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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(十五)(下書き) 後藤瑞義(注)歌の順序は歌集の順序によります。しつとりと酒のかをりにひたりたる脳の重みを感じて帰る。 まず、出だしから「しつとりと」といった、文字通りしっとりとした言葉でほっとします。つぎに、酒が出てきて、ぼーとするのです。作者は酒を飲んだのだろうか。しかし、酒に酔ったということは出て来ない。酔いではなく「かをり」というところに、「かをりにひたりたる」というところに驚くわたしです。「酒のかをりにひたりたる」とはどうくことでしょうか。「しっとりと」という言葉があるので、悪い気持ではなさそうですが。 それにしましても、「脳の重み」とはどういうことでしょうか。「かをりにひたりたる脳の重み」とはどういうことでしょうか。 「しつとりと」にやはり湿ったイメージがあり、それが、脳の重みにつながるようです。「すっきり」でもなく、「うっとり」でもなく、「しっとり」とは、どういうことでしょうか。 最後に、「帰る」という言葉がありますから、どこからか家に帰ることなのでしょう。たとえば、酒場より家にかえるのでしょうか。 「脳の重み」というのは、やはり頭痛につながる不快感じゃないでしょうか。飲まないのにすっかり酔った気分になって家に帰ったといったことなのではないでしょうか。 この歌をただしく理解するために、わたしは分かち書きの効果を利用したいと思います。行間に間というか、時間を入れて理解するのです。 「しつとりと」は文字通り、しっとりとした、どちらかといえばプラス的な心持と理解します。次の「酒のかをりにひたりたる」も「しっとりと」にすなおに続いているように思われます。ただ、問題は「脳の重みを感じて帰る。」です。ここへきて急にマイナスイメージを感じるのです。つまり行間に時間の経過が感じられるわけです。 実は、次回出て来るのですが、啄木には次のような歌があります。今日もまた酒のめるかな!酒のめば胸のむかつく癖を知りつつ。 啄木はどうも体質的に酒を受けつけないタイプのようです。ですから、今回の歌は、ちょっと哀しい感じの歌かもしれません。 たとえば、啄木と牧水の親交はよく知られています。啄木の臨終に居合わせたのは牧水だったのでした。あの、こよなく酒を愛する牧水と酒の飲めない啄木を想像します。 啄木と牧水があるいは他に白秋とか善麿(哀果)などもいたのでしょうか。酒場で飲んでいたのでしょうか。啄木は、酒の香りですっかり酔った気分になり、「脳の重み」つまり頭痛がするようになった。宴もたけなわなのに、「少し、気分が悪くなった、オレ、先に帰るワ」(啄木)「なんだ、もう帰るのか、これからよくなるところなのに」(牧水)…しつとりと酒のかをりにひたりたる脳の重みを感じて帰る。【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.30
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後藤人徳の短歌歌集「母体」(平成五年)長男の死 共に住む日はいつ来るや幼子を残して過疎の村を出でゆく 輪禍ありし跡かと思う舗装路に花束雨に濡れてあたらし 赴任地の夜の電話に子の危篤妻告ぐるなり父なるわれに 父親も呼べとう医師の言葉告げ妻電話にて子の危篤告ぐ 子の危篤電話に告ぐる妻の声暗闇よりのごとく聞こえる 意識なき子の回復を念じおり車窓の闇に顔向けしまま死ぬはずは絶対なしと暗き道危篤のわが子を思いて駆ける子の危篤を思い駆ければ明(あか)あかとわが家はともる夜更けの村になきがらの前にすわりて名を呼びぬ大きく呼びぬわれは父なれば大声に汝(な)の名を呼びぬなきがらにすがりて呼びぬわれは父なれば任地より帰れば飛びつく子なりしが今はむくろとなり横たわる汝(な)がためになにをなせしかなきがらに働きたりと言うもむなしき肩車してやることもなかりけり一歳半にわが子は逝きて健康になれと名付けし健一郎一歳半にて命が終る逝きし子の姉三歳よ昼なれば起きよ起きよと揺さぶりている肉体は煙となりて消えゆけり健一郎の顔に似る雲【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.29
