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九分の街で買ったオカリナの音色の質問を「さなちゃん02さん」から頂いたので、今日はそれを主に書くことにします。肝心の形はこんな姿で、案外飾りになりそうなので、買ってみたものです 吹口以外に上部に6孔、下部に2孔と思いましたが、透かして良くみるとシールを貼ったもう一孔ありました。音は陶器独特のやわらかい音色で、案外練習すると、もっと良い音色になるかも・・・・??中国ではこれを「陶笛」と呼んでいるようです。カラー写真付の立派な小冊子が付いてます。勿論漢文ですので、良く読めませんが、陶笛運舌法説明とか、その記号及述語とか閉音孔練習が第7課まで写真付きで載ってますので、努力すれば或いは??後は中国名の楽譜が40曲余り・・中には日本の荒城之月やDOREMI 等中々充実してます・・作りこみ方も写真入りで、成型・修正・彩画・窯焼と丁寧な説明・・但し漢文なので??面白いのは陶笛の歴史も解説があり、何となく斜め読み程度でみると、今から七千年前!の遺跡からも発見され(但し音孔なく吹口のみ)その後数千年に渡り改良を続け、民族楽器中普通に使用されている旨で・・・Ocarinaはほんの19世紀後半になって、義大利人唐那特(イタリア人のDomati)が真似して発明云々と多少悪口を書いてますが、俄然我門の発明が早く、但し西洋人の実際的改良は考慮しつつ、現在の陶笛的発音設計となったと書いているようです・・・こんな処にも中国七千年の歴史に基づく、中華思想が有々とみてとれるのは流石ですね・・・ blogランキングへ
May 31, 2006
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先程、日本アジア航空で関空へ無事帰りつき、帰宅後風呂にも入ったし、身の回りを整理しつつ書き込む事にしましょう・・・。日頃の心掛けが良い為か、4日間とも予想通り雨、又雨、お陰で大変涼しかったとでも苦しい言い訳をせざるを得ない・・。初日二日はそれでも、半日は曇り空で天気は持ったので、楽しみにしていた、台湾北端の「九分」(ジウフェン)の街は持参の傘を差さずに済んだ・・。イメージは作り込んで行ったので、鳥瞰図はほぼGoogleEarth通り。 途中から乗り合いバスで街の頂上迄昇り、現地の中学生団体と仲良く、日本の夜店風の急な坂通りを下りつつ、坂ノ下のバス停まで店々を冷やかしながら小一時間、異国情緒を楽しんだ・・買い物はオカリナ風な笛一つ50元(200円)のみ・・H氏は買い物が苦手で、その程度しか探せない・・ ここは日本統治下の折から元金鉱の跡地でその入り口(上の肖像は中華民国 蒋介石総統)・・・ それ故、金山発見迄は唯の9戸分しか家がなく、九分と名付けられたとか・・下流でその頃の事で、村の女子供が洗濯中に砂金を見つけ、辿っていってこの山の中腹より掘り始めたとか・・・あっという間に、砂金目当ての街が山の中腹に出来、出なくなると、又あっという間に寂れてゴーストタウンとなった旨。そのさびれた街をバックに作った映画が1989年ヴェネチア映画祭グランプリに輝いて大ヒットし、観光地化されたいわくつきの街だそうで・・・その話には、意外に奥深い訳がありそうで・・・、それは又日を改めて・・・ blogランキングへ
May 30, 2006
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昨年末頃だったが、寝起きに立ち眩みするようになり、車を運転中も、前方視界の端が動いて安定せず、「これは何の前兆?あるいは加齢!から来る、病では??」と、カミサンにもこぼした事だった、ネットでも「めまい」で調べると色々思い当たる症状も書いてあり、かといって病院に行くのも・・と、随分弱気になり始め、たまたま秋口の友人の不幸事で、準喪中気分でもあり、例年青森迄スキーに行っていたのもその気になれず、正月もおとなしく過ごす事とした・・・ゴルフ仲間にも、予約キャンセルを頼み、事情を話して、メンバーを外してもらったが、その折の、「こんな台詞を吐く様では、お前はん、もうアカンな~」という同情を込めた目つきが忘れられない・・・そんな訳で、新居の娘宅に正月遊びに行き、初参りなどした夜、TVを眺めてもしょむないので、持参のPCの無償ソフトGoogleEarthの使い方を説明すると、案の定、新婚旅行で行ったハワイ辺りを眺め出し、XPに買い換えたばかりの自分のPCにも早速ダウンロードし、当方らが帰宅後も、正月休み中、あちこち、安上がりな世界旅行にのめり込んだ様だ。それから数日後、カミサンにかかって来た電話によれば、娘が「どうもめまいがする!?」との事症状を聞いてみると、GoogleEarthの使い方を教えたH氏とそっくり・・・「ハハ~ン!さては」とカミサンも気づき、当方も、言われれば思い当たる節もあり、その後まもなく、GoogleEarthソフトの使用を控えると、症状は治ってしまい、今はケロリとしている・・・何事も過ぎたるは何とやら・・にて、体に良くない好例で・・・・事ほど左様に、このGoogleEarthはご存知の通り、面白い・・昨年7月に、無償ダウンロードし、その効能に興味を持ち、嵌った訳だが、お陰でニューオーリンズの高波の被害も、北朝鮮のテポドン発射基地も(生ではないから時間差はあるが・・)目の当たりにし、友人のいる、シアトルやスイスジュネーブの各御自宅やトリノオリンピック会場の上空でバーチャル旋回出来、しかも3Dで眺められるとくれば、つい長時間見過ぎてめまいが起きたのだろう・・明日関空から出発する台湾も、泊まるホテルも至近距離からチェックしたし、大体、上空から、主なポイントはほぼ眺めたので、後は現地で、バーチャルと実際との比較確認を残すのみ・・なかでも、基隆港から東南にある、九分という金鉱山閉山後に観光地化された街の風情が面白そうなので、楽しみ・・以前・・といっても三十年近く前にもなるが、その頃は当然廃墟の街でつゆ知らなかったが・・・・下図は 上空 714m から眺めた台湾 九分(ジウフェン)の山腹にある街並み・・ blogランキングへ
May 26, 2006
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最近物忘れが多くなった・・・友人夫妻と吉野から勝浦温泉に泊りがけで行った際、洞窟温泉の「玄武洞」や「忘帰洞」に入ったせいでもなかろうが・・・・ (写真は観光船から見た洞窟温泉「忘帰洞」」と山上館) 翌早朝、「山上館」専属風呂に入りに、一度目は一人で下見に行き、二度目はもう入らぬつもりで寝起きの遅い友人と連れで、うっかり時計を着けて行き、コロリと着替えの籠に忘れてきて、暫く後で気づいて探しにいったが、出てこなかった。・・これは自業自得でやむをえない・・・それより、収入印紙綴りを郵便局で買い、確かに証拠の郵便局領収書までありながら、カバンからポケット、車を探しても見当たらず、止む無く、売り上げ集金時期も迫り、一週間後、再度買い求めたが、今だに、どこへ忘れたか思い出せないのがショック・・・。先日は、暫く振りの、海外ゴルフ用に、例のゴルフ好きの社長に誘われ、クラブ持参するほどの腕でもないのに、「ワシが飛行場迄運んでやるから・・」に甘え、珍しく自分のクラブを拭き、カバーを被せる段階で、確かにいつもの棚にあった筈のカバーケースが、見当たらない。甘えついでに、カバーを借りるはめに・・・同じ日、旅行準備に、デジカメの予備のバッテリーは引き出しにあったが、予備のSDカードが、確かに入れた机の引き出しに見当たらない。何度隅々まで探しても見当たらず、落ち込みついでに、自分の引き出しの不要な「筆記用具」の数々や使わぬから使えなくなった「小物」・期限切れの?お札、忘れかけてたお古の「時計」等諸々を整理する気になり、引き出し毎抜き出し、床へ置き、整理しようと・・・角度を変えて探すと、通常の目線に隠れた、一番手前にへばり付いて・・「あったあった!」これにて目下一勝三敗。・・まあ0勝4敗よりはマシかと全然関係ない、Wカップに思いを至し・・・!? blogランキングへ
May 25, 2006
