全28件 (28件中 1-28件目)
1

戦後まもなくの事で正確には覚えていないが、我が家へ、母の一番下の弟が、暫く寄留していた事がある。この叔父さんはニューギニア戦線の生き残りで、末っ子のH氏を含め、男兄弟4人を集めては、生々しい戦場での戦いとその生き残りの苦労話をしてくれた。極く最近、ニューギニア戦線の実態を調べてみると、それは、戦争というよりは、行軍と飢餓との戦いであった事が判る。「ニューギニアの安達二十三中将麾下の第十八軍の当初の兵力は、三個師団と海軍守備隊を基幹とする約十四万八千人で陸続きと思った原始林のジャングルを伐り拓いて、八百キロ以上の死の大行進をして、西へ西へと進んだが、米軍の飛び石作戦の方が先に進んでしまって、アイタぺに兵力を集結し終えた時には、第十八軍は完全に米軍の後ろに取り残されていた。日本からの船での補給は完全に遮断され、米軍から見てもはや戦力では無く、太平洋と同じようなジャングルの海の孤島で、彼等の前に立ちはだかったのは饑餓と熱帯病であった。戦後の資料によると、生還して日本の土を踏んだ者は一万二千人であるから、実に九十パーセント以上の兵士が無残にも命を落としてしまったことになる。」我が家には父がいない関係で、夜毎せがんでせがんで話を聞かせてもらったが、叔父さんの話は子供心に良く染込み、大変な思いで、良く生き残って還って来られたな~と、尊敬したものだった。この叔父さんは帰還後まもなく結婚し、子供も生まれた折、独立し、小倉室町で、戦友らと、商売を始めたが、ほどなく失敗、我が家の子供たちの知らぬ間に、大分に夜逃げ同然で引越し、暫く連絡はお互いに取らなかったが、元気で大分で再起し、経験を生かし、「南洋木材」の輸入商を手広く始め、90歳過ぎで昨年なくなられた・・ 前振りが長くなったが、その叔父さんが、引越す際に置いていった「ギター」が我が家に残り、それが、我が家の子供達が音楽へ親しむ全てのきっかけとなった・・・ blogランキングへ
July 31, 2006
コメント(0)

高校野球もいよいよ、各地区の優勝校が出揃い始めた。H氏の母校小倉高校は7月25日地区予選、5回戦で、今日現在、福岡県地区決勝戦に残っている、柳川高校との戦 いにて残念ながら惜しくも9-7で、今年も敗れ去った・・(この上は福岡県代表に柳川高校が甲子園へ出場する事を祈念するのみ・・・)先にも書いた事だが、今を去る48年前、の昭和22年(第29回)・23年(第30回)と、二年連続全国優勝したが、 (昭和23年(第30回大会)甲子園で優勝旗を(原主将)授与・・小倉高校野球部OB会HPより借用)当時の野球部先輩達は、、今だ気力も、結束も固く、関西で毎年6月に開かれる、関西地区小倉・中高同窓会にも、我々後輩の前に、或いは、同窓会会長として、又その補佐として関西在住の方々だけでも、当時キャッチャーで主将だった原さん(明大ー近鉄パールズ)サードの宮崎さん(早大-後年・早大監督-早大時代の現阪神、岡田監督を育てる)前年の第28回大会出場で惜しくも敗退した折の主将、中村為昭氏(京大-住友金属社長)等、まるで"荒ぶる神々達"の如く、親しく臨席頂く訳だが・・その折、お聞きした話では、当時の選手達は、現在北九州・小倉在住の福島投手(小倉-早大-八幡製鉄・・在籍した中・高・早大・八幡 全て在籍チームを全国優勝に導いたノンプロ界の超エース)等を含め、毎年夏に、当時の野球部同窓会を開くそうだ・・・。しかも、その集合場所は、毎年、全国高等学校硬式野球の優勝戦が行われる、阪神甲子園球場のバックネット裏だそうで・・・彼等VICTORIANにのみ許された、その日・その時刻・会場で、「あの優勝旗は俺が・・」「優勝盾は俺が・・」と、現在に重ね合わせて、話題が尽きぬだろうと思うと後輩としては、全く、うらやましさを通り越えて、"荒ぶる神々達"の前では、声もでない思いがする同窓会である・・・ blogランキングへ
July 30, 2006
コメント(0)

前町内会長として、久し振りで市政に対する内容証明付き質問状を代筆作成××市長 ×村 ×一 殿 地域山林開発行為に対する審査説明請求×村市長殿には、日々、市政発展の為、研鑽ご努力いただき、有難く、厚く御礼申し上げます。平成17年7月01日付にて、当地1丁目-4の民有山林、約500坪の地域環境保全嘆願に対し、××市環境基本条例下、その保全及び創造を図る必要をお認め頂き、御指導及び御助言を、依頼したにも拘らず、正式な一遍の返事すら、なきまま、一年が経過し、この度、開発業者と××市とは事前協議が完了との旨にて、去る平成18年7月22日、開発業者 M林業 並びに、K測量設計 側により、近隣住民 若干名出席の元に行われましたが、上記に付き、業者側より一方的な説明行為はありましたが、××市側よりは、都市計画法に基づく如何なる基準に基づき、その開発を審査し、開発許可を与えようとしているのか、地域住民に何ら説明もなく、ここに××市に以下の疑問点につき、審査説明を求めるものであります。開発行為業者によれば、工事日程も迫り、有余もなく、早急に、以下疑問点につき、住民側よりの調査書類添付の上、内容証明付きにて発送しますので、××市側より、説明及び、日程の回答を文章にて求めます。 以下1、 市側の開発指導課・下水道課・都市計画課の考え方、(特に道路問題等、長期に渡る不便を強いておきながら、開発行為業者の利便に乗る市側の対応につき)、不審を抱く住民も多く、当地区の将来設計とも合わせ、説明ありたく。2、 特に第1種低層住宅専用地域として、建築基準法に基づく日影規制が業者側の事前協議ではとてもクリヤー出来ているとは思えず、市側との事前協議の盲点である、複合日影不良は到底許しがたく、開発審査会に対し、取り消しの審査請求も踏まえて説明ありたし。3、 その他、 以上平成18年7月29日 地域住民代表:○○ーポ自治会長 blogランキングへ
July 29, 2006
コメント(0)

暫く振りで、このテーマ に戻る事ができたが、この間、「靖国神社」問題で国論が揺れている。明治以来、先の大戦を含め、国富を増やすには、自国より軍事力他にて劣った国を併合するか、植民地化する事こそ、富国強兵の国の方針としてきた結果、多大な犠牲を他国や自国民に強いてきた国としての慰霊のありかたの総括を、先延ばししてきた事により、(ある意味、コイズミさんの大手柄?でもあるが)今頃、その問題が噴出してきたものと思われる。結論からいえば、先の大戦下では、日本全土が戦場であり、銃を持つ持たないに関わらず、共に時代を戦い、結果的に各地で戦災で死亡した一般臣民やその他、沖縄のひめゆり部隊の女学生達、サイパン島でバンザイ岬に身を投じた数多臣民。満州開拓団の犠牲者・戦時下にて銃後における過酷な労働や、市民を守る業務にて病に倒れた方も全て、英霊として、国や靖国神社は慰霊する義務を負うべきであろう。廣島・長崎の死者は特例としてその慰霊祭が行われて首相もお参りには来ているが、東京・名古屋・大阪爆撃時の日に合わせ、ひっそり慰霊が行われている遺族の方々には、今のままでは首相以下、プレスリーの慰霊には行くが、他はとてもお忙しくて?、お参りには永久にきて頂けないわけで、その方々も一旦全て靖国神社側が旧厚生省に問い合わせるなりして、名簿他をお引き受けしてお祀りしてこそ首尾一貫した、国の慰霊場所となる訳ではないだろうか・・・本来天皇の命により戦った兵士を祀るべき靖国神社が、今更、A級戦犯分詞論を、神社側が拒否し、戦後も勝利者側の不当な裁判による文民等の死刑者、病没者まで祀るを可とし、戦後昭和27年連合国より完全独立する迄、戦いが続いていたとする理屈を主張するのであれば、尚の事・・上記の戦争全被災死亡者合祀論を早急に検討する事こそ今の政治家の責務でもあると思う。昭和27日本が完全独立する迄戦いが続いていたとする理屈は一理もあり、是とするが、それを通すのであれば、松本清張の小説で有名な「黒地の絵」にある如く、 小倉祇園太鼓の鳴り響く夜、朝鮮戦争の死地に行かされる為、集団脱走した黒人兵達の陵辱を受けた妻や女性達の犠牲者も同様に英霊である筈。なにも天皇の兵士として登録されていた英霊以外にも、松岡洋佑・以下の文民まで英霊扱いするならば、そこの処は分け隔てなく合祀すべきで、編者の選別行為に一点の思惑あれば何の意味もなき、神宮宮司の歴史認識の思い上がりとしか思えない。実の処、昭和36~40年の東京在の学生時代にも勿論、H氏は一度も靖国神社に行った事がないし、戦死された英霊に、感謝、慰霊の気持ちは大いに多とするが・・・傍を通りかかっても、お参りには行っていない。(少年老い易く)の前振りにも書いた如く、H氏の父は戦地には行けず、銃後の警防団として、体力を消耗し、戦後、即病没したが、同じ片親の子として、国からはその扱いに大差があることを小さい折に実感させられたからだが・・・、小学生頃の子供心に、遊び仲間の子の父は戦死で、靖国神社参拝に東京見物を兼ね、国から費用が出て、うれしそうに旅行に出かけるのがうらやましく「何で親父は戦争で戦死しなかったか?」と、母親に質問しては困らせていたものだった・・・・。一種の僻み癖は以来、トラウマとなり、神前で亡き父に会える思いの方々には悪いが、上記の神社側の遺族の慰霊行為を私物化する事をやめない限り、今後も、行く積りはない。 blogランキングへ
July 28, 2006
コメント(0)

