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第7回みかんの収穫は、5.5コンテナでした11月30日、第7回のみかんの収穫に行ってきました。今回の収穫は、真鶴園のみで、5.5コンテナの収穫でした。ようやくにして、まとまった量の収穫ができました。この内の半分については、縁者と友人への郵送にあてます。やっとその分が確保できたということです。今回、はっきりしたのは、みかんの木の成木で、ある程度みかんの実をつけている木というのは、真鶴園で5本、早川園で1本の、全部で6本の木だということです。もちろん、この他にも小木の木がありますが、それは、まだ収穫できるみかんの量は少なくて、数に入るほどではありませんから。今年は、これまでのところ、例年よりも成熟の時期が遅れてきました。しかし、だいたい終わりの時期は毎年共通で、普通温州の場合は終わりは年内ですから。ここへきて、これまでの遅れを取り戻そうと得るかのように、みかんの色づきが、急速に変化し始めてくるわけです。昼夜の寒暖の差が大きくなると、より加速してきます。みかんが熟し始めた証明ですが、みかんの果実にその痕が残っていました。メジロやヒヨドリ、オナガドリたちが、お目当ての熟した実のあたりを巡回し始めています。鳥たちが、みかんの成熟した果実がどのへんなあるか、それを教えてくれています。今年は、鳥もしびれを切らしたようで、少し早めの黄色の果実もつっいていましたが、これは、オレンジ色の完熟ミカンですから、正解です。この果実があった木です。鳥もおなかがすくと、少し早い果実でも突っつていますから、あくまで成熟度の判断の参考材料なんですが、しかし、間違いなく、この辺が熟していそうです。鳥たちは、時々、回ってきては、すぐ近くでけたたましく鳴いています。もしも、私などが、今日のこの時間に、このあたりを収穫していなかったら、人の気配がなかったならば、きっと、さっそく鳥たちの饗宴がはじまっていたでしょう。当方の収穫は、熟したみかんしか採りませんから、美味しいところ取りです。まわりには、あとちょいというのが、そこそこに残っていますから、そのあとに鳥たちがやってきては、「あれ、おかしいなぁ、もっとあったはずなんだけど」などと、キー、キーとさわぎたてて、そうした会話をしているはずです。本当は、一度収穫すると、中5日間くらい置くと、甘さが出てきてよいのですが、木の数が少なくて、みかんが少ないので、なか3日くらいで収穫が出来るように、残しています。そのくらい置けば、次に熟してきたものが収穫できるようにしているわけです。極力、早やもぎをしないようにしているんですね。その間には、鳥たちが多少はついばむでしょうが、仕方ありません。全部をついばむことはできませんから、あくまで一定の範囲内ですから、まぁ、それが鳥たちの分け前ですね。もしも、人の収穫の速度が、みかんの成熟に追い付かないとなると、鳥たちが主人公となって、にぎやか大饗宴をくりひろげるところとなります。美味しい熟したみかんの大方が食い荒らされちゃいます。去年まで、私などは日曜農夫でしたから、そうした経験があるんですね。とくに日曜・祭日の当日か、その前の日が雨だったりすると、木やみかんが濡れちゃいますから、1週間-2週間と、収穫が出来なくなりました。そうなると、みかん園は完全に鳥たちの天国になっていました。今回からは、そうしたことは無くなるはずですが、しかし、今回、成木であてにできるのが、5本だけというのは、なんとしたことか。鳥たちも言っているはずです、「あれ、前よりもみかんの数が少ないじゃぁ。どうしたの」と。
2016年11月30日
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トルストイの民話集『イワンのばか』を読みました その2 民話集『イワンのばか』は、岩波少年文庫として刊行されている著作ですが、これには、トルストイ作の民話8作が集められています。 「イワンのばか」については、すでに以前に紹介しましたが、今回はその他の作品について、紹介します。 この本に記されている著者・トルストイの紹介ですが、 「1828-1910 19世紀ロシア文学を代表する文豪。貴族の家に生まれ、裕福に育ったが、終生農民への深い理解と愛情をもちつづけた。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など、数々の傑作を残した。」 とあります。 私などのロシア文学との縁ですが、 1969年ころ高校時代の知人から、早川在住の相田重夫氏(1917-2010年)を知りました。相田先生は、『シベリア流刑史』(中公新書 昭和41年刊)の著者です。この本は、ロシア文学の民主主義的な流れを紹介したものでした。大体ロシア文学について、私などは初めて知る世界でしたが、ロシアの民主主義的進歩的な思想として、たいへん貴重な啓蒙的刺激をいただきました。 この本に中には、トルストイの紹介はないのですが、ちょうどそのころ、映画で『戦争と平和』が回って来ました。映像作品と重ねて、この長編の文学作品をよんだものでした。 トルストイといえば、こうした大きな作品が有名ですが、今回知ったのですが、少年少女向けとのことですが、民話の小品にも素晴らしい作品がありました。 今回は、「イワンのばか」にまとめられていたそれ以外の作品の紹介です。 「人には多くの土地がいるか」(1886年) これは、農地を欲しがる農民の姿が、その心理が描かれています。辺境の地では農地を手に入れることが出来たようです。ある農民が土地を必死になって手に入れようとしたんですが、結局、欲張りすぎて、自分の命を落としてしまうという話です。 「ふたりの老人」 この中には、ロシアの農村の飢饉における農民の飢餓状態が描かれています。老人が巡礼に行く旅の途中でのことで、信仰心による対応ということを諭そうとするきらいもあるんですが、それは置いたとして、農村の飢餓というものを、その現実感が伝わってくるようなリアリティーをもって描かれています。 「カフス―スのとりこ」 「初期の『戦争と平和』とほぼ同時に執筆していた短編集にあるもの、自身のクリミア戦争への従軍経験をもとにしている」と解説がありました。カフカ―スで、ロシア軍とタタール人とのいくさを背景にして、タタール人の捕虜となったロシア兵のはなしです。 トルストイという人とその作品ですが、今回私などが読んでも、その背景となる社会状況や、生活観が伝わってきました。著者がそれらの世界を描きだす力をもっているんですね。 また、そこでの対応や考え方には、人道主義的な考え方があります。トルストイの作品が、ロシアや世界で読まれているわけはこのへんにあると思います。同時に、その対応の基調には、宗教心というか、信仰心による救済を諭そうとする、独特の考え方があります。この点は、理解しえない点なんですが。 日本近代史にとっても、トルストイは関係しています。日本文学史の流れの中にも、このトルストイの人道主義的考え方は、「白樺派」の武者小路実篤などに、大きな影響を与えています。これはこれで確かめなければならない点ですが。私たちのまわりにも、こうした考え方というものが、意識はされてませんが、かなり様々な形をとって、広範に存在していると思うんですよ。 もう一つ、これに対するレーニンの評価の問題があります。トルストイは1910年に亡くなりましたが、その亡くなる前後に、ロシアではトルストイの評価が様々な人たちによって議論されたようです。 レーニンもまた、トルストイの亡くなる前後に論評しています。よく紹介されているのに「ロシア革命の鏡としてのトルストイ」(15巻 1908年) があります。これはトルストイの亡くなる前のものですが。 その他にも、 「エリ・エヌ・トルストイ」(16巻 1910年) 「エリ・エヌ・トルストイと現代の労働運動」(16巻 1910年) 「エリ・エヌ・トルストイとその時代」(17巻 1911年) など、 少なくとも6本の論文を書いています。 このレーニンのトルストイに対する批評ですが、この人道主義的な評価にたいして、さらに踏み込んで、問題を前にすすめるために、分析的にみていく立場を提起しているんですね。このレーニンのトルストイに対する論評ですが、ここには、現代において、私たちとしても学ぶべき問題が含まれていると思います。
2016年11月28日
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11月26日、第6回みかんの収穫です一昨日の11月24日は、東京は54年ぶりに早い初雪を記録しました。東京・多摩市の一行のみかん狩りは、雪降る中での挑戦でした。翌日の昨日は快晴でしたが、その一日をはさんで、今日は第6回みかんの収穫です。あえて今日出かけたのは、今晩から明日にかけて雨が降るとの予報だったからなんですが。今日、土曜日は、伊豆方面への車で道が混雑しますから、午前5時40分に出発しました。途中、午前6時48分の富士山ですが、平塚からの様子です。一昨日、東京に初雪をもたらした雪雲は、富士山の景色を一変させました。宝永山火口の下の方まで真っ白、登山道のジグザクも見えなくなりました。さらに走って、午前7時の小田原サービスエリアから見た富士山です。下界が寒いことは、富士山の景色を見ても、分かります。宝永山よりさらに下の、すそ野の方まで雪が下りてきているわけですから。みかんにとっては、寒暖の差が色づきを促進します、紅葉と同じです。同時に、太陽の日差しが大事なんです、味の甘さは太陽の恵みなんです。ところが、関東地方のこの秋は、全般的に雨がちで、陽のさす時間が短かった。私などのみかん園では、去年より20日間も収穫テンポが遅れています。本日の真鶴園でのみかんの収穫ですが。第6回目のみかんの収穫です。真鶴での収穫は、0.3コンテナで、6キロ分のみかんの収穫でした。みかん園全体としては、あちこちのみかんが色づき始じめだしたんですが。視覚だけでは、みかんの美味しさの判断を誤ります。みかんの味を実際に確かめて、判断するようにしていますが、やはり、今年のみかんの甘さののりが、いまいちなんですね。これしか採れませんでした。お昼頃には早川のみかん園に移動しました。これがその早川園からの景色です。早川園の景色は最高です。小田原城も見えています。今日は、早川園でもみかんの収穫に着手しました。これがその成果です。これが、早川園の第1回収穫です。早生みかんの収穫は、0.2コンテナで、3キロでした。早川園には、まとまった量を収穫出来る木が、今年は1本しかないんです。同じように色づきは進みだしているんですが、成熟の方は、やはり、まだちょっと早いんですね。その代り、早川園には、ユズの木が一本、果実を沢山つてあります。右側の籠は、今回、そのユズを収穫したものです。早川園の様子を紹介しましょう。早生の温州みかんの木です。写真で見るとみかんは熟していそうですが、近づいて見ると、まだあと少し早いんです。さらに、ユズの木です。これはならせ過ぎですね。小粒のユズの果実が、たくさんついています。摘果せず自然に任せていると、ピンポン玉くらいの大きさの果実がたくさん出来てしまいます。摘果してやれば、もう少し大きな果実が出来るかと思います。早川園は、去年の11月3日から手入れを始めたわけですから、今年は、まだ木の様子を観察している段階です。なり過ぎの木は、来年はなりませんから、手当てを実際に実施できるのは、再来年の幼果へ手当てすることになるわけです。従って、二年後です。今、政府はTPPで、すぐにでも「輸出できる農産物をつくる」ことができるかのように、7年間で、関税をゼロにしても、「低価格の輸入農産物との価格競争に勝てる体質をつくれ」、「そうすれば、大丈夫だ」などといってます。それは、まったくの机上ブランです。それを、ことしやかに、強行の論拠として言ってます。これは、現実の状況とまったくかい離した、裏付けなしのまったくの空論です。「できるものなら、主張している当人たちに、実例を示してしかるべきですが〕実際は、あとはのとなれ、やまとなれ、ということなんです。それでTPPを強行しようとしているんですから、多少とでも責任ある、経験ある徳農家の人たちからしたら、これはとんでもないことです。しかし、そうした常識の声を無視して、強引に空論を強行採決しようとしている。これは、まったく政治が地に落ちてますね、救いがたい亡国政治ですね。それを合理化する詭弁が政治を牛耳っているんですから。みかん農家は、今は収穫作業で、猫の手も借りたいくらいに忙しい時期ですが、しかし、その中でも、今の国会の動向を注視するようにして、現在、強行されつつあるTPPに対し、もっと声を大にして、現場からの生の声を政治に反映させなければ、明日がとんでもないことになります。戦後まがりなりにも続いてきた農政への信頼は、いまやまったく逆転して農家たたきをもっぱらにしています。米を輸入を拡大して、価格破壊をしようとしているんですから。あれっ、何の話でしたっけ。みかん園の様子を、今日の収穫を紹介していたはずだったんですが、どうやら、話が、どこかで現状問題に変わってしまったようです。重大な問題が、どうやら、いち農夫をして、突き動かしているようです。
