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8月のみかん園のまとめ 今日の関東は台風10号一過の快晴です。蝉も過行く時を惜しんで必死に鳴いてます。今日は「二百十日」だそうですが、東日本は、8月22日の台風9号に続いて、再び大きな被害を受けたようです。 さて、みかん園の8月のまとめです 一、まず、みかん園の手入れです 1、8月は草刈りの早朝作業がつづいています。 真鶴園は8月13日に、早川園では8月4日、10日、24日と。梅雨が明けてから、出かけるたびに大汗を流しています。なんたった自然は生命力に富んでますから、雨が降った後にはすぐに雑草が繁茂してきています。この時期は、人と雑草との根競べで、まったくの難行苦行ですね。 2、8月はまた、成果もありますア、梅干づくりで、土用干をしました(8月5-8日)。 イ、早川園のブルーベリー狩りですが、今年は8月10日にありました。 ウ、また、8月13日には、種ラッキョウの植え付けをしてきました。 3、ミツバチの方ですが、ようやく女王蜂を確認出来るようになりました。 ア、ここにきてスムシの繁殖を防ぐために、巣箱の底板を交換して、床の掃除しています。 イ、キイロスズメバチが8月後半からやって来るようになりました。蜜蜂はたいしたものですね。小さなミツバチが自力で、はるかに大きく強力な相手のスズメバチを退治してました。しかし、やはりこれからの秋の時期は、内にスムシと、外からのオオスズメバチが、蜜蜂にとっては、大敵なんですね。人が応援できることには限りがあるんですが、なるべく目を光らせるようにしています。 二、当方の年金農夫は、二つの基本課題を立てています。年金と言っても、じっと生活していくだけでも足りないんですが。 その一つは、以上紹介した、真鶴のみかん園の手入れです。いくらたいへんだと言っても、このみかん園を放棄するわけにはいきません。 当初、真鶴園には26本の成木があったのですが、カミキリムシのために、今は15本に減っています。代わりに苗木を植えてはいるんですが。 知人が、早川のみかん園ですが、その一角を貸してくれてます。去年の11月からですが。ある程度の量を出荷できないと、仕事になりませんから、ありがたいことです。 もう一つの課題は、学習です。 草刈りの体力勝負だけで終わっては、人生なんのために生きているのか、空しくなりますから。 それで、プラス・アルファーとなる学習作業です。この学習課題ですが、四つくらいの柱建てにしています。 1、マルクスの哲学の源流を訪ねて、そして近代の民主主義の思想です。 2、日本の近代史です。戦後の改革、憲法、農地改革、政治論などです。 3、経済学です。 4、文学などの文化論です。 この四つがテーマです。 この間で、遂行を見てみると、 1、古典は、ルソーの『人間不平等起原論』『社会契約論』、それとマルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』をあたってきました。2、憲法論は、樋口陽一氏の憲法論の諸著作についで、『戦後の農地改革』を当たってます。3、経済学は、以前は『資本論』を地域の学習会で集中したんですが、仕事の事情もあって、しばらく遠のいてきました。理解のほども知れてますが。4、文化論は、先月は夏目漱石の講演「現代日本の開化」「私の個人主義」を当たりましたが。この9月初めに山形への旅することもあって、今は藤沢周平作品に当たっています。 三、昨夜、というか今朝、夢を見たんです。 職場が新たに開設されて、大勢の人たちが分担して新たな作業を始め出している。その中で、私はというと、昨夜から、ひとり準備作業をしていたんですが、そこで寝込んでしまいました。朝になって、大勢の人のざわつきで目が覚めたんです。起きだしてそれに加わったんですが、しかし私の夕べ脱いだはずの服がみつからないんですね。とうとうステテコ姿と下着姿のままで、脱いだ衣類を探しているんですね。いくら探しても見つからない。もうみっともなくて仕事どころではないんですね。 そんな夢でした。 要するに、自分がなにかしたいと思っていることと、現実に自分がはたしている行動との間には、大きなギャップがあること。いってみれば、自分の建前と現実は違う、「はりこの虎」状態なんだと、そういう夢でした。 これは、かなりリアリティーのある、意味深長な夢なんですね。 勝手な思いに浮かれているのではなく、リアルに現実的に果たせている役割がどの程度であるのか。それを、冷めた目で、心してよく直視せよ、という夢でした。 この夢からさめて、私などは「なるほど、なるほど」が諭してくれていると思ったんですが、それと同時に、なぜかルソーの『社会契約論』の第一篇「まえがき」が浮かびました。 ルソーはそこで要旨こんなことを言ってます。「あなたはたいそうな政治論などを述べているが、いったいあなたはどんな資格者において政治について、筆をとったり、語ったりできるというのか。それは、たかが一市民の、はぐれガラスのような、たわいのないことがらではないのか、そんな批評がぶつけられてくる。 これに対して、私(ルソー)は答える。ただ主権者の一員としての資格においてでしかないけれど、その発言が公の政治にとって、どんなにわずかな力しかもちえなかったとしても、しかし投票権を持つということは、それだけでその政治を研究する義務(責任)が、課せられているということだ。 さいわいにして、自分がそれを研究すればするほどに、新しいあるべき政府の姿が見えてくるのだから、と。」 大体、ルソーはそうした中身のことを『社会契約論』第一篇「序文」として書いて、その本体に入っていくんですね。 あのフランス絶対王政、専制君主制の「朕は国家なり」とされる政治体制のもとで、そのまっただ中にあって、こんな言葉で書き始めて、『社会契約論』を出版したんですね。これは中身以前ですが、やはり、その後の世界を励ます気概が伝わってくる言葉だとおもいます。
2016年08月31日
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『日本革命の展望』を読み返して (私と農業3) 私などが農業を意識しだしたのは、2001年にみかん園に係わりだして以降です。 まったくの未経験の土いじりでしたから、なんとか26本のみかんの木を維持すること、とにかく繁茂してくる雑草を相手に、汗びっしょりの体力勝負をすることからだったんですね。 少しは周囲の人たちに目が向くようになったのは、多少落ち着くようになってからでした。 ヘトヘトに疲れていると、農業論とか農地改革どころではないんですね。 従って、今回の農地改革ですが、宮本顕治著『日本革命の展望』(共産党出版部 1968年刊)からです。これはずっと昔に読んだはずなんですが、今回初めて農業問題を意識して読み直してみました。この本は、日本共産党が現在の綱領路線を確立するために、第7回党大会と第8回党大会のころに行われた宮本顕治氏による綱領報告です。個人の著作ではなく、個人の責任でまとめられてますが、政党全体としての見解ですね。 あらためて問題の「農地改革」について触れている箇所を探してみたんですが、1958年7月26日の第7回党大会報告にありました。P148から153の5ページ分です。 以下は、そこからの抜粋です。「農地改革の結果、耕作地主の貸付地は1町歩(0.99ha)を最高としそれ以下に制限され、それ以外の小作地部分200万町歩が、2反(1反は991平方メートル)以上をもつ小作人に売り渡された。」 「終戦直後、約187万戸だった自作農数は、1950年2月現在で382万戸に激増した。同じ期間に、純小作農数は、164万戸から31万戸に激減した。」 「こうして農地改革によって半封建的寄生地主制度の経済的基礎は基本的に崩壊した。それは不完全な妥協面をともなったが。本質的には農民的土地所有制が支配的なものとなった。」(P149-150) 実際は5ページにわたって、もっと詳しく説明されていますが、ここでは省略します。 注目したのは、前回に紹介した農業研究者の暉峻衆三氏の分析と、だいたい一致しています。当時の日本共産党員は3万数千人だったとのことですが、これにより農家の状況に対する共通の認識になったわけですね。いまから58年も前のことですが。研究者の学問的な成果と、だいたい並行して見解がまとめられたということですが。 この報告からもう一か所紹介しましょう。問題の方向性が見えてきます。 「(2)農地改革の結果1-3町歩規模の農家が増えた。独占資本主義の下で、商業的農業の発展につれ、階級分化の傾向がすすんでいる。 ア.経営規模が小さく、内外独占資本の収奪を受けている日本農業では、農業の資本主義的経営ははばまれていて、経営規模により上層と下層の収入の落差がはっきりしている。 イ.改革後、著しく貨幣経済にまきこまれ、生産物の商品化、機械の利用、農薬、飼料はふえて、単位当たりの生産は増えたが、楽ではないか赤字である。 ウ.兼業農家が広範に大量にすすんでおり、1955年の農業総数604万3千人のうち、63.5パーセントを占めている(1950年は50パーセント)。零細を特徴とする日本農村は、兼業が農民の各層にわたっている。 エ.農民の階級分化の特徴は、雇用労働者を使う富農層の形成が部分にとどまり、多数の農民の貧困化がすすみ、農業外賃労働に依存する層が多くなっている。これらの層は、農民として一本立ちできず、離農することも出来ず、土地と仕事、賃金、各種社会保障について、激しい要求をもっている。」(P151) この後、(3)「政府と独占資本の関係で農民」の置かれた状況についての分析がつづきます。しかし、それは略させていただきます。 この報告ですが、1946-48年に農地改革がおこなわれて、それから10年が経過した1958年時点での分析です。なかなかリアルな基本的な分析であり、着眼点だと思いますが、いかがでしょうか。事実というのは、研究者によって、具体的で多彩な農家の姿、問題点を示してくれると思うのですが。農地改革の一つをとっても、いろいろな研究者がさまざまな報告として発表していると思いますから、あくまでもこれは基本ですね。 そして、その時から今日まで、58年の歳月が過ぎました。 その後の政府の農業政策などによって、解放された小規模な自作農民が、その後どの様に変わって来たか。これが、当然ながら、今日に問われている大きな問題なんですが。 これはこれで独自の問題でして、今を生きているものにとって重要な問題です。 さて、私などの勝手な思いですが、この農業の歴史を巨視的に見た場合ですが、 大きくは、江戸時代末までは、農奴的な農民としての存在が、国民の多数の姿だった。 明治になり、地租改正と殖産興業により、寄生地主制と資本主義の労働者化がすすめられる。農村の窮乏化と犠牲をもとにしての軍事産業化と対外侵略だった。 戦後の民主的改革は、憲法にしてもそれまでのあり方を改革した。戦後の農地改革により自営農民がつくられ、独占資本主義も発展する。資本主義の発展の問題の一部であるわけです。 こうしてこの歴史の大筋を見てみると、日本の歴史のこの変化には、確かに社会発展の法則があることを感じるんですが、いかがでしょうか。 同時に、日本の歴史を精神面から見た場合ですが、その時代の局面には、その時代、時代の先駆的な人たちが確かにいるんですね。それは少数者で犠牲的なものだったんですが。もちろん今でも少数派なんです。しかし、現代というのは、それがかわりつつある時だと思います。 私ども一般人が、近代の市民革命的な精神を体現しうるのは、終戦からでも70年が過ぎようとしていますが、それこそ今日が初めてのことなんですね。 今、日本の歴史では、初めて自覚的な市民として、歴史の主人公として、一般人が登場してくる時期にあること。今、私たちはそういう時期に生活しているとみなせるのではないでしょうか。これは面白いことですね。
2016年08月29日
