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18日、ユーストン駅から8時17分、リバプールに向かう。チケットの窓口で95ポンドというからなんでそんなに高いのかと思ったら往復の料金だった。片道57ポンド。往復だと16%も安くなるらしい。車窓から見る光景は行けども行けども草原ばかり。あっても低い丘程度。草原に羊や牛を放牧している。土地を耕して穀物とか野菜を植えている光景を見たことがない。もし日本の百姓がみたら何という無駄な土地の使い方をしていると思うだろう。いったい小麦とか野菜はどこでつくっているのだろうか。リバプールに近くなったところにマンチェスターという大きな街があった。有名な工業都市という知識しかないが、車窓から見たところ、殺風景な工場と労働者の街という感じがする。ものすごく発達している幹線道路と高速道路が見えた。やがてリバプールに着く。タクシーでシスツル・リバプールというホテルについてみると、さすがに最高級のホテルであった。海岸よりの位置にあり、部屋の窓から見る光景はすばらしい。隣接する教会の時計塔が目の前に聳え立っている。街に出てみると、海岸から坂道をのぼった高台に発達した街で、神戸かサンフランシスコのような味がする。眼前に迫ってくる圧倒的な景観に息をのんだ。なんという美しい街だろうか。そそり立つ赤屋根の教会の尖塔、色とりどりの色彩のおとぎ話に出てくるような凝りに凝った建物、何百年の歴史をそのまま残している大聖堂、往年の栄華を思わせる銀行や貿易会社の連なり。狭い路地の石畳にかもめが舞い降りていた。のぞかせてもらった公会堂は1723年に出来たものといい、往年の商業貿易の最盛期にお偉方が集まって会議やパーティを楽しんだと思われる贅沢を極めた天井や壁の装飾に目を見張った。そういう威風堂々の一帯からダウンタウンの方に下りていくと、新しいスタイルのモールがあり、そこだけが現代風である。デパートとも大型スーパーともつかぬ大店で金をエクスチェンジする。海岸沿いにある海洋博物館を観る。ドックに往年の帆船や蒸気船が風雪に耐えて係留してある。百年あるいは二百年前にこのような長さ数十メートルに満たぬ小さな船で大洋を渡ったのだ。博物館の内部にはさまざまな船の模型、19世紀の蒸気機関などがあり、地下に行くと、かつてこの港で行われた黒人奴隷売買の図、何百万という大量の移民がこの港から新大陸のアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに出て行っ頃を髣髴させる貧しい一家の群像とか、かつての検疫所、穴倉のようにくらい移民の収容室などが保存されていた。すりへった石畳はものすごく歩きにくい。何百万人の移民や黒人奴隷がかつてふみしめた道であろう。博物館の壁画にあった海面を埋め尽くすほど群がった大小の船舶の姿はもはやなく、しずかな入海に夕闇が舞い降りつつあった。夜、しばらくぶりにすこし贅沢な食事を取る。ステーキは食いきれないほどの量であった。サラダ、ポテト、ビール2杯でしめて27ポンド、夜景の美しさを楽しみながら満腹した。
2006/10/30
17日、まずロンドン大学に行った。そこの図書館にハドソン・テーラーの資料が集中して寄贈されているとの情報を得ていたからだ。ロンドン大学はカレッジとユニヴァーシティがあり、キャンパスはさして広いとは思わないが、図書館に行き着くまでに何回か聞かなければならなかった。図書館は穴倉のようで暗く、索引係からとある資料室に案内された。テーラーの資料は論文のタイトルだけ書いたA4数枚を渡されたが、とくに興味を引くようなものはなかった。これが決定版だと持ってきてくれたのは、ブルームホールの例の7部作で、これならいまアマゾンに注文中なので、ここでコピーまでする必要はない。早々に辞す。そして近くの大英博物館に行った。入場料は無料で、荷物預かりの人も親切だった。大英博物館といえばずっと前からすごいところで、全部見るのに2日はかかるなどと言われていたので胸をときめかせて行ったがさしたることはなかった。