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後藤人徳の短歌歌集「母体」(平成五年)任地単身の任地の社員食堂に自ずと座る位置定まりぬ赴任地の朝の社員食堂にしみじみとして味噌汁をのむ当然のごと夕食を運び食(は)む任地の社員食堂に慣れる単身の勤めの夜毎帰り来る一人の部屋に一つ窓あり単身の勤めの夜の望月の美しければ妻に電話す霜月の任地の夜に帰りたる無人の部屋にこおろぎの声晩成のごとく鳴きいるこおろぎよ霜月の夜しみじみと聞く月かげの差しくる窓辺こおろぎの声を聞きつつ君を思いぬ月光のなかに乱るる孟宗竹任地の夜に独り見ている任地より帰る家路の戸のごとに七夕祭の笹飾りおり任地より帰れるわれを迎えんと駆け寄りざまに子は転びたり泣き声を立て得ず口をあけしままわが子苦しむ腕のなかにて【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.28
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後藤人徳の短歌歌集「母体」(平成五年)生業(生業)ぬばたまの夜にしあれどお早うと挨拶交わすわが生業(なりわい)は昼あまた電球ともし夜あまた料理を捨てるわが生業はわれのみにあらず聖夜に働ける道路工事の人の声する地下室の事務所に飾れるドライフラワー蕾のままのものも混じれり地下室の事務所のティッシュペーパーの息吸うごとく幽かに揺れる地下室の事務所に小さき蟻ひとつ書類のなかに紛れゆきたり海辺なるリゾートホテル地下室の事務所に海のポスターを貼る空調の音を確かめ地下室に残務整理の一息(ひといき)入れる 【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.27
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後藤人徳の短歌歌集「母体」(平成五年)赤根崎熱海なる赤根崎(あかねみさき)に佇(たたず)めば沖の小島は眼(ま)のあたりなり実朝が沖の小島と歌いたる初島に寄せまた帰る波うつむけるわれの眼に海原は両手広げる母のごとしもなぎわたる渚に独り波の音(ね)の静かに鳴るを目をつむり聞く四方より波に洗われ浮き沈む黒き巌をしばし見ている海に来て大きなる空知りたると山間の子は両手広げる逆光の黒き小舟をまえにして白き雲わく菩薩のごとくあかねさす日はあらなくに悲しかり唐紅(からくれない)に燃ゆる火山はわれは今なにを悩むか火柱(ほばしら)を立て噴火する大島を見よ(つづく)【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.27
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後藤人徳の短歌歌集「母体」(平成五年)(2)倒産ないものは払えぬと電話きりたるを食事をしつつ思い出したり資金繰表を作りてまとまらず持ちいるぺんを真二つにする集金に来たる業者に払えぬと子らいる前に声高に言う差押さえの赤紙を貼る青年の白き顔色細長き指倒産と言い得ずにおり子を寝かす怒り肩なる妻のうしろ手倒産の工場の中に幼子のはしゃぐ声する日は暮れにつつ出稼ぎ幾とせも国に帰れぬ防人の歌を読みゆく出稼ぎの夜防人のさみしき歌を出稼ぎの夜にし読めば涙出(い)で来ぬ歌うまくならずとも良し出稼ぎの一人の夜を作りて過ごすわが足の変形したる親指の爪を切りおり出稼ぎの夜父の日に子の描きたる壁の絵よ出稼ぎの夜独り見ている出稼ぎの社員食堂自ずから共に食事をする友出来る出稼ぎの夜久びさに電話する子らの争う声聞えくる用もなき電話すまじと誓いしに受話器を取りて思い出したり出稼ぎを帰り抱けば幼子が痛いと言いて言いて泣き出す出稼ぎを帰りて眠るわが家よ畳が固くわれを支える病み寝ると灯(あかり)を消せど隣室の夜なべの妻の気配聞きいる休日の昼を籠れば蟇(がま)ひとつ日に啼きているさみしその声 山頭火つくづく恋いしと法師蝉鳴くごと聞ゆ酒飲みゆけば 蝉しぐれ聞きつつ思う数日を啼き啼き啼きて蝉は死ぬなり 孤独なるものにしあるか花にまで棘鎧(よろ)いおるこのサボテンは かうかうとかなしき声に鳥鳴きて暗き海原渡りいるらし【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.26
