この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
広告
posted by fanblog
2021年06月30日
映画「見知らぬ乗客」− 偶然乗り合わせた列車で持ちかけられた“交換殺人”
「見知らぬ乗客」
(Strangers on a Train )
1951年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作パトリシア・ハイスミス
脚本レイモンド・チャンドラー
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ファーリー・グレンジャー ロバート・ウォーカー
ケイシー・ロジャース レオ・G・キャロル
偶然乗り合わせた列車の乗客から“交換殺人”を持ちかけられたテニス・プレイヤーが陥る恐怖を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作。
ガイ・ハミルトン(ファーリー・グレンジャー)は、向かい合った乗客の足が触れたことから挨拶を交わし、会話が弾んで相手の男と親しくなります。
相手の男の名前はブルーノ・アントニー。
テニス選手として人気のあるガイのファンだというブルーノは、初対面ながらガイの身辺の事情をよく知っており、また、浮気な妻のミリアム(ケイシー・ロジャース)に嫌気がさし、モートン上院議員の娘であるアン・モートン(ルース・ローマン)との結婚を強く望んでいるガイは、そんな事情も急速に親しくなったブルーノに話します。
食堂車でグラスを傾け、お互いの事情を話す中で、ブルーノは殺人についての話を始めます。
君は妻のミリアムがいなくなれば、恋人のアン・モートンと結婚ができる。
僕は母とは仲がいいが、父とは折り合いが悪い。殺したいと思っている。
殺人が行われても、動機を持っていなければ疑われることはない。
“僕がミリアムを殺すから、君は僕の父を殺してくれないか”
そうすれば、お互いに動機が無いんだから疑われる心配はない。
半信半疑で笑顔を浮かべながら、冗談話にしてしまおうと思ったガイでしたが、後日ブルーノは、その言葉通り、夜の遊園地でガイの妻ミリアムを絞殺してしまいます。
ブルーノからミリアムのかけていたメガネを見せられたガイは、次は君が僕の父を殺す番だ、と“交換殺人”の強要を迫られます。
殺人など出来るはずのないガイは、恋人のアンにも事情を告げられないまま、ひとりブルーノの脅迫に苦しむことになります。
なぜ実行しないんだ、とガイの身辺に執拗に姿を現すブルーノ。
ブルーノの存在を不審に思ったアンは、“交換殺人”を持ちかけられたことをガイから聞き、衝撃を受けながらも、ガイを信じることを約束します。
一方、ガイの妻ミリアムが殺されたことで、アリバイの立証ができなかったことから、ガイには容疑者として刑事二人のゆるい監視の目がつくことになります。
交換殺人などできない、と言うガイに業を煮やしたブルーノは、一目でガイのものと判る特注品のライターを持っていたことから、これを殺人現場に落とせば君は有罪だと、ガイを脅します。
ブルーノよりも先に現場の遊園地へ向かいたいガイですが、折しもその日はテニスの試合日。
早く勝敗を決して遊園地へ駆けつけたいと焦るガイ。
しかし、相手の選手もしぶとく粘り、容易に決着がつきません。
ようやく勝負が決し、警察の尾行を逃れるように遊園地へと急ぐガイ。
先に駆けつけていたブルーノでしたが、誤って証拠品のライターを側溝へ落としてしまいます。懸命に手を伸ばして拾おうと焦るブルーノ。
やっとライターをつかみ、現場へ急ぐブルーノは、ガイと共に警察の追求が近づいていることを知ります。
そして二人はメリーゴーランドで対峙することになるのですが、多数の子どもたちを乗せたメリーゴーランドに入った二人を見て警察が発砲した銃弾は、誤って操作係りを撃ってしまい、メリーゴーランドは急回転を始めます。
原作は「太陽がいっぱい」のパトリシア・ハイスミス。
“交換殺人”というサスペンスミステリーを扱っていますが、脚色をしたのが「さらば愛しき女よ」「長いお別れ」などでハードボイルド小説を文学にまだ高めたレイモンド・チャンドラーなので、ハードボイルド的雰囲気も盛り込み、特にラストのメリーゴーランドの場面は息をのむ迫力とスリル。
それに、この映画は撮影が素晴らしい効果を上げていて、撮影に当たったロバート・バークスはアカデミー賞撮影賞にノミネート。受賞こそ逃しましたが(ちなみに撮影賞受賞は、白黒部門で「陽のあたる場所」のウィリアム・C・メラー、カラー部門で「巴里のアメリカ人」のアルフレッド・ジルクスとジョン・アルトン)、映画冒頭の、乗客が列車へ乗り込む場面を足の動きで追い、脚を組むために動かした足先が相手の足に当たって、そこからお互いの顔へ移動するシーンは、そこだけでドラマチックな展開。
物語の怖さ、不気味さを特徴づけるのがブルーノ・アントニーという男の異常性。
彼はガイ・ハミルトンに対して“交換殺人”を持ちかけます。理屈の上では動機なき殺人ですから、捜査の手が及ぶことはない。完全犯罪になり得そうに思われますが、見ず知らずの人間を簡単に殺せるものではない。
しかし、それをブルーノは淡々とやってのけます。
そしてブルーノが殺してほしいと願う相手が、こともあろうに自分の実の父親であるところに変質的な異常性が現れています。
父親を殺したいと願う男の心理とはどのようなものなのか。
フロイトは「精神分析入門」の中で、こんなことを言っています。
“同性、つまり母と娘、父と息子は互いに離反させる傾向を示す。息子にとって父親は、イヤイヤながら我慢していなければならない、あらゆる社会的強制の権化なのです。父親は、息子の意欲的な活動や、早期における性的な歓びを妨げ、………父親の死を待ち構えている気持ちは………悲劇的なものを生み出しかねないほど激しく高まります”「高橋義孝・下坂幸三訳」
世の中のすべての父親と息子の関係がフロイトのいうようなものであるとは思いませんが、ブルーノ・アントニーは父親との折り合いが悪くはあっても、母親との情愛が深いというのは、フロイト流にいえばエディプスコンプレックスと呼ぶべきものなのでしょう。
この性格造形は後の「サイコ」(1960年)のノーマン・ベイツにつながるのではないかと思います。
この異常性を持ったブルーノが、早く殺人を実行しろと、執拗にガイの身辺に現れる怖さ。
特に、ガイのテニスの試合観戦に現れたブルーノが、観客のすべてがテニスボールを追って首を左右に動かす中で、ひとりブルーノだけがジーッとガイを見つめる怖さ。
様々に散りばめられた恐怖シーンの中でも、最大の見どころとなるのはラストのメリーゴーランドのシーンでしょう。
ブルーノを狙撃するはずの警察の銃弾がそれて、メリーゴーランドの操作係に当たってしまう。倒れた拍子に機械が誤作動を起こし、異常な速さでメリーゴーランドが回転を始める。
最初は歓声を上げていた子供たちも、やがてその表情は恐怖におびえ、悲鳴と絶叫に変わります。
猛スピードで回転するメリーゴーランドで、振り落とされそうになりながら格闘するガイとブルーノ。
そして、ここに一人、おそらく遊園地の係員か何かの男が、メリーゴーランドを止めるべく、猛スピードで回転を続けるメリーゴーランドの下へもぐって機械のスイッチを探りにいく場面の怖いこと。
ガイ・ハミルトンに「ロープ」(1948年)でもヒッチコック作品に登場しているファーリー・グレンジャー。
ブルーノ・アントニーに「大草原」「愛の調べ」(1947年)のロバート・ウォーカー。
サイコパス的犯人像を演じて絶賛されたロバート・ウォーカーでしたが、「見知らぬ乗客」公開直後に32歳の若さで急死しています。
また、ガイの恋人アン・モートンの妹バーバラに、アルフレッド・ヒッチコックの娘パトリシア・ヒッチコック。
しっかり者の姉とは対照的に、ちょっとおしゃべりな脇役ながら、かけているメガネがブルーノの潜在意識に働きかける重要な役どころを好演。