2016年11月26日
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トルストイ「イワンのばか」を読みました民話集『イワンのばか』(金子幸彦訳 岩波書店 1990年刊)ですが、トルストイ(1828年-1910年)の民話作品ですが、8編まとめられています。本の題名にもなっている「イワンのばか」を読みました。トルストイが、1885年9月に書いた作品だそうです。この本で60ページと、短い作品です。プーチン大統領が近く来日する予定だそうですが、せっかくだから、それまでにロシア文学を読んでおこうと思っています。ロシア文学の作品の中には、大地のように民衆を描いたものがあると思っています。現在の政治家とは区別するようにして、作品をあたってみたい、それには諸国民の心をとらえるものがあると思います。それをなるべく知るようにしたい、確かめてみたいと考えています。今回は、トルストイの民話「イワンのばか」です。この作品は、あるところに、物もちの百姓が住んでいて、3人の息子がいたそうな。その3人とは、軍人のセミョーン、たいこ腹のタラース、そしてばかのイワン。この三人の兄弟が、悪魔たちもかかわって、織りなしている話です。軍人気質の長兄、資本家気質の次兄、そして農民のイワン。これは、当時のロシア社会の縮図のようなイメージを重ねたものかと思います。トルストイは、農民のイワンを、二人の兄に対比して、愛着をもって描いています。この三人の価値観や生活習慣、発想、行動様式などの対比が面白いんです。まっとうに農民として働くイワンに対して、いただけない軍人気質の兄や資本家根性の兄たちの考え方、行動を描いています。なかなか、今でもあたらしく、意味深長に感じさせられるものがあります。古典の作品というのは、すごいですね。130年も前の作品なのに、ちっとも古くないんですから。民話ですから、私などにも読みやすい小品なんです。そこにはトルストイの生活観、社会観が描かれていると思います。私などは、有名な「戦争と平和」とか長編小説しか、しかも映画くらいでしか知らない。原作というのは、昔、チョコッと読んだ程度なんです。今回、よんでみると、へ~ぇ、トルストイは、こんな民話によせて労働観を説いているんだ。民話の短編もバカに出来ない、いちどくに値するな、と感じされられました。
2016年11月25日
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東京は雪、それでも真鶴方面へ出かけました11月24日、東京は朝から雪が降り、積雪だったんですが。多摩市の一行は、この中を、予定通り日帰りツァーに出かけました。行き先はスキーではありません、真鶴へのみかん狩りなどです。もちろん、こんな天気ですから、みかん狩りは出来なかったんですが、その代り、真鶴での相模湾の地魚の賞味と、湯河原の温泉です。これが、その目的のお刺身です。魚種は、1.カワハギ、2.アジ、3.ソウダガツオ、4.キンメ、5.ムツ、6.イサキそこまでは、なんとか名前が分かるんですが。お店の方から名前を紹介していただいたんですが、その肝心のメモをなくしてしまいました。東京・多摩市発、午前8時30分。今日の多摩市の朝は雪、東京は54年ぶりに早い初雪とのことでしたが、そんなことぐらいで、予定をあきらめる一行ではありません。普通ならみかん狩りツァーですから、中止してもおかしくはなかったんですが。前の晩のうちに、雪道用のタイヤに交換しておいたというんです。というのは、みかんと、地魚、美術館と湯河原温泉ですから。当初、私は、現地に一足先に行っていて、一行をむかえるてはずだったんですが、この雪模様でしたから、急きょ、昨夜予定を変えました。私の雪道の運転は不慣れで、危なっかしいものでしたから。はじめから一行のマイクロバスに便乗させていただいて、全行程を、一緒に行かせてもらうことにしました。まず、真鶴半島にある中川一政美術館に午前11時に到着し、見学させてもらいました。中川一政(1893-1991年)の絵それぞれを、美術館の館長さんが案内してくれました。97歳の亡くなる直前まで描いていたバラの絵や、「福浦」や「駒ケ岳」など、当人が、現地にキャンバスを置いて描いた様子など、画風や人柄などもふくめ、楽しく説明していただきました。さて、芸術鑑賞した後は、「まるなか」で相模湾の地魚の賞味です。これが、そのお刺身定食なんですが。お店の方によると、こんなみぞれ交じりの天気の中を、今朝、漁師さんたちは、漁に出てきたのだそうです。その新鮮な地魚をつかって、まさに、さばきたての味ですから、なかなか得難い新鮮な味です。このみごとな船盛を前にしては、自然とそれぞれのお箸が弾むというものです。やはり、この船盛を待見ると、あいにくの天候の中でしたが、遠路、はるばる出かけてきた甲斐があるというものです。これは、お店の方が、それぞれの魚の名前を説明してくれているところです。耳で聞いていただけでは、魚釣りの経験ある方は別ですが、地魚というのは、なかなか名前を知りません。冒頭で紹介した6種くらいは、なんとか分かるんですが、おなじアジでもいろいろ種類がありますから、その名前を紹介していただたんですが、忘れてしまいました。魚の名前は忘れても、目と味が確かなら、十分なんです。とにかく、とびきりの新鮮な味だけは、確かにインプットされました。だいたい、ここのお店の人たちのサービスがすごいんです。おもてなしの心意気が伝わってきて、楽しいんですね。こればかしは体験しないと分からないんですが。食事処は、真鶴の「まるなか」でした。そのホームページです。http://www.ryokan-marunaka.co.jp/みかん狩りの方は、こんな雪まじりの天気でしたから、みかんの木も足元の方も濡れていて、みかん園には入れませんでした。その代わり、みかん園の方が、色づいたみかんを袋に入れてくれて、バスの方まで届けていただきました。当地のみかんですが、独特の味で、多少酸味も含まれてますが、甘くて味が濃いんです。これが、熟した西湘みかんの特徴なんですね。当地のみかん農家の、こだわりの味なんです。きっと、みかんの味についても、あとで堪能していただけると思っています。さて、最後は温泉です。お隣の町-湯河原温泉まで、バスでひと走りしました。湯河原温泉は、最近、誰かさんのおかげで、その名が全国に知られましたが、「とんでもない」のは、温泉ではありません。温泉地をせこく利用した人間の方の問題です。だいたい湯河原温泉には、庶民にも利用しやすいように、町営の温泉施設もあるんです。私たちにとっても、利用しやすく、町も静かですし、手軽な温泉場なんです。温泉の泉質もよく、湯量も豊かで、最高なんですよ。せっかく遠路ここまで来た以上、この温泉でひと休みしない手はありませんから。今日は、窓からの景色は、山の上の方にはうっすらと雪も残っていて、その雪景色を見ながら、ゆっくり温泉三昧でした。ということで、当方も今日は、完全に休養させてもらいました。こんな天気では、もちろん畑仕事など出来ませんから、みなさんとともに、バスに揺られて、こころおきなく、のんびりさせていただきました。
2016年11月24日
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11月23日、第5回みかんの収穫明日は関東の平野部でも雪が予想されるとのこと。それで、雪(雨)が降る前にということで、本日、11月23日、第5回目のみかんの収穫に行ってきました。早川園からの、朝の景色は、どんよりとした曇り空でした。早川園のみかんですが、早生の実をつけた成木が1本あって、それを期待しているんですが。綺麗な色をしているでしょう。大きさも適当な大きさです。木全体の中で、この枝だけなんですが、試しに摘果をしてみたんです。結果がでました、やはり摘果の手を入れたのが正解でした。手を入れなかった枝は、小粒のみかんが、それこそ枝いっぱいに付いていました。ならせ過ぎは、木にとっても負担が大きくて、良くないんですね。しかし、この色づきの良いのを一つ、味試しをしてみたんですが、まだ酸っぱい、味がいまいち早いんですね。色だけで収穫時を判断してはならないことを、このみかんは示していました。それで、今回も早川園に着いては、手を付けずに置きました。それで、午前7時40分に真鶴園へ移動しました。今回で第5回目の収穫です。本日の収穫は、2コンテナの40キロでした。今回、ようやくある程度の、まとまった収穫が出来ました。この間の収穫が、ほんのわずかしか採れなかったので、予定していた卸先にも、静かにして声をかけずにきていたんですが、どうも今年は、積極的にこちらから声をかけるのは、控えていた方が良さそうです。今日収穫した木ですが。これは宮川早生の小木(13番)です。すでに前々回に収穫している木ですが、少なさそうですが、これでもある程度の数の熟したみかんをつけてくれます。後ろにある成木からも、少し収穫しました。こちらの方は、鳥がちこちの果実をついばんでいますが、私からしたら、早すぎる果実をついばんでいました。猿も木から落ちるように、お腹をすかせた鳥は判断を誤るようです。もう一本、早生の成木から、少しですが収穫しました。この早生の木は優秀で、毎年そこそこの果実をつけてくれています。この木以外の早生の成木は、隔年結果が激しく出て、今年はゼロ、ほとんど実をつけてくれてません。ということで、これまではスローモーションでチョロチョロとした収穫でしたが、しかも例年以上に20日くらい遅くはじまって、これまでのところ、ゆっくりした速度でささやかな量だった今年の収穫ですが、本来、秋晴れ続くはずだったんですが、今年は晴れた日が少ないですね。しかし、とにもかくにも、ようやくにして、収穫期らしくなってきました。収穫したみかんは、数日間を置くようにして、酸味を落として、まろやかにしてから出荷です。これでは焼け石に水でなんですが、とにかく出荷していきます。
2016年11月23日
