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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(二十九)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 考へれば、ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。煙管(きせる)をみがく。まず、「考へれば、」と言っています。ですから、考えなければ、しいて、考えなければ別の意見になるのかもしれません。しかし、「考へれば、」です。それでは、何を考えれば、なのか。もちろん、「ほんとに欲しと思ふこと」です。ほんとうに欲しい、真剣に欲しい、オーバーに言えば、命とひきかえてでも欲しい、そういうことが、有るようで無し、と言っているようです。何にも考えなければ、あれも欲しい、これも欲しい。金も欲しい。地位もほしい。色々欲しいものが有りそうなんだけれども、考えれば、よく考えてみると、なにか、けむりのように、あとかたもなく消えていってしまうように、欲しいものはない。これは、しかし、啄木にとって「ほんとうに欲しいものは無し」といったほうが良いでしょう。「煙管(きせる)をみがく。」というのはどういうことでしょうか。たまたま、煙管(きせる)をみがいていたのか。それとも、前の「ほんとうに欲しと思ふこと有るやうで無し。」に対応しているのでしょうか。考えてみると、ほんとうに欲しいと思うことが有るようで無く、みんなたばこの煙のように消えてしまう。わたしは、むなしく煙管(きせる)をみがいている、とでも言いたいのでしょうか。煙管(きせる)をみがいている。なんで煙管(きせる)が出てくるのか。ちょっと唐突感、違和感がありますが。「有るやうで無し。」と「。」句点が付いていますので、二行目と三行目は直接的な関係はなさそうです。しかし、間接的にはやはり関係しているでしょう。それでなければ歌にならないですから。煙を吸う煙管(きせる)は、何かを暗示しているようにも思われますが、わたしは、そのままのイメージを思い浮かべています。ひたすら煙管をみがいている啄木がいます。あとかたもなく消えてゆく煙、それを通すだけの煙管、それをひたすらみがく啄木。なんとも味気ないといいますか、むなしい感じの光景です。これが、一行、二行の「考へれば、/ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。」に対応している、響きあっているように思います。考へれば、ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。煙管(きせる)をみがく。
2014.10.29
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平成26年10月28日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する次つぎと青き信号超えゆくをささやかならざる幸と思いぬ
2014.10.28
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(二十八)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど―― この歌の鑑賞はすでに2年前の2月26日にブログに掲載しています。それは次のようになっています。 林勝夫(共立女子大学教授)著「現代短歌」(学燈社発行)には、通釈として次のように書かれています。 「新しいあすの社会が、やがてくるのを信じている――そういう自分のことばにはけ して嘘はないんだが、しかし――。」 まず、私の目をひいたのは「新しい明日」という言い方です。本林氏は、「新しいあ すの社会」としています。「時代」の方がわたしとしては分かりやすいのですが、啄木 は「明日」という言葉を使いました。明日とは、これから来る未来ですから、あたらし いに決っているではないか、というふうにも思えるのです。それなのに、新しい時代 や新しい社会ではなく「新しい明日」としたのでした。 啄木は、明日こそ、明日こそと何回も新しい明日を頼みにしたかもしれません。し かし、現実は少しも変わるようには思われない、新しい時代の到来を実感できない。 それでも、啄木は世の中がきっと変わる、新しくなると確信をもったのでしょうか。 「自分の言葉」、「他人の言葉」ではなく、「自分の言葉」と断っているところに思いの 深さを感じます。