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2005年に行われたベルリン・フィルの3週間にわたるアジア・ツァーを追ったドキュメンタリー。映画は3つの部分からできている。芸術監督サイモン・ラトルをはじめ、ベルリン・フィルのメンバー(その中には日本人である安永徹や清水直子も含まれる)、試用期間中のメンバーへのインタビュー。ステージ・リハーサルや本番の風景。訪問都市のショットである。つまらない映画だが、おもしろい部分もあった。いちばん興味深かったのは、ラトルのリハーサル。こういうリハーサルの進め方をする指揮者なら「民主的な」つまり楽員の自主運営に近いオーケストラであるベルリン・フィルの芸術監督に招かれたのもうなずける。楽員の、セミナーでのレッスン風景も興味深い。名演奏家のレッスンは、演奏それ自体よりもおもしろいことが多いが、オーボエのメイヤーのレッスンなど、音楽をやらない人が見てもなるほどと思うだろう。しかし、ラトルなど何人かの例外を除いて、楽員のインタビューは概して退屈であり、超一流のオーケストラのメンバーも日常は普通人とさほど変わらないとか、変わった趣味があるとか、その程度のことがわかるだけ。訪問都市のスナップ・ショットにいたっては、西欧帝国主義者がアジア人を見るときの差別的な視点を感じた。ラトルのリハーサルがもっと見たいという欲求不満の募る映画だった。
March 29, 2009
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「北海道3大がっかり」のひとつ、札幌の時計台の2階ホール(旧演舞場)では時々音楽会が開かれている。都心にある木造の建物なので、周囲の騒音からは逃れられない。すぐ近くに救急指定病院があったりするので、救急車のサイレンがうるさかったりする。しかも、一時間ごとに鐘が鳴るので、時間をまたいだプログラムを組むことはできない。そういう制約があるし、客席数も150ほどなので、もっぱら地元の若手音楽家を起用した手作り的な音楽会に使われている。北星学園女子高校には北海道で唯一高校の音楽科があり、音大に進学する卒業生も少なくないが、このコンサートは、その高校の同級生で、それぞれ別の音楽大学を出たピアノとフルートと声楽の3人によるもの。社会に出てまだ数年、といったところだろうか。まっすぐに音楽に向き合っている姿勢が感じられて気持ちのよいコンサートだった。フルートの清水里香、メゾ・ソプラノの下澤綾香、ピアノの大場明子の3人共、しっかりした基礎ができていて、いい教師に恵まれいい教育を受けてきたことが感じられる。ソロ・リサイタルで2時間保たせることはまだできないかもしれないが、デュオなら、かなりうるさ型の音楽ファンでも満足させられるレベルに達していると思う。クラシックの曲を集めた前半では、プーランクの「15の即興曲」からの3曲が面白かった。プーランクに限らないが、ドビュッシーとラヴェル以外のフランス近代のピアノ音楽が演奏されることはほぼ皆無。洒落たインティメートな雰囲気の音楽というのは、「技巧と精神性」のアクロバット・ショーであるところの「ソロリサイタル」にはなじまないということだろうが、こうした音楽に接する機会のロスというのは大きい。録音と実演では、映画を映画館で観るのとテレビで観る以上の差があるからだが、「エディット・ピアフをたたえて」という副題のある第15番など、初めて「こんなに魅力的な曲だったのか」と思った。ポピュラーなナンバーではやや硬さが残っていたが、武満徹のソング「島」では、ジャジーな感覚が出ていたし、ボランのフルートとジャズピアノトリオのための「アイルランド風」も軽快なリズム感が心地よかった。昔は、音大卒業生と言っても、女性の場合、おけいこごと、花嫁修業の延長程度でしかないケースが多かった。留学しても帰国記念リサイタルが事実上の引退コンサートだったりした。「実力がある人だな」と思っても、数年すると結婚して子どもを産み消えてしまうので、すっかり関心をなくしてしまっていた。しかし時代は変わった。社会が成熟して、ある程度の音楽需要が生まれていることもあって、そうした需要に応えられるだけのレベルの若手音楽家が育ってきているようだ。ドイツでは素人に毛が生えた程度の演奏でも熱心に耳を傾ける聴衆がいて、そうした中から一流の演奏家が現れたりする。日本ではコンサートに非日常性を求める人がまだ多いが、そうである間は文化国とはいえない。
