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与田剛、現在、WBC日本代表の投手コーチを山田久志(能代高-富士製鉄釜石)とともに務めている。コーチとしての能力は未知数ながら、これまでNHKで続けてきたメジャーのテレビ解説は高く評価されている。1990年、自慢の快速球を武器に、中日に入団1年目から抑えの切り札として活躍。31個のセーブポイントを挙げる大活躍を見せ、新人王と最優秀救援投手賞を獲得した。だが、肩とヒジの故障に悩まされ、2年目は2S、3年目は23S、4年目は3Sと成績は急降下。以降は各球団を渡り歩かざるを得ない苦境に陥った。たいへんな苦労人なのだ。■96年シーズン途中にトレードで中日からロッテに移籍■97年オフ、ロッテを自由契約(解雇)■98年オフ、テスト入団した日本ハムを自由契約(解雇)■00年オフ、トライアウトで入団した阪神だったが、一軍での 登板はなく1年だけで現役を引退した(解雇)一年前、朝日新聞に元TBSアナだった木場弘子さんのインタビュー記事が掲載された。言うまでもなく与田剛の奥さんで、これまでの結婚生活を振り返る内容のものだった。プロ野球選手の妻としての苦労ぶりがわかり、ボクはその内容を今もよく憶えている。見出しは、「新人賞の栄誉と、1度の移籍と、3度の解雇」だった。「プロ野球選手の夫人は、とかく栄養や料理が大切と言われます。もちろんそれは大事なことですが、もっと大切なことがあるんですよ。それは、夫のメンタル面のケアなんです」そして、「どれだけ夫のメンタル面をささえてあげることができるか? それが重要です」と木場さんは話していた。プロ野球選手、言葉を変えれば「明日の保証がない自営業」であり、「毎日が勝敗の決まる勝負師」でもある。だから、ご主人(選手)は常に大きなストレスにさらされていて、夫人の気苦労も相当なものなんだろう。いま、的確な解説で評価を得ている与田、これまでの「夫婦物語」が陰にあったのだ。与田剛(木更津中央高-亜細亜大-NTT東京)。<木更津中央高時代>■チームメイト■後にプロ野球に進んだ選手はいない。■千葉県内のライバル■芝浦工大柏高に小宮山悟(現・ロッテ、早稲田大)、一学年下には拓大紅陵高の小川博文(元・オリックス)がいた。■甲子園のライバル■甲子園に出場していない。与田が高校3年だった1983年夏、全国制覇したのは桑田真澄(1年、元読売)や清原和博(1年、元読売)のいたPL学園高だった。<亜細亜大時代>故障がちで4年生になってから1勝を挙げたのみ。■チームメイト■一年先輩に阿波野秀幸(元・近鉄、横浜市立桜丘高)、パンチ佐藤(元・オリックス、武相高)。二年先輩には古川慎一(元・ロッテ、春日部工高)がいた。■東都大学リーグのライバル■駒澤大・野村謙二郎(元・広島、佐伯鶴城高)らがいた。■全国大学のライバル■立教大・長嶋一茂(元・読売、立教高)、矢作公一(元・日本ハム、立教高)、慶應義塾大・志村亮(桐蔭学園高)、立命館大・古田敦也(元・ヤクルト監督、川西明峰高)、明治大・武田一浩(元・日本ハム、明大中野高)らがいた。 ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.28
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前回書いた「仰木彬と権藤博の対立」の続き。その確執ぶりは「10・19」のダブルヘッダーのあるシーンにも見ることができました。そのシーンとは・・・、ボクの勘ぐり過ぎかもしれませんが・・・(たしか)第2試合の8回裏のことでした。すでに1点をリードし、逃げ切りをはかりたい近鉄ベンチには、仰木彬監督と、その隣りでイスに腰掛ける権藤博投手コーチの姿がありました。2人は目を合わさず、どちらもグラウンドに目をやりながら、言葉を交わしているようでした。(次のような会話が交わされていたのかもしれません)(仰木監督)「この場面は、阿波野を救援に出そう」(権藤コーチ)「えっ、また、阿波野ですか? 2日前にも完投して、さっき(第2試合)も投げさせたじゃないですか。ムリをさせると、阿波野がツブれてしまいます。この場面は阿波野は止めましょう」その後、救援投手として三塁側のブルペンからマウンドに歩を進めたのは、阿波野秀幸(横浜市立高-亜細亜大)でした。自ら酷使が原因で、短い現役生活だった権藤さん。投手を酷使する起用については、相手が監督だろうと遠慮なく直言するコーチでしたが、さすがにこのシーンは「勝利のためには無茶な投手起用を厭わない」と言われることもあった仰木監督の主張を受け入れるしかなかったのかもしれません。※結局この後、阿波野は高沢秀昭(現・ロッテ二軍コーチ、苫小牧工高)からソロ本塁打を浴びて同点になり、近鉄の優勝は消えてしまいました。そして1年後の日本シリーズ。「10・19」から足かけ2年、昭和と平成をまたいでパ・リーグの優勝を飾った近鉄バファローズはセ・リーグの覇者、読売と対戦しました。近鉄が3連勝した後に4連敗を喫し、加藤哲郎(宮崎日大高)のビッグマウス(「巨人はロッテより弱い」発言)が話題になったのがこの時でした。近鉄は昨年と同様、仰木監督と権藤コーチのコンビが続いていました。幸先よく3連勝を挙げ王手をかけた近鉄。そもそも1・4・7戦はエースの阿波野を起用することを権藤コーチと確認していた仰木さん、予定どおり一気に優勝を決めにかかるつもりでした。ところが、権藤さんはその年の労をねぎらってか、12勝を挙げた小野和義(現・西武コーチ、創価高)の先発を主張。仰木さんはそれを受け入れたのですが、結局その後に4連敗する引き金となってしまいました。もし、第4戦を阿波野で行っていたら・・・?『近鉄球団、かく戦えり』(浜田昭八著、日経ビジネス人文庫)には、次のようなことが書かれていました。予定どおり阿波野で行くと、監督命令で押せなかったのを、仰木は悔やんだ。「やがて彼(権藤)も監督をするだろう。そのとき、あのケースでエースを使わないだろうか」とポツリと言った。この一件を機に、権藤さんは契約満了を待たず、日本シリーズ終了後に近鉄を退団しました。1998年、権藤さんが横浜を率いて日本一になりました。仰木さんとの対立でユニフォームを脱いだ時から9年後のことでした。 ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.28
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WBC・強化試合(日本代表11-2豪州代表、25日、京セラドーム)3月開催のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で2連覇を目指す日本代表の守護神、藤川球児投手(28)=阪神=が、仁王立ちだ。先頭打者に四球を許したものの、その後、3連続奪三振。本格的なWBCモードに突入した球児が、圧巻の投球で順調な仕上がりを見せつけた。 サムライジャパンのラストシーンは藤川が決める。浪速の野球ファンの歓声が心地いい。風格を漂わせながらマウンドに上がり、その右腕で試合を締めくくった。 「本番と思いながら投げました。いいものが出ても、悪いものが出ても、今はすべてプラスに考えられますから。あとは力強く投げていけるように、ですね」 藤川にとってはリベンジの機会となる国際舞台。3年前の第2ラウンドでは米国戦、韓国戦でリリーフに失敗。昨夏の北京五輪でも、大事な場面で失点した。世界を相手にまだ結果を残していない。今回こそ勝利に貢献する。その重圧を背負う覚悟はできている。 (サンスポ) サムライジャパンのラストシーンを決めるのは、記事のとおり藤川球児か、それとも馬原孝浩(ホークス、熊本市立高-九州共立大)か。山田久志コーチは馬原をかっている、という報道もかつてあったが・・・。藤川球児(高知商高)。ボクが初めて藤川をナマ観戦したのは1997年8月、夏の甲子園・2回戦、高知商高-平安高戦。ただ、お目当ては藤川ではなく、当時人気だった平安高のエース・川口知哉(元・オリックス)。ボクに限らず、この日スタンドを埋めたファンの多くが注目していたのは川口だった。試合開始前、川口がグランドに姿を現しただけで、「ウォ~!」と地響きのような歓声があがったのには驚いた。だからこの試合の藤川、どちらかというと、スター・川口の「敵役」といった役回りだったかもしれない。当時、藤川の球が速かったかはまるで憶えていない(記録を見ると川口に伍して10三振を奪っていたようだけど)。記憶にあるのはバッテリーを組んだ兄・順一(現・四国九州IL、高知GM)のほう。弟を懸命に支えているような捕手ぶりと、気合いの入った打撃に注目したものだった(試合は0-5で藤川のいる高知商高が敗退)。<高知商高時代>■チームメイト■兄弟バッテリーを組んだ兄・藤川順一。■高知県内のライバル■明徳義塾高・寺本四郎(元・ロッテ)、高知高・土居龍太郎(元・横浜、法政大)らとトリオで「高知三羽烏」と呼ばれた。■甲子園のライバル■前出の川口知哉のほか、先頃、WBC代表選手から落選した浜田高の和田毅(現・ホークス、早稲田大)や秋田商高の石川雅規(現・ヤクルト、青山学院大)らがこの大会に出場していた。※川口知哉のいる平安高は決勝までコマを進めたが、高塚信幸(元・近鉄)のいた智弁和歌山高にスコア3-6で敗退した。今日も1クリックをお願いします
2009.02.26
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いま豪州との強化試合が京セラドームで行われている。昨日に続き、今日も日本代表が大勝した。ま、失策が相次ぐ豪州に大差をつけて勝利するのは、とりたててニュースと言えるものではない。ただ昨日の豪州戦で、レフトに犠飛を打ち上げた岩村明憲のバッティングは立派だった。先週の日曜日、マクドナルドでクオーターパウンダーを注文したところ、WBCグッズのクリアファイルをもらった。ボクがもらったものの表面には岩村明憲(現・レイズ、和島東高)の顔が大写しだった・・・。岩村明憲(宇和島東高)兄・敬士(宇和島東高-日体大中退)と同時に、96年のドラフトでヤクルトへ入団した。※ちなみに敬士は近鉄に入団はしたものの、近鉄球団ともめごとがあったようでたった2年間で現役を引退している。それが影響してか「明憲は近鉄が嫌いだ」と一部で報道があった。まったく別な話だけど、「明憲は古田敦也監督を嫌い。ヤクルトを出たがっている」との報道もあった。<宇和島東高時代>甲子園に出場経験はないが、1995年の全日本高校選抜の4番を務めた。高校通算本塁打は26、「四国の怪童」とも呼ばれた。※「四国の怪童」といえば、ボクが真っ先に思い出すのは元・近鉄バファローズのコーチだった中西太さん。「知将」「魔術師」と呼ばれた故・三原脩氏(高松中-早稲田大)からプロ野球の世界に導かれた、西鉄ライオンズの選手でした。三原さんの娘婿でもあります。「投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びてバックスクリーンを超えた」(wikipedia)という伝説を残すほど、中西さん打撃は強烈だったそうです。■チームメイト■一年先輩に現・ヤクルトの宮出隆自がいた。宮出とはバッテリーを組んだこともある。■愛媛県内のライバル■松山中央高に現・ホークスの山村路直(九州共立大)。また一年先輩には、現・日本ハムの藤井秀悟(早稲田大)がいた。■甲子園のライバル■96年、愛媛県の準決勝で、その後甲子園で優勝した松山商高に敗れ、甲子園には出場していない。※話題は変わりますが、96年夏、甲子園の決勝戦・松山商高vs熊本工高を憶えていますか? 甲子園の歴史に残る名試合でした。 以下、『プロ野球選手の甲子園伝説』(宝島社刊)より引用。延長10回裏、熊本工高は一死満塁とし、3番・本多大介の打球は右翼へ。だれもが「決まった」と思った次の瞬間、代わったばかりの松山商の右翼手・矢野勝嗣が本塁へダイレクト返球を見せ、三塁走者の星子崇がタッチアウト。ビッグプレーで九死に一生を得た松山商は、11回表に勝ち越し、そのまま27年ぶりの全国制覇を果たした。この感動のシーンの動画はこちら。今日も1クリックをお願いします
2009.02.25
