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公民館の夏祭りが1日にあります。 日中御神輿が町内をまわり、夕方から町民そろった演芸会があります。 文化部員という役回りで、景品かいに部長さんといってきました。 予算が限られてるので、安売りの量販店にいきました。 地場産業の会社が、経営困難で土地の大半がこの量販店の店舗、駐車場にかわりました。 あるある、なんと別世界の単価です。 新鮮食料品、野菜なんでもあります。 それと客脚のおおいこと。 駐車場もおおかた満杯です。 はなび、スナック菓子、飲料水などを買い求めてかえりました。 でもこの世界には、無農薬、減農薬、有機栽培などの言葉は、クリアした後で超越してるか、安かればすべてよいでそんなの関係ない状態なんでしょうか。 農業生産地で、地元産野菜はなく、他県産、他国産が眼を疑う価格で売られています。いろんな過去の安全面の不祥事をおもいだします。 安いからいけないじゃなく、安全なんだろうかと思うことしきり。 不安だったら買うな、お客はいっぱいあるぞと言われてるみたいでした。
2010年07月31日
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負けた責任論が政権与党民主党で議論の真っ最中だ。 先の自民党政権与党末期もこうであった。 そのたびに国政は空転している。 どっちが勝っても我々はどうでもよいといいたい。 官僚が悪いといいながら、官僚がいるから国はつながってるんじゃないか。 だから自分たちの古巣を都合よくされるのだ。 事業仕分けの斬新さの民主党はどこに行った。 家来に文句いわせないで、文句いう大将が出席して勝負したらよい。 又、この大事な時に、大臣が個人の結婚式にでて、批判は甘んじて受けるなどひらきなおっているのもいる。 もっと真剣に国政をかんがえてくれ。 かっこうばかりで集票マシンの政治やはやめてくれ。 与党も野党も、国民不在で相手攻撃ばかりに専念しないでほしい。 漁夫の利という古臭い格言が、国際色を帯びて感じられることしきりだ。
2010年07月30日
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猛暑は猛暑を呼び水銀柱は止まるを知らぬ天気です。 半世紀操業のお祝いの感謝祭に、参加させていただきました。 社長さんはじめ、ご婦人。社員のかたがTシャツすがたで、立ち居ふるまい、横を流れる農業用水をゴムボートで川くだりするイベントまでなさっていました。 地域に根差す企業の姿勢は、地元の人の喜びにあるという社長の人柄に、東京で活動してる音楽家や地元のバンドのかたがかけつけての森の音楽会がはじまりました。 緑のTシャツは社員のかたですが、このみどりが誰言うとなくみごとな連携でうごいており、さすが建設会社だなと思うくらいでした。 ユーモアの司会をなさってたのは、むすこさんの専務さんでしょう。 世紀の操業にむけて立派な船出をしています。 川面をわたる涼風とたわわな農業用水にのり、次々にゴムボートで川下りしてくる、親子、友達、兄妹の面々、この瞬間は世界一の至福者の顔でした。 それをながめるものもなんと涼しい至福の時でした。 とうとうたる用水の水ははるか下流まで流れ流れて農業大学付近の大山大鳥居神社のところにきて、泉のごとくオーバーフローして均等に5門の水門から天神の野を潤すようになっています。 先人が見事な事業を行い、それを受け継いでいる地域なんだなと感心することしきり。 猛暑はどこえの涼しい心で家路につきました。
2010年07月25日
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吉岡温泉はひなびた静かな街で心やさしい方がいらっしゃいます。 、 「鳥取震災」が吉岡 鹿野活断層というので温泉街から2,3キロ山奥に行ったところで当時の状況を農作業のおばあさんに聞きましたら、「わたしはまだここにきてなかったんで待ってなさい」とおじいさんを紹介してくれました。 農作業をやめて、おうちまでわざわざ帰ってくださいました。、ここらは震災で段差ができて通行もままならなかったとおじいさんが教えてくれました。「当時兵隊にいってたので、わしは直接被害にはあってない、妹が当時鳥取の女学校に行ってて被災した。なんならあってみるか」てなことでおじいさんを車に乗せて吉岡の温泉街までバックしました。 当時の乙女は、お寺の境内から鳥取方面にかけての地割れをしたと指さししておしえてくれました。今はなんの形跡もかんじられません。 久しぶりにあった兄妹は若い時の記憶でこころなしかやや青年のよう。 「おじいさん」と声かけたが今日はどこにでかけたのか不在でした。 あれから2年たってしまいました。 羊腸の小道は鹿野に向かっています。 この下に大きな断層があるのでしょう。 いつまでもおだいでありますように。
