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2019年04月27日
映画「陽のあたる場所」豊かさを求めた青年の恋と破滅
「陽のあたる場所」
(A Place in the Sun)
1951年アメリカ
監督ジョージ・スティーヴンス
原作セオドア・ドライサー
脚本マイケル・ウィルソン
ハリー・ブラウン
撮影ウィリアム・C・メラー
音楽フランツ・ワックスマン
〈キャスト〉
モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー
シェリー・ウィンタース
第24回アカデミー賞/監督賞/撮影賞/脚色賞/作曲賞/他6部門受賞
伝道師の母親と二人きりの貧しい生活を送っていたジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は、水着工場を経営している伯父のチャールズ・イーストマンと偶然に出会い、伯父の会社に雇われることになります。
単調な流れ作業の仕事を与えられたジョージでしたが、そこで一緒に働くアリス・トリップ(シェリー・ウィンタース)と知り合い、社内恋愛は禁じられてはいましたが、お互いに惹かれあった二人は、ある日、アリスの部屋で一夜を過ごすことになります。
そんな中、伯父の邸宅のパーティーに招かれたジョージは、美しい令嬢アンジェラ・ヴィッカース(エリザベス・テイラー)と出会い、美貌と富と知性を備えたアンジェラにジョージは惹かれ、またアンジェラもジョージの魅力に惹かれて、二人は恋に落ちてゆきます。
アンジェラとの結婚を夢見るジョージでしたが、そこへアリスの妊娠が知らされ、結婚を迫るアリスに、暗く貧しい将来の生活への恐怖を感じたジョージは、一方でアンジェラの美貌と富を永遠に失うことを恐れ、夏の湖にはボートの転覆事故が多いことを知り、ボートの転覆を装ってアリスを殺害しようと考えます。
セオドア・ドライサーの長編小説「アメリカの悲劇」を原作としたこの映画は、原作の持つ物質主義、資本主義に代表されるアメリカ社会の暗い一面を糾弾した内容とは方向を変え、貧しい青年の恋愛を軸に、富を追い求めながらも、結局は破滅に至らざるを得なかった青年の悲劇を描いた名作です。
若さというものは過(あやま)ちを犯しやすく、とりわけ異性に対する性欲、男性であれば女性に対する性的な欲求は、避妊を考えることなく欲望に訴えた場合、望むことのない妊娠という重大な過失につながってしまいます。
ジョージ・イーストマンがアリス・トリップに接近したのは手軽な恋愛遊戯、平たく言ってしまえば性的欲望を満たす相手としてでした。
もちろん結婚の意志など初めからなく、性欲を満たせばそれでよかったのです。
しかしそれはアリスの心を傷つけ、死に追いやってしまう結果となったことで(アリス一人ではなく、お腹の子どもも含めれば二人の死)、たとえそれが偶然の事故から派生したものであったとしてもアリスの殺害を考えていたことは事実なのだからと、ジョージは死刑を受け入れてゆきます。
魅力と白熱の演技陣
ドライサーの「アメリカの悲劇」の主人公クライド(「陽のあたる場所」ではジョージ)は周囲の状況にうまく対応できず、決断力に乏しい未熟さゆえに破滅にいたるのですが、そういった主人公をモンゴメリー・クリフトは完璧に表現。
特に湖に乗り出したボートの中でアリス殺害を苦悩する表情は、白黒画面の陰影の効果もあって緊張感が極度に高まった名シーンでした。
シェリー・ウィンタースは後に「ロリータ」(1962年)で、ハンバート教授に強く惹かれながら、教授は娘のドロレスに心を奪われていることを知って絶望し、事故死をしてしまうという、アリスと似たような役どころで強い印象を残していますから、日陰で苦悩する女性役がハマります。
「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)では強烈な個性派俳優に混じって、泳ぎの達者なオバさん役で大きな存在感を見せてくれました。
