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2016年10月の、みかん農夫のまとめ一、ミツバチのショック最初に、10月27日ですが、蜜蜂にたいへんショックなことがおきました。寒くもなって来たので、巣箱に防寒用のシートを被せようとしたんですが、念のためにと巣箱の蓋を開けてみたところ、スムシが大量発生してました。これは三度目の悪夢でした。ただちに徹底してスムシを駆除したのですが。この10月、スズメバチに気を取られているうちに、巣箱の中のスムシを見逃してしまった。10月30日に確認したら、やはり巣箱の中は空でした。またしても、蜜蜂の逃去・消滅させてしまいました。ガックリです。二、気落ちするの建直して、みかん作業です。10月27日に、少しですが、味見程度の、早生みかんの初収穫がありました。これは、味見用のみかんです。収穫は、はじめは電車と同じで、ゆっくりと、厳選して収穫していきます。ここで早やもぎしたら、せっかくの苦労が、画龍点睛を欠くことになりますから。とにかく、みかんの収穫がはじまりだしました。10月30日は、朝降った雨でみかんが濡れていたので、収穫は出来なかったんですが。しかしいよいよです、これから収穫作業のはじまりです。みかん農夫の三つの活動全体としては、10月のみかん農夫は、三つのことを進めています。1.みかん農夫、2.診療所の送迎運転、3.学習、この三つですが。三、診療所の送迎運転ですが、この10月から、ついに運行がスタートしました。初仕事は10月19日でしたが、聖が丘の方のお迎えでした。ついで、10月26日は、永山の方の送迎でした。だいたい当地は、多摩丘陵につくられた街ですから、柏の葉のような地形で、道路はアップダウンがあちこちにたくさんある。体の弱い高齢者が、バスを乗り換えるのは容易ではありません。通院しなければならないのに、足元が不自由で難儀しているのが一般的です。これから当方は水曜の午前中ですが、市内のあちこちを走り回わります。四、10月の学習ですが一つの問題は、5つの柱建てによる学習ということです。もちろん読書は、一つ一つを一点集中してすすめるしかないんですが、問題は、全体として、どの様な骨格の位置づけの下ですすめるかですね。つぎつぎに読めばよい、というものではありません。私の場合ですが、1、みかん農夫と自分史にかんするもの2、哲学や経済学、古典です(引き続き『ロシアにおける資本主義の発展』)3、憲法や政治に関するもの4、日本や世界の歴史に関するもの5、文学この5つの柱建てです。(10月は、こうした中で、宮本顕治『網走の覚書』、松本清張『砂の器』『半生の記』藤沢周平『義民が駆ける』、三浦綾子『母』『石ころのうた』澤地久枝『苦い蜜』、ゴーリキー『チェリカーシ』『どん底』岡田嘉子『ルパシカを着て生まれてきた私』増田れい子『住井すゑ ペンの生涯』不破哲三「党綱領の理論上の突破点について」近江谷昭二郎「農民運動の多面的発展で農村を革新の陣地に」などにあたりました)もう一つは、考え方、すすめ方、方法の問題です。私は今、自分自身の歴史をふりかえっているんですが、この10月には、1.生い立ち、2.郷里からの旅立ち、をまとめてみました。いろいろ発見がありましたが、さらに続いていきます。この自分史の問題のヒントですが、上記の読んだ本にありました。また、どうしたわけか、レーニンのイネッサ・アルマンドへの手紙が浮かんできたんですね。「マルクス主義の全精神、その体系は、おのおのの命題を、a.歴史的にのみ、b.他の諸命題と関連させてのみ、c.歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求している」(1916年11月30日)このレーニンの方法は、完全に生きていると思うんです。私などが思うのは、もちろん対象となる事物も歴史的なものなんですが、それをとらえようとしている自分自身も発展過程の面をもっている。それは、その時点でのベストを尽くした努力のうえに出てくる歴史な発展過程なんだということです。自分史というのは、それを確かめることでもあるんです。五、さて、いよいよみかんシーズンですこの11月には、みかんは成熟のテンポをどんどん上げていきます。これから、早生みかんから普通温州みかんへと、収穫対象も広がります。この2カ月間は、毎週2回、真鶴・早川と八王子間を往復して、収穫-搬送-袋・箱詰め-出荷を、回転させていきます。なんとか12月末には、最近では1月までかかるんですが、無事にゴールにたどり着くことが出来たら、幸なんですが。 以上。
2016年10月31日
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郷里・真鶴からの旅立ち 自分史(その2) 私は1950(昭和25)年に神奈川県足柄下郡岩(いわ)村に生まれました。今回は、郷里・真鶴からの旅立ちです。 一、〔学びの経過〕まず、年月が明確な学びの歩みについて確認してみました。岩小学校(1957年4月‐1963年3月)、真鶴中学校(1963年4月‐1966年3月)、小田原高校(1966年4月‐1969年3月)です。1969年4月に法政大学経済学部にすすみました。 当時の岩小学校は、学年全体で2クラス・62名でした。今は真鶴小学校に統合されて校舎は使われてません。真鶴中学校は学年全体で5クラス・200人でした。今までに岩小学校の同窓会は、1998年9月12日に1回ありました。35年ぶりでした。真鶴中学校の同窓会の方は数回開かれています。 問題の「郷里・真鶴からの旅立ち」がいつごろになるのか、ふりかえってみたのですが。 その時々を、前へまえへとすすんできたわけで、それがいつかというと確かではないのですが。 今にして思うのですが、郷里からの旅だちというのは、1966年の小田原高校への進学したころになるのではと思っています。 真鶴から小田原までというのは、東海道本線の電車にして駅3つ目、乗車時間では17分間くらいなんですが。今では、郷里としては岩・真鶴も、小田原も大体同じ地域に見えるんですが。しかし当時としては、小田原高校に通うようになった時が、郷里を出て新たな生活に移りだした時だったんですね。 二、〔小田原高校(1966年4月‐1969年3月)のころ〕 小田原高校は、主に大学進学を志望する人たちからなる進学校でした。 私などの入学は、確か510人中の170番台での合格だったと思います。国立系、文科系、理科系などにわかれていき、学年で9クラスありました。私の高校生活は、クラブ活動では水泳部で、3年間をすごしました。毎日、放課後になるとプールで泳いでいたわけです。 このなかで、2年生の後期でしたが、生徒会の役員選挙に立候補しました。 何故、私が立候補したかですが、一般には、高校2年生の後期というのは、受験勉強にとって大事な時ですから、あまり生徒会に立候補するような人はいないんですね。大体、私などはそれまでプールで水泳に専念したいたものですから、おおくの学生にとって、「あいつは、一体何者なんだ?」といったところだったと思います。 当時をふりかえると、問題は受験校としての校風に対する反発を感じていたんですね。 学校生活は受験が中心になっていて、授業も「この問題は、何年のどこどこの大学入試に出たから大事です」とか、「今時、クラブ活動なんかしている時ではなかろう」とか、そうした風潮があったわけで、それがお互いの壁になっているし、逆立ちしていると感じていたんですね。 当時をみると、全国的なべトナム反戦運動や各地の学園民主化の学生運動などもひろがっていた。それらが背景としてあったと思います。 しかし、私などは、自己の狭い世界でしたから、そうした社会事情も知らないし、そもそもひと前に出て話すなんてこともなかったわけですから、この立候補などということはありえないはずです。いったい何が突き動かしたんでしょうね。 「学園の逆立ちを正そう、壁を破ろう」などと説いたんですね。 当落が問題じゃなくて、問題を提起することが大事だと感じていたんですね。 そして、その結果は、生徒会の副会長に当選しちゃったんですね。 しかし、問題なのはそれからでした。 いまから思えば、受験社会の中で、その矛盾を感じたとしても、国の教育体制自体は、存在しているわけです。この生徒会選挙で提起した問題は何だったのか。いったい何をどうしたらよいのか、肝心な点が、私自身にもよくわかってなかったんですね。素朴な感覚的な抽象論でした。 任期の半年間(9月‐3月)ですが、結局、恒例のクラブの予算編成という仕事をこなしただけで、それ以外には何らこれといってなすこともなく過ぎてしまった。何が問題で、何をなすべきなのか、もやもやとした思いを残して任期を終えてしまったんですね。 三、〔母の死〕 この間にもう一つの問題がおきる。母が44歳で亡くなったんですね。 高校2年の時でしたが、ガンだったんです。 小田原の病院に入院していたんですが、ある日、授業の途中に「急ぎ、病院へゆくように」と呼び出しがありました。病院には、すでに家族がベッドを囲んでいた。母は、最期の力をふりしぼって、それぞれに言葉を残して、旅立っていきました。私には言葉はなかったんですが。 〔1967年(昭和42年)11月29日、母・文江、44歳にて死去〕 私にとって、身近な人が亡くなるというのは初めてでした。 人の死ということが解らなかったんですね。母は、私などのすることには、あれこれ口出しもせずに、小言もなく、どこか後ろの方で見守ってくれている存在でした。家の外でいろいろ社会活動をしていたようですが、私などの理解の外でした。当たり前な、自然な存在でしたから、それが無くなったことの意味が、すぐにはわからなかったんです。 あとからなんですね、おりふしに、亡くしたものの大切さを、じわじわと感じるようになってきたのは。 44歳の死というのは若いし、私などはとっくにその歳を越してきてしまいましたが。 しょうがないのですが。 四、〔「歴史研究会」‐学習サークル〕こんなことで、高校三年のころには、あれこれ問題がかさなって暗中模索だったんですね。なにが問題なのか。時には禅の悟りを探ろうとしたり、キリスト教などの宗教の集まりに顔だししてみたり、ニーチェなど様々な哲学を探ってみたり、何やかやと生き方を探っていたんですね。もちろん三年生ともなれば進路の問題、受験勉強もありました。 高校三年生の後期でしたが、「歴史研究会」というサークルを作りました。同じように模索している人たちの10人くらいのメンバーでしたが。生徒会などで知り合った人たちです。それぞれ個性ある知人たちで、地域の公民館などをかりて、学習と討論をしていたんですね。 日本の社会状況も、少しずつ見えてくるようになりました。この中で、マルクスの思想やロシア文学なども学習しました。それぞれ個性ある人たちでしたから、いろいろ議論する中で、切磋琢磨しあいました。今ふりかえると、これは半年くらいの短い期間でした。それぞれが高校を卒業するとともに、別々の進路に分かれていったわけですから。私などは「経済学を学びたい」ということで、法政大学の受験をめざした。幸いも合格できたんですが。1969年4月からは、東京に新たな生活を移すことになりました。結果として、この高校時代が、故郷・真鶴からの旅立の時だったと、あとからふりかえってですが感じています。そして、1969年9月には、市ヶ谷の法政大学にかようために東京に下宿をしたのですが、これが名実ともに故郷からの旅立ちの時となりました。 http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201410270000/ 〔10.13 「生い立ち‐私が生まれる前まで-」(自分史 その1)に続く、その2です。いままで自分自身を、このようにふりかえることはなかったのですが、それから時は40年以上も前のことですが、一つの自己整理ですね〕
2016年10月30日
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はじめて澤地久枝著作・『苦い蜜』を読みました 私はこれまで小説の類は、現代的な人の作品は読んでこなかったのですが。 最近は、「それではまずい」とおもい直して、ポツポツと当たるようにしています。近くの図書館を利用していることから、気が向きさえすれば、いろいろな人の著作を簡単に手にすることができるんですね。 この澤地久枝著『苦い蜜-わたしの人生地図-』(文春文庫1994年5月刊行)は、図書館にもありましたが、以前から自分の本棚でほこりをかぶっていたものなんですが。 この本は、著者がこれまでに出してきた本の「あとがき」を集めたものだそうです。 ということは、1971年の『妻たちの2.26事件』が最初に出したもののようです。著者は現役ですから、これまでの45年の作家生活のうちの、この本は1994年刊行ですから、初めから23年目時点までの、いわば「中間的に」あつめた「あとがき」集ですね。 私はまだ、著者の作品そのものは、まだ一作も読んでいませんから、感想を語れるような資格はないのですが。それに、だいたい「あとがき」というのは、本体にすべての労力を費やした後に、その余韻の中で、抜け殻状態においてふりかえって書いたものでしょうから。そうした著作の一つだけで、何かを語るのは、著者に対してはなはだ失礼なんですが。 それでも、とにかく、この「あとがき集」を読んだことの感想を紹介します。かなり限定的なものであることを、ご承知ください。 私などの澤地久枝さんという人の認識ですが、昨今のきな臭い政治が横行する中で、平和憲法を、憲法9条を、守る運動の呼びかけ人の一人として、名前を知ったくらいがせいぜいなんですが。 今回、このあとがき集を読むと、1971年の『妻たちの2.26事件』が最初の著作だったようです。それは五味川純平氏の作品『戦争と人間』の、材料・資料を集める係をしたそうで、その副産物とのことでした。 わたしなどは1970年当時は学生でしたが、その映画『戦争と人間』は見た記憶があります。大きな社会的なスケールで戦争を描いていたのを、昔のことでもあり印象としてですが、記憶しています。 その下作業が澤地久枝さんの作家活動の出発点だったんですね。このことは、今回この作品で、初めて知ったことですが。 澤地久枝さんの人となりについて、インターネットで見てみると、1930年生まれで、4歳の時に家族で満州にわたっている。