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平成26年11月26日(水) よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 秀逸に入選する 鬱々(うつうつ)としている我をうつ病と叱るわれありそのわれ愛(いと)し(評)気分の沈む自分を別の自分が叱り、それをさらに…。自意識まみれながら自愛の中に心のバランスを取るのは健康な証拠。微妙な心理をよく捉えています。【楽天ブックスならいつでも送料無料】わが家の天使 [ 後藤瑞義 ]価格:1,296円(税込、送料込)
2014.11.26
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編集より(同人誌「賀茂短歌」11月号)下書き鑑賞ということ 自分の歌だからよく分るかというとなかなかそう単純ではありません。分るようでよく分らない、なかなか他人の眼で見ることが出来ないのです。それでは、他人の歌はよく分るのかというとほんとうはもっと分らないのかもしれません。そんなあいまいな、漠然とした気持ちで鑑賞しているのです。こう言ってしまっては、鑑賞する作品に対して失礼になるでしょう。ほんとうに、一首、一首を心をこめて鑑賞さしていただいています。そこで、私の鑑賞の仕方なのですが、一首一首の作品の世界に身を投じるように鑑賞をするのですが、作者の世界にあるいは作者の心の中に入り込もうとは思っていないということです。そうではなくて、むしろ自分の心の中に入り込んで鑑賞する手がかりをさがしているつもりでいます。ですから、作品の鑑賞は私にとってはいわば自分探しのようなものだと思っています。決して他人のプライバシーに踏み込んだりする気持ちは少しもないことを書いておきたいと思ったのです。このようなことをあえて書いた一番の理由は、実は次のようなことがあったためです。私の歌集「わが家の天使」をお送りした知人から手紙を頂きました。お礼の手紙だったのですが、次のようなことがたいへん気になったのでした。 「お返事出さなければと思いつつ、どうしてもかけないでおりました。 後藤様の心の中に立ち入ってしまうおそれに、ペンを置いてしまうのです。」 この文章を読んだとき、まず自分の作歌態度を反省しました、また短歌鑑賞が作者を傷つけていることがあることに気づかされました、この人がこのような文章を書かれるということは、ご自分の作品を鑑賞されて傷ついたことがおありなのではないかと思ったのです。 作歌にしましても、鑑賞にしましても、ともかく悩み多い、今日このごろであります。
2014.11.24
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十一月号歌評(同人誌「賀茂短歌」)下書きNO.2 後藤瑞義 後藤早苗一日を新聞読みてすごしいし母にこのごろ我も似て来た「一日を新聞読みてすごしいし母」、たぶん晩年のある日の作者の母親の姿であったのでしょう。実家が近かったのでたびたび訪ねたことがあった、そのとき母親は新聞をすみからすみまで読んでいるようだった。あるいは、母親自身がそのように話したかも知れません。新聞を読んでいる姿、ある面では世の中に興味をもっている、そしてテレビよりはより積極的な、あるいは能動的な姿なのでしょう。それと同時にあるやすらかな、平和な時の流れがそこにあるような気もします。もちろん、他人から見れば孤独な感じもしないわけではないですが、私自身はその光景に孤独感はあまり感じないのです。鏡を見て自分の親に似て来たなあと感じる作品はよく見るところです。ところで雨の日かなにかでしょうか、朝から念入りに新聞を読んでいた作者でしょうか。ふと気がつくと、ああそうだ母も生前よく新聞を読んでいた…、母親に似て来たなあ、そんな自分を発見した作者なのでしょう。 藤井美智子ひょっとして認知症かと受けとればまーるく納まる快護というは 作者は、ご自分よりあるいは年配の人と会話をしているように感じました。そうしたなかで、「ひょっとしてこの人は認知症ではないか」、作者は相手の人のちょっとした違和感にこの言葉が浮かんだのではないでしょうか。そうしてすーと緊張感がほぐれたのではないでしょうか。「まーるく納まる」がその気持ちを表した言葉ではないでしょうか。あるいは、作者は誰かを介護していたのでしょうか。介護の緊張感が「ひょっとしたらこの人は認知症なのかもしれない」と受けとることによってほぐれ、介護の文字がおもわず「快護」に変わった感じがしたのではないでしょうか。