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後藤人徳の短歌(1)歌集「母体」(平成5年)恩師(1)大声に師の名を呼びたし何ゆえにかくも悲しき師を失いて会いたしと思い募れど劣等生われは会うなく師の訃を知りぬ遠くより仰ぎ見るのみ親しくも言葉交わせず師の訃を知りぬ独りして眼(まなこ)とじれば生前のみ顔ほほえみみ声聞える二日間徹夜せよとの合宿に師をあざむきて座しつつ眠むる幸不幸平均すると説きしかの簿記の講義を今に忘れぬ病いとも仲良くせよと透き通る笑顔を見しし癌を病み師は真実を求め苦しむ師に従(つ)きて限りなくわれは少年となる高遠のさくらを愛(め)でし師なりしに来る春待たず若くして逝く【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.25
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編集より(同人誌「賀茂短歌」5月号)下書き 「事実」、この言葉が最近妙に気になります。もちろん、歌作りの上での問題ですが。「事実」そうです、「事実」が大切だと思ったのです。勿論、以前からその大切さは認めてはいました。しかし、最近になりまして、なにか確信にも似た思いに、「事実」「事実」、作歌で必要なのは、「事実」なんだと思ったのです。 渡辺さんの歌、たとえば「明日よりは百四歳を歩み出す古りし脚をばもみほごしやる」、この「百四歳」という事実の重み、この事実の前には、どんな飾り言葉も必要がないと思ったのです。事実だけ、事実をただ、たんたんと述べるだけで十分だと思ったのです。 「事実」「事実」といま繰り返していますが、「事実」とはなんだろうか。実はわたしは、「事実」という言葉についての正確な知識はありません。ただ昔からわたしの頭のなかにあった、漠然とした「事実」という言葉についての個人的な考えだけです。 「事実」、それは本当のこと、そんな誰でもが考えるようなことを「事実」と私は考えています。そう考えていましたし、いまもそう考えています。ですから、それはあるいは真実といったほうが近いのかもしれません。そうはいいながら、その「真実」についても漠然とした考えしかないわたしなのです。 それでは、「真実」とはなんだろうか。ここでも、わたしは、「本当のこと」というしかありません。嘘ではなく、空想ではなく、虚構ではないこと、「本当のこと」というしかありません。 今、テレビの朝の連続ドラマ「アンと花子」、その花子こと安東はなの幼いときのエピソードをわたしは思い出しています。貧しいはなは、空腹を満たすために空に浮ぶ雲をお米のように空想して、それを食べたように描かれています。それで、空腹を満たしたように描かれています。そして、はなは空想好きな少女として描かれています。 雲が米であるはずはない、雲を食べて空腹を満たすことなど出来るはずはないではないか。単なる空想だ、強がりだ、自分をごまかしているだけだ。このことについて、色々われわれは批判できます。ただ、本当のことを知っているのは、はな本人だけかもしれません。本当に、お腹がいっぱいになったのかもしれません。我慢ではなく、ほんとうに満ちたりたのかもしれません。本人から見た真実と他人から見た真実。他人は空想だと思っていることも本人にとっては真実なことがあるのだろうか。 飛躍しますが、ここであることを思い出したのです。空腹を満たす話で思い出したのです。旧約聖書の、確かモーゼのところだったと思うのですが。そうです、モーゼがエジプトからイスラエル人を脱出させた話です。モーゼは空腹の民を救うために天からパンを降らせたという話です。それを食べて皆空腹を満たしたのでした。天からパンが降ってくるなどということがあるだろうか。これは、旧約聖書に書かれていることです。