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先日、最終回に必死に追い上げをはかるPL学園高を見て、「逆転のPL」という言葉を思い出したと書いた。でも「逆転の---」と呼ばれる高校の本家は今日、中京大中京高に逆転勝ちした報徳学園高だ。(準々決勝)報徳 010 210 002 =6中京 011 021 000 =5(報)宮谷-宮本、(中)堂林1点差を追う報徳学園は9回、ヒットと四球をからめ二死満塁のチャンスをつかむ。そして主将で4番の西郷遼平は浮いた直球を逃さず、レフト前に逆転の2点決勝打を放った。決勝打の西郷はリッパだが、もっとすごい選手がいる。それはこの回、先頭打者として代打で登場した、背番号「13」をつける坂元頌のこと。この甲子園では初出場なのに、中京のエース・堂林翔太の投げた初球を思い切り叩きつけ、ライト前にヒットを放ったのだ。このヒットが試合の流れを変え、「逆転」の呼び水となった。坂元のように、普段はベンチを温めることが多い選手が代打で登場し、いきなり初球からバットを強振するのは容易いことではない。それができてしまう選手のいる報徳学園の強さは本物であり、また「逆転の報徳」と呼ばれる所以(ゆえん)かもしれない。----------------------------------------------------------------------■今日まで延々と続く「逆転の報徳」伝説。そもそも、そう呼ばれるキッカケになったのは、今から遡ること48年前。1961年夏の逆転勝利だった。倉敷工高と対戦した報徳学園は、延長11回に大量6点を奪われたものの、その裏にすぐ同点に追いつき、続く12回にサヨナラ勝ちした。普通では考えられない試合展開に、当時「逆転の報徳」という異名が与えられた。(延長12回)倉敷 000 000 000 060 =6 報徳 000 000 000 061X=7 ■そして、それから20年後の1981年夏、またしても「逆転の報徳」が真価を見せる。(延長11回)早実 000 000 310 0 =4報徳 000 000 013 1X=5この試合、早稲田実のエースは現・ヤクルトコーチの荒木大輔。一方、報徳学園の4番・エースは元近鉄の「10・19」戦士でもある金村義明。延長10回二死後、左翼線に二塁打を放ってチャンスを作り、サヨナラのホームを踏んだのも金村だという。今日も1クリックお願いします
2009.03.30
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センバツ2回戦、宮城・利府高が古豪・習志野高にスコア2-1でサヨナラ勝ちし、ベスト8への進出を決めた。今日の第1試合に勝利を収めた岩手・花巻東高と並び、今大会における「白河越え」の可能性を8分の2(つまり25%)に高めた。習志野 000 001 000 =1利府高 000 001 001X=2(習)山田、(利)塚本春夏初めて甲子園に出場した利府高。スコア1-1の同点で迎えた9回に内野安打と四球などでニ死一、二塁とし、このチャンスに2番・藤原昂哉(2年)がセンターオーバーの決勝打を放ちサヨナラ勝ちした。利府高のエース・塚本峻大は習志野打線に10安打を許しながら粘り、完投した。9回、被安打10、奪三振7、与四死球1、自責点1。--------------------------------------------------------------------利府高は1984年に創立された公立高校、まだ歴史の浅い高校だ。これまで宮城の代表というと、ダルビッシュ有(現・日本ハム)や佐々木主浩元・マリナーズ、東北福祉大)等のいた東北高や、大越基(現・早鞆高教員、早稲田大中退)や佐藤由規(現・ヤクルト)がいた仙台育英高しかボクは思い出すことができない。宮城県におけるセンバツ出場回数と校名を調べたところ、第1回大会が開催された1924年から今大会までの出場回数は計30回。内、東北高と仙台育英高の2校だけで27回も出場する寡占状態にあることがわかった。(ある程度、予想はしていたけれど)長いセンバツの歴史にあって、両高以外の出場高校は、たった3校しかない。1967年の仙台商高、2005年の一迫商高、そして今大会の利府高。利府高、準々決勝は早稲田実と当たる。もし勝つことができたなら、利府の名は一躍全国区となることは間違いないし、宮城県内における高校野球の勢力図を大きく塗り替えるチャンスを秘めているのかもしれない。 1日1クリックお願いします
2009.03.29
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花巻東高の菊地雄星。1回戦に続き、今日行われた2回戦(対明豊高戦)も完投で勝利を挙げ、チームをベスト8に導いた。明豊 000 000 000 =0花巻 002 110 000 =4(鵡)野口-今宮-山野、(花)菊池試合前、花巻東高・佐々木洋監督はエース・菊地のことを、「投げてみなければ調子が分からない投手」と言っていたが、試合終了後は、「今日がいつもの菊池です」と苦笑いしながら話していた。※この「あま野球日記」では「菊池雄星のいい時・悪い時の動画」(YOU TUBE) を紹介したことがあります。(09年1月23日) 興味のある方はこちらをどうぞ → 動画1回戦はあわや完全試合になりそうなほど、菊池は素晴らしい投球を見せた。9回、被安打2、与四死球1、奪三振12、自責点0。菊池自身も「(これまでの)人生最高のピッチング」と言っていたほどだった。でも今日は、一転して常に走者を背負うピッチング。9回、被安打9、与四死球2、奪三振12、自責点0。いつ失点を許してもおかしくない状況が続いたが、ピンチになってからが菊池の真骨頂だった右打者には大胆に内角を狙い、左打者には外角にキレのある直球やスライダーを放り込み、ことごとくピンチを断った。-----------------------------------------------------------------花巻東高、今日の勝因は菊池の投球だけではない。イヤらしい攻撃を続けた打撃陣だって見過ごせない。特に俊足でイヤらしさ十分の9番・山田隼弥、走攻守揃った1番・柏葉康貴、そして小柄(身長155cm)で俊足の2番・佐藤涼平の3人は素晴らしかった。 ボクは岩手出身なので、岩手代表校の甲子園での過去の戦いぶりをそれなりに観てきた(※)。これまでだったら、相手が全国レベルの明豊高と聞いただけでビビっていたように思うのだけど、上記の3人は完全に呑んでかかっていた。打つのか、セーフティバントなのか、ウエイティングなのかまるでわからない。相手投手をイライラさせるのに十分な働きを見せていた。1回戦でバントなどの小技を絡めた多彩な攻めが、どうやらこの試合に効いたようだ。一試合ごとにその戦いぶりが(相手にとって)残像になり、「点と点が線」になって強さを増し続ける花巻東高。ひょっとしてひょっとしたら・・・「白河越え」があるかも???※駒大苫小牧高が甲子園優勝を経験し、すでに「白河越え」は達成したという話も(一部では)ある。ただ、北海道のチームの優勝は「津軽海峡越え」であって、「白河越え」ではないとボクは思っている。「白河越え」はあくまで東北代表のチームが優勝することなのだ。※<岩手県勢、過去センバツの記録>(1984年~) 84年 大船渡高 ベスト4 準決勝・岩倉高(東京)に1-2でサヨナラ負け92年 宮古高 1回戦敗退 星稜高(石川)に3-9で敗退 96年 釜石南高 1回戦敗退 米子東高(鳥取)に7-9で敗退03年 盛岡大付高 2回戦敗退 横浜高(神奈川)に0-10で敗退04年 一関一高 1回戦敗退 拓大紅陵高(千葉)に0-6で敗退06年 一関学院高 1回戦敗退 岐阜城北高(岐阜)に1-2で敗退08年 一関学院高 2回戦敗退 東洋大姫路高(兵庫)に1-4で敗退 1日1クリックお願いします
2009.03.29
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今日行われたセンバツの2回戦、南陽工高vsPL学園高。(延長10回)南陽工 000 000 000 2 =2PL学園 000 000 000 1 =1PL学園高に勝利し、グラウンドを引き揚げる南陽工高ナインの表情は総じて笑顔だった。インタビューを受けた山崎康浩監督は、開口一番こう言った。「まぐれです・・・」PLの左腕・中野隆之の前に9回まではノーヒット。試合の「流れ」はPLにあったが、南陽工は延長10回表一死からついに初安打が生まれ、それまでのうっ憤を晴らすかのようにヒットを連ねて2点を先制した。 追うPL学園は10回裏、二死からチャンスをつかみ1点を返すものの、最後の打者がセンターフライに倒れ敗戦が決まった。--------------------------------------------------------------必死に追いあげるPL学園の攻撃を見ていて、ボクは「逆転のPL」という言葉が頭に浮かんでいた。ひょっとしたら逆転するかも? と。結局逆転は叶わなかったけれど、そう呼ばれるようになったキッカケがwikipediaに紹介されていた。いまから31年前(1978年)の夏、エース・西田真二(現・四国IL・香川監督、法政大-広島)と木戸克彦捕手(現・阪神バッテリーコーチ、法政大-阪神)を擁し、黄金時代にあったPL学園が準決勝・決勝で見せた逆転劇が、その異名を戴く契機となった。(以下、スコアのみ記載)<準決勝、対中京高戦>(延長10回)中京高 000 101 011 000 =4PL学園 000 000 004 001X=5<決勝、対高知商高>高知商 002 000 000 =2PL学園 000 000 003X=3--------------------------------------------------------------- 一方、今日勝利した南陽工は31年ぶり(1978年)の「甲子園ベスト8」進出を決めた。1978年といえば、前述のPL学園が「逆転の・・・」と呼ばれるキッカケになった時と同じ年である。※但し、PL学園は夏、南陽工は春だが。今日行われた南陽工vsPL学園。両チームの「歴史」を思い出させてくれるに十分な好試合となった。尚、当時の南陽工のエースは元・広島で「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実さん(故人、1992年逝去)だった。今日も1クリックお願いします
2009.03.28
