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あれは、H氏が清水小学校 5年生の、秋の事だったか、何時も下校時に通る近道の裏通りではなく、その日たまたま、遠回りになる清水交差点三叉路から斜めに広い道を、南小倉駅に向けて友達数人とガヤガヤと帰る途中、清水交差点の向かいの道にしゃがんで、ペンキで、道路の歩道に、何やら書き込んでいる、おっちゃん二人が目に止まった。たちまち、H氏ら腕白盛りの小学生達は、興味深々でおっちゃんらを取り囲んだ。「おいさん!(九州弁でおっちゃんの意味)何しとるん?」の質問に、ニヤっと笑ったおっちゃんは「見とればわかるケ!」と答え、せっせと作業にかかる。白ペンキで、ベタ塗りされたものは、だんだん形を整えられてゆくと、大きな三本(四本だったかな~?)の足指の形となる、振り返ってみると、どうも、清水交差点を通り越え、到津方面に、既に右足、左足と等間隔に描かれている。下校を取りやめ、右左の足跡伝いにワイワイと歩いてゆくと当時、隣の到津小学校との校区の境にあった「南小倉劇場」に辿り着いた。・・・足跡は、その入り口に入っていっていた・・映画館の正面看板に大きく描かれていたものは・・あの怪獣「ゴジラ」!!。 入り口はゴジラの股くぐりで入場するようになっていた。「わ!すげえ!!」「見てみたい!」と、ひとしきり、スチール写真の前で盛り上がった後、また足跡を逆に辿って帰ると、丁度、南小倉駅前改札口近くまで、足跡のペンキ絵は仕上がっていた・・・。「小野の公ちゃんも、村上の俊ちゃんも、岡村のボーヤも、ナッカンも皆行くゆうとるけ!」と例により友達のせいにして、親に頼みこみ、しぶしぶ了承。皆で連れもって、見に行った訳だが・・ 「ゴジラ」 東宝映画 初公開年月 1954/11/03 19XX年、南太平洋で行なわれた核実験によって、ジュラ紀の肉食恐竜が甦った。ゴジラと名付けられたその怪物は、大戸島を襲った後、東京へと歩を進めていく。放射能をまき散らすゴジラの前に、帝都は為す術もなく蹂躙されるかのように思われた。だがその時、防衛軍に一つの朗報がもたらされた。それは若き天才科学者、芹沢の発明した“オキシジェン・デストロイヤー”という、核を凌ぐ超兵器の存在である。しかし芹沢は、核の二の舞を怖れ、その超兵器の使用を認めようとはしなかった……。この作品によって本邦の特撮映画は始まった、監督: 本多猪四郎 製作: 田中友幸 原作: 香山滋 脚本: 村田武雄 本多猪四郎 撮影: 玉井正夫 特殊技術 円谷英二。http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=86049 より"""""""””””””””””””””” 兎に角 面白かった・・あの恐竜の怖い目付きと独特のゴジラの雄たけびに、震え上がり、東京湾から上陸後、踏み荒らす度に高圧線から飛び散る火花と、ゴジラの背びれの火花にしびれた。東京で暴れまわるゴジラが、銀座服部時計店の和光ビルに近づくと時計台を見てしばし沈黙。ちょうど夜11時の時報が鳴り響き、その音に反応したゴジラが時計台に吠えつき、たたき壊してしまうのだった。 blogランキングへ
August 31, 2006
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今まで、H氏の見た映画も、青空無料映画会の「鞍馬天狗」や「丹下左膳」など、結構書いた積りだが、一体どの程度覚えているのだろう・・・思い出の映画といっても、シリーズもの等は一々覚えていないが、妙に、その一場面だけ記憶に残り、気になっているものを、取り上げてみたい。記憶力の限界の範囲もついでに、WEBサーチの力も借りて補足できぬか?・・とも思って・・「エノケンの西遊記」その頃、5人の子育て最中で、普段忙しかった筈の未亡人の母と映画を見に行った覚えはそんなにないが、この映画を連れられてみにいった事は何故か、妙に思い出す。恐らく昭和23年頃の事で、H氏が小学校以前に見た筈の当時の映画は大体2本立てが普通だったが、もう一本は記憶にない。映画館の場所は、旧小倉駅前にあった常盤座あたり?だと思うが・・覚えている限り、母親と劇場で見たのはこれが最初の様な気がする。もう一つ思い出したが、その折のモギリの切符係りが、たまたま近所に住むお姉さんで、辺りを見回し「入り!」と云って、すばやく親子二人、顔パスで入れてくれたのも、うれしくも懐かしい・・ちゃきちゃきの下町っ子の彼女の顔はうっすら覚えているが、彼女の名前はもう思い出せない・・当時の娯楽映画の事だから、エノケンの孫悟空が、キン斗雲に飛び乗り、空高く飛ぶ場面にしろ、雲に見せかけた煙(ドライアイス?)と孫悟空の裾が画面の外からの扇風機でひらひらする程度の特撮だったが・・ある場面で、孫悟空が、お釈迦様に逆らい、天空の果て迄、飛んで行き、その証拠に、遥か天空にそびゆる剣山の五峰に、名前を刻み、意気揚々と、帰ってきて得意げに、お釈迦様に報告すると・・にこやかにお笑いのお釈迦様が、ご自分の手のひらを拡げ、五本の指にそれぞれ書かれた、孫悟空の筆跡の文字を、「その天空の果ての剣山の五峰に書いた文字とは、この事か?」とお見せになられた・・・まさに、孫悟空はお釈迦様の手のひらを宇宙と思い、その果ての五本の指に文字を書いた訳で・・驚く エノケンの孫悟空の顔は、当時のH氏も、驚いて、口あんぐりな顔をしていただろう・・と思うと、今でも思い出す懐かしい場面・・・。此処まで書いてWEBで以下調べるみると・・・・"""""""""""""""""""""""""""""""""""""1940年(S15年)135分・モノクロ東宝映画 制作=滝村和男 監督、脚本=山本嘉次郎特殊技術撮影=円谷英二,奥野四郎 撮影=三村明 美術=松山崇 音楽=鈴木静一 録音=村山絢二 照明=大沼正喜 編集=岩下広一 製作主任=本木荘二郎 衣裳=島公靖 按舞=益田隆・荻野幸彦 殺陣=近藤登 キャスト:孫悟空=榎本健一(エノケン)三蔵=柳田貞一 猪八戒=岸井明 沙悟浄=金井俊夫 観音さま=花井蘭子 玄宗王=北村武夫 珍妙大王=高勢実乗 金角大王=中村是好 銀角大王=如月寛多 猿太夫=団福郎 お伽の姫=高峰秀子 魔法の精=牧久千恵子 妖々女王=三益愛子 姑娘=服部富子 東洋の女=李香蘭(山口淑子) 支那人形=汪洋 金鈴=渡部はま子 袖珍=中村メイ子 侍女頭=伊達里子 衛士女子=千川照美 ------------------------------------------------------ 日米開戦直前制作の映画である。1939年には脚本の検閲、制作・配給の許可制、外国映画の上映制限などを定めた、映画法が施行されていた。にもかかわらず、歌い踊るオペレッタ西遊記というのがとにかく珍しい! オペレッタといってもエノケンですから、和風や中国風の歌で、耳に馴染んで乗りもいい。豪華でギャグも満載の本作、日中戦争が激化した戦争中の緊張した時代のものとは思えないというか、そういう時代だからこそ娯楽が求められたというか… エノケンの孫悟空 より""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""とあった。WEBは便利なもので、戦前製作の娯楽映画でエノケン 以外にも シミキン デブなキシイアキラまで出ており、李香蘭(山口淑子)や高峰秀子 も出演していたとは驚き!!特殊技術撮影も あの円谷英二 氏 だったとは・・偉そうな事を書いてしまったが・・ しかし、 エノケンはこの映画で孫悟空を演じた時に、如意棒(数メートルある)が足に当たったことが原因となって脱疽になってしまい、10年後の48歳の時に、脱疽が再発し大腿部から右足切断の手術を受ける厳しい運命がエノケンを襲いました。・・とあり、 http://d.hatena.ne.jp/tougyou/20060108知らなかったとは云え、その後も活躍し、園遊会で昭和天皇に、「榎本は元気であるか?」と声をかけられ、「ハハァ」と恐々謹言した逸話とあわせコメディアンの,偉大な先駆者だった。その後記憶に残る「西遊記」は1978年から1980年にかけて放映された日本テレビの、堺正章が孫悟空に適役で猪八戒に西田敏行 沙悟浄の岸辺シロー、それになんといっても、三蔵法師の夏目雅子は最高でしたね! 毎日新聞朝刊で現在 平岩弓枝作 「西遊記」を連載しているが、最初から丁寧に読む積りが、道東旅行等で途中、少しとばしたが・・、「忠臣蔵」や「源平もの」とおなじく、どこから読みはじめても、一緒で、まだ附いて ゆけそうなので、又読み進めている・・ blogランキングへ
August 30, 2006
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忘却とは 忘れ去ることなり忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ君の名は……と たずねし人ありその人の 名も知らず今日砂山に ただひとり来て浜昼顔に きいてみる菊田一夫作詞・小関裕而作曲この年代を過ごした人なら、このナレーションとハモンドオルガン伴奏の「君の名は」のメロディを知らない人は先ずいない・・・・1952(昭和28)年 4月から2年間放送された連続ラジオドラマ 「君の名は」程 人気沸騰した番組は戦前の「愛染かつら」以来で、空前絶後の人気を博した。正直、その頃 小4のH氏など、いくらおませだったにしろ、話の経緯が判る歳でもないが、一種の社会現象で母や姉等、周りの大人たちの入れ込みようも尋常ではなく嫌でも、耳に入る、メロディと共に、記憶に刷りこまれていった。 ・・・・・・・・ 1945(昭和20)年5月24日空襲の夜、助け合った氏家真知子と後宮春樹。心を通わせたふたりは半年後に東京・数寄屋橋で再会を約束する。 別れ際、 「君、肝心なことを。・・・君の名は何て?」 「わたくし……」 その時、再び空襲警報が鳴り、ふたりは名前を告げず、あわただしく別れていく。 東京・数寄屋橋、新潟・佐渡、長崎・雲仙、北海道・美幌峠、などを舞台に、ふたりは、何度もすれ違い、じりじりするような恋に身を焦がしていく。 ・・・・・・・・「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」と言われるほどの人気となった。・・これは松竹映画が創った 宣伝用のフレーズと思うが当時、H氏の家から、ほぼ等距離に二軒の風呂屋さんがあったが、・・・そこまでの記憶はない。真知子役が岸恵子、春樹役が佐田啓二の映画版は、53年から54年にかけて3部に分けて公開され、大ヒットした。映画の中で岸恵子がショールを頭に巻いた「真知子巻き」が流行した。 中三の頃、修学旅行で行った、雲仙で、勝則と離婚を決意した真知子の就職先とされた雲仙観光ホテル近くに、当時はペンキのみで「真知子岩」と書かれた岩があり、友人数人と、面白半分でその岩の上にしゃがんで写った写真が手元に残っている。 大学進学で上京時、既に、数寄屋橋は高速道路下で、姿はなかったが、叔父さんの経営する店が高速道路アーケード内にあり、覚えやすかった。後年、或る意味こんなすれ違いの筋立ては、「君の名は」以降の脚本の禁じ手と云われたが、ご存知韓流ドラマ 「冬のソナタ」でも使われ、幾年月と年代を重ねた筈?のウチの実姉も懲りずにハマッテしまって、初期からのビデオを山済みし、関連グッズを買い込み、CDや楽譜を送ってきて、ピアノを練習しろ!といってきかない。まぁ、姉さん孝行で、やってはみたが、余り気乗りしない・・?その為か、スラリと弾くには程遠い仕上がり・・カミサンは隠れファンで、余りH氏の前では、韓流の話はしない・・が、しかしH氏がPCにしがみ付いている間中、韓流モノのテレビにしがみつき、家庭内にて上手く棲み分けている・・ blogランキングへ
August 29, 2006
