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去年秋のこと、メールでやりとりしている「梁山泊」元会員に、東洋製罐5901という株を買い推奨したことがあった。東洋製罐推奨した理由は大したものではない。5000億ほどのカネを持っているのに時価総額が2000億くらいだったからだ。財務体質は悪くないし、競合相手も少ない。不況期でも安定して利益を出せる安全性で選んだ。1000円近辺で買い、あとは相場の流れを見て適当に利食えばよい、よければ2倍になるだろうが、まあ5割騰がったら半分利食うことだ、といったような内容で推奨した。結果は、1000円で底打ちしたあと2075円まで上がり、いままた暴落して1300円割れまで下がってきた。そろそろ買い時と考えて狙っているが、去年とはまた状況が違う。前期は赤字を出したが、これはリストラによるもので一時的。来期の黒転は確実。ふつう、リストラで株は上がるものなのに下がっているのは、相場の流れによるものとは思うが、警戒しなければならない。したがって前回の底値である1000円は、今回の買いの目安にはならないと考える。タイミングを見るべきだ。日経平均のこの先1年間の大底、もしくは2番底と思えるタイミングが、この株を買うタイミングだと思う。日経は、今後3ヶ月は下落トレンドが続くと思う。バブル崩壊後の新安値を更新するかどうかは何とも言えないが、去年の今ごろのような総悲観が市場をおおうような時がまた来るはずだ。一方、長期間の下落が終わって上昇に転じたと思われる銘柄がある。東京電力9501である。東京電力週足で見ると、先々週に底打ちし、先週から陽転、今週も上がり、13週移動平均をわずかに超えた値段で終わった。ここから2番底をつけに行くのか、13週を支えに騰がっていくことになるかは、わからない。原油価格は下がると見ているので、東電をはじめとした電力株はコスト減になる。信用残の動向や出来高を見ながら、買うタイミングを探しているところだ。
November 28, 2009
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このところ、ケガをしたときに買い集めたLDをせっせと観ている。きょうなど5本も観た。この映画は「ケーブル・ホーグのバラード」という副題がついているが、これが原題。原題の方がよかった気がする。よくある西部劇の一本だろうと軽い気持ちで見始めたら、すっかり引きこまれてしまった。西部劇というだけでこういう映画を避けると、映画の大きな楽しみのひとつを知らないで終わってしまう。砂漠で水や馬を奪われ、行き倒れしそうになった無学な男が水を掘り当てる。駅馬車の休憩所を作り大成功した男は、しかし西海岸に行くという恋人を追わず、砂漠にとどまる。自分を砂漠に置き去りにした男二人に復讐するために、男たちが通りかかるのを待っているのだ。監督のサム・ペキンパーは「最後の西部劇監督」と言われたらしいが、たしかに、見慣れた西部劇とはだいぶ趣が異なっている。いわゆる西部劇では善玉、悪玉、無頼漢といった役柄が明快な登場人物ばかりであることが多いが、型にはまらない個性的な人物が重要な役割を占める。西部劇では守銭奴としか描かれない銀行家も人情家というか人間を見る目のある人物として描かれる。だいいち、これほど人が死なない西部劇も珍しい。主人公が銃を撃つこともほとんどない。観ていて、これは失われてゆく「西部」への、サム・ペキンパーなりの挽歌なのではないかと思った。ちょうど自動車が登場し始めたころで、駅馬車や牧童、流れ者と保安官に象徴される「西部」的世界がなくなっていく時代に設定されている。復讐をはたした主人公が自動車に轢かれて死んでしまうラストも、モータリゼーションが西部を、そして西部の「魂」を失わしめていった歴史を象徴するかのようだ。映画の成功度は、登場人物にどれだけ存在感というか実在感を与えられたかを尺度として計ることができる。映画は虚構であり、作りものである。