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テレビは原則としてリアルタイムでは見ないことにしている。CMがわずらわしいし、尻すぼみで終わる番組も多い。だからHD付きDVDレコーダーの登場は快挙だった。しかし買い換えるつもりで手放して以来、この2年ほど記録装置のない状態が続いた。ブルーレイを買おうと思っていたが、金融危機のくせに思ったほど下がらない。それなら、しばらくDVDレコーダーで時間を稼ごうと思った。買ったのは東芝のVARDIA。RD-G503。オークションで38000円弱。選んだ理由は忘れた(笑)が、ハードディスクの容量が500ギガあって色が白なら別にどこの製品でもよかった。「家電芸人」でVARDIAについて熱く語られていたこと、新規格争いに負けた側がいいと思ったのがどこかアタマの片隅にあったのかもしれない。店頭で見て白い色がいいと思ったのもある。パナソニック、日立と使って3台目。値段のせいか、軽い(笑)機能は洗練されている上に、以前よりずっと使いやすい。しかし画質や音質と言った基本性能はというと、やはり値段相応という気がするのは、内蔵チューナーの差なのか、それとも信号を一度別回路を通したりコピーすることで劣化は避けられないのか。まあ、それらすべての問題なのだろう。ところでブルーレイは音質・画質共にすばらしいが、DVDはLDと比べて大差ない。音質は明らかにLDの方がよい。というわけで、ついでに、もう誰も振り向かなくなったLDを買うことにした。オペラ作品を1000枚ほど買い集めたいと思っているが、LDなら100万円以下で済む。ブルーレイなら500万では済まない。100インチとか、そういう大画面だとLDやDVDの画質では観るに耐えないかもしれないが、そうでなければ十分だと思う。それにしても、深夜に放送されることの多い冗長なオペラや映画を眠気をがまんせず観られるという安心感、便利さはやはりすばらしい。
June 21, 2009
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札響チェロ奏者の文屋治実は夏と冬の年2回、リサイタルを開いている。冬はオーソドクスなチェロ音楽、夏は現代作品のシリーズとしている。両方を合わせると、これまでに40回以上の自主リサイタルを開いていて、これは札幌在住の音楽家としては前代未聞の快挙ではないだろうか。リサイタルを開くのはたいへんな作業だ。かなりの部分をプロモーターが代行してくれるとはいえ、楽譜の調達から共演者との練習場所の確保まで自分でやらなければならないことも多い。さらに、経費は相当の負担になる。推測だが、こうした「自主リサイタル」は平均すると数十万円の赤字になっていると思われる。こうした公演を40回以上も行っていれば、長い間には国産高級車数台分の経費がかかっていることだろう。18回目となる「現代のチェロ音楽コンサート」は、ピアソラと彼にちなんだ作曲家の作品を集めたもの。知らなかったが、ピアソラはストラヴィンスキーやバルトークを崇拝し、ヒナステラやナディア・ブーランジェに師事したらしい。彼らの作品をピアソラの作品で挟むという構成。そのピアソラゆかりの人々の曲では、独奏チェロ版で演奏されたバルトークの「ルーマニア民族舞曲」が、原曲とはかなり異なるイメージでおもしろかった。まるで弦楽四重奏曲の中のチェロ・パートが演奏されているようで、特殊技巧などが活用されて斬新に響いた。つまらなかったのはナディア・ブーランジェの作品。教育者としては非常に優れた人だったようだが、個性とか閃きに乏しい。「オブリヴィオン」「グラン・タンゴ」など4曲演奏されたピアソラ作品では、やはり有名な「アディオス・ノニーノ」が抜群に魅力的で演奏も熱演。この手の催しとしては比較的多めの聴衆を集めていたのは、やはりピアソラ人気だろうか。クロノス・カルテットのために書かれた「タンゴのための4人」などいつか実演で聴いてみたいものだ。
June 18, 2009
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三ツ矢サイダーのカロリーゼロは飛ぶように売れているらしい、と思ったらコアップガラナのカロリーゼロも売り出されていて驚いた。ガラナ=コアップガラナは1960年代に開発されたサイダーの一種である。ウィキペディアによれば、全国清涼飲料協同組合連合会(現在では、「日本コアップ(株)」として独立)が、「コアップガラナ」を統一商標とし、全国の中小飲料水製造業者が日本人の味覚にあうよう多少のリメイクを加え、炭酸飲料として製造販売したもの、ということになる。コカコーラの来襲に備え、この連合会は世界中を調査したらしい。そうすると、コカコーラがあまり飲まれていない地域があった。ブラジルであり、そこでは昔からガラナを飲んでいた。そこで、コカコーラを迎え撃つために全国の業者が一致団結してガラナを開発し、売り出したというわけだ。しかしこの勝負はあっけなくついた。北海道をのぞく全国でコーラはまたたく間に優勢となりガラナは滅んだのだった。ではなぜ北海道でのみガラナが生き残ったかというと、コカコーラはボトラーを有力企業に指定する方針だったため、有力企業の少ない北海道ではボトラーの選定が遅れたのだった。そのため、北海道ではガラナが定着し、今に至るも不動の地位を築いている。あの大手のキリンでさえ、北海道限定でガラナを製造販売しているくらいだ。小原商店の「ゴールドコアップガラナ」はテレビで大量のCMを流していた。初めて飲んだのはやはり札幌に遊びに行ったときで、当時(昭和38年ごろ)は、札幌のような都会でしか飲めないもの、売っていないもの、と思いこんでいた。札幌には「小原商店」という店があり、そこでしか買えないのがガラナだとずっと思いこんでいたのである。 何かこう媚薬のような成分が入っているようなその味は、コーラよりもはるかに魅惑的に感じた。コーラがしょせんアタマからっぽのアメリカ女だとすれば、ガラナはアラビアのお姫さまのような恥じらいと神秘と大胆さが同居した、清楚でありながら淫乱な美女のような魅力があった。そのせいか、札幌に住むようになってからも、しばしば飲んではいけないもののような気がしてほとんど飲まなかった。しかしコカコーラも南米のコカとアフリカのコーラから作られている。ガラナと同じようにエキゾチックな飲み物なのだが、そういうイメージがないのは、やはりアメリカ文化と一緒に流入してきたためだろう。いま改めて飲み比べると、コーラの方がおいしい気がしないでもない。おとなより子どもが好む味なのかもしれない。「こどもびいる」という面妖なものがあったので買って飲んでみたら、何のことはないガラナだった。一度作られたイメージというのはなかなか変わらない。これからも、ガラナを飲むたびに、シェエラザード姫といけない遊びをしているような空想にふける癖は治りそうにない。
June 15, 2009
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外食はイタリアンでなければ鮨か蕎麦と決めている。だが、これまで最も多く食べたのがたいていの日本人と同じくラーメンであり、たぶんこれからもそうだろう。親に連れられてではなく、子どもだけで外食した最初の体験はラーメンだった。昭和41年3月の最終日曜日のこと。その年、母の転勤で札幌へ引っ越すことになった。札幌には叔母と祖母が大きな家に住んでいて、部屋が空いていたので住まわせてもらうことになった。当時は引越屋などなかったので、数週間前から少しずつ荷造りをした。日曜の朝はいよいよ最後で、食器や炊事道具を新聞紙にくるみ段ボールに詰めた。やがて小型トラックと手伝いの人たちが到着し、子どもはじゃまだからお昼でも食べておいでと50円玉を渡された。こうして家からいちばん近くの大衆食堂に行ったのがひとりで食べた最初の外食体験であり、食べたのがラーメンだった。値段は忘れたが50円以下だったのはたしかだ(笑)調べてみると、1956年に東京のラーメンは一杯40円であり、1967年に100円になっている。1966年の千歳の大衆食堂が東京と同じということはありえない。物価は半分以下だったから40~50円といったところか。それまでもラーメンを食べたことはあったにちがいない。そうでなければラーメンを注文しようとは思わないからだ。しかし、このとき以前のラーメンの記憶はない。日曜のラーメン屋などに出かけると、母親が3歳になったかならないかくらいの子どもに食べさせている光景を見ることがあるが、あんなふうだったのかもしれない。それなら記憶に残らなくて当然だ。そのころ、ラーメン屋というものはまだなかった。正確に言うと、屋台で成功して店舗を構えるようなった「ラーメン屋」が都会にはあったが、地方にはほぼ皆無だった。札幌のような「ラーメン王国」でさえ専門のラーメン屋というのは少なく、ラーメンは大衆食堂の一人気メニューに過ぎなかった。その屋台だって、ワンタンやシューマイも出していて、ラーメン専門というわけではなかったらしい。