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戦後の農地改革について(私と農業、その2) 「農地改革とは、どのようなことだったのか」、みかん園の草取りをしていて、ふと思う時があります。この畑と私はどうしてかかわりをもつことになったのか、と。もはや、その具体的な、歴史的経過を知っている人は、この世にはいないのですが。 私としては、これには戦後の農地改革が関係していると思っています。それは漠然とした思いでしかなくて、もはや具体的に確かめるすべはないのですが。 戦争法と憲法問題が問題になってますが。この問題で、今年の5月に『昭和の戦後史』(汐文社 1976年刊)を手にする機会がありました。その中にある「新憲法の成立」(鈴木安蔵著)を読むためでしたが。じつは、この本の中に、その後に、暉峻衆三著「農地改革」が掲載されていたんですね。しばらくたったこの8月になって、この暉峻論文を読みました。憲法もその一つでしたが、おなじく戦後改革の1つとしての「農地改革」について、紹介してくれていました。それまで「農地改革」は言葉でしか知らなかったんですが、これによってそのおおまかな輪郭を知りました。やはり、みかん園と農地改革は、おおいに関係していそうなんですね。今回は、その暉峻論文「農地改革」からの抜粋であり、紹介なんですが。 それと、この小論を読むと、やはり考えさせられます。私などの現在という存在も、自然に与えられたものではなく、一つの歴史的な結果による存在形態であり、今現在もまたその歴史過程の中にあることを、日本の資本主義の歴史的な発展過程がありを、私などもその中の一部分なんだということを。まだ、いたって漠然としたものですが、それを感じさせられています。 さて、戦後の農地改革とはいったい何だったのか。 1、第二次大戦前の戦前の農家の姿ですが。 「日本の地主制がすでに凋落しつつあった昭和10年代でも、日本の耕地約600万町歩の54パーセントは小作地であり、日本の総農家約550万戸のうち、27パーセントが純小作、42パーセントが自小作農民、こうして大なり小なり地主から土地を借りている農家は7割にもおよんでいた。」(P32)と。 (ちなみに1町歩とは0.99ヘクタールで、約1ヘクタールですね) 農地改革前の日本農業は、地主的土地所有が一般的で、地主対小作人との関係が大きな問題だったとのこと。みかん園のある神奈川県真鶴は、箱根山の溶岩が相模湾に流れ込んだ地形ですから、水田どころか、畑となる平地がほとんど無い土地柄なのですが) 2、戦後の民主的改革の柱の一つとして、農地改革ですが。 実施されたのは、1946年から48年くらいの間で、私などが生まれたのは1950年ですから、そのすぐ前のことだったんですね。 この農地改革(第二次)ですが、1946(昭和21)年の第90帝国議会において「自作農創設特別措置法案」「農地調整法改正案」として成立し、1946年の10月21日に公布されたとのこと。 その前に、1945(昭和20)年の第89帝国議会で、最初の農地改革法(第一次)が12月18日に成立したそうですが。連合軍総司令部から、その農地改革では不十分であるとされ、より中身を徹底すべきとの「勧告」がされたそうです。その意味では、まさに「押し付けられた」ものなんですね。 3、そのGHQの勧告の内容ですが、 1、地主が自身で保有できる小作地は、1町歩を限度とする。(第一次案では5町歩だった) (それ以外は、耕作者に農地を解放すること。)2、自作農の土地保有面積の限度を3町歩とする。(農家の一般的な姿は3ヘクタールまでということです。) 3、第一次案での地主と小作人との直接交渉を排して、国が地主から土地買収して、小作人への売り渡しを行うこと。(中立・公正を確保するために、国を間にいれるようにしたんですね) 4、農地改革の計画・実施のため、地主・小作・他の代表からなる農業委員会を、地主に有利とせずに、適正な構成比率によってもうけること。(地主が委員会を、町や村に大きな影響力をもってましたから、農業委員会の構成は、改革を遂行する上で、重要だったんですね) 5、この改革を、2年間で完成させること。(ずるずると引き延ばさせない、短期間に完了させる期日の枠をはめたんですね) これらが、改革の骨子として勧告されたんだそうです。 「押し付け」ともいえますが、それは民主的改革への強力な後ろ押しだったんですね。この後ろ押しがなかったら、第一次案では相当の水割りで、むやむやにされて、ゴタゴタを後に残したでしょうね。これは、世界の民主による後ろ押しの力ですね。憲法問題と通じていますね。 農地改革は、先に紹介したように1946(昭和21)年の第90帝国議会において成立し、同年10月21日に公布されたこと。これにより昭和22年には着手され、25年には実施を終えていたそうです。私などが生まれたのが1950年ですから、ちょうどこの時には、農地改革は完了したばかりだったということです。もちろん、私などはまったく知りませんでしたが。 4、この改革の結果について、この暉峻論文からですが。 「農地改革は、日本の地主的土地所有を、耕地については基本的に解体した。 在存地主の小作地保有限度を第一次案の5町歩から1町歩に引き下げたことで、強制買収される小作地は、90万町歩から193万町歩ちかくに増えた。 それによって終戦時237万町歩あった小作地の約8割が解放され、改革後の昭和25年の小作地率は1割以下に低下した。 資本主義の下で行われた農地解放としては、地主的土地所有の解体としては、他の国々とくらべて、徹底した性格を持っていた。これにより多数の小作人を自作農化した。 改革前は、農家の26パーセントが完全小作、19パーセントが小自小作、21パーセントが自小小作だった。改革後は、小作農7パーセント、小自作農8パーセント、自作農の性格の強い自小作農29パーセント、完全な自作農は改革前の31パーセントから改革後には55パーセントへと増えた。 そこには、相当数の小作農が残されたり、山林原野の未解放や、地主の土地取り上げの容認など、改革の不徹底な面もあったけれど。」(P57-58) これにより、基本的には農地は寄生地主制から解放されて、自作農の創設が実施されたということです。この戦後の農地改革をしっかりとらえておくことが、今の日本農業と日本の国自体を理解する上で、大事な点になっていると思います。 5、その後の60年が過ぎましたが、自営農家は、その後どうなったか。ちなみに、2010年の農業就業人口は全国で261万人。(農水産省『農林業センサス』) 専業農家などの農業を中心とする基幹的農業従事者は、1960年の1,175万人いたのが、2010年では、205万人と、83パーセントも減少しているとのことです。 (『農福連携の「里マチ」づくり』(濱田健司著 鹿島出版 P34より) ここには、その後の自民党の農業政策があります。これはこれでまた大きなテーマなんですが。自民党の農業政策により、それらの自営農業者がどのようになっているか。いま、TPPなど、農業者が大きく声を上げていますが、それを理解する上でも、大事なポイントになっていると思います。 とりあえず、今回はここまでです。私などでは、小さなみかん園の草取りを、なんでしなければならないのか、そんな疑問からはじまる農業問題ですが。そこには「日本の本主義の発展における農業の問題」の一般的な姿、問題をとらえるとともに、日本の農業の特性がそこにはあり、そのことがめぐり巡って今の日本の社会状況、政治状況、選挙結果の、それぞれの部分を形作っているとおもいます。今につながっている問題だとおもいます。 私などが小さなみかん園の草取りに汗を流すのも、そうした全体の流れの一コマだと思っているんですが。そこには様々な連鎖がありますから、そう簡単に因果関係は解きほぐすとはできませんが、確かに関連があると思っています。 さて、今回は、農業研究者・暉峻衆三氏によりとらえられた農地改革の様子でした。 この同じ実際が、前回の宿題でもあるんですが、日本共産党の第7回大会報告(1958年7月26日)では、宮本顕治氏によって、どの様にとらえられ、報告されていたか。 次回こそは、それを調べることにします。
2016年08月28日
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小さなミツバチがスズメバチを退治してました 8月27日は、蜜蜂の巣箱にネットを被せに行ってきました。 なにしろ前回、キイロスズメバチが執拗にミツバチの巣箱にまとわりついていたものですから。ミツバチを捕まえて、食べちゃうというんですね。 そうした様子を見てはいたんですが、くたびれていたため、そのままにしてきてたんですね。 これで今回は、スズメバチが近づけないように巣箱にネットを被せることにしたわけです。 ところがです、巣箱の入り口でキイロスズメバチが死んでいたんです。 話には聞いていましたが、小さなミツバチたちが、この大きなスズメバチを相手にして、 負けていないんですね。みんなで力をあわせて熱殺しちゃうんですね。 蜜蜂の自衛力というのは、たいしたものです。 巣箱の入り口には、20-30匹くらいのミツバチがいて、巣箱を守っていました。 時々、みんなでいっせいに羽音をたてるようにして、近づく外敵に対し、備えとして威嚇の羽音をたてていました。 それでも、キイロスズメバチは執拗でして、 性懲りもなく、次の一匹がまとわりついていました。当方は今回、梅の伸びた枝を切り縮めていたんですが、 その作業をしながら、時々巣箱を注意していたんですが、 ほんのちょっとの時間だったんですが、その間に、キイロスズメバチを4匹も捕獲することとなりました。この調子だと、この間にはかなりの攻防戦が行われていたようです。 自然界の競争というのは、なかなか厳しいものですね。 それで、巣箱には予定通りネットを被せてきました。蜜蜂にとっては、突然、巣箱にネットをかぶせられたものだから、 出先から帰って来た蜜蜂にとっては驚きです。障害にもなりますから。なにしろネットの網の目をくぐり抜けるには、慣れなければなりませんから。 瞬間的には戸惑っているのがわかりましたが、くぐり抜けるようになりました。 しかし、まぁこれもすぐに慣れてくれるでしょう。スズメバチが巣箱の入り口にまとわりつかれているよりは、危険度が減ると思います。これで、恒常的な警戒態勢や多くの犠牲をきたさずに済むだろうと期待しているんですが。 ところで、先の台風9号ですが、真鶴のみかん園の周辺にも被害を残していきました。 みかん畑のすぐ近くに河津桜の木が1本あったんですが。道をはさんだすぐ向かいにあって、いつも目を楽しませてくれていたんですが。 その木が、根元から折れたとのことで、その姿を完全に消していました。 近所の人によると、「台風の爪痕で、町に、あと片付けをしてもらった」とのことでした。 やはり、かなりの風雨だったんですね。 その他には、大きな被害がなかったようで、幸いだったということです。また今度は、10号がくるようですが。
2016年08月27日
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私にとって、みかん農業が示すものは(その1) 当方は、2016年3月末に職場を完全退職して、5カ月が過ぎようとしています。 今は、年金生活者ですが、みかん農夫もしています。年金だけでは生活費用はまかなえないのですが、加えて80キロ離れた神奈川県真鶴のみかん園まで、週に一度くらい草取りに出かけています。これが、そのみかん園なんですが。 中ほどに、住宅の間に、木々が少しかたまってる所が、そのみかん園です。まぁ、このみかん園を荒らしたままで、放任園にしておくことは出来ませんし、同時に、さらに私事では、これまで読みたくても読めなかった本棚の整理ですが、これも片付けていこうというのが、目下の生活計画です。いくら年金生活が火の車だからといって、そればかりをみつめても拉致があくわけではありませんから、とにかくこの二つで、行けるところまで行くということです。 さて、本の学習ですが、一つはマルクスの哲学の源流を探ることです。 この間に、紹介してきましたが、唯物弁証法と唯物史観の思想であり、方法の学習ですね。 私なりの理解ですが、そこには今に生きている思想、考え方があると思うんです。最近では、あまりこうした哲学が話題になることはないかと思いますが。私などの石頭には、前々から、大事な問題として、引っかかっている問題なんです。みんな誰しも関係していることなんですが。そう簡単に問題やその解決が理解できるわけではないんですが、だからといって、まったくわからないわけでもありません。 去年のことですが、マルクス著『ドイツ・イデオロギー』を、再度、学習してみたんです。1996年に服部文男訳(新日本出版社)で、原典にそくした訳が刊行されたんですね。 そこでマルクスは述べています、「思いや考えから出発して具体的人間にたどりつくのではなく、現実に活動している人間から出発して、彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映と反響の発展もまた示されるのである。」と。その人間について「何らかの完結性や固定的な人間ではなく、特定の諸条件のもとでの、現実的な経験的な明白な発展過程における人間たちである」と。これは存在と意識についての唯物弁証法ですね。石頭としては、分かったような、分からないような・・・。 そしてまた、他方では、唯物論者のフォイエルバッハを批判しています、「取り巻く感性的世界を、直接に、ずっと与えられた同じものとしてとらえて、それが産業と社会状態の産物であり、歴史的な産物であることをみない」「人間を感性的な対象として洞察しているが、感性的活動をするものとしてはとらえていない」「人間を与えられた社会的諸関連の中で把握せず、現にあるものにした当面の生活諸条件の中でとらえていないから、現実に存在する活動的な人間たちには到達しない」と。これは人間の社会性と歴史を問題にしてますが、唯物論的歴史観を考察し始めていますね。 このマルクスのフォイエルバッハ批判は、私などにも他人ごとではありませんでした。今、憲法をめぐって日本国中で議論になっていますが。1950年の戦後生まれの当方にとって、日本憲法は、自然な、ずっといつもそうであったし、その中にあるというような感じ方をしてしまうきらいがあったんですね。