怖い映画ですが、晴れて結ばれたガイとアン・モートンが列車に乗り、向かいあった乗客から声をかけられ、そそくさと立ち去るラストは、ユーモアを忘れないヒッチコックらしくて微笑ましい締めくくりでした。
1951年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作パトリシア・ハイスミス
脚本レイモンド・チャンドラー
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ファーリー・グレンジャー ロバート・ウォーカー
ケイシー・ロジャース レオ・G・キャロル
偶然乗り合わせた列車の乗客から“交換殺人”を持ちかけられたテニス・プレイヤーが陥る恐怖を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作。
ガイ・ハミルトン(ファーリー・グレンジャー)は、向かい合った乗客の足が触れたことから挨拶を交わし、会話が弾んで相手の男と親しくなります。
相手の男の名前はブルーノ・アントニー。
テニス選手として人気のあるガイのファンだというブルーノは、初対面ながらガイの身辺の事情をよく知っており、また、浮気な妻のミリアム(ケイシー・ロジャース)に嫌気がさし、モートン上院議員の娘であるアン・モートン(ルース・ローマン)との結婚を強く望んでいるガイは、そんな事情も急速に親しくなったブルーノに話します。
食堂車でグラスを傾け、お互いの事情を話す中で、ブルーノは殺人についての話を始めます。
君は妻のミリアムがいなくなれば、恋人のアン・モートンと結婚ができる。
僕は母とは仲がいいが、父とは折り合いが悪い。殺したいと思っている。
殺人が行われても、動機を持っていなければ疑われることはない。
“僕がミリアムを殺すから、君は僕の父を殺してくれないか”
そうすれば、お互いに動機が無いんだから疑われる心配はない。
半信半疑で笑顔を浮かべながら、冗談話にしてしまおうと思ったガイでしたが、後日ブルーノは、その言葉通り、夜の遊園地でガイの妻ミリアムを絞殺してしまいます。
ブルーノからミリアムのかけていたメガネを見せられたガイは、次は君が僕の父を殺す番だ、と“交換殺人”の強要を迫られます。
殺人など出来るはずのないガイは、恋人のアンにも事情を告げられないまま、ひとりブルーノの脅迫に苦しむことになります。
なぜ実行しないんだ、とガイの身辺に執拗に姿を現すブルーノ。
ブルーノの存在を不審に思ったアンは、“交換殺人”を持ちかけられたことをガイから聞き、衝撃を受けながらも、ガイを信じることを約束します。
一方、ガイの妻ミリアムが殺されたことで、アリバイの立証ができなかったことから、ガイには容疑者として刑事二人のゆるい監視の目がつくことになります。
交換殺人などできない、と言うガイに業を煮やしたブルーノは、一目でガイのものと判る特注品のライターを持っていたことから、これを殺人現場に落とせば君は有罪だと、ガイを脅します。
ブルーノよりも先に現場の遊園地へ向かいたいガイですが、折しもその日はテニスの試合日。
早く勝敗を決して遊園地へ駆けつけたいと焦るガイ。
しかし、相手の選手もしぶとく粘り、容易に決着がつきません。
ようやく勝負が決し、警察の尾行を逃れるように遊園地へと急ぐガイ。
先に駆けつけていたブルーノでしたが、誤って証拠品のライターを側溝へ落としてしまいます。懸命に手を伸ばして拾おうと焦るブルーノ。
やっとライターをつかみ、現場へ急ぐブルーノは、ガイと共に警察の追求が近づいていることを知ります。
そして二人はメリーゴーランドで対峙することになるのですが、多数の子どもたちを乗せたメリーゴーランドに入った二人を見て警察が発砲した銃弾は、誤って操作係りを撃ってしまい、メリーゴーランドは急回転を始めます。
原作は「太陽がいっぱい」のパトリシア・ハイスミス。
“交換殺人”というサスペンスミステリーを扱っていますが、脚色をしたのが「さらば愛しき女よ」「長いお別れ」などでハードボイルド小説を文学にまだ高めたレイモンド・チャンドラーなので、ハードボイルド的雰囲気も盛り込み、特にラストのメリーゴーランドの場面は息をのむ迫力とスリル。
それに、この映画は撮影が素晴らしい効果を上げていて、撮影に当たったロバート・バークスはアカデミー賞撮影賞にノミネート。受賞こそ逃しましたが(ちなみに撮影賞受賞は、白黒部門で「陽のあたる場所」のウィリアム・C・メラー、カラー部門で「巴里のアメリカ人」のアルフレッド・ジルクスとジョン・アルトン)、映画冒頭の、乗客が列車へ乗り込む場面を足の動きで追い、脚を組むために動かした足先が相手の足に当たって、そこからお互いの顔へ移動するシーンは、そこだけでドラマチックな展開。
物語の怖さ、不気味さを特徴づけるのがブルーノ・アントニーという男の異常性。
彼はガイ・ハミルトンに対して“交換殺人”を持ちかけます。理屈の上では動機なき殺人ですから、捜査の手が及ぶことはない。完全犯罪になり得そうに思われますが、見ず知らずの人間を簡単に殺せるものではない。
しかし、それをブルーノは淡々とやってのけます。
そしてブルーノが殺してほしいと願う相手が、こともあろうに自分の実の父親であるところに変質的な異常性が現れています。
父親を殺したいと願う男の心理とはどのようなものなのか。
フロイトは「精神分析入門」の中で、こんなことを言っています。
“同性、つまり母と娘、父と息子は互いに離反させる傾向を示す。息子にとって父親は、イヤイヤながら我慢していなければならない、あらゆる社会的強制の権化なのです。父親は、息子の意欲的な活動や、早期における性的な歓びを妨げ、………父親の死を待ち構えている気持ちは………悲劇的なものを生み出しかねないほど激しく高まります”「高橋義孝・下坂幸三訳」
世の中のすべての父親と息子の関係がフロイトのいうようなものであるとは思いませんが、ブルーノ・アントニーは父親との折り合いが悪くはあっても、母親との情愛が深いというのは、フロイト流にいえばエディプスコンプレックスと呼ぶべきものなのでしょう。
この性格造形は後の「サイコ」(1960年)のノーマン・ベイツにつながるのではないかと思います。
この異常性を持ったブルーノが、早く殺人を実行しろと、執拗にガイの身辺に現れる怖さ。
特に、ガイのテニスの試合観戦に現れたブルーノが、観客のすべてがテニスボールを追って首を左右に動かす中で、ひとりブルーノだけがジーッとガイを見つめる怖さ。
様々に散りばめられた恐怖シーンの中でも、最大の見どころとなるのはラストのメリーゴーランドのシーンでしょう。
ブルーノを狙撃するはずの警察の銃弾がそれて、メリーゴーランドの操作係に当たってしまう。倒れた拍子に機械が誤作動を起こし、異常な速さでメリーゴーランドが回転を始める。
最初は歓声を上げていた子供たちも、やがてその表情は恐怖におびえ、悲鳴と絶叫に変わります。
猛スピードで回転するメリーゴーランドで、振り落とされそうになりながら格闘するガイとブルーノ。
そして、ここに一人、おそらく遊園地の係員か何かの男が、メリーゴーランドを止めるべく、猛スピードで回転を続けるメリーゴーランドの下へもぐって機械のスイッチを探りにいく場面の怖いこと。
ガイ・ハミルトンに「ロープ」(1948年)でもヒッチコック作品に登場しているファーリー・グレンジャー。
ブルーノ・アントニーに「大草原」「愛の調べ」(1947年)のロバート・ウォーカー。
サイコパス的犯人像を演じて絶賛されたロバート・ウォーカーでしたが、「見知らぬ乗客」公開直後に32歳の若さで急死しています。
また、ガイの恋人アン・モートンの妹バーバラに、アルフレッド・ヒッチコックの娘パトリシア・ヒッチコック。
しっかり者の姉とは対照的に、ちょっとおしゃべりな脇役ながら、かけているメガネがブルーノの潜在意識に働きかける重要な役どころを好演。
怖い映画ですが、晴れて結ばれたガイとアン・モートンが列車に乗り、向かいあった乗客から声をかけられ、そそくさと立ち去るラストは、ユーモアを忘れないヒッチコックらしくて微笑ましい締めくくりでした。