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紅孔雀 とその後の中村(萬屋)錦之助『新諸国物語 紅孔雀』は1954(昭和29)年1月4日~12月31日までNHKラジオで放送された。物語は、戦国時代、世界の平和のために使用するようにと、ローマの使者から譲られたアステカの秘宝の隠し場所を示す紅孔雀の鍵をめぐって展開。若き剣士・那智の小四郎は、紅孔雀の秘宝のなぞを解く黄金の鍵をめぐって、元海賊の網の長者、幻術使い・信夫一角やしゃれこうべ党とたたかう。彼を助ける謎の浪人・五升酒の主水、風小僧、妖婆黒刀自、盲目の美剣士・浮寝丸、など。怪人、剣豪、美女が入り乱れる、波瀾万丈のストーリー。主題歌は ♪まだ見ぬ国に住むという ♪紅き翼の孔雀どり~ (後は忘却!?どなたか思い出して教えて下さい!) 同じく、東映映画は『新諸国物語 紅孔雀』(1954年) として第一篇 那智の小天狗 (昭和29年12月公開)第二篇 呪いの魔笛 (昭和30年1月公開)第三篇 月の白骨城 (昭和30年1月公開)第四篇 剣盲浮寝丸 (昭和30年1月公開)完結篇 廃墟の秘宝 (昭和30年1月公開)出演那智の小四郎:中村錦之助 那智の嘉門:有馬宏治 浮寝丸:東千代之介 主水:大友柳太朗 久美:高千穂ひづる 網の長者:吉田義夫 信夫一角:三条雅也 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%AD%94%E9%9B%80" より東映映画の『笛吹童子』の興行収入が5億円、『紅孔雀』が約11億円と、東映の時代劇映画の黄金期の礎となり、又中村錦之助の人気が不動のものとなった。しかし笛吹き童子や紅孔雀へ出演当時は、H氏は生意気にも錦之助の芝居がかった台詞廻しが気になり、余り好きになれなかったし、中村錦之助の股旅もので唄う台詞入り歌も、 「・・お月さん!又~仲のいい親子ずれを見せ付けるんで御座んすかい!・・(略)・・子供の頃遊んだトンガリ山から、呼んでみたくなりやした!おっかさ~ん!♪親のない子は 旅から旅へ♪・・・・」と、おちゃらけの物真似で覚えている位、へたっピーの最悪でしたが・・・その後、映画活動で沢島忠監督『一心太助』(1958~)伊藤大輔監督『反逆児』(1961)、今井正監督『武士道残酷物語』(1963・ベルリン国際映画祭グランプリ受賞)、内田吐夢の『浪花の恋の物語』(1959)では上方和事風の柔らかな味を出し、一転して『宮本武蔵』五部作(1961~)では、剣に一途に生きる武芸者のエネルギーを噴出させ、気力体力の充実さに円熟味が加わり。武蔵役は錦之助 が一番味のある魅力とパワーを見せつけた役でしたね! 映画路線がヤクザ映画に変わると共に不況期になり、一旦 東映を出て1968年中村プロダクションを興し、テレビ路線で、『鬼平犯科帳』『それからの武蔵』などで活躍するが1982年、中村プロダクションが倒産。莫大な借金を抱え、更に歌舞伎座公演中に倒れ入院。重症筋無力症?と診断される。ところが、驚異的な回復力を見せた錦之介は筋無力症を克服。11月には退院し、1984年放送の『子連れ狼』で復活を果たし、 映画にも1978年、12年ぶりに復帰し、深作欣二監督『柳生一族の陰謀』(1978)が公開され大ヒットしたが、144作目 1989.10.07 千利休 本覺坊遺文 西友 ... 織田有楽斎 の役を最後にまだ50代にして 映画では、この作品が遺作となった。舞台裏の彼は仕事、私生活面において順風満帆とはいえない起伏が激しい人生であった。度重なる不幸と長い試練に耐え1997年3月10日肺炎のため64歳で病没され、帰らぬ人となる・・錦銀幕館 萬屋錦之介 及び 萬屋錦之介 より追伸) 中村獅童って中村錦之助(萬屋錦之介)の甥っ子だそうで・・・ blogランキングへ
August 28, 2006
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下級公務職員から、教職員、高級官僚を含め全ての公務員と名の付く人にお聞きしたい。先日の福岡市役所職員の、飲酒脇見運転による、橋上追突、墜落事故の結果、幼児三人の、死亡事故をどう思われますか?「どうしてこんな事に!可哀想に・・・、だけど、私がやった事ではないから・・」と軽く受け流しますか?しかし、この一点から、全公務員と名の付く人、全てに、改めてお聞きしたい。あなた方は、自分の職責をご存知ですか?公僕とはどんなお立場ですか?おおげさかも判りませんが、ひと括りで云えば、一時が万事、上から下まで、一般国民の眼からみて、最近の公僕の綱紀の緩みと横暴さは目に余ります。22歳位の若い、考えの甘い職員だからこそ、飲酒運転がどんな事態を招くのか、最低限の人間教育もせずに、「オリンピック招致」にうつつを抜かし、見かけは立派な海上橋の片側欄干強度不足に思いも致さぬ部下に取り囲まれた福岡市長。先のプール吸水坑での幼児殺人事件の埼玉県の地方自治体の市長。教職員の暴行事件、岐阜県庁の公金横領裏金放火事件、社会保険庁の辻褄合わせ、農水省、防衛施設庁の老後天下り防衛用の無要設備・無駄金談合事件etc.新聞種になる、この一ヶ月のほんの一部でさえ、この有様・・あらゆるお役所の、一般国民の眼に見えぬ処で闇処置し、臭いものに蓋したその他諸々・・、否、現在も進行中の種々綱紀違反の数々・・・。何も聖人君子であれと迄は言いませんが、「天網恢恢疎而不漏」(老子)と申します。今や自分達の努力で手当てを稼いでいる民間会社の方が、余程シビヤーに不祥事撲滅と社員教育に力を入れています。全公務員の方、胸に手を当てれば、身に覚えありませんか?公務員・公僕のお手当ては誰が払っているとお思いですか?「鯛は頭から腐る」ともいいます。トップの高級官僚の甘え、尊大さ、無神経さ、無責任さが、蔓延した結果、「公務員法」とやらで身分保障された内部の中間管理層を含め、皆、ずぶずぶにもたれあい、先送りし、上にへつらい、横暴な者には年々過分な予算をつけ、一般国民の小さな最低限の願いを握りつぶし、甘い汁や、我が身・我が身内の利益にのみうつつを抜かし、内情は腐りきっているのと違いますか?お気付きですか? 一般国民は、あなた方全公務員に、現在までは表向き面従服背していますが、既に、今や、白眼視はおろか、目にみえぬ石つぶてを投げ始めています・・・、それが実際の石つぶてにならぬうちに・・・・。どうすれば良いのか、それさえ国民に教えてもらわねば判らぬ公務員は、すでに失格です。公務員たる、あなた一人で考え、行動して下さい。・・その為に頂いているお手当てです。あなた方とは敢えて云いません、複数員いれば必ず又つまらぬ会議でも開き、屁にもならぬ、言葉の上の綱紀粛正で表向きお茶を濁す手管をお持ちの公務員達です。まずはそこに気づいて、公務員一人々々が最低限、恥を知る日本人にならないと、本当に、「日本」は「沈没」をはじめています。 blogランキングへ
August 28, 2006
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新諸国物語は1952年(昭和27年)から月曜~金曜の午後6時30分~45分にNHKでラジオドラマとして放送された、北村寿夫原作の一連の冒険活劇の第一話で一年の初めから、年末にかけ、一年に一話づつ完結するストーリーだったようで・・・■「白鳥の騎士」は、ほとんど記憶が薄れているようで・・やむなくWEBに頼って、調べてみました。室町時代、蝦夷の宝を狙う幕府の重臣・赤松黒主は、丹後の雄麿に盗賊の濡れ衣を着せて、蝦夷に追放する。宝を手に入れた後、幕府を乗っ取ろうとする赤松の野望を知った雄麿は、蝦夷の平和とアイヌの人々を守るため白鳥の騎士となる。善の白鳥党と悪のされこうべ党の戦いを描くシリーズドラマでした。■続く二年目の『新諸国物語 笛吹童子』は1953年1月5日~12月31日までNHKラジオで放送)され、大反響をよびました。夕方、始まる時刻になると、何をやっていても家に帰り、ラジオのにかじりついて聞き入っていたものです・・・。「笛吹き童子」 北村寿夫作詞・福田蘭童作曲「ひゃら~りひゃらりこ♪ ひゃり~こひゃられろ♪ 誰が吹くのか不思議な笛だ♪ ひゃら~りひゃらりこ♪ ひゃり~こひゃられろ♪ 音も静かに魔法の笛だ♪ひゃら~りひゃらりこ ♪ひゃり~こひゃられろ♪ タンタン タンタン タンタンタンタン 野越え山越え♪」ストーリーは:応仁の乱の後、丹波国満月城々主修理亮には二人の息子がいた。長男・萩丸は武芸の達人、次男・菊丸は、笛の名手で笛吹童子と呼ばれた。 二人は明国に留学していたが、面作りを学んでいた菊丸が作った白鳥の面が割れたため不吉を感じ、日本に帰国した。二人の留学中、満月城は野武士の首領玄蕃にのっとられ、修理亮は自害したことを知った二人は城を取り戻すため立ち上がる。 東映から映画が 『新諸国物語 笛吹童子』(1954年) として、第一部どくろの旗 第二部妖術の闘争 第三部満月城の凱歌 と次々と封切られるや、H氏の地元の狭い木町東映は、子供達の立ち見と拍手で溢れかえる程の大入りとなった。配役は 萩丸:東千代之介 菊丸:中村錦之助 赤柿玄蕃:月形龍之介 霧の小次郎:大友柳太朗 でした。わけても、東千代之介 の美剣士振りは忘れられません。・・・続 blogランキングへ
August 27, 2006
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■サトウハチロー作の「ジロリンタン物語」は、1951年(昭和26年)からNHKラジオドラマとなり一世を風靡した。 ”七色の声”と呼ばれて一人で何役もこなし人気を博した中村メイ子が朗読し、彼女の巧みな話術に引き込まれた・・が、ストーリーも、もうほとんど記憶がない。ジロリンタンのうた・・「誰でも知ってるジロリンタン♪・ぐりぐり坊主のジロリンタン、まあるい目玉のジロリンタン♪」のリフレインだけがうっすら記憶に残るのみ・・・、「処で今だ活躍する、中村メイ子さん は その頃 朗読していたメイ子さんと 同一人物 ? だろうか・・(声は似ているが・・)そうだとすると、相当な化石人類の様な気がする。・・(失礼すぎるかな??)黒柳徹子さん も、ぼつぼつその辺りの謎の年代に近づいているが・・彼女ら女優の生命力は凄いもんだ・・・、高木東六 さんが、102歳で昨日亡くなりになったが というからには、彼女らは、一体幾つと幾つなのだろう・・・??」■昭和27年、毎週-金曜日に「さくらんぼ大将」があった。 「はのはのは薬」売りの田舎医者古川ロッパさんが「ワッハハッハー♪、ワッハッハー、ワッハッッハーのはのはのは♪笑って暮らせば世の中は♪ワッハッッハーのはのはのはで楽しいな♪今年も来ました はのはのクスリ♪」と唄っていた。 ストーリーは確かこの歌を唄いながら、相方の子役「爆弾アラレのお玉チャン」と、全国を巡り歩く話だったが・・殆ど覚えていない・・。■同じ頃の、昭和29年 「やん坊・にん坊・とん坊」・・・しっかりもののやん坊・暴れん坊のにん坊・かわいいちびすけとん坊・・♪ だったか?、これも同じく殆ど思い出せない。■代わって、新諸国物語が始まり「白鳥の騎士」は昭和27年4月、からで、翌年から「笛吹童子」、「紅孔雀」と続くが・・この辺りは、流石に男の子故に興味深々で良く覚えている。■これは、項を譲って、次回じっくり書き進もうと思うが、その内のどれかだったか、あるいは別の新諸国物語の話の中だったかに「八幡船」・・(倭寇)・・の話があり、ストーリーはおぼろげだが、劇中の歌が素晴らしかった。WEBにたった一つだけ、この歌の一部があったので、紹介してみます・・忘れられた歌 より 八幡船(ばはんせん)の歌風が吹~くなら風吹くままに (ジャジャジャン)波がう~ねれば旗翻し(ジャジャジャン)我らゆ~く我らゆく 見よや十字の果てまでも南無八幡大菩薩 南無や八幡 大菩薩波高く海蒼く ゆくや我らが八幡船南無八幡大菩薩 南無や八幡 大菩薩 (何方か詳しいストーリー覚えて居られたら、是非、お教えして欲しい・・) blogランキングへ
August 26, 2006
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その後の連続ラジオ物語は「三太物語」・・・・おらあ三太だ。おらぁの村には……・・で始まる、小さな田舎の村の三太や留、定、花子ら少年少女グループの冒険物語も耳を澄まして聞きいった。昭和25年4月から、NHKラジオ(毎週日曜日5:15~5:45)で放送されるや、たちまち、その明るい悪がき振りで人気になり、映画も51年(昭和26年)から53年にかけて4本作られたそうです。・・三太物語の映画の中の記憶で、村の大人のオトさんがせっかく沸かしてくれた五右衛門風呂の中で、留、?定?のどちらかが、おしっこをしてしまい、その場は否定するものの、風呂の栓を抜いて、逃げまわり、探し回るその内に大嵐になって・・・といった場面を覚えていますが・・それからどうなったか、記憶はあいまい・・H氏の老年性健忘症はすでにそこまで来ていますネ!! (なを、詳しくは、青木繁 原作 「三太物語」の舞台となった 神奈川県 津久井町産業振興協同組合HPをご覧下さい)昭和36年ごろにはフジテレビ系で「 おらあ三太だ」として放映されたが・・それは見た覚えが余りないのはその折々の年代の興味の移り変わりのせい??・・。今リバイバル放送すれば・・或いは、座りなおして、見入るかも・・・?)三太に似たような冒険というか、H氏の地元紫川の河童伝説の淵を恐る々々覗きにいったり、お寺の木の上に巣を作ってみたり、川でいかだ作りの真似事をしてみたりした。(・・そういえば、その淵では決して泳がなかった・・)家の庭にあった枝振りの良い松の木は、各枝毎に座り易く整え、てっぺんの見晴らし場は見やすいように上枝の松葉を払い、家にあった双眼鏡を手に、完全に、我が家の子供用別荘にしていたが・・・長兄に見つかると、早々に降ろされてしまったものだ・・・。「先生々々 お弁当食べよ~!」「駄目よ 待つのよ お昼まで~」♪♪♪ と、主題歌の唄の最後の一小節しか覚えていないが、やはりその頃は食べ盛りで、いつも腹を空かしていたので、この一小節に特に共感していたせいかも知れない・・・それとも、三太の担任の「花荻先生」の凛としたお声に、当時のH氏の小1~2年担任の女先生の 占部先生のイメージを重ねていたのだろう・・・ (画像は 同町 津久井町史編纂委員 山本恭一氏「三太物語」からお借りしました。)津久井町のHPを読み進むと、相模川周辺もいまや、人造湖の津久井湖(工事開始は1962年)、ができ、三太らが活躍した場所も水没してしまい、原風景は失われてしまったそうです・・・。 blogランキングへ