「いったい、どこに問題があるの」なんてなことになるわけで。しかし、現実には大問題に、戦後史を問う様なことになるわけで、呑気なことは言ってられません。 じつは、問題は私などにもあって、フォイエルバッハと同じような受けとめ方なんですね。これは歴史的な流れについての知識に弱さがあるということです。その弱点がそんな自然主義的な受けとめ方をしてしまうんですね。 これを解決することが問題なんですが。それには、いくらいろいろ山なす解説書を読んだとしても、それだけではだめなんですね。 その思想を、生きた形でつかむことが肝心なんです。自分なりにとらえることが大事なんです。それは解説書のコピーや理解するだけでは足りません。自分の頭で考察する必要があります。そして、肝心なのは、その方法を応用する力が求められているんです。この基本を学習すると、そうしたことを考えさせられるんですが、今回は、そのためにも、私なりに一つの歴史の旅をしてみようと思っているんです。 どの様な歴史の旅か。 ここでみかん園が問題になってきます。当方は、2001年から神奈川県真鶴町で125坪のみかん園を手入れをしています。2000年に死去した父が、それまで手入れしていたものですが。当初、26本のみかんの成木があったんですが。(今は、カミキリムシの加害により15本に減ってしまいましたが) このみかん園での農夫の経験に基づいて、歴史の旅をしてみようということです。みかん農園の歴史条件につて、いろいろ取りまく状況や問題について、歴史を考えてみようというわけです。 「私にとって農業とは」-こうしたことを、いろいろ調べてみたいと思っているわけです。 しかし、このみかん園については、その具体的な歴史経過を知っていた人たちは、もうこの世にはいません。ですから、多分に書物などを使って、一般的な形ですが、農業について調べてみること。これは今となっては仕方がないのですが。 その最初の問題ですが、戦後の改革の一つの「農地解放」の問題です。 具体的に、この畑がどうであったかは、残念ながら調べようがないのですが。一般的に歴史書のいくつかにあたるようにして、1946年から48年に実施された「農地解放」について調べてみます。これは、今を知るうえで、大事な問題だと思っています。私なども、これまでは言葉としてしか知らなかったんですが、あらためて「農地改革」について挑戦です。 手元には『日本革命の展望』(宮本顕治著 1968年8月10日刊)があります。 日本共産党第7回党大会での報告(1958年7月26日)とのことですが。だいぶ昔に読んだことがあるはずなんですが、ほこりをかぶってました。その当時は農業問題なんて、まったく意識になかったんですよ。しかし、今回、ペラペラとめくってみたら、ここにその農地解放がどのように行われ、その結果がどうなっているか。実施から10年後くらいの時点にたってですが、報告されていました。当時、3万数千人の党員の人たちが討議し、採択されたものと聞きます。 次回は、ここで、どの様な分析と評価をしているか、調べてみたいと思っています。
2016年08月25日
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台風9号が吹き荒れた後のみかん園ですが、大事はなし8月24日(水)、台風9号の通過した後のみかん園を見てきました。一昨日、22日(月)の昼頃に、台風9号は関東に上陸し、各地に被害を残しました。ニュースを見ていると、みかん園は大丈夫だったか、気をもまされちゃうんですが。午前4時20分発、小田原方面の天気は曇天でした。午前6時過ぎに早川のみかん園に着きました。こちらは、大風の被害については問題なし。むしろ、台風もふくめて、よく雨が降ったようです。雑草が水滴をのせていて、よく繁茂していました。こうなると、草が伸びすぎているので、草刈りは二度切りです。この際、草刈りを、全体を大まかにでも済しておかないと、後々が大変なことになります。台風の結果の様子を見る、そんなことでは済まなくなっていました。結局、午前6時過ぎから7時30分まで、1時間半の草刈りでした。草が雨滴をふくんでいたためではありません、汗で全身びっしょりにさせられました。午前7時30分過ぎ、作業を終えた後の景色です。相模湾の側、東の方は明るさもあるんですが、箱根の山側から、小雨が降りだしてきたんですね。早川での草刈りはここまでとして、真鶴のみかん園へ、直ちに移動です。こちらは、蜜蜂の巣箱が、台風の嵐で無事だったかどうか、それが心配だったんですね。東海道線は風雨が強くて止まったし、真鶴町は、避難勧告が出されていましたから。しかし、さいわい大事なしでした。ヤレヤレです。風雨が吹き荒れて、巣箱が吹き飛ばされる場合がありましたから、さいわい、そこまではいかなかったようです。しかし、巣箱の周りにはキイロスズメバチがやってきていました。出来る限り、網を使って捕まえようとするんですが、巣門のところで3回、捕まえ損ない逃げられました、運のいいやつです。スムシ対策で、底板の交換はしておいたのですが。蜜蜂は、嵐の後のためでしょうか、キイロスズメバチのせいでしょうか、巣門は閑散として静かで、あまり巣箱の中から出てきていませんでした。さて、みかんの方ですが、今年の夏ですが、西日本の方は快晴と暑さが続いているようですが、それとは違って、関東は夏日らしい晴れた日が少ないような気がするんですが、みかんは雨滴をのせていました。みかんは、太陽の恵みです。甘く美味しくなるには、暖かい太陽が必要なんですが。それは、これからの秋晴れに期待するところです。心配していた台風の被害でしたが、この方は、枝が折れるなどの被害は、まったくありませんでした。木についている果実の数が少なく、まだ大きくなってなかったためかと思いますが、とにかく大事なく、幸いでした。今回は、全体の様子を見ただけで、午前9時には、直ちに帰途につきました。
2016年08月24日
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江戸時代にも、今と同じ問題が、『一茶』(藤沢周平著)を読んで 当方は残念ながら、当方は俳句の趣味もありませんし、文学も味わうセンスにも乏しいんですが。しかし、この『一茶』という作品は、卑近に感じて、引き込まれるように一気に読んでしまいました。 この『一茶』という作品は、単行本としては、1978年に文芸春秋社から刊行されたそうです。38年前ですね。私が藤沢作品を読むようになったのは、つい最近のことです。『半生の記』、「たそがれ清兵衛」『蝉しぐれ』に続いて、これが4作目です。近々、同窓会で山形を旅する機会があるので、それまでに1作でも、2作でも読んでおこうというのがきっかけです。 この作品のどこに引かれたかと言うと、故郷と相続の問題です。 若くして江戸に出た一茶が、父が死んだことで、普通ならそれにより郷里をなくしてしまうとおもうんですが、家族で争いまでして自分の居場所を郷里につくったんですね。 私なども、2000年に父が死去して、似たような問題があったんですね。それで、描かれている問題について、当事者の気持ちが伝わってくるんです。よく心境が描かれていますから、卑近なこととして感じられてきたんですね。 一体、藤沢周平はどうして一茶を取り上げる気になったのか、どの様な材料をもとにして書いたのか、そこにはどの様な著者の想像部分が加わっているのか。当然問題になります。実際の所は、私などにその辺は、よくわからないのですが。 しかし、作品の終わりに参考書目が紹介されています。それによると、少なくとも30冊くらいの書名が挙げられています。「あとがき」には長野の小林計一郎氏にあって、一茶の「父の終焉日記」や「おらが春」などについて取材したことが紹介されてます。 この作品をつかむ上で、あらかじめ小林一茶の生涯について見ておくと全体がわかります。著者が力を入れた部分について、それがよく見えてくるとおもいます。そこで、丸山一彦氏による「一茶の生涯」を紹介します。 「一茶は、宝暦13(1763)年、雪深い奥信濃の農民の子として生まれた。3歳で生母に死別し、8歳のとき継母を迎えたが、折合い悪く、家庭に風波が絶えなかった。父の計らいで15歳のとき江戸にだされ、渡り奉公の辛酸を嘗めたが、その10年の消息は明らかでない。25歳ごろから葛飾派の元夢・竹阿に師事し、さらに葛門三世素丸に入門、その執筆役として活躍し、また寛政4(1792)年より6か年にわたる四国行脚に出かけ、関西・四国・九州を巡遊、西国俳人と風交を結んだ。江戸に帰って竹阿の二六庵を継ぎ、軽妙で野性味にあふれた句風によって江戸俳壇に異彩を放ったが、ついに宗匠として一家を成すに至らず、成美の庇護を受けたり、常総地方の知友を頼って転々と流寓生活を送った。 父の死後、遺産分配をめぐって継母・義弟と執拗な抗争の末、文化10(1813)年にようやく和解が成立し、以後、郷里柏原に定住することになる。耕地・家屋敷を折半し、門人の数もふえ、生活は安定したものの、あいつぐ不幸が死に至るまで彼を苦しめた。結婚して3男1女をもうけたが、妻子につぎつぎに死なれ、再婚に失敗し、己も中風に倒れるなど、苦難は絶えることなく、3度目の妻を迎えてまもなく、文政10(1827)年柏原の大火に家までも失い、焼残りの土蔵の中で不遇の生涯を終えた。65歳だった。」(丸山一彦 『古典俳句を学ぶ(下)』(有斐閣選書)より)これにより、この作品の大筋がだいたいわかると思うんですが。 私などには、この作品を読んでいて、その後に疑問が出てきます。 1、いまの土地所有というのは、公図や測量図、権利書によって、私的所有権が、国家によって 保障されます。それは明治の地租改正によるものですね。それ以降は調べれば分かると思うんです。しかし、それ以前は、どうなっていたのか。これは、私などには謎であり、調査対象なんですね。 2、もう一つ、相続ですが。これは、戦後の民法では、権利者それぞれの割合が定められているし、遺留分などの権利があります。しかし、それは違うものとして、明治憲法の民法の下での家督相続があります。江戸時代も基本的には同じ家督相続だったとおもいます。この一茶の場合ですが、それなりに史実によっているはずですが、郷里を出た一茶が、その長野で農業を継いでいた義弟との間で、相続を争う。遺言書があったそうですが、折半にするとの相続の談義は、具体的にどうだったんでしょう。たいへんな問題だったことは間違いないのですが。 以上が、私などには宿題として問われることになった問題です。ということで、この作品は、けっして架空のはなしではありません。時代や社会条件はちがっても、都会人の誰しもが、直面しているだろう問題が、この作品によって取り上げられていると感じている次第です。
2016年08月22日
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憲法9条の成立過程を示したマッカーサー元司令官の手紙憲法第9条の成立過程について語った元GHQマッカーサー司令官の書簡が発見されました。 新たな発見の事実は、『東京新聞』(8月12日付)と『赤旗』(8月19日付)で紹介されました。この二つの新聞記事から、その概略を紹介します。 今回、東京大学堀尾輝久名誉教授は、今年1月に国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料の中からマッカーサーの書簡(1958年12月10日付)を発見したそうです。 憲法第9条ですが、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」 この第9条について、これまでこの原案がどこから発案されたものか、憲法学者の間では取りざたされていたのだそうです。ようするに、「マッカーサーが提案した」との説と、その時の「幣原首相が提案した」との説の、この二つの説が議論されてきたとのこと。しかし、はっきりした事実は分からなかったのだそうです。不勉強な私などには、そのこと自体が、ともに耳新しいことだったんですが。 ただ、分かることがありました。安倍首相などの憲法改憲論者たちは、『今の憲法は戦勝国が日本に押し付けたもの、押しつけられたもの』だから改正すべきだ、と。日本国憲法の全体を、戦勝国マッカーサーによる押し付けだとする「押し付け論」を論拠にして、自分たちの改憲主張の論拠にしていたわけです。こうした議論が、時々に持ち出される見解としてあることは、だいたい分かっていました。 ところで、今回の問題は、新たにマッカーサーの書簡が見つかったということです。これは1957年に岸内閣の下で発足した憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程について、アメリカにわたって調査した時のもので、成立過程への質問に対するマッカーサー元司令官の回答書なのだそうです。 それによると、『戦争を禁止する条項を憲法に入れるという提案は、幣原首相が行ったものです。』『提案に驚きましたが、首相にわたしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました』と。 