March 26, 2009
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いい演奏会になるだろうという予感はあった。しかし、その予感はまったく裏切られた。いい演奏会どころではなかったのだ。日本だけでなく外国も含めて、これほどすばらしい音楽に出会うことは、100年に1度、あるかないかではないだろうか。クラシックの泰西名曲を演奏したコンサートで類似の感動を得られた経験というと、1982年秋のヘルシンキ・フィルハーモニー初来日公演でのシベリウス「交響曲第2番」(指揮はオッコ・カム)、1990年夏のレナード・バーンスタイン指揮PMFオーケストラによるシューマン「交響曲第2番」のたった2回だけだ。1982年のあのとき、ヘルシンキ・フィルの楽員は、日本の観客がシベリウスの音楽を集中して聴くことに感激し、涙を流しながら演奏していた。その演奏はひたむきな純粋さに満ち、フィナーレの高揚には神が舞い降りた。1990年のあのとき、同行したロンドン交響楽団を指揮したバーンスタインには生彩がなかったが、音楽に対する清心な気持ちを失っていない音楽学生たちを前にバーンスタインは別人のように蘇った。瀕死の半病人が指揮する学生オーケストラは、宮澤賢治の童話「よだかの星」のよだかのように、高みを目指して飛び続けた。指揮者とオーケストラと音楽が完全に一体となるさまを眼前にした稀有(けう)な体験。そしてその演奏は、賢治のよだかのように、カシオペア座に輝く星になったのだった。78歳と3ヶ月、ドイツでのキャリアを捨て音楽の「伝道」のため日本に定住して活動しているハンス=マルティン・シュナイトは、顔色はいいが、遠目に見てももはや人生の終盤に来ていることが感じられる。若手指揮者に対しては不遜な態度を示すこともある札響は、こうした高齢の指揮者の下では従順になり、アマチュアのような音楽への情熱と共感を示すことが多い。みな故人となってしまったが、アレクサンダー・シュナイダー、山田一雄、荒谷正雄、ペーター・シュバルツ、ジャン・フルネとの共演がそうだった。これこそが武満徹が愛し賞賛した札響の特質であり美点だが、シュナイトとの今回の、たぶん最後となるであろう共演では、こうした札響の美点がはっきりと確認できた。100年に一度の名演となったのはベートーヴェンの交響曲第6番「田園」である。第1楽章はいきなり主題で始まるが、この主題のさりげない始め方からしてすばらしい。堅すぎず柔らかすぎない、しかし温かい音色はもはやベルリン・フィルなどにはないドイツの伝統的なオーケストラの響きを懐古させる。第一主題のフレーズの中間のかすかなディミニエンドとリタルダンドは絶妙なまでに自然。演奏が開始されて10秒足らずのこの時点で、この演奏が歴史的なものになる手ごたえを感じた。テンポは常識的なそれよりもかなり遅い。しかし、この曲はたいていの場合、速すぎるテンポで演奏されていると感じていたので、よけいに期待がふくらんだ。この曲のクライマックスはもちろんあの悦ばしい幸福感に満ちた第5楽章である。しかし、第1楽章を速いテンポで始めてしまうと、第5楽章をゆっくりしたテンポで演奏した場合、間延びしただらしのない演奏に聞こえてしまうのだ。かといって、第一楽章をゆっくりやって、第五楽章をさらにゆっくりやると、ぶよぶよした脂肪だらけの体のような音楽になってしまう。シュナイトがすばらしいのは、全曲を統一するテンポ感を持っていて、かなり遅めのテンポなのに、決してだれることがない点にある。こうして、メロディだけではなく音楽の全体を見渡すように味わっていけるようになるのだ。快活なだけではない、完結した宇宙のような第一楽章もすばらしかったが、第二楽章はさらにすばらしかった。弦の単調ともいえる伴奏音型は、演奏する立場からすると最も演奏しにくくイヤなパッセージなものだが、まるで最上級の弦楽四重奏団のセットを多数集めたかのように、豊かな響きでも細部が聴き取れ、大きな音になってもメロディをじゃましない、というオーケストラ音楽の理想の美が実現されていた。ここまでの二楽章で欠点を述べるとすれば、セカンドバイオリンの響きの薄さというか、アタックの弱さであり、フルート主席奏者のわざとらしい音楽(特に第二楽章)、他セクションと比べて朴訥にすぎる表現が散見された木管セクションである。札響にはかつて、ホルンに窪田克巳、ファゴットに戸沢宗雄、フルートに細川順三、オーボエに蠣崎耕三、トランペットに杉木峯夫という名手がいた。