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私の仕事道具は、人から苦笑されるぐらいローテクである。 インタビューや座談会の録音器材は、未だにテレコ。つまりカセットテープを使う録音機だ。 取材メモや資料など一切合財一緒にして袋詰めして管理・保存できる点が、ワタシ的には便利である。目に見えるメディアのほうが扱いやすい。MDの録音機も持っているけど、あれは録音時間に難点があるのだった。 国際会議を取材する折、同時通訳レシーバーを内蔵マイクに近づけて日本語通訳の声を録音するなんていう荒業ができちゃうのも、テレコならでは。イヤホンを持っていけば、モニターもできるし。 ときどき「顔写真も撮ってきて」と言われるので、カメラも持っているが、未だにフィルムカメラの一眼レフ。被写体深度とか焦点距離とかシャッタースピードと言われてもチンプンカンプンなので、オートフォーカスのミノルタα7xiを愛用している。 これほどの機械オンチでも「写真が上手いねえ」と言ってもらえるので、ミノルタ様様である。 ところが、衝撃的なニュースが入ってきた。フィルムカメラから撤退 ニコン、デジカメに集中ニコン フィルムカメラ製品のラインアップ見直しについてコニカミノルタ、カメラ事業撤退 デジタル一眼、ソニーに譲渡 富士写真フイルムは「写真文化を守り育てることが使命」として事業継続を表明したそうだ。 ただ、「需要減と原材料の高騰」などを理由に、2月1日から白黒フィルムと印画紙、プロ用カラーを最大21%値上げするんだって。 富士フイルムにしても、経営がかなり窮地に追い込まれているようだ。まさかフィルム事業撤退はありえないだろうが……富士写が5000人削減 リストラ費用1650億円今後の事業展開について価格改定について ああ、ローテク好きは辛いよ。少数派は、いつも逆風にさらされる。
2006年01月31日
厚生労働省の発表によると、昨年12月の有効求人倍率が、全国平均で1.0倍になった。 今日の日本経済新聞では次のように報じている。以下、引用。1倍台を回復したのは1992年9月以来、13年3カ月ぶり。総務省が同日発表した労働力調査でも、05年12月の完全失業率(同)は4.4%と前月に比べて0.2ポイント低下した。景気回復による収益改善に加え、団塊世代の大量退職も控えて、企業の採用意欲は一段と高まってきた。 有効求人倍率の1倍は求職者1人に対し、一つの求人がある状態を指す。つまり、13年以上の長きにわたって求人件数よりも求職者数のほうが多い状態が続いてきたわけが、ようやくイーブンになった。いよいよ景気回復もホンモノになってきたか? しかし、喜ぶのはまだ早い。全国平均を遥かに下回る地方もある。今日の「東奥日報」にこんな記事が載っていた。以下、引用。 本県の昨年十二月の有効求人倍率(季節調整値)は、前月を〇・〇一ポイント上回る〇・四四倍となったことが三十一日、青森労働局の調べで分かった。有効求人倍率が長期にわたり低迷している本県だが、一九九七年七月(〇・四五倍)と同水準まで、雇用情勢が回復したことになる。 同倍率の全国平均は前月を〇・〇一ポイント上回り、ちょうど一・〇〇倍に。本県は全国の下から二番目で、最下位は沖縄県の〇・四一倍。本県のすぐ上は高知県の〇・四八倍(いずれも季調値)だった。「本県のすぐ上は……」という書き方が泣かせる。 0.44倍ということは、求職者10人に対して4件しか求人がないことを意味するわけで、かなり深刻だ。 全国平均でいえば、より好みをしなければ100人中100人就職できる可能性があるということだが、青森県の場合、より好みをしなくても、レベルダウンさせても、100人中44人しか就職できない。 この差は大きすぎる。 東京の情報や、全国平均といったモノサシだけに頼ってものごとを見ていたら、事の本質を見誤るということだろう。
2006年01月31日