2021年06月23日
映画「バルカン超特急」ー 列車という密室、消えた婦人を追って展開するサスペンス・ミステリー
「バルカン超特急」
(The Lady Vanishes)
1938年 イギリス/アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本アルマ・レヴィル
シドニー・ギリアット
フランク・ラウンダー
原作エセル・リナ・ホワイト
撮影ジャック・コックス
〈キャスト〉
マーガレット・ロックウッド メイ・ウィッティ
マイケル・レッドグレイヴ
列車内で姿を消した老婦人をめぐるサスペンスで、翌年の「岩窟の野獣」を最後にハリウッドへ渡ったヒッチコックのイギリス時代の、文字通りサスペンス映画の傑作。
第二次世界大戦を間近に控え、世界情勢が混沌とするヨーロッパ、バンドリカ(架空の国)の山中。
雪のために列車が立ち往生して、乗客たちは仕方なく駅の近くのホテルへ宿泊することになります。
乗客たちの中には、クリケットの試合を観戦することを最大の楽しみにいているイングランド人の二人組、カルディコット(ノウントン・ウェイン)とチャータース(ベイジル・ラドフォード)。
弁護士トッドハンター(セシル・パーカー)とその愛人(リンデン・トラヴァース)は不倫関係。
家庭教師のミス・フロイ(メイ・ウィッティ)。
結婚を控え、独身時代の最後の旅行を楽しもうとしているアイリス・ヘンダーソン(マーガレット・ロックウッド)たちがいて、ホテルへの不満を口にしながら夜を過ごすことになります。
しかし、上の階のクラリネットの音や、床を踏み鳴らす音がうるさくて、アイリスは眠ることができません。
我慢ができなくなったアイリスは、支配人に頼んで静かにしてもらうように言いますが、上の階のクラリネット奏者ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)は、民族舞踊を記録するための大事な仕事なんだと主張。
支配人とモメた揚げ句、ギルバートは部屋を追い出されてしまいます。
やっと静かになったと喜んだアイリスでしたが、そこへ、部屋を追い出されたギルバートが入り込み、君のためにこうなったと、今度はアイリスとひと悶着。
仕方なくアイリスはギルバートを元の部屋へ戻してもらうよう支配人に頼むハメに。
列車の運行が決まり、客室に乗り込んだアイリスは、ミス・フロイと名乗る老婦人と同室になり、一緒に食堂車へ出かけて食事を楽しみます。
客室へ戻ったアイリスはひと眠りしますが、目を覚ますとミス・フロイの姿は無く、ミス・フロイの座っていた席には見知らぬ女性、クマー夫人が座っています。
ミス・フロイはどこへ行ったのかと、アイリスは他の乗客に尋ねますが、そんな女性は知らないという言葉しか返ってきません。
同乗していたエゴン・ハーツ医師からは、あなたはホテルを出たとき、鉢植えで頭を打ったから、その後遺症で記憶障害を起こしているのだ、と言われる始末。
納得のいかないアイリスは、列車内の他の乗客にも訊いてみますが、誰もが自分たちの事情を抱えていて他の問題に関わりたくないために、そんな女性は知らないと答えます。
そんな中、昨夜のトラブルの相手、クラリネット奏者のギルバートとバッタリ出会います。
ちょっと風変わりなギルバートは、アイリスの言葉を信じ、アイリスと一緒にミス・フロイ捜索のために危険の中へ乗り出すことになります。
原題は「消えたレディ」。
誰もが、そんな女性は知らないという、自分でも、本当はミス・フロイという人間は存在していなかったんじゃないか、そんなことを思い始めた矢先、食堂車の窓ガラスにミス・フロイが自分を紹介するために書いた名前、“フロイ”の文字跡がクッキリと浮かび上がる場面は秀逸で、そのため、列車の乗客すべてが嘘をついていると気づいた瞬間に、サスペンスの緊張感が一気に高まります。
しかし、緊張感の中にもユーモアを織り交ぜ、シャーロック・ホームズを気取ったギルバートと、助手役のアイリスの素人探偵コンビの軽妙さは、まるで子どもの探偵ごっこのような雰囲気を生み出して、ユーモア好きなイギリス人気質を持ったヒッチコックならでは。
アイリスとギルバートの男女設定は、最初はお互いに悪感情を持ったものの、事件に巻き込まれながらも、お互いに協力して最後には結ばれるというパターンで、ロマンティック・コメディとしての要素を持っていて、見ていても微笑ましく気持ちよく楽しめます。
事件の鍵を握るミス・フロイとはいったい何者なのか。それはやがて映画の後半で明らかにされてゆくのですが、そもそも、走行している狭い列車の中で、人間一人をどこへ隠したのか。
列車の乗客には様々な主要な人物が登場します。
外科医のエゴン・ハーツ医師。
不倫関係のトッドハンターとその愛人。
クリケット愛好家の英国人カルディコットとチャータース。
奇術師のイタリア人ドッポ。
ハーツ医師の助手の尼僧。
アイリスとギルバートの探偵コンビは、奇術師ドッポが人を消すトリックを使うことを知り、ドッポの道具を調べようと貨物車両に潜入。床に落ちているミス・フロイの眼鏡を発見します。
そこへ現れたドッポと揉み合いの格闘。
事件は国際的スパイ団が暗躍する様相を呈してきます。
アイリスに「ミュンヘンの夜行列車」(1940年)、「灰色の男」(1943年)などの美人女優マーガレット・ロックウッド。
ギルバートに「扉の陰の秘密」(1947年)、「静かなアメリカ人」(1958年)のマイケル・レッドグレイヴ。
クリケット愛好家のノウントン・ウェインとベイジル・ラドフォードは、次回作「ミュンヘンの夜行列車」でもクリケット愛好家として登場。「バルカン超特急」と同様とぼけたユーモアを振りまいています。
エゴン・ハーツ医師に、1933年のジョージ・キューカー版「若草物語」でベア教授を演じ、「ラインの監視」(1943年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞した演技派ポール・ルーカス。
事件の鍵を握るミス・フロイに「断崖」(1941年)、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「ガス燈」(1944年)など、名作に顔をのぞかせるメイ・ウィッティ。
ミステリー、サスペンス、アクション、ユーモア、ラブ・ロマンス。
1時間40分ほどの時間にエンターテインメントの要素を存分に盛り込み、なお、不倫関係の二人、クリケット愛好家の二人など、脇役の存在も軽視することなく個性を持たせました。
特に、クリケットの試合に遅れることを心配するあまり、余計なことに関わろうとせず、アイリスに対しても嘘までついてクリケットの観戦に急いだカルディコットとチャータースの二人は、駅に到着して目についた広告によって、天候悪化のために試合が中止になったことを知る場面は笑わせてくれます。
次回作「岩窟の野獣」(1939年)を最後にイギリスを去り、ハリウッドへ渡って「レベッカ」(1940年)を皮切りに次々と傑作を世に送り出したアルフレッド・ヒッチコック。
渡米以降ミステリー性やサスペンスタッチはさらに深みのある充実したものになりましたが、イギリス時代の、切れ味鋭く畳み込むような展開など、何度見ても飽きさせません。
ただ、完全に褒められたわけでもないのが、アイリスの婚約者の立場の描き方。
アイリスは彼(婚約者)との結婚にあまり乗り気ではなく、ギルバートとの仲が急展開してギルバートに心が移ってしまう。
駅へ到着して、婚約者が迎えにきていないことを知ったアイリスは、イヤな男よね、とかなんとか言って彼を非難する。
そこでサッとギルバートとの抱擁とキスがあるのですが、その後アイリスの婚約者は、彼女の姿を探してホームでウロウロする後ろ姿が描かれる。
なんとも間抜けな男としてアイリスの婚約者は描かれていて、彼の立場になってみると、これほど惨めな結末はありません。