そして結句の「嘘はなけれど――」、これこそ啄木の真実を感じま す。嘘ではないと断定しないところに啄木の真実を感じるのです。 ちょっと横道にそれますが、啄木の嘘についての短歌を挙げておきます。 あの頃はよく嘘を言ひき。 平気にて嘘を言ひき。 汗が出づるかな。 何となく、 自分を嘘のかたまりの如く思ひて、 目をばつぶれる もう嘘をいはじと思ひき―それは今朝―今また一つ嘘をいへるかな。 今までのことをみな嘘にしてみれど、心すこしも慰まざりき。 これらの啄木の嘘の歌にむしろわたしは啄木の真実を感じるのです。これが、2年前のブログの文章です。また、この歌については、同人誌「賀茂短歌」10月号に次のようにも書きました。短歌の難しさ、奥深かさをしみじみ感じています。今、石川啄木の「悲しき玩具」の鑑賞文を書いています。「新しき明日の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど――」これです。啄木の歌のなかでも、よく知られた歌で、あれこれわたしが付け加えることもないような歌です。ただ、ふと大事なことに気がついたのです。これは私が四十歳を過ぎて歌の道に入ったためなのかもしれない。なにか大発見をしたように思っているのです。 「明日」という言葉です。「新しい明日」という言葉です。解説書などを見ると「新しい時代」とか「新しくやってくる社会」とか、解説しています。そしてそれに納得している自分がおります。ただ、短歌のことばとして「社会」とか「時代」とかよりも「明日」がいいのではないかと気がついたのです。手触りといいますか、現実感といいますか、「明日」がいいんだとやっと気がついたのです。啄木に「明日」とは何ですかと聞けば逆に、「時代」とはなにか、「社会」とはなにか、と問われたのではないでしょうか。そうです、「明日」ということばは、たいへん現実的です。一晩寝れば「明日」になるのです。それに対して「時代」や「社会」は漠然としています。 わたしの頭は、観念的でなくては物が理解できないようになってしまっていたのだということに気がついたのです。「時代」や「社会」より断然「明日」がいい、独りつぶやいていい気になっているわたしです。新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど――
2014.10.22
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平成26年10月21日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する雨の日はすべりやすくて葛の花散りたる道をゆっくり歩く
2014.10.21
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編集より下書き(同人誌「賀茂短歌」10月号) 短歌の難しさ、奥深かさをしみじみ感じています。今、石川啄木の「悲しき玩具」の鑑賞文を書いています。「新しき明日の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど――」これです。啄木の歌のなかでも、よく知られた歌で、あれこれわたしが付け加えることもないような歌です。ただ、ふと大事なことに気がついたのです。これは私が四十歳を過ぎて歌の道に入ったためなのかもしれない。なにか大発見をしたように思っているのです。 「明日」という言葉です。「新しい明日」という言葉です。解説書などを見ると「新しい時代」とか「新しくやってくる社会」とか、解説しています。そしてそれに納得している自分がおります。ただ、短歌のことばとして「社会」とか「時代」とかよりも「明日」がいいのではないかと気がついたのです。手触りといいますか、現実感といいますか、「明日」がいいんだとやっと気がついたのです。啄木に「明日」とは何ですかと聞けば逆に、「時代」とはなにか、「社会」とはなにか、と問われたのではないでしょうか。そうです、「明日」ということばは、たいへん現実的です。一晩寝れば「明日」になるのです。それに対して「時代」や「社会」は漠然としています。 わたしの頭は、観念的でなくては物が理解できないようになってしまっていたのだということに気がついたのです。「時代」や「社会」より断然「明日」がいい、独りつぶやいていい気になっているわたしです。(後藤)
2014.10.20