美女の代名詞としてハリウッドに君臨したエリザベス・テイラーはジョージを魅惑する女性アンジェラとして、暗く重々しい「陽のあたる場所」にあって、まさに陽のあたっている明るい大輪の花のような存在感を放っていました。
そして、松葉づえをつきながらジョージの犯罪に鋭く迫る迫真の演技で強い印象を残した地方検事フランク・マーロウのレイモンド・バー。
テレビシリーズ「鬼警部アイアンサイド」では、車椅子に乗りながら犯罪に立ち向かうサンフランシスコ市警の刑事部長の姿は日本でも大きな話題になりました。
原作と映画化の挟間で
「アメリカの悲劇」は1931年に「嘆きの天使」「モロッコ」などの名匠ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督によって映画化されましたが、原作を生かしきれずメロドラマに傾き過ぎたこともあってセオドア・ドライサーの怒りを買い、失敗作とされたこともあったのでしょう、その反省からか「陽のあたる場所」では題名・登場人物の名前もすべて変更して、独立した恋愛映画として再映画化したことが良かったのだと思います。
なお、原作の「アメリカの悲劇」を読んでいると、主人公が湖での殺人のあと、森の中を逃亡するのですが、唐突に現れた保安官に殺人犯として捕まってしまいます。
主人公の逃走経路や、なぜ彼が殺人犯として追跡されていたのかは説明のないまま、裁判となってしまうのですが、映画「陽のあたる場所」ではそのあたりがキッチリと説明されていて、理解しやすい展開となっています。
ドライサーは犯罪推理はあまり問題にせず、あくまでも主人公が犯した罪と、それを取り巻くアメリカ社会を描くことに重きを置いたようです。
1951年アメリカ
監督ジョージ・スティーヴンス
原作セオドア・ドライサー
脚本マイケル・ウィルソン
ハリー・ブラウン
撮影ウィリアム・C・メラー
音楽フランツ・ワックスマン
〈キャスト〉
モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー
シェリー・ウィンタース
第24回アカデミー賞/監督賞/撮影賞/脚色賞/作曲賞/他6部門受賞
伝道師の母親と二人きりの貧しい生活を送っていたジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は、水着工場を経営している伯父のチャールズ・イーストマンと偶然に出会い、伯父の会社に雇われることになります。
単調な流れ作業の仕事を与えられたジョージでしたが、そこで一緒に働くアリス・トリップ(シェリー・ウィンタース)と知り合い、社内恋愛は禁じられてはいましたが、お互いに惹かれあった二人は、ある日、アリスの部屋で一夜を過ごすことになります。
そんな中、伯父の邸宅のパーティーに招かれたジョージは、美しい令嬢アンジェラ・ヴィッカース(エリザベス・テイラー)と出会い、美貌と富と知性を備えたアンジェラにジョージは惹かれ、またアンジェラもジョージの魅力に惹かれて、二人は恋に落ちてゆきます。
アンジェラとの結婚を夢見るジョージでしたが、そこへアリスの妊娠が知らされ、結婚を迫るアリスに、暗く貧しい将来の生活への恐怖を感じたジョージは、一方でアンジェラの美貌と富を永遠に失うことを恐れ、夏の湖にはボートの転覆事故が多いことを知り、ボートの転覆を装ってアリスを殺害しようと考えます。
セオドア・ドライサーの長編小説「アメリカの悲劇」を原作としたこの映画は、原作の持つ物質主義、資本主義に代表されるアメリカ社会の暗い一面を糾弾した内容とは方向を変え、貧しい青年の恋愛を軸に、富を追い求めながらも、結局は破滅に至らざるを得なかった青年の悲劇を描いた名作です。
若さというものは過(あやま)ちを犯しやすく、とりわけ異性に対する性欲、男性であれば女性に対する性的な欲求は、避妊を考えることなく欲望に訴えた場合、望むことのない妊娠という重大な過失につながってしまいます。
ジョージ・イーストマンがアリス・トリップに接近したのは手軽な恋愛遊戯、平たく言ってしまえば性的欲望を満たす相手としてでした。
もちろん結婚の意志など初めからなく、性欲を満たせばそれでよかったのです。
