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がんよ、そんなに早く人を殺すな。 私の大切な人を。 だれかから大切にされている人を。 非力な私には何もできないのか。 がんに命じても、命令を聞いてはくれない。 私にできることは何かないだろうか。 闘病している人を励ますこと、 看護したくても十分にできない家族の力になること、 看護してくれる家族がいない人を助けること、 だれからも大切にされずに死と直面している人を大切にすること、 せめて、「あなたは大切な人なんだから自分を大切にしてね」と言い続けること…… お金と引き換えに問題解決できる専門家は大勢いるが、 それ以外で私に何かできることはないか、考え続けたい。 栗本薫が膵臓がんで亡くなったなんて、大ショックです。 私はどちらかというと、中島梓の名前のほうに親しみがあります。栗本薫名義で書かれたSF小説は読んでいません。 中島梓名義で書かれた『コミュニケーション不全症候群』や雑誌のエッセイには強い影響を受けました。 どうやって生きていこうかとクヨクヨ悩んでいた大学生時代に出会っただけに、とくに影響力が大きかった。大学の同じ学部の先輩でもあった。思い出すと、文学部の図書室の個室とか、建て替える前の実家の自室のベッドの上で読んだ、そのときの空気が丸ごと蘇る感じがする。 私にとって、ロールモデルのひとりであり、あるいは精神の一部であるかもしれない。 「ぼくらの時代」「グイン・サーガ」シリーズなどで知られる作家、評論家の栗本薫(くりもと・かおる<本名・今岡純代=いまおか・すみよ>)さんが26日、膵臓(すいぞう)がんのため死去した。56歳。葬儀は近親者だけで行う。お別れ会を後日開く予定。中島梓の筆名で評論などでも活躍した。東京都生まれ。早稲田大卒。76年、栗本名の「都筑道夫の生活と推理」で幻影城新人賞評論部門佳作。77年、中島名の「文学の輪郭」で群像新人賞評論部門を受賞した。
2009年05月27日
忙しいので、手短に。ケン・フォレットの『大聖堂』続編が出ましたね! 産経新聞掲載の書評はこちら 朝日新聞掲載の書評はこちら村上春樹の新刊が出ますね!『1Q84』というタイトル以外は何も告知されていません。どきどき。楽しみです。早く読みたい。このところ、小説にハマっております。
2009年05月17日
平田オリザさんが今朝のテレビ番組で興味深いお話をされていました。最近の子どもたちは、「おままごと」ができないそうです。昔だったら、お母さん役が一番人気がありましたが、いまは「お母さんは大変そうだから、できない」のだそうです。では、お父さん役はというと、「何をしているかよく分からないので、できない」とか。いちばん人気があるのは何かというと、ペットだそうです。「みんなから可愛がってもらえるから」だって。子どものうちから大人の役割を引き受けることの「しんどさ」に負けてしまっているのですね。オリザさんはさすが演劇人らしく、「良い子を演じきることのできるタフな子に育てねばならない」と言っていました。確かにね、大人の世界はしんどいことが多いですね。疲れます。泣きたくなります。もしかすると、お母さんたちは子どもの前で泣いたり、わめいたり、愚痴ったりしていて、いかにもしんどそうで、カッコ悪いのかもしれませんね。だから、「おままごとのお母さん役」は人気がないのかもしれません。親は「顔で笑って心で泣いて」じゃなくちゃ、子どもの良き手本になれないのでしょうね。顔で笑って心で泣いて……中々、難しいですね。そういえば、猫や犬は、吠えるけれども泣きはしない。声をたてて笑うこともない。もちろん、別の感情表現はあるけれども。さっき、悲しいことがあって涙をこぼしていたら、うちの愛猫アイちゃんが「どうしたの」と問いかけ、慰めるような目でじっと見つめてくれました。本人?にそのつもりはなくても、そんなふうに感情移入したくなるような目でありました。ペットもただ可愛がられるだけじゃなく、愛情に応えてくれているのだなあ。健気だなあと思わずにはいられません。「ペットになりたい」という子どもたちは、そのへんの心の機微が分かっているのかなあ。しんどいからと大人の責任を引き受けるのを嫌がるのはマア、自然な感情なのかもしれませんが、愛情をきちんと受け止められる豊かな感性をもってほしいなあと思います。