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ヤマモモの私のいる雑木林は一応山林と言うわけで、農地解放には関係なく、元のままでした。持ち主さんのお医者さんは、年に一度か二度お見かけした事はありますが、明治生まれの方ですし、一応地方の名士でもあり、頑固そうにはみえて、医者一筋の一徹な方でした。戦後も10年ほどたった、昭和30年ごろには、世の中もすっかり落ち着き、特需景気で復興した大阪近辺には、どんどん人口も増え、ここらにも、大分家がふえてきました。その頃ここより、少し奥まった丘の田畑が大規模に宅地開発され出し、私の傍にも、慌てて、工事用の道が造られ、泥道の為、私ら林の木々もホコリまみれになりました。その土地では柿やモモ、夏蜜柑など、細々栽培していたのですが、最初に目をつけた土地ブローカーに上手いこと騙され、安く売ってしまったそうで・・・、それでも元値がしれてましたので、栽培をまじめにやるよりは、うんとお金が手に入り、当時まだ珍しかった、車も手にいれ、大層な羽振りでした。そんな噂は尾ひれ羽ひれがあっという間に広がり、近在のにわか地主も欲と道ずれで、我もわれもと、真面目に田仕事するよりは、頻繁に出入りする土地業者とつるんで、遊びまわるのに忙しくなりました。頑固に田仕事に精出すオヤジやおババを尻目に、遊びほうける息子をいまいましく云う爺さんばあさんも勿論多く居ましたが・・道沿い側のちょっとした田の1畝を宅地に変え、借家にした家賃収入のほうが、遥かに田仕事より収入が多いのは実感しておりましたので、「うちの息子どもは、田仕事嫌がって、土地売ろう思うて、ワシらの死ぬのを待ってますんや、・・」と、その実息子には面と向かってよういわず、店子の家賃取りに出かけてはこぼしたりしておりました。しかし、その折、畑でできた葱を持参して、集金に来て、「これ」と差し出すので、うっかりくれたと思った店子の奥さんが、つい手に取り「ま~ありがとう」と返事すると「いや、これ、○○円ですねん、代金頂戴か!」というほど、いじましい、がめついばあさんになっておりましたげな・・私のいる雑木林の前の工事用泥道でさえも、僅かな使用料の入る工事期間が過ぎた後、奥に出来た宅地の住人が近道に使いだした為か、ここから、ここまでは、ワシの土地やさかい、通行料払えたら、下水の土管通すのは月々なんぼたら言うて、小銭稼ぎを覚え、その又土地を、賭け事でヤクザヤさんに取り上げられ、輪を掛けて土地業者や、市役所に掛け合うので、皆往生する始末でした。人間楽に金になる道覚えたら、ここまで卑しく変わるものでしょうかね~。元々皆が使っていた里道を車が通れるよう僅かに広げた際、その畦が少しかかっただけやと、昔を知っている私等は記憶してますが・・・なかには、大きく発展する駅前広場の辺りで、「市の発展の為には駐車場の空き地がいるじゃろう」と遺言で土地を寄付した奇特な地主もいたようで、世の中人それぞれですわな~それでも、ここら辺りには立派な住宅や大小のマンションも増え、見かけ上は、立派な住宅街になってきました。私のいる雑木林は幸い、普通の宅地には不向きな斜面でしたので、昔ほど沢山な仲間の木々こそ枯れたり、通行に邪魔になって切られて大分みすぼらしくはなりましたが、持ち主の医者の爺さんは良く出来た人で、昔のことを良く知っており、たまに林の下枝を伐採に立会いに来た折にも、「このヤマモモは下枝も含めて絶対切ってはいかん!」といってくれ、昔のこの里山の入会地の賑わいを周りの集にも、懐かしく話してくれました・・・ほんまに昔の事をお知りの方も大分少なくなってきました・・・続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 24, 2006
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ヤマモモの媼樹が問わず語りしてくれる内容は、H氏も全容判りかねる為、折々調べてみておりますが・・・今回は特に「農地改革」について:簡単に調べてみました。「連合国軍総司令部 G H Q (General Head Quarters)の指令に基づき、農村における封建的社会制度を打破するために、敗戦後の昭和二十二年(1947年)から昭和二十五年(1950年)まで、三年間かけて、農地改革が行われました。 その要点としては政府がその村に居住していない地主、いわゆる不在地主が所有する全ての貸付地。 その村に住む在村地主の場合には、貸付地のうち内地では1町歩、北海道では4町歩までの土地の保有を認め、それ以外のすべての貸付地。 小作料の物納(収穫した農産物による支払い)を禁止し、全て金納(通貨による支払い)にする 。上記の1,2に該当する農地を、地主から安い価格で強制的に買いあげた後に、それをこれまで地主から借りて耕作していた小作人に安く売り渡す制度です。 これにより、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡された。これは、全国的に行われ実に7割余りの農地が地主から小作人のものにかわった。自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、正当な価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。これにより昭和二十六年現在で百九十八万七千町歩の農地を国が地主から買い上げて、土地を耕していた小作人に売り渡しました。その結果何百年も続いてきた農村の地主、小作制度は完全に崩壊し、自作農の数は農地改革以前の二百八十四万戸から五百四十一万戸へと飛躍的に増加しました。 この改革は、旧来の農村社会の仕組み、秩序、慣習を根本から変更する「土地(富)の再配分」であり、農村革命ともいうべきもので、占領軍の指令という強力な外圧があって初めて可能になりました。」 とありました。未だに農地解放が出来ていないフィリピン等の貧農と大地主との数十年来絶え間ない闘争の繰り返しからみると、民主日本の根幹をなす画期的な出来事ともいえましょう・・但し、全てが全て旨くいったわけではなさそうで・・・その後紆余曲折あり、自作農以外の用途に供することはできないという原則が除々になしくずしになり、昭和二十七年、法律改正が行なわれ、その他の用に供することを認めた頃から、特に大都市近郊で、工業用地や、住宅地に転売され始め、坪数百円で手に入れた土地が、1000倍近くの坪数十万円で売買され出すと、真面目に働く勤労者生涯就業所得の10倍100倍が簡単に手に入る訳で、この辺りから、「不労所得」じゃないかと言う、旧地主からの不満は々々として、戦後日本の社会全体に「拝金主義・・金さえあれば云々・・」や「自分さえよければ・・」「人がやるなら俺も」等と云う、「無責任」な世の中の仕組みが蔓延し、従来からの「勤勉な日本人の道徳観念やモラルの崩壊」が始ったのでは・・・? とも、思われますが・・・穿ち過ぎでしょうかね~?。 blogランキングへ
May 23, 2006
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昭和20年、広島・長崎に新型爆弾たらいう恐ろしい爆弾を落とされ、まもなく、夏の日差しのきつい8月15日、日本は無条件降伏して、負けてしまいました。街中では誰もかれも、気の抜けた顔で汗を拭きながら、歩いておりましたが、百姓してる此処らではそうもゆかず、次郎作の跡継ぎの嫁さんなどは、子供らと、親戚の大阪の子らにも手伝わせ、玉音放送の後も、草むしりにここらの田へ出ておりました。心中恐らく、中国出征中の旦那さんが、これで無事還ってこれるのを、喜んでおられるのが、その笑顔で判りました。唯でさえ真っ暗なここらの夜道でしたが、ため池向こうの数軒の農家の明かりが、その日以来、誰に遠慮もなく点り、戦争が終わった事を皆実感したことでしょう・・・。まもなく大阪の親戚の子らも、親元に引き取られ、子供たちも新学期も始まり、少しづつ、世の中は落ち着いてきました。その頃から、街中の人々は、バラック小屋や焼け残りの家々から、農家に食料を求めて、背中に大きなリュックサックを背負い、ここらにも伝を求めて買出しに来るようになりました。最初頃こそ、気の毒に思い、代金以上になけなしのさといもや野菜等、食料を過分に渡しておりましたが、その内、そんな人も随分多くなり、持ち込んでくる、着物や掛け軸の値踏みしてから、駆け引きしながら渡す事を覚え、だんだんこの辺りの百姓もこすっからくなってゆきました。戦地から戻ってきた人も大分増えましたが、中には親も自慢する優秀な子なのに特攻隊から帰ってくるなり、すぐ、ぐれてしまい、白い落下傘の絹の首巻をして、仕事もせず、ねめつける様な目つきをして、親元から、そんな着物や掛け軸を賭け金代わりに召し上げたりしておりました。