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6月22日、元・西鉄ライオンズの和田博実氏(臼杵高)が膵臓がんのため亡くなった。和田氏と言えば、西鉄ライオンズの黄金時代(1950年代後半)にエース・稲尾和久の女房役としても名を馳せた名捕手だった。一昨日のテレビ番組『サンデー・モーニング』(TBS系)でも和田氏の訃報を取り上げていた。2007年に稲尾氏が死去した直後、和田氏にインタビューし、「自分もあの世に行ったら、今度はお前のカーブを受けてやるからな」とと話す和田氏の表情を映していた。番組中もこの発言の裏にあるエピソードを解説していたけれど、『あま野球日記』も過去に少しだけ触れたことがあったので、引用したい。----------------------------------------------------------■以下、「稲尾和久氏の死と、西鉄ライオンズ」(2007.11.14)より引用。Number Video『西鉄ライオンズ 銘々伝』を久方ぶりに見た。スリークオーター気味で、ゆったりとしたフォーム。持っている球種は少なく、直球、スライダー、シュート。稲尾さんの武器は、緻密な制球と巧みなコンビネーションだった。ビデオを見ていて、こんなエピソードを知った。稲尾さん、しょっちゅうマウンドで女房役・和田捕手とケンカをしていたらしい。例えば、こんな話がある。稲尾さん、自分ではカーブに「根拠のない」自信をもっていた。だから、ピンチでカーブを要求しない和田捕手のサインに不満を募らせていた。和田捕手をマウンドに呼びつけて「ここはカーブを投げされろ」という。でも返事はにべもない。「お前のカーブはダメだ。絶対に打たれる」「打たれない!」「打たれる!」・・・・・そう言い争っている二人を見て、ショート・豊田泰光さんが慌ててマウンドに駆けつける。すかさず和田捕手が豊田さんに言う。「カーブを投げるっていうんだけど、ダメだと言ってやってくれ」「稲尾、お前の投げるカーブは曲がらないぞ」 (豊田)「ちゃんと曲がるんだよ」 (稲尾)「いつも曲がらずに打たれているじゃないか。いつから曲がるようになったんだい?」 (豊田)「今朝から曲がるようになった・・・」 (稲尾)「??? もう勝手にしろ!」 (豊田+和田)落語の中途半端なオチみたいだけど、稲尾さんにはそんな茶目っ気もあったらしい。いや、本人は大マジメだったかもしれないが。-----------------------------------------------------------------いまごろ稲尾さんと和田さんはキャッチボールでも始めているだろうか。そうそう、西鉄黄金時代の二塁手・仰木彬さん(2005年12月死去、元・近鉄監督)もいた。好きな酒でも飲みながら、2人の様子を見ているに違いない。ご冥福をお祈りいたします。◇豊田泰光の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「木佐貫洋へのアドバイス」 (2007.12.7) → こちらへ。◇仰木彬の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「仰木彬×権藤博→阿波野秀幸」 (2009.2.28) → こちらへ。 今日も1クリックお願いします
2009.06.30
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■明治維新から5年後の1872年、開成学校(東大の前身)の数学・英語教師として来日したホーレス・ウイルソンが、最初に日本に野球を伝えたと言われている。■ただ当時の「野球」は現在とはまるで違っていて、あくまで打者優先のものだった。書籍『にっぽん野球の系譜学』(坂上康博著、青弓社刊)に、当時の様子が詳しく書かれている。(1)ピッチャーは下から球を放る。ホームベースの上を通過し、ワンバウンドした後にキャッチャーが素手で受け止める(2)打者は自分の打ちやすい「高さ」(3種類)を選んで投手に要求することができる。「自分の目から胸まで(High ball)」、「胸から腰まで(Faiv)」、「腰から膝まで(Low)」。(3)つまり、ピッチャーは打者に打ちやすい球を投げることが役割だった。ボール(悪球)は9球まで認められていたものの、上記のようにストライクゾーンが限定されていたため、奪三振が容易でなく、打者が空振りしない限りストライクが宣告されることは滅多になかった。(4)打者にとっては、ファールはいくら打ってもファールであり、ストライクにはカウントされることはなかった。 まるで、ボクらが小学生低学年の頃にやっていた「草野球」そのものだ。※ちなみに投手が上から投げるようになったのは、1884年頃になってから。今日も1クリックお願いします
2009.06.30
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「日米大学野球」が始まったのは1905年(明治38年)、創部間もなかった早稲田大野球部が太平洋を渡りスタンフォード大と対戦した時だと書いた。◇日米大学野球対決の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「初めての日米大学対決は1905年だった」 → こちらへ。 そしてもっと遡って、大学どうしに限らない「日米野球」がいつ始まったのかをボクは調べてみることにした。何冊かの関連書籍を読んでみたところ、それは早稲田大がスタンフォードと戦う9年前、1896年(明治29年)5月23日だったと知ることができた。対戦カードは旧制一高(現・東京大。以下、一高)と、横浜在住のアメリカ人チーム「横浜アマチュア倶楽部」(以下、横浜倶楽部)。当時の一高、国内では無敵を誇り「一高時代」と呼ばれるほどに栄華を極めていた。もはや同じ日本人のチームに敵はなく、対戦相手を外国人チームに求めるのは当然の成り行きだったろう。だが、それまで幾度となく対戦を求めた横浜倶楽部はけんもほろろ。まったく相手にされない日々が一年あまり続いていた。そんな中、一高の外国人教師W・B・メイソンの計らいにより、この日、初めて両チームの対戦が実現した。(1896年5月23日、横浜・外人居留地運動場)※スコアの再現を試みたが、下記の3冊の書籍にはどれも7・8・9回の一高の得点が記されていなかった・・・残念!!横浜 400 000 000 = 4一高 247 25? ? ?X =29試合の結果は一高の圧勝だった。そしてこの勝利が「日本野球史」「日米野球史」の記念すべき1ページを飾ることになった。■さっそく向ヶ丘にある一高・西寮前では祝勝会が開かれた。以下、『日本野球史』(国民新聞運動部編、昭和4年刊)から一部を引用。壇上には人が立った。寮総代守随啓四郎氏である。「諸君! 選手諸君!」と云ってハラハラ涙を流した。「きょうの勝利は唯一高のみの勝ちでない。邦人全体の勝ちである。日本がアメリカを征服したのである」。 (『日本野球史』より)■『ニッポン野球の青春』(菅野真二著、大修館書店刊)では、一高の勝利後の様子をこう記している。明治20年代は、在日アメリカ人たちが治外法権を振り回していただけに、アマチュア倶楽部戦における一高の勝利は、日本人の長年の欝憤を一気に晴らしてくれた一大快事となった。日本の諸新聞はもちろん、横浜、神戸、長崎の外字新聞も報じ、アメリカ本国の新聞までが東洋のニュースとして伝えた。 (『ニッポン野球の青春』より)※引用・参考(1)『日本野球史』(2)『ニッポン野球の青春』(3)『にっぽん野球の系譜学』(坂上康博著、青弓社刊)今日も1クリックお願いします
2009.06.29
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今日(6月28日)、東京新大学リーグ新人戦の準決勝・決勝が県営大宮球場で行われた。まず準決勝のこと。第1試合は、先の全日本大学野球選手権でベスト4入りした創価大が東京国際大に敗れ、第2試合では流通経済大が杏林大に勝利した。そして決勝戦は、東京国際大と流通経済大の間で行われた。東国際 001 010 1 =3流経済 001 000 3X=4(東)田中-藤井-岩崎、(流)高田-小西-野口この試合、開始時は曇り空だったが途中から雨が降り出し、3回裏には強い雨に変わった。約15分間の中断を経て試合を再開したものの、雨の勢いは増すばかり。ボクは6回終了まで観て帰途についたが、その時点のスコアは2-1で東京国際大がリードしていた。そして帰宅後、東京国際大野球部の硬式HPを見ると、「決勝戦 3-4 (東京国際大が)7回雨天コールド負け」 とだけ書いてあった。そのニュースに基づき、7回のスコアをボクが上記のように書き込んだ次第。ここに書いた7回のスコアが正しいかどうか、若干不安がありますが。<試合経過>■3回表、東京国際大の攻撃。二死走者なしから3番・茂木亮太(2年、正智深谷高)がライトスタンドへの本塁打を放ち、東京国際大が先制する。この茂木、昨日の1回戦でもライトフェンスを直撃する二塁打を放っており、ただいま絶好調の模様。■3回裏、流通経済大の攻撃。雨が強く降り始める中、二死一・二塁のチャンスに4番・芹澤祐馬(1年、土浦日大高)がセンター前の適時打を放ち同点に。(この直後、試合が約15分間中断)■5回表、東京国際大は二死ながら走者を二塁に置き、4番・鶴田都貴(1年、神村学園高)がセンター前に適時打を放ち追加点を挙げた。(その後も強い雨が降り続いた。6回終了時点には、ダイヤモンドの土はドロ沼の状態。いたる所に水が溜まり、まともに野球ができる状態には見えなかった。新人戦とはいえ決勝戦、選手たちが可哀想に見えた。もっとよいコンディションで試合をやってほしかったなぁ)-----------------------------------------------------------------今日付けの朝日新聞には、1988年夏の甲子園で雨のため8回コールド負けした岩手・高田高のことと、その高田高にに向けて作られた故・阿久悠氏の「甲子園の詩」が紹介されていた。(以下、一部を引用)試合前から落ちていた雨が中盤から激しくなる。ユニホームは泥だらけになり、マウンドは水に浮かんだ。8回裏二死。あと一人抑えて最終回にかける・・・。(高田高ナインが)そう思っていた矢先、雨脚が強くなって、試合が中断した。11分後、水のたまったグラウンドに主審が姿を現した。「やめてくれぇ!」その声をかき消すように主審は右手を高く上げ、ゲームセットを宣言した。夏の大会での56年ぶりの降雨コールドだった。9対3の負けより、野球に打ち込んだ日々が突然終わってしまったことに(高田高ナインは)ぼう然とした。この試合の翌日、阿久悠氏は「コールドゲーム」と題する詩を書いた。高田高の諸君きみたちは甲子園に1イニングの貸しがあるそして青空と太陽の貸しもある(以上、朝日新聞)当時、高田高の外野手を守っていた尾形良一さん(38)は、その後、生まれた自分の息子に「太陽」という名前をつけた。太陽くんは、いま野球に夢中。高校は父親と同じ高田高に進学し、甲子園で勝つことが当面の目標だという。◇阿久悠の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「阿久悠氏の死去と甲子園」 (2007.8.1) → こちらへ--------------------------------------------------------------------「降雨コールドゲーム」、東京国際大は決勝で流通経済大に逆転負けを喫した。でも優勝はできなかったものの、準決勝で創価大に勝利して得た自信はとても大きかったに違いない。秋が楽しみだ。◇東京国際大の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「東京国際大、創価大を相手に大健闘!」 (2008.4.26) → こちらへ。 ◇創価大の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「創価大、全日本選手権ベスト4で敗退、大塚豊は八木以上だ!」 (2009.6.21) → こちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.06.28