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WBCに臨む原ジャパンは22日、宮崎合宿に参加していた33人の中から最終登録メンバーとなる28人の侍を選抜。大砲の松中、栗原を外して、前回2006年大会で成功したスモールベースボール路線を継承した。投手選びも意外な結果となった。精神的な重圧で調子を崩しているとはいえ、伸び盛りの好投手、岸が選から漏れた。さらに、国際経験豊富な和田ではなく、同じ左腕ながら経験の少ない内海を選出した。「将来の日本代表のために、経験を積ませることも大事。経験(の量)は大事だが、そればかりだと世代交代が進まない」と与田コーチは説明したが...。 (夕刊フジ) 昨日朝、ボクは「和田毅の高校・大学時代」をアップしたばかりでした。なのに、その直後、和田毅(現・ホークス、浜田高-早稲田大)はWBC最終メンバーから落選してしまいました。「まさか、和田が・・・、なぜ・・・・???」 ボクにとっては、ちょいとショックな出来事でありました。そして、岸孝之(現・西武、名取北高-東北学院大)までもが落選。米国の使用球が指になじまず、合宿中はずっと苦しんでいたという報道もありました。でも、原辰徳監督(現・読売監督、東海大相模高-東海大)は、投手の最後の一人を決める際、「岸をメンバーに入れて、馬原孝浩(現・ホークス、熊本市立高-九州共立大)を落とそう」というハラだったといいます。そう報じていたのは日刊ゲンダイ。「昨年(2008年)の日本シリーズで見た岸のカーブは、なかなか打ちずらい球で世界を相手にしても通用するはず。一方の馬原はまだ故障あがり。信頼度は低い」と。それに真っ向から異を唱え、馬原を推したのは山田久志投手コーチ(元・阪急、能代高)。結果は岸が落選して、山田コーチの意見が通った格好です。監督とコーチ、意見の対立は「つきもの」のようです。--------------------------------------------------------------さて、すでに消滅した「近鉄バファローズ」のこと。伝説となった「10.19」。ボクにとっては、ただただ感動した試合ではありましたが、当時の近鉄にも監督と投手コーチの対立があったようです。対立していたのは、仰木彬監督(故人)と権藤博投手コーチ(当時、鳥栖高)。wikipediaには、仰木さんのことを「勝利のためには無茶な投手起用を厭わない場面もしばしば見られた」と書かれています。そのため、近鉄時代には権藤さんや吉井理人(現・日本ハムコーチ)、オリックス時代には前出の山田久志投手コーチと対立があったようです。「10・19」を頂点に、近鉄の大半の選手たちの「運」が、翌年のリーグ優勝を経て下降線を辿ったように見えます。でも、仰木さんと権藤さんはまるで逆。「10・19」を踏み台にして、その後に大きな花を咲かせた印象が、ボクにはあります。後に大きな花を咲かせる2人。その確執ぶりは「10・19」のダブルヘッダーのあるシーンにも見ることができました。そのシーンとは・・・、ボクの勘ぐり過ぎかもしれませんが・・・。(続きは後日) 「10.19」を後々まで伝えたいと思う方、ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.23
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先ほどの続き・・・。2月7日にテレビ朝日が放送した『日本中が見た泣いた壮絶10・19ロッテ近鉄死闘』、いろいろ思い出すことがありました。20年あまりの時間の経過とともに、ついフェイドアウトしそうだった記憶が、また甦るいい機会になりました。特に印象に残ったのは、梨田昌孝が語っていた言葉です。「喜んだり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり、抱き合ったり、いろんな表情を見せてもらった・・・」ボクもこの言葉に共感できます。あの「10・19」は何だったのか? そのことを思う時、梨田が言った言葉がぴったり当てはまるのです。そして、その言葉のような試合がなぜ起きたのか? そんなことを考えました。たぶん、それまでの球団・選手・ファンそれぞれの歴史や思いがこの「10・19」に結実したのであり、その裏には人と人の確執や、挫折を味わったそれぞれの苦い経験が礎になって、選手もファンも同じように感動できる類稀れなドラマが生まれたんだろう。そんな仮説を立ててみました。あまり整理できていないので、テーマを以下のとおり、ランダムに分類してみました。例えば、(1)近鉄の選手たち「10・19」が、現役生活の中で最も輝いたように見える選手がたくさんいました。阿波野秀幸、村上隆行、鈴木貴久、吹石徳一などの「生え抜き」組がそうでしたし、淡口憲治、新井宏昌などの移籍組だって、ひとつひとつのプレーに魂が込められていて、とても輝いていました。(2)近鉄の首脳陣たち何と言っても仰木彬監督が「10・19」の主役でした。18年にも及ぶコーチ生活を経て、やっと監督に就任したその年に「10・19」が生まれました。西鉄時代の同僚・中西太がヘッドコーチを務めていたこと自体がドラマでした。ただ、三原脩を師と仰ぎ、勝利のためなら投手を酷使する流れを汲む仰木さんの手法は、権藤博・投手コーチとの確執を生み、そのまま、「10・19」を迎えていたようです。(3)ロッテの首脳陣・選手たちロッテがなぜ、「10・19」にあんなに必死になれたのでしょう?有藤道世監督の執拗な抗議、「ジス・イズ・プロ野球!」と呼ばれた水上善雄。そして本塁打を放ち、首位打者になるべく打率を稼いだ後は、一切試合に出場しなかった高沢秀昭は、それで本望だったのでしょうか?(4)近鉄球団「パ・リーグのお荷物」と言われた時代から「10・19」まで。55年に及ぶ球団経営を、いったいどう総括したらいいのでしょう? (5)ファンなぜボクを含め、マイナーな近鉄バファローズという球団の応援を続けたのでしょう?そして、「10・19」にあれだけ燃えることができたのは、それまでの近鉄球団への「自虐的な(屈折した)思い」が一層拍車をかけていたのではないか? そんなことを思ったりしています(笑)※いずれにせよ、これらはボクの勝手な思いです。近鉄のことを書くとき、この新テーマの『近鉄バファローズを忘れない!』を自由に使って、かつてファンだった皆さんが勝手に思いを書いて、「寄せ書き」みたいになれば嬉しいです。そして10年後も20年後も、近鉄への思いを(少しずつでも)書き連ねることができたら、きっとその先に何かいいことがある! そんなことを期待したいと思います。 「10.19」は素晴らしい試合だったと思う方、ぜひクリックをお願いします
2009.02.22
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今月7日、テレビ朝日で放送された『日本中が見た泣いた壮絶10・19 ロッテ近鉄死闘』に、あらためてボクは感動してしまいました。この番組の影響で、ともするとフェイドアウトしがちだったボクの近鉄バファローズへの記憶が再び蘇ってしまった、実にそんな感じなのです。のちに「江夏の21球」と語られるようになった1979年の日本シリーズ・対広島カープ第7戦や、1989年の読売との日本シリーズのこと。この日本シリーズでは3連勝した後に4連敗を喫し、「加藤のビッグマウス」は後々まで語られる伝説となりました。そして何より感動したのは、テレビ朝日が放送した「伝説の10・19」。今から20年ほど前、1988年10月19日の近鉄-ロッテダブルヘッダーが、つい最近のことだったように思い出されます。ボクはこの試合を川崎球場でナマ観戦していました。あの時の感動を忘れないためにも、このブログで近鉄バファローズのことを少しずつ書いていきたいと思います(これまで以上に!)。楽天ブログの新テーマに『近鉄バファローズを忘れない!』を作りました。このテーマを通じて、すでに消滅した近鉄の記憶を微力ながら語り継ぐことができたらいいな、なんて希望をもちつつ書き始めることにします。 近鉄ファンだった方、よろしければ新テーマ「近鉄バファローズを忘れない!」に、ブログを書いてみてください。少しずつではあっても、近鉄バファローズの記憶をここに残しませんか?
2009.02.22
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宮崎で合宿中のWBC・日本代表候補は21日、サンマリンスタジアム宮崎で、初の実戦となる巨人との練習試合を行い、10-0で大勝した。投手陣では、2番手の田中(楽天)が2回3分の1を投げ無安打ピッチング。先発・和田(ソフトバンク)、3番手・内海(巨人)の両左腕も無失点の安定した投球だった。一方、終盤に登板した馬原(ソフトバンク)、藤川(阪神)は安打を許し、課題を残した。○...先発マウンドに立ち、3回途中まで1安打、1四球で無失点に抑えた和田。一回2死一塁で、ラミレスに対し、カウント2-2から外角への直球で三振を奪うなど上々の結果だった。それでも本人は、直球がややスライドしていたのが不満だったようで「結果オーライだった」。城島(マリナーズ)と、ソフトバンクで一緒にプレーしていた05年以来のバッテリーを組んだのには「昔、やっていた感覚で投げられた」と、不安なく投球できたようだ。(毎日新聞) 和田毅、現在ホークスでチームメイトの杉内俊哉と同様、いわゆる「松坂世代」の投手のひとり。また、このブログ「あま野球日記」にとって、奪三振数を話題にするたび、よく登場する投手名である。東京六大学リーグの奪三振数では、法政大・江川卓(元・読売、作新学院高)の記録(443個)を抜き、476個の最多記録保持者ゆえ。wikipediaを見て、和田の家族は「スポーツ一家」であることを初めて知った。父親は日体大で野球部の選手、1973年には首都大学リーグの首位打者(打率.433)に輝いた実績をもつ。弟も立教大で野球をやり、今は地元・島根の県立高校で野球部の監督を務め、母親はかつて実業団のバレーボール選手だった。また、和田の奥さんの義父は佐藤道郎(日大三高-日本大)。※佐藤道郎は野村克也(現・楽天監督)が南海ホークスの監督だった時代(1970年代前半)に、同チームで活躍した名リリーフ投手。日本大時代にも活躍し、東都大学リーグ・年間勝利数の記録(16勝)を持っていた。だが07年、東洋大・大場翔太(現・ホークス、八千代松陰高)に破られた(17勝)。和田毅(浜田高-早稲田大)<浜田高時代>1997年夏(2年生)、98年夏(3年生)の2回、甲子園に出場している。97年はエース・石川雅規(現・ヤクルト、青山学院大)を擁する秋田商高に初戦敗退した。この試合、最終回に入るまでは浜田高が2点リードしていた。ところが、9回に和田が突然乱れ、8番打者の石川に押し出し四球を与えてサヨナラ負けを喫した。98年は3回戦で帝京高と対戦。森本稀哲(現・日本ハム)にセンターオーバーの2点本塁打を浴びながらもスコア3-2で辛勝。準々決勝で古木克明(現・オリックス)のいた豊田大谷高に延長の末、惜敗した。■高校時代のチームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■島根県内のライバル■邇摩高の清水清人(元・中日)や、97年の島根県大会決勝で浜田高に敗れた矢上高の酒井順也(元・読売)がいた。■甲子園のライバル■前出の石川雅規、森本稀哲、古木克明など「松坂世代」と呼ばれる選手たち多数。<早稲田大時代>■大学時代のチームメイト■後にプロに進んだ選手が多数いるため、02年秋季リーグ・早慶戦第2戦(最終戦、02年11月3日)のスタメンをそのまま紹介します。※この時が和田にとってリーグ戦最後の試合。1番 (4) 田中浩康 (現・ヤクルト、尽誠学園高)2番 (9) 青木宣親 (現・ヤクルト、日向高)3番 (6) 鳥谷敬 (現・阪神、聖望学園高) 4番 (5) 比嘉寿光 (現・広島、沖縄尚学高)5番 (7) 伊藤貴 (現・?、秋田高)6番 (3) 武内晋一 (現・ヤクルト、智弁和歌山高)7番 (8) 由田慎太郎 (現・オリックス、桐蔭学園高) 8番 (2) 坂本康朋 (現・?、敦賀気比高)9番 (1) 越智大祐 (現・読売、新田高)※尚、和田は前日の試合で完投勝利し、この試合は3番手投手として登板した。■東京六大学リーグのライバル■上記の試合、敗戦投手になったのは慶應義塾大の長田秀一郎(現・西武、鎌倉学園高)。他にも多数いるが、例えば立教大・多田野数人(現・日本ハム、八千代松陰高)、法政大には土居龍太郎(元・横浜、高知高)や後藤武敏(現・西武、横浜高)がいた。■全国大学のライバル■亜細亜大の木佐貫洋(現・読売、川内高)、永川勝浩(現・広島、新庄高)、九州共立大の新垣渚(現・ホークス、沖縄水産高)、日本大・館山昌平(現・ヤクルト、日大三高)、同じく日本大の村田修一(現・横浜、東福岡高)、専修大・江草仁貴(現・阪神、盈進高)、東海大・久保裕也(現・読売、沖学園高)、神奈川大・加藤大輔(現・オリックス、九州国際大付高)、創価大・小谷野栄一(現・日本ハム、創価高)ら多数。※最後に。和田が早稲田大を卒業時(02年)、近鉄バファローズの梨田昌孝監督(当時、現・日本ハム監督)は、島根・浜田高の後輩である和田を熱心に勧誘していた。残念ながら、和田はホークスを選択し、ボクはガッカリしたことが当時の苦い思い出ではある。同年、和田に振られて、近鉄が1位指名したのは坂口智隆(現・オリックス、神戸国際大付高)。この坂口、遅まきながら昨年は大ブレーク。142試合に出場し、ゴールデングラブ賞を獲得した。ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.22