しかしそれはアリスの心を傷つけ、死に追いやってしまう結果となったことで(アリス一人ではなく、お腹の子どもも含めれば二人の死)、たとえそれが偶然の事故から派生したものであったとしてもアリスの殺害を考えていたことは事実なのだからと、ジョージは死刑を受け入れてゆきます。
魅力と白熱の演技陣
ドライサーの「アメリカの悲劇」の主人公クライド(「陽のあたる場所」ではジョージ)は周囲の状況にうまく対応できず、決断力に乏しい未熟さゆえに破滅にいたるのですが、そういった主人公をモンゴメリー・クリフトは完璧に表現。
特に湖に乗り出したボートの中でアリス殺害を苦悩する表情は、白黒画面の陰影の効果もあって緊張感が極度に高まった名シーンでした。
シェリー・ウィンタースは後に「ロリータ」(1962年)で、ハンバート教授に強く惹かれながら、教授は娘のドロレスに心を奪われていることを知って絶望し、事故死をしてしまうという、アリスと似たような役どころで強い印象を残していますから、日陰で苦悩する女性役がハマります。
「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)では強烈な個性派俳優に混じって、泳ぎの達者なオバさん役で大きな存在感を見せてくれました。
美女の代名詞としてハリウッドに君臨したエリザベス・テイラーはジョージを魅惑する女性アンジェラとして、暗く重々しい「陽のあたる場所」にあって、まさに陽のあたっている明るい大輪の花のような存在感を放っていました。
そして、松葉づえをつきながらジョージの犯罪に鋭く迫る迫真の演技で強い印象を残した地方検事フランク・マーロウのレイモンド・バー。
テレビシリーズ「鬼警部アイアンサイド」では、車椅子に乗りながら犯罪に立ち向かうサンフランシスコ市警の刑事部長の姿は日本でも大きな話題になりました。
原作と映画化の挟間で
「アメリカの悲劇」は1931年に「嘆きの天使」「モロッコ」などの名匠ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督によって映画化されましたが、原作を生かしきれずメロドラマに傾き過ぎたこともあってセオドア・ドライサーの怒りを買い、失敗作とされたこともあったのでしょう、その反省からか「陽のあたる場所」では題名・登場人物の名前もすべて変更して、独立した恋愛映画として再映画化したことが良かったのだと思います。
なお、原作の「アメリカの悲劇」を読んでいると、主人公が湖での殺人のあと、森の中を逃亡するのですが、唐突に現れた保安官に殺人犯として捕まってしまいます。
主人公の逃走経路や、なぜ彼が殺人犯として追跡されていたのかは説明のないまま、裁判となってしまうのですが、映画「陽のあたる場所」ではそのあたりがキッチリと説明されていて、理解しやすい展開となっています。
ドライサーは犯罪推理はあまり問題にせず、あくまでも主人公が犯した罪と、それを取り巻くアメリカ社会を描くことに重きを置いたようです。
2019年02月28日
映画「情婦マノン」究極の愛の行方
「情婦マノン」(Manon)
1949年 フランス
監督・脚本アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作アベ・プレヴォー
撮影アルマン・ティラール
音楽ポール・ミスラキ
〈キャスト〉
セシル・オーブリー ミシェル・オークレール
セルジュ・レジアニ
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞
地中海を航行する貨物船(ユダヤ人を運ぶ密航船でもあります)の中で、若い男女の密航者が発見されます。
男の名前はロベール・クレスタール(ミシェル・オークレール)、女の名前はマノン・レスコー(セシル・オーブリー)。
いつ、どうして密航しようとしたのだ、と船長は二人を問い詰めます。
最初は反抗的な態度だったロベールでしたが、やがて彼の口からそれまでのいきさつが語られてゆきます。
パリ解放の間近いフランス、ノルマンディーの村。