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今日(6月27日)開幕した東京新大学リーグ・新人戦。第1試合は東京国際大vs高千穂大が行われた。高千穂 000 000 000 =0東国際 220 001 01X =6(高)土谷-市川-鎌田、(東)尾田東京国際大・尾田佳寛(1年、広島工高)が、あともう少しのところでノーヒットノーランの記録達成を逃してしまった。8回二死まで相手打線を無安打に抑えていた尾田だったが、7番・岩間彰朗(1年、総合工科高)に安打を打たれてしまい、せっかくの記録を逸した。ちょこんとバットを合わせた打球がふらふらと上がり、二塁手、中堅手、右翼手のちょうど中間に落ちる安打だったから、尾田本人も悔いが残ったろうし、見ていたボクにとっても残念だった。球種は詳しくわからないが、ストライクからボールに外れるスライダーが効果的に使われていた。ただ中盤は、暑さと疲れからか(?)いきなり制球が乱れ、カウント2-0から四球を与えるなど、危うい場面もあったが以降は持ち直した。-------------------------------------------------------------ノーヒットノーラン。これまでボクはナマで観たことが一度もない。だから今日はぜひ観たかったのに・・・。ただ一度だけ、過去に惜しい試合を見たことがある(ボクの勘違いも含めて)。それは2007年秋に行われた東都大学リーグ1・2部の入れ替え戦。この試合は1部の6位・國學院大と2部の1位・日本大の対戦で行われ、その1回戦で日本大の篠田純平(現・広島、前橋商高)が1安打ピッチングを見せた時だった。◇ノーヒット・ノーランの関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「日大・篠田純平と津田恒実さん 」 (2007.11.28) → こちらへ。※尚、上に津田恒実 (故人)さんの名前がありますが、この津田さんの息子・津田大毅クンは東京国際大の3年生投手として野球部に所属しています。 ◇津田大毅の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「津田大毅、いつか早大・斎藤佑樹と対戦してみたい」 (2008.2.8) → こちらへ。 今日も1クリックお願いします
2009.06.27
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先日行われた全日本大学野球選手権大会・決勝、法政大vs富士大。◇全日本大学野球選手権大会・決勝の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「決勝、花巻旋風準Vで終焉」(2009.6.14) → こちらへ。「法政大、勝因は金光采配」(2009.6.14) → こちらへ。「ドラマを秘めた大八木誠也のバスター」(2009.6.16) → こちらへ。 「富士大・守安玲緒の522球目」(2009.6.17) → こちらへ。9回裏、法政大の2番手として登板したエース・ 二神一人(4年、高知高)が富士大打線を三者凡退に抑え優勝を決めた瞬間、ボクは異様な光景を見たフツーなら、マウンド上でバッテリーが抱き合い、守備についていた野手たちがそこに集まる。そして他の選手たちもベンチから走り寄ってみんなで抱き合い涙を流す。それが当たり前の光景なはず。なのに、いち早くベンチを飛び出し、マウンド付近で抱き合う選手たちには目もくれず、一目散にセンター・亀谷信吾(4年、中京大中京高)に駆け寄って、優勝の歓びを分かち合おうとする選手がいた。背番号「50」をつけた三塁コーチャー・安部健太郎(4年、法政一高)がその人。安部がなぜそういう行動をしたのか? 二人の間に何があるのか、そのことをボクはわからない。ただ、三塁側・富士大応援席の近くで見ていたボクにとって、ちょうど目の前を駆けていく安部の行動が可笑しかったし、いまだに不思議に思っていることでもある。安部健太郎。ボクが東京六大学リーグ、そして全日本大学野球選手権を通じて見た「NO.1の三塁コーチャー」だった。身長165cmと極めて小柄、黒縁のメガネをかけるとオリエンタルラジオの藤森慎吾にどことなく似ている風貌。大きな身体つきの同僚たちといるとその中で埋没してしまうが、彼の定位置である三塁のコーチャーズボックスに立つと、とたんに存在感を爆発させる。試合中、いつも三塁のコーチャーズボックスから声を嗄らして選手に指示を送り続けていたし、攻守交代の際にも選手に声をかけ続けていた。三塁コーチャーなら当たり前といえば当たり前だが、「声の大きさ」と「声をかける頻度」が他チームのコーチとは格段に違っていた。そして何より強烈なのは、彼の「勝ちたい」という気持ちがが見ているファンにもダイレクトに伝わってくること。 法政大の「日本一」、実はこういった選手たちがいたからこそだと、ボクは思うのだ。 今日も1クリックお願いします
2009.06.26
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昨日、 「続きは、またいずれ」と書いたけど、さっそく今日もその続きを。日米大学野球の歴史について(2)。1905年(明治38年)、日本から初めて「野球」をやるために米国に遠征した早稲田大・野球部。全米各地を転戦し、7勝19敗という惨敗に終わったが、野球の本場・米国に渡ったからこそ得たものも少なくなかった。一言で言うと得たもの、それは「野球の真髄」だった。wikipediaでは次のように記されている。この遠征で投手のワインドアップモーションやスクイズなどバントの活用、スライディングなどのプレーや戦術・練習法、グローブや野球靴などを持ち帰るなど、大きな収穫を得た。安部、橋戸らはこの収穫を独り占めすることなく著書や他校への指導などで普及に努めた。このことが夜明けから間もない日本の野球に革命をもたらした。昨日も紹介した『日本野球史』(国民新聞運動部編、ミュージアム図書編集部)では「洋行土産、最新野球術」と見出しをつけてもっと詳しく紹介していた。要約すると以下のようになる。■安部磯雄部長はこう言った。米国の大学チームくらいになるのはここ2、3年の中です、と語ったものの、「が、現在のようではとても駄目だ。根本的にかえねばならないでしょう。器具がまるで違う。練習方法も違えば技術などは格段の相違である」例えば・・・、・スパイクのついた野球靴を使用している・捕手、一塁以外はグラブを用いてなるべく軽快にせねばならない・バントを練習し、バントエンドランやスクイズを行って野球の玄妙に触れねば ならない・二塁-遊撃手の連絡等は当然改善しなければならない・投手はスローボールを研究してペースを代えることも必要である・スライディングも練習せねばならない (以上、『日本野球史』) -----------------------------------------------------------------前述した安部磯雄部長とは、早稲田大野球部の初代部長であり、後に「日本野球の父」「学生野球の父」と呼ばれた人物。なぜなら米国遠征に尽力し、米国から持ち帰った最新野球術を早稲田部内の秘伝とせず、著書や指導などによって日本全国に伝え、日本の野球技術発展の基礎をもたらしたから。早稲田の練習場や寮が「安部球場」「安部寮」と呼ばれていたのは、この安部氏に由来している。また米国遠征時、早稲田の主将は橋戸信。この橋戸も安部同様、書物などを通じて最新野球術の伝播につとめた一人。また「都市対抗野球大会」を発案し開催まで取り仕切る功績ももつ。都市対抗の最優秀選手に贈られる「橋戸賞」は、この橋戸氏に由来している。 今日も1クリックお願いします
2009.06.24
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昨日に続き、日米大学野球の歴史について。初めて日米の大学野球部が対戦したのは、今から遡ること104年前、1905年(明治38年)のこと。まだ創部間もなかった早稲田大野球部が当時強豪の一高(現・東京大)や学習院大を撃破、大隈候の後押しもあって意気軒昂に海を渡ったのが「日米対決」の始まりだったという。◇職業野球の日米対決の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「75年前の日米野球のこと」 (2009.3.23) → こちらへ。時は日露戦争の真っ最中。とても野球どころではなかったろうと想像するけど、それはともかく早稲田の面々は17日間の船旅を終えて桑港(サンフランシスコ)に到着し、スタンフォード大戦を皮切りに全米各地を転戦したのだった。早稲田の選手たちを、米国の各新聞は大いに歓迎した。その様子は『日本野球史』(国民新聞運動部編、ミュージアム図書編集部)に詳しいので、以下にその一部を抜粋した。「今度日本人の野球チーム早稲田大学チームが来朝した。これが我がアメリカ人以外のベースボールチームの最初の来征である。彼らは相当に強いそうである。そして試合に臨む折は大小の刀をさして来るかもしれない」「ロシアに大勝している日本人は戦争で勝った勢いで我等の国技ベースボールをもって戦わんと来朝した。面白いことである」(以上、『日本野球史』より)大きな興味をもって迎えられた早稲田だったが、結果を先に言うと7勝19敗と散々な戦績。(いや、7勝したなら「好成績」と言うべきか?)でも、野球の本場・米国に渡米したからこそ得られたことも多かった。続きはいずれ---。 今日も1クリックお願いします