再就職までに治したい「オバさん病」シリーズは、オバさんを揶揄したり責めたりするために書いているわけじゃなくて、あくまでも本人のためを思ってなんです。余計なお世話かもしれないけどね。 前回に引き続き、「みんな」思考の弊害を再就職のシーンに限って考えてみましょう。 再就職というのは、新卒のときの就職とちがい、普通は「孤独な戦い」です。情報を交換し合える「同級生」が身近にいないし、親身になって援助してくれる「就職部」もない。ハローワークは自分には縁遠い気がしている人も多いでしょう。最近の窓口はそうでもないけど、以前は横柄でロクなアドバイスをしてくれませんでしたから。 景気が上向いて有効求人倍率が1倍を超えたとはいえ、業種や職種によってはまだまだ「買い手市場」であり、ただでさえ「敵」が多いのに、孤独になると「自分自身との戦い」が加わってきます。「弱い自分」に負けそうになってしまうのです。 たとえば、小さい子どものいるお母さんの場合、面接を受けに行くと「小さいお子さんがいるのに、働いても大丈夫ですか? お子さんが寂しがりませんか?」という質問を必ずといっていいほど受けます。 それで不採用になると、「ああ、やっぱり小さい子どもがいると不利なんだ。どこの会社もみんな嫌がるんだ。絶対無理なんだ」というふうに考えてしまう女性が非常に多い。 冷静に考えれば、1社で良い結果が出なかったとしても、全てが同じということではありえないでしょう。 それに、不採用になった理由は、もっと別のところにあるかもしれない。「お子さん」うんぬんの質問をされたときに、「大丈夫です。信頼のおける保育園を見つけてありますし、保育士さんと密に連携をとり、何か問題が起きても職場の皆様にご迷惑をかけないようにします。それに、手前味噌になりますが、ウチの子どもは自立心が旺盛でしっかりしているので、大丈夫です。私が働くことを前提に、しっかり育てました」 なーんて答えられれば、完璧でしょう。 このあと、「私にチャンスを下さい!」と言ってみてね。 機会均等の世の中ですから、チャンスをくれない会社は最悪の悪玉です。 もう1つのありがちなシーン。 あなたが再就職を有利にするために、何かの資格を取ろうとします。一生懸命勉強します。でも、家事と育児に追われて忙しい中で、勉強時間を捻出するのは簡単ではありません。「やっぱり、無理かなあ」と、途中で挫折しそうになります。 そんなとき、あなたの身近にいるオバさんたちの囁き声が耳に入ってきます。「資格なんか取っても、どうせ役に立たないわよ。みんなそう言ってるわよ。お金に困っていないなら、働くことなんかないじゃない」 もしもーし、みんなって、誰と誰と誰ですか? なーんて、突っ込めないですよね。オバさんたちは怖いから。だからまあ、心の中でつぶやく程度にして、「資格なんか役に立たないわよ」という部分をリセットしてしまいましょう。 それはあなたに有益になる助言でもなんでもなく、単に足を引っ張って、自分と同じ低いレベルに引きずり込もうとしているだけなんですから。 資格が役に立たない根拠を列挙できるオバさんは、ほとんどいないでしょう。どんなに突っ込んでも、「みんな」と「絶対」のフレーズが繰り返されるだけだと思います。 人間、孤独になるとどうしても多数派のほうに擦り寄りたくなります。それも身近な、目に見える多数派のほうに、「こっちのほうが楽に生きられるわよ」と言ってくれるほうに。 でもね、多数派って本当に安心なんだろうか。 多数派の中に入っても、常に多数派と同じことができるとは限りません。「あの人はできるのに、自分はできない」ということが起きてきます。満たされなさ、やっかみ、ねたみ……多数派の中の安心には、つねにそういったオマケもついてくるのです。「自分は自分」でいいじゃない! だって、あなたは操り人形じゃないんだからね。
2006年01月29日
再就職までに治したいオバさん病シリーズ第2弾です。 オバさんの言葉の中には「絶対」と「みんな」がよく出てきます。 たとえば……「絶対そうよ」と言う人に「なんでそう思うの?」と訊いてみましょう。 すると、たいていこういう言葉が返ってきます。「だって、みんなそう言っているもの」 もう一歩踏み込んで質問してみましょう。「みんなって、誰と誰と誰?」 そう言われると、大抵のオバさんは絶句するでしょう。 オバさんにとって「みんな」とは、決して多い数ではないのです。もしかしたら1名様かもしれない。 内田 樹さんは、ブログ日記にこんなふうに書いています。「ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。 逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。 彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。 大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。 無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。 それが大衆社会にかけられた「呪い」である。」 うー!溜飲が下がるなあ。そう思いません?