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WBC「33分の28」...5人の"落ち武者"はダレ?28人の最終登録メンバー入りを目指して、33人のWBC代表候補たちのサバイバル戦が始まった。ふるい落とされる5人は誰か? ポジション別に占ってみた。 【投手(15人から2人落選)】 黒田(ドジャース)の辞退で追加招集された岩田(阪神)がピンチ。シート打撃などの実戦練習がスタートする17日から、すぐに結果を出さないと苦しい。また、球数制限がある先発が降板したあとを受ける中継ぎ枠の争いが厳しい。田中(楽天)内海(巨人)、小松(オリックス)、渡辺(ロッテ)も合宿最初から飛ばしていく必要がある。 (夕刊フジ) 渡辺俊介(國學院栃木高-國學院大-新日鉄君津)。「世界一低い(地上3cm)」アンダースロー投手と言われている。120km台の直球にスライダーとシンカーを中心に90km台のスローカーブを織り交ぜた巧みな投球術をもち、プロでの現役8年間で通算65勝(44敗)の成績を残している。世界大会の経験も豊富だ。西武・松坂大輔(現・レッドソックス、横浜高)、ホークス・杉内俊哉(鹿児島実高-三菱重工長崎)、ホークス・松中信彦(八代一高-新日鉄君津)らとともに、2000年に開催されたシドニー五輪の日本代表選手に選出された(結果はメダルなしだったが)。2003年の第1回WBCにも出場、この時は金メダルを獲得し、渡辺は優勝に貢献した。<國學院栃木高時代>エースで4番の元・西武の小関竜也に次ぐ2番手投手だった。甲子園の出場経験はない。後にプロの世界で大活躍する投手にしては、地味め高校生活だったかもしれない。■高校時代のチームメイト■前出の小関竜也がいた。■栃木県内のライバル■特に著名な選手はいなかった。■甲子園のライバル■甲子園には出場していない。ちなみに渡辺が高校3年だった1994年夏、甲子園優勝したのは佐賀商高。この時、佐賀商高の臨時コーチを務めていたのは、OBの香田誉士史(現・鶴見大コーチ)。当時の身分はまだ駒澤大野球部の部員だった。そして翌年、大学を卒業直後に北海道へ渡り、駒大苫小牧高の監督に就任。駒苫を強豪校に育て上げた実績は周知のとおり。<國學院大時代>東都大学リーグの二部の國學院大へ進学した理由は、野球部の監督・餅田正美氏(当時)が渡辺の父親と國學院大野球部の同期だったということらしい。また、二年先輩に宮田仁(日産自動車、横浜市立桜丘高)というアンダースロー投手がいたことも決め手になったという話もある。渡辺が入籍した当時の國學院大は、東都大学リーグ2部の常連だった。だから、書籍『神宮の奇跡』(門田隆将著、講談社刊)で最近話題になった学習院大等がライバルだったようだ。2006年、國學院大の後輩たちが入替戦に勝利し、1部に復帰を果たした時、渡辺は自身のブログにこんなことを書いていた。「なんと私の母校、國學院大學が東都大学リーグで1部昇格をついさっき決めました。僕が在学中は2部で3部との入れ替え戦もやったりと、1部には遠い存在のチームでしたので本当にうれしいです。最近ではプロ入り選手も増えて、本当に層の厚い強いチームになってきていたので期待していたのですがついに昇格しました。秋から神宮球場で戦う後輩の姿が見れると思うと本当に感動します」ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.19
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WBC日本代表合宿(17日、サンマリンスタジアム宮崎)山田久志投手コーチ(60)は17日、松坂(レッドソックス)、ダルビッシュ(日本ハム)、岩隈(楽天)、杉内(ソフトバンク)の4投手を、強化試合の豪州戦(24、25日・京セラドーム大阪)に登板させることを明かした。25日にメンバー28人が正式登録されるため、4人の代表入りは当確となった。 杉内以外は「先発3本柱」に指名しており、同コーチは「本人たちには告げました。私と監督、本人だけが知っています」と、東京ラウンドでの先発も通達済み。21、22日に練習試合を行う巨人打線も強力だが、最後の調整登板は外国人を相手に、本番直前の"国際試合勘"を養う狙いだ。(サンスポ) 松坂大輔、ダルビッシュ有、岩隈久志の3人に加え、杉内俊哉(ホークス)が事実上、投手部門で確定したらしい。山田久志コーチが来週行われる強化試合(対豪州戦)に、この4人を登板させることを話したことで明らかになった。杉内俊哉(鹿児島実高-三菱重工長崎)。多種の変化球を自在に操った制球力が武器の投手。そして、いわゆる「松坂世代」の一人である。<鹿児島実高時代>1998年夏、杉内が高校3年の時、鹿児島県大会の決勝で川内高・木佐貫洋(現・読売、亜細亜大)と投げ合い、優勝を争ったことがある。結果はスコア3-1で杉内のいた鹿児島実高が優勝を決めたが、後日、敗れた木佐貫はこんなコメントを残している。「僕にとって甲子園は行きたかった所。でも杉内君にとっては行かなければいけない所であって、その差が決勝の勝敗を分けました」調べてみると、杉内の家庭は貧しく、プロに行って早く家計を助けなければいけないといった使命感をもって、高校時代からマウンドに立っていた事情が背景にあったようだ。そして木佐貫。実は中学を卒業する時、名門・鹿児島実高に進学することが決まりかけていた。だが、川内高野球部コーチの熱心な誘いを受けて進路を変更した経緯がある。もし当初の予定どおり鹿児島実に進学していたら、杉内とチームメイトになってお互いにエースナンバーを競っていた可能性がある。そういった人と人の「結びつき」や「縁」というのは、たとえすれ違いであっても面白い。--------------------------------------------------------------------1997年夏(2年生)、そして翌98年夏(3年生)の2回、甲子園に出場している。97年は背番号「10」をつけて先発したものの、浜松工高にスコア2-4で逆転負けを喫した。そして翌98年、1回戦で対戦した八戸工大一高を相手に縦に大きく割れるカーブを駆使してノーヒットノーランを達成。続く2回戦は横浜高と対戦。中盤まで好投したものの、松坂大輔(現・レッドソックス)に2点本塁打を浴るなど、結局スコア0-5で涙を飲んだ。■チームメイト■2年先輩に下窪陽介(現・横浜、日本大-日本通運)がいた。■鹿児島県内のライバル■前出の木佐貫洋をはじめ、樟南には一年後輩の鶴岡慎也(現・日本ハム、三菱重工横浜)、上野弘文(現・広島、トヨタ)。また、鹿児島工高にも同じく1年後輩の川崎宗則(現・ホークス)がいた。■甲子園のライバル■「松坂世代」の選手であるため、多数いる。98年夏に対戦した横浜高には、前出の松坂大輔をはじめ、後藤武敏(現・西武、法政大)、小池正晃(現・中日)、小山良男(元・中日、亜細亜大-JR東日本)らがいた。※余談だけど、木佐貫が亜細亜大に入学したキッカケは、先に亜大進学を決めていた小山良男の熱心な勧誘があったからだという。 ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.18
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「原監督決めた、ダルで開幕戦/WBC」<WBC:宮崎合宿>◇初日◇16日◇サンマリンスタジアムこれがサムライジャパンの必勝ローテだ! 3月5日に開幕するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1ラウンドの先発ローテーションが、第1戦からダルビッシュ有投手(22=日本ハム)、松坂大輔投手(28=レッドソックス)、岩隈久志投手(27=楽天)の順番となることが16日、最有力になった。初戦の中国戦はダルビッシュで勢いづけ、韓国が有力な第2戦は松坂に託す。そして岩隈で1位通過を決めて、米国に乗り込む作戦だ。日本代表候補の強化合宿は、この日宮崎でスタートし22日まで続く。(日刊スポーツ) ダルビッシュ有。日本ハムに入団前はタバコやパチンコでやんちゃぶりを発揮、いったいこの先どうなるんだろう?なんてボクは思った時期もあった。また甲子園大会では、長打を放ち二塁へ駆け込みざま、息の上がっているダルビッシュの表情をテレビカメラが捉えたことがあって、それを見た評論家の中には、「ちゃんと基礎体力はできているのか?」と疑問を呈するムキもあった。ところが、今や日本代表の堂々たる「エース」格の投手に成長。後輩の選手たちを引っ張るリーダーシップも発揮しているから、不思議といえば不思議なものだ。---------------------------------------------------------------ボクが初めてダルビッシュをナマ観戦したのは、2004年10月に行われた埼玉国体だった。その2か月前(8月)の甲子園では3回戦でエース・松本啓二朗を擁する千葉経大付高に敗退したものの、ダルビッシュの人気は絶大。県営大宮球場には多くの女性ファンが詰めかけていた。県営大宮球場で多くの「追っかけ」軍団を見ることは稀。それに驚いたボクは、ブルペンで投げるダルビッシュの投げる球を見てさらに驚いた。腕を軽く振っているだけなのに、その球は地を這うような低さから捕手の手前で大きくホップしているように見えたから。人気だけでなく、ダルビッシュには十分な実力があることを、ボクはこの時初めて自分の目で確認できた。ダルビッシュ有。<東北高時代>2年時(2003年)の春・夏、3年時(04年)の春夏の計4回、甲子園に出場した。最も惜しかったのは03年夏。決勝に進出し「白河越え」にもう一歩まで迫ったが、坂克彦のいる常総学院高にスコア2-4で逆転負けを喫した。この試合、常総・木内幸男監督の引退試合でもあり、そのことでも記憶に残るになった。 ※尚、木内さんは07年、再び常総学院高の監督に復帰している。■チームメイト■サイドスロー投手の真壁賢守(ホンダ入社予定、東北福祉大)がいた。■宮城県内のライバル■2学年上には名取北高・岸孝之(現・西武、東北学院大)、3学年上には高井雄平(現・ヤクルト)がいた。また3学年下に仙台育英高の佐藤由規(現・ヤクルト)がいた。 ■甲子園のライバル■4度も甲子園に出場しているだけあって、ライバル選手は多い。(以下、ランダム)横浜高・涌井秀章(現・西武)、千葉経大付高・松本啓二朗(横浜入団、早稲田大)、同・井上雄介(楽天入団、青山学院大)。済美高・福井優也(早稲田大・新4年)、同・鵜久森敦志(現・日本ハム)。花咲徳栄高・福本真史(現・TDK千曲川、明治大)。熊本工高・岩見優輝(大阪ガス入社予定、亜細亜大) ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.17