2009.06.23
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7月12日に開幕する日米大学野球選手権の日本代表22選手が決まった。■以下、日刊スポーツより。全日本大学野球連盟は22日、日米大学野球選手権(7月12~16日・松山中央公園ほか)に早大のエース斎藤佑樹や亜大の1年生右腕、東浜巨ら22選手を選出した。22日まで実施した代表候補の合宿で選考した。 投手陣は全日本大学選手権で最高殊勲選手となった二神一人(法大)や東洋大の左腕エース乾真大ら9人が選ばれた。内野手は長打力抜群の中田亮二(亜大)ら6人、外野手は4番候補の中原恵司(亜大)、俊足巧打の土生翔平(早大)ら5人が代表入りした。代表監督は近大の榎本保監督で、主将は荒木貴裕(近大)が務める。日本代表に選ばれたメンバーは次の通り。▽投手 二神一人(法大、4年)斎藤佑樹(早大、3年)乾真大(東洋大、3年)大石達也(早大、3年)沢村拓一(中大、3年)菅野智之(東海大、2年)野村祐輔(明大、2年)中後悠平(近大、2年)東浜巨(亜大、1年)▽捕手 小池翔大(青学大、3年)佐藤貴穂(東洋大、3年)▽内野手 中田亮二(亜大、4年)小島脩平(東洋大、4年)加藤政義(九州国際大、4年)荒木貴裕(近大、4年)林崎遼(東洋大、3年)萩原圭悟(関学大、1年)▽外野手 中原恵司(亜大、4年)亀谷信吾(法大、4年)田中宗一郎(立大、3年)伊志嶺翔大(東海大、3年)土生翔平(早大、2年)(以上、日刊スポーツ)------------------------------------------------------------------所属リーグ・大学別で分類すると、次のような内訳になる。・東京六大学リーグ・・・7名 早稲田大3名、法政大2名、明治大1名、立教大1名。・東都大学リーグ・・・9名 東洋大4名、亜細亜大3名、中央大1名、青山学院大1名。・首都大学リーグ・・・2名 東海大2名。・関西学生野球リーグ・・・3名 近畿大2名、関西学院大1名。・九州六大学リーグ・・・1名 九州国際大1名。 とまれ、雨の降る中で行われた選考合宿。落選した選手たちは自分の持てる力を十分に発揮できたろうか? それが一番気にかかるのだ。-------------------------------------------------------------------さて、この日米大学野球の歴史を調べてみた。第1回目が開催されたのは1972年(昭和47年)のこと。7月1日、神宮球場に皇太子ご夫妻を迎え、皇太子殿下が始球式をされて開幕したという。そして、この大会は日本代表が4勝3敗で米国を下し優勝、大会は幕を閉じた。優勝の原動力となったのは関西大のエース・山口高志氏(元・阪急)だった。また他の主要な選手には、法政大・山本功児氏(元・ロッテ監督)、慶應義塾大・山下大輔氏(元・大洋)、法政大・長崎慶一氏(元・大洋)、中央大・藤波行雄氏(元・中日)や、現・立教大監督の坂口雅久氏もいた。そして記念すべきこの大会は、悲しい事故が起きたことでさらに有名になった。それは第2戦に起きた。日本代表選手として出場していた早稲田大・東門明氏が一塁走者の時、併殺を狙った遊撃手の一塁への送球を頭部に受け、その場で意識を失い死亡してしまったのだ。wikipediaにその事情が詳しく書かれているので、以下、その一部を引用した。1972(昭和47年)7月9日、神宮球場で行なわれた同大会第2戦で、7回に東門明が代打で登場、三遊間へのヒットで出塁する。1死後、藤波行雄の二塁ゴロの際、米国代表の遊撃手アラン・バニスターの併殺狙いの送球を頭部に受けて昏倒し、直ちに慶応大学病院に搬送される。右側頭骨骨折による頭蓋内出血および脳挫傷と診断され、5日後の7月14日11時35分、19歳の若さで息を引き取った。代表メンバーとして着用していた背番号13は、日米大学野球選手権日本代表の永久欠番とされ、早稲田大学野球部でも、東門の背番号9を永久欠番とした。 今日も1クリックお願いします
2009.06.22
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全日本大学野球選手権大会・準決勝、法政大vs対関西国際大戦(6月13日)。国際大 001 000 100 =2法政大 101 010 20X =5(国)田島、益田、松永、北嶋、(法)二神この試合は、先日このブログにも書いたとおり、完投勝利したエース・二神一人(4年、高知高)や4打数4安打3打点のルーキー・多木裕史(1年、坂出高)の活躍で、法政大が勝利し決勝進出を決めた。関西国際大は、1番・田中聡祐(4年、西脇工高)の2打点の活躍で懸命に追いかけたが、試合の主導権をつかむことなく敗れ去った。法政大は常にリードし、試合の「流れ」を相手に渡さなかったことが勝因だ。ただ4回表の守備では、危うく「流れ」を関西国際大に奪われかけたシーンがあった。そしてそれを見事に防いだのが、ライトを守る成田恭佑(3年、東北高)のプレーだった。--------------------------------------------------------------1点差を追う関西国際大、4回表の攻撃がその場面。一死後、4番・廣井亮介(3年、智弁和歌山高)が四球で出塁する。続く5番・金丸俊(1年、国士舘高)は高いバウンドでライトに抜ける安打を放つと、一塁走者の廣井は二塁を蹴って一気に三塁へ駆ける。法政大のライト・成田は懸命に前進し、打球をつかむやすぐさま三塁へ好送球。間一髪でアウトに仕留めた。もし三塁進塁を許していたら、一死一・三塁になっていたところ。ひょっとしたら、「流れ」が変わって関西国際大に行っていたかもしれない・・・。---------------------------------------------------------------成田恭佑。選手層の厚い法政大にあって、リーグ戦の出番は多くない。特にライトはシーズン中、選手がコロコロ変わるポジション。そんな事情もあって、成田の今春の成績は全12試合中、半分の6試合に出場。打席数は9、8打数1安打2打点1四球、打率は1割2分5厘だった。この日のプレーをキッカケに、ぜひ秋季は定位置を奪取してほしいものだ。また、東北高時代を調べてみたところ、甲子園に2度出場していたことがわかった。■1度目は2004年夏。いまでは日本のエースとなったダルビッシュ有(現・日本ハム)とともに、成田は1年生ながらレフトとして試合に出場していた。3回戦までコマを進めたものの、エース・松本啓二朗(現・横浜、早稲田大)を擁する千葉経大付高に、延長の末惜敗した。■2度目は翌05年夏。2年生ながら成田は主軸を打ち、準々決勝まで勝ち進んだが、エース・辻内崇伸(現・読売)を擁する大阪桐蔭高に4-6で敗退した。この時、大阪桐蔭はスター揃い。辻内のほかに平田良介(現・中日)、 中田翔(現・日本ハム)や謝敷正吾(現・明治大3年)もいた。 今日も1クリックお願いします
2009.06.21
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試合中、創価大の岸雅司監督は、3連投で踏ん張るエース・大塚豊(4年、創価高)にそう声をかけたそうだ。「八木」とは、現・日本ハムの八木智哉(日本航空高)のこと。大塚が尊敬する創価大の先輩であり、八木がいたから創価大に入学したという話もあるくらい。だから岸監督の「八木以上だ!」という激励は、大塚にとって最高の褒め言葉だったに違いない。---------------------------------------------------------------6月12日、全日本大学野球選手権大会・準々決勝、創価大vs東洋大が行われた。「全国大会4連覇を狙う東洋大が有利」といった下馬評もあったが、3連投の大塚が「八木以上だ!」と激励を受けて、東洋大に完投勝利を果たした。創価大 220 001 010 =6東洋大 022 001 00X =5(創)大塚、(東)乾、鹿沼、藤岡創価大がリードし、東洋大がすぐさま追いつく試合展開。まるで高校野球のように「流れ」がクルクル変わる試合に見えたが、大塚が踏ん張って逆転を許さず、最後まで相手に主導権を渡さなかったことが、創価大の勝因だった。大塚の投球を支えたのは自慢の「三種類のフォーク」。打者の手元で鋭く落ちたり、時には大きく曲がるものもある。だから三振をとるフィニッシュだけでなく、カウントを整えたり、芯を外して内野ゴロを打たせるなど、用途に応じてフォークを自在に操ることができる。また、よくコントロールされているものだから、打者にとって打ちずらいことこの上ない。(大塚のこの日の成績)9回、打者35、124球、被安打10、奪三振7、与四死球0。9回二死、東洋大の最後の打者に投げたフィニッシュもフォークだった。勝利を決めた瞬間、どんな時も表情を変えることがない大塚が、珍しくマウンド上で派手なガッツポーズを見せた。そして直後、歓喜の涙を流し、目を真っ赤にはらしていた。この試合に賭けた意気込みが、見事に実を結んだ瞬間だった。---------------------------------------------------------------(大塚、この日までの成績)■1回戦(対広島経済大)9回、打者30、104球、被安打4、奪三振7、与四死球0。■2回戦(対東北福祉大)9回、打者33、123球、被安打5、奪三振10、与四死球0。■準々決勝(対東洋大)※本文中を参照。その後、準決勝では中継ぎで登板したが、残念ながら敗退した。■(対富士大)4回、打者17、42球、被安打4、奪三振4、与四死球1。 (大塚、この大会の通算成績)31回、打者115、393球、被安打23、奪三振28、与四死球1、自責点1、防御率0.29、与四死球率0.29。 今日も1クリックお願いします
2009.06.21