英文の書簡と、それを調査会が和訳したものとのことです。これによって、長年にわたり謎として議論されてきたことが、その論議を解決する明確な証言が見つかったということです。 〔憲法制定過程のおもな流れ〕を確認します。 1946年1月24日 幣原首相とマッカーサーGHQ司令官が会談 2月13日 GHQ草案が日本側に提示される 3月6日 日本政府案を発表 6月20日 帝国議会に提出 10月7日 成立 11月3日 日本国憲法が発布 1946年5月3日 施行(この1月24日-2月13日の間のことですね) 堀尾名誉教授は、新聞に談話をよせています。次の様に強調しています。 「9条は日本国民が求めてきたものであり、だからこそ国民は改憲を許してきませんでした。 同時に憲法の制定過程からも占領軍の押し付けではなく、日本の提案を受けたものである ことが明瞭になっています。世界中が戦乱の危機にあるいまこそ9条の理念を世界に広げ、 平和を築いていく方向でこそ議論すべきです。これは憲法前文が求めていることなのです」これで、長年の歴史の謎が、一つクリアーされたことになりましたね。しかし、私などは、ここにもう一つ確認しておくべきことがあると感じています。それは、この9条の成立とその背景についての問題です。奥平康弘著『いかそう日本国憲法』(岩波ジュニア新書 1994年4月20日刊行)を見たんですが。たまたま図書館でこの本を見つけたんですが。この本にも、この9条の問題が出ていました。 奥平氏は、「(マッカーサー説と幣原説の)どちらが口火をきったか、事実の究明は難しいところがある」と。議論の経過に立ち、この1994年時点では、真相の究明は難しいとされていました。これは、今回の発見により明確にされたということですが。問題は、奥平氏のその先の意見でした。 奥平氏は、どちらが口火を切ったのかという議論よりも、そこにはもっと大事な点があるとして、「これまでの研究の中で、僕が興味を引くのは、立場や経験を非常に異にする日米首脳が、日本国が一敗地にまみれたその時機をとらえて、平和主義、国際協調主義を憲法で宣言する画期的なプログラム原案に合意したという点です。」この点こそ大事なんだ、重要な内容なんだ、と主張されているわけです。私なども、その通りだと思います。 大体、幣原首相というのは、1945年8月15日以前に、戦時下で外務大臣を経験してきた人なんです。この発言には、軍国主義が闊歩していた時代に、和平を探る痛切な体験があったわけです。 もしもですよ、1945年8月15日以前にですよ、和平の方向に、自分が思っていたことを言ったら、どうなっていたか。間違いなく、とんでもないことになっていた。即刻、治安維持法違反で逮捕です。 8月15日をはさんで、日が沈み、つぎの朝日が出た、ただそれだけで世はすべてこともなし、といった状況もあったかと思います。しかし、歴史は変わったんですね。しかし、すぐ前まで、国民の自由な信条・意見、表現、結社の自由を禁止して、取り締まってきた、自由がきびしく押しつぶしての戦争推進の社会が続いていた。戦前の治安法とその弾圧体制が、敗戦で否定されつつも、まだ隠然とした力をもっていたんですね。三木清は、未だ獄中にいて、亡くなっている事態が続いていたわけです。 そうした現実の中では、幣原首相の発言というのは、やはり命がけだったと思いますよ。それはマッカーサーの権威をかりてしか、公に表明できることではないとも思っていたでしょう。それだけの圧力が、その時点でも日本社会には働いていたと思うんです。 一方、国民にとっては、それまでは戦争推進ためにすべてを犠牲にさせられ国家でしたから、ポツダム宣言や新憲法の方向は、おそらく「解放」的なものとして、大いに歓迎されたと思います。この政治の現実と国民の置かれた状況、意識のギャップは、大きかったと想像します。1950年生まれの当方としては、想像でしかないのですが。 確かなことは、戦争遂行国家か、平和民主国家か、戦争末期はこのどちらを選ぶかの選択だったと思います。しかし、ポツダム宣言の受諾と敗戦の時点では、もはや選択の余地はなかったんです。すでに選択してしまったんです。それは認めたくなくても、そうなんです。 しかし、政治の有力者たちなど、現実を受けとめれない人たちも多かったんですね。だいたい戦争を推進してきた人たちも、平和や民主の看板にかけ替えしたんですね。本音はともかくとして、建て前はそうしないと立ち行かない状況があったんですね。これもまた歴史の圧力だったんですね。 最近、安倍首相とそのお仲間の言動をみていると、それがよくわかります。70年がたった現在までも、その建前と本音を使い分けが続いているんですね。そうした政治家の実態を、あらためて確認することが出来ます。 だけど、これが、戦後70年、国民がくぐり抜けなければならないぬかるみの道だったんですね。 このごまかしを早くみぬいて、憲法の理念をしっかりした自覚として持つこと、確かな平和民主国家をつくる政治的勢力をつくりだすこと、これが戦後70年、繰り返し、繰り返し、重ねてきたこと。そして今日も、私たちが直面している基本的問題なんですね。 今回の問題は、マッカーサー書簡が注目されたのも、こうした背景があるからなんですね。一方では押し付け憲法論からの改憲論があり、他方では憲法9条の価値に目覚める人たちがいる。そこに今の歴史の課題と局面があることを、このことは、あらためて教えてくれているんですね。
2016年08月21日
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マルクスの哲学の源流を訪ねて、『ドイツ・イデオロギー』について 当方は、この6月末からマルクスの「ヘーゲル法哲学批判序論」(1844年)を学習してきましたが、その前の去年でしたが、『ドイツ・イデオロギー』(1845年11月-46年夏)を学習してきました。 今回は、この間の『ヘーゲル法哲学批判序論』学習の流れから見えてくる『ドイツ・イデオロギー』の紹介です。 一、『ドイツ・イデオロギー』には、名言(慣用句)とされるものがあちこちにあります。当方の目的は、この枕詞の根底を探ること、『ドイツ・イデオロギー』の今に生きている精神、思想を探ることです。 ちょうど『ドイツ・イデオロギー』を学習していた2015年ですが、日本国中で戦争法案廃案が問題になっていました。どうやって憲法を守って、この逆流を批判するかが問われたんです。 170年前のドイツでも似た状況がありました。いや今よりも、もっと大変な状況がありました。マルクスも以前に参加していた青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)ですが、彼らもプロイセンの専制政府が立憲主義を投げ捨てて、反動政治の強化する、これに対決していました。哲学の領域でも、はげしく議論されていたんですね。 どの様に反動政治とたたかうかが問われていました。反動政治を本当に変えていくには、どのような批判が必要なのかと。 青年ヘーゲル派の人たちは、自分こそが正しい見解だとして、それぞれ批判しあっていたんですね。 これに対して、マルクスたちは、青年ヘーゲル派との違いを明らかにすようになります。それが『聖家族』であり『ドイツ・イデオロギー』だったんですね。ここで言ってます「これでは『現実の影との哲学的闘争』をしているだけで、『その世界そのもの』とはたたかっていないことを忘れている。彼らは『ドイツ哲学の批判とドイツ哲学者自身の物質的環境との関連について』を問うことを思いつかなかった」と。この点に問題の核心があるとして、『ドイツ・イデオロギー』をまとめたんですね。 (その3 2015・6.1、その4 7.1) だいたい今日でもよくあるでしょう、相手を痛烈に罵倒しさえすれば、それでなにか政治問題が片付くかのような態度が。こうした態度は弱点でもあると指摘して、問題にしているんですね。この基本には、社会観、歴史観の問題が希薄さがあると。それが曖昧だから、批判の仕方にも弱点をきたしていて、事態を変える力をもたないと、指摘しているんです。 二、その批判の仕方の問題こそが、前の『ヘーゲル法哲学批判序論』から続く問題です。すなわち唯物弁証法と唯物史観を明確にする点にかかわる問題なんです。 次の様な点も指摘しています。「思いや考えから出発して具体的人間にたどりつくのではなく、現実に活動している人間から出発して、彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映と反響の発展もまた示されるのである。」「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定するのである。」と。そしてこの人間についても「現実的な諸前提から出発する。それは何らかの完結性や固定的な人間ではなく、特定の諸条件のもとでの、現実的な経験的な明白な発展過程における人間たちである」ととらえています。(その5 7.9) これは社会論における唯物論の思想ですね。唯物弁証法ですね。マルクスは、1844年の『経済学・哲学手稿』や『聖家族』では、先行していたフォイエルバッハの唯物論による宗教批判を積極的なものとして大いに評価していたんです。しかし、その数か月後ですが、1845年春の「フォイエルバッハに関するテーゼ」では、はっきりと、その不十分さを指摘しだしています。ここに急ピッチな歴史理論の探究の前進があるんですね。そして、この『ドイツ・イデオロギー』において、その根拠を述べています。 「フォイエルバッハは取り巻く感性的世界を、直接に、ずっと与えられた同じものとしてとらえて、それが産業と社会状態の産物であり、歴史的な産物であることをみない」「時代の時々を見るだけで、そこには歴史がない」「人間を感性的な対象として洞察しているが、感性的活動をするものとしてはとらえていない」「理論の中にとどまり、人間を与えられた社会的諸関連の中で把握せず、現にあるものにした当面の生活諸条件の中でとらえていないから、現実に存在する活動的な人間たちには到達しない」(その7 8.10) これは私などには他人ごとではないんですよ。私は1950年生まれですが、戦後の日本憲法を、自然な、ずっといつも、そうした中にあるように感じてしまうきらいがあったんですね。これも、フォイエルバッハと同じような受けとめ方なんですね。「どこに問題があるの」なんて。これは歴史的な流れについての知識の薄さ弱さです。その弱点が自然的な受けとめ方をきたしてしまうんですね。 三、さて、『ヘーゲル法哲学批判序論』から『ドイツ・イデオロギー』への大きな流れです。ここに唯物弁証法と唯物史観の基本についての明確化があるんですね。この点は、(その8 8月16日)で紹介したんですが。再度、その点のまとめです。 エンゲルスは、マルクスが1883年に亡くなって、その後、故人の業績を評価する論文を、いくつか書いています。 その一つ、『共産主義者同盟の歴史によせて』(1885年10月8日)からですが。 「私(エンゲルス)がマンチェスターでまざまざと見せつけられたのは、 1、これまでの歴史叙述では何の役割も演じていないが、あるいはとるに足りない役割を演じているに過ぎない経済的諸事実が、少なくとも近代世界では決定的な歴史的力であるということ。2、この経済的諸事実が今日の階級対立のなりたつ土台であること。3、大工業のおかげでこれらの階級対立が十分に発達した国々、したがってとりわけイギリスでは、この階級対立はさらに政党形成の、党派闘争の土台となっており、こうしてまた全政治史の土台になっているということである。 (以上は、エンゲルスがイギリスで見聞したことから得た見解ですが、さらに続きます) マルクスは、これと同じ見解に達していたばかりでなく、すでに『独仏年誌』(1844年)で、それを次の様に一般化していた。すなわち、1、総じて、国家が市民社会を条件づけ規制するのではなく、市民社会が国家を条件づけ規制するのであり、2、したがって、政治と政治史とは経済的諸関係とその発展によって説明すべきものであって、その逆ではない、ということである。 (これは、前回見たようにマルクスが自身をふりかえって、『経済学批判』の「序言」(1859年)に整理したものですが、これが「ヘーゲル法哲学批判序論」の基礎にあるものです。さらに続きます) ・・・1845年の春にわれわれがブリュッセルで再会したときには、マルクスはもう右の原理を展開して、彼の唯物論的な歴史理論の大要を完成していた。そこで、新しく獲得した見方を種々さまざまな方面に細目にわたって仕上げることに、いまやわれわれはとりかかった。」 (以上で、新たな唯物史観が確立してきた過程について、全体の流れが見えてくるとおもいます) さらに、最後にエンゲルスは、この歴史観の発見と確立の意義について述べてます。 これは「歴史科学を変革する発見」だし、「当代の労働運動にとっては直接に重要なものであった」と指摘しています。(これは、大事な指摘だと思いませんか。人間の社会学の分野にたいする唯物論の考え方の基本を提起したものだと。これは未来を拓く労働者の活動にも、努力すれば多大なプレゼントをもたらしてくれるということです。もちろん怠けていてはダメですが) 以上、マルクスの哲学の源流を訪ねて、 「ヘーゲル法哲学批判序論」から『ドイツ・イデオロギー』への旅、そのまとめでした。これは、170年も前に問題になったことがらですが、私などには、極めて今に新鮮に響いてくる基礎的な問題なんですね。
