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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(三十二)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 よごれたる手をみる――ちやうどこの頃の自分の心に対ふがごとし。「よごれたる手をみる――」、ダッシュに深い思いがこめられているようです。この言葉通り作者は、何かで汚れた自分の手を見たのでしょう。なんでもない、手の汚れ、いや手の汚れだからこそそこに深い意味があるのかもしれません。 汚れた原因はいろいろあるでしょう。ただわたしは、啄木においてちょっと、ある推測をしたわけです。彼は新聞社に、そう朝日新聞に勤めていました、この歌はその時期の歌だと思ったのです。職種は校正係ということでした。校正係自体は誤りを正すだけで、印刷機のインクで汚れた活字を置き換えたりはしないでしょうが、忙しかったりしてそうした仕事をしなければならないことが、あるいはしばしば、あったかもしれません。それで手が汚れることもあったのでしょう。 啄木は汚れに対して一種のこだわりといいますか、潔癖なところがあるように思うのです。なぜそんなことが分るのかと言われるかもしれません。べつに証拠があるわけではありません。ただ、啄木に嘘の歌が多いのです、特に歌集「悲しき玩具」には顕著に目につきます。それほど嘘に対する過敏さがあるのです。自分を嘘つきと歌わざるをえないほど、それほど啄木の心は純粋であったと私には思えるのです。 仮にインクによごれた手であったとして、だからといって自分の心に直結するのは飛躍しすぎと思うでしょう。ここにわたしは啄木の深い絶望を感じるのです…。わたしは今、つい絶望と口走ったのですが、この「絶望」というわたしの言葉にも非常に飛躍があるでしょう。しかし、わたしの考えは次のようなものなのです。 啄木は十代の頃から、正確に言えば旧制中学のころから岩手日報に短歌は勿論のことすぐれた評論なども書いていたのです。明治三十六年十八歳のおりに載せた「ワクネルの思想」と題するワーグナー論について、鬼才塚本邦雄でさえその天才ぶりに驚嘆したと書いています(昭和61年角川「短歌」2月号「ワグネリアン啄木」塚本邦雄)。 啄木は、なにも物理的な手の汚れに神経質に反応しているのではないでしょう。校正係を卑下したりしている啄木ではないと思うのです。しかし、「みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ、/誤植ひろへり。今朝のかなしみ。」なのです。これは、なにも誤植のある郷土の新聞がみすぼらしいから、かなしいのではないのです。自分が根っからの校正係になりきってしまって、新聞の内容よりも誤植を拾っていたのに気付いたときのかなしみなのだと思うのです。あの青春時代の燃えるような向上心などが、どんどんどんどん消えていく、誤植を拾ったり、手をインクで汚しながら活字を並びかえて生活をすることに満足していく、いや満足しなければならない生活に追い込まれていく、そんな自分、それでも生活が出来ればいいじゃあないかと認める自分、文芸に対する理想だとか夢だとか、そういった純な思いを失くしてゆく自分の心、それが、ちょうど手の汚れのように感じたのではないでしょうか。この歌は啄木の深い絶望の歌のようにわたしには思えてならないのです。よごれたる手をみる――ちやうどこの頃の自分の心に対ふがごとし。【楽天ブックスならいつでも送料無料】悲しき玩具 [ 石川啄木 ]価格:288円(税込、送料込)
2014.12.27
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第6回角川全国短歌大賞(12月25日発表)田中章義選 題詠(星) 静岡新聞社賞数知れぬ星をいだいて働ける母のごとしも宇宙というは
2014.12.26