内容的にはどちらかといえば重いものですが、ユーモアをまじえることによって作者らしい機知の富んだ一首となりました。 鈴木きみ雷音がよせては返し鳴りやまず眠れぬ夜はながなが続く 雷の音が寄せては返すという表現に特徴を感じました。波の音などに使う「寄せては返す」という言葉がはたして適当かどうか作者に再考を促して置きます。その上で、これでよいと思えばこれでかまわないと私は考えます。作者にはそう感じられたのでしょう、雷の音が波の音のように聞えたのでしょう、これは他人がとやかく言う問題ではないかもしれません。感覚には個人個人の世界が確かにあるでしょうし、あって当然のように考えます。「眠れぬ夜はながなが続く」と作者は一睡も出来なかったように詠んでいますが、実は雷の音が波の音に聞えるくらいにうとうとと夢とうつつの境目にいたようにも感じられます。そのような状態であったとしたら、まさに「雷音がよせては返し鳴りやまず」という表現が生きてくるのであろうと思います。事実そのような状態であったとわたしなどは鑑賞するのです。「眠れぬ夜はながなが続く」という表現も、「眠れぬ夜は短く過ぎる」でないところに、やはり作者の苦悩のようなものを感じるのです。 土屋文恵陽に向けてすくすく伸びる苦瓜の蔓の勢い止まるを知らず 作者は今月「苦瓜」の題で連作をしています。一首目は、苦瓜の色に目を向けています、二首目は種に、赤い種の甘さに目を向けています。三首目は、肌の凹凸、五首目はゴーヤのジュースに目を向けています。そして、四首目が、ここに掲示した歌です。この歌は、苦瓜の蔓の性質に目を向けています。つまり、陽に向ってすくすくどこまでも勢いよく伸びて行く、つまりその生命力のようなものに目を向けているようです。 一首目は、苦瓜には夏ばて予防の力を秘めているらしいと言い、二首目では、赤い種が甘いのを確かめたいと言い、三首目では、苦瓜の滋養の多いのは肌の凹凸にあるだろうと言い、五首目は、一杯のゴーヤジュースを飲むことが暑さ対策の日課になったと言っています。ところでこの歌はどうでしょうか、別に作者が何かを言っているわけではないことに気がつきます。前に述べたように苦瓜が陽に向ってすくすく伸びている、その蔓のありさまをただ描写しているだけのようです。しいていえばその生命力の強さに感動している作者でしょうか。この作品は一面的な、ただ風景を描写しているように見える歌ですが、その背後になみなみならない意志のようなものが感じられるのです。作者は、いま眼前にある苦瓜とは反対の状態にあるのかもしれません。それは肉体的なのか、精神的なのか、その両方なのかは分りませんが…。そうした、作者の状態が苦瓜の題材を選んだなのではないでしょうか。(終了)
2014.11.23
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十一月号歌評(同人誌「賀茂短歌」)下書きNO.1 後藤瑞義 原 明男参道に方言たつぷり行き交ひてをさなき頃のこころを拾ふ 「方言が行き交う」、「幼い頃の心を拾う」といった把握の仕方、あるいは表現の仕方に特色があります。やはり「参道」という文字は重要だと思います。生れ育った里の神社、白浜神社の参道です。神社には幼年期よりの作者の深い思い出が刻まれているように感じます。そうした作者の思いがこのような表現をさせたのではないでしょうか。 渡辺つぎ災害はわが国のみに非ずして地球規模なり後世を憂う 近くは、御嶽山の噴火がありました。あるいは、広島でも8月に土石流による大災害がありました。また、災害は自然災害だけではないでしょう、人災もあります。作者は災害が地球規模で発生していると言っています。あるいは、エボラ出血熱だとかテロ集団のイスラム国だとか、作者が言っているように不穏な災害が地球規模に広がっている感じがします。 それにしても、作者は百三歳と九ヶ月になられます。ですから、結句の「後世を憂う」に感動せざるを得ません。このお歳でありながら、あるいは、このお歳だからこそなのでしょうか、分りませんが、現在の世界情勢を考え、後世までも憂いているこのことが感動的なのです。 常に世の中のことに関心をもち、それどころか将来の日本が、世界が平和になるように心をくだいている。そういったことがやはり長生きに通じるのでしょうか。常に、教えられます。 鈴木菊江御嶽の噴煙未だ衰へず悲しき青よこの秋の空 行方不明者を含めて六十二名の犠牲者を出した御嶽山の噴火、作者はこれに材を得て一首をまとめました。