そんなことはわかっていても、つい車寅次郎は実在した人物だと錯覚してしまう。この映画の主人公ケーブル・ホーグも、こんな人間がほんとうにいたという気がする。映画自体、劇画的な強調が随所にありながら、実話のような気がしてくる。ある典型的な人物像を描き出すことに見事に成功している点においては傑作と言っていい作品。しかもこういう男らしい男が「西部の消滅」と共に失われてしまったことに哀惜の念すら感じさせる。サム・ペキンパーは日本では映画監督には評価が高かったが、映画評論家には否定的な人が多かったらしい。いい映画にあたるためにはコツがある。賞をとった映画を避けること、評論家が否定する映画に注目することだ。
November 26, 2009
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やってくれた。誰が?尾高忠明と札響である。何を?エルガーの名曲、「エニグマ」変奏曲の、空前絶後の名演奏である。断言するが、ベルリン・フィルやウィーン・フィルにこれほどの名演奏はできない。ニューヨーク・フィルやNHK交響楽団はさらに不可能だ。尾高忠明と札響は、ラフマニノフの交響曲第2番やシベリウスの交響曲第1番、第2番といった曲で、世界に並ぶもののない名演を連発してきた。しかし、今回のエルガー「エニグマ」は別格である。フルトヴェングラーのバイロイトの第九、バーンスタインのベルリン・マーラー第九、カール・リヒターの1969年東京「マタイ」などと並んで語るべき音楽史に特筆される名演奏が出現したのだった。尾高の優れた音楽性と指揮テクニックを持ってすれば、どんなオーケストラを相手にしていても、水準以上の優れた演奏は可能だろう。しかし、よくアンコールで演奏される荘厳で敬虔な感動み満ちた第9変奏を、これほどの没入と集中、共感豊かに演奏できるオーケストラがほかにあるだろうか。ないと断言できる。終曲の第14変奏を、これほど熱くうねる溶岩のように演奏できるオーケストラがほかにあるだろうか。ないと断言できる。アマチュア・オーケストラならあり得るだろう。PMFオーケストラのような、音楽学生たちによるオーケストラならあり得るかもしれない。しかしアマチュアは技術レベルが観賞の水準にないし、臨時編成のオーケストラに熟成はのぞめない。リハーサルと演奏旅行(とアルバイト)に追われ、複雑な人間関係に翻弄されるプロ・オーケストラには絶対に不可能なのが、13日と14日、札幌のキタラホールで繰り広げられた「エニグマ」の超のつく名演である。それは、芸術の倫理よりは商業的論理が優先する現代の世界で、一瞬輝いては消える流星のような、奇跡の時間だった。さらに言えば、これほどミスの少ないオーケストラ演奏というのも珍しい。両日を通して、ホルンにわずかなミスがあった程度。熱演でありながらこれほど完成度の高い演奏にはそう出会えるものではない。ロンドン市民は、ホンモノのエルガーを聴きたかったら札幌に来るべきだろう。名演奏だったが、オーケストラに不満がないわけではない。弱音時に弦楽器の響きがやせ細ったり、音色が単調だったり、フレーズの終わりが素っ気なかったりというのは、このオーケストラの現時点での「限界」を示す。しかし、そんなことが気にならないほど、すべてのメンバーと指揮者が心をひとつにしたかのような充実した演奏だった。16型での演奏だったが、18型だったら、さらに豊潤な響きがサウンドしたかもしれない。今回の定期はオール・エルガープログラムで、前半には序曲「フロワッサール」とチェロ協奏曲が、アンコールではワイルドベアが演奏された。協奏曲のチェリストはガイ・ジョンストンという今年28歳のイギリスの若手。数年前のスティーブン・イッサーリスの超名演が記憶にあり、それと比べるとスケールは小さいが、素直で気持ちのよい音楽をやる人。テクニックをひけらかすようなところはまったくなく、音楽に奉仕する姿勢に好感がもてるし大成を予感させる。「エニグマ」は、1日目もよかったが2日目は次元が違った。同じプログラムによる17日の東京公演ではさらなる名演が期待される。生演奏とはそういうもので、3日目とか4日目になるとつきぬけた演奏になることが多い。