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「男・村田」はサムライジャパンでも「4番三塁」を奪う。宜野湾キャンプ第2クール3日目の8日、村田修一内野手(28)が3月のWBCでも4番三塁の定位置を狙うことを宣言。日本代表の篠塚打撃コーチと高代内野守備走塁コーチが視察に訪れる中、フリー打撃や特守に汗を流し、準備に抜かりはなかった。2年連続本塁打王の打撃はだれもが認める。だが守備に不安の声に「下手だとは思ってない。普通にやれる」と語気を強めた。日本代表での4番三塁には、「理想はそうですね。(守備でリズムをつくることも)シーズン中はしてますから。どうしても守らせない、というなら別ですけど」と、ホットコーナーへのこだわりをにじませた。打撃では国際試合の、外に広いストライクゾーンにも自信を持つ。「(目付けは)変えない。外は好きなんで広がる分、投手も投げてくる。そこを狙って打ちたい」と大好物に網を仕掛ける。(日刊スポーツ) 村田修一、昨年(2008年)も国際大会(北京五輪)に出場した。だが大不振に陥り、23打数2安打、打率は1割に満たない8分7厘。先ほど放送されたスポーツニュースでは「北京五輪では、国際大会のプレッシャーに負けた」と述懐していた。そして、「未熟児で生まれ生死の淵をさ迷いながら生き抜いた、3歳になる息子のためにも頑張って金メダルを持ち帰りたい」と抱負を語っていた。村田修一(東福岡高時代-日本大)<東福岡高時代>1998年、高校3年春・夏の2回、甲子園に出場している。春は1回戦出雲北陵高に5-0で圧勝したものの、2回戦で松坂大輔(現・レッドソックス)を擁する横浜高にスコア0-3で完封負けを喫した。村田、意外にも高校時代のポジションは投手。後藤武敏(現・西武)にはダメ押しの本塁打を打たれた。同年夏は1回戦で古木克明(現・オリックス)のいた豊田大谷高に4-6で敗退した。この試合では、村田が牽制で2回刺されるミスを犯したのもチームにとって痛かった。■チームメイト■一学年下には田中賢介(現・日本ハム)。2学年下には吉村裕基(現・横浜)や上園啓史(現・阪神、武蔵大)がいた。■福岡県内のライバル■柳川高に林威助(現・阪神、近畿大)、九州国際大付高には加藤大輔(現・オリックス、神奈川大)らがいた。■甲子園のライバル■上記のとおり。<日本大時代> 本人いわく「打者にならなければ松坂(大輔)に勝てない」と考え、大学入学後は野手に転向(wikipedia)、歴代2位タイとなる20本塁打を放ち、ベストナインには4回も選ばれる長距離砲だった。たしか2002年の秋季リーグ。ボクは何の予備知識もなく、日本大にいた村田修一の打撃を見たことがある。大きな弧を描いてレフトスタンドに突き刺さる村田の本塁打はもちろん、ガッシリした身体で堂々とダイヤモンドを走る姿は、村田修一という名前を記憶するのに十分な迫力があった。■大学時代のチームメイト■館山昌平(現・ヤクルト、日大藤沢高)や高校時代もチームメイトだった大野隆治(元・ホークス、東福岡高)。そして現在も横浜のチームメイトである那須野巧(駒場学園高)もいた。■東都リーグのライバル■亜細亜大 : 永川勝浩(現・広島、新庄高)、木佐貫洋(現・読売、川内高)、 小山良男(元・中日、横浜高)専修大 : 江草仁貴(現・阪神、盈進高)中央大 : 亀井義行(現・読売、上宮太子高)東洋大 : 岩舘学(現・読売、成田高) ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.16
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楽天田中将大投手(20)が紅白戦に2番手で登板し、2回2安打無失点と安定感を見せつけた。WBCを想定した中継ぎ登板。ツーシームもキレ味を発揮し、球数制限も心配無用の打者7人19球料理。直球の最速は146キロに達した。WBC使用球への対応力と、中継ぎの適性。2つの課題を十分クリアし「いろんなことを試しながら投げたのですが、内容も悪くはなかった。やることはやった」とうなずいた。マー君は、万全な状態で世界との戦いの舞台に飛び立つ。 田中将大、日本代表チームのメンバーに選抜されるか、その当落線上にいるという報道も先日あったが・・・。2006年のドラフト、楽天から指名を受けた直後の記者会見で、田中将大はこんなことを話した。「甲子園の優勝も、そして(甲子園出場)辞退も経験した。天国から地獄まで見たが、ほかでは味わえない経験ができた。これからの野球人生に生かしていきたい」。甲子園の常連高となった駒大苫小牧高のエースとして活躍、大いにマスメディアの注目を集めた。一方、06年のセンバツでは先輩のヤンチャのお陰で、センバツを出場辞退する苦い経験もあった。ボクが一番記憶している田中のピッチングは甲子園の時ではない。2005年秋・明治神宮大会の時のこと。田中将大はまだ駒大苫小牧高の2年生だった。早稲田実と対戦した準決勝、中盤の4回から登場した田中の投球フォームは躍動感に溢れ、多少アバウトな制球ながらも、高めに外れた直球やスライダーで早実打線を完璧に抑えていたものだった。田中将大(駒大苫小牧高)。<駒大苫小牧高時代>■チームメイト■ 駒大苫小牧高、主なメンバーたちの今(2005年夏、背番号順)(1) 松橋 拓哉 (明治大・新4年)(2) 小山 佳祐 (苫小牧駒澤大・新4年)(3) 岡山 翔太 (苫小牧駒澤大・新4年)(4) 林 裕也 (駒澤大・新4年) (5) 五十嵐 大 (筑波大・新4年)(6) 辻 寛人 (國學院大・新4年)(7) 青地 祐司 (関東学院大・新4年)(8) 本間 篤史 (亜細亜大・新3年) (9) 山口 就継 (会社員)(10)吉岡 俊輔 (苫小牧駒澤大・新4年)(11)田中 将大 (楽天イーグルス)(12)津島 英利 (北海学園大・新4年)(13)岡田 雅寛 (愛知学院大・新3年)(14)三木 悠也 (関東学院大・新3年)(15)鷲谷 修也 (米国留学中)(16)白岩 浩平 (苫小牧駒澤大・新4年)(17)高野 和真 (苫小牧駒澤大・新4年)(18)佐藤 拓真 (道都大・新4年)■甲子園のライバル■【2005年夏】準決勝で対戦した大阪桐蔭高には、辻内崇伸(現・読売)、平田良介(現・中日)、中田翔(現・日本ハム)らがいた。 【2006年夏】準々決勝で対戦した東洋大姫路高には、乾真大(東洋大・新3年)や林崎遼(東洋大・新3年)がいた。この試合で、林崎は田中から本塁打をかっ飛ばしている。また、決勝を2度戦った早稲田実には、斎藤佑樹(早稲田大・新3年)らがいた。 ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.15
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【ソフトバンク】シート打撃があり、WBC代表候補の3投手が登板。杉内と和田はともに打者8人に投げ、それぞれ5安打、3安打。馬原も松田に本塁打を浴びるなどぴりっとしなかった。キャンプもまだ半分の段階で、杉内は「あまり結果は関係ない。雨が気になっていたので、投げられてよかった」と話したが、目立ったのが松中のバット。両左腕から二塁打を放ち、「うちのエース2人ですから。調整段階とはいえ、いい練習になりました」と気をよくしていた。(時事通信) 松中信彦、現役選手唯一の三冠王経験者ながら、「短期決戦に弱い」とか様々な風評が広まったこともある。ボクが松中のことを一番記憶しているのは、残念ながらプレーではない。ある時、彼が発したコメントだった。とても的確な内容で、ボクにはとてもインパクトがあった。それは今からちょうど2年前、2007年1月のことだった。翌08年に行われる北京五輪に向け、当時の星野仙一氏は「金メダル以外いらない」と盛んにデモンストレーションを繰り広げていた。マスコミは星野人気を煽る一方だった最中、松中は冷静に星野ジャパンにクレームをつけた。「勝ち負けよりも、アマの選手にもぜひ国際大会の経験をさせてほしい。実際に出場してみないとわからない貴重な体験ができ、今後プロやWBCに進むときの肥やしになる」。松中が言っていたことは「五輪はアマチュアのもの」であり、「勝った負けたは二の次」、「アマチュアの選手にとって数少ない国際大会の経験の場」であり、「アマチュアの選手に出場させてほしい」という真っ当な願いだった。新日鉄君津で社会人野球を経験した、松中ならではの的を射た発言だったし、ボクは非常に賛同できたものだった。※エピソード松中、2007年の有馬記念で1着「マツリダゴッホ」を含む3連単を当てて話題になった。実はボクも3連単ではないけれど、同じ有馬記念で「マツリダゴッホ」を当てていた。松中信彦(八代一高-新日鉄君津)<八代一高時代>※現在は秀岳館に校名を改称している。■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■熊本県内のライバル■甲子園に出場した熊本工高・塩崎真(現・オリックス、東洋大中退-新日鉄広畑)。また、同じく熊本工高の高波文一(現・オリックス)が2学年下にいた。■甲子園のライバル■甲子園には出場していない。<余談・・・新日鉄君津時代>※現在は市民球団「かずさマジック」に改称している。松中が在籍した当時の監督は、「短所を修正するより長所を伸ばす」指導方針の應武篤良氏(現・早稲田大監督)。松中をはじめ渡辺俊介(現・ロッテ、國學院栃木高-國學院大)ら計6人の選手がプロ入りを果たした。松中の見識に賛同できる方、ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.14
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西武の中島裕之内野手(26)と片岡易之内野手(25)が宮崎・南郷キャンプの3日、視察に訪れた日本代表の高代延博守備走塁コーチ(54)からワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に向けて複数の守備位置をこなす準備をするよう要請された。渡辺久信監督(43)も即座に12、13日に予定されている紅白戦で実戦テストを許可した。室内練習場に、若きチームリーダー2人の声が響く。日本代表の高代コーチの熱視線は、息の合った片岡と中島の二遊間コンビに注がれていた。「代表選手は人数が少ないから、一つのポジションしか守れませんではちょっと厳しい。すきのない野球ができるよう準備をしてほしい」高代コーチはキャンプ地に到着すると、さっそく渡辺監督に、二塁手の片岡の遊撃手としての能力を確認。昨夏の北京五輪で三塁を守った遊撃手の中島とともに、複数の守備位置をこなせるように要望を出した。WBCへ全面協力を打ち出す渡辺監督は即座に「2人が紅白戦で遊撃や三塁をやっておきたいというなら守らせるよ」。12、13日の紅白戦で遊撃・片岡、三塁・中島が実現しそうだ。(サンスポ) 片岡、ボクにとって忘れられないシーンは昨年の日本シリーズ第7戦に起きた。1点ビハインドで迎えた8回表に先頭打者で登場した片岡、読売・越智大祐(新田高-早稲田大)の死球に痛がるどころか逆にガッツポーズ。勇んで一塁に出塁したこと。死球を受けてガッツポーズするプロ野球選手をボクはあまり知らない(当たっていないのに、痛いふりをする選手は何人かいたけど)。そして片岡、あろうことかセオリーを無視して、次打者の初球に二盗を成功。送りバントで三進した後は、中島裕之(伊丹北高)のボテボテの三ゴロに、躊躇することなくホームを狙い生還。この回は無安打ながら、片岡の足だけで同点に追いついてみせたのだ。野球センスが高いのはもちろん、ガッツ溢れる魅力的な選手であることは間違いない。片岡易之(宇都宮学園高-東京ガス)。宇都宮学園高時代、2000年夏の甲子園に出場した。1回戦で丸亀高に5-3で勝利したものの、2回戦は松商学園高と対戦し、スコア4-5で惜敗した。※現在、宇都宮学園高は文星芸大付高に校名を改称している。<宇都宮学園高時代>■チームメイト■エースは、元・ヤクルト投手の泉正義だった。※泉正義・・・以下、wikipediaより引用。高校3年の時は故障を抱えながらも150km/hを記録。「江川(卓)二世」と呼ばれたこともある。しかし2002年、入団直後のメディカルチェックで肩の怪我が回復不能の状態である事が判明。1年目、2年目共にほぼノースローで経過が観察されたが、やはり回復が見込めず、05度のオフに退団した。■栃木県内のライバル■1学年下に小山高・飯原誉士(現・ヤクルト、白鴎大)や佐野日大高・会田有志(現・読売、中央大)らがいた。■甲子園のライバル■現在、西武でチームメイトの栗山巧が育英高の選手(2年生)として、2000年夏の甲子園に出場していた。この大会、優勝したのは智弁和歌山高だった。※智弁和歌山高、誰でもが知っている甲子園の常連であり強豪でもある。ただ、その割にプロに進む選手はそれほど多くないし(直近の約10年に6名)、プロで活躍する選手があまりいないのはどうしてだろう? <余談・・・東京ガス時代>チームメイトに現・読売の内海哲也(敦賀気比高)がいた。内海もWBCの候補選手である。ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.12