社会詠、時事詠の難しさ、映像による情報を歌にする難しさをいつも感じますし、私だけでなくかなりの人がそれに関して色々と書かいております。 さて、この作品のすばらしさは、なんといいましても「悲しき青よこの秋の空」だと思います。「噴煙未だ衰へず」というところから、実際の噴火から何日か過ぎた頃の御嶽山の状態をテレビでご覧になった作者なのでしょう。 いつになくよく晴れた日だったのでしょう。真青な空そこに噴煙が白くもくもくと噴きあがっている。ここに、「悲しき青よ」という言葉が自然と浮かんだのかもしれません。天高く馬肥える秋、澄み通った青空、本来はプラスイメージであるはずの青空を「悲しき」と言わざるをえないほど、それほど御嶽山の噴火がいたましいということが言外に感じられます。ここがすばらしいと思うのです。 黒田幸子いつ見ても太平洋は青い色空にとんびがぴーひょろとなく 「いつ見ても太平洋は青い空」、まずこの言葉が、なんといいますか、目が止まりました。たとえば白浜にお住まいの原さんはどのように感じたでしょうか。毎日海を見ていらっしゃる原さん、雨の日も曇りの日もあるでしょう。ここに、この一首の特色があると思います。作者は海から遠いところに住んでいらっしゃるのでしょう。もっといえば、幼少の頃から海から離れているところに住んでいらっしゃった。海へのある思い入れがあった、それもあるいは幼少の頃からだったかもしれません。そんなように私には感じられたのです。 「太平洋」、名前からして広々と平和なイメージを感じます、そして青い色。作者は過去に強力にそのイメージに接した体験があったのではないでしょうか。それは、たぶん心安らぐような、平和な楽しい思い出ではなかったかと推察します。 作者は、妹さんと静岡方面に旅行をされたようです。その日も空が青あおと澄み、とんびがのんびり飛んでいます、もちろん太平洋はあの時と同じように青い色をしていたのでした。(つづく)【楽天ブックスならいつでも送料無料】一日一日はたからもの [ 渡辺つぎ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.11.23
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平成26年11月18日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する土砂降りの雨ふるなかをワイパーが死に物狂いに働いている
2014.11.18
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(三十)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 今日ひよいと山が恋しくて 山に来ぬ。 去年腰掛けし石をさがすかな。 まず、「今日ひよいと山が恋しくて」は、句読点が付いていませんから、次の行の「山に来ぬ。」に直接つづくのでしょう。そして、「山に来ぬ。」と句点が付いていますので、いったんここで文章が終了します。なにか、軽い気持ちで、あるいは文字通り「ひょいと」、つまり突然に山が恋しくなった、そして今山に来ている。別に何か目的があったわけではなさそうです。「今日山がちょっと恋しくなって、山に来てしまった」といった感じですが、多少とまどいといいますか、後悔のようなものが余韻として感じるんですが、私の気のせいでしょうか。三行目「去年腰かけし石をさがすかな。」これは、完全な独立した文章です。ただ、一行目、二行目とまったく無関係ということではないでしょう。啄木はこの山に去年来ているのです。その思い出、どういう思い出か分かりませんが、たぶん心安らいだといいますか、なにか良い思い出があったように思われます。なにか、満たされない感じ、あるいは焦ったり、落胆したり、あるいは望郷の何かがあったのでしょうか。なにもないのだけれど、ひよいと山が恋しくなって、山に来たのでしょうか。しかし、山に来て気が付いた、そこは茫茫と風がふいているだけ、「オレはなんで山にきたのだろうか」そんな啄木のため息を私は感じるのです。そして、「去年腰掛けし石をさがすかな。」です。去年山に登ってきた時、その疲れを腰掛けていやした石なのかもしれません。なにか去年のあの気持ちを思い出したくなって、去年腰かけた石をさがした。そして、せめても今山に来たことを後悔している自分のこころをなぐさめたい、そんな啄木の気持ちを感じるのです。 今日ひよいと山が恋しくて山に来ぬ。去年腰掛けし石をさがすかな。【楽天ブックスならいつでも送料無料】一握の砂/悲しき玩具改版 [ 石川啄木 ]価格:464円(税込、送料込)