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戦後民主主義を検討する、『対話・日本の課題』(潮新書)を読みましたやはり、ほこりをかぶっていた本なんですが、『対話・日本の課題』(潮新書 1968年7月25日刊)を読みました。 この中には、1964年から1967年の間に行われた対話・座談会が、全部で7編収録されています。 私などは、その中の、とくに「戦後民主主義を検討する」の座談会(1965年7月)に注目しました。 出席者は、宮城音弥、蝋山政道、大熊信行、加藤周一、上山春平の 5人の座談会です。中には名前くらいですが、知っている方もいますが、初めて話を聞くわけです。 この座談会の中には、面白い議論がたくさん交わされているんです。『いま言われたことには疑問がある』なんて、率直でズケズケとした議論もあって、戦後民主主義について、熱い議論が交わされているんです。その中でも、私などが注目した部分を紹介させていたたきます。 こんな会話があるんです。 上山春平氏「戦後の民主化政策は、資本主義から社会主義へもっていく一種の゛地ならし゛と見ることのできる側面があった。それが、進歩的インテリ層の共感をよんだゆえんです。ことに、1930年代に、一種の日共的イデオロギーが、日本のインテリ層をとらえた歴史的背景がある。コミンテルンの27年テーゼ、ならびに32年テーゼには、日本は封建的な絶対主義国家だから、それをブルジョア民主主義的に改革しなければならない、といった基本方針が示されているのだが、それと占領軍の政策とは結果的に重なる面があったので、かつて共産主義に共感を示した経験のある知識人には積極的な価値として受け入れられた。」(P46)と。 加藤周一氏「戦後の民主化は歓迎された、という上山さんの意見について、私はこう考える。すなわち、第一次大戦直後に日本共産党がかかげた政治綱領を、当時実現できなかった日共にかわって、そのままそっくり占領軍が実施した。それが戦後の民主化政策だと思う。もちろん日共は、地下で秘密に結党したけれども、その時の政治綱領と戦後の占領政策の項目とはほとんどぜんぶ一致するのです。―天皇主権はやめて主権在民にする。女性もふくめた普通選挙を実施する。労働組合を合法化する。ストライキ権をみとめる。軍隊を廃止する。土地制度を改革し、地主の土地を小作人に配って自作農を設定する。ただし地主の土地没収は無償とする。―というもので、占領政策では土地の没収が無償ではなかった。その一点がちがうだけで、あとの項目は一から十まで同じです。」(P51) これは、1965年に行われた日本の知識人の座談会です。その内のほんの一コマです。全体は新書で34ページ分あって、いろいろ多岐にわたって「戦後民主主義の問題」について討議しています。 この引用分は、おそらく言葉使いは編集者によるものでしょう。発言の中には、歴史のずれもみられますが、しかし基本的には、なかなか的をえた見識ある発言だと思います。 私などが、ここで注目したのは、この当時は、大体において共産党の組織力量というのは、国会議員の力というのも、今日に比べてはるかに小さいと思うんですよ、戦後20年目ですから。それでも、歴史の中の共産党の役割というものについて、民主主義的変革の路線について、それが、日本の戦前社会でも、そして戦後の社会にとっても、この知識人たちの目に注目されていたんですね。その背後には、国民的の期待として求められていたということですね。 もちろん、当時は民主主義的変革の基本路線が問題とされているくらいですが。それとくらべれば、今日の社会的条件において発展させられてきた民主主義的変革は、はるかに具体的な課題と姿になっていると思いますが。政治的な影響力も、国民の支持も違いますが。 しかし、ここには、基本関係として、今でも以前とも共通するものがあると思うんです。歴史な社会の現実が要請している切実な問題に、国民の各界の切実な要求に、歴史をすすめようとする政党ならば、その党としてその問題にどの様に答えようとしているか。 その時の歴史的試練に対して、その政党のどのように努力したか、そこで試される基本には共通性があると思うんです。その点では、変りがない。いや以前の人たちのが、ことによっては優れている場合もあるとおもいます。 なにか、そんな思いが、湧いてくるような議論です。この座談会は1965年ですから、戦後20年目。今から50年前に語り合われたことなんです。 この間に、座談会の出席者は、みなあちらの世界に行っちゃっているとおもいまずが。 この座談会は、私などは、だいぶ以前に一度は読んでいるんです。 その時はそんな感想は持たなかったと思います。すっかり忘れて、本棚の奥でほこりをかぶっていたんです。 しかし、あらためて読み直してみると、それは今の時代が当てている光のためだとも思うんですが、社会をすすめる政党であるならば、もし本当にそうであるならば、しっかり役割を果たすように、との思いが込められた議論です。 もちろん、いろいろな、あれこれ交わされている議論の中の一部分ですが、 しかし、確かにそんな叱咤激励をメッセージしてくれていたんですね。その心をもってすれば、今、平和・民主的共同の中で、戦後民主主義を捨てている政治を、根本的に変える確かな力として、期待されているということですね。
2016年11月22日
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これがレーニン23歳の時の報告とは、 『農民生活における新しい経済的動向』を読んで レーニン全集の一番最初にある著作ですが、『農民生活における新しい経済的動向』(1893年)を読みました。 どうして、今時、この論文を読むことになったのか。 これは、レーニン全集の最初にある論文ですが、彼が23歳で書いた報告です。 私なども、題名がいたって地味でもあり、いったい何を言ってるやら・・・?ずーっと長らく、疎遠に感じていた著作だったんです。 私の学生時代に、1970年頃でしたが、この全集第一巻をアルバイトして買いました。 当時は農業にはまったく係わりがなく、言ってる中身がわからず、疎遠に感じてたんですね。チンプンカンプンの印象で、40年余の間、ずーっと放ったらかしにしてきました。 ところが、その後、状況が変わってきていました。まず、2000年に、私などが齢50になった時に、郷里の父が亡くなりました。その後には、真鶴のみかん園が、27本のみかん木が残されました。放置しておくわけにもいかず、私はそれを手入れするようになりました。みかん園の手入れをするようになったこと、これが一歩でした。 さらに、今年のことですが、9月上旬に同窓会で山形県の鶴岡を旅する機会がありました。この旅を準備するなかで、山形出身の藤沢周平の『半生の記』を読みました。そこには、農村出身者として、子どものころの追憶や農業とのかかわりが書かれていました。昔の農家は機械などありませんから、田植えや稲刈りをそれこそ家族総出でしていたんですね。それに対し最近では、コンバインなどの機械を一人が運転するだけで、広大な畑を管理して、田植えから、草取り、収穫までしているんですね。農家のあり方が、戦後発展してきたんですね。実際に、この旅で庄内平野の米どころを通ったんですが、黄金の稲穂が垂れ下がり、ちょうどコンバインが動き始めたところでした。その作業のはじまった光景を見てきたんです。 日本の農家の戦後の出発は、農地改革でした。戦前の地主対小作農の関係から、3町歩(約3ヘクタール)内の自作農にかわりました。みかん園もそうした流れがあるんです。その後、70年の間に、どの様に農家は変わって来たのか、いま農家はどんな問題をかかえているのか、これが問われている時でもあります。TPPはこの農業になにをもたらすか。こんな事情が、後押ししてくれたんですね。不破哲三さんの『レーニンと「資本論」』(1)もありましたから。本棚でほこりをかぶっていた本を引っ張りだしてみることになったんです。 この著作の中身ですが。そうした諸々の事情が、最初にレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』(1899年)を引き寄せてくれたんです。これこそが、読もうとして、放置してきた一番のものでしたから。そして、この著作をちょっと前でしたが読んだところ、今回のこの著作についても、その材料(第二章の材料)となった報告として、当たっておくべきとの必要性を感じたんですね。この著作は、1861年のロシア農民改革後の農家の変化の特徴をとらえたものです。農民改革の一環として、ゼムストヴォ統計という政府の農村実態調査が行われた。ポストニコフという人が、その調査報告の資料を使って、農村の経済動向をまとめたリアルな著作を1891年に出したんです。レーニンのこの1893年の著作は、このポストニコフの著作を積極的に評価するとともに、さらに批判して「農民の分解」を、農村における資本主義の発展を、より明確に明らかにしました。たとえば農村を平均数値で見るのではなく、一定の基準により、群に区別するようにして、それぞれの特徴をリアルにつかむことが大切だということ、貧しい農民を賃金労働者に雇って商業的な経営が発展してきている問題などを、より踏み込んで明確にしているんですね。確かな批判をしているんです。 現代に私たちが読む場合ですが、もちろん、1893年のロシアと今日の日本の農村とでは、おかれた時代も社会条件も違います。なにしろ100年以上も前の著作ですから。だけど、日本の農業の発展を考える上でも、ここにはたいへん参考になる問題が含まれているんですね。そこに古典の素晴らしさがあります。読んでいるうちに、疎遠どころか、たいへん身近な著作であることが感じられてきました。おそくに気がつく蛍光灯です。出来うれば、もっと早くそれに気づくべきだったんですが。 レーニンという人ですが。彼は、この著作を1893年の春に書いています。 1870年の生れですから、23歳で書いたわけです。 巻末の年譜をみてみると、 1887年に、兄・アレクサンドルが刑死している。 1888年秋には、『資本論』を研究し、フェドセーエフのサークルに入っている。 1890年には『共産党宣言』を翻訳したとのこと。 1892年頃から『人民の友とは何か』の準備材料を報告しているそうです。 こうした経過の中で1893年春にこの論文を書いているわけです。 この時点の著作を読んでみると分かりますが、ものごとに即した基本的姿勢を確立しています。 唯物弁証法の見地に立ちつつ、マルクス経済学の「命題を応用する能力が必要です」と述べてるんですね。素晴らしいロシアの若者たちです。ここには、人類の知恵の宝がありますね。こうした努力を、もっとしっかりと、よく学ぶべきだったと感じさせられています。 私などは、退職してそろそろ墓場も近づいてくるときに、ようやくそれが分かる始末ですから。なにしろ、この論文を長く疎遠な印象のまま放置してきたんですから。自己責任として反省させられます。 自分の不勉強さを、今ごろになって悟らされています。まぁ仕方ない。この自覚もまた一歩前進なんだ、なんて自分を慰めている次第です。
2016年11月21日
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サトイモの種芋を植え付けました11月18日、早川のみかん園でのこと。快晴の朝で、小田原城もよく見えました。この日は、みかん園の片隅に、サトイモの種芋の植え付けをしました。予報によると、この日の夜から雨になり、翌日の昼頃まで降るとのこと。雨の降りだす前のひと仕事でした。北側に11個を植え付けました。種芋を植え付けした個所には、枝をたてて印にしました。草刈りで、誤って小さな芽を刈ってしまわないためです。西側には3個を植え付けました。さらに南側には、2個。従って、全部で16個の種芋を植え付けしました。夜には、雨が降るとのことで、自然が水撒きしてくれます。サトイモというのは、放っておいても育つという、手間いらずです。なかなか手をかけれないみかん農夫としては、ぴったりの作物です。来年の今ごろは、立派な里芋がたくさん収穫できますよ、きっと。もう一つ、雨の降る前に切り枝の野焼きをしました。今回は、切り枝も乾燥していましたから、ほとんどを片付けることが出来ました。正面理グリーンの網は、イノシシよけです。早川は、石垣山の一夜城もあり、山全体がみかん園として保全されていますから、今でも野生のイノシシが夜な夜な出没して、イノシシの天国になってます。なんとも、のどかな自然なんですが、農家にとっては、みかんや野菜を荒らされて、困っています。そうした当地ですから、ここでは野焼きをしても、別に問題はありません。もちろん、後で水かけして、よく火の後始末をすることは、当然ですが。といった、早川園での作業でした。
