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2020年11月29日
映画「運び屋」‐ 麻薬の“運び屋”は90歳の老人, イーストウッドが魅せる円熟の一作
「運び屋」
(The Mule ) 2018年 アメリカ
監督クリント・イーストウッド
脚本ニック・シェンク
音楽アルトゥロ・サンドバル
撮影イブ・ベランジェ
〈キャスト〉
クリント・イーストウッド ブラッドリー・クーパー
ダイアン・ウィースト アンディ・ガルシア
「運び屋」という題名から、宅配業者か、引っ越し屋さんの話かと思ったら、ヒョンなことから麻薬組織に関わった男の話で、それも、90歳という高齢でヘロインの“運び屋”をすることになった男の実話をもとに、仕事、家族、老い、人生の意義といった普遍的なテーマを追求したクリント・イーストウッド監督・主演による、心に染み込む佳作。
“デイリリー”の栽培を手掛け、園芸家として名を馳(は)せて仕事一筋に打ち込んできたアール・ストーン(クリント・イーストウッド)でしたが、インターネットの普及とともにネット販売による打撃を受け、家は差し押さえられて経済的困窮に陥ります。
家族を顧(かえり)みずに仕事一筋に生きてきた結果が仇(あだ)となって、娘の結婚パーティーからも締め出しをくったアールでしたが、そこで、一人の男に声をかけられます。
「いい仕事があるんだ、やってみないか?」
それは簡単な仕事で、自分のオンボロトラックでハイウェーを走り、ある品物を届けるだけ。
無事故無違反を誇るアールは気楽にその仕事を引き受け、指定の場所に品物を届けて車に戻ってみると、仕事の報酬として誰かが置いていった封筒の中に厚い札束が入っている。
大金を受け取ったアールは、家を買い戻し、資金不足で活動が危ぶまれていた退役軍人会を復活させます。
“運び屋”の仕事は続き、二度、三度と重ねるうちに運ぶ品物の量は増え、それにつれてアールの報酬も上がり、オンボロトラックを新車に替えたアールでしたが、品物を運ぶ途中、偶然にそれが大量のヘロインであることを知ります。
犯罪の泥沼に足を踏み込んでいたことを知ったアール。しかし、目の前にチラつく大金と、朝鮮戦争の経験もあって怖いもの知らずのアールは、組織の中で一目置かれる存在となって麻薬組織のボス、ラトン(アンディ・ガルシア)の屋敷に招待され、美女を集めた豪華なパーティーにも招かれるようになります。
一方、麻薬組織撲滅に執念を燃やすベイツ捜査官(ブラッドリー・クーパー)とトレビノ捜査官(マイケル・ペーニャ)のもと、緻密な捜査網が敷かれ、“運び屋”の行動が明らかになっていきます。
捜査の手が伸びていることを知ったアールでしたが、組織の内紛によって厳しい監視がつく中、運び屋としての仕事を続けますが、そんなアールのケータイに、妻メアリー(ダイアン・ウィースト)の病状の悪化と危篤の電話が入ります。
“デイリリー”は学名をヘメロカリス。アジア原産の多年草で、赤やピンク、白、オレンジなどの美しい花を咲かせます。
英語名のデイリリーは文字通り一日しか花が開かないことから、その名がつけられたと思われ、その花をアールがこよなく愛している、心優しい園芸家であると同時に、臆することなく麻薬組織のボスとも友人のように付き合う一風変わった個性の持ち主のアール・ストーン。
映画「運び屋」はユニークな個性を持ったひとりの男のドラマであるといえます。
たとえば、こんなシーンがあります。
ハイウェーで“仕事”の途中、パンクをして途方に暮れている黒人の男女がいます。二人はパンクの直し方が分からず、男性はスマートフォンを片手にさかんに誰かと交信をしようとしているらしいのですが、電波が届かない。
アールは二人に近寄り、修理をしてやろうとします。
そのときアールは独り言で「おれはニグロのパンクを…」
悪気でつぶやいたわけでもないのですが、その言葉を聞きとがめた男はサングラスをはずし、こう言います。
「いまはそんな言葉を使っちゃいけないんだ」
アールは応えます。「ふうん、そうなのか」