August 25, 2006
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少年時、見た映画の話は、今しばらく置いておくとして、娯楽の少ない当時は連続ラジオ放送が楽しみでした。「鐘の鳴る丘」は、あのテーマソングと共に、共感し、共に泣き、共に喜んだものでした。昭和22年(1947)7月に始まり、以後3年半、600回にわたって放送され、昭和23年(1948)には、松竹によって映画化され、全部で3本作られたそうです。菊田一夫作詞・古関裕而作曲 で (「とんがり帽子」)唄うは 川田正子緑の丘の 赤い屋根とんがり帽子の 時計台鐘が鳴ります キンコンカンメイメイ仔山羊(こやぎ)も 鳴いてます風がそよそよ 丘の家黄色いお窓は おいらの家よ 二木紘三のWebサイト より 借用詳しいストーリーはもうボロボロに忘れましたが、当時、戦災で焼け出され、食うものも住む処もない戦災孤児が大勢いた時代を背景に一人の復員してきたおじさん(当時はそう感じたが、本来は若い人)が、食わんがため止むを得ず非行に走った、孤児たちと力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始め、立ち直り、更正していく話で、当時、その色々な話が身につまされ、感動を呼んだものでした。(第2次世界大戦で日本人戦没者は約310万人にのぼり。12万4千人の子供が戦災孤児になった。うち1万3千人は、戦後数年たっても東京・上野駅周辺をねぐらとする浮浪児といわれた。・・・・いったい誰のせいだったのでしょうね・・♪よ~く考えよう、いわずもがなですが~)後年、社会人に成り立ての折、信州にスキーにいった際、フラットな栂池スキー場内に、鐘の鳴る丘ゲレンデ があり、赤い屋根のとんがり帽子の時計台が雪を被り、この場所だったのかと感慨に耽った覚えがありますが、調べてみると、撮影場所はそこではなく、実際に映画撮影された建物は、長野県南安曇郡穂高(ほたか)町(現在は安曇野市穂高)にあった青少年の更生施設「有明(ありあけ)高原寮」がモデルだったそうで、それも実際にモデルになった時計台つきの旧建物は、昭和55年(1980)に約600メートル離れた場所に移築・復元され、「鐘の鳴る丘集会場」という青少年の合宿訓練施設となっているそうです。次回、信州安曇野方面に行く機会にでも、寄ってみたいものです。 blogランキングへ
August 24, 2006
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細川家は元々足利将軍に仕え、織田に見出され、明智に頼られるも、それを断り、更に転々、豊臣から、徳川に従うに当たり、他ならぬ明智の娘 玉のこの所業は深く家康の心証を掴んだでしょう。それ故に、細川忠興は、ガラシャの死の1年後、大坂でキリスト教式の葬儀を営み、涙を流し、新領地となった小倉にも、ガラシャと文通していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を同行させ、教会を建て、ガラシャの命日にはミサをあげてもらうなど、妻をしのび、キリスト教のよき理解者としてふるまった様です。他方、東軍西軍どちらが勝っても、細川家存続出来るように、二人の間の次男、細川興秋( おきあき)は(玉 の影響か、キリシタンで)大阪冬の陣 夏の陣では (真田家一族にも、その例がありますが・・・)豊臣方について奮戦し、結局切腹させたそうで・・。時流を読むに敏な家柄か、 幕府のキリシタン弾圧が強まると一変。セスペデス神父の急死や禁教令を機に迫害に転じ、天草の乱でも、率先弾圧したらしく、ガラシャ夫人の37才の時の死は、それ以上長生きすればするほど辛かった訳で「散りぬべき 時知りてこそ」 だったかも知れませんね!http://www.geocities.jp/general_sasaki/hosokawa_gracia_ni.html 及びhttp://www.be.asahi.com/20060624/W21/20060614TBEH0015A.html より深読みすれば、三成のこの事あるを読んでいた忠興が、いざの際は家老に殺害を命じ、自身は切腹せよと指示していたのが正解かも・・・その方が(自刃を)意図せぬ伴天連信者 ガラシャらしいし、辞世の句も、何となく後で造った、男くさい名句に思えるのですが・・??(唯でさえ、絶世の美人だった 玉 が 自分の事を、花に例えるほど自意識過剰だったのも不自然なような??) H氏の郷里にある、小倉城天守閣はガラシア夫人の遺徳の伴天連の影響もあり、その折、忠興が築いたが、南蛮造り(唐作り)と呼ばれ、この工事には同行させた、外人宣教師の持つ土木技術を導入し、ローマ法王庁にもその存在を知られていたといいます。・・小倉に教会を建てたらしいが場所他は未確定の筈・・(お勉強しておきます。)その後、寛永9年(1632年)細川氏は、肥後国へ移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真[ただざね]が小倉城に入り、十五万石を領した。江戸末期、長州征討戦の慶応2年(1866年)8月1日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物は、ことごとく灰じんに帰した従って、現在あるのは、昭和34年鉄筋コンクリートで、再建されたものです。http://burari2161.fc2web.com/kokurajyou.htm より blogランキングへ
August 23, 2006
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日々の移動を旅行?といえるかどうかは兎も角大阪市内から表通りのラッシュを避けて、東の生駒山側方向へ抜ける際は、どうしても、谷町の裏道から空堀町を通り、大阪城を左に、玉造へ抜ける訳だが 先日通りかかり、車中から写真を撮った際は、道路に張り出たいつもどおりの越中井の佇まいの祠に、地蔵盆の準備か、その名も「越中町」の天幕が架かっていたので、あえて車を降りて近寄ってみた。 時あたかも、日曜のNHKテレビの「功名ヶ辻」では、秀吉が伴天連禁止令を出そうとしており、細川忠興の妻 玉 ガラシャ夫人 の薄幸な行く末が語られている。この場所は北側に大阪城を望む、細川越中守忠興公の屋敷の井戸があった場所で、慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の始まる直前、石田三成は東軍に属する在阪諸大名の夫人を人質として、大阪城内に監禁しようとし、忠興公が徳川家康に従って会津の上杉を征伐に出陣した留守中に人質にされそうになった忠興夫人のガラシャは、この命令に従わず、家来に首を打たせ屋敷に火を放ったのがこの辺りだった訳で・・・。越中井碑の正面は 細川忠興夫人秀林院殉節之遺址 (徳富蘇峰 筆)とあり・・、自刃を禁ずるキリスト教故に、殉教というより、殉節となっているのに納得 右には、ガラシャ夫人の辞世の句が ”散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ” とあります。昭和九年(1934年)当時 地元の越中町内会により ガラシア夫人の徳をしのび 顕彰碑を建立したものだそうです。なを近くには、そのいわれにより建てられたガラシア夫人と高山右近の像もある「 聖マリア大聖堂 」 があり、前田利家・浮田秀家屋敷跡もありますが、 仕事にかまけて、素通りばかりでゆっくり見て廻った事がなく、興味ある同好人と、この次こそはと深く反省しております。 blogランキングへ
August 22, 2006
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小学生時分に小倉市にあった豊楽園球場で、アメリカ大リーグの野球を一塁側外野席から見た記憶がある。当時、毎日新聞門司本社に親戚の人がいて、切符を手配してくれた。次兄と見に行ったと記憶しているが、調べてみると1953年(S28年).(H氏小4時)、読売、毎日の両社がチームを招致。以降交互にチームを招くという協定が締結された。ヤンキースの名捕手ヨギ・ベラや12試合で12本塁打のサウアーなどが大活躍。毎日オリオンズが1勝したのみ。(対戦成績1勝11敗)・・とあった・・(日米野球の歴史 ~メジャーリーガー来日の歴史~より)対戦チームは確か、北九州の門鉄や八幡製鉄等のノンプロチームで、H氏の記憶では、メージャーリーグのホワイトソックスだった気がするが、だとするとH氏の記憶間違いで、今やはっきりしない・・・ノンプロチームが対戦相手だから、試合は当然日本のボロ負けだったと思うが、何といっても、印象深かったのは、内野(例えば3~1塁間)や外野からの直線に近い返球が凄かった。当時地元小倉高校の野球も強く、北九州の観客の眼も肥えていたが、メジャーと高校野球との 返球スピードの差は、当然といえば当然だが、この返球には、ドッと歓声があがったものだ・・キャッチャーも座ったまま、セカンドに投げ、観客を沸かせたが、遠目ながら、それが、ヤンキースの名捕手ヨギ・ベラだったかも知れない・・・米軍キャンプの慰問の意味もあって、小倉で開催された訳で、試合の始まる時、日米の国歌演奏が始まると、休暇の兵士も草原の外野席に大勢座って見ていたが、米国国歌が始まると同時に直立し、胸に手を当て、斉唱していたのが、印象に残った。当時、子供に人気の日本のプロ野球選手は、巨人の赤バットの川上、や青田・物干し竿のバットを振り回すタイガースの藤村選手だったが、毎日オリオンズに移籍した別当薫選手や土井垣捕手・、松竹ロビンズの小鶴選手などで、風呂屋の下足番号も川上の背番号16番、青田の23番は取り合いだった。豊楽園球場は1948年(昭和23年)小倉市浅野町(現・北九州市小倉北区浅野)に建設、小倉市で初めてのプロ野球公式戦に対応できる硬式野球場として開設された。小学生当時、南小倉駅から一駅5円の切符を買い、当時強かった小倉高校の野球の応援には随分通ったが、1958(昭和33)年に小倉球場(現北九州市民球場)が開設するまで、小倉随一の野球場として、実に70試合もの公式戦がこの豊楽園球場で行われた。その後、同球場跡地も含めて工場、ビル、アパートなどが建設された。 当地はJR小倉駅北口の北九州市小倉北区浅野2丁目にあたるが、野球場の面影はどこにもない。「豊楽園」という地名すら見当たらない。(野球場誌より)http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/yakyujositop.htm又当時の名画「幻の馬」(公開年:1955年7月)の場面で、競走馬タケルの訓練で観客のどよめきの声に馴らすため、同球場に連れられて行き、ちらりと映画に登場したのも、今や懐かしい。 blogランキングへ
August 22, 2006
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今年の高校野球も延長再試合という激闘の末、斉藤投手の4日連続の完投で「早稲田実業」の優勝となったが、駒大苫小牧の田中投手との二日間の熱投はお見事というべきで、高校野球に又歴史を造った。 毎日新聞より借用・・Wの文字にもいささかの縁あるものとして、応援歌「紺碧の空」を聞くのは,心地良かったが、更に身贔屓で斉藤投手の持つ雰囲気が、往年の小倉高校 夏の高校野球大会二連勝を、矢張り一人で投げきった大投手・福嶋投手を彷彿とさせる雰囲気があり、 往年のエース福嶋投手・・小倉高校野球部史より借用 どうしても勝たせたかったが、おそらくバックネット裏で小倉優勝当時のメンバーが毎年優勝戦を見に集まっていた筈の、諸先輩方もそんな目で見つめておられたのではないだろうか?二点本塁打で追いつく苫小牧の粘りも凄いが、最後の最後、ピッチャー同士の対決を、直球で空振り三振に取るとは・・まさに、激闘を締めくくるにふさわしい、永久に記憶に残る投げあいだった。 blogランキングへ
August 21, 2006
