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引き続き蔓取りと、最初のオオスズメバチ天気予報では、本日・9月30日の前中は、「関東は晴れ」というんですが、実際の天気は曇りでした。今年は秋晴れが、なかなか無い。早起きして、引き続き、早川園では木々に巻き付いた蔓草の取り除きです。茶毒蛾に刺されないように、雨合羽を着こんでの作業ですから、20分も作業すると、もう完全に汗だくで、ずぶ濡れです。それでも何とか巻き付いたヤブカラシを取り除きました。手前の山が、今回取り除いたヤブカラシなどのつる草です。中ほどが、巻き付いていたお茶の木と、みかんの木です。この作業により、お茶の木もみかんの木も、ほんらいの姿に、さんさんと太陽の光りに当たることができるようになります。そうならなければ、いきいきと、しっかりと生育が出来ないわけです。去年は、それがヤブカラシに覆われたままだったんです。遠方の景色ですが、正面には、小田原城が見えているんですよ。「やれ、やれ」といった景色です。天気は曇り空ですが、この分なら、日中は雨の心配はなさそうです。切った木や、取り除いたつる草ですが、その一部ですが、中央の広場に集めました。そこで野焼きして片付けようとしたのですが、野焼をしようとしましたが、火がつかないんです。切りたての木や、取りたての草は、水分が多くて燃えにくいんですね。いくら種火を燃やしても、広がらずに消えちゃうんですね。仕方なく今回は、そのままに置いて、乾燥させることにしました。それにしても、この山になった木や草の量はすごいでしょう。これでも一部分ですから、自然の豊かな力をしめしています。東北の農民の方ですが、『家のまわりの草と毎日相撲取りっこしてくらしているのす』 『ものいわぬ農民』(大牟羅良著 岩波新書 P66)との言葉を記録してますが、時と場所は違っても、同じ作業ですね。なにしろ、見ての量ですから、この作業が容易ではありません。汗びっしょりの、クタクタになるのも、お分かりいただけるかと思います。早川園のこの作業は、午前6時から7時40分まででした。ついで、真鶴園へ移動しました。今回の真鶴園の作業は、1.今年のみかんのなり具合の診断と、2.スズメバチの襲来のチェックでした。1.みかんのなり具合については、普通温州の木は、全体として、今年は裏年なんですが、それに加えて、カミキリムシにより枯らされたため、二重のマイナス影響なんですね。次の木は、カミキリムシの加害により、半身不随にさせられた木です。これは、普通温州みかんの木で、まだみかんは青いんですが。収穫は12月です。右側の主枝2本が枯らされているのが分かりますか。あと残っているのは、左側の主枝の1枝です。この木の収穫量は、数年前に比べて三分の一に減ってしまったということです。それでもこの木は、この左側の一枝が頑張っていますから、その残された枝には、みかんをたくさんつけていますから、ただちに植え替えするのは、ためらわれるんですね。しかし、これ以上、加害が進むと、伐採して苗木に植替えをせざるをえません。今年、あらたに伐採せざるを得なくなった木が、すでに1本ででています。次の小木は、カミキリムシに最初に枯らされてしまった木のかわりに、2005年2月に植え替えした木です。これは興津早生の木です。小木の割には、みかんを沢山つけて頑張っているんですが、植え替えして、10年間がたって、ようやくここまで生育したんですね。まだ、10年たっても、もとの木の生産量の2割くらいでしかないのです。もとの生産力を回復するのには、それだけ長い歳月がかるということです。しかし、これから先の10年後となると、当方の身が持っているかどうか、わかりません。遠路往復してこれるか、植え替えた木を手入れできるかどうか、その保証がないんです。木の植え替えというのは、それだけ大変だということです。どこかの政治家や役人のように、テーブル計算で、ないし口八丁で、すませようなんてことは出来ないんですね。自然の摂理というのは、厳格なんですよ。さて、今年の早生みかんですが、早生の木は、1本を除いて、おしなべて裏年状況で、みかんをつけて無いんです。そして、温州みかんの全体については、今年が裏年なことと、カミキリムシによるダメージによる減少です。このため、早川のみかん園から補充しようとしているわけですが。早川の知人が、市場への不渡りをきたさないように、分けてくれているんです。去年から「市民みかん園」を貸してくれたのですが、これもまた、そうした手助けの一つなんですよ。ある程度、安定的供給が出来なければ、市場は出来ませんから。ということで、今年のみかんは、去年よりも出荷量が減ってしまうということです。この11-12月の出荷計画は、去年の出荷よりも減るということです。これから、この線で、出荷・販売計画を立てなれけばなりません。いよいよ、みかんのシーズンの到来です。一足早く、早生みかんは、徐々に黄色く、色づき出し始めました。普通温州は、12月ですから、まだ青いのですが。これから秋晴れのもとで、みかん園の色が明るく変わっていきます。それともう一つ、2.スズメバチの動きですが。引き続き、ミツバチの巣箱には、キイロスズメバチがやってきていました。今回も、一匹駆除しましたのですが。以前に、スズメバチの捕獲用に、ペットボトルをしかけておいたんですが。これまでは、注意して見てたんですが、中は空っぽだったんですが。ところが今回見たら、中に捕まってました。スズメバチでも、キイロスズメバチの方は、たいして問題ではないんです。この方は、ミツバチ自身が集団で撃退してくれると思っているんです。問題なのは、スズメバチの王者-オオスズメバチの襲来なんです。オオスズメバチは、その世界の王者ですから、ゆったりして強力なんですね。活動するのは、晴れた日の、午後の時間が、いちばん活発に動くようです。キイロスズメバチなどは、蹴散らすようにして、ゆうゆうとして、ミツバチと蜂蜜を狙ってくるんです。薄い板なんて食い破る力を持っているんですよ。当方がみかん園に居れたのは、これまでは、朝の時間帯のうちでした。今年は、したがって、まだ一度もオオスズメバチを見かけていなかったんです。今回の状況からすると、いよいよその時がやって来たようです。このペットボトルを仕掛けたことは、正解でした。中にオオスズメバチが一匹入っていたことで、その動きがわかったんです。これが今年の、最初のオオスズメバチです。初お目見えで、いよいよ動き出したようです。去年は、オオスズメバチを100匹以上も捕獲したんですよ。今年も、ミツバチをめぐる攻防戦は、いよいよ新たな段階に入ったということです。オオスズメバチとの大いくさが、始まりだしたということです。みかんの収穫期を前にして、いよいよ諸般の仕事が忙しくなりそうです。みかんの収穫と、ミツバチをまもる、両方に目配せが必要になってます。
2016年09月30日
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今日は、送迎運転の研修にいってきました当方の住む団地のすぐ近くの隣町に診療所があります。その診療所では、新たに利用者さんが利用する送迎車の運行を計画しています。週に一回、半日なんですが、それに当方は手を挙げました。今日は、新たなこの事業を始めるにあたって、すでにこの事業にとりくんでいる事業所に研修にいってきました。その様子を知って、新たに最寄りの診療所で、この業務を始めだすためです。まだ準備中のことですから、すべてが順調に行けばの話ですが。次の写真は、本日、最初に利用者さんを迎えに行った時のもの。一般に、「三多摩格差」ともいえるかもしれませんが、三多摩地域は、交通手段が都心に比べると不自由なんですね。電車やバスの幹線経路だけでは、自由に移動ができません。目的地の、病院や診療所、公共施設にたどりつくのが、じつに大変なんです。ましてや、高齢者などの身体がままならない方にとっては、なおさらのことです。そうした折、各方面にお住まいの高齢者の方にとっては、診療所への送迎するサービスは、たいへん貴重で、重要な仕事になります。ところがです。本日の研修で、最初の利用者さんだったんですが、自宅は留守で、ようするに、すっぽかされちゃたんですね。どうやら、送迎の約束を忘れて、出かけてしまったようでした。まぁ、人間、歳をとってくると、いろいろ個人差が出てきます。独り暮らしの高齢者ですから、部屋の中で事故でもあったのか、と心配もしたんですが。それは、大丈夫のようでした。人には、いろいろな条件があるんですね。他人ごとだけでは、ないのですが。といったことで、当方の11月と12月ですが、次の様な週サイクルを予定しています。一週間のうち、1日(正確には、半日)が、この送迎車の運行にあたります。第二はみかん作業ですが、2日間を収穫で真鶴・早川を往復するようにして、翌日の2日間を、もよりの各消費者の方々へみかんを配送する。そして、あとの2日間を、諸々の学習にあてるようにする。だいたい、こんなパターンですすめていくように予定しています。
2016年09月29日
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レーニン著『ロシアにおける資本主義の発展』から その2 レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』に、挑戦しています。今から100年前、シベリア流刑中に、1896年から1899年に、4年がかりで書かれた本です。全体で671ページもありますから、大著で、読み通すのはそうそう簡単ではないのですが。全体は8章からなり、ロシアで資本主義がどのように発展しているかを分析しています。第一章が基礎理論で、第二章から第四章の農業論、第五章から第八章の工業論です。 今、第四章の、農業論の最後の部分を読みすすんでいる所です。目下の読み方は、大体的にどういうことが書かれているのか、まずは概括的にでも、とにかく終わりまで読み通すことを眼目にしているんですが。 私などは、経済学を学ぼうとして法政大学に1969年4月に入学したのですが。よくわからない中で、あれこれ経済学を探って、マルクスの『資本論』を目標にしたのですが。 当時の学園はにぎやかだったし、在学期間は短くて、全体の三巻のうち、第一巻「資本の生産過程」しか読めませんでした。『資本論』の全三巻を読むことが出来たのは、社会人になってから、市井の学習サークルでだったんですね。自己流の理解でしたから、理解のほどは知れてますが。 そして、今、『ロシアにおける資本主義の発展』を読もうとしているんです。『資本論』を読むと、それぞれの国はどの様に資本主義が発展してきたのか、自ずからこの大きな問題がでてきます。それを定年退職の65歳を過ぎてからですが挑戦しようというわけです。多分に遅すぎるんですが。まぁ、やらないよりは、ましでしょう。どれだけできるかは別として。 このレーニンの著作ですが、全体の印象は、『資本論』の理論をもってしたら、ロシアにおいて資本主義はどの様に発展しつつあるか。それを官庁の公刊された統計資料などを基に分析しているんですね。ロシアの 農業や工業はどのように発展しているか。これを探った671ページの大著です。 まだ道半ばで、全体像を知るまでには至ってませんが、農業論の終わりのところまできました。今回は、それを読んでいる中で、「これは」と思った部分を紹介しようというものです。 当方は、みかん農夫をしています。 神奈川県西部で125坪(450平米)のみかん栽培をしているんですが。これが、ヒントになって、身近に感じさせられる部分があったんですね。 目下、第四章「商業的農業の成長」の270ページまで読みすすんで来ました。 この第四章の四節まで読んできた時、そこで注目される個所がありました。 〈「牛乳集荷場」の意義について〉説いている部分なんですが。 今回は、その部分の紹介です。 1870年代のロシアのある県で酪農が発展しだしたそうです。統計で示しています。 その県で「アルテリ〔組合〕組織のチーズ製造所」が出来たというんです。 これは、今日の私たちで言えば、農業協同組合の集荷場の様なものが出来たそうです。 その集荷場の役割を解明しているわけです。 「資本主義の発展における牛乳集荷場の役割は、商業的穀物生産における穀物倉庫の役割と同じである」。 「穀物倉庫は、穀物を品質によって選別することにより、それを個人的な生産物ではなく、同種類的な生産物にする。」「こうして穀物倉庫は、穀物の商品生産に強大な刺激を与え、同じ品質による価格査定を実施することによって、その技術的な発展を駆り立てている。 この制度は、いちどに二つの打撃を小生産者にあたえる。第一に、大規模な作付を行う者のより良い質の穀物を基準として定め、そのことによって質の劣った貧農の穀物を最終的に無価値にしてしまう。