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レオの紅白戦はWBC色で染められる。西武渡辺久信監督(43)は10日、13日に行われる紅白戦で、レッドソックス松坂大輔投手(28)の女房役として細川亨捕手(29)を起用する考えを明かした。松坂にとっても今年初の実戦登板。所属のレ軍との申し合わせで球数40球に制限されるが、同監督はWBC本番を見据えた最高の環境を用意する。渡辺監督は「(紅白戦の)選手の振り分けはまだ決めてないが、細川は(松坂と)組ませる」と明言。3年ぶりのコンビ再結成。細川は「メジャーでいろんな技術を覚えてきていると思う。受けるのが楽しみですね」と歓迎した。代表合宿では、マリナーズ城島、巨人阿部、広島石原との厳しい競争が予想される。松坂との気心知れた組み立てで存在感を示す意気込みだ。(日刊スポーツ) 細川亨、松坂大輔が西武にいた最後の年(2006年)は女房役を務めた。その松坂とバッテリーを組んだ経験を、WBCの捕手争いの「武器」にしようとチームのバックアップ体制は万全だ。伊東勤(現・WBC日本代表、総合コーチ)の現役引退後、2007年からは伊東後継者として認められ、背番号「27」を譲り受けた。今は西武の正捕手として活躍している。打撃はまだパッとしないものの、2年連続(06~07年)で12球団最高の盗塁阻止率を誇る「強肩」と、キャッチングの技術には定評がある。楽天・野村克也監督は、「今のパリーグのキャッチャーの中では、一番キャッチャーらしい」と評価。特に細川の本塁での体を張ったブロックに関して、「捕手にとって大事なのは逃げ出さないこと」と言って褒めていたこともあった。(wikipediaより)細川亨(青森北高-青森大)。<青森北高時代>主将で4番、強肩強打の捕手として活躍したものの、青森県大会4回戦で弘前実高にスコア2-4で敗退し、甲子園の出場は叶わなかった(1997年)。本人は当時を振り返り「監督やコーチの話を聞かない『我の強い』選手だった」と述懐したことがある。また、テレビで甲子園に出場した捕手たちを見ては、「自分の方が肩が強い」と自信を深めていたという。■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■青森県内のライバル■前述の弘前実高には、昨年末に二岡智宏らとの複数トレードで日本ハムから読売に移籍した工藤隆人(青森大)がいた。■甲子園のライバル■甲子園には出場していない。<青森大時代>青森大では捕手でありながら1番打者として活躍し、先頭打者本塁打も記録した。1999年の全日本大学野球選手権大会では、松阪大や奈良産業大を破りベスト4に進出したものの、準決勝で早稲田大にスコア3-6で敗退した。■チームメイト■高校時代のライバルだった工藤隆人が青森大で一緒になった。■北東北大学リーグのライバル■見当たらなかった。■全日本大学野球選手権のライバル■青森大を破り99年の大会で準優勝だった早稲田大には藤井秀悟(現・日本ハム、今治西高)や鎌田裕哉(現・ヤクルト、秋田経法大附高)がいた。また優勝した青山学院大には石川雅規(現・ヤクルト、秋田商高)や志田宗大(現・ヤクルト、仙台育英高)らがいた。ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.11
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レッドソックス松坂大輔投手(28)の視線を感じながら、西武岸孝之投手(24)は同じWBC代表候補の片岡と"真剣勝負"した。ブルペンでキャンプ最多の124球。途中、生きたボールを見ようと片岡が打席に入ると、岸の顔つきが一変した。捕手にサインを出させる本番さながらの雰囲気のなか、全球種を交えて対抗。片岡は「全部つまらされるイメージだった。特にカーブは腕を振ってから、なかなか手元までこない。あれは打てないはずだよ」。絶賛したのは松坂だけでなかった。 岸は「松坂さんがブルペンにいたのは分かったけど、僕のことを見てるとは思いませんでした。内角を投げるときチビりました」と笑ったが、内角を投げきれるかどうかを1つの指標としているだけに収穫だった。(日刊スポーツ) 岸孝之(名取北高-東北学院大)。<名取北高時代>名取北高時代のこと。名取北高という無名校にいた岸、東北学院大に入学した経緯にはちょっとしたエピソードがある。以下、『アマチュア野球 Vol9』(日刊スポーツ出版社刊)より。それは高校3年の夏、宮城県大会1回戦。相手は多賀城高。実はこの多賀城高の選手に東北学院大・菅井徳雄監督の息子さんが出場していた。せめて息子の最後の試合は応援に行こうと考えた菅井監督。球場に足を運んだところ目に映ったのは、息子のチームを5回までノーヒット・ノーランに抑える名取北高の岸という投手。菅井さん、この時初めて岸を知り素早い行動を起こした。試合終了後、躊躇なくその足で名取北高を訪ねて岸に言った。「スポーツ推薦でぜひ東北学院大へ!」と頼み込んだのだ。もし、菅井さんが偶然球場に来なかったら、そしてもし強引に岸を訪ねなかったら、プロ野球選手・岸孝之は生まれていなかったかもしれない。ちなみに多賀城高戦。岸は死球を1つ与えたため完全試合にはならなかった。その唯一の死球、与えた相手は偶然にも菅井さんの息子さんだった。(以上、『アマチュア野球 Vol9』)■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■宮城県内のライバル■同じ学年でプロに進んだ選手に東北高の高井雄平(現・ヤクルト)がいる。また同じ東北高の2学年下には、ダルビッシュ有(現・日本ハム)がいた。■甲子園のライバル■甲子園に出場していない。<東北学院大時代>大学4年だった2006年春、東北学院大4年の時に仙台六大学リーグで34連覇中の東北福祉大を下し、18年ぶりのリーグ優勝に貢献。最優秀選手、ベストナイン(投手)に選ばれた。 全日本大学選手権は初戦で九州東海大に敗れたものの、そのピッチングが評価され日米大学選手権、世界大学選手権の日本代表にも選ばれた。大学通算成績23勝11敗。■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■仙台六大学リーグのライバル■強豪・東北福祉大の1学年上に現・ロッテの根元俊一(花咲徳栄高)や、現・読売の福田聡志(和歌山・伊都高)がいた。■日米大学野球、代表チームのチームメイト■【投手】・近畿大 大隣憲司(現・ホークス、京都学園高)・早稲田大 宮本賢(現・日本ハム、関西高)・東洋大 永井怜(現・楽天、東農大二高)・武蔵大 上園啓史(現・阪神、東福岡高) ほか【捕手】・東洋大 田中大輔(現・中日、如水館高) ほか【内野手】・法政大 大引啓次(現・オリックス、浪速高)・早稲田大 上本博紀(2年、現・阪神、広陵高)・青山学院大 円谷英俊(現・読売、横浜高) ほか【外野手】・日本大 長野久義(現・ホンダ、筑陽学園高) ほか ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.11
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「松坂が後輩涌井に厳しさ教える...ゴルフで」宮崎・南郷での西武キャンプに参加中のレッドソックス松坂大輔(28)は10日、休日を利用して元同僚たちとゴルフを楽しんだ。西口、涌井の投手陣とラウンドした松坂はグロス81の好成績で他を圧倒。横浜高の後輩でもある涌井のスコアはグロス98。松坂は、「ゴルフの厳しさを教えてあげました」と、笑顔で話していた。(日刊スポーツ) 松坂大輔、背番号「18」を背負うWBC日本代表のエースである。涌井秀章とは横浜高の先輩・後輩の関係にある。2人の高校時代にまつわるエピソード。松坂は横浜高時代、(ブルペンには5つのマウンドが並んでいるが)いつもその真ん中のマウンドで投球練習をしていた。だが松坂が卒業後、そのマウンドは後輩たちから畏れられ、以降は誰も使っていないという話を以前、ある書籍で読んだことがある(書籍名は忘れてしまった)。ただ涌井だけは例外、「松坂マウンド」と呼ばれるそのマウンドで投球練習をしていたという。松坂大輔。<中学時代(江戸川南シニア)>「甲子園」への強烈な憧れをもっていた松坂少年。そもそもは、「甲子園に最も近い高校」と考えていた帝京高に進学するはずだった。以下、日刊ゲンダイ『松坂大輔物語』より。監督にポジションを投手から外されたことが面白くなかった松坂大輔、突然野球を辞めると言いだしたことがある。一度言い出したら、総監督や親などオトナの言うことにも頑として首をタテに振らない松坂。その様子を見て一計を案じた総監督(※前記の監督とは別人)、知り合いの帝京高・前田三夫監督に(松坂の目の前で)携帯電話で連絡をした。「うちのチームにいる松坂という投手を憶えているだろう。高校は帝京に入れてくれないだろうか」以前、江戸川南シニアのゲームを観戦し、松坂を気に入っていた前田監督、あっさりとこう答えた。「あのプックリした投手だろ。いい投手だ、帝京に来いよ」何としても高校生になったら、投手として甲子園に行きたい!そんな夢を持っていた松坂少年。甲子園に最も近い高校は帝京高と考えていた。だから、帝京へ進学と聞いて小躍りして喜んだ。そしてニッコリ微笑んで、シニアで野球を続けることに同意した。(日刊ゲンダイ)---------------------------------------------------------------松坂、本当は帝京高に進学するはずだった。様々な紆余曲折を経て横浜高に進学するのだけど、もし横浜高ではなく本当に帝京高に進学していたら、1990年代後半以降の「高校野球の歴史」は、まるで違ったものになっていたかもしれない。■中学時代のチームメイト■現・日本ハムの小谷野栄一(創価高-創価大)らが同級生。2学年上には現・ヤクルトの松井光介(横浜高-亜細亜大-JR東日本)がいた。■中学時代のライバル■中学3年のとき、優勝候補筆頭として出場した夏の日本選手権。松坂のいる江戸川南は、惜しくも3回戦で中本牧シニアに敗れてしまった。その中本牧にには、後に横浜高で松坂とバッテリーを組む小山良男(元・中日、亜細亜大)がいた。ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.11