2010年07月22日
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里見忠義公の大河ドラマをやろうと遠大な計画がスタートしたようです。 さすがプロデュウサー、竜馬に匹敵するものをお感じになってられるようです。 1614年が里見忠義公が、倉吉に来られ。 1814年が滝沢馬琴の南総里見八犬伝発刊。 2014年は里見の真実を披露する。 200年を機に意義を生みだそうとプロデュースするなんてさすがです。 フィクションで有名な里見家で、面白おかしく観光材料としては抜群でありましょうが、歴史として後世に引き継ぐメッセージはありません。 真の忠義像を探し出してください。 関金掘界隈の特異な地質条件と歴史は、唯単に掘地区に流したということ以外の真相があると信じます。要害山という城跡天女をお嫁さんにした男たち池の底から昔がでるかも豪将里見忠義公
2010年07月21日
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夏らしいといったってこの日中の暑いこと全国的らしいですね。 体温より暑いなんてびっくりです。 熱中症で死亡された方が何名かいらっしゃいましたが、外ばかりでなく家のなかでも熱中症はあるようですので、特ににご注意あれ。 さらに昼間ばかりでなく、暑い夜にも熱中症が就寝中にも起こるからご注意と新聞のコラムで喚起していました。 夜中のトイレを避けようと、就寝前の水分を控えるお年寄りは特にご注意あれ。 布団に入る前にのどが渇いて無くとも少なくともコップ1杯に水をのみましょう。 就寝時にエアコンを切る人が多いが、年寄りは若い人に比べると体温調整機能が低下してるのでケースバイケースで上手に使うこと。 室温は28度、湿度は50%程度にたもつようにします。
2010年07月21日
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豪雨がきて、豪快な暑さの夏がやってきました。 水害の禍にあわれた方がたにお見舞いもうしあげます。 だまっていても汗がしたたりますが、元気だという証にみえ、むしろほくそ笑みをおぼえます。 大相撲は大変な記録樹立が白鳳によってなされようとしていますが、実況はありません。 野球とばくの後遺症、まだ週刊誌により暴露が続いてるようです。 たにまち制の昔ながらの風俗のなかにどっぷりつかってきて、誰と会ってた、誰と食事していたなど詮索されたらニアミスはいっぱいでてきましょう。 これまでのは不問にして 一定の線引きをしてこれからの対策を講じたらよいでしょう。 勝ち負けの勝負の世界いつまでもあらさがしを続けたら顕微鏡下の競技となって全体が消滅してしまいます。 一本刀土俵いりなんて、お涙頂戴の物語も、相撲とやくざせかいの密着を取り上げたものです。 辞めさせるのも方法ですが、冠位?はく奪で最下位からすもうさせてあげるのも方法とおもいます。 ちいさいときから相撲しか知らないデカ体では、今後が心配です。
2010年07月19日
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大きな雨でした昨日は。 今日は暑い晴れた日でした。 夕方のニュースでは、梅雨が明けたとの報道です。 なにかあっけない幕切れのようで唖然。 ああでもない、こうでもない、煮えきらぬニュースが続くと猜疑心が研ぎ澄まされます。 宮崎の種牛は、罹患が黒か白かつかぬまま、圏内にいることで殺処分合意で決着のようです。明日は消されます。 飼い主も宮崎知事も、国を恨みながらしかたないのあきらめ。 大臣は国際上の立場が重要らしい。 死んですべてが円満になるなら、殺されますとは牛は申さぬでしょう。 竜馬伝の武市半平太の腹切りとだぶります。といえば、半平太が怒るでしょうが、でも人切り以蔵の折檻、半平太の詰問、NHK放送何週間続いたでしょうか、うんざりでした。 電気消した廊下の網戸に小さな点滅があります。今時刻0時。 ホタルです。 こんなことはじめて。遠来のお客さんごくろうさん。 さあホタルに明るい未来懸けますか。おやすみなさい。
2010年07月17日