2009年05月15日
どうしてあの人は意地悪なんだろう。たぶん、周りの人に意地悪されてきたからだ。 どうしてあの人は品格がないのだろう。たぶん、品格のない人に囲まれて育ってきたからだ。 どうしてあの人は友だちのかけがえのなさを大切にしないのだろうか。たぶん、自分のかけがえのなさに気づいていないからだ。 どうして私は怒っているのだろうか。たぶん、まだ愛しているからだ。 人はモノとは違う。 だが、人をモノ扱いする人、手段として利用する人が多い。多すぎる。 なぜだろう。たぶん、それは、その人が長い間、別の誰かからモノ扱いされてきたからだろう。 その扱いに抵抗する力が無いからだろう。もはやモノ扱いされても気づかないほどに感性が鈍磨してしまっている。 つまり、本当の意味での「自分」になれていない。 もしも私自身が誰かと交換可能なモノ扱いされれば、烈火のごとく怒る。私には怒る力があり、私は私を確立しているからだ。 だから、怒りはするが、ほんとうは、私をモノ扱いしようとする人のことを慈しまねばならない。憐れみをもたねばならない。助けねばならない。 でも、そんなヒマないもーん。 人をモノ扱いする人は、実は未熟であり、加害をもたらしつつも、実は被害者である。自分自身が「あいまい」だからこそ、他者に合わせることができず、他者を自分に合わせようとするのだろう。自分を確立していれば、時と場合に応じて自分を抑制したり、消したり、逆に強く打ち出したりが自由自在にできる。だから、他者に合わせることができる。だが、自分自身が確立していなければ、自分を「消す」ことが恐ろしい。消すどころか、消すべき実体が何もないことに気づいてしまうからではないだろうか。
2009年05月14日
入院中の父の看病で忙しい母に代わり、私がほとんど毎日、夕飯の支度をしています。仕事の合い間に調理の時間を捻出するのが大変ですが、「大変だ」と思わずに、「これは生きるために必要な仕事だ」と思えば、だんだん慣れてきます。今日は朝食後、下ごしらえだけをするつもりが、勢い余って全部作ってしまいました。すべて冷蔵庫の中に残っていたありあわせの材料です。1)大根と鶏手羽の煮込み大根の皮は捨てずにきんぴらにします。大根を半月に切り、水から鍋で柔らかくなるまで茹でます。このとき、お米少々とタカノツメ1本を入れます。大根を下茹でしている間に鶏手羽をさっと湯がき、別の鍋に水、酒、出汁醤油、みりん、砂糖を適当に入れて味を作り、大根が柔らかくなるまで先に鶏手羽と昆布を煮込み始めます。大根が柔らかくなったら、米粒をふるい落としつつ、鶏手羽を煮ている鍋に移し、煮立ったら味を直します。今日は干した貝柱を酒で戻したのと梅干1個を加えました。あとはひたすら炊くだけ。2)大根の皮のきんぴら大根の皮、にんじんを千切りにし、エリンギは手で細く裂きます。鍋に胡麻油を敷き、にんにくのみじん切りを入れてから点火、野菜を炒め、しんなりしてきたら塩少々をふって鍋の蓋をして火を弱くしてむらし、野菜の甘みを出してから、みりん、醤油、出汁で味付けし、最後にすり胡麻、七味トウガラシを加えて、できあがり。3)なめこおろし出汁醤油、酒、みりんのタレでなめこを煮て、大根おろし(汁は絞らない)と混ぜるだけ。大根1本で3つもおかずができちゃったよ!4)キャベツの浅漬け春キャベツを適当に刻み、薄く切ったにんじん、きゅうり、みょうが、昆布と一緒にポリ袋に入れ、浅漬けの素を加えてモミモミするだけ。5)こんにゃくの酢味噌あえ青海苔を加えたこんにゃくの規格外品が安かったので買い置きしてありました。これをさっと湯がき、あついうちに酢味噌、ゆず胡椒で和えて冷やすだけ。どれも安い材料ばかりですが、ひと手間加えれば、こんなにリッチなお惣菜になっちゃう。野菜を刻んだりして手を動かしつつ、先々の段取りと味付けを考えているうちに、どんどん楽しくなってきます。不思議なもので、そうした手と頭の働きとは別に、同時進行で違う思索も深まってきます。いつぞやテレビで見た、独り暮らしの生活保護の50歳がらみの男性の寂しい食生活が思い出されました。ロールパンの入った袋をカメラに向け、「今日の食事はこれだけだよ」と。ガスも水道も止められてしまったのかもしれないけれど、だれかパートナーがいて、一緒に食事の支度をして、一緒に食卓を囲むことができれば、もう少しましな人生になるだろうなあと思ったのでした。孤立は非効率の極みであり、あまりにもリスキーだ。まともな食事を摂らなければ病気にかかりやすく、病気にかかれば働けず、生活費を稼ぐことができない。この負の連鎖から抜け出すための支援として、炊き出しや、賞味期限切れの食品を企業から分けてもらって生活困窮家庭へ配る活動などが行われていますが、どちらもスケールメリットをうまく活用しているところがすばらしい。いまの私は自分のことだけで精一杯ですが、いずれ地域で社会起業的な仕事に携われたらと思うのでした。