とかく老人というのは頑迷固陋(がんめいころう)で、自分の主張を、いいも悪いもなく押し通そうとしますが、時代にズレているアールの生活感覚と、間違いを指摘されて気色ばむこともなく、ああ、そうなのか、とそのまま聞き入れる精神の柔軟さ。
これが90歳近い老人であるところに不思議な心の高まりを感じます。
なんでもないシーンですが、アール・ストーンのユニークな人間性はいくつかのエピソードの中で描かれていって、アールの監視役として、いつもアールに反発していた若いギャングのフリオ(イグナシオ・セリッチオ)に対してアールはこんなことを言います。
「こんなことをいつまでも続けていたらダメだ。アシを洗ったらどうだ」
「勝手なことを言うな。おれはラトンに拾われてここまでになったんだ」
…そうか、悪かったな。そうやってアールは引き下がります。
エンターテインメントとシリアスな人間ドラマを織り交ぜた「運び屋」の主要なテーマを色濃く表しているのが、後半からラストにかけてでしょう。
ハイウェーで妻の危篤を知ったアールは、大量のヘロインを運んでいる最中であり、組織の監視に付きまとわれている身として、そのまま仕事を放り出して病院へ駆けつければ殺されてしまうことは分かり切っています。絶体絶命の中、アール・ストーンはハイウェーを去り、妻の死を看取ることを決意します。
監督・主演のクリント・イーストウッドは、これが自身39本目の監督作品。
「恐怖のメロディ」(1971年)、「アイガー・サンクション」(1975年)、「ガントレット」(1977年)、などいくつか面白い映画もありましたが、全体としてイーストウッド監督作品は、暗く、重い印象のほうが強くて、監督はしないほうがいいんじゃないかなあ、などと思ったりしましたが、おそらく、そういった過去の失敗作やB級としての評価しか受けなかった映画を作り続けた中で磨かれてきた感性が花開いたのが、第65回アカデミー賞の作品賞に輝いた「許されざる者」(1992年)の快挙だったのでしょう。
役柄のアール・ストーンとは、ほぼ同年齢のイーストウッドは老いを恥じることなく、年齢なんか関係ない、と言わんばかりですが、むしろここでは、見放すがごとくほったらかしにしてきた家族に対する反省と悔恨の心情が湧き出る泉のように溢れていて、それがベイツ捜査官や、死の床にある妻との会話の中でじっくりと語られ、イーストウッド自身の半生と重なって深みのある映画となっているのでしょう(売れない時代に陰で支えてくれた最初の妻マギーをないがしろにして、若い愛人と戯れるイーストウッドの写真や記事が、当時の映画雑誌をにぎわせていましたしね)。
妻のメアリーを演じたダイアン・ウィーストも良かったなあ。
ウディ・アレンが監督した傑作コメディ「ハンナとその姉妹」(1986年)でアカデミー賞助演女優賞を受賞した次女の印象も強いですが、ティム・バートンの「シザーハンズ」(1990年)の化粧品のセールスの場面が特によかった。ドアのチャイムを鳴らして、出て来た相手に、にこやかな顔で自分の頬をこする仕草をしながら「エイボン化粧品です」。
この場面が特に良かった。
「運び屋」では、家庭を顧みない夫に愛想を尽かしながらも、心の深いところでやっぱり夫とつながっている、妻として傷つきながら、穏やかな表情を絶やさない妻メアリーは絶品。
ベイツ捜査官らの上司、主任特別捜査官にローレンス・フィッシュバーン。
組織のボス、ラトンにアンディ・ガルシアなど、脇をガッチリと固めた布陣も素晴らしく、熟成されてますます深みと味わいを増したクリント・イーストウッド円熟の一作。
監督クリント・イーストウッド
脚本ニック・シェンク
音楽アルトゥロ・サンドバル
撮影イブ・ベランジェ
〈キャスト〉
クリント・イーストウッド ブラッドリー・クーパー
ダイアン・ウィースト アンディ・ガルシア
「運び屋」という題名から、宅配業者か、引っ越し屋さんの話かと思ったら、ヒョンなことから麻薬組織に関わった男の話で、それも、90歳という高齢でヘロインの“運び屋”をすることになった男の実話をもとに、仕事、家族、老い、人生の意義といった普遍的なテーマを追求したクリント・イーストウッド監督・主演による、心に染み込む佳作。