敗戦を満州の吉林でむかえて、1年間を現地で難民生活を体験しているんですね。軍国少女だったそうですが、戦争の悲惨さを実際に体験させられているんですね。それが、これらの背景にあるんですね。 そうしてみると、「あとがき」という限られた文章の中にも、あちこちに、キラリと光る言葉が含まれています。いくつか挙げてみると、 P192 この仕事が、「戦死ゼロ」の40年余を過ごした日本の礎石となることを願う。 (『記録 ミッドウェー海戦』1986年) P252 戦争について書きつづけた文学者として、大岡昇平氏を私は尊敬し、追慕の思いをいまも大切にしている。『レイテ戦記』は、日本に限定されない戦争文学の最高峰のひとつというべき作品である。 (「『わたし』としての私」1991年) P270 去年このプランが進行しはじめたとき、PKO協力法が成立し、自衛隊がカンボジアへゆく事態など予想していなかった。しかし現実には事態は進行した。 (『トルストイの涙』1992年10月10日) もちろん、これらは言葉でしかなく、作品の本体を読まなければ、思いの内容は十分にはとらえられないことは分かっているんですが。そして、そのきらめきの言葉というものが、どのような具体的な作品の中身から出てきたのかは、本体を読まなければ、正確にはとらえることはできないこと、 それは承知しているんですが。 私自身の不勉強を弁解はしませんが。今ごろになって、私などは、これまでほこりをかぶって来た本を、少しずつその宿題を片付けているところです。 それは、一作品の宿題を果たしたとすると、そこにはまた5つ6つの新たな宿題が出てきてしまうんですね。それが多岐な分野、多くの人の著作において、それぞれにおいて、さらに新たに出てきてしまうものですから。まぁ、それは、長年放置してきたつけが回ってきたことでもあり、致し方ないことなのですが。 人は好奇心によって世界認識が広がりますが、それも大事なことだとは分かるんですが、しかし好奇心だけでは探究は続きません。だいたい、それが中心だとすると、漠然とした意識の淡いもやもやの中に、空虚さの方に流れていってしまいます。 だから、自分自身の前提や置かれた諸条件を、また何が問題であるかを、よくよく注意して握るようにしなければなりません。その点を自覚していないと、だいたい間違いなく漠然としたあいまいさの中に、いつのまにか自然に紛れ込んでしまいます。私などの経験では、たいがい投げ出してしまいます。 今回も同じなんです。この作品の一作しか澤地作品を読んでないのですから、デカそうなことや、知ったかぶりは言えないんですね。ただし、その他方では、限られた条件の中でも、どんな小さなものでも、確かな光を見つけれたとしたら、その限定条件の中であることを明確にしておけば、それがどんなに小さなものであったとしても、世界の認識に、その一つの光をつけ加えることが出来るとおもうんですね。 澤地久枝さんの平和への発言は、多岐なものがあります。確かにご自身のかつての体験から来ているし、日々の関心や努力していることからも来ていると思います。 この「あとがき」からみても、2.26事件、竹橋事件、石川啄木の夫人、小林多喜二の「党生活者」の評価、中野重治氏、大岡昇平をはじめとした戦争体験、「家」の問題、スターリンとシベリヤ抑留者の問題、沖縄返還をめぐる密約、自衛隊の海外派遣と憲法問題。などなど、歴史の諸問題が取り上げられています。 それらの取り上げられた諸問題にとっては、この『苦い蜜』というのは、いわばカタログでしかないのですが、本論に書かれているわけですから。しかも、今日からしたら中間的なまとめでしかないのですが、まぁ、そうしたものではあっても、とにかく読まさせてもらいました。 もっと早く踏み出すべきだったかとは思いますが、いったい、この私のブランクは何なんですかね。 とにかく、ぐすぐず言っても始まりません。仕方ありません。これによって、これまで宿題となっていた空白が、わずかですが埋められたことをもって、今はよしとしたいと思います。
2016年10月28日
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富士山の初冠雪と、ミツバチの試練昨日、富士山の初冠雪が発表されました。これは、今日、10月27日の富士山です。午前6時5分、平塚から見た富士山です。たしかに、山頂はうすらと初冠雪した様子が確認できました。今日は農夫の日で、真鶴と早川へ行ってきました。課題は、早生みかんの色づき具合の確認と、蜜蜂の防寒対策、早川園のイノシシ対策でした。1、最初はミツバチの状況確認で、オオスズメバチの襲来についての様子確認でした。いました、いました。まだ朝早いので、オオスズメバチの動きは見かけないのですが、全日をとおしてみると、かなりの動きがあるということです。2、今回の一番の衝撃ですが、巣箱の中にスムシが大繁殖していたことでした。私としては、この間底板を掃除してきたことで、それを抑えていたつもりでしたが。甘かった。防寒対策をする前に、念のためと、巣箱の蓋を開けてみたところ、すべての巣枠がボロボロです、8割方がスムシに食い荒らされていました。気をつけていたつもりでしたが、すでに底板から巣枠に登りこんで、異常な大繁殖をしていました。ピンセットで巣の中に入り込んだスムシをつまみとったんですが、ミツバチの巣の奥底に潜り込んでしまっていて、完全に除去するのは容易ではありません。夏のころは何千匹といたミツバチが、ざっと見て50匹くらいに減ってしまっていました。まだ救いは女王蜂を囲んでいるらしい15匹位の集団はいましたが、わかりません。巣枠を見ると、子育てスペースは、消失していました。貯蜜部分も、大方がスムシの餌食になっていました。はたしてミツバチたちは、これからの冬の厳しい時期を乗り切れるかどうか、過去三年で、二回失敗していますが。悪夢の再来で、どうなるかわかりません。とりあえず、防寒対策をしてきたんですが。予想外の事件だったので、これへの緊急対応だけで、ヘトヘトの汗びっしょりになってしまいました。3、肝心の早生みかんの方ですが、小木が色づき出していますが、今年の雨がちな気候もあって、味がいまいちです。成木の早生みかんですが、1本は実をつけてますが、3本は裏年で葉ばかりの状態です。「どうしたもんじゃろ、のう」といったところですが。この1本は優秀です、毎年コンスタントに実をつけてくれてます。以上が、本日の真鶴園での2時間の、悪戦苦闘でした。午後9時5分には切り上げて、直ちに早川園へ移動しました。こちらは、イノシシが盛んにみかん園に出没しています。今は、地中のミミズを狙って、そこかしこに穴掘り返していますが、これからみかんが熟してくると、みかんをねらう様になります。4、今日は、そのイノシシ対策でした。イノシシは口の届く高さまでがねらわれますから、ネットで囲いました。手前の方の地面が掘り返されていますが、これはイノシシの仕業です。そうした掘り返した跡が、あたり一面に広がっています。行くごとに、あちこちに広がっていきます。夜な夜なイノシシたちの饗宴が、ごちそうのミミズ取りがくりひろげられているようです。5、今回は、お茶の木の整枝剪定もしました。背丈をそろえておかないと、ボサボサになって、茶摘みがしにくくなりますから。早川園の作業も、こちらはこちらでいろいろあって、こちらだけでも大仕事なんですが。真鶴のみかんが、カミキリムシと手入れのまずさから、収穫が半減する折、ここでの収穫が、不足分を補うものとなりますから、大事なんです。こうしたことで、みかん農夫は、去年までの様に、途中で「温泉にでも行くか」なんてどころじゃなくなります。ですから、雨のふりだす前の一昨日のうちに、大平台に行っておいたのは、正解だったということです。
2016年10月27日
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敗戦後に生き方を模索した『石ころのうた』(三浦綾子著)を読んで『石ころのうた』(三浦綾子著 角川文庫 昭和54年5月25日刊)を読みました。 著者の三浦綾子(1922年-1999年)は、小林多喜二の母・セキを描いた『母』(角川書店 1992年刊)の著者です。私は、それまで「三浦綾子」について、まったく知らなかったんですが。 先日『母』を読んで、これが縁になって、その著書『石ころのうた』(1974年刊)を手にすることとなりました。 この著作は、著者が戦争前の昭和14年から敗戦直後にかけての7年間を、小学校の教師としてすごしたこと。この時期に焦点をあてた自叙伝的作品なんです。これは、戦前の軍国主義の時代社会を生きてきた者とて、彼女自身の体験と反省からして、現代に生きている私たちにも大事な問題提起をしているものとして、私などは読みました。 一、若くして教師になったんですね 三浦綾子は、昭和14年の北海道ですが、16歳11カ月で小学校の教員になっています。今でいえば高校二年生ですが、それでも教師になっていたんですね。じつは私の母も同じで、昭和14年4月に神奈川県で代用教員になっています。 どうしてこんなに若くして教師になれたのか。 それは戦争のためでした。この時期、男性教師もまた次々に徴兵されていて、その欠員を補充するためだったんですね。女学校4年を卒業して、小学校の教師を志望するものが検定試験を受けるために1年間を学ぶ補習科(教育学、心理学、各科の教授法を学ぶ)というのがあったそうです。 三浦綾子は回想しています。「戦争によって、男の教師が少なくなることを、政府も見越していたのだろう」、代用教員に就職して、1年して訓導(教員)となったと、と述べています(P83)。もちろん、当人たちは一生懸命つとめているわけですが、「わずか16や17の少女に、生徒を教える力も資格もあるわけがなかった」と、あとからふり返っています。 二、教育が、軍国主義教育に変わっていく様子が、自らもその中にあったことが、反省としてふり返られています。 そして、1945年8月15日の、敗戦をむかえた学校の様子、天皇の放送を聞いた様子も紹介されています。 三、敗戦の結果をどのように受けとめたのか。 それまでの7年間を、教師として軍国主義教育を指導してきた三浦綾子でしたが、敗戦の結果をどの様に受けとめたのか。 「敗戦後、たちまちわたしは、規律あるはずの日本軍の変貌を知った」 「進駐軍の命令は絶対的であった。昨日まで日本軍が絶対的であったのと、同様であった。私たち国民は、いずれにしても服従しなければならぬあわれな存在であることには、変りがなかった。 ある日、私たち教師は、進駐軍からの命令により、生徒たちが使用している教科書を、墨でけさなければならなぬということになった。教師たちは、その命令に格別騒ぎたてもしなかった」(P291) 。 修身の本、そして国語の本を、生徒たちに墨を塗せた。 「昨日までしっかりと教えてきた教科書の中に、教えてはならないことがあった。教師にとって、これほどの屈辱があろうか。これまで真剣に教えてきたことが誤ちだったとしたら、私たちは生徒たちに、何といって謝るべきであろう。そう思うと、わたしは生徒の前に大きな顔をして、教師として立っていることが苦痛になった。私は急速に自信を失っていった」。(P292-293) 「敗戦によって、わたしは何が真実か、何を信ずべきか、分からなくなっていた。 昨日まで教えていた教科書を墨で塗らせたということは、わたしをして、たんに国家や政治への不信ばかりでなく、すべての人間への不信に追いやっていたのである。」(P296) 結局、彼女は敗戦の翌年3月に教師を退職した。 それ以来、「敗戦から3年たったとはいえ、敗戦後流行した『虚脱状態』という言葉は、まだ生きていた。私は依然として、この世の何が真実かを見失っていた。」 「軍国主義教育に忠実だった同僚が、民主主義教育に鮮やかに転身していく姿をみると、生きるということは、押し流されることかと、私はふと思った。」(P307) こうした反省の日々を、悩める時期をおくっていたんですね。 それは大事なことですよね。この反省が欠落していることが、その後の国内外に問題を生みだしているわけですから。 四、どうやって、こうした敗戦の虚脱状態から抜け出したか。 それは、ひとによって置かれた状態も、抜け出し方も、様々だと思いますが。 三浦綾子氏は、この問題をどのように打開したか。 この『石ころのうた』の最後の箇所分に、その葛藤が書かれています。 この問題に対する彼女なりの結論であり、私たちへのメッセージなんですね。 三浦綾子の場合は、結局は、キリスト教であり、『聖書』の教えだったわけです。 新約聖書の「ルカ伝」19章40節 (イエス)「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」 このイエスの言葉を知ったことが、救いとなったというんですね。 「わたしは自分が路傍の小さな石ころのように思われた。それは同時代に生きた多くの人たちの姿でもあると思った。石ころは踏まれ、蹴られてなんの顧みられるところもない。如何に一心に生きているつもりでも、結局路傍の石にすぎない。」 そうした落ち込んでいた時に、このイエス言葉を知って、悟った、救われたというんですね。 この言葉を知って、それ「故に、わたしはこの書を記した。叫ぶほどではなくても、どんなつまらない石ころもまた、歌うものであることを人々に知ってほしいが故に。そして、すべての石ころをおしつぶすブルドーザーのような権力の非情さを知ってほしいが故に」(P312)と。 私などは、キリスト教には疎いのですが、 彼女は、イエスの言葉を、私たちが直面している問題に対する解決へのヒントとして、読み返したんですね。 「リアルな真相を知れば、たとえ石であっても叫び出さざるをえない」 石だって動き出すくらいだから、人はもちろん動き出すと。 どうして、彼女が問いかけているのは、 軍国主義は、どのように国民のこころを支配するようになったか、ということです。 後からふりかえれば、あの軍国主義が迫り来る時代でも、理性的な見方をしていた人たちがいた。しかしそれを彼女たちは理解することが出来なかった。聞き逃してしまった。 どうしてそうなったのか。そこに痛恨の反省があるんですね。そして、二度とふたたびだまされないぞ、という、痛恨の反省から来る決意なんですね。 こうした点については、私なども、分かる様な気がします。 時代も条件も違いますが、分かるような気がします。受けとめなければならないと感じます。 私などの全体的な感想ですが、 高校二年生の時に私の母は死んでいますから、それにその当時には私の問題の意識には戦争問題などは志向の範囲にありませんでしたから、ましてや母が教員をしていたなどということはまったく知りませんでしたから、ここで問題とされているようなことは聞くことはなかった。もし聞いたとしても馬耳東風だったんですね。 今、この年になってですね、問題が見えてきたのは。この『石ころのうた』を読んでいると、若かりしころの母の置かれた状況や思向していたことがどのようなものであったか。同時代に生きた著者の思いを知るにつけて、おそらくそれが、母とも重なるものがあるように感じてきます。著者の著述をとおして、そのなかから同じような母の声が、ここから聞こえてくるような、そんな気がしました。