第二に穀物の選別と貯蔵を資本主義的大工業の型にしたがって組織することにより、大規模な作付を行う者にとっては、この費目への諸支出を減らし、穀物の販売を容易にする。このことによって、市場で荷馬車から販売するような家父長制的で原始的な販売を行う小生産者を、クラーク〔富農〕や高利貸しの手に最終的に引き渡すのである。・・穀物取引における資本の大きな勝利と、小商品生産者の落ちぶれとを意味する。」(P267) これを読むと、集荷場のはたしている役割が見えてきます。 同時に、私などのみかんの零細生産においても、その位置について考えさせられてしまいます。 みかん農家は、一般に農協に出荷しています。 それに対して、私などのみかんの出荷は、農協を通してませんし、農協へ出荷することは出来ません。それをするには、農協が指導する薬剤使用や手入れが必要になるわけですし、出荷するみかんに質的な、大きさや果皮の美観などの均一性が求められるんですね。農協ブランドですから、それがもとめられるんですね。 当方のみかんは、そうした水準をもってないから失格なんです。味の点では劣ってないとおもっているんですが、とにかく農協流通でもとめられる基準に達しないんですね。 この違いがどういうことか、考えさせられます。 しかし、それでも私などが営業していられるのは、独自に流通を開拓しているからなんですね。流通にも様々な形があるわけです。農協を通さない販売ルートです。私などのみかんを扱ってくれる人たちは、まず価格が安いこと、しかしそれだけではありません。肝腎なのは味です。多少、形が不揃いではあっても、味がいけること、全体としてまずまずとの評価を得れることが前提になって、「自主流通」しているんですね。これはこれで一つの今日的な流通形態だと思うのですが。私などの活路なんですが。そうしたことを考えさせられました。 このレーニンの著作ですが、今日の日本農業を考えていく上で、いちどくに値すると思うんですよ。私などは読んでいて、ますます、そう感じています。 この本が対象にしているのはロシアの場合ですから、100年前のロシアのことですから、今日の日本の農業とは、歴史的にも社会的にも条件が大きくちがってはいるんですが。 いってみれば、日本では、戦前の寄生地主制のような時代のものですが。 それにしても、ロシアの農家というのは、規模の格差が大きかったんですね。 第四章の二に紹介されているんですが、ある農家は農地を6万ヘクタールももっていることが紹介されています。6ヘクタールではなくて、6万ヘクタールですよ。考えられませんね。明らかに農業労働者を雇ってしか維持することは出来ません。資本主義的農業が発達しつつあったこと。 これに対して、戦後の日本の農業では、3ヘクタール以下規模の自作農の農業が基本ですから。 今回はこれまでです。読んでいて、これはという一点についての紹介でした。 これから大著はさらに続いていきますが、どんな中身が展開されているか、楽しみなところです。
2016年09月28日
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やっと、志賀直哉の小品「真鶴」を読みました志賀直哉全集(岩波書店)の第3巻に「真鶴」という作品があります。小さな作品なんですが、志賀直哉をよく読んだ人でも、この作品を知っている人は、ほとんどいないと思います。沢山ある作品の中で、これを気にはとめてないと思うんです。今回は、この作品の紹介です。当方にとっては、みかん園のある「真鶴」がタイトルであり、舞台ですから、この文豪に、偶然でしたが、こんな作品が全集の中にあることを知って、題名だけが縁だったんですが、この巻だけですが、以前に入手してあったんですね。ここにはいったいどの様なことが書れているのか、前々から気になっていたんです。ところが、せっかちが災いして、ずーっと本棚の片隅で、そのままほこりをかぶってました。たった5ページの作品なんですが、それでも後回しされてしまって、今回、「決意」と言うほどではありませんが、ようやく一読してみたんです。最初にいち読した時は、著者はいったい何を言いたいのやら、これといったテーマもないようだし、何かとりとめもない作品との印象だったんですが。この中に「真鶴」の地名が二回出てきました。最初は、主人公が「真鶴の漁師の子で、彼は色の黒い、頭の大きな子供であった」との点と、次に、暗い帰り道で「真鶴まで、まだ一里あった」の二か所です。それだけのことでは、いくら何でも他人に紹介できないので、もう一度読み返してみたんです。すると、なぜか当初の印象とは少し違って見えてきました。なんとなくですが、著者の書き方は、客観性をもった書き方をしている、そんな感じがしてきて、「あれっ」とあらためて作品を読み直してみたんですね。それで、自分がどこに客観性を感じたのか、ランダムですが、あげてみたんです。1、普段ならお金など手にすることのない子供ですが、歳暮に親からもらった小遣いで、12、3歳の主人公ですが、弟を連れて、真鶴から12キロも離れた小田原の町まで、歩いてですよ、買い物に行くんです。2、小田原の町へ来たついでに、二宮尊徳の神社に詣でるようにと言われていた。3、途中の道は、海を見下ろす高い道を歩いて(今の山側をとおる県道のことですね)、4、熱海行きの二台の客車を引く軌道列車が、カマをたいて、道を並行して走っていく。(小田原-熱海間の軽便鉄道のことです。当時はまだ丹那トンネルは出来て無くて、東海道線本線は国府津から御殿場周りでした)。5、夕闇がせまって、沖の海には、漁火が見えはじめる。(これは今もあります)。6、出鼻の曲がり角、まだ真鶴まで一里はある。(それは、まだ長坂トンネルは出来ておらず、岩村のはずれにある曲がりの道です)。以上の諸点は、小さいころ真鶴で育ったものとしては、むかしか今か、具体的なイメージとして、自然に浮んでくる客観的な情景です。なんたって、子どもの兄弟だけで、心もとなくても、小田原の町まで歩いていく。7、12キロは子どもの足では遠いですよ。買い物が目的にしても、冒険の遠出です。今なら、電車や車がありますが、歩いたんですね。8、やはり帰り道にも時間がかかりますから遅くなり、あたりは暗くなる。帰りの遅い子供たちを心配して、暗い夜道を提灯をもって母親が迎えに来た。真っ暗な道を、提灯ですから。これらのことは、私などの想い出からも、現実的にありうる事柄だと読みました。こうした叙述を見て感じるんですが、志賀直哉という人は、よくその土地柄と、人の状況を、とらえている。一見すると、なんの変哲もない客観的事実として描いていきますが、そこには、後から、その中から、じわーっと情感といったものが湧いて出てくる、そんな感じを抱かせる力をもっているんですね。私は志賀作品はほとんど読んでませんから、一般的にかどうかは分かりませんが、少なくともこの作品に関しては、そういった感じがしてきます。この作品「真鶴」は、大正9年8月執筆で、「中央公論」9月号掲載だそうです。私はこの作品を読んでいて、芥川龍之介の作品「トロッコ」を思い出しました。それは以前に、2012年11月13日に、紹介したんですが。同じように、子どもが鉄道の工事中の線路づたいに、小田原方面に冒険にでかける。みかん畑や海とか、この地のうつくしい景色が描かれている。やはり帰り道が遅くなって、暗い夜道を急いで帰ろうとしている。家人が心配して迎えに来る、など、状況が共通しています。この「トロッコ」は、2012年に同窓会で伊豆の旅があって、その準備した時に、伊豆に住んでおられる恩師に、見どころについてアドバイスをいただいたんです。50年前には、若い教師になったばかりの先生だったんですよ。真鶴の、私など岩小学校の2年-3年生で、担任していただいた先生なんですが、いろいろな話が交わされた中で、その一つに、『是非、この作品を読んでおいた方が良い』と「トロッコ」を紹介してくれたんです。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201211130000/この「トロッコ」も、同じように、私などに郷愁を感じさせてくれる作品だったんですが、こちらの方は、大正11年2月の作品で、「真鶴」よりも後の、より新しい作品でした。それで、私の勝手な推測なんですが、志賀直哉の「真鶴」を読んだ芥川が、「これは面白いね」なんて感想を述べていた時、そこにいた湯河原出身の友人・力石氏が、「これは私の郷里です」と。「私にも同じような体験があるんですよ」っといった会話がされた。力石氏は芥川に「トロッコ」の材料となる話を聞かせた。そしてこの芥川作品が出来た。そんなような経過があったのではないか、などと勝手に推測しています。いずれにしても、この二つの作品、「真鶴」と「トロッコ」は、私などには、子どもの時分の、なつかしい郷愁を感じさせてくれる、今となってはかえらざる河でもあり、貴重な宝のような作品です。
2016年09月27日
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ヤブカラシなどの蔓を取りました関東はこのところ、雨がちの天気が続きました。9月25日は、お茶の木に巻き付いたヤブカラシの除去しに出かけました。今日は、久しぶりの晴れ間が出るとの天気予報でした。日曜日というのは、伊豆方面の車で道が混むので、朝のうちが勝負なんです。それで、早出をしました。午前5時22分、途中の平塚から見えた富士山です。東京の日の出は午前5時31分ですから、ブルーの富士山は、まだ日の出前です。山頂に雪が見えますが、初冠雪のたよりは、まだ聞いていません。次は、午前5時37分、小田原からの富士山です。こちらは、日の出の後です。海の方、水平線には、雲が立ち込めているものとみました。午前5時58分、早川のみかん園に着きましたが、仕事を始める前の小田原の市街地です。左側に小田原城が見えています。この景色は、天気予報をうのみには出来ないことを、いつ雨が降りだしても、おかしくないことをしめしています。今日のみかん園の仕事ですが、お茶の木に巻き付いたヤブカラシなどの蔓草を、取り除くことです。それは草取りに続く作業です。お茶の木なんですが、つる草に覆われてしまっています。この覆いかぶさっているつる草を引きはがす作業なんですが、これが要注意なんです。お茶の木には、茶毒蛾という難敵がいるんです。その姿は見かけたことがないのですが。6月と9月は、作業したあとには湿疹が出て、痒くてたまらなくなります。だから、それを防ぐために、雨合羽を着て、長靴とゴム手袋をして、防備をしての作業となります。これは、除去した後ですが、大分すっきりしました。お茶の木らしくなりました。こうして重装備しての作業ですから、合羽の下は、すぐに汗でびしょびしょになります。全体の半分くらい作業したら、もうダメです。完全にずぶ濡れになりました。まだ、真鶴園の作業がありますから、少しは余力を残しておかなければなりません。午前6時58分に作業終了です。約1時間の作業でした。作業を終了した後の景色です。手前の木々には、まだヤブカラシがしっかりついています。この天気は、やはりあやしいんですね。遠方は晴れてますが、手前は雨雲が接近してきています。東京方面は晴れていても、南関東の海沿いは雨も降りだす天気です。天気予報は話半分であって、あくまで現実が優先です。この後、すぐ真鶴に移動したんですが、途中で、はやはり雨が降りだしました。真鶴のみかん園には、午前7時30分頃につきました。雨は上がったんですが、足元の草やみかんの木々が濡れていて、これでは、本格的な作業にはなりません。ミツバチの巣箱の手入れなどの諸々の作業を、1時間くらいしたんですが、巣箱には、キイロスズメバチがさかんに来ているようです。私などが居た間にも、少しずつ間隔をあけて、1匹ずつやってきます。結局、3匹も駆除しました。オオスズメバチの方は、これが問題なんで、注意しているんですが、こちらは、まだ、今のところ見かけていません。もう一つ、今回、アシナガバチと出くわしました。前前回、小屋のひさしの下につくられたアシナガバチの巣を辞去したんですが、そのアシナガバチが、今回、近くのみかんの枝先に塊りになっていたようです。当方はみかんの枝にはられたジョロウグモの巣を小枝で払っていたんですが、気づかずに、アシナガバチが集まっていた枝を刺激してしまったようでした。たくさんのアシナガバチが、いっせいに乱舞しだしたので、びっくりしたんですが。静かに後ずさりして退避したんですが、危ないところでした。これは、「もう今日はここまでとせよ」との合図と取りました。すべての作業を打ち切りにして、午前9時すぎでしたが、帰途につきました。
2016年09月25日