2006年01月27日
ホリエモン逮捕の報道にふれて、昔むかしにあった「光クラブ事件」とどこか似ている部分があるなあと、何となく思った。 もちろん私は当時生まれていないので、小説やTVドラマで見ただけだけれども。 光クラブ事件とは、「東大生が小金持ちから出資を募り、それを元手に商店主などに高利で貸し付ける闇金融屋を営み、何しろ出資者には月1割3分の配当金をつけたので大いに繁盛し、しかし結局は法令違反の高利のために逮捕されるや、債権者が取立てに殺到して遂に破綻、もはやこれまでと青酸カリ自殺を遂げた」というストーリーだ。 この山崎晃嗣は、自分の頭のよさを証明するために闇金融屋を始めたのだそうだ。 やっぱり、かなーり似てるかも。 ライブドアのやり方は、脱法、違法、スレスレのところを全速力で駆け抜けるようなものだったと誰かが言っていたが、元の名前の「オン・ザ・エッジ」そのものだ。法の網目をギリギリのところで切り抜けてやる、それほど自分たちはアタマがいいのだという自惚れがあったのではないか。 ホリエモンは、「自分は世の中のお金の流れを良くしているのだ」とTVのインタビューで語っていたが、自分のお金を流されてスッテンテンになってしまった投資家の皆さんが実に気の毒である。 エリートはその特権意識ゆえに、シモジモを利用して金儲けするのが非常に得意なんだろう。 しかしね、アタマのいい人が自分のアタマの良さを証明したいなら、あまりアタマの良くない人をサポートしたり支援することで証明すればいいのではないだろうか。 アタマだけがいい人は、そうじゃない人と交わって、助け合って、アタマ以外のココロだとか、セイシンだとか、タマシイだとか、ジンカクだとか、そういう部分の貧しさを補う必要がある。 分かりにくいことを分かりやすくしたり、不便なことを便利にしたり、一部の人にしか使えなかったものを多くの人が公平に使えるようにしたり、社会的不平等の害悪をなるべく少なくしたり、そういうところにもっとアタマの良さを発揮してほしかった。 そういうことのほうが面白いと思えるセンスが、とどのつまりは倫理観ということになるんじゃないかな。 それはともかく、ネットで調べてみると「光クラブ事件」と「ホリエモン」を重ねて見る人は結構多いみたいね。山陰中央新報 その1山陰中央新報 その2
2006年01月23日
これもまた、ある映像作家から聞いた話。「一人っ子政策」をとる中国の現状を描くドキュメンタリーの一場面。二人目を妊娠したことを隠していた村娘が、無理やり役人に病院へ連れて行かれて、強制的に堕胎させられる、その顛末をカメラが捉えた。 当の役人は、「ここまで徹底的に一人っ子政策を実施しています」という自己宣伝のつもりでカメラを入れたらしいが、人権思想の行き渡った自由主義国家で暮らす私たち日本人には衝撃的過ぎるシーンだ。 テレビで放映された後、映像作家はある視聴者からの手紙を見せられた。そこにはこう書かれていた。「私はあんな残酷な国に生まれなくてよかったと思いました」 映像作家は猛烈に反省したという。自分は中国政府のやり方を告発するためにあのドキュメンタリーを撮ったわけではない。あの作品では「人間が描けていない」と。 ああいうことをしてしまうのも人間。それを見ているあなたと同じ人間だ。 映像作家があのドキュメンタリーを通じて言いたかったのはそういうことなのに、見る人には伝わらなかった。それは、自分の表現能力が至らなかったからだと反省したのである。 その言葉を聞いて「すごい人だなあ」と私は思った。「私はあんなところに生まれなくてよかった」という言葉は、私には馴染み深いものだ。うちの母がテレビで悲惨な情景を見ているときには、たいていそう言うのだった。まあ、普通の反応だろう。内戦、飢餓、テロ、宗教弾圧……。世界中は悲惨なシーンに事欠かない。 誰だって、そんな悲惨さを自分で背負いたくないものだ。ましてや、愛する人にそんな思いをさせたくない。平和で安穏とした場に家族とともにいながらにして、遠くの国で起きている悲惨な出来事の「高見の見物」ができる幸せを素直に喜びたいと思うのも人情である。 悲惨な現実に直面している人々に対する「共感能力がない」という批判はきびしすぎるだろう。 告発調のドキュメンタリーを作る人々は、義憤にかられて告発し、見る人の問題意識を呼び起こそうと考えているのだろうが、その意図に反し、「自分でなくてよかった」という反応を引き出してしまう。結局は他人事である。 一方、そこに人間が描かれていれば、殺す側も殺される側も同じ人間であり、自分はどちら側にも立ち得るのだという、肌に粟がたつような生々しい共感を引き出す。見ている人は「人間の業」の深さを思い知らされ、震撼するだろう。 人間を描くというのは、大変な仕事だが、意味のある仕事だ。
