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休日の夜はあいにくの雨になった。コンサートが終わるころには小降りになったが、コンサートの間はかなり強く屋根を打つ雨の音が聞こえた。しかし、歴史的建造物である時計台でのコンサートは、そんな音も気にならないから不思議だ。Kanonは、道教大学札幌校で出会った声楽やピアノ、楽器を専攻する20数人が2003年に結成したグループらしい。12回目のコンサートを初めて聴いた。今回は声楽の参加はなく、器楽と室内楽。前半はドイツ・オーストリアの、後半はフランスの音楽が集められたプログラム。1曲目はバッハの平均率クラヴィア曲集第一巻からの前奏曲を四本のクラリネットに編曲したもの。バッハをクラリネットで聴く機会というのはまずないので、おもしろい聴きものだった。吹奏楽とバッハのオルガン作品は相性がいいが、室内楽のサイズでいろいろ試してみるのもおもしろそうだ。ベートーヴェンのバイオリン・ソナタ「春」第1楽章と第4楽章を演奏したのは長谷川加奈という人。この人は別のカルテットでの演奏を聴いて、ソロを聴いてみたいと思っていた。それがやっとかなったわけだが、ベートーヴェンにしてはやや軽いものの、安定した爽やかな演奏。メンデルスゾーンの「コンチェルトシュトック第1番」は、二人のクラリネット奏者の鮮やかな技術が聴きものだった。かなり難技巧と思われる曲を何の苦もなく、危なげなく演奏しているのに驚いたが、派手さという意味ではこの日のハイライトといえる演奏だったかもしれない。前半の最後はモーツァルトの「4手のためのアンダンテと5つの変奏曲」。室内楽的な、アットホームな演奏で好感がもてた。後半は、あとで考えてみたらすべて初めて聴く曲。タンスマンのファゴットのための「組曲」は若狭麻依、サン=サーンスのフルート曲「ロマンス」は岡村悠子、やはりサン=サーンスの「クラリネット・ソナタ」は斉藤佳奈美という人が独奏。いずれも端正さが勝っていて、もう少し歌謡性があってもいいと思ったが、清潔で気持ちのいい演奏が続いた。中では岡村悠子という人の品のいい演奏が印象的。最後は木管五重奏でプーランクの「ノヴェレッテ」とタファネルの「木管五重奏曲」から。音楽は、リズムと音程が正しくなくては聴きづらいものになる。逆に言えば、リズムと音程さえ正しければかなり楽しめるものになる。実はこの基本的なことが案外難しい。特に少人数の室内楽ではわずかな音程のズレが致命傷になることも多い。しかし、この演奏はそういう点ではまったく瑕疵がなく、ほぼ完璧な出来。響きの豊かさとか、即興的なかけ合いの妙とかがあればとも思うが、若い人たちらしいケレンのない素直な演奏が心地よかった。200人ほどのホールは雨にもかかわらず満員。雨の日曜の夜をどこでどう過ごすかは人生の最も重大な選択の一つだと思うが、これ以上ない選択だったと自画自賛。
May 31, 2009
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社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」のライブに行ってきた。このグループのライブを見るのは半年ぶり2度目。半年前と同じネタもあるし、「定番」メニューもある。が、新しいネタとのバランスがいいし、風刺されている対象は同じでも、切り口が変わっていたりするので何度見ても飽きないしおもしろい。ぴったり2時間、お腹がすき、呼吸が苦しくなるほど笑わせてもらった。去年は麻生ネタで新鮮なのが多かった(漢字モノ)し、安部や福田の政権投げ出しから時期がたってなかったので、材料としてインパクトのあるものが多かった。小泉純一郎の引退宣言もあったので、このグループの「看板」ともいえる小泉ネタもまだまだ鮮度を保っていた。しかし半年たつと、安部・福田はもう素材にならない。オバマものも鮮度が落ちてきている。民主党のゴタゴタや新型ウィルス、鴻池の愛人問題、裁判員制度くらいしか鮮度のいいネタがない。ネタとしても小粒だ。にも関わらず、そうしたネタでも思いがけない切り口で風刺しているので、表面的なおもしろさではなく、うーんなるほどとちょっと考えてから笑いが襲ってくる。深いとまではいかないが、かつての漫才ブームのような「浅い」笑いではないのだ。しかもまるで即興でコントにしているかのような「スピード感」があり発想の柔軟さにも舌をまく。だから、何度見ても飽きないし、以前とは変わった世相をどう斬ってくれるのか期待してしまう。700名ほどのホールの2回公演で二日とも満席。パントマイムなどもあるので、できれば中規模以下の小さめの会場で見るといいと思う。
May 30, 2009
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音楽監督・尾高忠明の指揮でモーツァルトの交響曲第41番とリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」というプログラム。ソロは首席の石川祐支(チェロ)と廣狩亮(ビオラ)。キタラのような音響のよいホールでも、すべての席がいい席というわけにはいかない。たいていのホールでいちばん音響がいいのは天井桟敷だが、モーツァルトを天井桟敷でというわけにはいかない。リヒャルト・シュトラウスの交響詩のような作品は天井桟敷がベストだが、「ドン・キホーテ」は協奏曲の趣のある曲。ソロを楽しむにはやはり天井桟敷というわけにはいかない。そこで選んだのは、一階中ほどの席。この選択はベストだった。