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十月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義原 明男来るたびに孫の背丈に穴のあく破れ障子に透ける青空訪ねるたびに孫の背丈が高くなっており、障子には孫の活発さを証明するように穴があいている。そして障子の穴からはすきとおった秋空が見えた。歌の意味するところは以上のようであろうかと思います。「来るたびに孫の背丈に穴の開く」とも続けて読め、あたかもお孫さんの身体に穴があくほど成長が早く、その穴から透きとおった青空が見えるといったシュールな想像もあるいは出来るかもしれません。渡辺つぎ百余年のしめくくりとなる歌集なり角川『短歌』よりたまわりし宝 この度、満百三歳を記念する歌集「一日一日はたからもの」が出版されました。この歌集は角川書店がぜひということで、角川書店の費用で出版されました。それというのも雑誌「短歌」に長年投稿されており、それが認められた結果でもありました。まさに、「角川『短歌』よりたまわりし宝」であったわけです。鈴木菊江花語鳥語夢みるような言の葉に心遊びて木蔭に草ひく作者には花の歌が多くあります、また鳥の歌もかなり見受けられます。「花語鳥語夢みるような言の葉に心遊びて」、作者は花や鳥と会話ができたのでしょうか。たぶん、通じ合うところがあったように感じます。作者は静かに木蔭で草を引いています、花が風にゆれ鳥のさえずりが聞えます、あたかも言葉を話しているように…。「言の葉」の「こ」、「心遊びて」の「こ」、「木蔭」の「こ」、「こ」音の重なりが心地よく感じます。作者は満96歳と聞いております。毎月の歌会にも必ず出席されており、いつもお元気な姿を拝見しております。 黒田幸子梅桜枝垂るるものはすべてよきまして美し萩の垂るるは 作者は歌に感情を込めないタイプだと思っています。そんな作者の歌で、「すべてよき」とか「美し」まで言っているところに注目しました。よほど作者の心に訴えるものがあるのでしょう。「実るほど頭を垂るる稲穂かな」を連想します。作者の心に叶うもの、なにか生き方みたいなものに一致するところがあるのかもしれません。そして、萩の花の散りやすさにもなにか心ひかれるものがあるのかもしれません。 後藤早苗蒔き終えて雨降りくれば日頃より我の行い良きからと思う作者は野菜を育てて、子供たちなどにそれを送ったりすることを生きがいにしているようです。農作物に雨がどれだけ大切なものか作者が一番知っています。そうした日頃の生活からこのような一首が生れたのでしょう。野菜の種を蒔き終わったところに雨が降ってきました。まさに天の恵みです。思わず、「日頃の行いがよいから、神様が雨をふらせてくれたんだ」と思ったのでしょう。同じ内容でも、たとえば他人に対して言ったとしたら多少冗談ぽく聞えるかもしれませんが、独り言のように思ったのであれば、なにか感謝に似た気持ちもあったのではないでしょうか。 藤井美智子だらだらと行列くんでだらだらと猛暑日にうだる防災訓練 だらだらとやるきのない感じで行列を組んで、だらだらと統制の取れないような感じで猛暑日のうだるような気温の中での防災訓練。こんな、だらだらした、やるきのないような感じでする防災訓練が実際に役立つのだろうか。そこまでは、作者はこの歌の中では言っていません。しかし、言外にそう言っているような作者のことばが聞えるようです。作者はあまり身体がご丈夫でない、そんな作者が猛暑のなかでのやる気のない防災訓練に疑問をもったのではないでしょうか。一種の社会詠、社会風刺の歌だと思います。 鈴木きみ里帰り元気と笑い運び来て淋しさ残し息子帰りぬ息子さんが里帰りをしたようです。家のなかがパッと明るくなった感じでしょうか。そして、数日して帰られたのでしょう。それが、「淋しさ残し息子帰りぬ」なのだと思います。一首のなかに陽と陰、「元気と笑い」と「淋しさ」がそれですが、それを含めていることがすごいと思います。短歌を始めてまだそれほど経験の無い作者と聞いています。この感性は大事にしてください。参考:孫たちと元気と笑い運び来て里帰りの息子(こ)は今日帰りたり 土屋文恵見渡せる展望台のパノラマに心広がる思いの湧きぬこの歌は、作者が山梨県の清里高原へ旅行したときの旅行詠、五首のなかの一首です。ところで、私は学生時代に簿記を習い、会社へ入ってはほとんど経理といいますか、会計といいますかそのような部署で働いていました。もう会社を離れ大分になりますが、最近になって逆にバランスのことを思うようになったのです。簿記で言いますと、貸借対照表(バランスシート)などのことなのですが、貸方と借方が必ずバランスすることなのです。