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十二月号歌評下書き(同人誌「賀茂短歌」) 後藤瑞義 原 明男人の世に疲れし者の狼藉と灯しやりたし沈黙の闇 まず、この歌の前に無言電話の歌があります。「人の世に疲れし者の狼藉」という上の句が、具体的には無言電話のことなのだと思います。無言電話の犯人を「人の世に疲れし者」だと言っているわけです。ただ、狼藉と怒るだけではなく相手に同情している、あるいは相手の心を慮っているようです。ここに作者の人となりが出たのでしょう。その思いから、「灯しやりたし沈黙の闇」という言葉がでたのでしょう。「沈黙の闇」という言葉に実感を感じました。たぶん無言電話を受けた時の、無言の状態が深い暗闇のように思えたのではないでしょうか。 渡辺つぎ今年でさようならかもしれないねといいながら夏着をたたむ 作者は満百三歳、三月で満百四歳になられます。そのような予備知識をもって読みますと大変味わい深く感じます。「今年でさよならかもしれないね」と誰にともなく、つぶやくように言っています。話している相手は、あるいは夏着かもしれません。来年の夏には着られないかもしれないねと夏着に語りかけているのかもしれません。そこには、今年のあの厳しい暑さをなんとか乗り越えたことだといった、感慨もあるでしょうか。それはともかく、この軽い調子に驚かされます。そして、この軽さが救いであるとともに、軽さゆえにたいへん重くも私には思われるのです。 鈴木菊江むらさきの野菊群れ咲き妹の笑顔のような木漏日の降る まず紫色の野菊が群咲いています。白色でなく紫色というところにポイントがあるのかもしれません。ただ読者にははっきり分りません。そして、突然「妹の笑顔」が、というか妹さんが突然出てきたと言ったほうが良いでしょう。野菊は妹さんを導き出す序詞のようにも思ったのです。木洩れ日はやはり神秘的といいますか、なにかそんなことを連想させます。妹さんの笑顔のような木洩れ日が降ってきた。たぶん妹さんはすでに亡くなっているのでしょう。その妹さんが、天上から微笑みかけてくれているように感じたのでしょう。 黒田幸子せせらぎに水溢れいる山峡の母の故郷は水車の音す 雨上がりの小川でしょうか。水が溢れているようです。過疎となった山間の里でしょうか、昔とあまり変わっていない、そんな印象です。そこは作者の「母の故郷」のようです。小川の水があるれるほど流れていて、水車の音がする、それは母の故郷であるとともに、作者にとってもなつかしい少女時代の思い出の景色であるようにも感じられます。 後藤早苗御嶽山の噴火する前描きしか穏やかな山の稜線を見る 御嶽山、今年九月二十七日突然噴火して、六十数名の命を奪ったことは記憶に新しいことです。その御嶽山の名の付いた絵画があったのでしょう。その絵の中の御嶽山には煙がなく穏やかな稜線が描かれていた。その絵をしみじみと作者は見ているのでしょう。春の御嶽山でしょうか、夏でしょうか、あるいは秋の紅葉の絵でしょうか。どちらにしましても、色あざやかな御嶽山が描かれているのでしょう。そして、作者はテレビ報道などで見た煙を噴いている灰色の山の景色とを重ね合わせているのかもしれません。その御嶽山の激変ぶりを見て、あるいは人の世の無常なども感じているのかもしれません。 藤井美智子食べる気はさらさら無いのに嫁の炊ぐ豚汁の香りに心なごめる 「食べる気はさらさら無いのに」という上の句は、この一首だけではあるいは分りずらいでしょう。連作の一首として読むことによってより理解あるいは感動が伝わると思います。作者は一人暮らしで、ご病気になって寝込んでしまったのです。それを聞いて遠くに住んでおられる息子さんご夫婦が急ぎ見舞いに来たのでした。食欲がない作者、しかしお嫁さんが豚汁を作ってくれた、その香りに心なごめる作者なのです。ここには、嫁と姑の俗に言われる関係はないように感じます。ほほえましい光景を思い浮かべます。寒いときの豚汁、温まり力が出て病気も快癒されることを祈ります。 鈴木きみ楽しんだグランドゴルフと車中でのアイスクリームは格別美味し グランドゴルフという言葉は聞きますが、実際にはやった事はありません。年配者のあいだで、今はやっているようです。そのグランドゴルフをして作者は楽しかったようです。そして、車の中でアイスクリームを食べたのでした。「車中でのアイスクリーム」と特定しています。