“デイリリー”の栽培を手掛け、園芸家として名を馳(は)せて仕事一筋に打ち込んできたアール・ストーン(クリント・イーストウッド)でしたが、インターネットの普及とともにネット販売による打撃を受け、家は差し押さえられて経済的困窮に陥ります。
家族を顧(かえり)みずに仕事一筋に生きてきた結果が仇(あだ)となって、娘の結婚パーティーからも締め出しをくったアールでしたが、そこで、一人の男に声をかけられます。
「いい仕事があるんだ、やってみないか?」
それは簡単な仕事で、自分のオンボロトラックでハイウェーを走り、ある品物を届けるだけ。
無事故無違反を誇るアールは気楽にその仕事を引き受け、指定の場所に品物を届けて車に戻ってみると、仕事の報酬として誰かが置いていった封筒の中に厚い札束が入っている。
大金を受け取ったアールは、家を買い戻し、資金不足で活動が危ぶまれていた退役軍人会を復活させます。
“運び屋”の仕事は続き、二度、三度と重ねるうちに運ぶ品物の量は増え、それにつれてアールの報酬も上がり、オンボロトラックを新車に替えたアールでしたが、品物を運ぶ途中、偶然にそれが大量のヘロインであることを知ります。
犯罪の泥沼に足を踏み込んでいたことを知ったアール。しかし、目の前にチラつく大金と、朝鮮戦争の経験もあって怖いもの知らずのアールは、組織の中で一目置かれる存在となって麻薬組織のボス、ラトン(アンディ・ガルシア)の屋敷に招待され、美女を集めた豪華なパーティーにも招かれるようになります。
一方、麻薬組織撲滅に執念を燃やすベイツ捜査官(ブラッドリー・クーパー)とトレビノ捜査官(マイケル・ペーニャ)のもと、緻密な捜査網が敷かれ、“運び屋”の行動が明らかになっていきます。
捜査の手が伸びていることを知ったアールでしたが、組織の内紛によって厳しい監視がつく中、運び屋としての仕事を続けますが、そんなアールのケータイに、妻メアリー(ダイアン・ウィースト)の病状の悪化と危篤の電話が入ります。
“デイリリー”は学名をヘメロカリス。アジア原産の多年草で、赤やピンク、白、オレンジなどの美しい花を咲かせます。
英語名のデイリリーは文字通り一日しか花が開かないことから、その名がつけられたと思われ、その花をアールがこよなく愛している、心優しい園芸家であると同時に、臆することなく麻薬組織のボスとも友人のように付き合う一風変わった個性の持ち主のアール・ストーン。
映画「運び屋」はユニークな個性を持ったひとりの男のドラマであるといえます。
たとえば、こんなシーンがあります。
ハイウェーで“仕事”の途中、パンクをして途方に暮れている黒人の男女がいます。二人はパンクの直し方が分からず、男性はスマートフォンを片手にさかんに誰かと交信をしようとしているらしいのですが、電波が届かない。
アールは二人に近寄り、修理をしてやろうとします。
そのときアールは独り言で「おれはニグロのパンクを…」
悪気でつぶやいたわけでもないのですが、その言葉を聞きとがめた男はサングラスをはずし、こう言います。
「いまはそんな言葉を使っちゃいけないんだ」
アールは応えます。「ふうん、そうなのか」
とかく老人というのは頑迷固陋(がんめいころう)で、自分の主張を、いいも悪いもなく押し通そうとしますが、時代にズレているアールの生活感覚と、間違いを指摘されて気色ばむこともなく、ああ、そうなのか、とそのまま聞き入れる精神の柔軟さ。
これが90歳近い老人であるところに不思議な心の高まりを感じます。
なんでもないシーンですが、アール・ストーンのユニークな人間性はいくつかのエピソードの中で描かれていって、アールの監視役として、いつもアールに反発していた若いギャングのフリオ(イグナシオ・セリッチオ)に対してアールはこんなことを言います。
「こんなことをいつまでも続けていたらダメだ。アシを洗ったらどうだ」
「勝手なことを言うな。おれはラトンに拾われてここまでになったんだ」