なぜワンタンやシューマイをさしおいてラーメンがヒットしたのか、知っている人がいればぜひ聞いてみたいものだ。ラーメンだけでなくカレーもトンカツもだいたいにおいて大衆食堂の一メニューに過ぎなかった。すでに繁華街には蕎麦屋はあったが、蕎麦もまた同様だ。大衆食堂の中から、まず真っ先に抜け出して「出世」したのがラーメンであり、次いでカレー、そしてトンカツだった。蕎麦は蕎麦屋で食べるものという常識が定着しかけたころ、「大衆食堂」そのものが化石化した。チャーハンはとうとう大衆食堂から自立しそこねた。このことはチャーハンにとって非常に気の毒なことだったと思っている。いまではチャーハンはラーメン屋の付随メニューか、「大衆中華」の店でしか食べられなくなってしまったが、本来、ラーメンと単品で向こうを張り勝負ができる「旧大衆食堂メニュー」はチャーハンをおいてほかにない。なぜそう考えるかというと、今まで食べた最もおいしいラーメンとチャーハンを比べたとき、チャーハンに軍配があがるからだ。大衆食堂メニューからいち早く抜け出し国民食となったラーメンだが、その人気の維持の秘密の一つは変化にあると思う。進化と言ってもいいが、主にスープや具の新たな展開にはめざましいものがある。しかし、それらが進化したほどには麺は進化していない。評判をとるラーメン屋も、もっぱらスープによるもので、麺で評価されることは少ない。蕎麦やうどんやパスタが「麺」で評価されるのに、ラーメンは「スープ」で評価される。これは、ラーメンがスープを含めると高カロリー食品であり、食糧難の時代に国民的ルーツができた事実と無縁ではない気がする。ラーメンのおいしさの最大の要素は、麺の食感である。弾力があり、しこしこしていて、食べたとき上の歯の後ろあたりに縮れた麺の縮れ部分がぶつかる。このぶつかったときの感じと、歯でかんだときの歯ざわりが、ラーメンのおいしさの80%を決める。もちろん蕎麦のようなざらっとした感じではなく、極上のうどんのようなつるつるしたのどごし感も大事だ。この点で、旭川ラーメンから沖縄そば、ひいてはチャンポンにいたるほとんどのラーメンは失格だ。特に東京ラーメンや九州ラーメンの、加水率が低い細いストレート麺はラーメンの名に値しない。かん水入り細うどんとでも呼べばよい。あんなものは総入れ歯の人が食べるものではないだろうか。特にひどいのは「替え玉」をして食べるとき。長浜で試したが、「替え玉」はあっという間にぬるいスープを吸ってのびきってしまった。邪推だが、細い麺は短時間で茹であがる。加水率を低くするとすぐのびるので急いで食べなければならない。味覚を犠牲にした生産者側の論理が、こうした「ラーメン」を生んだのではないか。そう考える根拠の一つは、「太縮れ硬質麺」の代表である札幌ラーメンも、オイルショックを契機として細くなったからだ。いま、オイルショック以前の太さを保った麺を使ったラーメンを提供している店は、札幌にも一軒しかない。初めての「外食」で食べたラーメンは、今でいう「昔風ラーメン」だった。薄味のしょうゆ味で、鶏ガラ味だった。おばさんがひとりで営業しているような店で、手間のかかるスープを手作りしていたとも思えない。チキンコンソメのようなものを使っていたのではと思うのだが、そうした「業務用食品」が開発されていたかどうかもわからない。昔の人は律儀だったから、そうした店でもきちんとダシをとっていたかもしれない。この「昔風ラーメン」のよさは、優しい味にある。しょう油味と卵の入った麺の相性は抜群で、やはりラーメンはしょう油味に限る、と思ったりする。しかし、しょう油ラーメンは三口目まではおいしいのだが、おいしくて舌が飽きてしまう。そこで、最後まで飽きずに食べられる味噌ラーメンを頼むことが多くなっていった。具のことは鮮明に覚えている。極限的な、芸術的とも言える薄さの脂身だらけのチャーシュー、なると、メンマ、ホウレンソウ、ゆで卵の輪切り、麩。ネギがほんのわずかだったのは、こちらが子どもだったから配慮してくれたのか。実際、ネギが苦手な人というのは驚くほど多いものである。食べ終わるころ、店のおばさんが「これから行くの?」と話しかけてきた。引越のことなど知らないはずなのに、なぜ知っているのかと不思議に思った。「これから遊びに行くの?」という意味だったかもしれないと思い、そのときはとっさに「うん」と答えた。でも、それならそんなあたりまえのことは聞かないだろう。子どもだけで外食するには何か理由がある。きっと引越にちがいない。そんな風に想像を働かせたのではなかっただろうか。小さな、無造作に作ったような店だった。それから10年後、免許をとり車を手に入れ、生まれ育ったところを訪れたがその店はもうなかった。住んでいた市営住宅には、札幌の放送局でアナウンサーをしているという人が住んでいた。その市営住宅は、いったん住んでいた人に無償で払い下げられたあと、取り壊され、4階建てになった。建物と建物の間に公園だった場所がそれとなく残っている以外、昔を思い出すものは何もなくなってしまっていた。ラーメン王国札幌に転居してからは、しかししばらくラーメンは食べなかった。小学校も高学年になると親と一緒に外出する機会は減る。小学生の小遣いではラーメンには手が出にくかった。夕食までの空腹を満たすのに、10円か15円で売られていた揚げパン=ドーナツと称していたが丸くはなかった=がベストの選択だった。1968年は転機だった。このころから日本は急激に豊かになった気がする。都会の公害=スモッグはひどく、海や川はゴミ捨て場のようだったが、モータリゼーションは進み、欠食児童もほとんど見かけなくなった。外食に抵抗がなくなり、特別なことではなくなったのもこのころだったのではないだろうか。このころもらっていた小遣いは月500円だったと思う。ラーメンが100円でタクシーはたしか120円、バスは30円だった。月に一度か二度、都心に出たとき、バスターミナルの地下にあった「ラーメン太郎」という店でよくラーメンを食べた。「当店はスープが自慢です。残さずお飲みください」という貼り紙がしてあって、残すと怒られそうだったのでいつも全部飲み干した。味は塩としょう油の二種類だった気がする。母は塩を、わたしはしょう油を食べることが多かった。味はまったく覚えていない。何しろ何を食べてもおいしく感じるころである。もう一度あの店で食べてみたいと思い、同じ場所にあるラーメン屋に行ってみたこともある。まったく別の店で、消息を尋ねたが知らないとのことだった。ただ、スープを飲み干してもそのあとのどがかわいてしかたがない、ということはなかったから、本格派だったのかもしれない。1968年当時、レコードはシングルで400円だった。札響の定期演奏会は学生券が200円だったからコンサートに行くと240円しか手元に残らない。翌年3月までの間に買うことができたのはシングルレコード2枚で、いくら節約してもこれくらいが限界だった。高校に入り、ラーメン狂の友だちがいて土曜日はラーメン屋めぐりをするのが習慣になった。札幌名物味噌ラーメンを初めて食べたのもこのときで、山盛りのモヤシとタマネギに驚いた。どこか「和食」のイメージがあるしょう油ラーメンとちがって、パワフルでダイナミックだった。おいしく感じたのは、たぶんニンニクやショウガが使われていたせいだろう。そのとき気づいたのは、「名店」と言われるような店が案外おいしくないということだった。そういう店に限って店主の態度も独善的だった。そうして最終的に辿り着いたのは、ススキノにできたばかりのデパートの地下にあった「喜龍」という店の味噌ラーメンである。相変わらずチャーシューは薄かったが、脂身部分は少なくなった。モヤシとタマネギを炒めるとき、少量の挽き肉を加える。これは札幌味噌ラーメンの元祖「三平」が始めたパフォーマンスで、いまもこのやり方を踏襲している店は多い。この「喜龍」も、三平のラーメンを参考にして、ある程度の改良というか工夫を凝らしたものだったにちがいない。味噌は白味噌だった。ダシはやはり鶏ガラだったと思う。スープの甘味が印象に残っている。たぶん、タマネギから出る甘味だと思う。1985年から6年にかけて、1年と少し名古屋に住んだことがある。ラーメン好きにとって名古屋は地獄だった。まず生ラーメンが手に入らない。スーパーに売ってないのだ。まともなラーメン屋も少ない。中華料理屋で食べるしかない。すがきや、というファストフード形式の店があり、そこで九州ラーメンのようなラーメンを食べるのが関の山だった。いくつかの喫茶店でラーメンを頼んだところ、いわゆる棒ラーメンやインスタントラーメンが出てきて驚いた。しかし今まで最もおいしいラーメンの麺に出会ったのは名古屋だ。市民会館と国道を挟んだブロックのいちばん北側の小さな中華料理屋の麺で、ここのは手打ちだった。それ以来、手打ちの店を見つけると試す癖がついたが、手打ちの店にはなぜかがっかりさせられることが多い。ラーメンは間違った方向に変化(進化)していると思う。蕎麦やうどんのように麺の手打ちで差別化するべきではないだろうか。また、日本のラーメンは熱すぎる。熱すぎて味がわからないくらいだし、冷めるのを待つとのびてしまう。だからスープのない「油麺」が人気化したりするのだ。稀にだが、自分で作って食べることがある。チャーシューを自分で作ったときである。このチャーシュー作りのときに出きたタレをお湯でのばすだけでスープになる。麺は冷凍しておき、冷凍したままゆでる。そうするとコシが出る。食べるときはいちばん安手の割りばしを使う。丼はやはり龍の模様の入った昔ながらの赤い色のものが雰囲気が出る。