どなたかと、気のあった仲間と食べたのかもしれません。また、グランドゴルフをして、多少汗ばんでいる作者だったのでしょう、アイスクリームが美味しいという実感が伝わります。季節は秋それも晩秋でしょうか、月でいえば十一月といったところでしょう。そこにアイスクリームが出てきたことに、意表をつかれた私でした。 土屋文恵電線を渡る小さな軽業師小栗鼠は何を食みに行くらむ 「電線を渡る小さな軽業師」、おやなんだろうと一瞬考えます、「小栗鼠」とつづいて納得するわけです。ただ、栗鼠ということが分ったのですが、すぐ「何を食みに行くらむ」という言葉が続きます。この展開の巧みさと同時に意外さに驚きました。縫いぐるみのような小栗鼠がちょこちょこ動き回っていたのでしょう。まさに、「電線を渡る小さな軽業師」のようだったのでしょう。そんな、かわいらしい栗鼠が走り回っているのは、なにも遊んでいるのではなく、何か食べ物を探しているんだと見立てた作者の思いやりに私は感動するのです。
2014.12.21
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平成26年12月18日(木)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選するうつむきて歩めるわれを見守るや神の眼(まなこ)のような青空
2014.12.18
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白浜短歌会十二月歌稿(十二月十五日)下書きNO.2 D子さん顔知らぬ我等は戦友二世なり(る)りんごとみかんが心をつなぐ 嵐さりおだやかな海もどりきて岩肌みれば(につく)青のりまぶし 1.「なり」は、文語の断定の助動詞の終止形、「なる」はその連体形です。ですから「なり」でいったん終止して、「りんごとみなんがこころをつなぐ」としたほうが良いと私は思います。戦友の絆、生死を共にした体験は私などには実際にはよく分らないかもしれませんが、気持はなんとなく分るような気もします。ましてこのような歌に接しますとなおさらその気持ちが強くなります。1. 「嵐さり」「おだやかな海」にもう少し具体的な写生がほしいように思います。それに、多少ダブった感じがしないでもありません。「岩肌につく」のほうが私はよいと思います。荒波にもめげず岩にすがっていたような感じです。参考:飛沫(しぶき)上げ荒ぶる波の去りしあと岩肌につく青海苔まぶし F子さん うら山の竹薮の音なまめかし海は静かな夕暮どきぞ 伊豆の奥あまぎの山を越えし夜寂しいことになれはてるなり 1.「なまめかし」という言葉がたいへん微妙です。この場合どう解釈したらいいんでしょうか。下の句「海は静かな夕暮」との対比を考えれば、「なまめかし」よりは「騒々し」のほうがいいかもしれません。 参考:裏山の竹薮の音騒々し海は静かな夕暮どきぞ 2.上の句の「伊豆の奥あまぎの山を越えし夜」、これは過去の回想でいいでしょうか。「し」が過去の回想の助動詞ですので。下の句は、今現在の心境でよいでしょうか。 参考:伊豆の奥あまぎの山を越えし夜寂しいことに今は慣れたり 藤井テゴ天草で活気溢れし白浜も今は少子化保育園閉ず(づ)(閉じる) 思ひ切り出たる嚏(くしゃみ)が風に乗り谺となりて返る山道 倒れても皇帝ダリヤ立ち上り薄紫の花朝光(あさかげ)の中に 1.「天草での活気溢れた昔」と「少子化の現在」(それは、天草などの産業が衰退していることを連想させます。)とを対比したところがよかったと思います。「保育園」か「幼稚園」なのか。「閉ず」は文語で新かな表記、「閉づ」は文語で旧かな表記、「閉じる」は口語で新かな表記です。 2.まず、山道でのことだと分ります。作者は山道を一人歩いているようです。そして、くしゃみをしたくなった、人前などでは、少し控えるのでしょうが、山道での作者は一人です。「思い切りくしゃみをしたのでしょう。」作者は山道を歩いて自宅へ帰るのだとおもいます。寂しい山道も今日はくしゃみのこだまが道連れなのかもしれません。 3. まず、五七五九八と破調の歌です。倒れていた「皇帝ダリヤ」が立ち上ったことへの感動があります。