2006年01月23日
専業主婦にとって再就職までに直しておきたい「おばさんグセ」ってあるなあと思う。直しておいたほうが自分のためでもあり、また、会社側にも余計な迷惑をかけずに済む。 思いついたたびに1つずつ書き留めないと忘れてしまうので、ここに書くことにしよう。 ひとくくりにして言ってしまえば、「お客さん意識」から「お客さんに貢献する側の意識」への切り替えが必要だ。「消費する人」から「価値を創造する人」へ、「不平不満を勝手気ままに言える人」から「不平不満をもたれないように奉仕する人」へ。抽象的過ぎますね。 具体的なシーンでいくつか例を挙げないと面白くないかも。では……1.好き嫌いをストレートに態度に表す――「傍若無人病」 私はスポーツジムという暇なおばさんの密度の高い場所へ出入りしているせいか、たびたび「オバ害」に遭遇する。単に目撃する場合のほうが多いが、実害を及ぼされることもなくはない。たとえば…… Aオバとは、以前は仲良くお付き合いしていた。旅行のお土産を差し上げたりいただいたり、スタジオでの場所とりなど、お互いに便宜を図りあう関係であった。 ところが、ある日突然、Aオバがあからさまに私を無視するようになった。あいさつを返してくれないどころか、顔をそむける。私の隣にいる共通の友人と話すのに、体を斜めに傾けて私に尻を向けたりする。風呂の前まで来て私に気づくと回れ右して逃げて行ったり……。 私には全く思い当たるフシがないが、彼女には私を嫌う理由があるのだろう。不満があるなら、面と向かって言ってくれれば、謝罪もできれば、言い訳もできるが、問答無用の無視なのである。 非常にブキミだ。 自由人である私には実態がよく分からないのだが、会社の中でもこういうことをする人って、いるのだろうか? 同じチームの人間に対してこんなことをやったら、仕事に支障をきたすだろうに。 好き嫌いはいったん脇に置いて、合目的的に行動するというか、当たり障りなく動くのが大人というものではないだろうか。 だいたい、好き嫌いにいちいちこだわるほど暇な人は、いまどき会社の中には少ないだろう。好き嫌いや快不快の感情を表に出せずに内向し、うつ的になる人は多いけれども。 ところがおばさんの世界になると、Aオバに限らず、好き嫌いをすぐ顔に出すおばさんは少なくない。非常に単純でわかり易いが、不快のオーラを発散させている人が近くにいるとこちらも不快になるので困る。 だいたい、「あなたなんか嫌いよ」「無視してやるわ」というときの顔は非常に醜い。他人の顔とはいえ、醜いものを見せつけられると気分が悪い。ただでさえ、若い娘に比べて分が悪いというのに。 あ!私が嫌われる理由は、こうやって「本当のこと」を言ったり、書いたりしちゃうからだろうな。ゴメン。でも続けます。 おばさんからすれば、「自由な時間は好きなようにさせて」という言い分なのかもしれないが、スポーツジムは公的な場である。「好きなようにする」にも限度がある。周りの目があり、気持ちがあり、都合があるのだ。 しかし、書いているうちに思い出すとドンドン具合が悪くなってくるので、このへんでやめておきます。その2以降はまた、改めて。
2006年01月19日
ある映像作家から聞いた話。北海道新聞は、米国領事から懸念されるほど、その内容が「反米的」であるらしい。つまり、遠慮せずに書きたいことを書いているっていうわけ。 頼もしい。面白そう。 というわけで、トップページの新聞リストに加えました。 これも聞いた話。例年、8月15日が近付くと、各新聞ともに太平洋戦争関連の記事を掲載するが、同じ朝日や読売にしても、大阪本社版のほうが一歩踏み込んだ内容であるという。 関西のほうがいい意味でも悪い意味でも、人権問題をめぐる動きが活発であることが関係しているのではないか……とのこと。「そこまで」東京の新聞社が踏み込めないのは、政治の現場に近すぎるからではないか、とも。 関西の皆さんは、どのようにお感じだろうか。 私は仕事柄、新聞のバックナンバーを調べることが多く、そのときに地方紙の記事をよく目にする。「標準化」された感の強い東京の新聞社に比べ、確かに個性的な表現や、「一歩踏み込んだ」書き方が多いような気もする。 多くの地方紙に目を通すことは無理だけれど、しばらくは大いなる期待をもって北海道新聞をウォッチングしたい。 北海道は、「破産状態」にあると言われるだけに、記者の危機感が強く、それが紙面に現われているだろう。 危機的な状態に置かれたときこそ、人はその本領を発揮するのではないだろうか。 新聞はいわばニュースの一覧であり、重要な出来事は漏れなく均等に書かれていると思われるかもしれないが、決してそんなことはない。新聞社が異なれば書き方が異なり、中央と地方でも異なるはずだ。とくに「社説」や独自の企画記事に個性が現われるので注目してみたい。