[ 友垣の事 ] で May 19, 2006に・・・名医だった友人のW君がウィンドサーフィンで海上遊弋中、亡くなって8ヶ月近く経つたのが・・、未だに実感がわかない・・・と書き込んだが・・ その鎮魂・献花の旅として、22日(土)、旧友が集まり、10人乗りのハイエースのレンタカーで彼が逝った敦賀の色が浜海岸へ向かった途中の敦賀一ノ宮である気比神宮は、大宝2(702)年の建立と伝えられています。古来より7月22日に執り行われる気比神宮の夏のお祭りで「総参祭」(そうのう祭)があります。気比神宮の御祭神(仲哀天皇)が舟形の輿に移され、御座舟「神宮丸」に奉安せられて、御幸の浜から敦賀半島の中ほどの色が浜海岸近くにある常宮(じょうぐう)神社に合祀されている、奥方の神功皇后に年に一度の逢う瀬に渡御されるものだそうです。七夕にもなぞらえているこの祭りの謂れまで押さえて、この日にセットしたわけではなく、全く偶然ですが・・・・、晴れ男だった故W君の配慮か・・前日の大雨が嘘の様に鎮まり、途中種々ハプニングも起きつつ、どうにか気比の松原を抜け、夕刻、敦賀の色が浜海岸に到着。 見晴らしの良い、新築の「おもや別館」にて、鯛や平目の大船盛に舌鼓の後、夜の浜辺で賑やかな事の好きだったW氏の鎮魂に花火に興じ、 翌朝23日、旅館の亭主の好意で朝9時過ぎに、船を出し、彼の旅立った海上付近にて全員で献花・・・・。 故W氏とW夫人との船上での、逢瀬に「お供出来て本当によかった・・・」との皆の思いの中、彼の元に無事届く事を祈りつつ波間にゆれる献花を、見送った事でした。 ここ敦賀、色が浜は昔より、景色の良い事で有名で、 海辺へと坂を下り、民宿や釣り宿の看板 の立ち並ぶ色ヶ浜集落に入ると。 小さなお堂があり、そこに寂塚と言う芭蕉句碑があります。芭蕉は、西行も詠んだ歌枕の地を訪れるため、ここに来ているのだが、寂塚の隣に西行法師の句碑 「潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の濱とは 言ふにやあらん」とあり芭蕉は1689(元禄2)年8月『おくのほそ道』の最終に8月14日から16日の敦賀滞在で、氣比神宮~金ヶ崎~金前寺~本隆寺を渡り歩いた後、色が浜を訪れ、「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」と読んだ句碑が、献花が済んで浜に上がり、宿泊先の「おもや別館」に戻る途中の集落の中に、ありました。 帰り道、その気比神宮にお参りに立ち寄ると。 境内に「松尾芭蕉」の像があり、「月清し 遊行の持てる 砂の上」・・とありました。 その後、越前海岸を行き、W氏もサーフィンで渡って見たかったであろう敦賀湾の反対側の「河野道の駅」まで行き、遠く霞む水島や色が浜に別れを告げUターン。湖西道路沿いに大津へ向かい、途中、同期のM氏が住職をしている、安曇川町の「妙雲寺」を大勢で突然訪問して、ご夫妻を慌てさせ、 日吉大社境内の「日吉そばや」で名物にしんそばを食べた後、名神で出発地の「吹田岸部」の参加者M氏の経営する「極楽湯」駐車場に帰着。そのまま「極楽湯」の湯船で疲れを癒す人も約数名程いました・・後日、W氏夫人より、参加者宛、下記のお礼のメッセージが届きました・・・・。「この度はいろいろとお世話になりまして 有難うございました一人ではとてもつらくて行けない水島 色が浜へ 連れて行って下さいまして有難うございました ハプニングあり サプライズあり 賑やかな皆様のお陰で思いのほか平常心で主人の最期の地を訪れることが出来ました気比の松原 気比神宮 オランダ村 Mさんが住職さんのお寺 日吉そば あちこち巡ったお陰でずいぶん遠くまで旅をした気分になりました YMさんの借りて下さったハイエースは乗り心地がよく 「睡眠」には最高でした YMさんのアドレスを存知ませんのでよろしくお伝えくださいませ送って頂きました写真 拝見しました 小さなカメラですのによく撮れていますね これからこの写真をMy Picureに保存してPrint OUt 出来るかPCと格闘してみます 女性だけのおしゃべりも楽しい夜でした 奥様によろしくお伝え下さいませ 感謝! 」
July 27, 2006
コメント(0)

懸案だった防犯用ステッカーのカタログがやっと完成。当方ビジネス用url をクリックして、下記URLにpdfファイルとしてupしたので、ご紹介します。 新製品紹介・防犯用 と新製品紹介・貼り方 をクリックすれば開きます。 <凶悪な犯罪を少しでも阻止できれば、そんな願いからの提案> で 当方のpat.自己粘着素材を使い、のりなしでウィンドウや艶面の車体に内・外どちらからでも貼り付けることが出来るのは、本邦初公開! 地域を100台の市民パトロール車が走り廻る ことで、地域の警戒感と防犯意識を上げる事を意図しています。 blogランキングへ
July 27, 2006
コメント(0)

18日 朝です。今日で、K夫妻と、ここトマムでお別れです。 彼の体調は以前ほどではないにしても、余り良く無い為、病院の定期健診を受ける為、帯広に戻るのに、朝帰りです。ザ・タワー 前の駐車場迄見送り、再会を約して、車は走り去りました・・・。 残った我々はホテル前のゴルフ場をむなしく眺めるのみ・・・。H氏も実情を言えば、、旅行中は腰痛予防に腰バンドを着用している為、トマムは彼のお陰で三度目の宿泊ですが、残念ながらこのゴルフ場でのラウンドの機会を又逸してしまってます・・・。 10:01発の札幌行き特急「スーパーおおぞら2号」トマム駅に着いた頃は、どしゃぶりの雨でした。・・自由席の列車まで走るのが不可能な程・・・遣らずの雨とでも云うのでしょうか・・どうにか乗り込み、車中で車内販売のコーヒーを取り、朝食替わりのパンを食べつつ、車窓を眺めて寛ぐのも乙なもの・・・南千歳を経由して、札幌駅には11:31 着、ここで、列車ともお別れ。 札幌に住む、高校同期の友人S氏の迎えを待つ間に駅前をぶらりと散歩。 程なく現われた友人S氏と、先ずは彼の住む近くのホテルに荷物を置きに、地下鉄で、真駒内駅まで行き、彼の駅前駐車している車に乗り、アパホテル札幌へ。 先ずはS氏の地元でもあり、彼が若い頃の建設現場担当だった真駒内オリンピック競技場を一周して、公園内でカルガモとお遊び その後、帯広の大学時の友人K氏依頼の、札幌ー小樽、の中間の山裾の住宅地にある、1000坪ほどの土地の検分に、S氏と同行。 彼は、地元北大を卒業後、大手建設会社にてこの前まで札幌支店長をしていた関係で、土地鑑定はお手の物・・・北大ボート部のOBでもあるので、土地中央の小川の処置をする河川局にも顔が聞く筈・・・その後、彼の案内で、大倉山ジャンプ場を見物。雨雲に隠れるスタート地点の高さに圧倒される。 ウィンタースポーツミュージアムに3人共年齢詐称で格安入場・・雨の中で客なんてほとんどいないので、これも一つの入場協力。例の札幌オリンピックの笠谷以下のメダルやスキー板展示を見物の後、世界初のジャンプシュミレーターを体験。実際には3階から2階へ機械装置が降下する間に、ゴーグルに仕組まれた景色に合わせ、背を低く降下し、踏み切り台にて、大きく背伸びしスキー板の靴を開くと風きり音と共に空を飛ぶすぐれもの。腰痛の為、ゆっくりおそるおそる背伸びしたのが、却って良い結果を産み、何と、122Mを記録しその日入館者記録中10位入賞。(北国で育てばオリンピックも夢でなかった)と彼に言わしめて調子に乗り、嫁と同じくバーチャルクロスカントリーに挑戦するも、これはスキー板からつんのめったりでボロボロ、お笑いを取るのも楽ではありませんね・・・。そうこうする内に夕刻となり、彼のお宅へ・・・ 前日奥様とわざわざニセコまで出向いて汲んできた天然水やアスパラガス・わらび・ぜんまい等に、例のトキシラズの鮭などのジンギスカン料理に舌鼓。(生憎の雨の為、お庭では出来ず、室内にて・・) 雨の為か、出入りに蚊が入り、気になさった奥様が蚊を追いかけて華麗な踊りのポーズを何度もお取りになるのを観賞しつつ、避けつつ、賑やかな夜を過ごし、9時過ぎにホテルに帰り着きました。ホテル代は廉価な割りに素晴らしい露天風呂に入り、またもやバタンキュー・・で睡眠。翌朝も露天風呂に入り、19日午後の飛行機にて関西へ帰りつき、楽しい5泊6日の初夏の北国の旅は無事終了しました。 blogランキングへ
July 26, 2006
コメント(0)

B&B 丘 にもお別れの朝を迎えました。・・ちなみに昨日の朝食はオーナー夫人手作りのこんがり美味しいブレッドに自家製野菜サラダとイチゴ&バターその他エッグ等でしたが今日の朝食は”玄米おかゆ” です。(写真の様に、毎朝、テーブルマットが変わり、今日は白いレースです。)自家製梅干・ほうれん草・ジャコ・鮭・等のトッピングに地鶏の温泉卵で、きれいに食べてしまいました。 K氏夫妻よりH氏はロールピアノ持参の旅と耳打ちされていたのか、お別れにピアノでも、と持ちかけられ、オーナー夫妻の居住されている居間にある奥様のピアノの前に案内され、ついその気になって下手な演奏を弾くはめに・・・H氏のピアノの弾き方は所謂ジャンジャン弾き程度で、伴奏は楽譜に付いているマイナーを見て適当にリズムを割り振るいい加減なもの、我流弾きなので、どうしてもタッチが弱く、それでも、と、おだてに乗って、持参していた背表紙の破れかかった 「1001 Popular Songs ・・全音楽譜出版社 発行」 を 楽譜台に載せ、主に、映画音楽 を 弾いてみました・・・「魅惑のワルツ」 「To Love Again・・愛情物語」 「The Soudo of Music」 「Summertime in Venice・・旅情」 オーナーリクエストで「虹の彼方に」 etc.POPSでは「Stardust」 「Yesterday once more」 「Top of The World」 etc.・・「HEY JUDE」を弾いていた折は「オーナーがメロディに合わせててハモッていたョ!」と後でカミサンから聞きましたが・・音符を間違えては!と集中している程度の弾きですので判りませんでした・・調子に乗って、セミクラシックの「Serenade by Shubert 」や 「トロイメライ」を弾いた処で、ドクター?ストップ?がかかり、ティータイム。自家製のパイを頂きながら音楽談議ほか・・。最後に「ETUDE Op.10 No.3 別れの曲」を弾きたかったのですが、それまで弾くと気障だし、時間とカミサンにせつかれ、ピアノの蓋を閉じ、帰り仕度・・オーナー夫妻からは冬景色の十勝の写真を見せて頂き、是非冬場に再訪をと、促されつつ、車上よりお別れ・・・本当に、又行きたくなる場所のひとつになってしまいました・・ちなみに料金は一泊朝食付き一人¥8000、朝夕食付き¥10000・・という驚くべき廉価!。あなたも行ってみませんか?但し、室内禁煙!。どなたかの紹介があれば、なを可。(帯広空港より40分・・空港送迎費別途¥3000・・JR豊頃からは無料送迎)MrH氏のブログを見て?とだけでは難しいかも(・・一日一組のみですし、)・・・、B&B丘 を 選んだ訳と、日程調整を、丁寧に自己紹介を兼ねて、お電話なされば或いは??・・念の為、住所・TEL NO.は下記です・・。ペンションB&B 丘 北海道中川郡豊頃(とよころ)町統内607 tel (01557)4-2610さて、昼前に帯広市内のK氏邸にて、この春ご一緒した「明日香・吉野・熊野の旅」のビデオを見せてもらった後、出発、途中、「長期滞在ならお貸ししましょう」とのお言葉のあった、音更町のS氏別邸を近場から見学後、市内へ戻り、「MASUYA」と云う女流社長の経営する、帯広で有名なパン屋さんで、昼食兼翌朝のブレッドを仕込み、一路「トマム」へ快適なドライブ。狩勝峠を越え、4時半頃、例の36階建ての「ザタワー」に到着。 そこの会員でもあるK氏が取ってくれていた最上階の36階の部屋にはいりました。 この部屋は2階建て(実質は37階)で、2階には広いジャグジー風呂と1寝室・洗面場、 36階には広い居間と1寝室・洗面場があり、 二家族が悠々過ごせるスペースがあります。部屋からの景色はご覧の通り・・・ 各々交代でジャグジー風呂で疲れを取った後、着替えて食事に階下に降り、冬用に作った長い展望廊下伝いに、上の写真にあるガレリヤタワー近くまで散歩した後、ここ数日間の楽しい、つきぬ話題を夜更けまでしゃべった後、ビールを飲むと、バタンキュー・・・翌朝までぐっすり、各自の部屋で眠りに着きました・・。
July 25, 2006
コメント(0)