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先日閉幕した全日本大学野球選手権大会。準決勝・富士大vs創価大戦のDVDを見た。試合は富士大がスコア2-0で、エース・守安玲緒(4年、愛知・菊華高)が完封勝利をしたのだけど、その勝利の裏にはレフトを守る濱川皓(4年、育英高)の計4度にわたる素晴らしいプレーがあった。1試合27個のアウトの内、それは単なる「4」個に過ぎない。でも試合の「流れ」を富士大に手繰り寄せ、それを放さない濱川のプレーの貢献度は大きかった。準決勝・第1試合(6月13日)創価大 000 000 000 =0富士大 001 001 00X =2(創)天野、大塚、(富)守安 以下、富士大のレフト・濱川皓の「4つのファインプレー」詳細を。(1)1回表、スコア0-0。一死走者なし。創価大の2番打者・坂野幸弘(4年、関西創価高)がレフトへファールフライを打ち上げた。左打者特有のどんどん左へ流れていく打球が三塁側スタンドのフェンスを直撃する寸前、濱川はジャンプしてこれをキャッチした。その後、濱川自身に勢いをつけた点で、このプレーの意味は大きかったとボクは思う。(2)4回表、スコア1-0で富士大がリード。二死走者なし。創価大の4番・左打者の清野友仁(4年、習志野高)がレフトに大きな当たりを放つ。これを濱川はレフト線めがけて一直線に走る。そして「ここ一番!」のジャンピングキャッチ。当然、抜けていれば長打コースの当たりだった。(3)6回表、スコア1-0で富士大がリード。無死走者なし。創価大・8番の脇田晃(4年、創価高)が左中間に打ったヒット性の当たり。濱川は思い切りよくスタートしこれを好捕。もし出塁を許していれば、創価大に同点のチャンスを与えていた。(4)7回表、スコア2-0で富士大がリード。無死走者なし。創価大・3番の花山貴志(4年、愛工大名電高)が彼の特徴でもある巧みなバットコントロールで鋭い打球をレフトの正面に放った。打球はグングン伸びて頭上を越えそうな当たりに見えたが、濱川は懸命に背走。そしてギリギリのタイミングでジャンプし、左手を思い切り伸ばしてグラブを差し出しジャンピングキャッチ。捕球後は身体ごとフェンスに激突していた。創価大にとって、この7回の打順は同点に追いつく絶好のチャンスだった。その先頭打者の長打を防いだ濱川のプレーは、効果はとても大きかった。---------------------------------------------------------濱川皓。兵庫・育英高時代は、今大会の決勝で対戦した法政大・加治屋祐大(4年)とチームメイトだった。育英高は2005年のセンバツに出場しており、2人とも甲子園に出場していたはずだ。その甲子園では初戦で愛知・東邦高と対戦。だが、東邦のエース・木下達生(現・日本ハム)に完封負けを喫し、初戦敗退した。今日も1クリックお願いします
2009.06.20
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■以下、サンケイスポーツより。第58回全日本大学野球選手権大会で準優勝した富士大(北東北大学野球)が15日、岩手県花巻市に凱旋(がいせん)し、なはんプラザでの報告会に出席した。 大会全5試合に登板し、計37イニング531球を投げた守安玲緒投手(4年)は、準優勝から一夜明け「雑草軍団ですから、これからもチャレンジャー精神で戦いたいです」と追われる立場になっても、挑戦者の姿勢で臨む意欲をみせた。大会中は自己最速タイの145キロ速球をマーク。"秋の日本一"を目指す秋季リーグ以降は、学生野球の集大成だ。(以上、サンケイスポーツ)守安玲緒(4年、愛知・菊華高)。大会中、5試合すべてに登板し、計531球を投げた。詳しい記録は分からないけれど、たぶん今大会では「最多投球」投手だったろう。守安にとって唯一悔いが残ったのは、決勝の法政大戦・9回表に代打・大八木誠也(3年、平安高)に投げた初球だったはず。それは、この大会で守安が投げた522球目だった。左打席に入った代打・大八木を相手に投じた、その522球目。直球だろうか、131kmの球がシュート回転して真ん中やや外のコースに甘く入ってしまう。すると初めはバントの構えを見せていた大八木、一転してバットを強振した。バントに備えたシフトを敷く富士大の内野陣の裏をかいたバスターが成功し、打球は右中間を割る二塁打に。守安にとってやってはならない2点目を献上してしまった。■以下、日刊スポーツ。9回無死一、二塁。ここでバスターを決められ一気に崩れた。「外そうか迷った。その分、甘く入った」と悔やんだ。(日刊スポーツ)-------------------------------------------------------------守安、どんなにピンチになっても、まるで表情を変えることがなかった。自チームの内野守備の乱れがあっても表情に変化はなかった。それが安定したピッチングにつながったのかもしれないが。ただ決勝戦の敗退後、三塁側の富士大応援席に現れた守安。「守安、よくやったぞー」と応援席から声が飛ぶと、その時初めて笑顔をつくり、帽子をとってペコリと頭を下げていた。すでに、来春は三菱重工神戸に就職することが決まっているらしい。今日も1クリックお願いします
2009.06.17
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今日の記事も前回に続き、決勝戦(6月14日)9回表の「バスター」のこと。法政大、この9回表を「舞台」に例えるなら、さしずめ演出は金光興ニ監督、主演はリーグ戦こそ脇役だった大八木誠也(3年、平安高)といったところだろうか。そして演出者と、突然主役に抜擢された役者の演技が見事にはまったとは言えまいか。この場面、各紙の記事を引用してみた。■法大・金光興二監督(53)が土壇場で仕掛けた。9回無死一、二塁。佐々木が初球、送りバントをファウルすると代打大八木を送る。その1球目、バスターに転じた。打球は中堅右を襲って、勝ち越した。「堅く行っても点が取れない。賭けみたいなもん」。同監督が説明した。(以上、日刊スポーツ)■14年ぶりの頂点をつかみ取ったのは、今季を象徴する(金光監督の)積極采配だった。1-1の9回無死一、二塁。5番・佐々木が初球のバントをファウルすると、すかさず代打・大八木を告げた。2球目。相手のバントシフトをあざ笑うように、大八木はバントの構えからバスターに切り替え、右中間を破る決勝の2点適時二塁打を放った。 「堅くいっても点が取れないなら大八木に思い切っていかせようと」と明かした。(以上、スポーツニッポン)■犠打警戒で野手が出てきたらバスター。監督の了解をもらって打席に入った大八木は「突っ込んできたんで打ったろうと思った」と破顔一笑だ。(以上、サンケイスポーツ)------------------------------------------------------------------金光監督、ただ打つことだけを期待するなら、佐々木陽(3年、作新学院高)にそのまま打たせた方が得点の確率は高かったように、ボクは思う。なのに佐々木が1球目をファールした直後、迷うことなく代打を決断した。録画したDVDを見る限り、「代打・大八木」を主審に告げるため金光監督はベンチを出たきり、大八木と直接会話するシーンはなかった。ただ大八木がベンチから飛び出す直前の2~3秒間、2人が会話するシーンがあった。大八木が何かを話し、その時に(ボクは読唇術の心得はないが)金光監督は頷きながら「思いきって、思いきって」と大八木に声をかけていたように見えた。サンケイスポーツの記事が確かだとすると、大八木がベンチを飛び出す直前に「内野が前に突っ込んできたら打っていいですか」と聞き、金光監督はバントと思う相手の心理を逆手にとった「賭け」と考え、「思いきって、思いきって」と声をかけたといったところだろうか。突然訪れた場面で堂々と自分の意見を進言する選手。そして元来「堅実」な作戦を好むのに、究極の場面で選手の進言を受け入れる度量を持てた監督。この選手と監督の信頼関係が法政大を14年ぶり8度目の優勝をもたらしたと言えそうだ。 今日も1クリックお願いします
2009.06.16
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先ほどの続き。 全日本大学野球選手権大会・決勝、法政大vs富士大の詳報。もういちどスコアを紹介。(決勝戦)法政大 000 000 014 =5富士大 000 010 000 =1(法)三上-二神、(富)守安■法政大、勝利のポイントは9回表の攻撃にあったが、その説明の前に、簡単に両チームの得点シーンを振り返りたい。5回裏、富士大の攻撃。それまでほぼ完璧に富士大打線を抑えていた法政大・三上朋也(2年、県岐阜商高)を、この回先頭の5番・吉田翔吾(4年、佐野日大高)が捕らえた。2球目の変化球を叩き、左中間越えの二塁打を放つ。送りバントで三進後、7番・夏井大吉(4年、花巻東高)のセンター前安打で1点を先制する。8回表、法政大の攻撃。富士大のエース・守安玲緒(4年、愛知・菊華高)の前にまったく手も足も出なかった法政打線だが、この回初めてチャンスをつかんだ。この回先頭の6番・亀田健人(3年、智弁和歌山高)がセンター前への安打で出塁する。代走・中尾孝(2年、報徳学園高)に交代。送りバントで二進後、8番・石川修平(4年、小山西高)が死球で出塁。一死一・二塁に。続く代打・土井翔平(1年、智弁学園高)が高いバウンドの三塁ゴロ。この打球が三塁手のグラブを弾き後逸。法政大、一死満塁の願ってもない同点機。一塁走者は代走・長谷川裕介(2年、常葉菊川高)に交代。ここで、今大会は不調ながらリーグ戦の首位打者・亀谷信吾(4年、中京大中京高)がレフトに犠飛を放ち、法政大がようやく同点に追いついた。そして9回表。勢いのついた法政大、ついに富士大にトドメを刺した。先頭打者の3番・多木裕史(1年、坂出高)が速い打球のライト前安打で出塁し、チャンスを作る。4番・松本雅俊(4年、関西高)は送りバントを試みたが小フライ。チャンスが潰えたように見えたが、勢いよく飛び込んできた一塁手のミットが打球を大きく弾き、球はバックネット方向へ転々・・・(記録は内野安打)。無死一・二塁となり、法政大のチャンスが拡大する。■そして、法政大が勝利を決定づけたシーン。5番・佐々木陽(3年、作新学院高)も初球に送りバントをしたもののファール。ここで法政大の金光興二監督が動いた。すぐさま佐々木をベンチに引っ込め、大八木誠也(3年、平安高)を代打に送る。カウント1-0から試合が再開。この場面、多くの人は「大八木を確実に送りバントするための代打」と思う。富士大の守安にしても同じだったのではないか。事実、大八木はバントの構えを見せていた。ところが・・・。守安の初球を大八木が強振、強烈なライナーを右中間に運んだ。この一打で二塁走者が生還し、法政大が貴重な2点目の奪取に成功した。二塁ベース上で「やったぁ~」と叫び、何度も何度もハデなガッツポーズを繰り返す大八木。なおも安打を繰り出し法政大は3点を追加した。だが、このワンプレーこそが勝利を決めた最大の要因となった。■NHKテレビ(録画、深夜放送)では解説の河原井正雄氏が、打席に立つ大八木を見て「バスターもあり得る」とつぶやいていたが、その洞察力はさすがだった。また、実況アナから法政大の勝因を聞かれ、「金光監督の采配」と答えていたが、まさにそのとおりだと思った。今日も1クリックお願いします
2009.06.14