2016年10月26日
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半年ぶりでしたが、姫之湯に行ってきました今日は雨、予報では夕方からのはずでしたが、お昼頃には降りだしました。まもなく、みかんの収穫が始まると忙しくなりだしますから、こんな日は、箱根・大平台の姫之湯へ行って、湯治です。姫之湯には、午前9時半に着きました。これが、姫之湯の熱めの温泉です。屋外と浴場内とでは、温度の差がだいぶあるようで、すぐにカメラのレンズが雲ってしまい、ご覧のとおりかすんでしまいます。今日は平日でもありますから、私が休憩客の一番のりと思って来たんですが、とんでもない。すでに早々と、グループの人たちなど2組の先客があって、当方は3番目でした。それと、雨が降りだしてきたこともあって、昼ころには、登山の途中で降られてしまったハイカーたちが、温泉休憩にきりかえたとみえて、やってきました。したがって、休憩室もそこそこ賑やかになってきたんですね。こうなると、いつもの「私の書斎」は、今日は適当でなくなりました。ざわついて、用を果たせなくなっちゃいました。こうでなくちゃぁ、施設としては、よろしくないんですが。まぁ、まわりの「ざわつき」の問題というよりも、私の方がくたびれちゃっていて、集中力がはたらかなかったんですね。すぐに、いろいろ関心がちらばっちゃって、集中が続かないんですね。それでも、それなりに収穫はあったんですが。もともと、この大平台行きは、嵐の前の休養で、湯治休養すること自体が眼目でしたから、「これもまたよし」、というより、これが本来のはずで、「これでよし」なんですが。今日の姫之湯ですが、紹介のとおり、午前中から窓の外は、雨が降り出してきて、木々はすっかり濡れてしまいました。雨滴がしたたり落ちていました。紅葉の方ですが、箱根の上の方はわかりませんが、この大平台では、ご覧のとおり、窓からの景色は、木々は色づきは兆しの程度で、紅葉がはじまるのは、まだたまだこれからでした。箱根全体はというと、ロープウェイも全線で運行を再開していて、外国からの観光客も大勢で、にぎやかです。登山電車の中も、一時のような空席もなくなり、そこそこの客足の回復が始まりだしているものと見ました。(本来の人出には、まだまだなんですが)しかし残念なのは、今日の天気です。雨雲が、あたりを霧のように包んじゃっていて、視界がきかなかったんですね。せっかくの箱根山の絶景ポイントですが、せっかく遠路はるばる来てくれているのに、電車のアナウンスの声は流れていも、その実物の景色の方は楽しめてませんでした。ほんの近いところしか見えませんから、想像するしかないのですが、これも山の景色の一つではあるんですけど。これは私の感じですが、一般に西洋人というのは、水墨画のような世界には慣れてませんから。雨の日は、それにふさわしい、ていねいな説明が必要なんですが、箱根登山電車では、日本語での、いつものおきまりのテープが流されているだけでしたから。これじゃぁ、持ち味が伝わらないし、わかってはもらえませんね。あぁ、もったいない。
2016年10月25日
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小林多喜二の母・セキにインタビューしたような作品、三浦綾子著『母』(角川書店)を読みました三浦綾子の作品『母』(角川書店 1992年)を読みました。これは、小林多喜二の母・セキ(1874年-1961年)を描いた作品です。小林多喜二〔1903(明治36)年-1933(昭和8)年〕は、『蟹工船』などを書いた作家ですが、その著作活動により特高警察の逮捕されて、その日のうちの虐殺された、それは29歳でした。これは、母親のセキが、インタビューに答えている形で、多喜二の生涯を紹介した作品です。私がこの作品を読んだのは、これが今年(2016年)中に映画化されると聞いたためです。三浦綾子さん(1922年-1999年)により、この作品が1992年に発表され、話題になりました。当方も作品を手元によせてはいたんですが、読まずにそのまま置きっぱなしだったんですね。それから20年余がたってしまいました。そんなことで、長年の宿題の一つだったんです。読んでいて感じさせられたんです。「これは、セキさんに直接聞いたインタビューではないのか」と。そうした感じがしてくる、語り調子の作品なんです。しかし、セキさんは1961年に亡くなっているし、作品は1992年発表ですから、けっしてそんなことはないんですね。これは、三浦綾子さんが、巻末に参考資料が挙げられてますが、関係する著作を読みこんだことから、それによりセキさんのこころをこの作品に再現したものなんですね。まるで、生きた方にインタビューをしているかのような感じがしてくる作品です。この作品に出てくる中身・表現には、一つ一つに「根拠」というか、元になっている材料があるんですね。私なども、そのいくつかの場面は、他の所で、ほかの方から聞いたことがありますから。しかし、この作品によって、セキさんへのインタビューを通して、多喜二の生涯や家族関係が、まとまった形で、生き生きと紹介されていますから、あらためて身近な存在にしてくれます。著者の三浦綾子さんという方の作品を読むのは、初めてだったんですが。インターネットで紹介されていたんですが、1922年生まれで、戦前7年間、小学校の教員をされていたそうな。終戦により、それまでの国家のあり方や、自分自身がかかわった軍国主義教育に疑問を抱き、1946年に教員を退職した、と。その時にすでに肺結核を患っていたそうな。1952年にキリスト教の洗礼を受けたとのこと。これは、中身はまったく違うと思いますが、私の母とほとんど似ているんですね。こちらは1923年生まれで、昭和14年4月から21年3月まで、小学校の教員をしていたわけですが。ほぼ同じような教育環境だったはずですから、きっと重なる思いもあったのではないか、と思います。あくまで推測ですが。それともう一つ、セキさんの多喜二や家族への、母親としての愛情ですね。これは、考え方として貴重なものがあります。ゴーリキーの「母」に、それは映画でしか見ていませんが、かさなるものがあると思います。昨今のニュースを聞いていると、なにかと殺伐とした政治や社会の報道が多いのですが、これでもか、これでもかといったような報道が、やたらおどってますが。しかし、実際には、私などの狭い経験でも、日本社会の国民の根底には、こうした人たちが、確かにいるし、暖かな事例があるんだ、ということなんですね。そうした記憶や経験を呼び起こしてくれる点で、この作品は大事なものだと思います。なんで、もっと早く読まなかったのか、一歩を読みださなかったのか、20年余も置きっぱなしにしておいたのか、考えさせられてしまいます。
2016年10月24日
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徳川幕府も農民の声には決定をかざるをえなかった藤沢周平著『義民は駆ける』(講談社文庫) 当方は、この9月5日から7日、山形県の鶴岡市を旅してきました。遅くなりましたが、これは「鶴岡のみやげ」の第3回目です。 この山形県・鶴岡への旅の下調べしていて知ったのですが、荘内藩では天保11(1840)年から翌12年かけて大きな農民一揆があったことを知りました。 徳川幕府の「天保の改革」を主導した老中首座の水野忠邦ですが、三方国替えを上で決定し押しつけてきたんですね。川越藩15万石の藩主を荘内藩へ、荘内藩主を長岡藩へ、長岡藩6万8千石の藩主を川越へと転封させるという中身ですが、これを幕府の威光として老中で決定し、押しつけようとしたですね。 これに対して、反対する庄内藩側の藩士たちとは独自に、庄内地域の農民が反対する運動を起こし、撤回させてしまったんですね。徳川幕府が、幕府として一度決定した事を、その基本決定をかえさせるなどということは、徳川幕府の威光にもかかわってきますから、当時の常識としては絶対にありえないはずのことでした。その政策決定の転換をさせたんですね。 このことを、実際に鶴岡を旅していて、何か所かで聞きました。現地を案内してくれた方をはじめとして、あちこちで何人もの方が、同じように誇らしく語っていたのが印象的でした。 私などは、それまでそうしたことは知らなかったんですが、確かに歴史上の事実として、それがあったんですね。 その時の話の中にもでていたんですが、それを扱った一つの作品を知りました。 藤沢周平著『義民が駆ける』(講談社文庫)です。この作品は、この問題を主題にした歴史小説だったんですね。ようやくその時の宿題でしたが、本日、この作品について目を通すことが出来ました。これは、1998年9月に講談社文庫で、最初に刊行されたものだそうです。 ほんとうは鶴岡へ旅する前に読んでおくべきでしたが、順番が逆になって、今になってしまいました。 その農民一揆の性格ですが、今日的にたとえて言えば、これは国が一度は決定した原子力発電の推進ですが、これを国民的な反対により撤回させ、やめさせるような、そうした大きなものです。そうしたことが、 それが徳川幕府の時代にですよ、当時の歴史的な社会的条件の下で、幕府は重要問題として決定したんですね。それが明らかになって、それが強行されようとする前に、ぜん県民的な大きな反対運動がおきた、それほど時間はなかったと思いますが。そうした運動によってやめさせてしまったんですね。道理ある運動により、幕府の威信もかかる決定ですが、それをかえさせちゃったんですね。幕府の面目はまるつぶれです。道理に従うしかなかった。これが、本当にあった歴史的出来事だったんです、この著作で紹介したんです。 その幕府の決定があきらかになって、これに対してどのように反対がおきたか、ここが問題です。社会体制の中で荘内藩は反対する動きはしにくかったはずですが、大規模な農民運動が起きたことで、その農民の反対運動を背景にして、動くのに幅がもてるようになった。本来なら、農民運動をきびしく取り締まらなければならない立場です。そうしなければ、幕府から「ふゆきとどけ」として処罰されかねない事態だったはずですから。独特に荘内藩と農民との連携が働いていたということです。それが幕府の決定を改めさせたということです。そうした全体的な動向が、関係が、藤沢周平流に生き生きと描かれているわけです。いつの世にもおこりうることですが、どんなにばかなことでも、国(徳川幕府)の一度決定したことをかえるということは、どれほどたいへんなことだったかということですね。しかしそれ以上に、正当な要求は、大きな歴史的な運動をつくりだして、結局はそれを正すことに成功したということなんですね。なんとも、たいしたことであり、これが歴史的な事実なんですから、注目です。 藤沢周平氏は、鶴岡(昔の荘内藩)の出身の人ですから、ただ作家としての想像だけで書いているわけではありません。小説本体の終わりには参考目録として、22の文献があげられています。そうした資料を参考にしています。それが「駕籠訴」「領内騒然」の章をはじめ、全体的な表現に生かされているんですね。勝手な想像ではないということです。もちろん、昔のことですから作者の想像にぞくすることもあるわけですが、しかしそれでも歴史的な根拠によっており、それによりある程度の実際の状況がうかがえます。 私などはこれを読んでいて、やはり、今日的な意義といったものを感じさせられました。それで、終わりまで読まさせてもらいました。それが作者の目指したものでしょう。少なくとも荘内藩の農民運動を歴史的な事件を知ったことだけでも意味があったとおもいます。それに加えて、あの徳川時代でも、封建社会にあったとしても、国民は間違った政治にたいして、大きくたたかうことで、それを正だすことができたということを、経験として教えてくれてます。これは現代への、歴史からのプレゼントですね。 是非、この作品を、いち読されることをお勧めします。
2016年10月22日