明けて16日は、K夫妻のドライブ案内で十勝の隅々まで巡りました。先ずは B&Bオーナーの推薦する、隣町の幕別町の住宅地に建つ内科医院と住宅が一体になっているお宅のお庭。 入口に「どうぞご自由にお入り下さい」と書かれたトールペイント。バラの絡むパーゴラアーチを入ると中央に手入れの行き届いた芝生が広がります。 大きなパーゴラの回りに満開のバラや宿根草ゾーンや森に入ったような小径、があり、動物の飾りで作った幕別マップガーデンなどが手入れ良く作られていました。患者さんやご近所の方にいやしの空間を提供しようとガーデンにして。今ではその目的どおり、患者さんやご近所の皆さんが自由に楽しめるオープンガーデンになっています。NHKの「素敵にガーデニング」で紹介された場所だったと思いますが、H氏の記憶違いかも知れません・・・。その後、同じ幕別町の「新田の森」を見学し、 日新の丘 十勝正直村へ、ここは21町歩の岡の花畑に1,200種類以上の花・木・花木・果樹・野草が咲き誇ります更に足を延ばし、ポロシリ岳のすそ野に広がる自然豊かな八千代公共育成牧場に行きアイスクリームを食べつつ、総面積981ha(東京ドームの約210倍)の土地の雄大さを満喫、一年を通して乳牛・馬等が放牧・育成されています。宿泊施設でもある、丘の上のカウベルハウス内にはレストランもありました。 そこから程近い日高の山すその森のなかには、色々な芸術家の村もあるようで、大阪・高石生まれのご主人は不在でしたが、ステンドグラスを創作して売っている福岡出身の奥様のお店で撮った作品です。勿論、お土産に、トレー等は買い上げましたが・・こんな山奥にお客があるのか尋ねると、むしろ帯広から習いに来る生徒さんを教えているのが正業とか・・ 北海道に渡って来る本土の人はロマンチストが多いようで、盛業を祈って店をでました・・・その晩はK氏宅で夕飯の後、車を借りて、夜道をB&Bまで戻りましたが、何せ、広野の畑の中の一軒家ですので、途中で電話し、家中の明かりを全部点けておいてもらい、その明かりを目標に無事帰りつくことが出来ました。
July 24, 2006
コメント(0)

B&B 丘 の15日夕食のメニューの報告が遅くなって、お許しあれ・・・B5版の薄黄色のケント紙に、印刷された献立表には、こんな内容が書かれていました・・・ Mr.H'ご夫妻様 夕食のお献立 野菜サラダ・・自家栽培野菜と市販の有機栽培野菜を使っています。サラダ風冷奴・・十勝中田食品製豆腐(十勝大袖大豆使用)にジャコ(仙台産)をトッピングに添えました。もずく酢・・沖縄産もずくに自家製加減酢を加えました。黒豆の昆布煮・・自家栽培の黒豆と日高産昆布を塩と醤油味付けしました。鳥ももと道東産鮭のスモーク・・十勝中札内産「田舎どり」と道東産鮭を我が家でスモークしてみました。むらくも汁・・隣町浦幌の山崎さんが丹精こめて育てた鶏の有機卵入りお吸い物。中華おこわ・・中札内産「田舎どり」、熊本産竹の子などを入れた中華風おこわです。漬物・・有機栽培きゅうりのたたきと自家製梅干の和えものです。*全ての料理に使用している水は自家製のミネラル水です。*自家栽培野菜には化学肥料も農薬も使用していません。 平成18年7月15日 B&B 丘 テーブルには青い紬のカバーがセットされ、決して絢爛豪華ではありませんが、心の籠った料理に北海道産のビールで日頃小食のお腹は直ぐに満腹となり、ビールを半分にしておけば良かったと未だに、食べ残した料理が目元に浮かびます・・・程なく食事が終わると、タイミングを見計らい、コーヒータイム。英国滞在の長いオーナーご夫妻との楽しい会話が夜更けまで続いたことでした。生憎の曇り空でしたが、その後、喫煙家のH氏が、外へ出て、涼風のなか、煙草に火をつけて周囲を見渡すと・・・若い頃、登山で経験した、灯火一つない漆黒の闇に包まれ、あらためて広々とした十勝平野の丘陵に一人ぽつんと立つ自分と、大自然の持つ寂寥に浸る事が出来ました・・楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 23, 2006
コメント(0)

ペンションB&B 丘 北海道中川郡豊頃(とよころ)町統内607 tel (01557)4-2610を予約してくれたのは、帯広の友人 K夫妻のお陰です。H氏夫婦の好みを良く知っていて、本来はK夫妻の御自宅に泊めると、遠慮があって寛げないだろうから・・・との配慮で、わざわざ数週間前に下見迄してくれ、帯広から30分程郊外のこの場所を選んでくれたのだろうと思います。H氏夫妻はそんな点はお構いなしの関西人なので、帯広市内の800坪はある彼の邸宅の、どこぞ片隅でも充分だったのですが・・とにあれ、彼の繊細な配慮で、二日ほどゆっくりと過ごす事ができました。さて、 B&B 丘 の看板を目印に、玄関迄続く白樺並木に車を乗り入れると、 B&B 丘 の広瀬オーナーご夫妻が出迎えてくれました。 中に案内して頂くと、凡そ二十畳ほどある広々とした、客用の居間兼食堂に通されましたが、そこにはペチカと座椅子があり、オーナーお揃えの書庫が幾つもあり、静かに音楽も聴ける設備と幾種類ものCDが自由に使えます 南向きから入ってきた道側のテーブル越しの広い窓からの庭も眺めもひとしおですが、 北側の窓の風景も、また素晴らしい景色です。 寝室はツインベットとダブルベットの二間あり、一日最大4人グループ一組しか、お客を取らないオーナーの仕組みですので、我々夫婦だけの場合、自由にどちらもお使い下さいとの事で、どちらかが夜更かしして持ち込みPCやテレビ見ていても、片方はグッスリと眠れる訳です・・ オーナーが手作りの畑もある庭には、ルピナスやあやめ等のほか、うっかり写真取り損ねましたが、英国仕込みのバラのアーチや色々な種類の花に混じり 見事な芍薬の花も開き 石楠花も今から咲こうとかと言う趣 趣味の日時計もおしゃれですね 何より素晴らしいのは、周囲のじゃがいも畑の一面の白い花 繋ぎ写真で広々とした、周囲の雰囲気が伝われば幸い・・・、見渡す限り、人家は目に入らず、森影のかっこうと、恐らく近場にいる筈のキタキツネが一番身近な生き物なのでしょう・・・ついでに、平屋の屋上の星見台にまで案内頂き、いつぞやの夜のシリウス流星群の360度降り注ぐ素晴らしさを、オーナーからお聞きし、さぞやと思った事でした。部屋に戻り、CDで「大江光作品集フルート・ピアノ」を聞きながら、本棚の司馬遼太郎の「台湾紀行」の本が目に入り、20~30頁読むまでもなく、居間の長椅子でオーナー夫人手作りの夕食の香りがただよう迄、ぐっすりと午睡してしまいました・・・楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 21, 2006
コメント(2)

二日目の朝も釧路特有の濃い霧と共にあけましたが、特に急ぐ旅でもなく、ホテルの裏庭の芝生と木立を4人で散策。本土との季節感では5月頃の筈のポピーの真紅の花がホテル前の庭園にきれいに咲いていました。 釧路と言えば丹頂鶴、一昨年の8月も鶴を訪ねて釧路湿原を歩きましたが、 「参考マデニ・・ H氏の道東の旅(04年版)」 をご覧頂ければ・・・・遅い朝食を済ませて、釧路市丹頂鶴自然公園に行く事にしました。19羽の丹頂鶴がおり、独身のメスの一羽を除き、つがいで観客側より見て幅20M程度、奥行きは成り行きで100M位の囲いが10箇所程あり、一応囲いの中に各つがいがいましたが、屋根には網はありませんので丹頂鶴の出入りは自由の様です。 聞いてみると、各つがいが自分のテリトリーと決めている場所に、キチンと棲み分け、空を自由に飛びまわった後、ちゃんと自分の囲いに戻ってきて生息しているのだそうで、与えられた餌は食べるのに、係員が入り、とうもろこしや魚の切り身や、たまに泥鰌など餌場に撒く折に、網内に入ると、威嚇したりして、自分のテリトリーを守ろうとするのだそうで・・・その辺り、鶴の生態は飼われているのか?食べに来てやっているのか?良く判りませんね~・・・もっとも、余り食べようとしない隙をねらって、カラスや土鳩が結構、網の上に集合していましたが・・・・見学後、のんびりと帯広方面を目指し、国道38号線を一路西へ走ってゆくと、一昨年、そしてたまたま昨日も上空を通過した、音別海岸のパシクル湖の橋を渡り、 ラーメン屋のある広場に程なく到着。 車を止め、海岸に出て、打ち寄せる北太平洋の荒波を撮影。 残念ながら朝食を食べて間なしの為、美味しかった思い出の蟹味噌ラーメンを食べずに出発海岸からはその後も霧が押し寄せ、折々、38号国道も霞む中を進むうち、運転している、K氏の発案で、国道を離れ、鄙びた厚内漁港に向かい一休み。 その後も海岸沿いに走り続けて、昆布刈石展望台へ。南西方向を見渡すと、一直線に海岸線が遥か襟裳岬まで続いています。 崖下は絶好のサーフィン場所なのか、若者が沖へ漕ぎ出し、見晴台を少し登った続きの崖上では、パラグライダー発着場、と、十勝の若者は絶好の遊び場を持っているもの・・と感心しきり。更に進むと、高台一面は牛の放牧場、撮影に車を降りると、一斉に牛が物珍しげに、H氏を観察に集まってきます。彼等にとって、わざわざ近寄ってくる人間の方が珍しいのでしょう・・・ 高台を下り更に襟裳岬方面にむかうと、海岸沿いには沢山の原生花園のオンパレード。その内の一つ、大津原生花園に車を乗り入れ、雲と花の間を好きなように散策。ハマナスとシシウドに囲まれたアヤメ、その他数々の花がお出迎え・・・ そこから海岸を離れ、国道338号を北に戻り、浦幌町、豊頃町付近で遅めの昼食、そして15日の宿泊先のペンションB&B 丘に着いたのが3時過ぎだったでしょうか・・・ それはそれは心休まるもてなしの二日間の始まりが待っていました・・・。楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 20, 2006
コメント(0)

14日(金)から19日(水)迄、思い立って、初夏の北海道を巡ってきました。と云っても、往復の航空券だけ押さえて、後は行き当たりばったりといういい加減な旅で、段取りは、ほとんど友人まかせという日程・・・・14日関空14:30発の釧路行きに乗り込む迄は、36℃近い暑さ、おまけに、出荷を待つばかりまでにしてきた筈の受注製品の出荷手順をユーザー都合で急遽納入先変更にてSTOP指示があり、出発ぎりぎり迄、携帯で打ち合わせながらといった事で、これも仕事をサボっていく宿命故、やむをえぬ成り行き・・・。なんとか、変更先指示を、加工先メーカーFAXに直接連絡する段取りをつけ、やっと機上に乗り込み出発。湧き上がる入道雲を横目に旅気分に浸る・・・。 途中、雲間より、見知った、信州諏訪湖をちらりと眺め、新潟上空、から進路変更し、太平洋側に出ると、後は海の上、まもなく降下を始め、北海道沿岸へ、 一昨年、立ち寄った音別海岸のパシクル湖の橋と広場に一軒ぽつんとある美味しい蟹味噌ラーメン屋の真上を通過したのには、偶然とは云え、驚いた。右旋回して阿寒上空より、釧路空港に着陸したのは定刻通り16:30。空港にはわざわざ、帯広から数時間かけて、親友のKご夫妻がお出迎え、それでも、「今日は貴君が大阪から暑さを持ち込んだな~」と云われた位の、昼間気温30℃近くあったらしいが空港から20分程の山花温泉に着く頃には日が西に傾き、旅装をほどいて近くの牧場を散歩する頃には、はやくもひんやりとした空気。 露天風呂に入り、毛蟹や北海の甘エビ、トキシラズ(オホーツク沿岸で今時分取れたしゃけだそうだが・・)などの数々の珍味を前に、生ビールで、ホテル内レストラン最終時間迄、Kご夫妻と語りあう至福の時間を過ごす間に、すっかりできあがり、部屋に戻って、更に退屈しのぎに持参したロールピアノで束の間の演奏会を開く頃には、肌寒さで、もう一度露天風呂に入りなおし就寝したのはもう11時を廻っていただろうか・・・窓の外は釧路名物の霧にすっかり覆われていました・・・楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 20, 2006
コメント(4)