名作として名高いダスティン・ホフマン主演の「卒業」(1967年, マイク・ニコルズ監督)の、有名なラストシーンでもそうなのですが、教会での結婚式へ、エレーンの結婚を阻止しようとベンジャミンが現れる。そして二人は手に手を取って…。
しかし、相手の新郎の立場はどうなるんだろう。
彼は別に悪者でもなく、結婚を嫌がるエレーンに無理やり結婚を強要したわけでもない。
ハッピーエンドのベンジャミンとエレーンはいいとしても、挙式の最中に、見ず知らずの男に花嫁をさらわれた新郎ほど惨めで情けない立場はないでしょう。
「卒業」を手放しで称賛する気になれないのは、相手の婚約者への配慮がまったく欠けているためです。
同じことが「バルカン超特急」でもいえるようで、アイリスとギルバートのロマンスの展開を急ぎ過ぎたのか、ちょっと腑に落ちないシーンでした。
とはいえ、イギリス時代の傑作であるには変わりなく、ミステリーとスリルに満ちた、とても優れた映画です。
1938年 イギリス/アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本アルマ・レヴィル
シドニー・ギリアット
フランク・ラウンダー
原作エセル・リナ・ホワイト
撮影ジャック・コックス
〈キャスト〉
マーガレット・ロックウッド メイ・ウィッティ
マイケル・レッドグレイヴ
列車内で姿を消した老婦人をめぐるサスペンスで、翌年の「岩窟の野獣」を最後にハリウッドへ渡ったヒッチコックのイギリス時代の、文字通りサスペンス映画の傑作。
第二次世界大戦を間近に控え、世界情勢が混沌とするヨーロッパ、バンドリカ(架空の国)の山中。
雪のために列車が立ち往生して、乗客たちは仕方なく駅の近くのホテルへ宿泊することになります。
乗客たちの中には、クリケットの試合を観戦することを最大の楽しみにいているイングランド人の二人組、カルディコット(ノウントン・ウェイン)とチャータース(ベイジル・ラドフォード)。
弁護士トッドハンター(セシル・パーカー)とその愛人(リンデン・トラヴァース)は不倫関係。
家庭教師のミス・フロイ(メイ・ウィッティ)。
結婚を控え、独身時代の最後の旅行を楽しもうとしているアイリス・ヘンダーソン(マーガレット・ロックウッド)たちがいて、ホテルへの不満を口にしながら夜を過ごすことになります。
しかし、上の階のクラリネットの音や、床を踏み鳴らす音がうるさくて、アイリスは眠ることができません。
我慢ができなくなったアイリスは、支配人に頼んで静かにしてもらうように言いますが、上の階のクラリネット奏者ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)は、民族舞踊を記録するための大事な仕事なんだと主張。
支配人とモメた揚げ句、ギルバートは部屋を追い出されてしまいます。
やっと静かになったと喜んだアイリスでしたが、そこへ、部屋を追い出されたギルバートが入り込み、君のためにこうなったと、今度はアイリスとひと悶着。
仕方なくアイリスはギルバートを元の部屋へ戻してもらうよう支配人に頼むハメに。
列車の運行が決まり、客室に乗り込んだアイリスは、ミス・フロイと名乗る老婦人と同室になり、一緒に食堂車へ出かけて食事を楽しみます。
客室へ戻ったアイリスはひと眠りしますが、目を覚ますとミス・フロイの姿は無く、ミス・フロイの座っていた席には見知らぬ女性、クマー夫人が座っています。
ミス・フロイはどこへ行ったのかと、アイリスは他の乗客に尋ねますが、そんな女性は知らないという言葉しか返ってきません。
同乗していたエゴン・ハーツ医師からは、あなたはホテルを出たとき、鉢植えで頭を打ったから、その後遺症で記憶障害を起こしているのだ、と言われる始末。
納得のいかないアイリスは、列車内の他の乗客にも訊いてみますが、誰もが自分たちの事情を抱えていて他の問題に関わりたくないために、そんな女性は知らないと答えます。
そんな中、昨夜のトラブルの相手、クラリネット奏者のギルバートとバッタリ出会います。
ちょっと風変わりなギルバートは、アイリスの言葉を信じ、アイリスと一緒にミス・フロイ捜索のために危険の中へ乗り出すことになります。
原題は「消えたレディ」。
誰もが、そんな女性は知らないという、自分でも、本当はミス・フロイという人間は存在していなかったんじゃないか、そんなことを思い始めた矢先、食堂車の窓ガラスにミス・フロイが自分を紹介するために書いた名前、“フロイ”の文字跡がクッキリと浮かび上がる場面は秀逸で、そのため、列車の乗客すべてが嘘をついていると気づいた瞬間に、サスペンスの緊張感が一気に高まります。
しかし、緊張感の中にもユーモアを織り交ぜ、シャーロック・ホームズを気取ったギルバートと、助手役のアイリスの素人探偵コンビの軽妙さは、まるで子どもの探偵ごっこのような雰囲気を生み出して、ユーモア好きなイギリス人気質を持ったヒッチコックならでは。
アイリスとギルバートの男女設定は、最初はお互いに悪感情を持ったものの、事件に巻き込まれながらも、お互いに協力して最後には結ばれるというパターンで、ロマンティック・コメディとしての要素を持っていて、見ていても微笑ましく気持ちよく楽しめます。
事件の鍵を握るミス・フロイとはいったい何者なのか。それはやがて映画の後半で明らかにされてゆくのですが、そもそも、走行している狭い列車の中で、人間一人をどこへ隠したのか。
列車の乗客には様々な主要な人物が登場します。
外科医のエゴン・ハーツ医師。
不倫関係のトッドハンターとその愛人。
クリケット愛好家の英国人カルディコットとチャータース。
奇術師のイタリア人ドッポ。
ハーツ医師の助手の尼僧。
アイリスとギルバートの探偵コンビは、奇術師ドッポが人を消すトリックを使うことを知り、ドッポの道具を調べようと貨物車両に潜入。床に落ちているミス・フロイの眼鏡を発見します。
そこへ現れたドッポと揉み合いの格闘。
事件は国際的スパイ団が暗躍する様相を呈してきます。
アイリスに「ミュンヘンの夜行列車」(1940年)、「灰色の男」(1943年)などの美人女優マーガレット・ロックウッド。
ギルバートに「扉の陰の秘密」(1947年)、「静かなアメリカ人」(1958年)のマイケル・レッドグレイヴ。
クリケット愛好家のノウントン・ウェインとベイジル・ラドフォードは、次回作「ミュンヘンの夜行列車」でもクリケット愛好家として登場。「バルカン超特急」と同様とぼけたユーモアを振りまいています。
エゴン・ハーツ医師に、1933年のジョージ・キューカー版「若草物語」でベア教授を演じ、「ラインの監視」(1943年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞した演技派ポール・ルーカス。
事件の鍵を握るミス・フロイに「断崖」(1941年)、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「ガス燈」(1944年)など、名作に顔をのぞかせるメイ・ウィッティ。
ミステリー、サスペンス、アクション、ユーモア、ラブ・ロマンス。
1時間40分ほどの時間にエンターテインメントの要素を存分に盛り込み、なお、不倫関係の二人、クリケット愛好家の二人など、脇役の存在も軽視することなく個性を持たせました。
特に、クリケットの試合に遅れることを心配するあまり、余計なことに関わろうとせず、アイリスに対しても嘘までついてクリケットの観戦に急いだカルディコットとチャータースの二人は、駅に到着して目についた広告によって、天候悪化のために試合が中止になったことを知る場面は笑わせてくれます。
次回作「岩窟の野獣」(1939年)を最後にイギリスを去り、ハリウッドへ渡って「レベッカ」(1940年)を皮切りに次々と傑作を世に送り出したアルフレッド・ヒッチコック。
渡米以降ミステリー性やサスペンスタッチはさらに深みのある充実したものになりましたが、イギリス時代の、切れ味鋭く畳み込むような展開など、何度見ても飽きさせません。