間接音と直接音のバランスがちょうどよく、音楽を「楽しむ」には最適。周りには高齢者が多かったのはうなずける。この日最も印象に残ったのは二人の楽員ソリスト。二人とも定期演奏会でソリストとして演奏したことがあるが、特にチェロの石川祐支はソリストとしても立っていける人で、ドヴォルザークやエルガーなどの協奏曲作品をぜひこの人の演奏で聴いてみたいと思った。尾高忠明のリヒャルト・シュトラウスはもう何度も聴いた。いつも思うのはどこをとってもビューティフルで、安心して聴けるということ。羽目を外したキテレツな音やワルノリした表現を聴きたい部分もあるが、全体に角がなく優しく円満。モーツァルトも同じだ。12型かそれ以上の大編成なのに、重すぎず軽すぎず、テンポ感が絶妙。フィナーレのフーガ風の部分なども安心して音楽に浸りきることができる。しかし、どこか予定調和的なハッピーエンドの物語のようで、はっとするスリルや、シベリウスやマーラーやラフマニノフでのような、どうしてもこの指揮者でなくては、というものが見当たらないのも事実。編成を増強したシュトラウスでは感じなかったが、モーツァルトではバイオリン・セクションの響きの薄さと舌足らずな表現が気になる部分があった。これは、定年退団などによって急速に若返りが進んだせいだろう。弦楽器の響きの薄さは、日本のオーケストラのほとんどに共通した弱点。それでも、男性の多い低弦セクションはそこそこの音を出すようになってきた。しかしバイオリン・セクションの響きは、これは若い日本の女性奏者が多いせいだと思うが、薄い上にパワーがない。札響はこのところ立て続けにCDを録音し発売しているが、<世界>で勝負するには、ヨーロッパのオーケストラのほとんどがそうであるように、スラブ系の奏者を大量に採用する以外にないと思う。音楽は実力の世界であり、国籍や民族・性別は関係がない。そうであるなら、外国の優れた奏者をどんどん入れるべきであり、それなくしてこれ以上の発展はない。金融危機の影響で破たんしたり解散したヨーロッパの<一流>オーケストラもある。腕利きをスカウトするチャンスなのだが、そもそも積極的に外国人を採用しようとしないのは残念だ。
May 29, 2009
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同じ市内に住む、しかし2年前に会ったきりの叔父が亡くなったという知らせ。92歳だった。急なことだったらしい。娘(わたしにとっては従姉妹)に聞いても話が細かすぎて要領を得ない。もともと血圧が高く心臓が悪くときどき入院したりしていた。軽い脳梗塞も起きた。2年前に膵臓がんと診断された。10日ほど前、急に黄疸が出たので入院し胆管の手術をしたが、黄疸は治らず、状態が悪化したので別の病院に移ったら肺炎になって死んだという。叔父は第二次大戦では衛生兵として出征し、シベリアで抑留された。そのときの体験からソ連びいきになり、ソ連嫌いの父とはよく議論になった。温厚そのものの人だったが、そのときだけは頑固に自説を曲げようとはしなかった。本が好きで、車椅子になってからもいつも書店に行きたがったという。車椅子の叔父を書店にひとり残し家族は何時間も別の用事を足したりしていたという。2年前に会ったときは少しボケ始めていて心配だったが、それ以上は進まなかったらしい。読書好きが幸いしたのだろうか。ひ孫の顔を見ることができたのはいまの時代でも幸運だったかもしれない。1917年、ロシア革命の年に生まれた叔父は、シベリア抑留体験だけではなく、もっといろいろな歴史的事件にも遭遇していたはずだ。そういうとき何を感じ、何を思ったか、聞いておけばよかったがすべてはあとの祭りになってしまった。
May 26, 2009
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原題はCALLAS ASSOLUTA。2007年のフランス映画。監督のフィリップ・コーリーは「Matisse-Picasso」(2002年)という作品もあるドキュメンタリー映像作家らしい。ちなみに、映画のタイトルは原題も併せて覚えておいた方がいい。外国人と映画について話すとき、タイトルがわからなくては話の糸口さえつかめないからだ。ASSOLUTAとは、<究極の>とか<最高位の>という意味。直訳するなら「究極のマリア・カラス」といったところだろうか。2000年以後に作られた6本目の「マリア・カラス」映画である。チラシには、「2007年9月16日の没後30年目にパリ・オペラ座とミラノ・スカラ座でガラ上映され」「エンドクレジットが上がっても観客はしばらく席を立てませんでした」とある。彼らはなぜ「しばらく席を立てなかった」のだろうか?落胆と失望のあまり立ちあがれなかったのではないか。簡潔に、濃い密度で、要領よくまとめられた「伝記映画」ではある。しかし、数十種類ある伝記や回想録、残されている映像の多くに目を通した人間からすると、新しい視点の提出はなく、興味を惹かれる資料や映像も少ない。マリア・カラスという偉大な人物を描くには、いかにも準備不足でありやっつけ仕事だったという印象を禁じ得ない。カラスにはいくつかの伝説=神話がある。キャンセル魔だった、吝嗇家だった、オナシスが現れたので夫メネギー二を捨てた、オナシスがジャクリーヌ・ケネディと結婚したことで失意に沈んだ、晩年、声をなくし恋人ステファノに去られ自殺した・・・こう断定する伝記もあるが、事実はすべて正反対だった。自分の都合でキャンセルしたことは一度もないし、吝嗇だったのはマネジャーだった夫メネギーニであり彼女ではない。