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今日(6月14日)、全日本大学野球選手権大会の決勝戦が行われた。カードは法政大vs富士大。結果は法政大が1-1の同点で迎えた9回、集中打を浴びせ優勝を決めた。投げては先発・三上朋也(2年、県岐阜商高)、救援で登板したエース・二神一人(4年、高知高)が好投。富士大打線を5安打1失点に抑えた。一方、富士大のエース・守安玲緒(4年、愛知・菊華高)も好投した。連投の疲れからか序盤は球が浮いていたが、徐々に本来の投球を見せ法政大打線を抑え、9回を一人で投げ抜いた。最終回、先頭打者の多木裕史(1年、坂出高)に安打を許してしまったことが悔やまれる。この大会、多木こそが法政大にとって唯一の「何かを起こしそうな選手」だったゆえ。富士大、センバツ甲子園で準Vに終わった花巻東高に続き、 「花巻旋風」はこちらも準Vに終わった。(決勝戦)法政大 000 000 014 =5富士大 000 010 000 =1(法)三上-二神、(富)守安法政大が優勝を決め、全日本大学野球選手権大会は閉幕した。各賞の受賞者(チーム)は次のとおり。最高殊勲選手賞:ニ神一人(法政大4年)最優秀投手賞:ニ神一人(法政大4年)首位打者賞:多木裕史(法政大1年)敢闘賞:守安玲緒(富士大4年)特別賞:東海大海洋学部特別賞:大塚豊(創価大4年)※決勝戦の模様は後ほど。 今日も1クリックお願いします
2009.06.14
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1対1の同点で迎えた9回表、法政は5本の安打を連ね、富士大の守安から4点を奪った。結果、5対1で勝利し優勝を決めた。勝利の陰には秘密兵器・大八木の存在があった。
2009.06.14
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8回表、法政、亀谷の犠飛で同点。
2009.06.14
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5回裏、富士大。吉田の二塁打と夏井の適時打で先制。
2009.06.14
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先発投手、発表。法政は三上、富士は守安。
2009.06.14
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全日本大学野球選手権大会・準決勝(6月13日)。→ スコアはこちら。法政大の3番を打っている多木裕史(1年、坂出高)が絶好調だ。この試合では、4打数4安打3打点とルーキーながら大いに気を吐いた。(1打席目)1回裏、一死で走者を二塁に置いて、センターへゴロで抜ける安打を放ち、貴重な先制点を挙げた。(2打席目)3回裏、二死二塁で打席に立ち、チェンジアップ(113km)を叩いてライト前にライナーの安打で2点目。1打席目もそうだったけど、とにかく打球が速い。(3打席目)5回裏、この時も3回同様、二死二塁で登場。フルカウントから147kmの直球を打ち、高いバウンドで一塁へゴロを転がす。これは平凡な一ゴロに見えたが、一塁手手前で大きく跳ねてライト前に達するラッキーな安打。またも適時打となって3点目。(4打席目)7回裏、二死一塁。カウント1-0からレフト前にポトリと落ちる安打を放ちチャンスを広げ、次打者4番・松本雅俊(4年、関西高)のレフトフェンス直撃の2点適時打を呼び込んだ。スポーツナビによると、多木裕史の武器は「類稀な巧みなバットコントロール」にある。またバットを少し軽めなものに変えて、「最短でバットを出す」ことを心掛けているからとか。そして守備。こちらはまだまだだが、先輩たちからは「エラーは3つまでなら許す」と配慮をしてもらい、ノビノビとプレーできている。---------------------------------------------------------東京六大学の春季リーグ戦では、主に下位打者ながら打率が3割4分1厘。打撃十傑6位にランクインしている。打点も12、チーム内では「打点王」でもある。ただ守備はリーグ戦でも課題だった。失策数は「5」、失策数の比較的多かった法政大においてもなお「エラー王」ではあった。 ◇多木裕史の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「斎藤佑樹が通算6敗目で、早大連覇が遠のく?」 (2009.4.28) → こちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.06.14
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今日行われた全日本大学野球選手権・準決勝。第1試合・法政大vs関西国際大戦のことを新聞記事から。→ スコアはこちら。<サンケイスポーツより>■大学野球日本一を決める全日本大学野球選手権は13日、神宮球場で準決勝が行われ、第1試合は法大(東京六大学)が関西国際大(阪神)に5-2で勝利。前回優勝した1995年以来、14年ぶりの決勝進出を決め、8度目の大会制覇に王手をかけた。 法大は一回、一死二塁から多木のセンター前タイムリーで先制。その後も小刻みに追加点を挙げ、逃げ切った。多木は4安打3打点と活躍した。■ 全日本大学野球選手権第5日は13日、神宮球場で準決勝を行い、法大(東京六大学)が5-2で関西国際大(阪神)を下し、14年ぶりに決勝へ進んだ。 七回に2点を加えて突き放すまでは1点を争う接戦。主役は3番・多木だ。一回に先制点、三回は勝ち越し点をたたきだす。五回には一塁手の前で打球が大きく跳ね上がるラッキーな適時打と、この日は4安打3打点。「勝利に貢献できてよかった」と笑みを浮かべた。1年生の遊撃手は、好調の理由に「春季リーグ戦のベストナインに選ばれたことが大きな自信になっている」ことを挙げた。主戦の二神は9安打を浴びながら粘りの投球で2失点に抑えた。初戦の2回戦、準々決勝とも音無しだった亀谷とリーグ戦首位打者の松本雅に快音が戻った。大会最多の7度優勝を誇る法大が、覇権奪回へあと1勝と迫った。■全日本大学野球選手権第5日(13日、神宮)2試合連続コールドゲームで勝ち上がった関西国際大。準決勝は法大相手に終盤まで接戦に持ち込んだが、一歩及ばなかった。 初出場した一昨年は早大、昨年は明大、そして今回と東京六大学リーグのチームに続けて敗れた。鈴木監督は「過去2年に比べて勝てるチャンスはあった。山の頂が少しは見えた」と初の4強進出の手応えを強調した。先発した4年生左腕の田島は「2年前の先輩が8強。超えられてよかった」と笑みを浮かべ、神宮を後にした。(以上、サンケイスポーツ)--------------------------------------------------------------法政大、前回優勝したのが1995年だという。その大会時、どんな選手が出場していたかを調べてみた(同年の日米大学野球大会・出場選手を含む)。優勝した法政大には、副島孔太(元・ヤクルト、桐蔭学園高)や矢野英司(元・横浜、横浜高)がいた。また、準優勝だった東北福祉大には門倉健(現・韓国SKワイバーンズ、聖望学園高)や小野公誠(現・ヤクルト、聖望学園高)らがいた。その他の大学では、青山学院大の井口忠仁(現・ロッテ、國學院大久我山高)、東洋大の清水隆行(現・西武、浦和学院高)、創価大の武藤孝司(元・近鉄、横浜商高)、早稲田大の三沢興一(現・米独立Lのロングビーチ・アーマダ、帝京高)らがいた。今日も1クリックお願いします
2009.06.13
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全日本大学野球選手権大会・準決勝2試合が神宮球場で行われた。<第1試合> 法政大vs関西国際大国際大 001 000 100 =2法政大 101 010 20X =5(国)田島、益田、松永、北嶋、(法)二神法政大はエース・二神一人(4年、高知高)が被安打9、奪三振5の完投勝利で決勝進出を決めた。また、今大会ノーヒットだった松本雅俊(4年、関西高)が7回に2点適時打を放ち、やっと4番らしさを見せることができた。◇二神一人の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「東京六大学野球を勝手に総括する!」 (2009.6.6) → こちらへ<第2試合> 富士大vs創価大創価大 000 000 000 =0富士大 001 001 00X =2(創)天野、大塚、(富)守安 富士大は昨日の近畿大戦に続き、東京新大学リーグの雄・創価大までも破った。富士大が巻き起こす「花巻旋風」は明日も? 今日も1クリックお願いします
2009.06.13
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投手の投げた球が足に当たった瞬間、思わず飛び跳ねて尻もちをついてしまった。でも、これがサヨナラ勝利を決める押し出し死球になったものだから、代打で打席に入っていた目時大(4年、福岡高)は尻もちをつきながらも、派手なガッツポーズを繰り返してみせた。目黒のポジションは捕手。でも正捕手は同じ学年のジェゴ(4年、八王子実践高)。ふつう、どのチームでも捕手は一人いればいい。富士大も例外ではない。そんなものだから、この大会はおろかリーグ戦での出場経験さえ一度もない。この打席が今シーズン初出場の、いわば「苦労人」でもあった。(12日、準々決勝)近畿大 110 000 200 =4富士大 000 100 031X=5(近)武内、福田、中後、(富)小池、中村、高橋、谷治、守安大金星だ。だれもが予想していなかったことが現実となったまさか、まさか。富士大(岩手・花巻市=ボクの故郷でもある)が、強豪の近畿大に勝利するなんて・・・。試合の「流れ」は完全に近畿大にあった。特に7回、近大が2点を加え4-1としたところで、普通なら「勝負あり!」のはずだった。なのに8回、5番・吉田翔吾(4年、佐野日大高)の2点本塁打や屋宮哲夫(3年、堀越高)の適時打で同点。なおも近畿大のエース・中後悠平(2年、近大新宮高)を相手に、最終回は一死満塁のチャンスを作ってサヨナラ勝利を挙げてしまった。 試合中、劣勢であっても富士大の選手たちは笑顔だった。それは観ていてとても不思議だった。なぜならそれは、体育会にありがちな「気合い」から出る笑顔とはほど遠く、どちらかというと、野球好きのメンバーが楽しみながらやっている「草野球」的な笑顔に見えたから。(失礼!)いや、実はそれが富士大の「強さの源」なのかもしれない。試合前、ベンチ前ではサヨナラのヒーローとなった目黒とジェゴが一緒にじゃれ合う光景があった。特に「苦労人」のはずの目黒の表情には笑顔があふれ、強豪との試合前なのに緊張感など微塵も見られなかった。「無欲」と「明るさ」がモットーの富士大にあって、目黒の笑顔はその象徴的な存在にも見えた。彼の「サヨナラ死球」は、ある意味、富士大らしい勝ち方だったと言えるかもしれない。------------------------------------------------------------一方の投手陣もよく踏ん張った。特に2番手で登板した中村泰平(3年、立正大ショウ南高)のピッチングが勝利を呼び込んだ。そしてその結果、明日の準決勝は万全に近い状態でエース・守安玲緒(4年、菊華高)がマウンドに立つことができる。まさに青木久典監督のプランどおりの展開になった。富士大の快進撃は、まだまだ続く・・・!? 今日も1クリックお願いします