ただ、完全に褒められたわけでもないのが、アイリスの婚約者の立場の描き方。
アイリスは彼(婚約者)との結婚にあまり乗り気ではなく、ギルバートとの仲が急展開してギルバートに心が移ってしまう。
駅へ到着して、婚約者が迎えにきていないことを知ったアイリスは、イヤな男よね、とかなんとか言って彼を非難する。
そこでサッとギルバートとの抱擁とキスがあるのですが、その後アイリスの婚約者は、彼女の姿を探してホームでウロウロする後ろ姿が描かれる。
なんとも間抜けな男としてアイリスの婚約者は描かれていて、彼の立場になってみると、これほど惨めな結末はありません。
名作として名高いダスティン・ホフマン主演の「卒業」(1967年, マイク・ニコルズ監督)の、有名なラストシーンでもそうなのですが、教会での結婚式へ、エレーンの結婚を阻止しようとベンジャミンが現れる。そして二人は手に手を取って…。
しかし、相手の新郎の立場はどうなるんだろう。
彼は別に悪者でもなく、結婚を嫌がるエレーンに無理やり結婚を強要したわけでもない。
ハッピーエンドのベンジャミンとエレーンはいいとしても、挙式の最中に、見ず知らずの男に花嫁をさらわれた新郎ほど惨めで情けない立場はないでしょう。
「卒業」を手放しで称賛する気になれないのは、相手の婚約者への配慮がまったく欠けているためです。
同じことが「バルカン超特急」でもいえるようで、アイリスとギルバートのロマンスの展開を急ぎ過ぎたのか、ちょっと腑に落ちないシーンでした。
とはいえ、イギリス時代の傑作であるには変わりなく、ミステリーとスリルに満ちた、とても優れた映画です。
2021年06月16日
映画「ナインスゲート」− 悪魔の古書に秘められた謎を追うオカルト・ミステリー
「ナインスゲート」
(The Ninth Gate )
1999年 フランス/スペイン
監督ロマン・ポランスキー
脚本エンリケ・ウルビス
ジョン・ブラウンジョン
ロマン・ポランスキー
撮影ダリウス・コンジ
音楽ヴォイチェフ・キラール
〈キャスト〉
ジョニー・デップ エマニュエル・セニエ
レナ・オリン フランク・ランジェラ
円熟期に入った鬼才ロマン・ポランスキーが取り組んだオカルト・ミステリー。
演技に磨きのかかった主演のジョニー・デップは、古書の売買や調査の依頼を受け持つ、人付き合いの悪い独善家ながら、悪魔の古書に翻弄(ほんろう)される魅力ある主人公を好演。
見応えのある映画です。
稀覯本(きこうぼん)(希少価値のある本、珍しい本)の鑑定家でもあり、本の探偵とも呼ばれるディーン・コルソ(ジョニー・デップ)は、一方では、高額な取り引きのできる希少本のドン・キホーテを「いいものですが、あまり値打ちはありませんよ。高く売れませんから僕が買い取りましょう」と、相手の無知に付けこんで自分が安く買い取ってしまう悪賢さも持っている男。
ある日コルソは、バルカン出版のオーナーであり、膨大な蔵書のコレクターでもあるボリス・バルカン(フランク・ランジェラ)から、自分が所有する悪魔の祈祷書について、世界に同じものが3冊存在しているが、どれが本物なのか調査をしてほしいと依頼されます。
バルカンの所有する一冊を携(たずさ)え、調査を開始しようとしますが、自分が尾行されていることを感じたコルソは、不穏な気配に気づき、知人の古書店の店主に本を預かってもらうものの、店主は殺され、身の危険を感じたコルソは依頼を断ろうとバルカンに連絡。
しかし、報酬ははずむから、ぜひ続けてくれと諭され、しぶしぶながら調査を続行。
そしてコルソの背後には常に緑の瞳を持った謎の女(エマニュエル・セニエ)が付きまとい始めます。
スペイン、ポルトガル、パリと飛び、古書の持ち主を探し出して悪魔の祈祷書を調べますが、どれも本物にしか見えず、入念に調べた結果、本に挿入されている版画の違いに気づきます。
謎を追いかける中、ポルトガルのコレクター、ファルガス(ジャック・テイラー)は自宅の泉水の池で殺され、パリのケスラー男爵夫人(バーバラ・ジェフォード)も何者かに絞殺されてオフィスに火が放たれます。
金髪の黒人に何度か命を狙われながらも、その都度、緑の瞳を持った謎の女に助けられ、元々、古書の一冊の持ち主であった富豪のリアナ・テルファー(レナ・オリン)と、そのボディガードである金髪の黒人を追ううち、コルソたちは広壮な屋敷へとたどり着きます。
そこでは大勢の男女が黒衣を着け、悪魔の降臨の儀式を行っていましたが、そこへバルカンが現れ、リアナを殺害、全員が逃げ惑う中、悪魔の祈祷書の中の9枚の版画をもとに、自らが所有する古城で悪魔の儀式を執り行おうとしますが、一枚だけが偽物であったため、バルカンは焼死。
コルソは残る本物を探し出そうと謎の女の指示に従ってスペインへ向かいます。
そして手に入れた最後の一枚によって、コルソは古城へ向かい、9つの扉(ナインスゲート)と向き合うことになります。
映画の冒頭から目を引きます。
書斎の高価そうな本がズラリと並んだ書棚を背にして男が書き物をしている。やがてカメラはシャンデリアの下に置かれた椅子と、その上に垂れ下がった丸いロープへと移動。この男は自殺をしようとしていて、遺書を書いていることが判ります。
淡い茶色の色調で始まるこの場面は、不吉な物語の予感を漂わせているのと同時に、ゴシックのムードも漂わせ、美術感覚と娯楽的要素を盛り込んだオカルト・ミステリーだということを知らせてくれます。
話は一転。
とあるビルの一室で本のコレクターの蔵書を売買する話が行われている。
蔵書の鑑定をしているのは、業界のプロを自任するディーン・コルソ。
「これはすごい。とても高値で売れるから、他の鑑定士にも相談して売買を急いだほうがいいですよ」と勧める。
そして、さり気なく希少価値のあるドン・キホーテを手にして、「これはあまり高くは売れませんから、僕がこの場で買い取りましょう」と安く買い取ってしまう。
実際には、このドン・キホーテは高額な古書で、平気で他人をだまして自分のものにしてしまう小狡さを持ったディーン・コルソは、完全な悪人かというと、そうでもない。もちろん善人ともいえない。金髪の黒人に命を狙われ、カフェに身を隠しながら、なかなか外へ出られない弱さも持った男。
コトの終わったリアナとのいさかいから、彼女に掴(つか)みかかられながら、ズボンをずり下げたまま後ずさりで逃げるカッコ悪さ。
後年の「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジャック・スパロウのような、口達者で軽快なヒーローでもなく、どちらかといえば物静かで控えめ。
そんなユニークなキャラクターであるディーン・コルソが、緑の瞳の謎の女に助けられながら悪魔の古書にまつわる謎に翻弄されていくのですが、そのディーン・コルソをジョニー・デップが実に魅力的に演じている。
例えば、この映画にはお酒を飲む場面がいくつか出てきます。
ポルトガルのコレクター、ファルガスに会ったときにはブランデーを勧められる。
「いいグラスですね」と言いながら、ブランデーのボトルを持ち、膝をついて蔵書を見渡す。
なんでもないシーンですが、ひとつひとつの動作が魅力に富んでいる。
公衆電話で電話をかけるシーン。
黒人との格闘から眼鏡を落として誤って踏んでしまう。その壊れた眼鏡を拾って無造作にかけるシーン。
持っている古書を盗まれないように、ホテルの部屋の、小さな冷蔵庫の奥をゴトゴト動かしてそこへ本を隠し、ついでに冷蔵庫の中のドリンクを飲むシーン。
さり気ないシーンですが、とても印象に残ります。
おそらくそれらはロマン・ポランスキーの演出の冴えでもあるのでしょうが、演じたのがジョニー・デップだからこそ魅力的に見えるのかもしれません。
監督のロマン・ポランスキーは、1968年の「ローズマリーの赤ちゃん」以来、ほぼ30年ぶりのオカルト・ミステリーで、その流れを受け継ぐかのような、悪魔崇拝者を軸とした「ナインスゲート」は「ローズマリーの赤ちゃん」よりもさらに美術感覚を強め、映像センスの浮き出た映画になっています。