メネギーニはカラスの資産を流用していたのでオナシスが現れる前にカラスの心は夫から離れていたし、オナシスとジャッキーの結婚が政略結婚であることはわかっていたから、カラスはさほど動揺しなかったはずだ。こうしたカラス神話=伝説が、この映画では(良心的なことに)さりげなく否定されている。しかし、いかにも通り一遍で突っ込みは浅い。少し入念に資料を集めた人間なら、スキャンダルを「誤報」し続けたマスコミを筆頭に、カラスを「追放」したアテネ歌劇場、イタリア政府、メトやサンフランシスコのオペラハウスなどの犯罪(性)を糾弾し、カラスの謎めいた死(わたしは他殺だと考えている)、カラスの死後に遺産を横領した詐欺師カップル(弁護士とピアニスト)についての注意を喚起するのが、神話と伝説を否定する最良の、そして最も公平な方法であり、カラスの生涯を映像で伝えようという人間の神聖な義務だと考えるはずだ。だが、このコーリーという映画監督は、そうは考えなかったようだ。典型的なフランス人なのか、神の高みからのご託宣のようにカラスの生涯を提示してくれている。謙虚に見せかけた傲慢さが見え隠れする。対象に没入せよとは言わない。しかし、たとえばケン・ラッセルの「マーラー」は、やり過ぎともいえるカリカチュアライズをし、しかもマーラーの否定的な人格にスポットを当てながら、にも関わらず全体としてマーラーの音楽と人生を称揚した感動的な作品になっている。疑似客観性を装ったこの作品を観て、わたしは、コーリーなる映像作家をカラスに寄生しただけの存在とみなす。ただ、それではこの作品を観る価値がないかというと、そんなことはない。活字でしか知らないカラスゆかりの地の風景を見られるのはすばらしい体験ではあったし、カラスがオナシスの子どもを身ごもり、死産していたという「新事実」も明白な「証拠」と共に提示されている。写真や映像はほとんどが既出のものだが、晩年のカラスにつきまとい遺産を横領した女ピアニストの動画も(一瞬だが)観ることができる。やはりカラスにつきまとった「世界一醜い女」と言われたゴシップ・コラムニストのエルザ・マックスウェルもたっぷり観ることができる。世界一の美女と世界一の醜女が並ぶ映像は、ある強烈な印象をのこす。会場へ出かけて初めて知ったのだが、フィルムではなくプロジェクターによるデジタル上映。そのため、ただでさえフォーカスの甘い映像がさらに甘くなっていて、「銀幕でカラスに会う」期待はほとんど満たされることはなかった。日本での公開がフィルムにならなかった経緯については疑問が残る。
May 23, 2009
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往年のクラシック・ファンなら誰でも知っているであろう指揮者に、フリッツ・ライナー、ユージン・オーマンディ、ジョージ・セル、アンタル・ドラティ、ゲオルク・ショルティ、イシュトバン・ケルテス、フェレンツ・フリッチャイといった人々がいる。ライナーはバーンスタインの教師としても知られているし、ケルテスは早世しなければカラヤンを追い落としたかもしれないと言われているが、これら往年の大指揮者に共通しているのは、ハンガリー系だということである。完全主義者として知られたジョージ・セルが、長年音楽監督をつとめたクリーブランド管弦楽団と共に最初で最後の来日をしたのは1970年。たしかこの年開催された大阪万博の芸術展示に参加するためだったと思う。そのツァーの最後の方に札幌公演があった。調べてみると5月25日。翌26日の東京公演がツァーの最後で、なんと帰国してまもなく、7月30日にセルは亡くなってしまった。そのコンサートはテレビで繰り返し宣伝されていた。しかし行かなかったのは、会場が中島スポーツセンターという、体育館のようなところ、というか体育館そのものだったからだ。ふだんはプロレスをやったりする、そんな場所でオーケストラ・コンサートを開く主催者の感覚が信じられなかったし、恥ずかしかった。音はそっちのけで、舶来ものなら何でもありがたがる日本人のひとりになりたくなかったので行かなかったのだ。そのころにはもう札幌市民会館という、座席数1500ほどの音響効果の優れたホールがあった。1966年にはカラヤン=ベルリン・フィルがこの市民会館で演奏している。にも関わらず、こうした会場を選んだのは、収容人数の問題だと思われる。つまり、札幌市民会館ではよほど入場料を高くしないとペイしない、しかしそれではチケットは売れないということだったのではないかと思う。放送局主催の演奏会だったから、手に汗を握りながら集中して生中継を見た記憶がある。メーン・プログラムはシベリウスの交響曲第2番だった。初めて聴く曲なので、演奏のよしあしなどはわからなかった。しかし、何カ所かで痺れるような快感を味わった。この3日前に同じプログラムで行った東京公演が数年前にCD化された。その演奏からは、人間セルを感じとることができて感動的だ。アンサンブルの精度にうるさい完全主義者セルのクールさは影をひそめ、ひたすらにヒューマンで温かい音楽が流れていく。そのCDを聴いたとき、1970年の「体育館コンサート」に足を運ばなかったことを悔やみ、眠れない一日を過ごしたのをおぼえている。カラヤンはセルを尊敬していたらしい。セルは19世紀生まれなのに長身だったらしい。あのカラヤンが、セルの前では緊張して小声で「はい」としか言えなかったというのだからおもしろい。この二人はこの1970年の来日時に会い、旧交を温めたという記録がある。カラヤンはその後何度も日本を訪れたが、とうとう実演を聴くことはなかった。しかし、ジョージ・セルを逃したのは残念だと思っても、カラヤンを聴かなかったのは残念だとは思わない。セルの来日公演のCDを聴くたび、ああこれは大指揮者の「白鳥の歌」だったのだと思う。シベリウスの最高傑作の一つである交響曲第2番を、他の指揮者で聴くときも、セルのこの演奏を思い出して厳粛な気持ちになる。というか、そういう気持ちなくしては聴けない曲になってしまった。