このことを、何人の人が信じてきたのでしょうか。何千年に渡って、聖書のことばとして数え切れない人々が信じてきたのだろうと思うのです。そうです、真実だと思って、本当のことだと思って信じてきたのだとおもうのです。 わたしの、「事実」というのは、あるいは「真実」というのは、なんともたよりない、漠然としたものです。ただ、たよりない、漠然としたものでもいいんですが、自分の心に対しては「事実」であり、「真実」であってほしいと願うばかりなのです。その「事実」を、その「真実」を短歌に込めてうたいたいと思うのです。たとえそれが、ささやかな、とるにたりないものであっても、自分にとっての、あるいは自分の心にとっての「事実」を、「真実」を短歌に詠んでゆきたいと思うのです。【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.23
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五月号歌評下書き(同人誌「賀茂短歌」) 後藤瑞義原 明男腎も腑も問題なしと言ふ医師の笑顔明るし日あしの伸ぶる 作者は腎臓の手術を過去にしております。そして、定期的に病院に行って検査していると聞いています。今回も検査の結果を医師から聞いていたのでしょう。そして、「腎も腑も問題なし」と医師に言われた。医師は笑顔だったのでしょう。それが、まぶしいくらいに明るく見えたでしょう。ほっとした心の余裕は、思わず、「日あしの伸びる」といった表現を与えてくれたのかもしれません。逆であったら、雲を見たり、日暮れを思ったかもしれません。渡辺つぎ明日よりは百四歳を歩み出す古りし脚をばもみほごしやる 「明日よりは百四歳を歩み出す」、これが事実であり、この事実の重みに感動します。この事実の重みだけですばらしい作品だと思います。この事実によって「古りし脚」も「もみほごしやる」ということばもきらきら輝くように感じるのです。事実の大切さを再認識する作品です。鈴木菊江やわらかい春の陽ざしの細道の野の石佛とろりとおわす 「やわらかい春の陽ざし」がよいと思います。「おだやかな」などの一般的な表現ではなく、「やわらかい」とより感覚的に表現したのがよいと思うのです。その感覚の鋭さが石仏を「とろり」と感じさせたのでしょう。それが、説得力を持っているのです。と同時に春の陽ざしのなかで作者自身がとろりとしていたようにも思うのです。 黒田幸子昔むかしの天狗の話をせし人にもう一度会いたい春日のまひる 昔むかしとはいつごろのことでしょうか。一昔前、二昔前、五十年もっと前のことでしょうか。作者が今の地に嫁いだころのことでしょうか。もっと前の幼いころでしょうか。「天狗の話をせし人」、これは単に天狗の話のことだけではもちろんないでしょう、また話をしてくれた、その人だけのことでもないかもしれません。その話を聞いた時代のことなどを思ってように思います。作者にとってなつかしい、幸せな思い出なのでしょう。若葉のもえいづる春、日がおだやかに差している真昼間、作者の心も若返ったのでしょうか。独り思いにふける作者、あの頃はよかったなあといった思いでしょう。そこになんともいえないさみしさも感じたのです。 後藤早苗たつぷりと水をたたえた用水が流れてゆけり代かきの田に冬の間、用水路は干されて乾いています。最近は田植が早くなって、この辺でも四月中にする所が見られます。四月になってでしょうが、たっぷりと水をたたえた用水路、そこから代搔きをする田に水が流れてゆきます。田植の準備が始まったのです。と同時に収穫の秋に向かって農家の一年が始まったともいえるです。農家に育った作者にはことのほか思いの深いことなのでしょう。 藤井美智子草引けば庭はすっきりわたくしの手はまつ黒け指環を仕舞ふ 「草を引けば庭はすっきりした」、しかし、「わたくしの手は真黒になってしまった」当然と思うことを初めて気がついたかのように歌っています。そして、泥だらけの手にはめられている指輪を見つめたのでしょうか。そのアンバランスな感じに、手を洗った、もちろん実際は手をまずは洗ったのでしょうが、それにはふれないで、指輪を仕舞ったと歌っています。真黒な手を肯定して、指輪の方を仕舞ってしまった。そこに作者の心の動きをみるわけです。「もう、指輪もいいか」と言った感じでしょうか、多少おどけたようにも思える表現のなかに、深い溜息を感じるのです。 【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】歌集 わが...価格:1,296円(税込、送料別)