この歌は、「見渡せる」「展望台」「パノラマ」「心広がる思い」と広々とした光景を描写したような形で終了しています。それでは、この歌のバランスはどうなんだろうか。そんなことを考えました。多分それは、これを読んだ人の心でバランスをすればよいことなのでしょう。こころがちぢこまっているように感じている読者が読めば、何か心が晴れ晴れとするように感じたことでしょう。それがわたしのいうバランスです。作者はこの旅行でたぶん心のバランスを保てたのではないでしょうか。そんな感じがします。【楽天ブックスならいつでも送料無料】一日一日はたからもの [ 渡辺つぎ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.10.20
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白浜短歌会十月歌稿下書きno.2(十月十六日)C子さん一人膳サンマ一匹夕御飯季節の味をおいしくいただく常用の薬一服テーブルに飲み忘れたか残されてあり口に出る傷つく言葉の一言を胸に納めてよしよしとする空は秋祭にぎわう社殿にて奉納短歌神に詠まるる1. 「一人膳、サンマ一匹夕御飯」ここには多少さみしさみたいなものを感じます。それに対して「季節の味をおいしくいただく」と明るく、あるいは感謝を含んだ言葉で「おいしくいただく」と結んでいるのはいいと思いました。2.「薬一服テーブルに残される」というのは、表現としてどうでしょうか。「一粒」とか「一袋」とか「一錠」とかで「一服」とは言わないでしょう。「一服飲む、一服する」とはいうかもしれません。「一錠」でいいと思います。薬を忘れるくらいなら健康ということではないですか。 3. 「傷つく言葉」これは、自分が傷つく言葉であるとともに相手をも傷つける言葉でもあるでしょう。参考は多少説明的かもしれませんが、分かりやすくなると思います。参考:口に出せば傷つける言葉ひと言を胸に納めてよしよしとする 4.「空は秋」という言い方もあるいは変わっていていいかもしれません。ただ、普通は「秋空に」とか「青空に」とかいうのでしょう。ただこの歌の場合、奉納短歌が宮司によって神に詠まれることが重要です。そこのところをわかりやすくしたのが参考です。参考:社殿にて奉納短歌が宮司より神に詠まるる秋の大祭 D子さん今日の日は心の中が小噴火血圧計は高値を表示波の音においも吾の一部なり楽しくやれと波が寄せくる大鳥居まえにたたずみ一礼す祭り寿ぎ大幟ゆれる 1.何か心にそぐわないことがあったようです。「心の中が小噴火」、今御嶽山が噴火して大変なことになっています。やはり時節がらそれを想像させます。その比喩(たとえ)がよいかどうかは別として、やはりもう少し小噴火の具体的なものがほしいように思いました。「血圧計は高値を表示」と小噴火をここで強調させています。「血圧計は」でなく、「血圧計も」とし、「高値を表示」は、「高値を示す」としたほうが気持ちが出ると思います。何しろ、ある出来事を二重に強調しています。ただ、強調しすぎるのは短歌の場合、逆効果になる場合がありますので注意してください。そういう意味では、「血圧計は高値を表示」といったぶっきらぼうな的な表現のほうがよいのかもしれません。2. こういう複雑な気持ちを歌った歌は、謎解きのようなことに読者(わたし)の神経が集中します。まず、「波の音においも吾の一部なり」は、なかなかむずかしい表現です。例えば、「波の音に耳を傾けていると老いもわれの一部なんだという思いがしてきた」ということでしょうか。それと、「楽しくやれと波が寄せくる」…。そもそも、この歌はどこで切れるのでしょうか。なかなかむずかしい歌です。3. 神社の大鳥居の前にたたずんで一礼をすると心がしずまりました。そのとき大旗が軋むのが聞えてきた。「大旗きしむ」が何を暗示しているかが分かりませんでした。参考:大鳥居まえに一礼するわれの軋める心鎮まりてゆく E子さんねむられぬ夜半に思へばいつしかにねむり続けて朝を迎へる年重ね出づる事なき玄関にわが足待てる靴揃へあり 1.眠れない夜中に思ったというのでしょう。今までも眠れない夜があったが、いつしか知らない間に眠ってしまって朝をむかえたのだった。だから心配はいらない、眠れない今夜もそのうち眠って朝を迎えることだろう。そんなふうに思ったのではないでしょうか。参考:ねむられぬ夜半に思いぬいつしかにねむりに入(い)りて朝を迎えん 2.年とともに外出することがあまりなくなってきた。しかし玄関にはきちんとわたしの靴が揃えてあって、あたかもわたしの足を待っているかのようです。