今年も、熱い夏になりそうです。夏といえば、高校球児の憧れの今年も第88回全国高校野球大会予選が始まりました。・・・H氏の見聞きした戦後のスポーツ のトップは何といっても、その話題です・・・しかも、長兄の通っていた、小倉中学が、新制高等学校へ変わる昭和22年(第29回)・23年(第30回)と、何と二年連続全国優勝をしてしまったから、さあ大変! (大優勝旗と米軍トラックに分乗した小倉中学ナインを迎える小倉駅前の大雑踏・・時代が窺えます!) (これも余談だが平成17年の夏の第87回甲子園は駒大苫小牧の連続優勝 (夏大会の) だった。 この連続優勝は47年ぶりという話があり、駒大苫小牧の前の連勝が小倉中学・高校である。 )戦後即のスポーツや娯楽に飢えていた時代の事ですし、しかも真紅の大優勝旗が初めて関門海峡を渡り、九州にもたらされるとあって、小倉の街は上を下への大騒ぎとなりました。その間の昭和22年、春の 第19回全国選抜大会では準優勝もしており、押しも押されぬ、当時の野球の名門高になり、しかも、福岡県下では、戦前から修猷館中学と並ぶ2大名門進学校とされており、但し校風は対照的で「がり勉」の小倉、大言壮語の「修猷館」と言われていたのが野球で日本一になったのだから、当然鼻も高くなり、いまだに、それで小倉高校は100年祭をめざして、OB連に野球部誌発刊募金をしているといっても過言ではないが・・・。映画「無法松の一生」の原作で知られる「富島松五郎伝」の中では、主人公無法松が可愛がる吉岡家のボンボン(小倉中から五高・東大へ進学)の母校として登場し、松本清張の名作「菊枕」では、主人公の夫が美術教師として勤務していたのが小倉中である。。優勝投手の福島さんとは、同クラス、しかも、・H氏兄・福島と出席順で席まで隣同士ですので、内の兄貴も鼻が高いと同時に、何かと荷が重い旧友ではあったと思いますが・・・その辺りの見聞きした詳しい話も、又いずれゆっくりと・・・北海道から帰ってお話しましょう・・・・。(これも余談:今年の小倉高校の初戦は7月14日(金)北九州・桃園球場にて12:00~行橋vs築上西の勝者と対戦。祈る必勝・目指せ甲子園!)楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 13, 2006
コメント(0)

小学校に上がる際は母が小学館発行の「小学一年生」を買ってくれた。南小倉駅前のマーケットの小さな本屋だったが、おそらくH氏に買ってくれた第2番目の本だったと思うので良く覚えている。付録にはボール紙に、今思えば、粗末な印刷で、切り目や折れ線の入った「ひな祭り飾り段セット」が入っていたので、家に帰り早速作り始めたのを覚えている。毎号は買ってくれなかったが、教室にもあったし、左程不自由は感じなかったのは、小さいながら、家庭の事情を知っていたからだろう。それでも、付録の組み立て等はやってみたくてしょうがなかったので、一二年生と同級の友達で、木町市場の漬物屋の田中君の店の二階に上がり込み、彼の手伝いをする振りしながら、ほとんど難しい所は、H氏が引き受け、はさみと糊で「エンパイヤステートビル」を作り上げたのは忘れられない。 昭和24~5年当時も今も、アメリカさんの文明の象徴で、高い処の昇るのが好きなH氏だが、生憎、今だその夢は果たしていない、先日世界一高い台湾の101ビルに昇ったのがせいぜい・・・完成品は当時の身長とほぼ同じくらいの高さがあったと思うので、恐らく、70cmは有ったような気がする。物欲はないので、作り上げると満足する方だからそのまま帰ったが、彼が親にどう報告したのか・・後で父兄会で話題になり、ウチの母の耳にはいったが、結局は、「ウチの息子だけでは出来上がる筈がないので、・・」との報告だったらしく、「今後も、又家に来て、内の息子と遊んでやって下さい」と喜ばれた由、母親としては、喜んでいいのか、買ってやれないばかりに、つらいと思ったのか・・・そんな訳で、よく他の友達の家にも顔を出したが、大体の親は歓迎して、御菓子を出して、好きな本も自由に読まして貰えたのは、いまだに、感謝したい気持で一杯・・・。以降も小学館の学年雑誌にはずっとお世話になり、結局「蛍雪時代」まで、それは続いたが、付録のテキストや、辞典まで大事に使用したものだ・・・・H氏が母親に買ってもらった本の一番最初は、まだ小さい頃、当時は田町にあった、旧小倉駅前の例の白い、いすず自動車の木炭バスを待っている折、待合室にあった、2色刷りの、小冊子の絵本。これは例えば1ページにヨットのイラストが書かれ、そこへ、カタカナ、ひらがな、それに英語でYachtと書かれていて、おそらくアルファベット順に並んでいたのだろう・・・B5サイズ位の赤い表紙の本・・・それが最初で、繰り返し々々、絵を眺めては、年上の兄弟に、これ何と読むの?英語で何というの?と聞いては煩がられた。小学5~6年頃、各組には「学級図書」があったが、家庭の事情を知っていた担任の女先生は、その補充をH氏に任せてくれ、「君の好きな本を買いなさい」とお金を渡してくれた。だから、その当時読みたかった保育社の小学生向けシリーズで高額の為、母親にはどうしても切り出せなかった、理科や気象や航空や地理・天文その他のミニ百科事典のシリーズものを、毎月、喜んで買いにでかけたものだ・・・・ご存命のその折の担任の三喜先生には、まだその節のお礼を申し上げていないのが、気掛かりだが・・・最後の戦中派に属するH氏にとって、どうしても、もう一冊の本を紹介してみたい。それは「坂井三郎空戦記録」・・1953(昭和28)初版・・確か前後編2冊あったと思うが、読み耽ったものだ・・・「台湾の台南基地に新設された台南航空隊に配属され、昭和16年12月8日の開戦時はフィリピンに駐留する米陸軍航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後はラバウ、ラエに移動、ニューギニアやソロモンに展開する米豪軍と激しい戦いを繰り広げる等、太平洋戦争中、主に戦闘機「零戦」(三菱航空(現重工)製作「零式艦上戦闘機」)で200回以上の空中戦に出撃し、敵機64機を撃墜したうえに、その間、戦死した部下を1人も出さなかったことで有名。最後の階級は中尉だったが、海軍での経歴は、旧海軍兵学校卒のエリート士官とは違う、いわゆる"たたきあげ"の日本の撃墜王の自伝の書。」 後「大空のサムライ」として、各国語に翻訳され、因みにイラク空軍でも、この作品をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある.ご興味ある方、詳しくは 「JOG(174) 大空のサムライ~坂井三郎」をお読み下さい。今も昔も男の子の夢と言えば、空を飛ぶか海を往くか、宇宙飛行士になるかで・・・結局そのどれにも成れなくて大人になる訳だが・・・ましてや、昭和20年代は、日本人が空を飛ぶ事は禁じられており、飛行機は全て米軍の星のマーク付きの軍用機しか見た事のない折、破れたとは言え、日本人にも、戦闘機乗りの優秀なパイロットがいた事は、誇りですらあった。映画館でたまに戦記映画があり、沖縄の特攻機が墜落すると、溜息があがり、命中すると拍手が起きていた時代だった。そんなに乗ってみたかった飛行機には、昭和31年、小倉・曽根飛行場に民間航路が開通し、当時ダグラスDC3の愛称で、映画「カサブランカ」の飛行場シーンに登場した あの双発飛行機の小倉・曽根飛行場発、第一号機に母親と乗る機会に恵まれたのも忘れられない・・・・(パイロットは米国人だったが・・) 詳しくは後日・・・・。 """"""""""""""""""""""""""""""""""""""話は変わるが、H氏、この7月14日~19日迄、帯広や札幌の友人からの誘いもあり、釧路から空路入り、主に道東地区を中心に旅行予定。・・道中、特段の予定もなく、往復便及び友人が取ってくれた宿泊先以外は全て、いきあたりばったりと言ういい加減な旅で、まだ旅行準備も完全にできていない。従って、20日過ぎまで、PCも持たず書き込みもできないので、暫く休養します。帰りましてから、又旅の思い出話も、写真付きで、する予定。本場のラベンダーの匂いを嗅ぎ、蟹味噌のラーメン食べるのが一番の目的です。 楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 11, 2006
コメント(2)

戦後直後派にとって、どうしてもはずせないマンガ、と云えば手塚治の「鉄腕アトム」。月刊「少年」・・昭和21年光文社創刊・・に(昭和26年4月~昭和43月3月)の間掲載され、毎月読み耽った。単行本でマンガ本も発刊され、貸本屋に大分通ったし、毎号新刊雑誌を買ってもらえる「お宝ぼっちゃん」がいれば、家に通って読ましてもらった。「 21世紀の未来を舞台に、10万馬力のロボット少年・アトムが活躍するSFヒーローマンガです。 2003年4月7日、科学省長官・天馬博士は、交通事故で死んだひとり息子・飛雄(とびお)にそっくりのロボットを、科学省の総力を結集して作りあげました。 天馬博士はそのロボットを息子のように愛しましたが、やがて成長しないことに腹を立て、そのロボットをロボットサーカスに売り飛ばしてしまいます。 サーカスでアトムと名づけられたロボットは、そこで働かされていましたが、新しく科学省長官になったお茶の水博士の努力で、ロボットにも人権が認められるようになり、アトムはようやく自由の身となったのです。・・・」Tezuka Osamu @World -鉄腕アトム[少年版]- より 「少年」には江戸川乱歩作の読み物として「怪人二十面相」を始めとした少年探偵団シリーズも載っており、明智小五郎や小林少年になった積りで読みふけった。同じく手塚治 作で、『リボンの騎士』がありまして、1953年1月号~1956年1月号まで 雑誌、「少女クラブ」に連載され、きれいな絵柄のマンガだったので北隣の家の同級生の「タェチャン」に、他の本と引き換えに見せてもらったりしておりましたが・・・・ 株式会社手塚プロダクション及び Tezuka Osamu @World は著作権上 ■ データ使用の制限や 画像他 掲載がうるさそうなので、各自でイメージするか、ご自分で捜して開いて見てくださいネ・・・。鉄腕アトムがテレビや映画に上映される時分はもう、H氏は中学・高校期になっており、余り見ておりません。しかし、主題歌(作詞:谷川俊太郎、作曲:高井達雄)は良く聞かされ、余談だが、早慶戦ともなれば、早稲田が「ふくちゃん」の大型ボードを、内野席に建てるのに、慶応は「ミッキーマウス」を充てて対抗しているくせに、ブラスバンドでは「鉄腕アトムの主題歌」を吹くので「ウルサイナ~!」 と感じましたが・・・敵味方に別れて聞くから、そう感じていただけかも知れません・・・「フクちゃん」は、横山隆一さん作画にて(昭和11)「朝日新聞」の四コマ漫画の脇役として登場し。 戦後は1956~1971(昭和31~昭和46)「毎日新聞」に掲載され、5,534回連載記録をつくったそうです。 登場人物中、荒熊さん?の学帽を借りて、いつもフクちゃんが活躍する為、いつか早稲田のシンボルとなり、使用権を断らずに使っていた為、そのお詫びとして?横山隆一さんもフクちゃんも、名誉卒業生として、早稲田の名簿に載っているそうで、粋な計らいをするモンだと感心しているが・・・・慶応はミッキーマウスを卒業生扱いしてるのか知らん?・・お金持ちの学校だから、そんな野暮な事せずに、きっちりデイズニープロダクションに契約金払ってるのだろう・・その他の雑誌は「冒険王」が昭和24年創刊、「少年画報」が昭和25年創刊だそうで、この辺りは、学校の宿題そっちのけで、雑誌を読みふけりました・・・・特に小松崎 茂 の ペン画の世界には憧れました。「戦艦大和」や「ゼロ戦とグラマンの空中戦」 や、戦後の絵としては「台風の眼の中に入って観測するB29気象観測機」等は実写さながら・・・ネットで調べると、昭和ロマン館~小松崎茂の世界~ とあり、 小松崎茂 レフグラフ 等クリックすると、懐かしい名画が沢山出てきますね~。更に更に、H氏の故郷の北九州市立美術館 分館で 2006.7.29から2006.9.18 の間に・・・ぼくらの小松崎茂展として開かれるそうで、ポスターをお借りがてら併せ、宣伝させて頂く事とします。 楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 10, 2006
コメント(0)