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WBC決勝戦、延長10回表にイチローに138キロの変化球を投げ、センター前決勝打を打たれたシーンのこと。タイトルの言葉の主は、金応竜・三星ライオンズ社長。以下、韓国・中央日報より。金社長は林昌勇が光州振興高を卒業した後、ヘテに入団した1995年から4年間、監督を務めた。そして林昌勇が1999年、三星にトレードされた後、2001年三星監督として赴任、以後、監督と社長で2007年シーズンを最後に日本のヤクルトに移るまで、ずっと間近で見守ってきた。 その金社長、「林昌勇がイチローに投げた球はわざと正面勝負したものだ」と述べた。「現場にいなかったから100%断定することはできないが、長年の歳月の間、(林)昌勇を見て分かる。あれは全く外す意図がなかったように見えた」と語った。「金寅植監督とコーチングスタッフが昌勇の性質を知らない。韓国にいた時もどれだけああだったかわからない。外せとサインを出してもわざわざ真ん中に投げて打たれたり、驚かされたことが何度もあった」と回想し、「あのときベンチでサインを出すだけではなく選手、観衆、記者たちがすべて見られるようグラウンドに出て公開的な指示をしなければならなかった」と述べた。 (以上、中央日報) 試合直後、話題の主・林昌勇は「サインを見誤った。失投だった」と弁明した。また金寅植監督は「悔やまれるのは、はっきりと敬遠のサインを送っておくべきだったということだ。 捕手が変わり、若い捕手が作戦のサインを投手と十分に疎通できなかった可能性もある。 敬遠の作戦を確実に出さなかったのが問題になった。 それが悔やまれる」 と語っていた。金監督は、敬遠のサインを出したものの、そのサインがバッテリーに通じなかったことを悔やんでいた。でも前出の金・三星社長は、「林は意図的にベンチのサインを無視して真っ向勝負した」と話している。真実はバッテリーのみぞ知る。バッテリー2人が語らない限り真相はわからない。ただチームメイトだった朴賛浩は林のイチローへの真っ向勝負を評価しており(下記参照)、ベンチの監督とグラウンドにいた選手たちの意識に違いがあったのかもしれない。イチローがセンター前に放った決勝打。林が投げた137kmのシンカーがど真ん中に入ったのを叩いたものだった。それは、9回から登板した林にとっては37球目に当たる。この「林の37球目」、韓国ではまだまだ論議が続くかもしれない。------------------------------------------------------------------以下、中央日報より。朴賛浩は、決勝戦でイチローと勝負し決勝打を浴びた林昌勇について「立派だった、誇りに思う」と称えた。 チームメイトだった朴賛浩は26日、自分のホームページに「野球が国を守る」と題し、「延長戦でなぜイチローと勝負したのかという意見があるが、正々堂々と勝負したのはむしろ立派で誇らしかった」とし「イチローを避けても他の選手にやられることもある。イチローと勝負したのが惜しいのではなく、イチローの弱点を攻略できなかったのが惜しいといえば惜しまれる点だ」と伝えた。 (中央日報) 今日も1クリックお願いします
2009.03.28
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先ほど放送された「ニュースZERO」(日本テレビ系)には星野仙一氏(北京五輪監督)が出演し、日本代表のWBC優勝を祝福した。---日本がWBCで優勝しましたが。 「奇跡に近いものがある。ひとつひとつ試合に内容があって、感動しました」---星野さんは「感謝」しているとか?「えぇ、感謝しています。私が北京で失ったものを取り返してくれました。投手力、投手起用が抜群に上手かった。杉内などいいところでズバズバ起用できた。早くから先発はだれ、リリーフはだれと起用を決めて準備ができていたのでしょう」---松坂もよかったですね。「松坂がキチッと期待に応えてくれた。そして、審判がストライク・ボールをキチッととっていたので、ピッチャーは皆、安心して投げることができました」---星野さんが見たMVPは?「青木、・・・、そして城島だね」「WBCを通じて一番成長したのは内川。決勝戦の韓国戦で最後にしぶいライト前ヒットを打ったし、無謀なプレイ(左前安打を強引にキャッチし、二塁で刺したプレー)は、内川がもともと内野手だからできたことです」 星野さん、北京五輪での審判の判定には、今も不満があるようだ。昨年(2008年)8月25日、北京五輪での大敗直後に同じ『ニュースZERO』でインタビューに応えていた。その中で、星野さんは審判の判定に「大不満」の様子だった。(以下、その時の一問一答を記載)--- バッシングの嵐の中、この番組に出演することに躊躇はありませんでしたか。 「いいえ、私は男の子だから、ありません」 --- 大会前、「金しかいらない」とおっしゃっていましたが。「そう言わざるを得なかった。ただ、その結果がこういったバッシングだと、夢を語れなくなる。これでは、子供に夢を与えられない」--- 選手たちはふだんの力が出ていなかったようですが。「本来の半分の力。大会にピークを持ってこられなかった」--- 準備期間が短かったのでは。「それを言い訳にはできないが・・・。ただボクのミスは、東京で合宿したこと。予選の前は宮崎で合宿をした。イナカ(宮崎)のほうが選手どうしでコミュニケーションがとれて、結果は違っていたかもしれない。東京だと友達とかいて野球に集中できない」--- 初戦、キューバ戦が大切とおっしゃっていました。でも敗れてしまいました。「といかくストライクゾーンの違いに驚いた」--- それは他の国も一緒では。「日本の投手は、コースのギリギリのところで勝負している。その分だけ、日本への影響が大きかった」「そして、日本は国際大会の経験が少ないことも敗因にある。韓国は経験豊富だ」--- 選手の名前を出して申し訳ないが、G・G・佐藤や岩瀬仁紀を調子良くなかったのに使ったのはなぜ。「それは、わたしのやりかた。一度失敗しても、挽回のチャンスを与える」--- 長期決戦ならわかるが、短期決戦では違うのでは。「調子が悪い選手がいても、代える選手がいない台所事情があった」--- 日本野球界に、今後望むことは。「タフさ、精神力。これが欠けていた。野球そのものに差はない」--- 山本コーチ、田淵コーチなど仲良しどうしといった批判があるが。「予選で勝った時は、そのことを言われなかった。今回は、負けたから言われたんですよね。たしかに仲良しだけど、自分の意見をお互いに言い合える間柄だ」--- いま話題になっているWBC監督への考えは。「なんとも答えようがありませんね」--- ファンに一言。「ほんとに申し訳ない。ただこれだけバッシングを受けるということは、日本人がこれだけ野球を愛しているんだということがよくわかりました。どんなに叩かれてもチャレンジを続けます。夢をもって前に進まなきゃ」 昨日の夕刊フジ。星野仙一氏の復活は消えたと断じる球界関係者のコメントを掲載している。「原さんが何はともあれ、世界一監督になったことで、今後星野さん(北京五輪監督)が球界を牛耳る立場となる可能性はほぼ消滅した。仮に侍ジャパンが決勝トーナメント進出を逃す事態にでもなっていれば、『誰が監督をやっても国際試合は難しい』となって、星野さんが復活、次期巨人監督の可能性まで甦っていたかもしれないが、それもほぼ消えた」 今日も1クリックお願いします
2009.03.26
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もちろん、菊池雄星にとって甲子園出場が初めてでないことは知っている。ただ、深紅の優勝旗奪取(=史上初の「白河越え」)に向けて、「あわや、完全試合!?」と見てるファンに期待させた今日の投球は、きっとそのプロローグになるはずだ。あ、そうそう、今秋のドラフトでも「イチオシ」の高校生投手であることも間違いない。今日の鵡川高戦。菊池の左腕が緩急をつけたスライダーやカーブを繰り出し、打者のバットは面白いようにクルクルまわって空を切った。もちろん変化球だけではない。直球だって速い。今日は最速150kmを記録した。鵡川 000 000 000 =0花巻 002 200 100 =5(鵡)西藤-柳田-石井、(花)菊池<菊池雄星、今日の成績>9回、被安打2、与四死球1、奪三振12、自責点0。8回一死まで「完全試合」ペースの投球だった。ところがその後に四球を与えてしまい、「完全試合」は消えてしまった。そして9回一死からは安打を許し、ついに「ノーヒットノーラン」も夢と消えた。ただ試合中に足をつってしまうアクシデントに見舞われたにも関わらず、この成績はリッパの一言に尽きる。きっと今秋のドラフトでは目玉選手になるのだろうけど、この1年は甲子園で思い切り暴れてほしいものだ。----------------------------------------------------------------------前回、菊地雄星(当時1年)が甲子園に出場したのは2007年夏。背番号「17」をつけ2番手で登板したが、菊池自らが失点を喫し、新潟明訓高にスコア0-1で惜敗した。この試合で先発投手した落合啓晃(当時3年)は現在、三菱重工神戸に在籍している。 今日も1クリックお願いします
2009.03.25
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WBC、決勝は日本が韓国を降して(延長10回)2連覇を決めた。以下、ボクの勝手な疑問や感想を。(その1)■延長10回表、韓国はなぜ一塁が空いているのに、イチローと勝負したのか?それが不思議だった。そんな疑問に、韓国・朝鮮日報が金寅植監督のコメントを載せて応えていた。--一塁が空いた状況でイチローと勝負した理由は。(米国人記者) 「ベンチからは捕手に、敬遠ではなくても(ストライクではなく)ボール球を投げて、状況が良くなければ(四球で)歩かせろと伝えた。 そして捕手の姜も投手にサインを送った。 しかし林昌勇が自信があったのか勝負をした。 まだ本人にはその理由を尋ねていない」 --そのようなヤマ場なら、監督がマウンドに出て行って作戦を直接指示することもできたが。(米国人記者) 「直前に投手コーチが行って話した。 悔やまれるのは、はっきりと敬遠のサインを送っておくべきだったということだ。 捕手が変わり、若い捕手が作戦のサインを投手と十分に疎通できなかった可能性もある。 敬遠の作戦を確実に出さなかったのが問題になった。 それが悔やまれる」 (その2) ■岩隈久志(楽天)をMVPにして挙げたかったなぁ。詳しい記録は調べていないけど、彼が一番活躍したと思うのだ。北京五輪の時、岩隈本人は代表に選ばれて当然と思っていたのに、まさかの落選。「何かの間違いでは?」(本人談)と思ったほどだった。だから、今回のWBCはその雪辱戦でもあった。■ダルビッシュ有(日本ハム)も立派。9回裏同点に追いつかれ、なおも2人の走者を背負った場面。よくぞ後続を断ったものだ。並大抵の精神力の持ち主なら、きっとサヨナラ負けを喫していただろう。■青木宣親(ヤクルト)。打者では青木が最もよかった。他の選手が打てずに苦しんでいたとき、青木だけが孤軍奮闘していたように見えた。ま、いずれにせよ、優勝してよかった、よかったいいかげん、酔いがまわってきたゾ 今日も1クリックお願いします