2006年01月14日
なぜ、TDLで成人式なのか、理解に苦しむと思った人は少なくないんじゃないか。遊園地で成人式だなんて、絶対にヘンだ。「成人式=子供からの卒業式」という感覚なのだろうか。それだったら、国民の祝日にする価値はないし、自治体が税金を使って式典のスポンサーになる必要もないだろう。 朝日新聞の「素粒子」がイチャモンつけた気持ちはよく分かるが、それに対して浦和市長が抗議するとはオドロキだ。 一体、大人はどうなっちゃったんだ? 子供に笑われるぞ。 以下、引用です。「朝日新聞が新成人中傷」 浦安市長が社長に抗議文 千葉県浦安市は13日、同市が東京ディズニーランド(TDL)で行った成人式についての朝日新聞のコラムが「本市の新成人に対する中傷だ」として、謝罪や掲載に至った経緯などの説明を求める市長、教育長名の抗議文を同社長あてに郵送した、と発表した。 同紙の10日付夕刊の1面コラム「素粒子」は、成人式について「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んでるようじゃ、この先思いやられる」とシニカルに書いている。 浦安市は「新成人が自ら実行委員会を立ち上げ、皆で考えて作りあげた式だったのに『ネズミ踊り』という表現は配慮が足りない」としている。 式はTDLで約40分間行われ、そのうち5分間程度、ミッキーマウスなどのキャラクターがショーに出演したという。(共同通信) - 1月13日12時35分更新 朝日のことが大嫌いな「週刊文春」が、きっと次号に何か書くだろうな。
2006年01月13日
まずは、気になるニュースを引用します。 <所得格差>「今後、拡大する」71% 本社世論調査 所得格差が今後拡大すると考える人は約7割に達することが、毎日新聞が昨年12月に実施した世論調査で分かった。親の所得など家庭環境によって、子供の将来の職業や所得が左右される「格差社会」になりつつあると思う人は6割を超えている。収入低下で生活が困難になると予測する人が2割以上もおり、格差拡大への不安が広がっている現状が浮かんだ。◆「日本は格差社会に」64% 今後の所得格差の予想を尋ねたところ、71%が「拡大する」と答えた。「変わらない」は18%、「縮小する」は6%にとどまった。 日本が格差社会になりつつあると思う人は64%を占め、思わない人(30%)の倍以上に達する。74%が格差拡大を問題と考えており、「問題でない」(21%)を大きく上回った。 今後の収入については66%が「生活に困らない程度の収入は得られる」と答えたが、「生活に困るようになる」も24%に上った。「高い収入を得られるようになる」は4%しかなかった。 社会全体を「上」「中の上」「中の下」「下の上」「下の下」の五つに分けたとき、自分の生活程度がどこに入るかを尋ねたところ、「中の下」が48%で最も多かった。「中の上」が26%、「下の上」が15%で続き、この三つでほぼ9割を占めている。 同じ質問をした1968年以降の計21回の調査と、ほぼ同様の結果となっている。生活程度の実感からは、以前と同じ「総中流」が続いていることになる。 しかし、世帯年収1000万円以上の人の39%が「中の下」と回答。300万円未満の人でも12%が「中の上」と答えるなど、客観的な所得水準と生活程度の認識が必ずしも一致しているとはいえない部分もある。 (毎日新聞) - 1月5日23時54分更新 私が思うに、格差は以前から歴然としてあったが、人々の気分の上では「1億総中流」だったのだろう。 格差はあったが、「1億総中流」気分のころは、日本の歴史上、最も格差の少ない時代だった。公平で平等な社会の実現を目指してきた先達の努力が報われた。公平と平等は社会正義だったのだ。 男女間の賃金格差も、均等法施行以前に比べて格段に小さくなってきている。すばらしい。 ところが最近は、「悪平等」という言葉が盛んに使われるようになり、「勝ち組」「負け組」といった、非常に恥ずかしい言葉が跳梁跋扈するようになってしまった。 