案の定、大阪のヤクザ屋さんに出入りし、まもなく第三国人たら言うグループとの抗争に巻き込まれて亡くなりはりましたが・・・自由とか権利たら言う言葉もはやり出し、次郎作の跡継ぎさんが北向こうの小作人に貸していた土地代も払わなくなってきたりしました。皆わが身が生きる事に必死の時代でした。その内、アメリカさんの指導たらいう事で、「農地改革」が始まり、次郎作の跡継ぎさんが自作していた二反以外の八反が国に不在地主たらいう事で安く買い上げられ、それでも、小作人が元々払わなくなっていたので、まだましと未だ戦地から還って来ぬ主人に代わって、はんこを、押しました。詳しい事までわかりませんが、まあ当時坪二百円とか二百五十円とか三百円とか、幾ら高くても四百五十円とか、こういう価格でもって売り払いを受けたものらしく、しかも予算がないたらいう事で、実際に国から支払いを受けたのは、ご主人が戦地から翌々年還ってきた、大分後の事らしゅうございましたよ。その頃にゃ、世の中インフレたらいうて、物価もどんどん上がり、馬鹿みたいな値打ちしかありませなんだが・・・戦争に負けるいう事はこんなもんかいうて諦めるほかありませんがね~しかし、本当に本当の田舎の小作人達には朗報で、皆食料増産に大いに励んだようですが、ここらの大阪近郊の百姓連には、その後大いな矛盾に悩まされる時代がまもなくやってきました・・・続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 22, 2006
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経時の話で何ですが・・・一昨年末、得意先の懇意な会社より、忘年会ゴルフコンペの員数合せに誘われ、仕事を多少やり繰りし、やむなく?サイパン迄出かけた事がある。(勿論自腹ですが・・・)短期間で経費も安く往復するには、ご存知の通り夜行便で、到着はほぼ真夜中、気温は当然生暖かいので相室の人に空調を任せて睡眠。ゴルフ好きな社長に促され、ぐっすり寝るまもなく、早朝よりシーサイドコースへ。 ハーフこそ、海越えショット等クリヤーしつつ、それなりに快調なペースでしたが、後半は段々腰がだるく重たくなり、おまけに歯も痛み出し、スコアもボロボロ。大げさに云えば這うようにしてホテルに帰り着き、ダウン。翌日1R、当然キャンセルし、一人残された部屋で休養・・(昨夜のクーラー冷えすぎで体調崩したのが原因か??)といってこんな処で一人寝転がっているのもシャクだし、窓からホテルの庭向こうの海を眺めていると、遥か左手遠くに、あの広島・長崎に原爆を運んだ基地のあったテニアンの島影!!。右手のすぐ近くにも、以前来た事のある娘からお薦めあったマニャニャガ島?とか云う小島。着替えて浜辺に出、現地人のボートに乗り波に揺られるてみるのもいいかと、珊瑚礁の七色の海へ・・・程なく島に上陸するも、連れもおらず、周囲は、子供づれか水着ギャルばかりで場違いな雰囲気。やむなく帰りの迎え時間まで、島を一周する事とした・・(これがかなりいい加減・・つまり本島の元乗り込んだ海岸ですぐ別の人を確保すれば、定刻通り来るし、いなければその時はその時と後で判った事だが・・それも一興・・)最初に眼にしたのが、大きく破壊されたトーチカに空しく海を睨む呉工廠製の大砲と、周りの木陰に憩う水着ギャル達の構図 同じ、手持ち無沙汰そうなオジサンに、思わず感慨を話しかけたが「、『○×?※+/!&・・・」と韓国の方で???どこぞ静かな海辺へと、歩を進めて、裏海岸へ、風の強さと共に撮った写真にはバンザイ岬がくっきりと・・ すれ違う二人連れのおね~さんに、「こんちわ」と云うとにっこり「ニダ!」と挨拶・・結構韓国観光客が多い・・時間と共に、元の岸壁に戻ろうとして、椰子の木陰からテニアン島方面を一枚 海岸沿いには、旧日本軍の連絡・上陸用舟艇の残骸、その周囲には30サンチ以上はあろうかという米軍戦艦からの砲弾の破片が水辺に無造作に転がり・・昔むさぼり読んだ「太平洋戦記物」の構図がそっくりそのまま残されています・・・。 (帰国後調べてみると、この島は軍艦島と云い、米軍艦隊からイの一番に狙われたのがこの島の砲台だそうで・・)帰りのサンゴ礁の海影にもゼロ戦らしき機影もあり、改めて、下調べもせず、線香一つも持たずに、単純にお遊びにきた、わが身を大いに反省!ついでに言えば、最初に廻ったゴルフ場の谷やKinngfisher(南洋かわせみ)と呼ばれる鳥の群れる森影には島の形が変わるほど打ち込まれた砲弾のせいで、回収されぬままの兵士の遺骨が無数にあり、米軍機から別の種子を全島へ蒔き、サイパンの植生も替わってしまい、その上に土盛りし、芝を植え、彼等が犠牲のお陰の今日さえも知らずお遊びしているゴルファーの内、取り付き安いH氏の腰回りにでもぶらさがり、「オイ坊主!オマエハ下手糞ジャノ~」等と遊ばれていたのでしょうかね~H氏等も田舎の母方の爺さんが亡くなった折、きっちり爺さんに「ヨウ来タナ~」とばかり、胸の上に座られ、金縛りにあった事がありますが、夜明け方で明るかったせいもあり、一人離れで寝ていた部屋の障子が開くわけでもなく爺さんが入ってきた雰囲気のその後でしたので、ちっとも怖くなく、笑いかけた位でしたが・・・その半年後、形だけ靖国へ参拝する首相とは対照的に、両陛下がサイパン島慰霊にわざわざお出で頂き、誠に申し訳なく、有難いことだと思っております・・・。来週末には台湾へ出張しますので、三十年振り訪問の珍道中?報告できれば・・と思っておりますが・・・。 blogランキングへ
May 21, 2006
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H氏もそれなりに、馬齢を重ねると、僅かな経験をベースに、勝手な判断をして、勘違いする事が結構多い。十数年前だが、神戸淡路震災の折、この辺りも、結構長い時間揺れた。寝床の頭の上の棚のものが、落ちてこぬ様布団を頭から被り、収まるのを待った程度だから、知れているが、それでも居間に行ってみると、仏壇の線香立てが飛び出て灰を撒き散らしていた。幸い食器棚も書棚のガラスも無事だし、どうってことないのを確認して、朝のテレビをつけてみると、差しさわりのない大阪でのスタジオ話が流れている。これは、てっきり関東方面での地震の余波位にしか思っていないから、NHKを見ても、その積もりで何故関東地方の映像を流さないのか、暫く合点がいかなかった・・実際神戸放送局も、宿直員が慌てて起きる映像の繰り返しのみで、街頭の夜明けをカメラもみせていたが、アナウンサーも「特に被害はなさそうです」程度しか最初は言っていなかった。結果はご存知の通りだった訳・・・ニューヨークのビル火災も、たまたまテレビで見ていたが、最近NHKを退社した、手島キャスターが例ののんびりしたアナウンス越しに、生中継を見ていたが、もう一機の激突の瞬間を目撃させられた。てっきり、取材の飛行機が気を取られて、操縦ミスしたのかと「馬鹿な事をする」と、あっけに取られて見ていた訳だが・・・。去年4月25日の尼崎列車衝突事故は、ラジオで聞きながら車を走らせていた。最初は踏み切り事故で車が突っ込み、怪我人が多少いる模様程度から、一人、二人、数人の死傷者と拡大し、自宅でテレビを見た夕刻には、すさまじい事故になっていた・・・数日後、友人とやむを得ぬ所用で、名神高速で現場近くを通りかかった際、クレーン車と、例の衝突されたマンションが横目にチラリと眼に入り、「亡くなった若い人達の霊魂はまだこの辺りに迷っている筈」と、友人共々思わず黙祷した途端、ハンドルの操作が不能となり、背筋が凍りついた・・・。尼崎インターにて降りる予定でスピードは落として居た為、友人も気がつかぬ程度だったからまだましだったが、本人は見えざる力と、ハンドルを奪い合っている恐怖と戦っていた訳で・・何とかインターに降りて停車し、ボンネットを開けて見ると・・・何の事、ベルトが切れてハンドルが動きにくくなっていただけ・・・、何もそんな瞬間・そんな場所で切れなくても・・と思ったが、全て本人の不徳と致す処・・JAFを呼び、結局、所用は友人に頼み、その一日の予定は終了・・帰りにも改めて黙祷しつつ通過・・肝細なH氏は「ワシャ取りつかれ易いのかな?」と未だに思っていますが・・・ blogランキングへ
May 20, 2006