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毎年アメリカ独立記念日の7月3日に 小倉兵器廠後の米軍基地が開放され、自由に見学できる催しがあった。日頃のアメリカ人の生活振りがどうなっているのかにも興味があり、学校を終わると早々に日頃は警備の米兵屯所も厳しい基地門をくぐり、米国旗と国連旗の翻る、広い敷地内を訪ね歩いた。後年の日本万国博を見る様なもので、対象が 平和なモノに限られていないだけに、当時としては見ごたえがあった。アメリカ式の広い芝生の庭の将校クラブの一部や、教会内も見学出来、映画館では当時初めて見たスローモーションカラー撮影の花の開花シーン等が印象的だった、広い練兵場には米軍の戦車が数台置かれ、砲塔のキャビンが開けられ、キャタピラーによじ登り、狭い操縦席に交代で座らせてくれた。 迫撃砲・重機関銃などの装備の展示や、「コンバット」等の映画の場面に出てくる通信兵の無線なども操作を教えてくれ自由に触れ、偶々、もう一機貸し出しの無線相手も近くの上級生の女の子だったので、「誰と来たん?」等と無駄話しが出来たのも、今では当たり前の事が当時は珍しかった。解放地域の兵舎を訪ね歩いているうち、食堂に続く、娯楽室に、休暇中らしい黒人と白人の二人の米兵がなにやら、大きな木で出来た玉を、交互に廊下に転がしているのが目に入った「何やっとんじゃろう?」と中にはいって見物する事にした。それがボーリングだとは後で知ったが、当時ピンは自動で立つ訳ではなく、廊下(2レーン)の奥の一段低くなった処で、日本人の従業員が、倒れたピンを一々、決まった位置にその都度立てていた。そのオジサンの顔は近くの見知った人で、日がな、賽の河原に小石を積みあげる様な?こんな仕事をさせられているのかと、子供心に少しショックだった。(調べてみると日本には、1861年6月22日 (文久元年)長崎出島に伝来し、1864年5月7日に横浜にボウリングサロンが開店し、1869年4月20日には、神戸にボウリングレーン付きの外国人社交クラブが誕生したそうだ。・・・・日本ボウリング振興協議会HP より)その後、ボーリング場は東京の青山ボーリング場や、関西でも、大阪北の阪急ボーリングセンターで、投げる機会があったが、昭和30年代後半から40年代始め当時はピンに紐が付いており、弾き飛ばされた後、機械的に、紐を絞り、立てる方式が暫く続き、日本万博の終わった1971年(昭和46年)頃から中山律子さん須田加代子 さん、並木恵美子さん等のプロボーラーも登場した一大ボーリングブームが訪れた頃より、現在どこでも見かける自動式になり、計算も自動的にできるシステムになったと記憶している。 そういえば、昭和20~30年代当時の米国のニュース映画のスポーツ版表紙に、氷の上の石を箒でしきりに掃くシーンが写り、これも暫く「何じゃろうな??」だったが、 最近の日本女子カーリングチームの健闘で、ルールも少しはわかる様になった。 blogランキングへ
August 20, 2006
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この時期、各地でも盛んで、今晩も H氏の住む当地区の奥まった公園で挙行されるらしい。去年まで役員をやらされていたが、今年はご勘弁頂き、替わりに,ヨメが福祉の手伝いでタコ焼き作りの準備に、昨日から張り切っており、今日も3時から狩り出されている様だ。櫓つくりは今朝9時からもう始まっている。H氏の田舎 小倉でも、同じ町内の普門寺で行われ、薄暗がりな境内に提灯が灯り、境内の石仏にも果物や御菓子が盛られ、後でおすそ分けもあり この時期は楽しみな行事だった。踊りの曲は、「東京音頭」や、当時はやっていた「真室川音頭」等だったが、なんといっても、地元でもある「炭鉱節」が多かった。 篠崎の高台の、更に小高い場所にある、普門寺 は、通常、観音さんと呼ばれ、子供時分の絶好の見晴らし場でもあり、遊び場、木登り場、隠れ場、子供同士の喧嘩の果たし場でもあった。曹洞宗の禅寺だったが、裏手には墓所もあり、中折れした石段を登り、参道には、当時、樹齢数百年以上経った、見事な松が二本あり、当事の地図にもランドマークとして記載されていたが、直ぐ裏手下を通る日豊本線の汽車の煤煙とともに、序々に樹勢がなくなり、一本は戦後直ぐに枯れてしまい、もう一本はH氏が故郷を離れるまで立つていた。その根元を通り、更に石段を登ると、境内になり、樹木に囲まれたそれなりの広場が盆踊りの会場だった。元々の本堂は戦後直ぐに、建て替えられたが、その敷地からは、経文や梵文字の一字が書き込まれた小石がびっしりと敷き詰められ、和尚さんを手伝いながら集めた事も忘れられない。古いお寺の歴代 の墓碑の拓本を採る際、お手伝いを仰せつかりながら、中間考査の勉強途中の事を思い出し、訳も告げずにその場を立ち去ったお詫びもいってない事を今更思い出し、汗顔の思いがする・・・境内には、5~6mの高さの「悲母観音」像が立ち、それゆえ、観音さんと愛称されたお寺だった。H氏家とは宗派が違うので、残念ながら、当家のお墓所ではなかったが、その折の和尚さんは今から思うに、まだお若く、子供達とも良く遊んでくれた。盆踊りも上手だし、裏手の墓所での肝試しには払子を持って墓の裏から現われて、子供を怖がらせたりする茶気もあり、建て替えた際のお寺の開眼法要には、相撲場もこしらえ、盛大な相撲大会の折には行司も勤めてくれた。時には従軍時の悲惨な戦争の折の話もしたり、早朝の法話もあり、夏の暑い折は、お寺を夏休みの自習の場としても解放してくれていた。透き通ったお声でお経をおとなえになるお声には威厳もあり、叱られると、怖かった。そういえば、こんな事をしでかして、叱られた事があった・・・小学生時分の或るとき、遊び仲間のだれかが霞み網をどこからか手にいれた。日頃は境内で油蝉やクマゼミ、ちょうちょ、とんぼやそれを捕る道具で竹さおの先に丸い針金を付け、その間に蜘蛛の巣の糸を巻き、女郎蜘蛛を追い払う事までは、大目に見ていた和尚さんの慈愛に気づかず、その境内の両側に竹ざおを立て、かすみ網を一杯に広げ、めじろを見事捕まえた処を見つかり、「喝!殺生を禁じたこの場所を何と心得てのふるまい! 後ろ向きの坊主頭には皆、見覚えがあるが、よくよく考えて、早々に立ち去れ!」と大喝をくらった。その折、すごすごと引揚げた、しおれきった仲間の顔も一々懐かしい。その後にはそんな事も忘れた顔でにこやかにふるまわれ、「二度とすまい!」と子供心に誓った事だが・・・もうお浄土に旅立たれて、幾星霜とお聞きしている・・・。 blogランキングへ
August 19, 2006
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昭和20年代は、まだ国力は疲弊したままだったが、そこへ容赦なく自然の災害が襲ってきた。 昭和28年6月25日から降りだした雨が28日迄4日間降り止まず、一年分の40%の雨が降り続き・当時の北九州五市(現在の北九州市)一帯は、大集中豪雨に見舞われました。その結果、死者・行方不明者183人、家屋倒半壊3800戸、総罹災戸数8万3000戸、総被害額110億円(現在の額で約600億円)に達するという未曾有の大惨事となりました。 旧小倉市でも、中心部を流れる紫川が増水し、激流となってあふれ出し、中島、天神島、三郎丸の各校区一帯を泥海化させました。また、市街地の道路は、ほとんど汚れた水につかってしまい、電車、バスなどの交通機関は、完全に途絶えた状態となりました。旧小倉市では、河川が決壊したこともあって、なんと全世帯の8割が浸水被害を受けました。被害の地域も、上流部から下流部まで広域にわたり、浸水面積は3230ha(現在の小倉北区の約8割に相当する面積)にのぼりました。(北九州市昭和28年の北九州大水害より) 幸い、H氏の住む場所は篠崎の高台の為、水には浸からなかったが、川筋の朝鮮の人の住む町は屋根近くまでの水位で、豚小屋は流れ、家や人も流され、無残な有様となった。その町へ下る道の途中のお風呂やさんの処迄、水位があがっていた。その辺りから坂は更に下っている町だったのに・・・南小倉駅から山田弾薬庫に続く、引き込み線も流され、途中で盛り土の無くなった線路が水面に浮いていた。田圃を埋め立てて出来た、振興住宅地辺りも、ほぼ全戸水に浸かり、町へ出ようにも、バス停留所までの道路も流れる水に覆われ、H氏の住む高台の町でさえ、陸の孤島のような有様となっていた。母の知り合いの家族も濡れ鼠になりながら、我が家に避難してきて、水が収まるのを待っていた。ようやく、雨の止んだある日、小倉の街を見はるかす、足立山の麓をみると、未だ雲は谷から山上へ巻き上がり、山腹から幾筋もの土砂崩れの後が痛々しく残っていた。小4生のH氏以下、男兄弟はその知り合いのお宅にバケツと長柄杓を持ち込み、床下に溜まった水をくみ出すお手伝いをするのが、精々だった。濡れた畳を積み上げ、泥まみれの台所が痛々しかった。途中の田圃に建てられていた田舎芝居の掘っ立て小屋も、ぺしゃんこに潰れていた。町々は暫く、消毒の粉があちこちにまかれ、喉も痛い程だった。その頃、東京に本社のある通信社の小倉支店に勤めていた姉が、全国の各支店からの、援助物質で、缶詰等食料や毛布を頂いて帰ってきたが、お陰で被害のさほどない我が家まで頂くのは、どうも??と変な気がしたが、民間会社の社内同士の事でもあり、その好意はうれしかったのを妙に覚えている。そんな経験から以降H氏は東京では下宿先を探したり就職後大阪で住処を捜す場合、必ず、その辺りで高台を探す事にし、低地の下町に会社の寮住生活をする時は何か落ち着かず、まもなく嫁を貰い、生駒山の高台に新居の借家住まいをした折も、その後に自宅住まいとなった折も必ず高台に住むことにしている。 blogランキングへ
August 18, 2006
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戦後の政治なんて偉そうなサブタイトルを付けてみたが、あくまで少年期に感じたままの記憶や感想を思い出して、WEBで補足してみる事とする。何といっても吉田ワンマン首相の記憶が多いが・・・ 吉田茂は昭和11年イギリス大使となった後、日独伊三国同盟に反対の立場であった事もあり昭和14年に退官し、外交の一線からは退いていたが。大東亜戦争時は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事、露見して憲兵隊に40日間拘束される等、徹底した和平派であったようで・・戦後、首相になったのは次の事情による。ポツダム宣言第10項の「軍国主義者の権力および勢力を永久に排除する」方針にもと づき、GHQは46年(昭和21年)1月4日、軍国主義指導者(戦争と軍国主義を支えた者)の職場 からの追放を政府に指示した。その折、1946年の総選挙で自由党が第一党になって、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりであった鳩山一郎が公職追放に指名され、戦後政治を左翼に渡すわけにはいかないという危機感もあり、ピンチヒッターとして吉田に白羽の矢を立てられ、半ば騙された形での総裁就任からであった様だ。 吉田首相が登場するや、戦後処理の難問を連合国最高司令官マッカーサーに対して「よき敗者」(good loser)として臆することなく振る舞い、 戦後の主な方向付けを殆ど独断で決め、それに対して、反対勢力から「ワンマン政治」と揶揄された訳だが・・今振り返ると、「戦争に負けても、外交で勝つ事ができる」という、吉田首相の敗戦国日本の再生理念は、無論、全てが全てではないが、改めて、評価できる。一つは首相在任中に示された連合国(アメリカ・ソ連・中国・イギリスら)による分割統治案に対し、吉田は「冗談じゃありませんよ」の一言で一蹴、拒否したというエピソードがある。勿論米国の強いバックアップもあり、この分割統治案は否決されたが、左翼政治が主流を占めていたら、どうなっていたか、東京はベルリン並みに分割支配され、関東以北が共産化され、朝鮮半島の様になっていたのでは・・・と改めてゾッとする分割統治案ではあった。二つは、米国案に基づく憲法改正案が主流の、新日本国憲法発布・・1947年(昭和22年)5月3日・・だったとは言え、それを急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ(General Head Quarters)というが、実は、『Go Home Quickly』の略語だというものもあるくらいだ。」と、吉田らしい辛辣な皮肉をこめた答えを返したそうだ。その結果の第9条(戦争放棄)は寧ろ、報復を恐れる米国が提案し、条項に盛り込まれた訳だが、1950年(昭和25年)6月25日 勃発した朝鮮戦争以後、米国の圧力や都合で、警察予備隊・保安隊・自衛隊と 序々に格上げされたが、吉田首相は徹頭徹尾、国内外にその第9条項目を楯に、実戦には参加しようにも出来ない、自衛隊と防衛庁が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、追及するも、吉田首相は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。屁理屈では子供じみたコイズミの遥か上をゆく答弁だが、これにより、国力の殆どを経済復興に向ける事となり、戦後の繁栄をもたらした。名を捨て実を取った 大人の政策といえよう。現在、改めて問題となっている、1946年(昭和21年)5月3日から極東国際軍事法廷(東京裁判)が1948年(昭和23年)まで開廷した訳だが、これは第1次吉田内閣(5月22日~1947年5月24日)と、吉田内閣成立以前に開廷された事実からみて、直接、彼の承認の元ではないが・・。戦争とは勝って初めて正論を言う事が出来るモノ・・と実感せざるを得ぬ。 万一、傀儡とは言え、イラクの法廷なみに、日本人による国民裁判が行われていた場合、結果はモット酷い結論で、大小の密告による死刑執行も増え、昭和天皇の裁判(良くて証人出席)もあるいは行われていたと思えるのだが・・・いずれにせよ、敗戦の事実は誰かが負わねば収まらず、それを粛々と受け入れた東条首相以下の死刑執行は、日本人の思いは色々あったにせよ、惻隠の情として理解している事。であればこそ、の 現在の内外の混乱は、対外的には、サンフランシスコ講和会議・・1951年(昭和26年) で吉田首相を団長とする派遣団が渡米し、極東国際軍事法廷の結果を批准し、講和条約を調印することにより、成立した現在の体制下、極東国際軍事法廷の結果の不平不満を述べる事は、余程の国民の合意と国際社会の受け入れの可能性を見通した上でないと、国内向けの空論で、とやかく言われぬ手順手法のまずさ故の揚げ足取りの中国・韓国に対しての意地の張合いは、子供の喧嘩手法に過ぎない。腹をすえて・・日本人が原爆投下の国際法違反と共に、ハーグ国際司法裁判所に再審提訴して述べるべき筋合いの事と思われるが、果たして・・其処まで日本全体が右翼化する勇気もないだろう?。「やすらかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」の主語は、政治・軍事の責任者達というより、その政治に賛同協力し、その流れを作ってしまった、大多数の人の,その時の、又その後の世界中全ての人類が負うべき主語だと思う・・・。大多数の人とは読んで字の如く、結果に無責任な怖い数ではあるが・・・それをミスリードするマスコミその他も充分注意すべき数字ではある。時の政治家は歴史に対して責任を取る気概を持つべきだが・・・現今の無責任さが幅をきかす風潮下、少数派の気概こそ、ミスリードへの盾を自認すべきかも?・・・。 blogランキングへ