そんな感じでしょうか。「わが足待てる靴」という表現がたいへん独特でした。 F子さん生(あ)れぬのかみんみん蝉とひぐらしは鳴く声の無く夏は終れり草取りの手にあたゝかき感じありパッと捨てれば子蟷螂出づ大根種蒔かねば蒔かねば言い乍ら草取り終えぬ九十婆の畑幼き日指折り数え待ちたるを祭太鼓が思い出させる1.「生れぬかみんみん蝉とひぐらしは」という表現がちょっと意表をついています。あんなにもやかましく鳴いていた蝉がすっかり鳴かなくなった。その思いが「生れぬか」というような強い表現になったのでしょう。夏の終わりとものの誕生を結びつけたところに作者の心のなかの何かが現れているのかもしれません。2.草を抜き取っているとなまあたたかい感じがした、とっさにぱっと捨てて見てみるとかわいらしい子供のかまきりが出てきた。そんな感じでしょうか。結句の「出る」というのが、なにかから出てくるということなのでしょうが、何から出てきたのかちょっとわかりにくいと思います。「子蟷螂なり」と、子供のかまきりだったとだけいえばいいのではないでしょうか。参考:草取りの手にあたゝかき感じありパッと捨てれば子蟷螂なり3.大根の種を蒔こうと前々から思っている、その準備として畑の草取りをしているのだがなかなか草取りが終わらない、九十歳のばあさんであるわたしの畑は。「九十婆」は何と読むのでしょうか。こうした場合は「九十婆(きゅうじゅう)の畑」とかなをつけたらよろしいのではないでしょうか。 4. 祭太鼓の音が聞えてきます。幼き頃は今か、今かと文字通り指折り数えて祭りを待っていたことを思い出した作者です。今はそれほどでもないかもしれません。 G子さん秋ふかくなりて咲きたる朝顔の紫しみじみすきとおるなりかさね散る落葉の上にお日様の光さし入る秋晴れの朝(今日)毎朝に宮の方角に茶を供えうからのぶじをひととき祈る1. 秋は空気が澄み透る季節です。まさに、「朝顔の紫しみじみすきとおるなり」です。作者の心もすきとおる感じがしたのでしょうか。2. 「秋晴れの朝」がよいと思います。「今日」でなく、「朝」と限定したほうが良いと思います。朝の空気の透きとおったひんやり感。かさなって散る落葉の上に日がさし、重なっているなかの方へも光が差し入るような感じもします。「お日様」もいいですが、「お日さま」とする方法もあるでしょう。3. 「毎朝に宮の方角に茶を供え」という具体があるから下の句が生きてくるのだと思います。ご親族の無事を祈るその祈りの時間は作者自身の心休まるひとときではなかったでしょうか。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】わが家の天使 [ 後藤瑞義 ]価格:1,296円(税込、送料込)
2014.10.16
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白浜短歌会十月歌稿下書きno.1(十月十六日) A子さん十月は神社の祭典賑わいて日頃の怠りまとめて御祈願 彼岸中真赤に燃える曼珠沙華七日過ぎれば地中に消える1.十月になると秋祭りがあり、神社の祭典が賑わいます。日頃はお参りが出来ないのでこんなときにまとめてご祈願をする。結句は少し動きをだして、「まとめ祈願す」(文語「す」口語「する」)など参考までに…。2.「七日過ぎれば」は、彼岸が終わって七日も過ぎればということでしょうか。お彼岸中は、あんなに真赤に燃えるように咲いていた曼珠沙華、七日も過ぎたら地中にでも消えたように見えなくなったということでしょうか。「地中に消える」は実際ではないでしょう。比喩で、地中に消えるように見えなくなったということでしょう。参考:彼岸中真赤に燃えし曼珠沙華七日過ぎたる今は消えたり 十月 B子さん幼な子を抱きつ古家の解体を未来夢見て観いり立つ人高き空声かけ合いて里廻り栗柿葡萄秋天こ盛秋祭り近し夕暮れ練習の力響きていよいよだよね 1. 非常に情報が満載しています。ですから、よく分かります。幼い子を抱きながら、家の解体を見ている人がいます。古家などから類推しますと、祖父あるいは祖母と孫かもしれません。長年住みなれた家の解体はつらいものがあるでしょうが、孫の将来を考えて決断したのでしょうか。これはご自分のことですか。それなら「未来夢見て」というような表現が理解できますが、他人であったら悪くすると邪推になってしまいます。ただ自分のこととして歌っても良いと思います。 参考:幼な子を抱(いだ)き古家の解体を未来夢見るごとく見ている 2.一首全体から、晴れ晴れとした作者の気分は伝わってきます。「高き空」は、「天高く馬肥ゆる秋」でしょうか。