分。ボラボラ空港は島北西側のリーフ、モツ・ムテの 上に位置しており、本島及び島内各ホテルへは空港からボート で渡ることになる。本島のヴァイタペへは、エアタヒチが飛行機 の発着に合わせてシャトル・ボートを運行している。 また、空港内に主要ホテルのカウンターが設置されており、 ホテルに宿泊する場合は空港~ホテル直行の送迎シャトル・ ボートを利用する事が多い。 [X5]・・モーレア島 映画『南太平洋』のロケ地にもなった美しい島。1,000メートル 級の切り立った山々が連なり、山裾がそのまま海に吸い込ま れていくような絶景に出会える。 その素晴らしい風景が見たいならベルヴェデール展望台が おすすめ。ロツイ山の左にオプノフ湾、右にクック湾が切れ込 んでいるさまを一望にできる。 リゾートホテルが集まっているエリアはパペトアイといい、 村には1811年にイギリス人の建てた教会がある。 観光スポットとしては、昔のタヒチの生活を再現している ティキ・シアター・ヴィレッジなどが有名。* *************** ** *************** * 今年も「脳幹梗塞の脳トレのお付き合い」でお世話に なりました。 めいてい君 記す
Dec 31, 2012
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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 「自由が丘氏への提案クルーズ」の (1)仮想日程表、 (2)観光地案内 まるで寄せ集めです。 ***(1)仮想旅行日程(案) XXXX年YY月ZZ日*** <豪邸から空港へ移動>・・・本当は自家用ベンツor 'Heli.'? (特急土曜日運行時刻表) *東急東横線特急 <2駅> [自由が丘]発12:29 (渋谷着 12:38)*JR特急成田エクスプレス <3駅> [渋谷]発12:46 (成田空港第2ターミナル着13:54) ▽△<集合:出国> *直行便:「エアータヒチ・ヌイ」(月曜日)・土曜日運航 1日目(現地は前日)<成田→タヒチ島> 成田発 土曜日 16:00<タヒチ時間(金曜日)21:00>Faaa空港着 土曜日 8:20 飛行時間=11時間20分(11.333時間) 大圏飛行距離= 9,463km 航続速度= 835km/h [X1]・・タヒチ島観光 終日 (後編)(2)観光地案内参照・・以下同じ) ▽△ <超豪華クルーズ船に乗船> パペーテ出港 23:59(土曜日) 2日目 <タヒチ島→ライアテア島> ライアテア島入港 11:00(日曜日) 航海時間11時間1分(11.01666時間) 航海距離= 215.3km 航海速度= 19.5km/h [X2]・・ライアテア島観光 11時-18時 ライアテア島出港 18:00(日曜日) 3日目 <ライアテア島→タハア島> タハア島入港 9:00(月曜日) 航海時間15時間 航海距離= 22.5km 航海速度= 1.5km/h(船内娯楽時間か) [X3]・・タハア島観光 9時-17時(月曜日) タハア島出港 17:00(月曜日) 4日目 <タハア島→ボラボラ島> ボラボラ島入港 8:00(火曜日) 航海時間15時間 航海距離 28.3km 航海速度= 1.9km/h(船内娯楽時間か) [X4]・・ボラバラ島観光 8時-終日(火曜日) 5日目 <ボラボラ島滞在> [X4]・・ボラバラ島観光 8時-18時(水曜日) ボラボラ島出港 18:00(水曜日) 6日目 <ボラボラ島→モーレア島> モーレア島入港 8:00(木曜日) 航海時間14時間 航海距離 234.1km 航海速度= 16.7km/h [X5]・・モーレア島観光 8時-17時(木曜日) モーレア島出港 17:00(木曜日) 7日目 <モーレア島→タヒチ島> パペーテ入港 19:30(金曜日) 航海時間2時間30分 航海距離 27.6km 航海速度=11.0km/h ▽△ <超豪華クルーズ船を下船> 8日目 <タヒチ島> パペーテ滞在 [X6]・・タヒチ島観光 終日(土曜日) ▽△<航空便>*直行便:「エアータヒチ・ヌイ」 9日目<タヒチ→成田>Faaa空港発 (土曜日)6:30<成田時間 日曜日 1:30>成田空港着 日曜日13:35 飛行時間=12時間05分(12.0833時間) 大圏飛行距離= 9,463km 航続速度= 783.1km/h ▽△ <帰国:解散> ご苦労様でした! ****************** (2)観光地案内は午後配信、今年の呆け日記はそれで終わりです。
Dec 31, 2012
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(仏領ポリネシア その2/4 から) 政体南太平洋にあるフランスの海外共同体(Collectivité d'outre-mer、略してCOM:英語:overseas collectivity、海外準県)であり、その中でも海外領邦(仏語:Pays d'outre-mer、略してPOM:英語:Overseas Country)という特別な地位を有している。 仏海外領土Overseas territory 1946年Overseas collectivity<仏略語COM> 2003年Overseas Country<仏略語POM> 2004年元首仏大統領*François Gérard Georges Nicolas Hollande (仏社会党) 高等弁務官(High Commissioner)・元首の現地代行責任者*Jean-Pierre Laflaquiere:2012.8着任(仏領ガイアナ、チャンネル諸島Prefect(長官)経験有り) 議会自治議会 57議席(任期5年)政権・選挙政治は仏政府と領土政府が行っている。仏政府は、国土の防衛、移民、司法、高等教育、メディア、造幣を分担し、高等弁務官が現地代表を務める。領土政府は、地方行政、初等・中等教育、税金、外貨交換、物価等の分野を分担している。自治政府の議院内閣制仏領ポリネシア(自治)大統領:・・・現地自治政府代表者*Oscar Temaru オスカー・テマル <自治大統領を7年間で4回経験。2011年、前大統領の不信任可決で、大統領と、民主連合党党首に選出される。UPLD(独立派、Tavini Huiraatira党 [Aに属する]、仏社会党公認)クック諸島出身=NZ国籍あり。仏社会党公認で独立派のUPLD党首で、米国などの英語圏との経済活動の活発化を目指す。支持者は若者層、労働者、貧困層。空港のFaaa村の村長。> 他の主要党主: *Gaston FLOSSE ガストン・フロス(ガストン・「ヌイ」ともいう。ヌイ=大きいというのは、下記の同名に比べて) <元・自治大統領。保守(自治領派)のTahoeraa Huiraatira党 [Bを単独構成]、シラク元大統領当時のUMP公認。自治領派で、仏領に留まり、仏の協力(補助)で、保健、福祉、教育、社会インフラ等の整備を目指す。支持者は仏本土からの仏人,ツアモツ諸島,タヒチ島では半数弱。真珠業の許認可に関係。仏本土の上院議員でもある。娘婿のEDOUARD Fritch(エドワー・フリッチ)は前・ピエラ村村長でガストン・フロスが自治大統領時代は副大統領を務めた。 *Gaston Tong Sang ガストン・トンクソン(ガストン・トン・サン) <元、自治大統領。2011年4月の不信任案成立で退陣。O porinetia (to tatou aia)党 [Cに属する]=自治領派、仏UMP公認、支持者はタヒチ経済を掌握する中国系資本。ボラボラ島など観光業。勤勉なマルケサス諸島。ボラボラ島の村長> [選挙]:比例代表制 <保守派・改革派が拮抗した政治状態にあり、派閥以上に複雑であるため「不信任」で政権交代が起こっていた> 議会で選挙を受けられる政党グループ(2005年の例)Our Home [ C ] Union for Democracy [ A ] Popular Rally [ B ] [A]+[B] > [C] 差は1~2程度主要産業コプラ、ノニ(ヤエヤマアオキ)、真珠母貝、黒蝶貝真珠(黒真珠)、バニラ、果汁、マグロなどを産出する。 農業:ココナッツ、ヴァニラ、野菜、果物、医薬品用のノニ果実自然資源:材木、魚類、コバルト経済概況CIA1962年、この地域に仏が軍事要員を配置して、仏領ポリネシアは生計的農業経済から、労働力の高い比率を軍または観光産業をサポートする方向に飛躍した。1996年、仏核実験停止とともに、経済の軍事的寄与は急激に低下し、観光がGDPの1/4を占め、硬貨獲得の第一の源泉である。所得にその他の源泉は真珠養殖、深海商業漁業である。製造業は小規模で主に農産物加工である。仏との開発協定から主に得られる地益は新事業創出、社会サービスの強化を目指している。GDP:億ドル61億ドル (2004年、CIA)56.5億ドル(市場価格表示、2006年、WIKIPEDIA、英語版)<GDP、PPP><4718百万ドル(PPP,2004年、CIA)> GDP構成比サービス業 76.1%, 工業 20.4%, 農業 3.5% (2005年、CIA)一人当たりGDP:21,999ドル(市場価格表示、2006年、CIA、WIKIPEDIA) ハワイ、豪州、NZ、ニューカレドニアより低いが、他のオセアニアの独立国よりも高い。実質GDP成長率5.1%(2002年、CIA)2.7%(2005年、CIA)物価上昇率1.1%(2007年、CIA)失業率11.7%(2005年、CIA) 若年失業率15-24才2002年33.2%男子:29.3%女子:39.1%労働力116,000人(2007年、CIA)労働力構成比サービス業 68%、工業 19%、農業 13%予算収入:865百万ドル(1999年、CIA)支出:644.1(税+他の収入)/GDP比14.2%(1999年、CIA)予算収支/GDP比3.6%(1999年、CIA)貿易収支A-B▼ 1495百万ドル(2005年、CIA)▼ 2000(2008年、WIKIPEDIA)貿易額:輸出A 211百万ドル(2005年、CIA) 200百万ドル(2008年、WIKIPEDIA)同 :輸入B 1706百万ドル(2005年、CIA) 2200百万ドル(2008年、WIKIPEDIA)貿易品目:輸出人造真珠、ココナッツ製品、真珠母貝、バニラ、鮫肉 (黒蝶貝真珠が輸出の55%を占める;2008年、WIKIPEDIA)同 :輸入燃料、食物、機械器具(明日 仏領ポリネシア その4/4 につづく)
Dec 30, 2012
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(F.P. その1 より) ?????????????? 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 ??????????????????? これは、小生がNHKの「シリーズ世界遺産100」(5分番組)を見るときに、たまに現れる言葉です。 ゴーギャンの言葉です。 この国の人々は、西からやってきたと言われますが、それは、海流の流れが強いので東からでは無理だ、との「理論的見解」でした。 現代の海流の流れはこのようですが、では、古代はどうだったのでしょうか。 だれも判りませんから、「理論」が優先します。 深海では、東太平洋海嶺が豪州大陸の南方からパナマ方角に向かい、北米大陸の下に入っています。 空想では、この海嶺で、もしかしたら、海流も古代には変化していたかも知れない、いや、ないかも知れない、と楽しめます。 海嶺が、海の飛び石のように海上に飛び出ていれば、化石が見つかるでしょうが、深海の中まで調査はできていません。月まで人間は行けますが、深海は未知の領域です。 呆けの独り言でした。▼△▽▲▽△▼△▽▲▽△▼△▽▲▽△▼△▽ 仏領ポリネシアの基本事情<資料出所:CIA,WIKIPRDIAなどの英文拙訳、 「他者のブログ(選挙の一部分)」など>国名仏領ポリネシアフレンチ ポリネシアPolynésie françaiseOverseas Country of French Polynesia通貨CFP franc (XPF)国旗上下の水平帯の赤色と、中央の白色は、タヒチ島の古い旗から。白地の中央には仏領ポリネシアの紋章、青海と黄色い陽光、赤いポリネシア伝来の帆を掲げたアウトリガー・カヌーが描かれる。カヌー上の5つの人型は仏領ポリネシアを構成する5つの諸島、ソシエテ諸島、トゥアモトゥ諸島、マルキーズ諸島、トゥブアイ諸島(オーストラル諸島)、ガンビエ諸島を表す。国花ティアレ・タヒチ(クチナシと同じガーデニア科に属すタヒチ固有種)国の標語"Liberty, Equality, Fraternity"自由、平等、友愛面積:平方キロ4,167平方km(石川県とほぼおなじ) タヒチ島:1,608平方km最高標高:オロヘナ山(タヒチ) 2,241m国の位置 ポリネシアのいくつかの諸島からなる。ソシエテ諸島のタヒチ島は、リゾート地として最も有名な島で、仏領ポリネシアの中心地でもある島嶼群250万km²の範囲の海域に多数の島(約130)が散らばっている。仏領ポリネシアに含まれる島は、ソシエテ諸島(タヒチ島、モーレア島、テティアロア環礁、ロアフアヒネ諸島、ライアテア島、タハア島、ボラボラ島、マウビティ島、トゥパイ環礁)、マルキーズ諸島(マルケサス諸島)、トゥアモトゥ諸島(ムルロア環礁など)、トゥブアイ諸島、クリッパートン島、ガンビエ諸島、ラバ島。人口274,512人(2012.7月、CIA)全人口の69%がタヒチにいる。年齢構成(2012年、CIA)0- 14才: 24.5%15-64才: 68.9%65才- : 6.7%平均年齢(2012年、CIA)全体: 29.8才男性: 29.8才女性 :29.8才人口増加率1.021%(2012年、CIA)人口密度:/平方キロ66人各所時差との比較キリバスのライン島と同じ標準時に見えるが、ライン島はUTC+14に対して、仏領ポリネシアはUTC-10であり、キリバスより日付が1日遅れる。日本時間とは19時間遅れ、ハワイ州とは同日同時刻、仏本国とは11時間遅れ(本国夏時間の時は12時間遅れ)。首都パペーテ(Papeete ;ひょうたん型のタヒチ島の大きい方に首都・港がある)人口:133,000人/////////////////////////////////////(首都から↓215.3km)ライアテア島・・・・・215.3km(首都から西北西)(上下間↓22.5km)タハア島・・・・・・・230km(首都から西北西)(上下間↓28.3km)ボラボラ島 ・・・・・258.3km(首都から西北西)(上下間↓234.1km)モーレア島 ・・・・・27.6km(首都から西) 東京からの大圏距離:9,504km(首都まで)成田からの大圏距離:9,463km(首都まで)//////////////////////////////////////時差:JST-19時間サマータイムなし民族ポリネシア人78%、中国人12%、地方仏人6%、都会仏人4%言語仏語(公用語)61,1%、ポリネシア語(公用語)31.4%、(2002 census)宗教プロテスタント54%、ローマカトリック30%、その他10%、無宗教6%(F.P. その3 へ)
Dec 30, 2012
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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 自由が丘氏への提案のクルーズはここです。ソシエテ諸島のタヒチ島は、リゾート地として最も有名な島で、「仏領ポリネシア」の中心地。画家ゴーギャンが晩年に移り住んだ島でも有名。ノルウエーの人類学者、海洋生物学者、探検家のヘイエルダールが、バルサ材筏「コンチキ号」で「南米ペルー→南太平洋ツアモツ島(当仏領ポリネシア)」までの約8千km(大圏距離計算では7,026km)を航海し、体を張って、その方角への「文化移転を証明」しようとしたことでも有名。この説の証明には、途中の激流があるフンボルト海峡を軍艦の曳航で横断する「自力ルール違反(?)」があり、異論も噴出している。それでも、筏で冒険をして自説を実地に証明しようとする彼の「意気込み自体」は世界から賞賛されている。さて、仏本土からの輸入、観光産業、財政援助に支えられて経済は中程度に発達。「黒蝶貝真珠」に限れば、世界の9割以上のシェア。真珠輸出特別税の直接税収が20億円超入る。「自治大統領」は、2004年以来12回も不信任で崩壊し、現自治大統領テマルは過去7年で4回目の大統領就任という、政治・経済の不安定が続いており、仏海外県担当相は政権交代後の安定、回復に深い関心を持っている。 最後の核実験場ムルロア環礁の位置は、首都パペートから東南東1,214kmに、英領ピトケアン諸島(バウンティ号の反乱水兵逃亡島)が更に東南東方面969kmに位置する。GDPの数字については、WIKIPEDIAでは、英語で「名目5.65ビリオン(10億)ドル」、日本語で「PPP 565億ドル」となっている。CIAの数字と比べてみても、英文の「名目56.5億ドル」が正しく思う(日本語訳時、小数点が消えた?)。また、著者が異なるのか、なぜか同じ事を記載しても年代がマチマチに見えて、困ってしまう。仏語は知らないので、英文を「主に採用」してみた。(仏語→英語翻訳版を使用したが、自動和訳文は「ちんぷんかんぷん」であり、利用不可能であった。)であるから、めいてい君の「写経の信頼性は低い」ことを前提に見て欲しい。 仏領ポリネシア 略史<資料出所:CIA,WIKIPEDIA の英文を拙訳など>年月略史ヨーロッパ人到来以前ポリネシア人たちが、「フレンチ ポリネシア」の諸島に最初に住み着いたのは、マルケサス諸島がAD300年、 ソシエテ諸島がAD800年とされ、ゆるやかな酋長制度を組織した。ヨーロッパ人との接触・交流事例ポルトガル人探検家がプカプカ島を目視したのが1521年、蘭人がソシエテ諸島ボラボラを偶然見付けたのが1722年、英国人探検家ウオリスがタヒチを訪れたのが1767年、仏人探検家が1768年、英人クックが1769年、基督教使節はスペイン宣教師が1774年から 1年あまり滞在、ロンドン伝道協会からのプロテスタントがポリネシアに定住したのが1797年。1595年スペイン人アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイらが南米のペルーから出航、マルケサス諸島の4島に上陸。1606年にポルトガルの航海者が トゥアモトゥ諸島のハオ島に到着。タヒチ島に、1769年英の航海者 サミュエル・ウォリスが ヨーロッパ人として初めて来航。続いて1786年に仏人のルイ・アントワーヌ・ブーゲンビルがタヒチ島を訪れ、1769年に ジェームズ・クックもタヒチ島に訪れた。1789年<バウンティ号の反乱事件・・英海軍武装帆船の話>クックの元航海長・ウィリアム・ブライ船長のバウンティ号が、西インド諸島奴隷の安い食料品としてパンノキ採集にタヒチ島に訪れ、バウンティ号の反乱事件が起きる。 ジャマイカへ向かう途中、航海士フレッチャー・クリスチャンを始めとする、ブライ船長に対して不満を持つ乗組員十数人が太平洋上で反乱を起こし、バウンティ号を乗っ取り、タヒチ島に戻り、タヒチ人男女数人を連れ、1790年に無人孤島ピトケアン島に住み着いた。(ブライ船長他は救命ボートで追放され、同船長は苦難の末に英本国に戻り、その後も2度の反乱を乗り越えて、英植民地豪州ニューサウスウエールズの総督にまで昇進した。彼の「怒りやすい、妥協を知らない、高圧的態度」は「反乱の原因」となり、職を解かれる結果となったが、反乱の責任を問われることなく結果的には「次々と昇進」し、最後は英海軍中将、英王立協会会員となった。)19世紀<仏植民地化>1803年、タヒチのポマレ2世王がモアレ(Mo'orea)に逃亡を余儀なくされて、1812年プロテスタントに改宗。 仏カトリック伝道師が1834年にタヒチに上陸、1836年の彼等の追放が1838年の仏の砲艦派遣となり、1842年タヒチやタフアタ(Tahuata)は仏保護領として、 カトリックの伝道を邪魔しないことを宣言させられた。 首都パペーテが1843年に建設され、1880年、タヒチを保護領から植民地に地位を変更。1880年代に仏は、従前はポマレ王朝に帰属していたツモアツ諸島(Tuamotu Archipelago)の権利を主張した。1842年タフアタの保護領を宣言したことで、仏は 全マルケサス諸島(Marquesas Islands)を仏の物とみなした。1885年に仏はガバナー(総督ないし知事)を任命、議会を設立し、植民地に行政権を与えた。 リマタラ(Rimatara)島およびルルツ(Rūrutu)島は1888年の英国保護のロビー活動に失敗し、1889年仏に併合された。郵便切手が1892年に初めて発行されたが、植民地の最初の公式名は「オセアニア植民地」である。1903年、一般議会は諮問議会に変わり、植民地名は「オセアニアの仏植民地=French Settlements in Oceania」に変更。1891年<ゴーギャン滞在:仏ポスト印象派の最重要かつ独創的画家の一人>1891年4月~1893年ゴーギャン滞在(タヒチ)。1895年~1903年5月ゴーギャン再滞在(タヒチから辺境の マルキーズ諸島に渡り満54才で没す)。1914年9月第一次世界大戦時に独帝国海軍艦隊の艦砲射撃を首都 パペーテが受ける<パペーテ砲撃>1939年~1945年第二次世界大戦中に仏本国が独に占領されると、自由仏側につき「Free French Forces」として、連合国に協力した。日本帝国近衛内閣は、島民が知らない内ながら、1940.9.16に戦後世界で日本領とされる諸島群にフレンチ ポリネシア を含めていたが、太平洋戦争の過程において日本軍が仏領諸島に実際侵入することはなかった。1946年島民は仏市民権を与えられ、島の地位は、「oversea territory=海外領土」 となる。 1957年「フレンチポリネシア=French Polynesia」と命名1962年フランスは当初核実験場をアルジェリアとしていたがその独立により、新実験場をムルロア環礁に選んだ。(1974年以降実験は隠密に遂行された。)1963年シャルル・ド・ゴール仏大統領が太平洋核実験センター(CEP)設置。なおムルロア環礁などでは、仏による核実験が1966年~1996年まで行われていた。1977年部分的な内政自治権を認められ、1984年自治権は拡大された。1995年9月シラク仏大統領が核実験再開を発表、タヒチで住民抗議運動、核実験反対運動が世界各国で起こる。最終実験を1996年1月27日に行い、1996年1月29日付けで包括的実験禁止条約を受け入れた。2003年「フレンチ ポリネシア」は完全なoversea collectivity となった。2004年6月仏領土となって初めて先住民族として行政長官(自治大統領)に就任したオスカー・テマルが仏からの独立を主張、観光業を軸に仏依存経済からの脱却を提唱。2006年6月第2回仏・オセアニア首脳会議で、仏シラク大統領は、「大多数のタヒチ島民は独立を望むとは思わない」と語る。2011年4月ガストン・トン・サン自治大統領不信任案投票で、議員57名中29名(50.9%)が賛成し、オスカー・テマルが大統領と同時に「民主連合(Union for Democracy)」党主に選出された。2004年以来、12回も政権が不信任で崩壊しており、テマル大統領自身も過去7年間で4回目の就任となる。(F.P. その2 明日へ)
Dec 29, 2012
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/////////////////////////////////////// /// 寄稿文「輝く女性たち」 ////////////////////////////////////////// 寄稿者:自由が丘氏 講演者:その4<最終回> 田嶋 陽子 さん 元法政大学教授(英文学)、 元参議院議員、 テレビタックル出演者、、、、 女性研究家。 1941年生で現在71歳。 7年程前、64歳の時、何とかして、シャンソンを歌いたいとの夢、想いに駆られ先生に師事。 習えば、人前で歌いたいとの思いが強くなり、シャンソンライブの老舗である四谷の「蟻ん子」に、自らが電話を掛け、オーデションに参画。合格して、今でも舞台に立つ程の入れ込み。 この11月は、軽井沢の小ホテルでの 「ディナーショウ」。 観衆 約100名。 感想は? と言われれば、、、、 声の質は、綺麗で透き通る感じながら、 体格、性格、生き様を反映してか? かなり張りのある強い声。 シャンソン特有のうら寂しげな雰囲気とか、 反戦悲歌も、 彼女が歌うと、 なぜか? 元気を貰える様な、不思議な歌となる。 そして、何といってもの圧巻は、 ド派手な衣装と、 悪説トーク。 10曲、90分は、笑いの渦に包まれて終わる。 ただ、歌う途中、なんと、3曲で歌詞を忘れ、 中断とか、 始めから歌い直し。 プロ等では決して許されない事ながら、 大きな口を開け、 アハハ、、、、の笑い声で、 と惚けていたのが愛嬌か? 現在は、作曲家、小椋佳氏らと共に、 全国に飛び回っているらしい。 ともあれ、64歳にて発奮し、71歳の現在でも、 新曲に挑戦。 元宝塚的な堂々たる歌いっぷり。その、もがく姿は美しく、華やかで、楽しさ、 爽快さがある。 善人であろう。 ・・・・・・・・・・・ (終わりに) ・・・・・・・・・・・ 人様からは、女性好きなゆえの「感動」と言われそうであるが、この秋、10、11月は、 他に 「伊藤元重: 東大教授」 「田原総一郎: ジャーナリスト」 「渡邊淳一: 小説家」 「堀場雅夫: 堀場製作所顧問」「中国思想研究家」 等など、 男性陣の講演も多数聴講。 でも、なんか、、、新聞、書籍、テレビの解説、総集編的な講演で、やや表面的、薄い感じ。 何かと参考になったが、琴線への刺激なし。 少し、ぼんやり、男中心の世界で馬齢を重ねるうち、近時、女性群の中には、極く普通の日常生活の延長線の中で、自己発見、自己実現 をしている人達が居る事に気がつかなかったみたいだ。 年齢を超えて、自己の才覚、才能、興味に気づき一途に取り組んだり、ちょっとした切っ掛けにより社会的貢献活動(フィランソロピィ)に身を投じ、、、 「輝いている女性たち」 我が老後意識、 健康長寿、 PPK(ピンピンコロリ)、 無迷惑、 安楽、 程度の愚かさを白状するような、 恥ずかしき一文でもあります。 そして、今夜も、毎年恒例の「忘年会」。 いそいそと、、、、 出かけてしまいます//////////// ////////////////////////// ////////////// 自由が丘氏からの寄稿文は、今回、これまでです. ふたたび楽しいお話を待っています。 クルーズ体験記なども再々度期待したい。 御礼として、貴兄に行ってもらいたい候補地として基本事情に漏れていた、最後の最後である、タヒチアンブルーの国・「フレンチ ポリネシア」を資料不足の中で敢えて数日掲載してみます。 観光資源が命のこの国に、日本が稼いだ外貨を有効にお使い下さい。 タヒチアン・クルーズの仮想日程表、観光情報も集めてみましたので参考にしてください。 WEBには、「映像入り」の美しい景色が付いている旅行記がふんだんにあり、現地に行かなくても充分に楽しませてくれます。 しかし、映像はあっても、椰子の葉が揺らぐ貿易風や、胸のレイ香や、見たことのない黒蝶貝真珠、おいしい現地の料理・お酒、楽しい会話は聞けないので、貴兄のお土産話を期待するしかありません。 ただ、言えることは、事前の調査をしておかないと、あっという間に現地の時間は過ぎ去ります。 それに、目に見えない人間の制度、習慣、技術などもよほど意識しないと脳に映りません。 脳幹梗塞の小生が言うのは可笑しいですが、後悔しないように、事前の準備を怠らない方が、旅を100倍~1,000倍楽しめると思います。 今回は、お忙しい中を寄稿ありがとうございました。 (めいてい君 記)
Dec 28, 2012
