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平成26年9月30日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する上空の寒気と地上の熱気とがぶつかり合いて雷鳴しきり 後藤瑞義
2014.09.30
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(二十七)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 なつかしき 故郷にかへる思ひあり、 久し振りにて汽車に乗りしに。「なつかしき」で行が分かれています。「なつかしき故郷」ではなく、あくまでも「なつかしき」で行が分かれています。ですから、「なつかしき故郷」と、「なつかしき」と「故郷」をくっつけて解釈するのは避けたいと思います。そうは言うものの「、」「。」が「なつかしき」に付いていませんので、やはり二行目への関連性は大いにあると思います。 「なつかしき」で一息つき「故郷にかへる思ひあり」なのです。「なつかしき故郷」というより「なつかしき思ひあり」なのだと思うのです。そしてここに読点「、」がつき行が分かれて「久し振りにて汽車に乗りしに。」となります。 それにしましても、「思ひあり」とはどういうことでしょうか。「思ひせり」とか「思ひ湧く」とかではなく、「思ひあり」とはどういうことなのでしょうか。「ある」存在するというわけです。「思ひ」というものが、あたかも物体かなにかのように「あり」、そこに「あった」というのです。 この歌の中心はやはり、三行目「久し振りにて汽車に乗りしに。」だと思います。久し振りに汽車に乗った啄木、何かの仕事の用事か、ちょっと分かりませんが、汽車に乗ったのでした。久し振りに駅に行き、切符を買い、汽車に乗り座席に座る。汽笛の音がする、蒸気や煙のにおいがする、皆久し振りのはずです。そんな環境のなかで、当初考えてもいなかった思い、故郷にこれから帰るような思い、最近すっかり忘れていた思い、なつかしい故郷に帰る思いに驚いたのではないでしょうか。まるで故郷に帰る思いが、風呂敷包みかなにかのように座席の上に置いてあったような、そんな不思議な感じを受けたのではなかったろうか。なつかしき 故郷にかへる思ひあり、 久し振りにて汽車に乗りしに。
2014.09.23
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九月号歌評下書き(「賀茂短歌」9月号より) 後藤瑞義原 明男あす帰省(かえ)る孫にと竿を振る老いの手竿に跳ねる鰺の銀鱗 帰省されたお孫さんが明日帰るというのです。なんかしてやれないかとあれこれ考えた作者ではなかったでしょうか。釣りをした作者なのですが、お孫さんといっしょだったか、一人で行ってお孫さんへ食べさせることが出来る鰺の収穫に喜んでいるのか、はっきりしません。しかし、結句の「手竿に跳ねる鰺の銀鱗」という描写に作者の喜びがあふれています。「鰺の銀鱗」という表現が文字通りきらきらかがやくようでよろしいのではないでしょうか。「手竿」という表現もよかったと思います。なにしろ、作者の心踊りがよく伝わります。孫の歌はどうしても甘くなると言われます。その点作者も承知しているのでしょう、自分を第三者のように「老い」とのみ表現しています。ちょっとしたことですが、大切なことだと思います。渡辺つぎ百歳を越えてはじめて知りしこと長生きの宝ひろうことあり 百歳を越えてはじめて知ったことがあったと作者は言っています。それが、長生きの宝をひろうことだと言っているように思います。「長生きの宝」とはどういうことか、あるいは物かは具体的にはこの歌では分かりません。作者自身が百歳になって初めて知ったことなのですから、七十一歳のわたしにわかろうはずがないとも思われるのです。いやあるいは作者自身もそのような含みをもってこの作品を作っているようにも思われます。つまり、百歳になると、ああやっぱり長生きしてよかったというような、おもいもよらぬ宝物をひろうことがありますよ。だから、どうか百歳になってみてください。ならなければいくら説明してもきっと分からないでしょうから…。そう作者が言っているように思えます。鈴木菊江立ちこめし霧の中より一すじの光の如き夏鶯のこゑ あたりが霧にもやっている、そうした状態なのでしょう。そうした、もやもやとしたなかより鶯の声がしたのでしょう。その鶯の声を一筋の光のようだ把握したところが特異な感じがします。夏鶯ですので、めずらしかったのでしょう。