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どこまで、お話しました事やら・・・そうそう、その、「紀元二千六百年」たら言う年は確か昭和15年頃の事だったように思いますが・・・もうその頃は日本中は戦時色一色で、中国や満州や南方へ召集された兵隊さんが、この集落からも随分狩り出されてゆきました。なかには一家の大黒柱も兵隊に出て行き、残った田畑を女子供で、お互いやりくりつけたり、日露戦争時の元兵隊さんだった隠居中のお年よりや、在郷軍人さんで、それこそ、昔とった杵づかでと、どうにか田植えや草取りしている始末。あちこちに田畑を持ち開墾して今ではそこそこの地主になってた次郎作さんの跡継ぎさんは、地元の中学の学校の先生もなさっておられましたが、勤務の都合もあり、自分の田畑のうち、八反歩小作に出して、二反歩しか自作をしていませんでしたが、それでも中々回り切れませんでした。 その翌年末には大東和戦争いうて神国日本の大偉業も始まり、始めの頃は威勢良く旗行列や、日ならず、出征兵士を送るので、駅前はいつも大変でした。千人針や何やかやで、皆熱につかれたようでした。町の中学の下級生は勉強処でなく、食糧確保という名目で農繁期には駆り出され、上級生や女学生も軍需産業の工員さんに、朝早く大阪の兵器廠に泊り込みで働かせられ、皆「お国の為」ゆうてたいへんでした。あの地元の中学の学校の先生してた次郎作さんの跡継ぎさんも、結局中国戦線に駆り出されてゆかはりましたが・・・残った奥さんも大阪のええとこのお譲さんでしたが気丈に頑張って二反をお守りしてはりましたヤマモモの私の周りにも、私より古くから居る松もたくさんありましたが、松根油が取れるゆうて、随分切り倒され、役立たずのヤマモモの私等はお陰で小さくなって震えておりました。街中よりは安全じゃろう云うて、大阪市内より親戚を頼って学童疎開もかなり、来てはりました。集団疎開でもっと山奥に行くよりはまだましで、親類縁者の寄宿ですので、多少自由もききましたが、それでも、食べ物がないのはどこも同じ、・・それだけに、ヤマモモの私の周りは柿やグミや私の実やそのほか食べられるものが一杯でしたから、そんな子たちには楽園でした。だけど元々の集落の子たちにしては面白くなく、よく周りで順番争いで喧嘩しておりましたが・・・丁度、それはヒヨドリの集団がきたら、いちはやくメジロが逃げるようなもので、私としてもどうしようもなく、精々坂でころんで怪我をせぬよう、痛くないように、まわりを私の葉で覆う位のことしか出来ませなんだが・・・・そうこうしてる内に、昭和二十年になり、町境にあった軍需工場まで、空襲警報とともに、狙われるようになり、ここらも物騒になりました。ある日の夜、真夜中に、サイレンが鳴り響き、近く遠くにサーチライトにあのB29たら言う大きな爆撃機が爆音を響き渡らせて何派も何派も夜空に浮かび上がり、大阪方面が一晩中真っ赤となり、翌日聞いた話では大阪工廠や、環状線も含めて一面焼け野が原になったそうです・・・。ここらでは、精々、帰りの駄賃とばかり、グラマンが機関銃を女学校の校舎に打ち込みボヤを出した程度でしたのが、何よりといえば何より・・・日本中どこもそうだったでしょうが・・・いや~大変な時代でした。続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 19, 2006
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名医だった友人のW君がウィンドサーフィンで海上遊弋中、亡くなって8ヶ月近く経つたのが・・、未だに実感がわかない・・・ 奥様から下記メールが届いた。 [雨が多い毎日ですね お元気でお過ごしでしょうか 少々早い話ですが ○月○日(土)に一周忌の法要を予定しております H様 K様 I様のお三方にも出席していただければ有難いのですが いかがでしょうか その日は連休の初日ですので皆様ご予定がおありかもしれませんね ご都合の悪い方は無理をなさらないで下さいませ 自宅で午後5時にお経を上げていただき 7時から近くのホテルで夕食を予定しております 仏間がご存知のように狭いので大勢の方に来ていただけないので残念ですが どうぞよろしく御願い申し上げます] 返事は下記の通りメールさせて頂いた。 [早いですね、彼が 長期医療NPO活動??に亡国?へ旅立って早8ヶ月ですか・・ たまの帰国を出迎えるつもりで、心待ちして出席させて頂きます。] blogランキングへ
May 19, 2006
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たまには仕事の話・・・独立自営業者は糊口をしのぐベースを何で築くか大事、理想は々々、現実はこの山を越えることが出来るかどうかが分かれ目・・・余り理詰めで考えても、その通り行く訳がなく、まず実行あるのみ、過去の経験や人脈をベースに、見込みのあるユーザーからテーマをもらい、類似業務の中で自分の得手を広げて行けば、近道と思う。間違っても、いきなり、畑違いの事に手を出さぬ事、(特にフランチャイズの新規商売など)テーマを貰い、自分の経験や、又良き人脈より、ヒントをもらい、あれこれテストを繰り返す熱意と、工夫の精神が必要。(・・そこに必ず自分の過去真面目にやってきた経験が思わぬ形で生きてくるモノ・・・)IT関連でも、製造業でも、活動中、pat.に出来る程度迄精錬できそうなものが、一つや二つ見つけられねば、独立する意味がない。よしんば、それが二番煎じであっても、自分でアイデアを煮詰め、原稿にできれば、思い切って特許印紙を貼って出すくらいの投資は安いもの。例え上手くいかずとも、周囲の見る目が徐々に変わってくるし、又別のテーマを貰える。取れた時の充実感は例えようもない・・・但し、それが即商売=利益に結びつくほど、世の中甘くはない。そこからは、取るまでの、何倍ものチャレンジ・売り込みPRと、需要が起きる迄の時間差との根競べとなる。それも又楽しいと思えば楽しい・・自分の創ったものが少しでも世の中に認められ、街中や店先で並べられれば、利益が上がったとかどうとかは二の次位嬉しいもの・・・但し発明貧乏になりやすいのが以下のタイプで要注意!それには、決して自分で最終製品までは作らぬことが鉄則。飽くまで他人がそれに興味を持ち、他人の資本で作らせるのが、遠回りだが怪我をしなくてすむ。自分で惚れたアイデアに人が惚れてくれてこそ、売れる商品になる・・気長に待つ間に、類似品がそれより安く良い場合には、自分で作った商品はたちまち、滞留在庫となるリスクは絶対と言えるほど犯してはならない・・・(但し金持ちは別・・ある人はどんどんお作り下さい・・)そうこうしている内に、他人様が当方のアイデアで作ってくれた製品の一部をサンプル替わりに収集すれば、自ずと生きた実績見本となる ・・・あくまで遠い道のりだが・・ blogランキングへ
May 18, 2006
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ここより一里ほど東向こうの村の大集落の衆が陸蒸気の火の粉を嫌がって、半里ほどこちらに寄った田圃の真中にステンションが出来たのは、いつの頃じゃったかの~一日四往復通りかかる折は、精一杯背伸びして眺めてみよう思うても、今ひとつ、鎮守の森の辺りからは、よう見えても、ヤマモモの私の処からは煙突から吹き上げる煙しか見えなかったが、噴き出す蒸気や汽笛の威勢の良い音が心地よく聞こえたもんじゃった・・・。あの村もこの村も、追々町に統合され、だんだんそれらしく発展していったが、まだまだ、ここらは木々の多いままで、ため池には亀や鮒や又それをついばむ鷺やかいつむりがのんびり泳いでおった。ここらの住民も、代替わりしていき、優秀な子は、百姓を嫌がり、中心部にできた中学をでて、東京の高等学校や、士官学校にいきたがり、それも時代の流れゆえ、親もしぶしぶ認めよった・・・日清日露の戦役の頃には、村の青年も数名が名誉の戦死とやらで、盛大に鎮守の森と、そのすぐ下のお寺で供養が行われた。今でもその碑が鎮守の鳥居の際に立てられているが・・・その頃はまだこの辺りの集落は裕福だったのか、ついでに、鳥居さんも立て、境内の建物も余った資金や寄進により新築され、盛大な祭りもおこなわれ、「日本勝ったロシャ負けた々々」ゆうて、提灯行列やら賑やかな笛太鼓で、ヤマモモの私もうれしかったもんじゃ・・・その折をさかいに世の中みんなが皆、教育勅語や富国強兵たらいうて、なんとのう、窮屈になっていったもんじゃが・・この村にも親の代からの身上を元手に株に手だしたり、慣れぬ振興商売に土地を担保して失敗して一家離散したり、百姓だけの中農は生活も苦しく、色々じゃった。