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山陰線の余部鉄橋が昨日で役目をおえました。 2000人の鉄道ファンが、最後のセレモニィに参加し最後を惜しんだそうです。 明治42(1909)12月着工、明治45年1月完成3月1日から開通した但馬ー鳥取間の夢の大連結だったでしょう。 京都、東京への山陰線旅行は、みなここを利用させてもらいました。 乗車してると、社内放送で説明はありましたが、全長310メーターこそ実感できましたが、41,5メーターの高所を走ってる感覚は分かりませんでした。 明治の時代にこれだけの工事をやり遂げたものです。 山陰鉄道唱歌も、鉄橋完成前明治44年11月27日に発表になっております。 山より山にかけ渡し 御空の虹か桟(かけはし)か 百有余尺の中空に 雲を貫く鉄の橋 作曲 田村虎蔵 作詞岩田勝市 桟とは矛のような薄いものを重ねた意であると、地元紙も1世紀の活躍に惜しまぬ賛辞をおくっていました。 役を終える鉄橋の横には新しい頑丈な近代的コンクリート橋ができていて8月12日には開通の予定とか安心です。 古きは去り、新しきにバトンを渡すは世のならいなれど惜別の情胸をうつものです。
2010年07月17日
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備中高松城は、羽柴秀吉により水攻めの最中、毛利の援軍も手だしできずににらみ合い。 織田信長が家来の明智光秀に殺され、この知らせを毛利方にとどける飛脚が秀吉軍にとらえられたのが、明暗所をわけたものでしょう。 高松城城主清水宗治は、援軍毛利、敵軍羽柴の目の前でせき止められた人工湖の船上で切腹して果てました。もし飛脚が毛利に行ってたら歴史もかわったでしょう。 薄氷を踏むおもいでの和睦交渉を淡々とこなした秀吉の機知、誰より早く取って返して敵討し天下をも手中にしてしまいました。 遠く京の地の信長死亡情報の真贋の判断も、一日おくれの味方の飛脚で確信情報とし、黙して和睦交渉にはいり成功しています。 情報が漏れないように、使者は殺されて「使者の塚」なるものに眠ってるといのもあわれを感じます。 天正10年(1582)の6月2日に信長が殺され、4日には清水宗治の切腹とはトントン拍子の実行力です。 和睦してすぐ敵討にむかう速攻りょく。 してやられた毛利も切歯扼腕というところでしたでしょう。 4年前の天正6年7月には、秀吉の援軍も無に上月城で負けた山中鹿之助が毛利軍護送の途中ここ備中阿井の渡しで殺されてしまいました。 歴史も思わぬ流れがあるものです。
2010年07月15日
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口蹄疫なんとかならぬものでしょうか。 殺処分が、最終解決とはむごいものですね。 大臣と知事が、種牛をめぐって、かかっていないから助けてくれ、いや殺せと掛け合いの報道がなされていました。 合間に写される、大きな牛のまなこがいやに寂しげでした。 食のために飼育する動物、まさに人間の都合で活殺されるのはいとあわれなものではあります。 せめて生あるとき、万全の治療をしてあげたいものです。
2010年07月15日
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「山陰に深く根付く山名氏」と銘打つ講演会が鳥取でありました。 山名の元祖の山名時氏は群馬、高崎から伯耆守護職として倉吉の地にきて城を構え山名寺にその墓があります。 その子師義が水害で流された山名寺から打吹山に城を移しました。 国の1/6を占めるほどの勢力を誇り「6分1殿」と称され応仁の乱では、西陣の総大将を構えた山名の勇史が聞けるものと倉吉から大分聴講にいってました。 山名の元祖は、俺が地だぞのお話が聴けると思ったら、創世記の話はなく、但馬総領家に任命され、そこが中心になって一族が隆盛を来たしたところから話が始まったので、かなり詳しい資料が披露されたにも拘わらず不自然に感じ拍子ぬけしました。 南北朝以降の山陰の歴史は山名氏の発展と衰退の歴史であるとしたら、山陰元祖の時氏から語らねば唯学術の1ページの資料発表にしかすぎません。 胸湧き躍るストーリィがほしいものです。 一般人に講演するなら、どんな人が来るか、元祖の地はどうなってるか、墓が有るか位調べねばならぬでしょう。 四国のほうの大学教授だからといったって、中世史が専門で山名の話を現地でするなら、現地を調査する位の労はせねばなりません。 資料の発表だけなら、一般公開じゃなく史学関係者だけでやってほしいものです。やはり倉吉の方が不満をとなえていましたがむべなるかなです。 こんなことしてると仕分けがおよびますよ。
2010年07月12日