2014.11.15
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白浜短歌会十一月歌評no.2下書き(十一月十七日) 後藤瑞義 E子さん 赤青のあじさい咲いた窓の下空も青あお心なごます 隣の子生れしことを知らされし今は小学四年のやんちゃ 1.六月に赤色青色のあじさいが咲いていた窓の下を作者はながめているのでしょうか。今は十一月、あじさいの花はすっかり枯れています。ふと空を見上げると、あのあじさいの花の色のように青あおとしていて心がなごんだということだと思います。それとも、この歌は六月に作った歌でしょうか。 2.隣の家に子供が生まれたと聞いたのを昨日のように思い出す作者ではないでしょうか。その子供が今はもう四年生になっている、今やんちゃに走り回っている、それにひきかえこのわたしは…。こういったことを想像しましたがどうでしょうか。 参考:隣の子の生まれしころを思い出す今はやんちゃの小学四年 F子さん 耳鳴りも夏と秋とがあるらしく蝉の声消えくつわ虫鳴く 夕陽さす庭を飛び交う蜻蛉も少なくなりて秋深みゆく 目と耳の悪しき吾をば助けくれる吟友 ( とも )に応えて吟詠に出る 1.作者は難聴に苦しんでいるようです。それは耳鳴りを伴うのでしょう。それをこのようにさりげなく、多少ユーモアをもって表現するところがいいと思います。 2.今、夕陽がさしている庭を蜻蛉が飛んでいます、しかしその数がめっきりすくなくなったのを作者は感じたのでしょう。そして、秋が深まったのを感じたのでしょう。3.作者は目と耳がご不自由のようです。そういう作者をなにかと助けてくれる友がいるようです。その友は、「吟友」となっています。作者を知らない人がこれを読んだら、俳句かなにかを作る友と思われるかもしれません。実際は詩吟の友だと思うのですが。ですから結句は「詩吟に出かける」でいいのではないでしょうか。「吟詠」は短歌を作ったり、声を出して歌うことにも使います。 G子さん 高く咲くしおん大きくなびきつ丶野分過ぎたる秋の日を受く 立冬の夕日の庭に確と立つつはぶきの花黄にかがやけり 1. しおんは、キク科で、紫色の花で背が百八十センチにもなるようです。それに絶滅危惧種となっているようです。その背が高いしおんが大きくなびきながら台風の過ぎた秋の日を受けているといった風情でしょうか。俗にいう台風一過の青空でしょうか。なにかそうしたことが作者の境遇とも重なっているのかもしれません。 2. 暦の上ではこれから冬となるという二十四節気の一つ、立冬の日。それも夕方、夕日の庭にはっきりと立っているつわぶきの花が明るく輝いている。これから、きびしい冬となるというのに、このつわぶきの花は夕日にきらきらと黄にかがやいている、そこに作者はひどく感動したのでしょう。 赤トンボ 原 明男 赤トンボ追ふ子らも無き夕空に遠くなりたる昭和を遂へり 思ひ出はとぎれとぎれに赤トンボ友らも逝きて暮れ泥む空 1.童謡にも歌われている「赤トンボ」、今はその赤とんぼさえ追いかける子供の姿が見られなくなってしまった。今夕暮の空をながめならが作者は自分の子供時代を思い出しているのでしょう。結句の「昭和を遂へり」に思いが込められています。 2. 一首目からの連作です。しかし、短歌は原則として一首独立です。まず、「思い出はとぎれとぎれに」ということです、遠い昔を思い出しているといった感じです。それが、子供時代と連想させるのが「赤トンボ」です。子供時代を思い出している作者、赤トンボを元気に追いかけた記憶、多分薄暗くなるまで遊んでいたのでしょう、その元気にいっしょに遊んだ友も今は亡くなってしまった。色々思い出は尽きないような作者に夕空も暮れ泥んでいるようです。上の句と下の句を、直接的にはなんら関係のないような「赤トンボ」という言葉を置いてうまく連結している、みごとな、ある意味ではたいへん技巧的な一首だと感心しました。
2014.11.14