June 14, 2009
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札響の定期演奏会は毎月、金曜の夜と土曜の昼に行われている。今年から、同じ曲目の定期を二回とも聴くために会員権を二口手に入れることにした。そのきっかけとなったのが今月のオルフ「カルミナ・ブラーナ」。貧弱な音響の、あるいは音響がよいホールでも音響の悪い席でライブを聴くより、オーディオで音楽を聴く方がいいケースは多い。しかし、「カルミナ・ブラーナ」のようなオペラティックな作品は、どんなに金をかけた装置、たとえばビル・ゲイツの7000万のオーディオでもその再現は不可能だろう。それがたった数千円で聴けるのである。多くのクラシック・ファンと同じく、この曲を知ったのは10代の多感なころだった。この曲の主題はセックスと酒であり、死である。そのいずれをもまだ知らなかったころ、この曲のすべてはこれから自分が知っていくことであり、秘密の花園をのぞくような甘美な背徳感があった。そんなころ、いちばん強く感じたのは、冒頭と最後に二度現れる「運命、世界の王妃よ」が放つ強烈な無常感である。どんなにすばらしいこと、美しいものも、いずれすべては滅び去ってしまうのだという事実を魅力的で迫力ある音楽で提示されたときの、背筋が凍るような、恐怖を伴った感動をいまも忘れることはできない。それから数十年たって、家族や親しい人の死など人生で経験するほとんどのことをくぐりぬけたあとでこの曲を聴くと、かつては希望に感じたものを郷愁に感じる。「イントゥルティーナ」の美しい音楽は、これから経験すべき人生の夢や花園ではなく、過ぎ去ってしまった美しい思い出であり、「運命、世界の王妃よ」がつきつけるのは、残っているのは死だけだという冷厳な事実なのだ。二日目の公演はマチネーということもあり高齢者が多いが、この曲が放つ強烈な音響とメッセージに耐えられなくなったのか、何人もの高齢者が中途で退席していった。その二日目の公演は、一日目とは比較にならないほどすばらしい出来だった。こうした多人数の演奏者による音楽では無数の事故が起きる。無事故の完全な演奏など絶対にありえないが、「いい演奏」というのは、この事故の数が、ある水準以下に収まった場合を指す。その点で、一日目はこの事故の数が多すぎた。オーケストラの濁った音程、管楽器のソロの外し、合唱のリズムの乱れや飛び出し。しかし、二日目は、「ブランチロールとヘレナ」でコンサートマスターがボーイング・ミスをしたのとアルトの発音ミスが目立ったくらいで事故も少なく音楽的な白熱や充実もはるかに上だった。二日間を通じての最高の勝利者はテノールの高橋淳である。登場場面からの「演技」を含めて、「焙られた白鳥」を演じつつ歌うテノールとしては間違いなく世界最高だ。数ある録音と比較しても、オルフの監修で作られたヨッフム盤でのゲルハルト・シュトルツェの歌唱と対等か、もしかすると凌駕している。この高橋淳の登用がなければ、「そこそこのいい演奏」という印象で終わってしまったと思うし、この曲の持つ多様性は浮き彫りにならず平板な印象になってしまったと思う。高橋淳。オペラを「演じる」ことのできる優れた歌手としてこの名前は記憶されるべきであり、彼の舞台ならすべて一見の価値があると思う。その次の勝利者は指揮者の高関健とピアノを含めたオーケストラの打楽器セクション、ファゴット首席の坂口聡だろう。高関の指揮はテンポ感覚をはじめ見事の一言に尽きる。細部までよく気を配り、オルフのスコアの忠実な再現を心がけ安易な表現に流れることがない。個人的には叙情的な部分ではもう少し遅めのテンポが好きだし、「ブランチフロールとヘレナ」では彼の師であるレナード・バーンスタインばりの「大見得」を聴きたかったが、躍動的な部分と叙情的な部分の切り替えなど巧みだった。ピアノを含めた打楽器セクションは的確この上ない正確なリズムで高関の指揮を支えた。首席奏者武藤厚志は固すぎず柔らかすぎない中庸の音色で、時折のアンサンブルの乱れさえ制するかのように「ここでなければならない」という意志を感じさせる絶妙のタイミングで決然と音を放つ。ふだんからなかなか優れた奏者だと思っていたが、これほどまでの力量の持ち主だとは今回初めて知った。ファゴット首席の坂口聡は「焙られた白鳥の歌」で、あえて言えば「下品」なほど表情豊かなソロを披露した。このことによって、テノール高橋淳の抜群に個性的な歌唱がさらに引き立ち、まるでオペラのクライマックスを見るような興奮がもたらされた。この「焙られた白鳥の歌」のたった一曲に、メトロポリタン・オペラあたりの凡庸な「アイーダ」全体より価値があった。ソプラノの針生美智子の才能と将来性に着目し、彼女の名前を初めて活字にした人間として言うのだが、はっきり言って今回の歌唱は凡庸だった。「イントゥルティーナ」はまだしも、「ドルチッシメ」での音程のぶら下がり、お経のように無表情なソロには落胆するばかりだった。地元出身の歌手として登用したのかもしれないがミスキャスト。その責任は誰だろう。バリトンの堀内康雄は練習不足を露呈していたが、さすがだった。特に二日目は調子を上げ、「世界的オペラ歌手」としての貫禄を示した。二期会の応援を得た合唱団の健闘も讃えられてよい。しかし、これは最近のどの合唱団(欧米も含めて)についても言えることだが、言葉にリアリティが乏しい。これは「カルミナ・ブラーナ」のような曲にとっては致命的である。なにしろこの曲は「イギリス女王とセックスできるなら餓死してもいい」といった歌詞のオン・パレードなのだ。前半はメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」。第一楽章は初演稿、第二楽章以降はベルリン稿による演奏。第一楽章は通常耳にする版とほとんど同じだが、ベルリン稿は旋律線からハーモニーまでかなり異なっている。ゴツゴツした手触りで、シューマン的に聞こえる部分さえあった。が、知的興味をひくことはあっても、音楽として楽しめるのは通常の版だと思う。退屈したので客席を観察してみたら、特に中間の二楽章ではおよそ二割の人が眠っていた。
June 13, 2009
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女性の好き嫌いは激しいが、食べ物の好き嫌いは少ない方だ。しいて言えば、マズイものが嫌いな程度だ(笑)ではどんなものがマズイかというと、すぐ思い浮かぶのが豚肉の脂身、中途半端に熱の通ったタマネギ、キャベツの太すぎる千切り。しかし6~7歳のころ、この3つが主役と言っていいものに夢中になった。串カツである。大通公園にあるテレビ塔は1957年(昭和32年)にできたものらしい。昭和30年代の地方の子どもにとって、札幌観光とは円山動物園と中島公園にあった遊園地、そして大通公園のテレビ塔訪問を意味した。円山動物園で園内列車に乗り、中島公園のちゃちな遊技に絶叫し、テレビ塔のゲームコーナーで遊ぶのが定番だった。ほかに、狸小路の中川ライター店を訪れ高価なプラモデルにため息をつく、デパートの屋上遊園地で遊ぶ、その食堂でお子様ランチやざるソバを食べるといったオプションもあった。しかしデパートの閉店時間が6時だった時代、大都市札幌といえども夕食を食べられる場所というのは限られていた。家族で行けるところなど、ほぼ皆無だったと思う。例外的に夜も営業していたのがテレビ塔レストランだった。2階には映画館やプラネタリウムがあり、3階にはゲームコーナーと土産物店とレストランがあったような気がするが間違っているかもしれない。豚肉とタマネギに衣をつけて油で揚げた「串カツ」を生まれて初めて食べたのはそこだ。キャベツの太すぎる千切りもついていた。このころの豚肉とはバラ肉を意味した。ロースやヒレはどこで消費されていたのか不思議に思うほどだ。ラーメンに入っていたチャーシューも脂身がほとんどのケースが多かった。時代は下り、1976年に専門店で食べたトンカツも、バラではなかったかもしれないが脂身の方が多かった。テレビ塔レストランで食べた串カツも赤身部分はわずかだった。しかしトンカツとちがって小さい肉を揚げた「串カツ」は、脂身部分にもよく火が通っていて余分な脂が落ちていた。ぷるんとしたかたさはなく、かみきることのできる柔らかさだった。タマネギも甘くておいしかった。チャーハンやチキンライスに入っている刻んだタマネギはマズイのでいまでも嫌いだが、高温で揚げたタマネギは刺激が消え甘くマイルドだった。