November 14, 2009
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今回の旅の目的のひとつは、町田の高級老人ホームに住む叔父夫婦に会うことだった。叔父は90歳、叔母は89歳。叔父とは8年ぶり、叔母とは3年ぶりの再会。ホームと自宅を行ったり来たりしていたが、3年前に自宅を処分。多摩丘陵のどんづまりの高台にあるホームの見晴らしのよい部屋に住んでいる。旅行はもう無理かもしれないが、日常生活に人の助けがいるようなこともなく、アタマもしっかりしている。訪れたとき、叔父はパソコンでデイトレードに余念がなかった(笑) この人は昔から株をやる人で、遊びに行ってもいつも日経新聞を読んでいるような人だったが、今まで続けているところを見ると、そこそこ儲かってきたのだろう。パソコンとネット証券のトレーディングソフトを得て、月平均40~50回売買しているというから大したものだ。90歳にしてのこの「投資欲」というか投機欲には別に尊敬はしないがアタマが下がらないこともない(笑)叔父はネット取引をやりたいばかりにパソコンをおぼえたのだろうと思う。たぶん80歳を過ぎてからのことだと思うので、やはり人間の「欲」は偉大だ。叔父夫婦は従兄妹同士で結婚したので、どちらとも血がつながっているから、案外、この叔父の方から株好き・投機好きの遺伝子をもらったのかもしれない。叔母は70代までは、どこか功利的なモノの考え方をする人だった。非常に温和な性格なのでそういう部分は目立たなかったが、人間や社会に対する批評のモノサシがあまりに少なく、損得に偏っているのを感じないでもなかった。しかし、80代になってからは、そういう部分もなくなり、いささか浮き世離れした、ちょうどいまの皇后のような雰囲気の女性になった。老人ホームは陰鬱なところかと思っていたらそうではなかった。住人が高齢、隣に病院がある、レセプションが充実している、というだけの違い。周囲の自然が豊かなのはいいが、都心に住んでいろいろな文化を享受した方が豊かな老後のような気がする。音楽家では、80代になって一段と深く生命力のある音楽をやるようになる人がいるが、やはり人間、健康な状態で80代を送ることができると幸せかもしれない。横浜を訪れたのは1960年、1984年に続いて25年ぶり3度目。1984年に訪れたときは、一通りの観光をして、中華街でシューマイを食べた。そのシューマイが近所の市場のシューマイよりまずかったので、「横浜とはシューマイのまずいところ」というイメージしかなかったが、ジャズ喫茶やビア・バーが多くモダンというより「ハイカラ」な感じがした。聞けば、日本のそれらの発祥の地なのだという。知らないことというのはまだまだあるものだ。羽田へのアクセスは30分ほどと便利。東京すなわちディズニーランドと思っている多くの北海道人には縁遠いかもしれないが、オトナの男女が楽しめる街という気がして気に入った。
November 12, 2009
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大野和士を初めて聴いたのは東京フィルを率いての札幌公演。1990年代前半のことで、だから彼は30代のはじめだったと思う。その緻密で非の打ちどころのない演奏の記憶はいまも鮮明で、すごい指揮者が現れたものだと思った。次に聴いたのはその数年後、札響定期に客演したときである。札響が低迷していた時期でもあって、駄馬に名騎手といった趣きでオーケストラの状態に左右される指揮者の悲哀を痛切に感じたものだった。いつか一流のオーケストラで大野和士を聴いてみたい、それ以来ずっとそう思い続けてきたが、12年ぶりの来日となるリヨン国立歌劇場管弦楽団との<来日>公演でやっとその願いがかなった。来日ツァー最終日の会場、横浜みなとみらいホールは7割の入り。ハイカラな文化で知られる横浜だが、音楽ファンの感度はかなり鈍い土地柄のようだ。