August 17, 2006
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昭和28年2月1日に日本初のテレビの本放送が始まり、NHK東京テレビジョンが開局した。清水小5になる春休み頃だったと思うが、H氏の耳に九州・小倉にも、テレビの街頭公開が、市役所に隣接する勝山公園で催される噂を聞き込んだ。何でも、モノ珍しがりの、H氏は、友達と、その友達の自転車に二人乗りで街へ行き、その行列に並んだ。(今時分なら、学校から引率されて見学に行く筈だが、日程も短かった為か、自由放任だったのか、、デパートでの、捕鯨映画見物や、アメリカ生活展示展などもH氏は勝手に行き、事後父兄会で友達の親がH氏と見学した旨、報告し、H氏の行動は時代に前向きの良い子の行動として大目に見てもらっていた・・結構、他にも勝手に映画館などにも出入りしていたが、うまくバレずにやり過ごしていた・・。)舞台では、地元の素人芸に近い舞踊や歌が披露されていたが、本命はそちらではなく、薄暗い、講堂のような建物に向かって並んでいた。押し合いへしあいしながら、やっと先頭になると、確か2台のテレヴィジョンなるものが置かれており、どうも表の公園で催されている舞台芸が映っているようだった。映画に比べて、画面も小さく、どちらかと言えば、チラチラした画面の印象しか残らなかったし、じっくり見ようにも、後から々々、人並みに押され、出口に出てしまった。改めて舞台上を見上げると、舞台の裾に大きな三脚に乗せられた、大きなテレヴィジョン撮影機に、技師がしがみ付き、舞台を撮影していた。その内、向かいのお金持ちの同級生の友人宅がテレビを買い込んだ。(念の為、調べてみると、<国産初の白黒テレビ受像機。14型。>は当時の金でTV3ー14T型[シャープ、17万5000円] したそうで、当時の葉書が5円、封書が10円の時代 、今の物価ではおよそ8~10倍した訳で、下々にはとても買えなかった・・・) 金持ちの同級生のボクのお父さんお母さんも良い人で、町内の老いも若きも、毎晩のように、お宅へ押しかけ、H氏は同級生のボクと、座布団を座敷一杯に敷く係りだった。テレビは当然お宝だったので、座敷の床の間に鎮座ましましていた。 その頃、放送局は福岡からしか電波を出していなかった為、北九州・小倉で映る画像は、なかば影絵の如き、チラチラ画面のオンパレードだった。それでも、プロレスの「力道山とシャープ兄弟」の対決を手に汗で見入ったもので、力道山が散々やられた後、ムックと立ち上がり、空手チョップを連発して、リング外に敵を追い払うと、ヤンヤの喝采が部屋に湧き上がった。 学校ではたちまち、プロレスブームが沸き起こり、海老固めや空手チョップの真似事が大流行したものだ。・・思えば古き良き時代でしたな~ blogランキングへ
August 16, 2006
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それにしても、暑い一日。ノルマと課している、「少年老い易く」を書く積りだったが、楽に流して日報に切り替える事とする。早朝ゴルフも、13日に続き15日も何とかクリア。腰重に続き、今度は左手首が痛い・・恐らく前々日に、ボールを叩かず地球でも叩いた為に力入らず。それでも、涼しい早朝の間のハーフはパターが快調、ノンズロ1Hを入れて、7ホールでパター数7、従って7ホール中5Hパーで上がり、日頃に似合わぬ快調さも其処迄後は日照りと共に無間地獄に陥落・・・。 体力勝負を実感し、毎度毎度のアマチュアゴルフ。11時過ぎには終了し、一番風呂に入り、帰路に付く。帰り道で聞くラジオはコイズミ変人首相の靖国参拝の事ばかり。コケの一念、老いの一徹というべきか、やる事は、なまじ国民のナショナリズムを煽り、「靖国に参って何が悪い?」の開き直りのみ。個人として、行って悪い事は何もないが、立場上、変に国粋主義を煽り、国論を二分するだけで、何の取り得なき行為を政治課題に据えたのみで、解決策を示さぬ行動は、例えは悪いが、参拝奉納金個人負担3万円での安上がりな「金正日のテポドン発射実験と同列の示威行為。」に過ぎない。(北朝鮮人民は意見を述べる立場にないだけに、まだ日本人は救われるが)中国も韓国も、ついでに、日本のマスコミも、余り大々的に「靖国に行った行かなかった」を取り上げたり論評したり、報道するのは変人を喜ばすのみ。変な負荷がかかって、将来の方向性を見誤る恐れあり、安上がりでは同列な「終戦記念日にH氏がゴルフに行ったか行かなかったか」程度の事で放って置く方が、この人の為には薬。個人信条でいうなら、いずれ首相もやめ、楽隠居されるお積りのこの方が、今後首相も国会議員もお止めになった後、病気でもしない限り、当日に、お参りを欠かさぬかどうかを以降マスコミも必ず追跡調査して欲しいもの。何らかの「お遊び」の私用でお参りしない時に、この人の劇場漫画の真実が暴露される筈・・・・。元々、首相になる前、公約の形を取るまで、どの程度、「個人信条」で毎年欠かさずお参りしてたかどうか、その辺りを、見極めれば自ずと答えは明白な事・・・と帰路の車中でぶつぶつこぼしながら、帰宅し、クーラーかけた部屋で昼寝、4時より、7時まで、専ら、歌謡曲の楽譜を紐解き、ヘタなピアノで処暑。「歌謡1001曲集」より港が見える丘、長崎の鐘、港町十三番地、の懐メロや、九ちゃんが懐かしくなり、上を向いて歩こう、見上げてごらん夜の星を、お後はフォークの五番街のマリー、風、精霊流し、小さなスナック、今はもう秋、等を弾きたくり、愛燦燦で丁度7時で蓋をする。 blogランキングへ
August 15, 2006
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日本の戦後の一大エポック、「朝鮮動乱」は、1950年(昭和25年)6月25日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がソ連と中国の支援のもとに武力を使ってでも韓(朝鮮)半島を共産化しようとして北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南下し大韓民国と武力衝突した。28日、には北朝鮮軍がソウルを占領した。さらに南に進撃して釜山と済州島一帯を除く全地域を占領した。 7月7日、国連軍の創設が決まり、米軍を主力とする国連軍が韓国側を支援して参戦。 9月15日に行われた仁川<インチョン>上陸作戦などで盛り返し、中国国境まで迫ったが、今度は中国軍が介入し、戦局は38度線付近で膠着した。朝鮮半島に近い、米兵の出兵の出先機関のある基地の街、北九州・小倉も当然騒然とした雰囲気となった。昼・夜を問わず、双発の輸送機が北九州若松に隣接する芦屋の飛行場から、上空を旋回し、真夜中にでも、重騒音の重苦しい爆音が、響き、戦時を思い出して寝苦しい夜だった。小倉篠崎の南部郊外にある、山田弾薬庫からは、米軍トラックに積み込まれたナパーム弾等の弾薬がひっきりなしに、無舗装の道路を揺れながら我が家の軒先をかすめ戦場に送られていったがよく事故が起きなかったものだ・・。米兵も心なしか緊張し、余り、町の子供らをからかう余裕もなかった。先にも書いたが、近くの子供が通りかかった黒人兵に「クロンボ!」と叫び、怒った黒人兵が拳銃を抜いて追い駆け回したのも、この頃の事だったろう・・・。更にこの頃、次のような事件が発生していたが、新聞も警察も米軍に遠慮して表ざたにはせず、沈黙していたので、殆どの一般市民は知らないままでした。★…「完全武装をしていた。彼らは民家を襲った。夏の宵のことで、戸締まりしていない家が多かったから侵入は容易である。武装された集団の略奪と暴行が、抵抗をうけずにおこなわれた」住民を恐怖に陥れた事件を松本清張は小説『黒地の絵』で描いています。朝鮮出撃港である福岡県小倉に三個大隊の「黒人兵」が搬送されてきました。一九五〇年七月十一日にちょうど祇園祭で賑わう小倉に武装したまま集団脱走約百六十人の米兵が米軍鎮圧部隊との市街戦を繰り広げたり、婦女暴行、強盗を行いました。こんな無法な事件を起こしながら米軍は、翌日には朝鮮に出動させました。 そんな話も人づて伝わったが、その内に、重工業の町北九州は活況を取り戻した。所謂「特需景気」である。子供達の遊びもどこか違ってきた。誰と云うでもなく、磁石で道路の鉄くずを集める遊びがはやった。又直接的な遊びというか小遣い稼ぎに、当時「アカ」といって銅製のものを集めると、カネになる噂が子供達を駆り立てた。・・時効という事で白状するが・・・H氏なども、隣の家との垣根が、当時、銅製の針金でくくられているのを発見し、ご丁寧にも、全部はずすと垣根が壊れては、ばれる為、間隔を開けて銅の針金をはずし、気の聞いた年上の子と、近くの町の古鉄屋に持ち込み、一回分の映画代位を稼いだ事がある。町では、それ以外にも、水道の銅製の蛇口がはずされたりし、問題化した記憶があるが・・・特需景気はそんな処にも影響を与えた。見に行った映画は何だったか忘れたが、ニュース映画は強烈だった。仁川再上陸を果たすべく、マッカーサーが軍艦に例のロイド眼鏡にコーンパイプをくゆらせて乗り込み、艦橋に陣取り、 又攻撃を受けたどちらかの軍艦が沈むまで、機関砲を打ちまくり、水面に水煙を上げていた。この光景は小4の頃だったか、福岡の海老津に八幡の叔父さんが初めて海水浴に連れていってくれた時に 生で見たことがある。当時、海老津近くに米軍の射撃訓練場があり、長いロープでフラップを引きずった飛行機が芦屋飛行場から飛んでくると、機関砲が唸り、見事ロープを切ると、それが海面まではためきながら落ちて行き、さらにそれをめがけて、機関砲が火を噴き、水煙とともに、弾痕の羅列を見せてくれた。その頃の海水浴場は、そんな危険な場所と隣りあわせで、子供達は海と戯れていた訳でした・・・ blogランキングへ
August 14, 2006