2009.06.12
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全日本大学野球選手権大会3日目。■今日(6月11日)の結果を日刊スポーツより。14年ぶりの優勝を目指す法大(東京6大学)が日本文理大(九州地区)を4-3で下し、準決勝進出を果たした。8回からはドラフト候補右腕の二神一人投手(4年=高知)が登板するなど、4投手の継投で逃げ切った。関西国際大(阪神)は11-2で快進撃を続けた東海大海洋学部(東海地区)を破り4強入り。 2連覇を目指す東洋大(東都)は6-3で九州共立大(福岡6大学)を下し、富士大(北東北)、創価大(東京新大学)とともに8強に進出した。(以上、日刊スポーツ)--------------------------------------------------------------今日の結果と今後の日程は次のとおり。■6月11日(木)<神宮球場>(16)11:00~ 東海大海洋学部 2-11 関西国際大 (P)(17)13:30~ 日本文理大 3-4 法政大 (Q)※上記はすべて準々決勝。<東京ドーム> (18)9:00~ 佛教大 2-3 富士大 (R) (19)11:30~ 東北福祉大 1-4 創価大 (S) (20)14:00~ 東洋大 6-3 九州共立大 (T)※上記はすべて2回戦。■6月12日(金)<神宮球場>(21)11:00~ 近畿大 vs 富士大 (U) (23)13:30~ 創価大 vs 東洋大 (V)※上記はすべて準々決勝。■6月13日(土)<神宮球場>(23)11:00~ (P)の勝者 vs (Q)の勝者 (W)(24)13:30~ (U)の勝者 vs (V)の勝者 (X)※上記はすべて準決勝。■6月14日(日)<神宮球場>(25)13:00~ 決勝今日も1クリックお願いします
2009.06.11
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全日本大学野球選手権大会、2日目(6月10日)の結果。優勝候補の東海大が、「格下」の東海大海洋学部に敗れる波乱が起きた。■以下、日刊スポーツより。初出場の東海大海洋学部(東海地区)が優勝候補で兄貴分の東海大(首都)を破った。0-1で迎えた7回、中村一裕内野手(4年=興誠)が逆転2ランを放ち、ベスト8入りを決めた。 大金星を挙げた大村晴男監督は「負けるもんだと思ってやってきたのでビックリです。考えられないことが起こりすぎます。地方(静岡)の大学でもまじめにやれば、たまにはこういうこともあるんですね」と驚いたようす。逆転2ランの中村は「ホームランはリーグ戦を通じても初めて。正直、うれしいっすね」と声を弾ませていた。---------------------------------------------------------------東海 100 000 000 =1海洋 000 000 21X =3(東海大)高山-菅野、(東海大海洋学部)山口-奥■いつも「負け」を覚悟して宿舎を後にする。だから東海大海洋学部(以下、海洋学部)の選手たちが神宮球場入りする時、バスに必ず荷物を積んでいる。今日の東海大戦もそう、昨日の1回戦も同じだった。海洋学部が勝利を決めた瞬間、まるで優勝したかのようにグラウンドで抱き合う選手たち。ベンチの前では大村監督と部長が目を潤ませながら抱き合い、こちらも喜びを爆発させていた。■先制したのは東海大だった。走者を一・二塁に置いて4番・近藤がセンター前に適時打を放ち主導権を握った。 だが、その後はチャンスを掴みながらも追加点を奪えない東海大。一方の海洋学部は7回、やっと反撃に成功する。一死後、8番・菊池がセーフティバントを成功させて出塁。そして、東海大・高山の一塁けん制悪送球を誘って二塁に進んだ。9番・水口が三振に倒れ二死後、1番・中村一裕(4年、興誠高)がライトスタンドに2点本塁打を放ち逆転した。あっけにとられたように打球の行方を見つめるマウンド上の高山。続く8回にも、東海大の2番手投手・菅野の代わり鼻を、3番・遠藤が捕らえて本塁打を放ち、海洋学部が勝利を決めた。■ 「けん制悪送球」が敗戦のキッカケを作ってしまった東海大。でも、昨年のこの大会では「けん制悪送球」という小さなミスが東海大に味方し、準決勝で明治大に圧勝する突破口になったことをボクは思い出した。明治 303 000 001 = 7東海 000 0160 10X =17 6点差を追う東海大は5回裏、ようやく一死満塁のチャンスをつかんだ。その時、明治大の先発・江柄子裕樹(当時4年)が三塁に投げたけん制球が、とんでもない悪送球に。難なく2人の走者が生還しチャンスを拡大すると、その後の東海大は、明治大が繰り出す岩田慎司(当時4年、現・中日)や野村祐輔(当時1年)をつるべ撃ち。1イニングで計16点を奪う猛攻を見せた。「けん制悪送球」。東海大にとって、今年は命取りになってしまった。敗戦が決定した瞬間、東海大の横井人輝監督が見せた悔しいような、悲しいような、呆れたような、何ともいえない複雑な表情が印象的だった 今日も1クリックお願いします
2009.06.10
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昨日開幕した全日本大学野球選手権大会。今日(6月9日)の結果と、今後の日程は次のとおり。■6月10日(水)<神宮球場>(9)9:00~ 東海大 1-3 東海大海洋学部 (10)11:30~ 道都大 0-9(コールド) 関西国際大 (11)14:00~ 日本文理大 11-4(コールド) 九州国際大 (12)16:30~ 白鴎大 0-3 法政大 ※上記はすべて2回戦。<東京ドーム>(13)9:00~ 創価大 3-1 広島経済大 (14)11:30~ 九州共立大 10-9 国際武道大 (15)14:00~ 近畿大 2-1 桐蔭横浜大 ※上記(13)(14)は1回戦、(15)は2回戦。■6月11日(木)<神宮球場>(16)11:00~ 東海大海洋学部 vs 関西国際大 (P)(17)13:30~ 日本文理大 vs 法政大 (Q)※上記はすべて準々決勝。<東京ドーム> (18)9:00~ 佛教大 vs 富士大 (R) (19)11:30~ 東北福祉大 vs 創価大 (S) (20)14:00~ 東洋大 vs 九州共立大 (T)※上記はすべて2回戦。■6月12日(金)<神宮球場>(21)11:00~ (O)の勝者 vs (R)の勝者 (U) (23)13:30~ (S)の勝者 vs (T)の勝者 (V)※上記はすべて準々決勝。■6月13日(土)<神宮球場>(23)11:00~ (P)の勝者 vs (Q)の勝者 (W)(24)13:30~ (U)の勝者 vs (V)の勝者 (X)※上記はすべて準決勝。■6月14日(日)<神宮球場>(25)13:00~ 決勝尚、詳細は公式ホームページでご確認ください → こちら。 今日も1クリックお願いします
2009.06.10
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富士大が全日本大学選手権大会で12年ぶりに勝利した。奇しくも今日の相手は、12年前にスコア4-1で勝利した徳山大だった。徳山大 001 000 000=1富士大 000 001 10X=2(徳)岡村、(富)守安1回、2回とチャンスを作りながら先制点を奪えなかった徳山大。ついに3回表、先制に成功する。二死走者なしの場面で、4番・岸村祥太郎がカウント2-2から118kmの変化球にうまくバットを合わせ、レフトスタンド中段に本塁打を放った。一方、こちらもチャンスがありながら得点できなかった富士大。6回裏、やっと同点に追いつく。一死走者二塁の場面で、4番・古川貴広が低めに落ちる変化球に、腰を落とし体勢を崩しながらレフト越えの適時打を放ち、同点に。富士大の反撃は続く。7回裏には、二死で走者を三塁に置き、1番・佐藤弘典が(逆方向の)三塁線へ強いゴロを叩いた。この打球が三塁手のタイムリーエラーを誘い、富士大は逆転に成功し勝利を決めた。富士大・青木久典監督の勝利インタビュー。「今日の勝因は、選手たちがいい野球をやってくれたこと」富士大・守安玲緒投手の勝利インタビュー。「今日の自分のピッチングは70点。序盤は変化球が決まらなかった」(守安、今日の成績)9回、136球、被安打7、与四死球3、奪三振11、失点1。--------------------------------------------------------------富士大は、センバツ高校野球で準優勝した花巻東高と同じ岩手県花巻市にある。花巻東に続き神宮でも「花巻」旋風が起きるかもしれない。ぜひ期待したい ◇花巻東高の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「花巻東、敵愾心が引寄せた決勝進出」 (2009.4.1) → こちらへ。 今日も1クリックお願いします
2009.06.09
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全日本大学野球選手権大会が今日(6月9日)、開幕した。結果と日程は次のとおり。■6月9日(火)<神宮球場>(1)9:00~ 東海大海洋学部 3-0 松山大 (A)(2)11:30~ 道都大 4-3 石巻専修大 (B)(3)14:00~ 日本文理大 6-1 龍谷大 (C)(4)16:30~ 東海大北海道キャンパス 1-3 九州国際大 (D)<東京ドーム>(5)9:00~ 白鴎大 5-0 高岡法科大 (E)(6)11:30~ 桐蔭横浜大 3-1 大阪教育大 (F)(7)14:00~ 佛教大 3-0 中京大 (G)(8)16:30~ 徳山大 1-2 富士大 (H)※上記はすべて1回戦。 ■6月10日(水)<神宮球場>(9)9:00~ 東海大 vs 東海大海洋学部 (I)(10)11:30~ 道都大 vs 関西国際大 (J)(11)14:00~ 日本文理大 vs 九州国際大 (K)(12)16:30~ 白鴎大 vs 法政大 (L)※上記はすべて2回戦。<東京ドーム>(13)9:00~ 創価大 vs 広島経済大 (M)(14)11:30~ 九州共立大 vs 国際武道大 (N)(15)14:00~ 近畿大 vs 桐蔭横浜大 (O)※上記(13)(14)は1回戦、(15)は2回戦。■6月11日(木)<神宮球場>(16)11:00~ (I)の勝者 vs (J)の勝者 (P)(17)13:30~ (K)の勝者 vs (L)の勝者 (Q)※上記はすべて準々決勝。<東京ドーム> (18)9:00~ (G)の勝者 vs (H)の勝者 (R) (19)11:30~ 東北福祉大 vs (M)の勝者 (S) (20)14:00~ 東洋大 vs (N)の勝者 (T)※上記はすべて2回戦。■6月12日(金)<神宮球場>(21)11:00~ (O)の勝者 vs (R)の勝者 (U) (23)13:30~ (S)の勝者 vs (T)の勝者 (V)※上記はすべて準々決勝。■6月13日(土)<神宮球場>(23)11:00~ (P)の勝者 vs (Q)の勝者 (W)(24)13:30~ (U)の勝者 vs (V)の勝者 (X)※上記はすべて準決勝。■6月14日(日)<神宮球場>(25)13:00~ 決勝尚、詳細は公式ホームページでご確認ください → こちら。----------------------------------------------------------また、昨年の同大会や今大会の録画DVDを貸して欲しいとのメッセージを数件いただいておりますが、昨年のものは元々録画していませんでしたし、今大会においても一旦録画する試合もありますが、すぐに消去する予定です。ご期待に沿えず誠に申し訳ございませんが、あらかじめご了承ください。 今日も1クリックお願いします