これを中心にしても良いと思います。下の句は、皇帝ダリヤの薄紫の花が朝の光の中に、多分輝いていたのでしょう。これも、感動的な光景です。 参考:倒れいし皇帝ダリヤ名のごとく威厳もつがに立ち上りたり 参考:朝光(あさかげ)の中にすっくと立ちている薄紫の皇帝ダリヤ G子さんきり雨にぬれしプランタの菜園に白き小かぶがむっくり育つ 庭すみの水引草の紅白の清そな姿に心なごめり1. 「きり雨」と細かく言っています。また、「霧」を「きり」と仮名にしています。仮名は、「ぬれし」「かぶ」。そんなことにも神経を使っているかもしれません。今畑仕事が出来ない作者でしょう、それをプランタの菜園でまぎらわしているのでしょうか。小かぶの成長を見守っている作者の姿が浮かびます。 2.「庭すみ」が「水引草」と合っています。それにしましても、「庭すみの水引草の紅白の」と「の」で焦点をしぼってゆく方法は、ある歌を思い出します。つまり、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一(ひと)ひらの雲」を思い出しましす。物に集中して詠んでる姿勢が、「姿」という言葉にこころがこもっているように感じます。
2014.12.14
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白浜短歌会十二月歌評(十二月十五日)下書きNO.1 後藤瑞義 A子さん寒さ増し外出できず家の中テレビにすがり一日楽しむ 連休に孫曾孫里帰(かえ)り大家族振る舞う箸の賑やかみとれる 1.急に寒くなりました。作者の日常生活を述べたのでしょう。これはこれでよいと思います。「すがり」という言葉に思いがこもっているようです。こういった歌は、「今日は」とか、「昨日は」とか、特定のある一日としたほうがよいでしょう。いつも、とか、皆に共通するような歌い方は、歌を弱くします。「一日楽しむ」という言い方は気をつけたいと思います。「楽しんだ」のか、「これから楽しもうとする」のか、あいまいです。 参考:寒さ増し外出できず籠(こも)りいてテレビをすがるごとく見ている2.この歌も作者の歌いたいこと、「孫や曾孫さんたちが里帰りして、大家族になって賑やかに食事をしている光景」が想像出来ます。ただ、「大家族」「賑やか」という言葉が気になりました。あまりにも強調しすぎるのは、過ぎたるは及ばざるがごとしというように、逆に感じられるのです。逆、そうです、寂しさというようなものがわたしには感じられるのです。参考:連休に孫や曾孫が里帰り振る舞う箸にわれはみとれる B子さん 赤黄色さくさくさくと踏みしめてふかふかもみじ絨毯の道 ふかふかの紅葉の枯れ葉踏みしめる赤き林に木洩れ日光る 1. ちょっと非日常ないっときなのでしょう。「さくさくさく」「ふかふか」といった擬音語がそんな効果をあげているようです。なにか童話の世界に入り込んだ感じでしょうか。 2.これも前作との連作なのでしょう。「赤き林に」あたりがやはり非日常といいますか、作者だけが感じられる世界を歩いているようです。そういった現実から離れたようなひとときに憩いをもとめているのでしょうか。 H子さん(新人) 六十三きみよりとうとう一つ越え途方にくれる我は一歳気に入りの辺見庸読む冬の午後青い思考をよみがえらせて 老猫をひざに眠らせ活字追う空気ゆるくて本も伏せたり1.なんと言っても、結句の「我は一歳」が、この大胆な発想が、すばらしいと思いました。「きみよりとうとう一つ越え」と「途方にくれる」は直接的には関係がない言葉です、でも読者には関連性が理解されます。これは、説明ではないからいいと思います。「途方にくれる」と「我は一歳」も直接的には関係はないし説明でもありません、しかし読者には何を言わんとしているか分るでしょう。「君のいない我はまるで一歳の赤子のようだ」と言っているように感じます。2.辺見庸氏については、詩を少し読んだことがある程度です。宮城県の出身で、震災に関した詩を読んだことがあります。ただ、難解なというか、大変鋭い感性の人といった印象がありました。その辺見氏を作者は気に入っているという。ここにひとつのポイントがあるでしょう。