2016年11月20日
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第4回のみかん収穫に行ってきました午前6時32分の富士山です。小田原サービスエリアから見たものです。早川のみかん園に寄ったのですが。イノシシによる被害が大きく出ているようです。隣のみかん園との境界ですが、当方は網をかけてイノシシの加害を防ぐようにしていますが、イノシシの方は、やたら地面を掘り返していて、地中のミミズの方が魅力的のようです。しかし、お隣の方は、みかんが食べられています。この数日間に、イノシシが入って来ないように、金網の柵をはられました。かなりの被害のようで、侵入されないように、設備投資をしていました。早川園の早生みかんですが、きれいに色づきが始まりだしています。これだけ色づけば、普通なら甘さも出てくるはずなんですが、今回、味試しをしてみたところ、いまいち味がのっていません。今年の気候が、日照時間の少ないためでしょうか。この木については、もう少し様子を見ることにしました。さて今日は、真鶴園の第4回の収穫日です。この木などは、良い色をしています。しかし、味が出てきているのは、この中のわずかです。この内の5個くらい採りましたが、もう少し待つことにしました。鳥の方は、待ちきれなかったと見えて、ちょこちょこと、あちこちで、ついばみだしているんですが、当方は、まだ、あと少し待ちです。もうちょっとなんですが。本日の真鶴園の収穫ですが、0.8コンテナ、15キロの収穫でした。やはり、早生の小木が中心でした。やっと今季の収穫で、ある程度のまとまった収穫が出来ました。これは、5キロ箱にして2箱ですが、第一陣として親戚縁者に発送しました。同じ出荷作業が、去年の場合よりも、23日も遅いんですよ。これは、当方の5キロ箱ではないんですが、JAの宅配便を受け付ける出荷場の様子です。みかん産地の出荷場ですが、ここでは15キロ箱での出荷が普通なんですね。都会では、1キロ袋が八百屋さんの店頭での単位ですから。核家族としては、当然なんですが。しかし、みかん産地の当地では、取り扱い量・消費量の感覚が違うんですね。さて、今回はもう一つ、朝の仕事がありました。枯らしてしまった木の株抜きをしたんです。これが、悪戦苦闘の株抜き作業の結果です。みかんの木は、地下の根が強力なんですよ。大きな木を、台風の嵐にも耐えさせる根は、四方八方にしっかり張っています。その株を抜き取るのは、じつに大変な作業なんです。1時間近くかかって、なんとか抜き取りました。そのままにしておけば、やがては枯れていくんですが、しかし、放置しておくと病気の元にもなりますし、早く処分するに越したことはありません。それに来春には、苗木をとりよせて、植え付けするようにしたいので、忙しくなる前の、朝のうちのひと仕事として、今回株抜きしました。なんとも、30-40年にわたり大量の収穫を与えてくれた木でしたが、管理のまずさにより、カミキリムシによって強いられたんですが、これは泣く泣くの、世代交代です。あるていど、みかんが成るまでには、15年かかります。オイ、TPPを推進している面々よ、「7年で関税をなくすから、それまでに体質を強化せよ」だと。「輸出できる農産物をつくれ」だと。なんと勝手な空想で政治を進めていることか。すこしは、現実の農家の苦労をしってから、政治にたずさわるべきだ!実情とかけ離れた政治が、実際の農家を苦しめている。カミキリムシを駆除しなければならないように、こうした政治は、駆除しなければならない!
2016年11月18日
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明治国家をどう見ているか、司馬遼太郎著『「明治」という国家』を読んで司馬遼太郎〔1923(大正12)年-1996(平成8)年〕という人の著作ですが、今回、初めて一つ読みました。『「明治」という国家』(日本放送協会 1989年刊行)です。司馬遼太郎は、明治維新のころの人物を主題にした作品をたくさん書いているようです。私は、これまでまったく読んでいなかったのですが。テレビの大河ドラマでは、映像化された作品については、「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などを見ています。それだけじゃなく、「花神」「翔ぶが如く」などの原作者でもあるそうです。どうして『「明治」という国家』(1989年刊)を読んだのかというと、図書館の本棚にあったんですね。パラパラめくっていたら、気になった箇所が3つありました。一つは、「マルクスの歴史観のあやまりは、ここにあります。」との箇所です。「ここに国が千あれば千通りの政体の歴史がある。そっくりという国は、地上にはありません。歴史は科学のように法則的に変化するというマルクスの歴史観のあやまりは、ここにあります。」(第二章 P37)二つ目は、イデオロギー批判です。「ありもしない絶対を、論理と修辞でもってグルグル巻きにしたのがイデォロギー、つまり正義の体系というものです。戦時中の新聞、毛沢東の文化大革命、ヒットラーの「我が闘争」、時代が過ぎると、古いわらじのように意味をなさなくなる」(第一章 P8)三つ目は、「明治を語る上で、明治時代とはせずに、ことさら『明治国家』とします。明治時代とすると、流動体みたいな感じになりますが、『明治国家』とすると、立体的ないわば個体のような感じがするから、話しやすいんです。」(第一章 P9)私などが注目したのは、以上の三つの指摘です。一つ目は誤解があるとおもいますが。あとの二つは、さすがですね。二つ目の「イデオロギー批判」ですが、これは、彼の戦中・戦後の苦い体験に根差しているものと見ました。それに対する、重い反省があるものとおもいました。「荻生徂徠の学問、つまり江戸期に、観念論というか、イデオロギーのかたまりのような朱子学を排し、文献や事物を考える上で、事実・真実を見、確かめてから考える、いわば合理主義哲学ともいうべき学問の系統を」(第四章 P81)学ぶことを重視した。これは津田出という人を特徴づけた言葉ですが、司馬氏自身として、イデオロギー問題というのは、単に戦前・戦中のことではなく、日本の歴史に根差した問題なんだという認識なんですね。三つ目の「国家を個体のように」見るとの点ですが、それを述べている箇所をいくつか挙げてみます。1、「人間は、他の人間にとって、しばしば存在そのものが、巨大な情報の発信体である場合が多いのですが・・・」(第一章 P25)2、「私は、明治国家というものを一個の立体物のような、この机の上においてだれにでもわかるように話したいのです。はじめて出会った外国人の人に説明しているような気持で話そうと思っています。」(第五章 P106)3、「私は明治憲法を非難しようとも賛美しようとも思っていません。机上に客体としてそれを置いて見つめているだけです。」(第十一章 P300)こうした指摘が、この著作のあちこちで述べています。これは、人物や国家というものを、対象として客観的にとらえようとする姿勢ですね。司馬氏の方法論、ものごとのとらえ方ですね。私は、司馬遼太郎氏の作品は、この『「明治」という国家』しか読んでませんから、その限りでの感想ですが、人物を歴史的な社会の客観性においてとらえることを重視しています。えてして見かけがちな歴史作家の、自分勝手に歴史話や人物像をつくりあげてしまうような態度ではありません。その人物が、社会的な存在条件の制約の中にあって、人間が生き生きと一生懸命に活動した姿が、言葉や態度のなかにあらわれているのを、その多岐な側面を発見していくという態度です。そこに歴史を発見する姿勢があります。私などは、もっかマルクスの唯物論的歴史観というものを探っているところですが、ここでの司馬氏の見解を聞いていると、マルクスの歴史観とも共通する要素があることを感じさせられます。まだ、私などの探究は、ほんの間口ですから、司馬氏の作品も読んでませんから、軽軽な判断も、推測を正確に示すことも出来ないのですが。
2016年11月17日
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続『ロシアにおける資本主義の発展』を読んで感じること レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』(1899年)を通読したことを以前に紹介しました。中身を紹介したいところですが、なにしろ636ページもの大著ですから、とても私には荷が重過ぎます。しかし、通読しっぱなしのままというのもよろしくないので、せめて感じた点について、いくつか紹介します。 一、この本を読んでいて、社会科学の理論を学ぶということは、その基礎理論を自分たちの現在にどう生かすのか、このことが問われてくると思います。 大きく見れば、レーニンはそれをこの著作で具体的に示してくれています。この著作は、その書名通りですが、「ロシアにおける資本主義の発展」を明らかにしようとしたものですが。 その著作の章の建て方にも見てとれますが、マルクスが『資本論』第一巻第4編「相対的剰余価値の生産」において、「協業」-「分業とマニュファクチュア」-「機械制大工業」、この資本主義の発展を解明してますが、レーニンは、この理論を当時のロシアの社会発展を分析する点で生かしたものです。 レーニン自身、 「命題を応用する能力をもたなければならない」(第二版の序文 P10)と強調しています。簡単そうでいて、そうではないんですね。 二、レーニンは、当時のロシア農業の客観的資料を使って、社会関係を明らかにしています。 ロシアでは1861年農民改革の後に、産業統計調査が行われました。ゼムストヴォ統計です。この資料を使ってロシアの農村の富農と貧農への分解や、上記の3つの資本主義の社会発展を明らかにしようとしているんですね。 今、レーニン全集第一巻の「農民生活における新しい経済動向」を読んでいるんですが、これは1893年に書かれた論文ですが、すでにその「農村の分解」が分析されています。 ここではポストニコフという人の著作を、その分析を評価して積極的に解明に役立てています。そこには「批判」の精神が発揮されているんですね。マルクスの「労働日」の章で、イギリスの労働基準監督官の資料を使ったことの応用ですね。 レーニンの叙述の仕方ですが、各章とその節にいえると思うんですが、明確な論点をもって意識的に検討を行っているんですね。これは『唯物論と経験批判論』でも感じることですが。 三、さて、この100年以上も前のレーニンの著作ですが、私はどうして、今ごろ、この600ページも越える大著を読もうとする気になったのか。 「ひまなんでしょう」なんて言われかねないのですが。 私などのきっかけは、日本の戦後の農地改革とその後の発展です。そこには農村の分解や、機械化の影響などが問題意識としてあったんですが、(みかん園でのエンジン式の草刈り機の導入も)。