2016年08月19日
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マルクスの哲学の源流を訪ねて、 「ヘーゲル法哲学批判序論」を学ぶ(その4) マルクスの哲学の源流を訪ねて「ヘーゲル法哲学批判序論」の旅も、今回で一区切りとします。国民文庫の『ヘーゲル法哲学批判序論』(真下信一訳)で学習してきました。 この間に第24回参議院選挙(6月22日-7月10日)、東京都知事選(7月14日-31日)がありました。私は、参院選のなかで、『「独仏年誌」の手紙』を7月4日(その1)、5日(その2)に紹介しました。その後、東京都知事選挙(7月14日-31日)の後で、『独仏年誌』の中の「ヘーゲル法哲学批判序論」を、8月4日(その1)、8月7日(その2)、8月14日(その3)と紹介してきました。この旅は、今回で一区切りです。 これで「終わり」ということではありません。人間の認識というのは螺旋的にすすんでいきますから、これはあくまで目下の時点での認識ということで、いずれまた新生面が出てきた時にはたちかえると思います。それにまだ『ユダヤ人問題のために』が残されていますから。 私は、折節にマルクスの哲学の源流を訪ねているんですが。今回のきっかけですが、やはり国政の動き、戦争法による憲法の立憲主義の破壊の問題でした。 この動きの中で、3月に『「憲法改正」の真実』(樋口陽一・小林節著 集英社新書)を読んだことも要因でした。ここで憲法学者の二人が、学問的良心から政治の動きに大いに怒っていたんですね。おかげで、様々な憲法にかんする文献を学習する所となっているんですが。その副産物として、夏目漱石の講演「現代日本の開化」や「私の個人主義」も読むことが出来ました。樋口さんが「私の個人主義」を紹介されていたんですね。 そうこうしているうちに、それがどういう訳か、1840年代にドイツの反動政治と対決したマルクスと重なって見えてきたんですね。おそらく、よく似た社会状況があるなぁと感じたからなんでしょうが。 当時のドイツは、フランスやイギリス、アメリカなどとちがって、まだ近代民主主義国家になっていなかった。300諸侯からなって、日本の江戸時代のようなものです。新たに王についたプロイセン国王は、それまでの立憲主義的装いを投げ捨てて、封建的専制君主制として反動政治を強化しだしたんですね。マルクスの編集していた新聞も検閲され発禁されるようになる。それでフランスへ亡命をせざるを得なくなるんです。マルクスは、ヘーゲルの憲法論を学びます。そして批判します。自らは先進国の共産主義を学んだりしながらも、ドイツの当面している社会変革が、民主主義革命であることを解明しているんですね。ここにマルクスの政治論の確固とした科学性があるんです。 もう一つ、基本的な哲学と社会観の問題があります。 その「マルクスの哲学の源流」ですが、この問題は、晩年のエンゲルスが『フォイエルバッハ論』を書いています。これが当事者がこの問題をまとまって紹介した貴重な冊子なんですが。私などは、その中身をつかむためには、それが問題にしている1840年代ですが、その原点となる著作に当たって、事柄を学びとる必要性を感じていたんですね。 もちろんその哲学の解説書は、その後山ほど書かれています。時を経るにしたがって、たくさん書かれました。しかしですよ、それらの解説から事柄の知識として持つことと、それの生きた哲学の精神を学びとること、ないし生きた精神とで使うこととは、別のことだと思っているんですね。エンゲルスも「この思想をことばのうえで承認することと、これを実際に研究のそれぞれの領域わたって個々に遂行することとは、別のことである。」(『フォイエルバッハ論』第四章)と言ってます。だから私などは、繰り返し折節に、この問題を繰り返し学ぶ必要性が出てくるわけです。 もっとも、当面の日常では、これは目くじらを立てて哲学が問題とされるようなことはないことも確かなんですが。でも、そうした問題が基本にはあるんです。 私は、今年の3月で、定年で職場を完全退職したんです。その少し前から、継続雇用になって、少しですが自由な時間がとれるようになったんですね。 それで、この時間を使って、いろいろ積み残しにした来た学習をするようになったんです。その一つとして、2015年5月から9月にかけて『ドイツ・イデオロギー』を学習してきました。それは、このブログでも16回にわたって紹介してきました。この事前の学習があったおかげで、今回の「ヘーゲル法哲学批判序論」の位置が、思想の発展過程が見えてきました。マルクスはヘーゲルの『法の哲学』の国家論部分を逐一に批判的検討をしているんですね。これはこの文庫に掲載されてます。その検討の中で、ヘーゲルの観念弁証法に対して、自身の唯物弁証法を発見したんですね。さらに社会論として唯物史観の基本的な部分を洞察したこと。これが今回の「ヘーゲル法哲学批判序論」の中に示されているんですね。しかし唯物史観は、まだ基本的な部分だけです。まだ細部のまとまった思想までは出来てはいません。それは一度には無理なことです。だけど、ここで確かに基本的な第一歩を踏み出したこと、このことは確認することが出来ます。 そして、この唯物史観は、社会論における唯物論的方法を提起しているんですよ。社会の様々な分野にたずさわる人たちにとって、このことはたいへん大きなプレゼントを与えてくれているんですよ。もっとも、それはまずは、可能性のことであって、実際にはそれをどの様につかんで、どの様に研究成果に生かすかは、それこそは各人の、それぞれの専門分野の人たちの努力にかかってくるわけですが。まぁ私などには、人生は短く、学成り難しなんですが。 これが今回の「ヘーゲル法哲学批判序論」を詮索して得た結論です。やれやれ、やりっぱなし、読みっぱなしにせずにすみました。一つ補足がありました。マルクスはこの小論で、プロレタリアとその歴史的役割を初めて明らかにしたことは、必ずといってよいくらい、重要なこととして指摘されます。問題は、どうしてそれを見つけて評価できたのか。その当時のドイツのプロレタリアートというのはどのくらいの現実的な存在だったのか。300諸侯の国家、先進的な地方はあっても封建的国家群、江戸時代の状態ですから。数的な存在はほんのわずかです。これもマルクスの歴史の現実への洞察だったんですね。一方、それに比べたら今の日本ですが、労働貴族の様な人たちも中には一部にいるでしょうが、賃金労働者というのは圧倒的に多数になっているんですよ。もちろん、その自覚の方は、意識の方は、まだまだいいかげんなものですが。しかしその存在としては、当時のドイツと比べて月とスッポンですよ。ここに現代日本のもつ可能性を感じるのは、おかしな見解でしょうか。たとえ参議院選挙や都知事選挙が希望・願望の様にはいかなかったとしても、それにより落ち込んだり、愚痴ったりなんぞするのはおかしいですよ。どんなに現実が踏みにじられた存在だったとしても、その存在には必ず未来の歴史的可能性があるんですから。「働くものには、きっと明るい希望がある」というのは、はたしてロマンチストの夢想と言い切れるでしょうか。もちろん問題は、現状のリアルな認識です。どうしたら確かな未来を引き寄せれるかですが。
2016年08月17日
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マルクスの哲学の源流を訪ねて、 「ヘーゲル法哲学批判序論」を学ぶ(その3) ひきつづき、国民文庫『ヘーゲル法哲学批判序論』(真下信一訳)で読んでいます。 前回紹介しましたが、マルクスがこの小論の中で、ヘーゲルについて直接にふれているのは、ごく限られていて、次の一節です。 1、ヘーゲルの思弁的法哲学の評価。 「ヘーゲルによるドイツの国家及び法の哲学に対する批判は、一面で現代国家とそれにつながる現実の批判的分析である。他面、ドイツの政治的法的意識の従来の在り方全体に対する決定的否定でもある。そして、その意識をもっとも普遍的に高めた表現にほかならない。この思弁的法哲学は、現代国家の抽象的な奔放な思惟であり、その思惟の現実性はどこまでも一つの彼岸たるにとどまる。 ドイツは他の諸国民がやったことを、政治において考えた。ドイツは他の諸国民の理論的良心だった。ドイツの国家制度の現状がアンシャン・レジームの完成をあらわすとすれば、ドイツの国家知の現状は、現代国家の未完成の肉の痛みをあらわしている。」(P340-341) これが、マルクスがヘーゲル『法哲学』(国法論部分)を検討した結論であり評価でした。 後年にマルクスはこの時期をふりかえって、「私の研究の到達した結果は次のことだった。法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根差しているものであって、それをヘーゲルは『市民社会』と総括しているが、この『市民社会』の解剖学は経済学にもとめられる。」(『経済学批判』の「序言」1859年1月)と指摘しています。 (これが全体を通して、基本として問われていることですが、しかし問題はそれに尽きるものではありません) 前回はここまででしたが、今回はその続きです。 ここでの問題は、この『序論』ではヘーゲルの批判から、さらにどの様な問題が引き出されているかという点です。 2、マルクスは、一つにヘーゲル法哲学を批判する場合に、その批判の仕方にもいろいろあるわけですが、その核心となる内容がどこにあるのかを問題にしています。 「ドイツの政治的意識の従来の在り方に対する断固とした反対者との意味からして、その思弁的哲学を批判するのに、たんに理論の上での批判に終わるのではなくして、結局は問題を解決するためには一つの手段、すなわち実践しかないような諸課題の提示となるのである。」 哲学というのは、現実の闘争全体の一つの側面であり、意識だけで問題が解決できるものではない。おうおうにして理論家は、理論の世界だけですべての問題を解決しようとする。そうした自己過信や錯覚に陥りやすいこと。実際に問題を解決するのは、実践がすすむ中でこそ解決しうること。理論に出来ることは、現実を変える実践的諸課題を提示することだと。現実の活動全体に対する理論活動の位置・役割ということを指摘しています。 3、「問題は、ドイツは諸原理と水準をひとしくするような実践に到達しうるかということ、言いかえれば、ドイツを単に現代諸国民の正式の水準へ高めるのみならず、またこれらの諸国民の次の未来であるはずの人間的高みへも高め上げれるような、そういう革命へ到達しうるかということにある。」(P341) 抽象的な言い方ですが、ここでの問題は、ドイツがその時点で直面している社会変革の課題がどの様な性格と中身なのかを問うているわけです。先進諸国に追いつくだけが問題ではなく、先進諸国が抱えている問題についても問われている、と。これが、この小論のこの後の後半部分のテーマなんですね。そこではドイツの現状が、この角度から様々に分析されています。ドイツ社会の唯物論による分析で、唯物史観の基本がたてられています。 私なりに、この小論を読んで感じていることですが。 1、マルクスはここでは急速な成長過程にあると思います。確かに唯物史観の着想を得ています。しかしなにか湧き出してくるような抽象的な表現もあり、すべてを理解しようとすると無理をきたすと思うんです。 2、大事な点は、唯物論的な社会史観の基本が着想されて、社会関係の検討が始まりだした点です。その後、この着想から立体的な社会関係(唯物史観)、さらに諸事実をしらべて論証的に語れるようになるのは、それはまだまだ先のことですが。しかし、ここで一歩が踏み出されているのは確かです。3、それと、ここで問題とされているドイツ社会の分析ですが、今日の私たちにとっても、たいへん参考になる問題をもっていると思うんですよ。 この小論が刊行されたのが1844年ですから、日本では幕末に入っていく時代です。 マルクスが当時のドイツで課題としていたことは、日本でもよく似た状況があったということです。 その後の近代史においても、日本は1868年の明治維新を経て、(マルクスは1883年に亡くなりましたが)、1889年にはプロイセン憲法を学んで大日本帝国憲法がつくられます。夏目漱石の「現代日本の開化」(1911年)、「私の個人主義」(1914年)などに見られるように、日本人の中からも直面している課題にたいする探究が始まっています。 1914年には同じように世界大戦にかかわりますが、勝ち負けが分かれます。負けたドイツはワイマール憲法をつくります。しかし、ヒットラー・ファシズムが支配するようになる。一方、戦争での漁夫の利をえた日本は、大正デモクラシーを押しつぶして、軍国主義への道を進む。両者はやがて、日本とドイツは日独伊軍事同盟を結んで、侵略戦争と国内弾圧への道を共にして、 第二次世界大戦に進んだ。ファシズム・軍国主義は敗れて、ともに民主的憲法を得たわけですが。片やファシズムを反省する勢力からドイツの政権は出来ましたが、他方の日本では、戦前の支配勢力を引き続きその流れが政権につき、戦後70年を歩んできた。 今日、日本は、建前としては近代民主国家とされ、確かに民主的な憲法をもってはいるんだけれど、その憲法の魂を、精神の中身を国民的につくるのは、これからの(今の)課題だということ。それには、これまで歩んできた世界と日本の近代の歴史を根本的にまなびつつ、これから自分たち自身をそうした水準へと変えていかなければならないということ。政治体制を変えるということは、そうした歴史に学ぶ課題を、歴史は私たちに提起しているんだということなんですね。 ここには、何処かマルクスが直面し、格闘していた事柄と、よく似ている課題があるなぁと感じるのは、私だけでしょうか。