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H氏の住んでいた小倉の篠崎地区の町内は、所謂住宅地で、殆ど勤め人や商売人が多かった。恐らく、日清・日露戦争後、炭鉱景気やそれに伴う北九州工業地帯の発展により、各地から人が集まり、、最寄り駅も近い篠崎の高台が新興住宅地となって、各地から人が移り住んできたのであろう・・・H氏一家も、曽祖父迄は福沢諭吉と同じ、豊前中津の貧乏士族で、祖父が門鉄小倉工場(国鉄門司鉄道管理局小倉工場)に採用され、中津から移り住んできた訳だから・・その割りに、最近の都会の新興住宅地とは一味違った地区のまとまりがあったのは今から思うと不思議な気がする。地区には江戸時代から続く、普門寺や西安寺という寺もあり、お寺の和尚さんも夏にはお墓で払子を持ってお化け大会や相撲大会など催し、たまには拓本の取り方等も教えたりしてくれたが、この地区には土着の巫女のおばあさんさんがいて、やや郊外にある篠崎八幡神社に替わり、地区の普請や祈祷を請け負っていた。思えば、この巫女さん一家が地域の中心として、機能していたのだろう・・・。おばあさんには戦死された息子の嫁と孫が二人いたが、ある日、突然神掛りになり、修行というより、口伝えで神文を覚えたと聞いていたが・・・。二人の孫の内、弟の方は特に、おばあさんや親のしつけも良く、近所の子供らを統率し、よく面倒をみてくれた。スポーツマンで、小倉工業高校の正捕手から、南海ホークスを受けたが落ち、地元門鉄のキャッチャーになって、地元では英雄でもあった。小倉の繁華街で催される、小倉祇園太鼓の祭りや市役所のある勝山公園の花火大会にも統率して連れて行き、金持ちの子も貧乏な子も、一括して、親から預かった小遣いで、子供達に冷やし氷を食べさしてくれたりしていた。 親達も安心して任せてくれたのは、一つには、その巫女のおばあさんの絶大な人徳がそうさせたのか・・・。H氏のやや年上の兄弟も同様に、よく補佐をして祇園太鼓を満喫して連れて還ってくれた。年に二回は巫女さんの家で大祭があった。一つは初午の祭りで、年初の寒い折、そのボス格のお兄さんらに連れられて子供達は、市内の篠崎・到津・愛宕の各八幡さんを巡ってお参りに行き、いいかげん草臥れて夕刻帰り着くと、近所のおばさん達が、米や野菜など持ち寄り、当然お賽銭も包んで手分けしてご馳走を作り、おいしそうな匂いに包まれた、広い座敷に大人も子供も正座して、静粛に巫女さんの祝詞を受け、その後は無礼講の大宴会となるのが恒例でした。女子供たちも含め豆まきなどあり、日頃真面目なおっちゃん達のひょっとこ踊りや、謡もあり、夜更けまで楽しく過ごした事でした。それだけに、この地域のまとまりは良く、学校でも、地区の子がいじめにあえば、すぐ、助け合い、また年代の風通しが、小さい子から、高校生位まで一体感があって、今考えても素晴らしい、地域の連帯社会でした。H氏は高校卒後、東京の大学に行き、そのまま、地元を離れ、その後、偶にしか帰らぬまま、幾星霜が過ぎ、その後の消息はもう絶えてしまった・・・十年ほど前には地域の道路拡張工事があり、H氏の家や隣の家も取り壊され、古くから住んでいた人々もちりじりとなり、留守役の姉宅も、戸畑地区に移転し、その頃の町のイメージはH氏の脳裏の中にしか残っていない・・・。 blogランキングへ
August 13, 2006
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日本が元気と希望を取り戻したのは、いつ頃の事だろうか?それは、湯川秀樹博士と古橋広之進選手を抜きには語れない程です。1947年(昭和22年)8月9日:[水泳]全日本選手権大会で、古橋広之進選手(日大)は、400メートル自由型競泳で世界新記録を樹立したが、更に 1949年(昭和24年)8月16日、米国ロスアンゼルスで行われた全米水泳選手権で、1500・800・400 自由形3種目で世界新記録を連発し、「フジヤマのトビウオ」とたたえられ、日本国民を熱狂させた。「自由形ちゃ何ね?」「クロールの事よ!」「ほんじゃ教えて」「それよか先ず、水に浮かばにゃ!」そんな訳で、H氏以下の近所の小さい子ら数人は、紫川に架かる日豊本線の鉄橋の下の流れに次兄達に連れて行かれ、並んで頭を水に突けられ、先ずは流れに体を流されながら、浮かぶ体験をさせられました・・・水に顔をつけても、中々足が川底から浮かず、近所の子らが上手に流れて行くのを見て、慌てて、水を飲みながらでも、遅れてついてゆき、何とか、鉄橋の橋げたに辿り着いた時の快感は忘れられません。今思えば、恐らく数M程度の筈なのに、かなりな距離を泳ぎきった達成感!途中で目を開けて見た藻に揺れる川底、ブクブクと空気の漏れる音や誰かが水中で小石を叩くとカキーンと耳に響く音。すべてが新鮮で、それからは、毎日々々水泳遊びの楽しい夏休みでした・・・。もう数年前になるが、国元に法事で帰省し、改めて、その場所を尋ねると、あれだけ広く見えた紫川は、ほんの僅かな川幅で、鉄橋も煙を吐いて驀進する蒸気機関車に変わってディーゼル車が渡り。姉の監視の元、夏草に覆われた原っぱに、蛍を追った岸辺は全てコンクリートで冷たく囲われ、H氏らが、夏中遊んだ川は、なかば掘割に近く、それでも、一時よりはきれいになって細々と流れるのみでした・・・ 1949年(昭和24年)、ノーベル物理学賞が湯川博士に授与されるというニュースが世界中をかけめぐりました。そのころの日本はまだ敗戦の重苦しさから立ち直れず、暗く悲しい雰囲気が漂っていました。明るいニュースを待ち望んでいた日本は喜びに沸きました。「全世界的に最大の名誉」と湯川博士の偉業を賞賛しました。 清水小1年のH氏の同じ組に同姓の湯川君がいました。「お前んとこの親戚か?」「いいや違う」「けど、大したもんや!」そんな会話をしながら下校時に彼と並んで歩いた砂利道を思い出します。名前が一緒だけで、おとなしい彼は一躍、クラスの人気者になりました。後年、母校小倉高校50周年祭に招かれて湯川博士の講演が講堂(といっても体育館)でありました。当時の校長が京大卒で、同窓のよしみで必死に口説いて実現した事だったのでしょう、講堂には後ろに大きな日の丸が掲げられ、校長以下全生徒も、皆、真剣に聞き入りましたが・・・でも一通り講演が終わった後の湯川博士の独り言の方が印象的でした。「私もあちこちで講演を頼まれてするが、こんな風に、生徒が全員床に座り、私が見下ろして話をするのは、どうも苦手で好きになれない、」・・・(言外に後ろの日の丸を背に、命令口調で過去の軍隊式に話をされるのが、お嫌いな、自由闊達な博士が、当時の窮屈な小倉高校の雰囲気を暗にご批判あったのだろうと感じ入りました)多少は恥じ入ったのか、その折の都合だったのか、その後の50周年の記念講演は場所を小倉市民会館に移し、同校卒業生の作家・火野葦平氏以下の講演が後日行われた記憶がありますが・・それは昭和も35年頃の事で記憶違いかもしれません・・・ blogランキングへ
August 12, 2006
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戦前より、軍都であった関係でそこで働かされていた為か、H氏の住む町を少し下った紫川沿いの隣町には、所謂、朝鮮から来た住民の住む町があった。戦後の事とて、一時、第三国人として、血気にはやった朝鮮の若者が、抗争に巻き込まれ、南小倉駅前で、惨殺され、その弔いが朝鮮式に行われ、太鼓が打ち鳴らされ、物珍しく付いて歩き、行列の参加者から「見世物と違う!」とこっぴどく叱られた記憶がある。概して、そこの住民はおとなしく、子供同士で対立する事もなく、大人同士も、それなりに、付き合っていた。戦後の彼らの仕事は何であったか迄覚えていないが、ある家族は紫川沿いに、豚を飼い、夏場、紫川に泳ぎに行くのに傍を通るのも臭かったが、周りは第三国人が多く、余り問題にはならなかった。彼等の内、女性達は、川筋の岩場に数人で陣取り、水を掛けつつ、大声ではしゃぎながら、砧で叩く、所謂朝鮮式の洗濯をしており、これも物珍しく眺めたものだった。ある日、その町に密造酒(どぶろく)の摘発手入れがあり、その部落を没収品を積むトラックとともに警察が取り囲んだ際、一時駄菓子屋をしていたH氏の母親が、その折、知り合った人に摘発寸前に、頼まれて、どぶろくの入った窯をこっそり預かってやった事もあった・・・なにせ、怪しげな メチルアルコール入り日本酒で目をやられる人も出る時代の事でした。小学校の同級生にも、結構朝鮮の人がいて、孫君・金城君・朴君等とも良く遊んでいた。小学校には、朝鮮語専門のイ・ヨンエに似た?きりっとした若い女先生も常駐しており、放課後、中三階の小さな教室で、朝鮮語を教えていた・・興味があって、終了後、黒板に書き残した文字を友人にも尋ねたが、彼等自身も半ば理解してなくて、結局判らずジマイだった。彼等は当然にんにくを食べるので、口臭はきつく、隣に座るのも皆嫌がったが、誰かが座らねば落ち着かぬ為、H氏が隣に座る事も結構あった。そんなこんなで、これも時効だから、書けるのだが、小4の頃、孫君の家で造った、どぶろくを、隣の八幡市、中央町の繁華街の某店まで、西鉄電車に乗って届けるのに、付き合った事がある。彼とその駄賃で、八幡中央町の映画館に入り、自宅には夜になって帰りついたが、勿論、家の者には、正直に答えた訳ではない・・そんな思いをして見た洋画のストーリーは忘れられない・・が題名が思い出せない・・「雪中に、墜落した飛行機から唯ひたすら救助を待つ物語だったが、ブリザードの中探し物を取りに少し離れた場所へ行き、仲間の元へ帰れず、嵐が収まって見ると、入り口から直ぐの処で凍死していた、散々苦労し、最後に手廻しの無線が何とか通じたのか、救助飛行機に発見されるが、半数は死亡していた・・」ジョンウエイン主演だったと思うが、検索しても出てこない・・。それは兎も角、彼等朝鮮の友人は、その後、家族らと一人二人と北朝鮮へ帰って行き、もはや連絡は取れない・・・・。一緒にみた映画は何と云う映画だったか、会ってその頃の思い出話を是非してみたいものだが・・今や無事かどうかもわからない・・ blogランキングへ
August 11, 2006
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H氏の生まれ育った 小倉は、戦前は 軍都の街 で、それが戦後は基地の街と化した。敗戦直後の事は勿論記憶にもないが、小倉陸軍造兵廠の近くでもあった為か、戦後暫くは、我が家の庭にはカーキ色の木箱が結構転がっていた。どういう経緯か聞いた事はないが、主な軍需物資や機密品の処分後、残ったガラクタを、近くの人らと手分けして持ち帰ったのだろう・・どうせ、その時分までに残っているものは、そんな木箱程度で、家で、風呂の薪にしかならなかったが・・・当時は余り気にもしなかったが、それは、迷彩色に塗られ、両側に棕櫚の葉を編んだ黒い手提げがついており、恐らくは、陸軍の機関銃等の弾薬ケースだった。斧で小間切れするのも結構てまどり、暫く、残っていたのであろう・・(今頃そのまま残っていれば、あるいは結構な貴重品かも・・・)小倉陸軍造兵廠は、昭和20年8月9日午前中、 B29が上空で投下スイッチボタンに手をかけた状態で、一時間近く旋回しても、原爆投下の目標が前日の八幡爆撃の煙に邪魔され、完全には目視できなかった事情で、長崎に変更され、殆ど無傷で残り(お陰さまにて造兵廠近くの我が家も無傷だったが)終戦直後、占領軍に接収され、そのまま、米軍基地となった・・ 夜の繁華街には、大勢、休暇の米兵が屯する、危険な街となった。・・松本清張の小説「黒地の絵」通りだったろう・・ (ちなみに、松本清張氏は 1909年12月21日、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)に、H氏と同じ大字篠崎に生れ、同じく同地区の清水小学校(旧板櫃尋常高等小学校)を大正13年に卒業された大先輩に当たるのを今更、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で見つけびっくりしていますが・・・)H氏の住む南門側は篠崎地区の裏門でもあり、住宅街だった為、さらに南の郊外の山地にある弾薬庫に交代勤務に往復する米兵は、勤務中ゆえ、統率も執れて、慣れればそう心配はなかったが、小倉の街の中央を流れる紫川に架かる基地東正門前の陸軍橋を(今はどう名前が変わったか知らないが・・)、なにかの用事で、たそがれどきに通りかかった折の異様な光景は子供心に忘れられない・・・日暮れと共に、三々五々、繁華街へ出ようと、米軍の兵隊が、解放気分で、陸軍橋を渡って来ると、待ち構えた、娼婦の一群が口々に叫び、又その護衛らしき風体の男どもがたむろし、客を運ぶリンタクも群れていて・・とにかく、騒然とした風景が繰り返す日々だった。 清水小学校1年の頃、(昭和24年頃)仲のよかった友達の家に遊びにいった事がある。日豊本線を挟んで、小学校の直ぐ近くで、風呂屋をやっていた。手伝いの窯焚きのおっちゃんの目を盗んで、番台にあがったり、客の居ない脱衣場で遊んでは、おっちゃんから叱られた・・(思うに、風呂屋の番台に上がったのは、長い人生、後にも先にもこの時だけだが・・・)風呂屋の裏手が友達の住まいだった、父親は戦死していて、上品なお母さんと二人住まいと聞いていたが、その坪庭に、つぶらな瞳の可愛い黒人の女の子が遊んでいた。広いお住まいの一部をオンリーに貸していたのだろう・・黒人の女の子のお母さんは買い物にでも行って留守だったのか、友達のお母さんがお守りがてら遊んでやっていた・・その後、あの黒人の女の子の事は「聞いてはイケナイ事」と思って、学校でも、話題にしなかった。 あれから半世紀以上過ぎたが、あの女の子も、もう、よい母親になっている年齢の筈・・黒人の女の子のお母さんもその後、どんな人生を過ごしているのだろう・・基地の街・小倉出身のハーフの有名人は結構いる。 歌手のRY も現在も昔もスタイルで決めているし、渋い役をこなす俳優のMKは1952年生まれだが、彼の通った小倉西高時代、彼の所属した野球部監督のH氏の同級生によれば、素直ながんばりやの少年だったらしい・・清水小学校1年の折の友人は、高校以降は別々の為、連絡は取れていないが、零戦パイロットだった父の跡を継いで、宮崎の航空大学に進み、民間航空パイロットになったと聞いている・・・ blogランキングへ
August 10, 2006