それによって、「冬の午後」「青い思考」という言葉が命を与えられ、生きてくると思います。この「青」は純粋さを連想します。3.前作の連作でしょうか。「老猫をひざに眠らせ」も事実、単なる写生のようでいてなかなかうまいとわたしなどは思います。「空気ゆるくて」がなかなかすごい表現というか、新鮮な表現だと思いました。前作の「青い思考をよみがえらせている」作者と、この歌の作者、どちらも作者のある一面を表しているのでしょう。前作があって、この歌が引き立つこともあるでしょう、もちろん逆もあるでしょう。 C子さんお母さんおばあちゃんとよんでくれ九十路のわれは温もりている娘よりディサービスで着なさいとふかふかコート購いくれる辛かった悲しかったは過ぎた事老後(今)幸福ならばそれが一番1. この歌もなかなか味わい深い歌のように思います。「お母さんおばあちゃんとよんでくれ」と「九十路のわれは温もりている」がどう関係するか、直接的な関係はないでしょう。しかしやはり響きあっているものがある、それがこの歌の良さだと思います。言葉の表現もなかなか含みのある表現になっています。「呼んでくれ」、息子、娘たちよ、あるいは孫たちよわたしの所に来ておくれと言っているのでしょう。九十歳になったけれどもまだまだお前達の心を温めることが出来るんだよと言っているようです。2.「娘より」で一文字開けたいところです。「デイサービスで着なさいとふかふかコート購いくれる」、そのコートを娘さんより贈られたということでしょう。そのコートはふかふかで暖かかったのでしょう。作者は、娘さんへの「ありがとう」という思いを一首にまとめました。事実だけを述べたところがよかったと思います。それだけで、思いは表れます。3. 詩人谷川俊太郎氏は、「詩はメッセージ(何かを伝えること)ではない」と言っています。何かを伝えるというよりむしろ、つぶやき、独り言、のようなものに近いということでしょうか、そんなことを思い出しました。ここで作者が述べていることを、言葉でなくて感じさせることが歌の力のように感じます。参考:辛きこと悲しきことのかずかずを思い出しおりコタツに入 ( い )りて (つづく)
2014.12.13
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(三十一)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 朝寝して新聞読む間なかりしを負債のごとく今日も感ずる。 まず、一行目二行目に句読点がなく、三行目に句点(。)がついています。ですから、三行に分ち書きしていますが、それほど行分けは気にしなくてもよいと思います。 朝寝をしたようです。朝寝というのは、最近わたしなど経験が有りますが、早朝三時四時に目が覚め二度寝することがあります。「朝寝」にそんなイメージを感じます。また、その当時啄木はだいぶ体が弱っていたのかもしれません、そんな状態の朝寝だったかもしれません。 啄木はご承知のように朝日新聞の校正係をしていたのでした。ですから、わたしが朝新聞を読んだりあるいは読めなかったりするのとはだいぶニュアンスが異なるでしょう。啄木にとっては、仕事と直結をする何かがきっとあったのではないでしょうか。 新聞を朝読まなかったことが、負債のように感じるというとらえかたは普通の人にとっては、ちょっとオーバーな表現のように思われるのです。それも「今日も感じる」というのですから、ちょっと追い詰められた、ナーバスな感じがします。 啄木の生活の困窮ぶりはいまさらここで述べるまでもないでしょう。そうした生活の状況を考えますと、新聞を読むということは啄木にとっては生活にもっといえば給料に直結する、仕事の一部のようなことではなかったでしょうか。朝寝して新聞読む間なかりしを負債のごとく今日も感ずる。【楽天ブックスならいつでも送料無料】悲しき玩具 [ 石川啄木 ]価格:288円(税込、送料込)
2014.12.10
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平成26年12月9日(火) よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 秀逸に入選する報われぬ実を舗装路に散らしいる深き洞(うろ)もつ椎の巨木は 下田市 後藤瑞義(評)長い樹齢の椎の巨木。実を落とすのは次の命を育むための営みです。しかし舗装路に落ち車に轢かれる現実はそれを阻む。「深き洞」に虚しさが籠もります。