時代社会の条件は違っていても、レーニンがこの著作で、共通するテーマを扱っていると感じたからなんですが。 それと、この長い著作ですが、どうして終わりまで来れたのか。それは、惰性や先入観を排除して白紙で臨んでみると、そのものの中に、客観的な諸事実から導き出される道理をふくんだ概念がみえてくるんですね。結論が先にあっての先入観による演繹ではつづきません。忍耐力のない私などでも、古典そのものの力ですね、我慢して読んでいくと、視界が開けることがあるんですね。 四、読んでいて古典的著作というものについて考えさせられます。 古典の著作というのは、その著作の中に客観的な論理と魅力を持っていますね。ましてや、科学的社会主義の古典には、哲学や唯物史観による宝が眠っています。 それは古典の宿命かと思うんですが、時代が過ぎると、山なす新しい解説書がかかれます。 よく私などは、何か最新の解説書を読むと、それで、それの真の本質を知ったような気になるんですが、やっぱりそれは違うんですね。原典はあくまで原典であって、それがもつ新しい一つの側面がその時代によって付け加えられていくというのが解説書なんですね。あくまで、原典自体は客観的なものとして独自に厳然として存在しているんですね。それは解釈の新らしい説によって置き換わるものではないということです。むしろもとのものに、不断に新たな解釈がつけ加えていくということです。もと原典の価値はいっそう輝いていると。 私などは、もっと関心を高めて、近代の古典的な理論の学習が必要だということです。 同時にそのなかで、科学的社会主義についても独自の学習が必要だということです。これまで、不勉強だったんです。だいたい、この大著の通読という長年の懸案ですが、45年もたって、今ごろになって、ようやく果たしているくらいの事態ですから。一生は短く、学成り難しです。 もっと、自覚と問題意識、努力の水準、テンポを高めていくことが必要だということです。 この点、この本の付録『非批判的批判』で強調しているんですね。 「意見の相違があるけれど、一方はちがった方向へ改造し発展させようとほっしているが、もう一方は、首尾一貫したマルクス主義者として踏みとどまり、変化しつつある諸条件といろいろな国の地方的特殊性とに応じてマルクス主義の基本的諸命題を発展させ、弁証法的唯物論と経済学との理論を更に究明しようとほっしている。」そこに点に、違いの本質があると。 これは、修正主義と対立する中で述べたことですが。 同じく、イネッサ・アルマンドへの手紙でも強調しています。 「マルクス主義の全精神、その体系は、おのおのの命題を、a.歴史的にのみ、b.他の諸命題と関連させてのみ、c.歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求しています。」(1916年11月30日 35巻 P262) これは、かなり基本的な方法論だと思うんです。大事な観点だと思います。 私などはそう思います。 五、しかしやはり、肝心なのは、「日本はどうなんだ」、また「その後の発展はどうなんだ」との問いが、自ずから出てきます。当たり前のことですが。 しかしこの問いは、いちみかん農夫が、関心はもったとしても、そうそう簡単に中身を得られる事柄ではありません。そんなに容易に得られるくらいなら、研究者や専門家に失礼です。 私などは、新聞や書籍などで、専門的な研究者の努力と成果について、よく学ばしていただいて、少しでも正確に、それに近づいていくことだということです。 最後に、このレーニンの古典的大著を通読んで感じたことですが、 前回の感想が、やはり順当な結論といったころです。 「まぁ、今は、私などは、この人知の宝を持ち腐れにすることなく、 中味の理解度はともかくとしても、一つの長年の懸案でしたから、 何とか終わりまで通読したことで、『よし』とするところです。」
2016年11月16日
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日本社会への警鐘です‐『戦後思想を考える』(日高六郎著)『戦後思想を考える』(日高六郎著 岩波新書 1980年12月刊) を読みました。 この本は1976年から80年に、いろいろな雑誌に発表した9本の論文を集めたものです。 私などが注目したのは、巻頭にある「戦後思想を考える」との25ページの論文です。 これは、岩波書店の『世界』1976年9月号に掲載されたものとのこと。 これは、今日、戦後71年、今を生きる私たちに問いかけるものがあると思います。 日高三郎氏ですが、1917年に中国の青島(チンタオ)で生まれた。したがって現在、99歳です。氏は27歳で敗戦をむかえている。そうしたことも論文の中にあります。 論文「戦後思想を考える」ですが。 「「私は、京都の大学で「戦後思想史」という題で、講義をしている。」-書き出しです。 「私は、三木清が1945年(昭和20)8月15日以前にではなく、8月15日から一カ月以上たった9月26日に獄死したという話をする」。 ロイター通信の記者がこの三木清の獄死を知って山崎巌内務大臣に取材した。 山崎内相は答えた「思想取締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する・・・さらに共産党員であるものは拘禁を続ける・・・政府体制の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と。 「この発言が『スターズ・アンド・ストライプス』紙(日本占領米軍将兵向けの新聞)に10月4日に発表された。マッカーサー元帥は、四日夕刻に「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令した。なすすべを知らない東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は辞職。9日に幣原内閣誕生。10月10日に、獄中18年組をはじめとする政治犯が釈放される。」 こうした事実から日高氏が言いたいことですが。 「8月15日、敗戦と同時に、あるいは数日後に、あるいは一か月後に、だれ一人として、政治犯釈放の要求を掲げて、三木やその他の政治犯の収容されている拘置所・刑務所におしかけなかったということは、いうまでもなく日本敗戦の性格を物語っている」。 「イタリヤ、ドイツの敗戦、フランスのナチス協力政府の崩壊。そのさいには、戦争が終わるやいなや、たちまちはっきりした変化が起こる。・・日本では、軍国主義という瀕死の病人に、まず重湯を、次にカユを、次にやわらかい米飯をあたえていくように、指導者も新聞も最大限に配慮する。・・・」。 日高氏は、こうした日本社会の体質は、戦後処理にもつながっているし、その後の今日の「自由」主義経済の経済成長の下での汚職事件にとっても、共通問題として見て取れると指摘しています。 こうした、日本社会の支配層の力というのは、労働組合や野党にまで及んでいる。 「財界の腰は重く、なかなか土俵をわらない。保守政権がだめなら、保革政権があるさ。保革政権がだめなら、「革新」政権があるさ。そして最後には、ファッショ政権もあるさ、と考えているのかもしれない。」 なかなか日高氏の社会批評は辛辣です。 どうやって、こうした状況を打開してゆくか、もちろんそれが問題とする所ですが。 私は、このなかで気になる点があります。 1970年の学生時代の体験からすれば、この自分史の3でも紹介しましたが、 http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201611080000/ 私などの体験からすれば、日高氏の民主主義を否定する乱暴者たちへの見方は、甘いと思うんですが。 民主的共同をつくるには、お互いが民主主義的なルールを守る、尊重しあう関係が必要だと思んです。それが出来ていたら、私たちの学園も素晴らしかったでしょうが。 それはともかく、日高氏の社会評論には、今日にますます大事なものを感じます。 戦争体験者が、かつての戦前の社会史の体験から、その道を繰り返してはならない。その為にも、今日の民主主義を守ろうとする人たちの共同を、よりしっかりしたものにしていかなければ、との思いが伝わってきます。 この本には、かつての反省からくる、今日の状況への警鐘であり、貴重なメッセージとして読んでいます。
2016年11月15日
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みかん販売の仕方を変えてみますみかんを販売する時期が、今年もついにやって来ました。この間に収穫した、みかんですが、11月13日、その第一陣のみかんを出荷してきました。さて、今年のみかんですが、当方のみかん園に関しては、みかんが裏年で出荷量が少ないんですね。この間の収穫状況をみていると、たしかに、早生が裏年だとか、カミキリムシに木が枯らされたとかの事情もあるんですが、当園の全体的な状況からして、みかんの収穫が、これまでのようにまとまった量の収穫が出来ないんですね。それは、美味しい完熟ミカンだけを採ろうとする、収穫方法のためでもあるんですが。1回目、2回目、3回目と、せいぜい一度の収穫が5キロ程度なんです。もちろんいつまでもこのペースではなくて、今後は、もっと大量に採れることは期待できるんですが。しかし、このことは販売の仕方にも影響が出てきました。これまでは、販売の単位を、一般的には5キロ箱により販売していたんですが、もちろん宅配で郵送するには、そうして箱入りなければならないわけですが。今回のそうした事情もあって、どうやら、今年はみかんの販売方法を変えなければならないようです。都会の生活は、2人や3人の核家族が一般的です。そうした場合、ひと箱(5キロ入り)ものみかんを食べるのは、容易ではありません。そうこう置いておいたうちに、傷んだものも出てきてしまう場合も多々あります。みかんもやはり生ものですから、やはり食べごろ、鮮度というものがある。それをすぎても、抱えてしまう場合が、箱入りだと起きてしまうんですね。やはり5キロ単位というのは、消費者からすれば多すぎるんですね。じっさい八百屋さんの店頭をみれば、1キロくらいの袋入りを小売りの単位として売られています。これが日々の消費者の適当な分量でもあるんですね。従って、それは収穫の事情からだけではなく、まわりの消費者の事情をみた場合でも、やはり販売方法を変更する必要があるようです。従って、箱入りの特別注文には、これまで通り答えるようにして、一般的には、小分けした袋に入れるようにして、みかんを1キロ強にして、ビニール袋にいれて販売する。このようにみかんの販売の仕方を変えてみようと思っています。はたして、それが妥当かどうか、やってみないと、わからないんですが。
2016年11月14日