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白浜短歌会十一月歌評no.1下書き(十一月十七日) 後藤瑞義 A子さん 若衆のバチ打つ太鼓の音響は日頃の熱意素晴らし実り 秋祭り孫ひ孫里帰(かえ)り賑わいて御馳走いただき満腹の笑み 1.祭りで太鼓の演奏を見たのでしょうか。それがすばらしかったのでしょう。太鼓の音を「音響」と表現し、何日か練習していることを、「日頃の熱意」と表現していること、ただ素晴らしいというだけでなく、「素晴らし実り」と表現している点が新鮮でした。「音響」とか「熱意」などという観念的な言葉は、短歌では普通は使わない努力をするのですが、それが、妙に新鮮に覚えるのは、結句の「実り」にあるのかもしれません。今秋ですし、「実り」のことばに実感がこもります。 2.「満腹の笑み」に実感がこもるのでしょう。心も満ち足りた感じです。多分作者はお孫さんやひ孫さんたちがにぎやかにしているのを見るだけで満たされるのでしょう。「満腹の笑み」と傍観している感じが出ています。自分がその中に入っていくのではなく、少し離れたところで静かに傍観している感じが出ています。そこが少し寂しい感じがします。 B子さん 富士山も観る方向で姿変え八頭身に帽子の白く 大瀬岬不思議神池廻るなり鯉群れなして餓え餌求む 切り通しでかき猪鉢合せ夫の話しに身震いをせし 1. 冠雪の富士を詠っているのでしょう。少し遠くから見ているのでしょう。八頭身に見えるようです。作者はやはり普段より容姿に気をつけているようです。「八頭身」「帽子の白く」にその片鱗が伺える気がします。「姿変え」「帽子の白く」両方とも言い差し(終止形で終っていない。)です。たとえば「姿変ゆ」と終止形にすると落ち着くでしょう。 2.神池は海辺にあり海水が入るにもかかわらず淡水で、鯉、ふな、なまずなどが生息しているようです。その不思議さと鯉が群れなして餌を求める姿と二つのポイントが一首のなかに盛り込まれているように思います。ひとつにポイントをしぼったほうが良いかもしれません。神池と名の付いているのに鯉が餓えているというのは鋭い観察だと思います。参考:海水の入る大瀬の神池は不思議に真水となりて鯉棲む参考:神という名の付く池に群れなして餓えたる鯉が餌を求むる 3.「切り通し」は、山道でしょうか。ご主人が山道で大きな猪に出会った話しを帰ってきて話したのでしょう。作者はまるで自分のことのように驚いた感じです。しかし、こういった又聞きの話を歌にするのはむずかしいのです。テレビ映像の津波や噴火などが歌にするのがむずかしいのに似ています。ただ、「でかき」という言葉に、実感が感じられました。 参考:「山道でデッカイ猪に出合った」と少し青ざめ夫が話す H子さん(新人) サソリ座はどれと言いし娘(こ)母となる霜月の夜ほのぼのなりぬ 爪ほどの勇気たよりに歩く道一羽の雀おもえもと問う せわしげに行き交う蟻に目をこらす愉快半分哀しみ半分 1.「サソリ座はどれと言いし」、「し」は単なる過去ではなく、正しくは過去の回想の助動詞です。たとえば「子供のとき娘が夜空を見上げてわたしにサソリ座はどれと聞いたことがあった」というような解釈です。その子が母親になった、それも十一月、生れた子供は西洋の星占いではさそり座となる、そんなことを思いながら、そんな偶然をおもいながら、孫の誕生にほのぼのとした気持ちになった…といったことでしょうか。 2.「爪ほどの勇気」という喩えが、やはり新鮮な感じがしました。これは「爪のあか(少ないこと)」ということばが下敷きにあるのだろうと思います。「一羽の雀おまえも」など、雀にたよりなさを感じるのは、一茶の「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」を思いだしました。「一羽の雀」としたところはよいとおもいます。 3.「せわしげに行き交う蟻」はひとつの嘱目です。この光景を「愉快」と感じる心と「哀しい」と感じる心、作者の複雑な心を反映している言葉なのでしょう。一首のなかに相反する言葉を入れることは悪いことではないでしょう。むしろ深みが出るでしょう。また、一方の言葉たとえば「愉快」を強調することによって、余韻として哀しみを出す方法もあります。いろいろ挑戦してください。 C子さん ヤブ蚊にも好きときらいがあるらしくいつもポケットにムヒを入れおく 足腰も大分つかれた九十才息子(こ)にすすめられ介護施設(デイサービス)へ 十月の庭にサヤエンドウの種をまき朝なあさなに発芽待ち居り 1. 「ヤブ蚊にも好きときらいがあるらしく」と一般論を述べているかにみえるのですが、下の句で、作者は蚊に好かれているんだというのが分ります。なかなかユーモアがある歌です。作者にとっては笑っていられない深刻なことかもしれませんが。 2.「足腰も大分つかれた」とため息をついているようです。「も」がきいているようです。「息子にすすめられ」に思いが籠っているようです。「介護施設」と「デイサービス」ですが、どちらでもよろしいかと思いますが、「デイサービス」のほうがちょっと軽い感じがしますので、作者の気持ちによってどちらかにしたらよろしいと思います。 