2014.05.18
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白浜短歌会五月歌稿下書き NO.2 後藤瑞義 F子さん うぐいすの囀ずり唄うを聞き乍ら吾家の昼餉海苔巻きむすび 柿の木に(と)あんずの枝の物干場青葉茂れば場所を替えたり 広げたる枝一面につぶらな実衰え知らぬあんず古木は 1.「海苔巻きむすび」が作者になにか意味があるのでしょう。これが読者に理解でき るとぐっと胸に迫る歌となるでしょう。たとえば質素な食事のたとえであったりすると、 うぐいすのすばらしい囀りを聞きながらの食事が豪華な感じになります。 参考:うぐいすの囀りの歌聞きながら昼餉のむすびおいしく食べる 2.裸木のときは物干場として大いに役立ったのに青葉が茂ってきて役に立たなく なった。おもしろい着眼点だと思います。 参考:柿の木とあんずの枝の物干場青葉茂りて役に立たざり 1. 「あんず古木は」の「は」がよくきいています。「枝一面」の「一面」、いっぱいに実 をつけていることを強調したい気持はよくわかります。「つぶらな実」と「古木」の対比 が私は良いとおもいます。これで十分のように思うのですが。 参考:広げたる枝につぶらな実をつけて衰え知らぬあんず古木は G子さん 朝まだき眠れぬままに戸をくれば五月の空はすでに白みぬ 椿の下紫蘭咲き出でむらさきの花美しく風にそよげり 1. いいですね。感情を抑えて、事実のみを述べてゆく感じがいいです。そうした姿 勢の作者の思いが逆に見えてくるようです。旧暦では、夏至は五月です。季節の移 り変りも見えてきます。その自然さもいいと思います。 2. これもよろしいのではないでしょうか。シランは木陰などに咲いているようです。こ こでは椿の木の下のようです。ひっそり目立たないように咲いている姿が浮びます。 そんなシランに目をむけたところで半分以上成功しているのではないでしょうか。思 わず「美しく」と表現した作者。「風にそよげり」に作者の心の揺れのようなものも感じ ました。 原 明男相ひ寄りて共に頒け合ふ歌ごころ熱き緑茶も一服の妙 朝餉して昼餉すませば早や夕餉悠々自適と言へぬ極楽 1.「相ひ寄りて共に頒け合ふ」ときて、何だろうと思ったところが、「歌ご ころ」ということで、意外性を感じました。しかし、「熱き緑茶も」とはっきりとし た具体が出て来て、「一服の妙」をわたしも味わうことが出来ました。 2.「朝餉して昼餉すませば早や夕餉」というのは、時の経過の早さを言ってい るのだと思います。それとともに、何か充実感がないような、ただ食事して生き ているだけなのかといった思いもあるでしょうか。「悠々自適と言へぬ」といい、 「極楽」という複雑さ。こういう悩みをしているその時間は、ある面では人間らし い大切な時間なのではないでしょうか。そういう悩みの時間をもつことも大切 のように感じます。
2014.05.13
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白浜短歌会五月歌稿下書きNO.1 後藤瑞義 A子さん 初めての介護施設に入所する全身脳裏リハビリ励む新緑も雨露受けて葉を広げ周囲覆いて景色見え隠れ 1.「全身脳裏」、全身はいいとして脳裏とはなかなかむずかしい言葉を 使っています。要するに体と頭(あるいは心)のことでしょう。頭とか心とか でなく「脳裏」という言葉を使っているところが、ある種の作者の強い思いを 感じます。多分心良くは思っていないのかもしれません。「初めての介護施 設」は、初めて介護施設に入ったのか、他の介護施設に入所したことがあ るのかは、ちょっと不明ですが、文字どうりですと他の介護施設に入所した ことがあったように感じました。まず、事実をしっかりつかむ、事実が重い場 合は事実だけでも歌になると思います。 