そんな時代の雰囲気の中で、格差を容認する人々が増えている。 社会正義はどこへ行っちゃったのかな?正義って、何なのかな?やっぱりこれも、時代とともにモノサシが変わるのかな?平等っていうのはもう古臭い概念なのかしら?連帯とか協調、共生っていうのは、私利私欲むき出しな世の中では絵空事なのかしら? と、色々とギモンが浮かんでしまうがとりあえず、私の専門のキャリア論の見地から考えてみたい。 格差容認社会におけるキャリア戦略とは? 仕事には「仕事の値段」というものがある。同一組織内では同一職種同一賃金のタテマエはあるが、職種が異なれば賃金格差がつく。国家公務員の場合、運転手などの現業職も民間に比べれば非常に高い報酬を得ているが、それにしてもキャリア官僚には及ばない。それぞれに異なる俸給表が定められている。 一方、成果主義が進む中で、同一職種同一賃金のタテマエが崩れた。 同一職種であっても、成果が異なれば報酬に格差がつくようになってきた。同一等級の最上位がワンランク上の等級の最下位の人の年収を上回る逆転現象もあり得る。まさに下克上の世界。 職業の分野では、格差はどんどん激しくなっている。とくに、正社員とパートを比較した時の格差は、均等法施行以前よりも拡大している。根底には「性差別」が歴然としてあるが、「職種間の区別」というタテマエにカバーされているため、目立たないうちに格差が広がってしまったのだ。 今朝のワイドショーに、共働きで年収400万円という夫婦が登場し、今年の税制改革によっていかに生活が苦しくなるかという試算が行われていた。 共働きで400万円? どうにも少なすぎる。夫は会社をリストラされ、いまは非常勤でヘルパーをしている。「一番高いときの収入の3分の1だ」という。妻もパートだというから、300万円対100万円ぐらいのバランスだろうか。 晩酌を週に1回、それも発泡酒より安い「第3のビール」だかなんだかにして切り詰めている。そこへ庶民をターゲットにした増税。「だからといって、これ以上がんばって働いても、余分に働いた分だけ税金を取られるのはバカらしい」という主旨の発言をしていた。 確かにそういう考え方もある。しかしねえ。 キャリア戦略は? 展望はないのだろうか? 非常勤のヘルパーの賃金は、確かに安い。時給にして1,000円になるかならないかであろう。しかも不安定。 本当に介護の仕事に意義とやりがいを見いだしているなら、介護福祉士などの上級資格を取得し、正社員での雇用を目標にすべきだろう。2年間の養成課程を修了して資格を得る方法と、実務経験(常勤なら3年間、非常勤なら時間数によりもう少し長くなる)で国家試験受験資格を得る方法の2通りがある。 介護の世界は、他の業種とちがって年齢がそれほどハンディキャップにならないはずだ。 介護福祉士以外にも、正社員雇用に結び付くか、あるいは非常勤の時間給アップに役立つ資格や技能はいくつかある。 個人が長期的な戦略なりプランなりを持って、その実現のために日々、努力しなければ、収入が右肩上がりにアップしてくれない時代になってしまった。 大企業の組織に守られていれば、格差はそれほど突出しないかもしれないが、リストラという落とし穴もある。 しかし、努力といっても、その気力が湧いてこないとか、全然、的外れな方向にしか力が入らない人もいる。 以前だったら、そういう人たちも巻き込み、「庶民をいぢめる増税政策を覆そう!」とスクラムを組めたのに、いまは個人間がバラバラに分断され、スクラムを組めなくなっている。 個人に対するバッシングは、わりと簡単にできるのにね。 結果としての外的な格差よりも、意識の上での内的な格差のほうがずっと前から先行していたのだろう。 共感や連帯のできなくなった人々は、どこへ行くのかな。
2006年01月06日
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 最近は、楽天日記をサボリがちでスミマセン。プライベートなことは、mixiのほうが書きやすいので、つい浮気しちゃってます。 今年は、たとえ短文であっても、日々、気になるニュースなどを題材に書いていきたいと思います。 年明けの抱負? 戌年ですから、「賢く走る」をモットーにしようかな。拙速にならず、しかし、ほどよいペースで走る。走り続ける。そんな「攻めの年」にしたいと思います。
2006年01月01日
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