May 21, 2009
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わたしが小学校低学年だった昭和30年代には、いま当たり前に売られているものの多くはまだなかった。野菜にしろ果物にしろお菓子にしろ、いろいろなものの中から選ぶ、という買い物の楽しみはほとんどなかった気がする。かなり遅い時期まで手に入らなかったものの一つにパインアップルがある。パインアップルといえば缶詰で、それすら貴重品だった。そのせいか、昭和30年代はイミテーションのようなものが多かった。たとえば、化学的に合成されたフルーツの味がする食べ物や飲み物の類である。正確な商品名はわからない。「パインアップルアイス」も、そんなチープなイミテーション・フーズの一つだった。これは冷菓、というより氷菓だった。缶詰のパインアップルは輪切りになっているが、ちょうどその輪切りのパインアップルをそのまま凍らせたような形になっている。もちろん果肉はまったく使われていない。が、どういう技術処理をしているのか、ただの氷に縦に筋が入っていて、まるでパインアップルをそのまま凍らせたかのような食感がある。あのころは、人工甘味料やフレーバーを使った粉末ジュースが全盛だった。だからこのパインアップルアイスも、粉末ジュースを凍らせて作ったものだと思う。凍らせる過程でかき混ぜたり型に入れたりといった処理を加えることによって、果実のような食感を出していたのだと思う。昭和30年代の子どもは、しかしまだ粉末ジュースさえ飲むことは少なかった。外で遊んでのどがかわくと、近くの家に行って水を飲ませてもらったものだ。そのころ住んでいた家は小さな(と言っても300坪以上はあったと思う)公園に隣接していたから、水をほしがる子どもが家の前で行列を作ることも珍しくなかった。そんな時代、1年に数日あるかないかの暑い夏の日、「パインアップルアイス」を食べるのは至福のひとときだった。サクサク、シャリシャリという歯触りのものが口の中で溶け、のどを通りぬけていく爽快感は他では絶対に得られないものだった。削った氷にシロップをかけただけの何の芸もない「氷水」に比べて、「パインアップルアイス」には、精一杯、ホンモノに近づきたい、近づけたいという開発者の一途な健気さがあったのではないだろうか。戦後日本の発展の原動力となったものの一つが、こうしたホンモノへの渇望だったと思う。バナナアイス、というのもあった。今でもあるのかもしれない。昭和30年代、バナナは今の夕張メロンかそれ以上に高級品の代名詞だった。漠然とした記憶だが、現在の貨幣価値に引き直すと一本1000円くらいの感じだったと思う。バナナは輸入自由化で比較的早く価格が下がったが、パインアップルが普通に出回るようになるには時間がかかった。特に北海道は他の地域より遅かったような気がする。昭和40年代も後半になってからではなかっただろうか。生のパインアップルを初めて食べたとき、妙なものだと感じ、あまりおいしいと思わなかったのは、きっと長いことニセモノに慣らされてしまったせいだろう。夏の暑い日、子どもは、コンビニではなく、老婆がひとりで店番をしている駄菓子屋から買ったアイスキャンデーでのどのかわきをいやすのでなければならない。そうでなければ、ろくなおとなにならないのは歴史が教えている。
May 20, 2009
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この10年、少しずつモノを減らしてきた。本・楽譜・レコード、CD。本は棚一つと決めて、増えたらその分を処分するようにしてきたし、楽譜とレコードはほぼ全部売り払った。5000枚以上あったCDのコレクションは1000枚を切ってきた。思いがけないことに、最も高く売れたのは楽譜だった。70年代に買い集めたフランスやアメリカの楽譜のほとんどは2~3倍、中には50倍で売れたものもあった。ケガをしてしばらく動けないと悟ったとき、考えたのは、こういう状況にならないとできないことをしよう、災い転じて福となそうということだった。そこで考えたのは、長年の念願だったオペラ全曲をCDやDVDで徹底的に視聴すること、大作曲家のすべての作品を聴く、というような酔狂なことをしてみようということだった。そこで手に入れたのは、今年が没後200年のハイドンの作品を集めたCD150枚のボックスもの、モーツァルト・エディション170枚、マリア・カラスのスタジオ録音完全コレクション70枚、バーンスタインのハイドン(CBSレコーディング)11枚組など合計400枚ほどのCD。ほかにバッハとベートーヴェン、メニューインの全集計400枚も狙ったが落札しそこねた。CDの価格破壊はすさまじい。総費用は38000円だった。
May 19, 2009