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ひと時代前の日本農村の姿を伝える『ものいわぬ農民』(大牟羅良著 岩波新書)この本自体は、だいぶ古いものですが、この新書が刊行されたのは1958(昭和33)年2月ですから、今から50年以上前です。タイトルの「ものいわぬ農民」に引かれたのでしょうか、以前に入手していました。当方は、日本の農業の発展をさぐってみたいと思っているんですが、その関連で参考になる点はないか、あらためて読んでみました。著者は、終わりの方で述べています。都会ではあまり農村の実情が知られていない、反発めいたものすら感じることがある。そこで、生きた農村の姿を一部分でも正しく伝えたいと思い、この本を書いたと。この本は、大きくは、1、終戦に至るおいたち編、2、戦後4年間、行商で歩いた農村、3、雑誌編集で、ものいわぬ農民を紹介した、この3部構成です。それぞれから印象的な部分を紹介します。第一章から、戦前の農村風景です。P9 「20戸ばかりの地区に「ダンナ」が君臨している。ダンナは山の持ち主で、町議会の議員でもある。ほかの19戸はみな小作人だ。小作人はダンナから薪をもらうかわりに、毎年1戸のべ50人の労役をやらされる。春の山の薪きりに始まり、畑打ち、大麦小麦の取り入れ、草取り、旧盆を過ぎると牛や馬の干し草づくり、雑穀の取り入れ、雪が降ると山からまき運び・・。」第二章は、戦後4年間の、東北の山間部の農村への行商体験からです。山奥の農村にも、商品、貨幣経済が入って来た様子をしめしています。P106 「『なじょにして金っこ手にいれたらいいか』 昔は地下足袋はわらじだったし、それは手づくりだった。今はそうはいかない。結局、自給自足の経済がこわされてきて、商品経済が入り込んできている。」当人自身が、行商を生業としているんですから。第三章では、戦後の農地解放後の様子も書かれています。これは小作人だった人たちが、自作農にかわったころの姿でしょう。P168 「『ヨーイ・ドンではじまったんだからなぁ』-農地改革のあった部落の親父さんです。前は、地主小作関係で明らかに差別があったのに、みな同じスタートに立ったたされて出発した。農村は元は単一の農家が多かったし、そのつくる作物が衆人環境の下にあるから、競争意識が強く働いていた。」農地解放は、やはり全国的に、山奥の農家まで、実施されたんですね。全体としてのこの本の特徴ですが、著者は、生の農民の声をつたえてくれています。著者自身が足で歩いて聞き知っていたこと、また取材して集めた農村の様子なんですね。必ずしも社会の全体の姿は、示しているものとは言えないとは思うのですが。しかし、紹介されている一つ一つは、背景にある農村生活をうかがわせるものがあります。遠く年を経た今となっては、貴重な重いものがあります。それは著者自身の体験による裏付けがあるからなんですね。日本の農村が歩んできた一コマを記録したものですから、貴重なものとして読みました。
2016年09月24日
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年金農夫は面接に行ってきました 年金農夫は、9月の中旬に、新たな仕事につくため面接に行ってきました。 もちろん、採用されるか、さらに定着できるかは、まだ分かりませんが。 65歳も過ぎた高齢になれば、仕事なんて言っても、そうそう無いのですが、 ありがたいことに、声をかけてくれた人がいました。 順調にいけばですが、 10月から週に一日、半日間ですが、3000円の収入をあてに出来そうです。 もう余生の仕事は、年金みかん農夫でしのぐしかなしと、観念していたんですが。 年金みかん農夫が、80キロ遠方のみかん園を維持することは、たいへんなんですよ。 ただ、一回往復しただけでも、交通費に3000円がかかりますから。 これからのみかんの収穫期には、週に2往復しなければなりませんから。この早川のみかん園も、知人が「真鶴を往復するだけでは大変だろうから」として、市民みかん園として、貸してくれたんです。 みかん園も、今年の様に雨が降る日が多ければ、それでけ草木もどんどん伸びてきます。収穫で遠出する以外にも、この草刈りが大変なんです。しかし「みかん仕事がたいへんだから」と言って、それを放っぽり出すわけにもいきません。 これでも零細農夫の端くれですから、放任園の荒廃はさせれません。みかん栽培して、手入れすれば、みかんを出荷することが出来るんですから。それを、お世辞かもしれませんが、喜んでくれる人たちがいるんですから。 とはいえ、当方にとっては、年金が、すくなかったとしても、生命線です。しかし、それは生活費だけでかすかすでして、消えていってしまいますから。 とてもとても、みかん園の経営費までは回ってきません。貴重なみかんの売り上げなんですが、それでも赤字にならざるを得ません。それでも、とにかく回っていくんですね。 まぁ、それが道楽農夫の、道楽たる所以なんですが。 みかんで3000円を儲けるというのは大変なんですよ。もちろん売り上げ金であれば、それは簡単なことですが。利益となればたいへんです。 一般に、農家が専業ではやっていけず、兼業をせざるえないこと、さらには働きに出るのが中心になり、賃労働の収入で生活せざるを得なくなるのも、そうした状況というのは、よくわかるんです。 当方は、この3月で定年で完全退職しました。遠距離通勤していた者としては、その社会な活動圏からも切り放されましたから、孤立しがちな老後の、年金生活に移行したわけです。 しかし生活のマイナス面ばかり見ていると、押しつぶされそうなくさくさした事態もきたしますから、体力の可能なかぎり、みかん農夫の労働と学習をし続けるということです。 その限りでは、やるべきことは、いろいろとあるわけです。 このブログも、そうした中の成果だということです。ひきつづき、元気で頑張るということです。
2016年09月23日
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民主的息吹を感じさせる末川博著『民衆のための法律学』です9月20日、台風16号が関東を通過していった日、本棚の整理していたんですが、すると奥に落ちていた一冊の本をみつけました。末川博著『民衆のための法律学』(講談社学術文庫 1976(昭和51)年10月10日刊行)でした。 私は、ずーっとこの本を読みたくて探していたんですが、どこへ行ったのか、なかなか見つからなかったんですね。今回、ようやくにして再会することができました。 この小さな文庫本は素晴らしいんですよ。私は1993年3月に一度読んでいるんですが、細部は忘れましたが、強く印象に残っていました。とくに、「2.権利意識の生成」です。17ページの短い小論の部分なんですが。 私などは1950年生まれなんですが、日本は戦後、大日本帝国憲法から日本国憲法へかわりましたが、私などのこの転換についての受けとめですが、生まれる4年前のことでしたから、それは結果として生まれついた時からの状態として、ごく自然なものでした。それにはたいへんな転換があったことなど、なかなか実感できなかったんですね。ところがこの本を読んでいたら、その大事を、重さを納得するものがあったんですね。末川氏は、憲法が変わることと並行して、民法もまた大きく変わったんだよ、ということを説明していました。 私などは、新憲法の意義や民法などは、あまりつきつめては考えたことがなかったものですから、すべては自然状態にあって、いつの世もこともなし、といった太平天国な呑気者な戦後世代(というか、個人)だったんです。 この本は、民法の相続の問題をとおして、旧民法から新民法への転換を具体的に説いていました。昭和22年に民法も大きな変革があったこと。それは憲法と同様に、国民の自覚により獲得したものではなかったから、国民は後からその大切な中身を知ることになった、と。 もちろん私なども、まさにそうした一人だったわけですが。 民法というのは、その柱の一つが、相続の問題です。誰にでもおこることで、具体的でした。 要するに、日本の歴史の長い時代だった武士社会では、長子相続が当たり前だった。それは明治憲法下の民法でも、相続は長男による家督相続であり、それがずーっと歴史的に続いてきたわけです。それが、現行憲法が改正されたのと並行して、民法においても大変革があった。昭和22年に民法が改正されて、新たに相続権は、奥さんとともに、子供たちにもみな平等な相続権をもつことに変わったこと。この点を末川博氏は、説明してくれていたんですね。 「民法が改正されて、家をつぐ家督相続はなくなった。一人の相続人が全財産を承継するものではなくなり、共同均分相続の原則に、配偶者たる妻も直系の子供たちも均等に相続することに変わった。それまでは、相続といえは、通常、あととりの長男一人が全財産をうけつぎ、ほかの者には関係がないというふうに思っていた」、新たな妻や子たちにも相続権があるというのは「かつて日本人が一般にもっていた相続という観念とは一致しないところである。」(P38-39)と。 民法などに疎かったんですが、この説明は私などにも分かりやすく解説してくれていたんです。武家社会とか、農家では、生活手段をえるためには、必要なことでもあってたんですね。その原則が、大きく変わったんですね。そしてさらに加えて、もう一つ問題がありました。この民法の変化ですが、それを当時の国民はどのくらい意識していたかという問題です。 当時、意識調査をしたそうです。その結果は、ほとんど知られておらず、旧来のままの相続がおこなわれていたとのこと。 「私は日本私法学会が行う予定の『新法下における相続実態調査』の事前調査で埼玉県下の一農村で昭和23年以降の相続が行われた数軒を訪れいろいろきいてみたが、そこでは新法で認められている妻や子の共同相続権については、ほとんど何らの意識もないことを知ったのである。」「戸主が死亡した場合、長男が一人で全財産を相続したのと同じことなっていて、しかも、それは当然なことだと考えられているのである」と。(P42-43) 私などは、1950(昭和25)年に、関東平野の片隅、神奈川県西部の小さな村で生まれたんですが。この本は1980年代に、たまたま古書店で入手していました。民法が改正されて30年、小論が文庫本として刊行されてから10年が過ぎた時点でしたが、私などには戦後に民法改正がなされたこと自体が初耳でした。最初に読んで、いわれてみれば民主社会の理屈としては納得ですが、具体的には中身は耳新しい事柄ばかりで、「ヘ~ぇ、そうなんだ」といったところだったんですね。 末川博は、「民衆のための法律」と題して、アドバイスしています。 「権利は行使しようとしまいと、めいめいの自由である。一応権利が認められているにしても、それは自分が権利をもっていることを知っている者についてのみ考えられる自由である。すなわち、自分に与えられている権利の意識を欠く者については、権利を行使するとか行使しないとか、また、権利を放棄するということは問題になりえない。そしてそれは、権利の意識がなく、無知の結果なのであるから、いたし方もなく、そのために損をしたにしても、いわば自業自得で、あきらめてもらうほかはない、といえぬこともあるまい。 だが、共同相続権を平等に直系卑属に与え、妻にも与えたことは、日本を民主化するというような、大きな高い見地から出たことである。こういう見地からするならば、すべての国民に共同相続権というような権利についての意識をもたせることが第一義的である、といわねばならない。」(P44-45) このアドバイスは、たんに相続の問題だけでなく、憲法も含めて基本的な権利一般的について心構えを述べていた。この基本論が、たいへん的をえた大切な助言だと読んだことを記憶しています。戦後の民主主義を一般に根付かせるために、叱咤激励していたんですね。 ここからは、私の私事なんですが。ところが、それからほどなくでしたが、私などもこの相続問題に具体的に直面することとなりました。 2000年に父が83歳で死去したんですね。親の死というのは、誰しもいつかは避けがたいことですが、それにともなって相続の問題にぶつかったんです。父は国鉄職員でしたから、遺産と言ってもたいしたものではないのですが。それでも問題になりました。残されたのは兄弟が二人でした。 私の場合ですが、結局、相続人の一人として遺留分減殺請求をしたんですね。それを家庭裁判所に請求して、最終的には民事調停で和解したのです。ところが、その和解したあとが問題でした。〈そうした言動が許せない、今後一切の縁を断つ〉との一方的通告を受けました。こうしたこともあるんですね。仕方ありません。なかなか人間関係というのは簡単でないことを、このケースを通じて、あらためて感じさせられました。人生には、道理をつくしても、なおかつ仕方ないことってあるんですね。 社会の方は大きくみれば前進していること、それは疑いないのですが、しかし個々の具体的な事柄を見れば、やはりいろいろな問題もある。人は、それら一つ一つの試練をのりこえて、前進していかなければならないということでした。さいわい、民法というのはたいしたものです。こうした問題ごとを社会的に合理的に解決させるんですから。公正な解決を、ずるずるといつまでも引き延ばすことなく、きっぱりと明確に判断してくれます。また、そうした解決策がなければ、いろいろな人が暮らしてますから、社会の平穏というものがたもてなくなります。やはり民法も家庭裁判所も人類の知恵なんですね。そして私の場合も、調停により和解することが出来ました。 それから時は15年が過ぎたんですが、当時、こうした問題に対処する時に、励ましてくれた一つがこの本でした。その後、本はどこに行ったのか、いくら探しても手元には見当たら無くなっていました。ときどき思い出しては、それをもう一度読んでみたいなぁと感じていたんですが。それが昨日、今回の台風16号くずれの嵐が通過していったのが幸いしました。外は雨のため足止めされて、本棚の片づけをしていたんですが、するとひょっこり末川博著『民衆のための法律学』が出てきました。本の裏側に、押しつぶされた状態になって出てきたわけです。なんとも久しぶりに再会することができました。絶対に処分などはするはずがないと思ってはいたのですが。この本は、戦後の民主主義の求めていた学者と国民の息吹を感じさせてくれるものなんですよ。もう一度、今度は落ち着いて、しっかり読み直してみたいと思っています。