ソースがまたそれらのおいしさを引き立てていた。一人前、たった2本だったと思う。昭和30年代のキッチンのガスコンロはたいてい一口だった。一口ガスコンロで人数分の複数の料理を作るのは難しい。一汁一菜の食生活は、そんなインフラ条件にも規定されていた。そんな不十分なインフラの中では、揚げ物作りは不可能ではなかったが困難だった。だから、給食以外で揚げ物を食べた初めての経験がこのときの串カツだったような気がする。このとき知ったのは、嫌いなものも調理法しだいでおいしくなること、太すぎるキャベツの千切りもカツと一緒に食べるとおいしく感じられるということだった。周辺のビルの高層化が進んだため目立たなくなってしまったが、当時のテレビ塔は傑出した「高層建築」だった。昭和30年代の札幌の夜景がどうだったかは全く記憶にないが、夜の空中レストランでの食事は夢のような、そしてかなり特権的な体験だった気がする。このレストランには二度行った。一度目は母と二人で、二度目は弟もいた。二回とも串カツを食べたが、最初のとき、なぜ数あるメニューの中からそれまで食べたことのない串カツを選んだのかはわからない。家では食べることのないカツを、それも食べにくいトンカツなどではなく、箸をつかわずに食べられる串カツを、という母の配慮だったのかもしれない。二度目に行ったときは、無邪気にはしゃぐ弟を、こういう場所ではおとならしく振るまわなければいけないとたしなめながら澄まして食べた。あまり知られていないことだが、食料自給率200%の北海道で、最もおいしいものの一つがタマネギである。そのせいか焼鳥も北海道ではネギではなくタマネギを挟む。食事のあとはまっすぐバスや汽車で一時間ほどの千歳に帰った。街灯も少なく、懐中電灯が必需品だった時代、月のない夜は銀河がはっきり見えた。夢のような空中レストランから帰り着くのは3間合わせて12畳ほどの、もちろん風呂もない市営住宅だったが、その落差をみじめだとも思わず都会に憧れることもなかったのは、そこに子どもなりの完結した世界があったからだろうと思う。縁の下のたくさんの野良猫、タンポポの花で一面黄色になる広い原っぱ、子どもの遊び場だった道路・・・世の中にはGDPにカウントすることのできない豊かさというのはたしかにある。そういう豊かさが普通にあった、もはや戦後ではないといわれた程度の、ほどほどの豊かさがあるというか、ほどほどの豊かさしかなかった時代。そういう時代に子どもだったという幸運に比べて、今の子どもの何と不幸なことか。
June 12, 2009
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げいにく、と入力してもATOKでは出なかった。この事実が、鯨肉の現在を物語っている。小学校の給食で最も頻繁に登場した「肉」が鯨肉であり、鯨肉の竜田揚げだったと思う。家で食べた「肉」も、ほとんどが鯨だった。カレーに入れたりソテーして食べた記憶がある。鯨のベーコンというのもあってよく食べた気がする。そうそう缶詰もあった。大和煮の缶詰はおいしいと思って食べた記憶がある。1971年の夏、泊まりがけの登山に出かけたとき、持参した食料が腐敗してしまい、わずかの米と鯨肉の缶詰で空腹をしのいだのだった。その缶詰も尽きたとき、あまりの空腹のため鯨肉と同じ色をした岩が鯨肉に見えるという経験もした。戦後の日本人の体格向上、栄養補給に最も貢献したのが鯨肉ではなかっただろうか。卵と並んで、何しろ最も安価な「動物性タンパク質」だった。1970年ごろまでは豚肉や牛肉の4分の1から3分の1、鶏肉に比べても半値以下だった。いまでは鯨は高級牛肉よりも高価になってしまったが、どちらも食物連鎖の最後に位置する動物なので脂肪部分には汚染物質が集まる。だから、鯨は赤身部分を刺身で食べるだけにしている。調べてみると、1987年までは学校給食で使われていたようで、最近でも使われたりしているらしい。日本人の体格が背が高いだけで貧弱になってしまったのは、鯨肉を食べなくなったからではないか(笑)「鯨肉の竜田揚げ」には思い出がある。あれは小学6年の修学旅行のこと。旅館の朝食に鯨肉の竜田揚げが出た。1968年のあのころにはすでに給食に鯨肉はあまり出なくなっていたので久しぶりだった。朝から肉なんて、なかなか豪勢だと思った。その「豪勢」な食事を前に、にやついている写真が残っている。しかしそのとき、遠くの方で女の子が泣き出した。こんなひどい朝食は食べられないというのである。医者の娘だということだった。中3の修学旅行のときは、洗面所でお湯が出ないと言って泣き出した娘がいたが、そいつも医者の娘だった。不思議なのは、鯨肉は肉なのに魚屋で売っていたことだ。いまでもスーパーでは鮮魚コーナーにおいてあり、鶏肉や豚肉の隣にはない。鯨はイルカと同じほ乳類であって魚類ではないのに、「魚」として扱われているのは不思議だ。何か事情というか経緯があるにちがいない。水産関係の研究者だった父はこういうことにうるさく、鯨肉が食卓に出るたびにクジラは魚ではない、なぜなら・・・という話をした。鯨が魚だと思っている人に出会ったら「折々のバカ」に書いてやろうと思って手ぐすねひいて待っているのだが、幸か不幸かまだ出会ったことはない(笑)麻生太郎は「鯨肉」を正しく読めるのだろうか。いつも食べていたものを正しく発語できないとしたら、それは正真正銘のバカだ。食べ物にはノスタルジーが関係することが多い。貧しかった時代を思い出すからイヤだという人もいるだろうし、貧しくても人情のあった時代を思い出して懐かしく感じる人もいるだろう。カレーやラーメンはそのどちらの人々をも納得させるのに対し、鯨肉は微妙だ。常食していた当時から、あくまで代用食なのだという意識があったような気がするし、時折思い出してどうしても食べたくなる、というようなものでもない。味の変化もある。昔、北海道の豚肉や鶏肉はまずかった。鯨肉はそうした中では相対的においしかったのだが、近年、豚肉や鶏肉がどんどんおいしくなったので、鯨肉のアドバンテージが消えた。前回のカレーで書き忘れたのが具について。昭和30年代の千歳で最も多かったのが、ホッキである。全国的にも珍しかったと思うが、これはホッキ貝の産地である苫小牧と隣接していたためだろうと思う。カレーとはまずホッキを食べるものであった。アサリを入れることも多かった。しかし、アサリは煮込むとえぐみが出る。鉄錆のような妙な金属的な味になるのでがっかりだった。その次がクジラだった。豚肉価格が下落し、クジラとほぼ同じになってからはクジラを使うことはなくなった。同じ値段なら豚肉の方がおいしいからこちらということだろう。挽肉を使うこともあったが臭みが出ていまいちだった。ニンニクやショウガで炒めてから加える、というようなことをする習慣はあのころはなかった。同年代の人と鯨肉の話になると必ず出る鯨カツのケチャップソース煮は、なぜか記憶にない。酢豚のようなものだったようだが、きっと鯨だとも思わずに食べていたのだろう。給食は一瞬でも早く食べ終わり、体育館やグランドで遊びたかったから、何を食べたかはほとんど記憶にないのだ。1969年だったと思うが、霞ヶ関ビル物語という映画を見た。黒部ダム物語とか、あのころは高度成長を謳歌するような映画が多く学校で「観賞を推薦」したりしていた。併映されていたのが捕鯨映画で、世界一だった捕鯨国日本の輝ける未来を称揚するような、見ている方がちょっと気恥ずかしくなるような「プロパガンダ映画」だった。しかし周知のように商業捕鯨は禁止され鯨肉はまぼろしの肉となる。ホエールという英語は大洋ホエールズの球団名から覚えたが、そのホエールズもいつの間にか消えた。
June 11, 2009
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世界一美しい湖は北海道にある。グアテマラのアティトラン湖が世界一だと言われているが、屈斜路湖、支笏湖、洞爺湖などはいずれもアティトラン湖より美しい。その支笏湖を源流とする川に千歳川がある。日本でも屈指の、つまり世界でも屈指の美しい川の一つである。しかしその千歳川よりももっと美しいのが、千歳川の支流の一つ内別川だ。この川は支笏湖を源流としているのではなく、珍しくも湧水が集まった川である。アニメ「もののけ姫」にでも出てきそうな、神秘的なオーラさえ感じさせる。この川一体は立ち入り禁止になっているが、源流部から千歳川に合流するまでの長さ2.5キロメートルのほどの川の水=ナイベツ川湧水は日本の湧水名水100選にも選ばれている。千歳市の水道水にはこの水が使われている。塩素消毒されているとはいえ、市販のほとんどのミネラルウォーターよりおいしい。内別川と千歳川の合流地点近くには浄水場があり、その周囲は「名水ふれあい公園」になっている。水飲み場も一ヵ所だけある。日常飲用・炊飯に使う水は、できるだけ水道水を避けるようにしている。塩素消毒することによってトリハロメタンなどの発がん物質ができるからだ。できれば入浴や洗顔も水道水は避けたいのだが、微量でもとりあえず口から発がん物質を入れるのはゴメンだ。