またその鶯のこえが透き通った、霧をも晴らすような一筋の光のようだったというのでしょう。鶯の声を聞く前の作者自身の心持はどんなものだったのでしょうか。あるいは、作者の心理状態も霧がかかったようだったかもしれません。それが、鶯のひと声でぱっと一瞬晴れたように思ったのではなかったでしょうか。 黒田幸子新しく買った方がと言われても思い出の時計は修理に出そう 最近の傾向といいますか、世の移り変わりといいますか、時計も最近は消耗品化しているようにも思われます。また、最近では携帯電話などが普及しまして、時刻はそれで知ることが出来るために時計を持たない人も少なくないようです。ただ、長く身につけているとなにか単に時刻を知るためのものではなく、一種の生き物のようないとおしさをおぼえるようになるようです。まして、思い出の時計、どのような思い出があるのか知りませんが、大事なものなのでしょう。いくら新しい時計であってもその思い出を埋合わせることはできないでしょう。修理に出していつまでも身近において置きたい作者なのでしょう。 後藤早苗畑仕事やめようかなと思いつつ今年も種をあれこれと買う農作業の大変さを熟知している作者です。最近は体がきつくなってきてやめようとおもったのでしょう。しかし、やっぱり今年も種を買ってしまった。それも、一種類ではなく、あれこれです。やはり収穫のときの喜びがそうさせたのでしょう。子供達の喜びの顔、知人親戚縁者の喜びの顔、そんな喜びの顔を見るのが楽しみの作者なのでしょう。 藤井美智子はつらつと女性キャスター向日葵をバックに立ちて「大暑」を告げる はつらつと女性キャスターがニュース番組かなにかで今日の暑さを報道しているのでしょう。そう、「きょうは二十四節気のひとつ大暑です」とでも言っていたのでしょう。そしてキャスターのバックには向日葵が、多分数百あるいは数千という向日葵が植わっていたのかもしれません。その太陽をイメージする向日葵がいやがうえにも暑さを増幅するようです。それと同時に、女性キャスターのはつらつさをますます印象付けるような効果があります。ところで作者はこの女性キャスターのはつらつさに感動しています。あるいは、作者はこのキャスターとは逆な感じを持っていたのではないでしょうか。なんと生き生きとしたキャスターだろう、わたしもこんなにはつらつとしてみたいといった思いが一首になったように感じました。 鈴木きみねむられず一人起きてる真夜中のこのしじまこそわれのときかな 真夜中です、作者は眠られず起きています、他の人は当然眠っています、起きているのは作者だけです。あたりはしんと静まり返っています。多分作者の心もしずまっているのでしょう。これは、眠れないために与えられた時間だと作者は気がついた、あるいはプラスに考えたのかもしれません。多少負け惜しみ的な感じもしないではないですが、そのプラス思考がよいと思います。 土屋文恵トントンと槌音高く海の家活気呼ぶごと組み立て始む 題が「夏の到来」となっています。作者にとっての夏の到来は、まず海の家の組み立てから始まるようです。「組み立ての槌の音から始まる」といったほうが良いかもしれません。そして作者は、「活気呼ぶごと」といっています。作者の住んでいられる白浜、夏の賑わいは下田随一です。ただ、最近はやはり少し翳りがみえるのでしょうか。下田市全体がそうなんです、そんななかで白浜の賑わいは下田市にとって頼みの綱でもあるのです。作者もやはりそんな気持ちがあるのかもしれません。
2014.09.20
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白浜短歌会九月歌評(2)下書き 後藤瑞義C子さん父母の戒名古りしも大切に朝の御膳に安体祈りぬひたすらにただひたすらに働いて安堵の老後歩くしあわせセプテンバー長袖半袖着替えては残暑の一日ほっつと息つく1.短歌に複雑さをもとめるのはよくないようです。この場合、「安体祈りぬ」です。「父母の戒名古りしも大切に朝の御膳をお供えもうす」などとすると意味もすっきりします。「安体」は「安泰」が一般的だと思います。誰の安泰でしょうか、たぶんご自分のあんたいだとおもうのですが、あるいは息子さんやお孫さんの安泰かもしれません。2.「安堵の老後歩くしあわせ」は、普通は、「安堵の老後過ごすしあわせ」などとなるとおもうのですが、「歩く」としたところに作者の実感が感じられます。3. 作者は今年九十歳になられるのですか、「セプテンバー」とはしゃれています。ただ、なぜ「セプテンバー」なのかの、作者の考えが分からないのが残念です。なにか意味があるのでしょうか。