たしかに古代エジプトのロゼッタストーンなどの珍品はあるが、そういった物でも見るのに数分とかからない。エジプトのものは珍しいが、やはりギリシアの彫刻群がすばらしかった。それ以外の地域のものはアジア、中東、アフリカなどこれといって私の興味を引くものはない。大阪の民博のほうがすばらしいと思った。ギリシアの展示では、人体や馬体の彫刻(それも一部が欠けている)が多いが、何千年も前の人間の体形も今の人とまったく同じである。足のふくらはぎの筋肉の緊張した状況、腕、胸の筋肉、男性の睾丸、布みたいな衣服がしわくちゃになっている状態など科学的な緻密さと正確さでありありと表現されている。裸体の男性像が多いのは、当時は半分裸で生活していたのではないかと思った。こういったものすごいリアリズムがギリシアに発生したのが西洋文明のきまりだと直感した。そこを出て、ブラックタクシーを拾ってトッテンハムを経由してオックスフォード・サーカスというところに行ってみた。この「サーカス」という言葉はあの曲芸以外に広場という意味があるらしい。車が渋滞してなかなか進まない。平日だというのに芋を洗うような人出で、浅草か渋谷の街を行くようである。オックスフォード・サーカスの四辻に立つ。なるほどここはロンドンの銀座4丁目だわいと思った。あたりを歩き回る。それから一番立派なリージェント通りをピカデリー・サーカスまで歩いた。途中にあったユニクロの店では日本女性がテキパキと働いていた。エロスの像の石段に座って持参の水を飲む。周りに座っている人たちは何だかみすぼらしい人たちばかりだった。ピカデリー・サーカスの地下鉄駅からベイカールーの路線に乗ればパディントンに行けるので、そのホームを聞いたが、それがなかなかわからない。やっと見つけたが、そこは逆方向行きだというので、またまたホームを変えようとしたがその行き方がわからない。やっとオバサンに聞いてわかった。パディントンのトラベル相談所で明日行くリバプールの宿を探してもたった。50ポンド程度の宿にしてくれと頼み、係りが30分くらいもかけてウエブで調べたり、電話したりしていたが、その値段ではないというのだ。結局105ポンドの最高級のところで折れた。これはクレジットカードで済ませた。2万4千円もの部屋。ああもったいない。ほんとうはもっと安いところがあるのにこういう案内所ではないと言って高いところを押し付けるのではないかなと疑った。
2006/10/30
ロンドンのヒースロー空港から汽車に乗って15分、終点のパディントン駅から歩いて5分というが、大きな荷物をもって知らない道を尋ねあるくのはいやだからタクシーに乗る。あっという間にファイアーウエイ・ベイスウオーターという名のホテルにつく。なんというか、日本で言うなら3流くらいのホテルで、フロントの男はブッキラボウだ。HISでできるだけ安いところというので決めたのが1泊7500円のここである。来てみてやはり驚いた。エレベーターのないアネックスの4階の狭い階段を上った3畳ほどの狭い部屋で、ベッドの周りの床に荷物を広げたら足の踏み場もなくなった。同じフロアの4室とトイレとシャワーが共用であるから安いわけである。もう5時近くなってなって暗くなってきた。近くの街を歩き回り、駅からの道を確認する。次第に好奇心が湧いて遠くまで行ってみた。いわば場末といった感じ。大きな病院があり、その付近で何か事故があったらしく警官が出ていた。飲食店でビールとスパゲティを食べる。なんとも甘い変な味のビールとまずいスパゲッティである。しめて10・5ポンド。水とワインと明日朝食べるサンドウイッチを買って帰る。狭い部屋に帰るとなんともわびしい思いにとらわれた。なんと言うかな、夏目漱石がはじめてロンドンに着いたときはこんな気分に陥ったんだろうなと想像した。テレビを見る。やはりニュースとトーク番組とグルメ番組は日本と同じである。だが、日本ほどCMは少ない。何もやることがないので8時頃に寝る。