また、この映画は本の魅力というか、本の値打ちといったものも教えてくれます。
すなわち、本は美術品でもあり、絵画や骨董品のような資産価値があるということと、ごく当たり前のことですが、時代を経てきた本の中には何世紀にもわたる優れた知識が収められているということ(そういった本の上で、平気で煙草を吸いながらページをめくるディーン・コルソの性格は不思議な気がします)。
巨大な影となってディーン・コルソを操るボリス・バルカンと、コルソの守護天使であるかのような緑の瞳の謎の女。しかし彼女は天使とは裏腹の怪しげな雰囲気に包まれた、得体の知れない何者かの使いであることが、コルソを悪魔の書へと導くことで、その正体が次第に明らかになってゆきます。
それによって、古城へたどり着いたコルソの運命を握る者の実態も明らかにされてゆくことになります。
物語の背後で、全体を見通すかのように登場するボリス・バルカンの存在がドラマに深い陰影と深みを与えます。
演じたのは、数々の賞に輝く演技派フランク・ランジェラ。
緑の瞳を持つ謎の女にエマニュエル・セニエ。
「フランティック」(1988年)、「赤い航路」(1992年)でロマン・ポランスキー作品に度々登場するポランスキー監督の奥さん。
悪魔の崇拝者を率いる富豪のリアナ・テルファー夫人に、「存在の耐えられない軽さ」(1988年)でゴールデングローブ賞助演女優賞などにノミネートされ、「蜘蛛女」(19993年)では冷酷で強烈な印象を残したレナ・オリン。
ストーリー性、美術感覚、主役を演じたジョニー・デップの魅力等、一瞬も目を離せない見応えのある映画です。
1999年 フランス/スペイン
監督ロマン・ポランスキー
脚本エンリケ・ウルビス
ジョン・ブラウンジョン
ロマン・ポランスキー
撮影ダリウス・コンジ
音楽ヴォイチェフ・キラール
〈キャスト〉
ジョニー・デップ エマニュエル・セニエ
レナ・オリン フランク・ランジェラ
円熟期に入った鬼才ロマン・ポランスキーが取り組んだオカルト・ミステリー。
演技に磨きのかかった主演のジョニー・デップは、古書の売買や調査の依頼を受け持つ、人付き合いの悪い独善家ながら、悪魔の古書に翻弄(ほんろう)される魅力ある主人公を好演。
見応えのある映画です。
稀覯本(きこうぼん)(希少価値のある本、珍しい本)の鑑定家でもあり、本の探偵とも呼ばれるディーン・コルソ(ジョニー・デップ)は、一方では、高額な取り引きのできる希少本のドン・キホーテを「いいものですが、あまり値打ちはありませんよ。高く売れませんから僕が買い取りましょう」と、相手の無知に付けこんで自分が安く買い取ってしまう悪賢さも持っている男。
ある日コルソは、バルカン出版のオーナーであり、膨大な蔵書のコレクターでもあるボリス・バルカン(フランク・ランジェラ)から、自分が所有する悪魔の祈祷書について、世界に同じものが3冊存在しているが、どれが本物なのか調査をしてほしいと依頼されます。
バルカンの所有する一冊を携(たずさ)え、調査を開始しようとしますが、自分が尾行されていることを感じたコルソは、不穏な気配に気づき、知人の古書店の店主に本を預かってもらうものの、店主は殺され、身の危険を感じたコルソは依頼を断ろうとバルカンに連絡。
しかし、報酬ははずむから、ぜひ続けてくれと諭され、しぶしぶながら調査を続行。
そしてコルソの背後には常に緑の瞳を持った謎の女(エマニュエル・セニエ)が付きまとい始めます。
スペイン、ポルトガル、パリと飛び、古書の持ち主を探し出して悪魔の祈祷書を調べますが、どれも本物にしか見えず、入念に調べた結果、本に挿入されている版画の違いに気づきます。
謎を追いかける中、ポルトガルのコレクター、ファルガス(ジャック・テイラー)は自宅の泉水の池で殺され、パリのケスラー男爵夫人(バーバラ・ジェフォード)も何者かに絞殺されてオフィスに火が放たれます。
金髪の黒人に何度か命を狙われながらも、その都度、緑の瞳を持った謎の女に助けられ、元々、古書の一冊の持ち主であった富豪のリアナ・テルファー(レナ・オリン)と、そのボディガードである金髪の黒人を追ううち、コルソたちは広壮な屋敷へとたどり着きます。
そこでは大勢の男女が黒衣を着け、悪魔の降臨の儀式を行っていましたが、そこへバルカンが現れ、リアナを殺害、全員が逃げ惑う中、悪魔の祈祷書の中の9枚の版画をもとに、自らが所有する古城で悪魔の儀式を執り行おうとしますが、一枚だけが偽物であったため、バルカンは焼死。
コルソは残る本物を探し出そうと謎の女の指示に従ってスペインへ向かいます。
そして手に入れた最後の一枚によって、コルソは古城へ向かい、9つの扉(ナインスゲート)と向き合うことになります。
映画の冒頭から目を引きます。
書斎の高価そうな本がズラリと並んだ書棚を背にして男が書き物をしている。やがてカメラはシャンデリアの下に置かれた椅子と、その上に垂れ下がった丸いロープへと移動。この男は自殺をしようとしていて、遺書を書いていることが判ります。
淡い茶色の色調で始まるこの場面は、不吉な物語の予感を漂わせているのと同時に、ゴシックのムードも漂わせ、美術感覚と娯楽的要素を盛り込んだオカルト・ミステリーだということを知らせてくれます。
話は一転。
とあるビルの一室で本のコレクターの蔵書を売買する話が行われている。
蔵書の鑑定をしているのは、業界のプロを自任するディーン・コルソ。
「これはすごい。とても高値で売れるから、他の鑑定士にも相談して売買を急いだほうがいいですよ」と勧める。
そして、さり気なく希少価値のあるドン・キホーテを手にして、「これはあまり高くは売れませんから、僕がこの場で買い取りましょう」と安く買い取ってしまう。
実際には、このドン・キホーテは高額な古書で、平気で他人をだまして自分のものにしてしまう小狡さを持ったディーン・コルソは、完全な悪人かというと、そうでもない。もちろん善人ともいえない。金髪の黒人に命を狙われ、カフェに身を隠しながら、なかなか外へ出られない弱さも持った男。
コトの終わったリアナとのいさかいから、彼女に掴(つか)みかかられながら、ズボンをずり下げたまま後ずさりで逃げるカッコ悪さ。
後年の「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジャック・スパロウのような、口達者で軽快なヒーローでもなく、どちらかといえば物静かで控えめ。
そんなユニークなキャラクターであるディーン・コルソが、緑の瞳の謎の女に助けられながら悪魔の古書にまつわる謎に翻弄されていくのですが、そのディーン・コルソをジョニー・デップが実に魅力的に演じている。
例えば、この映画にはお酒を飲む場面がいくつか出てきます。
ポルトガルのコレクター、ファルガスに会ったときにはブランデーを勧められる。
「いいグラスですね」と言いながら、ブランデーのボトルを持ち、膝をついて蔵書を見渡す。
なんでもないシーンですが、ひとつひとつの動作が魅力に富んでいる。
公衆電話で電話をかけるシーン。
黒人との格闘から眼鏡を落として誤って踏んでしまう。その壊れた眼鏡を拾って無造作にかけるシーン。
持っている古書を盗まれないように、ホテルの部屋の、小さな冷蔵庫の奥をゴトゴト動かしてそこへ本を隠し、ついでに冷蔵庫の中のドリンクを飲むシーン。
さり気ないシーンですが、とても印象に残ります。
おそらくそれらはロマン・ポランスキーの演出の冴えでもあるのでしょうが、演じたのがジョニー・デップだからこそ魅力的に見えるのかもしれません。
監督のロマン・ポランスキーは、1968年の「ローズマリーの赤ちゃん」以来、ほぼ30年ぶりのオカルト・ミステリーで、その流れを受け継ぐかのような、悪魔崇拝者を軸とした「ナインスゲート」は「ローズマリーの赤ちゃん」よりもさらに美術感覚を強め、映像センスの浮き出た映画になっています。
また、この映画は本の魅力というか、本の値打ちといったものも教えてくれます。