「残暑の一日」ですから、「着替え」は長袖になったり半袖になったりすることですか。参考:長月の残暑のひと日半袖に着替えなおしてほっと息つく D子さん友の母作りし野菜を持たせくれくつろぐ衣服 ( ふく )に母が重なる亡父母 ( ちちはは )に朝餉をつくる夢をみた少し気になり遺影に尋ねる 1.友を訪ねたのでしょうか、帰りに母親が出てきて自分で作られた野菜をくださった。「くつろぐ衣服」というのが分からないのです。こちらをくつろがせてくれるような服装、作業着姿なんでしょうか。このへんを事実をしっかりつかみたいと思います。事実だけでよいと思います。その意味を自分なりに翻訳する必要はないと思います。いや、むしろそうすることで読者がかえって迷ってしまうのです。参考:作りたる野菜くださる友の母野良着が母に重なる 2.「少し気になり」がやはり気持ちの説明のように思います。見たものを細かく描写することは必要です。ただ、それは説明ではなく、描写ですから必要になるのです。短歌に説明は不要ですし、説明は出来ないと思います。「なぜ気になったのでしょうか」、毎朝お供えはしているのでしょう、だから気になったのではないですか。それから、やはり時間が入っていますのでそれは改めたいと思います。 参考:父母にお供えするを欠かさぬに朝餉をつくる夢に醒めたり E子さん 伊豆の奥天城の山を一人越 ( こ )えおもいで深し昨日のごとく 夕風の吹きたるまど辺また明日おやすみなさいと大空あおぐ 1.作者の歌い方が独特なので、普通の歌い方を参考に書きます。「思い出新し」と参考では直しましたが、ここは、「思い出深し」の方が文字通り「深み」が出るでしょう。 参考:奥伊豆の天城を一人越えし日の思い出新し昨日(さくじつ)のごと 参考:奥伊豆の天城を一人越えし日の思い出深し昨日のごと 2.夕風が吹いて、窓をとんとん叩いたようにかんじたのでしょうか。誰か来たかと窓辺によっていって、もちろん誰もいません。ただ、太陽が西に大きく傾いています。太陽に向って作者は「また明日お会いしましょう。おやすみなさい」と大空を見上げながら心のなかでつぶやいたのではなかったでしょうか。 参考:夕風の訪いたる窓辺また明日おやすみなさいと大空あおぐ F子さん昨日より巣篭りしたのかうぐいすよ又会う日迄お休みなさいいのししに踏まれ枯れたるコスモスの中より咲ける黄花愛とほし孫悟空如意棒もちて漕ぎおらん悠々流る白雲 ( はくうん )ひとつ1.ここにも、「お休みなさい」が出てきています。昨日より鶯の鳴き声がしない。巣篭もりというのがどういう状態か分かりません。特に鶯が巣篭もりをするのか、するとしたらいつなのか、そういう鶯の生態がわたしには分かりませんのでなんともいえないのですが、やはりこういう言葉を使うにも注意が必要だと思います。下の句が軽い感じの言い方ですのでやはり気になるのです。それより事実を事実のままに歌うことが重要です。昨日から鳴き声がしないのならしないと歌えばよいと思います。参考:昨日より鳴き声がせぬうぐいすよまた会う日までお休みなさい2.短歌で重要なのは事実であると思うのです。事実の強さ、事実の重さで勝負してあれこれ飾りをつけないことです。たとえば結句の「愛とほし」です。これは、事実に接したひとなら自然と湧いてくる感情で、ことさら作者が説明する必要はないと思うのです。枯れたコスモスの群れのなかより一本か二本か分かりませんが花が咲き出した。これが事実ではないでしょうか。参考:いのししに薙ぎ倒されしコスモスの群に一本黄花咲きたり3.口語では「流れる白雲」となると思うので、文語ですと「流るる白雲」となります。こういう空想もあるとは思います。いろいろな歌い方がありますので批判的なことばかり言ってもしかたないと思います。ただそういう空想をする心理状態は分からないではないと思います。現実を離れてのんびり雲にでも乗って遠い世界に行ってみたいような心理でしょうか。 G子さん夕月夜こころしづめて香たけば静けき庭にすゞむしの声まだ馴れぬ杖を忘れて帰りきぬあわてるわれに夫の一声(転ぶなの一声) 1. 「夕月夜」「香たく」「静けき」「すゞむしの声」静かなことばが並んでいます。そんななかで「こころしづめて」という言葉が伝わってきます。作者の心は必ずしも静かな心境ではないのかもしれません。2. 「夫の一声」でよいと思います。これで十分「転ぶな」の気持が込められていると思います。結句の「夫の一声」が強く響きます。病院からの帰りでしょうか。
2014.09.19