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////////////////////////////// /// 寄稿文「輝く女性たち」///////////////////////////////// 寄稿者:自由が丘氏 講演者:その3. 六草 いちか さん 昨年の3月に出版された 「鴎外の恋 舞姫エリスの真実」の作者である。 1962年生。24歳時ドイツに留学を経て居住。 在独ジャーナリストの立場でドイツ情報などを発信。 ひょんな切っ掛けで、森鴎外の小説「舞姫」(1890年発表)の女性主人公「エリス」の正体を突き詰める事にのめり込む。 私自身の小説的興味を申せば、鴎外は、その生き様を含めて、大好きな小説家である。ただ、この小説の主人公の豊太郎は、官費留学生の若い身で、ドイツの踊り子「エリス」に恋をし妊娠させながら、彼女と別れ帰国。その後彼女はパラノイア、発狂する等と言う物語。主人公による恋の顛末の冷酷な対応で、日本女性の大顰蹙を買うほどの物語でもある。この「エリス」の正体、、、鴎外の実話か?空想か?モデルが居たのか?その人物は?「踊り子」「お針子」「路頭の花」「良家の子女」等など、小説発表後120年以上種々様々な記述、研究がなされている「謎」の人物である。作者は、ドイツ在住の立場で、小説の1字1句を基に、ベルリンの地図、住民票等を、120年前に遡り、実地検証する。日本と違いドイツには戸籍制度が無くその作業は難航を極める。彼女は遂に、その存在を、マイクロフイルムにかすかに記録されていた、100年超以前の教会受洗簿にて、遂に、突きとめる。1866年9月15日生まれの「エリーゼ、マリー、カロリーネ、ヴィーゲルト」。文壇史上の歴史的発見との評価もある。これらの発見経緯を、淡々と話す。クリスティの名探偵「ミス マーブル」による、謎解き、朗読会みたいで、聴衆者は興奮の坩堝に落ち込まされる。本作品は「エリス」の発見、本人特定で終わるが、発表後の調査で、「エリスの一生、終焉」が解き明かされ、来春発売の第2作目で発表されるとして、講演は終わる。/////////////// ///////////////「鴎外の恋:舞姫エリスの真実」は去る9月15日に文教シビックホールで森鴎外生誕150年記念リーディング・ドラマとして、「斉藤由貴」「小林隆」「ともさと衣」出演、佐山雅弘のピアノ演奏で発表されている。ベルリンに在住する、その著作者本人のお話だからインパクトがあるのは当然であろう。小生なんぞ、著者の名前「六草」氏を「ろくそう」とそのまま読むことを躊躇い、「むくさ」「りっそう」などと悩んでいた。写経での間違いは小生の責任である。 (めいてい君 記)
Dec 27, 2012
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////////////////////////////// /// 寄稿文「輝く女性たち」/// ////////////////////////////// 寄稿者:自由が丘氏 講演者:その2. 鈴木 美津子 さん 軽井沢在住の自然環境保護のボランティア的活動家。 年齢不詳ながら、65歳前後か? 父親は元軽井沢駅長で、長女が軽井沢の病院での 出産医療事故により死亡。それらが切っ掛けになり、 本活動に本格的に取り組み始める。 風光明媚、自然豊かな軽井沢は別荘地開発の進展が 急激に進む。 軽井沢の伝統的別荘は、自然との共生、少なくとも 自生的自然を大事にし、別荘建築物は仮住まい的 風潮に合った。 しかし、近年、雑草刈りとか落ち葉掃除の苦痛を 回避すべく、西洋風の建物:例えば、スウェーデン ハウスに代表されるような密閉式建物が流行。 あの、夏場、最も爽やかな高原涼風を楽しむよりも、 昆虫、蛾、蚊等を嫌う人達が増え、ガラス窓、冷暖房 完備の建物が主流になる。それに似合う庭として、 自生の樹木を一切伐採して、芝生を植え、イングリッシュ ガーデン風に外国産草花を植えることが流行する。 その延長線で、別荘地、道路、公共土地などに、昔から 自生する樹木等は、地主、商店主、遊歩観光客、役場等から、 何らかの障害、面倒、苦情等があれば、いとも、あっさり、 それら樹木は伐採される風潮にある。 それに、徒手空拳で立ち向かったのが、講師、「鈴木美津子 さん」である。 樹齢50年超の古木の伐採を聞きつければ、何とか思いとど まるように説得したり、全額彼女負担による移植等を持ちか けるなどして、これまでに、なんと、数百本の樹木を保護して いると言う。 あの、「旧軽井沢ロータリーのど真ん中にある、見事な桜を 伐採し、トイレを建設する計画」の変更を確約させている。 私事ながら、今年の連休のとき、軽井沢の隣町のM町の 桜トンネルを見に行ったところ、なんと何と、あの数十年 以上の樹齢があると思われる桜の古木、数十本が、ばっさり、 根本から伐られ、僅か数本を残すのみ、、、 毎年、楽しみにしていた見事、見事な桜トンネル。東京の 開花から遅れる事約1ケ月。 1年に2度の桜満開を楽しむ風情を無残に破られてしまった。 このM町は、別に史跡とか見所も無い平凡かつ殺風景な 田舎町である。 この伐採を聞きつけた「鈴木美津子さん」が、町議会に執拗に 交渉したが反対された。 部外者にとって、唯一とも言える、街景観のシンボルでもあった 見事な桜トンネルが消失した。 //////////// //////////彼女の「しいある倶楽部」というWEB ページが見つかった ので興味のある方はご覧下さい。(めいてい君)
Dec 26, 2012
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今日から数日、小生の友人の「自由が丘氏」からの 寄稿文を紹介させていただきたい。 以前に、「世界クルーズ旅行」を連載させていただいた (小生に比較すれば)大富豪の、人間味溢れる一面である。 小生は呆け老人で、世間との交信が稀であるので、数少ない 窓を開けて、そっと覗いてみたい。///////// ////////// ・・・・・・・ ・・・・・・・・ 私は、昔から、講演会:セミナーを聴講するのが楽しみの一つ。 今でも新聞等に募集案内が掲載されると、葉書等で申し込む。 年間 20~30回位は参加している。 その中で、今年の秋は、偶然ながら、女性の講演に恵まれた。 普段は、ノートへのメモ書程度で、直ぐに内容を忘れるが、 今回は、何となく、記録に残したいとの想いに駆られ、 一文を認めました。 ・・・・・・・ ・・・・・・・・////////////////////////////// /// 寄稿文「輝く女性たち」 /// ////////////////////////////// 講演者:その1. 佐々木 るり さん 略歴: 福島県二本松、真宗大谷派真行寺の若・住職夫人で、 小学生以下の子育て中。昨年3月11日の津波に続く、福島 第1原発の爆発の影響で、放射能被害を受ける。 併設の幼稚園運営での園児の被爆回避に奔走。 後日、自らの長男への「内部被爆の結果判定」あり。 長男が、一生、この内部被爆の影響検査が必要な身体状 況になった。 ///////////////////////////////////////////// 講演タイトル /////// 「子供を被爆者にさせてしまった・・・・」 ////////////////////////////////////// 福島県二本松市から来ました「佐々木るり」と申します。あなたはご存知ですか?福島には、今尚苦しみ続けている人間が二百万人以上 いることを!海も、山も、空も汚され、のどかだった生活の場を奪われ、絶望の果てに自ら命を絶った人間がいることを。愛する子供や奥さんを知らない地に送り出されなければならないお父さんたちがいることを。見知らぬ土地で孤独に耐えながらふるさとに帰れる日を待ちわびているお母さんがいることを積算線量計を首からぶら下げて 生活しなければならない子供達がたくさんいることをご存じですか?私は命を、子供達の未来を諦めるわけにはいきませんどうか皆さん!力を貸してください。原発を止めてください!お願いします! //////////////////////////////////// ・・・・・・・・・・・・・・・・・・<聴講後の感想> 親としての、深い罪悪感にかられる。 ご主人と共に、宗教者として地元に残り、宗教的救いを 支援する一方、地域社会の安寧のために、NPO法人を 立ち上げたりして、奮闘中。 総理大臣による終息宣言後ながら、現在でも、非常に高 い放射能が噴出しているようであり、見えない恐怖に怯え ながらの毎日。 私は、近所のプールに行く途中の「区の掲示板」で偶然見た 講演案内。 講演中、なぜか?涙が止まらず。プール用に持参したタオル が、相当に湿ってしまった・・・・・
Dec 25, 2012
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(チェコ その3 から続く) GDP:億ドル2,415億米ドル(2020年,IMF)一人当たりGDP:22,578米ドル(2020年,IMF)実質GDP成長率▲5.6%(2020年,IMF)物価上昇率3.2%(2020年,IMF)失業率2.7%(2020年,IMF)貿易収支 153億ドル(2020年、チェコ統計局)貿易額:輸出A1,925億ドル(2020年、チェコ統計局)同 :輸入B1,772億ドル(2020年、チェコ統計局)貿易品目:輸出自動車及び関連機器、電気機器、産業用機械類、化学製品同 :輸入自動車及び関連機器、電気機器、産業用機械類、鉱物資源貿易相手国:輸出ドイツ(32.7%)、スロバキア(7.6%)、ポーランド(6.2%)、フランス(4.7%)、オーストリア(4.1%)、イギリス (4.1%)、オランダ (4.1%)、イタリア(3.9%)、日本(0.5%)同 :輸入ドイツ(23.3%)、中国(18.1%)、ポーランド(7.9%)、イタリア(4.1%)、スロバキア(4.1%)、フランス(2.9%)、オランダ(2.9%)、オーストリア(2.7%)、日本(1.7%)(2020年、チェコ統計局)対日貿易収支▼420億円(2020年)対日輸出 1,594億円(2020年) 輸出品目電気機器、一般機械、輸送機械対日輸入1,174億円(2020年) 輸入品目一般機械、金属材料、電気機器進出日系企業数276社(2021年2月現在、在チェコ日本大使館・ジェトロプラハ事務所)日本の直接投資(2021年2月累計)37.82億米ドル主要事例:TV製造、自動車製造等世界遺産(文化遺産)1.プラハ歴史地区2.チェスキー・クルムロフ歴史地区3.テルチ歴史地区4.ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会5.クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂6.レドニツェとヴァルティツェの文化的景観7.クロムニェジーシュの庭園群と城8.ホラショヴィツェ歴史地区9.リトミシュル城10. オロモウツの聖三位一体柱11. ブルノのトゥーゲントハット邸12. トシェビーチのユダヤ人地区と聖プロコピウス教会
Dec 24, 2012
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(チェコ その2 から続く) チェコ共和国<資料出所:外務省、CIA,JETRO,WIKIPEDIA、 世界経済のネタ帳など>国名チェコ共和国Czech Republic幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)77位通貨チェコ・コルナ(Kc)1コルナ=約5.03円(2021年4月末値)国旗販社:さらご旧チェコ・スロヴァキア連邦共和国の国旗をそのまま使用しており、白は清潔を、青は空を、赤は自由の為に流された血を表わしている。また、白はモラビア地方を、青はスロバキア地方を、赤はボヘミア地方を表わしているとも言われる。国花菩提樹国の標語Pravda vítězí(チェコ語: 真実は勝つ)面積:平方キロ78,866平方km日本の約1/5国の位置歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきた。ヨーロッパ共産圏の消滅後、再び中欧または中東欧に分類される。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西は独と国境を接する。人口:千人1,069万人(2020年12月末、チェコ統計局)人口密度:/平方キロ136人首都プラハ人口:133.7万人(2020年12月)民族チェコ人69%、その他スロバキア人、ウクライナ人、ベトナム人等(2011年国勢調査)言語チェコ語宗教カトリック10.4%、無信仰34.5%(2011年国勢調査)政体共和制元首ミロシュ・ゼマン(Miloš ZEMAN)大統領(2018年3月就任、2期目、任期5年)議会2院制(下院200名 任期4年、上院81名、任期6年)政権首相 ペトル・フイアラ市民民主党(ODS) 2021年11月任命野党5党連合(SPOLU)を率いる退陣はアンドレイ・バビシュ(2018/7~2021/11)外交基本方針(1)「欧州への回帰」を大目標に、EU及びNATO加盟を目指し改革を進めた。(2)1995年12月には、いわゆる移行経済国として初めてOECD加盟実現。(3)1999年3月にNATOに正式加盟。(4)1998年3月からEU加盟交渉を開始、2004年5月1日に正式加盟。(5)2009年1月から6月までEU議長国を務めた。(6)チェコの外交・安全保障政策は、EU及びNATOにおける連帯を基本としつつ、ヴィシェグラード諸国(V4=チェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランド)との協力や国連等の場におけるマルチ外交も積極的に展開。(7)投資誘致等のため経済外交を重視しており、近年ではアジア諸国等欧米以外との関係も強化。軍事(1) 予算 32.8億ドル(2) 兵役 徴兵制度を2004年で廃止し、職業軍人化(3) 兵力 2.49万名(2021年)主要産業機械工業(自動車をはじめ)、化学工業、観光業経済概況(1) 1989年の民主革命後、市場経済移行のための経済改革を実現。(2) 1993年スロバキア分離・独立を経、1994年には経済成長率がプラスに転じる等順調な成長の一方、低失業率、比較的安定したインフレ率の維持で、「チェコ経済の奇跡」を実現。(3) しかし、その後法制度の未整備等から不正蓄財横行、不良債権蓄積、通貨危機等の問題に直面。(4) チェコ経済は一時深刻な不況に陥り、1997年から1999年まで3年連続マイナス成長を記録するも、直接投資拡大が景気牽引役で設備投資全体が回復、1999年以降プラス成長が続く。(5) 欧州経済低迷の中、内需拡大、輸出増加により2005年以降6%台の高い成長を続けたが、2008年に入ると物価上昇、チェココルナ高影響を受け、緩やかに景気は減速。さらに、同年9月の国際金融危機以降、主要貿易相手国の景気低迷を受け、急激に景気低迷、2009年には-4.7%まで減速。(6) 独をはじめ周辺諸国の景気回復に伴い、2010年には2.5%の成長となった後、2011年は1.9%の成長となるが、欧州債務危機等の影響で、2012年~13年はマイナス成長。2014年には2.7%まで回復、19年には2.5%であったが、20年にはコロナ禍でマイナス。近年は労働力不足が製造業の課題。他方、チェコ政府は、財政赤字削減のため、緊縮財政政策を堅持。(7) ユーロ導入時期は未定。(チェコ その4 に続く)
Dec 24, 2012
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(チェコ その1 から続く) 1918年-1938年<第一共和国>第一次世界大戦後、チェコとスロバキアが合同し、チェコスロバキア共和国成立。トマーシュ・マサリク大統領の下で、民主主義体制を堅持。しかし、国内に300万人を数える独系住民(ズデーテン・独人)に代表される少数民族問題は解決されることなく、大恐慌による経済の悪化も重なり、逆にヒトラー政権に利用される。1938年-1939年<第二共和国>ミュンヘン協定で、ズデーテン地方を独に割譲。一方、この隙に乗じポーランドは、争点でのザオルジェ地方に進駐、これを占領。翌1939年にはナチス・独が進駐、チェコスロバキアは解体、ボヘミア・モラヴィア地方が独保護領となる。1939年-1945年<独の占領期>1945年<第二次世界大戦後、独立回復>ナチス・独敗走の結果、ソ連軍が国土の大半を「解放」。ロンドン亡命政府、共産党の連立政府発足。「東西の架け橋」を標榜する、ベネシュ大統領は、独系、ハンガリー系住民の市民権剥奪、私有財産没収を命じ、領内250万人超の独系住民を追放。1946年、選挙で、共産党がなんとか第1党になり(スロヴァキアでは、第2党)共産党指導者首班の内閣が成立。1947年、マーシャル・プランへの参加を表明するも、ソ連の圧力で撤回。「一国の外相としてモスクワへ行ったが、ソ連の下僕としてプラハに戻ってきた」ように、日増しにソ連、共産党からの圧力が高まる。1948年<共産主義体制確立>非共産党系閣僚がベネシュに辞表を提出、ゴットワルト内閣の総辞職を目論むが、共産党は労働組合などを動員、ベネシュに圧力をかけた。結局、ベネシュは辞表を受理し、共産党と社会民主党左派政権が成立、チェコスロヴァキアにおいて共産化が完了(二月事件)。3月、閣内に残るヤン・マサリクの暗殺説が囁かれるなか、政府は事故死として事件を収拾。ベネシュは大統領職を辞し、9月3日に死亡。1948年~<共産党体制の時代>ベネシュに代わり、大統領に共産党指導者クレメント・ゴットワルトが就任。基幹産業の国有化、農業集団化を推進、ソ連型社会主義を建設。またソ連・ユーゴ対立の影響で、国内で「チトー主義者」に対する粛清・弾圧、スロヴァキア自立を求める者などに及んだ。1953年、スターリンの葬式から帰国したゴットワルトが死去。党第一書記には、アントニーン・ノヴォトニーが、大統領にはアントニーン・ザーポトツキーが就任。1956年のソ連共産党第20回党大会におけるスターリン批判は、隣国ポーランドとハンガリーで体制危機を招いたが、チェコスロヴァキアでは、その影響は体制を揺るがすまでには至らなかった。1960年に発布された憲法によって、国名はチェコスロヴァキア社会主義共和国となり、社会主義建設は順調に進んでいることを内外に印象付けた。1968年 <プラハの春事件>しかし、1960年代に入ると、経済成長の鈍化、スロバキアの自治要求、知識人や学生などからの批判が高まり、1968年1月、ノヴォトニーに代わって、アレクサンデル・ドゥプチェクが党第一書記に就任。「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論の自由化や計画経済への市場原理の導入、粛清犠牲者の名誉回復といった共産党体制の改革を進めた(毎年春開催の音楽祭にちなみ「プラハの春」と呼ばれる)。8月、"西側化"を危ぶむソ連がワルシャワ条約機構軍を介入、鎮圧(チェコ事件)、「プラハの春」は終わった。1969年4月、ドゥプチェクは党第一書記を解任され、代わってグスターフ・フサークの「正常化体制」が始まり、改革に賛同の党員、知識人などを公的生活から追放。1977年、哲学者ヤン・パトチカや劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルなどが憲章77を発表、政府の人権抑圧抗議運動を起こす。反体制派の合議組織「市民フォーラム」(Občanské fórum:OF)結成。1989年11月17日民主革命(「ビロード革命」)により共産主義体制が終結1989年11月17日、全国民の75%が参加したゼネストが正午から午後2時まで国内全土で行われた。ビロード革命により共産党体制が崩壊した。大統領にハヴェルが、連邦議会議長には、ドゥプチェクが就任した。1993年1月市場経済への移行政策や連邦政府と共和国との権限配分をめぐって、チェコとスロバキアの対立が深まり、1993年1月にスロバキアとの連邦を解消しチェコ共和国に。1995年11月OECD加盟。1996年クラウス中道・右派連立政権下で経済は安定化していたが、春の下院選挙で左派の社民党(CSSD)が大躍進、第二次クラウス政権は少数内閣となる。1997年11月与党市民民主党(ODS)の政治献金疑惑を契機にクラウス政権は総辞職。1998年6月繰り上げ選挙でCSSDが第一党となるが、左派、右派とも単独過半数をえられず、右派ODSの閣外協力支持のゼマンCSSD政権が成立。1999年3月NATO加盟。2002年6月下院選挙でCSSDがなんとか第一党を保ち、基督教民主連合-人民党(KDU-CSL:中道)、自由連合-民主連合(US-DEU:右派)間の政策協議・連立交渉で翌月、シュピドラ連立3党政権が成立。2003年2月民主化革命後約13年間大統領を務めたハヴェルが退任。決選投票でクラウス元首相(ODS)が大統領に選出される。2004年5月シュピドラ連立3党政権はEU加盟を成し遂げたが、欧州議会選挙での敗北を受けて同首相は辞任。グロス首相の下で第2次3党連立内閣が発足。2004年11月上院選挙(1/3改選)で敗北、政治スキャンダル等が加わりグロス首相が退陣、2005年4月パロウベク内閣が発足2006年6月下院選挙実施後の野党第一党・市民民主党(中道右派:ODS)党首トポラーネクの少数内閣が一度は下院の信任を得られず総辞職した後、翌年1月に第二次内閣として再度成立。2008年2月クラウス大統領が再選。2008年10月上院選挙(1/3改選)、地方選挙で野党第一党社会民主党(CSSD)が躍進。2009年3月下院で内閣不信任案可決を受けて内閣総辞職。フィッシェル選挙管理内閣発足。2010年5月の下院選挙では、多数党派を組めない第一党CSSDに代わり、第二党ODSが音頭を取り、新党「TOP09」、「公共の物(VV)」との連立に成功、ネチャスODS党首が7月に組閣した。2010年10月上院選挙(1/3改選)では、最大野党CSSDが票を伸ばして、上下両院に捻れが発生。12月には副首相のVVからの離党、3党の連立解消が合意、3党から新たに構成し直した、新党LIDEMの連立政権が下院で承認された。2012年10月上院選挙(1/3改選)では、最大野党CSSDが票を伸ばして、上下両院に捻れが一層強まった。左派政党を合わせると、上院の安定多数である60%の議席を確保している。2013年1月任期満了に伴う大統領選挙が、初めて直接選挙により実施され、2回にわたる投票を経てゼマン元首相が選出され、3月8日に正式に就任した。2013年6月ネチャス内閣が政治的スキャンダル等により辞任したことを受け、同年10月に下院繰り上げ総選挙が行われた。この結果、第一党となったCSSD、同選挙で初めて議席を獲得した新政党ANO(「Yes」という意味の政党名)、キリスト教民主同盟-人民党(KDU-CSL)の3党からなる連立政権が樹立され、2014年2月に下院による信任を受け、ソボトカ内閣が発足した。2017年10月実施された下院総選挙において、ANOが第一党となり、長期連立交渉の結果、7月にバビシュ内閣が発足した。また、2018年1月には大統領選挙が実施され、決選投票を経て現職のゼマン大統領が再選された(2期目の任期は3月から)。12021年10月下院総選挙では、単独政党としてはANOが議席数において僅差で第一党を維持するも、SPOLU(「共に」の意味の右派野党連合)とPirSTAN(海賊党と首長連合(STAN)の中道連合)による二大野党連合が過半数の議席を得る結果となり、野党5党の連立を纏めたフィアラ氏が11/28ゼマン大統領の任命を受けた。(チェコ その3 に続く)
Dec 24, 2012
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希望がなければ、最後の「写経・基本事情」である。プラハを中心にした"Čechy"(チェヒ、ラテン語ボヘミア)、ブルノを中心とした"Morava"(川の名称、ラテン名・モラヴィア)、さらにポーランド国境近くの "Slezsko"(シレジア)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。牧童の服装がアメリカのカウボーイの服装に伝わり、芸術家気取りの服飾がボヘミアンと言われたりする。有名なカレル(Karel)橋やプラハ・カレル大学が神聖ローマ帝国カール(Karl)4世=ボヘミア王カレル1世から来ているとは思わなかった。そういえば、ドイツ語の巻き舌は凄い音がする。仏語でもシャルル(Charles)だからヨーロッパでは語形が変化しっぱなしだ。気候変動を契機とした、ゲルマン民族大移動などで極度に混乱した「暗黒時代」が続いたのだから、この程度の文字の変化は仕方がないかも知れない。文字の変化がこの程度で収まったり、ローマ時代の文化が後世に伝わったのは、教会・「修道院」の役割が大きかったのだろう。新世界に飛び出していった人々の意欲に夢があるのも理解できる。良い物には、必ず悪い物がついて回ることも判る。マイナスよりプラスの面があることに希望を持ちたい。/////////////////////////////// チェコ共和国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史7~10世紀チェコは、ケルト系先住民ボイイ人の名からボヘミア(独:ベーメン:Böhmen)と呼ぶ広大な西部盆地と、モラヴィア丘陵からなる。西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着、7世紀、フランク商人サモがモラヴィアに国家を建設(サモ国)。サモの死後滅亡したが、その基礎は次のモラヴィア王国に受け継がれ、これがマジャル人の進出で衰退する。10世紀<プシェミスル朝900-1003年>10世紀、チェヒ国をプシェミスル家が建国。ボヘミアにはヴァーツラフ1世が王に即位しボヘミア王国が成立した。10世紀の終わりにはカトリックを受容。1003年-1004年)<ピャスト朝>(1003年-1004年)1003年、ポーランド公家であるピャスト家のボレスワフ1世(後のポーランド王国初代国王ボレスワフ1世勇敢王)がチェコ全土を武力で制圧し、ポーランド公ボレスワフ1世兼ボヘミア公ボレスラフ4世となった。1004年-1306年<プシェミスル朝>11世紀、独人の移住で、独文化が浸透。13世紀、ボヘミア王国は豊富な鉱物資源、商業勃興で繁栄し、ハンガリー、バーベンベルク家断絶後のオーストリアにも勢力を延伸。1212年オタカル1世のボヘミア王国は神聖ローマ帝国により選帝侯と認められた。オタカル2世は神聖ローマ皇帝選挙で敗北、領地の大半を没収され、ついにはハプスブルク家・神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗死、プシェミスル王朝は途絶。1310年-1437年<ルクセンブルク朝>プシェミスル朝断絶後、ドイツ系ルクセンブルク家がボヘミア王を世襲。国王カレル1世が神聖ローマ皇帝カール4世に即位、1348年にプラハ・カレル大学を創立、プラハはヨーロッパ文化の中心となる。15世紀、教会大分裂が起き、プラハ・カレル大学の総長のヤン・フスが英国のウィクリフの影響をうけ教会世俗権力を否定。ローマ教皇の逆鱗にふれ、フスとプラハ市は破門され、1414年のコンスタンツ公会議でフスは異端として火刑となる。1419年にはフス戦争が勃発。ボヘミアにおけるフス派は穏健派(ウトラキスト)と急進派(ターボル派)に分かれて対外戦争と内部抗争を続け、17年後1436年にフス戦争は終結。翌年ジギスムントは死去。ルクセンブルク王朝断絶し、神聖ローマ皇帝にハプスブルク家のアルブレヒト2世が即位。1437年-1918年<ハプスブルク家の統治>しかし、ポーランド王国(ヤゲロー朝)、ハンガリー王国と実質的な支配者は転々。オスマン帝国がモハーチの戦いでハンガリーを滅ぼすと、ボヘミア議会はフェルディナント1世をボヘミア王に選出。ボヘミアは領主階級から地主階級へと変質した貴族による議会がボヘミア王を選挙。ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝、ボヘミア王を兼任し、プラハは神聖ローマ皇帝の王宮、政治や文化の中心として発展。とりわけルドルフ2世(在位:1576年 - 1612年、ボヘミア王は1575年 - 1612年)は、プラハ城を主たる居城とし、文化や芸術を保護し、文化的に大いに繁栄。 <三十年戦争>当時ボヘミアではフス派、ルター派のプロテスタント勢力に対し、歴代皇帝はカトリックを推進、両者の争いは激化。しかし、ボヘミアは選帝侯領で、皇帝即位の票固めから、歴代皇帝はある程度の妥協をした。、1618年、敬虔なカトリック信徒・フェルディナント2世は、ボヘミア王に即位すると、プロテスタントを弾圧。民衆が1618年にプラハ窓外投擲事件を起こし、プロテスタント諸侯たちも反発。翌年、フェルディナント2世がボヘミア王兼任のまま神聖ローマ皇帝に即位すると、ボヘミア議会はフェルディナント2世を廃し、新教徒のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に選出。皇帝は鎮圧軍を派遣し、三十年戦争(1618年~1648年)が始まる。諸侯は、1620年、白山の戦いで大敗、フリードリヒ5世はわずかで王位を追放(冬王)。戦後、プロテスタント勢力は一掃。1627年の新領法条例によって、議会は権力を奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領となる。多くのボヘミア貴族や新教徒が亡命し、ヨーロッパ各地に分散。1638年、スウェーデン軍のボヘミア侵攻でボヘミアに4万近くあった村落が約6000に減るほど荒廃し、人口が激減。1648年にはスウェーデン軍にプラハが包囲され、王宮歴代の国王(特にルドルフ2世)が収集した美術品の多くがクリスティーナ女王の下へ持ち去られた(バチカン美術館が収蔵)。1648年に戦争は終結。この条約で新教徒(特にカルヴァン派)の権利が認められる。他方、ハプスブルク家のボヘミア王位が確立。ボヘミア王を兼ねる皇帝の王宮はウィーンとなり、プラハは人口が激減。また、チェコ語の使用禁止など、宗教的・文化的弾圧を受け、チェコは独自の文化を失い、ドイツ化が急速に進展、19世紀初頭まで続く長い「暗黒の時代」を迎える。 (チェコ その2 に続く)