真夜中にトイレに起きる。こうして最初の日に大失敗をしてしまった。というのは、トイレは目の前にあるから、部屋のドアを開けっ放しにして置いたら、自然にドアが閉まってしまったのである。カギは部屋の中に置いたままだ。自分の部屋に入れなくなってしまった。よくあることで、こういう場合はフロントに行って万能キーで開けてもらえばいいわけだが、なんとアネックスだからアネックスのドアが閉まっており、フロントに行くことが出来ない。郵便受けの隙間から大声を出してみたが、フロントにどうしても届かない。あせってしまった。階段を上がったり下りたりして、誰かがトイレにでも起きてこないかとしばらくフロアの床にしゃがんで待っていたが、夜は深深と更けてくる。このまま朝まで廊下にいて風邪を引いて肺炎でも起こしたら万事休す。ロンドンまできて絶望的な気分になった。やがて荷物を一緒に持ち上げてくれた親切なアジア人ふうの男が5階にいることを思い出し、5階に行って「ヘルプ・ミー」「ヘルプ・ミー」と大声で叫ぶ。やっとドアが開いてごそごそと彼が出てきた。彼が自分のカギでアネックスのドアを開けてフロントに行かせてくれた。翌日早速彼にプレゼントするためにワインを買っていったら、もう発った後で、若い日本人女性客に変わっていた。
2006/10/28
イギリスから24日朝帰ってきた。心臓が悪いので行きの11時間の空の旅が気になったが、何のことはなかった。帰りの飛行機の席は4人がけの内側の席で息が詰まりそうで困った。エコノミー症候群がこわいからしょっちゅう機内を歩きたいが、隣の人にいちいち立ってもらうのは気が引けるから通路際の空き席があったら教えてほしいと日本人スチュワーデスに頼んだら、「残念ですが満席です」でがっかり。すると、しばらくして「ありました。ありました」といちばん尻尾のほうの席を探してくれた。これはまったく地獄に仏だった。行った都市は、ロンドン、リバプール、バーンズリー、シェフィールド、ホール。地方都市はちょうどブリティン島の真ん中辺を西から東に真横に切ったあたりにある都市で、ロンドンから3時間あまり。東京から大阪くらいだからたいしたことはないが、いちいちホテルを探して交渉したり、街にでたら下手な英語で道を聞いたりしたので余計な苦労をした。ロンドンでも地下鉄の事故があって乗り換えがわからないので一苦労。何といってもお金がすぐ消えるので困った。1ポンド240円もするのだから、何でこんなにポンドが高いのかわからない。とうとうお土産も買えず、成田に着いたときは5千円しかなかった。やはりヨーロッパは遠い感じがしてなかなか行けなかったが、行ってよかったと思う。ロンドンだけでなく、田舎の都市まで行ったことが絶対によかった。これまで活字や映像の世界でしか知らなかったイギリスを目の当たりにして、ずいぶんいろいろ考える材料が増えた。帰ってきたら気持ちもすっかり変わった。これが一番の収穫だった。毎日さんざん歩いたので足が棒のように疲れ、帰ってきて靴の底を見たら相当痛んでいた。食い物がまずいのでとうとう食欲がわかずあまり食べなかったので、体重が3キロも減ったのはありがたい副産物。やはり一人旅はシンドイですが、得るところが大きかった。これから数回かけて恥ずかしい失敗談を含めていろいろ書きます。読んでください。
2006/10/25
昨日、久恒さんの人物記念館めぐりと後藤新平の話を聞いた。人物記念館めぐりの話は面白かった。記念されているような人は一人も西洋のことで自分を売ったような人でないということをいわれ、なるほどそうかと合点した。やはり日本の近代を築いた偉人はそうだったのだ。16日からイギリスに行く。ロンドンだけでなく中部の田舎の都市やリバプールにまで行ってくるのは、ハドソン・テーラーの事跡を感じてきたいからだ。とにかく残っている旧居や建物だけでも見て歴史を感じてくるのが第一の目的。しかし一人旅であるからなんとなく不安だ。11時間の間、エコノミー症候群にならないよう心するつもり。