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第3回みかんの収穫と里芋の副産物11月13日、第三回みかんの収穫に行って来ました。今回の収穫も、早生みかんを5kでした。去年の収穫に比べると、この時期の収穫としては、まったく少ないんです。今年の販売予定からして、この状態は先行きに不安がちらつくんですが。まぁ、これは仕方がないんです。収穫しているのは、今は何たって早生の小木、2本からですから。この写真は、前回撮ったものですが、これがその内の1本で、宮川早生です。今日は、主にこの木から収穫しました。次はもう一本の、興津早生の木です。この木は、前回に収穫してますから、今回はほとんど手を付けずに置きました。一度収穫した木というのは、せめて一週間くらいは置くようにしないと、早やもぎをしてしまうきらいになります。美味しい味がしないんですね。従って、今の時点での収穫は、この2本の小木を、それぞれ交互に収穫している状態ですから、その収穫が5kというのは、当然なわけです。やはり成木の木の収穫が始まらないと、出荷できるだけの量が出てきません。ところが、その木が、早生は裏年だし、普通温州の方も枯れたりしていますから、この先の収穫は、どうなることやら。まぁいくら心配しても、それで収穫が増えるわけではありませんから、あれこれ気をもんでも仕方ありません。そのときは、「ごめんなさい」で謝るしかありません。今日は、みかん以外に副産物がありました。サトイモです。たった3株ですが、植えてあったんです。今年もすでに葉が枯れて、地上からその姿は消えているんですが。「確かこのへんにあったはず」と、宝探し気分でした。その結果、これが掘り出された3株分です。ということは、1株から6個くらいの小芋が取れたということです。サトイモは、こうした小芋が美味しいんですよ。収穫したあと、親芋については、来年にむけての種芋用として、ひっくり返した菜園に、ふたたび埋め込んでおきました。自然の恵みというのは、たいしたものですね。他の人へ提供できるほどは採れないんですが、なんたって、放ったらかしですから。それでも、こうして、自家消費分として、美味しい小芋をプレゼントしてくれます。
2016年11月13日
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『ロシアにおける資本主義の発展』を通読しましたレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』(1899年)を通読しました。この著作は、前々から挑戦しようと思ってきた対象だったんですが、なにしろ全体で636ページもの大著でもあり、忍耐と執着力のない私などには、何度となく読もうとは思っても、すぐに投げ出して、容易なことではなかったのですが。レーニンはこの大著で、はたしてどのような内容を書いているのか、せめて終わりまで、とにかく通読することで概略だけでもつかもうと、8月20日から挑戦しだしてきていたのですが。ようやく、11月12日、内容の理解度のほどはともかくとして、通読することが出来ました。一、日本の戦後の農地改革とも少し似たロシアの1861年の農民改革ですが、この改革によりロシアの国勢調査のようなゼムストヴォ調査が行われ発表されるようになった。レーニンは、この資料を使って、ロシアにおける資本主義の発展を検証したんですね。これは1899年3月末に刊行されました。二、この本全体の筋書きは、案外簡単なものだったんですが。第一章で、『資本論』の資本主義の発展に関する基礎的な理論を確認して、ロシアの統計資料を基にして、農民層の分解から、資本主義の発展を解明したものです。「簡単」といっても、資料をつかって発展過程を分析している、多岐な側面を明らかにして、そこから社会の発展していく姿をあきらかにした、これはやはりすごいものです。三、私などはやっと通読した程度ですから、正確な中身はわからないのですが、少なくとも、何故、この理論作業が必要だったか、わかるような気がしてきます。ロシア社会が、どの様に発展していくか、当時大きな論争があったそうなんです。それに対して、科学的社会主義の理論から、進行しつつある事態の解明だったんですね。言葉として一口に唯物史観といいますが、その理論を実際に応用する実例を示したわけです。四、これは1900年当時のロシア社会の姿ですが、あくまで基礎的理論をロシアに生かすための理論的作業ですが。そこには、戦前の、近代の日本を理解する上でも、大事なヒントがあると思います。自ずから「日本はどうなんだ」、また「その後の発展はどうなんだ」との問いがでてきます。それは、とても私などの荷には及ばないものですが、問題としてはあると思います。まぁ、今は、私などは、この人知の宝を持ち腐れにすることなく、中味の理解度はともかくとしても、一つの長年の懸案でしたから、何とか終わりまで通読したことで、「よし」とするところです。
2016年11月12日
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山本周五郎著『五弁の椿』(新潮文庫)を読む私は小説というのは、あまり読めていないのですが、山本周五郎作品も縁遠かったんですが。たまたま今年の5月に『樅の木は残った』を読んだんですが、病院の談話室にあったんです。私は今回の『五弁の椿』とともに、機会があれば、この二作については、是非読んでおきたいと思っていたんです。この二作が山本周五郎〔1903(明治36)年-1967(昭和42)年、64歳死去〕の作品であること、ともに1959年発表の作品であったこと、それは後から知ることになったんですが。どうして読んでおきたいと思っていたか、それはいたって個人的な動機なんですが。50年以上も前になりますが、郷里の家の本棚に、この2つの作品があったからなんです。父母のどちらかが、この作品を読んでいたんですね。私は最近まで、わが道をいってましたから、まして小説を読むという習慣がなかったので、当たれてなかったんですが、これらの本の題名だけは覚えていたんです。いったいどんなことが書かれているのか、ずっと疑問だったんですが。最近、自分史を整理するようになり、ぜひ確かめておきたいとの思いを強くしてたんですね。『五弁の花』ですが、もちろん『樅の木は残った』もそうですが、この二つの作品は、なかなか名作だと感じています。『五弁の椿』については、解説の山田宗睦氏も紹介してますが、人間生活の中の掟と法の問題が扱われています。著者自身の、その簡潔な表現です。「この世には御定法で罰することのできない罪がある。」(P254)これは、意味深長な表現だと思いませんか。それは、身近なことでは、政府が憲法を蹴飛ばしているとき、政府のきめた法律が狂っているとき、その法律ですら及ばないとうとい平和という理念が厳然として存在している。こうした言い換えも、今日ならできると思います。日本社会というのは、戦前から戦後の今日まで、単純な理屈ではすまない不合理が、社会生活の中にあると思います。小林多喜二の虐殺、侵略戦争の反省などでも、だれも国家として責任を明らかにしようとしない。今日でも、TPP、沖縄、原発、戦争法、憲法など、切迫した問題が山積しています。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」などといった政治を、わが世の春といった政治を、国民がいつまでも許すと思ったら、大間違いです。山本周五郎はそのような批判はしていませんが、その主張の原理をもってすると、そうした意味を持ってくると私は思います。えっ、何の話でしたっけ。
2016年11月11日
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みかん収穫の第2回目は5キロでした11月10日、今季第2回目のみかんの収穫に行ってきました。午前6時に八王子を出発したのですが、厚木市の中津川を6時47分に通過したのですが、橋げたの気温は6度でした。朝晩の冷え込みが、ここへきて厳しくなりだしています。途中、平塚から見た富士山です。午前7度14分です。曇り空ですが、下界の気温が低いはずです、富士山の雪が下に降りてきてますから、姿からも寒さが近づいてきています。それでも山の姿が見えるくらいですから、昼くらいまでは雨の心配はなしです。さらに走って、午前7時30分、小田原から見た富士山です。宝永山の火口もわかりますし、登山道のジグザクも見えています。もっと雪が積もるようになると、白一色になって道は見えなくなりますが。さて、午前8時すこし前に、早川のみかん園に着きました。今日の早川園は、みかん園の様子を見るだけなんですが。今年はイノシシがたくさん出没しているようで、畑の作物を荒らすので農家は困っています。当方のみかん園にも、地面を掘り返した痕があちこちにありました。これはイノシシの仕業ですが、来るごとに広がっています。除草剤を使っていないため、餌となるミミズがたくさんいるんですね。ミミズがイノシシの大好物なんです。掘り返された痕を見ると、一生懸命な姿が想像されます。右上の、みかんの木を囲む緑のネットは、イノシシよけのためなんです。ミミズ位なら文句は言わないのですが、みかんを狙うようになると話は別です。これは、南側に境界をせっしたお隣の木なんですが、地面付近のみかんが、ガブリとむしり取られていますが、これがイノシシの痕です。口が届く高さまで、ご覧のようにさかんに食べています。こうしてみかんもよく食べますから、みかん農家にとっては問題です。私がネットを張っているのは、こうした加害を防ぐためなんです。しかしイノシシたちにとっては、どうやらお隣のみかんの方が美味しいようです。当方の被害は今のところは1個だけで、地面が掘り返えされているだけなんです。今回の早川は、みかん園の様子を見ただけです。みかん園からの相模湾の景色はすばらしくて、三浦半島はもちろんですが、どこからかは分かりませんが、房総半島も見えているはずです。石垣山のこの農道をくだって、そうそうに真鶴のみかん園へ移動しました。今日の本題は、真鶴の第二回目のみかんの収穫でしたから。これが今日の収穫です。今回のみかんの収穫は、これですべてなんです。コンテナに四分の一ですから、5キロの収穫でした。早生みかんの小木3本からの収穫ですから、それに、全体が着色した完熟みかんを採るようにしてますから、まぁこんなところです。これが本日のメインの木です。かなり色づいていますが、これでも収穫に適したものはこの中の一部分なんです。肉眼で見るとわかるんですが、ほんの少しですが、完熟するにはまだ早いんです。ことしは、夏と秋の日照時間がすくなさが関係していますが、なかなか完熟がおそくて、この見極めが大事になっています。鳥に半分やるくらいのつもりでないと、美味しいみかんは採れません。すでに収穫の時期が、去年よりも10日間くらいは遅れているんですよ。しかし、ここでジタバタしてもしょうがないんですね、みかん農業は自然の働きによるものですから、人間の都合ではどうにもなりません、そこが残業のきく工業製品や口先で何とでも誤魔化す政治家と違う所でして、人の力というのは、自然に対する補助でしかありません。
2016年11月10日