…そうか、悪かったな。そうやってアールは引き下がります。
エンターテインメントとシリアスな人間ドラマを織り交ぜた「運び屋」の主要なテーマを色濃く表しているのが、後半からラストにかけてでしょう。
ハイウェーで妻の危篤を知ったアールは、大量のヘロインを運んでいる最中であり、組織の監視に付きまとわれている身として、そのまま仕事を放り出して病院へ駆けつければ殺されてしまうことは分かり切っています。絶体絶命の中、アール・ストーンはハイウェーを去り、妻の死を看取ることを決意します。
監督・主演のクリント・イーストウッドは、これが自身39本目の監督作品。
「恐怖のメロディ」(1971年)、「アイガー・サンクション」(1975年)、「ガントレット」(1977年)、などいくつか面白い映画もありましたが、全体としてイーストウッド監督作品は、暗く、重い印象のほうが強くて、監督はしないほうがいいんじゃないかなあ、などと思ったりしましたが、おそらく、そういった過去の失敗作やB級としての評価しか受けなかった映画を作り続けた中で磨かれてきた感性が花開いたのが、第65回アカデミー賞の作品賞に輝いた「許されざる者」(1992年)の快挙だったのでしょう。
役柄のアール・ストーンとは、ほぼ同年齢のイーストウッドは老いを恥じることなく、年齢なんか関係ない、と言わんばかりですが、むしろここでは、見放すがごとくほったらかしにしてきた家族に対する反省と悔恨の心情が湧き出る泉のように溢れていて、それがベイツ捜査官や、死の床にある妻との会話の中でじっくりと語られ、イーストウッド自身の半生と重なって深みのある映画となっているのでしょう(売れない時代に陰で支えてくれた最初の妻マギーをないがしろにして、若い愛人と戯れるイーストウッドの写真や記事が、当時の映画雑誌をにぎわせていましたしね)。
妻のメアリーを演じたダイアン・ウィーストも良かったなあ。
ウディ・アレンが監督した傑作コメディ「ハンナとその姉妹」(1986年)でアカデミー賞助演女優賞を受賞した次女の印象も強いですが、ティム・バートンの「シザーハンズ」(1990年)の化粧品のセールスの場面が特によかった。ドアのチャイムを鳴らして、出て来た相手に、にこやかな顔で自分の頬をこする仕草をしながら「エイボン化粧品です」。
この場面が特に良かった。
「運び屋」では、家庭を顧みない夫に愛想を尽かしながらも、心の深いところでやっぱり夫とつながっている、妻として傷つきながら、穏やかな表情を絶やさない妻メアリーは絶品。
ベイツ捜査官らの上司、主任特別捜査官にローレンス・フィッシュバーン。
組織のボス、ラトンにアンディ・ガルシアなど、脇をガッチリと固めた布陣も素晴らしく、熟成されてますます深みと味わいを増したクリント・イーストウッド円熟の一作。
2020年11月21日
映画「恐怖の報酬」1977年版 吼えるトラック、命を懸けた男たちの報酬とは
「恐怖の報酬」
(Sorcerer ) 1977年アメリカ
監督ウィリアム・フリードキン
脚本ウォロン・グリーン
音楽タンジェリン・ドリーム
キース・ジャレット
原作ジョルジュ・アルノー
撮影ジョン・M・スティーブンス
〈キャスト〉
ロイ・シャイダー ブリュノ・クレメール
フランシスコ・ラバル アミドウ
私の映画好きの原点になったのが、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督のフランス映画「恐怖の報酬」(1953年)で、これは当時小学校五年生くらいのころにテレビで放映されていたのを見た覚えがあります(しかも朝の番組)。
ニトロをトラックで運ぶ男たちの話で、その背景となったいきさつはよく分かりませんでしたが、全体を貫く緊張感と、時折り見せるユーモア(二人並んで立ちションをする場面は妙に印象的)、その中でも、油が溜まって沼のようになった道を必死に通り抜けようとする二人の男。
滑るタイヤの下で一人の足が下敷きになり、悲鳴の中でそれを乗り越えてトラックを前進させる鬼気迫る迫力は圧倒的で、映画ファンとなるキッカケを作ってくれた傑作でした。