参考:初めてよ介護施設に入所して頭と体のリハビリをする 2.リズムが、ぽつぽつとした感じです。内容的には合っているかもしれません。単な る新緑の歌ではないでしょう。「雨露」と「露」をつけたところにも作者の何かを感じま した。葉の広がってゆく生命力、それはあたりを隠してしまうのです。そこに目を向け たところはすばらしいと思います。 参考:雨露を受け新緑の木々の葉は周囲覆いて景色を隠す 畑 B子さん 嬉しくて畑仕事が楽しくて体うきうき良く動いてる 自然にね笑顔が出てる毎日が感謝感謝の陽を浴びてます 畑には去年の種がこぼれしか恵の苗がすくすく育つ 1. 感情が爆発したようです。そうでなければこういう歌はうたえないでしょう。なんで もないことがすばらしいことだった、そんな発見が歓喜をもたらしたのでしょう。 2.一首目と同じような感情が働いているようです。作者にとって、「自然に笑顔がで てくる」感じがする。これは、貴重な感じです。 参考:自然にね笑顔となれる今日の日よ感謝かんしゃの陽を浴びてます 3.「苗がすくすく育っていた」驚きと感激。短歌表現は、過程、進行形より結果を表現 したほうがいいように思うのです。「すくすく育つ」と「大きく育つ」の違いです。それか ら、苗はなんの苗でしょう。「恵の苗」もいいのですが、具体的に名前を入れるとイ メージがはっきりすると思います。短歌はまず事実をしっかりつかむことから始まると 思います。 参考:畑には去年の種がこぼれしか○○の苗が大きく育つ H子さん 歩む軸五月四日で変わりたる記憶の中に進路がありし(求めん) きみと子と暮らした部屋を壊したる姿かわれど我等のルーツ 夥し本の処分は胸刺すも空いたる棚の目次は愉快 1.作者には独特の言葉のセンスが確かにあるようです。たとえば、「歩く軸」といった 言い方です。「変りたる」はここで切れますか、それであれば、「変りたり」のほうが落 ち着くと思います。それとも、「変りたる記憶…」と下に続くのでしょうか。「たる」と連体 形で止めて余韻をもたせたのでしょうか。下の句はなかなか難しいです。「記憶の中 に進路がありし」と「記憶の中に進路求めん」で悩んでいるようですが、前者は過去で 後者は未来へ思いをはせたような感じで、おもしろいと思います。また、それが私の 理解を苦しましています。「記憶の中」とは、ご主人がご健在であったときのもろもろ の記憶なのでしょうか。 2.「部屋を壊したる」これも連体形ですね。「姿かわれど我等のルーツ」この表現も 独特です。そして、そこに作者の思いがこもっているのでしょう。媚のない表現はこれ からも伸ばしていってもらいたいと思います。 3.ここでも「空いたる棚の目次」という不思議な表現があります。棚に目次が貼って あるんでしょうか。その棚の目次が愉快と言っています。上の句で沢山の本を処分し た悲しみを歌っています。それが、下の句へゆくと愉快となるこの複雑さ。しかし、こ の愉快は悲しみの果ての愉快なのでしょう。悲しくて愉快としか言いようがないという 気持もあるのだろうと察します。説明しない、自分の気持に正直に歌を作ってくださ い。いや、すでに、そうした感じで作っておられるので感心しているのです。 C子さん 庭隅の小さき草花赤黄色如雨露の水に光る玉ゆら 元気かね大丈夫だよと母と娘の日課となりし携帯電話 物言わぬくまさんだけど「寝ようね」とふとんに抱きて安堵しねむる 1. 「庭隅の小さき草花」に目を止めたのはよいと思います。それが、如雨露の 水に一瞬きらめいたところでしょう。「玉ゆら」もせつないと思います。小さなもの に、忘れられたようなものに目をとめる。これが短歌で大切なことだと思いま す。 2.「携帯電話」が結句でびしっと決まっています。感情を抑えて、ありのままに、その ままに歌っているところがよいと思います。 3.これも、よいと思います。こんなことを歌にしてはいけないのではないかといった 考えを捨てるところから歌が生まれるように思います。一人住いのある種言うにいわ れぬ感情をこんな調子で、ある面では明るく、ちょっとユーモラスに歌う。そこに、か えって深いものも伝わるような気がします。 D子さん この海を友にいつしか古希が過ぐ少し賢き吾になりたし 貸切りの海辺でまずは心呼吸波とたわむる癒しのタイム 1.