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『夢よ、甦れ-もう一つの学ぶ道-』を紹介しますおそらく、ほとんど知られていない本ですが、『夢よ、甦れ』(下谷竹三著 近代文芸社 1995年2月刊 1400円)を紹介します。この中に出てきますが、著者は1931(昭和6)年生まれですから、御年85歳になります。この本は、1995年に刊行されてますから、著者が教師生活を退職するころに書いたもの。自身の半生をふり返ってます。下谷区で生まれて、東京大空襲で焼け出されて、静岡に疎開する。戦後の混乱期の中で、「パン」を得るのに大変に苦労した様子が語られています。下ずみの生活から、すごく苦労して這い上がっていく。そして、30歳近くじゃないでしょうか、著者は、生活のために苦労していたんですが、一念発起して、教師になろうとします。そのへんのところでしょうか。「時間が緩やかに推移する地方の生活、たった一回の生が激動の時代に取り残される。そんな焦燥感が急に悪魔のように騒ぎだした。何よりも体内に誕生したあの学習観、そのAとBとが一つになって新しい知的世界に入り込み、それを人々と学び合い、教え合いたい欲求が高じてしまった。その中で社会に投げたボールが帰って来るのを、更に投げ返すというような、ダイナミックな社会に生きてみたい願いが私を捉えて離さない。」(P75)なかなか文学的な教育論なんですよ。私などが中学校の社会科の教師として著者に出会ったのは、そうした経過をへた後だったんですね。もちろん、わんぱく坊主に先生が胸にかかえいてた事情なんて、知る由はなかったんですが。その授業は、熱血授業でした。「教え手に教材の深い感動体験があれば、教室全体にそれを共有して欲しいという感情が、自然に生まれてくる。」(P58)みんなでつくっていく授業で、どこにすすむのか、生徒にはわからないんですが。どんな意見でも、議論しているうちに、いつの間にか、みんなで正解にたどりつくんです。ですから生徒の関心を一点に集中させてしまう、そこで展開する、そこでしかしかない授業で、ユニークで楽しい授業だったんです。準備する先生の方は大変だったと思うんですが、あとからさっすると。卒業してから、後日同窓会などでも、あんな面白い授業がどうしてできたのか? 他の授業にはないワクワクした気持ちが湧いてくる、いったい何なのか?みんなにとって謎だったんですが。私などは教育実践とは無縁なものですから、引き続き多くのことは謎なんですが、この本をよんで、少しですが、分かるような気がしてきました。この教育方法には、独特の対話法が駆使されていたんですね。それが大事な要素だったはずです。どこで、そうした着想や、技術を身に着けたのかは、やはり謎です。この本には、教育論だけでなく、さまざまな社会思想の紹介や、独特の社会批判も含まれているんですよ。例えば、指導する者は、つねに自分自身がしっかり学ばなければならない。「彼らの活動へのエネルギー量と仕事ぶりには感心していたが、学習内容のお粗末さ、判断基準が党派性に依存しきっている、この単純さには呆れていた。」(P104)また、指導性と大衆性の問題。最近「リスペクト」=相手への敬意ということが強調されますが、ここにも出てきます。一方では粗雑な宗教批判が大衆の遅れを批判して嘲笑う。それに対して他方の大衆文化の住人は、「前者の世界を敬するか遠避けるかで、両者は表面はともかく、内心は羨望、軽蔑、そして無視している姿だった。それは悲しくもあり、苛立たせるものでもあった。」(P108)こうした問題が、今から20年も前にですよ、率直に指摘されていたんですね。そうしたことで、この恩師の著書ですが、あらためて読み直してみようと思っています。もはや、先生の授業を受けることは出来ないのですが、ここには、その精神と方法が述べられていますから、「もう一つの学ぶ道」、この本で、これから探ってみたいと思っています。
2016年11月09日
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私の大学-学園から社会をながめて 自分史3 私は関東の片隅の真鶴に生まれた。小田原の高校を卒業して、1969年4月から東京・市ヶ谷の法政大学に通うようになりました。通学は、真鶴から市ヶ谷までは、電車の片道で2時間半以上かかりましたから、9月からは東京に下宿するようにしました。 一、入学した1969年4月ですが、前年に東大闘争があったとのことで、それが各大学でも、そして法政大学でも問題になっていたんですね。そのころ国政では、70年安保・沖縄問題、ベトナム戦争への日本のかかわりなどが議論され、大学問題も「大学臨時措置法」などが問題になっていたんです。 私など、田舎の高校生にとっては、ニュースなどで見ていた程度で、遠い世界の疎いことだったんですが、ところが大学に登校するやいなや議論の真っただ中に置かれていたんですね。 二、そうした中で、法政大学に入学した私などは、暴力に直面することになりました。 大学ではいろいろな社会問題について議論は交されていたんですが。私など入学して1カ月がたつと暴力行為が頻発するようになったんです。「中核」派などの学生たちは、大学を占拠・封鎖して、授業が出来なくなる。さらに「バリケードの外にいるものは敵だ」「敵には暴力を加えても構わない」などとして、実際にも暴力事件が頻発するといった異常な事態になったんです。 よくマスコミは、学生の派閥間の争いのよう報道しますが、それは違うんです。実際には、暴力で大学の民主的自由を壊しているものと、民主的自由を回復しようとする大学の多くの関係者との対立だったんです。 三、これが私などが入学してすぐにぶつかった問題であり、大学の現状だったんですね。 意に従わないものには暴力を‐この異常さを知りながら、横目に見るだけで通り過ぎるわけにはいかないじゃないですか。それじゃぁ学問の真理探究なんていっても空虚なものです。 この異常な事態を変えるために、あえて誰かが公然と「大学に民主主義的権利の回復しよう」との主張を掲げなければならなかったんですね。 これは勇気が必要だったんですよ。なにしろ一部分の学生ですが、暴力で押し寄せてくる学生たちを相手しなければならなくなるわけですから。それに対するには、大学関係者とともに体をはった共同の対応が必要だったんです。 四、しかし結局、いろいろ努力はしたんですが、四年余の在学中には、こうした事態を変えることは出来なかったんです。 私などが在学していた期間には、こうした民主的な条件をつくることはできなかったんです。たしかに思いとしては、みんな気持にはあったとしても、実際に危険と対峙して、それを実現するには、それなりの条件が必要でした。だけど学生や大学人はバラバラな状態で、まとまって共同することが出来なかったんですね。 五、この点では、それから45年余りが過ぎたんですが、それでもこうして尾を引く心残りがあるんですが。これは仕方ありません。 しかしこうした状態の法政大学にも、民主主義を回復しようと、勇気をもって、明確な態度をとった仲間がいたんですね。頑張って、危険に立ち向かい続けた人たちがいたんですね。 そうした努力というのは、結局のところ、報われることはなかったんですが。 しかし、私などは今でも思うんですよ。ここでの努力した人たちというのは、大きくは民主社会にとって、実際に直面した試練の中で、道理ある努力だったことを。結局は、意図したような合理的な結果はつくれなかったけれど、それでも「学生自治権を回復して、学園を民主化しよう」との主張を掲げ続けたという点で、一つの宝をつくったんだと思っているんです。この法政大学で、こうした人たちと出会えたことは、交流できたということは、やはりかけがえのないものだったんですね。 六、こうして私などの法政大学での生活というのは、大学での勉学条件が歪められ、制限されたものでした。そうであるからこそ、自らの努力としてなんですが、学園の窓から社会の状況や動きを探ろうとしたということだったんですね。 これが私の大学だったんです。 七、私などが学園に専念している間に、郷里・真鶴をふりかえると、大きな変化がありました。 高校二年生の時に、1967(昭和42)年11月29日に母・文江(44歳)が死去しました。 その翌年ですが、高校三年の時には、1968(昭和43)年7月28日には祖父・義方(よしとも 70歳)が死去しました。 さらに、私などが東京で下宿していた大学3年の1971(昭和46)年7月28日には、祖母・せき(67歳)が死去したんですね。 私などが、大学にすすめるよう配慮もしてくれていた人たち、応援もしてくれていた人たち、その人たちが亡くなっていたんですね。私などが、学生生活をおくり、大学生活に集中していた時に、その人たちは帰らざる河となっていたんですね。後になって、亡くした人の存在意義や思いを知ることになるんですが。 それは後の祭りなんですが、今にして感謝を感じてくる次第です。 以上。
2016年11月08日
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日本共産党綱領「突破点」「力点」の二冊を通読してようやく、この2冊について、目を通しました。先の7月2日、香川県での民進党小川議員の応援演説はすばらしかったですね。政策協定において、共産党の綱領について正面から協議して合意したそうです。その合意した政策協定が、その演説の基礎に、あるというんです。その力の源を確かめようというわけではないんですが、二冊に目を通しました。1、不破哲三著『党綱領の理論上の突破点について』(2005年3月30日刊 762円)2、不破哲三著『党綱領の力点』(2014年1月15日刊 762円)これは、日本共産党の綱領について開催された学習会での講義をまとめたもだそうです。私などは、理解するというのはおこがましくて、やっと通読したくらいなんですが。その中で感じた2,3の点についてです。その一、この二冊は、だいたい共通した3つテーマが柱建てになっています。1、日本が直面している民主主義革命とはどの様な内容なのか、当面の革命について2、ソ連や中国、アジアなどの世界の動きをどうみるか、世界情勢論について3、今の資本主義社会は将来どのような発展をしていくか、未来社会論について、です。だいたい綱領というのは、日本の現状をどう見て、それをどの様に変えていくのか、政党として、各政党が国民に見通しをしめしたもので、立党の一番の基本的問題です。まぁ、それがはっきりしてない政党もあるようですが。その二、共産党は2004年1月の第23回党大会で、綱領を前進的にかえたそうです。戦後70年がたちますが、戦後16年目の1961年(第8回党大会)に、そのもとになる綱領をつくりあげた。新たな綱領は、全体的に、当面する日本の変革の姿を明確にしたものとのことです。綱領自体は、シンプル・イズ・ベストで、簡潔なものですから、その詳しい内容や歴史的意義については、それなりの解説が必要です。その要点を解説したのが、この不破さんの二つの講義であり、本だということです。これが綱領についての、今日的な基本解説というわけですから、おそらく香川県で政党間協議の中でも、これも問題を理解する素材になったのではないかと思われます。私の勝手な推測ですが。その三、その特徴ですが。「特徴」なんて言ったって、私ごときが綱領の中身を解説できるわけがないのですが。ただ、分かったことというよりか、感じた点ですが、同じような三つの柱建てでも、語られている中身の側面が違っているんですね。最初の「突破点について」(2005年2月22日)の方は、第23回党大会(2004年1月)の直後ですから、どちらかというと改正点の中身を説明しようとする点に、理論的な理解をうながす点に、力点があったようにおもわれます。他方の「党綱領の力点」(2013年3月17日)の方ですが、これは新しい綱領ができて10年近くがたちましたが、この間にそれが実際に活動が展開されることによって、様々な具体的な出来事によって、その綱領が試されたり、検証されたりしたこと、より問題がみえてきたこと、そうした側面が明らかにされているように、この冊子を読んでいて感じました。その四、この問題の学習する位置づけですが。このニつの講義の違いには、、日本と世界の動きがかかわっている様に思います。それは、あくまで、私などの直観的な印象ですから、よく読んで吟味するのはこれからのことなんですが。ただ、それは、あれこれの日常の多岐な事件がおこる中でも、モグラたたきにならないようにするためにも、それらと並行してこの学習は、大事にしていくべき問題だと感じています。それには、時を置くことも必要ですし、事態の展開の確認も必要ですし、自分の直面課題との関連もありますし、個別の問題をなかに引用されている文献からあたることも必要になりますから、1冊を読むということは、そこから3冊4冊にあたなければと問題は次々に広がっていくわけですが。そうであっても、「基本は一つである」と見定めていることも、大事なことですね。やっぱり、これが、あの迫力のある演説の源泉でもあるんですね。https://www.youtube.com/watch?v=ObBt98SkVTU&feature=youtube_gdata_player