Dec 24, 2012
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マヤ暦の計算の終点ないし、新しい計算の始まりの日が過ぎた。 大昔だが、メキシコの太陽・月のピラミッドを上り下りして、 地球の田舎物丸出しで楽しんだ時期があった。 空気が薄いのか自分では陽気になれたようだ。 この国では、日本料理店の吟醸酒が特別に美味しく感じた。 時計の歯車のような、いくつかの歯車の噛み合わせで、 時を紡ぐシステムを構築した先住民は優秀であった。 その暦が終わりだというので、メキシコに集まる観光客が 多いらしい。 あくまで観光客であればいいのだが、本当に地球が終わりで あると空想する人もいるのだから厄介だ。 TVでこの有様を放映していたが、現地人の老婆はインタビュー を受けて、「なんで、人間の創った暦なんぞに拘るのかねエ。」と 呟いていた。 そうだ、だれも 「終末だ!」 と計算した者はいない。 「構築した暦」では、誤差が許される計算はそこで終わるが、 閏年のように誤差を修正しなければならない折り返し点である 可能性がある。 つまり、巨大な新しい歯車が繋がって回り出すのではないのか。 神の啓示ではなくて、人間が自分で自分を縛るだけの「理論 計算」に過ぎないとしたら、「穀物の収穫を高めるために、 季節を的確に捉えるための道具」としての「暦」を実用化以外 の目的に、つまり、想定外に使用したに過ぎない。 古代人は、そこまで後生の人間が単純に考えるとは思わな かっただろう。 小生も呆けが強まってきたので、現実と、空想が混ざっている。 乗り物に乗っていると、周りの景色が綺麗に見える。 乗り物を地上から見るとあっという間に消え去る。 乗り物の地球が安全運転であるからこそ、安心していられる。 乗り物の中で、喧嘩したり、花火を上げたり騒いではいけない。 危険行為の方は、降りて貰うしかないが、停車場がない乗り物 である。 乗った以上は、国連という車掌さんの言うことを聞いて、ルール を守っていれば安全なのだ。 乗員も乗客も乗り物のありがたさを理解して乗車すべきである ことは言うまでもない。
Dec 23, 2012
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(米領ヴァージン諸島 その1 から続く) 基本事情<CIA,WIKIPEDIA>国名米領ヴァージン諸島United States Virgin Islands(USVI) 通貨USドル自治領の標語"United in Pride and Hope"面積:平方キロ355平方km国の位置西インド諸島の米合衆国の保護領(自治領)。ヴァージン諸島の西側半分。東側は、英領ヴァージン諸島。「島」は40程度あるが、ほとんど無人島。有人で、一般観光客の訪問する主要な島は、3島のみ。セント・トーマス島(面積:82平方km、人口 48千人) セント・クロイ島(面積:214平方km、人口:107千人)セント・ジョン島(面積:50平方km、人口 3.5千人) 人口124,778人(2003年)105,275人(2012年7月、CIA)人口密度:/平方キロ 297人首都セント・トーマス島のシャーロット・アマリー人口:54千人(2009年、CIA)ワシントンDCからの大圏距離 :2,570kmマイアミからの大圏距離 :1,780kmパナマからの大圏距離 :1,888km東京からの大圏距離 13,486km時差:JST-13時間サマータイムなし民族黒人76.2%、白人13.1%、アジア人1.1%、その他6.1%,混血3.5%(2000 census;CIA)アフリカから奴隷として連れて来られた黒人がほとんどで白人や混血も少数いる。言語公用語は英語(74.7%)だが、パトワも話す。プエルトリコやデンマークノ訛りが強い。宗教プロテスタント59%(バプチスト42%、英国国教会派17%)、ローマカトリック34%、その他7%(CIA)宗教はキリスト教でアングリカン、バプテスト、ルーテル、などのプロテスタント系の宗派が多くあり、カトリックもある。政体アメリカ合衆国内務省の所管の下で、知事・議会・裁判所が政治を分担する<自治領、準州>元首アメリカ合衆国大統領:バラク・H・オバマ議会議会は、一院制で、15議席。議員は公選で、任期2年。<合衆国の下院に、投票権のない代表を 1 名参加させる権利が認められている。この代表は公選で任期2年。(住民には、アメリカ合衆国の市民権が与えられ、本土への渡航や本土での就職は自由である公民は米合衆国の大統領または副大統領に投票できない。)>政権知事は、1970年以降は公選で、任期4年(1970年以前はアメリカ合衆国大統領が任命していた)。知事ジョン・デ・ヨンフ(1期目。任期満了は2014年11月)。主要産業観光、石油精製など経済概況農作物では砂糖や野菜の栽培が行なわれていて、畜産や漁業も行われている。ラム酒は特産品の一つで、観光産業も重産業の一つで、多くの観光客が訪れる。セント・クロイ島に世界最大の石油精製所がある。同:CIA観光(2008年2.4百万人)が第一の経済活動で、GDP、雇用の8割を占める。製造業は、石油精製(世界最大精製設備の一つがセント・クロイ島にあり)、ラム酒醸造、繊維、電子、薬品、時計組立。農業は小規模で、ほとんどが輸入依存。国際金融などは小規模で、これからと言ったところ。島は暴風雨から可成りの被害を受けており、政府は、民間部門での建設計画サポート、観光施設の拡張、犯罪撲滅、環境改善に重点を置いて財政計画を構築中。GDP:億ドル 15.8億ドル(PPP,2004年、CIA)GDP構成比サービス80%、工業19%、農業1%(2003年、CIA)一人当たりGDP:14,500ドル(PPP,2004年、CIA)実質GDP成長率 2%(2002年、CIA)労働力 49,820人(2007年、CIA)労働力構成サービス80%、工業19%、農業1%(2003年、CIA)物価上昇率 2.2%(CPI、2003年、CIA)失業率 6.2%(2004年、CIA)失業率はセント・トーマス島とセント・ジョン島が約9% なのに対して、セント・クロイ島では 13 % と失業率が高く、セント・トーマス島とセント・ジョン島よりも経済格差が広がっている現状から不満があり、分離の動きがある。(WIKIPEDIA)貧困ライン人口 28.9%(2002年、CIA)予算収入:837百万ドル(FY08/09)支出:837貿易収支A-B▼ 3.8億ドル(2001年、CIA)貿易額:輸出A 42.3億ドル(2001年、CIA)同 :輸入B 46.1億ドル(2001年、CIA)貿易品目:輸出石油精製品同 :輸入原油、食物、消費財、建設材料
Dec 22, 2012
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グアムとおなじ地位の米国準州。観光業、巨大な石油精製基地が特徴。かつては、カリブ海の海賊の本拠地だが、いまはクルーズ船の観光港(2004年には150万隻が寄港)。市の名称は、当初港を開発したデンマークの王妃の名を冠しており、歴史的建造物が残る。第一次世界大戦でパナマ運河の防衛のために米国がこの諸島を購入した。///////////////////////////// 今回で、呆け予防の「基本事情の写経」は/// 「世界一周したよう」なので一旦終了します。/// もし、抜けていたり(*)、不備があれば、/// 気がついた場合補正しますが、原則的に、/// 「更新作業」は呆け頭では難しいか、と思う。/// 資料の出所先様には心より感謝いたします。//////////////////////////* いま、「チェコ」が漏れていたのに気づいた。 明日にでも、追加を考えよう。 漏れ続けは、止めたいものである。 今日は、数少ない持ち唄の「氷雨」である。 ////////////////////////////// 米領ヴァージン諸島 <資料出所:CIA,WIKIPEDIA>略史年月略史先コロンブス期カヌー制作、船舶操縦技術に長じたアラワク族は、アマゾン、オリノコ川流域から移住、綿、タバコ、トウモロコシ、キャッサバ、グアバを栽培。数百年後、カリブ族は、アラワク族の多数の集落を破壊、1400年代半ばには、アラワク族人口は数千までに減小。1493年11月コロンブスはセント・クロイ島に到達、サンタ・クルースと命名、隣島をサンファン(セント・ジョン島)、サントマス(セント・トーマス島)と命名。1625年英、仏、蘭、スペイン、デンマークが入植、闘争、病気、奴隷制度でアラワク族は滅亡、カリブ族が僅かに生き残る。入植者はセント・クロイで農業を開始したが、収穫は少なく、1650年には英人のみ残る。1666年セント・トーマス島、セント・ジョン島の領有権をデンマークが握る。1673年インディアン奴隷がいなくなり、アフリカ人奴隷を初めて連行、デンマーク統治下の各島でこの奴隷用役でサトウキビ、タバコ農園を、後にコーヒー、砂糖を経営。1733年不満を募らせていた奴隷達は、ハリケーン、干魃の後、セント・ジョン島で反乱を起こし、仏の助けで統治を取り戻した。デンマークは仏よりセント・クロイ島を買収し領有権を得る。デンマーク領西インド諸島 (Danish West Indies)として国王任命の総督が統治。デンマークは三角貿易を推進し、デンマーク海上帝国の黄金期を迎えたが、ナポレオン戦争で英国に貿易圏を侵害されたため、以後、海上貿易は不振となった。1848年再び奴隷の反乱。総督ペーター・ヴァン・諸流転は奴隷に同情し、同年7月3日、奴隷解放を宣言。1917年第一次世界大戦勃発、米合衆国は、パナマ運河を独軍から防衛のため、この地を、1917年に、デンマークから 2,500 万ドルで購入。米合衆国の未編入領域 (unincorporated area)となる。1932年連邦議会を通過した自治法で、島はついに米合衆国の公民権と自治政府、投票権を与えた。しかし未編入領域であるため、現在も米領ヴァージン諸島の公民は米合衆国の大統領または副大統領に投票できない。(米領ヴァージン諸島 その2 に続く)
Dec 22, 2012
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(米領サモア その1 から続く) <資料出所:CIA,PIC,WIKIPEDIA,、>国名米領サモアTerritory of American Samoaアメリカン・サモア、または、東サモアとも呼ばれる。通貨US$地域の標語Samoa, Muamua Le Atua="Samoa, God Comes First".面積:平方キロ200,22平方km国の位置南太平洋のポリネシア地方にある米合衆国準州・自治領であり、サモア独立国の南東に存在する。サモア島嶼の一部であり、トンガ王国の北、クック諸島の西、トケラウの南500kmに位置する。西に向かうと、仏領のウォリス・フツナがある。人口54,947人(2012年7月)人口密度:/平方キロ274人首都パゴパゴ(最大の島であるトゥトゥイラ島)人口:11.5千人(2000年)東京からの大圏距離:7,622kmサモア独立国首都アピアからの大圏距離:123.7km時差:JST-20時間サマータイム無し民族ポリネシア系サモア人89%、同トンガ人4%、白人2%,その他5%言語サモア語90.6%(公用語。ハワイ語、その他のポリネシア語に近い)、英語2.9%,トンガ語2.4%(2000 census)宗教会衆派教会(プロテスタントの一派)50%,カトリック20%,プロテスタント他30%政体自治政府、米国準州元首米大統領バラク・H・オバマ 議会立法権は自治領議会が担う二院制。下院(住民代表議院)は、全21議席で、20議席は民選議員、1議席は非民選のスウェインズ島代表。任期は2年。上院は、全18議席で、サモアの伝統的指導者層である各地域の首長(マタイmatai)から郡会(county council)により選ばれる。任期は4年。政権自治領の行政執行権は知事:(前知事:トギオラ・トゥラフォノ)→モリガ<アメリカンサモア開発銀行(DBAS)前総裁> 2012.Nov.20決選投票結果:Lolo Matalasi MOLIGA 52.9%, Faoa Aitofele SUNIA 47.1% 市民権メモ米領サモアは米国議会により自治法 (Organic Act) が制定されていない "unorganized territory"(非自治的領域)であるため、住民は、米国の国籍を持つ(米国民、"U.S. National" である)が、プエルトリコ、北マリアナ諸島、グアム、米領バージン諸島といった他の米属領住民とは異なり正式には市民権を持たない。しかし現在は他領域の市民権保持者とほぼ同等の権利は与えられている。死刑制度は廃止主要産業(外国漁船により供給される)マグロ缶詰、手工業品農業はバナナ、ココナッツ、野菜、タロイモ、パンの実、サツマイモ、コプラ、パイナップル、パパイヤ、酪農品、家畜経済概況米領サモアは土地の9割が共同体で保有されるポリネシアの伝統経済にあり、米国と緊密した商業活動がほとんど。マグロ漁業、マグロ加工設備が主要な輸出・マグロ缶詰の屋台骨であり、2つの缶詰工場が雇用の8割を占める。米国で消費されるマグロ缶詰の1/5はパゴパゴにある米資本の缶詰工場で生産される。2009年9月の地震、その直後の津波がこの地を襲い、輸送、電力発電を麻痺させ、死者200人をもたらした。連邦政府は約25百万ドルの救援計画で、経済福祉に所得移転を加味しているが、遠隔地であること、輸送上の制約、度重なるハリケーン襲来などで限界がある。観光業が有望な開発部門の一つである。 <情報1.米国資本の缶詰工場の分布1979年→2005年>米国本土 14→1 (バンブルビー)ハワイ 1→0プエルトリコ 5→1 (バンブルビー)サモア 2→2 (スターキスト、チキン・オブ・ザ・シー)缶詰メーカー スターキスト、バンブルビー、チキン・オブ・ザ・シー<情報2. PICニュース:サモア独立国の情報> 米領サモアのCOS(=Chicken of the Sea)サモア・パッキング社が9月に工場閉鎖することとなれば、同工場で働く500人のサモア人は荷物をまとめて帰国しなければならなくなる。かかる失業の発生は、これら労働者が本国に送金したこと、島嶼国間の移動が旅行会社を支えてきた等の事情から、サモア経済に重大な影響を与えることになるが、米領サモア人労働者だけは米政府が実施する職業訓練及び再就職プログラムの恩恵を受けられる。同地のファレオマバエガ米下院議員は、失業対策等で米政府に申し入れを行っているが、500人のサモア人労働者については、遺憾であるがサモアに帰国しなければならないと述べている。(Samoa Observer/Pacific Islands Report/03.06.2009) ・・チキン・オブ・ザ・シー社の工場は2,041人を雇用しており、それは米領サモアの全雇用の12%を占め、缶詰工場労働者のほぼ半数を占めているが、閉鎖により失業する。同社はジョージア州リョンの新工場を20百万ドルかけて建設し、資本集約的生産ラインの導入で200人(=1/10)を雇用する予定。 他方で、スターキスト社には労働者2,700人がいるが、現状維持の方針である。サモアの缶詰工場の雇用の半分が失われることとなりそうだ、と言う話。 情報2は2千人の工員のうち、サモア独立国からの出稼ぎ者500人についての記事と察する。<情報3.Tri Marine International(シンガポールの会社) が米領サモアのパゴパゴでマグロ加工工場設置資金30百万ドルを米農務省に申請中>米領サモアのマグロ缶詰新工場で少なくとも500人の雇用創出が期待されている。決定待ちながら、旧設備を自前資金で再生中であり、来年中頃までに完成させ、数百人規模での操業となり、粗く見積もっても、初年度では500~750人、市場の発展具合では1000人ぐらいと見ている。以上は副社長の話。2012.6.14 Radio NZ GDP:億ドル 462.2百万ドル(2005年、CIA)労働力構成比農業34%,工業33%,サービス33%(1990年)一人当たりGDP: 8,000ドル(PPP,2007年、CIA)実質GDP成長率 3%(2003年、CIA)失業率29.8%(2005年、CIA)予算収入:155.4百万ドル(FY07,CIA)支出:183.6(税+他の収入)/GDP比 33.6%予算収支/GDP比▼6.1%貿易額:輸出A 445.6百万ドル(FY04,CIA)同 :輸入B 308.8百万ドル(FY04,CIA)貿易品目:輸出マグロ缶詰93%同 :輸入缶詰工場用原材料56%、食品、石油製品、機械部品
Dec 21, 2012
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地元サモア人のみが政府に雇用されており、缶詰工場などの雇用者はほとんど移民労働者である。2004年に韓国系繊維工場で、ベトナム、中国人労働者への雇用者の虐待的行為(極度の低賃金、悪労働条件などを含む)が告発される少数移民の問題がある。(この地では、法的にはグアムとは異なり、米国の最低賃金法は適用されず、出生の際に米国籍よりも親の国籍が適用される。)2つの米国資本のマグロ缶詰工場は雇用の12%を占め、この西太平洋のマグロ漁業の最終加工地として、有望産業であり、隣国からの出稼ぎ労働者を多く抱えていたが、「最低賃金」上昇などから採算が悪化していた。 巨大な2工場の内、1工場(Chicken of the Sea)が2009年に撤退し、もう1工場(StarKist)も競合先・タイ国に比較すると賃金が10倍も高いため競争力がなく、レイオフ(不況時の一時解雇)を敷いた。明るいニュースとしては、最近シンガポールの会社が新缶詰工場を建設しようとしていることだろうか。//////////////////////// この辺りの正確な情報は、日本政府からは把握できないので、小生の「写経」の範囲を超えている。 自主トレもそろそろ終わりが近づいてきた。///////////////////////// 米領サモア 略史<資料出所:CIA,WIKIPEDIAなど>年月略史紀元前千年頃~18世紀サモア諸島にすでに人が住んでいた。東サモアのマヌア諸島の王は一時、フィジー・トンガ・クック諸島・トケラウ諸島といった太平洋各地の群島を支配、トンガがサモアを支配した時代でも、マヌアはサモア諸島の中で独立を維持した唯一の地域。サモア諸島全体は現在でも、「ファーアマタイ(faamatai)」という伝統的な統治システムや血縁関係が残る。西洋人との最初期の出会いには、仏探検家とトゥトゥイラ島の住民の間で発生した18世紀の戦闘で、サモア人はサモアを侵略すべく渡来した西洋人から「残忍な民族である」という悪い評価をもたれた。1722年オランダ人探険家Roggeveenが視認1768年仏人航海者Bougainvilleが上陸19世紀初め「ラロトンガン伝道団」が送られ、1830年代には会衆派教会ロンドン伝道協会のジョン・ウィリアムズにより率いられた宣教師団が公式にサモアにキリスト教を移入した。それから100年弱で、サモア人の会衆派教会は、南太平洋の最初の独立した先住民教会となった。1860年代~アピアが捕鯨船補給港として繁栄、独、英、米、が勢力を競う。1889年の3月、独海軍の軍艦がサモアを襲撃し、米国人の居留地や資産を破壊した。米国の3隻の軍艦がサモアに入港し、3隻の独艦に対する戦闘の準備をした。しかし戦闘が始まる前に、米船も独帝国の船も台風で沈んだため、戦力を失った両軍は実効力のある休戦条約を結んだ。1892年日付変更線の西側から米国と同じ東側に移行、UTC-11となる。1899年<大国による植民地分割>独が西サモア(現在のサモア独立国)、米が東サモア(現在の米領サモア)を領有。米国が東サモアを保有後、パゴパゴ港に米海軍太平洋艦隊の石炭補給基地を建設、地方長官を任命。海軍は、1900年にトゥトゥイラ島の譲渡証書を、1904年に、マヌア諸島の譲渡証書を引き受けた。マヌア諸島最後の統治者トゥイ・マヌア・エリサラは、パゴパゴ港の小型砲艦上の "イプ裁判"審理に従いマヌア譲渡証書にサインした。第一次世界大戦後西サモアのマウ運動に呼応して、東サモアでもアメリカンサモア・マウ運動が起こったが米海軍に制圧された。第二次世界大戦中日本対戦の米海軍サモア基地の米人兵員数は、地元のサモア人人口より多く、大きな文化的影響を導入。14歳以上サモア人男性は米軍により訓練され、大戦中に兵士・衛生兵・暗号要員・船舶修理工などの任務に就いた。大戦後アメリカ海軍指名の政務官の廃止に伴い、地方選挙による政務官がとってかわった。自治法をアメリカ連邦議会で通過させていないため法律的にはアメリカ領サモアは合衆国未編入の状態であり「非自治的領域」(unorganized territory)であるが、1967年7月1日に発効した憲法による自治政府が成立している。現在、アメリカ領サモアは国際連合非自治地域リストに記載されている。2009年9月29日ツツイラ島南西159km地点でマグニチュード8.3の強い地震が発生、パゴパゴで1m57cm、サモアの首都アピアで70cmの津波を観測。米合衆国大統領バラク・オバマは直ちに救援活動を行うよう指示。(米領サモア その2 に続く)
Dec 21, 2012
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(ニウエ その1 から続く) <資料出所:外務省、CIA,PIC,WIKIPEDIA>国名ニウエNiue通貨NZドルNew Zealand dollars (NZD) per US dollar 推移-1.2658 (2011) 1.3874 (2010) 1.6002 (2009) 1.4151 (2008) 1.3811 (2007) 国旗左上にユニオン・フラッグ、その中央と上下左右に5つの星が付く。英軍艦旗に基づいたデザインとして珍しい点は、背景が黄色、カントンのユニオン・フラッグに手が加えられていること。背景の黄色はニウエの陽光、NZおよび同国の人々に対する温かい気持ちを表す。ユニオン・フラッグはかつて英保護国の歴史を示し、保護の象徴。ユニオン・フラッグ上の4つの小星は南十字星。NZとの協調を、またユニオン・フラッグ中央にある青い円の上の大星は太平洋におけるニウエの自治を意味する。面積:平方キロ259平方km徳之島とほぼ同じ国の位置NZの北東2,400km、トンガの東480km、サモアの南東560km人口1,591人(2006年)1,269人(2012年7月)人口密度:/平方キロ5人首都アロフィ人口:578人(2006年)東京からの大圏距離:8,077km時差:JST-20時間サマータイム無し民族ニウエ人(ポリネシア系)78.2%、太平洋諸島人10.2%、西洋人4.5%、混血3.9%、アジア人0.2%言語ニウエ語(ポリネシア語系)、英語宗教キリスト教75%、モルモン教10%政体立憲君主制<事実上の独立国だが、NZ王国に属し、NZと自由連合関係にあり、住民はNZ国籍を持つため、英連邦王国とは見なされない。> 元首元首 エリザベスニ世女王(英国女王)総督 ニュージーランド総督が兼任議会一院制、議員数20名、任期3年政権首相 トケ・トゥフキア・タランギ(外相他兼任。他に閣僚3名)外交基本方針NZとの自由連合関係維持。太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国・地域との域内協力推進。国交が現在あるのは、中華人民共和国、インドのみ。NZとの関係(1) 財政援助、経済協力、貿易、移住等依存度が高い。(2) 自由連合関係。防衛と外交についてはNZが責任を負う。加盟状況(1) 域内機関 PIF、SPC、SPREP、ESCAP(2) 国際機関 WHO、UNESCO、FAO、ESCAP(準メンバー)軍事NZが責任を負う主要産業農業、観光業経済概況地理的孤立、NZへの移住増による人口減少等により経済基盤は極めて脆弱。NZ政府の財政援助、NZ在住ニウエ人からの送金により貿易赤字を補填。近年はNZの支援により観光産業育成に努めてきたが、2001年4月にニウエへの唯一の定期航空便(トンガ航空)がニウエ便を廃止し、ニウエ経済は大きな打撃を受けた。GDP:億ドル10.01百万ドル(2003年、CIA)GDP構成比サービス49.5%,工業26.9%,農業23.5%(2003年、CIA)一人当たりGNI10,048NZドル(2003年、UNdata)実質GDP成長率3.4%(2006年、ニウエ政府統計)物価上昇率 9.0%(2008年、ニウエ政府統計)失業率12%(2001年、CIA)予算収入:15.1百万ドル(FY04/05、CIA)支出:16.3予算収支/GDP比▼12.6%(FY04/05、CIA)対外負債418千ドル(2002年、CIA)貿易収支A-B▼ 8,837千ドル(2004年、CIA)▼10,959千NZドル(2008年、ニウエ政府統計)貿易額:輸出A201千ドル(2004年、CIA)27千NZドル(2008年、ニウエ政府統計)同 :輸入B9,038千ドル(2004年、CIA)10,986千NZドル(2008年、ニウエ政府統計)貿易品目:輸出ココナッツ、ヤムイモ、タロイモ、民芸品同 :輸入食糧、燃料、機械、自動車貿易相手国NZ、豪州、日本、フィジー、サモア、クック諸島対日貿易収支▼13千ドル(2010年、PIC)対日輸出 35千ドル(2010年、PIC) 化学品、機械機器 対日輸入 48千ドル(2010年、PIC) 輸送機器主要援助国 (1)NZ(14.19)、(2)豪州(0.83)、(3)加(0.16)(単位:百万米ドル、2007-2008年平均、DAC)日本の援助実績2008年度まで有償:なし無償:なし技術:135百万円日本は国家未承認日本はニウエを国家として承認しておらず外交関係を有していない(在NZ大使館が管轄している)。
Dec 20, 2012
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ニウエは世界最大の珊瑚礁の島で、島の周りをほぼ縁取って、海面上60mの石灰岩の断崖がそそりたち、雨水で浸食された石灰岩は、マダガスカルの「ツィンギ」にそっくりである。農業が主業だが、農地不足、水不足、サイクロン常襲地帯で発展は望めず、NZの国籍を持つ便宜さから島を脱出してNZへ移民して、稼ぎを送金するパターンが主流となる。観光業は、定期便の撤退が相次ぐほどに観光資源に恵まれず、サイクロンで国営ホテルが壊滅し、現在はNZ航空が数少ない定期便を運行しているのみ。その他には、切手販売(英国王子の成婚記念切手)、NUドメイン販売で外貨獲得している。ニウエと国交があるのは、中国、印度のみ、日本もNZ王国の一領域として見ている。他方で、おなじ条件ながら、クック諸島(国連加盟の31ヶ国との外交あり)を日本も国として2011年3月承認。 ニウエ 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIA>年月略史ヨーロッパ人来島前紀元前10世紀頃、サモア、トンガにラピタ人が到達するのと相前後の植民か、あるいは1世紀から5世紀頃マルケサス諸島、ソシエテ諸島にポリネシア人が拡散する過程の植民かのどちらか。言語学上研究で、13世紀~16世紀はトンガ海上帝国 Tongan Maritime Empireの勢力圏下と思われる。1774年英国人探険家クックによる確認1846年サモア人のキリスト教宣教師団の進出1900年ニウエ王の要請で英国保護領となる1901年クック諸島の一部としてNZ属領1974年内政自治権獲得、NZとの自由連合に移行。ロバート・レックス首相(~1992年12月死去)1993年3月総選挙でフランク・ルイが首相に就任。ユネスコに加盟1994年反首相派がニウエ初の政党「ニウエ人民党」を結成。1996年2月総選挙。ルイ首相再選。1999年3月総選挙。ラカタニ首相選出。2002年4月総選挙。ビビアン首相選出。2007年12月中華人民共和国と初の国交を樹立2008年6月総選挙。タランギ首相選出。2012年インドと国交を樹立<現在の国交は2国のみ>(ニウエ その2 に続く)
Dec 20, 2012