トーマスクックの時間表とニラメッコしているが、中部イギリスならロンドンから3時間たらずで行けることがわたった。となると、この国は日本列島とさして広さは変わらないなと思った。今は飛行機で座っていけば着く。まず安全性は大丈夫だろうが、それでも知らない土地での不安な気持ちはぬぐえない。そう考えたとき、150年以上も前に21歳で一人でリバプールから上海にやってきたテーラーの不安はいかばかりだったかと思う。訪ねてきた相手の人が死んでいたり、4人目に紹介された人にやっと会えるまで上海の街を一人の白人の青年が迷い歩いている。もっとさかのぼれば400年も前に小船で日本にやってきたフランシスコ・ザビエルの勇気はどうだっただろうか。狂信的といってよい神に対する信仰がなかったならばやれなかっただろう。今、震えるような気持ちで往時の人の心境をかみしめている。
2006/10/13
この前の日曜日、群馬県の藤岡で行われたNHKの素人歌謡番組で目の不自由な若い男性が歌ったとき、思わず心を揺り動かされた。会場の前列の人たちは目にハンケチを当てていた。ゲストのプロ歌手も激賞していた。目の不自由なことからくる悲しさ、切なさ、悔しさが洗われたようになって歌にこめられていたのである。この人は予想通りその日のグランプリを受けた。歌のうまさはまず第一に声のよさにあろう。透き通るような美声。次に音符どおりに正確に歌うこと、そして最後に作詞、作曲家が歌い上げようとしている歌の心をどれだけ歌い上げられるかということが決め手になろう。歌謡曲のテーマは、聞いていると、大半は男女の愛である。とりわけ日本人は盲目の愛にしびれる。切ない、好き、死んでも離さない、いつまでも騙し続けていてね、影のようにどこまでもついて行くわ、あなた好みの女になりたい、と歌う奥村チヨの歌は最近の女性にとっては噴飯物かもしれないが、相変わらず男の本音はこんな女が好きだ。男は度胸、腰に腹巻、アイクチ一本下げて真一文字に敵に斬り結んで行く高倉健のやくざに女がぞくぞくするのと同じだ。昔から手鍋下げても好きな男に入れ込んでゆく女の可憐さは近松以来の文学の主題になっている。これってなんていうのだろうかな、不幸や落魄を予感させるあやふい純粋さ、、、善悪とか倫理とか言うのと違う、盲目な愚かさ、常軌を脱した美とでも言うのだろうか。最後にわかった。これは信仰である。神は赤子のような存在を好む、理性や常識を拒む、鴻毛のごとく命を絶つ、こういう存在を何千年もかけて文学作品が書き、詩や歌謡曲が歌い続けてきた。
2006/10/11
昨夜、虎ノ門の商工会館で寺島実郎氏の講演を聞いた。基本はいつものような定点観測の話であった。世界の異様なまでの高成長はいまだに続き、本年の予測もブラジル3.5%、ロシア6.2%、インド7.3%、中国 9.1%である。日本は2.9%である。アメリカのイラク戦争の失敗はますます明らかになり、戦死者は2905人、戦費は5604億ドルに達した。イラク戦争の結果はどうなったかと言うと、スンニ派とシーア派がわり、内乱状態になってイランの影響が強くなった。アメリカの世界をリードする力はきわめて弱まった。外貨準備高もわずか652億ドルになった。05年の日本の貿易構造は米国17.9%、大中華圏28.3%、アジア46.6%で、もはや日本はアジアなしでは存在できない国になっている。中国は世界最大のドル保有国になり、日韓中で合計3兆ドル、正来はこの金をアジアの経済復興につかうべきである。さて、この前、YS11の話を書いたが、中国人の海外渡航者数は04年で2885万人、このうち1200万人は香港、マカオとしても日本とならぶ数字であり、京都や箱根などは中国人客で一杯であるつまりアジア近隣諸国での大移動が起こっている。韓国などは日帰り客が増えている。彼らは日本の温泉にはいって帰ることが楽しいのだそうだ。羽田が拡張すればますますマーケットが広がり、航空機が足りなくなる。中型ジェット機の開発就航が必要である。YS11の技術をいかしてアメリカの下請けに満足せず、日本独自の中型ボーイング機を増やさねばならない。