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オオスズメバチの動きが、目につくようになりました今年は、オオスズメバチの動きが遅かったんですが、最近ですが、今年もボチボチと現れるようになりました。10月21日の真鶴のみかん園ですが、午前8時を過ぎて、陽も当たって暖かくなってきたら、案の定、オオスズメバチがお茶の木の周辺に現れました。なにを得ようとしているのか、お茶の木の花の花蜜でしょうか。本日の遠出してきた目的は、このオオスズメバチ対策です。以前に捕獲器を設置したあったんですが、その粘着板を新しいものに取り換えることでした。早速、オオスズメバチを2匹捕獲して、新しい粘着板に張り付けました。オオスズメバチは、陽がのぼって、あたりが暖かくなると、活動を開始する様です。午前8時を回って、陽が差して、あたりが明るく暖かくなったら、早速、複数匹がやってきて、茶の木の葉かげに入ったり、出てきたり、飛び回っていました。これまでオオスズメバチについては、これのでのみかん園では、私などのいる時間帯では、あまりみかけなかったんです。だから、ほとんど気にしていなかったんですが。ところが、真鶴半島の中央部で養蜂している方と交流するようになったら、「以前から、オオスズメバチは半島の方には、かなりいるよ」とのこと。実際、半島で巣箱を守るには、スズメバチを捕獲・退治に努力していました。それで、一昨年はじめて、オオスズメバチ対策として、ペットボトルの捕獲器を設置してみたんです。去年は、加えて、捕獲用の粘着シートも設置してみたんです。すると、いるは、はいるは、出かけてくるごとに、オオスズメバチが、そのつかまる数が、どんどん増えたんですね。オオスズメバチは、12月の陽気が寒くなるといなくなるんですが、それまでの2か月間に、なんとまぁ、200匹くらいのオオスズメバチが捕獲されたんです。どこにこんなにいたのか、信じがたい数のオオスズメバチが捕獲されたんです。「みかけない」なんて、とんでもない、見方が甘かったんですね。それで、去年から見方を変えて、スムシとともにオオスズメバチ対策を、最重要問題として重視するようにしています。今回は、早々に引き揚げるのでなく、暖かくなるまで居るようにして、しばらくあたりを注意して見ていたんです。すると、お茶の木のあたりを、オオスズメバチがゆっくりと飛んできたんです。瞬間的には2匹位なんですが、たいしたことがないようですが、次々に、入れ替わわり、立ち代わりやって来てましたから、時間帯をとってみると、かなりの数が活動していることがわかりました。今回のところは、オオスズメバチを見かけるのは、お茶の木でのところだけなんですが。巣箱の近くにつるしておいたペットボトルの中にも入っていましたから、要注意です。次の写真は、色づき出した興津早生の小木ですが、その左側にお茶の木の植え込みがあります。早生みかんの小木が色づき始めています。問題は、お茶の木の方です。今、オオスズメバチが頻繁に来ているのは、このお茶の木なんです。太陽の光が当たってきているでしょう。これから日中の気温が上がって、陽だまりの暖かくなってくると、やってくるんですね。お茶の木の茂み中に、入ったり、しばらくすると出てきたりして、この朝の時間でも、入れ代わり立ち代わり、かなり数がきていることがわかりました。今のところは、お茶の木あたりが中心ですが、やがては、蜜蜂の巣箱を狙いだすのは間違いありません。今回のタイミングは正解でした。この間、秋晴れの、暖かい日が続いたので、前より多くが出没しています。ポットボトルの捕獲器は、以前のままですが、お酢と酒と砂糖のカクテルを入れてあります。今回、新たに更新したのは、捕獲用の粘着シートでしたが、これは重要でした。その捕獲器が下の写真です。 真ん中に、網で捕獲したオオスズメバチを貼り付けておきました。これが、近くに来た仲間を引き寄せるはずです。雨ざらしだと粘着板も弱まりますから、雨よけの屋根をつけておきました。これで、捕獲器の準備は完了です。オオスズメバチがやって来ても、去年の経験だと、これで防げるはずなんですが。ここに引き寄せられて、ミツバチの巣箱を狙うどころではなくなるはずなんですが。さて、効果のほどはどうなるでしょうか、次回に来た時に確認してみたいと思います。
2016年10月21日
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岡田嘉子著『ルパシカを着て生まれてきた私』を読んで思う岡田嘉子著『ルパシカを着て生まれてきた私』(婦人画報社 昭和61年5月20日刊)を読みました。そして、翻弄されてしまった生涯ということと、今日につづく負の遺産を克服することが必要だ、とあらためて感じさせられています。 岡田嘉子〔1903(明治36)年-1992(平成4)年 89歳没〕は、1938年(昭和13年)元日に、演出家・杉本良吉とともに、樺太の国境を越えてソビエトに亡命しました。 34年ぶりに、1972(昭和47)年11月に日本に帰国していますが、その後、1992年にモスクワで亡くなっています。そうした方の著作です。 その岡田嘉子の著書ですが、次の3つの点で注目しました。 一、亡命する背景となる当時の日本社会について。 二、あまかったことを、自己反省していることです。 三、ひょんなところに、日本共産党の金子満広さんが出てきたこと、です。 一、順序は変わりますが、こんなところに金子満広さんの名が出てきてました。私なども金子満廣さんとは、少し縁があったんですが、このエピソードは、まったくの初耳でした。 岡田嘉子は、モスクワにあった当時ですが、杉本良吉のお墓をつくろうとしたそうです。しかし何も遺品がなくて困っていたそうです。 『ちょうどそのころ、日本共産党の金子満廣さんが-今、書記局長をしていらっしゃいますけど、まだお若い時分でした-、モスクワにいらっしたものですから、お願いしてみたんです。日本になら何か遺品があるでしょうから、せめて日本につくっていただけないでしょうか、って。それで金子さんたちが村山知義さんたちと相談してくださって、結局、青山にある日本共産党の無名戦士の墓に名前を入れてくださいました。』(第七章P91)そうしたやりとりがあったことが紹介されてます。 この杉本良吉のソビエトへの亡命については、宮本顕治氏の著書『網走の覚書』にも出てきました。「小林多喜二とその戦友たち」、1973年2月20日「小林多喜二没後40周年記念の夕べ」での講演の中でなんですが。 『1932年でありましたが、杉本良吉と一緒に彼ら(今村恒夫)をソビエトにやりたいと考えたわけです。それは日本の文化・芸術運動、この働き手を多少残しておきたい、どんどんつかまるから。こういう人たちを残しておきたい、それにはソ連にやっておこうと考えたわけです。』『マンダートといって、信任状、これは日本共産党員であることを証明する文書、それをかれらに渡しました。』(P72)と。杉本氏がソビエトに行くには、こうした経過があったんですね。 二、この本には、岡田嘉子が亡命した時の状況について、具体的に述べています。(第四章「国境を越えた日」)。私などが注目したのは、この当時の日本社会の状況に述べている部分です。 『昭和10年代の初めのころの日本の状況っていうのは本当に異常でした。今また少しそうなりかけているようですけれど・・・。』 『(あのころは)芝居をやるといっても、まず脚本を警察に出して検閲を受けなければ舞台をひらけない。ところが検閲を通ってくると、台本によっては、ベタベタに赤札が貼ってあるんです。朱でずーっと消してある。』 『客席の後ろのほうには検閲官の席が設けられていて、そこで台本を見ながら、いつも監督してるんです。朱筆で削られたところを、うっかりしゃべりでもしようものなら、「ストップ!」って、とたんにどなられるんです。』 『昭和12年の中ごろ、中国との戦争が始まったでしょう。芝居が終わると全員が舞台に並ばされるんです。そうして、「ただいま、皇軍がどこそこで勝利を収めましたという報道が入りました」といって、『バンザイ』をやらされる。俳優が全部総出でやらなきゃあいけないんです。』『そういうのがいやだとおもったら、芝居も俳優もやめなくちゃぁならない。でもさうなれば、生活に困ってしまうじゃありませんか』(P44) 私などは戦後生まれですから、戦前のそうした権力の監視・取り締まりの社会というものは、歴史の中でしか知りません。現実な感覚としては、実感としてはつかみにくいんですが。それでも岡田さんも言っているように、最近の政治状況を見ていると、節々で強権政治が顔をのぞかせています。政治と権力による横暴というか、国民を取り締まる政治ということも、憲法改定案に書かれているわけですから、少しはわるような気がしてきます。いや、理解しなければならないと思っています。 三、さて、もう一つ問題ですが、岡田嘉子が自分自身の甘さを反省しているところです。 それは、決して、彼女たちだけの問題ではないと思います。いまわしい社会主義を語った歴史的な負の遺産問題です。 『(戦前の日本社会のことですが)こんな調子じゃ、これからいよいよ芝居は出来なくなる。もう日本にいてもしょうがない。それで「いっそのこと、ソビエトに行きましょうよ」って、あたくしが杉本に言い出したんです』。 『そのころの新劇人にとっては、ソビエトは憧れの国でした。築地小劇場が昔、チェーホフの芝居をやって以来、モスクワは新劇の本場だっていう意識がありますものね。』 『杉本にしてみれば、向こうへ行ったら、国際的なプロレタリア演劇の組織で働きたいと思っていたでしょうし、あたくしは演劇学校に行って、本格的に演劇の勉強をする―という夢を抱いていたんです。 ほんとに、何も事情が分からなくて、甘かったと思うんですよ。』 『それからまた、杉本はスターリンを神様のように思っていましたけどね。そのスターリンが、その時は、いわゆる血の粛清をやっていた。一番悪い時期だったんです。 おめでたいというか、向こうみずというか、あたくしたちは、ともかく行けば何とかなると思っていたんです。』(P52) ソビエトの社会主義国が誕生したことへの、理想としての社会主義がこの世界に誕生したとみなされていたわけですから、それに対して憧れの期待をいだくことは、抑圧された現実世界とはうらはらなものとして、世界の人々に期待と信頼からして、そうなっていたと思います。私などが、高校生時代の1969年頃、はじめて社会主義の思想を知った時が、時代も場所も条件が違いますが、そうしたことだったと思います。 宮本顕治氏ですが、同じようなことを書いています。当時は獄中にあったわけですが、ソビエトをどのように見ていたか、先の講演で述べています。 『当時、ソ連は世界の共産主義者のいわばひとつのあこがれでありました。私どもも、ソ連と聞けば身がひきしまるような、そしてここに新しい社会が生まれているんだ、といって自らを励ましていたわけであります。』(P72) 『当時、杉本もそうでありますが、善意のコミニュストは社会主義の国ソ連にゆけば、「監獄と死」がまちかまえているとだれも予想しないのが当然であります。スターリンの問題が国際的に明白になったのは、戦後も大分たってからです。』(P76) 初期の社会主義をめざしたソビエトから、スターリンなどの後継の指導者に変質がおこっていたこと。それをはっきりと認識するには、判断材料が明らかになるまでに、時間がかかったこと。共産党間での論争がおきていたとしても、私などの一般レベルではそうしたことは知りませんから、事柄を理解するには、さらに時間がかかったこと。しかも、1991年にソビエト共和国連邦が崩壊しても、その後も負の遺産は引き継がれていること。そうしたことが、見えてきます。 今日、不破哲三氏はスターリンのもつ問題点を『スターリン秘史(全6冊)』(新日本出版社 2016年3月刊行)にまとめています。そうしたスターリンの負の実像が明らかにされだしたのは、フルシチョフの『スターリン批判』以降ですね。しかし、それを批判する政治家にもさらに問題は引き継がれてきたということです。問題の根本をつく批判というのは、それが明らかにされはじめたのは、ごく最近のことなんですね。まだまだマイナス遺産があちこちにころがっている。問題が、十分に底をついて明確にされ、理解されるようになったとは、ひろい世間で見れば、まだ思えませんが。 この12月15日にはロシアのプーチン大統領が来日するそうです。ここでも、日ソ両国間の領土問題が懸案のテーマとなっています。ここにも、領土の併合というマイナスの遺産の一つが存在しているわけです。私などの学生時代は、官僚主義・大国主義とたたかうレーニンの活動に光が当ってました。また、ロシア文学に脈々と流れる民主主義の思想なども学んできたわけです。 今回、たまたま図書館にあった岡田嘉子氏の著作ですが、これを読んでみると、その人生を翻弄されてきた歴史なんですね。それは彼女一人ではなくて、多くの人たちがこうむった被害でもあったわけですが、そしてそれは今もつづいています。そうであればこそ、この機会に、プーチンが来るまでの機会に、日本とロシアとの間にある明と暗の歴史の両面について、安倍首相などによる対応とは区別して、自分なりにあらためて根本的にしっかりと学びなおしてみたい、これは一つの宿題だと思っている次第です。
2016年10月20日
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診療所の送迎活動がはじまりました多摩市にある診療所なんですが、今日から送迎活動を開始しました。診療所の友の会として、通院の方たちの為の送迎サービスなんですが。三多摩というのは、都心に比べると、一般に交通が不便なんです。多摩市は丘陵地に出来た街ですから、あちこちにかなりのアップダウンがあります。診療所へかようのも、バスを乗り継がねばならないなど容易ではないんですね。高齢の方たちにとっては、たいへんなんですね。そこで、友の会として、通院者への送迎サービスを開始したわけです。この対象は、友の会の会員さんたちですが。今日、10月19日(水)は、この事業の仕事始めでした。これがその診療所なんです。健常者にはさほど問題なくても、坂道になってますから、足の不自由な高齢者にとっては、容易ではないんですね。長年、懸案になっていたそうですが、通院者のための送迎ボランティア事業だったんですね。本日は、初仕事でしたが、最初の方の送迎を無事完了しました。丁重にも『ありがとうございました』と、お礼を言われちゃいました。当方としては、たいしたこともしてなくて、こちらこそ「ありがとうございました」、なんですけどね。これが第一歩でした。ということで、これから毎週水曜日の午前中については、診療所を起点にして、多摩市内を走りまわることになりました。
2016年10月19日