「声かけ合いて里廻り」とはどういうことでしょうか。また、お一人ですか、誰かといっしょでしょうか。会う人ごとに挨拶をしながら里をひと回りするといったことでしょうか。「栗柿葡萄秋天こ盛」は、まさに豊作のイメージです。ただ、稲梓では今年は、柿が不作で栗が大豊作でした。もし、ただ豊作のイメージを出すための演出であったら、やはり事実をしっかりつかんだ方がよろしいかと思います。作者の状況がいまひとつ分かりませんからなんとも言えませんが。参考はあくまでも参考です。参考:友とわれ声かけ合いて里廻り沈めるわれの心晴れたり 3.「秋祭り近し」と「いよいよだよね」がダブっているように思います。「近し夕暮れ」は「近き夕暮れ」がよいと思います。参考:秋祭り近き夕暮れ練習の太鼓の響き力こもれり H子さん(新人)名も知らぬ深い緑の山野草愛にあふれる花器にさしたり夜明け前レコード盤に針落す二十歳の私下宿での癖三役の天狗に追われべそかいた吾子の手握り山車の後追う 1.結句を「花器にさしたり」と感情を込めずさらっと終わらせたところがよかったと思います。「愛にあふれる花器」が良いです。「愛にあふれる」が具体的にどのようなものかはわからないですが、それはそれでよいと思います。名も知らない山野草を「愛にあふれる花器にさす」そのことが重要なのです。その気持ちが人の心を打つのです。愛にあふれる花器にさした山野草はさぞ生き生きとしたことでしょう。2.夜明け前です、作者はたぶん眠れないのかもしれません。その夜明け前、レコードを聞くことが習慣となっていたようです。二十歳の作者、それも実家を離れて下宿していたようです。これが、この歌のあらすじです。ただあらすじでは短歌はつまらないのです。そこに「レコード盤に針落す」という表現があります。これによっとこの歌に命が宿ったのではないでしょうか。鋭い針をレコード盤に落す、すると、モーツアルトの曲か具体的にはわかりませんが、たぶん作者の心を静める曲がながれてきたのでしょう。これは、作者のごく個人的なことかもしれません。短歌はそれで十分だと思うのです。みんなを代表するような歌でなくてよいのです。そのごく身近な個人的なことが、こころのこもったものが、かならず全ての人に通じてゆくのだと思います。3.「三役の天狗」というのが分かりませんが、祭りで天狗の面をかぶったものがいるのでしょう。それが子供たちを脅かしたりするのでしょう。そうした怖さが子供にとっては非日常の貴重な体験となり、怖くもあり興味もあるのも祭りの醍醐味でもあるようです。そうした子供の手を握って山車の後を追う母親、それもまた祭りの楽しさでしょう。「べそかいた吾子」「手握り山車の後追う」というこの具体的な描写が生きているとおもいます。(つづく)
2014.10.12
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よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 秀逸に入選する舗装路の切れ目に生きる場を得たる鶏頭が今花咲かせおり 後藤瑞義(評)意外な場所に根を下ろし鶏頭の逞しさに驚き、花までさかせたことに共感を覚える作者。同じ生きるなら、こうでなければ。励ましを得た心持ちが伝わります。追伸:同日妻も入選しておりました。よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する本屋にて化石の本を読みふける幼が我の孫なら買いたい 後藤早苗
2014.10.12
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満百三歳渡辺つぎさんの歌の鑑賞(NO.2)同人誌「賀茂短歌」(平成26年4月号から9月号)の作品より 百三年生きれば浦島太郎組白髪なれど白煙は浴びず (4月号より) 「百三年生きれば浦島太郎組」、特に「浦島太郎組」という言い方がおもしろいとおもいました。これは、浦島太郎が竜宮城からの帰りにもらってきた玉手箱を開けると、突然白髪の翁となり、知人もいない変わり果てた古里に放り出されるといった話です。作者は、百三歳となられ、世の中を見渡すとまるで浦島太郎が玉手箱を開けて一瞬にして年老いたような気分となられたのでしょう。見るもの聞くものだんだん自分とかけ離れてゆく気分なのでしょうか。結句の「白煙は浴びず」というのがなんとも、ものかなしくもユーモアのある表現に感じました。「浦島太郎のように白煙を浴びて突然老人になったのではないけれども…」。 