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生まれて初めておいしいと思って食べたのは塩ウニだという記憶は間違いだったような気がしてきた。おぼろげだが、1960年夏に食べたかけそばが、人生で最初においしいと思って食べたものだったと思うので訂正しよう。塩ウニとの出会いの何日か前のことだ。箱根や日光や東京を訪れたその旅の終わり、岩手の水沢駅に降り立った。母の実家はここからバスに乗り、降りた停留所から歩いて1時間はかかる辺鄙なところにある。駅を出て、すぐそばにある食堂に入って一杯のかけそばを二人で食べた。そのころは、いつもそうしていた気がする。3歳半ではまだ一人前を全部食べられないから、店の人に小さな器をもらって小分けして食べていた。その食堂に入ったのは午前中のような気がする。寝起きで食べたのにおいしかった、そんな感覚が残っているからだ。しかし朝のはずはない。バスから降りたあとのことはかなり鮮明に覚えているからだ。もう暗くなり始めていて、ランプを灯しながら歩いた。歩いているうちにすっかり日は暮れ、祖母や叔父が住む母の実家に着いたときは夜だった。村の人が何人もバス停まで迎えに来てくれた。道すがら「○○が帰ってきたぞう」と大声で呼びながら歩く。そうするとその行列が少しずつ増えていく。歩き始めてまもなく誰かが背中におぶってくれ、そうして家に着いた。おぶってくれた人の背中の感触を今でもありありと思い出すが、逆算すると、水沢駅でそばを食べたのは遅い昼食のような時間だったのではないかと思う。岩手は北海道と並ぶソバの一大産地である。しかし、50年近くも前のこと、こだわりのおいしいソバなどまだなかった。今もある「玉そば」みたいなものだっただろうと思う。しかしカツオのだしのきいたタレと少しザラザラした麺の感触は、いまもありありと思い出す。体の中に沁みていくようなおいしさというのか、カツオダシのうまみとみりんの甘みが醤油にブレンドされたスープは子守歌のような優しさに満ちていたし、柔らかい麺は起きがけで食欲がない子どもの喉もするすると通った。駅の立ち食いそばのような、何の変哲もないソバを、しかしとてつもなくおいしく感じたことはそれからも何度かあった。それはたいてい、空腹と寒さの両方に耐えたあととか、長時間の移動に疲れたようなときだった。何かをおいしく感じるとき、味そのものよりも、体調や環境が大きく影響している場合が多いものだ。そう思って、4週間のイタリア旅行から帰国してすぐ、かけそばを食べてみたことがある。どんなにおいしく感じられるかと思ったが、ダメだった。カラフルなイタリア料理に慣れてしまうと、見た目からして食欲をそそられない上に、自己主張のない味に感じられた。思うに、そばや和食の類のよさは、自己主張のなさにあると思う。だから、疲れたとき、病気のとき、その味を優しく、おいしく感じるのだ。きょうは温かいそばが食べたいな、と思ったら疲労の蓄積を疑った方がいいのかもしれない。
May 18, 2009
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子どものころ、特に就学前のことでいちばん記憶に残っているのは、女の人のことだ。ひとりでも、母と出かけても、行く先々で、女の人たちに可愛がられた。女性の多くは子どもが好きなものらしい。小さなもの、かわいいものを好むのは洋の東西を問わない。反対に、男がそういう態度を示すことはほとんどない。それどころか、ラッシュ時の列車に乗ろうとして、入り口に殺到する男たちに挟まれでつぶされそうになったことが何度もあった。また、母の職場の宴会や、休日出勤した父の職場に連れていかれた時も、女性の同僚はわたしに関心を示しても、男性の同僚は一瞥して終わりだった。わたしが基本的に女性に対して親和的・肯定的な、男性に対して対立的・否定的な感情を持っているのは、子どものころのこうした体験があるからであり、女好きなため(だけ)ではない(笑)だからと言って、すべての子どもが可愛がられるわけではない。ギャーギャー泣いたり、落ち着きがなかったり、ブサイクだったりするといくら子どもでも可愛がられることはない。その点、わたしはいつもどこでも可愛がられた。彼女たちは口々に、無遠慮なほどにわたしを褒めるのだった。いわく、おとなくしていい子、頭がよさそうな子・・・母に対して、おばさん、この子ちょうだいとあけすけに言う人もいた。昭和30年代、人と人との距離はいまよりずっと近く、物事はストレートに表現した。別の言い方をすれば、ソフィスティケイトされていなかった。ただ、弟は女の子のように、というかそこらの女の子よりずっと愛らしかったので、弟と連れ立って歩くようになってからは、女性の関心はもっぱら弟の方に向かった。このように、人生のごく早い時期に人の世の移り変わりのはやさ、気まぐれを経験したことで、超然とした世界観が身についたと思う。当時のおとなたちの意見を総合すると(笑)、他の子どもとの決定的な違いは、「品のよさ」だったようだ。こうした生まれつきのキャラクターでずいぶん得をした。汽車で旅行するような時はたいへんだった。周囲の人たちが、あれを食べろ、これを食べろといろいろなものをくれるのである。昭和30年代の汽車旅行と言えば冷凍みかんだが、お金を出して買って食べたことはないほどだった。そうして得をした体験の一つに、4歳くらいと思われる時期の「チョコプリン」の試食体験がある。「チョコプリン」との出会いは、札幌駅の地下にあったデパートの食料品売り場であった。その名もステーションデパートといった。何かの用事で母に連れられて札幌に来た帰り、汽車に乗るためにその売り場を通りかかったときのこと。ぼく、これ食べていきなさいと、きれいな女性が・・いま思えば20代後半くらいだろうか・・・丸ごと一個のチョコプリンを試食させてくれたのだった。そのころ、子どものおやつといえば駄菓子だった。かりんとうが最上級で、あられか煎餅が日常のおやつだった。よく昭和レトロを再現したお店で「駄菓子」を売っているが、あれは日常的に買うようなものではなかった。