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長い副題も変えてみたくなったが、うまく思いつかない、それに、主に昭和20年代の事を思いつくまま書き連ねているが、時系列で並んだ年表も未だ探し出せていない。こんな調子で、あっちこっちと話を飛ばして大丈夫か?と、少し不安にもなったが、昭和20年代(1945年~1955年)の話は2006年から見直せば、50年~60年前の事だし、そう大した誤差範囲でもなかろう、と開き直り、取りあえず思いついた話を検索で調べつつ、進める事とする・・・昭和20年代頃、法隆寺と金閣寺に火災が発生した記憶がある、調べて見ると、法隆寺は 昭和24(1949)年1月26日、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。とあった。http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_50.htm より金閣寺は翌25年7月2日の事だった。・・そんな話題を兄貴達が新聞を見て教え、小2のH氏が教室で皆に話していたら、そんな話題を逆に担任の女先生が驚いていた記憶がある・・ませた小2生だったのだろう・・H氏の記憶にはないが、その前後も、昭和24年6月5日の福山城(松前城)天守閣火災、昭和28年5月27日の出雲大社火災、翌29年8月16日の京都小御所火災など、文化財火災も多く、又文化財に限らず、昭和20年代はあちこちで大火災が発生した年代でした。小倉の市役所も確か、漏電?で全焼した。疑惑も云われたが、判らない・・戦後、建物も老朽化しており、消火設備等に廻す予算等なく、人心もすさび、気の滅入る時代だった。それでも、日本は、その辺りから気を取り直し、文化財保護委員会と国家消防本部は共同主唱のもと、法隆寺金堂火災が発生した1月26日を「文化財防火デー」とし、昭和30年に第1回「文化財防火デー」を実施し、以来、今日まで全国的に文化財防火運動を展開しています。 確か、金閣寺の火災の原因は徒弟僧の放火で・・それを題材に、三島由紀夫の代表作「金閣寺」を生みました。法隆寺の火災は電気座布団の漏電だったと記憶してますが、この火災とその後大企業となっていった東京通信工業(現SONY)と何か関係あった様な記憶があり、調べたが出てこない。「井深が東京通信工業(現在のソニー)を設立した折は、日々の稼ぎにも窮したが、持ち前の技術力(当時から井深は天才技術者と言われていた)を元に、ラジオの修理、電気座布団(ソニーで最初にヒットした製品なのだ!)などの製作を手がけ、生計を立てていた。」とあり、何となく匂うが確証は、今や判らない当時模写に当たっていた14人の画家達は作業の後に「電気座布団は確かに消した」と証言。結局、火災の原因はわからずじまいだった。H氏の勘違いかも知れぬが・・あえて検索を繰り返すと、「藤倉電線100年の歩み」に、こんな一節も記載されていた。「この間、昭和13年には、法隆寺に耐火電線の「無機絶縁電線」を納入している。当事、法隆寺では、壁画の模写が行われることになっており、漏電による火災を防ぐため、各種の耐熱電線のテストが行われたすえ、当社の製品が使用されることになったのである。フランスで開発されたこの電線は、もともとルーブル美術館を漏電による火災から守るためのものだったから、同じ用途の法隆寺には適切な製品であった。わが国では12年から製造されていたが、13年に製造を開始した当社の製品が選ばれたのである。壁画の模写というのは時間のかかる仕事で、法隆寺金堂の場合も戦争を挟んで約10年間続けられた。その間、事故は一つもなかったが、残念なことに、24年1月、町の電気工事店が外部から4種電線を引き込んで電気座布団を取り付けて工事をしたことから火災が発生し、白鳳時代の仏教美術を代表するこの壁画は大きな損失を受けた。」翻って、昭和47年3月、発見後、現在迄、被葬者論や壁画の系統論ばかりに終始している間に、肝心の高松塚壁画の劣化を招いた文化庁、取り巻きの、マスコミも含め、そこから一体どんな前向きの答えをだして、くれると言うのでしょうかね! blogランキングへ
August 9, 2006
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歌謡曲は兎も角、その当時の音楽界には、アメリカナイズなメロディとして、兄貴どもの影響でかなりませていたH氏の耳にジャズが心地良かった。 昭和20年代初期、日本人の歌手では江利ちえみが、ローマ字読み風な唄い方で TENNESSYE WALTZ やTOO YOUNG 等唄い 雪村いづみ が 廻らぬ口で I LEFT MY HEART IN SAN FARANCISCO(想い出のサンフランシスコ ) The River of Return( 帰らざる河) 等を歌っていた。(極々最近まで、美空ひばり や 裕次郎 もののメロディ は余り好きになれなかったが、今では年の功か、惹かれるものがあり、楽譜を 紐解いては 「リンゴ追分」や「夜霧よ今夜も有難う」位は弾いている。)H氏は、勿論、原語が判って聞いていた訳ではないが、米軍放送 特に Voice of Okinawa (ヴォィス オブ オケナワ・・と聞こえた・・) からの雑音混じりのwaveのかかった 電波から流れてくるメロディは 旧式ラジオからとは云え、魅力だった。 曲名等、どうせ後から判った訳だが、グレンミラー楽団の MOONLIGHT SERENADE 、 IN THE MOOD、 SING SING SING、ST.LOUIS BLUES 、 SENTIMENTAL JOURNEY、 SIDE BY SIDE etc や Last number songとして STARDUSTは最高だった。 ジェームス・スチュアートと、ジューン・アリスン主演のグレン・ミラー物語も、映画館やテレビで何度もみたが、本物の雰囲気そっくりの俳優のジェームス・スチュアートのグレン、まさにピッタリだと思うし、トロンボーンを吹くあの様子も、何度見ても、本物がどちらだったのか判らぬような感じがしてくる。ラストシーン近くで、飛行機事故で亡くなった後もジューン・アリスンの演じる夫人にラジオを通じて流れるミラーサウンドは、思いだすだに、しびれてくる・・ギターを若い頃から爪弾いていた関係で、簡単な楽譜程度は読める現在、かろうじてマイナー伴奏で弾ける手慰みの我流ピアノで、そんな昭和20年代の音楽を弾いていると、心根はやはり初期に聴いた時のときめきが蘇ってくる。John Lennon & Paul McCartneyのYESTERDAY、HEY JUDE 、映画音楽のFASCINATION ,MOON RIVER 、THE WAY WE WERE、THE SOUND OF MUSIC、WHERE DO I BEGIN 等やJ.Bettys & Carpenter の YESTERDAY ONCE MORE やTOP OF THE WORLD 等が好きになって弾くようになったのは、ずっと 後の印象からで・・・早朝ゴルフから早めに帰った土日か祭日しか弾かないが、偶に、ご近所のお年寄りを意識して、歌謡曲オンリーの日もあったり、フォーク中心の日もあるが、概ね、POPSや映画音楽を主にして、最初はMOONLIGHT SERENADE を弾き、ピアノの蓋を閉じる夕方7時の最後の曲は大体 STARDUST と決めている。 blogランキングへ
August 8, 2006
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昭和20年代当時、学校給食は、何を食べていたのかも、正確には思い出せない・・否思い出したくない程、貧しかった・・・クラスに必ず何人かは、弁当を持って来れない人がいた、ような、気がするが、かれらは、昼休みと共に、クラスを抜け、校庭の隅の砂場等で遊んでいた・・飲み物は、給食として粉ミルクをお湯で溶かした、マズ~~イ飲み物!!。MSA援助*(下記参照)と称し、米国からの無償援助だったと思う。まあ、今の若者が飲めば、その不味さに、口にも出来ないだろうが・・・兎に角、日本中貧しかった・・・。パンはコッペパンという、硬い奴、(原材料もMSA援助の米国製の安物だったろう・・今とは全然味もやわらかさも違う) とにあれ、口に出来るだけでも、善しと言わざるを得ない状況。米も足りなかった。したがって、食べ盛りの子供に空腹感を押さえさせるには、どこの母親も苦労したであろう・・麦飯はまだまし、サツマイモをふかしてつぶし、茶碗の底に飯を盛り、上から、その芋つぶを盛ると、一応、山盛り一膳となる。茶碗の上に乗っている芋は、毎日続くと、嫌になり、芋飯はそのままにして、箸で穴を開け、下のご飯のみを食べたがっては母親に叱られた。その思いがトラウマとなり、今でも、芋は嫌いで、見たくも食べたくもない・・俗に女性の好物に「イモ・たこ・南京」というが、その頃生まれていれば、嫌になるほど食べれたろうな~と思いますョ!戦後暫く経っても、国産の米生産が全然不足する為、貴重な外貨を使い、ビルマ・タイ等の外米も輸入したが、これも、今思えば、不味くて、とても食べられたモノではなかった・・世に言う、「黄変米事件」、(下記参照:1952年・・昭和27年1月13日)等がおきる中、時の農林大臣が、無理々々、カビの生えて黄色くなった黄変米飯を責任上、旨そうに?食べているニュース映画など見た覚えがあるが、・・妙な事をH氏も覚えているもんだ・・・牛肉は極端に少なく、庶民はまず、口に出来なかった。代わりに、鯨の肉は、それなりに、食べるチャンスは多かった。鯨のベーコンも美味かった。次姉など、一応西洋料理を学校で習って、弟どもに、食させる際、ナイフとフォークを使う要領は、鯨肉料理で教えたりしていた。南氷洋捕鯨(下記参照)は小倉からマルハの大洋漁業の基地、下関も近く、子供心に憧れだった。記録映画も、小4の折、例により、小倉魚町の「かねやすデパート」まで、見に行った。大波に揺れる暴風圏を越え、 はるか氷山の浮かぶ洋上にシロナガスクジラを追うキャッチャーボートの砲手はかっこう良かったし、又、船尾から続々引揚げられる鯨を解体する、第一日新丸・図南丸の大きな船体も頼もしかった。 後年、三男が戸畑の日本水産に入社し、零下20℃の鯨肉保管倉庫も見学した事も忘れられない。しかし、時代は巡り、今や鯨肉を食する機会が殆どない・・・紀州太地に行った折、うっかり食事の時間帯をはずれて通りかかり、惜しい事をしたと、夢にみる・・・参照: MSA援助*参照: 南氷洋上の捕鯨参照: 黄変米事件 blogランキングへ
August 7, 2006
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戦後直ぐ、アメリカ文明が洪水の如く、敗戦国日本になだれ込んできた。一億総懺悔の元に、日本の従来の国是「忠君愛国」が間違った事として、対比的に「民主主義国アメリカ」がもてはやされるのは、時代の流れとしては当然の事だろう・・・今、冷静に振り返れば、占領軍のマスコミ統制、情報提供、・・特に日本人再教育の3S政策なるものは見事なものだったと言えるが・・・(3S政策とは占領軍が行った日本人教育のベースで第一のSは、セックスの解放、第二のSがスクリーンの活用、第三がスポーツの奨励 と言われており、米国に対する日本人の復讐心を根絶やしにするために忠臣蔵などのあだ討ちモノは当面不許可(昭和27年講和条約成立の頃まで・・)とされていた・・或る意味我々H氏ら小国民を含め、日本人は完全にこのラインに乗って、アメリカナイズされ、本来の日本人とは?を見失っていったきらいも否定しないが・・・)実際、くすんで見えた敗戦国の現状より、ニュース映画や、現実に見聞きする、アメリカ将兵やアメリカ風の生活の一挙手一投足全てがまばゆいばかりの理想に見えたのは事実・・・アメリカの生活として、当時百貨店で展示されていたものに、昭和27年ごろだったか、(H氏 小3~4)小倉魚町の「かねやすデパート」でアメリカ生活展示会があったのを覚えている。今なら当たり前の部屋のセットは、床はフローリングされ、しゃれた応接セットにトースターや、冷蔵庫もあったと思うが電気洗濯機を初めて見たのを覚えている。白い琺瑯引きの筒状の外観だったと思うが、内部の羽が回転する方式の水槽に、ローラー付きの絞り器がついており、家で洗濯板で、ゴシゴシ洗いしか見た事のなかったH氏は、びっくりしたのを覚えている。冷蔵庫の意識が余り思い出さないのは、理屈が理解できてなかったのと、氷を買ってきて、冷やす方式の小さなモノが家にもあったので、その大型位にしか思わなかった為だろう。その他掃除機もあったが、これも、音が当時はうるさくて、畳掃除なら、箒で充分と思ったからだろう・・・当時、朝日新聞の4コママンガには「ブロンディ」が掲載され、やさしい主夫の「ダグウッド」と、ちょっとわがままな妻のブロンディの織り成す、アメリカ人の中流生活がコメディタッチで描かれていた。(調べてみると、49年(昭和24)から2年間、にチック・ヤング連載にて朝日新聞に掲載) 兎に角、アメリカの生活振りがかいま見えて、興味深かった・・確か簡単な英会話の綴りも書かれていた様に思う・・・ ポパイの恋人ベティさんも、兎に角日本人ばなれした美人で、当時は、どうして美人なのか良くわからなかった・・・「そういえば、中学の英語の若い女教師のあだながベティさんだったのを思い出した」本でいえば「リダースダイジェスト」・・ちなみに解説ではリーダースダイジェストReader's Digest アメリカの総合月刊誌。1922年創刊。ポケットに入れて持ち運びやすいコンパクトなサイズで、新刊書や雑誌記事の抜粋と要約、オリジナルの記事からなる。いつまでも読むに耐える、読んでもおもしろいものを選ぶのが編集上の基本方針だが、中西部の勤勉で保守的な人たち(ミドル・アメリカン)の価値観を代表する内容だともいわれる。国内の号当たり販売部数は1,700万部(1986。『TVガイド』に次ぎ第2位)世界160ケ国で16言語、40種類の海外版があり、それを入れると3.100万部で世界最大部数の雑誌といえる。発行社のリーダーズ・ダイジェスト・アソシエーションは、同誌の外に、書籍、レコード、オーデイオ装置などをクラブ組織を通じて販売、年間売り上げは10億ドルを超える。日本語版は終戦直後の1946年(昭和21年)から発行されてきたが、1986年2月号をもって廃刊となった。<星川正秋>(平凡社、世界大百科事典)」・・とあります。この本は長男の考えもあって、常に毎月、取って、知識に飢えた兄弟らで、廻し読みされていた。読めないなりに、当時珍しいカラー印刷のページもあり、一種の絵解き風で、H氏の脳裏にどんどん吸収されていって、小さい折から、同級生に知ったかぶりの生意気な口を訊いていた 嫌な奴だったのだろう。面白いのは、小倉にあった当時「衛生便器製造会社」と子供ながら馬鹿にしていた、「東洋陶器製造株式会社」が、当時から堂々と表紙裏頁に広告をだしており、今更「TOTO」となった今日、その先見性に敬意を表したいと思います。 blogランキングへ