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【オリックス】WBC日本代表の伊東総合コーチと与田投手コーチが視察に訪れた。2人ともブルペンで野茂テクニカル・アドバイザーと接触。両コーチは現役時代、野茂TAとしのぎを削った。同期入団だった与田コーチは「彼は『WBCのキャンプには来ない』と(冗談を)言っていました。見ていて(教える雰囲気が)良かった」と旧友を褒めた。(時事通信) 与田剛コーチ(木更津中央高-亜細亜大)のことは後日書くことにして、今日は伊東勤コーチ(前・西武監督、熊本工高-所沢高・定時制)のこと。上記の記事にあるとおり、野茂英雄(元・近鉄、成城工高)と伊東はお互いにしのぎを削った仲だった。一番ボクの印象に残っているのは1994年の開幕試合、西武vs近鉄戦(4月9日)のこと。以下、スポニチより。見出しは「野茂英雄の開幕戦悪夢の結末」。スタンドはざわついていた。ルーキーイヤーの90年に18勝、8個のタイトルに輝いた野茂のトルネード投法。4年目を迎えた開幕戦でも、球威とフォークの切れは抜群だった。8回まで西武は0行進。しかも無安打。近鉄は9回に石井の3ランで先制。誰の目にも優位は揺るがなかった。しかしドラマはここから始まった。9回、先頭は清原。ライバルへ意地の一打が飛び出す。ノーヒットノーランの夢を打ち砕く右二塁打。流れは変わった。四球とエラーで1死満塁。近鉄はリリーフエース赤堀の投入を決断した。迎える打者は伊東。赤堀の8球目は左翼スタンドに消えた。逆転満塁サヨナラ弾。「夢のようです」。お立ち台での伊東の声を野茂は背中で聞いた。野茂は翌95年、ドジャースの一員として開幕を迎える。(以上、スポニチ) 野茂の気持ちは、マウンドを誰にも譲りたくなかったに違いない。だが鈴木啓示監督(当時)は野茂をマウンドから降ろして赤堀元之(静岡高)を投入した。その結果がサヨナラ負けだった。開幕戦に先発したエース・野茂のプライドはズタズタにされ、鈴木監督との不仲説が伝えられる中、翌年野茂はメジャーに飛び立った。この「事件」が近鉄を飛び出す理由のひとつだったという話もあるが、もしそうならば、伊東は野茂のメジャー挑戦を強烈にアシストしたとも言える。ボクはこの試合の結果をその日の夜に知り、野茂と赤堀のやりきれない思いを想像した。そして、「めったに打つことのなかった伊東がなぜこの場面で打つんだよ?」 と大いに憤慨したものだった。伊東勤(熊本工高-所沢高・定時制)。現役時代は捕手として歴代2位となる2327試合に出場。西武ライオンズ黄金時代の司令塔として活躍した。WBC日本代表の総合コーチに就任した。<熊本工高時代>1980年夏、熊本県大会の決勝戦でエース・秋山幸二(現・ホークス監督)を擁する八代高を破って甲子園に出場した。1回戦、2回戦を順調に勝ちぬいたが、3回戦で天理高にスコア3-6で敗れた。伊東はもちろん捕手、そして打順は3番だった。■チームメイト■元・西武の大津一洋投手がいた。■熊本県内のライバル■前述した八代高・秋山幸二 、九州学院高・園川一美(元・ロッテ、日本体育大)らがいた。園川は昨日までこのブログに書いた「10.19」に登板していた。■甲子園のライバル■2回戦で対戦した大府高には、まだ2年生だった槙原寛己(元・読売)が控え投手としてベンチにいた。そして3回戦で対戦した天理高で4番を打っていたのは藤本博史(元・オリックス)だった。伊東が甲子園に出場した80年夏、優勝したのは愛甲猛(元・ロッテ)がいた横浜高(愛甲も「10.19」に打者として出場していた)。準優勝は荒木大輔(現・ヤクルト投手コーチ)がいた早稲田実。そういえば荒木、西武の成績不振の責任をとって、2007年に伊東監督(当時)とともに退団した過去がある。 ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.08
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昨日のテレ朝「10.19」。余計な演出もなく、とてもいい番組でした。でも何かが足りない、そう思っていました。足りないものとは、いったい何だろうか?そして、あちこちのブログをまわるうち、その「足りないもの」がやっとわかりました。 それは、・・・B・G・M。1988年の年末、「ニュースステーション」の特集で「10.19」を紹介したとき、近鉄バファローズの選手たちの姿とともに流れていたBGMがありました。曲名はジョー・コッカ- 「You are so beautiful」。 もうその時のビデオが擦り切れたとか失くしてしまった方へ。昨日録画した「10.19」をご覧になる時、再生するDVDやビデオととともにこのBGMを流してみてはいかがでしょうか。曲は、こちら。 とりあえずBGMを再生してみようという方、クリックをお願いします
2009.02.08
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昨日のテレビ朝日、『日本中が見た泣いた壮絶10・19 ロッテ近鉄死闘』が放映された。見ていて、いろんなことがまた思い出された。■7時間33分間に及ぶ死闘だった。番組の最後、梨田昌孝(現・日本ハム監督、浜田高)が「喜んだり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり、抱き合ったり、いろんな表情を見せてもらった(試合だった)・・・」と話していた。選手だけでなく、観ていたファンもまったく同じだったことを思い出した。不安になったり、ホッとしたり、喜んだり、涙したり。ジェットコースターに乗っているような、とても慌ただしい、そして多くのドラマが凝縮された試合だった。■阿波野秀幸(現・解説者、横浜市立桜丘高-亜細亜大)が言っていた。「第1試合を勝って、これで第2試合いけるな、大丈夫だなと思った」阿波野だけでなく、ほかの選手もファンもそう思っていたと思う。「流れ」は完全に近鉄にあった。20分の休憩時間、球場に入れないファンたちが門の外にごった返し、そして叫び声が聞こえた。「入れろー、入れろー」。こんな川崎球場を見たことはなかった。■第2試合序盤、優勝を確信し、逆に気合いが抜けたように見えた近鉄ナイン。中西太コーチが主審の判定にクレームをつけることで近鉄は目を覚まし、吹石徳一(現・楽天スカウト、南部高)、真喜志康永(現・日本ハムコーチ、沖縄高)らの本塁打を呼び込んだ。ふだんは脇役で、派手なこととは無縁な2人の本塁打。こういった流れなら、ふつうは勝って優勝を決めるのになぁ・・・。結果は変わらないのに、見ていてまたも悔しい思い出が甦ったナ テレ朝「10.19」で21年前のことを思い出したいう方、1クリックをお願いします
2009.02.08
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WBC代表候補の楽天・田中将大投手(20)と岩隈久志投手(27)が12日、沖縄・久米島キャンプで行われた紅白戦に登板した。ともに2回無失点。しかし1安打、1奪三振と好投したかに見えた田中に対し、視察したWBCの山田久志投手コーチ(60)は厳しい評価。野村克也監督は山田コーチに田中の代表入りを勧めたが、聞き入れられるか微妙な状況だ。野村監督にしてみれば、自身もWBC監督候補に挙がりながら選ばれず、まな弟子の田中も代表落選という、ダブルパンチに見舞われかねない状況になってきた。山田コーチは「野村監督から『ぜひ(田中を代表チームに)連れて行ってほしい』と言われたけど、返事が難しい。宮崎合宿でどういう結果を出すか。メンバーに入れるかどうか。田中はその辺にいる」。これまで山田コーチは代表候補の全投手を視察。どの投手に関しても、全員選ぶつもりなのかと思うほど褒めちぎっており、ここまで厳しい言葉を並べたのは初めてだ。対照的に岩隈に関しては「あと実戦を何回か踏めば。私の頭の中にも、原監督の頭にも、先発として行ってもらうというのはある。WBCは予告先発だから言ってもいいが...。原監督から話すのでは」と代表の先発入りは確実。田中の評価とは大きな違いをみせた。(夕刊フジ) 第1ステージの開幕戦(対中国、3月5日)に先発するという報道もある岩隈久志、今は消滅した近鉄バファローズのDNAを受け継ぐ、唯一のWBC候補選手だ。岩隈久志(堀越高)。1999年秋に行われたドラフトの4位指名で近鉄に入団した。当時注目されていたのは、1位指名だった宮本大輔(現・オリックス、延岡学園高)や、甲子園で活躍した2位指名の高木康成(現・オリックス、静岡高)のほう。岩隈は、実力への評価より「イケメン」であるとか、多かった虫歯をすべて治したとか、高校時代は女優の安達祐美と同学年だったとか、そんなどうでもいい情報のほうが多い選手だったとボクは記憶している。ところが近鉄入団4年目の2003年、そして翌04年にいずれも15勝を挙げて一気にブレーク。近鉄のエースと呼ばれる存在に成長した。だが球団消滅という不運に見舞われ、新たな道を歩まざるを得ないハメになった。04年オフの分配ドラフトでは新球団(オリックス)入りを拒否、「金銭トレード」という形で楽天に移籍した。その頃は、近鉄の球団消滅、楽天入り後の不運。どれも岩隈が運から見放されたように思えた。不運とは、肩痛や肉離れなど相次ぐ故障。そしてルール変更による「二段モーション」の禁止など。当然成績は下降。05年に9勝(15敗)を挙げたものの、06年は1勝(2敗)、07年は5勝(5敗)。いったい岩隈はどうなってしまうのか? と思ってい矢先、昨年(08年)は21勝(4敗)を挙げ、突然に完全復帰を果たし、今やWBC日本代表のエース候補にまで駆け上った。 <堀越高時代>2年生の秋までは三塁手だったらしい。ところが投手に転向後、頭角を現した。189cmの長身から放る145kmの速球が、近鉄スカウトの目を釘付けにし、ドラフトの指名を受けることになる。だが3年生だった99年夏、西東京大会のベスト4入りを果たしたものの、準決勝で日大三高にスコア1-8で大敗。甲子園への夢は叶わなかった。 ■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■東京都内のライバル■1学年下に帝京高の上野貴久(現・読売、東洋大-NTT東日本)。1学年上には同じく帝京高の森本稀哲や、創価高から創価大に進んだ小谷野栄一(いずれも現・日本ハム)らがいた。■甲子園のライバル■甲子園に出場していない。※岩隈が西東京大会のベスト4で敗れた99年夏、甲子園で優勝した桐生一高には現在楽天のチームメイト・一場靖弘(当時2年、明治大)や大廣翔治(当時2年、東洋大)らがいた。当時、桐生一高のエースだった正田樹(元・日本ハム-阪神)は現在、台湾興農ブルズに在籍している。ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.07
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テレビ朝日・開局50周年記念50時間テレビ、『日本中が見た泣いた壮絶10・19 ロッテ近鉄死闘』が今夜、放映される。この時のCMすっ飛ばし事件(?)は、テレビ朝日の快挙だったと思う。その年の年末に放送した『ニュースステーション』の特集は、この「10.19」だった。ボクはこの番組をビデオに録画し、以後何度も何度も繰り返して見たものだった。今は擦り切れてしまい、もう見ることができないため、あらためて録画するいい機会になりそうだ。-------------------------------------------------------------ボクはこの試合を川崎球場の三塁側(近鉄)ベンチのすぐ後ろで観ていた、2試合とも。これまで近鉄をはじめ、プロ野球の試合を何試合も観たけれど、あんなに異常な興奮に包まれたグラウンド、そしてスタンドをボクは知らない。この試合の模様を、テレビ局が生放送をしていたなんて、その時ボクはまるで気づかなかった。そもそも平日だったし、第1試合開始前の雰囲気はふだんの川崎球場と変わらない「長閑(のどか)」なもの。パ・リーグの消化試合が平日に2試合組まれている、そんな雰囲気さえ漂っていたのに。世の中は「ブラックマンデー」で株が大暴落、昭和天皇は体調を崩されて、ひっきりなしに陛下の体調を伝えるニュース速報がテレビを通じて流れる、そんな重苦しい空気が社会を覆う時期だった。だから、よほどの近鉄・ロッテファンでもない限り、この川崎球場の試合に注目する人なんているはずがないと思っていた。なのに、テレビ朝日は『ニュースステーション』の番組枠を使って延々と生放送を続け、民放にはありえないCM枠までもすっ飛ばす快挙をやってのけた。「なぜ、テレ朝はそこまでしてこの試合を強引に放送したんだろう?」そして「なぜ、ふだん近鉄やロッテに興味を持たない多くの視聴者がテレビにかじりついたのだろう?」いまだに、その理由がよくわからないのだけど。 「10.19」第2試合の9回裏、ロッテの攻撃中に起きたシーンが、今でもボクは悔しく思う。スコアは4-4、無死で走者は古川が二塁、袴田が一塁。ピッチャーは阿波野。ここで阿波野が2塁へ投げた牽制球が高く浮き、大石が古川に被さるような体制でキャッチした。その直後に古川の足がベースから離れてアウトと判定された。この判定に有藤監督は猛抗議。大石に押されて足が離れたと主張した。残り時間が無くなる中、抗議時間は9分間に及んだ。結局判定は覆らず、試合は延長10回までもつれて同点のまま。4時間を超えると延長しないルールがあり、4時間12分に及ぶ試合は引き分けで終了。近鉄は負けることなく、優勝を逃した。実は、このプレーに登場する阿波野秀幸、大石大二郎、古川慎一の3人の選手は、すべて亜細亜大の先輩・後輩の関係だった。大石大二郎(静岡商高)は1981年卒、古川慎一(春日部工高)は86年卒、阿波野秀幸(横浜市立桜丘高)は87年卒。古川や阿波野にとって大石は亜細亜大の尊敬する偉大な先輩であり、古川・阿波野は大学野球部だけでなく、84年に行われた日米大学野球の日本代表メンバーどうしでもある。伝説の「10・19」、その象徴的なシーンを演出した選手たちが揃って同窓生というのが面白い。-----------------------------------------------------------------もうひとつ。この「10.19」の大石大二郎と古川慎一のエピソード。 近鉄・大石大二郎、安打で出塁し二塁に進んだ亜大の後輩のロッテ・古川慎一に、さりげなく呟いた。「あんまり打つなよ・・・」ふだん、試合中に話しかけてくれることのない大学の大先輩・大石に声をかけてもらい、舞いあがった古川の返事が面白い。「はい、すいません」「・・・・・・・・・」今日のテレ朝「10.19」が楽しみだという方、1クリックをお願いします