だから春と秋の二回、羊蹄山の湧水を汲みに行き、日常の炊飯と飲料にはこの水を使っていた。だが羊蹄山は遠い。往復で5~6時間かかる。もう少し近くで湧水を汲めるところはないか。そう思ってナイベツ川湧水に目をつけたのだった。ここなら、往復2時間で済む。しかし、名水公園と銘打っている割に、水を汲める場所がない。小さな蛇口ひとつだ。これで400リットルの水を汲もうとしたら何時間もかかってしまう。もし先客がいたらひどく待たされるし、待たせてしまう。ここを訪れた10年ほど前、この蛇口から出る水をコップにため、匂いをかいだりしていた。母と、これはほんとうに湧水だろうかと言い合っていたその時である。作業服を着た小太りでブサイクな中年男が近づいてきて、聞きもしないのに「何やってんのさ。大丈夫だ。この水はちゃんと塩素消毒してあるから飲めるに決まってるべや」と北海道弁で怒るように説明して去っていったのである。その男が何者かはすぐわかった。浄水場の中に入っていたからである。千歳市水道局の役人かそこに雇われた管理人だということだ。われわれは唖然とした。塩素消毒されている水道水を避けて湧水を汲みに来ている人間に、塩素消毒されているから安全だと言い放ったのである。こんな輩を税金で養い水利権の一端を担わせているのかと思うと腹立たしくもあった。たしかに「塩素消毒すると安全」なのは間違いではない。たとえばコレラ菌。これは、日本の河川にも存在し、散発的ではあるが最近も感染者が出ている。1886年の大流行では日本でも10万人以上が死んでいる。ラムネやサイダーなど炭酸飲料の爆発的普及はこうした明治期のコレラ大流行の時期と一致しているが、これはたぶん水道水の飲用を避けた代替消費によるものだと思う。正確には、塩素消毒するとコレラ菌などは死滅するので安全だがトリハロメタンなどの発がん物質が生成するので危険。これが水道水である。それでは名水が安全かというと、そうとは限らない。日本三大清流の一つ柿田川の水からはトリクロロエチレンが検出されたこともある。この公園管理人のバカさはあまりにもシンプルで誰にもわかりやすいが、テレビなどでしばしば見聞する「植物由来成分なので安心」というキャッチコピーには何となく騙されてしまうことが多い。化学調味料はシイタケやコンブから作られる。この事実だけをもって化学調味料の安全性の根拠にする人がいるが、植物由来、あるいは自然界由来の毒は種類もその強さも人工的に作られた毒の比ではない。有名なのはワラビである。ワラビのあくには発がん物質が含まれている。アーモンド、ウメ、杏などは腸内細菌によって分解され有毒な青酸ができる。あく抜きをしっかりする調理法とか、大量に食べてはいけないとか、食べ合わせのタブーとされている食物があったりするのは、われわれの先祖が植物由来の毒を経験的に知っていたからにほかならない。大事なのは、何となく思いこまされているイメージを信じず、すべてを疑ってかかることである。何が安全か危険かは、わたしやあなたが決め判断するのであり、名水公園の管理人や厚生労働省の官僚ではない。
June 10, 2009
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旧東ドイツには3つ、優れたオーケストラがある。シュターツカペレ・ドレスデン、シュターツカペレ・ベルリン、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団である。ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団というのもあって悪くなかった気がするが、この3つは人によっては世界のトップ10に1つ、あるいは2つ、あるいは3つ入れるだろう。ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)の音楽監督だったオトマール・スイトナーは、単独でもNHK交響楽団の客演などで何度も来日しているから日本の音楽ファンにはおなじみの指揮者だった。しかし札幌へは1977年と1984年の二回来ただけだった。1977年のときは2日公演を行い、一日目はバッハなどの小編成の作品をやり、二日目はモーツァルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」をやった。1984年のときはモーツァルトやベートーヴェンの交響曲を並べたオーソドクスなプログラムだったと思う。ところで、外国のオーケストラの来日が常態化したのはさほど昔ではない。昭和30年代は年に一つか二つで、昭和40年代、すなわち1965年以降になってから急に増えた。しかし、札幌のような地方都市に来る外国のオーケストラは稀だった。あんなに何度も来日したノイマン=チェコ・フィルも、とうとう札幌には一度も来なかった。1972年に来たオーマンディ=フィラデルフィア管弦楽団も1978年の時には来なかったので、とうとうオーマンディは聴き損ねた。海を越えて来る必要があり、東北止まりのオーケストラが多かったのである。だから、札幌に来るオーケストラはなるべく逃さないようにしていた。1970年代の後半は学生でお金にゆとりはなかったが、ヴィトルド・ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル、小澤征爾指揮サンフランシスコ交響楽団、ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団などには万難を排して出かけた。そしてそれは大金を払うに値するじゅうぶんに貴重な経験だった。しかし、それではなぜスイトナーを逃したのか。1984年のときは、カルト宗教団体との熾烈な闘いのちょうどピークだった。洗脳された信者を家族の元に奪還するのに、どうしても現場指揮に行かなければならなかったしそこが天王山だった。しかし1977年のときは、二日共行こうと思えば行けた。しかしこの時行かなかったのは、そのころ入っていたブラスバンドの演奏会があり、連日の練習に追われていたためだ。アマチュアの音楽団体は、週に1度練習しているところが多い。そして年に1度か2度の定期演奏会が近づくと、集中して練習する。たいてい、本番の前一週間は毎日のように集まる。それでも別に義務ではないから、さぼろうと思えばできた。社会人が主である以上、すべての団員がすべての練習に参加できるわけもなく、直前でも来られない人もいる。しかし首席奏者がさぼるわけにはいかない。この団体はブラスバンドには珍しく、クラシックの曲を主体としていて、バッハやワーグナーをやっていたし、プッチーニのオペラアリアなんかもやっていた。重要なソロもあるので、なおさら休むわけにはいかなかった。それ以来、こうした活動に参加するのはやめることにした。このバンドともおさらばしたし、最近、プロ級の奏者を集めて作るというブラスバンドに誘われたのも断った。人生は時間でできている。凡庸な指導者の下で「演奏」して消耗している時間、どこかですばらしいコンサートが開かれているかも知れない。いや開かれている。だから、それを「聴く」妨げになるようなことには一切、関わらないと決めたのだ。スイトナーは地味な指揮者なので録音ではそのよさはわかりにくいが、特にモーツァルトはすばらしい。オーケストラ・ビルダーとしても優れていたのではと思う。数年前、バレンボイムの指揮でシュターツカペレ・ベルリンを初めて聴くことができたが、あの柔らかく美しい弦の響きは、スイトナーの長年の薫陶による果実だろうと思う。スイトナーは1922年生まれで、死んだという話は聞かないからまだ生きているのだろう。何年か前、インタビュー番組が作られたことがある。病を得て引退している彼を支えているのは長年連れ添っている奥さんと、子どもまで作ったもうひとりの女性と、その子どもの3人で、この4人が連れ立って歩いている光景は感動的だった。長い曲は無理でもモーツァルトの序曲一曲くらいは指揮できないだろうか。もしスイトナーが指揮するならドイツのいなかでもどこでも行くつもりだ。
June 9, 2009