一方、このホールは駅からかなり歩かせられるという立地はともかく、音響に不満な点はなく席によるバラツキも少ない優れたホールのよう。一曲目は偶然、前日のトゥールーズキャピタル管弦楽団と同じドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」。前日の演奏にも魅了されたが、上には上があるものである。前日とは比較にならないほど精妙な表現で夢の中をたゆたうような音楽が紡がれていく。ピアニッシモはどこまでも繊細で、耳で聴くというより、眠りから覚める直前に聴こえた天上の音楽のように意識下の意識に働きかけてくるかのよう。これほど精妙なドビュッシーを作り出せる指揮者は大野和士以外にいるだろうか。小澤征爾やケント・ナガノにも不可能ではないだろうか。次はストラヴィンスキーの「火の鳥」だが、後半に演奏されたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」と同じで、よく演奏される組曲や全曲ではなく、ストーリーに即さない音楽の部分を省いた「大野版」とでもいうべき選曲によるもの。しかもプログラム全体はバレエのため、あるいはバレエに使われる音楽を集めてある。このあたりが大野と他の凡百の指揮者を分ける分水嶺。才能におぼれず、常に研究と思索を怠らない姿勢が、作品そのものへと深く踏み込んでいく結果を生む。ふつう、聴きなれたクラシックの名曲を聴くときは、自分がいいと思う演奏の録音を参照しながら聴いたり、ここはこうした方がいいと、批評的に聴いていくものである。しかし、大野の音楽に批評は成立しない。端的に言えば、ケチのつけようがないのだ。バランス、テンポ、ダイナミズム、アーティキュレーションやフレージング、すべてが完璧かつ自然で、絶賛以外の言葉が見つからない。そしてそのニュアンスはあまりに精妙かつ緻密で変幻自在なので、これはとてもじゃないが録音マイクには入らないと感じてしまう。オーケストラについては多少の批評の余地がある。オペラ座のオーケストラのせいか、クライマックスの迫力が不足し、見た目の熱演のほどには音が出ていない。常にノーブルな美音で、特に金管は決して他を圧倒するような大きな音を出さない。打楽器はかなり強調されたところもあったので、これは指揮者の意思がかなり入っていると思うが、ノリで演奏してしまう、というところがまったくないのは一回性のオーケストラ・コンサートとして物足りなく感じる人もいるかもしれない。このあたりが、大野のコンサートがいつも必ずしもソールドアウトになるわけではない理由のひとつかもしれない。アンコールは2曲。フォーレの「パバーヌ」とベルリオーズの劇音楽「ファウストの劫罰」から「ラデツキー行進曲」。フォーレは再びドビュッシーのような水彩画の世界が描かれたが、「ラデツキー」を聴いていて、大野の音楽にたった一つだけ批評の成立する余地を見つけた。ピアニストの中村紘子が、名演奏の条件として、理性と感情がせめぎあうぎりぎりのバランスがとれていること、その上にさらにマリア・カラスのような狂気を感じさせること、というのをあげていたことがある。「ラデツキー行進曲」に限らずベルリオーズの音楽とは狂気の爆発そのものである。小澤征爾のベルリオーズは実演で3曲聴いたことがあるが、1989年のボストン交響楽団との来日公演のアンコールで演奏されたのがこの「ラデツキー」だった。あの演奏は、たしかに狂気を感じさせるものだった。鳥肌がたち、目の前に「非日常」が現れた。一方、大野の演奏は、理性と感情のバランスは完璧なものの、こうした「狂気」にまでは至っていない。大野はしばしば「第2の小澤征爾」と言われる。優等生という言葉は使いたくないが、彼が悪魔的な狂気の表現を獲得したとき、小澤征爾を超えて前人未踏の世界に入っていくことになると思う。
November 11, 2009