この5人が同時に在籍したことはないが、第二楽章を聴いていて、この演奏に彼らが主席で参加していたら、どんなによかっただろうと思った。第3楽章から第5楽章は続けて演奏される。冒頭2楽章の遅いテンポのあとで、それに見合うテンポで第3楽章が演奏されると、いくら何でも重たいスケルツォになるのではと危惧したが、それはまったくの杞憂(きゆう)であった。シュナイトの演奏は、たしかに軽くはない。録音で聴くなら、首をかしげるかもしれない。快適な自動車に慣れた人が馬車に乗ったら最初はそのぎこちなさに抵抗を感じるだろう。しかし、デジタルでマシニックな機械ではなくアナログな生き物が持つ独特のそのリズムにすぐに順応し快感を覚えるようになるにちがいない。シュナイトのスケルツォは、そういう生物の呼吸や鼓動のリズムを感じさせる。テンポは遅いのに重くない、独特の美をたたえるものだった。第4楽章はテンポを煽って激しい表現をする指揮者が多いが、シュナイトは決して演出を外から付け加えるようなことをせず、音楽そのものに語らせるような表現をしていく。特筆すべきは強奏時の響きの豊かさ。金属的になることなく、常に柔らかく温かい響きがホールを満たすので、これが同じオーケストラかと耳を疑った。目隠しをして連れてこられたら、演奏しているのが世界トップクラスのメジャー・オーケストラだと言われても信じたかもしれない。第5楽章「牧歌、嵐のあとの喜びと感謝の気持ち」は、ひたすらに純粋な音楽だけが響き渡る10分間だった。冒頭のクラリネット、続いてホルンの分散和音が、何と悦ばしく響いたこと! 第一楽章同様に遅いテンポなのに、音楽の流れは滞ることがない。オーケストラは音の職人の集団である。ガクタイという自称はそういう自信と謙遜を含んでいる。しかし、この日の札響は人間の集団に変身していた。心の底からのベートーヴェンとシュナイトの音楽への共感が特にこの第5楽章では強く感じられて感動的だった。2度おとずれるクライマックスへの息の長い、歌に満ちた高揚は、宇宙的に大きいスケールでありながら人間的に温かいもので、この部分の最高音Gの響きは何度も思い出すことだろう。「田園」のような曲は、北国の音楽家でないと共感できない部分がある。雪にとざされた暗く寒い冬のあとに迎える春のうれしさを知っているのとそうでないのでは音楽のリアリティに差が出る。シュナイトのような表面を飾らない誠実な音楽は、現在の音楽界の主流のファッションからは遠く離れたものであり、メジャー・オーケストラには受け入れられないものであろう。このコンサートは北国のオーケストラ、シュナイト、それらの「田園」との相性、そして響きのよいホールというもろもろの組み合わせが産み出しえた奇跡だったといえるかもしれない。前半はブラームスのバイオリン協奏曲。これもシュナイト流のゆっくりしたテンポのたゆたうような演奏。ソリストの神尾真由子は完璧なテクニックと美音で「チャイコフスキー・コンクール覇者」の貫禄十分。ただ若さゆえか一本調子なところがないわけではない。指揮者にうながされアンコールにパガニーニのカプリスを弾いたが、こちらの方が多彩で柔軟な表現力が感じられた。シュナイトは5月16日に神奈川フィルとの最後の演奏会に出演するらしい。さっそくチケットと飛行機を手配した。
March 21, 2009
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男声、それもテノールとバリトンばかり9人の団体、Belcanto?というグループの9回目のコンサートを聴いてきた。同じ大学で声楽を学んだ人たちが4年前に結成し、半年に一度、公演を積み重ねているらしい。今回は、その大学の講堂でのたぶん最初で最後となるコンサート。何でも、学生時代は試験や発表会などでよく使ったホールらしく、出演者にはゆかりの場所のためか思い入れが感じられた。それにしても珍しい。男声合唱というのはよくあるが、バスを欠き、テノールとバリトン、すなわち高音域と中音域だけというのはどんな響きがするのか興味があった。平均年齢は30歳くらいだろうか。声にもパフォーマンスにも、若さだけでなく、ほどほどの成熟が感じられ、であるところの<30代>に対するノスタルジーを喚起させられた。前半はヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」で幕をあけ、ロッシーニやドニゼッティのオペラのソロや重唱、「となりのトトロ」「もののけ姫」のナンバー。