レジスタンスに身を投じていたロベールは、ある日、ドイツ兵と親交があったという理由で、フランスを売った売国奴として村の人たちからリンチを受けそうになっている若い女性を助けます。
女性を助けはしましたが、最初はまったく関心のなかったロベールは、いつしか彼女の魅力に惹かれ、二人はノルマンディーを離れ、パリで一緒に暮らし始めます。
戦争も終わり、静かな田舎暮らしを望んでいるロベールでしたが、彼女(マノン)は華やかなパリを去る気にはなれず、ロベールの収入だけではパリでの豊かな生活が送れないからと、マノンは働き始め、ロベールもそんな彼女の気を惹くために、闇商売にも足を踏み入れることになります。
マノンは少女のような外見とは裏腹に、贅沢が身に沁み込んだ奔放な女でした。ロベールには、男は一人も知らないと言いながら、実際には数多くの男たちの中で生きてきた娼婦のしたたかさを持った女でした。
マノンの行動を尾行し、娼館でのマノンを発見したロベールでしたが、そんな堕落した女と知りながらも、ロベールは彼女から去る気にはなれず、マノンに対する愛は深まってゆきます。
マノンもロベールの愛に応えようとしますが、闇商売のトラブルからマノンの兄レオンを殺害したロベールは、マノンと二人でパリからの逃避行を続け、貨物船に密航します。
ロベールの話を聞いた船長は二人に同情し、ユダヤ人と共にパレスチナへの上陸の許可を与えます。
ユダヤ人たちとアレクサンドリアへ上陸したロベールとマノンでしたが、そこには予想もしていなかった悲劇が二人を待っていました。
約束の地パレスチナ
マノン・レスコーはしたたかな女です。
ノルマンディーの村でロベールに助けられ、最初はロベールから冷たくあしらわれていたマノンでしたが、自分の魅力を知っている彼女はロベールに迫り、彼の愛をつかむと戦火の激しくなったノルマンディーを離れ、二人でパリへと向かいます。
贅沢な暮らしを望むマノンは、ロベールの愛を裏切り、娼婦にまで身を持ち崩してゆきます。ロベールはマノンの本性を知りながらも愛を捨て去ろうとはしません。
ここまで見てくると、どうしてこんな女がいいのだろうと、ロベールという男の気持ちが理解できません。
しかし、愛とは本来理解できないものなのかもしれません。
男の目からみるとロベールの気持ちは分かりませんが、逆に、自堕落な男に女性が惹かれるという例もあることで、どうしてあんな男がいいのだろうと思われることが世間にはよくあります。
しかし、ロベールがマノンの兄レオンを殺し、一人でマルセイユに向かおうとすることから、マノンの心に変化が生まれます。本当に自分を想ってくれる男はロベールしかいないことに気づくのです。
「情婦マノン」は中盤からラストにかけてが名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの手腕が思う存分に発揮されていると思います。
ロベールを追いかけて、人の波の中から動き出した列車に飛び乗り、大混雑の人混みをかき分けてロベールを探し出すマノン。抱き合う二人のセリフは汽笛にかき消されて聞こえません。ここまでのシーンは、イタリアン・リアリズムと同じく、当時、数多くの名作を生みだしたフランス映画の活力を感じます。
また、この物語はマノンとロベールだけではなく、登場人物すべてに個性が与えられています。
娼館の前でロベールを振り返る通りすがりの男から、娼館のマダム、その小間使い、密航船の船長、金品をもらってマノンの要求を聞いてやる船員、パリのワイン王、マノンの兄レオン。
そして、この映画で重層的な背景をなしているのが、密航船のユダヤ人たちです。
自分たちの国を持たない彼らは、神からの「約束の地」パレスチナを目指しますが、そこに待ち構えていたのはアラブの一団で(この背景はよく分かりませんが、アラビア半島ではアラブの民族紛争が活発化していたので、他民族を排撃する武装集団かもしれません)、マノンはユダヤ人と共に殺戮の犠牲となってしまいます。
ひとり生き残ったロベールは、銃弾に倒れて死体となったマノンを抱き抱え、砂の上を引きずり、服は裂けて乳房が露わになったマノンの死体を担いで歩き、やがて力尽きます。
マノンの死体を顔だけ出して砂に埋め、ロベールはつぶやきます。