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東京へ来ている。月に一度は生活圏を離れたいと思っているが、大野和士とリヨン国立歌劇場管弦楽団の当日券(11日)があるというのでふんぎりがついた。10日はライ・クーダーのコンサートと迷ったあげく、やはりエレクトリックよりアコースティック、しかも二日続けてフランスのオーケストラを聴くというのも一興と思い、トゥールーズのオーケストラを聴くことにした。しかも指揮者のトゥガン・ソヒエフは、まだあまり知られていないが、32歳でウィーン・フィル定期を指揮した逸材という。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」が始まる。フルートのソロは名手として知られる人。細いが明るい音色がサントリーホールにすうーっと広がっていく。このソロは名手でも緊張するが、楽しんで演奏しているよう。続いてホルン、ハープ、オーボエと続き、オーケストラ全体が柔らかいフォルテで鳴る。ああ、やはりフランスのオーケストラはいいなあと思う瞬間で、明るく色彩感があるので多少の音程やアンサンブルの悪さなど気にならなくなる、というより、むしろその方が音楽的とさえ感じるのだから不思議だ。ソヒエフの巨匠性はこの曲ですでに明らか。ほとんどの楽団員は指揮者より年上だろうが、指揮のテクニックではなく、カリスマ性というか人間性と音楽性で団員から信頼されているのがわかる。この、指揮者と楽団との蜜月が最も印象に残ったことで、非常に幸福なカップルを見ているような幸福感が聴衆にも伝わったと思う。2曲目は諏訪内晶子のソロでブラームスのバイオリン協奏曲。この曲はソヒエフを「見る」ためにファサード席へ。オペラ劇場で経験をつんだことがわかる指揮ぶり。細かく振るよりも大きく振り、しなやかな腕や指の動きで音楽の雰囲気や表情を伝えることに重点をおいている。縦の線をぴったりあわせるより、流れを重視しているように見える。それにしてもファサード席で聴くトゥールーズ・キャピタル管の弦楽器は美しかった。奏法が違うのだろうか、すべての音の出だし、頭がとがってなく円いのである。常に弦の上に弓を置いた場所から弾き始めているような音がする。こうした「フランスの弦」はCDでも聞き取れるが、目の前で見て聴くとこれは決してなくしたくない「世界遺産」という気がしてくる。ソヒエフはウィーン・フィルで指揮したブラームスを「チャイコフスキーまじり」と批評されたそうだが、たしかに彼のブラームスにはそんなところがある。フレーズの終わりをゆっくり演奏することが多いので、実際のテンポよりも濃厚な味わいになる。諏訪内のソロは美音かつ真摯な演奏で以前よりも静かな成熟というべきものを感じたが、あえてブラームスのこの曲をこのコンビでやる意味は見出せなかった。決して吠えない弦もさることながら、フランスのオーケストラの魅力は管楽器に尽きる。メーンのムソルグスキー=ラベル「展覧会の絵」は、35分の演奏時間が数分に感じられてしまう。とにかく、聴いていて気持ちがいいのだ。どうして日本のオーケストラはあんなに暗い音なのだろうと思うほど音色が明るい。いつもよりステージの照明が強いと錯覚するくらいで、まるで一つ一つの楽器から光が出ているようだ。立派な演奏だったが、ソヒエフの解釈はダイナミックな表現に偏りがちで、聴き手の耳をひきつけるというより、聴き手にこのオーケストラのすごさを見せつけようとするかのよう。最後の音を弱音で始めてクレッシェンドさせるなど、独自の解釈も散見される。その解釈に説得力があるかというと、いまひとつ。というのは、ムソルグスキーの原曲のロシアくささを出そうとしているのだと思うのだが、それが徹底していない感じを受けるし、「本番のように力を入れて演奏したゲネプロの演奏」のように大ざっぱな感じがつきまとうのだ。これは、毎日違う会場で違うプログラムを演奏するツァーのせいもあるのだろうが、オーケストラに好きにやらせておいて要所だけ自分の音楽にする、というオーケストラの喜ぶやり方が必ずしも音楽の純度を高める方向にはいかないということを表わしていると思う。