米騒動もこの頃じゃたかの~そんな訳で、だ~んだん戦時色の強うなった頃、「紀元二千六百年」たらいう掛け声で、各町村が競争で、碑を建てたり、、鎮守の太鼓の古いのを買い換えたりするのに、勧進を廻しても、とても資金が足りぬ次第で・・・、困ったこの集落の長(おさ)連中で、今だ集落の財産だった、ヤマモモの私の居るこの雑木林一帯を、売りに出した訳じゃが・・正直、こんな斜度のある場所で里道はそのままだし、な~んの役にもたつ筈もなく、どうにかつてを頼んで廻って、隣町の、町医者に帳面上だけ買ってもらい、この年の行事費用をなんとかやり繰りした訳じゃ。しかし、何の変わりようもなく、相変わらず、集落の人はこの私の足元の里道を通り、上の畑の近道にしたり、秋には私の近くに成っている、栗や柿の実を食べる寄り合い場所には変わりがなかった訳じゃよってに・・ヤマモモの私も何ということもなく、春先には地味な花を咲かせ、少し離れた雄木から風で便りをもらい、実らせてきたもんじゃた・・・。続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 17, 2006
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こんな平和な村里にも、不穏な噂が流れた事が何度かありました。何とはなしの社会不安が広がり、米も値上がりし、食えない連中が大阪の商家を打ち壊したとか隣村の庄屋の家にお札が投げ込まれたとか、そこへ盆踊りの騒ぎどころでない「ええじゃないか」行列が押しかけたとか・・殆どの噂話は烏がギャーギャー寄り合っては伝えてくれましたが・・・北の丘の向こうを通る街道で、大勢の侍集団が大砲を押しながら隊列を組んで、都へ昇ったとか、いや淀川の向こう岸に別の集団が対抗して構えたとか・・。分け知りな村人が、今にもこの辺りで戦が始るというので、逃げ支度した方が良いと噂し合っておりました。結局、静まり返った村里へ遠くの淀川の向こうから、砲筒の音がかすかに聞こえた程度で事なきを得ましたが・・・そんなこんなで、天下様の御世も終わり、結局この辺りの天領や旗本領は一旦天子様に戻され、まもなく、廃藩置県とやらで、群役所がおかれ、北の丘向こうの街道筋の本陣跡には「徴兵仮検査場」の掛札がたてれられ、なんの事やら、「昔の方がよほど楽じゃった」といわれる程の税率で皆ぶつくさ言う始末じゃった。それも年貢でなくて現金で収めされられ、土地の持ち主は益々小作人にもキツクなっていきよった。元々あぶれモノの二三男は兵役にとられ、多額納税の戸主や跡継ぎは免除とされたので、皆々養子縁組したり、他家に入籍したりして、忙しい事じゃった。まあ、御一新とは云え、下々はそんな事で、盛大 夏は草取り、冬は手内職、で気のおけぬ日々を過ごしておりました・・それでも、学校掛ができ、この辺の子供達が村の寺院に間借りしていた小学校に通いだした事くらいが、前の頃とは違うところ位じゃろうか・・・おなごの子は学費の問題もあり、子守や家の手伝いで中々行かしてもらえず、可愛そうじゃった。たまに親の目盗んで、ヤマモモの私の木の下影で、寄り寄り、おじゃみや男の子の帰って来ぬうちに、木の実を袂一杯に入れる姿は可愛いもんじゃった。それもこれも、随分と昔の事じゃよってに、覚え違いもあるかの~続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 16, 2006
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ヤマモモの私には、色々友達がいます。枝にはメジロ・鶯・シジュウカラ・雀は勿論、烏や時にはキジや白鷺、渡ってきたツバメ、時にはオオルリも立ち寄って、あちこちで見聞きした噂話を教えてくれるので、結構こうみえて良く知ってるのですよ・・足元にも、狐・狸・ウサギも寄ってきて、時折猪親子も来るし、山芋やイタドリや、勿論私のあげる実を食べてはお礼に方々の話をしてくれます。それでも、私は人間の子供が好きです・・可愛いし、長年見ていると、町に奉公に出ていて暫く見ない内に、随分逞しい若者や、しとやかな娘さんになって、忘れた頃に又立ち寄って、私の枝に成った実を食べに寄ってくれると、それはそれはうれしいものです。今も昔も若者が自立して行くのは大変です。長男こそ、跡継ぎで、親の田畑を引き継ぎできますが、それがかなわぬ二三男は、兄の小作人になるか、町へ出て奉公するかしかないからです。幾ら兄弟分け隔てなく、親の目で差別なくしたくても、分割して引継ぎする結果、年貢が減る事を村の領主も許さないからです。それこそ田を分けて相続する事を「たわけもの!」といって、厳しく詮議を受けるのです。(皆様、私が冗談いうてるとお笑いですが・・「田分け者」といわれてそれが「あほうもの」の意味になったのですよってに・・・)そんな訳で、慣れぬ町奉公から出戻り等の二三男は、やむなく、新田畑を少しでも自分で開墾し、又領主もそれを薦める為、この雑木林の周りも、追々開墾されてゆきました。元々村の入り会い地なので、親に頼んで、酒など持ち込んで村の有力者の地方三役や五人組の了解を取り、長兄の田圃の小作の手伝いの合間に、芝草を刈り、溝を引き、すこしずつ、それらしく広げてゆきました。けれど、こんな村境の荒れた芝地の「切り添え新開」では、稼ぎも知れています。又、次郎作がやれば、隣の家の又兵衛もその少し坂の上を開くので、結局猫の額程の面積を開墾するばかり。それでも、当初は無年貢で十年間はそれなりに作物が出来るまで年貢も割安で、十年後の満額年貢を納める頃には土地は我が物と認められるため、皆額に汗してがんばりました。大消費地の大阪を控えているので、主に菜種を植え、隣町の絞油屋に持ち込むと追々現金収入になり、辛抱できずに又町に出稼ぎに出た、又兵衛の地を引き継ぐなどして、一人前の田畑持ちになった次郎作などは、ヤマモモの私でさえ、陰ながら応援していたものでした。そんなこんなで、江戸の終わりには、地割りも複雑になり、私ヤマモモの雑木林の周りも絵図面のような土地区割りになってゆきました。私の周囲は、皆が昼飯時等に寄り合う木陰の場所なので、赤い里道に取り巻かれているのが、お判りになりますやろか?・・・・ 菜の花の一面に咲く春時は、周りの木々の緑に映えて、それはそれは長閑な景色でした。続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 15, 2006
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私(ヤマモモの媼樹)の娘盛りの頃を、もう暫くお話ししましょうかいね~といっても、そう大したお話しじゃありません・・・。なにしろ、の~びりした時代でした。丹波から続く山々が低い丘になり、その間を西国街道が通り、又低い丘を越えて、やっと人家がそこかしこに見え隠れしだしたその丘の端に、縁あって、育ったヤマモモの木のお話じゃもんですからね~。ここらは、昔は、天領じゃったそうですが、その後、村の御領主は江戸詰の旗本様から、配置換えで、御三卿さまの一ツ橋様になり、村人は名家の御領地を自慢しておりましたもんですが・・。そんな訳で、比較的裕福な自作農家が多く、ここから淀川べりまで、ず~と田圃も続き、皆この雑木林の事など、見向きもせず、秋には向かいの丘の村の鎮守で豊作祭りを楽しみ、暑い夏の日暮れ時には、鎮守の森の下にあるお寺の境内での盆踊りが、ほんに楽しみでした。世の中だ~んだんせちがらくなってきた折でしたので、「盆踊りは豊年一夜かぎりに致すべし」と倹約令も出ておりましたが、娯楽のない頃でしたから、み~んな無視して、幾晩も々々も踊り続けたものでした・・雑木林に住む娘盛りのヤマモモの私なども、遠くから精一杯背伸びして、踊り続ける人並みを、毎晩楽しみに眺めたものでした。こんな唄じゃったのを少し覚えておりますが・・・・「花よ咲くなよ蕾でおれよ 咲いて小枝を折られるなよ~」「来るか来るかと待つ夜は来ずに 待たぬ夜は来て門に立つよ~」「山がなければ丹波が見える 丹波恋しや山憎やよ~」や~れやれ懐かしい事で・・・続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・ blogランキングへ