2016年08月14日
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真鶴のみかん園の草刈をしてきました8月13日、真鶴のみかん園の草刈りに行ってきました。エンジン式の草刈り機を使って、みかん園全体をひと通りの草刈りしておきました。お盆のこの時期というのは、夏休みと週末も重なって、朝から伊豆方面へ向かう車で、真鶴道路は渋滞します。今朝は、いつも通り、早めに八王子を出たんですが、まだ午前7時ころだというのに、すでに早川の石橋インターでは渋滞が始まってました。当方はまだましですが、行楽か帰省か、とにかく東京人は大変なんですね。午前8時から9時くらいまで、約1時間の草刈りでした。早川のみかん園とは違って、真鶴のみかん園は住宅地の中にあるんですね。市街地の中にあって、450平米と狭いんですが、かなりの密集園なんです。草刈りは、2年前から草刈り機を使うようにしています。狭いといっても、これだけ草刈りするのは大変なんですね。みかん園を手入れするようになって15年になりますが、2年前までは、鎌一本をたよりにしての、地面を這いつくばっての草刈りでしたから、この夏の日差しの下での草刈りは大変だったんです。高校時代の知人が、草刈り機をアドバイスしてくれて、産業革命しました。もしそれがなければ、身体の方から、立ち行かなくなっていたと思います。さて、今回の主題ですが、草刈りの他に二つありました。一つは、ラッキョウの球根の植え付けでした。これは、みかん園のすき間につくった「家庭菜園」です。1平米くらいですが、定番になっています。植え付けする前に、草取りと中耕をしておいて、とっておいた種ラッキョウを2個を一組にして、全部で10株くらいですが、植え付けします。来年の6月ころが収穫ですが、その間は、せいぜい草取りをしているくらいです。手間いらずのラッキョウ栽培です。もう一つの作業は、蜜蜂への給餌でした。これは、給餌した後の巣門の様子です。入口につけてある金網ですが、これは、スズメバチの加害を防ぐためにつけたものです。少し前につけました。それは正解でした。今回作業をしていたら、案の定、キイロスズメバチがやってきました。ただちに、補虫網をつかって捕まえました。キイロスズメバチは、巣門の所にきて、ミツバチを捕まえようとしているんですね。蜜蜂と、それが運んで来る蜜をねらっているんですね。次々にやって来ているはずです。そのうちに、オオスズメバチもやってくると思ってるんですが。私が手網で防げるのは、ごく限られてます。日ごろは、この金網が便りなんです。これでもなにも無いよりは、少しはましかと思ってるんですが。みかんの方ですが、この時期は果実の肥大化がすすんでいます。果実が大分目立ってくるようになりました。この木は、興津早生の小木ですが、毎年コンスタントに実をつけてくれてます。小木ですから、収穫量はそれほどたくさんではないのですが、それでも毎年、そこそこの実をつけてくれるのがありがたいものです。その後ろの方にある木ですが、これはかなりの成木なんですが、こちらの方は、今年は裏年です。去年はたくさん実をつけてくれましたが、今年はあまり実をつけていません。これが「隔年結果」というもので、果樹は一般に、年によって、成る年とならない年を交互交代する傾向があります。去年たくさん働いた木は、今年はすこしお休みといったところです。なかには、コンスタントに実をつけてくれる木もあるんですが。この時期のみかんですが、全体としては、適度な雨と夏の日差しで、肥大化がすすむ時です。この時期は、当方にとっては、木々の表と裏の様子を見て、この秋のみかんの収穫量を予想するようにしているんですが。今回は、草刈りを終えると、全身汗びっしょりになってしまい、もうそれ以上は、何かしようとする気力はなくなってしまいました。そうしたことは最初のうちに、やっておくべきだったんですね。それで、今回は草刈りまでとして、収穫予想の方は、次回に来た時の宿題にしてきました。
2016年08月13日
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ブルーベリー・ジャム作りと藤沢周平8月10日にとって来たブルーベリーですが、その半分を使って、今年最初のジャムをつくりました。当方は、この9月に同窓会で山形県を旅する予定になっているんですが、主宰者から一つの宿題が出されていました。山形は、藤沢周平の故郷なんだそうです。私などは、自慢じゃないですが、藤沢周平の作品など、一作も読んでなかったんですが。『せっかく遠路旅するんだから、なにか一つでも読んでおいたらよいのでは』という話だったんです。私にとっては、以前に山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」を見てましたが、その原作が藤沢周平とのことで、これが唯一の縁だったんですね。その9月も近づいてきましたが、数日前のこと、日頃利用させてもらっている図書館の棚でしたが、偶然にも一冊の本が目につきました。これは図書館のものとは別のもので、本日、古書店で入手したものですが。藤沢周平は、1927年(昭和2年)山形県生まれ、1997年(平成9年)に亡くなったんですね。その藤沢作品は、時代小説ばかりかと思っていたんですが、確かにそうなんですが、それは少し違ってました。この『半生の記』(文春文庫 1997年刊)を手にしてわかりました。この作品を読んで、私などが『あれっ』と思った二か所について紹介します。1つは、鶴岡の印刷会社で働いたことがあるそうですが、「作業は立ち仕事だったが、さほど疲れは感じなかった。若いということもあったろうが、小学校、高等科時代を通じて、私は村の子供として田植え、取り入れの繁忙期の手伝いでは、時に子供ながら体力を使い切るほどのはげしい労働を経験しているので、それにくらべれば工場の仕事自体は辛いというほどのものではなかった。」(敗戦まで P63)この「体力を使い切るほどのはげしい労働」ということですが、一見のどかなみかん園にも、遠路出かけてきては、限られた時間に草刈りをやり切るといった場合、とくに梅雨から夏の時期ですが、こうした経験をさせられるんですね。なかなか実感がこもった言葉として聞きました。もう1つですが、農業のつらさと同時に喜びを書いている箇所がありました。「(親たちは)農業は辛いだけの仕事ではなく、大自然の中で土と植物、動物を相手に収穫する喜びをあわせ持つ職業であることを理解することを経験的に知っていた。」(P46)この農業者の喜びについても共感するんですね。確かに道楽仕事としての農業と、それを生業としている農家の仕事とでは、仕事に対する姿勢が大きく違うんですよ。しかし、それでも共通して自然を相手とした収穫の喜びをもつのが農業なんですね。実際には農家の人たちは、部外者にはあまり実情を語りません。不言実行です。がしかし、確かにそうした内容をもっていることを、私などでも感じていたことを藤沢周平はサラッと書き付けています。私などは、農業に最近かかわるようになったばかりですから、身の程知らずなんですが、それでも心配してるんですね。TPPだとか、政府の農業政策を聞いていると、本当に極まれな農業経営を、ごく一部の特殊な農家を取り上げて、それがあたかも農家の一般の目標にすべきだなどと、夢のような構想を描いていて、上からそうした目標を全体に被せようとしています。自民党の農業政策が、いつのころから、こうした農家の現状から遊離したものになってしまったのか知りませんが、とにかくそうした農政がずっと続けられてきているわけです。まぁ、これじゃぁ、一般農家は確かに寡黙にもなるはずです。私などは、実際の農家の苦労からは、遠く離れてますから、やはり具体的には分からないんです。それでも感じています、地に足をつけた農業政策が、実際の農家を振興していく政策が、まさに今、切実に求められていることを。それに正面から答えれない政治は、はやく変えていかなければならないと。
2016年08月11日
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早川のみかん園でのブルーベリー採り8月10日、早川のみかん園「だんだん園」へ行ってきました。今日は、ブルーベリー採りと草刈りです。関東も8月に入ってから、暑い日がつづいています。「だんだん園」には、ブルーベリー畑があって、この時期には、恒例なんですが、摘まさせてもらっています。みかんには隔年結果がありますが、ブルーベリーの場合もそうでしょうか、ことしは去年にくらべて、実のつきが少ないようです。陽ざしがきつくなる前に摘み採りを終えるために、早起きして出かけてきました。なんたって、日陰がありませんから、この時期の作業は、早朝のうちに済ませるのにかぎるわけです。その為、朝は4時20分には八王子を出てきました。小田原サービスエリアから見えた富士山です。午前5時51分でしたが、雲がありませんから、この分だと、ほどなく今日もカンカン照りの暑さになることは必定です。今日の作業の一つは、みかん園の草刈りだったんです。前回は、お茶の木に巻き付いたヤブカラシを取り除いたんですが、そうした間に、少し間を置いただけだったんですが、ご覧のとおりです。この時期は、雑草と人間との根競べをしているわけです。午前8時をまわると、日差しも強くなってきますから、あまり、根をつめてはしません。もう、汗びっしょりですから。みかん園は、今、セミたちの楽園です。始めるまえに見回りしていたら、すぐ隣の木でセミの鳴き声が。クマゼミです。普通はひとの気配がすれば、鳴き声に警戒心が出てくるんですが、まったくその気配がありません。むしろ声を大きくして鳴いています。午前9時には、作業を終了したんですが、引き上げてくる途中でみえる遠景ですが、小田原の景色です。横に伸びた緑の木の列の中に、中央から少し右側ですが、小田原城も見えてます。この景色は最高ですね。とくに一仕事終えて、濡れた衣類を着替えて、日陰でもって、ゆっくりと涼しい風にでも吹かれながら、水やお茶でも飲めたとしたら、これはもうもう最高ですね。ヘトヘトなんですが、心地よい疲れですね。安全運転で、帰ってくるわけです。
2016年08月10日
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8月8日の天皇メッセージに関連して、これに対し、私の参考にする一冊、『憲法』(宮沢俊義著)です 昨日、8月8日、天皇のビデオ・メッセージを見ました。 今、メディアは、いろいろなコメンテーターや解説者をたくさん繰り出して、湯水のように、様々な感想、解説などを大量に流していますが。 そんな洪水を見て、私なりに思っていることですが、メディアによってつくりだされる浮ついたムード、それに流されるのは問題です。 やはり出発点として大事なことは、こうした天皇メッセ―ジが出てくる事情と、そのもとになっている、 現在の憲法と、その下での法律はどうなっているのか。この基礎となる点への理解と認識が大事になっていると思っています。 そこで、私なりにこの問題に関連しそうなものを、いろいろ探っているんですが、その一冊として、 宮沢俊義著『憲法』(有斐閣全書 1989年改訂五版)がありました。今回は、それを紹介します。これは、たまたま手元にありました。おそらく以前に、憲法を理解しようとして、入手していたものと思われますが。今回、あらためて読んでみたんですね。そしたら、今回の天皇発言を考える上で、これが大変参考になることがわかりました。ちまたでは、ああでもない、こーでもないと、ずいぶん浮ついたことがらが、洪水のようにまき散らされてます。場当たり的な気分で、かってに言いたい放題です。これは皇室報道だけではありませんが、毎度の傾向ですが。ことに皇室の問題に関しては、一段と規模とともに音量がおおきくなります。そうであればこそ、今が大事です。しっかり地に着いた憲法認識と、そのあり方に接近していく議論が大切だとおもいます。こうした喧騒に付和雷同するのではなく、あくまで、こうした中でも、日本国憲法にたいするしっかりした認識を深めること、これが、一番大事なことかと思っています。 この本の著者・宮沢俊義氏(1899年-1976年)ですが、すでに亡くなっています。 この本の〈はしがき〉で、次の様に書いています。「この本は、現在の日本の憲法を体系的に概説したものである。・・こういう情勢下において、憲法に対する強い関心と深い理解が、憲法制定権者としての国民のすべてに対して、とくに要求されるだろう。・・」(1973年2月) この本の第六章が「天皇」ですが、その章は全部で五つの節からなってます。 第一節 序説、第二節 皇位継承、第三節 天皇の権能、第四節 摂政、第五節 皇室の事務、です。 難しいものではありません。P175からP206と、30ページくらいと、いたってコンパクトなものです。明治憲法とも比較しつつ、現行の日本国憲法の要点をまとめてくれています。 さらに著者は言ってます「憲法に関する教科書そのほかの研究書は、きわめて多い。戦前とくらべると、非常なちがいである。戦後における憲法の研究が、戦前のそれに比べて、はるかに盛んなのは、学会のためにも、また、憲法の基本理念としての民主主義のためにも喜ぶべきことである。この版を書くにあたって、当然のことながら、それらの諸研究に負うところが多かったことを記して、感謝を表したい。」と。この本を読んでいただくと分かりますが、著者は、現行の日本国憲法の全体について、なかなかの見識者なんですね。私などは憲法論については素人なんですが、しかし素人ながらもそう感じています。 当方も、あらためて65の手習いです。憲法制定70年を迎えています。昨今の世相は、憲法の真価が体得できるかどうか、一人ひとりに問われる日々でもあります。私なども、憲法制定権者の一員であることを自分自身に問いかえして、それに恥じないように、この機会に、この問題を通しても、自らの憲法に対する理解と認識を高めたいと思っています。それが、国民の一人としての、今日における責任だということです。