2009.03.24
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今日行われたWBC準決勝、連覇を目指す日本は米国をスコア9-4で撃破し、決勝にコマを進めた。今日付の朝日新聞より。「原監督は小学校時代の記憶として、図書館でベーブ・ルース物語を読んだことが大リーグへ本格的な興味をもち始めたきっかけというエピソードを明かした。『我々はベースボール、メジャーリーグに追いつけ、そして追い越せと教育を受けてきました。尊敬できる米国野球に挑戦できることに興奮しています』(原辰徳監督)」 ベーブ・ルースらメジャーの選手たち(全米軍)が大挙して来日し、日本のプロ野球チーム(全日本軍)と初めて戦ったのは1934年11月のことだった。北は函館から南は九州・小倉まで全国を転戦し、計17試合を戦った。ただこの時、残念ながら日本は1勝もしていない。しかも惜敗といえる試合もたった1試合のみ。沢村栄治が好投し、ルー・ゲーリックのソロ本塁打による1失点に抑えた静岡・草薙球場の試合が唯一の接戦だった(スコア0-1)。※当時17歳の沢村、この試合は奪三振9、被安打5、四球1と見事な成績だった。しかも、ベーブ・ルースから三振も奪っている。当時の全日本軍、選手は沢村のほかには、スタルヒン、水原茂、三原脩、そして唯一志願して全日本軍に参加したと言われる山本栄一郎などがいた。 三原脩は試合後、日米の力の差について、次のような感想をもったという。「このゲームで感じたことは、彼等(メジャーの選手たち)のベースボールのスケールがとんでもなく大きいということ、投球、捕球が想像も及ばないほどスピーディーであること、しかも我々があまり弱くておそまつでありすぎたため、その真価は発揮されていないということであった」※『巨人とともに』。『魔術師 決定版』(小学館刊)より。---------------------------------------------------------------------それから75年を経た今日、『スモール・ベースボール』を旗印にした日本代表は、あらゆる面で米国を圧倒し、勝利をおさめ、米国に追いつき、追い越した・・・・ように見えた(ん?) 今日も1クリックお願いします
2009.03.23
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明日朝、WBC準決勝がロサンゼルスで行われる。相手は米国だ。 野球の「日米決戦」、3つのエピソードを。 (1)原辰徳監督、東海大時代の「日米大学野球」 WBC日本代表の原辰徳監督は1977年、79年、80年の3回、日米大学野球に出場している。通算の勝敗は8勝13敗だったが、原個人を見れば通算最多本塁打(5本)の記録をもつ、この大会の最高記録保持者でもある。■77年(1年)、日本は3勝4敗で敗退。米国は日米大学野球5連覇。■79年(3年)、日本は4勝3敗で逆転優勝。米国の7連覇を阻止。■80年(4年)、日本は史上最低の1勝6敗で大敗。※( )内は、原の学年。 尚、原の個人記録は下記のとおり。・個人通算最多本塁打・・・5本(79年・4本、80年・1本)・個人一大会最多本塁打・・・4本79年大会、日本は計7本の本塁打が飛び出している。内4本は原、2本は早稲田大・岡田彰布(前・阪神監督、北陽高)、1本は早稲田大の島貫省一が放ったもの。(2)原辰徳vs読売時代のデーブ・ジョンソン米国のデーブ・ジョンソン監督は、ご存じのとおり1975年と76年、読売巨人軍に在籍した内野手だった。それまでアトランタ・ブレーブスで活躍した二塁手だったが、来日1年目(75年)は「長嶋茂雄の後釜」を求められ、慣れないサードを守ることが多かった。そのためか打撃は不振を極め、「ジョン損」と揶揄されていた(翌76年、ジョンソンは二塁を守った)。ジョンソンが酷評されていた75年秋、甲子園のスターだった原辰徳(当時、東海大相模高3年)は、プロ球界から最も注目されるドラフト候補選手だった。だが、なぜかドラフト直前にプロ入りを拒否し、東海大への進学を表明。12球団すべてから指名なしという、当時としては異例の事態が起きた。なぜ原はその時、プロ入りを拒否したのか定かではない。父・貢氏の意向が働いたのかもしれないが、その行動が大きなニュースになったものだった。もしこの時、原が読売に入団していたら、ジョンソンと一緒に読売の二塁と三塁を守るチームメイトになっていたかもしれない。(3)読売の監督争い、原辰徳vsデーブ・ジョンソン2005年オフ、それまで読売の監督だった堀内恒夫氏の後任が話題になった。星野仙一氏が有力だったものの、ジョンソン氏も監督候補のひとりだった。だが結果、監督に就任したのは原辰徳だった。今日も1クリックお願いします
2009.03.22
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立教大-中央大、オープン戦。(立教大グラウンドにて)中央大 100 000 000 =1立教大 000 000 03X =3【中】山崎(8回1/3)-中村(2/3)【立】仁平(9回)8回裏。1点を追う立教大は一死後、途中出場の主将・中山怜大(4年、日大三高)がセンター前にライナーの安打を放ち出塁。相手投手のボークで二進後、8番・岩渕大地(3年、一関一高)のライトオーバーの二塁打で生還し、まずは同点。続く9番・早瀬大喜(4年、静岡高)の右中間への三塁打で2点目を挙げて逆転し、勝利を決めた。投げてはエース・仁平昌人(3年、日大鶴ケ丘高)が中央大打線を初回の1失点に抑え、完投で勝利投手となった。 立教大、今日の4番は、田中宗一郎(3年、佐賀西高)でも、末藤一樹(4年、東邦高)でもなく、藤田公士朗(3年、金沢桜丘高)だった。田中は1番、末藤は5番で、相変わらず4番打者が固定できないように見受けられた。ショートのポジションもコロコロ変わった。スタメンは岡崎啓介(2年、PL学園高)だったものの、渡辺倫也(4年、日大三高)、伊藤公俊(3年、清水東高)、松本幸一郎(1年、横浜高)へ、ひとつエラーをする度に交代を告げられた。 今年創部100周年を迎えた立教大。投手は安定しているものの、野手がまだ固まらない「投高打低」の傾向が今年も続いている模様。 100周年に優勝の花を添えるには、まだまだ道は険しそうだ(ま、「投高打低」は立教大に限らず、東京六大学リーグすべての大学に当てはまりそうだけど)。 立教大野球部が創部100周年であることを、公式HPを見てボクは初めて知った。これまでのリーグ優勝は12回だが、直近の優勝は1999年秋季シーズンであり、ここ10年はリーグ優勝から遠ざかっている。立教OBといえば、ボクが思いだすのは長嶋茂雄氏、「大沢親分」こと大沢啓二氏、野口裕美(元・西武、米子東高)、長嶋一茂(元・読売、立教高)、矢作公一(元・日本ハム、立教高)などなど。ただ、忘れてはいけないプロ球界の重鎮が他にいる。元・近鉄監督だった西本幸雄氏がその人。ボクはこの、近鉄というチームを立て直してくれた西本さんが大好きなのだけど、西本さんが立教大時代の思い出を語った記述が、書籍『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ刊)に少しだけあった。主将として活躍した1942年秋季は3位に躍進し(それまでは万年Bクラス)、明治神宮大会で優勝した(現在は東京六大学では優勝チームのみ出場可能だが)。その余勢をかって、優勝を目指して臨んだ翌43年春季リーグ戦。だが太平洋戦争の暗い影が立教大、そして東京六大学リーグを襲った。以下、西本さんの言葉を引用。「でも翌春の入場式の時に、東京が攻撃されたんだよ。神宮外苑にある絵画館まで電車で行こうとしたら警戒警報が出た。まだ空襲警報ではなかったな。軍艦みたいな大きな飛行機が、手を伸ばしたら届きそうなところを飛んでいた。ズーンと腹の底に響くようなすごい轟音だったね。もう桜が咲き始めてたんだけど、飛行機の黒い影のところにきれいに咲いてた。あれが印象的で忘れられんねえ。あの日東京が攻撃されて、神宮球場に行こうとしたけど、リーグ戦が中止になった」(以上、『パ・リーグを生きた男 西本幸雄』より)同年(43年)9月、リーグ戦は再開されることなく、西本さん立教大を繰り上げで卒業。2カ月後の11月には軍隊に入隊し、中国に渡った。※ちなみに、いわゆる「最後の早慶戦」が行われたのは同じ43年10月16日のこと。そして、東京六大学リーグが再開されるのは1946年の春。再開まで、およそ2年半の経過を待たなければならなかった。今日も1クリックお願いします
2009.03.22
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2009年の高校野球(センバツ)が始まった。開会式直後の第1試合は、岡山・倉敷工高-大阪・金光大阪高戦。延長12回、倉敷工5番・日下太希が二死一・三塁のチャンスにライト右をライナーで抜ける強烈な打球を放ち、サヨナラ勝ちを決めた。(延長12回)金光 210 120 003 001 =10 倉敷 100 301 013 002X=11元々投手力は高くない両チーム。しかも開会式直後という独特の緊張感もあって、序盤から試合は荒れた。金光が常に先手を取り、倉敷工がすかさず追いつく、試合の「流れ」がクルクル変わる、いかにも「高校野球」らしい内容だった。※高校野球(甲子園)では、選手個人の力量やベンチワークではコントロールできない試合の「流れ」が勝敗に大きく影響することが度々あるようにボクは思う。「流れ」の風向き(→、↑、←)や頻度、そして(流れの)力の大きさなどの違いが最終的に勝者を決めることが多いのでは?この試合、その「流れ」がクルクル変わることで互格の試合になったものの、延長に入ってからは、試合の「流れ」は常に倉敷工に吹いた。そのことが、倉敷工にサヨナラ勝ちを呼び込んだのではなかろうか。(例1)倉敷工、実は延長11回裏にもサヨナラのチャンスがあった。一死三塁の好機に、途中出場の7番・早藤達哉が、いきなり初球からスクイズを敢行した。だが、バッテリーはそれを嘲笑うかのように、投球を大きく外にウエストして阻止。スタートを切った走者は三本間で狭殺され、倉敷工はチャンスを潰した。このスクイズ失敗は、試合の「流れ」を金光に奪われそうなプレーだったが、結果はそうならなかった。(例2)そして延長12回裏、1点差を追う倉敷工の攻撃。(スコア9-10)一死満塁のチャンスに、4番・三木大知のライト前安打で三塁走者が生還(同点)、二塁走者も本塁に生還を狙ったものの、ライトからの好返球でタッチアウト。このシーンも、「流れ」は金光に移りそうなものだが、結果は逆。次打者の5番・日下太希がライト右に安打を放ち、勝利を決めた。今日も1クリックお願いします