2006/10/11
昨夜の夕刊に呉智英氏のエッセイが載っていた。この人はなんとなく同感するところがあるので面白くよんでいるが、彼によると、今、昭和30年代ブームだそうで、故郷の名古屋近郊に引っ越してきた彼は、古い感じの街を「昭和30年代通り」と勝手に名づけて自転車散歩しながら探訪しているという。昭和30年代と言うと、私は、昭和31年に大学を出てサラリ-マンになり、新しい生活を始めた。30年代の終わりは39年の東京オリンピックで、その頃は名古屋支店にいて、柔道の神永がヘーシンクに敗れるシーンをテレビで見た。なぜ昭和30年代を人々が懐かしむのかというと、ようやく戦争直後のドン底感がなくなり、上昇気流に乗り出して、まだ貧乏だったにせよ、皆が希望を持っていて、毎日の生活が楽しかったからだと思う。今振り返ってみて、ネガティブな思いに駆られることはない。10年以上前だったと思うが、日本橋の高島屋のそばの喫茶店に行き当たりばったりに入ったところ、なんとなくおかしいと感じ、工事中の店に入ったのではないかと思った。なぜならば、むき出しのコンクリートの壁の部屋に裸電球がぶら下がっていて、粗末なテーブル、むき出しの電線、カンナくずなどが床に散乱し、セメント袋などが無造作に積んであるからだ。店員に聞いたら、工事中ではなくれっきとした開店後はやっている店だという。ようやくにしてわかったのは、団塊の世代がまだ小学生の頃、東京中の街路がオリンピックの準備のために掘り返され、ホテル建設などいたるところ急ピッチで工事が行われていて、当時の小学生はこんな感じの工事中の店や建物の中で遊んでいたので、その当時を懐かしむためにこういう店に来るのだという。東京にも「昭和30年代通り」が残っているところがある。そういうところはスーパーやコンビニ、マクドナルドがないところである。残念ながら下町にはそういうところはなくなったが、例を挙げるとしたら、神楽坂とか巣鴨のトゲヌキ地蔵通り、高田馬場、大久保から新大久保にかけての通り、高円寺の純情商店街などにそういう風情が残っている。そこにいくとそこはかとない安堵感が漂っている。
2006/10/06
YS11、頑丈な機体の中型ターボプロップ双発輸送機は70年代はじめ、日本の空への夢をかきたてたが,種々の障害のためにとうとう赤字つづきで製造元は解散し、とうとう181機の製造で終わりとなり、日本の航空産業から姿を消した。いったいどうしてこうなったのだろうか。戦前、日本は航空機の先進国で、ゼロ戦や隼などの名機を生み出し、第二次大戦で大いに活躍した。設計製造で優秀な技術者を輩出し、当会でも何度かお呼びした糸川英夫先生や野田顧問の御父上もすぐれた戦闘機設計者であった。しかし、敗戦後は航空機の製造は米軍によって禁止され、一切の技術蓄積資料はアメリカに持っていかれ、航空技術者はことごとく廃業させられた。その後、11年経って製造禁止はやっと解かれたが、11年の空白は大きく、YS11をつくったものの、大型ジェットの研究開発は押さえつけられ、日本の伝統的な航空技術はとうとう再起することなく内外からつぶされたといってもよいであろう。ドイツも第二次大戦中、イギリスをなやませたV1、V2の大陸間ミサイルのすぐれた技術を持っていたが、ソ連とアメリカにことごとくもって行かれ、両国の航空宇宙技術に利用されることになった。敗戦国の情けなさである。日本ではその腹いせみたいに、地面の上を走る自動車だけが気を吐いているが、航空宇宙工業の生産額はアメリカの30分の1、イギリスやフランス、ドイツにくらべても3分の1という貧弱さである。こんな程度では次の技術世代の夢を育むことなど出来るわけがないではないか。
2006/10/04