すなわち、本は美術品でもあり、絵画や骨董品のような資産価値があるということと、ごく当たり前のことですが、時代を経てきた本の中には何世紀にもわたる優れた知識が収められているということ(そういった本の上で、平気で煙草を吸いながらページをめくるディーン・コルソの性格は不思議な気がします)。
巨大な影となってディーン・コルソを操るボリス・バルカンと、コルソの守護天使であるかのような緑の瞳の謎の女。しかし彼女は天使とは裏腹の怪しげな雰囲気に包まれた、得体の知れない何者かの使いであることが、コルソを悪魔の書へと導くことで、その正体が次第に明らかになってゆきます。
それによって、古城へたどり着いたコルソの運命を握る者の実態も明らかにされてゆくことになります。
物語の背後で、全体を見通すかのように登場するボリス・バルカンの存在がドラマに深い陰影と深みを与えます。
演じたのは、数々の賞に輝く演技派フランク・ランジェラ。
緑の瞳を持つ謎の女にエマニュエル・セニエ。
「フランティック」(1988年)、「赤い航路」(1992年)でロマン・ポランスキー作品に度々登場するポランスキー監督の奥さん。
悪魔の崇拝者を率いる富豪のリアナ・テルファー夫人に、「存在の耐えられない軽さ」(1988年)でゴールデングローブ賞助演女優賞などにノミネートされ、「蜘蛛女」(19993年)では冷酷で強烈な印象を残したレナ・オリン。
ストーリー性、美術感覚、主役を演じたジョニー・デップの魅力等、一瞬も目を離せない見応えのある映画です。
2021年06月10日
映画「炎628」‐ 舞い上がる炎の下で少年が見た地獄
「炎628」
(Иди и смотри) 1985年 ソビエト連邦
監督エレム・クリモフ
原作エレシ・アダモヴィチ
脚本エレム・クリモフ
エレシ・アダモヴィチ
撮影アレクセイ・ロジオーノフ
第14回モスクワ国際映画祭最優秀作品賞受賞
〈キャスト〉
アレクセイ・クラヴチェンコ オリガ・ミロノヴァ
恐ろしい映画です。
実際に起こった虐殺事件を題材に、一人の少年の目撃と体験が、そのまま私たち観客にも恐怖の追体験として目の前に迫ります。
ナチスの蛮行はユダヤ人への迫害が広く知れ渡っていますが、ここで扱われるのは、かつてソビエト連邦の構成国の一つだった白ロシア、現在のベラルーシです。
ヨーロッパの東に位置するベラルーシは、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ラトビアなどと国境を接し、ナポレオンのモスクワ遠征の際にはフランス軍に蹂躙された歴史を持ち、第一次世界大戦では熾烈(しれつ)な激戦の地ともなりました。
そのような白ロシア(ベラルーシ)で、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻とともにヨーロッパを席巻したナチスの支配が白ロシアにまで及んだ時代。
1943年、ドイツ占領下の白ロシア。
フリョーラ(アレクセイ・クラヴチェンコ)は、土地の古老が止めるのも聞かずに、砂地から一丁の銃を掘り出します。
フリョーラは喜びましたが、しかしそれは少年フリョーラにとって忌まわしい日常への発端となります。
銃を手にしたフリョーラは、家を出ていかないでと泣いて頼む母親の意見を振り切るようにしてパルチザンに加わり、母親と幼い双子の妹たちを村に残して、パルチザンの同志が潜む森へと入ってゆきます。
パルチザンに加わることはできましたが、フリョーラがまだ少年であるためなのか、一人、森へ取り残されてしまいます。
森の中で出会った若い女性グラーシャと共に、森をさまよいながら故郷の村へと帰ろうとするフリョーラは、ドイツ軍の爆撃を逃れながら、空腹を抱えて村へとたどり着きます。
しかし、村には人の姿は無く、静まり返った家へ戻ったフリョーラとグラーシャが見たものは、床に散乱した壊れた人形でした。
異様な気配を感じた二人は家を飛び出し、「村の人たちはあそこにいるんだ!」と叫びながら走るフリョーラの後を追いかけるように走るグラーシャが振り返って見たのは、裸にされて殺された村人たちの死体の山。
村人たちが虐殺されたことに気づいたグラーシャでしたが、それに気づかず狂気のようになったフリョーラは沼に飛び込み、後を追うグラーシャも飛び込み、溺れそうになりながらも岸へ上がった二人は、森へ逃れていた難民たちの群れに加わることになります。
難民たちの食料は乏しく、食料調達のためにフリョーラは男たちと共に4人で食料を探しに出かけますが、地雷原で二人が吹き飛ばされ、近くの村から牝牛を調達して喜んだフリョーラたちでしたが、ドイツ軍の激しい銃撃に遭って一人は死に、度重なる銃撃で牝牛も殺されてしまいます。
フリョーラは一人、深い霧の中をさまよいながら農夫の荷馬車を見つけ、盗んでいこうとしますが、農夫にとがめられ、口論の中、ドイツ軍の車両に遭遇、行き場を失ったフリョーラは農夫の孫になりすまし、農夫の村に身をひそめることになりますが、それはフリョーラにとって阿鼻叫喚の地獄を経験することにつながるものとなります。
一風変わった題名の「炎628」は、フランソワ・トリュフォー監督の傑作「華氏451」(1966年)を意識して改題されたと思われますが、原題は「来なさい、そして見よ」。
聖書の最終章である「啓示(黙示録)」の第6章7節から8節による、青ざめた馬に乗った“死”が食糧不足と殺戮をもたらすことが描かれ、これが原題になったと思われます。
「炎628」の終盤、フリョーラが身を隠した村ではドイツ軍が続々と押し寄せ、村人たちを教会へ押し込めて教会の中は騒然となります。
窓から外へ顔を出した農民が射殺されたことをキッカケに悲鳴と号泣は極度に達します。
フリョーラは窓から体を乗り出して外へ逃れますが、ドイツ兵たちもフリョーラがまだ子どもだと思ったためか、薄汚れた野良猫のごとくあしらいながら見逃します。
悲鳴と号泣の教会の中へ手榴弾が投げ込まれます。
ここまででも、その凄まじさは見る者に戦慄を与えますが、さらにそこへ火が放たれ、火炎放射器が轟音を放ちます。
炎を上げて燃える教会へ射撃が行われ、笑い興じるドイツ兵たち。しかし、その中でも、涙を拭きながら射撃を行う者、嘔吐する者、多少は人間性を持った兵たちが少なからずいたことが描かれたことは、一方的にドイツを悪と決めつけていない冷静な視点があったように思います。
一カ所へ村人が集められて、建物もろ共焼き殺される残虐な事件は、ニキータ・ミハルコフ監督の秀作「戦火のナージャ」(2010年)でも描かれていますが、「戦火のナージャ」はコンピューター・グラフィックスを上手く使っているためか、一歩距離を置いて見ることができますが、「炎628」はまるでドキュメンタリーフィルムを見るような現実感があります。
冒頭の森の中でのパルチザンの様子やグラーシャの登場などはツルゲーネフの小説を思い起こさせますが、その雰囲気はドイツ軍による落下傘部隊の降下と、誰もいなくなったパルチザンのキャンプへの空爆で一転。
パルチザンに対する殲滅作戦が始まったことが分かります。
もともと工業化の進んでいなかった白ロシア(ベラルーシ)ですから、あたりは森と湿地帯、ぬかるんだ道、古い農家、見ようによっては牧歌的な東ヨーロッパの風景ともとれますが、戦争の狂気が取り巻く環境は、飢えと恐怖が支配する寒々とした世界。
ひとすら逃げ惑(まど)うフリョーラとグラーシャも泥と土ぼこりにまみれ、そしてたどり着いた村で体験した惨劇によってフリョーラの顔はまるで老人のように変わり果てている。
一方のグラーシャは放心状態で笛を口にくわえさせられ、両足の、おそらく股間から血を流し、ドイツ兵たちによって激しいレイプを受けたことをうかがわせます。
戦争映画で、これほどの惨状を描いた映画は、ちょっと記憶にありません。反戦映画と呼ぶには少し違うような気もします。ここで、こういうことが起きた、この事実を知ってもらいたい、そういう意図で作られたようにも思います。
監督は「ロマノフ王朝の最後」(1975年)などのエレム・クリモフ。