本来、昭和20年代の年代毎に順番にしようと思っていた話は飛ぶが、このブログを読んで頂いている諸氏は、「カバヤ文庫」というのをご存知?、又はご覧になった事おありでしょうか? 1952年(昭和27年)というから、H氏が小学校4年生の頃だが カバヤ食品のカバヤキャラメルが売り出され、キャラメルの中に点数カードのおまけが付いていた。 点数カードを集めると、童話の絵本(カバヤ文庫)が貰えるというもので、1954年(昭和29年)H氏が6年生まで実施されたそうだ・・・。この「カバヤ文庫」には随分お世話になった。キャラメルを食べて、日本や世界の少年少女向けの本があらまし読めるものだから、当時としては画期的で、H氏にとって非常に有難い存在だった。・・・僅かに貰った小遣いで隣のM商店(八百屋兼駄菓子屋)に通い、随分食べまくっては、本をむさぼり読んだし、隣の家は大体、旧H氏宅の家の内一軒を売った店なので、元々の大家の息子みたいな大きな顔をして出入り自由だったから・・、持って帰るまでは出来なかったが、店に置いてある、見本用のカバヤ文庫まで、そこにへたり込んで読みまくった・・・大いに迷惑しただろうと思うが、そこの処は時効でもあるし、お許しの程を・・・・カバヤ食品は、岡山に本社のある菓子メーカーで、1952年から7年間、カバの胴体を象った宣伝カー"カバ車(しゃ)"を使ったキャンペーンも行うなど、地方に本社を置く製菓会社としては異色の宣伝活動を行っていたし、H氏もその"カバ車(しゃ)"をその店の前に迎えて、大いに感激した思い出がありますが・・・。 (詳しくは カバの宣伝カー をクリック下さい)さて、そこで、どんな内容の本があったか調べてみようとネットで調査していてビックリ!!その本(カバヤマンガブックを含んで全170刊・・・毎週一刊ずつ発行していたそうだ)が岡山県立図書館の尽力によりカバヤ文庫全編としてデジタル化されている事が判り、「同センターのホームページにて公開されており、インターネットを通じてどなたでも閲覧できます。」・・との事で・・・便利な時代になったものです。H氏一人でその情報を留め置くのももったいないので、ご興味ある方は、(ちょっと手続きは要しますが、そこは辛抱して)下記手順にて、開いてみて下さい。先ずカバヤ食品のホームページ カバヤ歴史館 カバヤ文庫 を開いて下さい。『カバヤ文庫』は、カバヤキャラメルのおまけとして登場しました。その第1巻第1号が出たのは、昭和27年8月3日のことでした。『カバヤ文庫』の記念すべき第一号の題名は、『シンデレラひめ』。ペローの作品、「シンデレラひめ」「森の中のねむりひめ」「おやゆびこぞう」の3つのお話が収められていました。以下、昭和29年の第12巻第15号まで、159冊が1週間に一冊のペースで発行されつづけました。まさに、隠れたベストセラーですね。」と書いておりますが、一番下に、下のリンクから「カバヤ文庫」の項目をお選びください。とありデジタル岡山大百科【岡山県立図書館】となっていますが、ページが移動してたりでH氏も探し出すのに、苦労しましたが、要はTOP > 郷土情報ネットワーク > 岡山県立図書館 > カバヤ文庫にて、カバヤぶんこのみかた(DjVu) をクリックし、その要領を辿ります。そうすると、170刊の項目が出てきますので、例えば「40刊め カバヤ児童文庫 第4巻第6号 トム・ソーヤーの昌険 / カバヤ児童文化研究所/編 / 1953 」をクリックすると、40件めのコンテンツが表示され、タイトル カバヤ児童文庫 第4巻第6号 トム・ソーヤーの昌険 とあり、その内、リンク・資源識別子にhttp://djv.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kabaya/bunko/4-6/pageframe.htm とありますので、それを更にクリックします・・・。さあ、なにか出てきましたか?H氏もそこまでやって開かないので、諦めようかと思いましたが・・そこを辛抱して、なにやらをダウンロードせよと書いています。コンテンツが表示されない場合はこちらをご確認ください。(一部コンテンツの閲覧にはプラグインが必要です。)とあり、毒食わば皿までとhttp://www.lizardtech.co.jp/download/djvu/howtoinst.html を開き、DjVu Browser Plug-inをインストールしてみました。その割に簡単にインストールが無料で出来る筈です。さて、その後、さっきのリンク・資源識別子のURLのページを再チャレンジすると、何と!昔懐かしい、「トム・ソーヤーの冒険 」 の本のカラーの表紙はおろか、全67頁が全て見て読む事ができます・。前後の→や←をクリックすると、頁がめくれます。画面のサイズは各々のPCのデスプレイに合わせて調整してみて下さい。H氏も偉そうに云う割りに、まだ一刊も読み切ってはいませんが、これで幼き折、むさぼり読んだ、「カバヤ文庫」のあれこれを、じっくりと、読み直す楽しみができました。皆様も是非、昔の小学生に戻った気分で読み直し、感想など語りあおうではありませんか!・・・とやや興奮気味なH氏ではありました。 楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 9, 2006
コメント(1)

戦後直ぐにH氏の目に止まった本(教科書を含めて、マンガの本や・物語や雑誌)等の話をする積りが、話がそれて大分遠回りになりましたが・・・そんな事で、兄弟の多い家庭に育ったH氏には、戦前からの雑誌やマンガ本が結構ウヨウヨありましたね~4~5歳ですので最初の内は字は読めません。絵面を目で追うばかりですので、ストーリーは殆ど判りません、が、結構見てるだけで言いたい事はわかるものです。その中でも、やはり、「ノラクロ二等兵」は絵に動きもあり、何となく、戦中の兵隊の動きや上下の位階のなかで、縦横に活躍するノラクロには好感がもてました。 ©田河水泡/講談社 http://www5a.biglobe.ne.jp/~norakuro/ より 「のらくろ二等卒」は昭和 6年(1931)」(『少年倶楽部』新年号)より 田河水泡 作画により連載開始し、最初は言葉通り、二等兵から始まり、最後は「大陸開拓偏」で伍長任官の折、掲載雑誌の「少年倶楽部」自体を印刷発行する紙が無くなり、休刊したそうですが、一昨年、埼玉・所沢の11歳年上の長兄が、手術で入院した際、立会い人として何日も自宅に泊りがてら見舞いに行った折、兄の書庫には、仕事関係の本の間にその「ノラクロ」単行本のマンガシリーズが納まっており、H氏らの年代より、一回り上の「昭和一ケタ世代」には、忘れられぬ、バイブルであったことが窺えます。「冒険ダン吉」も『少年倶楽部』に1933年6月より39年7月まで連載された絵物語で、腰蓑をつけて冠を就け、南洋の王様になる話。 http://www.catnet.ne.jp/srys/e-poem-lib/simizutetuo/dankiti.html よりその他、『コグマのコロスケ』、『日の丸旗之助』、『タンクタンクロー』など、マンガの絵面は大概、歳上の兄弟の持っていた本を片端から「拾い読み?拾い見!?」で歳の割りに末っ子の特徴で上の兄弟と話を合わせる為、小さいながら、疑似体験的に、目に留めていましたが・・・。楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 9, 2006
コメント(2)

本来、母は、日赤の看護婦、親父の親父が気に入って息子の嫁にさせた訳で、付き添い看護婦としては申し分ない筈。当時にても、水で薄めた闇の不良品は兎も角、「第三の男」で有名なペニシリンや特効薬ストレプトマイシンでも手に入り、豊富な栄養食でも食べられる時代なら今少し、持ち直していたかもしれない。 親父が亡くなったのが、昭和21年9月、それより3ヶ月前の6月の蒸し暑い土曜日、かくいうH氏が先にお陀仏になるところだったというお話。その日、3歳のH氏は、友達と近くの溜め池に、蛙取り遊びにでかけました。その頃は戦時中に作った例のバケツリレーの延焼防火用の溜池が結構あちこちあったのでしょう、囲いもなにもありませんし、夏ともなれば蛙がゲコゲコ鳴き、子供心に捕まえたい一心で、網でも持ってたのでしょうが、池の縁が前夜の雨でぬかるんで、つるりとすべったのか、あっと言う間に水の中・・・記憶は水の中から上を向いていたのか・・「水面に映えるお日さんの中に母の顔」・・気がついた時は布団に寝かされ、すぐ上の5ツになる丸刈り頭の三男の兄が、上がりかまちから気後れして、部屋に上がられもせず、シクシクとベソかいていたのを覚えておりますが・・・・実際は大変だったようで、H氏が池に嵌ったのを見ていた、近くの大きい子・・名前はわすれましたが、何でも渾名が「警防団」だったとおもいますが・・その子がウチに走りこみ、事の次第を告げてくれたから良かったようなものの、即ちに母が溜め池に行きましたが、沈んでしまって見えません。運良く土曜日で11歳上の長男が中学から早めに帰っておりましたもので、直ぐに池に飛び込み、足で探して、沈んでいたH氏を救い上げ、母親に渡しましたが、おろがきてた母がうろうろしてると近くから、どこぞの小母さんが「何しよんかね!はよ病院へ連れていかんかね!」とどなり上げられ、はっと気ずいて一目散、その時何を思ったのか、母はH氏をまっ逆さまに足を持って走ってゆく途中で、「ひゅう~」と息をして水を吐き出したそうで・・・ついて走ってきていた長男に、布団を敷いて家で待って於く様に指示し、まずは例の脱臼して怪我した長女を長いこと待たしたU医院(近くにはそこしかないので・・)で手当てし、やっとの思いで連れて帰ってきたとか・・・その際、離れの押入れにあった湯たんぽを、寝ている父に見つからぬ様に、後ろ手でそっと持っていく際、見つかって「何や!どうした?」「ううんちょっと」と弁解しながら持っていった母の顔が、かなりひきつっていて、後で父が「おかしいと思ったワイ」と言っていたとの事で・・・強運はその時以来ついたのだろうと思いますが、人間、生き残る事は難しく、大人に成るまで、子供は不注意で死ぬる機会は何べんでもあったもんですな~楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 8, 2006
コメント(0)