May 14, 2006
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H氏の携帯電話の請求書欄をみると、2006年5月で利用月数は197ヶ月となっているから、この6月で満16年と半年めとなる。平成の御世となった直後の当時は全国契約台数が二十数万台だったが、現在は数千万台稼動と云うから驚き!発信の便利さや料金他で契約先を次々変える訳でもなく、当方へ架けてくれる先様の便利さ第一に契約番号を変えずにきているのは、一にも二にもヨメを大事にしているのと同じ!!・・ヨメはん判るかな~?判んね~だろうな~機種は覚えられぬ程変わったが、懐かしいのは初期の米国モトローラ製携帯電話・・スタータック。今から考えると多少重かったが、腰バンドに拳銃ホルダーの要領で、西部劇並みに即脱着出来、男心をそそった。それ以来、自宅で充電している時以外は常時バンドにホルダーしている為、お陰でどこぞへ忘れる事はない・・問題はそれへ先様から架かるタイミングだが、バブリーな折は当然忙しく、堪らず夜9時には電源を落とし、朝8時過ぎにスイッチを入れていた。昨今は閑な折故、常時スイッチが入っているが、大概、間の悪いタイミングで架かってくる。スポーツ中継や商談等に集中している際の娘からの電話・・(従って大体不機嫌そうな応対となる)・トイレタイムの折に不思議に架かる客先からの大事な話・・(かと云って逆はなく、辛抱していても架かってこない)メールは主に受信専用で、簡単な至急返事要求分のみ間髪を置かず、定例文をペーストして済ませ、長文の返事が必要な場合、全て携帯電話の受信経由でPCに廻る様セットしているので、後刻、デスクに戻り、じっくり返事する事にしている・・その方が即返事するより良い考えが浮かぶケースが多い。 blogランキングへ
May 14, 2006
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桐の花について、補足で書き込みします。桐の木は、実はゴマノハグサ科に属し、草の仲間だって事知ってました?? いやぁビックリしましたね!そう云われれば、桐と云う文字は木偏に同じと書いて、桐と読みますがね・・・!!確かに通常の木に比べ成長も早くて柔らかく、軽くて、乾燥にも湿気にも強く、自己呼吸し、燃えにくい等、杉板等と違う性質があるので、箪笥や、金庫の内貼りに使うにはもってこいだな~位は理解してましたがね?そんな事で、昔の中国では、桐の木を「鳳凰」がきて鳴くめでたい木と呼んでいたそうで。たまたま中国在の友人が北京でも今花盛りなので、写真送ってくれましたので添付してみますが、木の種類の差なのか、黄砂のせいか、やや花の色が鈍い感じがしませんか?・・一度聞いておきましょう・・・日本の皇室も丸に五三の桐が使われています。太閤秀吉も自分の出自に多少劣等感があったのか、皇室に五三の桐の使用を願い出、桐の葉と花をあしらった紋所を許可されています。卑近な例では我々の持っているパスポートの写真の上の、両隅にも、五七の桐の紋所がホットスタンプされてます。色々調べてみると、面白いですね!
May 13, 2006
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車で出掛ける際、急いでいる時以外はなるべく別のルートを敢えて通ると、色々新鮮な季節に巡り合える。昨日も、車線が少ない為いつも混むので敬遠気味なルートだが、高槻京都線経由で、アサヒビール吹田工場横を通り抜ける際、何気なく反対側に目を向けると、手入れの行き届いた和風住宅の屋根越しに紫色の花を付けた大きな桐の木が目に入った。同工場の真向かいだから、大方、同社の保養施設住居だろうと思われる・・混雑している為、降りて写真を撮る訳にもいかず、そのまま通り過ぎたが、季節の花があるだけで、心に残る風景の一つとなった・・・そういう経験は、誰にもままあるし、多忙にかまけいつかは等と考えている内に、季節は巡り、次回通りかかった際は既に花はなく、大きな桐の葉がふさふさと揺れるのを目にするだけになるだろう・・・それでも、この季節は紫が良く似合う。「藤の花」「あやめ」それに「桐」・・日本の心豊かな心象風景だ。仕事で中国北京在住が長い同期の友人によれば、 「日本には四季がありますが、北京は大雑把には夏と冬の大陸性気候で、しかも年中水不足で、木が育つ土壌ではないようです。せいぜいバラか菊が地を這うように生き伸びているのが現実。」だそうだ。同期生のHP経由で、日本の桜が掲載され、それをうち眺めていると・・「やはり日本の桜はこの世のものとは思えません。」との事・中国北京へ云った事がなくても何となくその趣は理解できる。本題の「桐の花」だが、数年前までは、又そんな余裕もなかったのか目に入らなかったし、当然ながら、知らなかった。大阪市内から、長居公園東詰め経由で南(堺方面)に向かい、大和川を渡る橋を「行基橋」といい、(昔、聖武天皇の折大仏建立に邁進した偉いお坊さんで有名ですが、)言い伝えによれば、その辺りの出身の百済からの渡来人の子弟だそうで・・その名前を橋につけたのだろう・・と思いますが・・大和川右岸のその橋の畔にも、ランドマークとして見事な桐の花が咲いていました・・堺へ仕事での行き帰りに、この時期どうしても目に入り、車を止め、写真に収めたのが、下の写真「聞かぬは一時の恥」で近くの学校へ電話し、教務主任らしき先生から親切に教えて頂いたのが最初ですので、当方の植物考など、たかが知れております・・・それから数年経ちましたが、残念ながら今はもう切られてしまってありません・・・なるほど、桐の木の成長は大変早く10年から15年で製材出来るようになるそうで、それ故、他の木にない色々な特徴から、桐ダンスや、金庫の内装材としても、珍重される訳ですが・・その後、その場所に跡継ぎとなる植樹がなされた気配なく、又貴重な緑が削られ、なんとはなしの、いらずもがなの公共施設を作るために、整地され、それも予算がその後着いた様子もなく、荒れたまま、打ち捨てられている趣で、こんな事ばかりして、自然を荒らす現代人の行為を、いずこかより行基大僧正がお笑いになっておられる事だろうと思います。
May 12, 2006
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長い人生、気の会う仲間は何といっても、高校時代の友人が一番だろう。田舎モノばかりの地方の高校ゆえ、、当時は同期450人中、女子が50人程度というから殆ど男子高に近い。隔月に一度は関西在住者十数名が必ず集合して、いい加減に話題も、尽きると思うが、それでも皆いそいそと寄ってくる。最初の内、例会場所を選定するのに、週一にて、飲みまわる為、皆ヨメはんから、随分疑われたものだが、それも今となっては懐かしく、追々、ヨメはん同士も折々付き合いが深まり、一緒に旅行やゴルフ会等、まあ、健全な会と言える訳だ。話は大抵他愛のないもので、いかに自分がもてたかとか、勉強が出来たか出来なかったとか云う程度だがそれぞれの人生行路にて専門分野がある為、当方も医療では整形から歯治療を初め、金融やメーカー幹部に某大学の教授や僧侶も加わり、最後の葬儀に至る迄、大体間に合うのは有難いし、安心な訳で・・・若い連中が偶に、旅行などで同行の折、色々と難問愚問を浴びせて困らせる時があるが、一人々々では答えに窮しても、その内の誰かが、その専門分野から、判りやすく説明し、回答してくれる為、概ねこちらも勉強になるのが今の段階ではお互い、切磋琢磨の関係と言える・・・但し、その関係を商売に利用しようとした同期生もバブル時期前後いるにはいたし、一度や二度はお付き合い程度に利用されもしたが、その内、先方から足が遠のくのは、やむを得ぬ事とはいえ、長い人生からみて、損な企てだと思うのだが・・・
May 11, 2006