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相撲放送が名古屋場所中止ときまった。残念。 相撲でなく野球のとばくをお相撲さんがやっていたのが原因。 前には八百長があったとか無かったとか裁判沙汰まであったが、勝負の世界にいるものは、とかく勝つことにこだわるのだろうが金銭をかけては、これはいただけない。 NHKも大騒動があった記憶がまだ生まあたらしいが、こんどは罰する方に位置しやれやれだ。 いろんな弊害もあろうが、大相撲の開催を決めて執り行うなら、相撲放送はセットとしての存在なので、やめた、勝手にやってくださいじゃあんまりと思う。 老人ホームのおじいさん、おばあさんが15日間どれだけ楽しんで観ていたかを思うと気の毒でしかたない。 悪いことしたお相撲さんを罰して、休場させるのはしかたないが、まじめに汗まみれ、砂まみれになって1勝、2勝にまさに人生かけてるお相撲さんだっているんだ。 100年に1度の不祥事かもしれないが、まじめなお相撲さんの1勝は一生に匹敵するかもしれない場所になるやも。 悪いことは悪いこと、バッシングばかりでなく、自浄作用が働くように見守ることも愛情ではないだろうか。
2010年07月07日
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九州の友に豪雨の見舞いしたら、天災だから時を待てば晴れる、それよりも人災が陰湿で困ってると以外な電話の返事だ。 聞くと「男の嫉妬」と投げるようにかたる。 「?} 「Fが議員に出てつまらんこつばっかりするんで困っとる} 数か町村が平成の合併で一つになった。 Fは人望がなく、今までトップの座をねらったが得られなかった。 平穏で、良識ある町政をするライバルがにくくって仕方なかった。 大合併して彼は市会議員の座をえた。 大者県会議員さんにとりいり、かつての自町外から票をとり当選したのである。 もともと策には定評があり、議会でも一派をなす座をしめたのである。 問題はここからであり、「大見界で判断するとこの事業、この設備は不要である」とことごとく、かつてのトップ町政の設備、事業の閉鎖、妨害をしてるというのだ。 合併してかえって悪くなったとぼやく。 前町長のもと働いていた彼には、事のほか露骨にあたるという。 国会の選挙真っただ中、落ちたら唯の人となる、集票活動は熾烈。 県会も同じ、同類の中にはいったFは活発な活動してるらしい。 次の議会の座も約束されたようなもの、地元での鼻息荒いとなげく。 これも困ったものだ。 最後は男の嫉妬など細かいことにこだわってると足元すくわれるだろうに。 わからぬは、石仏。ホットケかな。
2010年07月05日
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九州南部の豪雨はすざまじい位の様相です。 特に都城、霧島などテレビで崩落現場写真がでていましたが、口蹄疫で苦渋の被害騒動未だ去らぬうちの天災大変だと思います。 めげずにがんばってください。 梅雨前線と南から来た湿舌のなせるわざとはいえ、1200ミリの大雨は半端じゃなく、しかもその中で1時間200ミリのゲリラ豪雨では、たまったものではないでしょう。 立ち往生した車、車、車、道路を流れる濁流、こんなとき運転手は車の中にいるしか手だては考えられないでしょう。 消防署の機転で、トラックの協力をえて、救出した現場映像には、なによりも安堵感でした。 1時間あとに現場は崩壊、おりかさなって車は谷底におちていました。 シラス大地であることで地盤のもろさがあり、まだまだ地盤がゆるんでるところがあり注意が必要でしょう。 200ミリの大雨では、傘さしていても肩から濡れた覚えがあり、阿蘇の火山灰台地の熊本も当時至る所崩壊したのを記憶しています。 ここ伯耆も大山の火山灰台地ですので、ゲリラ豪雨には、もって他山の石とすべきでしょう。
2010年07月05日
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講談師みてきたようなウソを言い。 全く歴史史話もにたようなものです。 特に戦場の実写は、そこにいた人が生死の戦いをしてるから、客観的にながめてるものはおりません。 さもその場にいあわせた様な描写してるには驚きます。 小説家が、空想をこらし、残った少しの史実をスパイスして、自分の性格に順応した物語につくてしまいます。 豪快に描かれたものは幸い、卑怯卑屈にえがかれた者は、たまったものではありません。その子孫は新たな怒りをするでしょう。 悲劇的に同情をかうような物語にしたほうが、より感動をうるのか、発見したときは石ころが、石塔になり、次におもむろに、家臣の殉教まで物語られていくようになります。 架空の小説の人物なら作家の性格にまかせられますが、一応歴史に名を残す人物なら講談師的発想は、名誉棄損にもなります。 大河ドラマの岩崎弥太郎も描きが汚いし、3人の2代目も歴史上の人物に奇大な発想の脚色をほどこすなど本人たちは苦笑してることが多いようです。 勧善懲悪もベースが違えば、真反対になります。 くれぐれも事実上の人物を脚色して悪にしないでほしいものです。
2010年07月03日
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