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白浜短歌会九月歌稿下書き(1) 後藤瑞義 A子さん施設にて心行く迄介護受け一日楽しみ今日は晴れ晴れ脳トレに励げむ老達平然と笑顔の中で難問解き行く1.「今日は」となっています。また、「晴れ晴れ」としています。「今日は」「は」で強めていますから、昨日は違っていたかもしれません。「晴れ晴れ」は、実際の天候も晴れていたかもしれませんが、心が晴れ晴れしている感じを受けます。いっそのこと「こころ晴れ晴れ」とすることも出来ると思います。短歌は事実をそのまま具体的に述べることが大切です。参考:温泉に入りぬり絵やパズルして施設を帰る心晴れ晴れ2.「脳トレ」とは具体的にどんなものか分かりません。脳のトレーニングというのですから、パズルなどが私には浮かぶのです。自分では解けない例えばパズルを「平然と笑顔の中で解く」人を作者は感心して見ているのではないでしょうか。「老達」と複数にすると光景が漠然としますので、しぼったほうがいいと思います。傍観的でなく常に自分にひきつけたいと思います。参考:脳トレのパズルに励む老い一人われに微笑み楽らくと解く猪 B子さん猪が今庭に居る知らせ有りとうとうわが家餌場になりぬ二三日(にさんにち)前に四五(しご)軒離る庭今我家来たでかし猪1.なかなか恐ろしい状況です。「とうとうわが家餌場になりぬ」は少し観念的です。実際に見た光景を書きたいと思います。「花壇を掘っている」とか、リアリティがほしいと思います。知らせを受けて作者はどうしたのでしょうか。すぐ見にいったのではないでしょうか。もうあきらめて、恐ろしいので見にも行けなかったのでしょうか。「とうとうわが家餌場になりぬ」のなげきもそれなりに作者の思いは表れているのですが、もう一歩踏み込むとすばらしい歌になるように思ったのです。2.なにか、舌たらずの表現ですが、それが実感なのでしょう。ただ、こういう表現は、物語の荒筋のような感じです。事柄の説明、猪が自分の家の庭に来たことについてのひとつの説明だと思うのです。短歌は説明でなく、あるいは地図でなく、ハプニングであり、エピソードそのものが短歌だと思うのです。大きな猪がどんな風だったのでしょうか。どんな行動をとったのでしょうか。その猪に的をしぼって大写ししたいものです。参考:大きなる猪が今わが庭の花壇の土を掘り返しおり H子さん(新人)この夜空スーパームーンに幕張りて年に一度の月見叶わず田園の景色守りし人絶えて決壊地区にいつまで住まん背の高いきみをいつも見上げてた猫背の肩越し空も高くて1.「スーパームーン」「幕張りて」などがなかなかおしゃれな感じがします。これでいいとおもいます。参考:この夜空スーパームーンに幕が張り年に一度の月見叶わず2.田園がまず広がっている。そして、里山が続いている。そんな自然のなつかしいような光景が浮かびます。その里山が問題で、今話題となっている、山津波といいますか、土石流といいますか、そんな決壊の危険のあるところで住んでいらっしゃるのでしょうか。あるいは、近くに河川があり、決壊の危険があるのでしょうか。「田園の景色守りし」というのが、特に田園というのがわかりずらいと思います。「田や畑」といわず「田園」という言葉を使うのが作者の思い入れなのでしょう。この歌は内容が深い、あるいは複雑さを含んでいます。上の句と下の句が作者の心では融合しているのでしょうが、第三者がなかなか入り込めない複雑さがあるようです。ご主人のために我慢して決壊地区に住んでいらっしゃったのでしょうか。なかなか複雑です。3.「背の高いきみをいつも見上げてた」、「猫背」こういう表現は良いと思います。事実のままと言われるかもしれませんが、その事実のままがいいと思います。それにより、作者とご主人のなんともいえぬよい関係が思われます。「見上げる」というのは単なる見上げる以上の含みというか、思いがかんじられ、「猫背」にしても、なんとなくご主人の作者に対する思いやりみたいなものが感じられるのです。「空」が出てきますが、亡くなられたご主人に対する思い、いま天国にいるであろうご主人に対する作者の思いを感じるのです。(つづく)
2014.09.18
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百三歳 渡辺つぎさん 歌集出版 (9月14日 伊豆新聞より) 敬老の日(15日)を前に、下田市最高齢者の一人・渡辺つぎさん(103歳)の歌集 「一日一日(ひとひひとひ)はたからもの」が出版大手角川出版から発行された。100 歳でだした「ひこばえ 百年の譜」に続く歌集第2弾。「100歳で終わるつもりが、まさ かここまで出るとは思わなかった。夢みたい」と笑顔でかたった。 ☆ からっぽの記憶の箱よ泣くなかれこれからためるたのしみがある ☆ 音量をしぼりラジオ体操中誰ものぞくなよ百二歳なれば ☆ 介護不要百四歳への一日(ひとひ)なりとりこぼさぬよう生きねばならぬ 【楽天ブックスならいつでも送料無料】一日一日はたからもの [ 渡辺つぎ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.09.14