昨日、茨城の息子のところに寄り、取手から土浦、つくばなどの郊外を走った。道路は日曜にもかかわらずすいていて車はすいすい走る。地平線がみえるほどの広大な空間をあらかた100キロあまり走った。大きなスーパーに寄る。府中あたりのスーパーとは段違いに大きい。およそ人間が使うと思われるありとあらゆる物を並べている。中を歩くのに疲れるほどだ。千葉、茨城の新開地は土地が広いからこんなに大きなスーパがいくつも作れるのだろう。物価は府中よりも2割かた安いと感じた。なかでも鮮魚も売っているスーパーは自分の持船で銚子から水揚げしたばかりの魚がサンマ1本39円、1日たったのが20円という安さ。野菜もモヤシ1袋18円で東京の半値以下である。みんなこういう店に車でやってくる。駐車場は200台とか300台置ける広さだ。つくづく思ったのは、地方はもう完全な車社会だということだ。車がないとどうにもならなくなっている。息子に聞くと、こうした地域では酔っ払い運転はもう当たり前になっているという。帰りの足は車しかないので、つい一杯飲んで車で帰ることに罪悪感は感じなくなっている。人通りのない道だからいいんだろうという感覚である。道理で交通係の警官や新聞記者、公務員、教師までが酔っ払い運転をするのもむべなるかなである。代行運転は高くつくので結局は頼まない。倫理の退廃を裏付けているのが実はクルマ社会だというわけだ。帰りはつくばエクスプレスで守谷から秋葉原に出た。この電車はすごくハイカラで乗り心地がよかった。
2006/10/02
安部内閣がいよいよ発足した。まず第一の印象は歴史切捨て内閣である。戦後レジームからの脱却、今の憲法は占領時代につくられたものなどという言い方は、明治政府が出来たとき、以前の時代を封建主義といって切り捨てたのと似ている。ともに若い人が中心を固めたことも似ている。しかし、明治と決定的にちがうのは、国民の理解や盛り上がりがないということである。●麻生外相だけが留任になったことを見ると、歴史認識は変えないが、中韓との外交障害を除くために、靖国神社を麻生案にしたがって国営の神社に切り替え、A級戦犯を公務死者として分祀する方法をやるとみる。●集団的自衛権の行使の研究を言い出したのは、アメリカが防衛線をアラスカ、ハワイ、グアムの線に退くに従い、果たしてアメリカが日本を守ってくれるのかどうかの危惧を解消するため、日米同盟強化のために安保条約を双務的にしていくことを考えてからであろう。だが、危険なのは、地球の裏側まで、自衛隊が米軍とつき合わされて、日本が世界の嫌われ者になることである。●首相官邸の権力を強化するために、5人の補佐官を置いた。これだと各省庁の大臣とダブル権力になるが、アメリカのホワイトハウスのように、いずれ各省庁は単なる事務省庁に落として、政策策定部門を別に行政改革で作り変えようと考えているのかもしれない。●教育の改革を大きくうたっている。ダメ先生や日教組よりの先生を排除していくことを予想させる教員の免許更新制を唱えている。また英才教育に道を開くためのバウチャー制度も唱えている。●格差の是正として再チャレンジシステムをうたっている。事業が行き詰まった中小企業への融資とか400万以上といわれるフリーターの再教育システムなど、バブル崩壊以後固定しまった格差、地方の地場産業は壊滅的であり、40%といわれる非正社員率をどうするのか。基本的には、経済成長でおぎなっていくしかないというに心細さである。政府がやれることは、アメとムチづくりであるが、ムチは法律で罰則強化する。アメは補助金や優遇制度で国民にインセンティブを与えるなどである。しかし民主主義国で一番大事なことはガルブレイスのいう条件づけである。条件付けは、国民があたかも自分からその道を選択するように仕向けることである。小泉内閣のときは小泉劇場公演で、テレビが大いに条件付けに協力し、国民はのせられた。しかし、この手は二度と使えないだろう。とにかく、いつのまにかこういう政府に入れ替わって空気づくりがなされてしまうのは恐ろしい。きっちり国民の支持を選挙で求めることが必要である。安部内閣がいったい何をやるのか、まだ見えてこないが、言うは易く、行うは難しい内閣である。
2006/10/01
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