2016年08月09日
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梅干が出来ました8月8日朝、今年もついに梅干が出来上がりました。この数年は、我が家では自家製の梅干づくりが恒例になっています。8月5日に「三日三晩の土用干し」に入って、今朝、干しあがった梅干を取り込みをしました。今年の梅干の出来上がりです。梅というのは、たいしたものですよ。1月28日の梅の木です。冬の季節に、こうして綺麗な花を楽しませてくれるのですから。真ん中あたりの花に、蜜蜂が花蜜を集めていました。そして、4,5カ月が過ぎて、今年の梅雨入りは6月5日でしたが、6月1日には梅の実の最初の収穫しました。実の肥大化するのを待ちたいのですが、時を越すと落果してしまいます。どのタイミングで、いつ採るのが良いか、悩まされるのですが。6月11日は、2回目の収穫日だったんですが、この日収穫した梅は梅酒用に、6月1日のは梅干用につけ込みました。こうして、梅雨のあけるのを待っていたんですが。今年の関東地方は、なかなか梅雨が明けてくれなかったんですね。やっと7月28日に梅雨は開けたのですが。しかし、あけても天候が安定せず、晴れ間が続いてくれなかったんですね。それでも、やはり自然はたいしたもので、このところ夏の陽気になりました。季節は8月7日にははやくも立秋なんですが、まぁ、まずまずでしょう。これが梅のいち年ですが、梅干はいち年を通しての、締めくくりの恵みです。今、日本の全国各地に広がる梅ですが、自然には、絶対に一人歩きせず、こんなに広がりっこありませんから、きっと、歴史のどこかで、大きな流行があったはずですよ。『万葉集』ですが、そこでの花は梅が中心ですから、この頃もひろまった。春さればまづ咲く宿の梅の花 独り見つつや春日暮らさむ 憶良万葉の貴族たちは、梅の実の利用は、食用については、そんな下賤なことは歌ってないのですが、実際はどうだっか。少なくとも、花見の宴を、九州の大宰府でも楽しんでいます。これに対して、昨今ですが、花を楽しむどころではない、政治の風向きはそれどころではないんですね。しかしそれは、梅の花や実の罪ではありませんから、せめて、そうした中でも、時には自然を楽しむのも、大事なこと。自然の方向に、心身をリセットすることも、力を蓄えることとして、これはこれで大事なことかと思っています。
2016年08月08日
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マルクスの哲学の源流を訪ねて、 「ヘーゲル法哲学批判序論」を学ぶ(その2) 選挙前にあれだけその是非が国民的な大問題になっていたのに、実際の選挙なると議論を避ける。そして選挙が終わるや否や改悪方向にすすみだす。これが政治家ですか、何としたことでしょう。「イギリス人民が自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員がえらばれるや否や人民は奴隷となり、無に帰してしまう」このルソーの批評は、こうしたことを言ってたんですね。 さて、それはともかく、前回に続いてマルクスの哲学の源流を訪ねています。マルクスの時代と私たちの時代には似ている状況があることを、前回紹介しました。1843年に、マルクスはプロイセンの反動政治のためフランスへ亡命します。その途中での手紙ですが、「私たちは独断的に世界を先取りしようとするのではなく、かえって古い世界の批判から、新しい世界を見出そうとする。これが新しい動きの長所なのだ」と書いていました。マルクスはまったくへこたれてませんね。志が高いですね。それは注意してみて下さい、これは唯物弁証法の見方であり、新しい社会を開拓しようとしているんですね。 だいたい以上が、前回に紹介したことです、復習です。 今回はその続きですが。この当時のことを、マルクスは後に(15年後に)ふりかえって書いています。 「私の疑問解決のための最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その序説は1844年にパリで『独仏年誌』に掲載した。私の研究の到達した結果は次のことだった。法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根差しているものであって、それをヘーゲルは『市民社会』と総括しているが、この『市民社会』の解剖学は経済学にもとめられる。」(『経済学批判』の「序言」1859年1月) これが今回のテーマなんです。社会史への唯物論的な方法を発見したこと。唯物史観へもっとも基本的な関係が述べられています。これに基づく努力が開始されたことが述べられています。それを「ヘーゲル法哲学批判序論」において、確かめてみようというのが今回です。 私は前回、「ヘーゲル法哲学批判序論」を、便宜的に5つの章に分けてみました。 国民文庫版(真下信一訳 1970年8月刊)をつかっています。 一、最初の区分けした章は、フォイエルバッハの唯物論を社会に押し広げた点です。第1章「フォイエルバッハの宗教批判」(P329から331の7節分)ですが。 「宗教は、人間の自己意識・自己感情である。」(「われわれの宗教的空想が創作した最も高い存在者というようなものは、我々自身の本質が空想のうちに反映されたものにすぎない」) このフォイエルバッハの見解をさらにおしすすめます。 「人間とは、人間の世界であり、国家であり、世間である。この国家、この世間が、世の中というものの一つの倒錯した意識であるところの宗教を生みだす」 (当時のプロイセン国王は神聖ローマ帝国皇帝として、日本の戦前の国家神道の様に、祭政一致の体制だったと思われます) フォイエルバッハが抽象的な「人間」にとどまっていたのに対して、マルクスは社会関係の中に倒錯した状況の原因となる問題点を調べるということですね。 第二に、次はドイツの社会状況と、その意識形態の問題です。 第2章「当時のドイツ社会に対する見方」(P331から337の14節分)と、第3章「ドイツ社会の意識形態」(P338から343の11節分)とが、その部分です。 1、『手紙』で示唆されていて社会論の方向が、ドイツの社会状態が、描かれています。 1つ、2つ書き抜いてみます。 ア、「ドイツ社会の恥部として描き、石化した状態に、それ自身のメロディーを歌い聞かせること。踊りださずにはいられなくさせること。国民に勇気を持たせるためには、たまげさせることを教えなければならない。」(9節) イ、歴史は根本的で、一つの古い形態を墓へ送る場合、多くの局面を経過する。一つの世界史的形態の最後は喜劇だ。」(9節) 2、ドイツの哲学的党派の弱点について次は、第3章の意識についての問題です。存在と意識を、それぞれを明確に分けています。 ア、「(このドイツの理論的な政治的)党派は、今日の闘争のうちに、ただドイツ的世界を相手にした哲学の批判的闘争のみを見てとり、従来の哲学がこの世界の一部であって、世界の観念上の補足であることを考慮しなかった。」(4節) イ、「その根本欠陥は、哲学を廃棄することなしに、それを実現することができると思っていたところにある。」(4節)哲学論だけで、ことはすすまない。哲学は諸分野の(政治とか、)なかで、証明されなければならない。3、ヘーゲルの法哲学について、その積極的な評価が、第5節でされています。直接ヘーゲルについて触れているのは、全体の中で、この節だけなんですよ。(P340) ア、「ヘーゲルによってもっとも筋道立った、もっとも豊かな、そして究極的な形にまとめられたドイツの国家および法の哲学に対する批判は、一面で現代国家とそれにつながる現実との批判的分析であるとともに、他面ドイツの政治的および法的意識の従来の在り方全体の決定的否定でもある。そして、ドイツの政治的及び法的意識のもっとも高邁な、もっとも普遍的な、学にまで高められた表現こそ思弁的法哲学にほかならない。」 イ、「ドイツはほかの諸国民がやったことを政治において考えた。ドイツはほかの諸国民の理論的な良心であった。その思惟の捨象と高踏は、彼らの現実性の一面性と底屈にいつも歩調を合わせていた。かくてドイツ的国家制度の現状がアンシャン・レジームの完成を、現代国家の肉の内なるとげの完成をあらわすとすれば、ドイツ的国家知の現状は現代国家の未完成、すなわちその肉そのものの傷みをあらわすのである。」 ヘーゲルの『法哲学』を、国家論部分を批判的に検討した、これがその結論です。 引用が大分長くなりましたが、ここでマルクスは、ドイツ社会の問題について分析し描いています。さらにそれが、どの様に意識の諸形態に現れているのか。とくにヘーゲルの法哲学はどの様に評価できるか。私たちにとっても、おおいに参考になると感じませんか。 また、社会の歴史に対する唯物論的な見方とはどの様な方法をもって研究することなのか。知識として唯物史観の定式を暗記しているだけではだめなんです。それを解説しているだけではだめなんです。それじゃあ、意味をなさない。テープレコーダーを繰り返しているようなものです。それじゃあ、なまけものなんです。そんなことを考えさせられる「序論」でもありました。次回は、後半部分です。
2016年08月07日
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「三日三晩の土用干し」をはじめました今年は、関東の梅雨明けが7月28日と遅れました。あけても、天気が不安定で、晴れ間が続かなかったんですが。梅干づくりをしている当方としては、天気の見定めが問題でした。そうした中、ついに8月5日(金)から今年の土用干しをはじめました。梅干づくりで肝心なのは、「三日三晩の土用干し」です。夏の暑い日差しが3日間続くことが大事になります。ニュースでは、各地で「36度を越した」と、暑さに困っている話が問題になります。身体が慣れてないのに、極端な暑さには誰しも閉口なんですが、暑さの下での、熱中症などの事故もおきてますから。ところが、適度な暑さは、むかしから重要なんですね。この梅干づくりにとても。団地のベランダには、洗濯物とともに、梅干が二つならびました。今年は、梅の収穫が少なかった。去年は55キロだったのに、今年は14キロの収穫でした。梅にも、表年と裏年があるようです。それと、花の咲く時期の気候も関係してそうですが。今年は、全部で4キロのつけ込みで、カメには各2キロをつけて、2つのカメをつかいました。梅干づくりは、塩さえあれば、赤シソがあればなおいいんですが、それだけで出来ちゃうんですから、手軽です。日本の四季の変化にみあった自然の恵みです。梅干自体がよく保存もきくし、食品のいたみをおさえます。何よりも健康食です。むかしからの暮らしの知恵ですね。なにしろ生まれたところが小田原のすぐ近くですから、むかしから梅干文化の中にありました。家々の片隅には梅の木があるんですね。梅干は、昔から我が家でも、おばあちゃんがつくっていたかと思います。近所の人たちがあつまって、茶飲み話で品評会などもしていたような。それに対して、子どもは「あんな酸っぱくて美味しくないものの、どこがいいんだ」と、さらには「梅干しばあさん」なんていって、馬鹿にしていたんですが。ところが自分も歳をとってみると、すっかり評価が変わりました。これは、日本人の暮らしの知恵ですね。万花に先駆けて咲く梅の花は、冬を越してゆく力をしめしてくれますし、梅雨の6月ともなれば、梅の出番です。日本の季節の変化をよくとらえていて、質素な材料だけで、すばらしい健康食ができるんですから。世の中は、都市化や高齢化など、物も人も様々に変化していきますが、こうした文化に関しては、お金がとくにかかるわけではないし、暮らしの中に大事に生かして、引き継いでいきたいものですね。