2016年11月06日
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早生みかんの初収穫真鶴のみかん園へ、早生みかんの初収穫に行ってきました。11月4日、朝6時に厚木の中津川を通りましたが、橋げたの温度計は9度でした。今季の最低気温です。みかんの成熟にとっては、この朝晩と昼間との寒暖の差が大事なんですね。さらに走って、午前6時28分、平塚から見えた富士山です。「頭を雲の上にだし」ていました。雲の上から、富士山が頭の上の部分だけが、姿を見せてくれていました。雲のかかった富士山というも、これもまた、なかなかいい景色でした。今日の関東の天気は、秋晴れなんですが、地面近くには少しですが雲がありました。日中は文句のない秋晴れでした。今日は、真鶴のみかん園での初収穫です。早生みかんの小木からの収穫ですが、まだ収穫できるみかんは、ほんのわずかなんですが。それでも、相対的にみると、早生の小木が、一番最初に色づき始めています。早生の小木は、3本あります。1本目は、「宮川早生」の木です。ここには以前に、カミキリムシに枯らされた木があったんですが、その後に植えた苗木が、ようやくここまで生育しました。自民党は、「7年間で関税をゼロにする」なんて強行しようとしてますが、農家にとっては、植えた苗木が11年かけてようやくここまで成長してくるんです。「7年の間に、自由化しての大丈夫な農家の体質をつくる」なんて政策は、一般の農家にとっては、実体のない、空文句です。農家の実際を知らない連中が、勝手な虚像を描いて、踊っているんです。自然を相手にした苦労を知らない人たちが、空言と亡国に突き進んでいるんです。それはともかくとして、つづいて2本目は、「興津早生」の小木です。「宮川早生」と「興津早生」、どこに違いがあるかわかりますか?木を見ただけでは、私などにはとても分かりません。自然交配によるものでしょうから、専門の人なら中には、みかんの形などから、みかんの品種を識別できる人がいるかもしれませんが、一般の私などには、品種の識別までは、とてもできません。当方は、苗木を自分で植えたという事情から、この品種がわかるわけで、そうでなければ、その経過を知らなければ、何の品種かまでは、わかりません。せいぜい、成熟の時期がはやいことから、そして果皮が薄いということから、おそらく「早生みかんだろう」と、せいぜいそのくらいの見立てが出来るくらいです。3本目の木ですが、これも「宮川早生」の木です。これは、少しみかんが少ないのですが、前々回に、この木から味見用に収穫したからなんですね。日当りの良かった部分、早く成熟したみかんは、すでに取られているんですね。これは、一回目が採られた後の木の様子です。今回の収穫は、この3本の木からの収穫だったんですが、最初の収穫は、そろり、そろりと慎重に、よく注意しながらの収穫です。ここまできて、みかんがあと少しで成熟するのに、その前に「早やもぎ」してしまっては、せっかくの一年間、いろいろ苦労してきたことが、すべて台無しになります。ほんのチョットした差なんですよ。当初、みかんの栽培を始めたころでしたが、みかんが色づきはじめたのを見て、私はそれだけで喜んじゃって採っちゃったんですね。八百屋さんに並んでいる早生みかんの色づき具合を参考にして、私は、目だけの判断で、収穫しちゃったんですね。ところが、八百屋さんに並んでいるのは南の地方の早生みかんでした。九州や四国の早生みかんと、真鶴・小田原方面の早生みかんとでは、同じ早生みかんでも、なかみが違うんですね。自然条件の違いから、同じ色づきだと、当地のみかんは酸っぱいんです。産地としては、南の暖かな九州や四国の早生みかんに比べて、北に位置する真鶴・小田原方面では、気温も低いし、成熟の仕方が遅いんです。その違いを知らなかったんです。それで大失敗しました。酸っぱいみかんをどんどん出荷しちゃったんですね。今から思い返すと、そんなみかんを、よくみんなは我慢して食べてくれてと思うんですが。とんでもないみかんを押し付けてしまったわけです。やはり最終的には、舌で味を確認しないとだめで、画龍点睛を欠くことになります。それからは、慎重のうえにも慎重に、完熟するのを待って、収穫するようにしています。そうすると、逆に、当地独特の、味の濃い、美味しいみかんが出来るんです。そうしたものを出荷しなければ、当地のみかん農夫としては、失格なんです。ですから、完熟の判断として肝心なのは、目による、色のつき具合をみて識別することが基本ですが、要所、要所では、やはり舌により味見することが大事なんです。ただし、そんなに味見とはいえ、いくつもいくつも食べてられません。お腹がいっぱいになって、味の識別が分からなくなりますから。ですから、要所は味にしても、やはり基本は目というわけです。さて、本日、第一回目の収穫ですが、この早生の小木の3本から、約5キロくらいの収穫でした。1コンテナには、20キロが入りますから、今日は、まだ採れたのは、ほんの少しです。今回収穫したみかんですが、畑のまわりの近所の人たちや、知人の人たちに味見してもらいます。ほんの少しずつでしたが、初物の味をプレゼントしておきました。なかには、「おいしい、お店で買ったものより断然おいしい」なんて、サルを木に登らすような、たいへんうれしい声もいただいたんですよ。こういう声をいただけるようになったら、一年の苦労が報われますね。それが農家の喜びなんですが。ということで、やっぱり、みかんは収穫するタイミングが一番大事です。
2016年11月04日
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昭和時代が終わっても終らないものがあるー三浦綾子著『銃口』(小学館)を読みました三浦綾子著『銃口』(小学館 1994年刊)を読みました。以前に、10月24日に紹介した同じ三浦綾子著の『母』(角川書店)は、今、映画として作られつつあるそうです。年明けには完成の予定と聞きます。これまで、小説というものをあまり読んでこなかった私ですが、鶴岡の旅あたりから少し変わってきました。ちかくの図書館を利用しているせいもありますが。今回も、その棚に『銃口』をみつけました。それで、手軽に借りて読ませてもらいました。この『銃口』ですが、戦争前の北海道の小学校のことから始まっているんですよ。子どもが、教員を志望するようになり、教師になるんです。それと、題名の「銃口」ということがなかなか結びつかなくて、それが疑問だったんですが。終わりの方まで読みすすんでみて、ようやくその謎が解けました。一、この作品『銃口』は、著者・三浦綾子(1922-1999年)の青春時代の、小学校の教師の体験のまとめでもあると思うんです。著者は、16歳11か月で小学校の教師になりました。その当時のことを『石ころのうた』(1974年刊)で回想していました。若き熱血の教師は、戦前の時代社会の中にあって、軍国主義教育を教える渦にまきこまれていく教師だったんですね。そうしたことへの反省から、敗戦後の1946年には、教員を辞職しているんですが。上巻は、戦前の教育をめぐる相剋です。そうした戦時の思想統制がつよまる時代にあっても、生徒一人ひとりを大切にしようという教育思想が、北海道などには綴り方教育運動としてあったんですね。そうした教育運動は、軍国主義教育の思想統制からして、治安維持法によってきびしく弾圧されたそうですが。教育だけでなく、多喜二の社会主義・共産主義も含めて、生活のあらゆる分野に思想統制が強化されていったんですね。無理や暴力による野蛮な弾圧だつたことが紹介されてます。とくに教育の分野にあった著者のことですから、この相剋の対比は具体的なものがあります。教育の人間性からして、どちらに歴史的な理性があったのか、今日からしたら明らかなんですが。この戦前の教育の歴史を、あらためて発掘し、しっかりと評価しているんですね。そのことは、自らの教育実践の痛恨の反省をこめて描いていると感じました。これとは別に、最初に紹介したように、著者は小林多喜二の母・せきを描いた『母』(1992年刊)を書いていますが、この戦前の教育を描いていく書き方ですが、どこか小林多喜二の執筆態度に重なるものがあるようなものを感じます。その作業もまた、この著作の基礎になっていると感じています。二、「銃口」の言葉ですが、この本の後の方に、5か所出てきました。この本を書くにあたっては、著者は『取材を開始して4年の歳月をようした』と「あとがき」で書いています。著者にとっては、ましてや私などにとっては、直接の戦争体験は無いのですが。しかし、そうした戦争のもつ現実、戦地と国内の具体的な様子を、そこにいるような臨場感を感じさせてくるような、そんなタッチで描いています。これは、体験者も含めて、多くの人たちに共有するものがあると思うんですよ。そこに著者の努力と力があると思うんですが。それには、著者の体験はもちろんですが、実際の現場に体験者した人たちから聞き取りをして、状況を取材をかさねた基礎(著者の姿勢)があるんですね。それが「あとがき」に紹介されています。「綴り方教育と、それへの弾圧」「満州での占領軍と住民」「開拓団の敗戦による逃避行」「キリスト教への弾圧」・・・。取材したことと参考文献が挙げられてます。小説ですから、幸運な事例というか、日本に帰国できた人を取り上げています。それはまれな例だとは思いますが。しかしそれはそれでまた、現在に帰結する一つの確かな、貴重な側面でもあると思うんです。もしも、その現実の側面がなければ、話になりませんし、なによりも現在というものが無くなりますから。現在を生きるということは、そうした偶然の幸いであるわけです。しかし、そうであればこそ、それはあまたの犠牲者の積み重ねの上に、打ち棄てられた悲惨な人たちの上に、その犠牲の上に、現在というものがあることも、あらためて見えてくるし、直視しておかなければならないと思うんです。それが現代人の歴史への責任です。三、「昭和時代が終わっても、なお終わらぬものに目を外らすことなく、生きつづけるものでありたいと願いつつ、ペンを置く。1994年1月」-これが著者の「あとがき」の締めくくりです。これは、その後、それが書かれてからの20年間で、一層重く感じさせられるんじゃないでしょうか。昨今の国会の、政治の動きをみるにつけて、いや、もっとながい戦後70年の歴史を見てみると、この著者の締めくくりの思いは、重いですね。そして現実的で切実な願いですね。今を生きる人は幸いです。戦後70年、脈々として、国民の平和と民主主義的運動は、反動政治により蹴飛ばされ、ねじ伏せられ続けてきました。教育の反動化はもちろん、平和憲法と戦争法、沖縄の基地、原発の推進、農業・国民生活を破壊するTPP、などが押し付けられてきました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」これが、戦後の政治的多数による政治でした。それの政治がずーっとが押し付けられ続けてきたわけです。しかし、だてに歴史は無為に過ぎてきたわけではありません。今現在は綱引きの苦難がたかまっているけれど、国民の民主的な自覚が力を合わせて多数派をつくるときが、そうした転換が近づいてきていること、まちがいなく近づいているはあきらかです。なんとこれは幸いなことじゃありませんか。しかし、問題は一刻もはやくそうした現実をつくらなければならないし、そのためにはどのような努力が必要か、この問題が大切だと思っている次第です。この本には、そうした現代を生きる人々への応援メッセージが込められていると思います。
2016年11月03日
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