2009.03.21
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今日行われたWBC2次ラウンドの1位決定戦。日本代表はスコア6-2で韓国に勝利し、1位で2次ラウンドの通過。同時に準決勝の相手は米国に決まった。試合後、韓国の金寅植監督は、こう語ったらしい。「きょうは投手を温存したことでこんな結果になった。(準決勝で当たる)ベネズエラは米大リーグの選手が多くいるが、われわれはメジャーの試合を見て研究してきた。ベストを尽くすだけだ」(日刊スポーツ)「投手の温存」は別に韓国の作戦にだけ当てはまることでなはない。日本も内海-小松-田中-山口-涌井-馬原-藤川と小刻みに継投し、準決勝・決勝の投手起用に余裕を残した。 韓国・金監督のコメントを読んで、投手起用については一家言を持つ山田久志・投手コーチのことをボクは思い出した。予想に過ぎないけれど、「投手を肉体の消耗から守る」ことと、「投手のプライドを守る」ことが山田の持論にあるように思う。投手の球数制限が厳しいWBCでは、その持論を展開する必要はあまりないが、オリックスのコーチ時代には仰木彬監督(当時)と投手起用を巡って対立し、オリックスを退団(1996年)した経験が山田にはある。「稼げるときに稼がせてやるのが監督の務め」(『近鉄球団、かく戦えり』浜田昭八著、日経ビジネス人文庫)と言い放ち、投手を酷使する傾向にあった三原脩の流れを汲む仰木。勝利優先のため非情とも言える投手起用法と、山田の持論は相容れなかったことが原因だったようだ。そしてもうひとつ、「投手のプライドを守ること」も山田の持論であるように、ボクは思う。それは記録のかかっていた野田浩司(当時、オリックス)を途中で交代させた仰木采配を批判したことでもわかるし、山田自身が阪急のエースだった1987年に、「プライドを踏みにじられた苦い経験をもつ」張本人なのだから。それまで12年連続で開幕投手を務め、阪急の絶対的なエースとして君臨していた山田。なのに、この年(87年)の開幕投手は阪急・上田利治監督(当時)から明確な説明がないまま、佐藤義則を抜擢し、上田との悔恨を残したという。このことがその後、山田の指導者としての軸(のひとつ)になっているように思う。上田監督とのいきさつを、前出の浜田昭八氏が『猛者の球譜』と題したコラム(日本経済新聞2004年4月16日付)に書いている。「87年にはエースの証し、12年連続で務めてきた開幕投手をはずされた。開幕近くなると、上田利治監督の発言が揺れ動いた。「今年も」と確認するつもりで話し合った。心にもなく「気を遣ってくれなくてもいい」と言うと、同監督はあっさ りと「そうか」。開幕投手に選ばれた佐藤義則は 、南海にKOされた。第2戦登板の山田は、4安打一失点で完投勝ちした。「2戦目に投げるのは、こんなに楽なのか」。プレッシ ャーがまるで違ったが、いいようのない寂しさに見舞われた」(以上、日本経済新聞)--------------------------------------------------------------この87年、2000奪三振は達成したものの、7勝に終わり、17年続けていた2桁勝利が途絶えた。翌88年も4勝10敗と不本意な成績に終わり、通算300勝にあと16勝と迫りながら現役引退を決意した。奇しくも、1936年から52年間続いた阪急球団の歴史を閉じた年でもあった。(敬称略)今日も1クリックお願いします
2009.03.20
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WBC 日本5-0キューバ】不振で苦しんでいたイチローの2安打に、原監督もほっとした様子だった。バットの芯でとらえられず、ゴロばかり打つ症状が続いていた。最悪の瞬間は第3打席、送りバントが三塁への小飛球となり失敗。痛恨のミスに、「折れかけていた心がほぼ折れた」。七回の第4打席は、心理的にぎりぎりまで追いつめられて迎えた。引っ張った打球はまたゴロだったが、高く弾んで一塁手の頭を越え右前に到達した。この1本で、「監督と目を合わせるのも痛かった」という心境から解き放たれ、次の打席は三塁打。2安打とも得点に結びつき、上位打線が久々に機能した。(読売) WBC2次ラウンド、イチローにとって13打席目にして生まれた初安打だった。原辰徳監督は、安打を放って明るい表情のイチローを見て、「彼は野球界で伝説の人で、(並の)人間にはないタフさをもっているのかなと思った。今日の喜びようを見て、彼も人間なんだなと思った」(読売)と話したという。 大事な大会で安打が打てないことは、打者にとって大きなプレッシャーに違いない。そういった経験は、原辰徳監督の現役時代にもあった。ボクが真っ先に思い出すのは1989年の日本シリーズ、対近鉄第5戦のこと。近鉄の吉井理人は、原辰徳の前の4番打者ウォーレン・クロマティを敬遠し、敢えて満塁策をとり、第4戦までまったく安打を打てなかった原と勝負する作戦を試みた。だが、原は意地を見せ、低めの直球をうまくすくい上げて、このシリーズ初安打となる満塁本塁打を打って試合を決めたのだ。ダイヤモンドを駆ける時、何度も何度も両手を上に突き上げ、喜びを現した原。いくら不調だからといって、自分の前の打者が敬遠されることは最大の屈辱だったろう。実況のアナは「汚名返上です、名誉挽回の一発!」と叫んだ。原の一発を待っていたファンたちには、大きなウエーブが起きた。 試合後のヒーローインタビュー、原はこう言った。「本当はわんわん泣きたいくらいですが、まだシリーズが残っているので。皆さんの大きな声援が、本塁打を打たせてくれました」それまで、周囲もマスコミも原の不調を熱心(?)に取り上げていた。原の表情も落ち込んだような、元気の感じられないままでの試合出場だった。だから、前の打者が敬遠されたときは、相当に屈辱的だったに違いない。本塁打を打ってダグアウトに戻る時には、原の目に涙が溢れていたようにボクは記憶していた。(あらためて「YOU TUBE」で確認したところ、涙は流していなかった模様) とまれ、この原の一発で、読売は完全に流れを掴み、逆転優勝を果たすことになった。--------------------------------------------------------------------今日の韓国戦、昨日の安打をキッカケに、イチローも活躍できるか?(あまり関係ないけれど)この日本シリーズの登場人物について。クロマティとの勝負を避け、原との勝負を指示した近鉄の監督は仰木彬氏。テレビの解説者は土井正三氏(元・オリックス監督)。後にイチローと深い関わりをもつ人たちが、すぐ近くで原の一発を見つめていた。 今日も1クリックお願いします
2009.03.20
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今日は15日に行われたスポニチ大会、準々決勝第1試合・JFE東日本vsJR東日本戦の詳報を。(だいぶ日にちが遅くなったけれど)この試合、ボクはJFEの須田幸太(土浦湖北高-早稲田大)と大澤裕介(作新学院高-法政大)が最も見たい選手だった。でも残念ながら須田の登板はなく、大澤裕介を中心に見ていた。≪試合結果≫JFE東日本 101 010 100 =4JR東日本 100 100 000 =27番・指名打者で出場した大澤、この試合では散々だった。・1打席目、見逃し三振・2打席目、ライトフライそして第3打席は、スコア2-2の同点で迎えた5回表にまわってきた。同点の均衡を破る追加点を挙げたJFE、なおも二死満塁のチャンス。大澤が右の打席に入る前、スタンドからは声援が飛んだ。「大澤、男になれ~」だが、フルカウントまで粘ったものの、JRの左腕・斎藤貴志(帝京大)の128kmのスライダーにバットが空を切り、空振りの三振に倒れてしまった。続く第4打席もチャンスで打順が巡ってきた。それは7回の表だった。前の打者の時にパスボールがあり、4点目を追加した直後のこと。なおも二死二・三塁の好機に、大澤はドン詰まりのショートゴロに倒れてチェンジ。ベンチに戻る時の大澤、相次ぐ凡退にかなりメゲた表情をしていた。大澤裕介の法政大時代。2年前の2007年、大澤は法政大の主将であり4番打者だった。秋季リーグには早稲田大・斎藤佑樹を見事に攻略して、スポーツマスコミに話題を提供したものだった。 試合後、斎藤は「調子が悪いわけでもないのに、あんなに打たれるわけがない」と茫然自失だったが、大澤は攻略のタネ明かしをした。「(斎藤は)投球動作に入る時に、ボールがユニホームに触れながらグローブに入ったら変化球、触れなかったら真っすぐだった。変化球の種類は分からないけど、だいたいが落ちる系のボールなので対応できた」。以来、法政大は何度か斎藤佑樹の攻略に成功している。≪トピックス≫■東京六大学リーグ出身の選手たち■JR東日本、早稲田大OBの生島大輔と立教大OBの鈴木雄太が、どちらも最終回に代打でこの試合に出場していた。今日も1クリックお願いします
2009.03.18
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スポニチ大会、(変則的なスケージュールながら)今日一日で準決勝・決勝の3試合が神宮球場で行われた。◇準決勝◇第1試合 新日本石油 8-6 JFE東日本第2試合 三菱重工横浜 4-1 ホンダ◇決勝◇ 新日本石油 4-2 三菱重工横浜MVP・・・新日本石油 池辺啓二(智弁和歌山高-慶應義塾大)新人賞・・・新日本石油 大塚椋司投手(聖望学園高)、 JFE東日本 須田幸太投手(土浦湖北高-早稲田大) ※その他の各賞は省略。-------------------------------------------------------------------大塚椋司と須田幸太が揃って新人賞を獲得したこと、それがボクには嬉しい。大塚椋司。今日行われた準決勝では2番手として登板した。投球内容の詳細は今のところハッキリしていないけれど、勝利投手になっている。これでこの大会の通算成績は3試合登板し、1勝0敗2セーブ。新人賞を獲得するに十分な成績を残した。(決勝戦は登板していない)<2回戦、対東京ガス戦>スコア3-2でわずか1点しかないリードを守るため、9回表に「抑え」として登板。打者3人をわずか4球で片付け、チームに勝利をもたらし、あわせて自己最速の149kmを記録した。<準々決勝、対明治安田生命戦>スコア5-3、ENEOSが2点をリードしているものの、二死ながら走者2人を置いて追撃する明治安田生命、9回裏の攻撃。4番打者を迎えたところで登板し、自己最速タイの149kmを交えて三振に仕留め、勝利を決めた。準々決勝終了後のコメント(15日)、大塚椋司のコメント。「いつかは先発したいけど、今は与えられた場所で投げるだけ」ENEOS・大久保秀昭監督のコメント。「(大塚は)前回は田澤(純一、現・レッドソックス)の新人の時みたいに青白い顔をしてたけど、今日は落ち着いた表情だった。抑えるんだから、大したもの」(以上、コメントは日刊スポーツ) 須田幸太。1回戦は救援で勝利投手に、続く2回戦は先発として登板し、またも勝ち投手となった。だが今日の準決勝は先発したものの敗戦投手に(詳細は不明)。 この大会の通算成績は、3試合で2勝1敗と好成績を残した。<1回戦、対住友金属鹿島戦>スコアは3点のビハインド。なおも続くピンチに登場し、住友金属鹿島の打線を完璧に抑えた。その後にチームは大逆転。延長の末に勝利し、思わぬ形で白星が転がり込んだ。<2回戦、三菱重工名古屋戦>先発で登板し、7回を1失点に抑え、またも勝利投手となった。1回戦終了後のコメント(11日)須田幸太のコメント。 「拾いものですけどね。でもチームが勝って本当に良かった」準々決勝終了後のコメント(15日)準々決勝の6回途中から救援で登板し、3回2/3を無安打に完璧に抑えた川崎 正昭(九州東海大)のコメント。「(川崎自身が下手投げの軟投派であるため)須田君に、投球は力だけではないと伝えたかった」(以上、コメントはスポニチ) 今日も1クリックお願いします