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金川欣二という人がいる。言語学者で数冊の著書がある。ホームページも持っている。言語学に興味はないが言葉には興味があるので、ときどきROMしている。教えられること、なるほどと感心することも多い。さすが博覧強記、話の引き出しの多さには敬服もする。こんなことを書いている。誰がマリア・カラスを殺したの?または制度化した音楽というタイトルの文章で、マリア・カラスが引退したのは日本公演で聴衆がブラボーを浴びせたからだと主張しているのである。・・・・マリア・カラスは既に声も太くなっていて、自分で堪えられない演奏だったと思っていたのに、「ブラボー」が続いた。映画でも出てくるが、何をしても、観客は「ブラボー」というのであって、演奏を聴きに来ているのではない、サーカスに出ているのと同じだ、と思い、50歳にもならないうちに演奏活動を止めたのであった。つまり、日本人の心ない「ブラボー」がカラスを殺したのだ・・・この文章ではフライング・ブラボー批判に始まり、自然な気持ちで音楽を楽しむことをしようとしない日本の聴衆が問題にされている。そして、そうした聴衆が演奏家を殺すこともあるという例として、マリア・カラスが日本公演を最後に引退した事実をもって自分の批判の正しさの「証明」としている。事実はまったく違う。カラスは翌年には日本でトスカを歌うつもりだったし、後進の指導にも意欲を燃やしていた。「日本公演を最後に引退」したのは結果として事実ではあっても、マリア・カラスを「記号として消費」するブラボー連呼のバカ聴衆に絶望して引退したのではない。こんなことは少し文献をあたればわかることだし、自分の想像でしかないことを事実のように書くのは文章を書く人間が守るべき規範を逸脱している。結果としてこの人はウソをつき、読者をミスリードしている。その文のあとにこんなことも書いている。・・・ちなみに、カラスは若い頃、100キロを超えていた。『ゼフィレッリ自伝』(東京創元社)によれば、楽屋に『ローマの休日』のヘップバーンの写真を飾っていたという。あんな風になりたいと思っていたのだろうが、サナダムシ(広節裂頭条虫コウセツレツトウジョウチュウという種類で効き目は抜群、下痢、腹痛、悪性貧血を起こしやすく高いリスクがある)で痩せるなどという過激なこともして後にグラマーと言われるくらいまでに痩せたのである・・・・これも全くのデマである。カラスが痩せたのはサナダムシを排出してからであり、ダイエットも16ヶ月で35キロという、過激ではなくむしろ穏当な痩せ方だった。こんなことも少し調べればわかることなのに、この人は「調査なくして発言なし」という毛沢東の言葉を知らないらしい。「調査なくして発言なし」という毛沢東の言葉を知らない、知っていても守らない、あるいは知っていても実践できないインテリはバカ以外のなにものでもない。こういうバカをやるから、ほかの文章も同じように稚拙な間違いが多いのではないかと思ってしまい、著書を読む気も失せる。結論。金山欣二はバカである。彼の文章は基本的な誤りがある可能性があるので注意して読むように。亀山郁夫という人がいる。全共闘運動に一瞬だけ参加したことのあるロシア文学者で、ドストエフスキーの翻訳(名訳)で知られる。東京外語大の学長でもある。テレビで観て、何と誠実な人だろうと感服した。インテリはたいてい専門バカというバカと分類していいと思っているのだが、この人がテレビでしゃべるのを観て、こうした偏見を改める必要と自分の独善を反省したのだった。しかしその番組(ショスタコーヴィチの音楽を紹介する音楽番組)での続く発言には驚いてしまった。ショスタコーヴィチはスターリン主義下のソ連で生き死んだ作曲家である。その作品には、自分の名前を音型で印したり、反スターリン、反共産党のメッセージをしのばせた音型が散りばめられている。スターリンやソ連共産党を支持している人には、それらをたたえているように一見きこえるが、そうでない人には作曲家の本意、つまりスターリン主義と共産党の圧政と戦う人々を鼓舞するメッセージが聞き取れる、そういうからくりや仕掛けがなされた音楽、それがショスタコーヴィチの音楽である。ここまではわたしの意見であり、亀山の意見でもある。同じだ。しかし、共産主義は崩壊した。共産主義が崩壊した現在、ショスタコーヴィチの音楽が世界中で評価が高まり演奏されているのは、反スターリン主義、反共産主義のメッセージを、グローバリズムに対する抵抗のメッセージとして「読み替えて」聴く人が増えているからだと、この人はのたまったのである。わたしのへそは茶をわかし、お尻は椅子からずり落ち、ブルータスよお前もかというシーザーと同じため息をつくことになった。亀山郁夫よ、お前もか。クラシック音楽の流行を作り出すのはレコード会社やマスコミである。ベートーヴェンやブラームスに飽き、マーラーにも飽きた聴衆に何を売ればいいか。最後の交響曲作家であるショスタコーヴィチがいた。2006年は生誕100年というアニーバサリーでもあった。こうした「商業主義的な」動機で作られたのがショスタコーヴィチ・ブームである。クラシック・ファンの中心的な階層はプチブルであり、疑似インテレクチュアルである。男でいえば、理系の高偏差値大学の出身者が圧倒的に多い。こうした連中はだいたいにおいて政治オンチであり、保守的な思想の持ち主が多い。いや、保守的という以前に、アタマは空っぽで何も考えていないと言った方が正確だ。断言するが、グローバリズムという言葉の意味を知っている人間など、クラシック・ファンには数%もいない。彼ら彼女らは、音楽に癒しや慰めや刺激を求め、いっとき現実逃避しているだけだ。キャバクラやホストクラブに行くのと動機は変わらない。故宮下誠のように音楽に「世界苦」を聴く人間などほぼ皆無と言っていい。現代は、他人や世界の痛みを遠ざけるような愚昧な情報に満ちている。その限りにおいて「クラシック=ショスタコーヴィチの音楽」もまた、そうした愚昧な情報の一つとして「消費」されているだけだ。音楽は、利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることに疑問を持たず快楽的・享楽的に生きている人間、つまりブタのエサになっている。 インテリは、説明したがる。わからないことを、わからないと言えない。わからないことでも、もっともらしい理由を見つけてなるほどと尊敬されようとする。これは臆病のなせる技だと思う。インテリは「わからない」と言えないのだ。質問されたら正解を答えなければならないという強迫観念に支配されている。その点、小田実のような「インテリ」は偉大だった。彼の話は、自分が見聞してきたことを並べ、こうかもしれない、ああかもしれない、わからないが一緒にかんがえよう。そういうスタンスで一貫していた。ここだけの話だが、わたしも金川や亀山のようなインテリの端くれだ。だから彼らのような「バカ」をやってしまいそうになることがある。いや、この連載やブログでもやっているかもしれない。しかし、わたしは匿名の存在であり、金川や亀山とはちがう。失うべきなにものもないから放言ができるし、何の責任もないし(残念なことに)影響力もない。ノブレス・オブラージュからも自由だ。大事なのは、わからないことはわからないという勇気なのだ。金川や亀山に代表される「良心的で誠実な知識人」に欠けているのはこの勇気だ。彼らはバカにされるのがコワイのだ。人にはバカにされていろ、という「親父の小言」も知らないのだろう。亀山のような「解釈・解説」病はインテリ一般に広く見られるが、別の言い方をすれば観念や抽象に遊ぶ、または逃げているということだ。もちろん抽象化や観念化が必要なこともある。議論というのはだいたいにおいて具体的なことを抽象化して行われるものでもある。だから物事を抽象化できない人間は議論ができず発展がない。しかし、そうした議論ならともかく、一般的な視聴者や読者を相手にするときは徹頭徹尾具体的でなければならないと思う。少なくとも、抽象化した断定は避け、「ではないだろうか」と仮説の提出にとどめるのが誠実「ではないだろうか」。いろいろな本を読んで、この本はおもしろい、あるいは著者の真情が伝わる、と思うことがある。そういう著者の文章を検証してみると、共通点がある。それは、常に具体的かつ詳細で、観念や抽象に遊ぶことがないということだ。世の中はややこしい。金川や亀山や、さらに言えば辺見庸のような、知的で誠実で「世界苦」に共感できる人間的感性に満ちたインテリでさえ、こんな初歩的なことがわからず、あるいは心得違いをしてせっかくの業績をすべて吹き飛ばしてしまうような不用意な「一言」を発してしまうことがある。
June 8, 2009