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(クック諸島 その1 から続く) 政体立憲君主制<事実上の独立国だが、NZ王国に属し、NZと自由連合関係にあり、住民はNZ国籍を持つため、英連邦王国とは見なされない。>元首元首 エリザベス二世女王(英国女王)女王名代 フレデリック・グッドウィン議会一院制、議員数24名、任期4年(2004年9月の住民投票で短縮された)政権首相 ヘンリー・プナ(司法長官、法務大臣、警察大臣等兼務)外務・移民大臣 トム・マスターズ(副首相、運輸大臣等兼務)、閣僚数は6名外交基本方針太平洋島嶼国(PIF加盟国・地域)との域内協力推進。多くの国際機関への参加を希望。加盟状況:域内機関:PIF、SPC、FFA、SPREP、国際機関:ADB、WHO、FAO、ESCAP(準メンバー)、UNESCO、ICAO、WMO NZと自由連合制をとり、国民はNZ国籍(市民権、パスポート)を有す。軍事および外交の最終的な責任はNZが有する。主権国家と同等の内政を行い、NZ政府の事前承認を経ずに独自の外交を行う。国家と認めぬ国が多いが、2001年以降諸外国との外交関係樹立を積極化。現在は、国連加盟の31か国およびバチカン、欧州連合と外交関係を締結。日本は2011年3月25日国家承認。軍事防衛等についてNZが責任を負う。主要産業主な産業は観光業で、その他に農業(ノニジュース、パパイヤ)、漁業(マグロ、真珠養殖)経済概況1990年代半ばの経済改革で観光業の不調により、マイナス成長に陥った経済であるが、1999年以降の観光業の回復、真珠養殖や漁業等の比較的新しい産業の育成により経済は急速に回復してきている。また、貿易収支の大幅な赤字の一方で、観光や送金を通じた収入により経常収支はプラス基調となっている。GDPGNI 183.2百万ドル(2005年、CIA)193百万米ドル(2009年、UNdata)<UNdata引用で単位が違っているらしいので訂正した>GDP構成比サービス82.1%,工業12.7%,農業5.1%(2010年、CIA) 一人当たりGNI9,749米ドル(2009年、UNdata)実質GDP成長率 0.1%(2005年、CIA)▼ 0.3%(2008/2009年度実績、クック諸島政府) 物価上昇率 10.3%(2008/2009年度実績、クック諸島政府)失業率 13.1%(2005年、CIA)予算 収入:71百万ドル(FY05/06、CIA) 支出:69(税+他の収入)/GDP比 38.7%(FY05/06、CIA) 予算収支/GDP比 1%(FY05/06、CIA) 対外負債 141百万ドル(1996年、CIA)経常収支(国際収支) 26.67百万ドル(2005年、CIA)貿易収支A-B▼285.8百万NZドル(2009年、クック統計局)貿易額:輸出A 4.4百万NZドル(2009年、クック統計局)同 :輸入B 290.2百万NZドル(2009年、クック統計局)貿易品目:輸出魚類、真珠(2009年、クック統計局)同 :輸入燃料、機械・輸送設備、製造品、食料品(2009年、クック統計局)貿易相手国:輸出 日本、NZ、豪州(2009年、クック統計局)同 :輸入 NZ、フィジー、豪州(2009年、クック統計局)対日貿易収支 1,651万ドル(2010年,PIC)対日輸出 1,704万ドル(2010年,PIC) 輸出品目魚介類95.9%,加工食品類4.0%,非金属鉱物製品0.8%(2010年,PIC)対日輸入 53万ドル(2010年,PIC) 輸入品目輸送機械36.6%,一般機械24.3%,加工食品類20.5%(2010年,PIC)主要援助国百万ドル、2007-8年平均(1)NZ(4.7)、(2)豪州(1.7)、(3)加(0.3)日本の援助実績2008年度まで累計有償:なし無償:0.5億円技術:7.8億円日本の直接投資(平成元年~16年度累計)99億円
Dec 19, 2012
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貿易相手国としては輸出入とも大半がNZ。80年代はNZの援助額がGDPの3割を占めていたが漸次低下。日本とは黒真珠の養殖が盛ん。ハローキティの金貨・銀貨の発行委託先。この国の遥かな、離島にプカプカ島という日本人には面白い名の島がある。プカプカ島は当国主島から1.1千km西北の離島で、Danger島の異名もある。3つの島がラグーンを形成し、人口は1964年800人。プカプカとは「白い葉の低木」という意味で、「浮島」ではない。プカプカ島人の共同所有の島が東南約70kmにあり、ココヤシ林に覆われているナッソウと呼ばれる島。「何者も永久に留まることを許されない島」。(NZと自由連合関係にあり、国民の国籍がNZであるなど、独立国の要件で難しい国情にあるため、日本等は同様条件ながら、国際連合加盟国の多くと国交のある当国を国家と認め、2国としか国交のない隣国ニウエを国家と認めていない。)///////////////////基本事情の写経はあと少し。写経で一番にお世話になっている情報だが、気がついた。外務省基本事情のGNIの「ドル単位」が違っている。1人当たりGNIで矛盾するから判る。改竄かも知れないが、理由はこの呆け頭には不明。/////////////////// クック諸島 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIA>年月略史1595年スペイン人メンダナが南太平洋航海中プカプカ島を確認。1773~1777年英国の探検家クックがこの地域の諸島に上陸し調査を行う<彼の名を取って諸島名が名付けられた>1888年英国属領1901年ニュージーランド(NZ)属領(住民はNZ内での内政自治権の獲得を選んだ。同時に「軍事および外交部門以外の立法権および行政権」を政府が有することになった。)1965年NZとの自由連合。立法制定確立1973年NZとの共同宣言で、独自に諸外国と外交関係を持つ権利が認められる。1999年前回総選挙後誕生したウィリアムズ政権が不信任案により退陣。民主連合党(DAP)と同党分派・新連合党(NAP)との連立政権で、マオアテ(DAP)党首が首相。2001年7月首相失脚の噂が流れたが、その直後ジョージ(NAP)副首相が罷免され、ウーントン外務・移民大臣が副首相に昇格した。2002年2月首相の不信任案可決、ウーントン副首相の信任案可決でウーントン新政権が発足。2004年9月任期満了での総選挙、開票結果異議申し立て、党内分裂等を経て、新党デモ・ツム党のマルライが首相に選任。2010年11月総選挙で、野党クック諸島党が勝利、ブナ党首が首相に就任。 クック諸島の基本事情 <資料出所:外務省、CIA,PIC,WIKIPEDIAなど>国名クック諸島Cook Islands幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)見あたらず通貨NZドル(愛称:キーウイ・ドル)2012.12.14為替レート:1NZ$=70.66円(クックアイランド・ドルは流通実体がなく海外コレクター向け土産物の扱い)<2004年に株式会社サンリオの依頼によって日本国内向けのハローキティ金貨・銀貨が発行されている。>国旗太平洋地域における元英植民地では伝統的なデザイン。左上のユニオン・フラッグは英国との伝統的関係の象徴、右側の15個の星輪はクック諸島を構成する15の島を、青地の色は大洋を表す。国花タヒチアン・ガーデニア面積:平方キロ約237平方km徳之島とほぼ同じ国の位置南太平洋ポリネシアに点在する15の主要な島からなり、北部の諸島に6つの環礁が、南部の諸島に珊瑚礁で囲まれた7つの火山島と2つの環礁がある。人口22,600人人口密度:/平方キロ95人首都アバルア(ラロトンガ島)人口:4,208人(この国では一番人口が多い町)東京からの大圏距離:8,979km時差:JST-19時間サマータイムなし民族ポリネシア系(クック諸島マオリ族)91%、混血ポリネシア系4%言語クック諸島マオリ語、英語(共に公用語)宗教キリスト教97.8%(クック諸島教会派69%、ローマ・カトリック15%等)(クック諸島 その2 に続く)
Dec 19, 2012
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(トンガ その1 から続く) <資料出所:外務省、CIA,WIKIPEDIA,PIC,世界経済のネタ帳など>国名トンガ王国Kingdom of Tonga幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)70位通貨パ・アンガ(T$)、1パアンガ=45.6円(2012年5月)国旗王室、大半の国民はプロテスタントのメソジスト派に帰依、キリストの血の色である赤で十字架を現した。のちの1864年制定の赤十字旗が酷似し変更を余儀なくされ、1875年に現在の国旗を制定。左上に赤十字を擁するカントン旗。赤い十字架は信仰、白は純潔、赤地はキリストの聖なる血を表す。国の標語Ko e Otua mo Tonga ko hoku tofi'a(トンガ語: 神とトンガは私の遺産)面積:平方キロ720平方km対馬とほぼ同じ国の位置南太平洋に浮かぶ約170の島群からなる国家で、イギリス連邦加盟国である。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置する。人口104,058人(2010年、世銀)106,146人(2012年6月、世銀)人口密度:/平方キロ149人首都ヌクアロファ(最大の島トンガタプ島にある)市域人口:22,400人(1996年)国民の約3割が住む東京からの大圏距離:7,907km時差:JST+4時間サマータイム無し民族ポリネシア系(若干ミクロネシア系が混合)言語トンガ語,英語(ともに公用語)宗教キリスト教政体立憲君主制元首国王 トゥポウ六世(2012年就任,世襲)His Majesty King George Tupou VI, the Kingdom of Tonga議会一院制議員は議長及び閣僚,貴族議員9名(33家ある貴族間の互選),平民議員17名(人民代表議員、一般選挙選出)民主化改革が進むが,国王の内政影響が大きい。政権首相 トゥイバカノ卿(2010年12月就任)外相 首相が兼任外交基本方針(1)英連邦諸国,特に旧宗主国英国とは緊密関係維持。国連専門機関加入に積極的。南太平洋の域内協力を推進。(2)台湾と外交関係を有したが,1998年11月2日,台湾と関係終了,中国と外交関係樹立。軍事(防衛よりむしろ治安維持に主眼)歩兵部隊,近衛部隊,海軍等で構成,規模は非常に小。なお,2004年6月米軍後方支援に,44名の兵士をイラクに派遣。また,2011年英軍後方支援に,55名の兵士をアフガニスタンに派遣。主要産業農業(コプラ,やし油,かぼちゃ),漁業経済概況財政状態は恒常的に海外援助及び出稼ぎ者からの送金に大きく依存。政府は新しい輸出商品作物の開発に熱心で,既に成功しているかぼちゃに次ぐ産品の開発に向けて市場調査や相手国への輸出手続きに関する調査を積極的に行うとともに,産品の品質管理にも注力。GNIGDP:億ドル350百万米ドル(2010年、世銀)440百万米ドル(2011年、ネタ帳)432百万米ドル(2011年、CIA)GDP構成比サービス62.6%、農業20.6%、工業16.8%(2011年、CIA)一人当たりGNI一人当たりGDP:3,280米ドル(2010年、世銀)4,221米ドル(2011年、ネタ帳)実質GDP成長率▼ 0.5%(2010年、世銀)1.5%(2011年、CIA,ネタ帳)物価上昇率3.9%(2010年、世銀)5.3%(2011年、ネタ帳)6.6%(CPI,2011年、CIA)失業率13%(FY03/04 est. CIA)貧困ライン人口24%(FY03/04 est. CIA)肥満度56%(2000年)予算収入:115.7支出:115.7百万ドル(2011年、CIA)(税+他の収入)/GDP比26.8%(2011年、CIA)予算収支/GDP比0%(2011年、CIA)財政収支/GDP比▼2.7%(2011年、ネタ帳)商業銀行優遇貸出利率11.2%(2011年末、CIA)外貨準備(金を含む)143.3百万米ドル(2011年、CIA)対外負債113.5百万米ドル(2011年末、CIA)経常収支(国際収支)▼ 20百万米ドル(2011年、ネタ帳)▼ 29.8百万米ドル(2011年、CIA)貿易収支A-B▼ 182.0百万米ドル(2010年,アジア開銀)▼ 110.3百万米ドル(2011年、CIA)貿易額:輸出A12.1百万米ドル(2010年,アジア開銀)10.8百万米ドル(2011年、CIA)同 :輸入B 194.1百万米ドル(2010年,アジア開銀) 121.1百万米ドル(2011年、CIA)貿易品目:輸出かぼちゃ,魚類,バニラ,カヴァ同 :輸入食料,飲料,家畜,機械・機器,燃料,石油製品貿易相手国:輸出香港19.9%,日本14.3%,米10.6%,韓国10.1%,フジー8.9%,NZ8.6%,サモア7.5%,ブラジル5.3%,米領サモア4.7%(2011年、CIA)同 :輸入フィジー36.7%,NZ 24.9%,米10.5%,中国7.2%(2011年、CIA) 対日貿易収支▼19.9百万ドル(2010年、PIC)対日輸出1.5億円0.9百万ドル(2010年、PIC) 輸出品目かぼちゃなど80%,まぐろ類17.3%(2010年、PIC)対日輸入18.0億円20.8百万ドル(2010年、PIC) 輸入品目輸送余危機93.7%,一般機械2.7%,金属製品2.5%(2010年、PIC)主要援助国 豪州14,日本12,NZ 7 百万米ドル(2010年,DAC)日本の援助実績2010年度まで有償:なし無償:156億円技術: 94億円
Dec 17, 2012
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日付変更線に密着、日の出が世界一早い首都あり。「International Date line Hotel」国民の肥満度 56% とCIAに出ているが、国王は身長1.9m、体重100kg超と大きい。国民は王族、貴族、平民の3つの身分に分別。身分の変更は基本的に認められず。伝統的に親日的。経済・技術協力が増大し,両国関係が一層緊密化。//////////////////////////////////日付変更線はこの国は弄らず、正当である。けれども、いろいろと弄っている国がある。「日付」や「身分」など人間の都合で決められるものは、時により変化するのが当然かも知れない。山登りで、天空に昇り、「人の上に立つ」ことは、他人には迷惑がかからないので良いものだけれど、人間の都合での「政治的変更」は傍迷惑であり、選挙で堂々巡りするしかない。今回の国政選挙では、マニフェストで公言していない政策を国家のために先行させた政党への「独裁危機意識」、隣国のあからさまな侵略予行圧力などを受けての「愛国心高揚」から、劇的な政権交代が起きた。隣国の極端な動きは、ありがたいもので国政が引き締まる。ただ、自国の安定化のために、隣国を言葉で攻めるのは国際的に公正FAIRとは言えないだろう。地球世界が一つになる時代は、他の宇宙から未確認物体が襲来するときまで待つしかないかも知れない。////////////////////////////////// トンガ王国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史先住民時代考古学的な証拠で、最初の植民者は、サンタ・クルーズ諸島から船で渡来。6000年前頃から、東南アジアのオーストロネシア語を話す人々の祖先(ラピタ人)がポリネシアへ移住。2800 - 2750年前の独特のラピタ式土器が出土し、ポリネシアで一番古い遺跡。人類学者は、トンガ、サモアとフィジーをポリネシア文化・文明発祥地と評する。12世紀には、トンガ人、トンガ大酋長は太平洋中に知れ渡り、トンガ帝国とさえ言及される。15世紀と17世紀には、内戦が勃発。1616年オランダ人の探検家ヤン・ハウステン、ヤコブ・メールが最北部のニウアトプタプ島近海に到達、トンガ側は双胴船で航海中で直接接触無し。1643年に英国人サミュエル・ウォリスがトンガタプ島(現首都のある島)に来航。1773年及び、1774年、1777年にジェームズ・クックが来航、王でないことを知らずに、封建領主に友好的扱いを受けてリフカ島(ハアパイ諸島)をフレンドリー島と命名。最初のロンドン伝道教会の宣教師は1797年の来航だが社会的混乱があり布教に失敗、メソジストの宣教師は1826年の来航。1845年各諸島に王権をもった3者のうち、若き戦士、戦略家、雄弁家であるタウファアフ・トゥポウが、ポリネシア人王国として統一。首長の称号のTu'i Kanokupoluを持つが、ジョージ・トゥポウ(ツポウ Tupou)1世の名前でプロテスタントの洗礼を受けた。王はキリスト教(メソジスト)を広げる聖戦という形でトンガ全体を1852年に武力平定。1853年から隣国フィジーを植民地化せんと企てたが、米国、英国、NZ,独の干渉もあり、1867年にフィジー立憲王国が成立してフィジーから撤退した。1875年英通訳シャーリー・ベーカーをトンガ王国顧問に迎え、民法、憲法を作製した。隣国サモアを支配下に置いた独が1876年艦隊を派遣して友好条約を迫り、トンガの石炭貯蔵設備の利用権利を得たことに驚いた英国が同様の条約を1879年に結んだ。ベーカーはトンガの国益を主張したため、1880年に英国の圧力で豪州に召還される。しかし、ベーカーは独と通じて、軍艦でトンガに戻る。トゥポウ1世はベーカーを首相、外相に任命。ベーカーは法律改正を行うも、英国の権益を損ねて、1887年暗殺未遂事件を招来。1900年<英国の保護領>ジョージ・トゥポウ2世はイギリスと友好条約を締結、トンガは英保護領となり外交権を失う。1941年英との関係は安定しており、1941年に始まった太平洋戦争では、トンガは連合国(英)軍の一員として参戦、ソロモン諸島を占領した日本軍と戦った。第二次世界大戦中にはNZ軍と米軍の拠点となったが、基地として固定化することはなく、大戦後には撤退している。1958年、英との友好条約によってトンガの自治が確立する。1968年の条約により、保護領として留まりながら、さらに権利が拡大した。1965年、タウファアハウ・トゥポウ4世が王となる。1970年6月4日英国より独立。イギリス連邦に加盟。1972年、トンガの権益を侵す動きが露呈する。トンガの南西480 kmの無人島テレキトケラウ島、テレキトンガ島をミネルバ共和国として独立させ、タックス・ヘイブンとして利用する、首謀者は英と米の合弁会社。これを防ぐため、トンガは2島の領有権を主張、合弁企業の策動を防ぐことに成功した。1987年、トンガ議会で初めて野党が一般議席の多数派となるが、トンガ議会には王自身や世襲貴族も議席を擁するため、ファタフェヒ・トゥイペレハヶ王子(タウファアフ・トゥポウ4世の弟)が首相に就任。1990年の選挙でも反政府派が一般議席の多数派となったが、やはり議会全体を押えるには至っていない。1991年日本の無償資金協力によって建設中のファアモツ国際空港のターミナルビルが完成。同年、ファタフェヒ・トゥイペレハケ王子が首相辞任。1999年には国際連合に加盟。植民地化の力に晒されても、現地人による統治を失わなかったことが、太平洋島嶼国では珍しく、プライドを与えている。2000年1月バエア首相(当時)が辞任し,国王トゥポウ四世(当時)が自身の三男ウルカララ王子(当時外相)を首相に任命2002年3月総選挙では,首都のあるトンダカプ島で民主化推進派が人民代表の全議席を獲得。2005年3月総選挙後,初めて人民代表議員が閣僚に任命さる。また,王室の特権的立場への不満を背景に,5月に民主化グループによるデモが実施され、また,7月には公務員給与引き上げを端とする6週間の全国規模公務員ゼネストが実施され、首相等の辞任,全国会議員の普通選挙選出及び全閣僚を国会議員すること等の要求があり,国民の中に民主化支持が高まる<トンガ動乱>2006年2月ウルカララ首相(タウファアハウ・トゥポウ4世の三男)が辞任,3月末トンガ史上初の平民代表・セベレ首相代行が首相就任。7月5日夜、米合衆国で元首相ファタフェヒ・トゥイペレハケ王子夫妻と王室関係者が乗る車が激突され、王子夫妻、運転手、ほか同乗の2名の王室関係者が死亡。9月タウファアハウ・トゥポウ4世が89歳で死去。第1王子のツポウトア皇太子が王位を継承(ジョージ・トゥポウ5世)。11月には政治改革要求に端を発した暴動(死者7名)が起き、トゥポウ5世が戒厳令発令、鎮圧のため豪州、NZ軍派遣要請(年末には帰国)。2007年4月戒厳令一部解除。首都では継続(~2012年現在も)。2008年憲法,選挙制度の改革に向け検討を開始。8月、動乱により延期されていたジョージ・トゥポウ5世の戴冠式を挙行。2010年憲法及び選挙制度改革法案が可決,11月の総選挙から人民代表議員の定数が9名から17名に増加(貴族代表議員の定員は変わらず),人民代表議員選挙では民主改革派が大勝。総選挙後,新政治制度が導入され,12月にはトゥイバカノ貴族代表議員が国会で初めて選出された首相に就任2012年3月ジョージ・トゥポウ5世死去。トゥポウトア・ラバカ王太子(前述の元首相ウルカララ王子)がアホエイツ・トゥポウ6世として即位。(トンガ その2 に続く)
Dec 17, 2012
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(フィジー その2から続く) 政体共和国元首ラトゥ・エペリ・ナイラティカウ大統領(2009年11月就任)族長大評議会によって任命される任期5年の大統領制議会2院制、上院:議員数32名、任期5年(解散あり)。下院解散時には上院も解散。下院:議員数71名、任期5年(解散あり)政権行政の実権は大統領任命による内閣首相 ジョサイア・ヴォレンゲ・バイニマラマ 外務大臣 ラツ・イノケ・クンブアンボラ外交基本方針豪州、ニュージーランド及び南太平洋諸国との協力関係重視してきたが、2006年12月のクーデター発生以降、豪州、ニュージーランドとの関係が冷え込む中、近年では中国、ASEAN、アラブ諸国等との関係を重視。フィジーは首都スバに、PIF(太平洋諸島フォーラム)事務局、USP(南太平洋大学)等があり、中心的役割を果たす。国連、英連邦、太平洋諸島フォーラム(PIF)などの加盟国であるが、現在は英連邦及びPIFから参加資格を停止されている。また、パプアニューギニア、バヌアツ、ソロモンのメラネシア地域の各国から成るアラブ先鋒グループ8(Melanesia Spearhead Group)の加盟国。軍事兵役 志願制。兵力 2009年現在約3,500名。主構成は正規軍、地域軍(48時間以内の動員のため配置)及び海上部隊。フィジー軍は現在、イラクのPKO活動に約220名、またシナイ半島のPKO活動に約340名を派遣。主要産業観光、砂糖、衣料が三大産業経済概況経済成長率は、前年末のクーデター直後の2007年マイナス6.6%の後、翌年には0.2%と改善したが、2009年は砂糖産業の衰退及び世界経済危機等の影響でマイナス3%。特に、長年フィジー経済の支柱である砂糖産業は、機械老朽化等に加え、農地リースの延長問題など、問題山積で、多額累積赤字を抱え、深刻な状況。2010年フィジー経済は、観光産業の好転、フィジー製品の輸出増加で、0%を若干上回り、2011年もプラス1%程度の成長が見込まれる。GNIGDP30億米ドル(2010年、世銀)38億米ドル(2011年、ネタ帳)37.35億ドル(2011年、CIA)GDP構成比サービス69.1%、工業19.4%、農業11.5%(2011年、CIA)一人当たりGNI一人当たりGDP:3,610米ドル(2010年、世銀)4,244米ドル(2011年、ネタ帳)実質GDP成長率0.1%(2010年、世銀)2.1%(2011年、ネタ帳)物価上昇率4.1%(2010年、世銀)8.7%(2011年、ネタ帳)失業率7.0%(2011年、ネタ帳)貧困ライン人口31%(2009年、CIA)予算収入: 948百万ドル(2011年、CIA)支出:1060百万ドル(2011年、CIA)(税+他の収入)/GDP比25.4%(2011年、CIA)予算収支/GDP比▼3%(2011年、CIA)財政収支/GDP比▼2.0%(2011年、ネタ帳)政府総財務残高/GDP比54.4%(2011年、ネタ帳)公的債務/GDP比53.9%(CIA)商業銀行優遇貸出利率7.5%(2011年末、CIA)外貨準備(金を含む)834百万ドル(2011年、CIA)対外負債259百万ドル(2011年、CIA)経常収支(国際収支)▼ 416百万ドル(2010年、CIA)▼ 380百万ドル(2011年、ネタ帳)▼ 429百万ドル(2011年、CIA)貿易収支A-B▼860百万ドル(2011年、CIA)貿易額:輸出A1124百万米ドル(2010年、アジア開銀) 820百万ドル(2010年、CIA) 902百万ドル(2011年、CIA)同 :輸入B 1609百万米ドル(2010年、アジア開銀) 1602百万ドル(2010年、CIA) 1762百万ドル(2011年、CIA)貿易品目:輸出衣類、砂糖、金、魚類、木材チップ同 :輸入機械・輸送機器、工業製品、食料品、雑貨品、鉱物燃料、化学品貿易相手国:輸出豪州14.3%,米国11%,日本6.4%,英国5.9%,サモア5.8%,トンガ5.1%(2011年、CIA)同 :輸入シンガポール34.1%,豪州16.3%,NZ14.1%,中国8.9%(2011年,CIA)対日貿易収支 51.1百万ドル(2010年、PIC)対日輸出79.9百万ドル(2010年、PIC)72億円(2010年度、財務省貿易統計) 輸出品目魚介類66.4%,木材・コルク32.2%,その他食料品0.9%(2010年、PIC)対日輸入28.8百万ドル(2010年、PIC)24億円(2010年度、財務省貿易統計) 輸入品目輸送用機械52.3%,一般機械13.7%,非金属鉱物12.7%,金属品5.0%,その他の原料別製品4.8%,電気機械3.7%(2010年、PIC)主要援助国 2009年度豪州21,日本21,ニュージーランド4(単位:百万ドル)日本の援助実績2010年度まで有償: 23億円無償:182億円技術:237億円
Dec 16, 2012
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(フィジー その1から続く) <資料出所:外務省、CIA,PIC,WIKIPEDIA、世界経済のネタ帳など>国名フィジー共和国(Republic of Fiji)Matanitu ko Viti(フィジー語)「ビティ」レブ島を伝道師が「フィジー」と発音したための由来 幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)57位通貨1フィジードル=43.9円(2011年8月)国旗 WIKIPEDIAユニオンジャックを左上(カントン部)に配したブルー・エンサインを使用。基本の青のブルー・エンサインは実際には政府旗であり、一般の国旗として使用されるのは、水色地の旗である。この国旗は独立前のものとほとんど同じだが、独立前は青地が濃いものである。国章の盾部分説明:盾の上部三分の一は赤地に金(黄)でイングランドの象徴である獅子が描かれている。獅子の手にはカカオの実が抱えられている。盾の下部には白地に赤い聖ジョージ十字が描かれている。聖ジョージはイギリスの守護聖人である。聖ジョージ十字に四分割されたエリアのうち、左上にはサトウキビ、右上にはココヤシ、右下にはバナナとフィジーの特産品が描かれている。左下には、平和の象徴としてオリーブの小枝を咥えた鳩が描かれている。フィジーは1987年から1997年までイギリス連邦を離脱していた間もユニオンジャックのついた国旗を使っていた。ユニオンジャックのない国旗の採用に動き、いくつかの案に絞り込んだが、実際には正式に採用に至らなかった。2005年11月には評議会にて国旗内の国章を独立前の紋章に戻すべきだとの決議がなされている。国花カトレア、タンギモウジア国の標語Rerevaka na Kalou ka Doka na Tui(フィジー語: 神を畏敬し、女王を尊敬する)面積:平方キロ18,270平方km四国並み国の位置南太平洋のフィジー諸島と北に500km程離れた保護領のロツマ島に位置する島国である。300余の火山島と珊瑚礁からなる。西にバヌアツ、東にトンガ、北にツバルがある。人口:千人854千人(2010年、世銀)890千人(2011年、CIA,ネタ帳)人口密度:/平方キロ49人首都スバ(スヴァ)市域人口:85,691人(2007年)都市人口:200,000人(2005年)東京からの大圏距離:7,247km時差:JST+4時間夏時間:JST+3時間例:2012.10.21~2013.1.20民族フィジー系(57%)、インド系(38%)、その他(5%)(2007年、政府人口調査)言語英語(公用語)の他、フィジー語、ヒンディー語を使用宗教全人口に占める割合はキリスト教52.9%、ヒンズー教38.2%、回教7.8%フィジー系はほぼ100%キリスト教、インド系はヒンズー教、回教。(フィジー その3 に続く)
Dec 16, 2012