2009年05月13日
ゴールデンウィークのあいだ、NHKで再放送していたドラマ「ハゲタカ」を見始めたら面白くて、2回分ずつ2時間の放映を3日連続で見入ってしまいました。何が良かったかといえば、主役の鷲津政彦を演じた大森南朋が抜群に良かった!窮地に立ったとき、言葉をぐっと飲み込んで一瞬、困った表情をするところが、見ていてたまらない。五つ違いの弟をもつ私には、「おねえちゃん、助けて!」という心の叫びが聞こえるような気がするのかも。ああ、助けてあげたい。味方をしてあげたい。抱きしめてあげたい……なーんて思うのです。というわけで、私は男の人の「困った顔」を見るのが好きで、よく困らせたものです……。それはさておき、昨日は仕事の合い間に映画「ハゲタカ」の予告をネットで見ること十数回。うーん、たまらん。思い余って夕方、本屋さんへ原作の『レッドゾーン』上下巻を買いに走りました。目当ての本を見つけてレジにまっしぐら……ではつまらないので、ひとわたり売り場を眺めてみると、紀伊國屋書店渋谷店では岩波のブックフェアが開かれていました。岩波文庫の大活字本と現代文庫が並べられていました。そのとき目に留まったのが、クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』。原題は、“When Bad Things Happen to Good People”たぶん、あの本だろうとピンと来ました。日曜日、カウンセリングの勉強会で上嶋洋一先生から実存主義的アプローチについてのご指導を受けたとき、教材のなかに孫引きのかたちでクシュナーの言葉が引用されていたのです。「“When Bad Things Happen to Good People”を書いたラビ・ハロルド・クシュナーは、プロゲリア、すなわち“早老”と呼ばれるごく稀な病気で息子を失った。その子は早い年齢で診断され、クシュナーと彼の妻は、目の前で自分たちの幸福な男の子が徐々に老人に変わっていき、それから十代前半で死んでいくのを見守らなければならなかった。この耐えがたい体験を経て、クシュナーは深みのある人間へと成長した。人間味と知恵にあふれた彼の本は、何千もの人々が彼ら自身の悲劇に直面するのを助けた。本の終わり近くで、いかに彼の息子アーロンの生と死が彼を変えたかを、ほっとさせるような正直さで表現している」「私は、アーロンの生と死のおかげで、それがなかった場合にそうであったであろうよりもずっと繊細な人間、より有能な牧師、より同情のあるカウンセラーになっています。でも、もし息子を取り戻すことができるなら、私は、これら得たもののすべてをただちに放棄するでしょう。もし私が選ぶことができるなら、私たちの体験ゆえに私の手に入ったすべての霊的な成長と深さなしで済ませ、15年前そうであった自分、平均的なラビ、無関心なカウンセラーとして、何人かの人を助け、他の人々を助けることができない、そういう、明るい、幸福な少年の父親でありたいと思います。が、私には選ぶことはできないのです」「クシュナーの感動的な言明は、その魂が苦痛な喪失から賢く成長した人々の真理を捉えている。もし息子を取り戻すことができるなら、そのすべてを直ちに放棄するであろう、という。これが、魂の闇夜の現実である。われわれの魂は強く成長し、われわれは他の人々を慰める真正の力を発達させる。が、われわれはこの成長を利己的な勝利のように祝うことはできない。なぜなら、われわれが払った代価はあまりにも高すぎるからである」『スピリチュアル・レボリューション』(原題“Beyond Religion”)D・エルキンス著、大野純一訳、コスモスライブラリー偶然の出会いだわ。これはもう、本が私を呼んでいるとしか思えない。