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親子の旅を確かめようと松本清張『砂の器』を読みました 松本清張著『砂の器』(新潮文庫 昭和48年3月10日刊)を読みました。 この長編推理小説は、松本清張の代表的な作品かと思います。1974年には映画化もされ、テレビでもこれまでに5回ものドラマ化がされているそうです。私なども、映像を見たことで内容を知ったわけですが。原作は「読売新聞」に、1960年5月17日から翌年4月20日まで、337回にわたって連載されたものだそうです。 『砂の器』の内容は、蒲田駅の操車場でおきた殺人事件にはじまって、警察官がじょじょに謎を解いて、犯人を捜しだすという話なんですが。私なども、ぐいぐいと引き込まれて、長編小説の終わりまで読んじゃいました。 どうして、今ごろ私が、この作品を読もうとおもったか、ですが。 私は、最近、自分の生い立ちを探っています。その中で、私のひいお爺さんが体験したことと、この作品のある場面に重なるものを感じたからなんですね。それを確かめたかったという、個人的な事情からなんですが。 私のひいお爺さんは慶応元年生まれなんです。明治30年代のこと、32歳を過ぎたころですが、夫婦で山梨県の境川村から、故郷を捨てて、徒歩で神奈川県の岩村まで旅してきたんですね。地図で見ると、富士山ろくを歩き、箱根山の山道を越えて、おそらく100キロ以上の道を歩いてきたんじゃないでしょうか。それはどこに行くのか、具体的な目的地があったわけではないと思います。 そんな旅が三代前にあったことを知って、はたと同じような話をどこかで聞いた覚えがある、と思ったんですね。いったい、どこでだったのか…? いろいろ記憶をたどってみたんですが。以前に、ライ病を患った乞食の親子が、厳しい徒歩の行脚をしているシーンを見たことがある。それは以前に見た『砂の器』ではなかったかと。それで、確かめてみようと思って、この『砂の器』をとりよせ当たりだしたわけでした。この作品が、どのような話で、そのような場面があったか。それがどの様な事情だったのか、原作により確かめてみたいと思ったんですね。 私は原作を読むのは初めてだったんですが。どこかにそんな場面があるはずだとの一点でしたが、この長編小説をたどったんですね。 結局、想像していたような行脚の旅の場面は、この中にはありませんでした。しかし、この作品であることには間違いありませんでした。こんな一節がありました。ある駐在所の警察官についてですが、「乞食が子供連れでこの村に入っことがありました。ライ病の乞食を離して、その子どもは寺の託児所にあずけました。」と。 これです、探していたものは。叙述は断片的なものでしたが、確かに親子が徒歩で行脚していたことがでてきます。間違いなく、これを探していたんですね。 記憶にあったものとの違いですが。この原作が、映像によって表現されると、具体的には旅の様子についてのことなんですが、その作品によって違ったものになっているようです。記憶では厳しい吹雪の冬景色だったんですが、また四季の中で親子の行脚が描かれていたんですが。それが印象的だったんですが。しかし、原作を読んでみると、そうした具体的な記述はなくて、紹介したように、ただ巡礼の旅をしていて村にやってきたと、短い叙述があるだけなんです。印象的な映像シーンは、原作には示唆されていただけなんですね。 当方が原作を読んだのは旅の事情と様子が眼目でしたから、その旅がどこに描かれているか、その一点を追及して読んだんですよ。「どこなんだ」「どこなんだ」と。結局、原作には具体的に詳しく旅を描いた記述は、最後までありませんでした。 そうした旅をうかがわせる短い材料だけでした。ようするに記憶は、主には、映画やテレビによる創作のシーンが残ったものだったんですね。映像の与える印象というのは強いんですね。文字以上に具体的で強力なインパクトを与えるものだと感じさせられました。しかし、活字は繰り返し読めますから、確かめたい点は繰り返し読める。消えていく映像とはまた別の力を持っているわけですが。 とにかく、今回、懸案にしていた事柄はわかりました。似たような厳しい旅は松本清張の『砂の器』に描かれていたんですね。ひいお爺さんの場合ですが、これは身近な人に実際にあったことですから、小説によるお話よりももっと具体的なんですね。現実的なんです。 二つの場合ですが、厳しい旅は共通しています。片やどん底からはいあがって社会的な名声をもつにいたる、そして自らの名誉を守るために過去を消そうとして殺人の犯罪をおかしてしまった。そのいきさつを謎解きしたのが『砂の器』ですが。 片や私なども同じように、ひいお爺さんの時点ですが、どん底の環境の旅があったわけです。 『砂の器』を読んでいるとそれが卑近に感じさせられます。もちろん、その後の世代となる私などには、地位とか名声などはありませんが、少なくともひいお爺さんから、祖父や父母の代にかけての歩みの中には、「這い上がる」という表現は適当でないんですが、戦後・戦後の社会の荒波の中で、どん底の生活から、生活の向上をめざした努力があったことを確認することができます。それは当時の国民一般がそうだったと思いますが。私などが、今があるというのは、そうした先人の努力があったからこそなんですね。それは、私なりに確認することができます。 さて、『砂の器』をよんで、私なりに考えることですが。 小説というフィクションですが、この場合は推理小説ですが、今の現実社会からして、その筋書きの「おち」は、なかなかハッピーエンドとはいかないと思います。しかし、だからといって無力な、悲観の一色なものとなることでもないと思います。 確かに社会にはいろいろな虚構が沢山あると思います。材料には事欠かないと思います。問題は、その現実というものをどのようにとらえるのか、しっかりと捉えるのか。ここにある状況の社会的な背景、論理的な必然性、社会的な道義、さらには読者に抱かせる精神的力などによって、その作品の力が出てくるんだと思います。作品の評価が出てくると思うんです。 私などは、松本清張の作品については、『半生の記』につづいて、二作目のこの『砂の器』を読んだだけです。だから全体については発言できないんですが、少なくとも『砂の器』については、くり返し映像化されただけの魅力をもっていると感じさせられました。それは、そのままの形であるわけではなく、何処かにひねくれた相剋として、癒しの原風景のようなものとしてある。原作者の著者は、それを見すえて、描いているわけですが、やはりすごいのですね。また映像にした脚本家や、監督の力もすごいですね。現代にあってもその要素があるような、考えさせられる作品だと感じました。もっと他の作品にも当たって、確かめてみないと分からないのですが。
2016年10月18日
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オンリーワンの俳文集『帰農して』を紹介します 今回は、誰も知らない俳句とその文集、『俳文集』の紹介です。10月13日に、知人より俳文集「帰農して」をプレゼントしていただきました。この日、今月に入って、2度目のみかん園行きだったんですが。いよいよみかんの収穫シーズンが近づいてきて、みかん園の様子を見に行ってきたんですが。真鶴園では成木が1本倒れちゃうし、早川園ではなり年の木は1本という状況でもあり、この暮れのみかんの供給をどうするか、その相談に行ったのですが。 そうした中でのこと、俳文集『帰農して』をいただいたんですね。 そもそも私などは、歌心なんてまったく疎い存在ですから、一瞬、とまどいと躊躇があったんですが。 しかし、持ち帰って読んでみると、これがなかなか面白いんです。今回は、その俳文集の紹介です。 当方は、俳句集などいうものは「猫に小判」です。慣れ口ずさんだ歌は別として、新規に目にする歌を見るたびに、例えば藤沢周平の『一茶』などでも、その俳句の箇所は、飛ばすようにして読んでいたわけなんですが。もらった時に、一瞬、戸惑ったんですが。 しかし、せっかくいただいたものだからと持ち帰り、もらいっぱなしも失礼だからと、本日読んでみたんですね。すると、この俳文集に関しては、壁はなくて、なかなか卑近なものにすら感じさせてくれました。 この『帰農して』ですが、全体は5つの節からなっていますが、 1.紅葉行-7首、2.二十歳の原点-5首、3.帰農して-5首、4.町消えて-5首、 5.スーダラ人生-5首 この合計で、27首の俳句が掲載されていて、それに解説を兼ねた随想的な文章がそえられていました。 具体例として、その一つ、「5.スーダラ人生」の中から紹介しましょう。 「 今日も雨 明日は晴れるかビワの花 ある人によれば、人生の八割は土砂降りだという。病気に苦しんだり、不幸があったり、他人に罵倒されたとか、お金が無くなったとか傷つき悩むことが多い毎日である。八方塞がりになるとどうしていいかわからない。これに耐えられず自殺する人もいる。その人は、乗り越えるためには、明日は晴れると希望をもって生きることが必要だと思う。枇杷はきびしい冬に咲く。そのような、強さ、したたかさが持てるかである。」 こういった調子です。私なりには、今年の夏は、それとこれまでのところのこの秋は、天候が雨がちで、晴れ間が少ない、それを読んだものかと、最初はとったんですが。解説を見ると、単にそれだけではなく、人生哲学が込められている。日々の暮らしの応援歌でもあるんですね。こんな調子で27句のそれぞれには、面白いコメントが添えられていました。 私などは、俳句を並べただけだと、読む力が無いんです。その俳句に込められている意味を想像することが、なかなか出来ないんですね。スルメのようなもので、何度も読み返しますが、結局得心出来ずにくたびれちゃう。俳句の、そのものを理解するには、やはり独特の能力が必要なんですね。残念ながら、それは私などにはありません。したがって、このも句集ということで受け取ったんですが、私などは、それを理解するのは不可能だと、すぐにあきらめて、投げ出しちゃいぎみだったんですね。しかし、今回は少し違いました。俳句とともに、そのあとに添えられている文章を読むと、その俳句の意味がぐっと近づいてきたんですね。俳文集でしたから。 それで、両方を読んでいると、事態が見えてきました。そこには、いろいろと共通な関心があること、「生い立ちの記」「風土の歴史」「人生哲学」「応援歌」など、いろいろ、あちこちに「なるほど」ということが見えてきたんですね。 たとえば、私はもっか自分史を探っていますが、この中にも同じように、独特の形を取って、自分史がつづられたんですね。 そもそも、かの知人とは、かつて高校時代に短期間交流した仲間だったんですが、それは、生きてきた中では、きわめて瞬間的なものでした。れぞれ卒業してすぐに、まったく別々の世界へと別れていったんですから。 しかし、やはり同じ時代の生活者だったんですね。西と東、まったく別々の学園に、また別々の社会に分かれて暮らしてきたわけですが。それが、再会したのは、比較的最近なんです。40年ぶりくらいに、偶然の再会だったんです。今回、この俳文集により知ってみると、かなり似たような体験をしていたんでするね。これのすべては、みかん栽培が結んだ縁でしたが。同じように50歳前後になって、彼も私も、みかん栽培をするようになった。ふたたび、小田原の近隣のみかん園で「帰農」するようになっていたんですね。まったくの偶然がひき合わせたものでした。 この『俳文集 帰農して』ですが、 ふつう、わたしども凡人が作文する文章を読むと、鼻持ちならないものがあるんです。 自分勝手な思いを「どうだ、すばらしいだろう」といった高慢ちきな、作為性を感じさせられることが多いんですが。それは、私などもそうなんです、それを地で行く一人なんです。ところが、これにはそれが無いんですね。自然体で受けとめられるものなんです。 ある哲学者は言ってます。 「この考察は無前提なものではない。これは現実的な諸前提から出発し、これを一瞬たりとも捨て去らない。その前提は、なんらかの幻想的な完結性と固定性における人間たちではなく、特定の諸条件のもとで彼らの現実的な、経験的に明白な発展過程における人間たちである。この活動的な生活過程が示される」(『ドイツ・イデォロギー』)と。 この「俳文集」を読んだときに、さわやかな自然体風を感じたんですが。 おかれている生活条件が理解されるとしたら、その思想は自然に出てくるものであり、そうした自然な社会思想なんだなぁ、と感じたんです。その要因は、この哲学者の思想に重なる思考にあるからだと思っているんです。 あらためてこの「俳文集」は「時代の子」ですね。 これを読むと、もちろん私などと置かれている条件は違っていますが、全体として共通したものがあり、似たような体験をさせられていたこと。度合こそ違え、同じような問題に直面している、立ち向かっていることを感じさせられました。しかし、もっと私などよりも、大きな社会責任を背負っているということなんですが。 「なるほど」を、1つ2つ挙げてみます。「美しいこの国に生まれたのは幸せである。この喜びを後世に残してあげることは我々のつとめであると思う。当面のお金も必要であるが、それでは買えないものも守りながらすすみたいものである。」 「農産物価格の低迷により、後継者が育たないで、どんどん農家が減って荒廃園が増えている。TPPの影響で加速し、このままでいくと我が国は、将来農業のない国になるかもしれない」。 なかなか、面白いでしょう。こんな思いが、いろいろちりばめられ、ふくまれている手作りの俳文集です。まぁ、年金農夫ですから、切迫した貧困は無いんですが。それでも、農家全体がそうなように、農業だけで再生産は出来ない。とても黒字にはならない。しかし、放置し、荒廃させることは、未来への遺産の中継者としては出来ない。やはり前途が多難であることには、変わりがないのですが、しかし、行けるところまで、頑張るということです。そんな声が聞こえてくるような俳文集です。この作業も、引き続き継続するようにしたら、もっとたくさん、社会的な側面、自然的な側面、そして歴史的側面の作品を蓄積していったら、結果として、おもしろい農業像、人生観の応援歌がつくられていくと思っています。
2016年10月16日
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みかんの木が倒れていました真鶴のみかん園ですが、10月13日、木がまた一本ダメになりました。みかんの重さで、太い基幹が裂けて、倒れこんでいたんです。この木は、カミキリムシによって、基幹の半分が以前に枯らされていたんですが、もう半分は果実をつけて頑張っていたので、様子を見ていたんですが。今回見たら、隣の小木に被さるように、地面に横倒しになって、倒れていました。またしても、成木の一本が消失してしまったたわけです。これで、引き継いだ当初に26本あった成木は、14本になってしまいました。次の写真は、9月30日に果実の付け具合を調べた時のものです。みかんが大きくなって、その重さが基幹の一点にかかっていたんですね。それでも、まだ枝の下部は、地面とは間隔があったんですが。加害されていた基幹はもろくなっていたんですね。裂けた基幹部分です。避けた部分を見ると、生木ではなく、茶色く枯れかけていました。ここに、枝先についたみかんの重さがかかっていたんですね。普通は頑丈なみかんの木ですが、耐えきれなくなってしまったようです。樹齢30年以上の成木でしたが、主枝の2本が枯らされたのに続いて、今回、残り幹が裂けてしまったわけです。やむを得ません、来年の春には、新たな苗木に植え替えせざるを得なくなりました。カミキリムシの加害を防げなかった当方の管理が問題ですが、この木の世代交代をすすめざるをえなくなりました。