2016年09月21日
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鶴岡のみやげ(2)、藤沢周平著『周平独言』です この9月初めに鶴岡へ旅してきましたが、そのお土産の第2回目です。 旅に出かける前に藤沢周平(1927-1997年、69歳死去)の作品を読んでおくつもりだったんですが、順序が逆となり、9月19日に読むこととなりました。 今回は藤沢周平著『周平独言』(中央公論社 1981年8月20日刊行)です。前回は、9月13日に『小説の周辺』(1986年刊行)を紹介したのですが。今回も同じく随想集です。全部で64の随想が集められてますが、もっとも早いものでが1973(昭和48)年8月で、近いものでは昭和55年6月の作品です。もっとも最新の作は「あとがき」の1981(昭和56)年8月ですが。 著者にとり随想というのは、「炉辺の談話ごときものにすぎず、その場かぎりで消えるのが建て前である」(あとがき)と述べていますが。「時には小説の中からでなく、日常の言葉で、じかに読者に話しかけてもいいのではないだろうか」とも考えて、まとめることにしたと述べています。 当方の鶴岡の旅(9月5日から7日)ですが、その印象の一つは、何といっても広々とした庄内平野の光景でした。刈り取り目前の黄金の稲穂が垂れ下がって、ちょうど稲刈り機やコンバインが動き始めた時でした。広い畑を知らない当方としては、こうした稲穂のひろがる景色は、なんとも感動的な光景でした。この藤沢作品にも、著者なりの感想が、思いが描かれています。 それで、この『周平独言』から、稲作に関する印象に残る2か所を紹介します。 1、「ある講演」(昭和53年12月『中央公論』)では、次の様に述べてます。 「私が子供だった頃とは村は一変した。田植から刈取り、脱穀まで、あらゆる機械が村に入りこみ、むかしなら人が溢れた取りいれどきの田圃に、いまはぽつりと機械がいて、猛々しい機械音をまき散らしてうごめき回るだけである。機械は、あっという間に数軒分の農作業を片付けてしまうので、手の空いた人びとは、自然に市内に固定した勤めをもつようになった。」(P180) これは私などが見た景色です。それは、農村の歴史の発展の中での現在なんですね。 だいたいみかん園のある真鶴は、箱根山の溶岩が相模湾に流れこんだ地形ですから、平地がありません。ここでの農業は、50年前のむかしに(小学生のころですが)、ほそぼそとした畑の部分に陸稲(おかぼ)がつくられていたというのが、かすかな記憶としてあるくらいです。そうした土地柄ですから、農作業の機械化などは、まったく問題にならなかったんですね。 田植え機、トラクター、稲刈り機(コンバイン)などの機械化は、農村の働き手を大きく減らして、省力化された労働力は都会での働き手に移動していったんですね。この随想はそのことを語っています。この50年くらいの農村の変化です。 もう一つ紹介します。 2、「母系の血」(昭和53年4月「らくがき」)より、 「戦後の農地改革で、父はようやく1町2反歩ほどのちんまりした自作農に変わり、新しく家を建てかえた。」(P317) それまで小作地として借りていた水田が、戦後の民主的改革の一つとしての農地解放(1947-9年)で、寄生地主制度が廃止され、小作人に農地が売り渡されて、農民の一般的な姿が、小作人から自作農(3町歩以下〔1町歩は0.99ヘクタール〕)に変わった。それは、鶴岡でも真鶴でも、全国的に共通だったんですね。 ようするに、農村から次男として都会に出た藤沢周平は、こうした変化する農村の姿を実際に見てきたんですね。その点で、「炉辺の談話」かもしれませんが、私などには、重要な歴史の証言として読みました。 もう一つ印象に残る点があります。 『周平独言』の「あとがき」(昭和56年8月)に書かれていることですが、同じように『小説の周辺』に「転機の作物」(「波」昭和58年6月号)でもでてきます。 〈ありのままの気持ちを述べているんだけれど、ある時期から読者を意識するようになった。書き初めのころは読者のことなんか考えなかった。自分の意識を反映した形の、一方通行の小説ばかりを書いていた。 しかし、書き続けてくると、自分を支えてくれる読者という存在を考えないわけにはいかなくなった。作者としては、感謝せずにはいられないし、一つの小説の世界を共存できるということは、幸せなことだ〉と。 これは、作者・藤沢周平の独言ですが、二つの随想は共通のことを言ってます。 作者としての努力というのは、読者数の変化や作品に対するいろいろな反応のなかに、結果として返ってくること。こうしたキャッチボールこそが、実のある創作活動を進める上で、一つの原動力になっている、こうしたことを述べています。 これは、私流に言えば、唯物弁証法の認識論なんですね。もちろん著者に確かめることは出来ませんが、もし問いかけても「そんな理屈は、私には関係ないね」と否定するでしょうが。 全部の作品が全部ともそうした印象を持つものではありませんから、おそらく意識的なものではないとおもいます。しかし、著者の真摯な態度は、それへの接近をしめしていると感じています。私としてはそのように見ています。こうした性格が徐々に創作活動と姿勢を磨きあげていった、一つの要素になってると思います。(それほど藤沢作品を読んでませんから、あくまで推測としてですが)『周平独言』について、感想文を一つ見つけました。http://book.asahi.com/reviews/column/2011072800576.html
2016年09月19日
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今日も早川のみかん園では草刈りでした早川のみかん園は今日も草刈りでした。この間の雨で、ふたたび雑草が繁茂していました。朝一番の真鶴での作業を終えて、直ちに移動して、早川のみかん園には、午前8時半に着いたのですが。陽ざしの緩いうちに終わらせようと、直ちに開始して、午前9時50分までの1時間半の草刈りだったんですが。作業を終えたら、もう汗びっしょりの、頭はクラクラしてくる始末でした。早川のみかん園は、当方の手入れは、広さ800平米くらいなのですが、そこには、1.ボックス前広場、2.東側広場、3.中央広場、4.西側広場、5.北側広場の、全体で5つの広場があります。これは、1.物置ボックス前の広場です。前回も草刈りしたんですが、いや何度もしてきたんですが。ここを草刈りするだけでも大変なんですよ、ひと仕事でした。しかし、これはほんの序の口でしかすぎません。とにかく、ここの場所が最初に着手したところでした。2.次は東側の広場ですが、草刈りした後です。この2か所を草刈りすれば、それだけで、もう汗びっしょりのクタクタだったんですが、それでもまだまだ初めのうちで、広いメインの広場群が3つ残っているんです。3.次は、中央広場を草刈りした後です。広場の中央には野焼きした跡が残ってます。ここが中心になる広場です。私などの感覚からしたら、こんなに遊ばせておくのはもったいないのですが。そこが、真鶴感覚と早川感覚の違い、土地柄の違いです。真鶴には苗木も含めれば、早川園の半分の面積に、みかんの木を47本以上植えてあるんですから、密集林もいいところです。ようするに、それだけ耕地が無いんですね。さて、見てのとおり早川園は、全体的に日陰がない状態ですが、とくにここのメイン広場は、まったく日差しを遮るものがありません。だから、全体的に大変なんですが、ここはまな板の鯉の情況になっちゃいます。今朝の天気予報では、「一日曇り、ないし雨がある」はずだったんですが、こうして予報が外れると、強い残暑が照り付けてくるようになると、たいへんです。朝の作業とはいえ、かなりきつい作業となり、難行苦行の草取りとなりました。再度、水入り休憩は取ったのですが、まだしかし、あと残りの2方面が残ってました。4.次は、西側広場の草刈り前です。そして、その草刈りした後です。日差しが照り付けるように変わったことがわかるとおもいます。さらに水いりの休憩をいれたんですが、もうギリギリなんですね。ちょっと動き出すと、すぐもう疲労感が出てくるようになってました。草刈り機の方も、燃料の追加が欲しいということでした。もうこのへんで体力の限界だったんですが、「あと、残り一か所」、これが危険だとは承知のうえだったんですが。残りの体力と相談しつつ、最後の頑張りどころです。5.これが最後の北側広場です。その草刈り前です。この様子を見ただけでも、くたびれちゃうんですが。その草刈りした後です。だんだん仕事ぶりが粗くなって、あちこち残しているのが分かるかと思います。しかし、贅沢は言ってられません。少しでも刈るか、残すかの分かれ道ですから。これで、何とか予定した草刈りを完了しました。全体の5場面の、すべての草刈りは終了したんですが、たかだか1時間半の作業でしたが、前段の真鶴での作業もあって、もう完全にフラフラ状態でした。屋外作業は天気情報が大事になることがお分かりいただけると思います。事前の天気予報では、「曇りで、午後くらいから雨が降るかもしれない」だったんですが、実際は、午前9時を過ぎた頃から、晴れ間がのぞきだしたんです。きびしい残暑の下での草刈り作業になってしまいました。この天候の実際的な変化が、炎天下の作業となってしまい、危険なんですね。「農夫が熱中症で倒れた」などのニュースを聞くと、それが他人事ではなくなります。予報と現実、そして作業予定と実際の体調推移の判断は、決定的です。ほんとうに命がかかってくるんです。気象予報士には、そんな責任感覚を感じられないのですが。最終的には、現場の作業者の責任と判断にかかっているんですが。当方は、残余の仕事は取りやめにしました。午前9時50分には、すべて作業を終わりにしました。これは作業終了後の小田原城の景色です。始めたころの曇りの天気に比べて、晴れ間がのぞいてますが、日差しがきつくなっているのが分かると思います。これは作業をおえての、癒しの景色なんですが、それでも、写真の客観性か、主体の価値判断かはわかりませんが、どことなく疲れてるかのように、もうろうとした様子に感じられませんか。途中で水を飲まなければ、体は持ちませんが、水を飲むと、そのあとは大汗です。濡れた衣類は、終わればすぐに着替えるようにしたんですが、その着替えた衣類が、すぐにまた、ずぶ濡れになってしまいました。帰ってから昼寝をとるようにしますが、この分では、今回の場合は、昼寝したくらいでは体調は元には戻りませんね。気力がわいてくるには、1日、2日かかりそうです。ところで、早川のみかん農家の人たちですが、今回の、私の草刈りはせいぜい800平米くらいで、たかだか8アールに過ぎませんでした。一般農家は、一町歩(1ヘクタール)とか、それ以上のみかん畑を手入れしています。草刈り一つにしても、私などの10倍、20倍の草刈りしなければならない訳です。私などの体験からは、残酷労働もいいところです。みかん農家は、ある程度のみかんの生産量を、まとまった量を、出荷しなければなりません。それだけの広さが必要なんですね。そこが当方などの道楽農夫と、専業的みかん農夫と違うところです。しかも兼業で、他労働に勤務しながらやってるんですから、そこに農家の厳しさがあります。この草刈りが一番大変ですが、収穫作業というのも大変なんですよ。草刈り機の様な機械があるわけではありません、一個一個のてもぎです。あるタイミングで収穫しきらなければなりませんから、悠長なものではないんです。しかし農家は、当方の様に、少しのことで愚痴るようなことはしません。ぐちっても、何もなりませんから。黙々として自然の様に遂行していきます。身体には、さすがに苦労は刻まれていきます。それは隠せないのですが。この実情は、それ以外の消費者などには、あまり知られてないかとおもいますが。一番問題は、農林族の政治家たちが、はたしてこの苦労が分かっているかということです。実情に疎い人たちが、ベテランだという顔をして、TPPや農業政策を付けようとしている。実際に、戦後の農政を多数決で押しつけてきたことです。じっさいに、現場の要求や、それにそくした研究者の声は蹴飛ばしながら。沖縄の基地、福島原発事故、戦争法が、教育、原発、年金、福祉、介護が、そして農業です。みなそれぞれ口八丁の政治家と御用学者、メディアと、今の政治を合理化しようとしています。これだけ問題と矛盾が山積しているのに。どうやら、問題が広がり過ぎました。それぞれが力を有効に合わせれば、ものごとを変えれる可能性が出てきていることです。ただ日々の仕事に疲れはてて、ぼやいたり愚痴ったりしているだけでは、ダメです。それぞれの現実を直視して、自らの客観性をさぐって、共通する社会的な運動に目を開くようにして、個人と社会的な力を強めるということです。草刈りの作業は、ヘトヘトが落ち着いてくると、そのことを示してくれています。