つまり、指揮者とオーケストラの蜜月には長所と短所の両方があるということだ。アンコールは3曲。チャイコフスキー「くるみ割り人形」からの大団円の音楽とビゼーの「アルルの女」から間奏曲、カルメンの前奏曲。つまり、本プロと同じで、ロシアものとフランスもの。指揮者とオーケストラのそれぞれの国の音楽と、このオーケストラの最高の名手である第一フルートの名技を聞かせる曲が選ばれていた。このチャイコフスキー「パ・ドゥ・ドゥ」がきわめつきの名演だった。指揮がどうとか、オーケストラがどうとか、小ざかしい理性は吹き飛ぶほどのすこぶる豊潤な音楽で、世界中の美酒を同時にぶちまけたような芳醇な香りがホールに満ち、わずか数分が永遠に感じられた。そういえばサントリーホールを改装後聴くのは二度目だが、音響はかなり改善された。このホールは二階右側前方だけは音がいいことで知られていたが、このあたりの響きは札幌のキタラホールよりもいい音がする。ホールも音楽家と同じで熟成が必要なのかもしれない。ソヒエフのチャイコフスキーは、彼の師と思われるゲルギエフ(そういえば指揮ぶりはゲルギエフにとてもよく似ている)のそれを過去のものとする可能性がある。わたしがEMIのプロデューサーなら、すぐに録音契約を結ぶところだ。若いころのグレン・グールドに似た風貌の、あまり背の高くない黒い髪の指揮者の名前は、日本人にとって覚えにくいが、ぜひ記憶しておきたい。
November 10, 2009
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パレートの法則というのがある。人間社会の現象はだいたい8割2割で説明できるという例のあれである。映画を映画館で観る人の8割は、映画を観ているのではない。画面を眺めストーリーを追っているだけだ。映画体験を、それが駄作であっても自分の人生にフィードバックしようとはしない。鑑賞ではなく消費しているだけであり、この8割は映画を観れば観るほどバカになっていく。まあ、観なくてもバカになっていくので観た方がましだが。2割は、映画を批評的に観ようとする人たち。実はそういう人はもう少し少なく、日本では5%程度ではないかと感じているが、その5%の人たちにこそ観てほしいのがこの映画。原作はノルウェーを舞台としたサスペンス小説らしい。映画では北イタリアの小さな村に置きかえられている。湖のほとりで美しい少女の死体が発見される。若年性認知症の妻を持つ初老の刑事がこの事件を担当することになる。丹念な聞き込みによって少しずつ事件の核心に迫っていく。派手なアクションも、「刑事コロンボ」ばりのトリックや謎解きもない。この殺人事件の前にはもうひとつの意図せざる殺人事件があるのだが、殺された少女の意味不明な日記の解読を通じて、その事件の真相にも迫っていく。最も犯人らしくない人物が犯人という、この手のサスペンス映画の王道をいく作品である。しかし、観終わったあとの印象は、優れた不条理文学の読後感に近い。監督のモライヨーリにとって初の長編というが、画面展開はベテランの味がある。何より印象的なのはセリフで、少しアタマの足りない男の言うことでさえ、意味の含有率が高い。善悪の二元論はここにはなく、もちろん勧善懲悪もない。犯人を逮捕できた刑事が勝利者でも、犯人が敗北者なわけでもない。人生は複雑で、一筋縄ではいかないし、単純な善悪や好悪で括ってしまってはいけない。監督の、こういうメッセージが格調高い映像と抑制されたリズムで静かに、しかし強く伝わってくる。そしてあとに残るのは、最も優しく誠実であるがゆえに殺された少女の、失われてしまった生と性への愛惜の念であり、そうしたことがよくある現実の不条理性への怒りと諦観である。この映画を付き合い始めの若いカップルに勧める。相手がこの映画のよさを理解できなかったら、8割もしくは95%のバカの側に属するということなので、すぐに別れるべきだ。
November 9, 2009
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