2009.03.16
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新日本石油ENEOSのルーキー・大塚椋司(聖望学園高)が前回に続き、またも痺れる場面にクローザーとして登場。期待どおり速球を武器に快投を演じ、ENEOSの勝利と準決勝新進出を強引に決めた。-------------------------------------------------------------------スコア5-3でENEOSが2点リードで迎えた9回裏。必死に食い下がる明治安田生命は二死ながら走者一・二塁のチャンスをつかむ。逃げ切りをはかりたいENEOSは、最後の打者を討ち取るために、5番手の投手として大塚椋司をマウンドに送った。相手の打者は4番・加藤孝紀(東海大)。直球主体で真っ向から挑んだ大塚は、見事に5球で加藤から三振を奪い、チームの勝利を決めた。中でも2球目に投げた直球は自己最速タイの149km、ボクが今日観た2試合(第1試合はJR東日本vsJFE東日本戦、第2試合はこのENEOSvs明治安田生命戦)の計13人の投手の中で、球の速さは群を抜いた存在だった。≪試合内容≫新日本石油E 210 000 200 =5明治安田生命 000 111 000 =3両チーム合わせて24本の安打が飛び出したこの試合、決勝打が出たのは、スコア3-3の同点で迎えた7回表だった。一死走者二・三塁のチャンスに、ENEOSの5番・柳田俊幸(第一経済大)が叩いた強烈なゴロは、バックホームに備えて前進新守備をしていた三塁手のグラブの下をすり抜け、レフト前に達する安打になった。この一打で走者2人が生還し、決勝打となった(記録は三塁手のエラー)。≪トピックス≫■この試合、2本の本塁打が飛び出した。1本目はENEOSの4番・磯部泰(修徳高)がレフトスタンド中段に放った、先制点となる2点本塁打(1回表)。2本目は明治安田生命の3番・荒川正志(東海大)のライト・フェンスぎりぎりに飛び込むソロ本塁打(4回裏)。■ENEOSの3番・榊原浩司(駒澤大)が打席で、小刻みに足を使ってリズムをとる仕草は、同チームの大久保秀昭監督(慶應義塾大-近鉄)の現役時代に似ていると思うのは、ボクだけだろうか?■早稲田大OBの本田将章が、劣勢だった明治安田生命にあって、ひとり気を吐いた(7番・ショート)。6回裏、本田がファーストへ打ったライナーを一塁手が弾いた場面。ベースカバーに入った投手と一塁ベースを目がけて競争になった。微妙なタイミングだったが、本田が必死にヘッドスライディングを敢行、ぎりぎりのところでセーフを勝ち取った。二死だったが、この一打で三塁走者が生還し、スコアは3-3の同点に追いつくことができた(記録は安打)。そして8回裏、左中間越えの長打を放った場面。ふつうなら二塁で止まるはずの打球だったが、強引に三塁に駆け込んでセーフ。見事に三塁打にしてチャンスを作るなど、身体全体から「ガッツ」をみなぎらせていた。■そのほか、主な東京六大学リーグ出身者たちのこと。明治安田生命の6番・DHでスタメンした今福哲也(慶應義塾大)も4打数2安打と活躍。一方、ENEOSでは慶應義塾大OBの宮田泰成と早稲田大OBの前田将希が、いずれも代走として途中出場。残念ながら、早稲田大OBの泉尚徳はベンチ入りしたものの、試合出場はなかった。今日も1クリックお願いします
2009.03.15
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いま開催中のスポニチ大会(社会人野球)、新日本石油ENEOSに入社した大塚椋司(聖望学園高)が、デビュー戦で与えられた役割を立派に果たした。3月13日に行われた2回戦の対東京ガス戦。スコア3-2と1点リードで迎えた最終回にクローザーとして登板した大塚、たった4球で3人の打者斬り、ルーキーとは思えぬ火消しでチームを勝利に導いた。4球はすべて直球、中には自己最速の149kmが計測される速球もあったという。大塚のコメント。「凄く緊張した。試合中から登板は言われていたけどまさかあの場面で...甲子園より緊張です。でも自信にはなった」(スポニチ)大塚椋司の聖望学園高時代。昨年(2008年)のちょうど今ごろ、大塚は甲子園のマウンドに仁王立ちしていた。直球、スライダー、カットボールを武器にチームのセンバツ準優勝に貢献した。(ただ、大塚の武器は球種に加え、「笑顔」もあったとボクは思うけど・・・)センバツの直後、埼玉県春季大会に凱旋登板した大塚を、ボクは県営大宮球場で観戦した。「俺は甲子園の準優勝投手だ」と言わんばかりの堂々としたピッチングが、強豪・春日部共栄高を相手に披露されていた。甲子園大会の最中、「ピンチになると、どうしてもストライクが欲しくなって投げ急いでしまうことが欠点」と自ら語っていたが(3回戦、対履正社高戦との試合後)、準々決勝の対平安高戦、準決勝の対千葉経大付高戦を経て克服したように見えた。そして、その2カ月後に開催される夏の埼玉県大会は、大塚のいる聖望学園高が優勝候補の筆頭と言われていた。だが、まさかまさかの初戦敗退。公立の大井高校に敗退し、ファンを驚かせたものだった。試合後、大塚椋司のコメント。「気持ちが前に出過ぎて力んでしまった。球が上ずった」 (朝日新聞・埼玉版)聖望学園高・岡本幹成監督のコメント。 「大塚はいい投球をしようとし過ぎた。 選手たちは頭では分かっていたが、内面では気持ちの切り替えができていなかったかもしれない」 (同)甲子園での思わぬ活躍が、逆に大塚やナインの心理的な負担になっていたのかもしれない。--------------------------------------------------------------------新日本石油野球部に入部し、ルーキーながらクローザーの役割を大久保秀昭監督(桐蔭学園高-慶應義塾大-近鉄)から仰せつかった大塚、首脳陣の期待は相当に大きいのだろう。ぜひ3年後のプロ入りを目指して、新日本石油ENEOSで活躍してほしいものだ。同じ高卒投手で急成長した田澤純一(現・レッドソックス、横浜商大高)のように。今日も1クリックお願いします
2009.03.14
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いま開催中のスポニチ大会(社会人野球)、JFE東日本に入社した須田幸太(土浦湖北高-早稲田大)が大車輪の活躍を見せている。3月11日に行われた1回戦は3番手で登板した。スコアは3点のビハインド、なおも続くピンチに登場し、住友金属鹿島の打線を完璧に抑えた。その後にチームは大逆転。延長の末に勝利し、思わぬ形で須田に白星が転がり込んだ。 「拾いものですけどね。でもチームが勝って本当に良かった」(スポニチ)そして昨日の2回戦(13日)。須田は三菱重工名古屋戦に先発で登板、7回を1失点に抑え、またも勝利投手(大会2勝目)となった。須田幸太の早稲田大時代。本当なら早稲田のエースとして、大活躍を期待された存在だった。少なくとも2年生の頃までは。なのに斉藤佑樹(2年、早稲田実)が入学したことで最もワリを喰ってしまったのが須田。一昨年(2007年)の春季リーグに開幕投手の座を斎藤に奪われて以降、須田が背負っている(右のエースナンバーを示す)背番号「11」は、「実」を伴わない「名」だけのものになってしまった。昨年の東京六大学・秋季リーグ。明治大vs早稲田大2回戦(2008年10月19日)では先発登板したものの、ピンチを迎えた途端に交代を告げられ、マウンドを降りる時には悔し涙を流していたものだった。※この試合が須田にとって、リーグ戦最後の先発登板となった。周囲の期待が溢れていた大学時代の前半(1~2年生)。そして斎藤佑樹(早稲田実)が入学し、周囲の注目がそちらに行くことで不遇の身となった(と思える)後半(3年~4年生)。そんな時を経てのJFE東日本入りだったが、須田はさっそく活躍を見せている。大学時代に味わった「マイナス」の経験をバネにして、思い切り「プラス」のパワーに変えて、大きな花を咲かせてほしいものだ。4月4日は社会人・東京六大学対抗で早大と対戦する。「大学のときは自信をなくしたこともあった」と振り返るが、今は違う。社会人の質の高い練習で鍛えていけば、4月には学生時代とは違う姿を後輩たちに見せられるという確信がある。(スポニチ)今日も1クリックお願いします
2009.03.14
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これまで「あま野球日記」に紹介した埼玉高校球児からピックアップします。<東洋大>【投手】高島政信(浦和学院高)、土肥寛昌(埼玉栄高)【捕手】酒井亮(埼玉栄高)【内野手】坂本一将(浦和学院高)、加崎泰彦(春日部共栄高)【外野手】山谷俊樹(浦和学院高)※坂本一将、上背はないけど華麗なショートの守備と走力が魅力。 酒井亮、プロにも注目された捕手。 浦和学院高・森士監督のJr.森大は早稲田大へ進学する。 この森親子も「父子鷹」だ。<中央大>【捕手】福士統平(浦和学院高)<國學院大>【投手】下村健人(市立川越高)<國士舘大>【投手】遠藤力(市立川越高)<駒澤大>【投手】井口拓皓(市立川越高)【内野手】白崎浩之(埼玉栄高)※既報のとおり。今日も1クリックお願いします
2009.03.12