2016年09月17日
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相模湾の地魚を賞味してきましたみかん園のある真鶴は、漁業もまた、町の活動的な産業です。真鶴半島の自然が、魚たちを引き寄せる、と聞いています。今日は、曇りの天気でしたが、崩れることはありませんでした。みかんの収穫は、まだ少し時期が早いのですが、相模湾の地魚を賞味しよう、ということでくり出しました。これが、そのお刺身の盛り合わせです。左から時計回りに、1.シロダイ、2.ムツ、3.キンメ、4.カワハギ、5.トビウオ、6.イナダ、7.マアジです。なかなかの豪華版でしょう、みな地元でとれたものです。お店の心意気が伝わってくるでしょう。さばきたてですから、鮮度も抜群で、もちろん味も最高です。ここでしか味わえない味ですから、ときには、遠路、このために出かけてきて、地魚の味を楽しむのも大事なことと思います。そしてこの味を楽しむと、いつもながら、出かけてきた甲斐があったと感じさせてもらってます。(食事処は、真鶴の「まるなか」です)そのホームページです。http://www.ryokan-marunaka.co.jp/
2016年09月16日
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「みかんの木を育てる-四季の変化」は、 始めて8年が過ぎました 2008年9月5日から「みかんの木を育てる」ブログはスタートしました。 きっかけは、軽井沢でブルーベリー園を営んでいる知人がブログというものを紹介してくれたんです。彼は、その数年前からブルーベリー園を新たにはじめだしていたんですね。その年の8月末に同窓会で「長野の旅」をしたんです。その一夜を合宿のように泊めさせてもらったんです。その夜に、知人はベリー園の様子をしきりにブログで発信していたんです。それが私などにはインターネットとブログというものを知った最初だったんです。 当方は、真鶴のみかん園の手入れを、2001年2月からはじめていました。 当初、みかん畑仕事はドタバタだったんですが、その手入れが少し落ち着いてくるようになってきて、みかん栽培の様子をあちこちに紹介したいと思っていたんですね。ですから、この知人のブログ発信を見た時には、「これだ!」まさに渡りに船だったんですね。 私などのみかん園の手入れですが、それは始まりから休日農夫でした。 みかん園に行けるのは、職場の休みの日曜か祭日、週に一回くらいの状態だったんです。 2008年9月から始めたブログですが、最初のころは、ブログのテーマには事欠きませんでした。現地の畑で見たこと、作業したこと、それらのすべてが紹介題材になりましたから、まったく材料に苦労はなかった。日々、スイスイとせっせと、みかんの栽培を紹介出来ていたんです。 ところが農業というのは、一年一年が年間サイクルで行われてますから、数年を重ねるようになると、その都度、だいたい以前の発信したことと同じようなテーマにならざるを得ないんですね。花が咲き、草を刈り、収穫する、毎年がこの繰り返しの紹介ですから。 そうなると発信する側は、当初の新鮮な感覚がうすれて、同じことを繰り返し紹介しているような、ついついマンネリ感を感じるようになってくるんですね。 それで、見方を少しテーマを変えてみました。 みかん栽培に加えて、神奈川県西部の真鶴や小田原などの方面の、自然や歴史風土についても、それもあわせて紹介するようにしたんです。そうした目で、あらためて当地を見てみると、相模湾の自然も食べ物も、鎌倉時代や小田原北条氏の歴史についても、たくさんの新たな発見がありました。頼朝の石橋山の敗戦から千葉への逃避行、秀吉の小田原攻めの一夜城、江戸城やお台場への当地からの石の切り出し、などなど。何しろ40年近くの空白があったわけですから、新たな発見がたくさんありました。 しかし、これにも限りがあるんですね。過去の歴史のことですから、多少の新発見はあったとしても基本的に材料が増えるわけではありませんから。やはり同じようにマンネリ感を感じてくるようになるんですね。 またさらに、比較的最近のことですが、ブログをフェイスブックに連結できるようになりました。 これにより、ホットな時々の政治的な問題も交歓ができるようになりました。 おかげで、テレビや新聞以上に詳しいことも、速報として知ることが出来るようになりました。 しかし、これにも問題があるんですね。それは私の生活からくることなんですが。私の社会圏と動きに限度があるんですね。重要な政治問題に対して、怒ったり、ぼやいたり、賛同したりしているんですが、これはこれで大事なことなんですが。 だけど、私自身に関しては、それは風になびく葦の様なものなんですね。たいして、私自身に中身があるわけではありませんから。せいぜいコメントくらいしかできないんですね。そこには限界があります。 今回、ブログをはじめてから、これまでの流れをふりかえってみました。 ブログ「みかんの木を育てる-四季の変化」ですが、全体として、当初の手当たり次第に発信していたころと比べると、今ではだいぶ趣が変わってきているようです。それを感じます。 これはあまり意識することなく、この間に模索していた中で変化してきたことだったんですが。 それは、やはり大事な変化だとおもいます。 こうしてふり返ってみると、「みかん栽培」というのは、引き続き大事な柱ですが、より基本的な自分自身にとっての課題の柱建てが問われているんですね。それが大事だし必要なことなんですね。この課題の柱建てが問われています。そして、その課題に対して、日々、どのように努力しているか。この点もさらに肝心なことなんですね。 これらの点が明確でないと、何事に対しても語るべきものがなくなるんですね。発信するに値するものがなく、やたら書き捨て的なものを垂れ流すということになるんですね。 だけど一方では、そうした課題や努力については、なまくらな私としては、日々明確でないうちに過行くことも、おうおうにしてあるわけです。しかし、まぁ、そうした問題が目前にはあるんだということを意識しておくことも、これはこれで大事なことなんだということです。
2016年09月15日
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現代と日本農業を探るために レーニン著『ロシアにおける資本主義の発展』を学びます 人間は気まぐれですから、ここではっきり宣言しておかないと、尻つぼみになりかねませんから。 現代社会と日本の農業をさぐるために、これからレーニンの著作『ロシアにおける資本主義の発展』を学習したいと思っています。 この本は、レーニンが、1986年から1899年に流刑先のシベリアで執筆したものです。今から100年くらい前の著作です。農業の中で資本主義がどの様に発展しているかを、ロシアの農業資料で分析したものですが。私などは学生時代に、1971年ころでしたが、アルバイトして全集第三巻のこの著作を手にしていたんですが。この大著を前にして、ずーっと何度も跳ね返されてきていたんですね。なにしろ全体で671ページの大著ですし、理解力も乏しかったんですね。せっかちでもありましたから。まぁ、この40年余、この本をなくさなかったのが幸いです。ほこりはかぶらせたままでしたが。 今回が、ほとんど初めての挑戦です。はたして、終わりまでたどりつくことができるでしょうか。 今、なぜ、この著作にあたるのかとの点ですが。 当方は、この3月で職場を定年退職して、いろいろ生き様をさぐってます。その一つに、週一回のみかん農夫があります。 80キロ遠方にある神奈川県真鶴のみかん園ですが、125坪で15本のみかんの木があります。2000年に父が亡くなって引き継ぎました。週に一度くらい草刈りに行っているわけです。 50歳になるまで農業とはまってく無縁でしたが。以来、休日農夫をしてきました。だから私などは、統計にも入らない零細農家です。しかし、それは農業を考えるきっかけにはなるんですね。だいたい日本の農家は、大きくは、明治の地租改正により土地が私有されて、地主制制度が発展した。戦後の1947年農地解放で地主から小作地が買い取られて、自作農(3町歩内)にかわった。それが変化して今日に至たっているわけです。 我が家の戦後は、本業は祖父の建具屋(次いで、父の国鉄職員)でしたが、自分たちの食べる野菜位は、兼業農家として小さな畑を耕していたんですね。父は休日農夫だったんですね。 こんなことを基礎にして、日本の農業を探ります。もちろん、当方のごく小さな世界(井の中の蛙)から、日本の農家の一般的な姿をおしはかるなどということは無理なことです。しかし、どこかで当方の草取り作業の難行苦行も、今の農家一般のあり方、問題点につながっているように思います。 当方は完全退職をしてから、いろいろあり方を模索してますが。そんな問題意識がきっかけになって、この8月に暉峻衆三「農地改革」(『昭和の戦後史』1976年)などをよみました。みかん園も農地解放の産物ではないかと想像して。1946-9年の農地改革と、その前と後の農家の変化。ようするに日本の農業における資本主義の発展という問題が出てきたんですね。これまで農業問題なんて視野になかったんですが。そんなときに、あらためてレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』を引っ張りだしてみたんです。今はまだ、その第二章「農民層の分解」を読んでいるところなんですが。そこには農地解放前の農家分解、土地所有もからんで地主と小作、貧農との問題。もちろんこれは、ロシアの1860-1890年の農村を分析したものですが。それは、日本の農村の農地解放前の姿をうかがわせるような分析でした。これはまったくの意外だったんですね。この本は、以前は難解な大著だとの先入観にかたまっていたんです。学生時代には農業とのかかわりを感じて無かったんです。今回はそれとは逆でした。レーニンは、きわめて身近で具体的な農家の動向を分析していたんですね。そのことが伝わってきて「へぇーっ、そうだったんだ」と、40年ぶりに理解する糸口が見えてきました。 また、第二版の序文ですが、次の様なことを強調をしています。 ≪この分析から出てくるのは、当時のロシアは民主主義革命に直面していること。この命題を応用することが必要だし、その能力をもたなければならない。具体的な検討を求められている問題に対し、それを一般的な論理展開のうちに答えを求めてはならない≫と。これは、方法の問題であり、態度の問題です。なかなかの指摘ではありませんか。大切なアドバイスだと感じませんか。 さて、この間に紹介しましたが。当方は、この9月初めに、米どころの山形県の庄内平野を旅する機会がありました。 遠く地平線くらいまで広がる水田は、黄色く稲穂が垂れ下がっていて、ちょうど稲刈り機やコンバインが動き出し始めたところで、収穫を始めだしたところでした。これは一年の苦労が報われるときでして、農家にとっても見ている方にも素晴らしい瞬間でした。 そこで感じたんですが、もちろん、高度成長期以降、農村の姿は大きく変わったはずです。それまでは、すべてが手作業で田植えから稲刈りまでしていたのが、今やトラクター、田植え機、稲刈り機やコンバインなど、大型の機械がつかわれるように大きく様変わりしています。機械は高価ですが、その分余分になった働き手は、都市へと働き手を送りだすようになってんですね。こうして農村は変わりました。