2009.06.09
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昨日(6月7日)、今日(8日)の2日間にわたって行われた東都大学リーグ1部・2部入れ替え戦・立正大(1部6位)vs専修大(2部1位)は、立正大が連勝し1部残留を決めた。1回戦(6月7日)立正大 000 100 000 =1専修大 000 000 000 =0(立)小石-出雲-南、(専)湯本■以下、日刊スポーツより。(立正大への視点から)立正大(1部6位)が専大(2部1位)に先勝し、1部残留にあと1勝とした。4回に越前一樹外野手(3年=横浜)の適時打で先制。この1点を先発の小石博孝投手(4年=鶴崎工)ら3人のリレーで守り抜いた。 リーグ戦未勝利の立正大左腕小石が踏ん張った。6回2/3を投げ、被安打3の無失点。小石は「打たせない気持ちだけ。技術では負けますから」と話した。140キロ半ばの速球に100キロ台の緩いカーブもまじえ専大を牛耳った。「最後のシーズンに2部はイヤですから」と4年生の意地もあったようだ。伊藤由紀夫監督(58)は小石を評価しながら「勝負は明日です」と気を緩めてはいなかった。(専修大への視点から)立正大(1部6位)が専大(2部1位)に先勝し、1部残留にあと1勝とした。専大は、エースの湯本五十六投手(4年=藤代)が1失点で完投したが、打線が援護できなかった。 専大は立正大の継投にかわされ完封負け。江崎久監督(65)は「向こうの投手が上だった。湯本はよく投げてくれたんですが」と振り返った。準硬式野球部の監督から転身し、就任早々で2部優勝に導いた。「選手は本当に頑張ってくれている。オレの力がない」と言って、思わず涙。もう1敗もできないが、同監督は「明日も湯本で」とエースでの必勝を誓った。2回戦(6月8日)専修大 011 000 000 =2立正大 300 000 010 =4■以下、サンケイスポーツより。(立正大への視点から)東都大学野球リーグの1、2部入れ替え戦第2日は8日、神宮球場で行われ、立正大(1部6位)が4-2で5季ぶりの1部復帰を目指す専大(2部1位)に連勝し、1部残留を決めた。 立正大は一回に3点を先制。4投手の継投で専大の追撃をかわし、逃げ切った。4投手の継投で残留を決めた立正大の伊藤監督は「しんどいですね。(入れ替え戦は)もういいです」と言いながらも、その顔には思わず安堵(あんど)の色が浮かんでいた。 一回に3点を先制したが、二回以降は快音が聞かれず無安打。2日連続で救援したエースの南は「このプレッシャーの中で戦った経験を秋に生かしたい。でも、もうこういう思いはしたくない」と試合後はほっとした表情だった。(専修大への視点から)専大の5季ぶりの1部復帰はならなかった。今春から指揮をとる江崎監督は目を真っ赤にしながら「選手はよくやりました。すべて私の力不足です」と責任を一身に背負った。 前日に132球、この日も126球と2試合を一人で投げ抜いた4年生の湯本は「(自分たちは)1部でも戦えると思った。3試合投げる体力をつくり、秋には優勝して後輩たちに(来春1部で戦う資格を)残してやりたい」と再挑戦を誓っていた。---------------------------------------------------------------「入替戦」 。これは、監督や選手たちにとって壮絶な緊張感を伴う「戦い」のようだ。特に1部で最下位になり、残留をかけたチームにとっては尚更らしい。前・駒澤大監督の太田誠氏が、以前著書『球心、いまだ掴めず』(日刊スポーツ出版社刊)にこんなことを書いていた。「入れ替え戦には、いつの時代にも独特の雰囲気がある。ピーンと張りつめた緊張感と切羽詰まった重苦しい空気である」「二部に落としたら、OBにすまないし学校にすまない。そして何より神宮球場で試合できなくなる選手たちに済まない。そんな思いが募ってきて、(特に4年生は)緊張感で足がガクガクになる」この2日間、そんな足がガクガクするほどの緊張感をもって戦ったんだろうな、立正大は・・・。まずは「おめでとうございます!」と言わせてもらいます。立正大には3番を打つ神野達哉(4年、埼玉栄高)や5番の近藤亮介(4年、大宮西高)ら元・埼玉高校球児たちがいるため、ボクはとても親近感を感じることもあって。◇太田誠の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「太田・駒大前監督と香田・駒大苫小牧監督を結んだ『放下着』という言葉」 (2006.4.3) → こちらへ。--------------------------------------------------------------- ※余談ながら。なぜ「入替戦」は3回戦制なのか? その答えが太田氏の同著に記されている。その一部を借用して紹介します。「昭和24年秋には(新興だった駒澤大学が)早くも一部に昇格しているが、OBの話では、東都の入替戦が3回戦制になったのは、この時からだそうだ。その時の一部の最下位は國學院大学。当時は規約がはっきりしていなくて、入替戦の最初の試合で(二部で優勝した)駒澤大学が勝利すると、「入替戦は2回戦制だ」と、國學院側が言いだし、2回戦をやることになる。國學院は東都一部リーグの常連校で、権威があるので新参者(=駒澤大)は逆らえなかったそうだ。そこで、2回戦をやったら、國學院が勝利。決戦の3回戦がおこなわれることになり、やっと駒澤が勝って、一部に昇格を果たしたのである。以後、入替戦は正式に3回戦になったと言われている」 今日も1クリックお願いします
2009.06.08
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■いよいよ来週6月9日に、第58回全日本大学野球選手権大会が開幕します。今年はどの大学が優勝するのでしょうか?ちなみにこの大会、昨年は東洋大が決勝で東海大を降し、優勝を決めました。この時のメンバーには、東洋大には現・日本ハムの大野奨太(岐阜総合学園高)や現・ロッテの上野大樹(帝京高)らがいました。■そして「全日本選手権」と聞くと、ボクには忘れられない試合がひとつあります。それは、一昨年(2007年)6月に行われた九州国際大vs早稲田大戦で見せた九州国際大・松山竜平(当時、現・広島カープ)の「号泣事件」のことです。スコア0-2で迎えた最終回、2点差を追う九州国際大が二死一・三塁と同点のチャンスを迎えた時にドラマが起きました。打席に入った松山竜平は、柔らかなバットコントロールで早稲田大・斎藤佑樹(当時1年、早稲田実)から左中間へ長打を放ち、まず1点。さらに同点を狙って一塁走者も三塁を駆け抜けて本塁を狙ったのものの、あえなく憤死。その時ゲームは終了し、九州国際大の敗戦が決まったのでした。本塁封殺のプレーを二塁ベース上から見守っていた松山、敗戦が決まった瞬間、被っていたヘルメットを鷲づかみにし、そのヘルメットを思いきりグラウンドに叩きつけて号泣したのでしたその後は、自力で歩くことができず、両脇をチームメイトに抱きかかえられながら、やっとベンチに戻ることができました。◇松山竜平の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「松山竜平の涙」 (2007.6.14) → こちらへ。「松山竜平は地元の野球少年団で、福留孝介の後輩だった」 (2007.11.18) → こちらへ。■高校野球に「涙」はつきものですが、大学野球の「涙」を、ボクはこの時はじめて知りました。※ただその後、大学野球にも「涙」があることをボクは知ったのですが。◇「大学野球の涙」の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「村松伸哉の涙」 (2007.10.13) → こちらへ。「須田幸太、加賀美希昇の涙」 (2008.11.29) → こちらへ。------------------------------------------------------------全日本大学野球選手権大会、組み合わせは次のとおりです。※ただ、これはテレビ(Jスポーツ)の録画予約をする目的でボクが作ったものです。正式な情報は公式ホームページで確認ください → こちら。■6月9日(火)<神宮球場>(1)9:00~ 東海大海洋学部 vs 松山大 (A)(2)11:30~ 道都大 vs 石巻専修大 (B)(3)14:00~ 日本文理大 vs 龍谷大 (C)(4)16:30~ 東海大北海道キャンパス vs 九州国際大 (D)<東京ドーム>(5)9:00~ 白鴎大 vs 高岡法科大 (E)(6)11:30~ 桐蔭横浜大学 vs 大阪教育大 (F)(7)14:00~ 佛教大 vs 中京大 (G)(8)16:30~ 徳山大 vs 富士大 (H)※上記はすべて1回戦。■6月10日(水)<神宮球場>(9)9:00~ 東海大 vs (A)の勝者 (I)(10)11:30~ (B)の勝者 vs 関西国際大 (J)(11)14:00~ (C)の勝者 vs (D)の勝者 (K)(12)16:30~ (E)の勝者 vs 法政大 (L)※上記はすべて2回戦。<東京ドーム>(13)9:00~ 創価大 vs 広島経済大 (M)(14)11:30~ 九州共立大 vs 国際武道大 (N)(15)14:00~ 近畿大 vs (F)の勝者 (O)※上記(13)(14)は1回戦、(15)は2回戦。■6月11日(木)<神宮球場>(16)11:00~ (I)の勝者 vs (J)の勝者 (P)(17)13:30~ (K)の勝者 vs (L)の勝者 (Q)※上記はすべて準々決勝。<東京ドーム> (18)9:00~ (G)の勝者 vs (H)の勝者 (R) (19)11:30~ 東北福祉大 vs (M)の勝者 (S) (20)14:00~ 東洋大 vs (N)の勝者 (T)※上記はすべて2回戦。■6月12日(金)<神宮球場>(21)11:00~ (O)の勝者 vs (R)の勝者 (U) (23)13:30~ (S)の勝者 vs (T)の勝者 (V)※上記はすべて準々決勝。■6月13日(土)<神宮球場>(23)11:00~ (P)の勝者 vs (Q)の勝者 (W)(24)13:30~ (U)の勝者 vs (V)の勝者 (X)※上記はすべて準決勝。■6月14日(日)<神宮球場>(25)13:00~ 決勝 今日も1クリックお願いします