そんなふうに思いました。実存主義は、私が大学時代に卒論のサブテーマに選び、ヤスパース、カミュ、サルトル、フランクルの本を読みふけったものでした。その結果かどうかは分からないけれども、早く経済的自立をして親もとから離れたいと思う半面、気分は反管理社会の女闘士!大企業でギチギチに管理されるのは真っ平ごめんだと思い、私の進むべき道はエスタブリッシュメントではなく、オルターナティブだ!中小、零細企業で良さそうなところに入りたいナーと思って、あまり良くもないけれどもいろいろと面白い体験のできた小さな会社に就職したのでした。良くも悪くも実存主義って、私の魂の原点かなあと、懐かしく思い出しながら、日曜日の上嶋先生のお話に浸っていたのでした。本屋さんではときどき、こういう不思議な出会いがあります。インターネットで本を探すのとは全く違う、意外性と偶然性、しかしある種の必然性もある出会いが。本屋さんでは、ちょっとした小旅行ができます。言わば、魂の小旅行。お時間に余裕のあるときに、ぜひ、お試しください。
2009年05月12日
いつも再就職セミナーで指導しているのですが、履歴書に貼る顔写真は、街中のボックスではなく、写真館で写してもらったほうがいいのです。 と、言いつつ、自分は資格試験の受験票に貼る写真はボックスのインスタントで済ませておりました。まあ、合否を左右するものではないだろうと勝手に判断して。 やはりインスタント写真は仕上がりがイマイチ。表情が良くないし、目線が合わない。どこを見てるんだか……。機械相手に自然な笑顔をつくるなんて、どだい、無理な話。カメラマンに指示を出してもらうのがベストだよなあ。 今回、キャリア・コンサルタントとしての営業用に写真が必要になり、インターネットで見つけたフォトスタジオで撮影してもらった。 渋谷から並木橋方向へ明治通りを少し進んだあたりにある古い雑居ビルの一室。「フォプロ」というチェーン店で、首都圏に8店舗ある。ネットに1,100円の割引クーポンがあったので、これを利用した。 プリント2点がつく「スタンダードミニ」コースは、クーポン割引を利用して2,900円。デジカメで6カット撮影したものをモニターに写し出し、好きなものを選ばせてくれる。髪の毛のハネ、目の隈、鼻のテカリなどの簡単な修正もしてくれるのが嬉しい。背景はブルー、グレー、ベージュ、ホワイトの3色から選べる。私はオーソドックスにブルーにしてみた。 他にはメイクやヘアスタイリングのつくコース、エアラインやマスコミ就職用の全身写真コースもあるというからビックリ。ぜ、全身写真なのぉ? で、待ち時間15分程度でプリントが終わりました。その間、待合室にいて背中で聞いていたのですが、40代ぐらいのおじさん声のお客が駆け込んできて、「いくらするの?」。受付の応対はすかさず「3,000円からです」。「えっ!そんなにするの、なんで?」「プロのカメラマンが撮りますから」「じゃ、いいや」スタコラサッサ……。 履歴書に貼る写真だとしたら、3,000円を惜しまず撮ってもらったほうが得策だよとアドバイスしたくなったけど、ま、要らぬお節介ですね。 写真の仕上がりは、さすがプロ!自然な微笑みで、それなりに美しく、優しい先生風に撮れておりました。うふ。 撮影するとき、カメラマンが向こう側から見て肩の位置のズレ、体重の重心のズレ、顔の向き、目線などを修正するように指示出ししてくれて、何気ない言葉かけでリラックスでき、自然な微笑みが引き出されたように思います。 今日また別件で営業用に写真が必要になり、さっそく焼き増しを電話で注文しました。証明書貼付用のサイズと、営業用の予備に大判も1枚。 履歴書、職務経歴書を自分で実際に書いてみて、なんだか未来をつくっていくようなワクワク感がありました。調子に乗って「貴社の今回の募集案件には私が最適任者であると自負して応募しました」なーんて書いちゃったよ。逃げの転職ではなく、攻めの転職であれば、誰でもこんな気持ちを味わえるのでしょうね。 今回は短期セミナー講師の求人に対するエントリーなので正規雇用ではありませんが、それでも履歴書は型を踏んで書くわけで、よい勉強になりました。
2009年05月11日
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