2009.02.07
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WBC日本代表の山田久志投手コーチ(60)が5日、代表候補選手へ「身だしなみ指導」を行う方針を明かした。流行しているネックレス、ブレスレットなどが国際大会で、注意を受ける可能性があると説明。「そういうもので(注意され)神経を使うのは、どうかなと思う」とし、16日スタートの宮崎合宿で周知徹底を図る。世界連覇のために「ドレスコード」が設定されそうだ。日米問わず選手が愛用している、チタンが含まれているアイテム使用に黄信号がともった。山田コーチが入手している規則、注意事項などが記された文書によると「ネックレスがダメとか、細かいことで審判からクレームをつけられる」ことがあるという。(日刊スポーツ) ボクは「ドレスコード」にあまり興味はない。ストッキングはちゃんと伸ばした方がいいとは思うけど。そして、この記事で興味を持ったのは山田久志コーチのこと。最近の日刊ゲンダイは「原監督を差し置いての監督ヅラ」とか、「イチローと師弟関係にあることがコーチ就任の理由」とか書いている。真偽のほどはわからない。何がホントだろうとボクには関係ないこと。ただ、「悲劇のヒーロー」として阪急ブレーブス・山田久志の名前を思い出すだけだ。1971年の日本シリーズ。セのチャンピオン・読売との第3戦で王貞治(現・ホークス会長)からサヨナラ3ランを打たれ、マウンドにしゃがみ込んだまま動けなかったシーンが、ボクにとって山田久志の名を記憶する象徴的な出来事だった。wikipediaによると、その後に西本幸雄監督(当時)に抱きかかえられながらベンチに戻ったらしい。(そこまでのことはボクの記憶にはなかったが・・・)山田久志(秋田・能代高-富士製鉄釜石-阪急)。通算成績。登板試合数654、284勝166敗、登板回数3865回、奪三振2058、防御率3.18阪急ブレーブスの黄金時代を支えたアンダースローの投手。 <能代高時代>「2年の夏は自身のエラーによるサヨナラ負けで甲子園に出場することは出来なかった」(wikipedia)らしい。いろいろ調べたが詳細はわからなかった。山田が高校2年だったのはたぶん1965年。この年の秋田県優勝校は秋田高。甲子園での戦績を調べたところ、この秋田高は準決勝まで進出したものの、この大会で優勝した三池工高に3-4で惜敗していたことがわかった。この時の三池工高、監督はWBC日本代表・原辰徳監督の父・貢氏だったのは、何かの縁かもしれない(ちょいと強引かな?)。※ちなみに、決勝戦で三池工高に敗れた銚子商高のエースは木樽正明(元・ロッテ)だった。■チームメイト■プロに進んだチームメイトはいなかった。■秋田県内のライバル■甲子園を目指して切磋琢磨したライバルを見つけることはできなかった。同じ秋田出身の元・近鉄投手だった村田辰美(六郷高)は山田の4学年下。また現・中日監督の落合博満(秋田工高)は、山田の5学年下だった。■ 甲子園のライバル■甲子園に出場していない。■プロへの同期入団■山田は1968年、阪急からドラフト1位で指名を受けて入団した。この年の同期(ドラフト1位)たちはスゴかった。中日:星野仙一(倉敷商高-明治大)阪神:田淵幸一(法政一高-法政大)広島:山本浩二(廿日市高-法政大)東京(現・ロッテ):有藤道世(高知高-近畿大)南海(現・ホークス):富田勝(興国高-法政大)西鉄(現・西武):東尾修(箕島高) ※ちなみに同じ68年、山田と一緒に阪急に入団した主な選手たちにも大物がいた。2位:加藤秀司(PL学園高-松下電器)7位:福本豊(大鉄高-松下電器)12位:門田博光(天理高-クラレ岡山) 但し入団を拒否し、翌年に南海へ入団した。 ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.06
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ノーモア、G.G.ショック! 3月5日に開幕する第2回WBCで連覇を目指すサムライジャパンにとって、"死角"が浮き彫りになってきた。それはズバリ、左翼のポジションだ。候補選手6人の中に左翼を本職とする外野手はゼロ。昨夏の北京五輪で、G.G.佐藤外野手(30)が急造左翼手を務めた結果、痛恨の3失策を犯してメダルを逃したのは記憶に新しいところだ。日本にとって"呪われたポジション"に、救世主は現れるのか。 名手の片りんさえもなかった。日本ハムの沖縄・名護キャンプで3日、WBC日本代表候補の稲葉篤紀外野手(36)が、シートノックでほとんど経験のない左翼に入った。しかし、これが見るも無残。何度もボールを後ろにそらすなど、悪戦苦闘。大きくため息をつき、「全然ッスね。しかし、ひどかった...」と苦笑するしかなかった。 (夕刊フジ) 最近の野球は、「レフト」というポジションを軽視しがちだと思う。そのツケが国際大会(五輪やWBC)という大舞台にまわってきたんだろうな、きっと。昔は「フェンス際の魔術師」と呼ばれるほど走攻守すべての面で優れた高田繁(現・ヤクルト監督)ような選手も、レフトを守っていたことがある。稲葉篤紀(中京大中京高-法政大)<中京大中京高時代>甲子園出場経験があると思っていたが、実はない。1990年、稲葉が3年生の時に愛知県大会の決勝戦に進出したものの、イチローのいた愛工大名電高にスコア4-5で敗れ、甲子園のキップを逃した。(この決勝戦の試合、愛工大名電高の投手はイチローではなかったようだが)■チームメイト■プロに進んだ高校時代のチームメイトはいない。2学年先輩に木村龍治(現・読売トレーニング兼投手コーチ)がいた。■愛知県内のライバル■愛工大名電高にはイチロー(現・マリナーズ)、享栄高には高木浩之(元・西武、駒澤大)がいた。※ついさっき夕刊フジで知ったことを追記します。(2009.2.21)タイトルは「同じ"虎の穴"出身!?イチローと稲葉の意外な共通点」イチローと稲葉はともに愛知県出身。小、中学生時代に同じバッティングセンター(同県西春日井郡の空港バッティングセンター)へ通い詰めた仲。地方の一バッティングセンターから日本代表の3、4番が同時に生まれるドラマに当人も驚きを隠せない。「(少年時代は)お互い話したことはなかったですが、順番待ちをしながら1つのレーンで打ち合っていました。(イチローは)当時もミートがすごかった」と稲葉は回想した。 (以上、夕刊フジ)■甲子園のライバル■甲子園には出場していない。<法政大時代>■チームメイト■同学年には、プロに進んだ選手はいない。但し、3学年上(稲葉が1年生の時に4年生)のメンバーには元近鉄のエース・高村祐(現・楽天コーチ、宇都宮南高)や諸積兼司(現・ロッテ二軍コーチ、学法石川高)がいた。また稲葉の2学年下には元ヤクルトの副島孔太(桐蔭学園高)がいた。※ちなみに北京五輪で痛恨の3失策を犯したG.G.佐藤も法政大の出身。稲葉の6学年下にあたり、佐藤の同期には元・近鉄の阿部真宏(現・オリックス)、廣瀬純(現・広島カープ、佐伯鶴城高)らがいた。ただG.G.佐藤、大学時代は廣瀬の控え選手に甘んじていたらしい。■大学野球のライバル■ 3年生の春季リーグから一塁手としてレギュラーに定着。その年と翌年の2回連続で日米大学野球の代表選手に選出されている。ちなみに稲葉が3年生だった93年、日本代表の主な選手は下記のとおり。青山学院大・小久保裕紀(現・ホークス、星林高)青山学院大・井口資仁(現・ロッテ、國學院久我山高)日本大・北川博敏(現・オリックス、大宮東高)駒澤大・河原純一(現・中日野球浪人中?、川崎北高) ほか同様に94年の主なメンバー。愛知大・岩瀬仁紀(現・中日、西尾東高)大商大・谷佳知(現・読売、尽誠学園高)東洋大・今岡誠(現・阪神、PL学園高)慶應義塾大・高木大成(現・西武職員、桐蔭学園高) ほか ま、今日もなんとか、1クリックをお願いします
2009.02.04
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3月のWBC日本代表のスタッフ会議が2日、宮崎市内で行われ、16日からの宮崎合宿の練習メニューなどを決めたほか、代表候補選手の背番号が発表された。合宿では実戦形式の練習を多く行う方針。導入が決まった延長戦でのタイブレークについて、原辰徳監督(50)=巨人=は野手の登板も想定して臨むと総力戦での必勝を誓った。 総力戦で臨む。約1時間の会議を終え、原監督が強い姿勢を打ち出した。今大会からの新ルールでは延長戦は無制限。延長十三回からは無死一、二塁で始めるタイブレークが導入された。指揮官の用兵にも大きな影響を及ぼすルールだけに、表情は厳しかった。 「こういう場合もあると、選手に意識付けていきたい。極端な話、タイブレークのときは、ピッチャー以外がマウンドに上がることも想定する意識を持つことが大事だ」 (サンスポ) ピッチャー以外がマウンドに立つ----、これはイチローのことを指すらしい。もちろん多分に原さんのリップサービスだろうけど。ただ最近のWBCの報道は、王貞治氏の必死さと「イチローへの異常なまでの期待」ばかりが目立つ。少なくとも「あまのじゃく」なボクにはそう思えてしまうのだ。イチロー頼みでホントに大丈夫なんだろうか?イチロー(愛工大名電高)。<愛工大名電高時代>1990年夏と91年センバツの2回甲子園に出場したが、いずれも天理高・松商学園高に初戦敗退した。■チームメイト■元・近鉄の伊藤栄祐(投手)がいた。■県内のライバル■イチローの高校時代、愛知県下には同世代に凄い選手がいた。中京大中京高の稲葉篤紀(現・日本ハム)、享栄高の高木浩之(元・西武)など。■甲子園のライバル■90年夏に対戦した天理高のエースは南竜次(元・日本ハム)だったし、91年センバツで対戦した松商学園高には上田佳範(元・日本ハム)らがいた。例えば、91年センバツに出場した主な面々は豪華。延岡学園高の黒木知宏(元・ロッテ)、桐蔭学園高の高橋由伸(現・読売、慶應義塾大)や高木大成(元・西武、慶應義塾大)。それに忘れてはいけない、星稜高の松井秀喜(現・ヤンキース)も出場していた。ま、とりあえず1クリックお願いします
2009.02.03