2016年10月15日
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「生い立ち-私が生まれるまで-」です自分史 その1 自分を確認するために、自分史を探ってみたと思っています。 その1は、自分がこの世に生まれるまでのことで、いわば前史です。 私は1969年の秋、19歳から東京暮らしをしてきました。約45年間を過ごしてきたことになります。 生まれたのは、神奈川県の西部の足柄下郡真鶴町岩です。1950(昭和25)年11月のことでした。 2001年から、真鶴のみかん園に週に一度、草取りに通うようになりました。近頃自分とは何なのか感じていたのですが。それで自分史を探って確かめようというわけです。歴史の中の自分というものがなんであるのかを。これまで郷里のことや自分のルーツについては、ほとんどかえりみずに過ごしてきました。他方、周りにいた人がいなくなり、分からなくなっていきますから。そうした歳の感慨ですね。 そんなときに、ふとしたきっかけで、自分自身の戸籍を見ました。これには家族の歴史が記録してあるんですね。これまで知らなかった自分のルーツが見えてきました。 それで、第一回は、戸籍を解読することで見えてきた私などが生まれる前の自分史です。 1、曽祖父の福太郎 山梨県出身、慶応元年生まれ私の前史ですが、さかのぼれたのは三代前までの曽祖父にあたる福太郎まででした。 曽祖父の福太郎は、慶応元年(1865)生れでした。彼の住んでいたのは山梨県東八代郡境川村でした。3人兄弟で、明治11年生れの二男・長見と、明治13年生れの長女・「はまの」がいた。その地で明治16年に家督をついでました。 これまでは私などの認識は、自分が生まれた神奈川県真鶴町岩までがすべてだったんです。ところがそれは川の流れの一場面だったんですね。さらに山梨県にさかのぼりました。以前にも山梨の縁を聞いたと思うんですが、私はそれをうけとめきれなかったんですね。 あらためて、どうして山梨県から神奈川県へと引っ越したのか。 福太郎は、明治30年(32歳)に、別の村の「くめ」(30歳 長女)と結婚しています。 ところが、これが周囲の人たちに大反対されたとのこと。結局、二人は郷里を捨てて出奔した、駆け落ちだったようです。二人には二男の義方〔よしとも〕がいた。明治31年4月に生まれです。 夫婦は乳児の義方とともに郷里を出たんですね。明治30年頃ですから、鉄道もない、あっても部分的です。歩いての旅だったはずです。地図を見ると、山梨県から鎌倉を結ぶ「鎌倉往還」という古道があります。甲府から富士山ろくを通って、箱根山を通ってくる古道です。おそらく、この路を歩いてきたものとおもわれます。長い距離です。途中に富士山や箱根山があり、東京・八王子と真鶴を結んだ距離よりも長い。その道を歩いてきたんですね。 次に戸籍の記録に出てくるのは、明治41年(1908)4月、神奈川県足柄下郡岩村役場に「山梨県東八代郡境川村無番地ヨリ入籍」です。『無番地』からの転入であり、そこには10年間の空白があります。それが意味するものは何か。 結局、山梨県の境川から出て、遠く離れた真鶴町岩の地に落ち着いた。この間に、どのように岩村にたどりついたのか、落ち着くことになったのか。どうやって食いつないでいたのか。まったくわかりません。 ただその間の記録には、明治34年4月に三男・良三が生まれる。そして明治37年8月には四男・雉智(のぶとみ)が生れたことが記載されています。 私などの推測ですが、そのころには真鶴町岩に落ち着いたのではと思うのですが、確かなことはわかりません。 当時の岩村についてですが、石工先祖碑(安政6年(1859))があります。当方のみかん園のすぐ近くにあるんですが。その碑文には「岩村は海に沿って箱根山が迫り、樹林と岩石ばかりで、一項の田無し。だけど百有余戸は飢渇を知らず。」と刻まれています。 石碑がつくられたのは、ちょっと古いのですが、しかし状況はたいして変わってないと思います。岩村は、漁業と石材業くらいしか産業らしいものは無いわけです。畑などは、ほんの猫の額しか無いんです。 とにかく、明治41年には福太郎は岩村の戸籍簿に転入手続きをしたということです。 家族5人が新天地に住みついたわけですが、たよる縁者などまったくなく、たいへんに苦労だったと思います。無一文からの生活ですから、多難さはどれほどだったか。おそらく村の人たちの助けがあったんですよ、それでなかったら、流浪の旅はさらに続いたでしょう。そうした結果、真鶴町岩で、明治41年には、暮らはじめていたことは確かなんですね。 福太郎には3人の子どもがいたわけですが、それぞれのその後にも苦労が見て取れます。 二男の義方〈私の祖父ですが〉、小さい頃から小田原の建具屋さんに修行に出たとのこと、住み込みでの奉公で苦労したとのことです。 三男・良三は、さらに旅立って樺太に行ってます。「樺太泊居郡泊居町」の記載があります。戦後は、北海道に移り住んで、電気屋さんをやっていたそうです。 四男の方は、岩村で仕事についたようです。 それぞれが、それぞれが活路を開こうとしたんですね。 2、祖父の義方 明治31年生れ代がかわって祖父の義方(よしとも)です。 義方は、大正11年(1922)5月に、24歳で、「せき」(18歳)と結婚します。せきは、静岡県田方郡函南村舟山の出身です。義方の結婚は、小田原での建具屋修行をおえて、新たに独立したことを示していると思います。 そして、大正12年(1923)1月に長女・文江(私の母です)が生まれます。 ところで、この大正12年という年ですが、9月1日には関東大震災が発生しています。 大きな地震とともに、相模湾から伊豆半島かけて大きな津波が襲ったんですね。岩村でも港にあった漁船が村の中ほどまで押し流されてきて、そこにゴロンと置き去りにして波はひいたと聞きます。そんなですから海岸沿いの集落はたいへんな被害を受けただろうし、村全体がたいへんな恐怖を体験したはずです。 私などは津波の怖さを知らなかったのですが、先の東日本大震災の津波の経験をしてみると、関東大震災の津波というのも、こうしたものだったかと重ねて想像できるようになりました。 片田舎の被災経験というのは、東京などと違って記録がほとんど残らないんですね。直に体験した世代がいなくなると、被害の実相が忘れ去られちゃうんですね。 その後、福太郎・義方の一家ですが、大正15年4月に引っ越しをしています。山の中腹を通る県道が通っていますが、その道沿いの高い場所に引っ越しをしています。これも震災の影響だったのではないかと推測しています。 さらに、福太郎と義方は、昭和15年3月にもう一度引っ越しします。 それが、私などが後に生まれた家なんですが、村の駅よりの道沿いです。そこには住まいとともに仕事場がありました。 3、父と母 父・勇 大正5年生れ‐母・文江 大正12年生れそのころ長女・文江(私の母ですが)ですが、昭和14年4月から岩小学校の代用教員につきました。17歳です。さらに昭和15年4月から21年3月末まで隣の福浦小学校で訓導(教員)をしていました。この時期というのは、終戦をはさむ6年間ですから、教科書を黒塗りした体験を、実際にしたんですね。 昭和22年10月、母・文江は、父・勇(静岡県田方郡函南村新田)と結婚します。 勇は農家の10人兄弟の二男でした。晩年には、戦争では「静岡の連隊で中国の戦地へいった。字が上手だったのをかわれて伍長になった」と語ってました。これが農家の次男の懐かしい青春の出来事だったんですね。父の戦後は、国鉄職員として、伊東線の保線区に勤務していました。休日農夫だったんですね。その後、退職してから畑をみかん畑に変えます。 戦後、農地改革がありましたが。義方が家業の建具業で働いていた時、妻のせきは、戦前からでしょうが、家のまわりの畑を借りて自家野菜を作っていました。私などの小さい頃から畑仕事をしている姿を記憶しています。サトイモ、サツマイモ、トウモロコシ、ナス、大根、落花生、カブ、麦などをつくっていました。それは農地解放とも関係していたとおもいます。これが、私などの今のみかんの手入れにつながっているんですね。 そして、勇・文江の間に、昭和23年1月には長男が生まれ、 昭和25年(1950)11月には、三男・幸夫(私)が生まれたわけです。 以上が、私などが生まれるまでの自分史です。 この歴史をたどれたのは、最近ですが、中には事実の誤認もあるかとおもいます。なるべく、事実を尊重したつもりですが、確認できないこともあり、それはさけれません。しかしそれ以上に、この生まれるまでの歴史全体は、今自分たちの現在があることを、それを大事にしなければならないことを、どこからともなく、じわじわと感じさせてくれています。
2016年10月13日
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松本清張著『半生の記』を読みました 『半生の記』のタイトルが縁でしたが、松本清張著 『半生の記』(河出書房新社 1966年10月刊)を読みました。 近くの図書館の棚を見ていて、名前だけは知っていた作家です。その『半生の記』の書名が、たまたまでしたが目につきました。あらためて松本清張(1909(明治42)年12月-1992年8月82歳)という人について、その略歴や著作一覧などを見てみたのですが、そのすごい作家活動の輪郭を知りました。なんとも多岐な、たくさんの作品を残したことか、あらためて驚かされました。 その広大な世界の前にしては、私などのこの一点の感想ですが、無知と無謀さがなければ、こんな試みは出来ないとは思うのですが。それでも、これもまた、私なりの一つの成果だということで、紹介させていただきます。 この松本清張著『半生の記』(1966年刊)を読んで、注目した三点を紹介します。 一つは、戦時下のジャーナリズムの様子について、二つに、氏の軍隊生活に対する独特の体験です。 三つには、戦前戦後の20年を朝日新聞社の支社に勤めての体験、本社に対する支社の関係です。 第一に、日本が第二次世界大戦にすすむ中で、戦時下のメディアが置かれた状況についてです。彼は、朝日新聞の西日本本社(支店)に勤務していて、そこで体験した様子を紹介している部分です。 「戦争が進んで世間でも次第に窮屈になった。私も在郷軍人会などの指導で教練に出るようにたびたび催促された。巻脚絆をつけて木製の銃剣をふるう・・・。(新聞)社でも、下士官の経験のある者が、いわゆる社内教練を始めた。」 「戦争が進むにつれて、社内も次第に軍事色が強くなった。12月8日の開戦記念日には、講堂で支社長が白い手袋をはめて、開戦の詔勅を読み、全社員は郊外に行進して、忠霊塔に参拝した。職場からは若い者順に同僚が戦場に出ていった。部長は、いわゆる部会の劈頭に彼らの名前を読み上げて武運長久を祈りはじめた。」(P110) 日本が太平洋戦争にすすんでいった様子が伝わってきます。メディアも次第、次第に、会社ぐるみで戦時下の体制へと組み込まれていったんですね。戦後生まれの私などにも、ここにそうした様子がうかがえます。 第二は、松本氏自身の軍隊生活に対する体験ですが、独特の感想を述べています。 「軍隊生活は人間抹殺であり、無の価値化だという人が多い。だが私のような場合、逆の実感をもったのだ。」「兵隊生活は私に思わぬことを発見させた。『ここにくれば社会的な地位も貧富も、年齢の差も全く帳消しである。みなが同じレベルだ』という通り・・・新兵の平等が奇妙な生きがいを私に持たせた。朝日新聞社では、どうもがいてもその差別的な待遇から脱し切れなかった。歯車のネジという諺があるが、私の場合はそのネジにすら価しなかったのである。・・私には兵隊生活に職場にはない「人間存在」を見出したからだった。」(P113) 松本氏は、軍隊の中で、きれいな字が書けたために重宝されたんですね。字やデザイン画を苦労して習熟しようと以前から努力していた。それが軍隊の組織のなかで、おそらく書記官的な役割をするようになったんじゃないかと想像します。そこから、こうした実感がでてきたのではないかとおもいます。それと現実の社会のあちこちにある様々な差別の問題です。身分的な差別ともとれるような関係の存在ですね。農家であれば、その次男、三男などの人たちが、その境遇を抜け出すために、かつて軍隊にひきつけられたというのも、食べ物、衣類だけでなく、そうした関係もありえたことなんですね。 第三の問題は、新聞社の九州支社で採用された松本氏の職場観です。新聞社に採用されたのは幸いだったんですが、その職場の中でいろいろ体験させられる。会社組織の本社に対する支社の関係を、上下の身分のような関係を体験させられるんですね。「むしろ軍隊生活の方が、平等であり、ましだ」、と感じさせられるほどの支店の職場環境があったわけです。 「私は、朝日新聞西部本社で約20年働いた。広告部に入ってからはデザイナーがコピー作業で、自己の独創を試みる余地もなければ工夫もなかった。仕事の無気力は生活を空虚にした。大きな機構の中の片隅の職場にいると、実力の価値は顧みられない。というよりも、存在そのものが認められないのだ。このような下積みの者は、絶対に浮かび上がることは出来ない。殊に「西部本社」という名前は付いても、ここは要するに九州の支店であり、出張所である。ここから「本店」に動かされることはなく、多少の出世は、支店の中で、主任、係長、課長になるくらい。」(P99-100) 「転勤してきた一橋大学での社員に『君、そんなことしてなんの役に立つんや、もっと建設的なことをやったらどないや』」などと言われたと。 松本清張という人の作品は、私はまったく読んでないんですけど。ただ一つ、この『半生の記』を読んだ限りですが。松本氏は、自分自身がずーっと下積みで苦労して働いてきたものから、よく下積みの人の気持ちというものをとらえることが出来ていて、しかもそれをたくさんある作品の中のどこかに、かなり具体的に書き込んでいそうですね。それは、この職場の特殊性というよりも、様々なところで一般的に体験させられそうな問題だと、これを読んでそうした感じがしてきます。 これが私などが『半生の記』を読んで注目した三点です。ここで紹介した時代状況というのは、終戦前後の昔のことですが、しかしそれは今でも一般に社会のあちこちにありうる問題だと思います。松本氏は、自分自身の下積み生活で体験してきたことですから体感的な事柄です。それを、特有に、リアルな側面からとらえている。それに加えて、それらの問題の、様々な現れを生き生きと表現していく力を持っていたこと。それを作品の中に描き出すことで、社会に問題を提起することになったのではないか。それが多くの読者の人たちをもった事情だったのではないか、そんな推測と感想を持ちました。このことは、いつか確かめてみる必要があると思っています。