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人間同士の付き合いで、食べ物の好みというか相性は重要だし大切だ。好き嫌いは伝染する。だから嫌いなものの多い人と付き合うと自分も嫌いなものが増えてしまい、世界が狭まる。子どもとおとなでは味覚が異なる。おとながおいしいと感じるものを必ずしも子どもがおいしいとは感じない。昭和30年代の食事はさえない温泉旅館の朝食とよく似ていた。あれと同じようなものを飽きずに食べ続けていた。空腹を満たすのが食事であり、それが楽しみだった記憶はほとんどない。例外だったのがカレーだ。ふだんはお代わりをしない小食な子どもでも、2杯、3杯とお代わりをするほど喜んで食べたのがカレーだった。「ALWAYS3丁目の夕日」でも家族の絆となる食べ物としてカレーライスが描かれている。しかし、わたしの記憶に間違いがなければ、カレーが大衆化したのは、「ALWAYS3丁目の夕日」の舞台である昭和34年(1959年)よりずっとあと、東京オリンピックのあった昭和39年(1964年)ごろだったと思う。というのは、子どものころ、カレーが嫌いだった記憶があるからだ。小学校に入った昭和38年(1963年)ごろまで、カレーといえば辛い食べ物であり、子どもが好んで食べるようなものではなかった。そのため辛さの少ないカレーを子ども用に別鍋で作っていた家も多かった。こんな面倒なことが続くはずはない。即席のルーはすでにあった。だが定番の「インドカレー」や「SBカレー」は辛かったし、カレー粉と小麦粉で作ることも多く、そうして作られたカレーは辛いだけでなくお世辞にもおいしいとはいえなかった。ハウスの「バーモントカレー」がこうした状況を劇的に変えた。辛さをおさえ甘みのあるこのルーで作られるカレーを子どもたちは歓喜で迎え、熱狂した。カレーの時代がやってきた。それまでカレーライスといい勝負だったハヤシライスの人気は落ち目となった。バーモントカレーによって、史上初めておとなと子どもが一緒に食べられるカレーが生まれたのだった。調べてみると、1964年ごろから急角度でカレールーの消費が増えている。この多くが1963年に発売されたバーモントカレー、そしてやや遅れて出たSBのゴールデンカレーの人気によるものだろう。卵焼きと焼き魚・煮魚、漬け物とご飯とみそ汁。家で食べる食事の90%はこれだった。まだ外国旅行など夢のまた夢で、食もまた鎖国同然だった時代に、お茶碗でなく皿、箸ではなくスプーンを使うカレーライスには西洋の香りがあった。食べる者にいつか西洋に追いつく希望を感じさせたのが、同じ大衆食であるラーメンとの決定的な違いでもあった。もし死ぬまでただ一種類の食べ物しか許されないとしたら、わたしはカレーライスを選ぶ。福神漬けはいらないが、サイドメニューにミニサラダをほしいところだ。だがバーモントカレーはごめんだ。おとなには甘すぎる。ジャワカレースパイシーブレンドにしてくれ(笑)
June 7, 2009
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いま思いだしても泣けてくる。前半の最後に演奏されたタレガの名曲「アルハンブラの思い出」は、まるで全体がたった一つのフレーズから作られた曲のように聴こえた。もともと永遠の時間の流れの、その空気の中に存在していたこの曲が、たまたま彼女の指と楽器を通じてこの世に姿が現れた、そんな印象があった。この世を去ってもう二度と会うことはできない親しかった人。その人が音楽に姿を変えてただずんでいるかのように感じられたのである。クラシックのコンサートに通い始めて40年、感動的な音楽はこれまでにもたくさん聴いた。しかし、これほどの天国的な美しさに満ちた音楽の時間は記憶にないし、たぶんこれからもないだろう。ギター音楽とギタリストには関心を払ってきたつもりだが、日本のギター音楽界の独特の暗さ、聴衆の雰囲気に嫌悪感を覚えることが多く、最近は遠ざかっていた。だから自分の判断に自信はない。自信はないが、直観で断言させてもらう。彼女こそ世界最高のギタリストである。彼女を超えるギタリストは現存しないし、これから100年のタームでも現れないのではないだろうか。アナ・ヴィドヴィチは1980年クロアチア生まれ。2005年の初来日以来今回が三度目だそうだが一般には無名に近い。10代後半で世界的な3つのコンクールで優勝。28歳の若さですでに1000回を超えるコンサート歴があり、CDやDVDも複数のレーベルから出ている。この「アルハンブラ」での「息の長い旋律美の表出」は、こうしたメロディアスな音楽ばかりでなく、他の曲でも聴かれた。「アルハンブラ」の前に演奏されたヴィラ=ロボスの練習曲(第1番、第7番、第11番)でも、たとえば特に分散和音が果てしなく続く「練習曲第1番」のような曲でさえ、和音全体がなめらかな音楽となって大きく息の長い起伏を描いていく。興奮ではなく瞑想、というより静かで深い興奮に誘われていく。プログラムの最初はソルの「魔笛の主題による変奏曲」。最初の和音の一弾きで、このギタリストの類いまれな才能と音楽性は明らかだった。ナルシソ・イエペス以来、音量の小ささを克服するため、大きな音の要求される部分では駒の近くで弾き、固い音を出すギタリストが多い。しかし、ヴィドヴィチはそうした安易なというか、非音楽的なことはしない。柔らかい音でたっぷりと響かせ、あくまで音楽が要求する音色でつまびいていく。音色の変化も絶妙だが、繊細でも神経質にならない。中でもピアニシモの美しさは幻想的なほどだ。こうした音色で、長いフレージングで大きな呼吸で奏でられていくので、音楽が部分に分解することなく、日常と隔絶した「音楽の時間」がちょうど武満徹の音楽のように流れていくのだ。2曲目、イギリスの作曲家ウォルトンの「5つのバガテル」はこれ以上ありえないほどの名演。意味のない音、考え抜かれずに弾かれている音が一音もなく、しかもそれが作為や思考のあとをまったく感じさせず自然かつ天衣無縫に流れていく。このように繊細でありながら興奮を呼ぶ音楽作りができるのは、ソプラノ歌手ロベルタ・マメリ以外に知らない。後半はテデスコのソナタ「ボッケリーニ讃」、バリオス「大聖堂」、ピアソラ「ブエノスアイレスの夏」「天使のミロンガ」「天使の死」「ブエノスアイレスの夏」。ギターに流派があるかどうか知らないが、北ヨーロッパのギタリストはラテン系のレパートリーもクラシックかつスクエアに演奏することが多く、ラテン系のギタリストはエンタテイメントに流れがちだし古典的な曲ではフォームに問題を感じることが多い。アングロサクソン系のギタリストはどんな音楽も流暢に演奏するがそれだけ、という気がする。しかしアナ・ヴィドヴィチはこうした偏りがない。テデスコでは古典的な様式美をきちんと踏まえていたし、バリオスやピアソラはそのラテン的・タンゴ的な要素を強調することなく、あるがままの音楽の姿を見せてくれる。ここでも印象的なのは息の長いフレーズと、超人的な技巧を要求される難しいフレーズでもまったく技巧を感じさせない演奏。アンコールは2曲。多くのギタリストが愛奏するディア・ハンターのテーマ曲「カバティーナ」とアルベニスの「アストゥリアス」。「カバティーナ」は表情豊かに歌われながら音楽はあくまで清楚かつ清潔。どこか東洋的な雰囲気のある「アストゥリアス」は情熱的に演奏されることも多いが、彼女の演奏はどこかシリアスな諦観を感じさせるもの。「美貌の若手天才女性ギタリスト」の中には、人間存在の本来的な悲劇性への洞察があるように思った。アナ・ヴィドヴィチの奏でる音楽に絶賛以外の言葉を見つけるのはロバが針の穴を通るより難しい。残念だったのは、この小樽(マリンホール)でのコンサートが今回のツァーの最終日だったこと。初日に聴いていたら、ツァーの追っかけをやれたのに。それにしても美しい音、響き、しなやかでエレガントで上品で完璧なフォルムの音楽だったことか。~アナ・ヴィドヴィチの演奏は地球外のそれだ~(コーリン・クーパー)
June 6, 2009
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カロリーゼロの三ツ矢サイダーが発売されたというので、さっそく飲んだ。三ツ矢サイダーがどれほどグレートな存在か。それはATOK8で「みつやさいだー」と入力すると一発で変換されることからもわかる。現れては消えるライバル商品の数々の中にあって、どんなスーパーでも最もいい場所に多大なスペースをとって陳列されている。最強のライバルだったキリンレモンはどうか。すでに昔日の面影はない。サイダー界のガリバーといっていいが、健康志向が高まり、カロリーオフの飲料や野菜飲料が幅をきかせる中にあっても、三ツ矢サイダーの地位はゆるがなかった。三ツ矢サイダーを最後に飲んだのは1966年、小学校3年の春。学校の「社会見学」で訪れた札幌のアサヒビールの工場見学のあと、全員にコップ一杯の三ツ矢サイダーが振る舞われた。だからかれこれ43年ぶりだ。昭和30年代の子どもの日常飲料は水道水だった。次いで少しずつ粉末ジュースが浸透してきた。駄菓子屋で売っていた、細長いビニール入りの飲料も大都市では親しまれていた。しかし人工甘味料に発癌性があるということがわかり、昭和40年代前半には粉末ジュースは廃れた。コカコーラは昭和30年代にはすでに登場していた。この時期、一度か二度試してみたことのある人は多いはずだ。しかし、あの薬のような味には違和感を覚えるだけだった。コーラがブレークしたのは日本人の所得水準が向上した昭和40年代後半以降であり、特にドルショック、オイルショック以降(1970年代前半)だったように記憶している。外で体を動かして遊ぶのが日常だったこの時代、粉末ジュースが廃れた1969年以降の自販機などまだなかった時代、コーラなどの清涼飲料が普及するまでの数年間、いったい何を飲んでいたかは思い出せない。その数年はちょうどわたしは中学生だった。いわゆる清涼飲料水は三ツ矢サイダーを含めて飲んだことはなかったから、カルピスでも飲んでいたのだろうか。昭和30年代まで、三ツ矢サイダーはハレの日の飲み物だった。親戚が集まったとき、誕生日、温泉に行ったときの夕食。