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フィジーはその地理的位置のほか、南太平洋の民族、文化の交差する島嶼国で「南太平洋の十字路」。英連邦王国であったこともある。共和国となり、一度、イギリス連邦から離脱した。再びイギリス連邦に留まろうとしたが、無血クーデター後の民主化手続きで相寄れずに連邦からは加盟国を完全資格停止処分されている。この呆け老人でも、たかが「政令」で97年「憲法」を廃止できるか、は無理があるように感じる。法治国の、日本では条文内容がいかなるものでも、勝手な廃止は専横ないし独裁と取られかねない。///////////////////////////////WEB資料では、機関によっての認識の差がある。現国名称の違い「フィジー共和国」、「フィジー諸島共和国(今はない)」、現国名の再成立年次のちがい2009年4月、2011年2月、相変わらず貿易統計数字の乖離度が大きい(もしかしたら改竄)、等々で「余分に悩まされている」。これも勉強であり、自主トレである。今日は、日本では国政選挙で投票に行ってきた。帰りに、ケース単位でパンジーを買ってきた。/////////////////////////////// フィジー共和国 略史<外務省、WIKIPEDIA、政府観光局>年月略史先住民時代約8千年前メラネシア系パプア人がこの地に住み付き、その後トンガ人が移住し、ポリネシア文化の影響を受けた。1643年蘭人探検家タスマン、フィジー諸島の北部発見、上陸。1774年英国人航海家クックが南部に上陸。1874年英国の植民地となる1879年英国は、これ以降1916年まで、砂糖プランテーションを形成するために印度人契約労働者479人をフィジーに移民させ、この定住化が社会に劇的な変化をもたらす。1881年ロツマ島が英国の植民地となる1913年フィジー系住民運動がアポロシ・ナワイにより「ヴィチ・カンバニ運動」として始まる1970年10月10日英国より独立(英連邦王国、立憲君主制)。(国名:フィジー)ロツマ島を保護領とする1987年5月、9月ティモチ・バヴァドラ首相政権下で、ランブカ陸軍中佐による無血1987年10月英連邦から離脱し、共和制へ移行。(国名:フィジー共和国)(ロツマ島については、ロツマ共和国の宣言がNZでなされたが、12月には鎮圧される)1990年7月フィジー系を優遇する改正憲法発布1997年9月改正憲法公布。英連邦再加盟1998年7月民族融和を目指す新憲法発効。(国名:フィジー諸島共和国)1999年5月労働党党首チョードリーが初のインド系首相に就任2000年5月武装グループによるチョードリー首相人質、国会占拠事件が発生2000年7月軍が戒厳令を発令、人質は解放、イロイロ大統領、セニロリ副大統領を伝統的評議会(GCC)が任命。ガラセ(フィジー系)首班の暫定文民政府が発足。1997年憲法は「政令により廃止」の扱い。(注)伝統的評議会:構成員は大統領、首相、各州代表など50名程度。なお、現暫定政権は、GCCを抜本的に見直していく方針であり、その活動を休止させている2001年9月総選挙を経てガラセが首相に就任2006年5月ガラセ首相が再任。労働党等の複数政党内閣を組閣、フィジー系、インド系対立改善を図ったが、10月頃から、先の国会占拠事件の恩赦等をめぐり、徹底的糾弾等を求めるバイニマラマ国軍司令官との対立が深刻化。2006年12月バイニマラマ国軍司令官による行政権奪取、非常事態宣言で無血クーデター、セニランガカリを暫定首相に任命NZ,豪州、EUなどが援助停止、入国禁止措置、中国は援助を急増。2007年1月セニランガカリ暫定首相辞任、バイニマラマ司令官が暫定首相の暫定内閣。5月非常事態宣言解除。フィジー民主化共同作業グループが太平洋諸島フォーラム(PIF)に設置され(2007年4月)、民主化ロードマップが策定され、暫定政府は2007年10月のPIF首脳会議(於トンガ)で、2009年3月までに総選挙の実施を公約。移出で総人口に占める印度人割合36%に落ち込み。2008年1月内閣改造、閣僚数は従来の17名(含む首相)から13名に減少。2008年6月、同暫定首相は上記公約の実施不可能を表明、2009年1月のフィジー問題PIF特別首脳会合(「バ」暫定首相欠席)では、本年末までの総選挙日の設定、かつ5月1日までに対外的公表しないなら、PIF各種会合の参加資格停止等厳しい措置検討をおこなう内容をコミュニケに盛り込む。2009年4月国名を再度「フィジー共和国」に変更(WIKIPEDIA などでは2011年2月?とある)2009年5月政府は、「選挙制度改革が先決で、選挙はその後」の立場を主張、5月1日までに上記コミュニケを守らず、翌2日、PIF関連会合参加資格停止。2009年4月、控訴審判決(バイニマラマ暫定首相率いる暫定政権の非合法、大統領に対し、新暫定首相及び暫定政権の任命指示命令)を受け、イロイロ大統領はバイニマラマ国軍司令官を今後5年間の政権の首相に任命し、2014年までに総選挙を実施するよう指示するとともに、現行憲法の廃止(abrogation)及び全裁判官の罷免を行い、出版・放送への制限なども含む緊急事態令を発布した。2009年7月、バイニマラマ首相は「変化のための戦略的枠組み」を発表。当ロードマップでは、2012年9月から2013年9月にかけて新憲法を策定、2013年9月から約1年間かけて総選挙準備を行うとしている。また、2009年9月、フィジーは英連邦閣僚行動グループ(CMAG、53ヶ国)が求める民主化プロセスに応じず、英連邦からの完全資格停止を受けた。2012年1月,バイニマラマ首相は緊急事態令を解除した。また、3月には、2013年の2月末までの新憲法策定プロセスを発表。(フィジー その2 に続く)
Dec 16, 2012
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(バヌアツ その1 から続く) 政体共和制イギリス連邦加盟国元首ヨル・ジョンソン・アビル・カニアピン大統領(2009年9月就任。儀礼的・象徴的役職。議会一院制、議員数52名、任期4年政権首相 サトー・キルマン(2011年6月就任) 外務・貿易大臣 アルフレッド・カーロット(2011年6月就任)外交基本方針外交関係の多角化、南太平洋諸国、特にPNG、ソロモン等メラネシア諸国との連帯強化、非同盟主義の推進、各地(ニューカレドニア等)の独立運動支援、反核政策推進。軍事軍隊は無し主要産業農業、観光業経済概況コプラの生産と自給自足農業が基盤。都市部、農村部の格差は大。恒常的な輸入超過で、赤字を外国援助で補填。近年は農業多様化と観光振興に注力。また、1997年半ばよりADBの協力で大規模な行政・経済改革である「包括的改革計画」を実施、2003年中期計画として「優先課題・行動計画」を策定。2003年、2004年は前年のマイナス成長を脱し、プラス成長を記録。GNIGDP660百万米ドル(2010年、世銀)760百万米ドル(2011年、ネタ帳)747.8百万ドル(2011年、CIA、推定値)GDP構成比サービス68.4%,農業21.2%,工業10.4% (2011年、CIA)労働力構成農業65%,サービス30%,工業5%(2000年、CIA)一人当たりGNI一人当たりGDP2,760米ドル(2010年、世銀)3,105米ドル(2011年、ネタ帳)実質GDP成長率3.0%(2010年、世銀)2.5%(2011年、CIA,ネタ帳)物価上昇率 2.8%(2010年、世銀) 0.9%(2011年、CIA,ネタ帳)失業率1.7%(1999年、CIA)予算収入:176.6百万ドル(2011年、CIA)支出:205.7百万ドル(税+他の収入)/GDP比23.6%(2011年、CIA)予算収支/GDP比▼3.9%(2011年、CIA)財政収支/GDP比▼2.3%(2011年、ネタ帳)商業銀行優遇貸出利率5.5%(2011年末、CIA)外貨準備(金を含む)173.8百万ドル(2011年末、CIA)対外負債 307.7百万ドル(2011年末、CIA)経常収支(国際収支) ?▼ 105.2百万米ドル(2010年、CIA)▼ 126.9百万米ドル(2011年、CIA)▼ 50百万米ドル(2011年、ネタ帳) 貿易収支A-B ?▼177.0百万米ドル(2010年、アジア開銀)▼239.5百万ドル(2010年、CIA)▼242.8百万ドル(2011年、CIA)貿易額:輸出A?207.1百万米ドル(2010年、アジア開銀、外務省引用) 51.3百万ドル(2010年、CIA) 67.4百万ドル(2011年、CIA)同 :輸入B? 384.1百万米ドル(2010年、アジア開銀、外務省引用) 290.8百万ドル(2010年、CIA) 310.2百万ドル(2011年、CIA)貿易品目:輸出コプラ、木材、カヴァ、牛肉、ココア同 :輸入機械・輸送機器、食料品、日用品貿易相手国:輸出タイ57.3%,日本21.8%<CIA>同 :輸入中国26.7%、シンガポール21.2%,豪州13.6%,NZ 7.2%,フィージー6.7%,日本5.4%<CIA>原油輸入50百万米ドル(2011年、ネタ帳)対日貿易収支 10.9百万米ドル(2010年,PIC)対日輸出57.2百万米ドル(2010年,PIC) 同品目魚介類97.4%,肉類2.4%対日輸入46.3百万米ドル(2010年,PIC) 同品目輸送機械97.1%,一般機械0.8%,電気機械0.7% 主要援助国2009年度豪州42,米国22,ニュージーランド17百万米ドル日本の援助実績2010年度まで有償:なし無償:111億円技術: 62億円日本の直接投資(2008年度) 49億円世界遺産(文化遺産)ロイ・マタ首長の領地:ロイ・マタは地元の口承物語の中に登場する、最高位の支配者の称号。彼は1600年頃、長期間、続いた部族間の抗争を終息させ、エファテ周辺の島々に平和をもたらしたが、弟の放った毒矢に倒れる。1967年の発掘調査によって、墓に関する伝承の正確さは証明された。「邸宅」、「死んだ場所(フェルズ洞窟には彩色岩絵、岩刻画が残されている)」、「墓」の3箇所が対象。
Dec 15, 2012
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「地球上で最も幸せな国」に選ばれたこの国は、食べ物には困らないくらい、果物がたくさんあり、それを争って部族間で取り合いになった事があったが、偉い酋長が出現して、島々に平和をもたらした。単なる口承伝説ではなくて、考古学上の証明が出来る事実である。 その人の名は、(チーフ)ロイ・マタ。「助け合いの絆」=ナフラックがその秘訣らしい。(小生のガン保険はアフラック? 関係ないらしい。)ものすごく苦いお酒を飲み合って語り合う部族らしい。甘美なお酒でないので、自我や欲望は引っ込み、理性が生きているのだろう。朦朧とした雰囲気でも、「和」や「輪」が生まれる環境が出来上がるらしい。ペンテコスト島で行われる、バンジー・ジャンプの起源となった[成人の通過儀式]かつ[ヤム芋・収穫祭]の「ナゴール」も有名である。//////////////////////////別の話。この国でも、輸出・入統計が複雑でよく分からない。WEB上は、「世界統計」では「CIA」、日本については太平洋諸国では「PIC」の数字を参考にしたい。////////////////////////// バヌアツ共和国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史先住民時代最古の遺跡は約4千年前と推定され、オーストロネシア語族の渡来に遡る。1452年~1453年に続けて、海底火山クワエが大噴火して世界の歴史に大きな影響を与える。<夏のない年、コンスタンチノープル陥落>1606年5月スペインの太平洋航海調査に参加した、キロス(ポルトガル南東部出身の航海者、探検家)が発見。サント島に上陸。1774年英国人海軍士官、海洋探検家、海図制作者、ジェームズ・クック(キャプテン・クック)が当地域をニューへブリデスと命名。英・仏衝突の繰り返しが続く。1906年英・仏の合意の元で共同統治下に入る。1960年代自治と独立を求めるものの、英語系、仏語系の島民対立があり、1974年仏語系のタンナ島でタンナ共和国が独立宣言したが、仏軍に制圧され、1975年にはサント島などでナグリアメル連邦の分離・独立宣言もおきた。1980年1980年に入り、タンナ島でタフェアン共和国の独立運動が起きたが英国軍が制圧した。サント島では仏系住民によるベマラナ共和国の分離独立が起きた。7月30日バヌアツは英連邦の一員として独立。親ソ派メラネシア社会主義のバヌア・アク党ウオルター・リニが初代首相に就任。徹底したソ連偏重主義・独裁的性格を強めたが、1991年ソ連崩壊で、後ろ盾を失い、批判を浴びて9月に解任され、カルポカスが3ヶ月余首相を務めた。 1991年12月総選挙で仏系の穏健諸島連合、国家連合党の連立政権でカルロ首相就任(~1995年12月)。1995年12月穏健政党連合のボオール首相(~1996年2月)1996年2月穏健政党連合のカルロ首相(~1996年9月)1996年9月穏健政党連合のボオール首相(~1998年3月)1998年3月バヌア・アク党のカルポカス首相(~1999年11月)1999年11月メラネシア進歩党のバラク・ソペ首相(~2001年4月)2001年4月バヌア・アク党のエドワード・ナタペイ首相(~2004年7月)2004年7月穏健政党連合のボオール首相(~2004年11月)2004年11月ボオール首相(仏系)が単独で台湾訪問して、同国との外交樹立を声明したが、他の閣僚は「一つの中国」政策維持の立場で折り合わず、翌月の不信任案提出動議が可決される。2004年12月新首相に国民統一党のハム・リニ(英系)が選出(~2008年9月)される。2006年7月2006年7月には環境NGO「地球の友」とシンクタンク「新経済財団」が「地球上で最も幸せな国」に選んだ。2008年9月総選挙でエドワード・ナタベイ元首相率いるバヌア・アク党(VP)が11議席、現首相率いる国民連合党(NUP)が8議席で、多数派工作によりナタベイ元首相が選出された。2009年11月ナタベイ首相は外遊中に議会欠席の届けを怠り、制度上の規定で議席を失い、首相職も失う。首相代行に穏健政党連合のサージ・ボオールが選出される。しかし裁判で、この首相失職の裁定は無効と判定される。2009年12月バヌア・アク党のエドワード・ナタペイ首相復帰(~2010年12月)2010年12月外遊中に、ナタベイ首相に対する内閣不信任動議が可決され、人民進歩党のサトー・キルマン副大統領兼貿易大臣が首相に選出。2011年4月キルマン首相に対する不信任動議が可決され、3度の首相経験者ボオール氏が4度目の首相に就任。2011年5月控訴審判で、議会がボオール首相を選出したことが違憲とされ、キルマン氏が首相に復帰、6月には最高裁判所が2010年12月のナタベイ首相(当時)の排除や直後のキルマン首相選出は違憲と判断、ナタベイ元首相が暫定首相に任命された。2011年6月選挙で人民進歩党のキルマン氏が再び首相に選出 <資料出所:外務省、CIA,PIC,WIKIPEDIA、世界経済のネタ帳など>国名バヌアツ共和国Republic of Vanuatu「われわれの土地」の意幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)24位通貨バツ(Vatu)1バツ=0.9円(2011年8月)国旗 WIKIPEDIAバヌア・アク党指導で独立した際、党旗色から国旗色(赤・緑・黄・黒)を選定。 緑は「国土の豊かさ」、赤は「豚と人間の血および太陽」、黒は「メラネシア人」をそれぞれ象徴。黄色の縁取りは黒を目立たせるもの。黄色の Y 字は太平洋の島々でのゴスペルの光を表す (バヌアツは 75% の国民がキリスト教徒)。黒地の中の紋章は、この諸島で繁栄の象徴として装飾に使われる豚の牙と、ナメーレ (namele) という原生シダの葉。この葉は平和の象徴とされ、39 枚の複葉が国会の 39 議席を示す。国の標語Long God Yumi Stanap(ビスラマ語: 神と共に立つ)面積:平方キロ12,190平方km新潟県並み国の位置南太平洋のシェパード諸島の火山島上に位置する共和制国家である。西に豪州、北にソロモン諸島、東にフィジー、南に仏海外領土のニューカレドニアがある。800kmにわたって北北西から南南東に連なる83の島からなり、それらはニューヘブリディーズ諸島、バンクス諸島などと呼ばれる。そのうち、住民が居住する島は約70である。人口24万人(2010年、世銀)25万人(2011年、ネタ帳)人口密度:/平方キロ20人首都ポートビラ人口:33,900人(2002年)東京からの大圏距離:6,665km時差:JST+2時間サマータイムなし民族メラネシア系(93%)、その他中国系、ベトナム系及び英仏人が居住。言語ビシュラマ語(ピジン英語)、英語、仏語(いずれも公用語)宗教主にキリスト教(プレスビタリアン、ローマ・カトリック、アングリカン、セブンス・デイ・アドベンティスト等)(バヌアツ その2 に続く)
Dec 15, 2012
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今夕は、ゼミの仲間が他界したお通夜に出席のために、青山に出掛けるに際して、文豪のような雰囲気の彼を偲んで学生の頃のゼミ誌への寄稿文を懐かしく開いてみたい。 約半世紀経過しているが、いまはどうだろうか? これは、彼が、「日本経済と外国貿易」をテーマにした「三大学討論会」に神戸に出向いたときの回顧録の一部。 //////////////////////////////////////// <82ページのレジメテーマ>////// 現時点の日本経済を考えるには、/// 日本経済の基礎構造である/// 二重構造を分析の中心に据えねばならず、/// 二重構造の形態変化をふまえて/// 今後の日本貿易の在り方を考えねばならない・・・//////////////////////////////////////// 諸兄がもし、港町神戸を訪れる機会に恵まれたら、三の宮、住吉神社に参詣されるとよい。当社は、御家安泰、疫病、災禍を除き、子宝に恵まれるという有難い御利益があるそうな。参拝の際には、心を一に何事かを願い上げ心を清らかにせねばならない。次は、心身の字の通り、身を清めねばならない。水垢離?古い!水をかぶっても現代人の垢は取れませぬ。最も生産的な清身剤、アルコール、場所は、バー「和」、当社の際に現代人の為の清身閣がある。諸兄はこのバーで決ず美しき巫女たちの昔話を聞かされるだろう。 "なんでも昭和の御代も終わり近い頃、うっとうしい梅雨がそろそろ訪れようというそんな日の事でした。私はいつもの通り、お客様のお相手をしていたのでございますが、戸口の方で "こんでるな別の所にしよう。" という声がしました。それはそれは、美しく澄んでおりましたので私の身はしびれ入ったのでございます。振り返ってみますと、戸は丁度閉まったところ私はすぐ表に出て声の主をさがしましたところがどうでしょう。戸口の外には光源氏の末裔の様な方が四人もいらっしゃいました。私はこの人達をバーに入れなければ腕がすたるとおもいましたので、中にいたお客様は全て退出して戴きましてその方々をお入れいたしたのでございます。"・・・・・・<中略> 彼女達の評によると、一人は歌舞伎の勘三郎を若くした様な方、一人は、モナリザを男にした様な方、一人はアリストテレスの現代版の様な方、四人目の方は、ちょっとどんな方か忘れてしまったという話である。・・・・・・<中略> 「和」で男達は次のような回顧をしたそうです。討論会などで満足な成果をおさめるには人の和が学問の高水準よりも大切である。そして和は、決して妥協からは生まれず、傷つき傷つけ合って始めて生まれるものである。いや、決してバー和の宣伝をしているのではありません。若き青年達の真摯な反省なのです。 ・・・・・・・・・/////////////////////////いまは、バリトンの美声を持った彼の声を聞くことができない。「二重構造」を分析し、大企業で立派なお仕事をしたあと、日本古代史を研究した熱意を偲んで、参列に向かう。
Dec 14, 2012
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(ツバル その1 から続く) <資料出所:外務省、CIA,PIC,WIKIPEDIA,世界経済のネタ帳など>国名ツバルTUVALU通貨豪州ドル国旗他のイギリス植民地だった国々同様、ユニオンジャックを左上(カントン)に配したブルー・エンサインを使用している。星はツバルの九つの島々を表し、旗が縦に掲揚されたときに地理的に正しく配置されるようデザインされている。国の標語Tuvalu mo te Atua(ツバル語: 全能の神のためのツバル)面積:平方キロ25.9平方km国の位置オセアニアにある国家。南太平洋のエリス諸島に位置する島国である。フィジーの北方1,100kmにある。7つの環礁と2つの島からなる・・PCI。島嶼は7~8百kmの火山弧を形成、おもな島は125kmから150km離れており、全面積は「新島の1割増」程度で、世界では4番目の小国。海抜が最高でも5mと低いため、海面が上昇したり、地盤沈下が生ずれば、国の存在そのものが脅かされることになる。人口:千人12千人(2010年、世銀)人口密度:/平方キロ425人首都フナフティ首都人口:4.3千人東京からの大圏距離:6,426km時差:JST+3時間サマータイムなし民族ポリネシア系(若干ミクロネシア系が混合)言語英語の他、ツバル語(ポリネシア系言語でサモア語に近い)を使用宗教主にキリスト教(プロテスタント)、殆んどの国民がツバル教会(キリスト教プロテスタント系)に属する。政体立憲君主制元首エリザベス二世女王総督:イアコバ・タエイア・イタレリ)(2010年4月就任)議会一院制、議員数15名、任期4年(解散あり)政権首相兼天然資源大臣 ウィリー・テラビ(2010年12月就任)外交基本方針「平和愛好国とのみ国交を持つ」方針で、関係の深い豪州、ニュージーランド、周辺島嶼国との友好関係を構築。近年では国際機関にも積極的参加、2010年6月には国際通貨基金(IMF)へ加盟。軍事軍隊は無し主要産業農業及び漁業が主要産業(多分に自給自足的)。建設業、サービス業等は若干。GDP構成比サービス56.2%,工業27.2%,農業16.6%(2002年、CIA)経済概況資源は乏しい。財政収入源は、入漁料、外国漁船出稼ぎ等での海外送金が主。財政赤字をツバル信託基金(ツバル、英、豪、NZの拠出により、1987年に設立)の運用益から補填。同信託基金は2001年は、米経済減速、米株式市場低迷、豪ドルの対米ドル低下、豪経済低迷等の悪影響を受け実質マイナス運用。米国インターネット関連会社に貸与したドメインコード「tv」の使用権契約料が1999年から入るが、右使用権に係る収入は毎年変動が大きく、今後限られた収入を如何に運用するかが課題。政府補助金、特別開発費等財政支出の大幅削減と財政の透明性の向上等に努力中。LDC(後発開発途上国)。GNIGDP27百万ドル(2009年、UN)35.42百万ドル(2011年、CIA)一人当たりGNI一人当たりGDP:2,749米ドル(2009年、UN)3,202米ドル(2011年、ネタ帳)実質GDP成長率1.5%(2009年、アジア開銀)1.1%(2011年、CIA)物価上昇率 0.5%(2011年、ネタ帳)予算(2011年、CIA)収入:21.54百万ドル主出:23.05百万ドル(税+他の収入)/GDP比60.8%(2011年、CIA)予算収支/GDP比▼4.3%(2011年、CIA)財政収支/GDP比1.1%(2011年、ネタ帳)政府総債務残高/GDP比50.0%(2011年、ネタ帳)経常収支(国際収支)▼11.68百万ドル(2010年、CIA) ▼10百万ドル(2011年、ネタ帳)貿易収支A-B▼ 90.68百万米ドル(2010年、アジア開銀)?▼ 11.91百万ドル(2010年、CIA、推定値) 貿易額:輸出A2.53百万米ドル(2010年、アジア開銀)1百万ドル(2010年、CIA、推定値)同 :輸入B 94.21百万米ドル(2010年、アジア開銀)? 12.91百万ドル(2010年、CIA、推定値) 貿易品目:輸出魚介類コプラ、魚介類 (CIA)同 :輸入工業製品食品、動物、鉱物燃料、機械、工業製品(CIA)貿易相手国:輸出豪州、インドネシア、インド同 :輸入日本、フィジー、中国対日貿易収支C-D▼43.77百万ドル対日輸出C140百万円(2010年度)1.26百万ドル(2010年、PIC) 輸出品目魚介類100%対日輸入D3200百万円(2010年度)45.03百万ドル(2010年、PIC) 輸入品目輸送用機械98.3%,一般機械0.7%,精密機械0.3%主要援助国2009年度日本8、豪州5,ニュウジーランド1百万ドル日本の援助実績2010年度まで有償なし:無償:76億円技術:18億円
Dec 13, 2012
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ドメイン「.TV」のロイヤリティをリースするという話で、小生などは、「テレビジョン」の略号かと不思議だった。この国名Tuvaluには、「人の住める8つの島」の人達が協力して国を作っていこうという意味が込められ、現地語でtuは「立ち上がる」、valuは「8」の意味だ、という。此島は、最高点でも5mしかなく、強風の吹く2月の大潮(キング・タイド)、サイクロンで被害を出しており、地球温暖化による海面上昇には過敏に反応する。国として50年以内には人の住めないとされたことで、30年で国民全体を国外移住させるべく、他国に要請、同様の被害を被るキリバス、モルジブとともに京都議定書を批准していない米国、豪州を国際司法裁判所に提訴すると表明し注目されている。<CIA による背景説明>英国植民地の民族的差異のあるギルバートとエリス諸島は、エリス諸島のポリネシア人が、ギルバート諸島のミクロネシア人から分離する、1974年の住民投票となる。次年には、エリス諸島は英植民地から分離されてツバルとなった。1978年独立、インターネット・ドメイン [.TV ]を米国のdot TV社に12年間で50百万ドルのロイヤリティでリースする契約を2000年に交渉した。/////////////////////また、この国でも、貿易統計の数字が食い違っており、米ドル表示、地域ドル表示、などでもなさそう。あまり考えると、病気に触るので、CIAの数字を信じる。///////////////////// ツバル 略史<外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史先住民時代トンガ、サモアなど西ポリネシアから航海カヌーで来島したポリネシア人、ラピタ人が最初の居住者1568年スペイン人メンダナ、エリス諸島のヌイ島発見植民はされず、奴隷貿易業者、捕鯨船員などがしばしば来島1850年~1875年住民は労働者としてハワイ、タヒチ、ペルーなどに強制連行され、諸島の人口は激減した。1892年ギルバート・エリス諸島として英国の保護領となる1915年ギルバート・エリス諸島として英国の植民地となる1975年ポリネシア人の多いエリス島は、ミクロネシア人の多いギルバート諸島(後のキリバス)と分離、「ツバル」と改名1978年10月1日独立イギリス連邦加盟国、かつ英連邦王国として独立1981年独立後初の総選挙によりプアプア政権成立この国では政党は存在せず、誰を首相として推するかで派閥が形成される。1987年国際連合の最貧国リストに掲載された。1989年総選挙によりパエニウ政権成立1991年プロテスタント(イギリス国教会)系の「ツバル教会」を国教に定める。1993年総選挙によりラタシ政権成立これ以降の政権では、勢力が伯仲。1995年国旗の変更を政府が意図したが、政権交代で元に戻る。一時変更の部分は、海面上昇問題に英国が冷淡であったために、星の色ではあるが、「黄色=陸地を示す」の部分を「白=無を示す」にしたものである。1999年イオナタナ首相就任2000年9月国連加盟2000年12月イオナタナ首相が逝去2001年2月ルカ首相就任2001年12月タラケ首相就任2002年8月ソポアンガ首相就任。2004年8月に内閣不信任案が可決され、議員、首相を辞任、議員には再選されたが首相にはなれず。トアファ首相代行に破れる。2004年10月トアファ首相就任。2006年8月の選挙で4名の閣僚が落選し、その後の首相選挙で敗れる。2006年8月イエレミア首相就任で内閣は総入れ替えとなり、2010年9月の総選挙で、同人は議員としての最大得票を得たが、首相指名選挙では敗れる。2010年10月トアファ元首相が就任したが、2010年12月不信任案決議が可決され、テラビ内務大臣が首相に選出される。2010年12月テラビ首相就任(バヌアツ その2 に続く)
Dec 13, 2012