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一昨日行われたWBC1次ラウンド、対韓国戦。日本の敗因に、4回一死一、二塁で4番・金泰均に三塁線への安打を打たれたシーンを挙げた野村克也監督は、こう言って捕手・城島健司のリードを非難した。「(初球のシュートをファウルされたあと、2球目のシュートを打たれ)外のスライダーでも放っておけばよかった。前の打席はシュートで打ち取ってんだから。大ヤマを張られて待ち構えているところにシュートか...」 (サンスポ)「インサイドワーク」というのは難しくて、ボクにはよくわからない。ただ、一死一・二塁の場面、そしてシュートを放るのであれば、三塁手の村田修一(横浜、東福岡高-日本大)はもっと三塁線を狭めて守っても良かったのはないか? そう思わないでもない。(何を言っても結果論なんだけど・・・)ま、理由は何であれ、三塁線への安打が勝敗を分けたことに違いはない。そういえば3月7日の韓国戦も、(実質的な)勝利を決めたのは初回に内川聖一(横浜、大分工高)が放った三塁線を抜ける打球だった。最近、近鉄バファローズの記憶が頭の中をグルグルまわっているボクは、これらの勝敗を分ける三塁線への打球を見ていて、近鉄にとってアンラッキーだった2本の三塁線への打球を思い出してしまうのだ。<1本目>「江夏の21球」で有名になった日本シリーズ・近鉄vs広島第7戦(大阪球場、1979年11月4日)。3勝3敗で迎えたこの試合、スコア3-4で1点差を追う9回裏・近鉄が無死満塁のチャンスに、三塁線への打球が飛びだした。広島の投手は、もちろん左腕・江夏豊。右打席に立ったのは、代打・佐々木恭介(元・近鉄監督、柏原高)。1球目、内角にカーブが大きく外れボール2球目、ストレートでストライクそして3球目だった。佐々木が強振した打球は大きく弾み、三塁手・三村敏之(現・楽天編成部長、広島商高)が思い切りジャンプして差し出したグラブの上を越えていった。もしフェアだったら・・・三塁走者・藤瀬史朗はもちろん、二塁走者・吹石徳一(現・楽天スカウト、南部高)も生還することができたはず。つまり逆転サヨナラゲームが成立し、その瞬間、近鉄が日本一になることができたのだ。以降、「12球団で日本一になったことのない唯一の球団」といった、まったく有難くない「冠」を与えられることもなかった。でも、判定はファール 近鉄・西本幸雄監督(当時)は、意外にも一切判定に抗議することはなかった。「三塁コーチが何も言わなかったから、たぶんファールだったんだろ」と後年、西本氏はそう語っていた。ちなみに、その時の三塁コーチは、近鉄のコーチに就任してから監督になるまで18年の時間を費やした(もっと早く監督になってほしかった)仰木彬氏(故人)だった。 <2本目>後年、「伝説の10・19」と呼ばれるようになったロッテ-近鉄戦、ダブルヘッダーの第2試合(川崎球場、1988年10月19日)。このダブルヘッダーは2試合とも勝利しないとリーグ優勝できない近鉄は1試合目を奇跡的に勝利し、迎えた第2試合。スコア4-4の同点で迎えた9回表、近鉄の攻撃。引き分けではなく、どうしても勝たなければならない近鉄の攻撃、二死二塁のチャンスに三塁線への打球が飛び出した。 左打席に立ったのは2番・新井宏昌(現・ホークス打撃コーチ、PL学園高-法政大)。ロッテの投手は、右腕・関清和(鉾田一高-専修大)だった。新井が振り切った打球は、強烈なゴロとなって三塁線に飛んだ。抜けた と、ボクは思った。そして、もし抜けていたら・・・二塁走者だった大石大二郎(現・オリックス監督、静岡商高、亜細亜大)はラクラク生還し、貴重な追加点を挙げて勝利を確実なものにできたろう。それは即ち、リーグ優勝を決めることにもなったのだ。だが、ロッテの三塁手は横っ飛びで打球を好捕。すぐさま起き上がり、一塁に矢のような送球した。タイミングは微妙だったが、判定はアウトその時、ロッテの三塁手は水上善雄(現・日本ハム二軍監督、桐蔭学園高)。この回から三塁の守備についたばかりで魅せた超ファインプレーだった。実況していた朝日放送・安部憲幸アナは、そのプレーを見て「ジス・イズ・プロ野球」と叫んでいた。いつも沈着冷静な新井が、激しく審判に抗議をしていた。とても珍しい光景ではあった。仰木彬監督(当時)は、「三塁手の素晴らしいプレーを見るまで、この回から水上クンに代わっていたことを知らなかった」と後日、述懐していた。 今日も1クリックお願いします
2009.03.11
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プロ野球元巨人投手の高橋一三氏(62)が大学野球の山梨学院大監督に就任し、日本学生野球協会が10日までに登録を認めた。高橋氏は巨人が9連覇した黄金時代の左腕エース。1969年には22勝して沢村賞に選ばれ、76年に移籍した日本ハムでも活躍。引退後は指導者として両球団でコーチ、巨人の2軍監督を務めた。山梨学院大は関甲新学生連盟の1部リーグ所属。同リーグは近年プロ選手が輩出するなど、レベルが上がっている。(時事) いやぁ、驚いたなぁあの、読売がV9を達成した当時の左腕エースだった高橋一三氏(背番号「21」)が、関東甲信越学生リーグ・1部に所属する山梨学院大の監督に就任したそうだ。ボクの知る限り、知名度の高かった元プロ選手で大学野球の監督に就任するのは、東京新大学リーグ・東京国際大の古葉竹識監督、母校の中央大を東都大学リーグの1部に昇格させた高橋善正監督に次ぐ3人目の監督になる。現在、関甲信リーグ1部にいるのは、山梨学院大、上武大、平成国際大、常磐大、白鴎大、作新学院大の6校。ここ5年間のリーグ戦の戦績を調べたところ、山梨学院大は下位に低迷することが多く、06年秋に2位になったことが最高の順位。昨年(2008年)の秋季シーズンでは、1部リーグ最下位という屈辱を味わった(入替戦で勝利し、1部残留を決めているが)。ただ、自慢できることもある。それは、昨秋の明治神宮大会で「ベスト8入り」した常磐大をリーグ戦で破ったこと。しかもスコア6-1、6-2と連勝で勝ち点を挙げたのだ。選手たちの名簿を見ると、付属の山梨学院高はもちろん、兵庫・育英高の出身者がゾロゾロいるし、今春の新入部員にはPL学園高、済美高、木更津総合高の出身選手たちもいる。そしてボクには馴染みの深い埼玉・市立川越高の捕手だった高野輝久も入学予定だとか。決して強豪大学と比較して遜色のない、磨けば十分に光る可能性をもったチームと言えるかもしれない。-------------------------------------------------------------------そして監督に就任する高橋一三氏(広島・北川工高)のこと。読売のV9時代(1965年~73年)、右のエースは堀内恒夫(甲府商高)、左のエースがこの高橋一三。現役19年間の通算成績は167勝132敗、防御率3.18、奪三振数は2000個に3つ足りない1997個だった。高橋といえば「イカリ肩」が特徴。投手は「なで肩」が良いという説もあるが、真っ向からその説を否定してみせた存在でもあった。また表情にまったく喜怒哀楽を現さないポーカーフェースも、この人のキャラクターのひとつ。テレビで高橋を見ながら、「この人は、いったい何に対してそんなに怒っているのだろ?」と、当時のボクは、そう思ったものだった。76年に張本勲氏とのトレードで日本ハムに移籍し、83年に現役引退後は日本ハム、読売で投手コーチや二軍監督を務めていた。日本ハムと読売の投手コーチといえば、現・中央大の高橋善正氏と同じ経歴ではある。この2球団の投手コーチを務めれば、次のステップは「大学野球の監督」という新たな伝説が生まれるかもしれない。 今日も1クリックお願いします
2009.03.10
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「緻密な日本野球に崩れた。原ジャパンはこれまで苦手にしてきた金の集中分析に相当の時間を割いた。まるで顕微鏡をのぞき見るように頭からつま先までみな暴いた日本は結局、金を崩すのに成功した。金が日本の打者を料理した主な武器は落差の大きなスライダーだったが、日本のスコアラーはタイミングを合わせるための対応策をとったわけだ」(夕刊フジ)このブログでは、韓国・中央日報が「日本の野球を『顕微鏡野球』」と書いたことを紹介したことがある(2008年12月28日)。それはこんな記事だった。「日本の対応は、特有の顕微鏡野球だ。篠塚コーチは、『韓国を含む相手チームの戦力分析ビデオをいっぱいもらい研究している。キャンプでは選手にも見てもらわないと』と徹底した分析に入っていることを示唆した」(中央日報)「顕微鏡野球」という表現が、ボクにとってはとても面白かった。ただ今日の第2戦で韓国はたまたま勝ったものの、日本を「顕微鏡野球」と皮肉る以前に、走塁ミスや牽制死も多かった。不思議だったけど、韓国はいつもこんな「雑な」野球をやっているのかな?だとすれば、韓国恐るるに足らず・・・なのだ。今日も1クリックお願いします
2009.03.09
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昨日行われたWBC1次ラウンド、日本代表は宿敵・韓国を相手にスコア14-2(7回コールド)で圧勝し、2次ラウンド進出を決めた。イチローが復調した、松坂大輔が好投した、村田修一の本塁打がよかったなど様々な見方があると思うけど、ボクはこの試合のヒーローは稲葉篤紀に代わってWBCに初出場した内川聖一だと思っている。それは初回、1番・イチロー、2番・中島裕之、3番・青木宣親の3連打で1点を先制したものの、続く4番・村田修一と5番・小笠原道大が連続三振。チャンスが潰えたと思った直後、この日初登場の6番・内川聖一が左腕・金広鉉が得意とするスライダーを完璧にとらえ、三塁線を破る二塁打を放ったから。この一打が勝利を決めるのに、大きな役割を果たしたのではないかな。内川、試合後にこう振り返った。「代表初打席で、心臓が口から飛び出そうでした。でも、僕みたいな選手は左投手を打たないことには次の仕事が回ってこないので」(スポニチ)内川聖一(横浜、大分工高)の高校時代。ボーイズ(中学)時代に全国大会ベスト8入りを果たした実績から、有力高などから勧誘の声がかかる中、本人が選択したのは父・一寛氏(法政大)が監督を務める大分工高。高校では通算41本塁打を放ち「スラッガー」の片鱗を見せ、3年時の夏の県大会はチームを準優勝に導く(優勝は中津工高)などの活躍をしたが、一方では骨のう腫を患い、左足の手術を3度も経験している。そのため、高校1年秋から2年秋までの1年間はまともに練習ができない苦労も経験している。(※41本塁打は、実質1年間で作ったものといえるからスゴイ!)※参考:「天下泰平UCHIKAWA」■チームメイト■後にプロに進む選手はいなかった。■大分県内のライバル■柳ヶ浦高に現・読売の脇谷亮太がいた。但し、内川の一学年上。■甲子園のライバル■(前述のとおり)甲子園に出場していない。------------------------------------------------------------------ プロ入団後、アクシデントに見舞われた。ポジションの相次ぐ変更や顎椎の異常による視力の低下、そしてイップスまでも経験。だが、それらの苦難を乗り越え、昨年(2008年)はセ・リーグの首位打者を獲得、今回のWBCの日本代表メンバーにも選出された末に、昨日の快打があった。※内川聖一の父・一寛氏は、国東高の監督時代に吉田豊彦(元・近鉄)や弓長起浩(元・阪神、亜細亜大)を指導していたらしい。今日も1クリックお願いします