苛烈な題材を扱いながら、決して過剰な演出に陥ることなく、かなり衝撃的なシーンのひとつである虐殺された村人の死体の山をグラーシャが目撃する場面でも、グラーシャが振り返った一瞬に見えるだけで、そのまま二人の狂乱へとつながっていきます。
改題の「炎628」とは、白ロシア国内の628もの村が住民もろ共焼き尽くされた数字であることが最後に判ります。
これほどの殺戮(さつりく)が、同じ人間同士によって何故引き起こされるのか。
パルチザンに捕えられた将校らしき男が言います。「共産主義を根絶することが我々の使命だ」
理由はそうであっても、それが暴力や虐殺にまで発展するのは、ディケンズの「二都物語」に描かれたような、死刑判決を受けた人間の八つ裂きの処刑を見ることを楽しみに待つ群衆のような、暗い心理が潜んでいるように思われます。
恐ろしくも、深く考えさせられる映画です。
監督エレム・クリモフ
原作エレシ・アダモヴィチ
脚本エレム・クリモフ
エレシ・アダモヴィチ
撮影アレクセイ・ロジオーノフ
第14回モスクワ国際映画祭最優秀作品賞受賞
〈キャスト〉
アレクセイ・クラヴチェンコ オリガ・ミロノヴァ
恐ろしい映画です。
実際に起こった虐殺事件を題材に、一人の少年の目撃と体験が、そのまま私たち観客にも恐怖の追体験として目の前に迫ります。
ナチスの蛮行はユダヤ人への迫害が広く知れ渡っていますが、ここで扱われるのは、かつてソビエト連邦の構成国の一つだった白ロシア、現在のベラルーシです。
ヨーロッパの東に位置するベラルーシは、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ラトビアなどと国境を接し、ナポレオンのモスクワ遠征の際にはフランス軍に蹂躙された歴史を持ち、第一次世界大戦では熾烈(しれつ)な激戦の地ともなりました。
そのような白ロシア(ベラルーシ)で、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻とともにヨーロッパを席巻したナチスの支配が白ロシアにまで及んだ時代。
1943年、ドイツ占領下の白ロシア。
フリョーラ(アレクセイ・クラヴチェンコ)は、土地の古老が止めるのも聞かずに、砂地から一丁の銃を掘り出します。
フリョーラは喜びましたが、しかしそれは少年フリョーラにとって忌まわしい日常への発端となります。
銃を手にしたフリョーラは、家を出ていかないでと泣いて頼む母親の意見を振り切るようにしてパルチザンに加わり、母親と幼い双子の妹たちを村に残して、パルチザンの同志が潜む森へと入ってゆきます。
パルチザンに加わることはできましたが、フリョーラがまだ少年であるためなのか、一人、森へ取り残されてしまいます。
森の中で出会った若い女性グラーシャと共に、森をさまよいながら故郷の村へと帰ろうとするフリョーラは、ドイツ軍の爆撃を逃れながら、空腹を抱えて村へとたどり着きます。
しかし、村には人の姿は無く、静まり返った家へ戻ったフリョーラとグラーシャが見たものは、床に散乱した壊れた人形でした。
異様な気配を感じた二人は家を飛び出し、「村の人たちはあそこにいるんだ!」と叫びながら走るフリョーラの後を追いかけるように走るグラーシャが振り返って見たのは、裸にされて殺された村人たちの死体の山。
村人たちが虐殺されたことに気づいたグラーシャでしたが、それに気づかず狂気のようになったフリョーラは沼に飛び込み、後を追うグラーシャも飛び込み、溺れそうになりながらも岸へ上がった二人は、森へ逃れていた難民たちの群れに加わることになります。
難民たちの食料は乏しく、食料調達のためにフリョーラは男たちと共に4人で食料を探しに出かけますが、地雷原で二人が吹き飛ばされ、近くの村から牝牛を調達して喜んだフリョーラたちでしたが、ドイツ軍の激しい銃撃に遭って一人は死に、度重なる銃撃で牝牛も殺されてしまいます。
フリョーラは一人、深い霧の中をさまよいながら農夫の荷馬車を見つけ、盗んでいこうとしますが、農夫にとがめられ、口論の中、ドイツ軍の車両に遭遇、行き場を失ったフリョーラは農夫の孫になりすまし、農夫の村に身をひそめることになりますが、それはフリョーラにとって阿鼻叫喚の地獄を経験することにつながるものとなります。
一風変わった題名の「炎628」は、フランソワ・トリュフォー監督の傑作「華氏451」(1966年)を意識して改題されたと思われますが、原題は「来なさい、そして見よ」。
聖書の最終章である「啓示(黙示録)」の第6章7節から8節による、青ざめた馬に乗った“死”が食糧不足と殺戮をもたらすことが描かれ、これが原題になったと思われます。
「炎628」の終盤、フリョーラが身を隠した村ではドイツ軍が続々と押し寄せ、村人たちを教会へ押し込めて教会の中は騒然となります。
窓から外へ顔を出した農民が射殺されたことをキッカケに悲鳴と号泣は極度に達します。
フリョーラは窓から体を乗り出して外へ逃れますが、ドイツ兵たちもフリョーラがまだ子どもだと思ったためか、薄汚れた野良猫のごとくあしらいながら見逃します。
悲鳴と号泣の教会の中へ手榴弾が投げ込まれます。
ここまででも、その凄まじさは見る者に戦慄を与えますが、さらにそこへ火が放たれ、火炎放射器が轟音を放ちます。
炎を上げて燃える教会へ射撃が行われ、笑い興じるドイツ兵たち。しかし、その中でも、涙を拭きながら射撃を行う者、嘔吐する者、多少は人間性を持った兵たちが少なからずいたことが描かれたことは、一方的にドイツを悪と決めつけていない冷静な視点があったように思います。
一カ所へ村人が集められて、建物もろ共焼き殺される残虐な事件は、ニキータ・ミハルコフ監督の秀作「戦火のナージャ」(2010年)でも描かれていますが、「戦火のナージャ」はコンピューター・グラフィックスを上手く使っているためか、一歩距離を置いて見ることができますが、「炎628」はまるでドキュメンタリーフィルムを見るような現実感があります。
冒頭の森の中でのパルチザンの様子やグラーシャの登場などはツルゲーネフの小説を思い起こさせますが、その雰囲気はドイツ軍による落下傘部隊の降下と、誰もいなくなったパルチザンのキャンプへの空爆で一転。
パルチザンに対する殲滅作戦が始まったことが分かります。
もともと工業化の進んでいなかった白ロシア(ベラルーシ)ですから、あたりは森と湿地帯、ぬかるんだ道、古い農家、見ようによっては牧歌的な東ヨーロッパの風景ともとれますが、戦争の狂気が取り巻く環境は、飢えと恐怖が支配する寒々とした世界。
ひとすら逃げ惑(まど)うフリョーラとグラーシャも泥と土ぼこりにまみれ、そしてたどり着いた村で体験した惨劇によってフリョーラの顔はまるで老人のように変わり果てている。
一方のグラーシャは放心状態で笛を口にくわえさせられ、両足の、おそらく股間から血を流し、ドイツ兵たちによって激しいレイプを受けたことをうかがわせます。
戦争映画で、これほどの惨状を描いた映画は、ちょっと記憶にありません。反戦映画と呼ぶには少し違うような気もします。ここで、こういうことが起きた、この事実を知ってもらいたい、そういう意図で作られたようにも思います。
監督は「ロマノフ王朝の最後」(1975年)などのエレム・クリモフ。
苛烈な題材を扱いながら、決して過剰な演出に陥ることなく、かなり衝撃的なシーンのひとつである虐殺された村人の死体の山をグラーシャが目撃する場面でも、グラーシャが振り返った一瞬に見えるだけで、そのまま二人の狂乱へとつながっていきます。
改題の「炎628」とは、白ロシア国内の628もの村が住民もろ共焼き尽くされた数字であることが最後に判ります。
これほどの殺戮(さつりく)が、同じ人間同士によって何故引き起こされるのか。
パルチザンに捕えられた将校らしき男が言います。「共産主義を根絶することが我々の使命だ」
理由はそうであっても、それが暴力や虐殺にまで発展するのは、ディケンズの「二都物語」に描かれたような、死刑判決を受けた人間の八つ裂きの処刑を見ることを楽しみに待つ群衆のような、暗い心理が潜んでいるように思われます。
恐ろしくも、深く考えさせられる映画です。