2009.06.07
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■先週終了した東京六大学・春季リーグ。恒例によりボクなりに「勝手に総括」をしたい。第1回目の今日は各チームの「数字」の比較から。◇「勝手に総括する」の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「東京六大学(08年秋)を勝手に総括する!」 (2008.11.3) → こちらへ。「甲子園(08年夏)を勝手に総括する!」 (2008.8.17) → こちらへ。順位大学名 打撃 投手 打率 平均得点 防御率 四死球率 奪三振率1法政大0.3005.251.41 1.82 7.87 2早稲田大0.2344.382.72 2.72 10.36 3明治大0.2283.642.13 3.90 8.91 4慶応大0.2484.273.09 3.38 4.69 5立教大0.2273.543.05 4.96 5.49 6東京大0.1970.907.38 9.49 3.27 ■上記表の「(1試合あたりの)平均得点」と「防御率(9回あたりの平均自責点)」の「差」が、そのまま順位に現れた。1位 法政大 3.842位 早稲田大 1.663位 明治大 1.514位 慶應大 1.185位 立教大 0.496位 東京大 ▲6.48優勝した法政大の安定感が傑出、投打の歯車が見事にかみ合って完全優勝を果たした。 ■次に打撃のこと。法政大のチーム打率は3割ちょうど。しかも1試合あたりの平均得点が5.25は他チームと比較して群を抜いている。一方、優勝候補だった早稲田大の打率は2割3分4厘、平均得点が4.38。早稲田大打撃陣の不振の理由はハッキリしている。それは、4番・原寛信(3年、桐蔭学園高)が極度のスランプに陥ったこと。今季の打率が2割7分3厘、そして本塁打が1では、あまりに物足りなく感じる(原にしては)。その1本の本塁打は、対立教大1回戦で戸村健次(4年、立教新座高)から放ったもの。だが、その当たりは本来のものではなく、バットにかすっただけのものだった。(だからこそスゴイ打者とも言えるのだが) ■そして投手のこと。法政大のチーム防御率1.41は断トツ。与四死球率1.82は投手陣の安定感を表している。武内久士(4年、徳島城東高)は故障で今季一度もベンチに入らず、加賀美希昇(3年、桐蔭学園高)もシーズン中盤以降は故障でベンチを外れたのにこの数字を残せたのはスゴイ。その理由にはエース・二神一人(4年、高知高)の活躍はもちろんだが、三嶋一輝(1年、福岡工高)や三上朋也(2年、県岐阜商高)の台頭があった。明治大・野村祐輔(2年、広陵高)はずっと好調を維持していたが、早明戦で乱れたことがきっかけとなり、後半は調子を崩した。そもそも得点力の高くない明治大、エース・野村の不調が優勝を逃した(直接的な)要因となった。そして早稲田大の投手陣。斎藤佑樹(3年、早稲田実)、大石達也(3年、福岡大大濠高)や福井優也(3年、済美高)ら、レベルが高く経験豊富な投手が揃っているため、「奪三振率」は他チームを圧倒した。ただ、斎藤が対法政大3回戦でKOされたことが、チームからリズムを奪ったように思える。※第2回目以降は、各チーム別のことをボチボチと書かせていただきます。 今日も1クリックお願いします
2009.06.06
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■東京六大学の春季リーグ戦が終了し、既報のとおりベストナインが発表された。そして、投手部門では法政大の二神一人(4年、高知高)が初受賞した。■もちろんその結果に異論はない。ただ、立教大・戸村健次(4年、立教新座高)だって、あることさえクリアできれば、十分に受賞を狙えたのになぁ・・・と、ボクは少し残念に思っている。その「あること」とは・・・。投手十傑(防御率)で堂々の7位にランクインした戸村(2.98)だが、彼の弱点は、1回戦目は好投するのに、3戦目は必ずボロボロにされてしまうこと。勝ち点を争う大学野球の場合、エースは同一カードの1回戦と3回戦の2試合に登板することが、(ある意味)宿命になっている。だから最低限「中一日」で登板が可能なスタミナが必要になるのだけど、悲しいかな戸村。そのスタミナが絶対的に不足しているようなのだ。■今季、戸村の「1回戦」と「3回戦」の比較表を作成したのでご覧ください。(今季9試合に登板し、1回戦の登板が5試合、3回戦が3試合、2回戦が1試合)(1回戦と3回戦の比較表) 勝 負 防御率 奪三振率与四死球率1回戦登板時 3 1 1.59 6.35 5.033回戦登板時 0 1 7.84 3.48 7.84ご覧のとおり、1回戦登板時には防御率が1.59(これは、二神の1.41に次いで投手十傑の2位に相当する)。でも、3回戦の数字は一転して7.84に急降下してしまう体たらく。1試合あたりの自責点が8点弱では、エースと呼ばれる投手の成績ではない。開幕戦(4月11日、対慶應義塾大戦)で見せた躍動感溢れるピッチングを、秋季リーグでは、1回戦だけでなく3回戦でも、ぜひ見せてほしいものだ。◇戸村健次の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「戸村健次、好試合を制す!」 (2009.4.11) → こちらへ「立教、戸村健次も野手も変だぞ 」 (2009.5.9) → こちらへ今日も1クリックお願いします
2009.06.04
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■以下、日刊スポーツより。6季ぶり優勝の法大から5選手がベストナイン入りした。松本雅俊内野手(4年=関西)が4割4分7厘で首位打者、二神一人投手(4年=高知)が最優秀防御率(1・41)に輝いた。 法大多木裕史内野手(1年=坂出)が遊撃手として史上初の1年春のベストナインに輝いた。打率6位で、12打点は2位。野手では05年春の早大・上本(現阪神=二塁手)以来となった。首位打者の松本雅、エース二神ら5人がベストナイン入り。4日に優勝パレードを行うことも決まった。全日本大学野球選手権(9日開幕)に向けて、二神は「トーナメントなので1つ1つ集中したい」と95年以来の日本一を目指す。(以上、日刊スポーツより)---------------------------------------------------------------ベストナインに選出された選手名は次のとおり。投手 二神一人(法政大4年、高知高)捕手 石川修平(法政大4年、小山西高)一塁手 謝敷正吾(明治大3年、大阪桐蔭高)二塁手 松本雅俊(法政大4年、関西高)三塁手 漆畑哲也(慶應義塾大4年、慶應高) ※どの試合だったか忘れたけど、二塁を守っている時に一塁の後ろに 素早くまわりこみ、三塁手の悪送球をカバーしたプレーは見事だった。遊撃手 多木裕史(法政大1年、坂出高) ※1年生ながら受賞は立派。お父さんは坂出高時代の監督らしい。外野手 亀谷信吾(法政大4年、中京大中京高) ※打席に入る時、亀谷は必ずヘルメットを脱いで主審に挨拶をする。 細かなことだけど、こういった姿勢に好感が持てた。外野手 山田敏貴(早稲田大4年、早稲田実) ※もちろん、この選手は知っていた。でもこれほど思い切りのいい打撃を する打者であることは今季まで知らなかった。外野手 小島宏輝(早稲田大4年、愛工大名電高) この選手たちの中で2度目の受賞は亀谷信吾のみ。他は全員が初受賞だ。漆畑や小島までが初受賞というのは、正直言って驚いた。--------------------------------------------------------------- そして投手部門のベストナインに輝いた二神一人は、相当に嬉しいに違いない。大学入学後、昨年まではたったの通算2勝投手に過ぎなかったのだから。(ひょっとしたら)そういった晴れがましい賞など、本人は縁遠いものと思っていたかもしれない。高知高時代も3年時にエースとして甲子園出場を果たしたが、決して意気軒昂に出場したものではなく、通常の喜びに満ちた甲子園出場とはちょいと趣の異なるものだった・・・。それはこんな事情があったから。高知県大会の決勝で明徳義塾高に敗退し、本当は甲子園行きのキップを失っていた高知高。ところが、甲子園が開幕する直前になって明徳義塾の不祥事が発覚。結局明徳は甲子園出場を辞退。準優勝だった高知高が繰り上げ優勝となり、慌てて選手が召集され、練習もそこそこに甲子園に赴いたのが真相だった。◇明徳義塾高の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「明徳義塾が甲子園辞退とは?! 」 (2005.8.4) → こちらへ◇高知高の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「高知高は、強豪を相手に大健闘!でした。」 (2005.8.10) → こちらへ結局は強豪・日大三高に初戦で敗退し、せっかくの甲子園出場といった勲章も、二神本人にとってはどこかしっくりこなかっただろうとボクは予想している。いつも誰かの後塵を拝してきた(※)経緯(失礼!)があるだけに、二神にとって今回の受賞は思い切り喜べる受賞だっただろうとボクには思えるのだ。(※)1.法政大投手陣では、一学年上だった小松剛(現・広島、室戸高)がいた。同学年では武内久士(4年、徳島城東高)、一学年下には加賀美希昇(3年、桐蔭学園高)らがいる。2.高校時代に決勝で対戦し敗れた明徳義塾高には、現・早稲田大の松下建太(4年)がいたし、野手には現・亜細亜大の中田亮二(4年)がいた。3.甲子園の初戦、敗れた相手の日大三高にはエース・大越遼介(現・明治大4年)がいたし、当時の野手陣もそうそうたる顔ぶれが揃っていた。例えば、現・立教大の中山怜大(4年)がそう。そして現在の明治大にも多数の日大三高OB(当時)たちがいる。千田隆之(4年)、多田隼仁(4年)や荒木郁也(3年)など。 1日1クリックお願いします
2009.06.01
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