2009.03.08
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前回書いた「松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?」の続き。松本吉啓氏の明治大時代のことはあまり分からなかったのが残念だったけど、卒業後に明治生命に進み全国制覇、その後、1992年頃(?)に岩手・盛岡大学野球部の監督に就任した。盛岡大では4年間監督を務め、北東北大学リーグの2部に低迷していたチームを95年春に2部で優勝させ、入替戦にも勝利し1部昇格に導いたようだ。※当時、長男・啓二朗(現・横浜、千葉経大付高-早稲田大)は盛岡市にある少年軟式野球チーム「青山スワローズ」で活躍していたようだ(小学校1年~4年まで)。そして97年8月に埼玉栄高の監督に転身、98年夏と00年センバツの2度、チームを甲子園に導いた。忘れられないのは98年夏。主砲の大島裕行(当時2年、現・西武)が、初戦の対沖縄水産高戦で新垣渚(現・ホークス、九州共立大)から、逆転勝利を決める特大本塁打を右中間に放ったシーン。実力的にも、そして栽弘義監督(故人)のネームバリューからも、埼玉栄高が不利と思われていたが、大島の本塁打がその前評判を見事に覆してみせたのだから。01年秋、県大会で8強の壁を破れないでいた千葉経大付高の理事長・佐久間勝彦氏から「日本一の野球部を作ろう」と声をかけられ、同校の監督に就任した。朝日新聞に、当時のことを紹介した記事があった。当時の千葉経大付の野球部は総勢18人。千葉市若葉区にある同校グラウンドの草むしりから始めた。「練習量より心が大事」として、練習時間は2時間までとした。松本は現役の時、桜美林は朝から晩まで厳しい練習をしていたため、多くの部員が退部した。「練習時間が長くなると力のない子はどこでさぼろうかと考えて、練習に来るのが嫌になって、いずれ辞めてしまう」限られた時間の中、「長所を伸ばす練習」をする。打撃に自信がある部員には徹底的に打つ練習をさせる。代打で試合に出場できるかもしれないからだ。一つの長所からレギュラーを獲得する選手も数多く出てきた。「選手が希望を持って練習できるようにする。結果として甲子園につながる」その指導法が効を奏してか、就任後、チームは4度も甲子園に出場。そのうち2度はベスト4入りを果たした。特に04年夏の3回戦で、長男・啓次朗をエースにダルビッシュ有のいる東北高を延長10回の末に破った試合は名勝負だった。その後、次男・歩己(現・早稲田大2年)とも甲子園出場を果たし、原貢・辰徳親子を凌ぐほどの「父子鷹」ぶりを見せている。 今日も1クリックお願いします
2009.03.08
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「藤井寺球場跡地に記念モニュメントを設置します」あいしーぷろさんに教えてもらい、近畿日本鉄道(株)のホームページを見ると、このリリース記事が紹介されていました。「市民に親しまれた球場の記憶を次の世代に伝え、スポーツを通じた青少年育成を願って、藤井寺市、学校法人四天王寺学園、近畿日本鉄道株式会社の三者で記念モニュメントを設置することといたしました」球場跡地には四天王寺学園系列の小学校が開校し、その敷地内にモニュメントが設置されるそうです。 藤井寺球場、ボクにとっても思い出深い球場のひとつです。1981年秋、その年いっぱいで西本幸雄監督(当時)が勇退するという報を聞き、いても立ってもいられず、東京から寝台急行に乗って大阪に行きました。この時がボクにとって初めての「大阪体験」でした。大阪駅から環状線に乗って天王寺駅へ、少し歩いて近鉄・阿倍野橋駅から近鉄電車に揺られて藤井寺駅へと向かいました。小さい頃から近鉄ファンだったボクにとって、近鉄電車はある意味「憧れ」の対象でした。電車に乗って「あぁ、これが近鉄電車かぁ!」なんて感激したことを今も憶えています。中吊りには近鉄選手たちの顔写真が掲載されていて、東京では考えられない風景に大いに感動したものでした。ただ、電車が藤井寺方向に進むにつれて住宅街が広がっていき、「本当にこんな所に球場があるんだろうか?」なんて、少し不安を覚えたりもしたものです。ボクにとっては、「大阪=近鉄バファローズ」、「大阪=藤井寺球場」みたいなものでした。--------------------------------------------------------------『近鉄球団、かく戦えり』(浜田昭八著、日経ビジネス人文庫)を読んで、ボクは藤井寺球場の歴史を少しだけ知ることができました。使用料がどんどん跳ね上がる(それまでのホーム球場だった)日生球場を離れ、以前からあった藤井寺球場を再活用する形で、ナイター設備のある3万5千人の観客を収容可能なホーム球場を目指し、着工したのが1973年だったといいます。「1968年からの3年間で、近鉄の人気は急上昇した。70年に太田幸司、73年にジャンボ仲根を獲得し”全国区”の近鉄へ飛躍するチャンスだった。球場周辺に住宅がどんどん建ち、人口も増えた。さらに『自転車利用の来場者』にも目をつけた。熱心なリピーターになりそうな小・中学生が多いはずだ・・・」(『近鉄球団、かく戦えり』)そんな期待を込めて、あらためて着工された藤井寺球場でしたが、97年に大阪ドームが完成し、2004年に取り壊しが決まりました。そして最後の文章には、次のようなオチが用意されていました。「球場の看板は、近くでスナックを経営している70年代の主砲・栗橋茂が抱きかかえるようにして持ち帰った」(同)。今日も1クリックをお願いします
2009.03.06
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WBC1次ラウンドA組が開幕した。1回戦の日本-中国が行われ、日本が4-0で中国を降して白星スタートを飾った。まっ、イチローが5-0とかいろいろ問題はあるけれど、勝つことに意義がある。まずはメデタシ、メデタシ。--------------------------------------------------------------さて話題は変わって、始球式を行った王貞治氏(早稲田実)のこと。始球式を務めた前WBC日本代表監督の王氏は「どきどきした。ストライクが入らなかった」と照れ笑いを浮かべた。スーツ姿でマウンドに登り、投手だった高校時代と同じノーワインドアップのフォームで、捕手を務めた川崎(ソフトバンク)のミット目がけて投げ込んだ。ボールは外角低めのボール球だったが、ミットまで届いたことでひと安心。(毎日新聞)王貞治氏のノーワインドアップ。記事にあるとおり、高校時代に甲子園の優勝投手(1957年センバツ)となった背景には、このノーワインドアップがあった。なぜなら早実に入学後、すぐに主戦の投手になっていたものの、どうにも制球が定まらず四球を連発する「自滅型」投手だった王。そんな時、 早実の先輩が教えてくれた「制球をよくする投法」、それがノーワインドアップだった。効果はてきめんだった。制球の不安が解決され、57年のセンバツ優勝へ一気に突き進むきっかけになったのだ。王貞治氏とノーワインドアップ、切っても切れない深~い関係にある。 ↑ 参考書籍:『甲子園-名投手物語』(鈴木俊彦著、心交社刊)----------------------------------------------------------------今日の記念すべきWBC・1試合目。スタメンをとりあえず記録しておこうと思う。いつか参考になるかもしれないから。1 (9) イチロー マリナーズ 愛工大名電高2 (6) 中島裕之 西武 伊丹北高3 (7) 青木宣親 ヤクルト 日向高 早稲田大4 (D) 稲葉篤紀 日本ハム 中京大中京高 法政大 5 (5) 村田修一 横浜 東福岡高 日本大 6 (3) 小笠原道大 読売 暁星国際高7 (8) 福留孝介 カブス PL学園高 8 (2) 城島健司 マリナーズ 別府大付高 9 (4) 岩村明憲 レイズ 宇和島東高 先発 ダルビッシュ有 日本ハム 東北高 ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.05
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前回の続き。今日は横浜・松本啓二朗(千葉経大付高-早稲田大)の父・吉啓氏の大学時代のこと。1976年夏の甲子園、桜美林高を優勝に導いた松本吉啓は、東京六大学リーグの明治大に進学した。その明治大では3度のリーグ優勝を経験したのだが、松本自身がどんな成績を残したのか、ボクにはまるでわからなかった。ただ、一つだけわかったことは、1980年に開催された「第9回日米大学野球」に投手として選出されていたこと。代表選手になるのは、それなりに実績があるからだろうが、不思議と実績を示す情報が見つからないのが残念。ちなみに、この日米大学野球の他のメンバーたちがスゴイ。明治大・平田勝男(現・阪神二軍監督、長崎海星高)亜細亜大・大石大二郎(現・オリックス監督、静岡商高)中央大・高木豊(元・横浜、多々良学園高)東海大・原辰徳(現・読売監督、東海大相模高)法政大・西田真二(現・四国九州IL/香川監督、PL学園高)法政大・武藤一邦(現・成城大野球部コーチ、秋田商高) ほかまた、その当時、東京六大学リーグでは次の選手たちが活躍していた。法政大・・・江川卓(元・読売、作新学院高)、袴田英利(現・ロッテコーチ、静岡自動車工高)、高代延博(現・WBC日本代表コーチ、智弁学園高)、金光興二(現・法政大監督、広島商高) ほか早稲田大・・・山倉和博(元・読売、東邦高)、岡田彰布(元・阪神監督、北陽高)ほか慶應義塾大・・・玉川寿(土佐のサイクル男、土佐高)ほか立教大・・・野口裕美(元・西武、米子東高)ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.04