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本日9月14日、わが同人誌「賀茂短歌会」の会員である渡辺つぎさんが角川出版から歌集を出されました。それに先立ち田中章義氏のブログに次のような記事が載っておりますので参考のために掲載いたします。『一日一日(ひとひひとひ)はたからもの』(渡辺つぎ著) 2014年08月09日(土) 来月、103歳の歌人・渡辺つぎさんの歌集が刊行されることになった。『一日一日(ひとひひとひ)はたからもの』というタイトルで、100歳以降に詠んだ歌が、一冊にまとめられるのだそうだ。先日、角川書店の編集長と担当編集者からゲラを送っていただき、驚いた。思わず拍手を贈りたくなる一冊だ。刊行前なので内容の詳細には触れないけれど、1300年の短歌史に燦然と輝く、奇蹟の一冊なのではないか。著者の渡辺つぎさんとは以前、ラジオ番組で一緒に出演したことがあった。郷里の大先輩ということもあって、お会いするのがとても楽しみだった。90分の特別番組づくりのために長いインタビューをさせていただいたけれど、100歳を越えて元気なお姿と明治生まれの女性の気概や謙虚さ、すばらしさをあらためて全国のかたに語り継ぎたいと思った。今回、100歳以降の歌を集めた歌集が誕生することで、日本中の人々が驚くことだろう。103歳のひたむきさを。103歳のユーモアを。103歳の情熱を。103歳の希望を。願わくば、英語をはじめ様々な言語に翻訳されて、世界の人々を驚嘆させてほしい。100歳を越えて、なお、齢(よわい)を重ねることが歓びだと世界中の人々に実感してもらえたら、とてもすごいことだ。ただただ、拍手。ただただ、敬服。単なる歌集ではない。人類全体への希望の書なのではないか。【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】天地(あめつ...価格:1,404円(税込、送料別)【送料無料選択可!】一日一日はたからもの[本/雑誌] / 渡辺つぎ/著価格:1,080円(税込、送料別)
2014.09.14
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(二十六)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 何がなく初恋人のおくつきに詣づるごとし。郊外に来ぬ。まず、順序としては、「郊外に来ぬ。」が最初ではないでしょうか。一行目の「何がなく」は、二行目「初恋人のおくつきに詣づるごとし。」に続くのが自然です。 まず、郊外に来たのでしょう。久しぶりに来たように感じます。それが、つまり、郊外に来て啄木が感じたことが、「何がなく初恋人のおくつきに詣づるごとし。」だったというのでしょう。ここで重要なのは、句点だと思います。つまり、「何がなく初恋人のおくつきに詣づるごとし。」と「郊外に来ぬ。」は別々の独立した文ということになります。 わたしは、句点についていま重要と言いました。しかし、読点も重要です、たとえば一行目の終わりに、読点がないのもけっこう重要のように思いました。つまり、行は分かれていますが、一行目と二行目はかなりくっついている、一体と考えてよいのだと思います。 そして、啄木の短歌を鑑賞する上で、この行の分かれていることもおろそかに出来ないように思います。「何がなく」でいったん切って、二行目に、行が分かれます。これが一行ですと、つまり、「何がなく初恋人のおくつきに詣づるごとし。」となると、意味的には「何がなく…詣づる」ということになろうかと思います。そうでなく、あくまでも「何がなく」、「初恋人のおくつきに詣づる」と別々に考えたいと思います。 「何がなく」は、「何となく」ではなく、「何がなく」です。文字どおり、「何かがなく」、ものたりなさのような気持ちになったのではないでしょうか。それを少し具体的にしたのが、二行目ではないでしょうか。 恋人に逢うような気持ちになったのでしたら、わくわくした、こころ躍る気持ちなのでしょうが、遠い昔の、初恋の人、それも、その初恋の人のお墓にお参りするようだと言っているのです。なにか、心の中に秋風がふいているような、かなしい気持ちがします。 