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(ソロモン その1 から続く) <資料出所:外務省、CIA, PIC,WIKIPEDIA, 世界経済のネタ帳など>国名ソロモン諸島幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)54位通貨ソロモン・ドル(SI$)、1ソロモン・ドル=11.1円(2012年4月)国旗5 つの星は 5 つの主要な島(ガダルカナル島、サンクリストバル島、マレータ島、サンタイサベル島、チョイスル島)を示している。左斜線の上部の青地は諸島を囲んでいる海、下部の緑地は陸地、両者を分ける黄色の帯線は日光を象徴している。国の標語To Lead is to Serve(英語: 先導こそ貢献)面積:平方キロ28,900平方km岩手県の約2倍国の位置南太平洋のメラネシアにある島嶼群(6つの大島と、100超の小島が1,670kmに渡って二列に並ぶ)を国土とする国家である。豪州の北東、パプアニューギニアの東に位置する。北にはナウル、東にはツバル、南東にはフィジー、南にはバヌアツがある。南太平洋では3番目に大きい排他的経済水域(135万平方km)を有す。険しい火山島と熱帯雨林に覆われている。最高峰はガダルカナル島のポポマナセウ山(2440m)である。人口:千人536千人(2010年、世銀)550千人(2011年、ネタ帳)人口密度:/平方キロ19人首都ホニアラ人口:72千人(2009年、CIA)東京からの大圏距離:5,450km時差:JST+2時間サマータイムなし民族メラネシア系(94.5%)、ポリネシア系3%、ミクロネシア系1.2%、ヨーロッパ系、中国系言語英語(公用語)の他、ビジン英語(共通語)を使用宗教キリスト教(95%以上)プロテスタント73.7%,カトリック19%,他のクリスチャン4.4% <CIA>政体立憲君主制元首エリザベス二世女王(英国女王)フランク・カブイ総督(2009年6月就任)議会一院制、議員数50名、任期4年政権首相 ゴードン・ダルシー・リロ(2011年11月就任)外務大臣 クレイ・フオラウ(2012年3月就任)外交基本方針PIF等地域協力機構に積極的に参加。英、豪等英連邦諸国及び近隣諸国との友好関係推進。台湾と外交関係あり。軍事軍隊はない主要産業農業(コプラ、木材)、漁業GDP構成サービス57.2%,農業33.8%,工業9%(2011年、CIA)労働力構成農業75%,サービス20%,工業5%(2000年、CIA)経済概況ソロモン中央銀行・2010年度経済レポートによると、世界経済危機の影響で2009年度の実質経済成長率マイナス1.2%に対し、2010年度は7.1%と強い回復傾向を示し、プラス成長の主要因は、一次産品(木材、農産物、水産物)の好調。次年度経済予測では、6.3%と前年度と比較し、わずかに鈍化、依然高水準を維持する見込み。GNIGDP:億ドル5.5億米ドル(2010年、世銀)8.7億米ドル(2011年、ネタ帳)855.1百万ドル(2011年、CIA 推定値)一人当たりGNI一人当たりGDP:1,030米ドル(2010年、世銀)1,578米ドル(2011年、ネタ帳)実質GDP成長率7.0%(2010年、世銀)10.7%(2011年、CIA,ネタ帳)物価上昇率5.6%(2010年、世銀)7.4%(2011年、ネタ帳)予算収入:314.1百万ドル支出:261.7百万ドル(2011年、CIA)(税+他の収入)/GDP比36.7%(2011年、CIA)予算収支/GDP比6.1%(2011年、CIA)財政収支/GDP比9.0%(2011年、ネタ帳)政府総債務残高/GDP比20.6%(2011年、ネタ帳)商業銀行優遇貸出利率13.2%(2011年末)対外負債166百万ドル(2004年、CIA)経常収支(国際収支)▼60百万ドル(2011年、ネタ帳)貿易収支A-BCIA数字採用▼126百万米ドル(2007年、世界貿易統計)▼ 133.8百万ドル(2010年、CIA、推定値) 3.3百万ドル(2010年、アジア開銀、外務省引用)?貿易額:輸出A159百万米ドル(2007年、世界貿易統計)226.5百万ドル(2010年、CIA、推定値)420百万ドル(2010年、アジア開銀、外務省引用)?同 :輸入B 285百万米ドル(2007年、世界貿易統計) 360.3百万ドル(2010年、CIA、推定値) 387百万ドル(2010年、アジア開銀、外務省引用)貿易品目:輸出木材、魚類、コプラ、椰子油、ココア(CIA)同 :輸入食糧、機械・車両、工業品、燃料、化学品(CIA)貿易相手国:輸出中国52.4%、豪州12.1%、タイ4.5% (2011年,CIA)同 :輸入豪州27%、シンガポール26.1%、中国6.4%,マレーシア5.8%,ニュージーランド5% (2011年,CIA)原油輸入100百万ドル(2011年、ネタ帳)対日貿易収支C-D▼2.6百万米ドル対日輸出C 9.3百万米ドル(2010年、財務省貿易統計、PIC引用) 7億円<2010年、外務省引用> 輸出品目原料品(木材・コルク)90.3%,魚介類9.5%対日輸入D11.9百万米ドル(2010年、財務省貿易統計、PIC引用) 11.8億円<2010年、外務省引用> 輸入品目輸送設備55.0%,一般機械23.8%,金属品7.7%,繊維品4.1%,化学品2.2%主要援助国 2010年豪州254,ニュージーランド25,日本16(単位:百万ドル)日本の援助実績2010年度まで有償:なし無償:221億円技術: 90億円日本の直接投資(2010年)76億円(2004年度まで累計)世界遺産(自然遺産)東レンネルはソロモン諸島の最南端に位置する島で、世界最大の珊瑚島。陸地37平方km、島から3海里が保護の対象。島内のテガノ湖は、島面積の約2割を占める南太平洋最大の汽水湖。当地域は、年間4千mm以上の降水量があり、濃霧に覆われる熱帯地域。レンネルオオコウモリ、ウミヘビ、マイマイなど特異な動物が数多い。また植相も固有のラン、タコノキが自生。
Dec 12, 2012
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古代イスラエル王国のソロモン王は、知恵の深さと浩瀚な知識で周辺諸国にも知られ、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったという。時日が過ぎて、スペイン探検家が、ガダルカナル島で砂金を発見、ソロモン王の財宝だと考えて、ソロモン諸島と命名した。現代では、隣島から移住した部族との武力対立が激しく、自国政府だけでは抑えきれず、周りの太平洋諸島国の協力でなんとか法秩序を維持しているが、経済は内戦のために破綻状態にある。<CIAによるこの国の背景> 英国は1890年代にソロモン諸島を保護領とした。第二次世界大戦で最も熾烈な戦いのいくつかがこの諸島で起こった。自治政府が樹立されて、その2年後には独立。少数民族の暴動、政府の不正行為、地方的な犯罪が、安定性や市民社会を浸食した。2003年アラン・カマケザ首相が法と秩序の再構築のために豪州の援助を求め、次の月には、豪州率いる多国籍軍が到着、地方軍隊を武装解除した。ソロモン諸島への地域支援ミッション(RAMSI)は一般的に法と秩序の復興、政治制度の再構築のために効果的であった。 //////////////////////////////////この国の貿易統計のデータが各機関で「乖離」しており、+-でも逆なので、困惑している。世界貿易統計<帝国書院>(2007年)、CIA(2010年)の貿易収支の符号が正しく見えるので採用した。引用のみをみているので、原本は正しいかも知れないが、脳幹梗塞に免じて、間違ったらごめんなさい。///////////////////////////////// ソロモン諸島共和国 略史<外務省、WIKIPEDIA>年月略史先住民時代紀元前1000年までにメラネシア系住民が定住。1568年スペイン人メンダナ、サンタ・イザベル島に来航。ガダルカナル島で砂金を発見し、これが捜し求めていた古代イスラエルのソロモン王の財宝だと考え「ソロモン諸島」と名付けた。1893年英国、南ソロモン諸島領有を宣言1900年英国、独より北ソロモン諸島を取得。コプラ産業が始まる。1942年日本軍、ソロモン諸島を一時占有1943年激戦の末(戦死者約2万人)米軍に奪取され、日本軍撤退(1950年まで米軍が駐留)1976年「ソロモン諸島」として自治政府樹立1978年7月7日英国から独立。イギリス連邦加盟国かつ、英連邦王国として。1986年サイクロンに襲われ大被害を受ける。1997年8月総選挙で、ウルファアル自由党党首の連合内閣が結成されたが、1998年末より首都ホニアラ(ガダルカナル島)で先住民ガダルカナル人、移民マライタ人(隣のマライタ島から移住)間の土地の領有を巡って部族対立が激化。2000年6月、マライタ人武装勢力による同首相拘束事件で、同首相は辞任。2000年7月ソガワレ政権が発足し、10月にはソロモン政府、ガダルカナル、マライタ両武装勢力代表、3者間で和平協定を締結。2001年12月国際選挙監視団のもとで、総選挙実施、ケマケザ政権が発足。同首相は、法秩序回復、財政再建に取り組んだが、その後も事態は深刻化、2003年4月豪州に支援を求めた。7月、豪州・NZの主導の、太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊で構成されるソロモン地域支援ミッション(RAMSI)約2200人が、ソロモンの法と秩序回復のために派遣され、治安は著しく改善。2006年4月国際選挙監視団のもと、総選挙が平和裡に実施され、首相指名選挙でリニ氏の選出後、反政府運動が勃発し、首都ホニアラ市のチャイナタウンで騒擾が発生、政府は、同騒擾沈静化のため、PIF諸国へ支援を要請。豪、NZ主導で軍・警察要員がRAMSIに増派された。その後、リニ首相は辞任。2006年5月RAMSIが監視する中、首相指名再選挙が行われ、5月にソガワレ政権が発足した。ソガワレ政権は少数5政党の連立政権であり、同首相の政治運営に対する与野党からの不満等が高まり、2007年11月、総督に対し、首相辞任要請が提起され、12月同首相に対する内閣不信任案が可決された。その後行われた首相指名選挙で、野党統一候補として立候補したシクア前教育相が首相に任命された。2007年4月2日地震、津波被害で50人以上の死者発生。2010年8月国際選挙監視団のもとで、総選挙が平和裡に実施され、フィリップ政権が発足した。我が国は、同総選挙に人的及び資金的貢献を行った。2011年11月不信任決議動議が議会に提出されたことを受けたフィリップ首相の辞任により,リロ政権が誕生。(ソロモン その2 に続く)
Dec 12, 2012
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(キリバス その1 から続く) 政体共和制イギリス連邦加盟国元首アノテ・トン大統領(2003年8月就任、2007年10月再任、2012年1月再々任)議会一院制、議員数46名(内2名は司法長官及びランビ島評議会代表者)、任期4年<21の有人の島にはそれぞれ地方議会があり、日々の問題を処理している。 主要政党は、真理の柱BTK、キリバス共同体党MTMの2党>政権大統領兼外務移民大臣 アノテ・トン外交基本方針豪、NZを含む太平洋諸国との友好関係維持・強化、経済自立達成、財政収入確保のため多様な国際関係を模索(1985年、ソ連と漁業協定締結、1986年失効)。トン大統領は2003年11月、台湾と外交関係を樹立、これに対抗し中国はキリバスと断交した。軍事軍隊はない主要産業漁業、コプラの生産経済概況(1)1979年に燐鉱石が枯渇して以来、漁業開発の促進等により新しい経済構造を模索中。LDC(後発開発途上国)である。経済概況(2) CIA33の珊瑚礁離島国・キリバスは資源が乏しく、太平洋諸島では最小の発展国の一つ。1979年に英国から独立時には商業的に見込みのある燐鉱石は掘り尽くされ、コプラや漁業が生産・輸出の根幹で、近年の経済は大きく変動し、経済発展は熟練工不足、弱体なインフラ、国際市場からの遠隔度で制限を受けている。 観光がGDPの1/5強であり、民間部門主導、金融部門と言ったものは発展の初期段階に過ぎず、EU,英,米、日本、豪州、ニュージーランド、カナダ、国連および台湾からの海外財政援助がGDPの20-25%を占め、海外商船船員からの仕送りが毎年5百万ドル強あり、キリバス政府予算は毎年豪州信託資金から15百万ドルを受領している。GDP構成サービス67.8%,農業24.3%,工業7.9% (2010年、CIA)労働力構成サービス65.3%,工業32%,農業2.7% (2000年、CIA)GNIGDP1.9億米ドル(2010年、世銀)1.7億米ドル(2011年、ネタ帳)164.3百万ドル(2011年、CIA)一人当たりGNI一人当たりGDP:2,010米ドル(2010年、世銀)1,593米ドル(2011年、ネタ帳)実質GDP成長率1.8%(2010年、世銀)1.8%(2011年、CIA)物価上昇率▼1.4%(2010年、世銀)失業率 11.3%(2005年、CIA)予算(2010年) CIA収入:56百万ドル支出:107百万ドル(税+他の収入)/GDP比33.8% (2010年、CIA)予算収支/GDP比▼31.4% (2010年、CIA)外貨準備高+金8百万ドル(2010年、CIA、推定値)対外負債10百万ドル(1999年、CIA,推定値)経常収支(国際収支)▼40百万米ドル(2011年、ネタ帳)貿易収支A-B▼ 71.5百万米ドル(2010年、アジア開銀)▼ 54.9百万ドル(2010年、CIA,推定値)貿易額:輸出A 4百万ドル(2005年、世界貿易統計)35.4百万米ドル(2010年、アジア開銀) 7.1百万ドル(2010年、CIA,推定値)同 :輸入B 68百万ドル(2009年、世界貿易統計)106.9百万米ドル(2010年、アジア開銀) 62百万ドル(2010年、CIA,推定値)貿易品目:輸出コプラ62%、観賞用魚、海草同 :輸入食品、輸送機器・機械、工業製品,燃料貿易相手国:輸出日本、韓国、豪州同 :輸入豪州、フィジー、ニュージーランド対日貿易収支▼25.7百万米ドル (2010年、日本貿易統計、PIC)対日輸出 6億円 5.8百万米ドル輸出品目魚介類99.4%対日輸入 2010年27億円31.5百万米ドル 輸入品目輸送用機械97.6%,一般機械1.4%主要援助国2009年度豪州11,日本6,ニュージーランド6(単位:百万ドル) 日本の援助実績2009年度まで有償:なし無償:176億円技術: 39億円世界遺産(自然遺産)Yahoo!トラベル世界遺産ガイドなどフェニックス諸島保護地域:世界最大の海洋保護区で回遊路、繁殖地域。海底に静かに眠る死火山、深海魚の生息地域。フェニックス諸島保護区は、南太平洋のギルバート諸島とライン諸島の間にあり、フェニックス諸島の8つの全島(ラワキ島、エンダーベリー島、ニクマロロ環礁、マッキーン島、マンラ島、バーニー島、カントン島、オロナ環礁)、及び2珊瑚礁(キャロンデレット珊瑚礁、ウィンスロー珊瑚礁)からなる。面積約40.8万平方kmの世界最大級の海洋保護区で、カントン島以外は無人島、生態系が手つかずのまま。サンゴ約200種、魚類00種の、海生哺乳類18種、鳥類44種を確認。政府は、大規模な漁業が行われれば生物多様性が損なわれる為、この海域での商業的漁業を禁止。
Dec 11, 2012
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世界で最も早く日が昇る国(「日の本」よりも3~5時間)で、 世界第3位の排他的経済水域を保有する。 この世界最大級の海洋保護区が世界自然遺産である。 しかし、ほとんどの島は、環礁の砂・岩石の小島や、 隆起した珊瑚礁で海抜は2~3m程度であり、地球温暖化 による潮位の上昇をもろに受けつつある。 政府は、「国土の半分は水没する」との見通しを公表し、 他国への全国民の移住計画を発表している。 この移住のため、国民の熟練労働者訓練支援を当国内で 行ってくれるように、日、米、豪州に呼びかけているのだ。 「燐鉱石が枯渇」で厳しい経済にあるどころの話ではない。 航路を探査した英国人船乗りの名前が由来の国(マーシャル諸島 のように)であるが、そのうちに陸地が航路になってしまいそう。 キリバス共和国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史先住民時代約2000年前、西方からカヌーでやってきたミクロネシア系の人々が先住民である。1606年スペイン人キロス、ブタリタリ島(ギルバート諸島)を発見1788年エストニア出身のロシア海軍提督であり探検家のクルーゼンシュテルン達が、諸島の航路探索を行った英国人ギルバートに因みジルベール諸島îles Gilbertと名付ける。1892年英国が、ギルバート諸島、次いでエリス諸島を保護領と宣言1916年英国が、ギルバート、エリス諸島を併合、植民地とする1939年英及び米国が、カントン島及びエンダベリ島(フェニックス諸島)を共同統治1941年日本軍、バナバ、タラワ、マキンを占領。一部の島は要塞化される。1943年同年から日本軍は米軍と「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」という激戦を行った。同年11月20日開始の「タラワの戦い」は要塞島の戦闘で壮絶な戦い。島には戦没者の慰霊碑がある。1956-1962年ライン諸島のクリスマス島が英米両国の核実験場となる。1971年自治領となる1978年エリス諸島はツバルとして英国から独立1979年7月12日キリバスとして独立(米国はほとんど無人のフェニックス諸島、3つの島を除くライン諸島で所有権を放棄した。)タバイ大統領~1990年任期満了1990年7月テアンナキ大統領就任1994年総選挙で与党大敗、テブロロ・シト大統領就任。1998年11月大統領選挙で再選。2002年11月総選挙で与党は苦戦、2003年2月の大統領選挙でかろうじて3選を果たすが、翌月に不信任案可決で辞任、議会は解散。2003年5月の議会選挙、7月の大統領選挙でアノテ・トン大統領が就任。台湾と外交関係を樹立、漁業とコプラ生産を主柱とした経済自立が評価され、2007年8月議会選挙で同大統領率いるBTK党が最多の(47.8%)議席を獲得、10月の大統領選でも同大統領が再選された。 <資料出所:外務省、CIA,PIC,WIKIPEDIA,世界経済のネタ帳、世界貿易統計など>国名キリバス共和国Republic of Kiribatiマーシャル諸島の命名の時と同様、航路を探索した英国人・トマス・ギルバート(Gilbert)に因み、仏語読みが転じて現国名となる。通貨豪ドル国旗WIKIPEDIA1932年のイギリス植民地時代に制定された国章をデザインした旗で、1979年7月12日に制定された。上半分には赤地にコグンカンドリ(希望の象徴)が日の出の太陽の上を飛んでいるデザイン。下半分は青い太平洋で、白い波線が3本あり、主要な国土のギルバート諸島、フェニックス諸島、ライン諸島を示している。太陽の17本の光はギルバート諸島の16個の島と、バナバを示している。海から昇る太陽の図柄で、この国が日付変更線に近く、世界で一番早く太陽が昇る国であることを表している。国の標語Te Mauri, Te Raoi ao Te Tabomoa(キリバス語: 健康、平和と繁栄)面積:平方キロ730平方km(無人島を除いた面積は717平方km)対馬並み国の位置太平洋上に位置するギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部等を領土とする国家で、イギリス連邦加盟国である。キリバスは33の環礁からなり、それらは赤道付近に350万km²にも渡って散らばっている。そのために世界第3位に相当する広大な排他的経済水域を有している。世界で最も早く日付が変わる国でもある人口11万人(2011年)人口密度:/平方キロ144人首都タラワ人口:43千人(2009年、CIA)東京からの大圏距離:5,136km時差:JST+3時間サマータイムなし時差 ギルバート諸島 フェニックス諸島 ライン諸島 JST+3時間(タラワ環礁)JST+4時間(エンダーバリ島)JST+5時間(キリスィマスィ島)民族ミクロネシア系(98%)、その他ポリネシア系及び欧州人が居住言語キリバス語、英語(共に公用語)宗教キリスト教(主にカトリック55%、プロテスタント36%)(キリバス その2 に続く)
Dec 11, 2012
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(ナウル その1 から続く) <資料出所:外務省、WIKIPEDIA,CIA,PICなど>国名ナウル共和国Republic of Nauru「ナウル」とはナウル語の「Anáoero(「私は砂浜に行く」の意)」が由来旧称:Pleasant Island通貨豪ドル対米ドル交換比率:2011年0.9695 2010年1.0902 2009年1.2822 2008年1.2059 2007年1.2137<外貨換金は不可能で、豪州ドルを持参する必要有り。>国旗黄色の横線は旗の高さの1/24の幅で、赤道を示す。青地は太平洋を、白星は赤道から少し南に位置するナウルを示す。12本の星光は、ナウルの12の原住民族を、白はナウルから鉱掘されるリンを示す。国の標語God's Will First(英語: 神意を第一に)面積:平方キロ21.1平方km国の位置ニューギニア島から東に2000km、太平洋南西部に浮かぶ珊瑚礁のナウル島にある共和国。ミクロネシアに属するが、周囲の島からは孤立し、北東のギルバート諸島からは約500km、南西のソロモン諸島からは約1000km離れている。人口9,378人(2012年) CIA人口密度:/平方キロ444人首都ヤレン(ナウルには自治体が存在せず、自治体の機能を国が担うが、事実上の首都機能がヤレン地区にある。)ヤレン地区人口:約1,100人(2003年)東京からの大圏距離:4,918km時差:JST+3時間サマータイムなし民族ミクロネシア系(ポリネシア、メラネシアの影響あり)ナウル人58%,その他太平洋諸島人26%,中国人8%,西洋人8%言語英語(公用語)の他、ナウル語を使用宗教主にキリスト教プロテスタント45.8%,カトリック33.2%政体共和国イギリス連邦加盟国元首スプレント・アルモゴ・ダブウィド大統領(2011年11月就任)議会一院制、18議席、任期3年政権大統領が、公共サービス担当大臣、外務貿易大臣、警察・緊急サービス担当大臣及び内務大臣を兼務。政権コメント (1) 政党は存在せず、政策課題よりも親類関係、人脈を重視した派閥形成の傾向。(2) 2007年12月誕生のスティーブン政権の安定性は、2010年4月の議会選挙結果、与党、野党の同数議席獲得で揺らぎ、議長選出できず、議会膠着状態。大統領は、緊急事態を宣言、その後同宣言は同年11月まで5カ月間継続。(3) 議会膠着状態解決後、政権は安定していたが、2011年11月、スティーブン大統領は汚職疑惑追及で辞任提出。続くピッチャー大統領も、6日後、不信任決議により解任。その後、元通信大臣のスプレント・ダブウィド氏が大統領に選出。外交基本方針地理的近接性から、豪州・NZをはじめ太平洋島嶼国と親しい。また、親西側を基本とし独自外交を推進。1987年12月ソ連との外交関係開設。また、1995年仏の南太平洋核実験再開に抗議し、仏との外交関係を停止。2002年7月、台湾と外交関係断交、中国と国交樹立したが、2005年5月、台湾との外交関係再樹立。軍事軍隊はない主要産業鉱業(燐鉱石)・・・ほぼ枯渇経済概況主要外貨獲得源の燐鉱石がほぼ枯渇、操業費用が負担となる厳しい状態。食糧、生活物資をほぼ海外輸入に依存、世界的な石油価格上昇の影響を受け、物価も上昇。通貨は豪ドルだが、国営銀行も機能せず、経済活動は破綻状態と思われる。GNI0.3億米ドル(2008年、UN)GDP構成サービス60.8%,工業33%,農業6.1% CIA一人当たりGNI3,433米ドル(2008年、UN)実質GDP成長率0.00%(2009年、アジア開銀)失業率90%(2004年) CIA予算収入:13.5百万ドル(2005年) CIA支出:13.5百万ドル対外負債33.3百万米ドル(2004年) CIA貿易収支A-B▼ 19.9百万ドル(2004年、CIA)▼ 53.7百万米ドル(2010年、アジア開銀)貿易額:輸出A0.1百万ドル(2004年、CIA)42.5百万米ドル(2010年、アジア開銀)同 :輸入B 20百万ドル(2004年、CIA) 96.2百万米ドル(2010年、アジア開銀)貿易品目:輸出燐鉱石、魚介類同 :輸入機械類、車両、建築材料、雑貨、食料品貿易相手国:輸出日本、インド、韓国同 :輸入豪州対日貿易収支 6.2百万米ドル(2010年、日本貿易統計)対日輸出6.4百万米ドル 機械機器97.9%対日輸入0.2百万米ドル 輸送機器78.2%,主要援助国2009年度 豪州19,3日本 2,2、ニュージーランド 1.2百万ドル日本の援助実績2010年度有償:なし無償:117百万円技術: 6百万円
Dec 10, 2012
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アホウドリなどの海鳥糞堆積を燐鉱として採取、輸出した小国で、一時は、Pleasant Island として、福祉国家を享受できたが、今世紀に入り資源枯渇化で飲み水(河川が無く、海水淡水化プラントを稼働)、電気にも不自由なほどに暗澹たる状況にある。赤道の南約40km、日本とNZのほぼ中間に位置し、国土面積は21平方km、一周19kmと、バチカン市国、モナコ公国に次いで面積が小さい共和国。また人口も、バチカン市国、ツバルに次いで少ない。・・・・・・・・ところで、「写経の参考資料」として見させてもらっているデ-タが、脳幹梗塞の小生には、なぜか出所によって違って見える。///////////////////////////通貨単位の違い(米ドル、豪ドルなど)、速報・確報など推計方法の差、転記ミス(輸出を輸入と逆記載)、複式簿記なのか水増し増幅など、混乱する。確認するのには骨が折れるので、老人には、並べておくだけにする。粗探しの場所ではないので、疑問に思われたら原資料を追跡下さい。<今後についても同様です。>//////////////////////////////// ナウル共和国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIA、CIA>年月略史西洋人発見前ポリネシア人とメラネシア人が先住民として居住1798年英国の捕鯨船ナウル島発見。プレザント島と命名。1888年独領。翌年に豊富な燐鉱石を発見。1906年燐鉱石の採掘が始まる。1914年第一次世界大戦で、豪州が島を占領し、英国の支配下。1920年豪州・NZ・英国の3国を施政国とする国際連盟の委任統治領。燐鉱石は英国が採掘。1940年第二次世界大戦開始、独の仮装巡洋艦がナウルの英商船を攻撃。1942年日本軍による占領1946年年初に米合衆国が占領1947年豪州・NZ・英国の3国を施政国とする国連信託統治地域1968年1月31日英連邦内の共和国として独立。ナウルの首長、ハマー・デロバートが初代大統領になる。(燐鉱石の採掘権は1970年まで残留)1976年バーナード・ドウィヨゴ大統領就任(~1978年)1987年南太平洋非核地帯設置条約に調印1989年初めて燐鉱石の産出量が減少。1999年地球温暖化による海面上昇を解決するため国連に加盟。アホウドリを始め海鳥糞堆積のリン鉱石の採掘で栄え、一時は、世界最高の生活水準を享受、税金徴収なし、医療、教育の無料、年金制度(ベーシックインカムを全年齢層に給与支給)などの手厚い社会福祉提供をしていた。唯一の収入源ともいえるリン鉱石がほぼ枯渇したため、諸外国からの援助取り付けのための政治活動を活発化させる。(20世紀末の鉱石の枯渇により破綻、基本的インフラ維持さえ困難で深刻な経済崩壊が発生。) 2001年豪州に向かうアフガニスタン難民を、同国に代わり受け入れて豪州から援助を受けたが、難民は豪州行きを固執し、引き渡す。2002年中華民国(以下台湾)と国交断絶、中華人民共和国(以下中国)と国交樹立し、中国から 1.3億ドルの援助を受けた。2003年2月21日BBC放送が、ナウルの海外通信が途絶えたとニュース配信。政変やクーデターではなくて、資金的な理由で通信設備が維持できなくなった事が、その本当の理由と判明。2004年豪州から1,700万ドルの無償資金供与。2005年5月台湾と国交復交。中国と再び国交断絶。2006年4月保有していた旅客機を豪州に差し押さえられていたため、台湾の援助で「エア・ナウル」のボーイング737旅客機を購入。2007年12月マーカス・スティーブン前海洋資源庁担当大臣兼通信大臣兼スポーツ大臣が新大統領に選出された。(ナウル その2 に続く)
Dec 10, 2012