「そのうち君は腐るんだ。…それでも僕は君を愛している」
聖書の創世記すら想起させる、恐ろしくも崇高なラストです。
監督・脚本アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
原作アベ・プレヴォー
撮影アルマン・ティラール
音楽ポール・ミスラキ
〈キャスト〉
セシル・オーブリー ミシェル・オークレール
セルジュ・レジアニ
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞
地中海を航行する貨物船(ユダヤ人を運ぶ密航船でもあります)の中で、若い男女の密航者が発見されます。
男の名前はロベール・クレスタール(ミシェル・オークレール)、女の名前はマノン・レスコー(セシル・オーブリー)。
いつ、どうして密航しようとしたのだ、と船長は二人を問い詰めます。
最初は反抗的な態度だったロベールでしたが、やがて彼の口からそれまでのいきさつが語られてゆきます。
パリ解放の間近いフランス、ノルマンディーの村。
レジスタンスに身を投じていたロベールは、ある日、ドイツ兵と親交があったという理由で、フランスを売った売国奴として村の人たちからリンチを受けそうになっている若い女性を助けます。
女性を助けはしましたが、最初はまったく関心のなかったロベールは、いつしか彼女の魅力に惹かれ、二人はノルマンディーを離れ、パリで一緒に暮らし始めます。
戦争も終わり、静かな田舎暮らしを望んでいるロベールでしたが、彼女(マノン)は華やかなパリを去る気にはなれず、ロベールの収入だけではパリでの豊かな生活が送れないからと、マノンは働き始め、ロベールもそんな彼女の気を惹くために、闇商売にも足を踏み入れることになります。
マノンは少女のような外見とは裏腹に、贅沢が身に沁み込んだ奔放な女でした。ロベールには、男は一人も知らないと言いながら、実際には数多くの男たちの中で生きてきた娼婦のしたたかさを持った女でした。
マノンの行動を尾行し、娼館でのマノンを発見したロベールでしたが、そんな堕落した女と知りながらも、ロベールは彼女から去る気にはなれず、マノンに対する愛は深まってゆきます。
マノンもロベールの愛に応えようとしますが、闇商売のトラブルからマノンの兄レオンを殺害したロベールは、マノンと二人でパリからの逃避行を続け、貨物船に密航します。
ロベールの話を聞いた船長は二人に同情し、ユダヤ人と共にパレスチナへの上陸の許可を与えます。
ユダヤ人たちとアレクサンドリアへ上陸したロベールとマノンでしたが、そこには予想もしていなかった悲劇が二人を待っていました。
約束の地パレスチナ
マノン・レスコーはしたたかな女です。
ノルマンディーの村でロベールに助けられ、最初はロベールから冷たくあしらわれていたマノンでしたが、自分の魅力を知っている彼女はロベールに迫り、彼の愛をつかむと戦火の激しくなったノルマンディーを離れ、二人でパリへと向かいます。
贅沢な暮らしを望むマノンは、ロベールの愛を裏切り、娼婦にまで身を持ち崩してゆきます。ロベールはマノンの本性を知りながらも愛を捨て去ろうとはしません。
ここまで見てくると、どうしてこんな女がいいのだろうと、ロベールという男の気持ちが理解できません。
しかし、愛とは本来理解できないものなのかもしれません。
男の目からみるとロベールの気持ちは分かりませんが、逆に、自堕落な男に女性が惹かれるという例もあることで、どうしてあんな男がいいのだろうと思われることが世間にはよくあります。
しかし、ロベールがマノンの兄レオンを殺し、一人でマルセイユに向かおうとすることから、マノンの心に変化が生まれます。本当に自分を想ってくれる男はロベールしかいないことに気づくのです。
「情婦マノン」は中盤からラストにかけてが名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの手腕が思う存分に発揮されていると思います。