(藤沢周平が随想で述べてましたが) レーニンのこの本ですが、これが書かれた1900年頃のロシアというのは、日本では戦後の農地改革以前の姿なんですね。戦前の農村の姿なんですね。したがって、この本をそれが書かれた状況を今日に一般化することは出来ません。今日の日本の農村の状況とは、農村の国柄もちがえば歴史状況の違いもあるんですね。新しい事態の展開もあるわけですから。しかし、それでも参考になる点が、この中には含まれていると推測しています。今回の山形の旅では、こうした私などの勝手な問題意識から、参加した人たちに対して、いろいろ質問をぶつけちゃったんですね。参加者で農家を営んでいる人はいなかったんですが、農村に暮らしている人はいました。千葉県に住んでいる人は、そこでも一見すると地平線まで稲穂の田圃が広がってるんです。さぞかし広い土地をもっているかと質問したんですが。ところが、そこでも土地所有から見たら、3町歩以上持っているような人はいないと。(農地改革は大枠で生きているんですね)また、1町歩(0.99ヘクタール)でお米が90俵くらいとれるが、稲刈りはコンバインを使って5日間で27町歩の水田を刈り取ることができると。機械は高価なんだけど、収穫に必要とした人数は、効率はそれ以前に比べたら大幅に減らせていると。などなど。私などは、水田とは無縁な存在ですから、これらの貴重な得難い話を聞くことができました。それにしても、私などは、この『ロシアにおける資本主義の発展』については、今は、まだ初めの方の第二章「農民層の分解」を読み進んでいるところなんですね。これから先の諸章で、どのような問題が説かれているか、資本主義の発展は農村をどの様にかえるか、これからの展開が、私たちの足元をどうてらしてくれるか、楽しみなところです。 今回は、これまでの壁を破って、この著作を終わりまで読み進みたいと思っています。そこには、現在の日本が直面している問題の解決にも、なんらかのヒントがあると思います。 今後の進展の中で、多少でも成果を紹介できたらと思っています。
2016年09月14日
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鶴岡のみやげ、藤沢周平著『小説の周辺』 当方は、この9月初めに山形県の鶴岡へ行ってきました。 学生時代の同窓会の旅だったんですが。 出かける前に、当地出身の作家、藤沢周平の作品を読んでおこうとして、何冊か選んでおいたんですが。結局、順番が逆になってしったものもありました。 『小説の周辺』(文春文庫 1990年1月刊)もその一つです。 『小説の周辺』は、昭和61(1986)年12月に潮出版社から最初に出されたものだそうです。藤沢周平(1927-1997年、69歳)の作家活動からすると、『溟(くら)い海』の1971(昭和46)年(44歳)からとして、これは『蝉しぐれ』を連載していた59歳の時に刊行されたものです。 様々な刊行物に書いた随想ですが、その65編をまとめて刊行されたものです。 今回の鶴岡の旅でしたが、そこで見た情景とぴったりと重なるものがありました。 「庄内地方は、一口にいえば米どころである。・・秋は黄熟し、・・」(「緑の大地」P123) この随想には、彼の作品(と言っても、ほとんど読めてませんが)にしめされている世界とは、またひと味違った、著者の生の声が、さまざまに聞こえてくる感じがしました。 私などが印象に残った一つですが、『「都市」と「農村」』(P89-96)です。 彼は、日本の農村がたどってきた道について、国土庁の調査なども見ているようですが、戦前から戦後にかけ、置かれてきた位置や姿を、やはりとらえているんですね。こんな部分があります。 「むかしは、農村に次、三男が溢れていたのである。・・軍隊があった時代は、次、三男の存在そのものが予備軍といえたわけで、戦争が始まると、彼らは大量に戦場に駆り出されていき、すぐれた戦力となった。軍隊は彼らにとって、有力な就職先でもあったのだ。彼らはそこで衣服と食事を与えられ、給料を貰った。・・・ 戦争の終わりは、農村の次、三男から二つの大きな職場を奪ことになった。軍隊と、戦後の土地改革で地主層が消滅したのである。残されているのは、農家の婿になることだが、これは宝クジをあてるようなもので、坐して待つわけにはいかないのである。・・もし婿の口もなく、就職のあてもないとなれば、一生家の厄介者である。部屋住みである。溢れる次、三男は、一時期大きな社会問題であった。」 「近年のことは、よくわからない。・・最近村に帰ると、子供たちの姿の少ないのに驚くことがある。あるとき、村は物音もたてずにひっそりしている。私が子供のころは、そんなことはなかったのだ。・・・」 もちろん随想ですから、「想いついたこと」ということでしょうが、それにしても、農村と都会との関係を注視しているんですね。もちろん、農村を出て、都会で生活している著者ですが、その第一次世代としては、なつかしくも生き生きと昔の農村風景が浮かんでくるんですね。たまには帰ることもあるわけですから。だからこそ、農村と都市との関係を考えることもあるんですね。そこが、都会で生まれた子どもたちとの違いでもあります。よく「地方の時代」とか「東京一極集中」とか、そうした言葉がいわれますが、その具体的な形だとおもいます。私などの頭の片隅にあって、探ろうとしている経済的な社会発展の現れなんですね。 それはとにかくとして、この『小説の周辺』は、「一茶」や「白い瓶」などの作品の事情を語ってくれてますし、多くの時代小説作品などのいきさつを紹介してくれています。私などには、それらの作品とはちょっと違って、著者の生の声がきけること、そして、キラッと刺激してくれるものを、ところどころに感じさせてくれる随想集です。 そのまま読みっぱなしにしておくと、こうした感想は消えてしまうかとおもい、今回紹介させていただきました。 これもまた、今回の鶴岡の旅の副産物です。
2016年09月13日
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最上川をくだる、鶴岡への旅 その39月5日から7日に、山形県の鶴岡へ行ってきました。庄内平野は、一面に黄金の稲穂が垂れ下がってました。鶴岡公園で、庄内藩の歴史と藤沢周平記念館を見てきました。そして鶴岡市からバスで、最上川の古口船番所へ移動しました。古口には、戸澤藩の船番所があったそうで、船下りは、そこで船に乗って最上川をくだります。船番所の入り口にあった案内板です。峡谷で陸路がなかったため、奈良時代から大正初めまでは、船が交通手段だったというんです。確かに、ふだん目にしている川とは、だいぶ違います。浅瀬や急流もあるし、深いところでは水深が9メートルもあるというんです。もちろん昔はエンジンなんて動力はありませんから。竿も底に届かなくなりますから、急流を漕いで、渡り、下ったんですね。いったい、川を船がさかのぼる時はどうしたんだろう。今は、スクリューエンジンで登ってましたが、むかしは、それはありませんから、たいへんだったでしょうね。ボルガ河なら、船ひきをしている様子の絵がありましたが。ここはどうだったのか、聞き損ねました。今は観光船の船下りで、あたりの景色や、舟歌の、船頭さんの名調子を楽しんで、時間がたつのを忘れてしまいますが。江戸時代には、松尾芭蕉もここをくだったというんです。 五月雨をあつめて早し最上川ところどころに、長い首をしたカワウをみかけました。船頭さんは、方言の豊かな名調子なんです。それで、舟歌や、まわりの景色、船運の歴史など、いろいろ解説してくれました。この日の天気は、曇りでしたが、雨はふらず。陽気としては、前日の暑さを引いていたんですが、川風がここちよく吹き付けてくれていて、自然のクーラーというか、涼しさを楽しませてくれました。途中、川の対岸には、「仙人堂」という神社がありました。芭蕉も、そこに寄ったそうです。この最上川は、川を流れくだる分にはまだしも、この川幅と、深さ、流れの速さを、船でこいで渡るというのは大変なはずなんですが。しかし、生活にねざしていたんですね。そうした川を往復する技術を持っていたんですね。また、途中には、高い滝もありました。木に滝が隠れてますが、だいぶ上から落ちてきてました。最上川は、上流の米沢の方から、河口の酒田まで、船で行き来していたそうです。内陸部にあった徳川幕府の天領のお米も、諸々の生活物資も、もちろん人も、この最上川を使って運ばれていたんですね。この日は、初秋でしたが、生活交通ですから、当然真冬であっても通っているわけで、雪が降っている中でも、その寒さの中を、船を漕いでいたんですね。もちろん川止めは、あったと思いますが。(今も観光船は、12月から3月のあいだは、「こたつ船」だそうです)。船番所というのは、関所だったんですね。以上で、今回の鶴岡への旅の紹介は終了です。私などが、一年を通して、日常の八王子-真鶴間を離れるのは、唯一この旅くらいなんですね。今回も、主宰者がよく準備してくれたおかげで、米どころの庄内平野と、鶴岡の歴史と文化について、たいへん貴重な、刺激的な旅となりました。だいたい日本海側を旅するなんてことは、日頃の生活からしたらありえないことなんですが、しかし時にこうした機会をもつことは、逆に日常の生活を知る上でも大切なことだと感じました。
2016年09月11日
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真鶴のみかん園の夏草刈りでしたこのところ連続的に台風がきましたが、9月10日、真鶴のみかん園の草刈りに行ってきました。何度も重ねてきた草刈り作業でしたが、秋風が吹き始めて、メヒシバやエノコログサの草刈りですから、いよいよ難行苦行も終わりに近づいてきたということです。早朝の、あたりが暗いうちに東京を出てきましたが、午前5時24分、平塚から見えた富士山です。くっきりと富士山の全景が見えました。この天気だと、やはり仕事は朝のうちが勝負ということです。真鶴のみかん園に着いて、まずは諸々の作業を片付けてから、午前8時から草刈り開始です。これが草刈り前です。みかん園は、このところの雨で、すぐに雑草に覆われてしまいます。手前の木ですが、カミキリムシにやられました。去年は中央の木が枯らされて、苗木を植えたのですが、こうして今年も、また一本、枯らされてしまいました。当方の手当てが甘いと、こうした事態が広がります。次は、草刈りした後です。だいぶ綺麗になりました。これがエンジン式の草刈り機の威力です。次は、早生の木々ですが、草刈り前です。やはりここでも、去年、一本が枯らされて、右側ですが、苗木を植えました。今年の早生は裏年なんですね、実をほとんどつけて無い木もあります。どうやら老木になると、毎年、表と裏が顕著に出てくるようです。これが草刈りした後です。かなりすっきりしました。ほんの数年前までは、これらを鎌一本で、草取りしてたんですよ。そうすれば地面の温度が高くなって、甘いみかんが出来ると聞いていたんです。そもそも草取りというのはそういうものだ、との固定観念があったんです。たしかに、むかしは、みなそうしてたんですよ。とうほうは、最近までしてました。そのため何度も何度も汗びっしょり、ヘトヘトにさせられてました。みかん栽培している知人が、みかねて草刈り機を紹介してくれたんです。そして実際に、草刈り機の使用を体験させてくれたんです。それは産業革命でした。まぁ、稲作でみたら、トラクターや田植え機をつかって水田耕作をするようなものです。水田耕作では1960年代に、これらの機械化がすすんだと思いますが、当方のみかん園では、ようやく数年前に、そこに到達したということです。この時間のずれは、何としたことでしょう。そもそも「草刈り」と「草取り」は、違うんです。以前は4日かけてみかん園の草取りをしていたのが、草刈り機のおかげで、草刈りですが、全体を3時間で済ませるようになりました。草刈り機は、「機械化」というほどのものではありませんが、それでも当方には、エンジン式の草刈り機は、機械化です。もはや、みかん栽培に、欠かせなくなっています。今回は、もう一つ事件がありました。草刈り作業を一段落させて、「やれやれ」と、ほっとしたところ、アシナガバチが、やけにまわりを飛びまわっているのに気がつきました。それもそのはずでした。小屋のひさしの下に、直径10センチ強の巣をつくっていたんです。この時は、蜂はあちこちに出払っているようで、巣にはあまりいなかったんですが。「知らぬが仏」で、これまでまったく気づかずに、その下を行き来していたんです。アシナガバチは、数匹で入れ代わり立ち代わり「おれの巣に近づくな」と、私に対し、威嚇と警告として、接近し飛び回っていたんです。アシナガバチは、初めてではないんです。みかん園の手入れを始めた頃、10年前くらいですが、何回か刺されているんです。草刈りしていたら、お茶の木や、みかんの木の茂みの下に巣をつくっていて、こちらはそれに気づかずに、汗で視界ももうろうとしていて、ヘトヘトの草取りで、巣の近くにいっちゃったんですね。蜂だと気がついた時には、遅った。腕にチクリと刺されちゃっていたんですね。そんな経験が、8月・9月でしたが、何回かあったんです。みかん園は一見すると、のどかで牧歌的なんですが、実際には危険と隣り合わせの面があるんですね。今回の巣の大きさからすると、短期間の巣づくりではありません。これまで、何度もその下を気づかずに行き来していたということです。夏の暑い最盛期には、かなりの数の蜂が巣にいたと思うんですが、たまたま気づかずに、刺激してなかったのがさいわいでした。気づかずに刺激してしまうこともありえましたから、危ないところでした。「くわばら、くわばら」です。これから秋も深まって、陽気も涼しくなれば、蜂の数も減りおとなしくなりますが、まだまだ残暑も厳しくて、蜂も活動的ですし、巣を守るため必死です。いつ、どんなきっかけで攻撃的に向かってくるか、わかりません。まだまだ危ない時期なんです。気づかないところで、危険な緊張関係にあったわけです。この場所は、みかん園に来れば、どうしてもそこを通らなければならないところです。やむをえないんですが、偶発的衝突をさけるために、帰り際に巣をたたき落としてきました。これでこのアシナガバチはいなくなると思います。やれやれ、です。