2014.12.09
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12月8日(月)読売歌壇 栗木京子選 入選十分に落穂啄み足らえるや雀ら羽を透かし飛び立つ 下田市 後藤 瑞義
2014.12.08
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平成26年12月2日(火)よみうり文芸(静岡版) 松平盟子選 入選する透析を始め十年経つ妻よ太き血管今は隠さず
2014.12.02
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「新刊紹介」 下書き 後藤瑞義「一日一日はたからもの」(渡辺つぎ著 角川学芸出版) 帯には「読むたび若返る」、「一〇三歳現役歌人、つぎさんの歌日記」…と。歌も表に一首「からっぽの記憶の箱よ泣くなかれこれからためるたのしみがある」。裏には「悲しいことは詠まないの」、歌は「物忘れはげしくなりぬ百一歳は虹が消えたと思えば楽し」外ニ首が載っています。本書の刊行にあたっては、すべて角川学芸出版の編集によるものだと聞きました。多くの歌に年齢が入っているのもそのためのようです。そこを著者自身も気にしていましたし、多少批判もあるかもしれません。しかし、私自身は全面的にこの編集方針に賛成するものです。 今日高倉健氏の訃報に接しました。享年八十三歳、「若いなあ」ととっさに口にでました。あと二十年、そうです著者の年齢にあと二十年もあります。 来年の三月で満百四歳の著者。それも、ただ生きているというのではなく、人間としての喜怒哀楽を短歌にこめ、一日一日をたからものとして生活している。この事実の重みは、強調しても、強調し過ぎることはないでしょう。 読む人に勇気を与える本、そう私は呼びたい。九十歳の人にもあと十数年の未来があるのです。四十歳、五十歳の人であったら、未来は君達の前に洋々と開けていると言っているようです。 貯えし泪の池へ百一歳の小舟うかべて今日舟出せり 「貯えし泪の池」がすごいと思いました。その泪の池を素直に受け入れ、その中に百一歳のわが身を浮かべ、新たな百歳台の旅に出発する。作者のこれから生き抜いてゆこうとする覚悟のようなものを感じます。 「お迎えがなかなか来なくて」と言えば「こちらでおむかえします」と主治医 作者は、この時満百二歳。そう思って、この作品を読めばはっきりすることがあると思います。「お迎え」の意味の取り違いの可笑しさです。こういうことをさらっと詠えることが凄いと思うのです。 春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで 作者は今も杖を持たずに歩かれています。杖をつく練習をせずにきたので杖をつくのは怖いと言います。一歳で父親を亡くされ、二十七歳で母親を亡くされ、五十台でご主人を亡くされた作者。作者は何かに縋って生きるという生き方をあるいはあまりなさってこなかったのかもしれません。 苦も楽も国の与えし百余年あとの百年平和を祈る 「苦も楽も国の与えし百余年」。これが、明治生まれの人の感慨なのでしょうか。一口に愛国心などとは言えぬ深い思いがあるようです。ただ、私の驚くのは下の句です。百歳を越えられて、その生死のほどもあやふやに思われる作者が、これから百年の国の平和を祈っているのです。これが作者の愛国心の本質なのでしょう。 最後に、繰返しになりますが、満百三歳という年齢の事実の重み、単に生きているのではなく、杖もつかずに普通に生活している。驚きと共に生きる勇気をいただいて読み終えたのでした。【楽天ブックスならいつでも送料無料】一日一日はたからもの [ 渡辺つぎ ]価格:1,080円(税込、送料込)
2014.12.01
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