大体その頃の近所の子供達を見ても、貧乏人の子沢山というか、兄弟は四五人は普通で、六七人も珍しくも何ともなかった。する事もなかったからと切捨てるのも、親達には悪いが、現在の少子化と比較し、劣悪だった生活環境からみて、余りそれが良すぎても、種族保存繁栄には適しないのかも判らない、戦前の「生めよ増やせよ」の言葉は知ってるが、実際の雰囲気は良く判らない。むしろ生きれる、というか、生き残る確率が悪いので、種の保存、DNAの命により、沢山産んでおけ・・となったのか・・と無責任な事を書いている・・・・病気、その他で産まれた兄弟の数より、育ちきった数が少ない例は多々あるが、現実に、H氏の兄弟も、その内の一例かも・・・但し、H氏の母親には、やや過酷過ぎた例かも知れないが・・H氏より、11歳年上で昭和6年生まれが長兄で、直ぐ一つ下に長女がいた。活発なおてんば娘だったらしく、近所の人気も高かった様だ。年子の女の子でもあり、結果的に、次々と生まれてくる兄弟の子守を何度も良くさせられていたらしい。H氏の産まれる昭和17年の折は、小学4年生だから遊びたい盛り。しかし身重の母親にとっては、役に立つので、宛にするが、そこは子供の事とて「また子守せなならん、嫌やな~」と、近くの子と放課後の学校に行き、鉄棒遊びをしていたらしい・・・・緊急連絡はなぜか相当時間がたってからはいったらしいが、母親が病院に駆けつけてみると、まだ診察も受けられずにいたそうだ・・・鉄棒を掴みそこねて、脱臼し、かなり出血していたのに、付き添いの小学校の女先生もおろおろするばかりで、医師に、強くも言い切れなかったのか、医師も不在か多忙だったのか・・・・それが原因で、長女は、一遍に弱り、又栄養食をたんまり取れた時代でもなく、夏休みに入ってからも、寝てばかりで・・・身重の母親も、面倒を見ようにも、自分も大変な体で・・そんな7月28日早朝、H氏が「おぎゃあ~」と産まれてきた訳で、当然、家はひっくり返り、離れに寝かせられていたその長女は、二つ年下の小2の妹が昼間折々覗くときだけ目を開けるだけだったようで「また産まれたよ! 男の子だって」と次女が報告にゆくと手を合せ「赤ちゃんごめんね」といっていたそうです。「どうして?」と聞くと「だって私が子守するの嫌だと思ったばかりに罰があったって、こんな怪我をしたんで・・」といって、何度も「ごめんね」とあやまってたそうです。当時小2だった次女の姉も、当時を振り返って、いつも悔やみました。「あの時私がもっとお母さんがわりに面倒みてあげられていたら・・・」「弱っていたのは判っていても、お母さんも赤ちゃん産んだばかりで、相談できないし、まさか死ぬほどなんて・・・」次女も実際どうしたらいいのか・・困り果てていたのでしょう。そしてこんなうわごとをその折長女は言っていた・・と後から母が次女から聞いて泣き崩れていたそうです。「わたし、もう少しこのきれいなお花畑でお花つんでいたいの・・だから待っててね!あっ待って!お地蔵さん待って!わたしを置いてゆかないで!そのきれいな馬車に乗せてって!」本家が赤ちゃんの事でひっくり返っていて皆の注意が漏れて、真空地帯になっていた誰もいない暗い離れで誰にみとられる事もなく、その夜、小4の長女は息を引き取りました。まるで、産まれてきた赤ちゃんの身代わりの如く・・・・親戚の叔母さんたちも含め、翌日以降お見舞い兼お悔やみに訪ねてきた近所の人は、「この度は・・」といったきり「おめでとう」とも「ご愁傷さま」とも言えず大変困ったでしょう・・H氏の母親はよく気丈に、それを乗り切ったことだと感心しますが・・・・、従って、大きくなっても、本来H氏の誕生日祝いをしてもらえるその日には、必ず坊主が家に来て「南無ナムナム・・」と拝む日でもあり、またひとしきり母親が「あの子が生きていたら・・」と死んだ子の歳を数えるのにつきあわねばならず、「えらい損」な気分のままの毎度の誕生日のH氏ではありましたが・・・その時の戸籍謄本は親父により当然長女の死亡届けは即提出されており、お七夜も大分過ぎてからH氏の出生届けが出されている。親父のその時の心境も聞いてみたかったが、それも、昭和21年秋には旅立っているため、その折がない・・敗戦直後の事だし、例により栄養食などもなく、胸を患っていた訳で、離れに一人寝ていた親父に「近寄るな!」と厳重に止められていたH氏の親父の記憶は、離れの庭の手前のお風呂場の角より、顔だけ出して覗くと、一人寝ていた親父が半身に起き上がり、丸いとんぼめがね越しににっこり笑っていた三歳前後のその記憶しかない。楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 8, 2006
コメント(0)

その頃見た、記憶にある懐かしい映画の話は沢山あるが、今後Blogで話題が思い浮かばない折の為に取っておくとして目に止まった本(教科書を含めて、マンガの本や・物語や雑誌)等の話に移りましましょう。幸か不幸か、5人兄弟の末っ子なので、その気になれば、小学校に入る前でも彼らの教科書から、借りてきた本まで、なんでも目に入りました。うっすらと覚えているのは、逆算してみて、昭和22年、2つ違いの兄が小学校に入る頃、その又上やもう少し上の兄や姉から、手ほどきを受けながら筆を持ち、なにやら教科書らしい本の上の、指摘された行や絵を、一生懸命、墨で塗りつぶしておりました・・・どうせ、兄や姉のお下がりの教科書だったのでしょう、指導する年上の兄弟も、本人もぶつぶつ言いながらの作業でした。「何やってるん?」と覗きにいくと、「邪魔だからあっちにいきなさい!」と姉の声が飛びます、どうせ掻き回して、墨つぼひっくり返されでもしたらとおもったのでしょうね・・。後で思えば、戦前教育の不都合な「忠君愛国的」とか、そんな部分を塗り消してたのでしょう、小学校一年生からそんな難しい事教えていたのかどうかは知りませんが子供心に「何しとんやろ~な~?」と部屋の入り口で興味津々のぞいておりましたが・・・勿論まだ読めませんが、日の丸の飛行機や、子供の旗振りの見送りの絵や、或は「桜井の子別れ」絵などは、墨で消せば消すほど、その後で子供ながら、透かして見てた覚えがあります。長兄は11歳年上、当時で小倉中学の4年生ですから、我が家では既に家長扱い。命令一過、「家の中を走るな!」と叱られれば、例え空中を飛んでいても、そのままの姿勢でピタッと止まらねばならぬ程、、恐ろしき存在でした。或る時、長兄が兄弟を集めてのお勉強会で・・得意げに学校で習ったばかりの難しい話をしています。どうやら社会科の話。「産業には三つあるが、△△△と△△△と△△△とある、え~か、二度と言わんからしっかり覚えとけ、それでは△△△は農業、△△△は工業、あと一つは何やったか言うてみい」他の兄弟は黙して語らず・・・。処が一番小さいH氏は最後の△△△に聞き覚えがありました。その頃ラジオは明るいギャグや、物真似がおおはやり、なかでも松井翠声の代役でデビューし一躍人気者になり、ちょび髭はやしたトニー谷が「おこんばんわ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」「ザンス、ザンス、サイザンズ」と算盤をリズム楽器にして一躍人気者になり、最後の落しどころは「ギョギョ~!」といって引き込みます。 その「ギョギョ!」に似た言葉やな~とだけ聞こえていましたので、部屋の隅から長兄におそるおそる「あの~ギョ ギョギョ~?」と伺いをたててみましたら「そうじゃ、漁業じゃ、お前、中々物覚えええな!」とその時初めて、怖い長兄にほめてもらいました。人間何でも、小さい時におだてて褒めてみるもので、それから、結構、お勉強が好きになった様な気がしますがね・・・。上の兄弟が下の子に知ったかぶりの勉強会はちょいちょいありました。例えば世界地図を広げて、「この両端に同じ名前の島グリーンランドがあるのは何故か?」「世界の端と端に二つ似たような形の島があったから?」するとポカリ「正月の初日の出と平日の日の出との差はあるかないか?」「初日の出は日差しが強いから日の光の数が多い?」するとポカリと叩かれます。だからH氏はいまだに、ラジオやテレビのクイズ番組が嫌いです・・・楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 7, 2006
コメント(0)
7月6日朝より腰痛予感にて不快感あり、主に本日静養予定とするも、果たして??昼前、某得意先より神戸方面タクシーのリアーウインドウ用に昨日正式受注した インキジェット方式のブラインドステッカー、サンプル印刷仕上がり連絡あり・・流石にオンデマンド方式印刷のスピードに驚嘆!仕上がり具合チェックが気になり、急遽、営業活動開始・・印刷加工メーカーにて引取り、得意先購買窓口に提出、(・・通常のシルク方式ならここまでで通常1weekかかる・・)先社窓口もびっくり、神戸営業所に発送依頼し、結論急ぐ様督促、にて本日業務終了。即ちに帰路につき、気になる腰痛治療、(以前の様に、友人の整形外科医が昨年、急死しなければ今頃はこんな苦労せずとも・・とぼやきつつ)地元整形外科にかんぱん頼りに飛び込み、筋肉注射・・まずまずの腕前に安心。帰宅し、作業着を脱ぎクールビズ。徒歩にて駅へ、指定時間に大阪・キタ「高校同期の飲み会」会場到着。歓談。例により、ざっくばらんに盛り上がり、清談・快談わいわいやってる合間に今月末予定の、「昨年の同期某君の慰霊献花・・敦賀の旅」出発段取り最終打ち合わせ・・ついでに出席のT歯科医に治療日予約と久し振りに出席のF小児科女医に、来初春予定の娘のおめでた予定報告、嫁ぎ先が近いので、以降のフォローをはやばやと予約依頼、も一つおまけに、某道路会社会長氏と、先の当方PR製品のフォローも依頼快諾。気分が良いので腰痛も忘れ居残り三名で二次会に繰り出し、カラオケ後、O教授と方向が一緒の為、電車帰宅。短い車中談にてお互いの健康とご家庭円満情報交換、結局深夜帰宅となった。
July 7, 2006
コメント(0)

肝心要のごっこ遊びを二つも書き漏らしていました。何といっても、ちゃんばらごっこ・・当然、映画の影響です。「鞍馬天狗」・・と言えば嵐寛寿郎。 杉作の初代はひばりちゃんではなく、松島とも子さんだったそうで、憎々しげな悪人に捕まり「天狗のおじちゃん助けて~」と叫べばアラカンこと鞍馬天狗が細面に頭巾を被り、白馬に跨って「杉作待っているんだぞ~」と人馬一体走り出すと、もう場内は嵐のごとき大拍手!(繰り返し々々その場面が出てくると、多少まばらになりますが・・)ばったばったと悪人どもを切り払い、助けた杉作を鞍の前に乗せ、空を見上げ、「杉作、日本の夜明けは近い!」・・という設定。只見の屋外映画会か、正規の映画館でみたのかは覚えていませんが、見終わった折は、もう完全に勤皇の志士を助ける、天狗気分、廻りの子は全て、新撰組に見えており、とりあえず、そこらにある棒を腰に差し、寄らば切るぞ!の構え・・次の日、早速、「観音さん」のお寺の茂みに入り、遊び仲間と適当な枝を折り、習い覚えたばかりの小刀を使い、枝の根元部分はそのままにして刀の部分の皮をはぎ、見てきたばかりのシーンの再現で、チャンチャンバラバラの始まりです。誰に教わったのか、風呂敷を半分に畳み、その間に顔を突っ込み、余り布を後ろで縛れば、頭巾のできあがり、てんでに自分が主役の鞍馬天狗ですのでなかなか収まりがつきません。切られ方の得意な子もいて、派手にもがいてばったと倒れます。主役は腰に刀を納める仕草まできっちりと仕上げねばなりません。もう一人の主役もいます。片目片腕の「丹下左膳」・・大河内伝次郎です。 この俳優の台詞廻しも独特でした。この真似にも頭巾が登場します。なるべく白っぽい風呂敷が必要です。けれど、片腕で刀を抜き、片目をつむり、振り回すのは、結構難しいので、やはり、鞍馬天狗に、皆なりたがりました。そんなこんなで日も暮れた、その翌日朝から、自分の顔や手が、かゆくてたまらず、目元など、妙にはれ上がり、異常に気がついた母に油揚げを塗ってもらいます。そうなんです、昨日枝を剥いて、白刃にした木は「はぜの木」だったのです・・はぜに負けると、特に昨日の大立ち回りで汗をかいた後ですので、かゆくてたまりません。結局、昨日参加した、遊び仲間の子供全員が同じ状態で、暫くは近所の大人たちからの大笑いの対象となり、皆はぜに負けてふくれあがった顔でしょげかえっておりましたが・・・それに負けず劣らずは 西部劇ごっこ ・・やはり、主役はジョンウエインでしょう できれば二挺拳銃があれば、なを結構 これも適当な二股の枝から、小刀で切り出します。バンドのない子は取りあえずはズボンのゴムひもに挿して登場します。あちらの軒先やこちらの井戸の影から口々に「バン・ババン!」と叫びつつ、すばやく移動します。最後は決闘です。適当な距離で向かい合い、真剣に睨みどちらかが腰をひねるや、すばやく・・といってもくちの方だけ先に「ババン!」といって、拳銃を打ちますが相手はなかなか倒れてくれませんね・・。本物の映画「駅馬車」はたしか小学校2年か3年時分(昭和26~7年頃)に小倉・馬借町にあった「大洋劇場」にその頃勤めに出たばかりの次男の兄貴に連れられて見に行きました。幼いながら、最高に感激しました。・・今思えば、勿論その後も何度も見ているのでどこがといわれれば、その時は「なんでインディアンに襲われて逃げる馬車の車輪が逆回転して見えるのか?」が一番不思議でしたが・・・フイルム繋ぐ間、時々、技師の腕前や、あるいはフィルムを積んで走る自転車の到着が遅れると、館内に電気が灯り、盛り上がったシーンの後など、暫くざわざわします。館内は今と違い、凄いタバコの煙です。隣の見知らぬおっちゃんが話しかけてきました「ど~や僕!」ふりむくと「い~映画やろ!」「うん」「わし戦前見たんやけどな~、又見れるとおもわんやったちゃ・・・」・・と戦中どんな苦労をしたのか、そのおっちゃんがしみじみとうれしそうに話しかけてきました。楽天ブログランキング絵柄をポチッと押してね!
July 5, 2006
コメント(0)