クルーゾー監督版「恐怖の報酬」からおよそ24年後に撮られたウィリアム・フリードキン監督による「恐怖の報酬」は、クルーゾー監督版のリメイクです。
簡単にあらすじを追ってゆくと。
殺し屋ニーロ(フランシスコ・ラバル)と、莫大な負債を抱えてフランスから逃亡した銀行員セラーノ(ブリュノ・クレメール)、強盗の末に組織から追われる羽目になったドミンゲス(ロイ・シャイダー)、テロの実行犯で逮捕を逃れたカッセム(アミドウ)たちは、事情が異なりながらも祖国から離れ、吹き溜まりのような南米の村に身を潜めて暮らしています。
故国に帰って元の生活に戻りたいと切望しますが、金は無く、社会の目を逃れている立場としては思うように身動きがとれません。
とにかく金さえ手に入ればなんとかなる、そんな彼らの前に、遠く離れた油井での爆発事故が発生します。
大爆発とともに発生した火災を消すためには爆風によるしかないと専門家は判断。
ニトログリセリンの威力を借りて火災を消すことになりますが、遠く離れた油井まで、少しの振動でも爆発するような危険なニトロをどうやって運ぶのか。
空からの輸送も考えられましたが、乱気流に巻き込まれる恐れがあると、その意見は却下され、トラックで運ぶことに決定します。
しかし問題は人選で、まかり間違えば一瞬で自分たちが吹き飛んでしまうような恐怖の輸送です。
それでも、高額な報酬とあって何人かが募集に応じて運転の腕前を試された結果、残ったのは、ドミンゲス、ニーロ、カッセム、セラーノの4人。
4トンほどのボロボロのトラック2台に二人一組となって乗り込み、悪路と悪天候の待ち受ける長い道のりを進むことになります。
息を飲むスリルと悪臭も漂ってきそうな南米の村の情景、命を懸けた男たちが挑む、狂気すら孕(はら)んだ死に物狂いの戦い。
「フレンチ・コネクション」(1971年)、「エクソシスト」(1973年)で鬼才と評されたウィリアム・フリードキンが、オレはこういう映画を作りたいんだ! と全霊を込めて作り上げたような作品でしたが、封切り当時は見事に惨敗。
惨敗の理由はなんとなく分かるような気がします。
クルーゾー版「恐怖の報酬」のリメイクということで、どうしてもそちらと比較されてしまいます。これはリメイクの宿命なので仕方がないのですが、サスペンスと同時に当時の社会状況、そこに生きる人間たちのドラマを重厚に扱った53年版と比較して、サスペンス一辺倒で押しまくったフリードキン版「恐怖の報酬」の評価が下がるのはもっともなことです。
それに前半の、それぞれの背景を持った4人が南米へ落ち延びる過程が長過ぎて、ひとつひとつのエピソードは面白いのですが、セリフを極力排しているためか説明不足になっていて、現金強盗の失敗で追われる身となるロイ・シャイダー以外の3人の背景が分かりにくい。
オリジナル完全版は2時間を超えていますが、封切り当時の上映時間が90分ほどとなったのは前半をかなりカットしたためだと思われます。
「大脱走」(1963年)のダイジェスト版(テレビ放映)が、殿様の膳に供された“目黒のサンマ”のように脂っ気を抜かれて味わいのないものであったように、2時間を超える大作をズタズタに切ってしまったのでは惨敗するのが当たり前。
フリードキンの作品として最も好きな「L.A.大走査線/ 狼たちの街」を何度も繰り返して見ているフリードキンファンの私として感じることは、リメイク版「恐怖の報酬」はウィリアム・フリードキンの力量が存分に発揮された映画であるということです。
クルーゾー版「恐怖の報酬」と比較するのは意味のないことです。
前半が説明不足でやけに長い。これも置いておきましょう。
後に公開されたフランシス・F・コッポラの「地獄の黙示録」(1979年)の、むせかえるようなジャングル、アラン・パーカーの「エンゼル・ハート」(1987年)における猥雑なニューヨークやニュー・オーリンズの湿度感。そういった、映画の背景に塗り込められた、巨匠たちが生み出したリアリズムがフリードキン版「恐怖の報酬」には満ちています。