「この海を友にいつしか古希が過ぐ」という、事実をしっかりとらえた上の句 と、一転して「少し賢き吾になりたし」という思いが、違和感なく一首のなかにお さまっています。いいと思います。大きな海と小さなわれ。「少し賢き」がつつま しくていいと思います。 2.「心呼吸」は「深呼吸」の誤りではないですか。それとも、意識して「心」を使 いましたか。「心」もおもしろいとも思いますが、ちょっと浮く感じがします。ここに 目が止まってしまって、下の句がぼやけてしまう感じがします。「癒しのタイ ム」、いい言葉ですが、言葉に頼り過ぎている感じがします。こういった場合、な んとか言葉ではない、言葉であらわさない表現がほしいと思います。 参考:貸切りの海辺でまずは深呼吸波とこころのたわむれる時 E子さん 幼子の手をつなぎ行くとなりの家族我にもありし遠き日想ふ 写真帳昭和も遠くなりにけるセーラ服の様々なつかし 青春にたゝきこまれた今生も使ひはたして我古希に至れり 1.「幼子の手をつなぎ行くとなりの家族」としっかり事実をとらえています。これ がしっかりしているので、「我にもありし遠き日想ふ」が生きてくるのです。「遠き 日」という言葉にせつなさがこもります。 2.「写真帳」に重みがあります。「遠くなりにける」これも連体形で終っていま す。本来なら「なりにけり」だと思うのですが、やはり余韻をもとめているのでしょ うか。「セーラー服の様々」でいろいろ想像できますが、たとえば、「セーラー服 の様々の顔」とするともっと具体的になると思います。その具体によって気持を 表現するのも短歌です。 参考:写真帳昭和も遠くなりにけりセーラー服の様々な顔 3.「たたきこまれた今生」は、「たたきこまれた根性」ではないでしょうか。「古 希」は七十歳ですが、七十歳のころを思い出しているのでしょうか。現在のお歳 ですと、米寿でしょうか。 参考:青春にたゝきこまれた根性も古希に至りて使い果たせし (つづく)
2014.05.13
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短歌鑑賞(岩田 正の一首)追記イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年追記:今わたしは、岩田氏が馬場さんのなかに「枯れたもの」を発見したのは愛し始めて五年後、イヴ・モンタンの「枯葉」を聞いたときというように書きました。しかし、実際は三十五年後この歌を作ったときだったのかもしれません。なんとなくイヴ・モンタンのシャンソンの枯葉も気に入っていて、それが馬場さんと一体となって理解出来たように感じたのではないでしょうか。一夜経て鑑賞文を読み直しましてそんなふうに感じましたので追記しました。 もっと言えば、岩田氏ご自身のなかに、若い時より一種の「枯れたもの」をお持ちだったのではないでしょうか、そんな結論に達しました。【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】泡も一途 ...価格:2,776円(税込、送料別)
2014.05.11
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短歌鑑賞(岩田 正の一首) 後藤瑞義イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年 岩田 正「郷心譜」 歌会でも話しましたが、こういった歌をだいぶ素通りしてきたように思います。見過ごしてきたと言ったほうが分りやすいでしょうか。 シャンソン歌手のイヴ・モンタンは有名ですのでどなたもお分かりだと思います。そして、「枯葉」も名曲ですのでどなたもご存知ではないかと思います。ですから、なんらむずかしいことのない、意味もわかりやすい歌だといえるでしょう。ですから、なんとなく分ったつもりで読み飛ばしていたような気がします。 岩田正氏の奥さんは言わずと知れた馬場あき子氏です。そんなことも考え合わせますとますます味わい深くなってきます。 意味の順序からいいますと、「妻(馬場あき子氏)を愛して三十五年、イヴ・モンタンのシャンソン「枯葉」を愛して三十年になる」ということでしょう。