ちょうどそんな時代に、あれはたしかハウス食品だったと思うが、家庭でプリンを作ることのできる「プリンの素」のようなものを売り出した。アイスキャンデー以外の冷菓などまだまったく売っていなかった時代、プリンは家で手作りできる最も簡単な「スウィーツ」だった。実際、しかしプリンを作ることのできる家庭はまだ少数派だった。日本における冷蔵庫の世帯普及率が50%を超えるには1965年(昭和40年)を待たなければならない。昭和30年代には、プリンを作ることのできる家庭は少数派だったのだ。だから、団塊世代はローティーンまでにプリンを食べる機会はなかったか、きわめて珍しい経験だったはずだ。そんなわけで、あられや煎餅やかりんとうしかなかった時代、ケーキはクリスマスと誕生日にしか食べられなかった時代の「プリン」登場の衝撃はいまからでは想像できないほどだった。たとえて言えば、新宿西口ガード下屋台街の中に突然マキシムの支店が現れたようなものである。家で手作りしたプリンでさえそういうものだったのだから、「デパ地下」で商品として売られているプリンは炭住街の中に突然現れたノイシュヴァンシュタイン城、チョコプリンに至ってはベルサイユ宮殿のように燦然と光り輝く<文化>だった。ぼく、食べてごらん、ときれいなお姉さんが差し出してくれたのは、プリンではなく、チョコプリン、つまりノイシュヴァンシュタイン城ではなく、ベルサイユ宮殿の方だった。いや、もう少しわかりやすい言い方にしてみよう。プリンを吉永小百合とすれば、チョコプリンはマリア・カラスだったといえる。プリンが素材のニュートラルなおいしさを素朴に味わうものだとすれば、チョコプリンは東西あるいは南北の文化の融合だった。南米から大西洋を越えてわたったエキゾチックで人を興奮させる媚薬のようなチョコレートがイギリスの庶民的な節約料理のひとつでしかなかったプリンと融合することで別次元の食べ物になった。純和風で家庭的でひとりの男に忠誠を捧げた吉永小百合をプリンとすれば、チョコプリンはアメリカに生まれたギリシャ人で主にイタリアで活躍し、出会う優れた男すべてに恋をし本能のままに生きたマリア・カラスのように無国籍かつ多国籍的であり、人を虜にする妖艶な魅力に満ちている。というわけで、差し出されたマリア・カラス、チョコプリンを食べた。それはあまりにも甘美な体験だった。チョコレートでもなくプリンでもない。と同時に、チョコレートでもありプリンでもある何か。破顔一笑、「おいしい」という顔をしたらそのお姉さんは満足げにうなずいた。しかしチョコプリンとの出会いはそのとき限りだった。札幌のデパ地下には売っていても、千歳のような地方都市で売っているところはなかったからだ。数年後、札幌に引っ越してから、機会あるごとにこのチョコプリンを探した。しかし、とうとう見つけることはできなかった。想像するに、チョコプリンは、現れては消える「新製品」の一つだったのではないかと思う。売り出してはみたもののあまりぱっとせず、すぐに消えてしまったのではないだろうか。いまでもスーパーに行くたび冷菓コーナーをチェックするが、紅茶プリンのようなものを見かけることはあっても、チョコプリンを見たことはない。調べてみると、期間限定で発売されたことはあったが、現在まで定番商品になったものはないようだった。札幌に引っ越すことが決まったとき、真っ先に思ったのは「またあのチョコプリンが食べられる!」ということだったのだが、その願いはついに叶うことがなかった。あのときの試食のチョコプリンよりおいしいスウィーツと出会うにはそれから30年以上の歳月を待たなければならない。イタリア中部の小都市オルヴィエートのフナーロというリストランテで食べたデザート。それがティラミスという名のものだと知ったのはずっとあとだが、昭和36年のチョコプリンが少女時代のマリア・カラスだとすれば、そのときのティラミスはプリマドンナとしてのマリア・カラスだった。つまり、我を忘れた。
May 16, 2009
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三菱UFJニコスのセキュリティ部から電話がかかってきた。5月1日にカードで買い物をしたかというのである。5月1日どころか、このカードは1年に1度しか使わない。最近では、年明けにJISAという通販会社での買い物の決済で使っただけだ。しかも5月1日は骨折事故の二日後だったので外出すらしていない。何でも、その日にBILLFFとかいう会社で英ポンド建てで日本円にして3000円ほどの買い物をしたことになっているらしい。クレジットカードの不正利用は比較的簡単だ。カード番号と有効期限とカード名義人がわかれば、ネット上ではすぐ決済できる。データをスキミングしてカードそのものを偽造するタイプの不正利用も頻繁に起きている。それを防ぐためにカードのIC化が進んでいるが、手持ちのカードを調べてみても、まだ半分くらいしかIC化されていない。 今回は請求される前にカード会社の側でわかったのでこちらには実害はなかったが、カードの利用明細はチェックした方がいいし、レシートなどもある程度の期間は保存しておく方がいいと痛感される「事件」ではあった。それにしても3000円とはケチな犯罪だ。連休に入る直前の「犯行」であることは計画性をうかがわせる。ネット通販での情報漏洩を利用した犯罪だと思うので、アシはつきやすいから、犯人は判明しやすいと思う。オレオレ詐欺とか振り込め詐欺、身寄りのない老人の資産横領など、経済犯罪のニュースを聞かない日はない。死刑や残酷刑には原則として反対だ。死刑になりたくて殺人を犯す人間がいるように、死刑の犯罪抑止力は限定的でもある。しかし、こうした、資本主義の根幹をゆるがす経済犯に関しては死刑を含めた重刑が用意されるべきだと考えている。