明日よりは百四歳を歩み出す古りし脚をばもみほごしやる (5月号より) 「明日よりは百四歳を歩み出す」、これが事実であり、この事実の重みに感動します。この事実の重みだけですばらしい作品だと思います。この事実によって「古りし脚」も「もみほごしやる」ということばもきらきら輝くように感じるのです。事実の大切さを再認識する作品です。 半世紀遺愛の蘭を守りたり遂に手入れのできなくなりぬ (6月号より) 遺愛の蘭、亡くなられたご主人が生前大切にしておられた蘭のことでしょう。その大切な蘭を五十年の間、まるでなくなられたご主人のように大切に手入れをなさっていたのでしょう。それは、ご主人に対する作者の愛情でもあったのだと思います。その手入れが遂に出来なくなったといっているのです。このことだけはどんなことがあってもやり遂げようと思っていたかもしれません。それができなくなってしまった。そんな無念の気持が余韻として伝わってきます。満百三歳になられた作者のたいへんつらい作品です。 窓外の一木一草個性なすわれは一〇四のただの老人 (7月号より) この作は、養護施設のデイサービスのおりに作られたと聞きました。「窓外」が強く響きます。施設の外の景色を見ている作者。実に、「一木一草個性なす」と思われたのでしょう。それにひきかえ窓の内なるわたしは、施設の中から外をみているわたしたちは、皆ただの老人、みなかわりばえのしない老いた人間なんだ。いやいや、この歌はそう単純ではなさそうです。それは、「一○四」という数字です。いうまでもなく、百四歳のことです。百四歳がただの老人であるわけはないのです。個性をもつ一木一草たちよ、同じように、わたしだって、百四歳の老人なのよ、と言外にりんと姿勢を正す作者の声が聞えるようです。 なつかしいわが家へ帰る心地してみくらの里の門内に入る (8月号より) 「なつかしきわが家」、わが家に「なつかしき」としていることにまず注目しました。過去のことをふりかえるときわたしたちは、「なつかしい」という言葉を使います。「なつかしきわが家」とは、どういうことでしょうか。今住んでいらっしゃるご自宅ではないでしょう。想像されるのは、ご結婚する前の、生家のことかもしれません。 作者は、満百三歳六ヶ月になられます。「みくらの里」というのは、介護施設で作者はときどき利用されているようです。たとえば五日くらい宿泊を伴って利用されているようです。介護施設の利用について、よく聞く話は、利用するご当人がかたくなに利用を拒否される話です。それにひきかえこの作者は、なんということでしょうか。「なつかしいわが家へ帰る心地して」と歌っています。これは、どういう意味でしょうか。文字通りの意味にとってもちろんいいんですが、正直なところは…。なにか、この歌の底には、言葉には、ちょっと表現できないのですが、それは、表現できないのは私の力不足だからですが…。愛といいますか、…母性愛といいますか、なにか深い、ふかいものを感じるのです。もちろん、介護施設の職員がほんとうによくしてくれて、まるで自分の生家に帰ったような、子供時代にかにかえったような心地良さを与えてくれる、そのように解するのが正しい解釈なのだと思うのですが…。なにか、一緒に生活をされていられるご家族に対するなにか心配りのようなものをわたしは感じたのです。 百歳を越えてはじめて知りしこと長生きの宝ひろうことあり (9月号より) 百歳を越えてはじめて知ったことがあったと作者は言っています。それが、長生きの宝をひろうことだと言っているように思います。「長生きの宝」とはどういうことか、あるいは物かは具体的にはこの歌では分かりません。作者自身が百歳になって初めて知ったことなのですから、七十一歳のわたしにわかろうはずがないとも思われるのです。いやあるいは作者自身もそのような含みをもってこの作品を作っているようにも思われます。つまり、百歳になると、ああやっぱり長生きしてよかったというような、おもいもよらぬ宝物をひろうことがありますよ。だから、どうか百歳になってみてください。ならなければいくら説明してもきっと分からないでしょうから…。そう作者が言っているように思えます。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】一日一日はたからもの [ 渡辺つぎ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.10.02