「愛」という言葉を軽く使っているようで、あるいはそうではないようにも思います。重い言葉として胸に響きます。それにしても、なんとなくユーモラスに歌っているところが岩田氏のスタイルなのです。 まず、岩田さんは歌仲間の女性のなかで馬場あき子さんを見初めて愛すようになった。そして、五年経ったころイヴ・モンタンのシャンソンを、「枯葉」を聞いたのでしょう。そしてすっかり気に入ったのでしょう。 この「枯葉」にも意味があるように思うのですが、イヴ・モンタンの顔と馬場さんの顔はどこか似ているような気がするんです。わたしの思い違いでしょうか。そう、顔の輪郭でしょうか、目元あたりにも似た感を受けます。 「枯葉」じつはここにこの歌の秘密があるようにも感じるのです。馬場さんはテレビなどで拝見しますが、能できたえた艶のあるお声、ぱっと華やかな雰囲気がただようすばらしい女性としてわたしの目には映るのです。 岩田氏はあるいは、乙女のころの馬場さんに、なんというか、枯葉のようなものを感じたのではあるまいか。「枯れたもの」を感じたのではなかったか。その初々しい若さのなかで、仄見える「枯れたもの」を感じたのではないだろうか。それは、最初ははっきりしなかったかもしれません。馬場さんを愛するようになって五年たった頃聞いたシャンソン。その哀愁のある「枯葉」の曲。馬場さんの顔だちに似たイヴ・モンタンの歌うその「枯葉」を聞いたとき、これだと思ったのではなかったか。私が五年間愛してきたのはこれだったかと思ったのではなかったか。イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年角川短歌叢書【2ショップ購入で4倍キャンペーン開催】泡も一途 岩田正歌集/岩田正【1000円以...価格:2,776円(税込、送料込)
2014.05.10
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(十四)(下書き) 後藤瑞義(注)歌の順序は歌集の順序によります。二晩おきに、夜の一時頃に切通(きりどほし)の坂を上りしも――勤めなればかな。 啄木の「悲しき玩具」を一首目から順に鑑賞してきました。そして、十五首目のこの歌の前で立ち止まってしまいました。二ヶ月余りぱったり筆が止まってしまいました。どう解釈してよいか、糸口が見つからないのです。 二晩おきに、夜の一時頃切通しのそれも坂道を登るのは辛いことでしょう。勤めなればと、その辛さを歎いているようにも最初思われました。しかし、「坂を上りしも」と、過去の回想の助動詞「き」の連体形「し」を使っています。どうみても今現在の行動ではなさそうに思います。そうしてきますと、「勤めなればかな。」のこの詠嘆の「かな」はなんでしょうか、どういうことなんでしょうか。このへんがしっくりこないのです。 まず、一行目、二行目は過去の体験とみます、「二晩おきに、夜の一時頃切通しのきつい坂道を登ったっけれども……」 問題はやかり結句「勤めなればかな。」です。「勤めなんだからなあ。」、この詠嘆がが問題です。「(遊びではなく)勤めなんだからなあ。(そんな風に思われて、辛いとも思わなかったよ。)」、こんな解釈はどうでしょうか。 この歌の制作時期はいつごろなんでしょうか。「切通の坂」のある場所はどこだったのでしょうか。東京でしょうか、郷里の岩手県でしょうか、それとも放浪した北海道でしょうか。 晩年の啄木は病魔に冒されて寝たきりの状態がありました。たとえばそんな時期に、健康で活力に満ちて仕事に没頭していた自分をなつかしく思った…。また、その仕事というのも、必ずしもデスクワークだけではなかったのでしょう。人と酒を飲んだりするのもあるいは仕事の一環だと思っていたのではないでしょうか。 今回は、こんなところで、次に進みたいと思います。二晩おきに、夜の一時頃に切通(きりどほし)の坂を上りしも――勤めなればかな。【楽天ブックスならいつでも送料無料】悲しき玩具 [ 石川啄木 ]価格:288円(税込、送料込)
2014.05.09
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