2016年09月10日
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藤沢周平作品の背景を見れました その2 9月5日から7日、同窓生で山形県鶴岡市を旅してきました。 当方の目的は、米どころの庄内平野とともに、藤沢周平の記念館の見学もありました。藤沢作品には、封建時代の荘内藩が背景にあることを感じさせられました。街のあちこちに、時代の遺構が今に残されているんですね。 これがその藤沢周平(1927-1997)記念館です。鶴岡行きが決まった時、主宰者から「せっかく鶴岡に行くんだから、藤沢作品を1作でも読んでおいたほうがよいのでは」との宿題がありました。 当方は、それまで藤沢周平は、名前しか知らず、作品はまったく読んでなかったんですが。日時がせまってからの、かけこみの2,3冊でした。 それで、この旅で「どうして、藤沢周平作品を知ったのか? 魅力はなにか?」 新米の読者としては、この疑問を参加者たちにぶつけることになったんですが。 「広く話題になったのは、山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』あたりからじゃないか」「下積み生活で苦労している人たちに光をあてている。その姿勢に引かれるんじゃないか」「先日、テレビドラマで藤沢周平とその家族を見た」などが返ってきました。 今回の旅で感じたんですが。『蝉しぐれ』は、藤沢周平の代表的な作品の一つかとおもいます。映像の力のもよるものでしょうか、しっかりした時代背景が作品に客観性を与えていたように思います。 この作品のテーマには、一つに三人の若者の友情がありました。彼等が、剣道で道場に通い、塾で学問を学ぶという文武両道の姿が描かれていました。今回、藩校の「致道館」を見て、それを納得しました。 9月6日には、荘内藩の藩校・「致道館」を見学しました。 到道館は、鶴岡公園の中にあるんですが、そこはお城の正門から、歩いてほんのすぐのところなんですね。これがその講堂です。 講堂ですが、小さな部屋なんですよ。参加者の顔が、お互いに良く見えたはずです。展示の中には、当時の藩校の学校制度が紹介されていました。今の小学、中学、高校、大学に対応するかのように、しっかりした制度があったということです。それぞれの段階での学習時間帯も決められていた。大学段階では自主学習なんですね。そこで学んだ中から優れた人が役人に起用されていったというんです。その勉学の内容もわかります。藩校で使われていた教本(教科書)が展示されてました。この教本の版木まで残されているとのことです。やはり孔子の『論語』に重要な位置付けがあったようです。江戸の荻生徂徠(1666-1728)塾と交流があったとのことです。ここには、質問に答えた徂徠の書簡も展示されてました。徂徠の学び方というのは、原典、もとの文章を読むことで、後世の注釈にとらわれずに、孔子本来を理解しようというのだそうです。ここには荘内藩が全体として教育を重視していたこと。それが地域社会にとって、一つの社会的な慣習になっていたんですね。 こうしてみると、封建社会の時代というのは、もちろん士農工商の身分制度の社会ですが、経済的には、米作りを土台に、年貢を得ることにより回っていく社会だったんですね。武士は藩という世界に、社会組織の中にあったこと。荘内藩でみると、当時の学問を重視していたこと。私などにはわかりませんが、そこには独特の道議(モラル)があったことがうかがえます。これはこれで一つの課題なんですが。 少なくとも、社会的に上の立場にある人だからといって、何でも勝手に自分のしたいことをするというのは、この時代にあっても、邪道なことだったんですね。人の上に学問の理をおいていたんですね。自分勝手な都合で学問を解釈しようとしたり、不都合だからといって学んでいる学問を力で蹴飛ばしていくような無理を通せる社会ではなかったということですね。今を見る一つの鑑にもなりますね。 これは案内者の説明で聞いたのですが、西郷隆盛との関係です。 幕末の戊辰戦争では、親藩の庄内藩は、会津藩同様に徳川幕府側にいたそうです。官軍が迫ってくる中、すでに会津藩も落城していて、砲火が交わされる直前に、西郷隆盛が『もうこのへんでいいだろう』と戦を抑えたというのです。口頭では、そこには70万両という賠償金を支払いもあったとのことですが。本間家などからの負担もあったそうですが。とにかく戦火により灰燼になることはなかったそうです。それが、多くの文化的な資料が今に残されている要因と思われます。 そうしたことが全体として、藤沢周平の作品の背景にあったんですね。それなりの歴史の事実の重さをもっていることを感じさせられました。次の一枚は、丙申堂(へいじんどう)の庭をみているところです。ここは、藤沢作品の撮影に使われた部屋であり、庭とのことでした。 『半生の記』にある言葉ですが、やはりここに基本があると見ます。 「胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さなければならないものだった」と。 こうした姿勢も、またその時代の課題において、人びとの心を打つ要素になっているのではないかと思っています。
2016年09月09日
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庄内平野は、やはり日本の大米作地帯でした 鶴岡の旅 その1山形県鶴岡市を、9月5日から7日に、学生時代の仲間と旅してきました。私にとっては、日本海側を旅するのは、ほとんど初めてのことでした。米作地帯、歴史と文化など、聞くこと見ること初めてのことだらけでした。台風12号の影響が心配されましたが、さいわい天気の崩れもなく旅することが出来ました。そもそも鶴岡という街は、江戸時代の庄内藩(14万石)の城下町、地域の中心地だったんですね。いろいろ回ったんですが、鶴岡公園の中ですが、庄内藩の藩校「到道館」があったそうです。藤沢周平の小説にも出てきたと思いますが。これは、その到道館を見学する時に、説明を受けているところです。この様子が、全般を示してますが、歴史に詳しい案内者の方がついてくれて、訪ねた先々の名所で、その歴史を説明してれたんですね。当方には、知らなかったことばかりで、見たり聞いたり、ついついキョロキョロしていて、聞き逃してしまいましたが。準備した主宰者の思い入れが、いろいろつたわってくる有意義な旅になりました。私などは、庄内平野の地に入った途端から、その土地柄がしめしてくれた景色そのものが圧巻でした。遠くまで、これほど一面に水田が広がりる景色などというものを、私などは、これまで、なかなか見たことがないものですから。当方の生まれと生活圏では、神奈川県の真鶴などでは、平地そのものがほとんど無いわけですから。いかに狭いところにくらしているか、です。小田原の平野には、少しは水田がありますが、それでも、これほど広くはありまんから。東京の近郊だって昔はあったはずですが、今は田畑はすっかり宅地に変わっちゃってますから。米どころの庄内平野というものを、百聞は一見に如かずです。今回、訪ねた時期が、ちょうど収穫の直前の時期で、ずーっと一面に、稲穂が黄金色にそだって垂れさがっていました。最初の収穫作業が、ちょあど始まりだしたところでした。稲刈り機やコンバインが、稲刈り作業を始めだしたところでした。これは、移動する途中のバスからの景色です。私などのにとっては、「いまさらながら」の謎なんですが、「これだけの穀倉地帯が、いつころ(時代)に、どの様な努力でつくられたのか。このような整備された区画整理は、いつころととのえられたのか。なによりも機械もなかった頃は、これだけの水田の耕作、田植え、草取り、収穫を、農家の人たちは、どうしていたのか。農地改革で1949年頃には、小作地が自作農化したはずで、一戸が3町歩までと制限されたはず。今見ているこの広い水田と、米作りの農作業と、所有権の区割りなどはどうなっているのか。1960年代以降、トラクター、稲刈り機(コンバイン)、田植え機などの機械化がすすみましたが、高額の機械のはずです、その購入と使用は、個人なのか共同なのか、どうなっているのか。」以上は、この景色を見たことで、自ずから湧いてくる疑問ですが。こうした素朴な疑問が、研究者でもないのに、とりとめもなく湧いてきて・・・、これらは、今後の探究の課題です。これも移動の途中でしたが、水田の中に大きな施設がありました。JAの施設の様ですが。米作というものを知らない当方には、これが何のための施設かわかりません。もしかして、収穫したお米を乾燥させて貯蔵しておく倉庫でしょうか。同行の面々に後で聞いたんですが、分かりませんでした。今回の旅で、庄内平野とそのお米というものが、都市にとって大事な役割が分かりました。江戸時代から、庄内平野のお米が輸送が、運送・流通が、重要課題だったんですね。藩校・到道館のなかで展示されていた一つの資料に目が留まりました。〈年貢米は庄内藩の内の家臣への支給や諸必要をまかなって、なおそれを越えた分の約5万俵だそうですが、上方へ搬送されて、それが売却されたのだたそうです。それが、江戸や大阪の都市住民の食料に当てられていたんですね。寛文12年(1672)、幕府の天領米の制度改革があったそうで、海運も整備改革されたとのこと。天領米(15万石)は、最上川を下って酒田港にあつめられた。琵琶湖に経由で運ばれていたのが、海運の一本の航路にあらためられたとのこと。酒田港から、5月初めに3900石の御用米は、日本海を南下して、下関、瀬戸内、紀州沖、江戸へと、800里を船で輸送されて、7月初めに江戸についたとのこと。西回りの海送だったとのこと。酒田港は、江戸中期には、最上川の船も含めて、春から秋まで、2500-3000隻に達するにぎわいだった〉だいたい、こうしたことが案内解説に紹介されてました。新潟-庄内-秋田、こうした地域が、昔も今も、日本の米作地帯の中心なんですね。今回の、庄内平野の景色は、黄金の稲穂の垂れ下がる景色は、それを示してくれていました。水田面積の広さ・イコール・お米の収穫高が、経済的な社会を豊かにさせるための基礎的な力だったんですね。そこへの態度に、またそれを基礎として文化というものが育てられたんですね。もちろん時々にはいろいろな人がいたでしょうが、米作りということが、身分社会の中でも、上からも下からも大切にされていた。そして、その力を引き出し、豊かにした人が、それぞれの時代に尊敬されてきたんですね。これは今でも変わりありません。長い歴史がしめしていることですね。以上、鶴岡の旅(その1)でした。
2016年09月08日
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山形県鶴岡市へ旅してきます台風12号が日本海をすすむというので、天気が気になりますが、当方は、前々から、この9月上旬に旅を計画していました。古い友人たちとの山形県の鶴岡市への旅です。当方は、日本海側へ行くというのは、ほとんど経験がありません。もちろん山形の、鶴岡市は初めてです。イメージとしては、日本のコメどころ庄内平野と、城下町、それと藤沢周平記念館があるということ、そのくらいです。要するに、知らない土地柄です。知人が、その方面に縁があって、案内してくれるというんです。こんなきっかけでもないと、まったく腰の重いものとしては、山形県の鶴岡市へは、足を向けることはなかったと思います。とくに、最近、農業に関心を持ち出した当方としては、これは、日本のコメどころを見れるよい機会です。全く読んだことのなかった藤沢作品も、2,3作を読んでみました。そんなことで、これから行ってきます。あれこれ、いろいろ見聞してきたいとおもっています。