そういうときにだけ、うやうやしく、子どもの人数よりも少ない本数並べられるのが、三ツ矢サイダーであり、炭酸が苦手な人のためのバヤリースだった。北海道ではリボンナポリンという、リボンシトロンの姉妹商品もあった(今もある)。1968年、小学6年の修学旅行のことは忘れられない。定山渓から中山峠を超え洞爺湖に向かうバスの中で、ガイドさんが「このあたりには炭酸を含んだ鉱泉の湧き出るところがあり、砂糖をとかすとサイダーになる」と教えてくれたのだ。年に数回のハレの日にしか飲めないサイダーが、ここでは砂糖さえ持参すればタダで飲み放題だというのである。その情景を想像して陶然とした思いに浸ったのはわたしだけではないと思うが、わたしだけだったかもしれない(笑)たとえは悪いが、ハリウッド女優クラスの美女多数が半裸でサービスしてくれる無料キャバクラのようなパラダイス、桃源郷を想像すれば遠くない。だからやはり、昭和40年代前半まではサイダーの類は非日常の飲み物だったのだ。しかしその後はコーラやファンタやミリンダの台頭によって、また缶コーヒーブームの襲来によって廃れていったのが国産のこうした清涼飲料だった。しかし三ツ矢サイダーは別格だった。夏目漱石や宮澤賢治にも愛されたこの味、とりわけ強い炭酸とかすかな酸味の愛好者は絶えることがなかった。そう、三ツ矢サイダーの第一の特徴はこの「強炭酸」にある。「イタキモチイイ」という言葉があるが、喉の奥で炭酸が炸裂したあと甘みと酸味が広がるのは「イタオイシイ」とでもいうべき体験であり、この「痛さ」がいいのだ。株を成り行きで買うときは、恐怖と期待が入りまじる。この不思議な気持ちは過去に類似の体験がある、と思って思い出の引き出しを探ると、三ツ矢サイダーの栓をぬくことを決断した瞬間がよみがえる。いまがほんとうに栓をぬくべきベストの瞬間なのか、一瞬の逡巡と決断の中に人生はある。
June 5, 2009
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日本オーケストラ連盟が主催して年に1回開いているコンサートシリーズの第10回。札幌での開催は初めて。毎回、開催地のオーケストラを中心に全国のオーケストラのメンバーを加えた特別編成のオーケストラで行われているようだ。メンバー表を見ると、弦楽セクションに20人が加わっている。つい数日前に同じホールで聴いた札響は地元のエキストラ奏者で増強していたが、うねるような響きはこちらの方がはるかに上。整った清潔な響きという札響の美点はそのままに、迫力だけが増して聴き応えがあった。特に武満徹の「波の盆」は、数年前の札響定期でも演奏されただけに、そのときとの違いが鮮明だった。いわゆるタケミツ・トーンの繊細さを損なわずに一回りスケールの大きな力強い演奏が繰り広げられていて名曲の名演になっていた。しかし楽しめたのはこの一曲だけ。三善晃「ノエシス」にせよ、この日の指揮者・尾高忠明の実兄である尾高惇忠の「肖像」にせよ、緻密な構成の密度の濃い作品であることはわかるが、何かこう聴き手のアイデンティティをゆさぶるような鮮烈な「一音」とか「一フレーズ」がない。最後に演奏されたのは尾高忠明の父で指揮者でもあった尾高尚忠の「交響曲第1番」。数年前に第2楽章の自筆楽譜が発見され50年ぶりに初演されたばかりの曲。この人の音楽はどちらかというと繊細で洒脱という印象があったが、第一楽章の強烈なトリルによる開始部分といい、劇的な展開といい、すさまじいエネルギーに満ちていて驚いた。第2楽章の牧歌的な音楽や美しい終結部のハーモニーにはこの人ならではの抒情性を感じたが、アナーキーなまでのエネルギーの爆発と初々しい明るさの共存には、終戦まもない1948年に作られたという時代性もあるのだろうか。もし完成していたら、日本のオーケストラ音楽史上に特筆される大作となっていたにちがいない。昨年12月には東京で林光の「交響曲ト調」、柴田南雄の「シンフォニア」などを聴いたが、凡庸な演奏で30回目の「新世界より」を聴くよりは、アマチュアの演奏でもいいから実演で聴く機会の少ない、しかし歴史的に重要だと思われる作品を聴きたいと思う。
June 3, 2009
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6月になった。ケガニの旬はもうすぐ終わりだ。ここだけの話だが、この世でいちばんおいしい食べ物はケガニである。チョコレートも捨てがたいが後味が悪い。三ツ星フレンチもいいが満腹するだけ食べると糖尿病になる。バフンウニは満腹する前に飽きてしまう。ケガニだ。ゆでたてのケガニこそ世界一の美食である。多めのお湯で15分から20分ゆでるだけだからシェフの技もいらない。おっと、甲羅を下にしてはいけないよ。ケガニの思い出は5~6歳のころのもの悲しい記憶にさかのぼる。ある日の夕食がケガニだったのである。大きな皿に山盛りのケガニ。ほかには何もない。テーブルの上に新聞紙をしき、その上で食べる。殻の山ができていく。親が作ってくれたものに文句を言ってはいけない。コンビーフ(馬肉の入った缶詰)が食べたいと思いながらも、うちはビンボーだからケガニしか食べられないのだと、泣きそうになりながら食べた。カラで指を切り、口の中を切りながら血だらけになって食べた。ちょうど父の兄の借金の肩代わりをしていたので、経済的にいちばんゆとりのない時期だった。ひょっとしたら明日から白いご飯は食べられない、これからは毎日ケガニかもしれないと思って暗澹とした。次の日白いご飯が出てほっとしたものだった。ケガニは食べるのが難しいし面倒だ。だからあまり小さい子どもには食べさせられない。2歳下の弟が食べられるようになったので、この時期、しょっちゅうではないがカニを食べる機会が増えたのだと思う。同じころ、母の職場の宴会でケガニを食べたこともあった。教員はビンボーだから宴会でもケガニしか食べられないのだろう、そう思うと悲しくなった。教師とか公務員になったら宴会でケガニしか食べられない惨めな人生になる。そのとき強烈にそう思ったのが、その後の人生に大きく影響した(笑)しかしケガニがビンボー人の食べ物だと思ったのは当時としても間違いだっただろう。しかし高級品であったはずはない。なぜなら、子どものころ、ケガニを乾燥させて食べていたとか、畑の肥料にしていたという話を聞いたことがあるからだ。先日、近くのスーパーで小さめの生ケガニを買ったら498円だった。昭和30年のケガニはいっぱいいくらだったのだろう。貨幣価値その他から考えて30~50円といったところではなかっただろうか。ケガニの漁獲量のピークは昭和30年であり、現在は10分の1以下になっている。昭和40年代前半までは、それでもピークの半分くらいは獲れていた。それが激減したのは1960年代末からで、乱獲が原因だと思う。動物界 節足動物門 甲殻亜門 軟甲綱 真軟甲亜綱 エビ目(十脚目) カニ下目 イチョウガニ群 イチョウガニ上科 クリガニ科 ケガニ属 ケガニこれがケガニの分類である。エビ目であることは覚えておいた方がいい。これに対してタラバガニは動物界 節足動物門 甲殻亜門 軟甲綱 真軟甲亜綱 ホンエビ上目 十脚目(エビ目) 抱卵亜目(エビ亜目) 異尾下目(ヤドカリ下目) タラバガニ科 タラバガニ属 タラバガニエビ目までは同じだが、ヤドカリの一種でありカニではない。水産関係の研究者だった父はケガニを食べるたびにこういう話をした。この話は数十回は聞いた記憶があるから、昭和38年を前後する数年間で数十回、つまり年に5~6回から10回は食べたと思う。ケガニの漁獲量が激減すると、それと入れ替わるように肉が安くなった。昭和40年代も後半になると所得水準は上がり、豚肉ならときどきは食べられるようになった。欠食児童が珍しくなかった昭和30年代は結核がまだ国民病だったが、魚中心の和食からパン、バター、肉食と洋食化がすすむにつれ、結核もまた激減していったし日本人の体格も向上していった。食の洋風化は悪いことばかりではないのだ。終戦の翌年、日本人の摂取カロリーは1900キロカロリー強だったらしい。1975年をピークに減少し現在は2000キロカロリー強であり、これは戦前の水準を下回る。それでも肥満や糖尿病が増えているのは、食べ物の内容の変化とマイカーの普及で歩かなくなったせいだろう。土門拳の「筑豊のこどもたち」が撮られたのは昭和34年。表紙の「るみえちゃん」をはじめ、ここに写っている子どもはわたしと5~6歳しかちがわない。それなのに、すさまじいまでの貧困に衝撃を受ける。弁当を持ってこられない子どもが大勢いる。団塊世代の反戦自衛官・小西誠の本を読んだら、弁当を持っていけなかったので昼休みは外で遊んで空腹を紛らわせていたとあった。ケガニをたらふく食べていたのに貧乏だと悲しんでいた自分の境遇が恥ずかしくなる。せめて「るみえちゃん」にケガニをたらふく食べてもらって罪滅ぼしをしたいのだが、彼女と彼女の妹はいまどうしているのだろう。
June 1, 2009
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