ロベールを追いかけて、人の波の中から動き出した列車に飛び乗り、大混雑の人混みをかき分けてロベールを探し出すマノン。抱き合う二人のセリフは汽笛にかき消されて聞こえません。ここまでのシーンは、イタリアン・リアリズムと同じく、当時、数多くの名作を生みだしたフランス映画の活力を感じます。
また、この物語はマノンとロベールだけではなく、登場人物すべてに個性が与えられています。
娼館の前でロベールを振り返る通りすがりの男から、娼館のマダム、その小間使い、密航船の船長、金品をもらってマノンの要求を聞いてやる船員、パリのワイン王、マノンの兄レオン。
そして、この映画で重層的な背景をなしているのが、密航船のユダヤ人たちです。
自分たちの国を持たない彼らは、神からの「約束の地」パレスチナを目指しますが、そこに待ち構えていたのはアラブの一団で(この背景はよく分かりませんが、アラビア半島ではアラブの民族紛争が活発化していたので、他民族を排撃する武装集団かもしれません)、マノンはユダヤ人と共に殺戮の犠牲となってしまいます。
ひとり生き残ったロベールは、銃弾に倒れて死体となったマノンを抱き抱え、砂の上を引きずり、服は裂けて乳房が露わになったマノンの死体を担いで歩き、やがて力尽きます。
マノンの死体を顔だけ出して砂に埋め、ロベールはつぶやきます。
「そのうち君は腐るんだ。…それでも僕は君を愛している」
聖書の創世記すら想起させる、恐ろしくも崇高なラストです。
2019年02月22日
映画「モロッコ」伝説の大スターが共演した不朽の名作
「モロッコ」(Morocco)
1930年 アメリカ
監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ
原作ベノ・ヴィグニー
脚本ジュールス・ファースマン
撮影リー・ガームス
音楽カール・ハヨス
〈キャスト〉
マレーネ・ディートリッヒ ゲイリー・クーパー
アドルフ・マンジュー
北アフリカの北西部に位置するモロッコは立憲君主制国家ですが、20世紀初頭よりイギリス・フランス・ドイツ・スペインなどのヨーロッパ列強の支配にさらされた歴史を持ちます。
後にその大部分はフランスの保護領になりますから、映画「モロッコ」はフランス外人部隊と反乱軍との戦いが背景にあると思われます。
映画は特に時代背景や政治状況については何らの説明も与えてはいません。それは政治や国際情勢に重きを置いた映画ではなく、ベノ・ヴィグニーの原作が「アミー・ジョリー」であり、映画のヒロイン、アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)を描いたものであるからでしょう。
モロッコの町へ外人部隊がやって来ます。彼らには短い休暇が与えられ、軍隊としての規律を守ることを要求されながらも、ある程度の自由が許されます。
そんな外人部隊の中でも、ひときわ背の高いトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は酒と女に目がなく、さっそく町の女たちとの休暇を楽しみ始めます。
一方、町の酒場兼劇場に歌手として海を渡ってきたアミー・ジョリーは、初ステージで観客からブーイングを浴びながらも、冷めた目で観客を見下ろし、その妖艶さがやがて観客を魅了します。
客席にいたトム・ブラウンはそんな彼女に惹きつけられ、トムの目を意識したアミーは部屋のカギをそっとトムの手に握らせます。
トムとアミーは恋に落ちますが、アミーに惹かれたのはトムだけではなく、フランス人の富豪ベシエール(アドルフ・マンジュー)もそのひとりでした。
ベシエールは人間的な懐の深さと財力を併せ持った男で、アミーはベシエールの求婚を受けることを決心します。
失意のトムはアミーに別れを告げ、苛酷な状況の待つ戦場へと出発することになります。
アミーはトムを見捨てることができず、砂漠へと旅立つ部隊の後を追います。
後の第二次世界大戦では連合軍の兵士の間で厭戦気分を高める歌「リリー・マルレーン」が大ヒットし、伝説的な歌手となったマレーネ・ディートリッヒ。
「モロッコ」と同じ時期に、同じスタンバーグ監督による「嘆きの天使」では生真面目な英語教師を破滅に導く妖艶な堕天使を演じたディートリッヒは、その存在自体が妖しい魅力を放っています。