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読売監督にしてWBC日本代表の監督でもある原辰徳氏(東海大相模高-東海大)、そしてその父・貢氏(現・東海大系列高野球部総監督)のことが「父子鷹」と呼ばれるようになって久しい。原親子がそう呼ばれ始めた頃、2人が出場していた1976年夏の甲子園で、まったく無名校の無名投手だった男が優勝をさらって行った。その男が今、あらたに「父子鷹」と呼ばれるようになったのだから、「巡る時代」は面白い。その優勝をさらった無名投手が桜美林高の松本吉啓。そして、その息子が啓二朗。松本吉啓氏(桜美林高-明治大-明治生命-埼玉栄高監督-千葉経大付高監督)。<桜美林高時代>まだ夏の甲子園3度目の出場だった桜美林高。当時は「オウビリン」とまともに読める人がいなかった1976年夏の甲子園で全国制覇を果たした。2回戦 日大山形高に4-0 3回戦 市神港高に3-2 準々決勝 銚子商高に4-2準決勝 星稜高に4-1そして、決勝でPL学園高をスコア延長11回の熱戦の末、4-3でサヨナラ勝ちし、優勝を決めた。桜美林が勝利するたび校歌が甲子園に流れた。その時、ボクは「イエス、イエス、イエス」という歌詞を憶えた。そして、「校歌にカタカナ」があるなんて不思議なもんだ、とも思ったものだ。■東京都内のライバル■一学年下に日大二高・五十嵐信一(現・日本ハムスコアラー)、二学年上に城西高の高橋慶彦(現・ロッテコーチ)がいた。■甲子園のライバル■準々決勝で対戦した銚子商高のショートは宇野勝(元・中日)。また準決勝で対戦した星稜高のエースは小松辰雄(元・中日)だった。直接対戦はしなかったが、柳川商高の久保康生(現・阪神チーフコーチ)、「サッシー」こと海星高・酒井圭一(現・ヤクルト九州担当チーフスカウト)らがいた。また、息子・啓二朗がいた早稲田大監督の應武篤良氏も、広島・崇徳高の捕手としてこの大会に出場していた。2回戦で東海大四高に勝利したものの、3回戦で酒井のいる海星高にスコア0-1で惜敗した。※應武さん、同年秋のドラフトで近鉄バファローズから3位指名を受けたが、これを蹴って早稲田大に進学した。(⇒あま野球日記「近鉄を蹴った男たち」収録)松本吉啓氏、高校を卒業し明治大に進学、そして明治生命に進むが、高校・大学・社会人のすべてで「日本一」を経験した。現役の選手として「日本一」を経験していないのは「プロ野球」だけ。明治大入学以降のことは次回に。※<松本啓二朗の小中高時代>はこちら。 <松本啓二朗の大学時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校監督時代>はこちら。ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.01
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さきほど書いた「松本啓二朗の小中高時代」の続き。今回は「松本啓二朗の大学時代」。<早稲田大時代>昨年(2008年)秋のドラフト1位で横浜に入団した松本啓二朗(千葉経大付属高-早稲田大)、プロに入団後、さっそくオープン戦から活躍している。早稲田大時代から、走攻守にセンス溢れるプレーを見せ、ライトのポジションに立っているだけで、存在感のある選手だった。昨年の東京六大学リーグ・ドラフト候補選手たちの中で、最も輝いていた。早稲田大では、入学早々、1年春からライトの定位置をつかんだ。通算成績は、96試合出場、333打数105安打、打率.315、2本塁打、44打点(通算100安打達成は27人目)。ベストナイン5回。※「ライトのポジションに立っているだけで、存在感のある選手だった」と書いた。神宮球場で、そういった存在感を見せる選手はあまりいない。というか、かなり難しいことだと思う。ボクの記憶の中で、それができていたのは、1980年頃の法政大・武藤一邦(現・成城大野球部コーチにして、NHK番組『フルスイング』の打撃指導者、秋田商高)、90年代後半の慶應義塾大・高橋由伸(現・読売、桐蔭学園高)ぐらいだった。以下、「あま野球日記」バックナンバーより引用。■「(2009年ドラフト候補)清田育宏の高校・大学時代」 (2009.1.23」 03年夏の千葉県大会。清田育宏は市立柏高のエースとして出場した。準々決勝 で対戦 したのは松本(当時2年、早稲田大-08年横浜1位指名)を擁する千葉経 大付高。清田は松本との投げ合い、スコア4-2で完投勝利した。■「ドラフト候補・松本啓二朗(早稲田大)」 (2008.10.23) ボクが今年、大学野球を見ていて、「すっごいなぁ!」と思った4年生の筆頭は、 早稲田大・松本啓二朗。 もう何と言うか・・・、ダントツなのだ つい先日、同僚の上本博紀(4年、広陵高)に次いで、リーグ史上28人目の 通算100安打を達成した。長打力もあるし、俊足を活かした小技もある。■「ドラフト、小松剛・上本博紀・松本啓二朗・細山田武史」 (2008.10.10) チャンスに強く、走攻守そろった素晴らしい選手だ。そして世界大学選手権で つねに見せた笑顔が印象的。ある雑誌では、現在のプロ野球選手に例えると 稲葉篤紀(現・日本ハム、中京大中京高-法政大)に似ていると思う。 松本なら、どこの球団に入団しても活躍できるのではなかろうか、ボクはそう思って いる。■「世界大学野球、日本3連勝!」 (2008.7.22) 松本は3番・ライトでスタメン出場していた。■「乾真大、松本啓二朗、井上雄介」 (2008.4.25) 2004年夏に出場した甲子園、松本や井上雄介らの活躍で甲子園を勝ち進むこと が「千葉経大付高」の名を、高校野球ファンの間に一気にブレークさせた。 (今や強豪校の一角を占める存在だ)■「松本啓二朗とダルビッシュ有」 (2008.1.3) 日本ハムがダルビッシュ有投手の「宿敵」を指名へ。今秋のドラフトでの上位指名 候補に、早大・松本啓二朗外野手(3年、千葉経大付高)を検討・・・しているらしい。 松本、2004年夏の甲子園でダルビッシュ有(当時、東北高)に投げ勝っているのだ。■チームメイト■一緒に横浜に入団した細山田武史(鹿児島城西高)や、阪神に入団した上本博紀(広陵高)がいた。ほかに斎藤佑樹(新3年、早稲田実)、大石達也(新3年、福岡大大濠高)、松下健太(新4年、明徳義塾高)、須田幸太(現・JFE東日本、土浦湖北高)、泉尚徳(現・新日本石油ENEOS、国士舘高)ら多数。■東京六大学リーグのライバル■・慶應義塾大・・・相場宏輔(熊本高)、中林伸陽(新4年、慶應高)・法政大・・・小松剛(現・広島カープ、室戸高)、武内久士(新4年、徳島城東高) 二神一人(新4年、高知高)、加賀美希昇(新3年、桐蔭学園高)・立教大・・・戸村健次(新4年、立教新座高)、仁平昌人(新3年、日大鶴ケ丘高)・明治大・・・岩田慎司(現・中日、東邦高)・東京大・・・鈴木優一(新4年、西尾高) ほか多数 ■全国大学のライバル■2008年の明治神宮大会で早稲田大を破った東北福祉大には、中根佑二(新2年、仙台育英高)、森山一茂(新3年、大分・楊志館高)、桑鶴雄太(新3年、光星学院高)がいた。ほかは多数のため省略。※<松本啓二朗の小中高時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校監督時代>はこちら。ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.01
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昨年(2008年)秋のドラフト1位で横浜に入団した松本啓二朗(千葉経大付属高-早稲田大)、プロに入団後、さっそくオープン戦から活躍している。早稲田大時代から、走攻守にセンス溢れるプレーを見せ、ライトのポジションに立っているだけで、存在感のある選手だった。昨年の東京六大学リーグ・ドラフト候補選手たちの中で、最も輝いていた選手だった。早稲田大では、入学早々、1年春からライトの定位置をつかんだ。通算成績は、96試合出場、333打数105安打、打率.315、2本塁打、44打点(通算100安打達成は27人目)。ベストナイン5回。<小・中学生時代>父・吉啓氏が埼玉栄高の監督を務めていた関係で、小学生時代は、大宮(現・さいたま市)に居住。リトルリーグ・大宮ライオンズに所属していた。※大宮リトルリーグには、大宮ライオンズのほか、大島裕行(現・西武、埼玉栄高)のいた大宮レパーズ、吉野誠(現・オリックス、大宮東高-日本大)のいた大宮スワローズなど8チームから構成されている。また毎年、全8チームから選抜された14名の選手で「オール大宮」を結成し、全国優勝・世界大会優勝を目指している。中学時代は千葉に転校。千葉シニアで活躍し、父が監督を務める千葉経大付高に進学した。<千葉経大付高時代>松本が高校3年の時(2004年)、エース兼4番打者として甲子園に出場した。3回戦では、ダルビッシュ有(現・日本ハム)を擁する東北高と対戦、松本はダルビッシュと互角に投げ合い、延長10回の接戦の末、スコア3-1で勝利した。2004.8.17(3回戦:延長10回)千葉経000 000 001 2 =3 東 北000 000 100 0 =1 (千)松本、井上、松本-加藤、坪井(東)ダルビッシュ、真壁-森【三塁打】松本(千)【二塁打】槙(東)、滝沢(千)千葉経大付高はその後も勝ち進んだが、準決勝で、後に早稲田大でチームメイトになる福井優也(現・早稲田大)のいる済美高に敗退した。■チームメイト■同じ学年だったのは井上雄介(現・楽天、青山学院大)や、流通経済大に進学した井原努というショート・ストップ。3年後輩には、現・広島の丸佳浩がいた。■千葉県内のライバル■3学年下に、成田高の唐川侑己(現・ロッテ)がいた。※3学年も違うので、直接対決があったわけではないが。■甲子園のライバル■1984年夏の甲子園で優勝したのは香田誉士史監督が率いる駒大苫小牧高。主将は、後に駒澤大に進学し学生コーチになった佐々木孝介。ほかに今年(2009年)秋のドラフト候補選手でもある林裕也(現・駒澤大)をはじめ、松橋拓哉(現・明治大)、辻寛人(現・國學院大)などがいた。また前出のダルビッシュ有、福井優也や、ダルビッシュと同じ東北高にいた真壁賢守(現・ホンダ、東北福祉大)。日大三高の佐々木大輔(現・東京ガス、明治大)、PL学園高には前田健太(現・広島)が控え投手として背番号「11」をつけてベンチ入りしていた。⇒ 続きの<松本啓二郎の大学時代>はこちら。 <父・吉啓氏の高校時代>は、こちら。ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.01
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