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日本各地に銘酒あり、と云うが、そんなに酒好きでもないが、むしろ珍酒に巡り合えたので、ご紹介してみます・・昨夜は2ヶ月振りの同期会。関西在住の諸氏十数名が、北新地のいつもの処へ集合し、例の如く雑談好飲・・近江の在の氏より、珍酒を持参し紹介あり(リキュール・・と云うからには梅酒の類か・・・)その紹介は以下の通りでした・・『(大津から)琵琶湖を渡って蒲生野に入る途中の北津田の里にある奥津嶋神社に天智天皇が立ち寄った時、8人の男児を持つ長命堅固な老夫婦に出会ったので、「汝等如何(いか)に斯(か)く長寿ぞ?」と尋ねた。老夫婦は、「この地に産します珍しい果物がございます。これは無病長寿の霊果と伝えられ、毎年秋になりますとこれを食します。」と、天覧に供したところ、天智天皇は賞味の上、たいそう感銘され、「宣(むべ)なるかな。」と仰せられ、「斯くの如き霊果は例年貢進せよ。」とご下命された。老夫婦は喜んで、「以後、この果物を”むべ”と呼ぶ事に致します。」と答えたそうである。』「宣(むべ)なるかな。」とは、「なるほど。」という意味だそうです。現在、奥津嶋神社には”むべ”の棚が作られ、春には白い可憐な花を愛で、秋には甘酸っぱく美味な果実を楽しむことが出来ます。昨年秋も収穫された”むべ”を、奥津嶋神社が古式豊かに駕籠包装をし、皇室へ届けました。」 実際試飲した感想としては、アルコール18°にしては、果実が違うので、当然ながら梅酒とは比較にならぬ程さっぱりした口当たりで、別の意味で、女性がその軽妙な甘さについ杯が進みそうな趣~?いわれを拝聴?しつつ飲むと、男ばかりの酒盛りではあったが、大海人皇子と中大兄皇子に愛され、微妙な間柄であった額田王の移り香を楽しむ風情ありと感じたのは・・あながち、酒の廻ったせいばかりでもないと想うのだが・・・なを、その席で、秋にはそのむべの収穫もあり、現地にてその風情を楽しむ会の企画あり、又楽しみが増えました。
May 10, 2006
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昨日8日迄に、北京他から送ってきて、今朝 upした写真等、数点以外にも、同期会会員で四季折々の写真を、或いは、スライドに、或いはアルバムにしたページを04年から、卑近では06年4月まで、20頁分 一まとめした頁があるのを、思い出しました。中には、全国の名所や地縁ある桜ばかり集めたアルバムもあります。直接「 桜便りAlbum 」をクリックしても開くかと思います。 四季折々・表紙イラストギャラリー をクリックして色々ご覧頂いた後、下の絵をクリックするか bookmarkからも入れます我々、同期会会員のみで閲覧するばかりでも何ですので、お閑な方はお立ち寄り下さい。
May 9, 2006
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高校同期会のHPが開設されて凡そ8年、内2002年来よりWebmasterを足掛け5年、任されていると、楽しさ半分、シンドさ半分・・、皆が写真付き掲示板にも慣れ、どんどん掲載してくる、この時期は、その写真をHP表紙のスライド用掲載の為、縮小整理するのにアップアップする程送ってくるだけに、大変だ・・我々だけで独占閲覧するのも、勿体無い程なので、いずれ、折をみて、紹介する積もりだが・・とりあえず、ここ最近の数日分のほんの一部だけでも、以下の通り・・・・札幌在のSM君からは真駒内公園に咲く、水芭蕉 それにカタクリの花の群生 京都在のYK君から、長岡天満宮のつつじ 名古屋在のFMさんから御在所岳のアカヤシオ(ツツジ科) 近江在のTH君からは、長野の神代桜 北京が長いYI君からも百花繚乱中の天安門近くの公園からモモの花 そのアップ おそらく天安門横の公園の青柳 そこに咲く、中国の国花 ボタン 今の処は暫く送って来ないが、これに沖縄やスイス在のお姉さん、シアトルや、豪州在の両君など送って来だしたら、いっそ季節感もなくなってしまい、管理者が悲鳴を上げそうだ・・・まあ、それが楽しくてやっている訳ですが・・・・
May 9, 2006
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2001・9・11「アメリカ同時多発テロ事件」事件の後、残された遺族関係者のだれかが、作者不詳のまま a thousand winds の詩を書き、日本の作家 新井満 氏の手により「千の風になって」と訳され、2004年には本や、CDや映画にもなり、いつからか、去年4月25日の「尼崎列車事故」のご遺族の間にも、廻し読みされているそうです。急にこの世から去ってしまった身内の人が語りかけてくるようなこの詩ほど、残されたご遺族の気持ちに響く言葉はありませんね・・昨年秋、サーフィン中に心臓麻痺で亡くなった、友人のw医師の奥様も、どなたかから、お届けのあったこの詩に、どんなにか癒された事と思います・・・。奥様にお彼岸の時当家にお出で頂き、楽しいひと時をお過ごし頂いたが、その後、暫くして、わざわざ写真のようなカードになさって、郵送してお届け頂いた・・。 当家にももう十数年前に亡くなった仏がいて、故W氏の戒名がH氏の手書きで共に祀らして頂いているのを、快くお許し頂いた訳だが・・・このグリーティングカードももとより、お供えさせて頂くつもり・・・
May 8, 2006
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朝:帯広の友人より、電話あり、先般の飛鳥・宇陀・吉野・熊野と、ご夫婦ご案内して、満開の桜見物を楽しんだ折の話で、一頻り盛り上がった・・彼とは学生時代よりの付き合いだから、もうずいぶんになる・・友達とは良いものだ。メールも良いが、やはり肉声だと、余計距離感がなくなる・・昼前:友人の友人としてこゝ二年来、小豆島で製麺業を営む気心の通ったご夫妻から半年振りにお電話を頂いた。昨年、彼岸花の咲く頃、瀬戸内海の屋島に時間待ちに回航停泊し小豆島へクルージングに行った際に、一年振りの再開をし、翌朝H氏の無二の親友で、医師でもあるW船長の勧めで乗船し、操舵を替わり、女木島から、坂手港まで、楽しそうにハンドルを切っていたものだが・・その横で、さりげなくフォローしていたW船長が、まさかその一週間後に、敦賀でサーフィン中に心臓麻痺で亡くなるとは・・クルージング時の写真をお送りして、丁度一週間後、小豆島から届いたお礼の電話がかかってきた折、、その事実をお知らせするのが余りにつらく言葉を飲み込んだ事情を、今頃になってお詫びし、無常感を改めて共にした訳だが・・午後:その乗り組み員だったM君に電話した・・独身の若い彼も、それなりに、人生航海中で、先般相談あった如く、公立病院勤務をやめたようだ・・暫く沖縄の与那国島に行っていた由、故W船長にもコーチしていた好きなサーフィンにでも興じていたのかとひやかすと、あくまでのんびり海と牧場を眺めていたそうだ。この機会に、彼のメン食いな性格を改め、素直な可愛い性格で、乳牛のように?立派な体格のお嬢さんを探し出し、二人で、家庭を持ち、整体士の資格を生かし、新居の玄関先で治療院を立ち上げるよう強く勧めておいたが・・彼の海好きな性格からみて、どうも、沖縄あたりで、その夢をかなえる積もりなのかもしれない・・・
May 7, 2006
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ブログは開設4日めだが、ビジネスと云える程度か否かは兎も角、起業して、かれこれ19年目にもなると、我ながらマイペースも板についてくる。独立した折は一応女房子供を食わせる必要上、不安半分、で、とにあれ、自分の持っているノウハウを精一杯背伸びして、新規飛び込みもやったものだが・・・どうして独立する事になったかは、人それぞれだが、H氏の場合、突き詰めれば、”自分のしたい事をしてみたい”という事に尽きる・・・卒業以来、業種は違うが一貫して営業職の為、腕に技術がある訳でなし、結局「人と話をするのが苦にならない」だけが持ち味。(辞めて暫くしての実感だが、話しをして苦になる人とは、暫時距離を置き、話しをしなくて済むのは、独立した人のみの特権で、上役下役同僚に気を使わなくてすむ、環境はどれだけストレス解消に役立ち、又サラリーマンとは、何と大変な仕事であったろう・・としみじみ思っておりますがね!)サラリーマンを辞める際は、きっちりと主旨を伝え、世話になった会社、得意先、同僚、部下、に出来るだけ迷惑を掛けぬ事が第一。その為には、勤めていた先で作り上げた得意先は会社の看板を背中にして出来た事と割り切り、全て置いて辞め、間違っても持ち逃げ等しない事だ。人それぞれだが、有難い事についてくる得意先も当然あるが、少なくとも、元世話になった会社とダブル分野の仕事の場合は、主旨を話し、遠慮する事とした。・・・・・お陰で軌道に乗るまでずいぶん遠回りしているし、未だに、その影響はないとは云えないが・・H氏の場合は印刷関連分野で十数年営業をやってきた訳で・・、広いようで業界は意外と狭い。得意先を持ち逃げすれば、かならず良い噂にはならない、故に遠回りのようでいて、まじめに別分野に興味と研究心を持ち、蓄積してきたノウハウを新規得意先開発に力を入れておけば、その内、辞めた会社の警戒感も解け、逆に、色々と援助なり、アドヴァイスをしてくれる様になる。急がば廻れの言葉通り、その内退社した会社から、盆暮れに中元歳暮が届くようになるのは、遠回りの効果とも云える。過去に築いた色々な人脈こそが財産・・「金持ちより人持ち」・・、「自分のしたい事をしてみたい」が第一、金持ちは云わば時の運もあり、その夢は持ちつつ、人脈を維持発展し、「ええ格好」をせず、贅沢さえ云わねば、この世の中、糊口をしのぐ程度は廻るものと云うのがH氏の実感。今同様な事でお悩みの方に、参考になればと思い、一筆記入した次第では、どんな事に興味を持ち、又どうして来たか、今は何をしようとしているのかは、未だH氏としては発展途上中でもあり、又折を見て日記にでもしてみるつもり・・・