後半は前半に比べるとやや堅めのアリアのあと、モーツァルトのオペラ「魔笛」からの抜粋。器楽に比べてレベルが低かったのが札幌の声楽界。二期会はあったが、首をかしげる演奏が多く、おかげで声楽が嫌いになってしまった時期があるほどだが、この若手のうち何人かは国際的な舞台で活躍するだけの力量があるのではと感じるくらい。パフォーマンスも洗練されているとは言い難いが学芸会的ではない。この数十年の変化というか進歩には感慨深いものがある。のびのびと、やりたいことをやっていて、やや荒削りのところもあるが、これからまだまだ伸びる可能性がある、そんな勢いのある演奏とステージが心地よかった。残念だったのは無伴奏(ア・カペラ)の曲がなかったこと。キングズ・シンガーズのようにポピュラーなナンバーをア・カペラで聴かせる、そんなプログラムがあったらいいと思った。芸術には2種類ある。大衆芸術と限界芸術である。オペラやオーケストラを大衆芸術とすれば、吹奏楽や合唱は限界芸術で、自分でやっている人しか関心がない。音楽のすばらしさを最も感じとりやすいのが合唱を始めとする声楽だが、合唱はアマチュアが主流だし高齢化も進んでいる。プログラムも特殊な分野に偏りがちで失望することが多い。しかし、こういうプロとしても通用するレベルの人たちの活動が盛んになると、音楽の裾野は大きく広がっていくにちがいない。こういう活動を支持する意味でも、これからは毎回、この団体のコンサートに足を運ぶことにした。
March 20, 2009
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こんなに楽しいコンサートに出会うのは、長い人生でもそうあることではない。もしかすると、これが最初で最後ではないだろうか。そういう予感は、終わるころには確信に変わった。ある大学の音楽学科が他の分校との統合により廃止されることになった。今年、ちょうど50期生にあたる最後の学年が卒業するので、その学科の同窓会的なコンサートが開かれることになった。30名ちょっとの卒業生に加え、同窓生や教官が加わって開かれたのがこのコンサート。合唱、器楽アンサンブル、オペラの重唱、そしてオーケストラ曲。編成もプログラムも変化に富み、それだけでも飽きない。そしてその選曲がまた洒落ている。たとえばゲネー&ツェルの「イタリアン・サラダ」という合唱曲。歌詞はすべて音楽用語でオペラのスタイルをパロディーにしたナンセンス・ソングだが、こんなに面白い曲がまだあったのかと驚いた。休憩前の最後の曲、ガーシュインのオペラ「ボーギーとベス」のメドレーは、バイオリン4台と2台のピアノ用のアレンジで演奏されたが、大学4年生とは思えないジャジーでエンタテイメントな感覚のパフォーマンスは時間を忘れる楽しさ。後半はモーツァルト「フィガロの結婚」から3曲を、やはり現役の学生が中心に。どの歌唱もレベルが高く、堂々としたステージマナーが印象的だった。最後はこうした祝祭にふさわしいアルヴェンの「スウェーデン狂詩曲第一番」。リタイアした札響楽員やプロ奏者も交えた混成のオーケストラは、随所に繰り広げられる華やかなソロ・パッセージも見事で、過去に聴いたオーケストラではコスタリカ国立交響楽団よりも高いレベルの演奏だったと思う。アーノルドの金管5重奏曲第一番第一楽章、R・シュトラウスの13管楽器のためのセレナードも、前者は明るい音色ののびのびとした演奏、後者は響きの広がりを大切にした上品な演奏で牧歌的な雰囲気がよく出ていた。このコンサートがこれだけのものになったのは、ほとんどのステージに指揮者として登場したN教授の力が大きいと思う。N教授は、一般の音楽ファンにはまったく知られていないが、地元で音楽に関わっている人で知らない人はいない。東京都響を指揮したことなどもあるが、合唱やオペラの指揮を得意とし、リートや歌曲のピアノ伴奏にも手腕を発揮する。大向こうのうけを狙うようなところはまったくなく、誠実かつていねいで、特に近年は繊細でニュアンス豊かな音楽作りをするようになってきた。スター性がないだけで、スター音楽家よりも実力のある音楽家というのは決して少なくないものだが、N教授もそんなひとりだと思う。音楽ファンが見向きもせず、マスメディアが絶対に注目しないようなものの中に、生涯の宝になるようなコンサートがあるが、今度もそうだった。
March 14, 2009
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