モロッコの劇場での初日は、観客のブーイングをものともせず、冷徹な眼差しで観客を見る姿はカリスマ性を持った大スターの貫禄たっぷりで、中でも、観客の女性の髪飾りから花を受け取り、彼女の唇にキスをするシーンは、アミー(ディートリッヒ)が男装の麗人であるため、ハッとするほどの一瞬のエロティシズムでした。
中年以降は真面目で人間的な厚みを増したゲイリー・クーパーですが、そんなクーパーのイメージからはほど遠い、軽薄な女たらしのトム・ブラウン。そんな男であっても、兵士仲間からは「あいつは女たらしだが、いい奴だ」と言われる、意外な心の広さを持った男。
しかし、アミーをはさんでベシエールとの間に恋のさや当てめいたものがなかったのは、トムの心の広さと同時に、富豪のベシエールに対して、貧しい一兵士でしかない自分をよく知っていたからなのだともいえます。
トムとベシエールとの間で揺れるアミーは、最後にはベシエールの元を去り、トムの後を追いかけてゆきます。
しかし、この映画、けっしてハッピーエンドとはいえません。
「モロッコ」には数多くの無名の女たちが登場します。
その中で、転戦する部隊の後について歩く5、6人の女たちの一団があります。
ボロをまとい、二匹の山羊を連れて陰鬱な表情で歩く彼女たちを見てアミーは言います。
「彼女たちはなに?」
ベシエールは答えます「護衛部隊だ」
「追いつけるの?」
「追いついても、男が死んでいる場合が多い」
護衛部隊が何を指しているのかは分かりませんが、男たちの愛情を求めている女たちであるのは確かなようです。
「モロッコ」には常に死の影が漂っています。
アミーが登場する船上のシーンで、ベシエールは船長にアミーの素性を訪ねます。
船長は答えます。「舞台芸人ですよ」続けて船長はこう言います。「自殺志願者とも呼ばれています」
片道切符しか持たないため、そう呼ばれるのですが、トムと知り合ったアミーはこんなことも言います。「女の外人部隊もあるのよ。傷ついても保障もなく、勲章もないけど」。
「モロッコ」の影の主役は、名もなき女性たちでもあります。
部隊の影に寄り添い、誰に振り向かれることもなく、黙々と歩く女性たち。
ラストは、護衛部隊と呼ばれる女性たちに混じってアミーが素足で部隊を追いかける場面で終わるのですが、そこには砂漠を吹きわたる風の音だけがヒュー、ヒューと聞こえて幕を閉じます。
映画史上、最も有名なラストシーンのひとつに数えられるこの場面。
アミーは元気よく護衛部隊の女性たちと共に歩いていくのですが、砂丘の向こうに兵士と女性たちの姿が消え、風の音だけが聞こえるラストは、部隊の全滅と女性たちの死を予感させ、不吉な余韻すら漂っています。
マレーネ・ディートリッヒとゲイリー・クーパー。
伝説の大スターたちが織りなす不朽の名作です。
監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ
原作ベノ・ヴィグニー
脚本ジュールス・ファースマン
撮影リー・ガームス
音楽カール・ハヨス
〈キャスト〉
マレーネ・ディートリッヒ ゲイリー・クーパー
アドルフ・マンジュー
北アフリカの北西部に位置するモロッコは立憲君主制国家ですが、20世紀初頭よりイギリス・フランス・ドイツ・スペインなどのヨーロッパ列強の支配にさらされた歴史を持ちます。
後にその大部分はフランスの保護領になりますから、映画「モロッコ」はフランス外人部隊と反乱軍との戦いが背景にあると思われます。
映画は特に時代背景や政治状況については何らの説明も与えてはいません。それは政治や国際情勢に重きを置いた映画ではなく、ベノ・ヴィグニーの原作が「アミー・ジョリー」であり、映画のヒロイン、アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)を描いたものであるからでしょう。
モロッコの町へ外人部隊がやって来ます。彼らには短い休暇が与えられ、軍隊としての規律を守ることを要求されながらも、ある程度の自由が許されます。