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満百三歳渡辺つぎさんの歌の鑑賞(NO.1) 後藤瑞義同人誌「賀茂短歌」(平成25年10月号から26年3月号)の作品より 逃げ足が次第ににぶり百三歳につかまりそうでうろたえている (10月号より) 年とともに、時間の経過が早く感じるというのは良く聞くことです。その時の経つのが早いというのを逆転させて、自分の逃げ足が鈍くなって年につかまえられてしまうという発想がとてもユニークに感じました。百三歳という、まるで鬼(作者はあるいはそんなふうに思われているのではないでしょうか)のような恐ろしい年齢が、逃げ足の鈍った自分をつかまえようと近づいている、もっと一日一日ゆっくり楽しみたいのに…そんな作者の嘆きの声が聞えてくるようです。 おむかえさんいつでもどうぞだんだん歩けなくなりますからね (11月号より) 作者は百二歳です。まず、「おむかえさんいつでもどうぞ」と、「ちょっとそこまで」といった感じの言い方です。作者は現在ご自分の足で杖もつかずに歩いています。「だんだん歩けなくなりますからね」、これもそのままの、なんの気負いもなくさらっと言っています。先にも書きました作者のご年齢を考えますと「おむかえ」の内容はたいへん深いものがあります。それをいとも軽々と表現しています。作者はあの世でも歩こうと思っているからこそ歩けるうちに、まだ歩はく力のあるうちにあの世にいきましょうと思ってでもいるような感じがします。この一首は、三十一文字(音)に二文字(音)不足の二十九文字(音)です。ただ、字足らずといった感じは、あまりせず、むしろちょっと息切れがしたって感じでしょうか。「なりますからね」の「ね」がなんとも明るい感じがします。 天災地変続いて襲うこの地球人のおごりか神の祈りか (12月号より) 「天災地変続いて襲う」は多分、東日本大震災や近くは身近な大島の土石流災害などを指しているかと思います。作者は今年で満百二歳になられます。その百年余りの歴史のなかでも、やはり近頃の天災地変は異常と思われたのではないでしょうか。そして、「人のおごりのためか」と口からついてきたのではないでしょうか。この歌はここまでは、非常によく分る歌です。ただ、結句の「神の祈りか」でドキとしました。これは、どう理解したらいいのでしょうか。私の感性では理解まで届きませんが、凄い言葉であることが感じられてなりません。人間の祈りはわかるのですが、「神の祈り」とはどういうものでしょうか、しいてわたしなりに理解するとしますと、それは、「神の苦悩か」といったことでしょうか。人間のおごり、愚行にたいする神の苦悩が災害となってもたらされているようにも感じるのです。その神の苦悩から神の祈りがもたらされるようにも思ったのでした。 この地球の百と二年の変貌と共に生き抜き老の身さらす (1月号より) 作者は満百二歳で、今年の三月で満百三歳となられます。「この地球の百と二年の変貌」が実感として伝わります。作者は、明治、大正、昭和、平成のめまぐるしい変貌の百年余りを生きてきました。いやまさに「生き抜いて」きたのでした。 気の遠くなりそうな長い年月も波に消されし足あとのごと (2月号より) 作者は今年の三月で百三歳となります。上の句の「気の遠くなりそうな長い年月」がそれでしょう。そして、その長い年月であっても、波に消された足跡のようなものだと達観されております。そこがこの歌のひとつの中心だとは思います。そして、この喩がなんとも私には美しく感じたのです。波に消される足あとが目に浮ぶようです。と同時にその砂に残された足あとが波と同化する、一体となる姿が浮んできたのです。この歌の良さはやはり作者のご年齢と無縁ではないように思います。そして、うたかたのごとく消えてゆく歳月だからこそわれわれの作歌活動も意義を持って来るのではないでしょうか。歌は残ると思うからです。 寂光の中の白梅半世紀近き亡夫の命日近し (3月号より) 「寂光の中の白梅」、この歌を読んだとき、なんと美しい歌なんだろうと思いました。まるで、この世でない世界に踏み入った感じがしたのです。「寂光」は、広辞苑によれば、静寂な涅槃の境地から発する智慧の光となっていました。亡くなられたご主人を寂光の中の白梅が象徴しているような感じを受けます。亡くなられたご主人への思いの深さは、「半世紀近き」という言葉に表れております。半世紀にもなるご主人の命日に思いを馳せる作者、作者は今月満百三歳になられます。 (つづく)【楽天ブックスならいつでも送料無料】一日一日はたからもの [ 渡辺つぎ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.10.02
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