May 15, 2009
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築41年目になる家の屋根を塗り直してもらった。きっかけは営業マンの来訪。いわく、近くに足場を組む現場があるので、その足場を流用すればディスカウントできる。この際どうか。つてをたどって個人で塗装業を営んでいる人に見積もりをとってもらったところ、足場なしでできるという。金額も三分の一以下だというので営業マンには断りの電話を入れ、こちらにすぐ決めた。80平方メートルほどの屋根を塗り直すのにかかったのは3~4人で7時間ほど。二日がかりだった。しかし一日目にその事故は起きた。3メートル近い高さから親分格の人が落ちたのだ。落ちた瞬間は見なかったが、何だか騒がしいと思って外を見ると、救急車は来るはパトカーが来るはの騒ぎになっている。背中を打ったらしく腰のあたりをしきりに痛がっていたが、奇跡的に軽い打撲で済んだようで、救急車とパトカーには丁重にお引き取り願った。落ちたところにはちょうど雑草対策でカーペットを敷いていた。カーペットの下は柔らかい土だから、最小限のダメージで済んだのだろう。しかし、そのカーペットが風で飛ばないよう、四隅に石やブロックを置いていた。もしも、その石やブロックに体の一部でも当たっていたら骨折は免れなかっただろうし、頭をぶつけていたら間違いなく死んでいたと思う。こうした職人の世界は高齢化が進んでいる。今回、来ていた人たちも、ひとりをのぞいて全員60歳以上と思われた。加齢とともにバランス感覚が衰えたことに気がつかないのかもしれない。錆が浮き始めていたところだったので、屋根のペンキ塗りは最大の懸案事だった。残る懸案事項は、20年以上使っているオーディオ装置、走行距離が13万キロを超え13年目に入ったクルマの更新。
May 8, 2009
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このところマリア・カラスに対する関心が高まっている。没後30年をとうに過ぎたのに、イギリスではベスト盤がCD売り上げランキングの一位になっているらしい。1923年に生まれ、1977年に53歳で世を去ったマリア・カラスは、生涯最後の公演を1974年11月11日に札幌の厚生年金会館で行っている。満場の聴衆の総立ちの喝采を浴びた世紀のディーバは、この公演のあとパリの自宅に引きこもり、3年後にはやすぎる謎の死を遂げた。1974年といえばわたしは17歳、音楽好きの高校2年生だった。カラスの公演のことも知っていたが、引退ツァーとは知らなかったし、親にねだって値の張る楽器を買ってもらった直後だったこともあって、高額のチケットに手は出せなかった。しかし、いまあらためて思うが、借金をしてでも、あのコンサートには行くべきだった。ステファノと組んだこの時の日本ツァー4ヵ所のうち、東京と札幌の2ヵ所の公演が映像で記録されている。それを見ると、オペラの舞台から引退して10年近くたち、声や技巧の衰えは隠せない。全盛期とは比ぶべくもない。しかし、オペラに登場する女性の気持ちをこれほどまで歌に込められる歌手は今後も絶対に現れないだろうということは、たとえばYOUTUBEの貧弱な映像と音質からでも、はっきりと断言できる。カラスの全盛期の録音や舞台はたしかにすごい。このことに異議を唱える人はいないだろう。しかし晩年の不安定なところのある歌唱でさえ、他の歌手とは完全に隔絶したとてつもないレベルに達している。プッチーニの有名なオペラ・アリア「わたしのお父さん」で比べてみよう。YOUTUBEには1974年の東京公演のものと、1973年11月26日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでのロンドン・フェアウェルコンサートのときのものがアップされている。より素晴らしいと思うのは後者だ。http://www.youtube.com/watch?v=SvrHxQ3qjAE&feature=relatedコンディションはこちらの方がよくないと思う。この曲のカラスの歌い方で独特なのは、ポルタ・ロッサという歌詞の「タ」の部分で口を大きく開け、強調していることなのだが、東京公演ではちゃんと声が出ているのに、何とこの演奏ではその部分で声がかすれてしまっている。しかし、そうした瑕疵にも関わらず、恋する男への気持ちを切々と歌う女の気持ちが、これほどまでに伝わってくる歌唱はほかにない。ウソだと思うなら、YOUTUBEにある他の「大歌手」「名歌手」の演奏と比べてみるがいい。カラスと人気を二分したのは大歌手テバルディである。http://www.youtube.com/watch?v=zFypui1xKlkカラスと比べるとお経のように単調だ。優等生的と言ってもいい。今をときめくアンジェラ・ゲオルギューはどうか。http://www.youtube.com/watch?v=ul9OTShQ_rc&NR=1立派な演奏で、実演なら圧倒されることだろう。しかし、恋する女の弱い気持ち、彼と結婚させてと父に懇願し許されないなら川に身を投げるという、愛する男への切々とした気持ちより、立派な「歌」が前面に出てしまっている。「歌」には拍手できても、弱い女への共感には誘われない。カラヤンも認めた実力派スミ・ヨーはどうか。