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ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表スタッフ会議が2日、宮崎市内のホテルで開かれ、代表チームを率いる原辰徳監督をはじめコーチ陣が、15日に代表33選手が集合する宮崎合宿のスケジュールや練習メニューなどを話し合った。合宿は22日までで、練習は投内連係やシート打撃などの実戦形式が中心。約1カ月後に迫った大会に向け、最終調整とメンバー選抜が目的となる。原監督は「個々の技術は、もともといいと信じている。団体としてどう動くかが求めるテーマ」と説明。採用が決まった延長戦でのタイブレークなど独特のルールについては、「決められた規約や規制の中で戸惑わず、そういう場合はどう戦うのかという意識を持ってもらう」と語った。(時事j通信) 昨日に続き、今日はWBC・原辰徳日本代表監督の東海大時代のこと。<東海大時代>東海大相模高を卒業時、プロから注目された原だったがそれを完全拒否。系列の東海大への進学を宣言した。東海大が所属する首都大学リーグはそれまで今ひとつマイナー感があったようだが、スター選手の原辰徳を加えたことで、(少なくとも)マスコミからの注目度は格段に増した。 人気だけではない、もちろん実力だってハンパじゃなかった。リーグでは3度の最高殊勲選手、7度のベストナイン、2度の打撃三冠王を獲得した。■チームメイト■東海大相模高時代のチームメイト、津末英明(元・日本ハム)や村中秀人(現・東海大甲府高監督、東海大)らがいた。また大学入学後、新たにチームメイトになった選手に市川和正(元・横浜、国府高)や高野光(元・ヤクルト、東海大浦安高)らがいた。■首都大学リーグ内のライバル■だれかいるだろうと思って探してみたけど、東海大の選手以外にこれといった選手が見つからなかった。■大学野球のライバル■法政大・江川卓(現・解説者、作新学院高)、早稲田大・岡田彰布(前・阪神監督、北陽高)らが好敵手として有名。以下、「JANJAN」より引用。東海大・原辰徳vs法政大・江川卓「1977年秋の明治神宮大会、江川の法政と東海大学が決勝でぶつかった。原は江川から堂々のホームランを放った。このホームランは新たな大学球界NO1バッターへの狼煙でもあった。だが、最終打席は江川の豪腕がうなり原は三振にしとめられ、格の違いをみせつけられた。優勝は法政」東海大・原辰徳vs早稲田大・岡田彰布「1976年、原は前代未聞の1年生でありながら、日米大学野球に選ばれた。ポジションはサード。岡田は日米大学野球のセレクションで卓越したバッティングセンスを見せながら、メンバーに選ばれなかった。原の父貢氏が選考のとき強引に岡田を落としたという噂があったもの事実である。『岡田はアメリカ向きではない』という理由に岡田は納得できなかった」しかし2年後の1978年は立場が逆転する。この年、日米大学野球のサードは誰もが原と思っていたが、実際に選ばれたのは岡田だった。「岡田は春のシーズン3ホーマー、首位打者は惜しくも逃したが、そのシュアーな打撃は高い評価を受けていた。このとき、原は高校2年のとき、全日本高校選抜のメンバーとして壮行試合で対決したオール大阪のピッチャーを思い出した。岡田である。しかも、今度は、岡田が全日本のサード4番として原の前に立ちはだかったのである」(以上、JANJAN)原と岡田、大学時代のサード争いは激しかった。高校時代もオール大阪の投手だった岡田は、全日本高校選抜の打者・原と対戦した過去があった。いつもいつもこの2人はライバル関係にあった。もちろんプロ野球の世界でも。こういったライバル関係を改めて知ると、昨年読売に大逆転優勝を許した阪神・岡田監督の辞めたくなった気持ちが、ボクは理解できそうな気がした。 ちょっぴり役に立ったという方、1クリックお願いします
2009.02.02
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壮大なプランは夢で終わらせない。全選手、コーチ、フロント陣が集まったミーティングで、巨人・原監督は冒頭8分間にわたって熱く語りかけた。今季から5連覇、計7連覇に挑むという大きな目標を全員の心に刻んだ。「昨年は日本一にはひとつ足りなかったが、あえて(今季のスローガンを)維新とし、新しいものを作る。ペナントレースの2連覇は称賛されたが一切忘れて、2009年のメンバーを礎として5連覇する」。自らはWBC日本代表監督も兼任するという激務が待つ。巨人の若手を鍛え、日の丸を率いる。緊張感あふれる宮崎。原監督の手腕が問われる"キャンプ"が始まる。(サンスポ) 原辰徳(東海大相模高-東海大)。2003年暮れに読売グループ内の「人事異動」と称して、監督を更迭され、翌々年(05年)のオフに監督に復帰した。昨年秋には、読売グループが推し進めるWBCの監督人事が難航。ナベツネからは「力不足」と指摘されながらも、グループ内の人事異動の一環としてWBC監督という要職にも就いた。「もしダメと思ったら、いつでもクビにしてください」。西武を日本一に導いた渡辺久信、監督を引き受ける時、首脳陣を前にそう言い放ったという。2~3年なら無理に仕事をしなくとも家族を食べさせていける。だから自分が自信をもってやれる仕事がしたい。その思いが強気な発言につながった。渡辺久信のような発言は単純に格好いいと思うけど、原のように「人事異動」と称して権力者に翻弄され続ける姿は、とてもサラリーマンぽくて、ボクはつい親近感をもってしまうのだ。----------------------------------------------------------------今回から、不定期的にWBCに出場する日本代表選手たちの「高校時代」「大学時代」を追いかけます。第1回目は原辰徳監督(現・読売監督)。<東海大相模高時代>■チームメイト■監督は父・貢氏(現・東海大系列高野球部総監督)。チームメイトには、原を押しのけて4番を張った津末英明(東海大-日本ハム-読売)や、エース・村中秀人(現・東海大甲府高監督、東海大)らがおり、春・夏を合わせて計4回も甲子園に出場した(夏3回、春1回)。■県内のライバル■同じ神奈川県下で甲子園を争った選手たちには、桐蔭学園高の長内孝(元・広島カープ)や水上善雄(現・日本ハム二軍監督)らがいた。■甲子園のライバル■甲子園では名勝負を残した。1974年夏の準々決勝で定岡正二を擁する鹿児島実高に、延長の末敗退した試合は有名だ。ちなみにこの大会で優勝したのは銚子商高。エースの土屋正勝(元・中日)や、WBCでコーチを務める篠塚利夫(現・読売コーチ)が活躍して深紅優勝旗を千葉に持ち帰った。原の甲子園、特にボクが憶えているのは翌75年センバツの決勝・東海大相模対高知戦のこと。原と高知高・杉村繁(元・ヤクルト)、大会屈指の好打者同士として対戦し、延長の末にスコア10-5で高知東海大相模が優勝したのだけど、原と杉村が試合中におしゃべりするシーンをテレビで見て、ボクは驚いた 高校野球で(しかも甲子園で)相手チームの選手と話すなんて、ご法度と思っていたから。■トピックス■この試合を観て、スポーツライターの小関順二氏は、「太田幸司(三沢高校)や島本講平(箕島高校)以来途絶えていた『華やかなスター』だ」と、原辰徳を評したことがある。※原監督の大学時代まで書きたかったのですが、高校時代だけで長くなってしまいました。大学時代のことは次回ということで・・・。 村中、津末、土屋、篠塚、杉村、太田、島本らの名前を懐かしいと思った方、1クリックお願いします
2009.02.01
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2006年の第1回WBCでの誤審騒動で日本列島に大ブーイングを巻き起こしたボブ・デービッドソン審判員(56)が3月に行われる第2回大会の審判団から外れていることが30日(日本時間31日)、分かった。 大リーグ関係者が明かしたもので、除外の理由は不明だが、今大会は審判団の半数をIBAF(国際野球連盟)から派遣される米国以外の国の審判員が占めることも決まっている。 デービッドソンの名を国内外に知らしめたのは前大会の第2ラウンドの日本-米国戦。勝ち越し点となるはずだった西岡のタッチアップを離塁が早かったとして認めず、結果として日本は敗れた。またメキシコ-米国戦でも、メキシコの右翼ポール直撃の打球を二塁打と判定した。 1つの判定が命取りになる短期決戦。日本にとって朗報だ。(デイリースポーツ) 2006年春に開催された第1回WBC。日本の優勝決定後、「MVPはボブ・デービッドソンだ!」とボクは書いた(2006.3.21)。疑惑のタッチアップの判定で日本選手のみならず、日本国民にWBCへの興味を喚起する貢献があった。ボブ・デービッドソン。それだけに満足することなく(?)、疑惑の二塁打の判定で、意気消沈気味だったメキシコを目覚めさせ、日本の準決勝進出をアシストした。ボクは多分の皮肉を込めてMVPと呼ばせてもらった。そして同時に、WBCという世界最大の野球イベント「WBC」を、「誤審男」ボブ・デービッドソンの名とともに記憶するハメになったWBC「ボブ・デービッドソン誤審」。動画はこちら。本当のところ、ボブ・デービッドソンという審判はいったい何をやりたかったのか、ボクにはまるでわからなかった。米国を贔屓したかったとしても、そのやりかたはあまりに稚拙で、実は視力が落ちているのを隠しているのではないか?そんなことを忖度したりもした(2006.3.17)。だが、そもそもメジャーでも「自己顕示欲がひたすら強い」審判だったようだ。自分の判定で試合の流れを変えることに快感を感じる・・・そんなキャラクターの持ち主らしい。ロッテのボビー・バレンタイン監督曰く、「彼にはボーク・ボブ・デービッドソンというニックネームがあるぐらい、自分を目立たせるためにボークをよくとる審判だ」 メジャーの審判になるためには相当の技術が必要なハズ。(2007.11.24)ボビー・デービッドソンのような人が、なぜメジャーの審判に昇格したのかがわからないけど、今回のWBC欠場は最大の朗報に違いない ボブ・デービッドソンのWBC欠場に大喜びの方、1クリックお願いします
2009.02.01
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奈良産業大硬式野球部をめぐる療養費不正受給問題で、近畿学生野球連盟は31日、臨時理事会を開き、リーグ戦など公式戦の出場禁止期間を6か月間とするなどの処分案を決めた。日本学生野球協会の審査室で最終決定される。出場禁止となれば、春の1、2部リーグの入れ替え戦にも出場できないため、2部に降格して秋季リーグから再出発することになる。すでに解任されている藤原忠理前監督と前コーチは無期限の謹慎とした。(読売新聞) コトの経緯はこうだ。 同大学の硬式野球部・総監督が経営する整骨院が、実際には施術を受けていない同部の部員を利用して、奈良県などから療養費を不正受給していたことが、先月(2009年1月)発覚し、同部の監督や一部のコーチが解任された。この事態を受け、奈良産大は謹慎するものの、むしろ選手は被害者であるとして、春季リーグには出場したい旨を連盟側に伝えた。だが、上記のとおり、近畿大学野球連盟はこれを拒否。これまで23ヶ月間、延べ900人近い部員が関わっていたことを問題視。部員にも一定の責任があると判断し、厳しい処分を下した。奈良産大・渡辺野球部長のコメント。「野球部の前近代的なことが美徳として残っていることが問題。再発防止のため、それを払拭するするような組織作りをしたい」(スポニチ)--------------------------------------------------------------厳しすぎる処分だなぁ・・・選手は被害者じゃなかろうか。監督やコーチから言われれば、従わざるを得ないだろう。「療養費の不正受給」なんてこと、選手は知らないだろうし、言われたことをやったまでのことなんだろうし。部長のコメントにある「前近代的な美徳が問題」。これもある側面ではその通りだけど、野球部をはじめとした体育会には、「上意下達」が伝統を育むという効果だって期待できるもの。今回は結果として悪い面に影響したけれど、「前近代的な美徳」と言って一概に否定すべきものではないし、まして選手たちから公式戦出場の機会を奪う必要など(断じて)ない。 ※奈良産業大野球部のOBには、元・近鉄や阪神の湯舟敏郎氏(興国高)や、先のドラフトで阪神から1位指名を受けた蕭一傑(日南学園高)らがいる。賛同していただける方、1クリックお願いします
2009.02.01
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