それだけではなく、映画のハイライトと呼んでもいいような、暴風雨の吹き荒れる朽ちた吊り橋をトラックで渡り切ろうとする緊張感と迫力は圧巻。トラックがまるで巨大な猛獣のごとく咆哮しながら、のたうつようにジリジリと進む場面は、まさに最大の見せ場といってもよく、数ある映画の中でも最高にスリリングなシーンのひとつといえます。
主演は「フレンチ・コネクション」(1971年)、「ジョーズ」(1975年)、「2010年」(1984年)などのロイ・シャイダー。
元銀行家のセラーノにフランス俳優ブリュノ・クレメール。
殺し屋ニーロに「太陽はひとりぼっち」(1962年)、「昼顔」(1967年)、そして1984年の「無垢なる聖者」でカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したフランシスコ・ラバル。
原題は「Sorcerer」(魔術師)。
映画の内容からすれば「魔術師」という題名はピンときませんが、数々の難関を切り抜けて成功する一連の行動が魔術師のようだということでしょうか。
それはさておき、映画の最後に「アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに捧げる」と流れたように、クルーゾー版「恐怖の報酬」を念頭に置きながら、サスペンスを存分に盛り込んだフリードキン版「恐怖の報酬」は娯楽映画の醍醐味を十二分に味わえるものだといえます。
監督ウィリアム・フリードキン
脚本ウォロン・グリーン
音楽タンジェリン・ドリーム
キース・ジャレット
原作ジョルジュ・アルノー
撮影ジョン・M・スティーブンス
〈キャスト〉
ロイ・シャイダー ブリュノ・クレメール
フランシスコ・ラバル アミドウ
私の映画好きの原点になったのが、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督のフランス映画「恐怖の報酬」(1953年)で、これは当時小学校五年生くらいのころにテレビで放映されていたのを見た覚えがあります(しかも朝の番組)。
ニトロをトラックで運ぶ男たちの話で、その背景となったいきさつはよく分かりませんでしたが、全体を貫く緊張感と、時折り見せるユーモア(二人並んで立ちションをする場面は妙に印象的)、その中でも、油が溜まって沼のようになった道を必死に通り抜けようとする二人の男。
滑るタイヤの下で一人の足が下敷きになり、悲鳴の中でそれを乗り越えてトラックを前進させる鬼気迫る迫力は圧倒的で、映画ファンとなるキッカケを作ってくれた傑作でした。
クルーゾー監督版「恐怖の報酬」からおよそ24年後に撮られたウィリアム・フリードキン監督による「恐怖の報酬」は、クルーゾー監督版のリメイクです。
簡単にあらすじを追ってゆくと。
殺し屋ニーロ(フランシスコ・ラバル)と、莫大な負債を抱えてフランスから逃亡した銀行員セラーノ(ブリュノ・クレメール)、強盗の末に組織から追われる羽目になったドミンゲス(ロイ・シャイダー)、テロの実行犯で逮捕を逃れたカッセム(アミドウ)たちは、事情が異なりながらも祖国から離れ、吹き溜まりのような南米の村に身を潜めて暮らしています。
故国に帰って元の生活に戻りたいと切望しますが、金は無く、社会の目を逃れている立場としては思うように身動きがとれません。
とにかく金さえ手に入ればなんとかなる、そんな彼らの前に、遠く離れた油井での爆発事故が発生します。
大爆発とともに発生した火災を消すためには爆風によるしかないと専門家は判断。
ニトログリセリンの威力を借りて火災を消すことになりますが、遠く離れた油井まで、少しの振動でも爆発するような危険なニトロをどうやって運ぶのか。
空からの輸送も考えられましたが、乱気流に巻き込まれる恐れがあると、その意見は却下され、トラックで運ぶことに決定します。
しかし問題は人選で、まかり間違えば一瞬で自分たちが吹き飛んでしまうような恐怖の輸送です。