くどいとは思うが、戦後直ぐの子供の遊びの続き・・・パッチン ・・・とは、その競技の際の擬音を拾ってつけたと思うが、そのメンコを順番にお互いに板の間に叩きつけ、相手のメンコの近くでパッチンと叩き、その風圧で引っくり返すと勝ちで、そのメンコを頂くゲームチックン(又はチクイッチン)・・とはメンコをお互いに同じ高さだけ出し合って積み上げ、その横合いから達磨落しよろしく、自分でニス等を塗り上げて手入れした、自慢のエースカードで、一枚だけはじき出すゲーム。山済みメンコの適当な高さに検討を着けて鋭く差し込まないと、メンコの山が崩れたり、二枚以上出したりすれば、交代となり、旨く抜き出せないので、皆真剣に技術を磨いた。先に出した人が、その一山ごっそりと自分のモノになるので、名人になるにはエースカードの角の鋭さの手入れには皆真剣にやったものだ・・、勝つと、自分の引き出し一杯にメンコが溜まり、豊かな気分になれるが、もっと上手い奴から、挑まれると、あっというまに、空っ欠にやられてベソをかく・・、隣町の知らないグループにまで、よく同じ町内の仲間と武者修行気分で出かけて競った。インキョ・・とは隠居という意味かどうか迄はわからない。ビー玉を使った、ボーリングに似た処もあるゲームで、地面に適当に何箇所も穴を掘り手で距離を測りつつ、順番にその穴に入れてゆき、天に当たる穴に入れた後、初めて一種の成金状態(インキョ)となり、以降相手のまだ天に至らぬビー玉めがけて攻撃し、それに当てて弾き飛ばすと、自分のモノになるルール。小さい子は、そのルールが理解できず、取り上げると泣いて帰り、往生したものだ。コマ廻し・・お手製もあったと思うが、自分で屈強な芯を打ち、その芯を中心に、紐を巻きつけ、じゃんけんに負け、先に廻っている相手にぶっつけてはじきとばし、なを、自分の独楽は廻り続けていれば勝ち、なかにはその力と地面の具合で、打ちつけた相手の独楽の芯が地面にめり込み、止まってしまう場合もあって、その快感に酔ったものだが、逆に、そんな力で、自分の独楽が真っ二つに割られて情けない気分で帰ることもあった。・・まあ男の子らしい遊びだ。ごっこ遊びの典型はターザンごっこ・・その頃アメリカ映画の、ジョニーワイズミューラー演ずるターザンが大人気で木の枝に登り、独特の掛け声「ア~ア~ア~」と叫び、縄にぶら下がって、木から木を渡れば、すっかりその気のターザン気分、近くの「観音さん」と呼ばれたお寺に適当な茂みがあり、当時は子供心に、結構高い木の枝から枝に渡った積もりだが、大人になって見てみれば、精々1~2mあったかどうか・・その木に縄で巣を作り、「お前は小さいからチーター」等と役も決め、日がな木の上で遊び回っては、和尚さんから叱られたりしたが一向に平気だった。今なら、先ず母親がすっ飛んできて、「ぼーや、お願いだからじっとしてなさい!」と泣き叫び、おまわりさんでも、呼んで、はしごで、そっと、地面に抱きかかえて降ろしていただろう。昔の親は、そんな事に無関心で、精々落ちて顔を擦り剥こうが、肩でも脱臼しようが、平気で、「自分で骨接ぎにでも行って治してこい!」位の放任だったし、又子供にかまう程の余裕もなく、日々の暮しに追われていたのだろう・・・。どちらが良いといわれれば、当然昔は良かった・・・女の子の遊びは余りルール等は知らないが、お手玉遊び(オジャミとも云う)や、輪ゴムを繋いだ紐に先ず片足を乗せ、なにやら呪文か唄をうたいつつ、交互に片足を乗せて、飛ぶでもなく遊んでいた。どなたかルール他知っていたら、書き込み願いたいが、なにせ当時から照れ屋のH氏は、それ以上女の子に近づいて遊ぼうとも、教わろうとも思わなかった。唄だけは少々覚えているが・・・正規の唄は「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて 世の 行く末をつくづくと 忍ぶ鎧(よろい)の袖(そで)の上(え)に 散るは涙かはた露か」おじゃみの唄は「あおば茂ちゃん昨日は、色々お世話になりました。わたくし今度の日曜日、とうきょの女学校に参ります、・・・・(途中亡れ)・・・ごきげんよろしくさようなら」だったと思うがいい加減なもので、途中失念してしまった。楽天ブログランキング絵柄をプチッとクリックしてね
July 4, 2006
コメント(0)

戦後直ぐの頃の子供の遊びは道具らしいものは何もなく、近所の子供達で大勢が寄って、道具いらずで遊ぶ事が多く、それはそれで結構楽しかった。現在その遊びがどの程度伝えられているのか、興味あるので、何方か教えて欲しいものだが・・・ニクダン・・・肉弾 と書くのだろう・・当然、戦中からの遊びだろうが、要は陣取りゲームの一種まずは、仲間の内、リーダーが、地面に、拾ってきた釘か棒で大きく内円として線を一筆で描き、適当な位置に入り口を描く。次に、その入り口より一番遠い位置の外側を入り口として、内線とつかず離れずの距離にはなびら状に描く、つかず離れずの訳は、外チームは内外の間を通路とし、内チームが内線から手の届く範囲で、通行の邪魔をし、外線より外へ、押し出し、線外に出てしまうと、そのゲームの参加資格を失う。途中のはなびら状の場所に居る際は、手が届かず、一種の休憩場所である。内チームの隙を見て、花びら状の場所を移動し、内線の入り口から、中へ突入し、今度は取っ組み合いとなり、内チームの一人一人を内線の外へ突き出してしまい内チーム全員を突き出してしまえば、外チームの勝ちとなる。途中、内外チーム同士で手を引き合い、小競り合いしながら線を跨がせるルールもある、勿論それで負けた方は戦力外となる。拮抗した体つき同士だと、すばしこいほど有利だが、なかには、一人だけでも、学年違いで、背が大きい子や体重のある子がいると有利になるが、そういう相手が細い通路を移動中二三人がかりで、同時に突撃し、線外覚悟で突き出してしまうと、大歓声があがり、俄然盛り上がる。ノーマークの小さい子は、すばやく移動して、中に入りこみ、通路方面にばかり気を取られている、内チームの足など取って線外にころばすと、これも、大戦果となって、歓声があがる。冬場などはこれで数時間、戦うと、結構汗をかくほど温まって、楽しかった。ケリウマ・・・蹴り馬と書く二チームに分かれて、リーダー(親)同士がじゃんけんし、負けたチームは太い木か、建物に親が背もたれし、子にあたるその他大勢は親の腰辺りを捕まえて、順番に背をむけて、人数によっては長い馬の背となる。勝ったほうのチームはその馬の背に勢いをつけて飛び乗り、特に弱そうな子の背中で暴れると、堪らず手を離し、崩れると、そのチームの負けで、その時の負け親が次には一番最後列の馬の背となる。勿論、飛び乗ってこようとする相手を邪魔しようと、各自はてんでに、支えている足を使い、蹴ってくるので、小さい子供が飛び乗るには少し勇気がいる。それでも、ゆれる馬の背にうまく乗れた時の快感で、蹴る足の合間を見て果敢に飛び乗る。勿論振り落とされれば、戦力外で乗り込むチームを全員振り落とすか、又は馬の背チームが崩れおちるかの決着がつくまで指を咥えて待つ。これも寒い冬の屋外の遊びで、親の頭と胴に当たる子と、飛び乗る側の、最低三人でも、出来るゲームで、結構温まる。釘取り合戦・・、戦後どこぞの建物やバラック建ての現場で拾ってきた、五寸釘を手に、地面にうまく突き刺すと、相手はその近くに叩きつけるように同様に釘を鎖す。その勢いで相手の釘が倒れれば、勝ち。負けた方はその釘は相手に取り上げられる。一回で倒すのは、距離感、力加減があり、中々要領がいる。倒されてない場合は自分の釘をそっと抜き、相手の釘の方向など見極めて、又打ち付ける、結構難しいが、相手の手持ちの釘がなくなるまでやる。その他、ターザンごっこ・等一種の木登りゲームやパッチン・チックン・等、分厚い馬糞紙に印刷したカードを使って遊ぶゲーム、インキョ・ラムネ等ビー玉を使うゲームなどあり、考えてみれば、日本の子供は結構手先の器用さを養うゲームを小さい頃からやって、戦後のモノ作りの手先の器用さの基礎をなす遊びを、主に屋外で大した道具も使わずやっていた。多少道具らしいものを使うとすれば、車輪廻し、・・自転車の内り輪の輪を、棒で押しつつ、廻し、何処まで遠くに倒れずに続けられるか競うゲームや、布で縫って出来たボールと、最低でも適当なバット状の棒切れがあれば出来た、万一バットが無くても、手の指を、外々に編んで、手の平をボールに当てて少しでも遠くへ飛ばし、角の電柱などを利用した三角ベース野球etc.兎に角、外で、仲間と大勢で遊ぶ事が多かった。現在の子供の遊びの電子ゲームや同じく貧しい国でもはやっている、現在の屋外主流ゲームのサッカー(ボール蹴り遊び)などは、そんなルールもゲームも見たことも聞いた事もなかった。日本人の現在の年寄りにはやはり野球遊びがDNAに植え付けられた世界に通用する競技だろう・・・。この回では終わりそうにないし、見聞きした女の子の遊びも取り上げてみたいので、又続編を書く積もりだが、お若い読者には興味ね~だろうな!、年寄りはインターネット等見にも来れない人が多く、当然アクセスはどんどん細るが、ブログ等起して書き込む等めっそうもないとお思いの同年代の人に代わり、戦後直ぐの遊びの面白さを、若き世代にも伝えておきたいと思う、今日この頃です・・・。 blogランキングへ楽天ブログランキング
July 4, 2006
コメント(0)