2016年10月09日
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自分史というものをまとめたいと思ってます自分を確認するために、自分史をまとめる見る必要を感じています。 私などの普段のあれこれの探究ですが、例えば読書でみると、なにかある一点の関心に集中して探って来たこと、問題としている針先の一点に注意を集中して追及してきたように思います。それは当たり前なことなんですが。もちろん人間は気まぐれですから、場当り的にあれにこれにとその都度関心をふりむけている、そのためにくたびれたりしているんですが。ところが最近なんですが、それはどうもちょっと違うように感じてきているんです。時々の関心が、たとえば一枚の写真を静止画像のようにしてとらえようとしてきたようなきらいを感じるんです。じつはその写真には歴史と深みもあって、いきいきと動いていること。ところがそれをとらえようとすると、習性でそうなってしまう。ところが、それでは違いが出てきてしまう。素朴には、その都度自分が歩いてきた全体感的なものとしてとらえようともしている、無意識なうちにですが、そのようにとらえようとしている。針先の意識ではなくて、全体的な体感的な動きがはたらいている。そこに認識活動といわれるものがはたらいているようで、針先の関心とともにつねに全体的な存在が係わってきている、そのように感じだしてきているんですね。 ある外にある対象というのは、あくまで私自身からは独立した客観的な存在なんですが、同時に、その対象をとらえようとする自分の認識力がはたらいて、しかも生成し変化している。それによって、その存在するものの形が、私などの見方の変化とともに、その姿が変わって私などに見えてくる面があるように思われるんです。対象というのは、いろいろな多様な側面を持っているということでもありますが。 そうした反省もあって、今の自分の存在によって自分自身の認識が制約されているし、また制約している、そうしたことを感じ出しているんです。ですから、自分史というものを、今の自分というものの存在を、なるべくありのままに、あくまでその時点のものではあるんですが、それをいちどはしっかりふりかえってみておくことも、これはこれで大事なことではないかと感じている次第なんです。 それは、最近の私などのブログ発信を見た場合に、あちこちにそうした要素が散在しているように思えてくるんですね。例えば、ブログ「『みかんの木を育てる-四季の変化』は始めて8年がたちました」(9月15日)などに、学習の柱の「一、みかんの手入れとミツバチ、自分自身に関すること」(9月のまとめ 10月1日)なども、そうだと思うんです。 このことは、「藤沢周平の『半生の記』」(ブログ9月3日)、「私の50年史」(宮本顕治著『網走の覚書』より)などが刺激しているのかもしれませんが。 多分に私自身の自分勝手な都合による事柄ですし、他の人にはまったくかかわり無いことであって、あくまで自己整理的なものなんですが。他人にははた迷惑なことでもあるんですが。 そうしたことで、これから6回の柱建てで、自分史を整理してみようと思っています。 もちろん、出来るだけ客観的で公正なものとなるように努めたいと思ってるんですが。 一、生い立ち 二、郷里・真鶴からの旅立ち 三、東京・学園の窓から社会をながめて 四、社会に出て、鉄鋼と政党職員に 五、介護事業と休日農夫、二足の草鞋の15年 六、現在-定年退職後の、年金みかん農夫として 以上がその柱です。
2016年10月08日
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台風一過、今日はみかん仕事に行ってきました10月6日は、10月最初のみかん仕事です。昨夜、台風18号が速足で日本海側を走り抜けました。東京でも、昨夜はかなり強い風が吹き荒れていましたが。今朝は、穏やかな秋日和り、というか、夏のような暑さです。午前5時51分、畑に向かう途中の、平塚から見えた富士山です。台風一過の快晴です。富士山もくっきりと鮮明でした。以前、9月25日には、山頂に雪が見えたのですが、初冠雪の発表はされませんでした。今回見たら、山頂の雪は完全に消えてました。午前6時半でしたが、早川のみかん園に着きました。幸いにして、台風の方の影響はありませんでした。しかし、前回に草取りしたあとですが、何やら、かなりの範囲で、やたらあちこちが掘り返されてました。これはイノシシの仕業なんですね。餌のミミズをねらって、夜中に掘り返したものと思われます。前回以降の、ごく最近の仕業です。やはりこれが問題になってました。帰り際でしたが、道路の下側のみかん畑の園主の方が、みかん園の入り口にはってあるネットの点検に来てました。「今年はイノシシが多い。ネットでみかん園への侵入を防ごうとしたんだけど、やっぱり入られちゃってるようだ」と話してました。当方の今日の作業は、引き続き草刈り作業でした。イノシシなんか、かまっている余裕がないんです。今日はみかんの木の下を鎌で草刈りしてから、一タンク分の草刈りで、やはり大汗をかきました。台風一過の快晴ですから、はやめに終わらせます。陽が昇ってくると、暑くて仕事にならなくなりますから。それにしても今年の夏は雨が多かったので、何度も草刈りに通わされました。「まわりの草と毎日相撲取りっこして」(『ものいわぬ農民』)きたのですが、しかし、その草刈りも、もう、そろそろ終わりに近づいてきたようです。涼しくなってくると、雑草の伸び方がおちてきます。午前8時、1時間半の草刈り作業でしたが、終了にしました。この天気ですから、のんびりやっていると危険です。お茶の木もみかんの木も、一段と緑が映えるようになってます。台風の雨水をうけて、またつる草を取り除いておいたので、緑が鮮明になっています。遠方の市街地の景色ですが、中ほどには小田原城がみえています。これから一段と日差しがきつくなるはずです。早朝の作業が正解でした。さて当方は、直ちに真鶴園への移動です。もう一仕事がまってますから。今回の眼目は、台風一過のオオスズメバチ対策なんです。オオスズメバチは、いつもの早朝には、出てきません。陽が昇り、強くならないと出てこないんですね。しかし、前回、動き出している気配を確認していましたから。従って、まだちょっと早いので、その前にひと休憩です。近くの湯河原温泉に足をのばして、「ままねの湯」で汗を流しました。これがその浴槽です。角の割れた所から源泉がひかれています。これは以前に撮った写真なんですが。今回、温度計で測ったら、45-6度でした。ここの温泉は、源泉100パーセント、加水せずで、かなり熱いんですよ。でも、慣れると、これが疲れにいいんです。ここへ前回来たのは6月1日でした。その時も久しぶりだったんですが。この春から夏は草刈りに追われて、なかなか湯河原まで足を延ばせなかったんですね。「久しぶりじゃぁ、生きてた? どうしているかと思ってた」と、おかみさんから声をかけられました。ここの温泉は、源泉から浴槽が近くて、効能に定評があるんです。切り傷、やけど、皮膚病などに効くために、遠方からくるお客さんもいます。なんたって、さすがに湯河原で、立ち寄り湯だと200円ですから。みかん園からだと、車なら15-20分で来れるんですが、ところがヘトヘトになると、それすらも余裕がなくなっちゃうんですね。ここでひと休みした後、午前10時20分でしたが、みかん園にもどりました。オオスズメバチ対策です。案の上、お茶の木の辺を飛んでいる一匹を捕まえました。本当はオオスズメバチは、みかん栽培の全体からすると益虫なんですが、害虫を餌にしているんですが。しかし、これからの時期、ミツバチの巣箱をねらう様になりますから、養蜂から先手を打って、一匹を粘着シートにはりつけました。これにオオスズメバチは集まってくるはずです。やれやれです。これで今日の目的は、予定のすべてを達成しました。あとは、秋晴れによって、みかんが成熟してくるのを待つことです。いろいろあるので、寝て待つわけにはいきませんが。とにかく、いよいよ、みかんシーズンが近づいてきました。ということで、今日は午前10時半に帰途につきました。
2016年10月06日
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宮本百合子作品への案内-『網走の覚書』その2 宮本顕治著『網走の覚書』(新日本文庫 1984年刊)をよんでます。この著作の第二部は宮本百合子論です。 今回、たまたま学習の柱建てということで、第一部の「私の読書遍歴」を読み直していたんですが。ことはそれだけでは済まなくなり、著作全体を読み直すことになりました。この『網走の覚書』は全体が二部構成になっていて、第二部は宮本百合子論なんですね。 今回あらためて、この著作が、宮本百合子の案内所でもあることを感じさせられました。この本の第二部は、宮本百合子の著作活動について、また彼女のたくさんの作品集に近づいていく上で、何よりの案内書であることを確認しました。 私などの読み方はいいかげんなものなんです。私はこの本を以前に一度は読んだことがあるはずなのに、今回読んでいて、初めて読むような感覚だったんですね。8本の百合子論の多くは、以前に読んだ記憶がほとんど無かったんですね。 その以前というのは、1975年のころでしょうか、この本の初版が出たはずのころのはずでしたが、要するに、私は宮本百合子の作品をほとんど読んでいなかったせいで、評論を理解できなかったんですね。 当時、関東の西のはずれから東京の大学に出てきた私などにとっては、宮本百合子の作品は、せいぜい『12年の手紙』と『貧しき人々の群れ』くらいしか読んでいなかったと思うんですよ。それでも、田舎の状況からしたら、よく読んだと思うんですが。印象としては、17歳ながら人道主義的なすばらしい作品を書いた宮本百合子、監獄の壁に仕切られながらも交わした書簡集、だいたいそのくらいしか知らなかったと思います。当時は、この本の第二部の宮本百合子論を読み込むまでの知識が、集中力がなかったんですね。その作品を読んだのは、その後だったんですね。『伸子』、『二つの庭』、『道標』など、限られてはいても主な作品を読んだのは、その後だったんです。 この『網走の覚書』第二部ですが、ここで宮本顕治氏は、8つの百合子論を紹介しています。これは、3つにわけれると思います。 最初の3つ「百合子追想」「20年前のころ」「百合子断想」ですが、これらは、1951年1月に宮本百合子は亡くなりましたが、その直後のものです。当時の複雑な社会状況の中で、百合子の死去の余韻がのこる中で、彼女がはたした業績は何だったのか、明らかにしようとしています。 第二は、つづく2つ「宮本百合子について」「宮本百合子の歩んだ道」ですが。1つは、1949年のものも。当時はまだ宮本百合子は健在ですが、彼女の戦前戦後の文学活動について、その歩みと業績の全体を評価しようとしています。たいがい人の評価というのは、その人が亡くなってからなされる場合が多いのですが、これは違います。同時代者でありながら全体的な評価がされています。もう一つは、1956年の百合子論です。亡くなってから5年が過ぎてますが、中華人民共和国の海外文学を紹介する雑誌に、百合子の全体像を紹介したものです。この二つの論評は、宮本百合子の全体的な姿を、意義と業績を紹介しようとする点で共通しています。 第三は、おわりの3つ「宮本百合子と郡山」「四半世紀を経て」「「50年」前後の宮本百合子」ですが。これは自然の摂理で、宮本百合子の死から時が隔たっていきますが、その後の新しい社会状況の中で、百合子の努力・作品が新たな光を放っているとの角度からの紹介です。 私は、あらためて、これらの8作の宮本百合子論を読んで感じさせられるんですが、これが、宮本百合子の意義を理解する上で、たくさんの残された作品群に接近していく上で、大事な案内役をしてくれるのではないかと感じています。 この中で、最後の「「50年」前後の宮本百合子」ですが、これは1981年1月20日に「宮本百合子没後30周年記念の夕べ」(東京・九段会館)でのあいさつです。メインは不破哲三氏の講演でした。じつは、第二部の8作のうち、この宮本顕治氏のあいさつについては、強いインパクトがあるんです。私は、このあいさつをじかに聞いているんですね。 あらためて読んでみて、この「あいさつ」を、しっかり、よく理解できていたかというと、そうじゃないんです。 この中で出てくる中野重治氏の作品「甲乙丙丁」などについては、その後この問題の素材に当たって確かめることまではしていませんから、聞きっぱなしになっていたんですね。 しかし、その論点については、記憶してました。外国の大きな共産党に対し、その権威に追随して、自分たち自身の自主的な態度を放棄してしまう様では、だめなんだ。また、百合子などが50年問題といわれる時期に、実践した態度とはどのようなものであったのか。当時、耳新しく聞いたと思うんですよ。だいたい共産党の政治的な問題というのは、その党の内部でそれぞれの意見について議論しても、外の一般的な人たちに対して勝手にペチャクチャあたりかまわず喋り散らしてはならない、そんなことをしたら政党としての統一した態度、国民に対する責任ある態度がとれなくなる。そうした政党としてのルールがあるんだと、宮本氏はそうしたことを説いていました。当時の事情があったんでしょうね。 この問題に派生して、今の問題として、考えさせられるんですよ。 昨今のどこかの政党ですが、以前の選挙では「TPPには断固反対」といっていたのが、政権に復帰するや否や、「TPPを断固推進、今国会で必ず採決する」に変わるんですから。「党議に反する奴は厳しく処分する」とまで言っていたんですから。 そうなると、ちょっと前をふりかえってほしい。文字通りこの政党にあって、以前の公約に責任を持って、違反者を処分するとすれば、「TPPの推進者は、処分されなければならない」。そうなると、首相以下、農林大臣、閣僚、ことごとく、処分されなければならないはずですが。当然そうなるはずなんですが。 ところが現実は、反対でも、賛成でも、「おう、そうだ、そうだ」の大合唱で、問題が問題にならない。 同じ政党とは言っても、やはり政党はそれぞれに、だいぶ質が違うようですが。まぁ、自民党なんて、そんなものでしょう。ともかく、少なくとも最後の「宮本あいさつ」ですが、中味の理解の度合いはともかくとして、直接にきいたということは、今となっては大事なことだったと感じています。8作品の百合子論のなかで、この「あいさつ」が、たいへんに身近なものとして、体感的なものとして感じてくるわけですから。この感覚は、活字を読み取る上でも、一つの力になってくれるんですね。 最後に感想です。 今回『網走の覚書』を読み直して感じています。宮本百合子の作品というのは、日本の国民にとって民主主義的な宝なんですね。その作品をよくつかむことは大事な課題なんですね。たくさんの作品群がありますから、簡単なことではありませんが。気長に、しかし着実にですね。宮本百合子の作品を一つでも多く、しっかり評価すること、それが私たちにとって大きな宿題なんですね。それをすすめる上で、宮本百合子という人を知り、またその作品集に近づいていく上で、『網走の覚書』が、何よりの案内書であることを、今回あらためて確認しました。