http://www.youtube.com/watch?v=3j1IGnM-eJs&feature=related子どもだましの小手先の芸であり、歌を自分の声の宣伝道具にしてしまっている。わたしはこの演奏を聴いてへそが茶をわかすところであった。往年の名歌手、ブラジルのヴィド・サヤヨはどうか。http://www.youtube.com/watch?v=LNHf26uNfok楽天的すぎる。演技や表情の割に、歌そのものは明るすぎる。スペインの名歌手、モンセラート・カバリエはどうか。http://www.youtube.com/watch?v=PomIF3s2-OYベテランの味わいはあるが、あざとい。ケレンが鼻につく。吉川友理という若手の演奏がアップされている。http://www.youtube.com/watch?v=5exsaxrvmqA基礎のしっかりできた優れた歌手なのはわかる。しかしこの人、男をほんとうに好きになったことがあるのだろうか?大歌手レナータ・スコットはどうか。http://www.youtube.com/watch?v=9HPdvr9HTws浅い。バッグ買ってとねだっているのとはちがうのである。恋に身を焦がし許されないなら死ぬと言っているのに、この浅さは何なのだ。レオンタイン・プライスhttp://www.youtube.com/watch?v=Y9OFIVyQTlE&feature=related言葉が伝わらないのは悪い音質のせいばかりではない。歌をビジネスと考えているのかと勘ぐりたくなる。レニー・フレミングhttp://www.youtube.com/watch?v=nRaMOka3xzo&feature=relatedどうしてそんなすごむような歌い方をするのか。何か嫌なことでもあったのか(笑)キリ・テ・カナワhttp://www.youtube.com/watch?v=mDOCONwjbwg&feature=relatedなかなかだ。さすがキリ。しかし、やはり立派すぎて女心というか女のかわいらしさが伝わらない。キャスリーン・バトルhttp://www.youtube.com/watch?v=6qGMa9bxRZU&feature=related冗談のような演奏。自分の高い音の美声を聴かせるためにこの曲を利用しているだけではないだろうか。われらが森摩季http://www.youtube.com/watch?v=epIPrgmkNwoきめ細やかで、やや入念にすぎ生真面目という印象があるが、素晴らしい。カラスの迫真性はないが、最もバランスのとれた秀演と言うべきだろう。いろいろ聴いてきたところで、カラスに戻ろう。今度は1974年の東京公演。http://www.youtube.com/watch?v=-wt0YWhoY3g自在で、天衣無縫だ。音程が怪しかったりするが、音楽が「こうでなければならない」という必然性を持っているように感じられる。説得力がある。全盛期の録音ではささやくように、しかもものすごくゆっくりしたテンポで歌っているが、スタイルは変えても、歌が語りかけるものは変わらない。もう一度、150万人が再生したロンドン公演。http://www.youtube.com/watch?v=SvrHxQ3qjAE&NR=1若い、恋する女の心情だけが伝わってくるような錯覚をおぼえないだろうか。50歳のおばさんから、若い女の一途な純情が伝わる、これを奇跡といわず何といおう。17歳の逡巡は取り返しのつかないことだった。それにしてもこの映像のカラスは、何と愛らしいのだろう。カラスのことをいろいろと言う人はいるが、わたしには何とも健気で愛らしい少女のように見える。女性の抱くあらゆる感情、心の動きを「声」と「歌」で表現することのできた最初で最後の歌手。われわれは今しばらく、マリア・カラスのいなくなった世界で生きるという残酷に耐えなければならない。
May 7, 2009
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5月6日は母の命日。あっという間に3年が過ぎた。命日が近づくと、その数週間前から緊張する。3年前の今日はどうだったとか思い出すからだ。きょうもよく晴れたが、あの日も晴れていた。危篤の知らせを受けて病院に向かっていたときの焦るような気持ち、信号の待ち時間がひどく長く感じられもどかしくて気が狂いそうだったことが強烈な記憶となって残っている。4月16日に姉弟3人が訪ねて来たときはまだ元気だった。母は病床でも絵を描いていたが、最後の絵は18日。かろうじて字が書けたのは26日が最後だったと思う。それから10日足らずで逝ってしまった。最後の1週間は、どんどん鎮痛薬の量が増えて意識が朦朧としていった。後悔することはたくさんあるが、この時期、一日延ばしにしているうちに可愛がっていたネコのサクラを病院に連れていく機会を失ってしまったのが最大の後悔だ。ホスピスならペットを連れていけるが、母が入っていたのは二人部屋の一般病棟だった。だからペットは原則禁止だが、短時間なら許可がもらえたのは間違いない。にもかかわらず、いやがって大声で鳴くであろうネコの性質を考えると、ふんぎりがつかなかった。夜中に「ネコ、ネコ、はやく、はやく」と叫んだことがあった。あれはネコをはやく連れてきてほしいということだったのか、それとも何か夢を見てうなされていたのか。あのときネコを連れていっていたら、あと何日か、母の寿命はのびていたのではないかという気がしてならない。
May 6, 2009
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