2016年09月04日
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みかん農夫が注目した、ある新聞記事神奈川県の真鶴で、週に一度のみかん農夫をしているんですが。8月31日付の、米価にかんしての新聞記事に注目しました。今年のお米、早場米の出荷価格に関する記事です。当方の農業は、みかんの果樹栽培でして、神奈川県西部の真鶴で栽培しています。ここは、平地というものがなくて、山肌をつかったみかんが中心です。日本の農家というのは、やはり基本となるのは米作り、稲作ですが、これについては、当方は、まったく知識も経験も無いんですね。そうした中で、この記事でした。米作の主要産地の千葉県の例ですが、今年の早場米の農家からの買い取り価格(「概算金」というのだそうですが)は、「ふさおとめ」で玄米60キロで、1万1,000円とのこと。「ふさこがね」で、同じく、1万800円とのことです。ところが農水省には調査があるそうで、稲作農家が他産業並みの賃金を考慮すると、生産費は1万5,416円だそうなんです。生産費の3割を労賃と計算しているのだそうです。第二次安倍内閣が発足した2012年には、1万5,752円だったそうです。その後、毎年毎年、値下がりして、ついに1万800円まで下がっているのだそうです。これは、政府の買い取り価格の問題ですから、政治の問題ですね。いつからこうなっているかというと、とくに第二次安倍政権になってから、ひどい状況がより深刻化しているんですね。しかも、その政府は、今度の国会でTPPを押し通そうとしている。今現在でも、外国産米を、77万トンを輸入しているそうです。この量というのは、コメどころの新潟県全体の生産量を上回る量だというんです。さらに問題のTPPが発効すれば、この上さらに6万トン以上の外国産米が輸入される約束が出来てるそうです。この数年で、農業政策がどんどん無茶苦茶になっているんですね。農家が、各地で米作りに意欲をもてないのは、生産価格が安すぎる、米の買い取り価格が安すすぎること、これがその事情なんですね。だいたい食料の安定供給は、農家のしっかりした下支えがなくては成り立ちません。田を手入れして、苗を植えて、自然の試練に耐えて、収穫する。これは年間サイクルであって、場当たり的な政策ではやっていけません。今のままでは、農家が後継者も含めて、営農の先行きが見通せなくなってしまう。その意味で、この農家のおかれた状態というのは、国民自身の食糧供給の問題として、見過ごせない問題だと思います。農家の人たちによる要求だけでは、政府の政策を改善させれてないんですね。私なども、よく全体に関心を払うようにして、国民の世論の全体で、関与していかなければならない事柄なんだと思います。私なども、もっとよく知らなければならない事柄だと感じています。
2016年09月04日
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無知を気づかせてくれた藤沢周平著『半生の記』 藤沢周平(1927年-1997年)ですが、この作品で自らの半生を語っています。文春文庫(1997年6月10日刊行)で読んでます。 自らが作家となった諸々の縁を、晩年になってふりかえった作品かとおもいます。 この中に出てきますが、山形県の農家の出身です。一町三反歩の農家の二男だったんですね。終戦直後に山形師範学校に入学して、一時期ですが中学校の教師をしています。結核を患ったことで、東京で業界紙の仕事についたんですね。終わりの方にある言葉です。「胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さなければならないものだった。」(P109)と。ここに著者の根本的な思ひがあると感じました。 すでに8月11日に、この『半生の記』を読んでの感想を紹介しましたが。 http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201608110000/ 今回、あらためて読み直してみたんです。 前回も紹介しましたが、農村の特徴を描いてくれていると思います。 「私の生家の本家に行くと、むかしながらの農家のすがすがしさを感じる。堅実というのは、むろん農事以外わき目もふらない、かつ農事全般について練達している農家であることが第一条件だろうが、それだけではなく家屋敷のたたずまい、家の中のしきたりといったものが醸し出す印象でもある。」(P15) 「(戦争で人がとられるようになると)このころになると、田も畑も人手不足で生産力が落ち、やがてその中に荒廃のいろが現れてきた。田畑のような耕地は、人出が行きわたらないとただちに草がはびこったり畦が崩れたりし、ついで加速度的に荒れてくるのである。」(P72) この日本の農家の様子が、尊敬が基本にあると思います。文学は都会の産物ですから、それはあまり描かれることのない情景です。当たり前のことでもありますが、それを、あえて目の前に見せることは、大切なことと感じているんですが。 私などの生まれた神奈川県真鶴町は、みかん農家は少しありますが、農協もありますが、基本的には一般的な日本の農業を知らないんです。なんていうと、そこにも農業はありますから、農家の方には失礼なんですが。箱根火山の溶岩が相模湾に流れ込んだ地形ですから、小田原平野などとはちがって、まとまった平地がないんです。農家はあっても猫の額くらいの畑しかないんです。だから山肌に小さなみかん畑があるくらいなんです。 従って、私などは、藤沢周平の実家が1町三反歩の農家だったときくと、「すごいなぁ、広いなぁ」と感心しちゃうんですね。(一町歩は0.99ヘクタールですから) それだけ、真鶴人は、世間一般の農家というものを、農業一般ということを、知らないということなんですね。 今回、『半生の記』を読み直して、あらためて感じた点ですが、 1つは、もちろんこの随所に見られる農家の仕事に対する尊敬ですね。都会人となった作家が、生い立ちをふりかえって、その思いを再確認しているようです。 2つには、私の母は、終戦を前後して小学校の教員をしてましたから、若くして亡くなってますから、それ以上のことは知らないんですが。この本を読んでいると、ほぼ藤沢周平と同世代だと気がつきます。母は終戦の2年くらい前から教職につき、戦後2年くらい勤めてたんですね。だから、おそらく教師として戦後の教育の転換というものをもっと強く感じてたろうなぁ、とあらためて感じさせられます。すべては、今となっては確かめようがないことなんですが。 3つめは、より大きな歴史の問題です。 農地改革によって、その後、一度は3町歩の自作農が一般的になった日本の農家ですが。関東のはじっこの狭い情景から見ていたのではわからない、私などの知らないところで農家・農業の変化が進行していたんですね。今、外から見ているだけですが、各地に広がる広大な水田を見てると分かります。私なども最近まで草取りは鎌一本だったんですが。あの広い水田を、鎌一本を手段にして畑や水田の手入れしていた時期があったし、それは1950年代までの農家の姿だったんですね。問題は、その後の発展ですね。国の大規模な「農業構造改善」政策が展開されて、トラクターや田植え機、コンバインなどの機械化がすすんだんですね。農業労働の省力化がはかられ、それに対応できない農家の人たちは兼業化せざるをえなくなる、ないし急速に労働者化がはかられた。これが「高度成長」期だったんですね。 この3つ目は、藤沢周平の作品にはでてきません。もう彼は農村を離れちゃってますから。私なども真鶴の目では、また『資本論』を剰余価値論くらいでとどまっていたようでは、それは視野に入ってきませんし、現実を理解することもできません。そこには『資本論』を学ぶだけでなく、それを応用する力が必要だったんですね。ひろく現実を見る必要もあったんですね。残念ながら、私の大学時代は、そうしたことは、ほとんど出来なかったんですね。ずっと見過ごすことになってしまった領域だったんですね。 つい最近、職場も65歳の定年退職してから、そんな年になって、ようやく今ごろこうした問題に気がついたりして、まったく遅いですよね。何をやってたんだということですが。しかし、まぁ気がつかないよりはましなんですが。 要するに、農地改革の問題は、その後の農業の展開を知らないと、今の農家の状況を知ることは出来ないということです。それは、真鶴でのみかん農夫の視野からものごとを見ていただけでは、けっして知りえない世界であり、現実だということです。 これが、今回、藤沢周平の『半生の記』を読み直して、これが示唆してくれた事柄です。
2016年09月03日
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早川の野焼きと真鶴のキイロスズメバチ9月2日(金)は農夫日でした。この間に22日の台風9号につづき、台風10号が30日に東日本の各地に被害を残しています。当方は、各地の被害の大きさがあきらかになり、その報道を聞くにつけて、そうした被災地域の分まで、頑張らなければならないと思っています。午前6時過ぎ、早川のみかん園では、草刈りと野焼きです。剪定により出た切り枝をまとめておいて、野焼きしました。この野焼きの火が下火になるまでは、その間の時間をつかって、蔓枝取りと草刈り作業です。この草刈りがたいへんで、これだけでも大仕事なんです。陽ざしも、徐々にきつくなりだしてきますし。午前8時に、早川園での作業は、これで一段落としました。終えた時の、小田原の市街地の様子です。まだ、朝もやが残ってますが、正面にの中ほどには小田原城も見えます。今日は、朝から快晴です。時間が前後しますが、朝の富士山です。台風の後の快晴ですね。もっとも、すぐ後には次の台風が来ていますが。小田原サービスエリアから、午前5時51分頃の富士山です。富士山の夏山シーズンも、すでに終わりです。さて当方は、真鶴のみかん園に移動しました。こちらの今日は、キイロスズメバチ捕獲用のペットボトルの設置が目的でした。ミツバチの手当てが中心です。ついてみると案の定、巣箱の正面には、2匹のキイロスズメバチがミツバチを襲っていました。キイロスズメバチは、近づいた人間を意識しだして、警戒しはじめました。こちらの方に向きを変えて、「お前は何だ」と向かってきました。二匹いたキイロスズメバチの内、一匹は網で捕まえましたが、もう一匹の方は逃げられてしまいました。巣箱の様子を見てみたら、どうやら前回設置した網ですが、急ぎ仕事だったため、手抜かりがあったようです。スズメバチが入れるようなすき間があったようです。キイロスズメバチの屍骸が、5匹位でしょうか、網の内側に引っ掛かっていました。キイロスズメバチは、なんとか網の中までは入れたものの、ウロウロしているうちに、逆にミツバチたちの反撃にあったようです。小さなミツバチの集団の力によって、逆に熱殺されてしまったようです。小さなミツバチですが、スズメバチの襲来に対し、ただ被害を受けているだけではないんですね。襲撃してきたキイロスズメバチにたいし、逆に迎え撃っているんですね。たしかに巣箱の様子を見てみると、警備にあたる集団がいて、巣門の金網の手前と、ネットの外側との二か所ですが、巣を守るために、集団をつくって二重の警備体制をとっていました。ミツバチの群れは、役割分担しています、たいしたものですね。当方としては、ミツバチは力をかさないと、彼らだけではキイロスズメバチにやられちゃうんじゃないかと思っていたんですが。それは人の勝手なおごりでした、とんでもない。ミツバチは自然の力、自衛力をもっているんですね。当方は、手網を用意して捕獲してやるつもりでいたんですが、しかし、だいたい私などがそこに居れる時間はほんの一時で、限られてましたから。この様子を見て、少し安心しました。今回は、もう一つ、今回は、とっておきのスズメバチ捕獲用のバナナカクテル入りのペットボトルを用意しました。これを巣箱から5メートルくらいのところにつるしました。これも、一つの側面援助です。去年は、これでオオスズメバチにたいしても、たいへん効果がありましたから。あとは、被せてあるネットのすき間をふさいだこと。まぁ、人間にできる手助けというのは、せいぜい、それくらいしか出来ないんですが。今日は、もうこれだけで大汗でヘトヘトでした。早朝からの大仕事だったんで、すでに汗びっしょり、クタクタでした。午前9時5分でしたが、直ちに、それだけしただけで、さっさと帰途につきました。来た、見た、帰る、ですね。
2016年09月02日
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