August 6, 2006
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個人的に言わせてもらえば、大好きで・・。それに頭が良くて・・となれば、即ファンになる・・というより、滅法尊敬してしまいます。 NHKの『クローズアップ現代』(総合テレビ)の番組契約司会を務めている国谷 裕子(くにや ひろこ)女史等はテーマは毎日変わり、森羅万象あらゆる事に精通して解説し・外人にインタビューし、他の男性陣の司会者など束になっても敵わぬ切れ味を持っているのでNHKでは1993年から現時点では『バラエティー生活笑百科』の笑福亭仁鶴(1986年4月~)に次ぐ長寿司会者でもあるのは理解できますし、又代わりの人はまずいないだろうと尊敬しております・・・(彼女は1957年2月3日 生まれ、大阪府出身。ブラウン大学で国際関係および国際経済を専攻し卒業)NHKはこんな番組も続けられるのだから、トップも、お上ばかりにへらへらして、オンブに抱っこばかり考えず、真面目に視ている聴取者に応えて、もっと良い番組を増やす努力をして欲しいもの・・いずれは彼女の後を継ぐか、或いは別の形で日本のコメンテーターとして デヴューするのではと密かに期待している、若手で、美人で聡明な理系のお姉さんで、毎日新聞科学環境部記者「元村有紀子」女史をご存知でしょうか?署名入り、顔写真入りで他の男性記者に混じり、切れ味の良い理系白書コラムを朝刊2面に「発信簿」として書いているのをご存知の方も多いと思いますが・・・。 奥手のH氏は先週、その彼女のコラムを読んでいて、「北九州戸畑の昔の煤煙公害」の事をやけに詳しく書いているので、或いは?と思い、地元の当方卒の高校の卒業名簿を調べると・・第六感通り、高37期にその芳名を探し当てました。九大(教)卒だそうで、当時の担任教諭にH氏同期のY 君の名前があるので、どんな教え子だったかお聞きしてみたいものです。此の間、元村有紀子女史 実名にて筆記の「理系白書ブログ」http://rikei.spaces.live.com/PersonalSpace.aspx?_c02_owner=1 も探し当て、2004年9月以来のブログもじっくり読ましてもらってますが本人曰く、(1966年生まれのひのえうま。高校3年までは理系コースに所属するが、大学受験で文系に転向。35歳になって科学(者)・技術(者)の楽しさに再会する。)とあります。毎日新聞社許可ありとは云え、記者の実名入り無報酬のブログ維持はひやかしのかきこみ等もあり、大変だろうな!と実感しますが、とにあれグァンバッテ欲しいもの・・同高校卒業生にお願い)・・東京にお住まいのようなので、関東地区同窓会月例会等に出席の折、関西にもファンのおっちゃんが居る旨、宜しくお伝えの程を・・ blogランキングへ
August 5, 2006
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伊豆の山々 月淡く 灯りにむせぶ 湯の煙 ああ 初恋の 君を尋ねて 今宵またギターつまびく 旅の鳥 ご存知、野村俊夫作詞の古賀メロディの代表作。 唄うは近江 俊郎(おうみ としろう) 「湯 の 町 エ レ ジ ー」といっても最近の人は「全然知らないな~?」 でしょうが、昭和23年発売と共に1年で40万枚、最終的には100万枚近い大ヒットになった。明けても暮れてもこの曲ばかりだし、出だしのギター前奏が大人気となって、それを弾きたいばかりにギターを買った人も多かった筈・・我が家にあったギターでこれを弾く為、小倉中学(学制が変わって高校)在学中の長兄は、どこかで、五線譜に曲を写してきて、帰宅後練習をしていた。真面目な長兄の割りに、学校で軽音楽部に入り、この曲で演奏会をしたのかどうか迄知らないが、兎に角、硬派な先生の多い学校では「軟弱で碌なモノにはならん!」と睨まれていたらしい・・長兄が、自宅でギターを抱えてこの曲を練習していると、突然、庭木を掻き分け、知らない同好の士らしき人が庭に入り込み、兄と、音楽談義しながら楽しそうに練習していたのを思い出す。小学校に上がるか上がらない頃のH氏にとって、ギターは、妙なるメロディーを奏でると云うか音が出る不思議な道具であった。抱える・・というより、畳の上に寝かせて、弦をジャンジャン弾くだけで、結構楽しかったし、長男のやる動作をいつも観察していた。11歳も離れた長兄故、手取り足取りで教えてくれた覚えはなく、時折在宅中に「そこは違う、ちょっと貸してみ~」程度の教えかただったが、どうにか見よう見まねで、完全にこの曲が弾けるようになったのは、中学を通り越して、高校時分には、ほぼ全曲弾けるようになっていたのは、自然な成り行きで、初心ギタリストの憧れる、映画 「禁じられた遊び」のテーマ曲 「ロマンス」も、同時期には弾けるようになって、 その頃小倉高校には軽音楽部はなかったが、はやっていた、ラテンミュージック「情熱の花」等と一緒に謝恩会の節に披露し、喝采を浴びたのは忘れられない・・H氏が同期の仲間に、軟派な印象を植え付けたのも、その為だろうが、結局、ギターを爪弾いて、女性にもてた事は残念な事に一度もないまま・・でしたね~大学時も下宿で閑な折はいつも弾いていたが、後にブームとなるフォーク狂いにまでは至らず、あくまでクラシックギターとまりで、フォークの伴奏位はマイナーを覚えて弾いていたが、そこから進歩しなかったのは、楽才がその程度だったからだろう・・ blogランキングへ
August 4, 2006
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数日前のある朝、PCは立ち上がるが、メールもインターネットもおかしいのに気が付き、ふとNTTから光ファイバー導入時に買ったルーターをみると、LANの部分が不規則点滅している。素人配線のコードがおかしいのかと、一応全部着け外してみたが直らない。回線終端装置をみると、4つ点滅中、二つが消えている。NTTに電話し、色々きいてみると、結局ルーターの寿命らしい、そういえばpowerのランプが消えたままだ。やむなく、此処 二三日、外部通信が出来ぬ間はPC本体の外部HDDバックアップ等で日を過ごした・・・西日本電信電話株式会社のラベルに製造年月は2003年6月となっており、MADE IN TAIWAN となっている。NTTは3年で壊れる程度の安くもない装置を、外地へ委託製造し、堂々と自社ブランドで売って、壊れたら買いなおして下さいとノタマウ・・・いい神経をしている。役人天国の官僚ばかりでなく、大銀行・大商社・大新聞・大証券もそうだが、最近はやたら日本の大企業を名乗るメーカーの神経もおかしい。パロマ、TOYOTAの一部車種の操舵装置・松下の石油ヒーター、etc.去年来では、三菱自動車の脱輪不良、新聞種に困らないほどで、一昔前の、品質本位、のMADE IN JAPAN の面影はもう過去の栄光だ数年前、テレビが残影しか映らなくなり、慌てて買いに走ったHiVijionテレビは丁度各社一斉に放映が始まる寸前だったので、初期から楽しむ事はできたがもう、そのシャープ製チューナーが調子が悪く、1chや2chを視る際は、一々、リセットボタンを押さないと、音がでない・・そのうち映像も写らなくなるのでは・・となかばあきれている。だが我が家にはその過去の日本製品の栄光を象徴する電化製品はまだ残っている。当マンションを買った時から設置されていた、居間のダイキン製分離型クーラーは、ここへ新築で引っ越してきたのが・・大方34年前だから1974年(昭和49年)製造だろう、音は最新に比べると煩いのだろうし電気料金も高いのは承知しているが、「最後の戦中派世代」としては、役に立つ以上、とことん動かして、モーターが止まるまで付き合う積りにしている。このダイキン製クーラーは、家に他の用事で電気屋がくると、感心して、メーカープレートや本体をデジカメに撮っていったりする事もある。ダイキンには特に知り合いもいないが、大したメーカーだと思う。・・ルーター位自分で買いに電器屋に走る手もあるが・・・と、ここまで書いた処でやっとNTTから今から、ルーターの付け替えに伺う旨電話があった。またひとしきり、ダイキンの製品の品質の優秀さを吹き込んでやる積り・・・年寄りの口癖・・「嗚呼、日本の戦後の責任感ある官僚・企業人・プライドに満ちた技術者の応対、製造品質本位の栄光の世も末じゃ!!」 blogランキングへ
August 4, 2006
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当時の音楽は全てラジオから流れてきて、敗戦直後 の荒んだ気持ちで娯楽に飢えていた国民はそれに癒された様にくちずさみ、H氏ら幼い子供でも、繰り返し聞かされると、意味の判らないままでも、直に歌えるようになっていた。並木路子の「りんごの唄」: サトウハチロー作詞、万城目正 作曲 赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空 リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ ...歌詞の意味は 厳密に考えると、今だに何を云いたいのか良く判らないままだが、何か、当時の人の心に届く、明るさと哀愁を帯びた旋律で・・改めて、歌ってみると、その頃の戦災で荒れ果てた街の風景、雑多なマーケット、家にあった古めかしい上部が湾曲したラジオ等が走馬灯の様に目に浮かんでくる・・・この一曲だけでも、世相・人心・その他学術的に分析してみても、一冊の本が書ける位・・不思議な歌でもあるが・・実際リンゴなんて、当時は1個5円!高かった!食料のない時代でした。歌っていた当時絶世の人気歌手 並木路子の昭和20年10月当時の月給が100円程度、超人気が出てもやっと300円だったそうです。この唄から元気をもらった人や、この歌を聞いて、何とかしなけれ・・・。とか、改めて生きる事を考えた人も多い筈。こういう人たちによって戦後の復興がもたらされたのかもしれません。その元気さで日本人は戦後の焼け野原から復興を遂げて、経済大国にまでのし上がった訳で・・。現在の様にあらゆる品々が豊富で、当然の如くコンビニに揃い、繰り返し消費は美徳ともてはやされる時代に生を受けた人には理解しにくいだろうが、この時代を生きた人は「我慢する事」や、「もったいない!」という気持ちが美徳などと云うより、当然の如く、周囲や親から教育され、意識にもあり、むしろ少し前の戦中に言われていた「贅沢は敵だ!」「ほしがりません勝つ迄は!」という禁欲的な標語から、やっと開放され、それだけで満足していた頃だったのです。 ちなみに「リンゴの唄」は1945(昭和20)年の戦後第1作の映画「そよかぜ」の主題歌として,主演の並木路子が歌ってヒットした歌謡曲で、この映画の監督は秋田県雄物川町出身の佐々木康,映画のロケも秋田県増田町のリンゴ園や真人(まと)公園などで行わたそうです。1989年に増田町真人公園に建てられた「リンゴの唄」歌碑で,今だに毎年10月のリンゴ祭りではリンゴの唄コンクールが催されているそうです・・・。 リンゴの歌 より blogランキングへ
August 1, 2006
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