それでも、高額な報酬とあって何人かが募集に応じて運転の腕前を試された結果、残ったのは、ドミンゲス、ニーロ、カッセム、セラーノの4人。
4トンほどのボロボロのトラック2台に二人一組となって乗り込み、悪路と悪天候の待ち受ける長い道のりを進むことになります。
息を飲むスリルと悪臭も漂ってきそうな南米の村の情景、命を懸けた男たちが挑む、狂気すら孕(はら)んだ死に物狂いの戦い。
「フレンチ・コネクション」(1971年)、「エクソシスト」(1973年)で鬼才と評されたウィリアム・フリードキンが、オレはこういう映画を作りたいんだ! と全霊を込めて作り上げたような作品でしたが、封切り当時は見事に惨敗。
惨敗の理由はなんとなく分かるような気がします。
クルーゾー版「恐怖の報酬」のリメイクということで、どうしてもそちらと比較されてしまいます。これはリメイクの宿命なので仕方がないのですが、サスペンスと同時に当時の社会状況、そこに生きる人間たちのドラマを重厚に扱った53年版と比較して、サスペンス一辺倒で押しまくったフリードキン版「恐怖の報酬」の評価が下がるのはもっともなことです。
それに前半の、それぞれの背景を持った4人が南米へ落ち延びる過程が長過ぎて、ひとつひとつのエピソードは面白いのですが、セリフを極力排しているためか説明不足になっていて、現金強盗の失敗で追われる身となるロイ・シャイダー以外の3人の背景が分かりにくい。
オリジナル完全版は2時間を超えていますが、封切り当時の上映時間が90分ほどとなったのは前半をかなりカットしたためだと思われます。
「大脱走」(1963年)のダイジェスト版(テレビ放映)が、殿様の膳に供された“目黒のサンマ”のように脂っ気を抜かれて味わいのないものであったように、2時間を超える大作をズタズタに切ってしまったのでは惨敗するのが当たり前。
フリードキンの作品として最も好きな「L.A.大走査線/ 狼たちの街」を何度も繰り返して見ているフリードキンファンの私として感じることは、リメイク版「恐怖の報酬」はウィリアム・フリードキンの力量が存分に発揮された映画であるということです。
クルーゾー版「恐怖の報酬」と比較するのは意味のないことです。
前半が説明不足でやけに長い。これも置いておきましょう。
後に公開されたフランシス・F・コッポラの「地獄の黙示録」(1979年)の、むせかえるようなジャングル、アラン・パーカーの「エンゼル・ハート」(1987年)における猥雑なニューヨークやニュー・オーリンズの湿度感。そういった、映画の背景に塗り込められた、巨匠たちが生み出したリアリズムがフリードキン版「恐怖の報酬」には満ちています。
それだけではなく、映画のハイライトと呼んでもいいような、暴風雨の吹き荒れる朽ちた吊り橋をトラックで渡り切ろうとする緊張感と迫力は圧巻。トラックがまるで巨大な猛獣のごとく咆哮しながら、のたうつようにジリジリと進む場面は、まさに最大の見せ場といってもよく、数ある映画の中でも最高にスリリングなシーンのひとつといえます。
主演は「フレンチ・コネクション」(1971年)、「ジョーズ」(1975年)、「2010年」(1984年)などのロイ・シャイダー。
元銀行家のセラーノにフランス俳優ブリュノ・クレメール。
殺し屋ニーロに「太陽はひとりぼっち」(1962年)、「昼顔」(1967年)、そして1984年の「無垢なる聖者」でカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したフランシスコ・ラバル。
原題は「Sorcerer」(魔術師)。
映画の内容からすれば「魔術師」という題名はピンときませんが、数々の難関を切り抜けて成功する一連の行動が魔術師のようだということでしょうか。
それはさておき、映画の最後に「アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに捧げる」と流れたように、クルーゾー版「恐怖の報酬」を念頭に置きながら、サスペンスを存分に盛り込んだフリードキン版「恐怖の報酬」は娯楽映画の醍醐味を十二分に味わえるものだといえます。