3. 「十月の庭」という言い方が新鮮です。ちょっとさびれた感じでしょうか。そんななかにサヤエンドウの種をまき、毎朝芽が出てくるのを確かめています。なにか希望のようなものを感じました。 D子さん つぎ様の短歌(うた)の至誠にちょっぴりと詠む楽しさのヒントをもらう 初穫りの大根きれば柔らかく刃先につきし水滴ひかる 1.まず、「至誠」ということばに目を留めました。そういう意味では、成功したといえるかもしれません。しかし、こういう観念的な言葉を使うのは要注意です。ひとつは、ものごとを観念で理解しているということです。これは短歌にとって最大の敵と考えてください。啄木は「新しい明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」と詠んでいます。「新しい時代」とか「新しい社会」とかでなく「新しい明日」です。この違いを感じてください。多分「時代」とか「社会」の方がこの作者にとっては分りやすいのではないかと思います。それが観念的な頭になっている証拠だと思います。 参考:まごころを込め作られるつぎさまの百三歳の歌に教わる 2. なかなか細かいところに目が届いていることがたいへんすばらしいと思います。一首目と比べると全然違うと思います。大根、刃先、水滴と具体的で観念的ではないのです。こういう作り方をされるといいと思います。この歌の中心は下の句だと思います。「初穫り」というようなことでなくても、「初もの」くらいでもいいではないでしょうか。三句目で止めると一息つけると思います。参考:初ものの大根切ればやわらかく刃先につきし水滴光る(つづく)
2014.11.14
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平成26年11月11日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する大いなる沈黙がありひと言を言わんとすれば山が噴火す
2014.11.11
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短歌鑑賞(大西民子の一首)下書き 後藤瑞義かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は 大西民子『幻の椅子』 まず、先入観なしにこの一首だけに心を集中したいと思います。何度か読んでるうちに、この歌は、下の句と上の句を倒置して解釈したほうが良いのではないかと思ったのです。つまり、「あくがれて待つ夜もなし今は」、けれども「かたはらにおく幻の椅子一つ」という感じです。 昼は勿論、寂しい夜も、今夜こそ今夜こそと思いこがれて待つことは、今はなくなってしまった。しかし、わたしのかたわらには、目には見えない幻の椅子を一つ置いている。彼がもし帰ることがあったならいつでも座ってもらうようにと…。「あこがれて待つ」となっていることから、死別ではなく、男性のほうが一方的に冷たくなって別れた感じです。そんな男性を、自分を裏切った?男性を、まるで母親が駄々っ子を、あるいは出来の悪い息子を遠く見守るような感じで心に留めている。そんな女性のいちずさ、あるいは強さを感じ、感動いたしました。かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は
2014.11.09
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平成26年11月3日(月)読売歌壇 栗木京子選 一席に入選する栗の実が豊作なればイノシシも山で足らえているのであろう(評)栗の実が豊作で、イノシシに荒される心配がない。安堵しつつ、作者はイノシシに温かい思いを寄せている。イノシシにも人間にも地球にも豊かな秋であってほしい。
2014.11.03
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11月1日よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 佳作に入選する園児らが植えしさくらもうめの木も廃園となり伐り倒さるる(評)幼稚園(保育園)が廃園になった理由はわかりまでんが、更地になる寂しさが桜や梅の伐採により察せられます。無駄の無い表現の中に心情が籠もります。
2014.11.01
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