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P.S. (Dec.4) 高速道路笹子トンネル事故 笹子トンネルの吊り天井は、一般の工場などでのダクトと同じ 効果を狙う排気菅のための工夫らしい。 排気ダクトであるから、大気公害の源を大量に含んだ空気を 排出し、セメント、ボルトなどの腐食は激しいことが推定される。 その検診のために必要な梯子さえ常備していないのも恐れ 入る。 医師が患者に当てる聴診器のパイプが切れているのに、 取り替えないようなものだ。 さて、ダクトならもっと軽くて、強靱な物質で構築できないか? 宇宙空間と往復できる航空機・ロケットを作れる国なのに! また、他所では、航空機エンジン様のものがトンネルの上部 に付いているのをよく見かけるが、それで代用できないか? けれど、吊し物だと落ちる危険が避けられないかも。 家庭用の掃除機に、外国製などでサイクロンを発生させて、空 気を送り出すものがあるが、ダクトのように上部でなくて、トンネ ル中間数カ所で「側面の拡張」で、側面からサイクロンを発生さ せて、片方に空気を送り出す送風機を取り付けられないのか? トンネル掘削時には、「煙突」とまではいかないまでも、一方を 高く、他方を低く設計して、空気の流動を自然に高い方に流れ るような工夫を講じるべきではないだろうか? 高速道路無料化などで財布の中身が助かるよりも、 ダクトのための吊り天井構造の取り替えは実行すべきである。 「無駄に公共投資をするのは控えるべき」だが、財布を持って いる本人の命が危ない方が、注目されるべきである。 利用者の安全を考えた、「抜本的な改良工事は地震国日本の 政府の使命ではないか」、と思う。 標語に「そんなに急いで何処へ行く・・」などがあり、たしかに 狭い日本ではあるが、小生などは宅急便の便利さ、安易さに 慣れきっており、高速網は現代には必須のものである。 くどくなるが、言いたいことは、「無料化よりも、安全化を 最優先にしてもらいたい」、のである。 フリーパスで、慌てて行く先が、想定外の時刻に、突然、 「天国」、「地獄」であっては国民は困るのだ。 「コンクリート」は人間が考えた物質であり、「ダイナマイト」 だってノーベルが考えた物質であり、これを有効に利用する 事が大切であり、極端に物質文明を否定するのは、人間否定 に繋がるような気がしてきた。 小生にはバランスが欠けているが、調和が必要なのだろう。 言葉に操られるような国民とはなりたくないものだが、 政治家のいうことは百家争鳴で判りにくい。
Dec 9, 2012
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(パラオ その1 から続く) 政体大統領制元首ジョンソン・トリビオン大統領(2009年1月就任、任期4年)議会二院制(上院13名、下院16名)、任期4年政権大統領 トミー・レメンゲサウ(2001.1-2009.1、2013.1返り咲き)国務大臣 (ビクトール・ヤノ)→ビリー・クアルティ外交基本方針1994年に国連加盟、国際機関(WHO、IMF、UNESCO、FAO、IWCなど)や地域機関(PIF、PC、FFAなど)に加盟。1999年には台湾と国交を締結。米国、日本、台湾との関係を重視。軍事米国との自由連合盟約(コンパクト)に基づき、国防・安全保障権限を米国に委任。有事に米軍の軍事的土地利用を承認。なお、コンパクトに基づき、パラオ市民を米国軍人として数多く採用。主要産業観光業経済概況米国とのコンパクトに基づく無償援助へ依存、近年は台湾からの援助も増加。日本、米国及び台湾からの無償援助に依存する建設業、食料品・消費財輸入に立脚する商業及び観光産業が主要産業。それぞれの産業では外国人労働依存度が高い。また、パラオ人の過半数が公務員。観光では、日本や韓国、台湾から直行便が運行、2011年には観光客総数が109千人に達した(内、日本人観光客数は37.8千人)。製造業、農・漁・鉱業等は発達していないが、漁業に関しては、台湾資本を中心とした外国漁業企業がパラオ近海で操業権を取得して、日本、台湾、中国にマグロを輸出。食糧に関しては、タロイモやキャッサバの生産及び近海漁業はあるが、大部分を米国本土からの輸入に依存。GDP構成比サービス76.8%,工業20%,農業3.2%(2009年、CIA)GNI 1.5億米ドル (2011年、世銀)一人当たりGNI7,250米ドル (2011年、世銀)実質GDP成長率 5.8% (2011年、世銀)物価上昇率 ▼0.8% (2011年、世銀)失業率 4.2%(2005年、CIA)予算(2010年、CIA)収入:89.0百万ドル支出:94.3百万ドル(税+他の収入)/GDP比 54.3%(2010年、CIA)予算収支/GDP比 ▼3.2%(2010年、CIA)貿易収支A-B ▼101.4百万ドル(2010年、CIA)貿易額:輸出A 11.8百万米ドル(2008年、アジア開銀) 5.9百万ドル(2010年、CIA)同 :輸入B 130.3百万米ドル(2008年、アジア開銀) 107.3百万ドル(2010年、CIA)貿易品目:輸出甲殻類、マグロ、コプラ、衣類 (CIA)同 :輸入機械・機器、燃料、メタル、食料品(CIA)貿易相手国:輸出日本、フィリピン(アジア開銀)同 :輸入日本、中国、韓国(アジア開銀)対日貿易収支 6.2百万ドル(2010年) 6.4億円(2011年度、貿易統計)対日輸出 16.1百万ドル(2010年) 13.6億円(2011年度、貿易統計) 輸出品目(2010年)魚介類98.4%,加工食品類1.3%対日輸入 9.9百万ドル(2010年) 7.2億円(2011年度、貿易統計) 輸入品目(2010年)機械機器70.7%(一般機械27.8%,電気機械25.2%,輸送機械16.5%),加工食品類16.8%主要援助国 米国21,日本8,豪州1(単位:百万米ドル、2009-2010年平均、DAC)日本の援助実績2010年度まで有償:なし無償:181億円技術: 54億円世界遺産(複合遺産)パラオの南ラグーンのロックアイランド群が自然・ 文化ともにその普遍的価値(*)を認められた。(*マッシュルーム型の島々が連なる「ロックアイランド」やマリンレイクなど、独特の地形景観に加え、385以上サンゴ種の生息や、 サメ、ジュゴンの海洋生物、世界でも珍しいクラゲ湖「ジェリーフィッシュ レイク」といった固有種の存在)
Dec 8, 2012
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オーイ! 中村君。 と呼びたくなる。 親日国である。国の標語「 Rainbow's End 」は、同名の小説が2007年SF賞を受賞したように、夢がある国である。世界一人口が少ない首都。日本の国旗と似ている「日の丸3兄弟」のひとつ。日系中村4兄弟が3権(司法、立法、行政)の長、に加えて日本大使を担った国。 パラオ共和国 略史<外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史有史以前約4千年前から人が居住1500年代スペイン人がミクロネシアの島々に来航。1885年スペイン植民地となる。天然痘、搾取などで人口は90%ほど減少。1899年スペインが、グアムを除くスペイン領ミクロネシアの島々を独に売却(450万ドル)。ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行ったが、インフラ整備や現地人教育はほとんど放置。1914年第一次世界大戦始まる。日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領。1920年国際連盟から日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。1922年南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁がコロールに設置される。パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人。学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われた。太平洋戦争では、コロールは日本海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点であったため、西方のフィリッピン戦線と連動して連合軍の攻撃対象となり1944年にはペリリューの戦いなどで日・連合両軍に多くの戦死者を出した。1945年第二次世界大戦終了後、米軍占領始まる。1947年国連の太平洋信託統治領として米国の統治始まる。1965年ミクロネシア議会発足。パラオも代表を派遣。1969年太平洋諸島信託統治地域に関する日米協定(ミクロネシア協定)締結。1978年住民投票の結果、パラオはミクロネシア地域の統一国家からの離脱を決定。1981年憲法発布。自治政府発足。1982年米国との間で自由連合盟約(コンパクト)案合意。以後、1983年2月、1984年9月、1986年2月、1986年12月、1987年6月及び8月(無効)、1990年2月の7回住民投票が実施されたが、75%以上の賛成を得ることが出来ず不承認。1992年住民投票にて憲法修正案(憲法の非核条項を自由連合盟約に適用しないことによりコンパクト案承認を容易にするもの)が承認された。1993年年初第5代大統領に日系2世のクニオ・ナカムラが就任(~2001年初)。<中村國雄:父は伊勢市出身の船大工で、ペリリュー首長部族の娘との間に生まれた8人兄妹の7番目。二番目の兄は元議会議員・現駐日大使、3番目の兄は立法議会議長、4番目の兄は最高裁判所初代裁判長。>1993年第8回目の住民投票によりコンパクト案承認(11月9日)。1994年10月1日コンパクト発効(2044年まで有効)、独立。1994年12月国連加盟2001年レメンゲサウ大統領就任。2004年11月再選。 環境問題を最優先課題に行財政改革による政府の軽量化、効率化とともに海外投資促進と援助による農業、水産業、観光業を中心とした経済活性化を目指した。2008年11月トリビオン大統領に交代。 「開発」分野を最優先に「教育」「環境」「福祉」政策を重視。米国との自由連合盟約(コンパクト)に基づく財政援助は2009年に一旦終了したが、2010年9月、今後15年間で250百万ドルの財政援助を供与する第二次コンパクトに署名。 <資料出所:外務省、WIKIPEDIA,「太平洋諸島センターPIC」など>国名パラオ共和国Republic of Palau<パラオはマレー語で「島」の意>通貨米ドル国旗 中央のやや旗竿寄りに金黄色の円を配し、明るい青を背景色としたものである。黄金色の円は月を表し、パラオ人の機が熟し独立国となったことを表す。また月は収穫や自然の循環、年中行事に重要な役割を果たす。明るい青はパラオが広大な太平洋に位置、過去の異国統治による影からの脱出を表わす。<日本、バングラデシュ、パラオの旗が似ていて、「日の丸3兄弟」と言われることもある。>国花プルメリア(キョウチクトウ科)国の標語Rainbow's End 「虹の終わる場所」同名の著書で、2007年の「ヒューゴー賞=SF功労賞」受賞作品あり。面積:平方キロ488平方km屋久島並み国の位置 太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国。パラオ構成の島は約200、無人でない島は10未満。首都マルキョク、パラオ国際空港があるバベルダオブ島と、旧首都・コロール島とは橋で結ばれている。人口:千人20,609人(2011年、世銀)人口密度:/平方キロ 42人首都マルキョク(2006年10月、最大の都市:コロール・・・・・人口12,676人より遷都)人口:391人(2000年)・・・世界一人口の少ない首都東京からの大圏距離:3,179km時差:なし民族ミクロネシア系69.9%,フィリッピン人15.3%,中国人4.9%(2000センサス)言語公用語(パラオ語64.7%、英語9.4%)、フィリッピン語13.5%、中国語5.7%,日本語1.5% (2000センサス)宗教キリスト教中心:カトリック41.6%,プロテスタント23.3%,土着8.8% (2000センサス)(パラオ その2 に続く)
Dec 8, 2012
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(パプアニューギニア その1 から続く) 政体立憲君主制元首エリザベス二世女王(英国女王)、マイケル・オギオ総督(2011年1月選出) 議会一院制、議員数109名、任期5年政権首相 ピーター・オニール外務移民相 アノ・パラ外交基本方針旧宗主国、援助国・貿易相手国の豪州と対等関係の促進、国境を接するインドネシアと友好関係維持、近隣諸国と連携強化等が外交機軸。また、アジア太平洋地域一員として、日本ほかアジア諸国との関係強化、同地域内多国間外交にも注力、太平洋島嶼地域で唯一のAPEC加盟国。同地域の大国で、太平洋諸島フォーラム(PIF)の発言力は強く、地域リーダー。軍事予算 39.0百万米ドル(2008年度予算)、兵役 志願兵制度、兵力 兵員規模 約2,000人(陸軍1,400人、空軍300人、海軍300人)主要産業鉱業(金、原油、銅)、農業(パーム油、コーヒー)、林業(木材)経済概況2003年以降はプラス成長。鉱業・非鉱業産品の増産・価格上昇、順調な気候条件を反映して輸出部門が主導。輸出好調は、輸入減少及び財政引き締めとも相俟って為替相場の安定、インフレ率の低下、外貨準備高の増加をもたらし、国内民間部門の活動と雇用が成長。また2014年頃から、LNG(液化天然ガス)の産出も見込まれている。GDP124.5億ドル(2011年)CIA <単位訂正>一人当たりGDP2,500ドル(2011年、PPP)CIA実質GDP成長率 8.9%(2011年)CIA物価上昇率 8.4%(CPI、2011年)CIA失業率 PIC地域により4~80%で、都市部が高く社会問題化 貧困ライン人口 37%(2002年)CIAGINI係数 50.9(1996年)CIA予算収入:39.2億ドル(2011年)CIA支出:39.5億ドル(2011年)(税+他の収入)/GDP比 31.5%(2011年)CIA予算収支/GDP比 ▼0.2%(2011年)CIA公的債務/GDP比 22.9%(2011年)CIA商業銀行優遇貸出利率 10.8%(2011年末)CIA外貨準備(金を含む) 43.2億ドル(2011年末)CIA対外負債 51.4億ドル(2011年末)CIA貿易収支(国際収支)A-B 27.2億ドル(2011年)CIA貿易額:輸出A 67.9億ドル(2011年)CIA同 :輸入B 40.7億ドル(2011年)CIA貿易品目:輸出 CIA石油、金、銅鉱、木材、椰子油、コーヒー、ココア、エビガニ、クルマエビ同 :輸入機械・輸送設備、工業品、食物、燃料、化学品貿易相手国:輸出豪州31.5%,日本7%,中国6.2%(2011年)同 :輸入豪州36.9%,シンガポール14.1%,マレーシア9.1%,日本5%,インドネシア4.7%,米国4.7%(2011年)対日貿易収支 7.0億ドル(2010年)日本貿易統計対日輸出867億円(2010年)日本貿易統計 9.9億ドル(2010年)日本貿易統計 輸出品目 PIC(2010年)原材料90.4%(金属資源88.5%,木材・木製品1.7%)石油・石油製品5.6%,食品3.9%(コーヒー等2.9%,魚類0.9%)・・金属資源=銅、銀、アルミニウム<金属資源・石油資源としてみると94.1%を占める。太平洋諸島国では、他に金属・石油資源を日本に輸出している国はない。同諸島国からの全輸出額の8割強を占める重要な国である。>対日輸入256億円(2010年)日本貿易統計 2.9億ドル(2010年)日本貿易統計 輸入品目 PIC(2010年) 機械設備85.4%(輸送用機器65.8%,一般機械16.8%,電気機械2.9%),その他の原材料別製品9.4%非金属鉱物1.8%,金属品1.3%主要援助国2010年豪州387、日本41,ニュージーランド24(単位:百万ドル)日本の援助実績2010年度まで有償:704億円無償:355技術:263日本の直接投資(2010年)13億円 世界遺産(文化遺産)クックの初期農業遺跡は、パプアニューギニア南部にある7000年以上前にまで遡る農業(タロイモ、バナナ)の遺跡である。
Dec 7, 2012
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この国は、太平洋諸島国のなかで、唯一、金属・石油資源を日本に輸出している国であり、同諸島国から日本への全輸出額の82%を占める重要な国である。本島ニューギニア島は、島の東半分が当国領土で、西半分はインドネシアに併合されている。唄で有名な、ラバウルは本島の東方のニューブリテン島にあり、嘗て首都であったことがある。本島の東半分は、独と英が保護領土としていたが、英の保護領土(島の東半分の南側)は英のコモンウエルスである豪州に移り、第一次世界大戦で独が敗戦すると、独の保護領土(島の東半分の北側)も豪州が占領した。1942年~1945年にかけて、独への対戦のために英国・豪州が西方を防衛する間隙を縫って、日独伊三国同盟側の日本軍がこの島を占領した。終戦後は、国連の豪州施政権による信託統治を経て、内政自治、さらに1975年には英連邦の一員として独立した。初代大統領には「建国の父」と崇められるソガレ首相が就任し、長期政権を保ったが、海外病気療養中に、野党側から新たな首相が「選出」された。新首相の選出は違法であるとの最高裁判所の判断がでて、英女王の代理である総督が一旦は前首相を指名したが、その後、新首相を指名し直した。二人の首相が同時に存在する混乱が起きて、軍部も争う事態が発生し、今年の6月~7月にかけての議員総選挙後の指名選挙を待っていた。総選挙後の議員による首相指名選挙では、前首相は独立の功労者ではあるが、76才と高齢であるためか議員の支持者は少なく、先の新首相が圧倒的な議員支持を受けて、再び首相に選出された。当地では、民主的な選挙と言うよりも、部族間の闘争が絡むことは否めない。政府情報では、都市部の失業率は異常に高く、首都の一部などでも治安悪化の状態にある。 まだまだ、多数決民主主義が万能の政治制度であるとは言えない、ようだ。 WEB上の聖教新聞2012.6に「多様性を生かした団結を」という表現があるが、もしかしたら、この国の国是・「多様性は団結なり」と相通ずる「法話」なのかもしれない。(小生は神道派である。) パプアニューギニア独立国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIA、太平洋諸島センター、PNGニュースなど>年月略史16世紀前半~19世紀後半(この地の人類の存在は3万年前に遡る)ヨーロッパ人の来訪(1512年のポルトガル人探検家、その後にオランダ人探検家の渡来。ニューギニアの名はアフリカとの類似により命名)1884年<本島3分割>ニューギニア島(以下本島という)は、西がオランダ(イリアン・ジャヤ)、北が独(ニューギニア)、南がイギリス(パプア)に3分割された。<今後関係する記述区域>本島東半分について記述する。その北部の独保護領(独領ニューギニア)、その南部の英保護領(英領ニューギニア) (記述しない島の西半分の補足メモ)<後にインドネシアへ併合された区域>蘭のニューギニアの西半分(420,540平方km)は現在、インドネシア領地域にあり、違った推移を辿る。蘭は西海岸に商館を設置、上記の3分割後に蘭領ニューギニアとし、蘭領インド(インドネシア)に併合した。1942年~1944年まで、日本軍が同地域の北部海岸を占領。1949年に蘭領に戻り、1952年蘭はパプア人の自治権を認めたが、インドネシアとの対立が深刻化、1960年ソ連の軍事援助を受けたインドネシア軍が、蘭の西パプア共和国の独立承認を良しとせず、軍を進攻させた。ソ連の影響を恐れた米国の調停で、西パプアは1962年国連の監視下に置かれたが、翌年インドネシアに引き渡されて、インドネシアに併合されている。パプアへはインドネシア人の移植も行われて、独立運動、弾圧などで、隣国・豪州を巻き込み関係悪化に繋がっている。1906年英領ニューギニア、豪領となる1914年第1次世界大戦勃発に伴い、豪が独領ニューギニアを占領1920年国際連盟、独領ニューギニアの統治を豪に委任1942年日本軍進駐1945年日本軍降伏、豪州が統治1946年豪州を施政権者とする国連の信託統治地域となる1963年住民議会設置1973年内政自治に移行1975年9月16日英連邦の一員として豪州から独立。初代ソマレ氏が首相に就任。(ソマレ首相は「建国の父」と呼ばれ、計5回、通算17年にわたって首相を務めた。)2007年与党:国民同盟党(NA)が再び勝利、ソマレ首相が再任2011年8月<二人の新・旧首相の同時存在状況>4月以降シンガポールで病気療養中のソマレ首相の不在中に、野党:人民国民会議党(PNC)と一部与党が同調して、野党のオニール氏が首相に選出され、同じく野党のPNG党のナマ党首が副首相に就任、オニール内閣が発足。同年12月首相選出プロセスを最高裁判所が違憲と判断、オギオ総督はソマレ氏に組閣を命じた。その結果、憲法上の首相と議会の信任を受けた首相が併存する事態が発生。オギオ総督はその後、議会で多数を握るオニール氏を首相と認めたが、ソマレ氏側はこれを受け入れず、政治的混乱が続く。2012年1月26日未明にソマレ前首相を支持する元軍幹部ほか30名が国軍施設を攻撃、国軍司令官を一時軟禁する事件が発生。同日中に制圧された。主導したササ退役大佐は自身の国軍司令官就任とソマレ氏(76才)の首相への復職を訴えたが28日に逮捕された。<国際機関の分析>「現在の状況は西洋型の多数決に基づく民主主義が現地メラネシアの伝統的政治と調和しないことを示している」と国際機関は現地を分析している。2012年8月3日ピーター・オニール氏が、総選挙で当選した国会議員らによる首相指名で賛成94,反対12の大差で第9代政府首相に選出された。首相:ピーター・オニール、副首相 レオ・ディオン、財務大臣ドン・ポリエ <資料出所:外務省、CIA,WIKIPEDIA、「太平洋諸島センターPIC」など>国名パプアニューギニア独立国(Independent State of Papua New Guinea) 「縮れ毛」+「新しいギニア」の意幸福度(エイドリアン・ホワイト氏)86位通貨キナ1キナ=39.1円(2012年4月)国旗主に赤、黒の斜塗りの旗で、赤地部分にはアカカザリフウチョウ(赤飾風鳥)のシルエット、黒地部分には南十字星を描写。赤、黒は民族伝統色であり、また、赤・黒・黄の組み合わせは1918年まで支配したドイツ帝国の旗色。国花(Webで見るとこの国で年中花咲く「ハイビスカス」という人もいる?)国の標語「多様性は団結なり」 面積:平方キロ462,840平方km日本の約1.25倍国の位置ニューギニア島の東側半分を占め、ニューギニア島の西側半分はインドネシア領イリアン・ジャヤ州。人口:千人6,888千人(2010年)人口密度:/平方キロ15人首都ポートモレスビー市域人口:254,158人(2000年)東京からの大圏距離:5,086km時差:JST+1時間サマータイムなし民族メラネシア系言語英語(公用語)の他、ピジン英語、モツ語等を使用宗教主にキリスト教。祖先崇拝等伝統的信仰も根強い。(パプアニューギニア その2 に続く)
Dec 7, 2012
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(ミクロネシア その1 から続く) 政体大統領制(各州1名ずつ選出の4年任期議員4名の中から、2年任期議員10名を含めた全議員14名により選出。原則ながら各州の輪番制。)元首エマニュエル・マニー・モリ大統領(2011年5月再選、任期4年)(チューク州出身)議会(1) 一院制(4年任期議員数4名、2年任期議員数10名(2) チューク(旧称トラック)州5名、ポンペイ(旧称ボナベ)州3名、ヤップ州・コスラエ州各1名(3) 政党はなし。政権大統領 エマニュエル・マニー・モリ、副大統領 アリック・アリック、(コスラエ州出身)外務大臣 ローリン・ロバート(チューク州出身)(閣僚は大統領が任命し議会が承認する。)基本外交方針(イ)自由連合関係にある米国との緊密な関係、南太平洋諸国(特に近隣諸国(マーシャル、パラオ)との協力関係)、ASEAN諸国との友好的な関係及び日本との友好・経済的関係の促進、(ロ)国際社会における地位の向上(ハ)国際社会のメンバーとしての責任遂行。軍事米・ミクロネシア自由連合盟約により、当連邦の安全保障、国防上の権限は米国が有する。また、当市民が米軍兵士に採用されている。なお、当連邦内に米軍の軍事基地はない。主要産業水産業、観光業、農業(ココナッツ、タロイモ、バナナ等)<産業政策:漁業・農業・観光を軸とする経済的自立の達成>産業補足(1)<WIKIPEDIA>漁業、農業(ココナッツやキャッサバ)が主産業。魚介類を主に日本へ輸出、生活必需品を主にアメリカ合衆国から輸入。貿易額は赤字。IMF加盟で、歳入の約5割がアメリカからの援助額。2003年から20年間で13億ドルを援助の合意で漁業・農業・観光による自立経済を目指す。産業補足(1)<CIA意訳>経済活動は主に農業、水産業に拠り、高品質の燐酸基以外は採掘の資源は僅か。観光産業の潜在性はあるが、遠隔地にあって、設備が伴わず、空路が限られ発展性に制約がある。コンパクトで1986-2001年の間は13億ドルを米国から提供されたが、その後は、削減されて、2023年まで毎年数百万ドルの援助を保証し、以降も永続的な寄与を基金として設立。国家中期見通しは、米援助削減と、民間部門の緩い成長から脆弱(fragile)である。GDP:GNI238.1百万ドル(2008年)CIA3.2億ドル(2011年)GDP構成サービス55.9%,農業28.9%,工業15.2%(2004年)労働力16,360人(2008年)CIA就業構成サービス64.7%,工業34.4%,農業0.9%一人当たりGDP一人当たりGNI2,200ドル(2008年、PPP)CIA2,900ドル(2011年)実質GDP成長率0.3%(2005年)CIA1.4%(2011年)物価上昇率3.5%(2010年、CPI推定値、CIA)3.4%(2011年、CPI推定値、CIA)5.5%(2011年)商業銀行優遇貸出金利14.35%(2011年末、CIA)失業率22%(2000年)CIA貧困ライン以下人口26.7%(2000年)CIA予算(FY2007、CIA)収入:166百万ドル支出:152.7百万ドル(税+その他収入)/GDP%69.7%予算/GDP比5.6%外貨準備高(金を含む)75.1百万ドル(2011年、CIA)対外負債60.8百万ドル(FY2005年、CIA)貿易収支A-B▼107.8百万ドル(2004年)▼126.5百万ドル(2007年)貿易額:輸出A24.9百万ドル(2004年)16.2百万ドル(2007年)同 :輸入B132.7百万ドル(2004年)142.7百万ドル(2007年)貿易品目:輸出魚類(マグロ)、ビートル・ナッツ同 :輸入食糧及び飲料製品(含む飲料水)、燃料及び機械油、機械類貿易相手国:輸出米国、日本同 :輸入米国、シンガポール、日本対日輸出7.6百万ドル(2010年) 輸出品目魚類99.9%(2010年)対日輸入14.8百万ドル(2010年) 輸入品目機械機器66.2%(輸送機械29.5%,一般機械26.3%,電気機械8.9%,),金属品11.1%,食品9.4%(2010年)主要援助国2009-2010年平均米国107,日本 13,豪州 2単位:百万ドル日本の援助実績2010年度まで有償:なし無償:190億円技術: 73億円
Dec 6, 2012