2016年10月05日
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あらためて宮本顕治著『網走の覚書』を読んでます『網走の覚書(増補版)』(宮本顕治著 新日本文庫 1984年4月刊)を読み直しています。 この本は、二部構成になっていて、第一部は、戦前の社会の中で、宮本氏の社会科学への認識史と、それがくぐった試練を、9つの随想的小論で紹介しています。第二部は宮本百合子についての8つの論説からなっています。 今回、読み直しているんですが、そのきっかけは「9月のみかん農夫のまとめ」です。学習するにあたり、ないし学習したことを整理するにあたって、学習テーマの柱建てをしておく必要を感じたんですが、それはそうした考え方をどこかで聞いていたことを思い出したんですね。それであらためて確認してみたんです。 この柱建ては、この本の中の「私の読書遍歴」に出てきます。この小論は、文庫で4ページと短いものですが、最初は「日本読書新聞」1952年3月12日号に掲載されたものだそうです。 それは1930年代のことですが、宮本氏は特高警察にとらわれて監獄に拘束されたこと。その獄中にあって、なんと学習計画を建てたそうなんです。そのことが紹介されているんですね。宮本氏は、共産党の活動の為、治安維持法違反で逮捕された。25歳くらいの時のこと。市ヶ谷の未決監では、3冊に限り監房に置くことが出来たのだそうです。 そうした条件の下で建てた学習計画について、後年になって紹介しているわけです。 「そこで、基礎的勉強に眼目をおき、自分で読書部門を六部門-1.現代についての具体的知識、2.社会経済史、3.マルクス主義の三つの源泉といわれる近代古典、4.文学・芸術、5.語学、6.軍事科学等-に分けて始めたコースで初年度は約170冊読んだ。」(P49-50) この柱建てして学習するというのは、一般に小学生でも学校で、算数、国語、理科、社会などの教科をたてて学習しているように、状況は違いますが諸科学を全体的に学習していく上で、一つのやり方だったと思います。だいぶ以前ですが、私もこの本を読んでいたんですが。どうしたわけか、その柱建ての考え方を思い出して、読み返してみたんです。そして、このやり方を私なりに応用してみようと思って、いろいろ試みだしてみたんですね。それがこの本を読み直すきっかけだったんですが。しかし、読み直してみると、重要な点は、たんに学習の仕方の問題だけにとどまらないことを感じ出しているんですね。 まだ『網走の覚書』は、第一部しか読み直せてはいませんが。 今回、その第一部の9本の小論を読み直してみたのですが。 その内には「小林多喜二とその戦友たち」という講演がありました。これは1973年2月20日に神田・共立講堂で行われたものだそうですが、この著作の論文は、全般的には1950年代に書かれた作品がほとんどだったんですが、この講演は「小林多喜二没後40周年記念の夕べ」でのものだそうです。じつは私もこの講演を直接に生で聞いていたんですね。 今回、あらためて読み見直してみて感じさせられるんですが、説いている話の筋は大体覚えていて了解するんですが、その根拠となっている材料については、はっきりとした記憶がない、いいかげんなんですね。 たとえば、この講演の中に出てくるんですが、終戦の直後に志賀直哉が書いたという『灰色の月』という短い文章が紹介されてます。「戦後のいろんな社会的混乱をリアルに描いた」もので、志賀直哉の「現実主義者」としての性格を示していることの根拠として紹介されてるんです。 他方話の筋としては、講演のなかで、志賀直哉が虐殺された小林多喜二にたいして「不図彼等の意図、ものになるべし」と日記に書いていたことを評価した点は覚えているんです。しかし、志賀直哉の性格を示すものとしての『灰色の月』をとりあげて評論していたなどということは、まったく記憶に残ってませんでした。それが肝心の根拠として、積極的見解の土台になっていたのに。 最近、このこととはまったく関係ないことですが。私自身のかねてからの宿題として、志賀直哉の「真鶴」という作品、大正9年の作品ですが、これを読みました。それを紹介したんですが。 そこで感じたんですが、私などは子どもの頃に真鶴で育ったものとして、この小論で志賀直哉が表現していることには、個々に、よくその土地柄や、人の状況をとらえているなぁ、と感じたんですね。 今回、それとここでの宮本氏の志賀論評とに重なるものを感じたんですね。ここで、「リアリスト-現実主義者」と評言されていることは、「真鶴」にも重なる要素があると。この宮本氏の志賀評言に共感するというか、納得するのを感じたんですね。 以前に講演を聞いた時には、その宮本氏の主張がその根拠としていた材料「灰色の月」について、私などはまったく記憶に残らなかった。今回たまたま読み直したことで、初めてその作品と評言に気が付いたという次第です。 ようするに、精神の結論的志向も大事なんですが、同時にその根拠となる材料もまた大事な土台になるということです。当時は、材料についての関心がまったくといってよいくらいに、私には響かなかったんですね。 宮本氏のこの著作『網走の覚書』の第一部ですが、じつに大きなテーマをもっているんですよ。 少なくとも次の様な問題をふくんでいます。 1、宮本氏が、生い立ちというか、青春時代に、どのように科学的社会主義の正しさに啓発されるようになっていったか。2、大変困難で、厳しい戦前の社会の中で、どの様にそれを探究していったのか。先の基礎学習の柱建ての仕方の問題もその中の一つですが。3、戦前には共産党は、国賊・非国民と追及されたけれど、敗戦とその後の社会改革が、その主張と努力の正しさを検証するものになっている。志賀直哉の日記や態度にも、それを証明する性格があると。4、そうした精神からすると、今日ではどのような課題に対して、どの様な努力が求められているのか。 こうした問題を、現在を生きる私たちに、この著作の第一部の9論は投げかけているんですね。なかなか今日的でしょう。今回は、ここまでです。 この本の第二部は、宮本百合子の論評をあつめたものですが。それは8つの評論からなっていますが、そこでは何をあきらかにしているか。宮本百合子のどのような側面を明らかにしているか。入門書的な、作品の今日的な意義を紹介する面を持っていると思うんですが。 それは、次回に紹介できたらと思っています。
2016年10月03日
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2016年9月、みかん農夫のまとめ これまでみかん栽培を中心に月々をまとめてきましたが、今回はちょっと違います。 みかん作業の様子については、すでにその都度紹介してきていますから、それに、この先は収穫作業で忙しくなるはずですから、今回は、目下のみかん農夫の置かれている全体的状況について紹介します。 一、9月のみかん園の手入れは、草刈り作業とミツバチの巣箱の掃除でした。 9月は、真鶴・早川のみかん園には、2日、10日、17日、25日、30日と、全部で5日間を往復しました。みかんは、フツウウンシュウミカンの果実はまだ濃緑色なんですが、早生みかんの方は少しずつ色づき始めたところです。また、法政大学の同窓会で、9月5日から7日に山形県の鶴岡に旅してきました。私などが、日常を離れるのは、この機会くらいなのですが。初めての山形でしたが、歴史的な庄内平野の穀倉地帯を見てきました。 全体として今年の9月は、例年に比べて秋晴れが少なく、雨がちな日が多くなりました。その為、みかん畑には雑草が次々に繁茂してきて、草刈り作業がたいへんだったんですね。ミツバチの方は、この時期、巣箱にスムシが繁殖しだしたので、去年以上に掃除を頻繁にしてきました。また、9月にはいってからキイロスズメバチが巣箱にまとわり付くようになりました。 みかんの収穫量ですが、その年によって違うのですが、当方では11月-12月に大体2,000キロを収穫しています。それを東京に搬送するようにして、近くの多摩市の人たちを中心に販売するようにしています。 暮れの2カ月間が繁忙期で、収穫-搬送-箱詰め-出荷の回転で、八王子と真鶴・早川を、週に2回のペースで往復することになります。 二、当方はみかんの手入れを、2001年2月から始めだしたんですが。 ちょうどこの時期に仕事が変わりました。それまでの日本共産党の地区事務所勤務から、東京民主医療機関連合会の事務局のアルバイトにかわりました。その後、同じ民医連ですが、介護用具レンタルの会社に勤めるようになりました。 偶然の重なりでしたが、この職場の変化によって、日曜・祭日が休めるようになり、みかん栽培に通うことが出来るようになりました。以来、介護用具の貸与事業とみかんの休日農夫の二足の草鞋だったんです。そうした生活が15年間つづきました。職場の方は、この2016年3月に定年で完全退職となりました。 2011年から継続雇用となったので、少し時間がとれるようになりました。東日本大震災の後でしたが、朝早く出勤するようにして1時間の学習時間をとるようにしました。 いろいろ試行錯誤してますが、学習テーマは、 一、みかんの手入れとミツバチの飼育、自己自身の耕作に関するもの 二、哲学や歴史観、経済学などの古典に関するもの 三、憲法と政治に関するもの 四、農業と社会発展に関するもの 五、日本の歴史に関するもの 六、文学など この6つくらいを柱建てにしてすすめています。 この柱建ての学習は、宮本顕治氏の「私の読書遍歴」(『網走の覚書』1984年刊)に、ヒントを得たものだったんですが。 この間に読めた本ですが、2011年-14冊、2012年-18冊、2013年-23冊、2014年-21冊、2015年-16冊です。 あまり読めてませんが、人には個人差があります。人生は短い、もはや読める本には限りがあるのを感じています。しかし、これは場当たり的な、気分のおもむくがままといった読書法を改善することになるようです。読みっぱなしというのは、一番ダメなんですね。人間の記憶は忘れるように出来てますから、簡単でもこうしたブログやノートに残しておくことが大切ですね。それにより、自分で立ち返ることもできますし、客観性が出てきます。なによりも自分自身の読む姿勢が変わってくるように感じています。 この生活の柱の2つ目、これらの学習を、さらに進めていくことです。 三、さらにみかん栽培についてですが 昨年、2015年11月からみかん園が少し増えました。真鶴のみかん園にくわえて、早川の市民みかん園を借りることになったからです。 早川の石垣山で、高校時代からの友人が、専業的にみかん園をいとなんでいるんです。 当方は、この数年、真鶴のみかん園が裏年でみかんが出荷に足りなくなった時に、すでに約束してある人たちに不渡り手形を出すわけにはいきませんから、その知人からみかんの不足分を分けてもらっていたんです。 それを去年の11月から一歩進めて、その畑の一角を貸し出してくれたんですね。 どのみち東京と真鶴を往復しているわけですから、その路の途中で早川のみかん園によるのは別に大変なことではありませんから。ちょうど交通の便がいいんです。 なによりも、一般的なみかん農家の栽培と交流できるようになったことです。草刈り一つにしてもそうです、エンジン式の草刈り機の使用もここで教わったんですね。農家というのは、一般的には自分の畑の世界の中に閉じこもって、必死にあがいていますから、孤立しがちです。私なども、それまでは鎌一本で草刈りをしていたんですから。それは1960年頃までの農家のスタイルでした。この市民みかん園の交流から、みかん栽培についての、今の広い世界が見えてくるんですね。 したがって、今年からみかん栽培は、真鶴のみかん園に加えて、早川の石垣山のみかん園も始めるようになっています。早川は自然が豊かですから、草刈り作業が大変なんですが。 四、さらに、すでに紹介しましたが、10月から仕事が1つ加わる予定です。 近くに診療所があるんですが、その利用者さんの送迎車を運転することにしました。 これは、まだ予定なんですが。都心と違って、三多摩は交通不便なんですね。お年寄りの体が不自由な方が、診療所に行くには多摩丘陵の山坂を越えるのは大変なんですね。この10月から、週に一回、半日の仕事ですが、頑張ることになっています。 定年退職してから、傍目には部屋に閉じこもっているものと、それと道楽のみかんばかりしているとみなされていて、少しは働くようにとの周囲からの圧力、指示がはたらいてるんですね。私としては、それほど暇しているわけではないつもりなのですが。 もっとも、送迎運転は、これから新しく始めようとしている仕事ですから、すべてが順調に行けば、ということなんですが。 以上、この9月までの、みかん作業も含めた全体的に生活のまとめです。
2016年10月01日
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