そんな外人部隊の中でも、ひときわ背の高いトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は酒と女に目がなく、さっそく町の女たちとの休暇を楽しみ始めます。
一方、町の酒場兼劇場に歌手として海を渡ってきたアミー・ジョリーは、初ステージで観客からブーイングを浴びながらも、冷めた目で観客を見下ろし、その妖艶さがやがて観客を魅了します。
客席にいたトム・ブラウンはそんな彼女に惹きつけられ、トムの目を意識したアミーは部屋のカギをそっとトムの手に握らせます。
トムとアミーは恋に落ちますが、アミーに惹かれたのはトムだけではなく、フランス人の富豪ベシエール(アドルフ・マンジュー)もそのひとりでした。
ベシエールは人間的な懐の深さと財力を併せ持った男で、アミーはベシエールの求婚を受けることを決心します。
失意のトムはアミーに別れを告げ、苛酷な状況の待つ戦場へと出発することになります。
アミーはトムを見捨てることができず、砂漠へと旅立つ部隊の後を追います。
後の第二次世界大戦では連合軍の兵士の間で厭戦気分を高める歌「リリー・マルレーン」が大ヒットし、伝説的な歌手となったマレーネ・ディートリッヒ。
「モロッコ」と同じ時期に、同じスタンバーグ監督による「嘆きの天使」では生真面目な英語教師を破滅に導く妖艶な堕天使を演じたディートリッヒは、その存在自体が妖しい魅力を放っています。
モロッコの劇場での初日は、観客のブーイングをものともせず、冷徹な眼差しで観客を見る姿はカリスマ性を持った大スターの貫禄たっぷりで、中でも、観客の女性の髪飾りから花を受け取り、彼女の唇にキスをするシーンは、アミー(ディートリッヒ)が男装の麗人であるため、ハッとするほどの一瞬のエロティシズムでした。
中年以降は真面目で人間的な厚みを増したゲイリー・クーパーですが、そんなクーパーのイメージからはほど遠い、軽薄な女たらしのトム・ブラウン。そんな男であっても、兵士仲間からは「あいつは女たらしだが、いい奴だ」と言われる、意外な心の広さを持った男。
しかし、アミーをはさんでベシエールとの間に恋のさや当てめいたものがなかったのは、トムの心の広さと同時に、富豪のベシエールに対して、貧しい一兵士でしかない自分をよく知っていたからなのだともいえます。
トムとベシエールとの間で揺れるアミーは、最後にはベシエールの元を去り、トムの後を追いかけてゆきます。
しかし、この映画、けっしてハッピーエンドとはいえません。
「モロッコ」には数多くの無名の女たちが登場します。
その中で、転戦する部隊の後について歩く5、6人の女たちの一団があります。
ボロをまとい、二匹の山羊を連れて陰鬱な表情で歩く彼女たちを見てアミーは言います。
「彼女たちはなに?」
ベシエールは答えます「護衛部隊だ」
「追いつけるの?」
「追いついても、男が死んでいる場合が多い」
護衛部隊が何を指しているのかは分かりませんが、男たちの愛情を求めている女たちであるのは確かなようです。
「モロッコ」には常に死の影が漂っています。
アミーが登場する船上のシーンで、ベシエールは船長にアミーの素性を訪ねます。
船長は答えます。「舞台芸人ですよ」続けて船長はこう言います。「自殺志願者とも呼ばれています」
片道切符しか持たないため、そう呼ばれるのですが、トムと知り合ったアミーはこんなことも言います。「女の外人部隊もあるのよ。傷ついても保障もなく、勲章もないけど」。
「モロッコ」の影の主役は、名もなき女性たちでもあります。
部隊の影に寄り添い、誰に振り向かれることもなく、黙々と歩く女性たち。
ラストは、護衛部隊と呼ばれる女性たちに混じってアミーが素足で部隊を追いかける場面で終わるのですが、そこには砂漠を吹きわたる風の音だけがヒュー、ヒューと聞こえて幕を閉じます。
映画史上、最も有名なラストシーンのひとつに数えられるこの場面。
アミーは元気よく護衛部隊の女性たちと共に歩いていくのですが、砂丘の向こうに兵士と女性たちの姿が消え、風の音だけが聞こえるラストは、部隊の全滅と女性たちの死を予感させ、不吉な余韻すら漂っています。
マレーネ・ディートリッヒとゲイリー・クーパー。
伝説の大スターたちが織りなす不朽の名作です。