May 6, 2006
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かくいう私(ヤマモモの媼樹)も200年はここで生き続けてますが、その位はちょっと日本の山里に入れば、さほど珍しくもありません。でも周りに住宅が立ち並ぶこの辺では、私位しか居なくなりましたね・・・400以上年経つたヤマモモの樹は大分・野津町の正光寺にもあり、静岡・磐田の浅間神社にも300年ほどの樹齢の仲間がいるそうです。それでも、幹には大きな空洞もあり、昔はリスや子狐も雨宿りしていました・・6月も終わり頃には、今でも、枝一杯に赤いヤマモモの実を付け、ヒヨドリやムクドリ達が群れになって、順番に駆けつけます。昔の村人や子供たちは実の落ちる頃を知り尽くし、樹の周りがちょっとした寄り合い場所となり、ムシロを敷き、枝で日差しを避けながら、集まった悪がきどもは、日暮れ迄、甘酸っぱい味を楽しみ、叔母さん達は落ちた実を大事に家に持ち帰り、水切りしてそれに焼酎を混ぜて、2ヶ月も漬けておくと、暗赤色のヤマモモ酒になり、お盆のころには、おすそ分けしながら女共で楽しんだものです・・・。しかし、戦後も暫く経つと、甘いものが行き渡り、今ではほんの一部の人達を除いて、一生懸命実らせたのに、むなしく道端に積もるばかりで、見向きもしてくれなくなりました。虫取りに通りかかった子供達も、親さえその味を知らなくなって久しいので、道路が赤くなっているのを見て、唯、驚いて見上げるだけです。 それも、時代の流れでしょうがありません・・・・でも、まだ親離れして間もない、小雀達が、安全な草葉に落ちた実を、小さな口いっぱい広げておいしそうに食べてくれるので、それはそれで、良いのです・・・続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・
May 5, 2006
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今日も、里山の森は穏やかな5月の朝をむかえました。日が昇ると、森は新緑に包まれ、鶯やメジロの朝の挨拶で賑やかです。特にこの正面舞台では、樫やクスの新芽がいっそう鮮やかです。GW中の為か、道行く人も少なく、静かな朝のひと時を迎えています。その里山の森の主人公が、かく云う私 ”ヤマモモの樹”です。こう見えても、可愛い娘時分もありました。樹齢はもう古いことで忘れてしまいましたが、少なくとも江戸時代、周りはもっと木々に覆われ、私など特別、注目もされず、おとなしく二百年近くを過ごして参りました・・・ それでも、年に一度は近在の村人や、大勢の子供たちに、周りを取り囲まれて、自然に出来た寄り合い広場に人々が集まり、賑わう日々を過ごした事もありましたが・・・・それも、遠い昔になりました・・ 続きはいずれ又近い内にお話しましょう・・
May 4, 2006
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二日坊主めです。GW,専ら、京滋山手Kカントリーにて、飛び石の早朝ゴルフで無聊を慰めております・・1R終了後、通常、名神高速で昼過ぎには帰宅できますが本3日は大山崎から下り40K渋滞、(国道も同様)やむなく、裏道岨道、抜け道を通ると、そこかしこと、旧所名跡の宝庫です。旧西国街道添いには水無瀬神宮等多々ある中、”青葉茂れる”時期だけに、思いついて、サントリー山崎工場から少し淀川寄りにある、ひっそりした桜井の駅跡に立ち寄ってみましたが、人影は石碑に座って、パン等食べてるアベック一組のみ・・皇国史観を学ばれた、方なら、感涙に咽ぶ?程の石碑がそちこちに並び、例えば、明治天皇御歌「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」を海軍大将東郷平八郎が揮毫し、「楠公父子決別之所」の揮毫は陸軍大将乃木希典によるもので、碑の裏側は裏面には頼山陽の漢詩「過桜井 駅址詩(さくらいえきあとをすぐ)」 が彫られています。正成、正行父子決別の場面の上の像は真新しく、(初代は銅像のために戦時中に供出)最近置換えられたものらしいが台座の「滅私奉公」は戦前のもので、もう死語化したままです。・・とは云え、代わりに「自己責任」等と彫って欲しくないものです・・処で「父子決別」像の裏手では真横を走り抜けるJRが新駅工事中でしたが「桜井駅跡駅」とでも云うのか知らん??
May 3, 2006
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人様にブログ開設をお薦めした手前、己がページを開くはめとなりました。已む無くブログの開設とその要領を理解ついでに、一文を寄稿。4月13日友人夫妻と明日香村の石舞台桜と橘寺を見物し、義経千本桜の舞台の花矢倉、上千本の見事な枝垂れ桜の満開の庭から蔵王堂を見下ろす離れ三座敷のみの隠れ宿に一泊、花の吉野を満喫。その後宇陀に廻り一本桜の満開の「又兵衛桜」に出会うも、周囲の造作に風情を失い、以前の様に心ときめかず・・やはり”花は吉野”を改めてかみしめたことでした。その経緯は以下の通り「昔々、新幹線車中で拾い読みした週刊新潮?の見開きページに又兵衛桜が掲載され、何時かは!と目に焼きついたのが90年代最初の頃、丁度以下の写真のような雰囲気でした。(93年時撮影分某氏Webnetより採取 周りの桃の木未だ小さく、苔むす舞台の石垣 )その時分は、知る人ぞ知る名桜で取引先の懇意なアマチュアカメラマン氏より、概略マップを聞き出し、97~8年春だったかに娘と三人で、訪ね歩き、田圃のあぜ道を通り花の手前の川幅3m位の土橋を渡り 辿り着いた折は七分咲き・・、(花の裏手で弁当をひろげ、近くの田圃の土筆取りをした事でしたが・・・)初めて遠くから又兵衛桜を目にした折の印象はあたかも生ある如く、風に枝が揺らぎ、まるで能装束を纏ったシテ役の舞を見ている様で、背筋がぞくりとする程いたく感激し、以来ずっと憧れていつかは満開の折に再訪する折を楽しみにしていた訳です。処が2000年だったかのNHKの毎日曜「徳川三代将軍」のオープニングに「吉野 宮滝の清流」と共に放映されるや俄然有名になり、今回訪問して撮った写真が下段の通り。300有余年の満開の又兵衛さくらには何の不足も罪もありませんし、見る方々の思いはそれぞれ千差万別で、一向に構わないのですが・・・薄々聞いていたより以上に、小川は護岸工事を名目に土建屋の好いように拡大され、取ってつけたようなオブジェの菜の花が植えられ苔むす石垣さえ張替えされ、ニューヨークの舞台に立つマスカラ目の播磨屋の雰囲気で、少なくとも当方の印象としては残念ながら極めてあざとく見えた訳です・・・。300人程の住民の宇陀 字本郷部落にこの時期8万人強の探桜客では、駐車場もトイレも必要でしょうし、商売もしたくなるのは判りますが・・何もここまでしなくても・・?!(想いは同じ方のurlは下記にもありますが・・)・http://www.asahi-net.or.jp/~yr4k-wtnb/mokuji/20020124.htmlとは云え、我々が消えてなくなる数十年後には、それはそれなりに落ち着くのかも知れませんね・・・又隠れた名花を探す旅でも計画しましょうか・・
May 2, 2006
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