郊外:市街地に隣接した地域。まちはずれ。と辞書にあります。啄木の時代、この歌はもちろん啄木が東京に住んでいたときの歌だと思いますが、郊外はどんなだったのでしょうか。田や畑や林や丘が広がる風景を連想します。それよりなぜ啄木は郊外に来たのでしょうか。 望郷の念にかられたのでしょうか。郊外に行けば、この望郷の念が少しはおさまるのではないか。そんな思いで啄木は郊外に来たのではなかったか。しかし、これは、やはり東京の郊外では無理だったのではないか。望郷の念がおさまるなどと考えたのは、まったくの幻想だったのではないか、啄木の期待は完膚なきまでに打ち負かされた感じではないだろうか。「初恋人のおくつき」はあまりにもかなしい気持ちがします。何がなく初恋人のおくつきに詣づるごとし。郊外に来ぬ。
2014.09.08
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(二十五)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 誰か我を 思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。 何の心ぞ。 誰か自分を思う存分叱りつける人がいてくれ(たらいいんだが)と思う。ここで句点を付けています。ここで、文が終わっている、一区切りついているのです。 啄木の心境はどういうんでしょうか。どういう心境でこのような思いにかられるのでしょうか。 啄木は旧制中学のころから、たとえば試験で不正行為を働いたり、退学届を勝手に出したり、あるいは色々な友人から借金を重ねたり、啄木のいろいろ良くない記録があります。たぶんそのつど啄木は教師や友人やあるいは親戚縁者かもしれませんが、いろいろな人からお説教されたり、叱られたのではなかったろうか。 「悲しき玩具」はご承知のように、啄木の死後土岐善麿(哀果)によって刊行されました。この歌は多分啄木の晩年の作ではないだろうか。 この歌を作ったときの啄木は、あるいは病床にあったのか、周りに誰もいない、そんな孤独感を味わっていたのではなかったろうか。 結句の「何の心ぞ。」、「自分を思う存分叱りつける人がいてくれ」などと思うのは、どういう心境なのだろうか。自分自身に問いかけているようでもあり、誰かに問いかけているようにも思えますが、啄木ほどの聡明な人間であれば、それがどういうものか分かっていたのではなかったろうか。 叱るとはどういうことなのか。なぜ人は叱るのだろうか。それは、愛情の裏返しではないだろうか。愛すればこそ叱るのだろう。愛がなければ叱ることはないのではないか。 しかし、特に最近の世情を考えますと、叱るとはそういった単純な図式で割り切れるものではないかもしれません。しかし、このときの啄木の心境はまさに孤独感ではなかったろうか。孤独感、これは現代のわれわれに通じる大きな問題です。明治の青年の味わった孤独感はどんなものだったでしょうか。西洋の文明が潮のごとく、いや津波のごとく日本に押し寄せたのでした。その西洋の思想、分ける思想、分析する思想、それを科学的というのでしょう、科学的思想、その結果として個の問題が生まれたのでしょう。全体ではなく個の意識、個人主義と呼んでもいいのでしょうが、それの裏表の関係で、孤独という問題が生じるように思うのです。 ここであまりこの問題を断片的に軽薄に論じることはまずいでしょう。いや、論じるだけの知識も見識もわたしは持ち合わせていないと心配します。ただ、この問題は戦後の教育を受けて育ったわれわれ、いやわれわれだけでなく、現代の若者たちにも非常に今日的な問題であると思うのです。この件に関してはもう少し別の歌で考えてみたいと思います。それにしても、個人主義の光と影、異常なる個の保護によってもたらされる、異常な孤立、孤立感、ああ、今日的な問題だとわたしのなかで熱い思いがわきあがってきます。誰か我を 思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。 何の心ぞ。
2014.09.03
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平成26年9月2日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する 陽の光避けて日陰に入るとき影なるわれの姿消えたり 後藤瑞義
2014.09.02
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