2016年08月05日
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ヤブカラシを取り除いてきました8月4日、農夫は早起きして遠出してきました。東京・八王子を、午前3時45分に出かけました。午前5時5分、小田原厚木道路の平塚サービスエリアから見た富士山です。早起きするのは、炎天下の作業がきついので、日差しが強くなってくる前に作業を終わらせるためです。これは7月23日に草刈りした後の、お茶の木の様子です。すっかりヤブカラシが覆いかぶさってますが、これはお茶の木なんですよ。地面の草刈りの方は、とりあえず、順次ひと回りしてきたんですが。まだ、このヤブカラシを取り除く作業の方は残っていたんですね。日差しをさえぎるものがありませんから、早朝の涼しいうちが、作業時間になるわけです。今回は、この巻き付いた蔓を取り除くことが主題でしたが、その作業を終了した後の様子です。巻き付いた草を取り除いたら、下からお茶の木が出てきました。この草取り作業は、午前5時40分から6時40分まで、1時間かかりました。ヤブカラシに巻き付かれると、その下になっているお茶の木の方は、生育が良くありません。この5月にこの箇所の茶摘みを初めてしたんですが、若葉の発芽が少なくて、茶摘みできた茶葉の量が1キロくらいと、少なかったんですね。巻き付いたヤブカラシを育てていたようなものでした。それで、今回は、あえて巻き付いてつる草を取りのぞくようにしているわけです。午前6時30分をまわると、もう日差しが強くなりだしてきました。鎌をつかって、巻き付いた草を引っ張って取り除くわけですが。たった1時間で、もう汗びっしょりになりました。今回で、巻き付いていたヤブカラシなどは取り除きましたが、見てのとおり、足元の地面の草の方は、この間に雨も降ったこともあって、前回草刈りしたばかりなんですが、すでに所々で雑草の繁茂が始まりだしていました。とにかく、お茶の木に巻き付いていたつる草の方は、今回で除去を完了しました。
2016年08月04日
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マルクスの哲学の源流を訪ねて、「ヘーゲル法哲学批判序論」を学ぶ(その1) 当方は、7月4日と5日にマルクスの「独仏年誌の手紙」を紹介しました。 1843年9月にマルクスからルーゲに当てた手紙です。そこでは、これから亡命先のパリで発行しようとしている雑誌について、その主題を「時代自身が、その闘争と願望についてはっきり理解すること、批判的哲学です。」と意見交換していました。 その時は、第24回参議院選挙(7月10日投票)と東京都知事選挙(7月31日投票)がおこなわれている最中のことでしたから、この紹介がグダグダした邪魔なものにならないようにおもって、「批判はどのようにあるべきか」この点にしぼって、短く紹介しました。まぁそれは、そのまま自分自身に言い聞かしていたようなものでしたが。 このマルクスの『批判的哲学』ですが、言い方をかえてこのようにも紹介しています。 「私たちが独断的に世界を先取りしようとするのではなく、かえって古い世界の批判から、新しい世界を見出そうとすること。これが新しい動きの長所なんだ」-お気づきかとは思いますが、これは唯物弁証法なんですね。 当方は、この手紙に続いて、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序論」を学習していたんです。 ヘーゲルの『法哲学』を、その国家論部分を逐条的に批判した成果を、エッセンスをコンパクトに「序論」として、まとめたものですが。この論文はなかなか重要だし、面白いんですよ。 当方は、国民文庫『ヘーゲル法哲学批判序論』(真下信一訳 1970年8月刊行)で読んでます。 P329から351の、全体で22ページ分と短い論文です。 何故、今『ヘーゲル法哲学批判序論』かについては、前回の手紙でも紹介しましたが、 一つは、1843年ころのプロイセン(ドイツ)が、君主政が反動化して、立憲主義の建前が壊されてしまった。反動政治と国民や知識人が対決してたたかっていく。マルクスのパリへの亡命もその為だったんですが。これが、今の日本の反動政治との対決とも、似ている側面があるんですね。もう一つは、このヘーゲル法哲学批判の中から、マルクスは唯物弁証法と唯物論的社会観・歴史観が発見されるんですね。それは今日では常識的な知識になってますが、それを生きたものとして把握するのは、それほど簡単なことではないと思っているからなんですが。それを探ってみたいと思ったいるからなんですが。 といったことで、今回、あらためてこの論文に挑戦している次第です。何かしら参考になれば、幸いなんですが。 当方が、これを読むにあたり参考にしている文章を、一つ紹介しておきます。 『ドイツ・イデォロギー』の、三.聖マックス c人道的自由主義 からですが。 「これらの人間の経験的、物質的なふるまいは、ヘーゲルから相続された理論的武器をもっては、もちろん理解されることすらできない。フォイエルバッハは宗教的世界を、彼自身にあってもほんのただ言辞として現れるものでしかない地上的世界の幻想であると指摘したことによって、フォイエルバッハによって答えられなかった疑問がドイツ的理論にとってもまた、おのずから生じることになった。すなわち、人間がこれらの幻想を「自分の頭のなかへ入れた」というのはどうして起こったのか?この疑問は、ドイツの理論家たちにとってさえ、唯物論的な世界への道をひらいた。すなわち、無前提的な見方ではなくて、現実的な物質的諸前提そのものを経験的に観察するところの、またそれゆえにはじめて現実的で批判的な、世界の見方への道をひらいた。この進路はすでに「独仏年誌」の中で、「ヘーゲル法哲学批判への序説」、「ユダヤ人問題によせて」において示唆されていた。」(第3巻 P236) このマルクスの自己紹介ですが、この論文を読み解くうえで鍵になるとおもっています。 さて、「ヘーゲル法哲学批判序論」(=「序説」)ですが。 便宜的に、全体を5つの章に分けてみました。 第一章は、宗教批判。宗教に対する唯物論の立場からの批判です。(P329から7節あります) 第二章は、当時のドイツ社会に対する唯物論の見方による批判です。(P331から14節あります) 第三章は、ドイツの社会の意識形態に対する批判です。(P338から11節あります) この第5節にヘーゲル法哲学に対する直接的言明が、評価があります。 第四章は、ドイツが当面している民主主義革命の課題と特徴です。(P343から9節あります) 第五章は、ドイツ革命においてプロレタリアートがはたすべき役割です。(P349から8節あります) 今回はここまでですが、これから、順次紹介していきたいと思っています。 この「マルクス主義哲学の源流をたずねて」に、おつき合いいただけたら幸いです。
2016年08月02日
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みかん農夫の7月のまとめみなさん、ご奮闘を、ご苦労様でした。この7月は、参議院選挙(6月22日公示)が7月10日に投票となり、つづいて東京都知事選挙(7月14日告示)が7月31日の投票まで続きました。日本の未来がかかった、全国が注目する都知事選挙でした。7月31日、午前5時35分、小田原から見えた富士山です。一、この7月ですが、私なども二つの選挙へのかかわりが大きかったんです。1、都知事選の結果ですが、当選 小池候補 2,912,628 投票率 59.73 増田候補 1,793,453 鳥越候補 1,346,103 これをどう見るかは、これからいろいろ分析されますが。2、当方は、この二つの選挙を、ブログ・フェイスブックでいろいろ交歓させてもらいました。参議院選挙については6月からブログの発信をしてきましたが、この7月には2通を発信しました。つづく東京都知事選では、7月16日の「第一声について」に始まって、7月31日「開票の前に」まで、全部で11通のブログを発信してきました。いろいろ有意義なニュースもみさせていただき、認識を広げさせてもらいました。やはりインターネットいうのはすごい力をもっていますね。二、さて7月のみかん園の手入れの方ですが。7月の、梅雨のこの時期は、カミキリムシ対策と草刈りが中心でした。いずれも後回しには出来ない仕事なんですよ。この関係でも5通を発信させてもらいました。1、カミキリムシの問題。カミキリムシはみかんの木を枯らしてしまいます。7月1日に今年最初のカミキリムシを見つけてから、基幹に防虫剤を塗布しました。だいたい行くたびにみつけて、これまでに全部で4匹を駆除しています。2、さらに草刈り作業です。7月28日にはようやく関東も梅雨明けしましたが、この時期はひと雨ごとに雑草が繁茂してきます。若草のうちに草刈りしておかないと、後回しにすると、雑草が丈夫になって、難行苦行のもっと大変な作業になるんですね。三、もう一つの課題として学習活動がありました。年金農夫としての当方としては、〈二つの選挙とみかん園の手入れ〉、この二つが社会的な活動でしたが、もう一つ懸案として学習活動がありました。この7月には、7月4と5日にマルクスの「独仏年誌の手紙」紹介と、7月11日に夏目漱石の「現代日本の開化」と14日に「私の個人主義」を、この4通を紹介しました。これらが、この間の全体的な活動と発信の基礎となりました。1、にわか仕込みの知識ですから、とかく浅知恵をひけらかしたがるんですが。どういうわけか、今回、マルクスの1843年「独仏年誌の手紙」に注目ました。ここでマルクスは何を問題としているのか。「ヘーゲル法哲学の批判」なんですね。フォイエルバッハの唯物論をすすめて唯物弁証法を探りだしています。とらえています。そのことは同時に「へーゲル法哲学」を批判することですから、社会観・国家観を探究することでもあったわけですね。唯物史観の確立に接近して行きます。ここで言う「唯物論」とは何か、要するに、主観的な独断と偏見を排して、対象そのものを認識するという、ただそれだけのこと、ごく当たり前のことなんですが。ここには哲学・社会観の問題があります。2、このマルクスの1840年代の活動ですが、当時のプロイセンでは君主制の反動的専制をむき出しになった反動政治と対決することでした。そこでのマルクスの活動と探究ですが、日本の今日の状況とは、とうぜん時代も状況も違いますが、しかし立憲主義の建前が壊されて野蛮な政治が大手をふるっている状態への対決など、たいへん似ている問題があるんですね。政治社会を変革・発展させる理論の問題があります。3、もう一つの柱は日本国憲法です。『「憲法改正」の真実』(樋口陽一・小林節著)を入り口に憲法論を、歴史と思想を学んできました。これまで憲法は、その三原則は、自然なことのように思ってきたんですが、しかしきわめて歴史的なものだということが、あらためて最近になって感じさせられてきたしだいです。近代民主主義の思想も学びかえされました。4、「理性はいつの時代にも存在してきた、ただし理性的な形をとってはなかったが」-『独仏年誌』の手紙の中での一文です。夏目漱石による2つの講演「現代日本の開化」「私の個人主義」ですが、ここで近代日本のもっている課題が探られています。漱石なりにそれを明らかにされています。そしてそれは今読んでも古くないんですね。今回の参議院選挙や都知事選挙の結果を見ても、ここで漱石が提起した課題にわれわれはまとわりつかれていることを感じさせられています。100年の前の講演ですよ。たしかにこの2つの講演は、私の漱石に対する見方を一新させてくれました。この二人によって、私なども、もう一度、日本の近代史を学びかえす必要がでてきたわけです。あらためて、この二人はすごい巨人ですね。私などは、これまで問題の周りをうろついて、右往左往しているばかりだったんですが、それを正面から立ち向かっていたんですね。今回、蛍光灯で、ようやくいまごろ気がついたんですが。「社会の唯物論的な見方とはどういうことなのか。近代はどの様な課題をもって発展しているのか」。それはまた「現代の日本社会のもっている問題点はなんなのか、そして、それはどうやったら解決できるのか。」-こうした問題を、現代人に対して、たしかに二人は問題提起しているんですね。これが、だいたいの7月でした。今回の都知事選挙は残念な結果でしたが、けっしてその努力は無駄ではないとおもってます。そしてこうしたもやもやを整理することも、これからさらに前進していくには、欠かせない事柄だとおもっています。
2016年08月01日
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