昭和20年代の子供の遊びや娯楽といえば、先ず「紙芝居」だった。戦闘帽を被ったおっちゃんが各町内を巡ってきて、大体同じ時刻に、町内の同じ場所に自転車を止めると、待ちかねた、要領の良い子が、おっちゃんから拍子木を奪い取り、カチッカチッと鳴らして廻る。小さい子はそれにもついてゆき、代わりに打たしてもらう・・まもなく、大勢の洟垂れ小僧どもが、確か3円か5円だったと思うが、皆、手に握り締めて集まるか、金のない子は遠くの高い木や塀の上に登って見るかだが・・おっちゃんは順番に弁当箱の水飴を二本の短い箸に巻きつけて金を受け取りながら渡す・・・その頃、町内を拍子木を叩いて一周してきた子にも、最後に飴を渡し、只で見せてやる訳だ。おもむろに、自転車の荷台の上の紙芝居の台を立ち上げ、前日、胴元から借りてきた紙芝居の講釈を始める。演題は「三本指の蝙蝠男」とか「怪傑黒頭巾」とか、なかには軽い「恋愛モノ」もあって、ご近所のおっちゃん・叔母ちゃんも見に来ていた。子供達は貰った飴を、二本の棒で器用に真っ白に成る程良く練り上げて、食べるとうまいといわれ、(要は少量を長持ちさせる時間稼ぎだろう・・)ぺろぺろ舐めながら、鼻水すすりあげて、紙芝居に見入っていた。中には器用な紙芝居屋もいて、大正琴の演奏付きでしゃべるおっちゃん等は中々人気があった。少し大きい子は、終わった後も、紙芝居屋を捕まえて、中々帰らそうとせず、おっちゃんの、戦争中の自慢話を聞きだすのを楽しみにしていた。おっちゃんも、売り上げが見込みより、多い日はご機嫌で、よく付き合って話しをしてくれた。「わしが特攻隊から生きて帰れたのはのはじゃな」「ふんふん」「要領じゃ、要領」「へえ~どんなん?」「いざ出撃するとじゃな~」「ふんふん」「エンジンが調子悪いゆうてバンフして(翼を振って)隊列離れ、いかにも具合悪そうにエンジン絞って低空に落とし、頃合をみて引き返してくるんじゃよ」「ふ~ん!」「それとか、敵機が現われると、急上昇して戦場を離れ、上から、高みの見物して帰ってきたりするんじゃ」「・・・」「死んだら何~もならんけな~」と、嘘か本当か知れねども、そんな話で煙に巻いて、その又続きは明日々々」と次の町へ自転車漕いで出かけて行きよりましたが・・・・次に大の楽しみと云えば、新聞社がやる、無料ニュース映画の夕べ・・小学校でどこそこでやるらしいと、聞き込んできた、年上の子に、時には別の小学校区まで一緒に連いてゆき昼間から、竿竹に映写幕を立てたり、スピーカー引き回したり準備しているのを飽きずに待ち、いよいよ日が落ちて暗くなる時分になると、布袋から映画フィルムを取り出し、カーバイトの明かりを頼りにフィルムを取りつけ、街灯から引き込んだ電線に繋ぎ、ジーカタカタカタと廻りだすころには、もう廻りは「ひとやまのくろだかり・・・黒山の人だかり」「こら!前の奴、座らんかい!」「見えんやないか」とか、怒声が暫く続くが、そのうち、トーキーのくぐもった声がしゃべり始め、一昔も前のニュースに引き込まれて皆静かに見入る訳だ・・・お金を払って映画館に見に行くのは、母親と行くか正月に兄弟に連れていってもらうか、もっと高学年になって大きくなってからの事だった blogランキングへ楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 3, 2006
コメント(0)

子供の事だから、当然、乗り物には興味がある。当時は、まだ馬車・・といっても、荷物運搬用で、人間が押す大八車より、やや大振りだった気がするし、車輪にも、ゴムタイヤだったと思う。 (昭和20年8月8日(水)毎日新聞よりscan・劫火から芽をふく銀座の柳下をゆく馬車,この日の新聞一面には,B29 廣島に新爆弾、落下傘付き、空中で破裂、相当の被害生ず・と掲載されている)うちの近くになぜか、その馬車の荷車があり、数軒隣の特攻隊帰りのお兄さんが、落下傘の絹で出来た白いマフラーなびかせて、それに凭れていた構図を思い出す。小倉の白銀町辺りに、蹄鉄屋さん・・馬の足に嵌める馬蹄を、ハンマーで器用に叩いて、釘を口に含んで馬の足に打ち込んでいたのを、飽きずに眺めていた。次に多かったのは、輪タク屋(うちの近くにあったが確か「黒猫りんタク」という名前だった)・・2~3名乗りで、大体、進駐軍の兵隊と、所謂 娼婦(・・パンパンと呼んでいたが・・)の相乗りが多かった。 (JR門司港駅に展示中の輪タク)余談だが、彼女らは、当時のしょぼくれた日本の男達より、余程度胸があった。英語など使えずとも、適当な英語らしい発音で、日本語をしゃべり、金や煙草等の品物を稼いでいた。輪タク屋のニイチャンと兵隊の間の料金の通訳で、「ア~ ウオマチ(魚町) ネ?」「キャンデー NO ネ?」「 シガレット OK ネ?」 てな言葉で自由にデレデレの彼らを操っていたが・・・この位の英語なら、横で聞いている子供でも判ったが・・・何といっても、子供達に人気は、進駐軍の乗り回すジープが格好よかった。時折兵隊が、ガムや御菓子を播くことがあり、子供達は「ギムミーチューイングガム!ギムミーチョコレート!」と群がり、訳知りの旧制中学に行っていた、11歳年上の兄貴からは、「そんな乞食の真似をするな!」と随分叱られたことだった。 (残念ながら、この写真はプラモデルです・・・・・)それでも彼らの運転マナーは良いほうで、舗装道路などない町中に、雨で出来た窪みに水が溜まり、それを跳ね上げて走ってくるので、若い女性が驚いて固まって居ると、ゆっくりと水溜りの前で止まり、にっこり笑って、「プリーズ、どうぞ」等とレデイファースト振りを発揮するものだから、大体、若い女性は、無愛想な日本人より、ハンサムな進駐軍にすぐ憧れたものだ・・・と幼いH氏なりに観察していたが・・・。接収された山田の弾薬庫の山の斜面を、ジープは今で云う4駆だったのか、自在に上り下りしていたのは、本当にアメリカさんの実力の凄さに驚いて見ていた。それに、時折、進駐軍の接収した、造兵廠と、山田の弾薬庫に通じる道を徒歩で一個小隊のアメリカ軍人が通ったりすると、こわごわ遠巻きで眺めたりしていたがそんな或るとき、少しだけ年上の僕が「クロンボ!」と叫ぶと、いきなり黒人兵士がそれを聞きとがめ、拳銃を抜いて、逃げる子供を寺の境内まで追いかけた・・事なきを得たが一時はどうなるかと、肝を冷やした。 その連絡道が雨で凸凹になると、当時初めてみた、米軍のブルトーザーで、削り、道を馴らしてしまうのも驚きだった。なにしろ、昭和24年に始まった、朝鮮戦争用に、数々の弾薬とともに、ナパーム弾などを、弾薬庫から四六時中運び出し、我が家の軒先を、じゃんじゃん通過していた訳だろう・・母親と長い時間並んで待ってやっと乗れたのは、白い車体のいすず自動車製の西鉄バス。ガソリン等潤沢に無い為、後ろに、窯を乗せて木炭を焚いて走る、「木炭バス」。兎に角、動くだけでも大したモンだった。それと西鉄のチンチン電車。八幡黒崎に住む親戚を訪ねて行く時には乗ったが、車窓からみる八幡中央町あたりは小倉と違って、一面焼け野が原で、皿倉山の麓まで、建物らしいものは殆どなく無残な敗戦の印象が今でも目に浮かぶ・・・。めったにないことだが、大分の親戚に行く時は、日豊本線の蒸気機関車の引くオンボロ列車に乗って行った。途中の大分 宇佐駅あたりは、旧日本軍の海軍航空隊基地があったが、傾いた鉄骨の格納庫の間に、」焼け焦げた、軍用機が断末魔の状態で主翼を空に突き上げていたのを、しっかり目に留めた事だった。間もなく、米軍が整備して飛行場にしたのか、昭和24頃には、朝鮮に出撃するジェット戦闘機の基地になったが、その頃、新制中学校と同居して校舎の足りない小学校で、二部授業の為、早めに帰宅する際、南小倉駅の線路沿いに歩いていると、突然、音も無く地上すれすれのジェット戦闘機が頭上を過ぎて行き、通り過ぎると同時に爆音が響き渡り、「なるほど音より早い飛行機だ」と腰を抜かす程驚いたのも今となっては忘れられない出来事だった。 (Lockeed F94c Starfire)これも余談だが、当時、小倉-宇佐間には米軍専用列車が走っていた。日本人で溢れんばかり混み合う三等車両列車と違い、車両は全て、一等車両で、将校らがゆったり座り、優雅に窓の外を眺めていた。かれらはこの列車に乗るのをとても喜んでいる様だった、何故なら、行き先プレートには「宇佐行き」と日本語で書く処を、英文で[For to USA]、と書いていたから・・・・ blogランキングへ楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 3, 2006
コメント(0)

昭和20年8月15日の玉音放送により、価値観のガラリと変わった戦後の生活が始まりました。H家には出征兵士もおらず、引揚者でもなく、空襲で吹き飛んだわけでもなく、家も二軒残り、親子と5人兄弟仲良く、無事暮らしておりました。親父は戦後すぐ過労でなくなりましたが、戦死などで父親のいない家庭も多く、子供達は親にかまってもらえぬ分だけ徒党を組み、遊び道具などは、自分たちで木を削って、ちゃんばらごっこや、ターザン遊びと、それこそ日の暮れるまで皆で田畑や近くのお寺の境内や、車の少ない大通りで遊びました。着る物は兄弟からのお下がりで不自由はありません・・但し、冬場に姉の赤い足袋を履かされた時だけは、近所の坊主からひやかされるので子供ながら嫌でした。電気は炭鉱などの産業優先で、民家にまわる電気は蝋燭送電といって電圧が低い為薄暗く、100w電灯をつけても、やっとぼんやり、と明るくなる程度でした。問題は食料が何もありません。たちまち田舎へ買出し列車に乗って、野菜や芋類をあさりに行く日々となりました。時折経済警察がいきあたりもしない食糧配給制度を守る為、手入れ等をかいくぐっての買出しでした。3歳のH氏こそ、そんな経験はありませんが、5歳上の兄の次男は大きなリュックを背負わされて、母らと、20k位離れた行橋辺りまで汽車に乗って買出しに狩り出されました。モノの値段はたちまち値上がりし始めました。母は土製の大きなひょうたん型の窯を買い、買った芋で焼き芋屋もしてみたり、街の闇市に子供のH氏の手を引き、売りにも行きましたが、儲かる筈もなく、自分の家の子沢山の子供達が食べられた分だけ、が儲けで、借金だけ残りました。その頃の小倉の街は、進駐軍のPXといって、亡くなった父が戦前勤めていた玉屋デパートを接収した一角は、まるで、輝く程明るく、ウインドウには、見たこともないぜいたく品が展示されていましたが、後の街はバラック建で薄暗く、踊る宗教等がはやっていて、交差点の一角で踊っていたり、又街の中心部の紫川にかかる橋の欄干に、戦地からの引揚げの兵隊が「命売ります」等の張り紙をして寝転ぶ等、雑然としておりました。戦いに敗れた日本経済は、戦争によって国富の約4分の1を失ったほか、生産水準も戦前の2~3割にまで落ち込むなど、大きな痛手を受けていました。そうしたなかで、終戦処理費として巨額の財政支出が散布されたことから、日本経済は激しいインフレに見舞われ、国民生活は極度に窮乏化してゆきました。昭和10年(1935年)の卸売物価水準を基準とすると、終戦時には3.5倍程度でしたが、昭和24年には208倍を記録するなど、復興期の日本経済は強烈なインフレの渦中にありました。これに対し政府では戦争中の戦費に当てる国債の償還期にあたり、財源が無く、昭和21年2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める(いわゆる「新円切り替え」)という非常措置を実施しました。お陰で、H家の家長の爺さんが、自分の息子の残った家族位ワシが面倒をみると、後生大事に、門司鉄道管理局からの退職金、数千円(・・戦前なら、当時で庭付き一軒家が充分建つ)も預金していたのですが、価値が激変したのを理解するのに時間はかかりましたが、実情が判ると、すっかりしょげてしまいまい、翌々年には亡くなりました・・・いわゆる、年寄り殺しの新円切り替えでした・・子供ながら、ものの役に立たなくなった、十銭、二十銭札束を貰い、それでごっこ遊びの支払いとして使い、遊んだのを思い出します・・・母は末息子のH氏にも、大きくなった際に学費になるよう生まれたときから保険をかけてくれてましたが、(確か15年満期で当時の200円位か・・インフレが無ければ充分高校大学の入学費位に成ったはず・・)満期時、お袋が養育保険通帳を恥ずかしそうに見せてくれましたが、・・勿論母の責任ではないのに・・これでは、コッペパン位が10個も買えたかどうか・・・・でしたひるがえって、現在の国の800兆円超の借金を棒引きし、庶民に付け替えする新円切り替えは、先年、銀行法も変えた事だし、現在の日本でも、いつかはやりかねませんがね・・ blogランキングへ楽天ブログランキング絵柄をポチッとクリックしてね!
July 1, 2006
コメント(0)
全28件 (28件中 1-28件目)
1