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「神秘的で、生きるエネルギーの満ちあふれた、この国が 世界にどう貢献できるかを考えた時、命のリチャージを提供 する環境観光立国のあり方であり、レインボウネシアと それを名付けた」という、国のビジョンが見えてくる。 国連委託統治から1986年に独立したが、米国支援(コン パクト)に依存した経済が続いている。 現大統領は、日系4世(曾祖父は高知県出身)の元銀行マン。 この米国支援への過度の依存と、漁獲過剰、大幅な失業が 関心事である。 ・・・・・・・・・・・・・以下に、小生個人が「不明なこと」を申し上げてすみません。 /////////////////////////////////////// ミクロネシアについて外務省の二国間関係2.「経済関係」の (1) 貿易額(2011年度、財務省貿易統計)の輸出・入額が 逆ではないか。つまり日本の貿易赤字でなく貿易黒字であろう。 他の国でも、逆転記載があったように思う。 ///////////////////////////////////////// 同じく、「太平洋諸島センター」2010年の日本の商品別国別 輸出入状況は[有難い統計情報]であるが、右端にある (US$1,000)の文字は「単位が千ドル」と「誤解」される。 この国の全世界向け輸出・入額は輸出で数千万ドル、輸入で 数億ドル(2007年、FSM)なので、日本向けがそれほど多く ないはずである。 脳幹梗塞の小生には、確認は難しいので、「外務省の二国間 数字」は使用せず、また、「太平洋諸島センター」の数字を、 (US$1,000)でなく、(US$)と読み直して、勝手に「写経」。 ///////////////////////////////////////// これは、リハビリ練習で、公文書でないので、お許し願いたい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ミクロネシア連邦略史<資料出所:外務省。WIKIPEDIA>年月略史先史時代BC4000年~BC2000年には、フィリピン、インドネシア地方から、東側のポンペイ州、チューク州にはギルバート諸島、ソロモン諸島からツバル、キリバスから渡来の定住者であり、最初の開拓者は、進んだ農業(栽培)技術と高度な航海知識を持つオーストロネシア語族の民族と推測される。ポンペイ島では、12世紀から14世紀頃にかけてシヤーウテール王朝が支配、コスラエでは14世紀から19世紀中頃まで王朝あり。1500年代スペイン人がミクロネシアの島々に来航。1869年独が貿易拠点をヤップ島に開設、スペインは1885年軍隊を派遣1886年スペインがマリアナ諸島、カロリン諸島の領有権宣言。要塞建設開始。1899年米西戦争に敗れたスペインの国力が疲弊して、パラオを含むカロリン諸島を独に売却。独は「独領カロリン諸島として植民地化。1914年第1次大戦始まる。日本は現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含むミクロネシア(南洋群島)を占領。1920年国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。<当時は、先住民4万人に対し、日本人居住者85千人超がいた。植民政策で日本人事業家が経済を活発化、サトウキビ、採鉱、漁業、熱帯農業の主要産業で、ミクロネシアは貿易黒字が継続。>1944年2月日本軍の天然要塞と化したトラック諸島基地を徹底的に米軍が攻撃、陥落させた。日本統治で繁栄した産業基盤は爆撃で灰燼に帰し、島民は困窮した。1945年太平洋戦争終結。米軍の占領始まる。1947年国連の太平洋信託統治領として米国の統治始まる。ミクロネシア地域を6つの地区(ポンペイ(旧称ポナペ)、コスラエ(旧称クサイエ島。当時は、ポンペイの一部とされていた。)、チューク(旧称トラック)、ヤップ、パラオ、マーシャル諸島、マリアナ諸島北部)に分けた。1965年ミクロネシア議会発足。太平洋諸島信託統治地域に関する日米協定(ミクロネシア協定)締結。1969年信託統治終了後の政治的地位に関し、米との交渉を開始。その後、北マリアナ、マーシャル、パラオ、その他のミクロネシア地域(現ミクロネシア連邦)がそれぞれ米と個別に交渉することとなる。1978年ヤップ、トラック、ポナペ、コスラエの4州でミクロネシア連邦を構成する憲法草案が住民投票の結果承認され(マーシャル諸島とパラオでは住民投票で否決)、国連が承認。1979年憲法施行(各州は独自の州憲法をもつ)。自治政府発足。初代大統領に日系のトシヲ・ナカヤマ氏が就任。1986年11月3日米国との間で自由連合盟約(コンパクト: (注))発効、実質的に独立(形式的には1990年12月の信託統治終了宣言時)。(注)安全保障及び一部外交上の権限はアメリカ合衆国が保持。1988年12月日本はミクロネシア連邦と外交関係開設。1991年9月17日国連加盟。2004年5月米国との改訂自由連合盟約(改訂コンパクト)発効2007年マニー・モリ大統領就任(日系4世、高知県ゆかり)<曾祖父は高知市出身で1892年に一屋商会(南洋貿易の商社)の商社マンとしてチューク諸島に渡り定住し、酋長を務めた森小弁・・WIKIPEDIA。> <資料出所:外務省、WIKIPEDIA、CIA、太平洋諸島センターなど>国名ミクロネシア連邦Federated States of Micronesia通貨米ドル国旗水色地は太平洋を象徴、白の4個の星は国の主要諸島、チューク、ヤップ、ポンペイ、コスラエを象徴。星の十字型配置は、盛んなキリスト教と南十字星を、青と白は国連との深い関係を示す。国の標語"Peace, Unity, Liberty"(英語: 平和、連帯、自由)面積:平方キロ702平方km (CIA)(奄美大島並み)国の位置太平洋のミクロネシア地域に位置するオセアニアの国家。地理的には、カロリン諸島と呼ばれ、マリアナ諸島の南東、パラオの東、マーシャル諸島の西、パプアニューギニアの北ないし北東にある。607島からなり、3千kmの広がりがある。人口:千人106,487人(2012.1 CIA)人口密度:/平方キロ152人首都パリキール(1989年11月、コロニアから遷都)ポンペイ島にある人口7,000人(2009年、CIA)東京からの大圏距離:3,711km時差チューク州、ヤップ州・・・JST+1時間ポンペイ州、コスラエ州・・JST+2時間サマータイムなし民族ミクロネシア系が多く、ポリネシア系住民もいて、日系ミクロネシア連邦人は2割を占めると言われる。 <言語、習慣、文化等が異なる4州が連邦を構成していることもあり、政府による雇用、議会の委員長の配分等は総て州の人口比で割当>言語英語の他、現地の8言語(高齢者には日本語を話せる人有り)宗教カトリック52.7%,プロテスタント41.7%,が有力だが、土着精霊信仰も色濃く残る(2000年センサス) (ミクロネシア その2 に続く)
Dec 6, 2012
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(マーシャル諸島 その1 から続く) 政体大統領制(大統領は議員により投票で選出)元首クリストファー・ロヤック大統領(2012年1月就任)我が祖国党(AKA)議会一院制、議員数33名、任期4年憲法に4年毎に11月第3月曜に総選挙を実施することが定められている。政権選挙後、国会議員の中から選出される大統領により各大臣が任命される。(1)大統領 クリストファー・ロヤック(任期は、次回総選挙(2015年11月)まで。)(2)外務大臣 フィリップ・ムラー外交方針自由連合関係にある米国との緊密な関係、我が国及び南太平洋諸国、豪州等との友好関係の維持促進、国際機関との協力関係の強化を基本方針とする。また、1998年に台湾と外交関係を樹立したが、これに対し中国が国交を断絶した。軍事米との自由連合盟約により、国防・安全保障の権限・責任は米国に委ねられている。クワジェリン環礁がミサイル実験用の基地として米軍に貸与(11島)されており、最近は(2010.1.31)ロナルド・レーガン元大統領の名前を冠した弾道ミサイル防衛試験場で、米国内西部の空軍基地から打ち上げられた弾道ミサイルの迎撃実験等に利用されている。主要産業農業(コプラ、ココヤシ油・・いずれもココヤシから)、漁業コメント(1)外務省貨幣経済と伝統的自給経済が混在。国内の生産性は高くなく、生活必需品の多くを輸入に依存しており、貿易収支は恒常的に赤字。政府歳入の約6割は自由連合盟約に基づく米からの財政援助である。経済的自立を目指し、民間セクター育成等、経済構造改革に努めている。数は多くないが、便宜置籍船を誘致するタックス・ヘイブンの一つコメント(2)CIA意訳抜粋米政府の援助(2023年まで年率で数百万ドル)はこの小島経済の要であり、1986-2002の間に10億ドル以上の援助を受領。農業は小農に委ねられ、最重要の商用農産物はココナッツ、パンの木。小規模工業は手工品、マグロ加工、コプラ。観光産業は、まだ小さな外貨獲得手段に過ぎないが、労働力の10%弱。島内には資源は乏しく、輸入は輸出を大幅に上回る。ここ10年間は、政府の縮小、干魃、建設・観光・漁船更新料の減少により、GDPは年率で1%どまりである。GNIGDP 名目GNP 161.7百万ドル(2008年推定値)CIAGNI 210百万ドル(2011年)世銀GDP構成比サービス業53.4%、農業31.7%、工業14.9%(2004年)CIA就業構成サービス業57.7%農業21.4%、工業20.9%(2000年)CIA一人当たりGNI 3,910(米)ドル(2011年)世銀実質GDP成長率 5.0%(2011年)世銀物価上昇率 3.0%(CPI、2005年)CIA12.9%(CPI、2008年)CIA 1.5%(2011年)世銀 失業率 36%(2006年推定値)CIA予算 収入123.3百万ドル(2008年)CIA 支出 N.A.(税+その他収入)/GDP比 76.3%(2008年)CIA対外債務残高 87百万ドル(2008年)CIA貿易収支A-B▼60.0百万ドル(2008年)CIA貿易額:輸出(FOB)AN.A. (2006年、マーシャル政府統計)19.4百万ドル(2008年)CIA同 :輸入(CIF)B67.7百万ドル(2006年、マーシャル政府統計)79.4百万ドル(2008年)CIA貿易品目:輸出水産物、コプラ製品、(手工品、魚類)同 :輸入食料品、機械・車輛、製造品、(飲料・タバコ)貿易相手国(貿易相手国)米国、豪州、日本対日貿易収支▼1,308.0億円(2011年度)JETRO対日輸出 9.2億円(2011年度)JETRO対日輸入 1,317.2億円(2011年度)JETRO主要援助国2009-2010年平均米国59,日本10,豪州 2(単位:百万米ドル)JETRO日本の援助実績2010年度までJETRO有償:なし 無償:127億円技術: 39億円 世界遺産(文化遺産)[負の遺産]ビキニ環礁:当国に属する環礁で23の島嶼からなり、環礁湖面積は594平方km。1946~1958年まで米国の核実験場で23回実地。原爆・クロスロード作戦では、大小71隻の船艇が標的とされ、沈没している。1954年の水爆・キャッスル作戦では、マグロ漁船第5福竜丸はじめ千隻余や、240km離れたロンゲラップ環礁(島民64人が被爆し避難)が死の灰の降下を受け被爆した。ビキニ環礁の放射能調査は、IAEAによると「永住には適さない」水準と判定されて、原島民は帰島できないが、8割の珊瑚礁は回復しており、短期間の滞在は可能で「美しい沿海や沈没艦船」のダイビングスポットとなっている。
Dec 5, 2012
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「マーシャル諸島共和国」は太平洋に浮かぶミニ国家の一つで、「真珠の首飾り」と呼ばれる29の環礁と、5島および 1,156の小礁で構成される。「真珠の耳飾り(首飾りも)」というと、「・・・の少女」のフェルメールの絵画を想像するが、ここは元オランダ領(首都は西方13.3千km)ではなく、元米国領(首都は東方11.4千km)である。第一次世界大戦後から第二次世界大戦が終わるまでは日本(首都は西北4.5千km)の占領、委任統治の時代があった。米国のもとで信託統治、自治から独立に至ったが、初代大統領は日系人の大酋長だったらしい。資源が乏しく、輸入がはるかに輸出を上回り、米国との「自由連合盟約(コンパクト)」により、多大な援助を2023年まで受け続ける。米軍基地があり、米国西部基地から飛来するミサイル防衛試験場がレーガン元大統領の名を冠して存在。人類の「負の世界遺産」として、ビキニ環礁が記録されている。 マーシャル諸島共和国 略史<資料出所:外務省、WIKIPEDIAなど>年月略史1528年スペイン人(アルバロ・デ・サーベドラ)により発見。スペイン、領土権を宣言するも実質的統治せず。1885年ドイツの保護領となる(「独領ミクロネシア」、ドイツ植民地帝国)。ココヤシ栽培、コプラの生産。1914年第一次大戦勃発。日本は独よりマーシャルを含むミクロネシア(南洋群島)の島々を無血占領。1920年国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。1945年第二次世界大戦終結。米軍の占領始まる。1947年国連の太平洋信託統治領としての米国の統治始まる。1954年第5福竜丸が操業中のビキニ環礁で米により水爆実験(キャッスル作戦)で被爆。1965年ミクロネシア議会発足。1969年太平洋諸島信託統治地域に関する日米協定(ミクロネシア協定)締結。1978年住民投票の結果、マーシャルはミクロネシア連邦より脱退。1979年憲法制定。自治政府発足。大酋長出身で、日系人のアマタ・カブア大統領就任(~1996年12月逝去まで5期連続の大統領)。1986年10月21日ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国およびパラオ共和国の3国と米合衆国との間に結ばれた自由連合盟約(Compact of Free Association 略称コンパクト*)発効、独立。*国家としての独立を承認し、且つ経済援助(1986~2001年までの15年間)を与える代わりに安全保障(主として軍事権と外交権)に関しては米合衆国が統轄し、互いに連合関係を持つ体制1991年9月国連加盟。国際社会で独立国家として承認された。しかし、自由連合盟約に抵触しない範囲でしか外交権を行使出来ないという制限が加えられている。1997年1月アマタ・カブア大統領逝去で、いとこのイマタ・カブア大臣が(大酋長に就任後)大統領に選出され就任。1999年11月総選挙で野党・統一民主党(UDP)が勝利し、同党のノート国会議長が大統領就任。2001年に期限を迎える米国からの財政援助を継続させるための自由連合盟約改訂交渉を米国との間でまとめ(同協定は2004年10月に発効)、2003年11月の総選挙にも勝利し、2004年1月に再任された。2004年10月改訂コンパクト発効。(~2023年まで延長)2007年11月総選挙では、与野党接戦ながら野党・我が祖国党(AKA)を中心に結成された統一人民党(UPP)が勝利し、トメイン大統領が選出される。2008年国際オリンピック委員会IOCに加盟、北京オリンピック初出場2009年10月議会内の混乱を背景に、ノート元大統領などの与野党議員がトメイン大統領の不信任決議案を提出、可決され同大統領は辞任。選出選挙で「我が政府党」(KEA)のゼドケア大統領選出。2012年1月任期満了にともない、国会議員33名による大統領選出選挙で、ロヤック議員(AKA)が21票(有効投票32票)を獲得し、ゼドケア前大統領を破り新大統領に就任。 基本事情<資料出所:外務省、JETRO,CIA,WIKIPEDIA、世銀など>国名マーシャル諸島共和国Republic of the Marshall Islands 国名の由来東インド会社が、オーストラリアから広東へ向かう、お茶を載せた、2隻の船に、その周辺の調査を依頼したが、1隻の船長がジョン・マーシャル、もう1隻の船長がトーマス・ギルバートであった。両船長の名前を取って「マーシャル諸島」、「ギルバート諸島(国名は後にキリバス)」が名付けられた。通貨米ドル国旗マーシャル諸島の地理的位置を示す。白とオレンジ色の斜線が赤道を示し、国が次第に発展していく様を表現。青地は太平洋を、白星は赤道から少し北に位置するマーシャル諸島を示す。白とオレンジ色はマーシャル諸島の2列島(ラタック列島、ラリック列島)を表し、「勇気と平和」も象徴する。24本の星光は、24地区を表す。4本の長い星光はキリスト教の十字架を示す。国の標語Jepilpilin Ke Ejukaan(マーシャル語: 共同の努力による達成)面積:平方キロ180平方km霞ヶ浦並みの広さ国の位置ミクロネシア連邦の東、キリバスの北に位置する。太平洋に浮かぶマーシャル諸島全域を領土とする。ミクロネシアの東、キリバスの西北に、ナウルの北に位置し、ラタク、ラリクの両列島からなり、全島が環礁、サンゴ島など34島と1,156の小礁で形成される。人口:人54,816人人口密度:/平方キロ305人首都マジュロ市人口:25,400人(2004年)ワシントンからの大圏距離:11,357kmホノルルからの大圏距離: 3,678kmグアムからの大圏距離: 2,984km東京からの大圏距離: 4,522km時差:JST+3時間サマータイムなし民族ミクロネシア系92.1%,同混血5.9%,その他2%(2006年)言語公用語はマーシャル語と英語、(高齢者には日本語理解者あり)宗教キリスト教(主にプロテスタント) (マーシャル諸島 その2 に続く)
Dec 5, 2012
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笹子トンネルの吊り天井落下事故で、東日本大震災での 東京九段の建物天井落下死亡事故、横浜音楽ホール等 天井落下事故などを思い起こす。 そして、「吊り物」のシンドラー製エレベーターなど事故もある。 これらは、老朽化によるもの、工法による建造物構造体の 脆弱性などもあろうが、最近になって事故が集中発生して いるように思う。 人為的な仕掛けであるが、江戸時代には江戸城の鬼門である 宇都宮で吊り天井を落下させ、天下をひっくり返そうとした事件 もあった。 「吊り天井」は、元々、不安定な構造ではあるまいか。 東日本大震災が目覚めさせたかのように、日本列島の地下 では「連動したマグマの蠢き」を感じさせる。 政府が、「コンクリートから人間へ」と公共投資などの削減、 経費節減などに船舵を大きく切っているが、日本丸の前には、 火山・地震列島の断崖が迫っているようだ。 日本丸の航海路は、広々とした太平洋ではなく、フィヨルドの 海を航海しているのであり、機械にお任せの操舵では、岩礁や 絶壁に乗り上げ・衝突するかもしれない。 「吊り天井工法では、見栄えは良いが、余計で、危ないかも」、 「予算を、コンクリートから人間にばかり投入すると、耐久を 要する国家建設が崩壊する(行き過ぎは禁物であるが)」、 「富士山を美しい山と崇めるよりも、太平洋の遥か南から 伊豆(半)島を乗せたプレートが押し寄せ、その圧力とマグマ で持ち上がった産物で、いつか又爆発するものであると認識」、 まだいろいろあるだろう。 このように危ない日本丸の船上では、船長になりたい人が多く、 それらを応援する政党が乱立し、言いたい放題の政局にある。 なんだか、「百家争鳴時代の再来」ではなかろうか。 秦始皇帝のように自分で苦労して学んだ優れた人がいて、 乱暴にも雑多な政治本を焚書などで焼失させ、意見を纏める 方策しか無いかも知れないが、民主主義の現世では不可能だ。 現世には、民の選挙眼が高まっているという優位性がある。 また、選ばれるべき人達こそが、「自分たちを高めていく義務 があるはずである」、と民は心から願っている。 選ばれる人が義務として自身を高めてくれるなら、 後は選挙の方法だ。 選挙によって選び、また選び直し、これを繰り返し、limit Σ[] とするしかあるまい。 Σの先の[] 函数(関数)は発散するか、収斂するか、どこに 向かうか、不明である。 できれば、ブータンのように「暮らし」自体は他国に比べて 貧しくとも、「民が精神的には豊かで、幸福を感じられる方角」 に収斂してくれないか、と思う。 小生が、昔々、メキシコを訪ずれたとき、現地の方から「日本は 高度成長していますが、一体、どこを目指しているのですか。 先は見えていますか? あなたたちはそれで幸せですか?」 と尋ねられて、口ごもった事を思い出す。
Dec 4, 2012
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(グアム その1 から続く) <資料出所:JETRO,WIKIPEDIA,CIA,World Bank,Atlas,など>国名グアム通貨米ドル(100ドル以内は日本円も一部通用)国旗説明(1)アメリカ合衆国の準州であり、アメリカ合衆国と同じ。州旗は、情熱的な赤と太平洋を表す深いブルーの地に、赤い楕円にふちどられたマークが入る。このマークは、米海軍の将校婦人ヘレン・ポールがグアムの情景をスケッチしたものが元となり、1930年に公式の紋章として採用された。国旗説明(2)濃紺の地に、四方が細い赤色の縁どり(赤縁は後年に追加)、中央にはグアムの紋章(エンブレム)を描写。エンブレムは縦細のアーモンド形、中にヤシの木のある浜辺(ハガニアの港の近くのアガナ湾)を航行するプロアと呼ばれる伝来の双胴船があしらわれ、赤い字で「GUAM」の文字、アーモンド形は、島人の祖先が使った石投げ器の石を想起。エンブレム内の湾の背後の白崖はプンタン・ドス・アマンテス(Puntan Dos Amantes)の断崖。国花ブーゲンビリア国の標語Where America's Day Begins(アメリカの一日が始まる場所)面積:平方キロ549平方km淡路島並み国の位置マリアナ諸島最大の島で、その南西端に位置する。海底火山によって造られた。北部は珊瑚礁に囲まれた石灰質の平坦な台地で、南部は火山の丘陵地帯である。最高所はラムラム山で標高406m。人口:182,111人(2011年)ワールドバンクレポート人口密度:/平方キロ332人首都ハガニア (最大の都市:タモン)1,139人(1990年)東京からの大圏距離:2,521km時差:JST+1時間サマータイム無し民族チャモロ人45%、米人25%、フィリッピン人21%、中国人言語公用語(英語、チャモロ語)、一部日本語、タガログ語宗教カトリック85%政体準州・自治的未編入領域元首米合衆国大統領 議会立法院のみの一院制政権知事:エディー・カルヴォ準州の制限事項1. 連邦議会に議員を送れない。連邦議会は上院・下院とも各州の代表たる議員からなるが、準州は下院にオブザーバー(本会議投票権のない代表)1人だけを送れる。2. 住民に大統領選挙の投票権がない。3.元来は、知事が公選ではなく、連邦政府による任命だった。しかし現在の5つの(広義の)準州はいずれも、1940年代から1980年代に個別に公選になったので、この差異は今はない。軍事米国が全面的に防衛権を持ち、土地収用権も有す。グアム島の1/3を軍用地が占める。1990年代は米海軍基地縮小計画による縮小計画が進んだが、2000年以降はG.W.ブッシュ大統領の米軍再編で世界戦略を見据えた軍事拠点化で兵力は増強化にあり、在日米軍の再編の影響により沖縄米軍の移転計画がある。沖縄米軍海兵隊7,000人の受入費用の59%を日本政府が負担することで日米両政府は合意。島民の一部反対があるものの、かつて米軍基地縮小から経済的打撃を受けた経験から大半の住民は賛成している。主要産業米軍の基地関連産業とアメリカ政府からの補助金、観光業、農業、漁業が主要な経済基盤 <WIKIPEDIA>米軍,観光、建設、積み替えサービス、コンコリート製品、印刷出版、食品加工、繊維製品 主要産業コメント(1)Economy of Guam年間100万人以上の観光客が訪れるが、観光収入の9割以上が日本からの観光客によるもので、日本への依存度が高い。2010年の航空機での観光客の7割が日本国籍である。日本人観光客は1990年代をピークに減少しつつあり、同じく直行便のある韓国、台湾が増加している。漁業は、「転載業」であり、他のミクロネシア水域で漁獲された鮪類がアプラ港で水揚げされて、主に日本本土に空輸される。主要産業コメント(2)atlas.cdx.jp農業では、ココナツ、サトウキビ、タピオカ、柑橘類などが栽培されている。漁業もおこなわれる。工業では衣服、プラスチック製品が生産される。観光は非常に重要。美しい南国の海と免税品を求め、極東アジアなどから多くの観光客が訪れる。米軍基地(空軍・海軍)が置かれているため、基地関連産業も重要である。連邦経済援助米国連邦財務省の一般会計から巨額な移転支払い:グアムに駐在の米軍、連邦職員が支払う連邦所得税を受け取る。もっとも、グアム住民は所得税や物品税を支払わなくて済んでいるが。労働力79,435人 ワールドバンクレポート82,950人 (2007年)CIA1980年代前半まで米軍への依存度が高かったが、米軍基地の縮小に伴い、近年は観光業が産業の大部分を占め、島民の約60%が観光業に従事就労構造サービス業64%、農業26%、工業10%(2004年)CIA就労構造連邦・地域政府31%、民間部門69%(サービス33%、貿易21%、建設12%、その他3%)1995年GDP:億ドル30億ドル(1996年) 購買力平価、推定値25億ドル(2005年)購買力平価、推定値一人当たりGDP:ドル19,000ドル(1996年) 購買力平価、推定値15,000ドル(2005年)PPP,推定値物価上昇率(CPI) 4%(1992年推定値)2.5%(2005年)失業率11.4%(2002年)推定値CIA貧困ライン23%(2001年)推定値CIA予算収支▼108.2百万ドル(2002年)推定値 収入319.6百万ドル 支出427.8百万ドル財政収支/GDP比▼3.9%(2002年)推定値貿易額:輸出A86.1百万ドル(1992年)WIKIPEDIA45百万ドル(2004年推定値)CIA24.1百万ドル(2010年)ワールドバンクレポート55.0百万ドル(2011年)ワールドバンクレポート同 :輸入B 202.4百万ドル(1992年)WIKIPEDIA 701百万ドル(2004年推定値)CIA1001.0百万ドル(2010年)ワールドバンクレポート 貿易品目:輸出主に石油精製品の積み替え、建設材料、水産、食品・飲料同 :輸入石油・石油製品、食品、工業製品貿易相手国:輸出米国25%同 :輸入米国23%、日本19%、他58%国際観光客数1,196千人(2010年)ワールドバンクレポート対日貿易赤字▼108.6百万ドル(2011年)JETRO対日輸出17.9百万ドル(2011年)JETRO対日輸入126.5百万ドル(2011年)JETRO
Dec 3, 2012
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地球儀で見ると、グアムは米国の西端にあるように見えるが、ぐるっと1回転すると最初にその日の太陽を目にする「米合衆国準州」である。間違っていなければ、日本より1時間進んでいる。第二次世界大戦では、日本が真珠湾攻撃5時間後、グアムに進軍、3年ほど占領下に置いたものの、米軍に奪還され、そこから日本本土を空爆された。米海軍の地球規模での重要防衛拠点があり、日本を含む防衛網の一角・沖縄米軍基地の一部の受け入れを日本政府が頼んでいる現場である。日本人旅行客は、自然美溢れ、ダイビングが楽しい隣のサイパンとともに、洗練されたリゾート・ビーチのグアム(日本占領時代には大宮島)を訪れている。スペイン総督が美しいチャモロ族の娘に結婚を迫り、娘は同族の恋人と共に、お互いの髪を永久の愛とともに結びあって「恋人岬」の断崖から、海に身を投じた悲恋伝説がある。国は独立やコモンウエルスにはなり得なかったが、「準州」として連邦政府から厚い補助金移転がある。ハワイや、北マリアナ諸島との連合を模索している。 グアム 略史<資料出所WIKIPEDIAなど>年月略史紀元前3000~2000年頃東南アジア系チャモロ人がマレシア、インドネシア、フィリッピンから航海カヌーで移住。ラッテストーンなる古代チャモロ遺跡が現存。1521年ポルトガル人フェルディナンド・マゼラン到着1565年<スペイン植民地>レガスピが来島し、スペインが領有権宣言1568年フィリッピン(マニラ)とメキシコ(アカプルコ)を結ぶ航路開設により、スペインの大型船ガレオン船が太平洋を行き来、毎年一回6月頃、ロタやグアムの周辺で、チャモロと物々交換を行う。1668年イエズス会神父を長とする伝道使節団がグアム島(此島を含むとマリアナ諸島という)に来訪し、諸島全域での基督教化が開始されるが、祖霊崇拝などの伝統的習慣・文化を激しく禁止したことに対する不満が高まり、1670年1月、先住民による伝道師殺害事件が発生、その後十数年に及ぶ「スペインーチャモロ戦争」の発端を開いて、スペイン軍派兵、反抗する村落は焼き払われ、先住民虐殺(10万人が5千人以下とも)となる。1965年には、サイパン以北の先住民をサイパンに、1698年、それらの先住民全てをグアム島に強制集中移住させた。1815年にはカロリン諸島サタワル島から一団がサイパンに移住し、スペインガサイパンにチャモロ人の帰島を認め、サイパンは再び有人島となった。1898年<米国領土>米西戦争で米軍が勝利、スペイン支配は終了し、同年のパリ条約によりグアム島は、フィリピン、プエルトリコとともに米国に割譲。(この時北マリアナ諸島は売却により独領となり、第一次世界大戦で連合国側の日本が占領、委任統治、第二次世界大戦で米国領土となるのと経緯が異なる。)1941年12月8日<日本軍占領時代> 1941.12~1944.7第二次世界大戦が勃発。日本海軍が真珠湾攻撃の5時間後にグアムへの航空攻撃開始、同月10日に日本が占領。1944年8月米国が奪還(グアムの戦い)、以後米軍の日本本土の爆撃拠点として活用された。1950年<米合衆国自治的・未編入領域>米合衆国議会により「グアム自治基本法」により主権の制限を受け、「米合衆国自治的・未編入領域 Organized Unincorporated Territory」という政治的地位になる。 1968年米海軍による軍政から、公選によって選ばれた知事が内政執行に当たることになる。初の民間人知事としてスキナーが知事となる。1972年合衆国議会下院に本会議での議決権のない代表1名選出。1979年自主憲法草案が上程されたが否決。米連邦政府は「独立や自治の勧告」を出しているが、「大国からの特権的関係から得られる利益」を選んでいる。現在も「国際連合非自治地域リスト」に記載されているが、「自治的未編入区域」であり、「非自治的」ではない。1982年プエルトリコ、北マリアナ諸島のコモンウエルスと同等の自治レベルに向けた推進運動方針が住民投票で決定された。しかし、グアム準州政府の「コモンウエルス変更」の申し立ては、連邦政府に拒否された。その後の自治の運動は、自治権の内容よりも、ハワイや、北マリアナ諸島との「連合」などに軸足を移しつつあるようである。(グアム その2 に続く)
Dec 3, 2012
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